緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説2

2017年10月15日 08時39分19秒 | 日記





























リトアニアでシナゴーグが燃える様子を眺めるドイツ兵と地元住民(1941年撮影)
逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは、アインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られて絶命した。独ソ戦が始まるや、ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将率いるアインザッツグルッペAは、北方軍集団に従って移動。そして、リガ(ラトヴィア)・タリン(エストニア)・プスコフやレニングラード(ともにソ連)に向かう中継地たるカウナスにまず殺到したため、千畝の赴任先であったカウナスにおけるユダヤ人社会は、特に甚大な被害を受けた。カウナスのユダヤ評議会の指導者の役割を不承不承押しつけられた医師のエルヒャナン・エルケスは、荒れ狂うユダヤ人殺戮についてイギリスにいる子供たちに書いた1943年(昭和18年)10月付の手紙の中なかで、殺戮部隊が「大量殺戮という任務を終えると、頭のてっぺんから靴の先まで、泥とわれわれの仲間の血にまみれて戻って」きて、「テーブルについて、軽い音楽を聴きながら、料理を食べ、飲み物を飲むのです。彼らはまさに殺戮のプロでした」と述べている。
カウナスでは、保護を口実に1941年(昭和16年)8月末までに、ヴィリンヤンポレに設置されたゲットーにユダヤ人の移送が完了し、1万5,000人が住んでいた密集家屋に約3万のユダヤ人が押し込められた。独ソ戦開始前のカウナスのユダヤ人人口は約4万であり、開戦後わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害されたのである。1939年から1940年という千畝のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。その赴任の時期は、ゾラフ・バルハフティクが「タイムリー」]と呼ぶ時宜にかなったものであり、「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」と杉原夫人は述べている。
「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」という、四男・伸生(のぶき)による「カウナス事件」に関する発言は、カウナスでの難民救済の実情と正確に符合している。カウナス事件において問題になっているのは、「難民問題」であって「民族問題」ではない。いわゆる「杉原ビザ」の内、1938年(昭和13年)12月6日の第1次近衛内閣の五相会議決定によるユダヤ人保護政策「猶太人対策要綱」の「資本家、技術者ノ如キ特ニ利用價値アル者」に該当する事例は一件のみ(「『ベルクマン』他約十五名ノ有力ナル『ワルソー』出身猶太系工業家一行」)であり、また、カウナスにおける難民救済は、満洲にユダヤ人居留区を創設しようとする企画「河豚計画」ともまったく関係がない。
松岡外相の「貴官カカウナス領事代理当時、査證ヲ與ヘタル猶太難民ノ數、至急囘電アリタシ尚右氏名、行先、査證、月日郵報アリタシ」という1941年(昭和16年)2月4日の訓命に対して、この種の命令を予期していなかった千畝は戸惑い、「原本リストは途中から番号の入っていない不完全なものであったため、杉原は控えを基にリストを全部作り直さなければならず」、ようやく完成して発送するのに三週間以上もかかっている。しかも、「『リスアニア人』竝ニ波蘭人ニ與ヘタル通過査證二、一三二内猶太系一、五〇〇ト推定ス」という数字も相当適当なものであり、千畝にとって窮状にある難民たちがユダヤ系であるか否かなど問題ではなかった。松岡は、この時日ソ不可侵条約の調印のためソ連に赴き、さらにドイツとイタリアに向かおうとしていた。松岡が出発したのは3月12日であったので、「郵送ではすでに間に合わない。したがって『杉原リスト』は、東京の本省ではなくベルリンの日本大使館に送られ、ここから随員によって松岡の手元に送り届けたのであろう」と、渡辺勝正は推測している。
ポーランド諜報機関との協力[編集]
千畝のハルビン時代の後輩で在ベルリン満洲国大使館一等書記官の笠井唯計(ただかず)が理事官補だった1940年(昭和15年)、フィンランドの尾内陸軍大佐と相談し、情報提供と引き替えに満洲国のパスポートを出した一人に、イェジ・クンツェヴィチなるポーランドの情報将校がいた。クンツェヴィチは、カウナスの杉原と協力するときは「クバ」と名乗る、ポーランド参謀本部第二部のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉であった。1941年(昭和16年)7月、ゴルフに行く笠井はヤクビャニェツを便乗させた。ヤクビャニェツ大尉は、ポーランドの地下抵抗運動の秘密集会に出席することころだった。
ピクニックという名目で国境付近を偵察する杉原らの動向に以前から不審を抱き、ドイツ防諜機関は密かに杉原周辺の探索を続けていたが、1941年、ついに日本及び満洲国の大公使館とポーランド情報機関の協力関係をつかんだ。7月6日夜半から7日未明にかけて、ヤクビャニェツ大尉さらに満洲公使館にメイドとして勤務していたザビーナ・ワピンスカがベルリンの中心部ティーアガルテンで逮捕され、拷問の結果、日本の大公使館の外交行?を用いて中立国スウェーデンからロンドンの亡命ポーランド政府に情報を送るクーリエの経路がドイツ側の察知されることになったのである。
ドイツ防諜機関の責任者であったヴァルター・シェレンベルクの有名な回想録の第12章はまるまる「日本とポーランドの陰謀」と題されている。そして「K某」(ヤクビャニェツの偽名「クンツェヴィッチ」の頭文字)の逮捕を契機に明らかになった対独諜報網の全欧規模の広がりを目の当たりにしたシェレンベルクは、ソ連を共通の敵としているはずの日本が深く関与していることにいらだちを露わにしている。ドイツ諜報機関はまた、日本人とポーランド諜報部との協力関係の後援者として、在ローマ日本大使館の河原畯一郎・一等書記官やイエズス会総長のヴウォジミエシュ・レドゥホフスキ(ポーランド語版)神父が深く関与していることについてイタリア国防部から警告を受けていた。
後にストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に引き継がれるポーランド諜報網との接触に関しては、まず亡命政府のガノ大佐からワルシャワの日本大使館武官府にポーランド情報組織の接収の提案があり、日本側は表向きはドイツとの同盟関係を理由に拒絶した。しかし、在欧の日本とポーランドの将校や外交官たちは密かに接触を続け、ビィウィストク(ポーランド)やミンスク、スモレンスク(ソ連)を拠点とするポーランド諜報網から、在欧日本大公使館と武官府はソ連の軍事的動向を高い確度で知ることができた。千畝の接触は、すでにフィンランド時代に始まっており、まずヘルシンキ在住のジャーナリスト、リラ・リシツィンを通して、その従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子で、ポーランド「武装闘争同盟」(ZWZ;後のAK 国内軍)のカウナス地下司令部のメンバーであるタデウシュ・コグノヴィツキに近づくことから始まった。千畝の本省への回電に、実際に足を運んでいない「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれているのは、ポーランド諜報網との協力の成果である。
杉原は、1941年(昭和16年)の5月9日後發の電信で、「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と、6月22日に勃発する独ソ戦の時期を正確に予測し、また経済通らしく、「極メテ多量ノ『ミンスク』發穀物到着セリ」と、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていることを報告している。大著『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』でソ連経済の躍進を伝えた千畝は、ネップと呼ばれる計画経済によって早期に経済目標を達成したソ連がその余力を軍事部門に傾注していることも熟知しており、ヨーロッパを席巻するドイツの破竹の勢いに幻惑されている本国に、「独ソ戦近し」、またソ連は日本が考えているほど早く戦線を放棄しないことを警告する電信を打電した。
1941年(昭和16年)4月18日、大島は千畝らの情報を元に、東京に独ソ開戦情報と意見具申を伝えているが、日米交渉に没頭していた日本政府は、他が見えない近視眼に陥っていた。第2次近衛内閣の書記官であった富田健治は、「独ソ戦近し」を伝える大島からの「この情報をそう強く信じていたわけではないが、かなり心配していた。しかし帰国した松岡が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」と述べている。戦後衆議院議員になる富田健治の証言は、戦時日本のインテリジェンス機能の麻痺と、「空気」で最高指導政策が決定されてしまう恐るべきガバナンスの欠如を物語っている。出先には優秀な諜報要員を配置しながら、中央に適切な分析官を用意できなかったため、命がけで入手された情報も活かされなかった。また、情報伝達の技術的側面の遅れも深刻で、大島の電信は、一ヵ月も経たない5月10日に英国諜報機関によって解読されてしまった。
ゲシュタポの危機迫る[編集]
大公使館の「現地採用者はスパイと思え」というのは外交の世界では常識だが、ドイツ系リトアニア人のヴォルフガング・グッチェがまさにそれであった。しかし、ドイツの愛国者ではあったが反ユダヤ主義者ではなかったグッチェは、杉原の仕事を手伝い、神学生のモシェ・ズプニックとの別れ際に、つぎのような予言的な言葉を残した。「世界は『車輪』だ。今はヒトラーが上だが、いつか車輪が回って下になるさ。希望を失うなよ」。もう一人の現地採用雇員は、ボリスラフ・ルジツキという名前のポーランド人で、表の顔は領事館の忠実なボーイ兼給仕だったが、このボーイは、実はルドヴィク・フリンツェヴィチが指揮するポーランド地下抵抗組織「ヴィエジュバ」(ポーランド語で「柳」の意)が公使館の情報を仕入れるために送り込んだ諜報員だった。こうして、カウナスの日本公使館の懐深く複数のポーランド情報組織が入り込み、ゲシュタポのスパイまで抱え込む、複雑怪奇な情報戦の渦中に千畝がいた。杉原夫人も、「領事館には数人のスパイが出入りして」いることに気づいており、わずかの気抜かりも命取りであった。
カウナス領事館が閉鎖されてから、千畝が、プラハ、さらにケーニヒスベルク赴任するようになったのは、名目上の上司だった大鷹正次郎・ラトビア大使から松岡外相への進言によるものである。大鷹の進言の概要は、カウナス領事館の千畝のみを、そのままケーニヒスベルクに移転させて、対ソ諜報活動に従事させることは、ドイツ側の納得を得られないだけでなく、ソ連側からも、ドイツに抗議がないとはいえない。したがって同地に正式の総領事、または領事を任命し、千畝をその下に置いて、対ソ関係事務を担当させた方がよいと思われるというものである。
1941年(昭和16年)年8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに対して、「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書(1941年8月7日付)を提出し、そこにはドイツの「軍事情報に並々ならぬ関心を示していた」として、「日本領事杉原」の名前が筆頭に挙げられ、「ポーランド及び英国に親しい人物」として名指しで非難されていた。北満鉄道買収交渉のハルビン時代からソ連にマークされていた杉原は、またドイツ諜報機関の最大の標的の一つでもあった。亡命ポーランド政府の情報将校たちが、カウナスの日本公使館の手引きにより在欧日本大公使館やバチカンの後援を受け、さらにスウェーデンを経由してロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る、全欧規模の諜報網をドイツ国家保安局が知るところになり、それが故に千畝はケーニヒスベルクからの即刻退去を求められたのである。
千畝を忌避したのは東プロイセンの大管区長官、エーリヒ・コッホである。後に美術品略奪者、ウクライナのユダヤ人虐殺者として悪名を馳せるコッホは、大量のユダヤ人逃亡を助けた千畝に当初から強い反感を持っており、ケーニヒスベルク着任から一ヵ月後にやっと千畝を引見した。ほどなくベルリン大使館から千畝の東プロイセン在勤をコッホが忌避した旨を伝えられ、千畝は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる。同盟国さえ出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に千畝は生きていた。いわゆる「杉原ビザ」発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を安全地域に逃すためのものであるが、それは、軍人などの家族等関係者を含めても多くて「当初600名分の通過ビザ」の予定であり、ここまでは、日本の外務省も参謀本部も周知のことであった。しかし、想定外の出来事が発生した。そしてそれが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民のリトアニアへの流入とカウナスの日本領事館への殺到である。
リビコフスキの回想録『対ドイツ情報 組織と活動』によれぱ、情報提供を受けたポーランド情報将校の安全を確保するためビザ発給は、山脇正隆・陸軍次官からストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に命令されたものと、リガ武官府の小野打寛(おのうち・ひろし)中佐から杉原への指示があった二通りのものがあったが、千畝は単に「ポーランド情報機関への見返りというだけのことなら、ビザ発給を止めることもできた」のである。
ドイツ側は、カウナス領事館の「向かい側の地階に監視用の部屋を整」え、千畝らがバルト海沿岸都市クライペダ(ドイツ時代の呼称は「メーメル」)への遠乗りした時も尾行車がついた。また、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の解読に腐心して一部それに成功している。
ポーランド参謀本部との協力関係は、もちろん千畝の発案ではなく、出発点は、ロシア革命以降ソ連とコミンテルンを共通の敵とする両国の利害関係の一致にあった。最初の本格的協力はシベリア出兵の時期であり、日本が入手した暗号表をポーランド側に提供し、この返礼として、ポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8)年、日本の暗号システムの全面的改定を行った。当時、赤軍の配置と移動を次々と見破るポーランド参謀本部の諜報能力は驚異の的であり、諜報部門では、ポーランドは日本の先生格であった。それまでの日本の暗号システムは、「ルイ14世時代にロシニョールが作ったものと大差のない二重語置換式という比較的よく知られた方式をとって」おり、1920年代に、タイプライターのキーボードで操作できる暗号用ホイールをセットした暗号機をつくり、調整改良して「パープル・マシン」と呼ばれるものを導入した。しかし、欧米先進諸国の暗号作成と解読技術に追いつけぬまま先の敗戦を迎え、第二次世界大戦中せっかく苦労して入手した情報が東京に伝達される過程で連合国の防諜網にとらえられる事例が数多くあった。
日本に来たユダヤ難民[編集]
リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、以下のように、ウラジオストクの総領事館に厳命した。
「本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」
【現代語訳=日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗るの許可を与えること】

しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。
「避難民ハ一旦當地ニ到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル爲(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」
【現代語訳=逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います】

1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議の電信

本省とのやり取りは五回にも及び、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。
一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は、二人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」というものであった。
こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、日本海汽船が運航する天草丸に乗って敦賀港へ続々上陸。敦賀では、全米ユダヤ人協会からの依頼を受けたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTB)の社員がユダヤ難民救済協会から送金された現金を手渡したほか、敦賀駅までのバス輸送や横浜・神戸までの鉄道輸送手配を行った。その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。
難民の内1,000人ほどがアメリカ合衆国やパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの千畝に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港した時には、それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた。
日本にやって来たユダヤ難民たち、とりわけ黒ずくめでもみあげを伸ばした神学生などのは、当時の日本人に強烈な印象を残し、安井仲治による写真集「流氓ユダヤ」シリーズにその様子が収録された。安井の撮影には、若き日の手塚治虫が随行し、その時の体験が、漫画『アドルフに告ぐ』(1986) に結実した。グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H』(1997) も当時の難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂るの墓』(1967) においても、「みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」いたという記述が見られる。
日本滞在後難民たちが向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになった。
独ソ戦と第三帝国の落日[編集]
難民たちが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年(昭和19年)の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼり、画家のベン・シャーンや哲学者のエマニュエル・レヴィナスを生んだ、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカ合衆国への渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー(上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。上海が戦禍に覆われていたこともあり、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名が死傷した。
リトアニア退去後の千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)、当時ドイツの保護領になっていたチェコスロヴァキアのプラハの日本総領事館に勤務。1941年(昭和16年)には、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報をつかみ、5月9日発の電報で本国に詳細に報告しているが、それは以下のようなものであった。
「伯林當地關ニハ依然トシテ連日軍用列車約十列車北行ス車輛ハ大部分佛國鐵道ノモノ(…)當地軍人關ニハ目下東『プロシア』ニハ『リヤブリン』方面ニ劣ラサル大兵カ集中シ獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス(…)多數ノ隊付將校ハ五月迄ニ地圖判讀ノ程度ノ露語習得方命セラレ目下當地『バルト』獨逸人竝ニ白系ロシア人ハ敎師トシテ引張リ凧ナリ」
【現代語訳=ベルリンからケーニヒスベルク方面に相変わらず毎日およそ十輛程度の軍用列車が北上しており、車輛はフランスから徴発したものが用いられています。(…)東プロイセンには旧ポーランド領に劣らぬ大兵力が結集しているので、独ソ関係は6月には決定的局面を迎えるでしょう。(…)ドイツ軍の野戦将校たちは5月までに地図が読める程度のロシア語の習得が命じられ、目下バルト系ドイツ人や白系ロシア人が先生として引っぱりだこです】

1941年5月6日付で独ソ戦の勃発時期を特定した電信

そして、千畝の報告の通り、6月22日独ソ戦が勃発した。同年11月から1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。
千畝がブカレスト公使館に勤務していた時代には、鉄衛団の扇動によってルーマニアのユダヤ人の歴史の上でもとりわけ残忍なポグロムが頻発していた。千畝とともに激動のヨーロッパを駆け抜けてきた杉原夫人は、 ルーマニアの「フェルディナンド王が亡くなった時に、ミハイの父であるカロルは、〝二十世紀のクレオパトラ〟と呼ばれたユダヤ人のルペスク夫人との恋愛を問題にされ、後継者の座を追われてフランスに住んでいましたので、まだ六歳だった幼いミハイが一国の王様として即位されたのです」などと指摘し、第二次世界大戦中ヨーロッパを席巻していた反ユダヤ主義に関する鋭い歴史的観察者としての側面を示している。どの政治家も民族主義の扇動でのし上がってきた当時のルーマニアでは、民族主義そのものは人を際立たせる特徴とならず、反ユダヤ主義が政争の重要なファクターになっていたことを端的に示すエピソードである。
首都のブカレストは子供連れの杉原家には危険だろうということで、ルーマニア時代の杉原一家はポヤナブラショフに疎開していたのだが、そこで他ならぬ幸子夫人をめぐる一つの事件が起こる。 ヘルシンキにいた頃フィンランドの作曲家シベリウスから送られたレコードとサイン入りポートレートをブカレストに置き忘れて来たことに気づき、その奪回のために単身首都に戻ろうとする。しかし、ドイツ軍用車に便乗した帰路に大戦末期の戦闘に巻き込まれ、車外に投げ出された。さらにドイツ軍のなかに女性がいることに不審に思ったパルチザンに取り囲まれ、ドイツ語やロシア語で事情を説明するも、彼らにはどちらの言葉も分からず、日本人を一度も見たことがない部隊員から銃口を突きつけられる。夫人は「撃つなら撃ちなさい!私は日本人です」と絶叫し、あまりの剣幕に驚いた男たちが銃を引っ込め、ドイツ語が分かる青年がやって来て事情聴取の後釈放される。「何か足元がおかしいと思ってみると、いつのまにかハイヒールの踵が折れてい」た。
第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)11月16日、来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月、興安丸(鉄道省、7080トン)で博多湾に到着した。
不遇の後半生から顕彰へ[編集]

リトアニアでの記念植樹
日本へ帰国後、一家は神奈川県藤沢市・鵠沼松が岡に居を据えた。その地は、北満鉄道譲渡交渉の際の最高責任者で千畝の外交手腕を高く評価してくれた、広田弘毅が戦中に住んだ思い出の場所だった。千畝は、長男に弘樹と命名するほど広田を尊敬していた。1947年6月13日、岡崎勝男・外務次官から退職通告書が送付され、6月7日に外務省を依願退職。
外務省退官からしばらくは、三男を白血病で失い、義理の妹・菊池節子(ロシア文学者・小沼文彦の夫人)も亡くなるなど家族の不幸に見舞われる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とする。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。
1968年(昭和43年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ (B. Gehashra Nishri) と28年ぶりに大使館で再会。カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜ん」だ。外国人にも発音しやすいように、千畝は難民たちに「センポ・スギハラ」と名前を教えており、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことであった。しかし、難民たちの消息を気にかけていた千畝が、以前イスラエル大使館に足を運び自分の住所を教えていたため、ニシュリは千畝を探し出すことができた。
1969年(昭和44年)、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。
後のインタビューで、バルハフティクはこう語っている。
実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。

1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー

1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居した。
「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と、ダンプマンは抗議したのである。それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。
1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。
同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生(のぶき)が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。
終わらざるドラマ[編集]
千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。通夜には、一人の男性が新聞で知ったということで訪ねて来た。その男性は肉体労働をしているらしい様子で、紙には千円札がきちんとたたまれており、幸子夫人に紙に包んだ香典を渡すと、名前を聞いても言わずに帰って行った。千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園(29区5側)に葬られた。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を幸子夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。
日本政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった。
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた。
3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は第二次世界大戦中、「在リトアニア日本公使、チウネ・スギハラが、訓令に反してビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った」ことに注意を喚起し、「在日ユダヤ人共同体が協力し、すべてを失い窮状にある人々の救済を始め、在京のユダヤ人たちは募金のための口座を開いた」と報じた。
東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンは、会長のシムカ・カッツ博士と副会長のスティーヴン・ヴェイユ師の連名で、以下のような公式声明を発した。
窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。1940年、杉原領事夫妻は身職を賭して通過ビザを発給し、6,000人のユダヤ人の命を助けて下さった。いまこそわれわれがその恩義に報いるときである。

東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明

6月23日、ロサンゼルスのスカイヤボール文化センターで俳優の渡辺謙が、メッセージ「日本のための団結」を読み上げた後、千畝を描いた米国映画 "Sugihara:Conspiracy of Kindness" が上演され、収益が全額「日本地震救済基金」に寄付される。
10月24日、早稲田大学出身の超党派の国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足し、平山泰朗・衆議院議員の提唱により、杉原千畝を顕彰する顕彰碑(書・渡部大語)が母校内(早稲田キャンパス14号館脇)に建立され、その碑文には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」が選ばれた。
12月24日、「第二次世界大戦中、リトアニア領事として同国からアメリカへ脱出する多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝への恩を忘れないとの思いから」、アメリカのリトアニア人居住地区から、東日本大震災で秦野市内に避難している子供たちに対し、クリスマスプレゼントとして、ノートとクレヨンが寄付された。
2012年(平成24年)2月20日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に対して、「日本は地理的には遠いが親近感を抱いている。故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」と述べた。
3月22日、フロリダ州ボカラントン市で、千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久首席領事をはじめ約100人が出席した。4月26日、カナダ航空宇宙博物館において在カナダ日本大使館及びリトアニア大使館、ブナイ・ブリス・カナダとの共催で映画『命のビザ』を上演。
10月16日、千畝の母校である愛知県立瑞陵高校(旧制愛知五中)に、在日イスラエル大使館から感謝のためのオリーブの木が贈られ植樹式が行われた。
2013年、5月10日、カナダ在住のジャーナリスト・高橋文が、日本経由でカナダに渡ったユダヤ人7家族15人の証言を集めた記録映像『スギハラ・チウネのメッセージ』を八百津町の赤塚新吾町長に贈った。
9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル「SEMPO」に出演(難民の少女ニーナ役)。
語録[編集]
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。
"Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。では、お元気で、幸運をいのります」 -- ビザ発給の際にある難民にかけた千畝の励ましの言葉。
「旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」
「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」。
「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。
「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに疲労困憊している様子だった」。
「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。

