経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

イギリス農業事情 - 近代史断片

2009-02-28 03:06:17 | Weblog
天皇制の擁護 第九章 アングロ・サクソンの政治 解説(3)

   イギリス農業事情

 信じられないような話ですが、西欧中世の前半では小麦一粒植えてせいぜい2-3粒の小麦が得られたそうです。この事実を語る歴史家自体が、嘘のような話だが、そうとしか言えない、と言っています。収穫高はわずか2-3倍。日本古代の稲作ではまず20―30倍というところでしょうが。西欧の農民はよく生きてゆけたなと思います。だからあちらでは牧畜を盛んにしたのでしょう。混合農業ということになります。中世初期の大荘園といっても広大な原っぱか荒蕪地で羊などを放し飼いし、そのあちこちで生産性の低い麦作をしていたようです。日本との比較ですが、稲作と麦作では根本的な違いがあります。稲は半水棲植物です。メコン川下流では2-3mの深さで栽培できる品種があります。水棲ですから耕地は常に川上から運ばれてくる肥料で潤されます。麦ではそうは行きません。1年か2年耕作したら休閑。従って予備としての広い土地が必要です。
 
11―12世紀になり農業上の革命が起こります。まず鋤が改良されました。6頭の馬に引かせる鉄製の有輪鋤です。両側に車輪がつき、馬に引かせます。6頭びきだから大型で高価です。ここで農法が変化します。三甫制農業の出現です。大型の鋤なので方向変換をなるべく避け、直線コ-スで耕運します。また費用がかかるのでこの鋤は共同所有になります。となると各農家が、土地を小規模な断片で所有し耕作するわけには行きません。どうするかと言うと、村落共同体の耕地全体を農家の数で除し、それを各農家の持分として、収穫物の取り分を決め、あとは共同耕作にします。

 鉄製有輪鋤の出現により、村落全体による共同作業が可能になりました。ただ土地の肥力は弱いので土地は時々休ませます。耕作地全体を、冬まき小麦用、春まき小麦用、休閑地の三つに分けます。休閑地は自然な草地にし、羊や牛を放牧します。彼らの糞便が肥料になるわけです。こうして生産力の低い土地の有効利用が可能になりました。個々人が荒蕪地をあちこち耕していては休閑する土地が増えてしまいますから。耕作地以外の森林やらです。その点商品作物なら付加価値が高く生産工程が複雑で、お上の目をごまかせます。
その他は村落の共同所有になりました。農民はここに豚を放し(どんぐりが飼料)燃料確保の場所にします。

 こういう事情ですから、冬には家畜の餌がありません。やむなく必要な数だけ残して、後は殺して塩漬けにして保存します。現在ベ-コンだソ-セ-ジだといっている食品です。あまり大量に殺すことへの後ろめたさ故か、殺戮した家畜の弔いの祭りをします。これがカ-ニヴァル(謝肉祭)の起源のようです。弔いというより肉の大量摂取という楽しみの祭りでもあります。飲んで食って騒ぎます。

 また腐らないように大量の岩塩で塩漬けにした上、冬も半ばを過ぎると不味く(臭く?)なります。だから中世の農民、というより贅沢ができる貴族や大商人にとっては臭いを消して、美味しくしてくれるものが必要でした。胡椒です。中世胡椒はアラビア商人とイタリア商人の独占でした。金1gと胡椒1gがほぼ等価であったとも言われます。中世の西欧の胡椒への渇望が、ガマやコロンブス、マゼランをして大航海させた事は周知のところです。我々日本人にはあまりピンと来る話ではありませんが。

 中世末期から近代初頭にかけて、農業は大きな変革を迎えます。農業生産力が向上します。まず土地改良、次に交通網の整備(販路確保)、商品作物の栽培、そしてなによりも農法の改良です。農法の改良の中で特記すべきは、クロ-バ-と蕪の栽培です。クロ-バ-はマメ科の植物なので、空中窒素を固定でき土地を肥沃にしてくれます。蕪は家畜の飼料になります。保存もききます。こうして家畜を大量殺戮する習慣をやめることが可能になりました。
農業が儲かるものとなると、今までの三甫農法ではまだるこくなります。村落共同体の平均ペ-スに合わせるより、甲斐性のあるものはなるべく自分の判断で大胆かつ独創的に経営したほうが宜しいとなります。こうして金持ち有力者による土地の集積が行われました。囲い込み(enclosure 厳密には第二次)と言います。どうしてこういう暴力的なことが可能になったのか、私にはわかりかねる事が多いのですが。事態は次のように進行します。まず森林や荒蕪地を有力者(ジェントリ-及びそれ以上の貴族)が柵をして一方的に私有を宣言します。共有地を占拠されては中世的共同経営は不可能です。加えて耕作地も柵で囲い込まれます。農民は小作になるか、外へ出るしかありません。第二次囲い込み運動が盛んに行われた17世紀から18世紀にかけてイギリスでは乞食が激増したそうです。私にはこの暴力による土地占有としか思えません。囲い込み運動が理解できません。当時の日本は徳川将軍の治世下にありました。将軍も大名もこんな事は考えつきもしません。農本主義の下に、百姓は「おおみたから」としてその耕作権は明治に至るまで確固として護られていました。

 イギリスではこうして農業生産性が向上します。結果としては食料が安価に都市に供給されるようになります。農村は、地主と大借地農、と農業労働者(小作農ではありません)の三階級に分かれた階層社会になりました。地主はジェントリ-(郷紳)以上の貴族です。イギリス紳士(gentleman)とは基本的に土地収入だけで食っていける階層を意味します。アガサ・クリスティ-の名作「ポアロ」で描かれる社会では、ご主人様と召使の階層がくっきりと分かれています。
農業革命が行われて食糧生産が向上して、産業革命が起こります。本はといえば三甫農業が原点です。ベルギ-のブリュッセルを中心に半径500kmの円を描いて、その内部に含まれる、南イングランド、北フランス、西南ドイツそしてベネルックス3国に相当する地域が産業革命の始発地です。これは同時に三甫農業が栄えた地域でもあります。