杉原千畝 語録

人物[編集]
外国語に堪能であり、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語など数カ国語に通暁していた。特にロシア語には精通しており、隣室で会話のやり取りを聞いていた笠井唯計(ただかず)は、二人のロシア人の会話と取り違えたほどだった。
チェコスロヴァキアを占領したドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相が在チェコの各国外交官を呼びつけて即刻退去せよと述べた時、「ドイツに退去してくれと言われる覚えはない。その理由を説明して下さい」とドイツ語で反駁し、リッベントロップを絶句させた。
「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」 … マレク・アルテールが四男・伸生(のぶき)から聞いた言葉。
「杉原氏は広い心の持ち主であった。彼は廉直高潔の士であった。私は強い感動をおぼえた」 … 「杉原ビザ」の受領者の代表だったゾラフ・バルハフティクの言葉。
「神と共に行け、センポ・スギハラ。あなたは、天国においても、必ずや輝ける地位を占められることでしょう」 … 千畝の没後、ソリー・ガノールが述べた追悼の言葉。
「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」 … 「杉原ビザ」受領者、アンナ・ミローの言葉。
「あなたは、自分の家族や将来を犠牲に出来ますか? 政府で働いていて汚職を発見したら、それを告発できますか? 杉原氏はそんな誰もができないことを世間の常識にとらわれずやり遂げたのです」 … 「杉原ビザ」受領者、マーシャ・レオンの言葉。
「一言で言えば『古武士』のような方で、すべて黙っていて、分かる人だけが分かってくれればいいという、言い訳をしない方でした」 … モスクワ駐在員時代に部下だった川村秀の言葉。
「杉原さんはユダヤ人とのつながりを周囲に喋ったりしない人だった。私も、新聞の記事で実情を知ったぐらいですから」 … 川村秀の言葉
「あまり饒舌な方ではなかったのですが、言葉を選ぶように、私に分かりやすく話そうとしてくれているのがわかりました。私にとってそんな〝千畝さん〟の態度は不思議な感じでした。当時は女性の話を真剣に聞いて、きちんと答えてくれるような男性はほとんどいなかったからです」 … 杉原夫人の言葉。
「非人間的な行為に対抗する勇気には、国籍や人種や宗教の壁などないということを示した」… トーマス・バーゲンソール (国際司法裁判所判事)の言葉。
「私のような迫害を受けているものの苦しみを理解し、ただ深い同情を寄せる以外は何の理由もなく、私たちを死の淵から救ってくれたスギハラの行為は、生命を賭して厳しい困難に立ち向かう高貴な道義心を備えた偉大な人物にしかできないことです。もし彼がいなかったら、私はいまここにいません。スギハラのような男は、百年に一度しか現れませんよ」 … 「杉原ビザ」受領者、ヘンリー・クロンゴールドの言葉。
「杉原さんがビザを出したというのに、私たちが駄目という理由はありませんよ」 … ハルビン学院の後輩・根井三郎(ウラジオストク総領事代理)の言葉。
「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、決して、上から見下ろしたり、差別したりしなかった」 … 川村秀の言葉。
日本政府の対応[編集]
「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」[編集]
戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、千畝は1947年(昭和22年)に外務省を辞職。幸子夫人によると岡崎勝男・外務事務次官から口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという。
政府の公式見解では、1946年(昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環(当時の外務省職員の三分の一が退職)における千畝自身による依願退職とされている。またビザ発給後も1945年(昭和20年)のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理やドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し、7年間に渡り外務省で勤務し続ける中で昇給、昇進をして、1944年(昭和19年)には勲五等瑞宝章を受章していること、退職金や年金も支給されていることから、杉原にとって不名誉な記録は存在しないというのが現在まで政府の公式見解となっている。
しかし、元イスラエル大使の都倉栄二は、「当時、ソ連課の若い課長代理として活躍していた曽野明」が、「今後の日本はアメリカとソ連の両大国との関係が非常に大切になってくる。特にソ連は一筋縄ではいかぬ相手であるだけに、わが国の将来を考えるならば、一人でも多くのソ連関係の人材を確保しておくべきである」と述べたことを証言しており、他ならぬこの都倉は、千畝から3ヶ月も遅れてシベリア抑留から復員したにもかかわらず、外務省勤務が即刻認められ、「ソ連関係の調査局第三課にこないか」と曽野から誘われている。さらに、杉原が乗船した同じ復員船で帰国した部下の新村徳也は、帰国と同時に外務省外局の終戦連絡中央事務局に勤務することができた。
戦後、千畝の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対して、外務省は旧外務省関係者名簿に杉原姓は三名しかいなかったにもかかわらず、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していた。
また家族以外で「カウナス事件」に立ち会った唯一の証人である新関欽哉(後の駐ソ大使)は千畝の死の翌1987年(昭和62年)、「NHKのテレビコラムで、『私の見たベルリンの最後』という話」をし、「まだ駆け出しの外交官であり、責任ある地位にはついていなかったが、いろいろ劇的な場面に居合わせたので」、それをまとめた回想録『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』(1988) を刊行した。しかし、同書ではリトアニア領事館の杉原千畝に言及しているにもかかわらず、日本公使館にユダヤ難民が殺到するという前代未聞の外交事件に一行も触れていない。
新関は、第二次大戦末期に陥落したベルリン在住百数十名の日本人とともに満洲経由で帰国する。満洲では荷物引取交渉のために2週間満州里に滞在し、この時新関に協力したのが佐藤鉄松・ハルビン副領事である。佐藤は、在欧時代はケーニヒスベルクに在勤し、杉原を補佐した人物として、千畝のロシア語書簡(ワルシャワ軍事博物館蔵)でも言及されている。新関に関しては、「千畝手記」の抹消部分に「公邸の来賓用寝室には、たまたま外交官試験出の語学研修生N君が、泊まり客として居合わせ」たとされており、戦後も千畝と同じく藤沢市に居住。また、杉原がモスクワ駐在員時代には駐ソ大使であった。帰国後すぐに「外務省政務局第三課に配属され」た新関は、「この課はソ連関係を担当してお」り、「そのころの最も重要な仕事は対ソ和平問題であった」としている。渡欧時に語学研修生で、敗戦時にはベルリン大使館の三等書記官に過ぎなかった新関は、帰国するとすぐに外務省のソ連課に迎えられた。
また千畝退職時に外務省筋から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったんだから、金には困らないだろう」などという根拠のない噂が流された時も、新関はそれを打ち消すことをしなかった。歴史学者の杉原誠四郎は、「この人物は押し寄せるユダヤ難民を掻き分けるようにして領事館に入り、そして領事館に一泊した」のだから、「この噂が根も葉もないことであることを、新関欽哉はまっさきに証言しなければならない道義的立場にある」と批判している。
外務省の曽野明が「あらゆる抵抗を排除し、ソ連関係職員の確保に懸命に努力し」たとするまさにその時期に依願退職を求められた杉原千畝は、26歳の時に『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省から刊行してロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわし、北満鉄道買収交渉を成功させるなど、省内でその名を知らぬ者はいなかった。「外務省きってのロシア通」と考えられていただけに、千畝の排除を「戦後の人員整理」に帰す政府見解に関して疑いを持つ研究者は少なくなかった。
歳川隆雄は、日本の外務省内には血縁関係者が多く、入省時の語学研修にもとづく派閥が省内人事や外交政策にも影響があるとして、外務省人事の問題点を指摘している。高橋保の渡欧日記に、「杉原千畝氏の家に招かれ、食事を共にする。そこに鴻巣書記生、亀井トルコ商務官、田中書記生など来る。非常に面白いが、色々外務省の欠点、人事など例の如く話す」とあり、杉原手記に「万事勉強不足で有名な外務省」と述べられているように、千畝自身も実際の能力や業績よりも血縁関係や学閥が優先される外務省の人事システムに疑問を持っていた。そして、かつての外務省の同僚から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったんだから、金には困らないだろう」と中傷されたとき、旧外務省関係者と絶縁した。
杉原は、大公使への道を開く文官高等試験(キャリア採用試験)の受験をするために、「子供の教育の関係上」という口実で繰り返し帰国願いを申請したが、外相より「一等通譯官杉原千畝賜暇帰朝許可ス」とされたのは、ミッドウェー海戦の半年後の1942年(昭和17)12月2日になってからであり、枢軸国側の敗色濃い欧州からの帰国が実現しないまま、敗戦を迎えた。
千畝自身は、カウナス事件に関して、以下のように述べている。「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります」。
公式の名誉回復へ向けて[編集]
東京大学理学部を卒業の後三井物産に勤務していた古崎博は、1940年(昭和15年)、重要な軍事物資だった水銀調達の相談のために、大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、「リトアニアにいた日本領事が、外務省の反対を押し切って、満洲に逃げてくる千人近いユダヤ人に査証を発行して、これをすくったことがある。この領事は外務省から叱られて本国召還をくらったようですがね」と、安江が述べたことを記録している。1940年(昭和15年)のこの面談の日付は明示されていないが、難民たちがカウナスの領事館に殺到した7月から、安江がまだ予備役に編入される前の9月、の間であることは間違いない。「本国召還」などは史実と相違しているが、「カウナス事件」という名前で外務省内で問題視されていた千畝にまつわる事件が、在欧武官府から東京の陸軍中央まで伝えられていた事実を証言している。
千畝の依願退職に関しては、戦後日本の省庁機能を再建する際に、外務省関係者の間で「カウナス事件」における不服従が問題になり、終戦連絡中央事務局連絡官兼管理局二部一課から、千畝の解雇が進言された事実が、堺屋太一、加藤寛、渡部昇一らの対談によって、具体的に証拠立てられた。
渡部昇一がその著作で「杉原は本省の命令を聞かなかったから、クビで当たり前なんだ。クビにしたのは私です」と証言したとする曽野明に対して、加藤寛がその内容を照会したところ、「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなど、もっての外であり、絶対、組織として許せない」と曽野が述べたという。
この曽野明と、曽野に引き抜かれた都倉栄二、そして先の新関欽哉こそ、杉原なき外務省で戦後の対ソ外交を主導したキャリア官僚三人であった。
政治学者の小室直樹は、「これは人道的立場からのやむを得ざる訓命違反であって、失策ではない。杉原千畝元領事は、戦後直ちに外務省に呼び戻すべきであった。日本外務省は、日本の外交的立場をぐっと高めるに足る絶好のチャンスを、みすみすと失ったのである」と、杉原の免職を批判している。2006年3月24日の小泉純一郎総理大臣の答弁書(内閣衆質164第155号)によると外務省には懲戒処分の証拠文書がないようである。
1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪した。しかし、当時まだ外務省に在職していた佐藤優は、『国家の罠』(2005) において、その名誉回復すら「当時の外務省幹部の反対を押し切」ってなされたものであったとし、千畝の不服従に対する外務省関係者の執拗な敵意の存在を証言している。
「外務省が詫びる必要はない、と会談そのものに反対したという」などと『朝日新聞』(1994年10月13日付)で取り沙汰され、杉原の名誉回復に反対したと一部マスコミで報じられた当時の外務事務次官小和田恆(元国連大使)は、「そういう報道は心外です。私としては、反対したという記憶はありませんし、私自身の考え方からしても反対するはずがない」とし、自身が杉原領事の立場にいたらどうするかという『アエラ』(2000年11月13日号)の取材に対して、「組織の人間として訓令に従うか従わないかは、最終的にその人が良心に照らして決めなければならない問題」と答え、千畝の行為に一定の理解を示した。
1992年(平成4年)3月11日の第123回国会衆議院予算委員会第二分科会において、草川昭三議員の質問に対して、兵藤長雄・外務省欧亜局長は、「確かに訓命違反、その時の服務命令の次元で考えればそうであったけれども、しかしもっと大きな次元で考えれば、(・・・)数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題がそこにかかわっていたということで、結果的に見れば我々もこの話は美談だったというふうに今見るわけでございます」と、確かに「訓命違反」ではあるが、「数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題」があったとして、切迫した状況における杉原領事の判断を支持した。
2000年(平成12年)、河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本政府による公式の名誉回復がなされた。それは、千畝の没後14年目のことであった。

この記事をはてなブックマークに追加

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説2

2017年10月08日 07時59分19秒 | 日記



































****
NHK大河ドラマ真田丸総集編第一章『波乱万丈』より
時代は武田信玄死後七年後……長篠の戦いにやぶれて織田軍に攻められる武田勝頼である。北に上杉、東に北条、南に徳川、西に織田、この物見にいって馬でおいたてられ必死に逃げる青年はこれより33年後、大坂夏の陣で徳川家康を自害寸前までおいつめた希代の英雄・真田源次郎信繁(幸村)である。だが、今は只、恐怖に震えて逃げるのみである。
真田家は甲斐・信濃の武田家に従っていた。甲斐の虎・武田信玄を御屋形さまと慕っていた。だが、信玄の死後はふんだりけったりである。勝頼の叔父・木曽義仲も裏切り、武田軍師・穴山梅雪や軍師・真田安房守昌幸(幸村の父親)は今は新府城に戻るべき、という。
安房守は「新府城は難攻不落……武田家は滅びませぬ!必ずやこの安房守が御屋形さまをお守りいたしまする!」と剛毅だった。
だが、息子達には「武田は滅びるぞ」と呟く。
息子達(嫡名・真田源三郎信幸・長女・まつ・次男・真田源次郎信繁・妻・薫・母・とり)らは「しかし、武田は滅びぬ。新府城は難攻不落と?!!」と驚く。
「……誰がいったんだ。そんなこと。」
「父上が先ほど…!」
「とにかく武田家はもはやぼろの泥船!まずは居城岩糒(いわびつ)城で臥薪嘗胆じゃ。」
先に昌幸は岩糒城へ家臣と向かった。
真田丸というか真田家族は新府城を捨てて、岩糒城まで農民のなりをして向かった。
だが、途中に武田を裏切った小山田の家来らに命を狙われる。昌幸がたすけた。
武田勝頼は織田軍においたてられ自害……あの名門武田家は滅亡した。
真田昌幸は「北条か?上杉か?」と頭をめぐらせた。「くじで決めようか?信幸、信繁(幸村)?」「……しかし、そのような大事なことをくじで決めていいものでしょうか?」
「父上の策をおきかせくだされ!」
「策?そんなものはない。北条か?上杉か?……む?まてよ!そうだ!決めた!わしは決めたぞ!」
「何をにございまするか?!!」
「上杉でも北条でもない。わしは織田信長につくぞ!」
「え?!!しかし、織田につけばまっさきに上杉との戦になりまするぞ?」
「いいか!まずは大博打じゃ!織田信長………尾張のおおうつけに博打よ!」
「しかし、父上!」
真田安房守の意思はかたまった。
織田信長につく。
真田信繁(幸村)と父・昌幸はさっそく、織田信長に拝謁した。
織田信長はブーツにマント姿で圧倒された。
真田信繁(幸村)には村に好きなおなごがいた。幼馴染みのお梅(家臣・堀田作兵衛の妹)である。大河ドラマでは幼馴染みのきりにお梅への櫛の贈り物を渡させる設定だった。
しかし、そんな信長もすぐに本能寺の変で死んでしまう。死ぬというより、家臣の明智光秀に天正十年本能寺で暗殺されたのだ。徳川家康は伊賀超えで必死に三河に逃げた。
安房守は激怒した。「なんと!?!何故死んだ!あの憎らしい信長め!博打に負けた!」
「博打とは……。そういえば織田方の近江安土城には姉上(まつ)を人質にだしたままです。」
「救いに行かねば殺されてしまいます。」
「まさか!父上は明智につくので?!」
「そんな輩にはつかん!明智光秀の天下など三日天下よ。」
真田家族は馬を駆りまつを救いに行くが、敵に追い詰められたまつは崖から海に落ちて行方不明になる。
失意のまま戻った源次郎信繁(幸村)は、母・薫に責められる。
源次郎は涙を流しながらお梅に弱音を吐露した。
「愚痴を何も言わずきいてくれぬか?……わしは自分では軍略の才能があると思っておった。兄よりも機転が利き、策略に優れ、父・昌幸仕込みの策略で歴史を変え、ひとをすくう……。しかし、わしの軍略など実際の世界では何の役にもたたなかった。只、逃げて、流されて、……わしは無力じゃ。何の力も無い。わしは…無力じゃった」
「源次郎さま。……あなたが無力でもこのお梅があやういときにはどこからでもきてたすけにきてくだされ…」
「…お梅。」
ふたりは抱擁した。それは源次郎を崩壊からすくう抱擁であった。


つい前にNHKの大河ドラマ化されるまで「前田利家(まえだ・としいえ)」は日陰者であった。
 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。
 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。
 利家は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。秀吉の才能を見抜き、真の友として、一生支えたのもまた利家の眼力だった。
利家が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 利家の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
質実剛健の家風で知られる上杉家の中で、前田慶次郎は明らかに浮いていた。
紫と白の肩身替りの色鮮やかな小袖に、墨染めの革袴、首には十字架のついた金鎖をじゃらじゃらと下げている。
片手の中指には髑髏の金の指輪を嵌めて、近頃京で流行りのキセルをふかしていた。髪を南蛮人のように赤茶色に染めている。
直江山城守兼続を頼って加賀前田藩から会津の上杉家へきて一千石の家禄を与えられた。衣装や行動が突飛なだけでなく、慶次郎は歌道・華道・茶道・囲碁・将棋・能・笛・太鼓・琵琶・にも通じ、風流人であった。
 前田家を離れ、禄もなく、放浪の暮らしが長く、世話してくれる女房、子供がいないという慶次郎だが「嘘」である。加賀に妻と三人の娘がいる。
 上杉家には最上級士族の侍組の他に、馬廻組(先代謙信以来の直臣団)、五一騎組(上杉景勝の直臣団)、与板組(直江山城守兼続の直臣団)がある。
 あるとき慶次郎は林泉寺(上杉家の菩提寺)の和尚を殴りつけた。和尚は主君・上杉景勝の庇護の元、やや言い過ぎの横柄な態度をとったからだ。だが、家臣団は「和尚を殴るとは何事か!」と青ざめる。が、慶次郎は「主君・上杉景勝公も直江山城守兼続公もそんなことで腹をたてるケツの穴の小さい男ではないわい!」と喝破した。
 上杉家は酒を愛した先代謙信公以来、人との交わりには酒が欠かせない。酒を酌み交わし、はじめて仲間として認める気風である。慶次郎も酒豪であったという。慶次郎には加賀に置き去りにした妻子がいた。前田利家の次兄・安勝の娘を娶っており、三女の娘(長女・坂、次女・華、三女・佐乃)がおるが慶次郎出奔後、残された妻子は加賀金沢の地でひっそり暮らしていた。慶次郎は妻子のことをきかれる度に「忘れた。出奔後は、わしは生涯孤独だ」というばかりだ。
 戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが、技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大坂城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、そして前田利家、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。
  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。
  その頃、信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶せんにし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰にはひうち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりエッチなこともしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。
 かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。
  一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、信長の父・信秀が死んだ。
 
真田信繁、通称幸村が生まれたのは一五六七(永禄十)年、真田昌幸の次男として生まれている。真田源次郎信繁、兄は真田源三郎信幸である。
その頃、信濃(現在の長野県)・甲斐(現在の山梨県)の戦国大名は怪僧・武田信玄である。だが、信玄入道は天下統一を前に病死してしまう(結核)。
後継者は武田信玄の息子・武田勝頼であった。
一五七五(天正三)年には徳川家康と織田信長との連合軍と武田勝頼が合戦となった。世にいう“長篠の戦い”である。信長の三段構えの銃口の前に武田軍騎馬隊は大敗北、である。
真田昌幸と同僚の穴山梅雪は「武田は名門、織田軍が二〇万といえど負けませぬ」という。
だが、武田軍はどんどんと裏切り者が多くなる。いち早く裏切ったのが武田の重臣・穴山梅雪でもあった。
「武田は負けるぞ。」真田昌幸は幸村や兄の信幸にいった。
「な?武田は負けぬと…」
「誰が言ったんだ、そんな馬鹿な事」
「父上自身が…」
「忘れた」昌幸はにやりとなった。
昌幸は「御屋形さま、どうか真田の城へ!拙者らが守りまする!」
だが、武田勝頼は家臣に騙され、さすがの信玄の武田家も三月には滅んでしまう。
武田勝頼は惨めな片田舎の寺で切腹、織田方徳川方に首を晒された。
昌幸は本城である岩櫃(いわびつ)城にいて、後から落ち武者のように岩櫃に逃げた息子の信幸・幸村らを迎えた。
昌幸は幸村・信幸ら息子に、「お前ら北の上杉景勝か南の北条か、どちらをとる?」ときく。
信幸は「上杉かと」
幸村は「いや北条も徳川もあなどれませぬ」という。
が、戦国一の軍略家の真田昌幸は「われらは織田信長につくぞ」という。
「えっ?!」息子たちは驚くしかない。
だが、「確かに織田信長の勢いは破竹の勢い、父上の戦略はごもっとも!」幸村は頷いた。
そして「わたしを織田への使者のひとりに加えてくだされ、父上!」
「そうか信繁。そちも第六天魔王織田信長をみたいか?」
「はっ!織田信長は現在信濃の諏訪の法華寺(ほっけじ)にいるとか…今なら織田信長に接見できまする。あの長篠の奇策、近江での楽市楽座、興味がありまする!」
「よし!信繁、共にいこうぞ!真田の博打じゃ!」
「はっ!」
こうして真田昌幸と真田信繁(幸村)は織田信長と接見した。
唖然とした。ブーツを履いて伴天連の洋服を着て、ワインなる洋酒を飲んでいる。
徳川家康はそれに従っている。惨めなのは明智光秀である。
家康の接待役でしくじり、信長の逆鱗に触れボコボコに殴られ、寺の柱に頭を打ちつけられ血だらけになった。「お許しを!お許しを!」
「光秀!貴様!」
「…信長殿、もうその辺で…」
家康は光秀をかばった。その様子を真田信繁や父親・昌幸は唖然と眺めた。
………織田信長は狂人ぞ。
その数か月後、光秀は挙兵、「敵は本能寺にあり!」。
本能寺で信長は天下を目前に討たれて死んだ。享年四十九歳。
昌幸は上杉、北条を経て、家康に従属するはめになる。
一五八三(天正十一)年には真田昌幸によって信州上田城の築城が始まった。
上杉に人質に行った真田信繁(幸村)はふたたび家康に、そして天下人・羽柴(豊臣)秀吉への従属を決めるのである。
秀吉方についた真田一族ではあるが、秀吉死後は後述通りの武勇をみせ、関ヶ原の合戦では上田城で徳川秀忠の本陣軍をこてんぱんにし、西軍敗北後は九度山に数十年蟄居、大坂冬の陣、夏の陣で幸村は最後には日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)と呼ばれることになる。
それは本編でお楽しみあれ。
真田丸「第1話」のあらすじ(インターネット内『ネタバレ』より)
大河ドラマ「真田丸」の物語は、武田家が滅亡する場面から始まります。
1582年1月、武田勝頼に臣従しており、武田信玄の娘を正室に迎えていた木曽義昌が、織田信長に寝返ります。
危機を迎えた武田勝頼は、諏訪・上原城に一族筆頭の穴山梅雪、親族衆の小山田信茂、家老筆頭・跡部勝資などを集めて軍議を開きますが、その席にて真田昌幸が「一旦、新府城に引いて様子を見るべき」と進言します。
そして、真田信幸に一足先に新府城に戻り、徳川家康の様子を探れと言いつけます。
真田家も武田家に忠節を誓う為、新府城に人質として、真田昌幸の妻・薫と、母・とりを出しており、その屋敷には、真田昌幸の長女・松と、その夫・小山田茂誠も訪問していました。
この頃、真田信繁は甲斐南部にて徳川勢の動きを探っており、夢中になりすぎて、矢沢頼幸(矢沢三十郎)の制止も聞かず、深追いしてしまい、危ないところをなんとか逃げてきました。
真田昌幸は、高梨内記らと新府城の真田家屋敷に入りますが、武田を裏切った木曽義昌の妻子が処刑されたと聞いた、薫らは心配顔です。
そのため「この真田昌幸がいる限り、武田が滅びる事はない」と言い、安心させます。
しかし、真田信幸と真田信繁を呼び部屋に籠ると、真田昌幸は「武田は滅びるぞ」と打ち明けます。
織田信長の軍勢は、長篠の戦いの時とは比べものにならないほど、既に強力な兵力となっているのをわかっていない真田昌幸ではありませんでした。
そして、新府城を捨てると心の内を話します。ご承知の通り、新府城はまだ未完成だったのです。
それからほどなく、2月25日に武田親族筆頭の穴山梅雪が、人質となっていた家族を密かに逃がして、徳川家康を通じて内通し、徳川勢の甲斐侵入を手助けしました。
驚いた武田勝頼は、重臣を集めて軍議を開き、真田昌幸は、自分の居城・岩櫃城にて再起を図ろうと説得します。
その賢明な説得に武田勝頼は応じて、真田昌幸らは準備の為、先に岩櫃城へと向かいます。
しかし、跡部勝資と小山田信茂らは、真田昌幸がいないことをいい事に、小山田信茂の岩殿城へと武田勝頼に促します。
武田勝頼は、まだ新府城の屋敷に残っていた真田信幸と真田信繁に「岩殿城に行く」ことを明かし、人質らと岩櫃城へ逃れよと言います。
こうして、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりなどを連れて、岩櫃城を目指しますが、忍者の佐助には書状を託して先に岩櫃城へと向かわせました。
そして、真田信幸と真田信繁ら一行は、武田勝頼を見送ったあと、火が放たれた新府城をあとにして、一路、岩櫃城を目指したのです。
岩殿城を目指す武田勝頼は、その途中、高島城の落城と言う知らせが届いたりする度に、家臣の離反が相次ぎ、600名した供はいつしか100名程度になっていました。
先に岩殿城に赴いて準備をすると言った小山田信茂も、笹子峠を封鎖して、武田勝頼を裏切ったのです。
真田丸「第2話」のあらすじ
第2話は、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりらが、困難を乗り切って、岩櫃城へ逃れる話からとなります。
史実でもこの逃避行は、苦労があったとされています。
真田丸の話のなかでは、途中、百姓の落ち武者狩りにあいます。
その頃、岩櫃城の真田昌幸のもとには、武田勝頼が小山田信茂の岩殿城へ向かったと言う知らせが届いていました。
真田信繁の一行には、命を受けた小山田八左衛門が現れて、捕えようとします。
一方、小山田信茂に裏切られた武田勝頼一行は、田野にて最後の力を振り絞って滝川一益勢と戦うも、すでに40名ほどしかおらず、自刃して果てました。
「御屋形さま!……いえ、お父上さま、申し訳ありません!」
武田勝頼は亡き武田信玄の亡霊に涙で詫びると切腹します。
「ごめん!」
介錯の部下が首を落とすと、あの武田家は滅亡するのでした。
その夜、武田信玄の亡霊が真田昌幸のもとに現れますが、何も言わずに消え、佐助が悪い知らせを届けにきました。
「武田勝頼さまご自害!武田家滅亡!また信繁(幸村)さま信幸さまとりさまら危うし」
「何っ?!」
真田信繁の一行に同行していた小山田八左衛門は、ついに刀を真田信幸らに向けますが、そこに手勢を率いた真田昌幸が到着し、小山田八左衛門らは逃走します。
甲斐善光寺にて織田信忠に臣従を誓った小山田信茂は「主君を裏切った不忠者」として斬首を言い渡されます。「……そ、そんな……馬鹿な…ひいいっ!」
「信繁、信幸、上杉と北条どちらがいいと思う??」
「上杉もあなどれませんぬなあ」
「いや、やはり北条では?」
「いや!…わしは織田信長じゃと思うのじゃ。上杉は謙信が死んだ。北条はまだ織田勢に対抗できない。織田信長こそ天下にもっとも近い!!織田じゃぞ!」
岩櫃城に戻った真田昌幸らは、上杉景勝を頼るか、北条氏直につくか、思案しますが最終的に織田家に臣従する道を選びます。
真田丸「第3話」のあらすじ
岩櫃城では、真田昌幸が矢沢頼綱のジイと、真田信尹らが今後の事を議論した。
真田昌幸は、小県の国衆を調略しようと考えている。
徳川家康は激戦となった高遠城に入り、仁科信盛が自害した場所に、本多忠勝・本多正信と共に手を合わせた。
信濃の国衆である出浦昌相(出浦盛清)と室賀正武も、真田屋敷に集まって織田信長につくのか議論となった。
一方、真田信繁は、真田の地侍である堀田作兵衛を訪ねようとすると、そこに高橋内記の娘・キリがやってきた。
真田信繁は、堀田作兵衛の娘・梅がお気に入りで、キリに「櫛」を渡してほしいと頼むのだが、キリは直接渡せばと、真田信繁の手を引っ張って梅のところに連れて行った。
真田信繁は照れてしまい、なかなか櫛を渡せずにいると、梅が「お土産だって」と勝手に櫛を見せる。
しかし、櫛はお梅のは上等なものだったが、キリに渡したものは安物だった。
さて、真田昌幸は、上杉景勝への密書を届けるように、真田信幸に託す。
さっそく、真田信幸は妻・こうを呼び、旅支度をすると、佐助と共に越後へと向かった。
この動きは、忍びを放っていた出浦昌相にすぐさま報告される。
真田信繁らは、隣村から薪を切りに来た現場を見つけると、堀田作兵衛や梅らと退治するが、梅と真田信繁が親しげにしているのをキリは気に食わない。
皆で山を下りていると、林の中から疲れ切った小山田茂誠が出てきた。
真田信幸らは出浦昌相と室賀正武らの忍者らに襲撃されて、上杉家への密書を奪われてしまい、佐助は怪我をしてしまう。
真田屋敷に戻った真田信幸は、父・真田昌幸に詫びて、すぐに取返しに行くと言ったところに、密書を奪った室賀正武がやってくる。
実は、手紙の内容は、上杉景勝から寝返りの打診を受けた返書と言う内容だったのだが、そもそも、上杉家からそのような話は届いていない。
要するに、真田昌幸が上杉景勝への返事の手紙を偽装し、わざと奪わさせて、その手紙の内容を信じている出浦盛清が織田信長に通告するよう仕向けたのです。
これで、織田信長に「真田昌幸は、ほうぼうから声が掛かると言う注目すべき武将なのか?」と思わせる作戦だったのです。
怪我をしたはずの佐助も、ぴんぴんした様子で現れては、真田昌幸から賞賛を得ると、また風のように去っていきました。
さて、小山田茂誠の取り扱いに困った真田信繁は、兄・真田信幸を堀田作兵衛の家に連れて行き、小山田茂誠に合わせます。
真田信幸は、小山田茂誠に対して切腹するよう迫りますが、小山田茂誠の妻で、真田信幸らの姉でもある松が、かばいました。
翌日、織田信長より真田昌幸に対して参上するようにとの連絡が届き、生きて帰らなかった時は、頼むと真田信幸にあとを託して行くのでした。
真田丸「第4話」のあらすじ
第4回は、いよいよ、真田昌幸と真田信繁が諏訪の法華寺にて織田信長に対面します。
廊下の向こうからは、少し先に織田家に臣従した室賀正武がやってきたので「密書を奪ったのはお主か?」と知らない素ぶりを演じた。
待っている間、真田信繁は織田勢の武器などを見て回り、感心していると、これらは徳川の物だと指摘された。
その武将は、徳川家康と本多忠勝であったが、真田信繁はまだ2人が誰なのかはわかっていないところに、父・真田昌幸がやってきて、徳川家康らと挨拶を交わした。
「これは徳川家康さまに本多忠勝さま」
「お主は?」
「あ、しっけい。みどもは真田安房守でござる。こちらは次男の信繁(幸村)」
「あ!申し訳ござらん。徳川家康さまとは存じませんで…」
「いやいや。」
「息子が失礼を」
「いやいや。ほう。そちが武田の軍師じゃった真田安房守昌幸殿か?」
「ははっ。」
「……徳川は滅亡した武田には散々困らされた。三方が原の戦いでは武藤喜兵衛というものがいて軍師でのう。散々討ち負かされたのう。御存じないか?」
「武藤喜兵衛???はて?存じませぬなあ」
真田昌幸は徳川家康に、織田信長への貢物の相談を行うが、かつて三方が原の戦いにて「武藤喜兵衛」と言う武将から手痛い目に会ったと話題を変えられた。
しかし、その頃、武藤喜兵衛と称していた真田昌幸は「存じませぬな」と、答える。
滝川一益に案内されて部屋に入ると、まず、織田信忠と徳川家康が入ってきて、織田家へ臣従する書状と、例の上杉家に出した書状を見せて、上杉に臣従するつもりだったのではと質問をしてきた。
これに対して真田昌幸は「方便でござる」と涼しげに答え、真田のような小勢力が、上杉から攻められないための布石であると弁明し、織田信長によって我らを守り抜いてもらわねば困ると言います。
徳川家康は、わざと偽の手紙を上杉に出したのではと疑い、直江兼続に確かめるぞと脅すが「確かめたければ確かめればよい」と真田昌幸も引かなかったことから、徳川家康は勘違いであったとこの場を収め「さすが武勇を馳せた武藤喜兵衛である」と称賛した。
そこに織田信長が入ってくると、一言「よき面構えじゃ」と一言放ち、真田昌幸の織田家臣従が認められた。
こうして、真田昌幸は滝川一益の配下に加わり、岩櫃城と沼田城は織田家に差し出すよう言われる。
また、安土城へは誰を人質に出すかの議論も始まる。
そして、滝川一益は、小県の国衆のまとめ役に、真田昌幸を指名する。
しかし、京では天下を揺るがす大事件が起きようとしていた。
真田丸「第5話」のあらすじ
「敵は本能寺にあり!」
明智光秀は馬上で叫んだ。いわゆる本能寺の変である。
水色ききょうの軍勢は本能寺の織田信長を襲い、討ち負かした。
織田信長の天下取りの野望はこれでついえた。信長享年四十九歳……
1582年6月2日、明智光秀による謀反で、織田信長が本能寺の変で命を落としました。
武田勝頼が自刃してから僅か3ヶ月後の事です。
また、織田信忠も二条城にて明智勢と戦い、自害して果てました。
この時、堺を遊覧していた徳川家康は人生最大のピンチに立たされます。
大坂・堺から本拠地・岡崎城に戻るにしても、京は明智勢がおり、海は海賊と進む道がありません。
一緒にいた穴山梅雪は単独で琵琶湖付近から東へ進む道を選択しますが、徳川家康は、付き従っていた石川数正、本多忠勝らと伊賀を越えて行く事になりました。
「悪党ども案内せよ!服部半蔵、この家康、岡崎の城まで逃げるぞ!」
「はっ!この半蔵におまかせを!まずは走りましょう!」
「あ?」
「岡崎城まで駆けて逃げのびるのです!」
「え?そうか。仕方ないのう…」
この頃、人質として松を届けるため、安土城下に滞在していた真田信繁は、京で変事があったことを知ると、小山田茂誠に松を託して、矢沢頼康(矢沢三十郎)と共に京に行ってみて何があったのか確かめる事にします。
まだ、本能寺の変を知らない真田の里では、高橋内記は娘・キリを真田家へ奉公に出し、将来、真田信繁に嫁いでくれる事を願っていると伝えます。
徳川家康は伊賀に縁がある服部半蔵の手助けもあり、命からがら岡崎城へ入りました。
真田昌幸は、京から戻った薬売りからの情報で、本能寺にて織田信長が討たれた事を知ると、そこに明智光秀からの使者が書状を届けてきます。
そして、真田昌幸は、他の国衆ヘの書状はすべて燃やし、急ぎ召集をかけました。
京にて明智光秀の謀反を知った真田信繁は、安土城の姉上が危ないと悟ります。
収集した国衆からは、織田家についた真田のせいだと言う意見もでるが、真田昌幸は上杉景勝に臣従すると言い、既に向かわせていた真田信尹は、上杉景勝から快諾を得ていました。
安土城では、松を探し出しますが、一緒に捕われている20名ほどの女性と一緒に逃げると言い、明智勢に包囲されると真田信繁は井戸の抜け道を見つけて安土城の外に逃れます。
真田丸「第6話」のあらすじ
本能寺の変から2日経過し、安土城下は明智勢に占拠されます。
真田信繁ら20数名は、琵琶湖近くの小屋に潜んでましたが、子供が泣きだし、明智の兵に見つかったしまいました。
真田信繁は応戦して人質らを逃がしますが、明智の兵は松を必要に追いかけます。
崖に追い詰められた松は、身を投げてしまい、真田信繁は矢沢頼康(矢沢三十郎)と佐助と共に信濃を目指して逃れます。
前橋城に呼ばれていた真田昌幸は、滝川一益からの人質要請に応じ、一刻も早く明智光秀を討つように促します。
現時点ではまだ織田についている以上、滝川一益に頑張ってもらわないと困るからですね。
信濃を目指していた真田信繁は、信濃から脱出を図る森長可と出浦昌相らに遭遇します。
真田昌幸は、滝川一益を上野から追い出したら、北条氏直に臣従しようと国衆らと意見が一致します。
真田信尹も、小田原城にて北条氏政・北条氏直と面会します。
滝川一益への人質は「とり」に頼むことになり、沼田城へはキリも同行して送られました。
山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を早くも討ち果たすと、北条家は5万の大軍にて上野へ侵攻するのです。
真田丸「第7話」のあらすじ
1582年6月18日、神流川の戦いにて総崩れとなった滝川一益は、箕輪城へ退却します。
真田昌幸は、とりが人質になっている沼田城を奪還しますが、とりが行方不明で見つかりません。
沼田城を矢沢頼綱に任せて、岩櫃城へは真田信幸を向かわせ、真田昌幸は箕輪城を目指します。
夜になり、真田昌幸と真田信繁が箕輪城に入ると、滝川一益は「よう来てくださった」と援軍と勘違いします。
滝川一益が伊勢に逃げると言うなか、人質の居場所を確認しますが、その後、滝川一益は沼田城と岩櫃城は真田昌幸に返そうと思うと言い、拍子抜けします。
滝川一益らが小諸城に到達した時に、人質を奪い返そうと考えますが、ちょうどその頃、滝川一益の家臣・長崎元基(長崎元家)が、沼田城などが武力によって真田昌幸に奪還されていたことを告げます。
そして、計画通り、小諸城にてとりやキリを救出しようとした真田信繁ですが、逆に滝川一益らに捕まってしまいます。
真田丸「第8話」のあらすじ
北条氏直の大軍は碓氷峠を越えて信濃へ侵攻。徳川家康は甲斐へと入った。
真田信繁は、真田信尹に従って春日信達との交渉に挑むも、感触は良くない。
春日信達の寝返りを手土産にしようと考えていた真田昌幸であったが、北条氏直が小諸城に入ったため、もう待てず北条氏直に臣従の挨拶へと向かった。
北条氏直の機嫌が悪い中、小田原城からやってきた北条氏政の取り成しで事なきを得る。
ところが、真田昌幸が北条家に寝返ったことが早くも上杉景勝の知る所となり、真田信尹と真田信繁は呼び出され、直江兼続から鋭い視線を浴びる中、自分たちは上杉に臣従すると言うしかなくなる。
真田丸「第9話」のあらすじ
北条家の殿(しんがり)として真田の郷に残った真田昌幸は、生き残るために懸命に知恵を絞るのだった。
織田家は退き、北条家は矛先を変えて徳川家を攻めているが、上杉景勝は動かない。
したがって信濃はぽっかりと空き、そこで真田昌幸は大名なしの国衆が治める国を目指そうとしていた。
反目していた室賀正武とも手を結び、小県の国衆はまとまり始める。
「真田昌幸!この信濃の岩櫃などや信濃・上野・沼田・東北部を頼む!」
「………あいわかった!」
甲斐に進出した徳川家康は北条氏直に攻められ、本多正信の進言で、真田家と手を結ぶことを決めた。
約定は信濃一郡と上野の沼田城を真田領として進呈すること。
これによって真田昌幸は北条家から徳川家に寝返る。
軍議の場では真田信繁の「甲斐を攻める北条の兵站を断つ」という策が、真田軍が小諸城を押さえることで成功した。
「北条に泡を食わせ、徳川に恩を売る」ことができ真田屋敷に凱旋したところで、急を知らせる書状が届く。
なんと今度は徳川家が真田家との約束を反故し、北条家と和睦して甲斐・信濃・上野・沼田を両軍で分け合うという約定を結んだのである。
そこには真田の領地も含まれていた。
「……何っ?!徳川と北条が和議を結んだじゃと???」
「父上!」
室賀が「話が違うではないか?昌幸!」
「しかし、徳川と北条が和議を結ぶなど誰にも考えられないかと」
「黙れ、小童(こわっぱ)!」
室賀は信幸を一喝しました。
真田丸「第10話」のあらすじ
ここで真田信繁は三河の徳川家康、越後の上杉景勝と面会することになります。
まずは徳川家康ですが、約定を反故にされたことに対する抗議とともに、上杉領の虚空蔵山城への楔として小県の上田平に城を築くに当たり、徳川家に負担してもらうというものです。
兄である真田信幸と共に使者に出向き、見事に城の普請の了承を得ます。しかし一方で沼田城を北条家に譲るように迫られるのです。
沼田は真田領の要であり、沼田城は真田昌幸の叔父である矢沢頼綱が城主を務めています。
当然ながら、北条氏直に譲ることに真っ向から反抗したため、やがて北条氏邦らに攻められます。
そんな沼田城の戦を終わらせるべく、真田信繁は続いて上杉家へと向かうのです。
「よくものこのこ上杉にこられたものじゃのう?真田信繁!」
直江兼続は一喝します。
今まで黙っていた上杉景勝は家臣に薙刀の鋭い刃で四方八方から狙われてもなお平伏している真田信繁に興味を持った。
「刃をおさめよ!やめーい!」
景勝がいうと家臣たちは刃を収める。
「よくのこのこ上杉の春日山城までこれたのう?真田は上杉ではなく北条や徳川につくのではないのか?」
「いいえ。めっそうもありません!」
「ならば上田城築城は?上杉への備えではないのか?」
「いえ!上田城は徳川への備えであります!」
「なに?しかし、築城しているのは徳川ではないか?」
「そうです。敵に作らせ、そしてその敵の備えとする。我が父・昌幸の策であります」
「……ほう。気に入った!さすがは真田昌幸じゃ!」
「そこでご提案が御座います!」
「なんじゃ?」
「上杉さまには虚空蔵山(こむぞうさん)城で真田勢に勝つ芝居をして頂きたい」
「ん?」
「虚空蔵山城にて真田がこてんぱんにやられたときけば信濃・上野にいる北条軍は次は自分達だ、と恐れて逃げ出すでしょう。戦わずして勝つ、孫子の軍略です」
「……なるほど。わかった!」
普段笑った事もなかった上杉景勝がにやりとなった。「おもしろい。まるで謙信公じゃ」
上田城建築は上杉家への備えではなく、実は徳川家への備えであることを伝えます。
徳川にも北条にも屈しないという武士の意地だけではなく、虚空蔵山城での上杉対真田の戦芝居も提案しました。
上杉景勝は真田信繁を気に入り、その策にのって戦芝居で真田を破ります。
上杉の勢いを恐れた北条氏政は撤退を決め、沼田城は守られたのでした。
大活躍の真田信繁にはさらなる吉報が届きます。
梅が真田信繁の子を身籠ったのです。
「でかしたぞ、梅!」
「はい。信繁さま」
そして真田信繁は、梅に対して妻になってもらいたいと伝えるのでした。
捕虜となった真田信繁らは、滝川一益が木曽を抜ける際に、木曽義昌に譲ると言う条件で、無事に木曽を通って逃れた滝川一益であったが、既に羽柴秀吉による清洲会議の決着はついていました。
真田信繁ら人質は木曽福島城へと送られますが、木曽義昌はとりの姿を見ると平身低頭します。
「おばばさま。」
「三郎!お前、よくも恩義がある武田家を裏切りましたなあ」
「仕方なかったんじゃ。織田方につかねば木曽領は滅ぼされていましたもんで」
「ばばさま、木曽義昌さまとお知り合いで?」信繁は驚いて聞きます。
「ああ。こやつは信玄公の前でしょんべんを漏らしたのじゃ」
「まだ子供の頃でこわくてこわくて。その話はもうご勘弁を…」
「三郎!ばばはよいが信繁とキリは真田に還してはもらえんか?」
「しかし、ばばさま。織田勢や北条や徳川や上杉が怖いんじゃ。人質とは宝で、身の安全の為に必要なんです」
「三郎!お主はこのばばのいうことがきけないのか?」
「え?……いやあ…困りましたなあ」
とりは「大恩ある武田を裏切りおって」と木曽義昌を平手打ちし、人質を返すようにと要求し、真田信繁とキリだけは開放される事になりました。
真田昌幸は上杉景勝に会いに行き、上杉家から色よい返事をもらいますが、戻ると、とりを残して帰って来た真田信繁を叱ります。
そして、真田信尹と共に、現在、上杉家に味方している春日信達(武田家の名軍師・高坂弾正の息子)を調略して、北条家に願えさせろと命じるのです。
真田丸「第11話」のあらすじ
味方になると思ったら、敵につく、そんな真田家が邪魔に感じてきた徳川家康は、本多正信を介して真田昌幸の暗殺を計画します。
実行犯は真田昌幸の幼馴染にして競争相手でもあった、同じ国衆の室賀正武に命じました。
小県の惣代という餌をぶらさげられた室賀正武も苦悩します。
上田城が国衆のものではなく真田家のものであることが判明したからです。
真田昌幸もそんな室賀正武の気持ちの変化に気づきました。
そして、暗殺をするようにと仕掛けるのです。
さて、真田信繁と梅の結婚は周囲から認められていましたが、身分の差から正妻にはなれず、側室として向かい入れることになりました。
この場合、祝言は開かないのが当時の習わしでしたが、真田信繁は祝言を挙げたがり、母親である薫(山手殿)が猛反対します。
この機会を真田昌幸は室賀正武を成敗する好機として祝言を強行し、その宴にて見事、室賀正武を討ち果たします。
真田昌幸はこのとき「家来になれば許すが」と問いますが、室賀正武は「お主の家来にはならぬ」と答え、討たれました。
「父上、兄上??何故室賀殿が血だらけで縁側で息絶えているのですか??」
「信繁。室賀はわしを殺しにきたのだ」
「え???」
「それを父上が返り討ちにされた」
祝言を利用し、血で穢したことにもっとも怒り、泣いたのは真田信繁を慕っている「きり」でした。「ひどい!こんなことで祝言を血で汚すなんて…お梅ちゃん、信繁さん、あんたたちこんなんでいいの?大事な祝言を血で汚して…あんまりよ!」
「父上?兄上?」
「信繁、これが戦国ぞ」昌幸は諭すように言います。「これが戦国の世じゃ」と。
真田丸「第12話」のあらすじ
1584年、徳川家康は「小牧・長久手の戦い」豊臣秀吉に勝利します。
次に問題となるのは北条家との関係である。北条氏政は沼田城の問題で真田家と戦っている最中で、そのことで徳川家に助力を求めてきていた。
徳川家康に完全に不信感をもった真田昌幸は、またしても上杉景勝と手を結ぶことを決めたのである。
そこで上杉景勝は真田信繁を人質に出すように求めてくる。
真田信繁は矢沢三十郎を伴って春日山城に向かった。
そこで知った事実は上杉景勝がいかに義に厚い武将なのかということと、実質政治を取り仕切っているのは直江兼続であるということであった。
直江兼続は真田昌幸の本心を探ろうと、沼田城を上杉家に引き渡すようにと無理難題を突き付ける。
上杉景勝と真田信繁は漁民たちのもめ事を解決していく中で理解しあうようになり「お主のような子が欲しかった」と、上杉景勝に言わさせるまでになった。
これで沼田も小県も真田領として認めるという起請文を受け、真田家は本格的に徳川家と手切れとなり、上杉と手を結んだ。
「上杉は義の戦しかせぬ。上杉謙信公はよく弱きを助け強きを挫け!とおっしゃっていた」
「立派なお考えかと」信繁はいう。
「だが、もはや上杉には謙信公がいない…この景勝では謙信公と同じとはいかない」
「………」
「じゃが、上杉の義はけして滅びない!」
「その通り!」
「すべては義じゃぞ、信繁」
「ははっ!」
1585年、報復の為、徳川家康は7000の軍勢を上田城へ差し向けたため、上杉景勝は真田信繁が春日山城を離れて援軍として帰郷することを許す。
真田丸「第13話」のあらすじ
いよいよ第一次上田合戦(第1次上田城の戦い)が幕を開けます。
徳川軍は総大将に鳥居元忠、他に大久保忠世、平岩親吉という徳川二十四将の面々ら7000。
まずは神川まで進軍し、上田城の対岸に布陣しました。
真田昌幸は城下では大通りに乱杭を打ち込み、徳川勢の隊列を縦に長く伸ばす作戦に出ます。
そのとき、越後より真田信繁が戻り、布陣は理想通りとなりました。
ここで真田信繁は、初めて娘・すえと対面します。
真田信繁は、きりに伝えて、側室・梅から真田家の家紋である六文銭を受け取り、徳川勢を挑発して城下までおびき寄せる役を担いました。六文銭の旗を振り、高砂の歌で合戦が始まりました。うまく逃げて罠に誘い込む。そしてまた逃げて罠で徳川勢を罠の前までおびき寄せる。まさに天才軍師・真田昌幸の策でした。
作戦通り徳川勢の全軍が城下町に入り込み、隊列が細長くなったところを攻撃をします。
さらに二の丸まで迷路となっている道筋にて、鉄砲や矢で攻撃しました。
とどめは真田昌幸が率いる本隊が突撃し、徳川勢は撤退を開始。
戸石城からは真田信幸も追撃し、さらに出浦昌相が神川の流れを止めていた堰を切り、退却中の徳川勢は多くの犠牲者を出しました。
真田勢の大勝利で終わった戦でしたが、戦のさなか、梅が犠牲となってしまいました。
きりが、残された娘・すえを育てると、その亡骸に誓うのでありました・・。
「お梅!お梅―っ!」
信繁はお梅の遺体に泣いてすがります。
それを遠くでみていたキリも赤ん坊を抱いたまま号泣し、
「お梅ちゃん……この子は必ず私が立派に育てます!」と誓うのでした。


****
NHK大河ドラマ真田丸総集編第二章『表裏比興(ひきょう)』より
真田家は安房守の謀略でもっているようなものだった。
昌幸は徳川家康に従うふりをして海部淵(あまがふち)に城をつくらせる。
のちの上田城である。徳川家につくらせて真田家は次男の源次郎信繁(幸村)を上杉景勝の人質に出した。人質にいくまえに源次郎はお梅と祝言をあげたいといった。
源三郎信幸は「どこまでいっているのだ?」ときいた。
「どこまでとは?…なにをさしておっしゃっているのか…?」
「……く…口吸い……だろうなあ」
「それなのですがお梅の腹にはわしのややこがおりまする。」
「口吸いどころではないではないか!!お前はおとなしい顔をしてやることはやっておるのう。」
安房守は「腹にややこがいるなら祝言をあげるのは当然じゃあ!」と喜んだ。
だが、このお梅と源次郎信繁との祝言こそが謀略だった。
家康や本多信純に昌幸暗殺を耳打ちされた同じ国衆の室賀正武(むろが・まさたけ)を返り討ちにした。祝言でさそっての囲碁の刻での暗殺だった。
……ひどい!あんまりだわ。お梅ちゃんがかわいそう!
きりは泣いた。しばらくして、
源次郎信繁と源三郎信幸のふたりの息子は上田城から月を眺めながら感傷に浸った。
「兄上、わたしは不思議と室賀正武が暗殺されたとき、父上の謀略のすごさに感心してしまいました。怒りがなかった。……ですがそんなふうに思う自分が…好きになれません。…」
信繁は涙を流した。信幸は「悩め…悩め……われらは悩みながら走りに抜ける…以外には…道はない。悩め…源次郎。」
息子らは涙で月を眺めた。
越後の龍・上杉謙信の甥で、義理の息子の上杉景勝には「源次郎、お主のような息子を欲しかった」とまでいわれた。
だが、激怒する徳川方は上田城に七千の兵で攻めてきた。
真田は総勢で二千兵しかない。
だが、希代の名軍師・真田安房守昌幸は奇策縦横で謀略で徳川勢力を完膚なきまでに叩きつぶす。いわゆるこれが第一次上田合戦である。
だが、この合戦で、信繁は一度目の妻・お梅を失う。
お梅が戦死したのだ。「お梅-!お梅-!」信繁は遺骸にすがった。号泣した。
だが、時代はもはや羽柴筑前守……豊臣秀吉の世である。
あらゆる大名が関白豊臣秀吉の軍門に下った。
それは毛利家も島津家も上杉家もみんなそうである。
上杉家のつきそいとして信繁は大阪城にはいる。
ものすごい絢爛豪華で巨大な大阪城に圧倒された。
だが、源次郎信繁は冷遇された。
いよいよ徳川家康まで大阪城にいき秀吉に従うようになると真田安房守も考え出す。
「父上!すぐに大阪城にいき秀吉にあわれませ!」
「いや、源三郎!もっともっとねばって真田の値をつりあげるのじゃ!どうせ下につくならもっともっと真田の値段をつりあげて…」
するとばばさまがいう。
「人間は志が大事じゃ。志さえあれば生まれに遅いも早いもない。秀吉の下につくならめいいっぱい下手にでて、後で寝首をかく。人間は誠意が大事。じゃが、それ以上に謀略も大事。すべては策次第じゃ。策がなければ何も成らぬものぞ」
結局、真田安房守昌幸や息子の信幸は大阪城の秀吉に接見する。
だが、秀吉は安房守も甘く見ておいの秀次が接見した。
真田家は裏で激怒して、安房守は「わしは何処で間違った??!!何処で間違った?!教えてくれ!何処で間違った?!!」と狼狽した。
「父上は間違ってなどおりません!」
大谷刑部は大軍の徳川を破った安房守を“楠木正成の再来”と褒めた。
真田源次郎信繁(幸村)は秀吉に「殿下、……あの武勇に謀略に秀でた真田安房守を敵に回すのは得策ではありません」と恫喝する。
「ほう。…わしを恫喝するか。源次郎」
「はい。恫喝しまする。」
秀吉はにやりと笑った。「よかろう。安房守にあおう」
こうして真田家は豊臣家に従うことになった。
大河ドラマでは姉まつが出雲阿国の舞子になっていたのを見つけ、記憶喪失で、やがて記憶が戻り、まつが真田家へ帰ってくる設定だった。
だが、何にせよ、こうして真田家は豊臣勢力に従うことになった。



それからは羽柴(豊臣)秀吉の天下となり、豊臣配下で真田家は信州で臥薪嘗胆のような領地政治をします。
絢爛な大坂城や聚楽第で、豊臣秀吉は「わしが豊臣の秀吉じゃ」と笑顔でいう。
一同は平伏します。秀吉は家康にわしに従う芝居をしてくれと頼む。
秀吉にとっても真田は大事でしたが、一番気になるのはなんといっても徳川家康でした。
真田信幸は本多忠勝の娘・稲姫を正室に貰い受けます。
真田家が分水嶺のような運命の別れをされるのは秀吉亡き後の豊臣秀頼+淀君VS徳川家康の関ヶ原の戦いでありました。真田信繁(幸村)は大谷刑部の娘を正室にします。
真田信繁(真田幸村)は天下人となった豊臣秀吉の家臣となります。秀吉の正室は確かにねね(おねもしくは寧)ですが、天下人となった秀吉はさまざまな愛人を囲い、ついには信長の姪っ子の茶々(のちの淀君)を側室とします。真田は天下人に王手をかけた秀吉側につきます。徳川家康も秀吉側へ。後は奥州の伊達政宗と関東の北条氏政だけに。
当然ですが伊達政宗は豊臣秀吉の家臣となります。風見鶏ですから。
そして上杉景勝・直江兼続の上杉軍も徳川軍も毛利軍も伊達軍も北条攻めで秀吉軍は数十万の軍で北条軍の城を囲みます。本当の史実では軍師・黒田官兵衛が北条軍に和睦の使者としていくところですが、それは真田信繁(幸村)がいく。北条は小田原評定をするばかり。
結局は北条は白旗を上げて降伏、北条氏政は切腹、息子の氏直には出家の処分がくだります。茶々(浅井三姉妹の長女、次女が初、三女が徳川家康の正室になる江)は天下人となった豊臣秀吉の子供を孕みます。のちの秀頼の兄で夭折した鶴松です。
いままで秀吉の子供は誰もいませんでしたから年寄りの秀吉も寧も大喜びです。
ですが、茶々の子、鶴松は生まれて間もなく病死してしまいます。
秀吉の悲しみは大きかった。茶々も寧に抱擁され号泣します。
三成や加藤清正等が”水ごうり”で病気が治るように祈ったのが無駄になりました。
秀吉は千利休を切腹させ、朝鮮攻めを決行するなど狂っていきます。
秀吉は次第に認知症(ボケ)の症状が現れ出します。
真田信繁(幸村)らは寝小便をしたり、何度も同じ事を繰り返す秀吉に手を焼きます。
その課程で茶々(のちの淀君)は第二子を生みます。のちの秀頼です。秀吉はようやく出来た子供を喜びますが、やがて秀吉の最期が近づいてきます。秀吉は関白から太閤となって関白の座を譲っていた甥っ子の秀次に「日本を五つにわけてそのひとつを秀頼にくれぬか?」と頼みますが秀次は拒否。「…誰のおかげで…関白になれた?秀次!」
怒った秀吉は秀次やその一族を斬首の刑にします。その後、秀吉は上杉景勝と直江兼続に越後から会津百二十万石に転付して徳川家康を睨んでくれ、と頼むのです。
その後、秀吉は死んでしまいます。これこそ徳川家康が待ち望んだときでした。
秀吉在命中に五大老五奉行制度ができますが、徳川家康は次第に伊達政宗等と徒党を組み天下を狙います。石田三成は心底豊臣の味方でしたが、人望がなく、加藤清正、福島正則、黒田長政らに疎まれます。淀君も三成嫌い、でした。三成の盟友の大谷吉継はハンセン病でありながらも三成に挙兵を思いとどまるように説得しますが無駄でした。
関ヶ原の合戦は勃発してしまい、三成ら豊臣西軍は敗北します。
小早川秀秋の裏切りで、です。
いわゆる『犬伏の別れ』で、真田昌幸と信繁(幸村)は豊臣石田三成の西軍に。真田信幸は徳川家康東軍につきます。
結果はやはり、で、徳川家康東軍の勝利!これにより戦国最強と呼ばれた名軍師真田昌幸と信繁(幸村)は斬首になる筈でした。特にそれを望んだのは上田で散々討ちまかされた家康の息子・秀忠で、ありました。
ですが、真田信幸の嘆願で、昌幸・信繁親子と家臣は九度山に蟄居…となります。
九度山で数十年、昌幸は病死。その後、真田信繁(幸村)は大坂冬の陣、大坂夏の陣で、獅子奮迅の戦をして「日の本一の兵(つわもの)」と呼ばれあの家康をあと一歩で討死にするまで迫りますが不運かな討死して、まさに、伝説の男、と、なるのでした。
(大河ドラマ『真田丸』のネタバレから引用しました。真田丸ネタバレ引用は加筆しています。引用をお許しください。)








この記事をはてなブックマークに追加

小池新党・希望の党メッキはげる。自公と大連立で安倍首相退陣?後任は?