 18世紀の日本の農業事情はどうだったでしょうか?こちらの発展も相当なものです。肥料の使い方が違います。当時の日本海には鰯や秋刀魚がうようよしていました。これらの小魚を煮て干して臼で砕いて、肥料にします。お金で買う肥料なので金肥といわれました。これをどんどん使います。そしてどこの世界でもそうですが、食料そのものより商品作物の方が儲かります。大阪周辺の農民は米を作りたがりませんでした。木綿と菜種、それに煙草、茶に酒米。地方では藍、紅花、塩、砂糖などの特産です。幕府は食料を増産させようとしましたが、農民は嫌がりました。あまり儲からず、きっちり年貢を取られるからです。うまく税金をとれないことを悔しがって、8代吉宗に仕えたある能吏は「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど取れる」と放言しました。本来農民が富裕になった証のこの言葉が、一部の不勉強な学者によって歪曲され、酷吏に搾取される貧しい農民、を表す言葉になりました。


 以下19世紀初頭のイギリス社会の年収です。(山川出版 イギリス史3巻より)

王族       42000£   高級貴族  5000-10000£
ジェントリ-   2000£    高級官吏  980£
下級官吏      300£    将校    200-250£
兵卒         42£    下位聖職者 200£
法律家       400£    医師    300£
上層自作農     275£    借地農   120£ 
大貿易商・大銀行家 2600£   船主    600£
浮浪者・売春婦     12£   被救済民    10£
 (注)£はポンド
船員          45£   製造業者  804£
小売商        200£   事務員    70£
宿屋・パブの主人   100£   職工・労働者 48£
大学教授       600£   学校教員   204£どうしても農民からう

イギリス史点描 ヘンリ-2世

2009-02-25 00:10:21 | Weblog
 「天皇制の擁護 第九章 アングロ・サクソンの政治」解説(2)

   イギリス史点描 ヘンリ-2世

 イギリスは1066年のノルマン征服以後現在に至る934年の間に9つの王朝が交代し、41人の王が即位します。ヘンリ-2世は初代のウィリアム1世の外曾孫であり5人目の英国王です。イギリス史を代表する王としてはこの二人の他、チュ-ダ-朝のヘンリ-8世とエリザベス1世、そしてオレンジ朝のウィリアム3世が有名です。そして多分ここで取り上げるヘンリ-2世が一番知名度が低いでしょう。少なくとも日本では。

 ノルマン朝は2世代目で行きづまります。ウィリアム1世の死後3人の王が交代し、内戦を重ねます。ウィリアム1世の孫娘であるマチルダはすでに神聖ロ-マ皇帝ハインリッヒ5世との結婚暦がありました。彼女は前夫の皇帝と別れた後、フランスの大貴族アンジュ-伯プランタジネット家のジョフロアと結婚します。二人の間にできたのが、ヘンリ-2世です。英国の内戦は次第にマチルダとその子ヘンリ-の方に有利に展開し、ヘンリ-は1154年即位します。この王統はそれ以前のものとは男系において断絶しているので、異なる名称の王朝になります。アンジュ-朝あるいはプランタジネット朝と言われます。こうして国王であり同時にフランス王の家臣であるという二重の性格を持つイギリス王家が誕生しました。

さらにヘンリ-2世は、フランス王ルイ7世と別れた、アキテ-ヌ公領の相続者エレアノ-ルと結婚します。アキテ-ヌはガロンヌ川流域一帯を指す西南フランスです。現在はボルド-が中心です。これにアンジュ-伯領が加わりますと、当時のフランス王国の版図の半分を超える領域が英国王ヘンリ-2世の相続するところとなりました。これがブリテン島とフランスに広大な領土を持つ英国王領地です。さらにヘンリ-とエレアノ-ルの間にできたリチャ-ド1世やジョン王は母系を介してフランス王家に繋がります。200年後フランスのカペ-朝が断絶した時、英国王はフランス王位の相続を主張します。こうして英仏の100年戦争が始まりました。この戦争が1453年に終結したとき、初めて民族国家としてのイギリスとフランスが誕生したといわれます。

エレアノ-ルとヘンリ-は恋愛で結ばれたようです。夫であるフランス王(年下)に飽き足らないエレアノ-ルが精悍でたくましく男の臭いのぷんぷんするヘンリ-にぞっこんだったともいわれています。こうしてエレアノ-ルは英仏両国の王達を産みました。
 
ヘンリ-2世は単に相続において幸運であったというわけではありません。ノルマン征服後暫くして内戦になります。ウィリアム1世が出来なかった、王国の法整備は彼の元でなされます。国王直属の傭兵部隊の編成、行政長官職や財務府の設立、自由農民の保護と領主裁判権の制限、陪審制と巡回裁判、などなどイギリス統治の土台は彼の時に整いました。

権力者の一生が栄光に満ちたまま終わるという事はまずありません。歓楽極まって哀情多し、が実態です。ヘンリ-の場合も同様です。彼の熱愛する王妃エレアノ-ルは、ヘンリ-がロザムンドという若い女性を愛した事を知り、彼の元を去ります。彼の息子達(リチャ-ドやジョン)も彼に反逆します。エレアノ-ルは当時の吟遊詩人が最高のモデルと仰ぎ、理想視した女性でした。同時に熱情的、換言すれば淫蕩な傾向も充分ありました。400年後シェイクスピアは彼女を「流血の闘争に向かわしめた災厄の女神」と表現しています。
 
ヘンリ-2世に関する逸話を二つ。まず笑い話から。王が狩猟か巡察の帰路、修道士達が泣きながら司教の横暴を訴えます。従来13皿だった昼食から3皿減らせと、司教は言ったので、この横暴な司教を罰して欲しい、という訴えでした。聞いたヘンリ-は、彼はもともと切れやすい人でしたが、大声で修道士をののしり、3皿の昼食を命じました。王の善政というより、当時の僧院の堕落の一端が見えてきます。