2017年10月03日 15時33分31秒 | 日記
































小池新党・希望の党のメッキが早くもはがれ始めた。

希望の党は民進党のコスプレでしかない。

希望の党が民進党を取り込んだのはひと(政治立候補者)とカネ(民進党の約100億円の政党交付金)なだけ。

小池さんが出馬しなければ政権交代選挙にならない。

小池さんは今回は衆議院選挙に出馬しないだろう。次の次の衆議院選挙でしかない。

小池さんは大統領級の地位の都知事のポストを投げ出さない筈。

都知事で実績を積んでからの出馬……チャンスがあればそのときの女性初の首相でしかない。

だが、自民党が圧勝すれば安倍独裁安倍傲慢が継続してしまう。

希望の党は100議席は獲り自公と大連立で、安倍首相は辞任し、後任は誰か?というシナリオだ。

野党はいまだに脆弱で、希望の党とか維新の党は野合……かなしいかなやはり自民党は組織票がすごい。

あくまで民主党・民進党・立憲民主党はやはり不幸だ。

そこには選挙対策ありきで、国家戦略も国家策略も何もない。

政治家は選挙で勝つことしか考えないし、官僚は利権ありき。誰も日本国家の戦略など頭にない。

こんなに空しいかなしい国家もない。

また、脱原発だ。ポピュリズムでしかない。

所詮はすべて政局であり、戦略がない。

日本人としてこんなにむなしい国家もない。高学歴・よい家柄だけ。

こんな国では駄目だ。谷内正太郎では軍師に足りないことすらわかってない。すべて政局ありき、だ。かなしいね。


緑川鷲羽改め上杉(長尾)景虎 2017/10/03

この記事をはてなブックマークに追加

命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説1

2017年10月01日 17時29分39秒 | 日記
































小説

命のヴィザ~杉原千畝物語~



                 命のヴィザでユダヤ人6千人(20万人)を救う!
                          
                     今だからこそ、杉原千畝の決断!
                    total-produced&presented& written by
                    UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎



  明日何をなすべきか知らないひとは不幸である。
                  ゴーリキー



  this novel is a dramatic interoretation
  of events and characters based on public
  sources and an in complete historical record.
  some scenes and events are presented as
  composites or have been hypothesized or condensed.

……この物語は、実話をもとにしたフィクションです。ご了承ください。……




この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎   臥竜




         命のヴィザ あらすじ


  杉原千畝氏は明治三十三年(1900年)岐阜県八百津町に生まれた。父親は医者になってほしいと願うが、千畝は拒否し、英語教師となるために早稲田大学に進学。しかし、両親からの仕送りもなく厳しい生活になる。そんな中、新聞で語学留学の記事を発見。千畝は試験を受け、合格し、三年間中国満州ハルビンでロシア語を学ぶ。その後、外務省書記生として就任。六年後、満州事変勃発。帝国日本は傀儡国家・満州国成立を成立させる。 ロシア語を生かして、杉原千畝はロシア人たちと交渉していく。しかし、千畝は憤る。”日本人は中国人を同じ人間だと思っていない。それが許せなかったんだ…”
 その不満で、千畝は外務省を辞官、日本に帰国。そして、妻となる幸子さんと出会い、結婚。1939年、杉原一家はリトアニアのカウサスへ赴任する。当時、ナチスドイツとソ連は不可侵条約を結んでいた。リトアニアは事実上、ソ連の影響下にあった。
 ナチスのヒトラーはユダヤ人たちを次々と虐殺していく。収容所、ガス、射殺…。そんな中、ナチスの迫害から逃れようと何百人ものユダヤ人たちが杉原のいる日本領事館へ。 当時、日本とドイツは同盟を結んでおり、ソ連のシベリア鉄道経由で日本にいき、そこから世界に逃亡しようという考えでユダヤ人たちは集まった。杉原千畝に通過ヴィザをもらうために。命のヴィザを。しかし、千畝は日本政府から「ヴィザを発行するな」といわれていた。ドイツに配慮したらしい。しかし、杉原千畝は人間として、ユダヤ人たちに通過ヴィザを発行していく。こうして、千畝のおかげで六千人のユダヤ人たちが救われる。 しかし、当時、日本外務省は千畝の功績を認めず、彼をクビにまでする。千畝は様々な仕事を転々とし、やがて病の床につく。そして、亡くなる。杉原千畝の功績が認められたのは、皮肉にも彼の死後のことであった。
                                   おわり


  1940年7月29日、杉原千畝は六千人ものユダヤ人たちに「命のヴィザ」を発給し、人間として功績を残した。日本政府から「ヴィザを発行するな」といわれていたが、杉原千畝は人間として、ユダヤ人たちに通過ヴィザを発行していく。こうして、千畝のおかげで六千人のユダヤ人たちが救われる。この物語は、無私に殉じた杉原氏のきらきらとした輝かしい人間的小説である。




 第一部 スピリット



****
映画『杉原千畝スギハラチウネ』(2015年)より引用します。
杉原千畝さんの感動的な実話を述べる前に2016年11月19日(土曜日)の杉原千畝さん(故人)の奥さん幸子(ゆきこ)さん(故人)の遺言が裁判で無効になった話をします。
何故なら小説のあとに読むと不快だから。これは外交官杉原千畝(ちうね1900~1986年)の妻の幸子さん(故人)の遺言をめぐり、四男が長男の妻と子供2人の遺言の無効認否を求めた訴訟で、東京地裁(関根利夫裁判官)は、17日、請求通り無効だと認めた。
千畝氏の妻が入院していた2001年12月公証人が作成。千畝氏の遺産など全財産を長男の子供に相続させ、長男の妻が遺言内容を執行する内容。長男の妻と子2人は、NPO法人「杉原千畝命のビザ」の役員をつとめる。遺言書作成のときに、千畝氏の妻は意識障害があり、遺言をつくる能力がないと裁判で認めた。

 昭和30年日本東京(1955 Tokyo Japan)外務省。
あるユダヤ人のひとが外務省の官僚に「センポ・スギハラについてききたい。」と尋ねていた。勿論英語で。だが、外務官僚は「センポ?そのようなひとは日本の外務省にはいませんよ」と英語で応えた。
「そんな筈はない!センポ・スギハラさんだ。」
「ですからセンポさんなどという名前のひとは外務相には今も昔もいませんよ。」
「しかし、わたしたちはセンポさんにたすけられた」
「たすけられた?」
「そうです。センポ・スギハラがわたしたちに日本通過のビザを発給してくれてナチスのユダヤ人狩りやホロコースト(ナチスのユダヤ人大虐殺)から救ってくれた」
「何かの間違いではないのか?センポなどという名前は聞いたことがない」
「では…我々がリトアニアであった日本人は誰だったのか…?」
「う~ん。知らないですね。」
「何故隠すのか?ドイツに気を遣っているのか?」
「いいえ。そのような。」
「我々は命をすくわれた。われわれは忘れない。たとえ世界中が忘れたとしても…」
「お引き取りください。」
ユダヤ人は去った。
そうである。杉原千畝さんは自分の名前が「千畝・チウネ」では発音しづらいだろうからと杉原千畝センポ・スギハラと当時名乗っていたのだ。
よって外務省がわからないのも無理はなかった。
ユダヤ人六千人の命をすくった(子孫を含めると二十万人)杉原千畝氏………

 昭和9年満州国(1934 MANCHURIA)シベリアの雪原をシベリア鉄道が走る。ソ連のKGBは銃を持ち誰かを探していた。それが杉原千畝だった。列車内で千畝を見つけるがおんなスパイ・イリーナが酒瓶で頭を殴ってKGB男たちを気絶させた。
「センキュー、イリーナ!」
「オウライ、センポ。」
杉原千畝は金髪の白人女性イリーナに礼を言った。
この頃はソ連の動向が気になるとソ連の動向をスパイしていた。
それからしばらくのこと、
満州国ハルビン(哈爾浜)(HARBIN MANNCHURIA)では杉原千畝が大日本帝国関東軍少尉・南川鉄吾と話していた。哈爾浜駅であった。
少尉は言う。
「明治維新以来、日本の仮想敵国はロシア……現在のソ連だ」
「そうですね」
「あなたは十四歳のときから外交官としてキャリアを積んでいる。あなたなら変えられる」
「……。」
「次はいよいよモスクワ栄転ですなあ」
「しかし、本当にドイツでなくていいのですか?」
「関東軍もドイツではなくソ連が日本にくると…日本を侵略すると思っている」
「日ソ不可侵条約を無視するでしょうな」
「だからこそ君に頑張ってもらいたいのだ」
「ご買いかぶりが過ぎましょう」
「まあ、頑張りたまえ。」
 南川は去った。
入れ替わりでイリーナがくる。粉雪の舞う冬で杉原もイリーナもコートを着ている。
「ソ連が出来てわたしのふるさとのロシアが消えた。これが最期のチャンスよ。」
「では?」
「ロシア人達は日本に攻め込んで鉄くずを日本に売りつける気だわ。」
「日ソ不可侵条約は?」
「そんなもの無視する連中だってわからない?」
「いや。多分、そうだろうと。」
そんなとき、KGBスパイたちがコート姿で銃を構えて迫ってきた。
「手を挙げろ!センポ・スギハラ!」
ロシア語で言った。手を挙げるふたり。
だが、「そこまでだ!」と日本語のあと、関東軍兵士が銃でKGBスパイ達を一掃した。
つまり、銃殺した。南川少尉は「杉原さん、関東軍はあなたを守る義務がある。外交官は国の宝だ。」という。「皆殺しにしろ」銃声が響く。
イリーナはKGBのスパイの中に少年兵がいるので動揺した。銃殺されて息絶えていた。
彼女はその遺骸を抱きかかえると「…酷い。人殺し…。」と言った。
 満州国外務部・満州国外交部次長 大橋忠一に杉原千畝は辞表を提出した。
大橋は「杉原さん。辞めてどうする気ですか?」
「もう殺し合いは見たくないんです」
「でも、今は非常時であるから。軍部も五月蠅い訳でして。支那事変や中国との内戦もあるのですし。」
「体のいい侵略でしょう。」
「しかし、軍部には逆らえない。ロシアは1億700万円なら日ソ和平にのると。」
「では、わたくし杉原千畝はペルソナ・ノン・グラータ(好ましくない人物・ドイツ語)ですな」
「辞表の本当のわけをききましょうか?」
「わたしがこの満州で動いたのはそれが日本国がよくなると思ったからです。ですが、今の満州は関東軍の為の満州(中国東北部の日本の植民地)です。わたしは関東軍のために働きたくありませんし。」
「なら関わらなければよい」
「そうなると軍部からの嫌がらせがあるのです」
「では、日本に戻りたまえ。外交官は辞めなくてもいいだろう?辞表はなかったことにしてやるよ。」
大橋は杉原の辞表をびりりとやぶり捨てた。
話を戻す。




   ヒトラー



  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。
 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。
 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。
 そして、”宣伝”という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。
 しかし、それはまだ先の話しだ。
 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。
「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。
 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!
 ヒトラーは屈折していく。
 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部”己のため”である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。
 そして、ヒトラーは”武装蜂起”を考えた。
 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……
 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。
 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。
 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!
 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!
  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。
 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。
 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。
 ヒトラーは意を決する。
「よし、”武装蜂起”だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。
 ナチスは人々に”今日と明日のパン”を約束した。輝かしい未来、”ドイツ第三帝国”をも……人々の飢餓に訴えたのである。
 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。
「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」
「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」
「売国奴! 楽隊、”ホルスト・ヴェッセル”をやれ!」
「ナチスを黙らせろ! 楽隊”インター・ナショナル”だ!」
 まさにカオス状態だった。
 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。
「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。
 ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」
「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」
「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。”今日と明日のパン””輝かしい未来”をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」
 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」
「うむ」
「まず、人間の”値札”に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「”値札”とは人間のそれぞれのもつ欲求です」
「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。
「そうです。ある人間にとっては”金”でしょうし、また”正義感”、”名誉”、”地位”、”女””豪邸”……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」
 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。
 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。
「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」
 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。
 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。



 <ウィキペディアからの引用>
すぎはら ちうね
杉原千畝

外交官時代の杉原
生誕 1900年(明治33年)1月1日
岐阜県加茂郡八百津町
死没 1986年(昭和61年)7月31日(満86歳没)
神奈川県鎌倉市
墓地 鎌倉霊園(29区5側)
住居 神奈川県鎌倉市西鎌倉
国籍 日本の旗 日本
別名 Sempo Sugihara(外国人にも発音しやすいとの配慮から「千畝」を「センポ」と有職読み)
出身校 早稲田大学高等師範部英語科予科中退
日露協会学校特修科修了
職業 外務省職員(1924年-1947年)、駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理(1939年-1940年)
著名な実績 リトアニアでユダヤ人を中心とした6000人の避難民にビザ発給
宗教 キリスト教 日本ハリストス正教会
配偶者 杉原幸子
子供 杉原弘樹、千暁、晴生、伸生(存命)
受賞 諸国民の中の正義の人(1985年)、ポーランド復興勲章(2008年)
生涯[編集]
外交官になるまで[編集]
1900年(明治33年)1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。「千畝」という名前は、人名としては極めてユニークな名前だが、税務署の職員だった父の赴任地・武儀郡では千枚田や棚田を意味する「千畝」という地名が実際に存在し、杉原の故郷付近の景観から連想した命名であろうというのが一般的見解である。千畝の家系は、元々は士族の流れをくむ「岩井」姓だったが、絶家となった名門・杉原清家を再興するために、父の代から杉原姓に変わったという。
1912年(明治45年)、古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学。同校卒業後、当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」(みつごろう)であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある。
しかし、医者になるのが嫌だった千畝は、京城医専の試験では「白紙答案を提出」して「弁当だけ食べて帰宅」した。当初、英語を学び「英語の教師になるつもりだった」千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。「ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで」登校していた逸話が残る。千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間」(ドイツ語で“Spinner”)と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していた。
父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、法学・経済・国際法から外国語二ヵ国語という具合に旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。千畝は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」するなど猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」の英文和訳等の難問を制して合格。
ハルビン学院と満洲国外交部[編集]
1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。この官費留学生の募集で、英独仏語の講習生募集は行われなかった。ロシア語選択は当初の千畝の選択ではなく、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたものである。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。当時の千畝は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという。
1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)。最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科修了。特にロシア語は非常に堪能で、満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙付きの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。1930年(昭和5年)にハルビン学院を卒業する佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りのソ連の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する、青年教師・千畝を回顧している。母校の教師として、千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済及び時事情勢などの講義を担当した。佐藤は、「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している。
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、
「本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞?に付す」
【現代語訳=この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します】

という高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。
1932年(昭和7年)、3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が見られる。
ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。
この受洗は、結婚に際してにわかに思いついたことではなく、早稲田大学の学生時代、千畝は、後の早稲田教会となる早稲田奉仕園の信交協会に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。
このハルビン在職期に杉原は、有名なシモン・カスペ(英語版)殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。
かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。
満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡った時と同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と、千畝は述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。
独ソ戦迫るヨーロッパへ[編集]

カウナスに残る旧日本公使館
1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。
日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられ、そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった。
ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令が発令された事実を突き止めた渡辺勝正は、これが、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるとしている。
1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。
その任務の具体的内容は、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都でした。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。

1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分

日本人がまったくいないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味を持った地元紙は、早速領事館に取材を申し込み、「日本はどんな国」という見出しで特集を組んだ。杉原一家の写真付きで紹介された特集記事で、「日本では各家庭に風呂があって、毎日入浴するっていうのは本当?」「日本の女性の家庭での地位は?」といった質問に千畝は一つ一つ生真面目に答え、ステポナス・カイリースの『日本論』(全3巻)以来のちょっとした日本ブームを引き起こした。
さて、千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。その訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものであった。
「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」
【現代語訳=貴殿(山路総領事)が発信した第39号(請訓電報)に関し、陸海軍及び内務各省と協議の結果、「ドイツおよびイタリアにおいて排斥を受け、外国に避難する者をわが国に受け入れることは、大局上よろしくないのみならず、現在事変(日中戦争)下にあるわが国では、これらの避難民を収容する余地はないのが実情なので、今後はこの種の避難民(外部に対しては単に『避難民』の名義とすること。実際はユダヤ人避難民を意味する。)のわが国内地(本土)ならびに各植民地への入国は好ましくない。(ただし、通過はこの限りでない。)」とすることで意見が一致した。】

近衛外務大臣から在外公館長への訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」(昭和13年10月7日付)

上掲の訓命では、ユダヤ人差別が外部に露見すると海外から非難を受けることは必至なので、「外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓を外部に公表しないことを念を押し、ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである。
「命のビザ」[編集]

杉原領事代理による手書きのビザ
ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。グットヴィルトは、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディク(オランダ語版)に出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年(昭和15年)5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けて、ナチス共鳴者のティルマンス博士に代わりカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクはグットヴィルトらの国外脱出に協力を約束し、6月末グットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクに対して、この件について相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んでくれた。
ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインの付いたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだのである。ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。
1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。
ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。杉原は情報収集の必要上亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビーザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。
杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。
日本では神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、杉原はビザ発給の理由を説明している。
杉原の独断によるビザ発給に対する本省の非難は、以下のようなものであった。
「最近貴館査證ノ本邦經由米加行『リスアニア』人中携帶金僅少ノ爲又行先國手續未濟ノ爲本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ處置ニ困リ居ル事例アルニ附避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ對シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滯在費等ノ相當ノ携帶金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル樣御取計アリタシ」
【現代語訳=最近カウナスの領事館から日本を経由してアメリカ・カナダに行こうとするリトアニア人のなかには、必要なお金を持っていなかったり行先国の手続きが済んでいなかったりなどの理由で、わが国への上陸を許可できずその処置に困ることがあります。避難民と見なしうる者に関しては、行先国の入国手続きを完了し、旅費・滞在費等に相当する携帯金を持っている者でなければビザを与えないよう取りはからって下さい】

1940年8月16日付の本省から杉原の独断によるビザ発給を非難する電信

1995年(平成7年)7月12日、日本外交とユダヤ関連の著者パメラ・サカモトが松岡洋右外相の秘書官だった加瀬俊一に千畝のカウナスからの電信について問い合わせてみても、「ユダヤ問題に関する電信を覚えていなかった。『基本的に、当時は他の切迫した問題がたくさんありましたから』」と加瀬は答えており、東京の本省は条件不備の難民やユダヤ人の問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟を締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んで来たことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省は怒りも露わにし、さらに翌年も「『カウナス』本邦領事ノ査證」(2月25日付)云々と、千畝は名指しで厳しく叱責された。
窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対するビザ発給の可否を問い合わせる。つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系工業家」をあえて採り上げるのである。
そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖した後になって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させた上で当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化した。
一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。手を痛めた千畝を気遣い、杉原がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」こと、ダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。
領事館閉鎖後の避難民[編集]
Stamps of Lithuania, 2004-16.jpg
日本領事館の閉鎖日が近づくとともに、作業の効率化のため千畝は途中から記録するのを止めてしまい、規定の手数料を徴収することも忘れていた。実際には、記録に残っているビザ以外にもビザや渡航証明書が発給されているが、記録外の実数は把握できない。また、一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。
1941年(昭和16年)に入り、独ソ戦が目前になると、ドイツとソ連に分割された東欧のユダヤ人の運命はさらに過酷なものになり、ヒトラーとスターリンに挟撃されて右往左往する他はなかった。モスクワの日本大使館にも日本通過ビザを求める難民たちが殺到し、駐ソ大使・建川美次は、その惨状を1941年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。
「彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ囘答ノ不信ヲ泣訴終日號泣シテ立去ラル者アリ」
(難民たちには家もなく、帰るところもなく、助けて下さいと訴え、一日中泣いて大使館から立ち去ろうとしません)

独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民たちも、すべてがシベリア鉄道で極東までたどり着けたわけではなかった。当時ソ連は外貨不足に悩んでおり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社「インツーリスト」に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。乗車券は当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着のままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。


この記事をはてなブックマークに追加

小池新党・希望の党で『平成維新』”見えない身分””見えないしがらみ”からの脱却

2017年09月28日 19時04分38秒 | 日記

























         小池新党・希望の党で『平成維新』”見えない身分””見えないしがらみ”からの脱却





 まあ、ここでただブログに書くだけだと、また安倍晋三首相に「立派な文章でも紙に印字するだけなら誰だってできる」「あのひとは統合失調症(だから無用だから役に立たない)だ」

 と嫌みをいわれそうだが、別にわたしは漫画みたいな文章だけがうまくて他人とまともに話せないとか、そんな馬鹿ではない。文章を読めば「まとも」だとわかるはず。

 諸経費や交通費や飯代くらい払ってもらえれば東京でも地元でも応援演説にいこうじゃないか。

 ただ、わたしのスタンスを説明するとあくまで国会議員や県会議員や市議会議員とかには絶対にならない。

 米沢市長選挙は将来に出るが、それ以外はない。”民間登用の外交専任アドバイザー”である。

 だが、わたしがいくら「国の為道の為」「民間登用の外交専任アドバイザー」として登用してほしいと安倍政権にいっても前述したことをいって安倍政権はわたしを馬鹿扱いしただけ。まあ、小池さんの新政府なら違うかというと同じ事だろうが(笑)この国は高学歴かいい家柄でなければ政治家にも軍師にも登用されない。そういう国だ。

 そして何故そうなるのか?といえばこの国には”見えない身分””見えないしがらみ”があるからである。

 ”見えない身分””見えないしがらみ”といえばひとつは『性別』である。

 この国は本当に男女平等だろうか?男性より女性の方が損をする社会形態ではないか?この国では男性より優れた女性がいても出世できない。登用されない。そういう女性が馬鹿をみるような”見えない身分”があるのではないか?

 ”見えない身分””見えないしがらみ”のふたつは『年齢』である。

 この国は老人や若者に優しい社会形態だろうか?

「あなたはおばあさんだから、あなたはおじいさんだからいらない」「あなたは若いからわからない。黙れ!」

 この国は年齢における差別がないだろうか?年齢による差別”見えない身分”がある限り維新も改革もならない。

 ”見えない身分””見えないしがらみ”のみっつは『学歴』である。

 この国では大学を卒業したものが勝者で、高卒や専門学校卒業とか短大卒の人間は無碍(むげ)に扱われるのでは?

 どんなに才能があっても大学を出ていないと「じゃあ、GSで」「じゃあ、工場で」といわれ、「事務職もうやっていない」と嘘をつかれるのではないか?高学歴であることが何よりも優先され、”見えない身分”がなければ一生工場で単純作業をさせられるのではないか?大事な要職に登用されないのではないか?

 ”見えない身分””見えないしがらみ”の四つは『病気・障害』ではないか?

 この国では病気の人間への障害者への差別がないだろうか?ちょうどわたしが安倍晋三の粛正された理由も、

「あのひとは統合失調症だ(から無用・役に立たない)(笑)」であり、がんとか認知症とか障害とか、”見えないしがらみ”だらけではないのか?

 このような”見えない身分””見えないしがらみ”から我々は自由になるべきだ!”見えない身分”を改革によってクリアーして解消し、安倍晋三独裁とは違う小池百合子さんの新政権で是非とも『平成維新』『新世紀維新』を成し遂げよう!今こそ戦略と策略でこの国をよい方向に変えよう!!!!いまこそ小池さんによる維新・変革のときだ!

 今度こそ”見えない身分””見えないしがらみ”から脱却しよう!安倍独裁からの”見えない身分””見えないしがらみ”からの脱却!女性初の小池百合子首相を実現させ、いまこそこの国の維新を!希望の国まであとすこし!

 レッツ・ドゥ・イット(さあ、やろう!)!!!!!!!


 上杉(長尾)景虎 *緑川鷲羽改め

2017/09/28

この記事をはてなブックマークに追加

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説1

2017年09月24日 07時07分44秒 | 日記



























小説「紅蓮の炎<真田丸>真田幸村幻勇伝  ー花の真田幸村(信繁)烈伝ー」

    かぶき者のススメ
―大坂夏の陣に散った赤いバサラ武者―
              
               ~天才武士、真田幸村公…
                 「真田の武功」はいかにしてなったか。~
                 真田幸村の生涯
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  UESUGI KAGETORA
                   上杉(長尾) 景虎

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

Inspered by a true story.
故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』を参考文献としている作品です。「文章や話の流れが似ている」=「盗作」ではなく、「盗作」ではなくあくまで「引用」です。
       この物語を故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』製作に関わったすべての漢たちに捧げる。
       上杉(長尾)景虎 2014年度初春執筆より

この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。上杉(長尾)景虎   臥竜

          あらすじ

  真田幸村(信繁)は永禄十年、信州上田城主・真田(当時武藤)昌幸の次男として生まれる。幼名・弁丸。やがて上杉家、武田家、豊臣秀吉・秀頼に仕える。
 十八歳のときに景勝と景虎との御館の乱をみる。以後、景勝を慕い、師弟関係へ。謙信が死ぬと、養子の景勝を補佐して『お館の乱』を勝利に導く。が、信長の勢いにおされる。奇跡が起こる。本能寺の変で信長が死んだのだ。その後、秀吉に従い、そして家康と対立……が、『関ケ原の戦』で上杉は米沢転封に。景勝とともに名門・上杉家を支えた慶次だったが、上杉の安泰を見守ると、死んだ。一方、関ヶ原の際、父親の昌幸とともに幸村は秀忠軍に戦をしかけたとして、高野山に幽閉され、父が死去……十四年後の大坂冬の陣に「豊臣家のために」大坂城に参陣、真田丸で勇猛果敢な働きをする。だが、利は徳川にあり、和睦停戦の条件である外堀どころか内堀まで大坂城は埋められ文字通り大坂城は『ハダカ城』に。翌年の大坂夏の陣で、たった数騎で幸村隊は家康本陣に突入するも、戦死、大坂城は炎に包まれ、秀頼と淀君の自決で、豊臣は滅び、天下は徳川のものとなった。
                             あらすじ  おわり

ちなみに2016年NHK大河ドラマは三谷幸喜脚本の真田幸村が主人公のドラマ『真田丸』である。この著作をものしている過程でニュースで知ったが、いかにも好都合である。2016年に放送されたNHK大河ドラマ「真田丸」主人公の戦国武将・真田幸村役を、俳優の堺雅人さん(40)が演じたが、「真田丸」は三谷幸喜さんが「新選組!」(04年)以来2度目の脚本を担当した。堺さんは過去「新選組!」、「篤姫」(08年)と2本の大河ドラマに出演している。狙っていた訳ではない。が、時勢とタイミングがあって何よりである。大河ドラマの参考文献としてお読みくだされ。


         1 関ヶ原の役・信州上田城VS徳川秀忠


「治部(じぶ・三成)、おぬしには人望がない。おぬしが総大将ではどんな大軍でも負け戦じゃ。ここは大将を毛利安芸中納言輝元公(もうり・あき・ちゅなごん・てるもと)に、副将に宇喜多備前宰相秀家(うきた・びぜんさいしょう・ひでいえ)さまとして立てて、おぬしは裏方にまわるのじゃ。さもなくば諸将はついてはこないだろう」
「刑部(ぎよぶ、吉継)、得心した!」
慶長五年(一六○○年)、打倒徳川家康を掲げて石田三成(治部少輔・じぶのしょう)が挙兵し、大谷吉継(刑部少輔・ぎょうぶのしょう)は何度も止めるが、三成の意思がかたく、上杉の宰相・直江兼続や上杉景勝と同調していることがわかると、病身をおして荷担する決意をする。同時に、三成に厳しくも的確な助言をしたといわれています。
「この戦はもともと負けのようなものかも知れない」
慶長五年九月十五日未明、関ヶ原では石田三成が布陣していた。
同じく山中村の陣所で、ほとんど失明の大谷吉継は開戦前のひんやりとした戦場の空気をひしひしと感じていた。輿(こし)に座り、頭巾の中でつぶやいた。
…太閤殿下のもとでわしと佐吉(石田三成)は奉行として何度も大軍を動員して兵站(へいたん)をうまく動かして勝ち続けた。今回も内府・徳川家康の軍勢を上回る軍勢を集めた。されど…。戦は数よりも士気である。三成はわかっているはずだろうが。
三成は笹尾山に陣をはっている。…佐吉、おぬしのくやしさはわかる。わしらは私利私欲なくすべては豊臣家の為に骨を折ってきた。太閤殿下が亡き後も秀頼さまや豊臣政権のもと豊臣政権で天下太平を夢見た。だが、それをよこしまな心で奪ったのは家康じゃ。家康が居る限りいずれ豊臣はおわる。家康を倒さねば天下太平はない。我らが目指すのは徳川の私するものにあらず。
「備え怠るな!下知を待て!」霧が薄れゆく中、吉継の声が戦場に響いた。
(ちなみに大谷吉継が茶に膿をおとして石田三成がその茶を平然と飲み込んで二人の盟友関係が深まった、というような話は後世にふたりの深い関係を表現するための創作であるそうです。そういう話が創られるほど盟友関係だった、ということです。)
(関ヶ原の前に三成に佐和山に呼ばれ、一度陣をはる垂井(たるい)に戻り、東西軍のどちらの軍につくか深く迷い、葛藤した末、また佐和山にいくのです。大谷吉継はどちらかというと家康を評価していたが、三成がすべてにおいて豊臣政権に殉ずる覚悟であると知ると、その一途な至誠に負けて「(竹馬の友の)三成に命を殉ずる」と至ったそうです。)

石田三成が近江長浜城の城主時代の秀吉に仕えたのが、天正二年(一五七四年)頃、十五歳だったそうです。三成より一歳年上の大谷吉継が使えたのも同時期である。三成の父・正継(まさつぐ)は近江石田村の土豪ですが、大谷吉継の詳しい出自はわかっていません。諸説あるそうですが同じ近江の大谷村(現・小谷)出身ではないか、とのことです。
天正五年頃になると織田信長の命令で秀吉は播磨姫路城を拠点に中国攻めに着手し、その頃、秀吉の馬廻りとして加藤清正や福島正則らとともに太谷平馬(へいま)と名乗っていた吉継が歴史上にでてきます。三成も近習(きんじゅう)としてでてきます。初陣もこの頃でしょう。
三成の出自は不明な点が多いのですが、研究によって三成は永禄三年(一五六○年)、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)で石田正継の次男として生まれたことがわかりました。正継は太谷城主・浅井長政に仕えた人物です。
少年時代の三成は寺小姓。勉強熱心だったらしい。どの寺かはわかりませんが。説は2つ。石田村の隣村にある大原寺観音寺(現・滋賀県米原(まいばら)市朝日)と、母親の出身地にある法華寺三珠院(ほっけじさんじゅいん 現・滋賀県長浜市)。三成の生家との距離から、観音寺の説が有力だそうです。三成と吉継。ふたりの共通点は多く、近江出身であり、歳も近く、有能な官僚タイプの秀吉の小姓であり、かつ、秀吉の天下取り、戦国の世を終わらせるという使命も同じ。太閤検地(刀狩り・検地・通貨の統一)など辣腕でもあった。反面、まっすぐでな性格で理屈と論理で理論攻めの三成に対し、吉継はうまく三成を軌道修正した。視野が広く、世間慣れした吉継は、周囲との軋轢を生む懇切でない三成に適切な助言をした。「計画・理論・策略」の三成と、「人望・親切・実行役」の吉継、このふたりがいてこその豊臣政権でした。そこに真田幸村こと信繁や直江兼続や伊達政宗など集う訳です。秀吉をして「百万の軍を預けてみたい」と語ったといわれる太谷吉継ですが、確かに人望もありかなり立派な人格者であったようです。
また石田三成が人望がなく、冷血漢というのは徳川時代の創作であるそうです。
確かに人望はありませんが、冷血漢でひとをゴミのように扱い、「馬鹿と話していると疲れる」とか「利休め。おとなしく謝れば許したものを。我を張りよった。」と冷笑する。
そんな事実はなく、徳川時代の創作であるそうです。
それほど徳川からしたら石田三成はおそろしい人物だったのでしょう。
石田三成は義のひとでした。当然、人格者であり豊臣政権の優秀な官僚であるのです。ですが、残念ですが人望がない。人望がないんですよね。優秀で頭は切れるんですが嫌われる人物なんです。それで関ヶ原でも裏切られて負けてしまったんですが(笑)


史料によれば、三成は天正二年(一五七四年)に秀吉に仕官したそうです。
天正元年(一五七三年)に三成の父親が仕官していた浅井家が滅びて、その旧領を秀吉が受け継ぎました。当時は秀吉は卑しい一塊の百姓上がりの秀吉であり、子飼いの家臣や重臣などいませんでした。
だから、旧浅井家の家臣を自分の家臣にして強固な家臣団をつくろうとしたのです。
叩き上げの人物の特徴ですが、秀吉は百姓上がりの人物とか卑しい身分の人物を雇わないし信用しません。雇うのはいまでゆう学歴エリート(身分のしっかりしたどこぞかの大名の家臣)とか側室はどこぞかの姫君ばかり。いまでゆう「学歴コンプレックス」でした。
だから、自分と同じように百姓上がりから出世して大名になることまで禁止する訳です。
いいひとでひとたらしなんだけど狭量で、いまでゆう「学歴(家柄)コンプレックス」…
政治家で言うと安倍晋三みたいな(笑)信じるのは学歴エリートと立派な家柄の役人や一流大卒の官僚の言葉のみ。安倍晋三と秀吉とはそういう男でした。





 大きく天下が動き始めた。
太閤秀吉の死(一五九八年)、盟友・前田利家の死(一五九九年)から時代は、慶長五年(一六〇〇)陰暦八月、いよいよもって大人物・徳川家康が『会津の上杉征伐』と称して福島正則、黒田長政など豊臣恩顧の大名団隊数十万の兵を率いて動いた。信州(現在の長野県)上田城の真田安房守昌幸(さなだ・あわのかみ・まさゆき)、真田左衛門佐幸村(さなだ・さえもんのすけ・ゆきむら(信繁・のぶしげ))父子の手元に、生々しい情報が次々ともたらされた。幸村の眸(ひとみ)が輝いて心が躍った。かねて放っていた物見たちが、まるで白い風のように秋風に吹き寄せられるように、一人、またひとりと城に舞い戻っていく。それにつれて次第に徳川方の情勢が明らかになっていった。
 彼ら物見衆は、琵琶を背負った語り法師、一管の尺八を腰にした梵論字(ぼろんじ・虚無僧・こむそう)などに姿を変えているが、いずれも安房守昌幸の鑑識(めがね)にかなった心利いた者ばかりであり、その情報収集能力は高く、情報の精度も高いのである。
さすがにフィクションの真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵など)は存在しないし、漫画やアニメや映画のように空を飛んだり、木々の枝間を駆けることは出来ない。
忍びといえど所詮人間である。漫画と一緒にしないでください。
「そうか。うむ、成程、成程…」
安房守昌幸は忍びから情報を得て分析し、戦略を練るのである。戦国時代にはこうした情報収集と要人警護、要人暗殺を職とした忍びの者(いわゆる間者)が存在した。
だが、現在の日本政府にはこの間者のような(つまりCIAやモサドのようなスパイ)組織がない。内調(内閣調査室)やNSC(国家安全保障会議)があるではないか、というひともいるかも知れない。だが、内調にしても日本のNSCメンバーにしても全員顔はバレバレで、只の高学歴のお坊ちゃんお嬢ちゃんなだけで、戦略どころかまともに行動も出来ない。
私上杉景虎の出来る事の半分も出来ない『学歴エリート』なだけの、残念なひとたちだ。
情報がなければ戦略の立てようがない。プロ野球やサッカーでもまめに情報収集や情報分析をやっているのに、彼らは、高学歴なら何でも出来る、と勘違いしている。馬鹿だ。
話がそれた。去る七月。豊臣政権の大老徳川家康は、奥州会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、野州小山宿(やしゅう・おやましゅく・栃木県小山市)まで北上着陣した。
 実は昌幸、幸村父子もこの時、動員に応じ将兵八百余を率いて、上田から野州犬伏宿(いぬふししゅく・佐野市)へと着陣、長男の伊豆守信幸(のちに信之と改名)も、居城の上州沼田城に、一足先に着陣していた。
 そこに石田三成からの密書が届いて、真田家の運命が思わぬところへと急旋回した。すなわち、三成は家康討伐の挙兵への参加をもとめたものであった。
(やはり三成殿が動くか!)
安房守昌幸は、ただちに、長男の伊豆守信幸(いずのかみ・のぶゆき)を呼びつけ、人払いした密談にて、
「わしと幸村は、石田治部少輔(じぶしょうゆう)の挙兵に応ずるつもりだが、そなたはどうする?思う所をのべるがよい!」
「父上、狂されたか!?」
訊いていた信幸は顔色を変えた。そして、もはや世の中は徳川家康の天下で、石田治部などは人望もなく、豊臣家ももはやこれまでで確実に世の中は徳川家康が天下人だ、と天下の形勢を述べて、
「父上ともあろうお方が、それをお読みになれぬとは情けなや」と厳しく反対した。
信幸の判断は正確でよく分析されていた。だが、議論の末、結局、安房守昌幸と幸村は石田方(豊臣方)へ、伊豆守信幸は徳川方に残る事に決した。
「相分かった。それぞれ、おのれが思う様に生きるがよろしい」
この父子の行動は迅速である。
昌幸と幸村は、ただちに兵を引き連れて犬伏宿を発し、信州上田へと向かい、一方の長男の伊豆守信幸は本堂へ馬を走らせ、家康に父と弟の離反と、石田三成挙兵を伝えた。
この親子の離反には当然ながらどちらに転んでも真田家が安泰なように双方に離反しての安全策ということである。また、決断の背景には安房守昌幸の妻「山手殿」が、宇多下野守頼忠(うだしもつけのかみよりただ)の娘であり、石田三成の妻もまた、頼忠の娘という関係性が影響していた。しかも次男の幸村の妻は、三成の盟友にして、挙兵の片腕とされる、敦賀(つるが)の城主大谷刑部吉継の娘なのだ。
だが、長男の伊豆守信幸の妻は、徳川家の重臣本多平八郎忠勝(ほんたへいはちろうただかつ)の娘を、家康が養女とした上で伊豆守信幸に娶らせた。すなわち、真田家は、すでに分裂を運命づけられていたようなものだったのだ。
情報網を張り巡らせていた家康は、伊豆守信幸の報告によって、石田三成挙兵を知ると、形ばかりのパフォーマンスである『会津の上杉討伐』を中止し、急遽、大軍を江戸へ、関ヶ原へと反転させた。上杉家の追撃の為には家康の次男の結城秀康を配置、豊臣恩顧の大名たちに毛利輝元、宇喜多秀家、豊臣家、小早川秀秋らの参戦を伏せて、みんなの嫌われ者・石田治部少輔三成討伐と称して、福島正則や黒田長政、加藤清正らを東軍につくよう説得した。家康は東海道を西上、三男秀忠に兵三万八千を授けて中山道を西進させることにした。
「内府(家康)は、江戸から東海道を西上、先鋒は福島左衛門尉(さえもんのじょう)正則が買って出たようにございます」
との間者の報告に、昌幸は、
「何たることぞ、福島正則といえば常日頃、口を開けば、豊臣こそ天下、わしは豊臣恩顧の大名じゃ、といっていたのに豊臣家滅亡の片棒を担ぐとは!」
「秀忠軍の三万八千余は、八月二十五日に、宇都宮城を発進して候」
との報告には、にやりと、
「内府で無うて残念だが、………息子の秀忠めに、一泡吹かせてやろうとするか……」
「父上、何分にも敵は大軍、なんぞ撃退の妙手がございましょうか?」
「まあ、見ているがよい」
「ははは、父上、楽しげでありますなあ」
 幸村は、父安房守昌幸が、十五年前の徳川勢と一戦を交えた神川(かんがわ)合戦(第一次上田合戦)の再現をもくろみ、闘志を燃やしていると感じた。
真田家は歴史好きの方ならご存じの通り武田信玄勝頼の家来の家柄である。それが、織田方による武田滅亡に際して、上杉景勝(謙信の義理の息子・上杉氏二代目)を頼るという奇策をきりだした。そこで家康方と戦いになったのだ。その際、次男の幸村を人質として春日山城に送ったが、それを知った家康は、
「あの横着者めが!」
と激怒し、鳥居元忠、大久保忠世(ただよ)ら七千余もの大軍勢をもって、信州上田城攻略戦を開始した。これが意外な結果に終わった。たかが、これほどの小城、一気に攻め落とせると思ったが、柵をもって城下を迷路状にするなど、二重三重に工作した昌幸の知略に翻弄され多大な死傷者を出した挙句に、撤退を余儀なくされたのである。ために「東海一の弓取り」という家康の誇りは傷つき、逆に真田安房守昌幸の武名は天下に知れ渡った。
この武功を幸村自身は越後府内(新潟県上越市)春日山城で聴いたという。
上田城落ちず、徳川勢撤退……当たり前だ。われら真田家は知略の武家だ。
その幸村に対して、無口で知られる、上杉景勝が突然、ぶっきら棒にいった。
「屋代(やしろ)一千貫……」
「……?」
幸村は、何のことかわからず、景勝の言葉を待った。が、景勝は口を噤(つぐ)んだなり、もう何もいわぬ。極端に無口な漢なのだ。側近で家老の直江山城守兼続が、
「殿は貴公に、屋代一千貫の地を賜るとの仰せなのである」と景勝の言葉を補足した。
「えっ、人質の私に、知行地を!?」
 驚く幸村に兼続は諭すように、
「我らは、貴公を人質などと思うておらぬ。屋代近い十三屋敷の地は、往昔(おうせき)、順徳天皇の皇子広臨(ひろみ)親王が隠棲されたとの伝承のある由緒ある土地……よろしゅうござるな」
 幸村はこの瞬間「義」に篤いという、謙信以来の上杉家の家風の真実を悟った。これは祖父真田弾正忠(だんじょうのじょう)幸隆の、「人間は利に弱いもの」とする人間観と対極にあるといってよく、幸村は強い衝撃を受けた。時に景勝三十歳、兼続二十六歳、幸村、弱冠十九歳であった。上杉での一年の生活は、幸村に多大の影響を与えた。その幸村が今、慶長五年、徳川秀忠率いる三万八千余の軍勢を、父安房守昌幸とともに迎え撃つことになり、父子は闘志に燃えたのである。
「幸村、大軍を相手の合戦とは、どのようにするものか、後学のため、よっく見ておけい」
中山道を西進した徳川秀忠率いる三万八千の大軍勢が、すでに秋色深い碓氷(うすい)峠
をこえ、軽井沢をへて、小諸(こもろ)に着陣したのは陰月九月二日のことであった。
父親の家康からは信州上田城の真田父子の軍勢とは戦わず、そのまま関ヶ原へと向かえ、という書状がきた。だが、秀忠は邁進していた。たかだか、数千の信州上田城の真田を恐れて秀忠は逃げた、といわれるのは末代までの恥である。
だが、その邁進が怪我の元であった。
実はこの徳川秀忠の大軍が、徳川家としての『本陣』なのだが、真田に散々にこっぴどくやられ(夜襲や奇襲などの謀略戦)、歴史に詳しい人ならご存知のことだが、『関ヶ原の合戦』に遅参することになる。
家康に内通していた小早川秀秋が徳川東軍に寝返り、西軍が大敗し、石田三成が滅んだからよかったようなものの、もしも東軍(家康連合軍)が敗北していたら、歴史はどうなっていたかわからない、と、多くの歴史家は口をそろえる。徳川家康だからこその対石田三成対豊臣家であり、家康と秀忠では、そもそも人間の格が違い過ぎる。
豊臣家大坂方を滅ぼすのに、家康が、十数年も辛抱強く戦略を巡らしたのも「秀忠では豊臣家を滅亡できない」、と冷静に分析した結果であり、七十六歳の、当時としては長寿も、家康の執念であったことだろう。
話を戻そう。
秀忠が信州上田城などたかだか城兵三千余ほど、わが十倍の三万八千の軍勢をもってすれば、一気に落としてみせる、と闘志を燃やすと、彼の、上田討伐を知った謀臣本多佐渡守正信から、
「真田の上田城などは枝葉のこと。関わらずに捨ておかれ、とにかく急ぎ美濃の本隊に合流することこそ肝要でありまする」
と忠告されていたが功名心から、真田安房守昌幸が、
「もとより我らに、抵抗の意思など毛頭ありませぬ。城内を清掃したる後、開城する所存でおりますゆえ、一両日お待ち願いたい」
とのことを伝えてきたので、秀忠は頬を綻(ほころ)ばせた。
ところが、約束の日が来ても、一向に開城の気配もない。
それで溜まりかねて重ねて使者を送ると、意外にも、
「実を申しますと、籠城準備に不備な点があったので、一両日お待ち願ったが、どうやら兵糧、弾薬とも、万事、遺漏(いろう)なく整い申した。では、これより一合戦、馳走つかまつる」
という人を食った挨拶であった。
「おのれ、安房守め、たばかりおったか!」
嚇(か)っと秀忠は逆上した。その瞬間、本多正信の忠告の言葉など一気に消し飛んでしまった。
悪いことに、その本多正信は「戦費補充」のため江戸へ赴いており不在であった。
中山道を北に外れ、秀忠軍は小諸(こもろ)から上田城へと進軍した。
秀忠は激昴で冷静さをなくしていた。上田城を望む染谷台(そめやだい)に本陣を据えると、
「安房守父子を討ちとれ、断じて逃がすな!」と厳命したという。
 実りの秋である。秀忠は、豊饒な稲穂を刈り取ることで、上田城の糧道(りゅうどう)を断ち、また、城外へ城兵を誘い出そうと企てた。戦国時代の典型的な作戦であるという。
 ここに旗本大番組の五十人が抜擢され手鎌をもって稲刈りを始めると、案の定、城兵が数十人ほど出てきた。
「それ、今だ……」
大番組は手鎌を捨て、白刃(しらは)をかざして襲い掛かった。すると城兵は、きわどいところまで大番組を引き寄せてから、さっと城内へ逃げ込み、かわって弓、鉄砲が猛烈に発射されて、大番組から多数の死傷者が出た。
「何たることぞ!」
 秀忠の逆上は、頂点に達した。歯ぎしりする彼に、もはや正常な判断は失われ、ただ「おのれ、おのれ」と呻(うめ)くのみであった。
そんな秀忠をわずかに慰めたのが、真田安房守昌幸の嫡男伊豆守信幸に攻めさせた、上田城の支城戸石城が緒戦において落城したことだった。
「おお、伊豆守が、戸石城を……!」
秀忠は「伊豆守、でかした!」と賞揚(しょうしょう)した。だが、実は戸石城は幸村がいたが、攻め手が兄・伊豆守信幸と知って、いち早く城を捨てて上田城へ引き揚げて、兄に戦功を立てさせただけのことだった。戸石城は、古くより知られた要塞であり、上田城の築城以前は、真田の本拠地としていたところだ。
当然、凡人、徳川秀忠は大喜びだ。
本陣の染谷台は、千曲川断崖(ちくまがわ・だんがい)上の上田城よりも、さらに一段高みになっているから、秀忠は、
「イマニ見ておれよ!」と意気込み、総攻撃の作戦を練った。が、真田に関わる事自体が秀忠の一生の不覚であった。
突如、思いもよらぬ方向から、凄まじい勢いで本陣を襲った一隊がある。これは安房守昌幸が、かねて染谷台の北東、虚空蔵山(こくぞうさん)に潜ませていた伏兵であり、秀忠の本陣は大混乱に陥った。
武装も不揃いな奇妙な一隊は例の、首一つ百石を約束された農民町人たちだが、奇声を放って勇敢である。「おらは二百石じゃ!」「おらは三百!」
とわめいて暴れる始末の悪さだが、これには「甕割(かめわ)り典膳(てんぜん)」の異名をとる兵法者・神子上(みこがみ)典膳が立ち会向い、苦闘の末にようやく撃退した。
「さすがは典膳、ようやった」
秀忠がほっとしたのも一瞬で、それまで機をうかがっていた幸村率いる一隊が、真一文字に突入したため、本陣は総崩れとなり、秀忠も身一つになって逃げのびるという失態となった。ところが、かねて神川の流れを止めおいた上流の堰を、安房守の合図で切って落としたので、どっと濁流に、たちまち浅瀬の将兵は呑み込まれて溺死した。まさしく徳川秀忠軍の完敗であった。
「伊豆守……そなたの父親と舎弟は、何たる奴らだ!」
秀忠は悲鳴を上げ、初めて悪夢から醒めたように、上田城攻めを断念、ふたたび中山道に戻って先を急いだ。だが、すでに七日間を浪費しており、木曾妻籠(きそ・つまご)の宿まで至った時、関ヶ原での戦勝報告に接した。
すなわち、秀忠は徳川家が存亡を賭けた大戦に、遅参したのだ。
「ああ、なんたることぞ!」
秀忠の顔から血の気が失せた。彼には、真田父子の髙笑いが聞こえるようであった。事実、遅参した彼は、父家康から面謁を拒否されるほどの不興をかっている。
しかも秀忠にとって天敵ともいうべき真田父子――昌幸、幸村は、戦後処理をまぬがれ、紀州高野山山麓の九度山村(和歌山県九度山町)へ配流という軽い刑罰ですんでいるのだ。
「父上、わたしは承服できませぬ!真田父子の斬首を!」
秀忠は、最後の最後まで、強く真田父子の斬刑を求めたが、伊豆守信幸が、
「わが父を誅(ちゅう)されるより先に、この伊豆守に切腹を仰せつかれたい」
といって、必死に父と弟の助命を懇願したのに加えて、徳川家の重臣本多平八郎忠勝からも、娘婿伊豆守信幸のための嘆願があったからである。
これはさしもの家康も、ついに父子の助命に同意せざる得なかったのである。
「父上、わたしは、真田父子の助命など、とても承服しかねまする」
激しく反対する秀忠に、家康も、
「秀忠、腹も立とうが、本多の平八までがああ申していることだ、わが徳川家の安泰が確かとなるまでの我慢じゃと思うて、辛抱してくれい」
と慰めたのであるという。だが、秀忠の怒りは生涯にかけて残り、終生、彼は伊豆守には、笑顔を見せなかったといわれる。
参考文献(『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』永岡慶之助著作Gakken(学研)142ページ~153ページ)



この記事をはてなブックマークに追加

North Korea strategy, the end of the world

2017年09月23日 17時18分32秒 | 日記






























North Korea strategy, the end of the world unless we strike a strategy in the meantime









Although not recently, North Korea is out of control. Intercontinental ballistic missiles and submarine-launched ballistic missiles recently, also Tokyo before the Olympic Games 2020 to be held in North Korea is completed to reduce the size of the nucleus that holds the ICBM nuclear missiles to reach the United States rather than Japan. Clearly speaking, there is currently no opportunity to stop the military dictatorship of the terrorism state North Korea or Kim Rae. It is too late after nuclear missiles are made.