 もう一つ、これは有名なお話です。ヘンリ-2世にはトマス・ベケットという腹心がいました。ベケットとヘンリ-のコンビで政治が動いていたようなものでした。宗教上の改革をするために、ヘンリ-はこの腹心をカンタベリ-大司教に送り込みます。この職は英国キリスト教会の指導的役職です。ベケットは断ります。彼は言います、「反対側の立場になると私はどうしてもその立場で行動してしまいます それが私の性格です 王のおためになりません」と。事態はそのとおりになり、有能なベケットの行為はヘンリ-2世の政策をことごとく阻んでしまいます。1170年王の刺客である4人の騎士はカンタベリ-司教座聖堂のまっただ中でベケットを暗殺します。ベッケトは烈聖されます。ヘンリ-2世にとっては公私ともどもにわたる打撃になります。

 前回の「イギリスという国の成り立ち」への追加になりますが、英国と日本はユ-ラシア大陸をはさんで東西の似た位置にありながら、こと他民族との関係になると、全く異なった体験をしています。日本は他民族からの侵略をほとんど経験せずに国家を形成しました。英国の歴史は征服・被征服の連続です。女に例えればこちらはうぶな処女、あちらは男を知り尽くした大年増です。

 それでいて両者の歴史は結構似ます。ウィリアム1世がイングランドを征服した当時、日本は第71代後三条天皇の治世です。前者はドウ-ムズデイ・ブックという検地台帳を作ってイングランド統治の基礎を作りました。後者は摂関政治を支えていた荘園を整理し、後の院政の基礎を作った方です。ウィリアム1世・ヘンリ-2世でもってイギリス王制の土台が築かれ王権が強化されます。後三条上皇・白河法皇の治世に院政という、より強力で独裁的な政権ができます。そしてほぼ同じ時期に在地領主の反抗が始まります。1220年前後あちらではマグナ・カルタがこちらでは貞永式目が成立します。後は本文を読んで下さい。


イギリスという国の成立ち

2009-02-23 00:04:33 | Weblog

 「天皇制の擁護 第九章 アングロ・サクソンの政治」解説(1)

   イギリスという国の成立ち

  ここで詳しい英国史を語るつもりはありません。簡単に民族の交流に触れておきます。紀元前の大昔ブリテン島にはイベリア人という種族が住んでいたそうです。現在のイベリア半島の住人ではないようです。それ以上は解りません。ただイベリア半島の西岸あたりでメキシコ湾流に乗れば自動的にブリテン島に流れ着きます。広東か福建から黒潮に乗って日本列島へ漂着するようなものでしょう。

 その次にブリテン島に移住したのがケルト人です。ケルト人はギリシャ人がつけた名称で、ロ-マ人はガリア人と呼びました。ゲルマン民族の移動前には、ライン・ドナウの南方各地に住み大勢力でした。ロ-マは一度ガリア人にロ-マ市の大部分を占拠され略奪される屈辱を味わっています。イギリスを島とみなせばブリテン島と言います。その対岸のフランスにはブルタ-ニュ半島がありますが、ここは現在でもケルト系の人々が住んでいます。ブリテン、ブルタ-ニュはほぼ同じ意味です。ロ-マ人はブリテン島に住むケルト人をブリトン人と、フランスに住む人々をガリア人といって区別しました。ケルト人はドルイド教という民俗宗教と、妖精の活躍するお話とウィスカ(ウィスキ-の本家)で有名です。

 そこへ紀元前後ロ-マ人が侵入します。カエサル以後歴代の皇帝や部下の将軍達はブリテン島南部、現在イングランドと呼ばれている一帯を属州にしました。あまり豊ではない州なので統治もほどほどでした。なんのためにローマ人がこの島に侵入したかと言いますと、大陸のガリア人が反乱を起こすとこの島の同族と呼応しまた退却路になるからです。ロ-マ人が進出したのは現在のイングランド・スコットランドの境界までです。それ以上は進出しません。ハドリアヌスの壁という長城を築いて北部からの侵略を防ぎました。南部ではケルト人の中にロ-マの植民市が点々としていました。ロンドンもこの植民市の一つです。ケルト人はブッディカという女性族長に率いられて大反乱を起こしましたが、以後はロ-マ人とケルト人はうまくやっていました。イギリスがロ-マ人にとって住みごごちの良かったところとは思えません。日照時間が少なく陰気です。寒い。そして何よりもロ-マ人の好物であるワインができません。ある皇帝はゲルマン人がビールを飲むと聞いて、彼らはワインを知らないから麦で作った酒を飲むのだろう、といいました。ワインは地中海諸民族にとっては必須のものです。

 4世紀後半からゲルマン諸族の移動が活発になります。彼らが居住を希望する垂涎の地は当然、ロ-マ帝国内部です。現在のドイツに住んでいたアンゲル族とザクゼン族は海を超えてブリテン島に移動します。その侵略は猛烈なものだったようです。当時ケルト人もローマ市民権を付与され、ロ-マの貴族階級に属する層も出現し、ロ-マ・ケルト混交で比較的平和でした。アンゲル・ザクゼン族の侵入によりそれまでの文明はすべて(?)破壊されます。森林の中に点在する村・教会・別荘・農耕地はすべて略奪され住民は殺戮されて、村は廃墟になったそうです。ギボンはそう言っています。トレウェリアンもほぼ同意権です。

 アングロ・サクソン族はロ-マ人を駆逐し、ケルト人をブリテン島の辺境へ追いやりつつ相互に抗争しあい、やがてケント、ウェセックス、サセックス、マーシャ等の七王国(ヘプタ-キ-)を作ります。この当時の英語をold Englishと言いますが、英語よりむしろラテン語に近い感じがします。古事記が一見漢文の印象を与えるのと同じでしょう。七王国は統一に向かいますが、今度はデンマ-ク周辺に居住する北方のゲルマン人であるデ-ン人の侵入があります。デ-ン人とアングロ・サクソンの抗争が約2世紀。イングランドの北部はデ-ン人の支配下に入り、この地帯は南方と法制・土地制度も異なることになりました。

 デーン人自身ノルマンですが、別のノルマン人はフランスに侵入し、ノルマンディ-半島一帯を与えられフランス国内の大領主になります。このノルマンディ-侯がウィリアムの時対岸のブリテン島に侵入します。この時イギリスにはかろうじて統一王朝というものが存在しました。その王(または王の候補)がハロルドです。ウィリアムはハロルドの即位に異議を立てて侵入しました。丁度北方からは新たなデ-ン人の侵入があり、ハロルドはまずこのデ-ン人部隊を倒します。その隙をついてウィリアムはケント地方に上陸。ハロルドは急遽引き返します。歩兵を置いて馬乗りだけで引き返します。ウィリアムは待ちうけ、ヘイスティングスの野で両軍は会戦します。ハロルドの軍は馬で運んでもらうだけの馬乗り歩兵です。ウィリアムの軍隊は歩騎共同。激戦の末ハロルドは戦死、英国の王位は勝者ウィリアムが継ぎます。1066年のウィリアムの戴冠をもってノルマン王朝が始まります。これが統一されたイギリス王国の最初です。

 イギリスは海に向かって開かれています。ノルマンディ-候の侵入までは、イギリスは侵入されるばかりでした。以後海はイギリスにとって海外進出、つまり侵略の出口になります。トレヴェリアンはそう書いています。イギリスは東西二方向に侵略します。西とはフランスです。もともとノルマン王朝はフランス王の家臣で大領主です。この王朝は4代で耐えますが、ウィリアムの娘マチルダはフランスの大領主アンジュウ-伯プランタジネット家のジョフロアと結婚します。二人の間にできたのがアンジュウ-朝の初代であるヘンリ-1世です。この王様は名君でした。同時に血縁関係からフランスの王位継承にも介入できました。その結果が200年後に現れます。英仏戦争です。

 1339年英仏戦争(100年戦争)が勃発します。イギリスは侵入する一方で、戦場はフランス。だから略奪はイギリスの一方的行為になります。戦勢は常にイギリスに有利でした。結果としてイギリスは負けた形になりますが、100年の間の略奪と身代金は巨大なものになり、イギリス国内のジェントリ-やヨ-マンを富裕にします。1453年戦争終了。100年戦争が終わることによって、初めて英国王でありかつフランス王制下の大領主という二重の性格が英国王位からなくなります。この時点で英仏の国家としての境界がはっきりしました。ただカレ-だけはかなり後まで英領でした。英仏戦争以後イギリスは30年にわたるバラ戦争を克服して統一王権を確立します。1588年無敵艦隊を撃破してイギリスはスペインの影響を払拭します。100年にわたる宗教上の内乱。18世紀初頭スペイン王位継承戦争。優秀な軍人である国王ウィリアム3世に率いられた英軍は欧州に上陸します。戦勝の獲物は植民地です。1707年スコットランド併合。こうして現在のイギリスができました。この間11世紀からアイルランドへの侵攻はず-と続けられています。

(笑い話)
 知人でグラスゴ-に住んだ人がロンドンに行きました。彼はロンドンはなんと明るく日照時間が長いかと感動した由です。我々日本人から見ればロンドンなどクル病が名物の霧の都ですが。その通りでイギリスを征服したフレンチノルマンの貴族たちはイギリスより対岸の南仏に住みたがりました。


銀行の簡単な作り方

2009-02-21 00:47:24 | Weblog
(銀行の簡単な作り方)

 銀行を簡単に作る方法を考えましょう。私が新しいバンカ-。私は預金者(預蓄者)に保証書を出します。書類と交換に何らかの財物、金銀正貨有価証券でも穀物煙草織物等の物財でもいい、を渡すと約束。私の信用だけでは不安なら近隣の資産家に保証してもらいます。私は顧客に保証書を貸すこともできます。

 このやり方は大銀行が君臨する大都市ではやりにくいが、辺境のフロンティアでは結構通用します。産業勃興期の社会でも同様。そういう場所では経済が単純だから保証はなにも金銀正貨でする必要はありません。土地で一番人気のある商品、穀物・煙草・砂糖・塩時にはビ-バ-の毛皮、で間にあいます。要は、一定の範囲で保証書が交換され換財されればいいのです。この紙切れの交換価値を住民が信用し認めれば、物財の循環は円滑になり生産は増加し、富は増えます。富が増えればこの地域通貨は中央の正貨に対して一定の価値を獲得します。私は預託された物財を大都市に転売することもできます。こうして私の銀行が発行した保証書、銀行券と言います、は中央の正貨とドッキングします。後は万事めでたしめでたしです。
私がバンカ-として成功する為には条件が二つあります。その土地で生産行為が可能でなければなりません。耕作可能な広い土地がある、森林から大量の木材が切り出せる、有望な鉱山や漁場がある、新しい工場をどんどん作れるなど。しかし資金(あるいは生産行為に必要な物財)が少ない。そこで私と保証人の信用でこの資金物財をかき集め、それを循環させます。

 第二の条件は私の信用です。信用さえあれば貨幣あるいはその代用物は通用します。これを信用創造と言います。だから信用創造の別名はペテンです。読者はこの事を銘記してください。
アメリカの地方銀行はたいていこの手でできました。ただこの種の銀行は基盤が薄弱でいつ潰れるか解りません。信用がなくなると取り付け騒ぎでパニック。預金はぱ-で保証書銀行券は紙屑同然。私は夜逃げします。それで万事終わり。リスキ-なこんな銀行が開拓期のアメリカでは必要とされました。資金がなく未開拓のままであるより、一将功成って万骨枯れる方がましです。成功した企業を中心にその地が開発され雇用が増えればいいのです。

 だからアメリカにはなかなか中央銀行ができませんでした。中央銀行を作って地方の泡沫銀行を統制すれば金融は安定します。反面地方は資金不足になります。だから中央銀行設立大反対。米国には厳密な意味での中央銀行はありません。連邦準備理事会(FRB)という日独英仏に比べればはるかに地方分権的な中央銀行らしき組織があります。FRBの影響下にない州立銀行も沢山あります。アメリカに例をとりましたが同じ事は明治大正期の日本、19世紀後半のドイツも同じ。時期の相違はあれオランダや英仏も同様です。産業が勃興し資本主義経済が離陸する時はどこも似たようなものです。泡沫銀行の族生。こうして資金を集め運と能力に恵まれた者が勝ち残ります。この混沌とした物騒な過程を経ることなくして経済の繁栄はないのです。