What kind of attack will Japan take if the North Korea opens up? First of all, balls of dangerous sphere Surere are flying.

Japan, which is overwhelming with strength, argues that Japan will settle within a short period if it preempts North Korea preemptively. However, in fact, there is a high possibility that the condition just before the warfare will be prolonged, which can be a nightmarish scenario for Japan. In this time, I am out of the desk skimming theory which is being discussed in the present Japanese speech space and I will look at the implementation plan of war that the Trump regime can actually select.

How will you implement when the Trump regime decides to preempt first strike? The reference to be made here is the US strategy plan created before the birth of the Trump regime. Strategy can be broadly divided into three "air strikes", "tactics Trombone," "occupation".

If the US is to pre-emptive attack, the first to reference would be "Operation Plan 5026". This plan, when the US-North Korea crisis of 1994, which the Clinton administration has developed has become a draft. Thing that air strikes in all at once in a few days more than 700 goals such as nuclear facilities and weapons of mass destruction, the main military base. The Trump regime is probably considering a plan to brush up this plan. When executing, it is expected that the expansion of air fighting force to Guam, the strengthening of the air and ground troops of the USFK in Korea, the further destruction of aircraft carrier group and Tomahawk equipped vessels will be carried out.

The second plan, something a little quirky. In 2003, the Bush administration has been drawn up in "Operation Plan 5030", with respect to North Korea, by launching the repeated provocative reconnaissance flight and military exercises, mercy, and wear their military personnel, fuel, food, supplies and equipment Let's induce the collapse of North Korea as a result of combining information warfare with this. Since there is relatively little risk in implementation here, it can be said that there is a high possibility of executing in combination with cyber attacks. It is possible that this plan has already been implemented as pressure against the North by gradual deployment and operation of US forces on the Korean Peninsula.

And, for these operations, such as, North Korea is being invoked in the case which has been retribution, is the "OPLAN 5027". This has been revised many times since the Korean War and is planned to be renewed last year. In a word, it breaks down the invasion of North Korea and occupies in ground battle in a stroke against the background of overwhelming military strength.

The problem is that in order to implement these strategy plans, it is necessary to strengthen the strength of the US forces in Korea and the US forces in Japan. North Korea will implement all measures to abandon US military attacks when the US military's forces in the vicinity of North Korea exceed a certain level. And its policy, for the purpose of three "to the extent of the attack as not to war," "to reduce the US fight", "be away from the US allies (Japan, Korea)". The current crisis level is still low, but if the military tension of the North and South Korea rises drastically, the deadball gambling sphere will fly from North Korea to Japan.

First of all, it is cyber attack in the first. Cyber ​​attacks can be carried out easily, and there is the advantage that "they are not culprits" can be cut off. For example, Japan is the financial system and transmission system hacking of Korea, also may become impossible to use the ATM of a bank, it may be large-scale power outage or frequent weeks.

This is not a Esoragoto, in fact, the Korean financial institutions, such as North Korea 13 years Oboshiki, that issued an economic loss of more than 86 billion yen received a cyber attack. The Pentagon also repeatedly reports that it highly evaluates North Korea's cyber warfare abilities, and indeed points out that it has the ability to silence the mainland electricity grid and the US Pacific Command Headquarters.

Japanese people in Korea are exposed to great danger during emergencies.

If such a situation continues, in the present situation also public opinion that is really brave, Kabuki actor Mr. Ichikawa Ebiso posted on the blog the other day and received a big criticism and received a big criticism "North America's North Opposing the base use of Korean attacks will become stronger.

The other one is a psychological disturbance to exploit the fear of Japanese to chemical weapons. North Korea around April could be implemented to Japan attacks sarin and VX gas it is loudly pointed out by some media. I do not think the reason why North will take such action, but I do not seem to be wrong only to explain meaninglessly anxious meaninglessly about the political and military rationality, but North Korea has this "anxiety psychology" It might be followed by skill.

For example, or a bag of liquid that wrote the nasty smell fuss or sarin is left in a day each of the major transportation of South Korea, if incidents drone loaded with suspicious liquid is found Aitsuge, reaches the apex national anxiety right. If so, North Korea can not even use ballistic missiles, it can drop Japan and Korea from the joint front with the United States.

Finally, it is a ballistic missile attack on territory and territorial waters of Japan. In the past rather than the impact of the EEZ (Exclusive Economic Zone) of, it is that promote the landing of the territorial waters and Tottori mountains of such sparsely populated areas. As for North Korea, let the Japanese people know the risk of the first strike, abandon the attack.

In any case, the Japan must first put in mind, but North Korea of a war of nerves that caught come in the United States and North Korea of military tensions heightened state. Of course, if the North Korea opens the war, it will be carried out more intensely. In other words, due to cyber attacks and attacks by special forces, Japan's infrastructure is in a great upheaval and ballistic missile attacks and destructive operations are carried out against US bases in Japan and important infrastructure in Japan, causing anxiety psychology, depressed feeling Terror for repeated occurrence.

The United States announced to Japan that "between Japan and the United States promises to" communicate to the Japanese government beforehand when attacking North Korea ". However, this "transfer", there is a high likelihood that becomes the last 30 minutes before the attack. If you communicate to Japan with plenty of time, you may be asked to postpone and you may be asked to postpone, and there is also the danger of information leakage. In fact, President Nixon in 1969 as a retaliation of the 31 deaths in the US spy plane shot down by North Korea, has been a limited attack "should I contact to 30 minutes before" even when you consider. The "voluntary evacuation" is indeed the transmission of this just before, in addition to in Korea Japanese of 40,000 people a little less, it is difficult to ensure the safety of the business trip, travelers.

Moreover, after the start of the attack, people from all over the world in Korea also fled all at once and it is very confused, Incheon Airport near the North Korean border is dangerous and there is a high possibility of being blocked. Even as North Korea, when the Korean Americans complete evacuation, the US military will be able to attack without refrain, so it will obstruct the whole force and obstruct it. It is necessary to consider that Korean citizens are panicking and trying to evacuate the country and the south. If so, the airport / port in the south and the transportation infrastructure to that area will be heavily congested and it will be difficult to use due to destruction work.

At that time, in the hectic to the protection of USFK people that the US military is also referred to as 200,000 people, it is not to become a dependable presence for the Japanese people. In fact, the US side is basically a stance that the relevant country should implement its own non-combatant evacuation of its own people. Although the SDF 's Japanese rescue activities are accepted by South Korea' s consent, even if it is possible to use the SDF for the ports and airports in Korea, activities such as helicopter flight of the SDF in South Korea will be refused first. Especially, if harassment or retaliation occurs in Korea and Koreans in Japan and Koreans who have evacuated in Japan, it is unlikely that Japanese nationals will be put in a more difficult situation .

People who have scheduled in South Korea Japanese and travel to South Korea, (there will be no need to register) 3 months or more if the residence report, and registered in the "Tabi cash register" if less than, well the transition of the future of the peninsula We should look for foreign escape routes to the airport or port at the time of a sudden change, on the premise that "watch yourself and protect yourself yourself" at the same time.

Thus, various tensions arise if the tension in the North and the ROI is increased in the future. But just being afraid of that risk only benefits North Korea, which will take advantage of that anxiety psychology. It is crucial to recognize possible risks and how to cope with them calmly. Take armor strikes with an unbreakable stance! It is essential.

Certainly I am not stupid too, so I know that if North Korea collapses a large number of refugees will rush into China and become chaotic. Therefore, "It is a strategy of China to ask for good at human talent tactics because Japan issues money". It is true that Kim Il Sung of North Korea and Mao Zedong Era of China would have been a Honeymoon relationship, but China is currently only an idiot, such as the North Korea Kim Ron Pao administration. You will be there.

Specifically, Japan will press down pressure on China's early return of ODA loan and technology transfer of Japanese companies, stop all support from China, and make North Korea "attack the weapons".

First only North Korea but will rebound in the launch of such missiles, there is if we were intercepted by PAC3, immediately North Korea within the next few months no longer be oil and electricity will collapse.

After that, as mentioned above "Is not it good for North Korean refugees to ask China's good human resources strategies for humanitarian tactics because Japan issues money?" This is a diplomatic strategy. This kind of strategy or plot is what the state should do. No, the Abe administration should do. The Russian Northern Territories issue also goes well. If it does not hit the strategy in the midst of now it is the end of Japan in the world.

Japanese people should be able to bit me such things.







Free journalist 4 7 Yamagata Prefecture UESUGI KAGETORA Uesugi (Nagao) Kagetora





Commitment negotiation of the North Korean problem Kim Jong-un regime "meaningless negotiations with the terrorist state"









At the moment, hard-line "economic sanctions against hard-hitting North Korea" will eventually only be a war between the US and North Korea.

Here is negotiating standing between the third country is the United States and the North, on condition of permanent abandonment of the entire resolution and nuclear and missile development of the abduction issue, committed to maintaining the north of gold Seion system the "safety guarantee treaty" in Beikita There is nothing but to do. It is certainly every difficult negotiation. You can not do it unless you are a good countermeasure. But, now, this is impossible. Specifically, it is still a secret national secret, but it is useless in Japan and Japanese, if it is a party, the closest prime minister of Switzerland and the Netherlands should do negotiation.

But historical facts indicate that negotiations and discussions with the terrorist state are in vain.

How deceived was North Korea? In the future North Korea will threaten to launch a missile to Guam, a hydrogen bomb test to the Pacific Ocean ...... Although it is not always true that hard-line theory and sanctionism are correct, it is not always true "assault strategy (assassination of Kim Jong-en)" "cyber attack North Korea's electricity and infrastructure of the shutdown "" pulse strategy "" Tomahawk missile 1000 rounds of attack "" wide range of perfect bombing "" perfect economic sanctions "

Everything depends on strategy. However or threatened, there is no gay only to perfect the economic sanctions.

According to negotiation, "diplomacy is a war without weapons", "diplomacy is a war in suit".

Because the opponent has weapons, we have weapons, threaten to threaten ... then the end is a war.

Everything depends on strategy, it is strategic diplomatic negotiations.

I want you to understand and move for war avoidance. Negotiate over war!

Everything depends on strategy. But it is no longer the time of negotiations. Kill North Korea to the full extent and kill Kin Dynasty. That is very important. If you head the head of Kim Jong Il, it is checkmate. Now is the time to stop North Korea!



2017/09/23    kagetora uesugi

この記事をはてなブックマークに追加

北朝鮮戦略、今のうちに戦略を打たなければ世界の終わり

2017年09月23日 17時12分38秒 | 日記


























北朝鮮戦略、今のうちに戦略を打たなければ世界の終わり




 最近のことではないが北朝鮮が暴走著しい。最近は大陸間弾道ミサイルや潜水艦発射弾道ミサイル、また東京オリンピックの開催される2020年までには北朝鮮は核の小型化が完成して日本どころかアメリカまで届くICBM核ミサイルを保有するという。はっきり言って今現在しかテロ国家北朝鮮や金正恩の軍事独裁政権をストップする機会はない。核ミサイルが出来てからでは遅いのだ。
もしも米朝が開戦したら日本はどんな攻撃を受けるか?まず危険球スレスレのボールが飛んでくる。
戦力で圧倒する米国が北朝鮮に先制攻撃をすれば、短期間のうちに決着がつくとの見立てが、日本では盛んに議論されている。だが、実際には、戦争一歩手前の状態が長引く可能性も高く、日本にとっては悪夢のようなシナリオになりうる。今回、現在の日本の言論空間で取り沙汰されているような机上の空論を脱し、トランプ政権が実際に選択しうる戦争の実施案をみていく。
トランプ政権が先制攻撃を決意するとき、どのように実施するのか。ここで参考とすべきは、トランプ政権誕生以前につくられた米国の作戦計画だ。作戦は、「空爆」「兵糧攻め」「占領」の3つに大きく分けることができる。
米国が先制攻撃する場合に、参考とする第1は「作戦計画5026」であろう。この計画は、1994年の米朝危機の際、クリントン政権が策定したものが原案となっている。核施設・大量破壊兵器・主要軍事拠点等の700以上の目標を一斉に数日間で空爆するというものだ。トランプ政権は、おそらくこの計画をブラッシュアップした案を検討している。実行する際は、グアムへの航空戦力の増派、在韓米軍の航空・地上部隊の強化、空母打撃群およびトマホーク装備艦艇のさらなる展開が実行されることが予測される。
第2の計画は、少し風変わりなものだ。2003年にブッシュ政権が策定した「作戦計画5030」では、北朝鮮に対し、繰り返し挑発的な偵察飛行や軍事演習を仕掛けることで、翻弄し、彼らの兵員・燃料・食料・物資・装備を損耗させ、これに情報戦なども組み合わせることで北朝鮮の政変なり崩壊なりを誘発させるのだ。こちらは実施に際しては比較的リスクが少ないので、サイバー攻撃と組み合わせて実行していく可能性が高いといえる。この計画は、米国軍の朝鮮半島への段階的な配備とその運用によって、対北圧力として、すでに実施している可能性もある。
そして、これらの作戦等に対し、北朝鮮が報復してきた場合に発動されるのが、「作戦計画5027」である。これは朝鮮戦争以来、幾度も改訂され、昨年も更新されている計画である。一言でいえば、北朝鮮の侵略を打破し、圧倒的な軍事力を背景に、一気に地上戦で占領するというものだ。
問題は、これらの作戦計画を実施するには、在韓米軍および在日米軍の戦力を増強する必要があることだ。北朝鮮周辺での米軍の戦力が一定以上を超えた際に、北朝鮮は米軍による攻撃を断念させるためにあらゆる方策を実施してくる。その方策とは、「戦争にならない程度の攻撃をすること」「米国の戦意を低下させること」「米国の同盟国(日・韓)を離反させること」の3つを目的とする。現在の危機レベルはまだ低いが、米朝の軍事的緊張がひどく高まれば、デッドボールすれすれの牽制球が北朝鮮から日本へ向けて飛んでくるということだ。
まず、第1にサイバー攻撃だ。サイバー攻撃は手軽に実施できるうえに、「自分たちが犯人ではない」とシラを切れるという利点がある。例えば、日韓の金融システムや送電システムがハッキングされ、何週間も銀行のATMが使用不可能になったり、大規模停電が頻発したりするかもしれない。
これは絵空事ではない、実際、13年に韓国の金融機関等が北朝鮮と思しき、サイバー攻撃を受け860億円以上もの経済的損失を出したという。また、米国防総省も繰り返し、北朝鮮のサイバー戦能力を高く評価する報告を行っており、事実、米本土の電力網や米太平洋軍司令部を沈黙させる能力を有すると指摘している。
有事の際、在韓邦人が大きな危険に晒される。
もし、こうした事態が続けば、現状では実に勇ましい世論も、歌舞伎役者の市川海老蔵氏が先日ブログに投稿して話題になり大きな批判も受けた「日本を巻き込むなよ!」という、米国の北朝鮮攻撃の基地使用に反対する意見が強くなるだろう。
もう1つは化学兵器への日本人の恐怖を悪用した心理的擾乱だ。4月頃から北朝鮮がサリンやVXガスによる対日攻撃を実施する可能性が一部メディアによって声高に指摘されている。何故、北がそのような行動を取るのか、その政治的・軍事的合理性の説明はほとんどなく無意味に不安を煽るだけとしか筆者には思えないが、北朝鮮はこの「不安心理」を巧みについてくるかもしれない。
例えば、日韓の各主要交通機関で異臭騒ぎやサリンと書いた液体の袋が放置されたり、不審な液体を積載したドローンが発見される事件が相次げば、国民の不安は頂点に達するだろう。そうなれば北朝鮮は弾道ミサイルを使うことすらなく、日本や韓国を米国との共同戦線から脱落させることができる。
最後に、日本の領土・領海への弾道ミサイル攻撃だ。これまでのEEZ(排他的経済水域)への着弾ではなく、領海や鳥取山中のような過疎地への着弾を図るというものである。北朝鮮としては、先制攻撃時のリスクを日本国民に思い知らせ、攻撃を断念させるのだ。
いずれにせよ、わが国がまず念頭に置かねばならないのは、米朝の軍事的緊張が高まった状態で北朝鮮が仕掛けてくる神経戦なのだ。当然、米朝が開戦すればより過激化して実施される。すなわち、サイバー攻撃や特殊部隊員による攻撃によって、日本のインフラは大混乱に陥り、弾道ミサイル攻撃および破壊工作が在日米軍基地や重要インフラに対して実施され、不安心理、厭戦気分に陥らせるためのテロが繰り返し起きることになる。
米国は、日本に対し、「北朝鮮を攻撃する際に、事前に、日本政府へ伝達する」旨の約束を日米両国間でしたと発表があった。しかし、この「伝達」は、攻撃の直前30分前になってしまう公算が高い。時間に余裕をもって日本に伝達すると、自制なり延期を求められる可能性があり、さらには情報漏洩の危険もある。実際、69年にニクソン大統領が北朝鮮による米偵察機撃墜での31人死亡の報復として、限定攻撃を検討した際も「30分前に連絡すればよい」としている。さすがにこの直前の伝達では「自主避難」により、4万人弱の在韓邦人に加え、出張・旅行者の安全を確保するのは難しい。
しかも攻撃開始後は、在韓の世界各国の人も一斉に逃げ出し大混乱となり、北朝鮮国境に近い仁川空港は危険なため封鎖される可能性が高い。北朝鮮としても、在韓米人が避難を完了すると、米軍は遠慮なしに攻撃できるようになるので、総力をあげて妨害してくるだろう。韓国の一般国民もパニックになって、国外や南部への避難を図るということを考えておく必要がある。となれば、南部の空港・港湾および当該地への交通インフラは大渋滞なり破壊工作を受けて使用が困難ということになる。
その際、米軍は20万人ともいわれる在韓米人の保護にてんてこ舞いで、日本国民にとって頼れる存在になることはない。実際、米側は非戦闘員である自国民の退避は基本的には該当する国が自ら実施するべきというスタンスである。自衛隊の邦人救助活動は韓国の同意により認められるが、韓国の港湾や空港への自衛隊機の利用は可能としても、韓国内での自衛隊のヘリ飛行等の活動はまず拒否されてしまうだろう。特に、日本国内で、在日韓国・朝鮮人、さらには避難してきた韓国人に対して、嫌がらせや報復が起きれば、在韓邦人はますます苦しい立場に置かれてしまうのは想像に難くない。
在韓邦人や韓国へ旅行の予定がある人は、3カ月以上なら在留届、未満なら「たびレジ」に登録し(登録しなければ存在しないことになる)、今後の半島情勢の推移をよく注視し、同時に「自分の身は自分で守る」ことを前提に、事態急変時の空港や港湾なりへの国外脱出ルートを探しておくべきだ。
このように、米朝の緊張が今後高まれば様々なリスクが発生する。だが、そのリスクにただ怯えるだけでは、その不安心理につけこむ北朝鮮を利するだけだ。起こりうるリスクとその対処法を冷静に認識することが肝心だ。ぶれないスタンスで兵糧攻めを!が肝要だ。
確かに私も馬鹿ではないから、北朝鮮が崩壊したら中国に大量の難民が殺到し混沌化するだろうことは知っている。だから、「日本がお金を出すから中国は得意の人海戦術で頼む」という戦略である。中国だって確かに北朝鮮の金日成と中国の毛沢東時代は蜜月関係だったろうが、現在の中国国家としては北朝鮮金正恩政権など馬鹿野郎でしかない。そこをつくのだ。
具体的には日本が中国に円借款早期返還や日本企業の技術移転などで圧力をかけて中国からの支援をすべてストップさせて北朝鮮を”兵糧攻め”にする。
最初だけ北朝鮮はミサイルなどの発射で反発するだろうが、そこはPAC3で迎撃していけば、すぐに油や電気もなくなって数ヶ月以内に北朝鮮は崩壊する。
後は前述した「日本がお金を出すから北朝鮮難民は中国の得意の人海戦術で頼む」でいいではないか。これぞ外交戦略。こういう戦略というか謀略こそが国家のやるべきこと。いや、安倍政権がやるべきことだ。ロシアの北方領土問題もまたしかり。今のうちに戦略を打たなければ世界の日本のおわり、だ。
そういうことを日本人は噛みしめるべきである。



フリージャーナリスト・47・山形県 UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎


北朝鮮問題 金正恩体制の確約交渉「テロ国家との交渉は無意味」




 現在の北朝鮮への強硬な”経済制裁一辺倒”では結局はアメリカと北朝鮮との戦争になるだけ。
ここは第三国が米国と北の間に立って交渉し、拉致問題の全面解決と核・ミサイル開発の永久放棄を条件に、北の金正恩体制維持を確約し米北で「安全保証条約」を結ばせる事しかない。確かに難しい交渉ごとである。よっぽどの策士でなければ出来ない。しかし、今、これはありえない。具体的にはまだ国家機密的な秘密であるが、日本国や日本人では駄目だ、当事者だ、というならもっとも関係のないスイスやオランダの首相が交渉をやればいい。
だが、テロ国家との交渉や話し合いが無駄であることは歴史が物語っている。
北朝鮮にどれだけ騙されたことか。今後は北朝鮮がグアムへのミサイル発射威嚇、太平洋上への水爆実験……そうなったときに強硬論や制裁論は常に正しい訳ではないが“斬首作戦(金正恩の暗殺)”“サイバー攻撃での北朝鮮の電気やインフラのシャットダウン”“パルス作戦”“トマホークミサイル1000発の攻撃”“広範囲の完全なる爆撃”“完全なる経済制裁”
すべては策略次第。ただ脅したり、経済制裁を完璧にするだけでは芸がない。
何でも交渉次第で「外交とは武器をもたない戦争」「外交とはスーツを着た戦争」。
相手が武器を持つから武器を持つ、恫喝するから恫喝する……それでは最期は戦争である。
すべては策略次第であり、戦略があっての外交交渉だ。
どうか理解して、戦争回避のために動いて欲しい。戦争より交渉を!
すべては策略次第である。だが、もはや交渉の時期ではない。北朝鮮を完膚なきまでに叩きつぶし金王朝をおわらせる。そこはとても大事だ。金正恩の首さえとればチェックメイトだ。今こそ策略で北朝鮮をおわらせよ!