(付)
 銀行の機能にはいろいろあります。主たるものは手形割引、貯蓄、発券です。初めの頃の銀行はこの機能すべてを備えていました。しかしそれでは通貨量が不安定なので、いわゆる中央銀行一本に発券資格が絞られました。普通銀行は貯蓄のためと単純に理解されがちですが、重要なのは手形割引です。手形とは負債です。この負債を転々と転がしているうちに、どこかで負債が通貨になりました。この負債として手形を銀行自らが発行したものが銀行券通常紙幣といわれているものです。

 通貨は債務証書と覚えましょう。この認識は重大です。信用さえあれば通貨はいくらでも発行できるのです。この通貨量の調整は中央銀行の役割ですが、それを超えた発券も可能です。また私の憶測ですが、手形割引の機能に銀行が参入することにより、銀行は君主や国家の恣意的暴力から自らを守ることができるようになりました。手形は交換と流通の血液です。もしこの機能を止めたら国家も君主も持ちません。通貨を債務証書と理解すれば、難しげな政策や提案もすぐ理解できます。

 もっと極言すれば、通貨とは信用です。欲望成就可能性への信用です。

銀行とバブル、似たようなもの

2009-02-19 00:07:59 | Weblog

(銀行とバブル、似たようなもの)

 ペテンの最たるものが中央銀行の設立。イングランド銀行に例を取ろう。1689年の名誉革命でイギリス王位に着いたウィリアム王には対フランス戦の費用がなかった。即位の事情が事情だけに叛乱の可能性は大きく、フランスは虎視眈々。イギリス革命そのものが税金問題に端を発しているだけにうかつな増税はできない。オランダから婿養子として招聘された王様だから権威の方ももう一つ。フランスとの戦争は避けられない。ここで無い袖を無理に振る。当時のイングランド銀行は大銀行とはいえ一民間銀行。銀行と文無しの王様が組む。国王は国債を発行する。国債をイングランド銀行が買い、代わりに同額の銀行券の発行を国は許可。自動的に銀行券は中央銀行券として認定される。銀行券を銀行は貸し出す。もちろん兌換券。
 銀行による債務保証と国家による中央銀行券の認可、という持ちつ持たれつの関係。銀行も国家も何も出していない。相互保証だけ。しかし銀行券は流通し国債も民間で買われる。銀行には金貨または紙幣が還流する。政府は将来の租税から国債の利子を払う、と言う。以上の過程を信用創造と言う。要はなにやら巨大で信頼できそうな二つの組織がお互い保証しあっているという関係だけ。「銀行の作り方」で述べたのと同じ。当時の銀行はすべてこの流儀で作られた。要は相互保証、時として「相互」は無くていい。だから国中にはいろんな銀行の銀行券があふれていた。やがてイングランド銀行が唯一の発券銀行、つまり中央銀行になり、他の銀行はそこから出た銀行券を扱うのみとなる。

 ほぼ同時代フランスでも同じような事件があった。しかしこれは金融の歴史における一大スキャンダルとされる。ジョン・ロ-事件。ジョン・ロ-の出身はスコットランド。フランスに来てカペ-王家の連枝である大貴族に取り入る。ルイ15世の時代。ここも戦争で台所は火の車。ロ-は王立銀行を設立し銀行券発行の許可を与えられる。これをフランス政府が借りて支払いに当てる。これも相互保証。銀行券は正貨である金貨への兌換を保証され約束は厳格に守られると言明される。ロ-の銀行の信用は高まる。そこでロ-は更に壮大なプランを提案。シシッピ-河沿岸の開拓の為の株式会社設立。株式証券の発行。まだ見ぬ未開の大地が担保。株の高騰。銀行券の増発。しかしここで行き詰まる。株の購入によって得られた資金は開拓会社よりもフランス政府の負債の支払いに専ら当てられた。裏の事情がどうなっていたかは解らない。会社の実活動が無いのだから収益は上がらず、株は暴落、銀行も破産。ロ-とフランス政府が共謀して詐欺を働いた事になる。ロ-は以後南フランスの修道院で懺悔の日々を送ったとか。

 イングランド銀行設立とロ-事件、一方は資本主義あるいは金融機関の国際的牙城として栄え、他方はスキャンダルの典型として有名。結果は極めて対照的。しかしやり口は同じ。国家と銀行の相互保証。平たく言えば共謀して無から有を産まんとする企み。ロ-の方が性急でやりすぎた。違いは英仏政府の支払い能力、信用度、産業活動の差。産業が発展すれば税収も増え国債の支払は可能になる。イングランド銀行は100年の前史を持つ一応の老舗、ロ-は成り上り者。が、ロ-の方法は決して非合理的ではない。銀行と株式会社を相継いで設立する性急さにやばさはあるが、やり方は魅力的だ。ロ-事件への評価は経済学者の中でも分かれる。しかしこのくらいの事がないと経済なんかおもしろくない。

 同時代英国でも似た事件は起こった。アフリカ開発が手品の種。英国の金満家がこの会社の株を買い、結局ぱ-。称して南海泡沫会社事件(South See Bubble Company)。バブルの語源となる事件。バブルバブルと悪く言うが、好景気とバブルの境は紙一重。バブルを覚悟しないと経済は立ち行かない。バブルに乗るのは本人の勝手。一攫千金の夢を見る。損をするのは当人の自由。ばくちに負けたと騒ぐのは馬鹿。良い夢見たと思えばいいのだ。ジョン・ロ-は18世紀前半の人、世紀後半には日本に田沼意次という敏腕家が現れ、似たような事をやらかし悪評を一身に浴びている。どこの国にもある話。


(追記)
18日の読売朝刊に、中川経済産業大臣が記者会見中の居眠りで辞職と。居眠りして彼は何か国家に損害をあたえたのか?でなけれ叱責くらいで良いのでは?世の中変に道徳的になりすぎている。読者のお叱りを承知の上でいささか非常識な意見を申し上げる。清潔になりすぎるとろくなことはない

 日本は戦後の経済危機をどのようにして乗り越えたか?

2009-02-17 00:25:20 | Weblog
  
日本は戦後経済の危機どのようにして乗り越えたか?