2017/09/23  kagetora uesugi

この記事をはてなブックマークに追加

豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由

2017年09月21日 16時12分12秒 | 日記





























豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由



窪田順生




豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由: 危機管理のプロからしっかりと対応策を伝授されて会見に臨んだであろう豊田真由子氏。マニュアル通りにできていたにも関わらず、なぜボロカスに叩かれ、さらに評判を落とす事態になってしまったのだろうか? 写真:日刊現代/アフロ© diamond 危機管理のプロからしっかりと対応策を伝授されて会見に臨んだであろう豊田真由子氏。マニュアル通りにできていたにも関わらず、なぜボロカスに叩かれ、さらに評判を落とす事態になってしまったのだろう…

謝罪会見を開いたはずが、ボロカスに叩かれてさらに評判を落とした豊田真由子氏。おじぎの角度から回答内容まで、危機管理のプロの指南に忠実にこなしたであろうことは間違いないが、なぜ結果が「惨敗」だったのだろうか?(ノンフィクションライター 窪田順生)

服装からおじぎまでプロのアドバイスに忠実だった

「ち~が~う~だ~ろ~」がチビッコたちのギャグにまでなり一躍全国区となった豊田真由子衆議院議員が催した「謝罪会見」がすこぶる評判が悪い。あそこまでボロカスに叩かれるのなら会見など開かない方がよかったのかもしれない。

 既に情報番組やらネットニュースやらでいろいろな専門家や有識者が問題点を指摘されているので、ここで改めて一つひとつ羅列するのはやめておくが、この10年あまり危機管理広報に携わってきた立場から言わせていただくと、あの会見は以下の一言に尽きる。

「テンプレ危機管理」の限界――。

「テンプレ」とはテンプレート。就職活動のエントリシートやお礼状、あるいはビジネス文書などで一度は使用したという方も多いだろう。要するに、マニュアル等で定められている「模範文」のことだ。

 世間も薄々、勘付いていると思うが、企業や政治家が不祥事を起こして、謝罪会見を開いたり、謝罪コメントを出すという時も、実はこの「テンプレ」がフル活用されている。弁護士など「危機管理コンサルタント」を名乗るプロのみなさんが、「こういう質問がきたら、こう返しておきましょう」という「模範回答文」を授けて、登壇者はそれを自分流にちょこっとカスタマイズするのだ。

 つまり、「テンプレ危機管理」とは模範的な立ち振る舞い、模範的な回答で世間に反省していると強く印象づけよう、という危機管理のスタイルである。いろいろ叩かれているが、豊田氏の会見はあらゆる面で、この「テンプレ」に準じていた。

 黒髪に黒いスーツ、8秒間も頭を深々と下げたおじぎ、司会者が「では、次の方が最後で」と案内しても「大丈夫です」と対応を続けるなど、謝罪会見の「作法」はしっかりと押さえていた。恐らく、「危機管理のプロ」の方々から綿密なトレーニングを受けてきたのだろう。

「テンプレ回答」一辺倒では不誠実さを感じさせる

「話法」もテンプレにのっとった模範的な対応である。たとえば、わかりやすいのが会見の冒頭で述べたコメントだ。

「刑事事件の関係につきましては、大変恐縮ながら現在捜査中の案件でありますので、警察、検察、またその他との関係から微々細々にわたっては決してそれは言及してはならないというふうになっております」

 これは今回のような暴行はもちろん、偽計業務妨害、業務上過失致死などあらゆる刑事事件で汎用できる。事実、豊田氏もこの後、記者たちから暴行の有無について厳しい追及が繰り返されるたび、この「テンプレ回答」を微調整してリピートしている。

 政治家にせよ企業にせよ、会見という情報発信の場であっても、どうしても言えないこと、言ってはいけないことがある。そのような苦しい立場をスムーズに伝えるための「テンプレ回答」は、ある程度は必要なのだ。

 ただ、この便利さにあぐらをかいて、あまりにもリピートしてしまうと、危機管理としては致命的な印象を世の中に与えてしまう。

 これは、お客様相談室などを想像してみるとわかりやすい。もしあなたが購入した商品に何か不具合があってクレームを入れたとしよう。担当者がマニュアルを読み上げているような、木で鼻を括ったような説明をスラスラと言ってきたらどう感じるだろうか。メールでの回答も然り。丁寧な言葉使いではあるが、こちらの疑問に答えていないような「テンプレ回答」が送られてきたらどうだろうか。

「嘘くさい」「不誠実」と感じるのではないか。豊田氏の会見も残念ながら、世の中にそのような印象を与えてしまっている。

謝罪会見は単なる「釈明の場」!?豊田氏サイドの決定的な思い違い

「作法」も「話法」も、謝罪会見の「テンプレ」に基づいて無難に乗り切ったはずなのに、「どうせ選挙に出るために体面を取り繕ってるんでしょ」と、かえってマイナスになってしまっているのだ。

 だったら、どうすればよかったか。

 いろいろな考え方があるので、「これが正解」というものは難しいが、もし筆者が豊田氏からアドバイスを求められたら、まずはご本人に「いい負け方」の道を納得していただくことから始める。

 ご本人や会見をサポートしていた方たちからお話を伺ったわけではないので、あくまで筆者の想像の域を脱しない話だが、会見での発言から、豊田氏サイド的には以下の3つのゴールを目指していたように思う。

1.「あの暴言は特別な状況で生まれたもの」とやんわりと世間に伝える2.「新潮の報道内容はすべてが事実ではありません」とやんわりと世間に伝える3.「なんやかんやありましたけど、次の選挙も出ます!」とやんわりと世間に伝える

「なんて都合のいいことを」と呆れる方も多いだろうが、不祥事の当事者となった方たちというのは、往々にしてこういう考え方をする。世間の見方としては「謝罪会見」というのは「潔く負けを認めるみそぎの場」なのだが、実際に「謝罪会見」に臨む側は、「報道被害に対する釈明の場」だと考える。そう、彼らは「加害者としての自分」よりも、嵐のような報道にさらされた「被害者としての自分」に意識が向きがちなのだ。

 この悲劇的な認識のすれ違いが、「謝罪会見でちっとも反省していなかった」という世間の反感を生み出すのである。

謝罪会見は「負けを認める場」「勝ち」を目指すと大炎上する

 そこで私なら、まずは「報道被害に対する釈明の場」だという考えを豊田氏に捨ててもらう。事実と違うところを泣き寝入りしろと言っているわけではない。まずはしっかりと「負け」を認めるというプロセスを踏まないことには、こちらの釈明も世の中には伝わらないということを申し上げているのだ。

 豊田氏は会見冒頭で、「テンプレ回答」的にシレッと「報道には事実と違うところもたくさんございまして」と言及した。記者とのやりとりでも、「やっていないことはやっていないということは、私は主張をさせていただかなければ、それは私の、刑事事件だとか名誉だとかいう以前の、人間の尊厳の問題だというふうにちょっと思っております」とお話しになった。

 だが、会見について報じた記事やニュースでは、こうした発言はほとんどスルーされている。むしろ、「暴言」や「暴行」についての釈然としない説明と相まって、「反省していない」というイメージに拍車をかけてしまっているのだ。つまり、「ちょっとだけでも勝ちたい」というスケベ心を出したことが裏目となって、さらにひどい負け方になってしまっているのだ。

 これは謝罪会見をおこなう企業、役所、政治家が必ず陥る「落とし穴」である。「危機管理のプロ」を名乗る人のなかにも勘違いをしている方が多いが、危機管理に「勝ち」はありえない。不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ。捲土重来するために、どのような「負けっぷり」をしておくべきなのかを決断して、それをメディアに介して世の中に知らしめるのが、「謝罪会見」である。

 しかし、その真理を受け入れられない人たちが、どうにかして「勝ち」を目指して、苦しい言い逃れをしたり、事実を隠してしまう。

豊田氏が言うべきだった3つのこと

 では、豊田氏の「潔い負け」とは何かといえば、音声データに対する苦しい言い逃れをしないということに他ならない。それを踏まえて、筆者なら会見では以下の3つのメッセージを「テンプレ」ではなく、ご本人の言葉で語ってもらう。

1.自分は怒りをコントロールできないので、カウンセラーや家族の力を借りて向き合いたい。2.暴行は捜査中なのでなにも言えない。暴言は時間をかけて秘書に謝罪を受け入れてもらう。3.自分は未熟な人間だが、今回の失敗も生かして政治家を続けたい。後は有権者に判断してもらう。

 もちろん、こんな都合のいいメッセージがそう簡単に受け入れられるとは思っていない。しかし、「テンプレ回答」を繰り返しながらも、「あんな暴言は吐いたのははじめて」「顔が腫れるような暴行をしていない」などという自己保身感たっぷりの言い訳も紛れ込ませるというスタイルの謝罪よりも、「潔さ」は伝わるはずだ。

「怒り」がコントロールできないため激昂してしまった、なんてことを素直に認めたら政治家生命が終わるじゃないか!とかいう取り巻きもいるだろうが、「覚えていない」という発言は、世間からは「嘘をついている」と思われる。こんな不誠実な回答を繰り返す方が、政治家的にはアウトだ。

 パワハラの「加害者」だと自ら認めるのは短期的にはマイナスだが、もし本当に社会のために身を捧げたいのなら、長期的にはプラスになる。パワハラの「加害者」となって社会からこれだけ糾弾されるという経験をした人間はいない。つまり、「パワハラ問題」に日本一詳しい政治家とも言える。

 この経験を生かして、被害者への償いをしながら、「パワハラ」というものがなぜ生まれるのか、なぜ社会的にはエリートだという自分が「加害者」になってしまったのかということを考察して、今後は政治家としてパワハラ問題をライフワークにしたっていい。

「危機管理のプロ」を名乗る人々からすると、こんなヤケクソみたいな対応は「邪道」以外の何物でもない。模範的な立ち振る舞いと、模範的な回答でダメージを最低限にしましょう、というのが危機管理のセオリーだからだ。

ベッキーに始まり豊田氏がダメ押しテンプレ回答はもう限界だ

 ただ、そのような時代はもう終わりを迎えている気がする。謝罪会見ももちろん、クレーム対応の現場などでも、これまでのような「テンプレ回答」が通用しなくなってきているからだ。

 たとえば、少し前にTBSの「ひるおび」が、森友・加計学園問題の報じ方があまりにも偏向しているということで、一部ネットユーザーの方たちが「スポンサー電凸(電話で抗議すること)」をするという出来事が起きた。TBSに文句を言っても「中立公正にやっています」と木で鼻を括ったような対応しか返ってこないから、番組にCMを出稿している企業に文句を言おうというわけだ。

 しかし、模範的な「テンプレ回答」をした某企業が「テンプレ丸出し」と見抜かれて、「炎上」してしまった。その反面、数年前なら「邪道」とされるような、踏み込んだ回答をした企業が、「誠実に対応をしている」と評価されるという現象も起きている。

 いたるところで「テンプレ」が溢れかえれば当然、建前的な対応に嫌悪感を抱く人が増えていく。そんな世相を決定的にしたのが、「ベッキー騒動」である。

 ご存じのように、「文春砲」でゲス不倫をスッパ抜かれたベッキーさんは、白ブラウスにロングスカートといういでたちでしおらしく頭を下げて、「友達です」と会見で語った。会見なのに「質問禁止」というスタイルは大きな批判を浴びたが、「作法」だけ見れば、さすが器用なタレントさんだけあって、見事な「テンプレ謝罪会見」だった。

 しかし、その後にLINEのやり取りが流出して、あの「友達で押し通す」という本音が日本中にさらされてしまった。

 2000年、雪印集団食中毒事件で石川哲郎社長(当時)が、記者会見の延長を求める記者たちに、「私は寝てないんだ!」と発言して炎上してから、日本の危機管理というのは、いかに「本音」を隠して、儀礼的に謝罪と反省をおこなうかという「様式美」を追求してきた。

 だから、頭を下げる角度とか、下げる時間とかが重要視される。そのような「様式美」が、実はすべてしょうもない欺瞞だということを、ベッキーさんはこれ以上ないほどわかりやすく世間に知らしめたのである。

 このように「テンプレ危機管理」がガラガラと崩れているなかで、今回の豊田氏の会見はそのトドメを刺したように筆者には見えてしまう。

 そろそろ「謝罪会見」という日本特有の文化そのものを、見直す時期にきているのではないだろうか。

この記事をはてなブックマークに追加

北朝鮮がグアムを執拗に目の敵にする理由

2017年09月21日 12時53分10秒 | 日記































北朝鮮がグアムを執拗に目の敵にする理由



北村 淳



グアム島の米アンダーセン空軍基地で基地の概要について説明を受けるジョン・リチャードソン海軍作戦部長(2017年5月17日、出所:米海軍)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 グアム島の米アンダーセン空軍基地で基地の概要について説明を受けるジョン・リチャードソン海軍作戦部長(2017年5月17日、出所:米海軍)

 北朝鮮が、8月29日に引き続き9月15日にも、日本列島上空を通過させてグアム島攻撃用弾道ミサイルのデモンストレーション試射を実施した。

 グアムはアメリカの準州であるが、多くのアメリカ人にとってはどこにあるのかも知らない存在だ。そのため、北朝鮮が弾道ミサイルを日本の頭上越しに太平洋上に撃ち込んで、グアムを攻撃できる能力をアピールしても、一部の軍関係者を除いてはほとんど危機感は生じていない。

 アメリカと違い日本でグアム島は観光地として有名であるが、「なぜ北朝鮮がグアムを目の敵にしているのか?」はあまり語られていないようである。


グアム島は米軍の歴史的拠点


 グアムにはこれまで100年以上にわたって、アメリカ軍の拠点が設置されてきた。1898年、米西戦争に勝利したアメリカは、スペイン領であったグアムを手に入れて海軍の拠点を設置した。それ以降、今日に至るまで、軍種や規模の変遷はあるものの、グアムにはアメリカ軍が駐留し続けている(ただし、日本軍が侵攻してアメリカ軍を駆逐した昭和16年12月10日から、日本占領軍がアメリカ軍に撃破された昭和19年7月21日までの期間を除く)。

 現在もグアム島総面積の3分の1を米軍関連施設が占めている。島の北部一帯には米空軍アンダーセン基地が、島の西側のアプラ湾周辺には米海軍グアム基地が設置されている。

 それらの基地を中心にグアムに駐留しているアメリカ軍将兵はおよそ7000名であり、現在のところ空軍と海軍が中心となっている。加えて、近い将来には最大で7000名の海兵隊員が沖縄から移動してくることになっている。


沖縄の米軍よりも忌み嫌うべき存在


 北朝鮮にとってアンダーセン基地は、沖縄に駐屯している米空軍や海兵隊、それに、三沢基地や岩国基地を本拠地にしている空軍や海兵隊の戦闘機部隊などよりも忌み嫌うべき存在である。

 なぜなら、アンダーセン基地は爆撃機の拠点となっており、もしアメリカが北朝鮮を先制攻撃する場合にはそれらの爆撃機が主戦力になると考えられているからだ。

 アンダーセン空軍基地にはB-1B爆撃機、B-52H爆撃機が配備されている。また、アメリカ空軍の虎の子であるB-2ステルス爆撃機も前進拠点として使用できる設備が整っている。

 さらに、爆撃機に加えて、爆撃機を護衛する戦闘機も恒常的に米本土から飛来しており、アンダーセン空軍基地は常に即応態勢を維持しているのだ。


米軍による先制攻撃の主力は爆撃機


 アメリカが北朝鮮を先制攻撃する場合、北朝鮮の核施設、各種ミサイル施設、地上移動式ミサイル発射装置(TEL)が格納されている施設、それに韓国との境界線の北側地域一帯に展開している各種砲兵部隊などを、極めて短時間で殲滅しなければならない(少なくとも1000カ所程度と言われる攻撃目標を短時間のうちに徹底的に破壊しないと、韓国や日本に対する報復攻撃が実施され、日米韓側は言語に絶する犠牲を払うことになる)。

 それらの施設の大半は、地下施設、半地下施設、それに山腹の洞窟施設などの形態をとっている。したがって先制攻撃を実施する際は、それらの地下式設備の位置が特定できていることが前提条件となる。

 ここでは、米韓の軍事情報網がかなりの割合で特定に成功し、アメリカ政府が先制攻撃を決断したとして、どのような攻撃を加えることになるのかシミュレーションしてみよう(現実には、このような特定ができていないため、先制攻撃には踏み切れていない)。

・B-2ステルス爆撃機による攻撃

 先制攻撃の先陣を切るのは、重要な地下攻撃目標(おそらく核開発施設やアメリカへの報復用ICBMがスタンバイしている施設など)への地中貫通爆弾による攻撃である。大型地中貫通爆弾(GBU-57 “MOP”)ならびに地中貫通爆弾(GBU-28“バンカーバスター”)による攻撃が加えられることになる。

 このMOPやバンカーバスターを搭載して、攻撃目標近くの上空まで接近して攻撃を加えるのが、B-2ステルス爆撃機である(下の写真)。B-2ステルス爆撃機にはMOPならば2発、バンカーバスターならば8発を搭載することが可能だ。



B-2ステルス爆撃機(写真:米空軍)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 B-2ステルス爆撃機(写真:米空軍)

 アメリカ空軍は「世界で最も高価(1機およそ2000億円)な航空機」と言われるB-2ステルス爆撃機を20機保有している(21機製造されたが1機は事故で墜落してしまった)。テスト飛行用の1機を除く19機のB-2ステルス爆撃機は、全てミズーリ州のホワイトマン空軍基地を本拠地としている。これまでにアメリカ軍が実施した作戦行動の多くにおいて、B-2ステルス爆撃機はホワイトマン空軍基地を発進し、長時間飛行して攻撃目標を爆撃している。ただし、30時間以上のような長時間を要する作戦行動の場合は前進拠点からの運用も実施されており、グアムのアンダーセン空軍基地にもB-2ステルス爆撃機用の設備が完備されている。

 北朝鮮に対する先制攻撃では、アンダーセン空軍基地から出撃するB-2ステルス爆撃機によるMOPとバンカーバスターによる地下設備攻撃が、口火を切るものと考えられる。

・B-1B爆撃機による攻撃

 B-2ステルス爆撃機に引き続き、アンダーセン空軍基地を発進したB-1B爆撃機による攻撃が行われる。B-1B爆撃機は、空母や、日本それに韓国などの航空施設から飛び立った戦闘機の護衛を伴い、地上や半地下目標への猛爆撃を実施する。

 B-1B爆撃機はソ連とのデタントによって核爆弾は搭載できない仕様になっているが、有名なB-52H爆撃機よりも大型で、爆弾搭載量も多い(高性能爆薬500ポンド爆弾ならば84発搭載可能)。スピードもB-52Hより速く(マッハ1.2)、かつ機動性能に優れている。そのため低空を敵の防空レーダーを超音速でかいくぐって攻撃目標に接近することができる。



B-1B爆撃機(写真:ボーイング社)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 B-1B爆撃機(写真:ボーイング社)

・洋上からミサイル攻撃

 以上のB-2ステルス爆撃機およびB-1B爆撃機による奇襲的爆撃とタイミングを合わせて着弾するように、米海軍巡航ミサイル原潜や攻撃原潜、それにイージス巡洋艦やイージス駆逐艦などが大量のトマホーク長距離巡航ミサイルを発射する。そのためには、爆撃開始時刻の1時間〜30分前にはトマホークミサイルを発射することになる。

・B-52H爆撃機と韓国軍F-15戦闘機による攻撃

 引き続いてアンダーセン空軍基地から飛来したB-52H爆撃機が多種多様の爆弾を投下し、場合によってはアメリカ軍の指揮下に入った韓国軍のF-15戦闘機がバンカーバスターを含んだ爆弾を投下する。

・韓国軍も総力で攻撃

 これらの爆撃に加えて、韓国軍による砲撃や、巡航ミサイル攻撃、そして短距離弾道ミサイル攻撃(韓国軍は北朝鮮全域を攻撃することができる巡航ミサイルと短距離弾道ミサイルを多数保有している)など、ありとあらゆる火力を総動員して、北朝鮮軍の報復能力を壊滅することになる。

(残念ながら現状では、上記シナリオが成功し、30分程度と言われる“短時間”で北朝鮮軍の反撃報復戦力を完膚なきまでに破壊することは不可能と試算されており、ソウル周辺を中心とする韓国や日本に対して報復攻撃が加えられるのは必至と考えられている。そのため、トランプ政権は“口撃”は加えているものの、軍事オプションに踏み切ることには躊躇をせざるを得ない状態が続いている。)


当面は日本を怯えさせるだけで十分


 このように、北朝鮮にとっては、アンダーセン空軍基地を拠点にする米空軍爆撃機による攻撃こそが、核搭載弾道ミサイル攻撃と匹敵する、あるいはそれ以上の脅威と映っている。そのため、北朝鮮はグアム島攻撃能力の誇示にいそしんでいるというわけである。

 ただし、北朝鮮がグアムに向けて実際に弾道ミサイルを発射する段階には立ち至っていない。なぜならば、オバマ政権下で軍事予算を大幅に削減されてしまったアメリカ軍の現状では、B-2ステルス爆撃機やB-1B爆撃機を多数出動させたり、超高額なMOPやバンカーバスターをふんだんに攻撃に投入するまでにはかなりの準備期間が必要であることを、北朝鮮側は十分承知しているからだ。

 したがって、太平洋上に弾道ミサイルを撃ち込むミサイル技術の向上試射を時折実施して、日本にはるか頭上の宇宙空間を弾道ミサイルが通過する度に大騒ぎをさせて、怯えさせていれば事足りるのである。

この記事をはてなブックマークに追加

ねね あの猿関白禿げネズミ天下人豊臣秀吉の妻・寧々・高台院の全生涯5

2017年09月17日 08時09分11秒 | 日記






























 薄田隼人が朝鮮に渡航したのはフィクションである。だが、後藤又兵衛(基次)は本当に行っている。その朝鮮(現在の韓国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「薄田さん、先だっての長崎酒場での豊臣ものと徳川ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が朝鮮みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」後藤は涼しい顔で言ったという。「これからは後藤は倒幕でいきますよ」
 隼人も同意した。この頃豊前の黒田如水・長政らが京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
薄田隼人は坊主みたいに頭を反っていて、「豊臣のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず石田三成殿が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、薄田さんは義兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、義兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の三成殿への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
 後藤はにやりとした。「それ薄田さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
 後藤基次は酒をぐいっと飲んだ。黒田ものにとって酒は水みたいなものだ。

  薄田は近畿の後藤基次の元にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
 後藤は呆れた。「なにーい?!伊逹政宗を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、後藤さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、伊逹政宗さまは日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。伊逹政宗さまは誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、伊逹さまは幕臣でありながら、徳川幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「政宗は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、後藤さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
 同席の山有五平や伊藤俊平らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
 後藤は「薄田さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
 後藤は考えてから「わかってた薄田さん、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう後藤さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」薄田は場を去った。
夜更けて、薄田は師匠である伊逹政宗の供で江戸の屋形船に乗った。
 南蛮船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
 隼人は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。政宗公も隼人も屋形船の中では対等であったという。
 そこには土佐藩藩主・山内一豊公の姿もあった。が、殿さまがいちいち豊臣方の侍の顔など知る訳がない。
 隼人が豊臣党と秀頼らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
 一豊は伊逹政宗に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか豊臣方の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の薄田隼人です」といった。
「日本人?ほう」
 薄田隼人は一礼した。……虫けらか……淀君さまも秀頼さまも報われんのう……何だか空しくなった。
薄田隼人がのちの妻のりょう(龍)に出会ったのは京であった。
 りょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを隼人がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
 興奮して激しい怒りでりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
 宿の女将が「りょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるりょうにいった。
「おまん、りょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
 りょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」りょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
 りょうは絶句した。「のう、りょう殿」隼人は暴れ馬を静かにするが如く、りょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。りょうちゃんそれでええんか?」
 りょうは答えなかった。
 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
 


  関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。
この時、淀君や秀頼が馬鹿でなくて“豊臣家の戦である”とちゃんと認識していれば違ったろう。幼いが秀頼を軍の旗頭として西軍で戦っていればもしかしたら小早川秀秋の裏切りや西軍敗北もなかったかも知れない。だが、豊臣家は“対岸の火事”を決め込む。
直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。

********
黒田家臣期[編集]
当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後は黒田家重臣の一人として筑前六端城の一つ、大隈城(益富城)の城主となり、16,000石の所領を与えられたとされるが、実際は10,000石から14,000石が妥当ではないかとする指摘もある。
人物・その他[編集]
文禄の役における、平壌城攻略戦での嘉山城攻めで一番槍、迎撃戦での白川城において黒田一成とともに殊勲者となっている。
戦況判断に優れていた事を示す幾つかの逸話を残している。斥候中に、上流から日本の馬の沓(くつ)が流れてくるのを見つけて既に味方が渡河を開始していると判断。山かげで敵に遭遇した先鋒部隊の鬨(とき)の声が近付いてくるのを聞いて、圧されていると判断。遥か向こうの敵陣の馬煙を見て、近付いてくるなら黒く見えるはずだが、白く薄くなっているので、敵の敗北と判断。いずれも外すことは無かったと言う。
第二次晋州城攻防戦で、加藤清正の家臣と一番乗りを争い、森本一久が転落した後、飯田直景に下帯を引っ張られながらも、基次は寄騎の堀正勝とともに崩した城壁をよじ登ったが、直景に旗を放り込まれ、先に一番乗りの名乗りと一番首を挙げられたと記録されている。
母里友信、黒田一成と、一日交替で先陣を任された。
講談や軍記物語では、名槍「天下に二ツの槍(日本号)」は、虎退治で母里友信の窮地を救った基次が譲り受け、これを出奔時に友信の弟の野村祐勝の息子、野村祐直に渡されたとされる。
合渡川の戦いにおいて、西岸で石田方が待ち構える長良川を、強行渡河するか、それとも後続を待つ迎撃策かの軍議が乙津寺(鏡島弘法)で行われ、藤堂高虎から具申を求められる。「既に福島軍が竹ヶ鼻城を落とし、池田軍が織田軍を打ち破り、我らは岐阜城攻めに遅れ、まだ何の戦果も上げずにいる以上、論点ではない。」と答えて方針を決定させた。その後、黒田隊の一番渡河を果たしている。
黒田家から出奔した後、黒田長政から刺客を差し向けられていた。刺客が送られたことを忠告に来た者に対して、「噂に怖気づいているようでは、武士の名折れである」と動じずに語ったとされる。
外出中に2名の刺客の存在に気付いたが、刺客は基次を恐れて手が出せず筑前に逃げ帰った。しかし、長政はそれを止むを得ないものとして、その刺客を逆に100石を加増した。
子の左衛門が大坂で長政の刺客に誘拐された時、秀頼により救出され、毛利家に仕えたという。これに感謝して大坂方に付いたと言われる。左衛門は大坂の陣後、自刃を言い渡されている。
大坂の陣で基次に近侍した長沢九郎兵衛が、大坂の陣の様子を書いた『長沢聞書』を遺している。「傷を風呂で数えると、53箇所あった。」「指揮の声が通りやすいように、外していた面頬を持たされていた。」「真田丸の戦いは偶発戦ではなく、城兵と内通していた松平忠直を偽矢文で誘い出したもので、基次も采配を振るって雷のような攻撃を行った。」などの要旨の記載がある。
身長は六尺(180cm)を超えていた。大坂の陣の頃の体格は、肥満で巨漢だったと言う。
冬の陣の開戦前、伏見城を奪取し、瀬田・宇治川を防衛ラインとする作戦を具申し、真田幸村らに賛同を得たが、多くの反対派に退けられ大坂城での籠城戦と決まった。
今福の戦いでは、上杉景勝の家臣直江兼続の鉄砲隊に狙撃され、当たった数発の中の1発に脇腹を負傷させられたが、傷口を指で確認した後、「秀頼公のご武運は強い」と言い放った。一部の味方には、「一人で豊臣家を背負っているつもりか」とあざけられた。
野田・福島の戦いの後、豊臣方は船場に火を放って撤退した。この時、基次は煙に紛れて敵が夜襲してくる事を予測し、「若い者は手柄を立てよ」と伏兵を促したが徳川方は現れず、読み違いをあざけられた。しかし、夜襲は池田忠雄らに計画されていたが、基次を良く知る花房職秀の引き止めにより中止されていたという。
塙直之・米田是季・御宿政友らの本町橋の夜襲戦の際には、直之の上司である大野治房から求められ教授している。
大野治長と並ぶ主将格でありながら、戦闘放棄を繰り返す織田長益・頼長父子に対して、最も反感を持っていたとされる。
道明寺の戦いの前、小侍と嫡子の従軍を禁じた。長沢九郎兵衛は、すぐ退却できるように下馬して戦わない事を条件に認められた。
道明寺の戦いの数日前、平野郷での滞陣中に家康の参謀本多正信の親族で、基次と長宗我部盛親の旧知であった京都相国寺の僧・揚西堂が、家康からの使者として訪れる。播磨で50万石という法外な条件での帰順を持ちかけられたが、感激するもこれを拒絶する。これにより、徳川方への内通との噂も立っている。
配下の神西不楽は、仙石秀久に仕える前からの盟友であり、夏の陣に先立って流れ矢を受け、戦死した。
夏の陣で激突し、自ら槍を持って小松山に突入してきた水野勝成とは、仙石秀久の四国攻めと、黒田長政の豊前の国人一揆との戦いに、共に従っている。後者の野仲重兼との長岩城の戦いでは、殿(しんがり)の功名を競い合い、共に高名な存在であった。
伊達家では片倉重長鉄砲隊が討ち取ったとしている。『武功雑記』では、松平忠明配下の山田十郎兵衛が討ち取ったとしている。『難波戦記』では、腰を撃たれ歩行不能となったため部下の吉村武右衛門に命じて介錯された後、『長沢聞書』では奪い返した後、その首を深田に隠されたとしている。
『伊予古跡誌』では、基次の首は後日、吉村武右衛門に持ち帰られ、基次の伯父が住職を務めていた伊予国の長泉寺に埋葬されたとしている。この寺には2015年、後藤又兵衛の石像が建立された。
2015年、生誕の地とされる姫路市山田町の福田寺に『後藤又兵衛顕彰碑』が地元の有志によって建立された。(なお、大坂府柏原市にも顕彰碑が建立されている。)また、「後藤又兵衛顕彰会」が結成され、後藤神社と福田寺の双方に、奈良県宇陀市にある伝説の又兵衛桜と同種の、エドヒガン桜も植樹された。顕彰会では又兵衛の銅像建立を目指している。


傾奇者「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は前田慶次(まえだ・けいじ、正しくは慶次郎)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 滝川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた滝川一益(たきがわ・かずます、関東征伐を企てる織田信長の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、益氏!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」滝川益氏(ますうじ、一益の従弟。常に滝川軍の先鋒を務める荒武者である)は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 益氏の次男で前田利家の兄・利久に養子にやられたのが前田慶次である。傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で父益氏の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、慶次にやらせよう」
 慶次ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの野郎!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
「悪魔?」慶次は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 慶次は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり前田慶次は凄い男だ。
 滝川軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る慶次である。
 北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が鬼が味方しておる。
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋と申す!貴殿、名は?!」
「前田慶次!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに慶次は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 慶次は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。
「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 利家は絶句した。
 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。
 そして歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。
 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく「猿踊り」をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して「天下の傾奇者」と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。
前田利家の正室はおまつ(もしくはまつ)である。美貌で知られたが慶長四年九月、利家の死後その子利長に家康暗殺のもくろみがあるとして家康が加賀に大軍を派遣しようとした時、まつは自ら人質第一号として江戸に下ることにより、前田家を救ったほどの肝の座った女丈夫である。
 まつは十二歳で利家の妻になった。清純な少女のとき、慶次はまつが石垣の花束を摘んでいるのに見とれていた。
 ………麗しき女子じゃ。十一歳も離れた叔父に嫁ぐのか。もったいない。
 まつが石垣の高嶺の花を摘もうとして石垣から落下した。
 慶次と助右兵衛門はまつを救った。
 まつは釈迦如来のような神々しい微笑を浮かべ「かたじけぬ。まあ、ひどい顔、はいご褒美」花をまつは差し出した。「これからもわれをまもってたも」
 慶次はそのときまつに惚れたのだ。

  話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。


 慶次が「この男は凄い」という男がいた。
 それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
 上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
 上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
 慶次は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。
 だからこその、上杉家への仕官であったのだ。


*****続く(刊行本または電子書籍に続く)***続く***

この記事をはてなブックマークに追加

それでもアメリカが北朝鮮を攻撃しない5つの理由

2017年09月10日 19時10分53秒 | 日記

































それでもアメリカが北朝鮮を攻撃しない5つの理由



部谷 直亮





 ついに北朝鮮が核実験を行い、大陸間弾道ミサイルの発射実験という情報も流れている。一部では開戦前夜のような雰囲気すらある。

 筆者は4月より一貫して「米国の北朝鮮攻撃はない」と主張してきたが、やはり年内の攻撃は「現時点」ではまずないと見る。それは各種の動きを見れば明らかだ。


1)超党派で北朝鮮の「核武装容認論」が高まっている



金正恩 ©共同通信社© 文春オンライン 金正恩 ©共同通信社
 そもそも米国では北朝鮮の核武装容認論が、民主党、共和党主流派・保守派という米国政治の主役たちの内部で高まっている。

 例えば、共和党主流派であり、ブッシュ・オバマ両政権の国防長官を務め、トランプ大統領とも関係の深いロバート・ゲーツ氏はウォールストリートジャーナル(7月10日)のインタビューに対し、「北朝鮮の核武装と体制を容認すべきだ」と驚くべき発言を行っている。

 その趣旨は、「北朝鮮への先制攻撃は論外であり、新たな選択肢を取るべきだ。キューバ危機の解決に倣い、米国は北朝鮮の体制を容認し、体制転換を放棄し、平和条約に調印し、在韓米軍を削減する。その代わりに、北朝鮮は核・ミサイル開発計画を凍結させ、核戦力は短距離弾道ミサイルや12~24発程度の核弾頭の保有に限定させる」というものであるという。そして、この提案を北朝鮮が拒否した場合は、日米韓はミサイル防衛網で包囲し、北朝鮮が大陸間弾道ミサイルを発射すれば迎撃すると宣言すべきだとした。

 彼の発言で注目すべきは、ついに共和党の重鎮からも北朝鮮の核武装を容認すべきという見解が出たことである。しかも、それは北朝鮮が大陸間弾道ミサイルの保持さえしなければよいというもので、日本と韓国が核の威嚇下に置かれることは容認するものなのだ。しかも、この提案が拒否されても武力行使を否定していることはよくよく留意すべきだ。

 また、オバマ政権の国家安全保障担当大統領補佐官を務め、リベラルホーク(積極的人道的介入論者)として知られるスーザン・ライス氏も、8月10日のニューヨークタイムズにて、「先制攻撃は米国民を含む数十万人の死者と世界経済への大打撃を生み出す大惨事につながりかねない。金正恩は悪質だが合理的であり、抑止力を理解している。これは同盟国への核使用や核兵器の流出が北朝鮮の崩壊を招くということを理解しているということだ」と北朝鮮の核武装容認論を訴えた。

 そして、トランプ政権の中核的支持層とされる共和党保守派でも攻撃論は盛り上がっておらず、最大限の対応として海上封鎖論が上がっている程度だ。トランプ政権の政権移行チームや閣僚・スタッフに多くの人員を送り込み、今年の予算教書の下書きを書いたヘリテージ財団が運営するメディア「デイリー・シグナル」は、ホワイトハウス特派員による興味深い記事を載せた。

 それによれば、ネオコンで知られるボルトン元国務次官の側近である、大量破壊兵器問題の専門家フレッド・フリッツ氏は、「先制攻撃以外にも軍事的選択肢がある。北朝鮮のミサイル実験に対してミサイル防衛システムで撃墜する。第二は、海上封鎖である」と語ったという。

 実は、この海上封鎖案こそ、トランプ政権が「最後の手段」として検討している可能性が高いのである。というのも、本年4月22日の産経新聞も、米政府から日本政府にこれに合わせた要望があったと推測可能な記事を掲載しているからである。

 このように、民主党、共和党主流派・保守派を見渡しても、北朝鮮への攻撃どころか、日本を見捨てた米朝和平を唱えるばかりで、もしくはせいぜいが海上封鎖どまりなのである。


2)空母の展開が攻撃時のものではない


 空母の動きからも北朝鮮への攻撃がないことは明白だ。かつてビル・クリントン大統領が「危機が起きた時に、ワシントンで誰もが最初に口にするのは、『最も近い空母は今どこにいる?』だ」と述べたことがある。空母打撃群こそが米国の武力行使の先駆けであり、その動きに注目すべきである。

 ここで理解しておかねばならないのは、限定攻撃であっても、米軍は最低でも3隻の空母を用意している点だ。実際、リビア空爆(1986年)は空母3隻、湾岸戦争は空母6隻、ユーゴ空爆は空母1隻+同盟国軽空母2隻、アフガン攻撃は空母4隻程度、イラク戦争は空母6隻で攻撃を実行している。また、ブッシュ政権末期にイラン攻撃がささやかれた際は空母3隻がペルシャ湾に集結したが、攻撃には至っていない。

 しかも、北朝鮮の防空網はイラクやリビア以上であり、相当強力だと米国の専門家からも評価を受けている。彼らの航空戦力はなきに等しいが、イラン製の新型フェイズドアレイレーダーを装備している他、ロシア製S-300のコピーとされるKN-06対空ミサイルを複数装備している。また、低空攻撃であれば、携帯式対空ミサイルや対空砲が数千門を超える数を展開している。これを叩くには最低3~4隻の空母は必要とみるべきだろう。実際、古い事例だが1969年にニクソン大統領が北朝鮮への懲罰的攻撃を検討した際は、空母4隻が投入される予定だった。


©iStock.com© 文春オンライン ©iStock.com
 さて、ここで最新の9月4日の状況を見てみよう。現状で西太平洋に展開する空母機動部隊は、ロナルド・レーガンただ1隻。これではいかにも戦力不足だ。しかも、現在、展開中の空母の内、ジョージ・ブッシュはジブラルタルから地中海へと移動中。ニミッツは中東に展開中。セオドア・ルーズベルトは訓練を終了し、今後西太平洋に展開するとされるが、いまだ北米西海岸に遊弋中である。

 その他はどうか。カール・ビンソンは長期休養から復帰し、訓練を先月開始したばかりでまだまだ。エイブラハム・リンカーンも4年間もの長期整備を5月に終え、いまだに訓練中であり、まだ実戦には投入できない。ハリー・トルーマンは整備明けの訓練中で少なくとも10月まではかかる見通しである。ジョージ・ワシントン、ドワイト・アイゼンハワーは長期整備中でとても使えない。ジョン・C・ステニスは8月に改修工事を終了したが、半年は訓練が必要という状況である。

 となると、ニミッツもしくはブッシュは中東の抑えとして必要なので、直近で投入できるのはレーガン1隻だけである。1か月以内に投入できるのはブッシュもしくはニミッツ、ルーズベルトだが、これらの動きは現状ではない(ニミッツが東インド洋へと動いている兆候はあるが)。直近での北朝鮮への攻撃はまずないと考えるべきだ。


3)軍事の常識「3倍の法則」に注目


 また、北朝鮮攻撃時には、戦後の治安維持や大量破壊兵器の確保に備えて、陸軍の動員が欠かせない。だが、トランプ政権はシリアに派兵中であり、アフガニスタンには4000人もの増派を決定した。軍事には「3倍の法則」がある。つまり、派兵した戦力以外に2倍の兵力が実任務・休息・訓練のローテーションをこなす為に必要だということであり、4000人の増派は実質的に12000人の地上戦力が拘束されたことを意味する。既にアフガンやシリア・イラクに展開する戦力を含めれば、必要戦力はさらに膨らむだろう。

 そして、アフガン増派を主導し、トランプ政権の外交安保政策を取り仕切るマクマスター国家安全保障大統領補佐官は、シリアへの万単位の派兵を模索しているともいわれる。米国ではイスラム国(IS)が衰退した今こそ、シリアへの大規模派兵を行って主導権を握るべしとの論調が強い。そうなればますます北朝鮮どころではない。


©getty© 文春オンライン ©getty

4)ハリケーンの被害でそれどころではない!


 そもそも、北朝鮮と日本と米軍しかこの地上にないと考えるから問題を見誤るのだ。米大統領は、全世界及び米国内を見た上で判断を下している。まずは米国内だが、猛烈なハリケーンがトランプ大統領と共和党の強力な地盤である南部を襲い、熱烈な支持者たる市民とスポンサーたる石油ガス産業に打撃を与えた。過去にもブッシュ政権がイラクにうつつを抜かしている間に、ハリケーンが直撃して甚大な被害をこうむった結果、イラク戦争でもめげなかった熱心な支持者が離反したことを思えば、トランプが切羽詰まった状況に置かれていることは容易に想像がつくだろう。

 世界レベルで見ても、米ロ対立は高まりつつあり、北朝鮮と違って石油を産出し、米国に近いベネズエラはいつ政権が崩壊してもおかしくない。トランプ政権の中枢は中東専門家ばかりで、中東情勢は相変わらず死屍累々である。こうした状況を鑑みれば北朝鮮どころではない。


5)そもそも金正恩政権こそがよくわかっている


 そもそも、金正恩政権が今になって、核実験に踏み切ったことにこそ、米国の北朝鮮攻撃がまずないことを明瞭に示唆している。彼らはアメリカ側の内情をよくわかっている。同時に、これは米国の北朝鮮への抑止力がかなり低下していることを示唆しており、日韓は注意していく必要がある。

 以上を踏まえて、我々が懸念すべきは、米国による北朝鮮への先制攻撃ではなく、日本を蚊帳の外に置いた米朝和解である。為すべきは、生まれたての小鹿のようにおびえるのではなく、短期的には米国の海上封鎖に――平和安全法制も含めた現行法では何もできない――どのように対応できるようにするのか、そして長期的には安全保障環境を踏まえて、どのように効率的に予算を含めた資源を投入していくのか議論すべきである。一昨年は尖閣諸島、去年は南シナ海、今年は北朝鮮のミサイルと、思い付きのように対応するべきではない。

 今こそ、噂話やトランプ大統領の一部の発言をつまみ食いすることもなく、また希望的観測にすがることもない、確たる根拠に基づいた情勢分析の議論が必要だ。

この記事をはてなブックマークに追加

最上義光 羽州の狐伊達政宗と最上義光<独眼竜の陰に隠れた知略家の悲運>5

2017年09月10日 09時01分07秒 | 日記



























         2 信玄




  上杉と武田の和睦がなった。
 兼続は武田信玄二十四将のひとりといわれる高坂弾正忠昌信と会談を挑んだ。信濃、上野の両国の上杉領の割譲というもので、武田も納得した。
 しかし、そんな武田も長篠の戦いでほとんどは鉄砲のえじきとなってしまう。
  永正11年(1514年)最上氏第9代義正と長谷堂戦で、義光は伊達植宗に大敗した。天文11年(1542)になり、伊達植宗と伊達晴宗との父子の間に『天文の乱』が起こる。 と、義光は植宗に味方して伊達領に出兵し、長井を制圧して独立を果たした。
 永禄3年(1560年)15歳で元服し、将軍・足利光輝(のちの光昭)より『義』の文字を賜り、義光…最上義光と名乗った。そして妹を伊達氏へ嫁がせたのは前述した。
 父子の乱が勃発する。父親・最上義守と義光が戦になった。歴史上では『天正最上の乱』と呼ばれる戦だ。元亀元年(1570年)に父と子は和睦した。2年後に父は『栄林』と号して禅門に入り、政治から引退したという。
 悪名高い『中野最上の乱』では、最上義光は天正2年(1574年)に中野城(出羽国)を攻略して、実弟の中野義時を自害させた。大正時代の小説などに書かれた事変だが、廃藩後の少ない資料でのことであり事実と違うとの説ある。
 天正5年(1577年)義光は天童氏攻略をしたが失敗、城主・天童頼貞の女を側室とすることで和睦した。


    
  信長にとって最大の驚異は武田信玄であった。
 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。
 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。
 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。
 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。
 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。
 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。
「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。
 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。
 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。
 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。
 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。
 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。
 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。
 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。
 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。
「天はわしに味方した。好機到来だ」信長は手をたたいて喜んだ。




   信長の死

  将軍・足利義昭は信玄の死を知らなかった。
 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
 知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
”落ち武者”のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
 光秀は「しかし……お屋形さま?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、お屋形さま!」
「なんじゃと?! サル」
「お屋形さまのお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
 秀吉もこくりと頷いた。
 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。






  信長は大軍をすすめ、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
 朝倉義景は自害した。享年四十一歳だったという。
  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
 しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。

  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。




  家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「ふたりとも殺すように」という書状を送った。
「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!
「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」
「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」
 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」
「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。
  ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。
 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。
 それは微かな、暗い呟きだった。

  信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。
  そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。
 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。
 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。
 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列づつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発づつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。
 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。
「撃て! 放て!」信長はいった。
 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。
 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。
 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。
 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。勝頼は自害、武田は滅亡した。
 これで東側からの驚異は消えた訳だ。
 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。

  信長は岐阜から、居城を安土に移し、絢爛豪華な安土城を築いた。
  城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。
 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……
「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」
「信長さまは人間にこざりまする! 人間は神にはなれませぬ!」
 林は必死にとめた。
「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。
 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………
 林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。
「お……お……お屋形さま…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……
「お屋形さまは……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。





  天正十年(一五八二)、明智光秀は居城に帰参した。
 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」
「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」
 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。
 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」
 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。
「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」
 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。
「あの方が……いなくなれ…ば…」
 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!
「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。
  かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。
 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。
「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」
 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。
「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。
「いえ。めっそうもない」
「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」
「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでごさる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」
「ははっ」家康は平伏した。
 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」
「……いいえ」
「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」
 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。

  しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。
「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」
「は? ……羽柴殿の?」
 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。
 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。
「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」
 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。
  しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。
 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!

  元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。
 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。
 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………
 かれは完全に油断していた。

 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。
「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」
 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。
 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。
 ……時は今、雨がしたしる五月かな…
 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。
 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。
 ……信長を討ち、わしが天下をとる!
 光秀は頭を激しくふった。

「敵は本能寺にあり!」
 明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」
 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。
「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。
「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」
「何っ?」
「…殿…すべて包囲されておりまする」
「是非に及ばず」信長はいった。
 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。
 享年四十九、壮絶な最期であった。                       





        3 関ケ原合戦







  秀吉が死んだあと、五大老の筆頭で二百五十万石の巨大大名である家康は、秀吉が豊臣家を守るために決めておいた掟をやぶり、何事もひとりで決めていた。
 当然、豊臣家恩顧の大名たちに不満が生まれていた。
 しかし、時代はもう徳川だ、とするどい見方をする大名も多かった。
 家康は大阪城に入って、秀吉の子・秀頼とあった。守り役は前田利家である。前田利家は加賀百万石の大名で、秀吉の無二の親友でもあった。
「わしが秀頼さま、ひいては豊臣家を守る」前田利家そういって憚らなかった。
 しかし、そんな利家も病死した。
 家康にとっては煩いやつがいなくなって、ラッキーに思っただろう。
 最上義光は東軍につくことを決めていた。それは、秀吉の甥の秀次に、娘の駒姫を嫁がせていたのだが、切腹のおり駒姫まで京三条河原で処刑されたからだ。
 義光はその報をきいたとき「お駒…お駒! くそう、あの猿め! 目に物みせてくれる!」と怒り、涙した経験からだ。意地でも豊臣家などにつきたくはなかった。
 義光は東軍の秋田実季と結び、伊達との連合で上杉軍を討つ役回りとなった。

「このままでは豊臣家は危ない。家康さえいなくなれば…」
 石田三成は家康の暗殺を企てた。が、失敗した。慶長九年九月、秀吉の葬儀が行われた。これを機に、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだした。
 だが、それに気付いたのか、石田三成は夜陰に乗じて船で逃げていた。
 三成は複雑な心境だったに違いない。秀吉の生きているうちは我が物顔でなんでもやってきたのに、秀吉が死ねば、自分は暗殺の対象にまでなってしまう。
 かれはリターン・マッチを誓った。「豊臣家に恩のある大名を集めて、家康と一戦交える!」とにかく、かれはそのことで頭がいっぱいだった。
 石田三成の政治目標は、太閤の死で先行きが不安となった豊臣政権の護待と安泰、発展を計ることであったという。そのためには太閤の政権を破壊する危険のある家康を殺すことだった。家康さえ殺せば、諸大名はなびく。幼主・秀頼をトップに、三成が宰相となって天下に号令する。戦略としては正しかった。近江佐和山二〇万石の下級大名の三成が、上杉や毛利、島津という大大名を美濃の山奥・関ケ原まで出兵させるのに成功したからだ。 上杉らは西側が勝つと思ったから出兵したのだ。結局は負けたが、石田三成の企てだけは正しかった。まず大義名分を掲げ、有力なスポンサーを確保し、有名な大物を旗頭にすえる……まさに企てとしては正確である。
 しかし、しょせん石田三成など近江佐和山二〇万石の下級大名に過ぎない。家康のような知謀や軍事力がない。だから負けたのだ。
  さて、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだして、それに気付き逃げた三成は、なぜか家康のところへ助けを求めにきた。なぜだろう? よく分からない。
「三成殿、腹は空いておらぬか?」家康は上座で、石田三成を労った。
「いいえ」三成は続けた。「ひとつおききしたいことがごさる」
「なにかのう?」
「家康殿は……豊臣家を何とこころえるのか?」
「……三成殿」家康はかれを諭した。「何事もせいてはことをしそんじまするぞ。三成殿、まずは頭を冷やし、佐和山に帰参してそれから考えてはいかがか?」
 石田三成は何もいわなかった。只、無言のまま下唇を噛むのだった。







******続く***(刊行本か電子書籍)に続く********

この記事をはてなブックマークに追加

Проблема Северной Кореи

2017年09月08日 16時38分14秒 | 日記





















Проблема Северной Кореи <Почему Ким Ронг-нок придерживается ядерных ракет МБР? > Корейский полуостров в перемирии




Почему Северная Корея будет придерживаться ядерных ракет МБР, пока они не будут голодать от людей и голодать?


На самом деле это неизвестно, но Южная Корея и Северная Корея все еще находятся в «состоянии перемирия».


38-я линия, проведенная между Северной Кореей и Южной Кореей ... Это не граница, а линия в соглашении о перемирии в перемирии в корейской войне 1950-х годов. Да, Корейский полуостров еще не закончил войну.


И почему Северная Корея придерживается ядерных ракет? Это объясняется тем, что диктатор Северной Кореи «Желтый Гитлер» Ким Чен Ир знает, что «если вы будете сражаться против американской армии, вы проиграете».


Например, Ирак Саддама Хусейна, Ливия полковника Каддафи ... Это диктатура и были убиты американским военным правительством США, потому что у них нет ядерных ракет, а Саддам и полковник Каддафи были убиты. Ким Чен-эн боится, что «даже я это сделаю» (Убийство и государственное свержение) ».


Однако Северная Корея не хочет «желать войны», но хочет установить «мирный договор» с Соединенными Штатами. Я хочу, чтобы вы гарантировали поддержание режима Ким Чен Ира · Династия Ким Дэ, а не государство перемирия ... Инструментом для переговоров является ядерная ракета МБР.


Нет страны, которая отбрасывает ядерное оружие. Другими словами, Северная Корея намерена угрожать Соединенным Штатам ракету ядерного МБР, поддерживать династию Ким, поддерживать структуру северокорейского диктатора Ким Ронга и создать «мирный договор».


Положите Соединенные Штаты на стол переговоров ... ... Это спекуляция Северной Кореи Ким Раэ-Нам.


Однако, если Северная Корея принесет ядерные ракеты МБР, она «теряет» в международной политике. Это и есть диктатор «Желтый Гитлер» Ким Чен Ир.


Прежде всего, это полная экономическая санкция. Мы остановим как нефть, так и электроэнергию из Китая и России.


Если вы сокрушаете амбиции Ким Чен Юна, «Ким Чен Ир имеет ядерную ракету МБР» только перед этим.


Если у Северной Кореи есть ядерные ракеты МБР, остается мнение Ким Чен Ира. Китай и Россия также будут выступать против экономических санкций. Потому что я не хочу вмешиваться. Однако сохранение «желтых нацистов», таких как Северная Корея, «Желтый Гитлер», как Ким Чен Ир, является концом международной политики. Международная ситуация будет кризисом, если она не будет надежно удалена.


Сейчас есть только один случай, когда Северная Корея обладает ядерными ракетами МБР. Прежде всего, это чемпион Ким Чен Ира.


Другого пути нет, кроме как уничтожить такую ​​ненормальную нацию. Прекратите амбиции Ким Чен-эн. Это справедливость, то есть стратегия, которая справляется.


«Желтый Гитлер» Если мир не сокрушит амбиции Ким Хон.


Только это реальность, о которой должен знать мир.


конец



Уэсуги (Нагао) Кагетара 7 сентября 2017 года

この記事をはてなブックマークに追加

북한 문제 <왜 김정은은 핵 ICBM 미사일에 집착 하냐고? >

2017年09月07日 18時23分20秒 | 日記




























북한 문제 <왜 김정은은 핵 ICBM 미사일에 집착 하냐고? > 휴전 상태의 한반도




왜 북한은 국민을 굶겨 기아 상태로까지 핵 ICBM 미사일에 집착 하냐고?


이것은 사실별로 알려져 있지 않지만 한국과 북한이 여전히 '휴전 상태'하다는 것이다.


북한과 남한 사이에 갈린 38 선 ...... 저것은 국경선이 아니라 1950 년대 한국 전쟁의 휴전 휴전 협정의 선이다. 이렇게 한반도는 아직 전쟁이 끝났다 것은 아니다라는 것.


그리고 왜 북한이 핵 미사일에 집착 하냐고? 이는 북한의 독재자 "노란 히틀러"김정은이 "미군과 싸우면진다"고 알고 있기 때문이다.


예를 들어 사담 후세인 이라크와 카다휘 대령 리비아 ...... 이들은 독재 국가에 핵 미사일을 가지고 있지 않기 때문에 미군 미국 정부에 으깨 사담도 카다휘 대령도 죽었다. 김정은은 "자신도 그렇게되는 것은? (암살이나 국가 전복)"고 우려하고있다.


그러나 북한은 "전쟁이하고 싶다」것이 아니라, 미국 사이에 '평화 조약'을 맺고 싶은 것이다. 휴전 상태가 아니라 김정은 체제 · 금 왕조의 유지를 보증 해 주었으면 ...... 따라서 협상 도구가 핵 ICBM 미사일이다.


일단 핵무기를 가지면 그것을 던져 국가는 없다. 즉, 북한은 핵 ICBM 미사일로 공갈하고 미국을 위협하고, 금 왕조의 유지, 북한의 독재자 김정은 체제의 유지와 '평화 조약'을 확약하고 싶다는 것 같은 것이다.


미국을 협상 테이블에 띄지하는 ...... 그것이 북한의 김정은의 의도이다.


그러나 북한이 핵 ICBM 미사일을 가지고 버리면 국제 정치에서는 '패배'이다. 그야말로 독재자 "노란 히틀러"김정은의 마음대로이다.


우선, 완전한 경제 제재이다. 석유 전기도 중국도 러시아도 정지한다.


김정은의 야망을 때려 부술 경우 "김정은이 핵 ICBM 미사일을 가진"이전에 지나지 않는다.


북한이 핵 ICBM 미사일을 보유 해 버리면 김정은의 생각한다 만 남아있다. 중국과 러시아도 경제 제재에 반대하는 것이다. 휘말리고 싶지 이니까. 그러나 북한과 같은 "노란 나치"김정은과 같은 "노란 히틀러"를 살려 두어서는 국제 정치의 결말이다. 확실히 지워야 국제 정세는 위기 인 셈이다.


북한이 핵 ICBM 미사일을 보유하기 전에 지금 밖에 기회가 없다. 우선 김정은의 목을 잡으면 장군이다.


이런 비정상적인 국가는 늦기 전에 때려 부술 수 밖에 없다. 김정은의 야망을 멈추려. 그것이 정의이고, 그것이야말로 전략이며, 그것이 해결하는 것이다.


"노란 히틀러"김정은의 야망을 때려 부수 지 않으면 세상이 끝난다.


그 것만은 세계가 알아야 현실이다.


끝났



우에스기 (나가오) 카게 토라 2017 년 9 월 7 일

この記事をはてなブックマークに追加