 ここに書く事は常識の範囲です。種本も明らかにしておきましょう。昭和経済史(全3巻 日経文庫)です。あまり詳しく書いても意味はありません。政治には大胆な展望と臨機応変の直感が必要です。だから理屈は単純明快な方がよろしい。
 昭和20年(1945年)8月(15日降伏)の時点で、戦前(昭和9-11年の平均)との比は
 
 鉱工業生産で  10%
  農業      60%
  実質賃金    30%
  実質消費水準  60%

でした。900万人が家屋を焼失し、保有する船舶は戦前の1/10以下、山野は荒廃し、町には浮浪児があふれていました。一人当たり一日の米配給量は300g弱。(一度それで生活してみてください、如何に空腹になるか解ります)1000万人餓死説もでたほどでした。生産は落ち、戦時に発行した紙幣は膨大ですからインフレはどんどん進行します。当時の政府はどのようにこの危機を乗り越えていったのでしょうか?教科書には財閥解体だ農地改革だとかなんとかは書いてありますが、理想は理想として、現実の政策はどうだったのでしょうか?主たる政策は三つです。箇条書きにしてみましょう。

新円切り替え 預金封鎖 
それまで使っていた円札は使用禁止となり、新しい円札が発行されます。同時に預金が封鎖されて勝手に引き出すことが出来なくなります。家庭の当主は300円、家族一人当たり100円づつ追加、これが引き出し限度です。勤労者の給与も500円以上は支払われません。この政策の意図は多々あったようですが、確実な事は通貨の流通量を減らすことです。もう一つは債務軽減です。物価は上がります。その間預金には手を付けられません。封鎖が解除されたときには貨幣価値は下がります。それまで国は国債を発行し続けてきました。終戦時の国債残高は約1500億円です。貨幣価値が下がった分、政府の債務は減少します。多分1/5-1/10に減ったと思います。銀行も同様です。要は借金棒引きです。一番借金を抱えていたのが政府でした。貸主は国民です。
(付)当時の米の値段は東京で1升(1.5kg)あたり67円です。一家四人とすればどんな生活ができるでしょうか?

戦時補償の打ち切り
被害を蒙ったのは個人だけではありません。企業も同様です。戦争遂行のために企業は政府に協力を強いられました。それには保証がついていました。戦争そのものによる被害は政府が補償すると。典型が船舶です。徴用された船がアメリカの潜水艦によって沈められれば、政府が損害を補償するはずでした。紆余曲折はありましたが、GHQの意向もあり戦時補償は廃止になります。ここでも政府は負債をチャラにしてもらいます。ために大部分の企業は資本の多くを切り捨てます。

傾斜生産方式
闇市の時代です。その市場では消費物資の方が鉄鋼等の生産財より、戦前に比し値上がりしていました。当然です。まず消費しなければ生活できないから、需要はそこに集中します。政府は生産の基礎を固めるために石炭と鉄鋼の増産に有利なように公定物価体系で高く設定します。さらにもし生産費用がそれを超えるなら、政府が補助金を出します。輸入資源の配分は石炭と鉄鋼に優先的にまわす。そういうやり方です。エネルギ-源である石炭が要る。そのためには機械が要る。だから鉄鋼が要る。石炭が増産されれば鉄鋼も増産できる。(当時鉄鉱石はかなりのストックがありました)私はこのやり方に賛成ですが、公平に見れば消費財から生産財への、従って個人から企業への所得移転でありある種の原始的蓄積でもあります。

復興金融公庫
 略して復金です。政権の交代により政策が変らないように、経済安定本部が作られました。平行して復興金融公庫ができます。建前は政府資金の補助のための機関ですが、実際は政府の出す国債を引き受ける機関です。この機関の引き受けで傾斜生産方式などへの資金提供ができました。一方これは貨幣の流通量を増加させるのでインフレを促進します。

戦後の飢餓時代政府がとった政策の大綱はそんなところです。やがてドッジが来て、日本の金融と経済を引き締めます。超緊縮財政です。デフレそして当時の言葉で言う安定恐慌です。こういう場合大企業は有利です。安定恐慌でアップアップしていところに朝鮮特需がきます。これで一息。そして外国技術の導入で各企業は力をつけます。1960年前後から日本の貿易収支は黒字を作り続けてゆきます。

政策は政策です。それより重要なことは、政策遂行に国民が一丸となれるか否かです。傍証をあげてみます。空き腹を抱え続け、食料の大半は政府の配給下にあって、高級官僚の汚職がほとんどありませんでした。私が知る限りではそういうことになります。

(以下私個人の経済私史、昭和20年から35年までのそれを語ります。口調は変ります。)

私個人の生活から見た日本経済の変転を語ってみよう。私は1942年2月25日に神戸に出生。41年12月8日太平洋戦争開始の3ヶ月後だ。父母からの伝聞では新婚旅行に米券を持参しないと食事が出なかったとか。2歳岡山県新見市の親戚に疎開。3歳終戦。記憶は無い。砂糖が配給だったのを覚えている。一人当たり一日何グラムと決められていた。私の家は家族が少なく、砂糖には不自由した。おやつ代わりに砂糖を紙に包んでもらう子がいて、いささか羨ましかった。長いコッペパンが公団と言われた米屋で配給され、人が列を成して並ぶのを記憶している。もらった時は嬉しかったが、食うとまずかった。
進駐軍と言われた米軍が片田舎までやって来る。暗緑色のジ-プで颯爽と。かっこいい。占領政策の成果点検の為だろう。怖いものは警察そしてその上にMP(米軍憲兵)と言われた時代、日本で一番偉いのはまず総理大臣、その上が天皇陛下、更にその上がマッカサ-元帥と大人に教えられる。隣家が宿屋で米軍の宿舎になり、米兵がいかがわしい女性を連れ込んでいた。二階から子供達にキャンデ-やチョコレ-トそしてガムを放り投げてくれた。みな群がった。始めて覚えた英語が、サンキュ-ベルマッチ。おやつがたいていふかし芋だったからサンキュ-は真情。
米穀は供出制度、農家は自家消費分を除いて国家に規程価格で売らねばならない。お百姓が米を隠して連行された話、米屋が麦を横流しして留置された話等、主人公はすべて顔見知りの小父さん。握り飯二つで殺人事件があったとか、闇米を拒否して餓死した裁判官がいたとか。この頃4-5歳。当時の最高額紙幣は百円。聖徳太子の像が描かれており、今の一万円札より大きかったような気がする。暫くしてお年玉を叔父から三千円(記憶錯誤?)もらったようだから、すぐ千円札が出たのか?
6歳で小学校入学。学校給食の洗礼を受ける。始めはパンとミルクのみ、時に乾燥させたりんごか梨、これが楽しみだった。ミルクの半分は粉状でどろどろ、飲むのは苦行。私があまり生活に不自由しなかったのは叔父の家が酒屋だったから。裏話もある。後年母親から聞いた話では、酒を少しだけ水で割る。塵も積もればなんとかで、集めれば相当な量になる。こんな事は皆していた。余った酒を他の物と交換。酒はいつの時代にあっても必需品。だから統制は厳しい。これでは酒屋なんかしていても儲からない。顧客も顧客への販売量も価格も固定され報告を義務づけられていた。酒が酸敗するとその量を報告して廃棄する。勝手に酢にして売ったら手が後ろに廻る。父親が勤務地の大阪からよく来ていた。事情の一つが食料集め。駅でリュック満載の父親が警官に尋問される。叔母が気を利かして警官にごにょごにょ。なぜか素通りだった
京都に一年、そして名古屋に転居。8歳。この頃よく聞く米人の名前がドッジ。父親がドッジの為に不況になる不況になると心配していた。父親は野村證券に勤務、法人部金融法人課長と教わる。だからドッジラインには敏感だったのだろう。子供心にはこの名前は悪人のように響いた。夕食後父母と弟の四人でりんごを一つ食べる。だから四部割り一個しか食べられない。時々弟の分を横取り。どういうわけか毎日りんごを食べた。梨だと大歓迎。そういうわけで今でもりんごは安物に見える。パンに関しても同様。米の不足をパンや麺類で補う。称して代用食。すいとんも同じ。だからいくら高価なパンでも私には豚の餌に見える。米がなによりの時代。称して銀シャリ。滋賀県から来たという闇米売りの訪問を受けたのを覚えている。名古屋でよく見たものは傷痍軍人が軍歌などを演奏して喜捨を求める姿。京都も名古屋も乞食浮浪児が多かった。靴磨きの少年も多かった。宮城真理子の歌が実感をもって響く。名古屋で始めて外食を経験する。明瞭な記憶にある料理屋の体験はここが始めて。とんかつと名古屋コ-チンの水抱きの味は絶妙。デザ-トがメロン、初体験。専門家が作った料理という美味なる物の存在を始めて知る。日本経済の成長も始動開始か。1953年3月24日名古屋を去る。金の鯱矛よさようなら。
 11歳大阪府下の豊中に転居。この頃から日本は豊かになり始めた。父親が新しい物好きで電気洗濯機を買ってきた。現在の洗濯機の機能とは雲泥の差。丸い深いたらいの中でただ洗濯物をがちゃがちゃと揺さぶるだけという感じ。電気洗濯機や電気掃除機等のいわゆる第一次三種の神器を持っていたのはクラスで三人だけ。わざわざ教師が皆に尋ねたので覚えている。ちょっとしたステイタス。小学校では体育用の服は無い。男児は下着のまま運動した。14歳テレビ購入。早川電気の製品。父親の話では技術はシャ-プとか。それまで町内でテレビを持っているのは一軒だけ。大相撲の中継を皆その家に集まって観戦。栃若時代の始まりだった。この頃の食生活には不足感はない。食べ盛りで大いに食う。ついた仇名がブ-チャン。扇風機を使い出したのもこの頃。一度買うとあれよあれよいう間にモデルチェンジして便利になって行く。首の回転、風速の調節、カラフルに、より軽量になる。やがて一人一台。高校2年、日清の即席ラ-メンが出る。ものすごい人気、美味かった。即席ラ-メンと高度経済成長とは明らかに因果関係があるとは、私の直感そして憶測。


借金はちゃんと返そうね !

2009-02-14 13:45:19 | Weblog
  借金はちゃんと返そう!

 明治以後の対外債務や債権について考えてみましょう。日清戦争以前日本は外資導入には極めて慎重でした。借金が払えなくて経済利権を欧米列強に提供しなければいけなかった清帝国の例を見ているからです。もっとも債務を払えないほうがより悪いのですが。
 第一次世界大戦の好況で蓄積した金あるいは外貨を日本は交戦国に貸し出します。内訳は
  
ロシア    3億円
  イギリス   2.8億円
  フランス   1.3億円
  中国     5000万円

です。4国の内、中国は統一国家の体を為していません。軍閥割拠です。
 英仏は戦後ほぼ数年以内に完済します。ロシアと中国は返済の意志なし。大戦後しばらくして日ソ基本条約で返済の件を将来の協議に委ねましたがそのままうやむやです。大戦後の日本の国家予算は大体5-8億円程度です。現在日本の予算は100兆円弱です。ロシアへの貸付金が予算の半分程度の規模とすれば、現在の価値では50兆円になるかも知れません。論理的には日本はロシアに請求権を持っています。中国に関しても同様です。これらの焦げ付き債権は国債発行で切り抜けられました。つまり日本国民が支払ったわけです。なお中国への貸付金としては西原借款なるものがあります。大正年間の中国の直隷軍閥政府に2億円貸しています。これも返済なしです。当時の中国は蒋介石政権も含めて軍閥の寄席集まりですから、責任のがれはしやすいでしょう。しかし政策の一貫性という観点から見れば支払うべきです。明治維新の時、維新政府はそれまで幕府諸藩が負った外国債務および発行した不良貨幣にはすべて責任を取らされました。

 第二次世界大戦で敗北した日本は賠償を請求されました。請求したのは米国です。ただし米国に支払えというのではありません。東南アジアへです。1945年9月(・)ボ-レ-というアメリカの石油業者が賠償金設定のためにやってきます。彼の案によりますと、重機械工業関係の生産施設のうち優秀な部分はすべて東南アジアへ委譲すべし、ということでした。日本(とドイツ)が二度と戦争できないように非工業化しようという意図です。これがまともに実施されていたら、日本国民の2/3は餓死したでしょう。別に日本人に同情したのでもありませんが、GHQはこの案に反対します。戦後すぐ(数ヶ月で)米ソ対立が始まります。日本を脱工業化してしまえば共産主義に対する防壁がなくなります。日本の生産施設を当時の東南アジアにもっていっても役にたつはずがありません。

 東南アジア諸国(賠償請求権を放棄しなかったフィリピン、インドネシア、ビルマ、南ベトナムの4国)の請求額は300億ドル。日本が支払った金額は15億ドルでした。支払いは昭和29年ころから始まり、昭和51年に完了します。15億ドルが高いか低いかはわかりません。賠償金の算定なんか相当に政治的です。15億ドルは、当時1弗=360円でしたから、約5000億円に相当します。当時の国家予算の約半分です。また別の数え方もできます。日本が前大戦で発行した貨幣は約1兆円です。(軍事費が8割弱)。この内占領地で使用した金額(つまり軍が買い上げた現地の物産の費用)が半分とすれば賠償額はそれに相当します。貨幣価値の変動を考慮しなければタイになります。

 賠償支払いには米国の強い意向があります。米国が言うから、日本は支払ったのですし、米国が言うから、東南アジア諸国は受領したのです。米国とすれば日本の工業力を維持しなければならないし、また東南アジア諸国の経済的自立をも援助したいという腹です。そこで日本がつぶれない範囲での国際間所得移転を計ったということになります。

 韓国に関しては1965年に日韓基本条約ができて有償無償あわせて、6億ドルの援助が為されています。これを賠償というのなら私には納得がゆきません。(説明は略)日本としては東南アジア諸国と韓国は違うと思っていますし、韓国としては韓国なりに不満なのでしょう。米国は東アジアの安定のために、いやがる両国に条約を結ばせ、無理に賠償金を日本に支払わせたことになります。これも所得移転です。この資金は韓国の産業成長に少なからぬ寄与をしたはずです。

 私が言いたいのは、賠償など国際間の政治的関係でどうとでもなるということです。個人的次元で考えればアメリカはヴェトナムに賠償すべきかも知れません。しかしその米国の奮戦のおかげで日本は共産主義に巻き込まれなかった、という観点からみれば、そういう要求はすべきではないでしょう。
なお戦時中支払いが停止されていた、外貨建て債務に関しては日本政府は戦後すべて完済しています。経済と政治の原点は、借りた金は返す、とうことです。これは倫理一般の根幹でもあります。

(付)
朝鮮戦争で米軍への補給修理はすべて日本の施設でまかなえました。太平洋を越えて運ばなくてもすんだのです。面白い例を挙げてみましょう。戦争勃発で不意打ちをくらい準備不足の米軍は朝鮮半島南端の釜山周辺に追い込まれます。マッカッサ-は北朝鮮軍を挟撃すべく仁川上陸を試みます。この作戦が成功して北朝鮮軍は敗走します。この時どうしても高い崖を登るために長大な梯子を必要としました。移動、分解、組み立て可能な信頼できる梯子です。その梯子は大阪近辺の某中小企業で生産されました。

 (参考文献 日本産業史・昭和経済史・日本証券史など いずれも日経文庫)


「天皇制の擁護 第八章「(解説)

2009-02-11 23:48:41 | Weblog
   ルネッサンス期の教皇

13世紀、特にインノケンティウス3世の時、教皇は太陽にして皇帝は月、とまで言われ教皇権力は絶頂を極めます。しかし台頭する国民国家の帝王達はこの教皇権力に対抗しそれを蚕食してゆきます。平行して異端や改革派が出現し、教皇の聖権独占に挑戦します。
1303年のアナ-ニ事件は教皇権没落の晩鐘でした。狡猾にして冷酷なフランス王フィリップ4世の謀略にかかり、教皇ボニファティウス8世は憤死します。1309年教皇庁は南仏アヴィニョンに移され、フランス王の監視下に入ります。(アヴィニヨン幽囚)1377年グレゴリウス11世は再びロ-マに戻ります。アヴィニヨンにも教皇が立てられ、同時に二人の教皇がいることになり、教会は分裂します。(シスマ、1978-1415)1431-1445年にわたって開催された公会議は教皇権力に一定の制限を加えようとします。
この頃からイタリアはルネッサンスに入ります。教皇権力はイタリアの教皇領を中心とする一領域国家になり、当時の教皇権はまさしく世俗権力と同じ様態でした。そのような教皇が出現します。世俗的であり、聖職の模範とはとてもいえませんが、結構魅力的な人物達ではあります。
シクストウス4世(在位1471- ----)
 教皇領の拡張 フィレンツエとの抗争・戦争
親戚縁者の引き立て(ネポティズム)
学問・芸術の保護 建設事業 システィナ礼拝堂(彼の名から命名)
教皇財政の強化 免罪符の合法化
アレクサンデル6世
 収賄で教皇職を入手 放縦にして不道徳
 有名な私生児がルクレジア・ボルジアとチェザ-レ・ボルジア(後は塩野七生さんの本を読んで下さい)
 チェ-ザレ・ボルジアを使って教皇領の私領化を画策
 フランスとの対抗 フランス王シャルル8世のイタリアへの介入 以後イタリア半島はフランスとスペインという絶対王政の草刈場 半島分裂の固定
ユリウス2世
 教皇中もっとも好戦的な教皇 自ら甲冑をつけて出陣したとか
 芸術建築の保護 特にミケランジェロお保護者として有名
レオ10世(---- 1521)
 メディチ家の出身 イタリア内外の諸勢力との均衡を模索 この法王のときルタ-の宗教改革が始まる

私に言わせれば教皇もフランスやスペインの王のように絶対君主になりたかったようです。
彼らの庇護下にイタリアルネッサンスの花が開きます。
同時にキリスト教会改革の動きが胚胎し始めます。早くはイノケンティウス3世当時の
ドミニコ・フランシスコ両托鉢修道会、カタリ派。シスマ期にはダンテ、エックハルト
、オッカム、タウラ-。シスマ以後はウィクリフとフス。やがてサヴォナロ-ラやルタ-、
ツウィングリが出現します。



「天皇制の擁護 第七章」解説(2)

2009-02-10 01:01:50 | Weblog

     聖堂騎士団壊滅事件

中世の封建社会から近世の絶対主義国家ができる過程は過酷なものです。その中で特記すべき残虐な事件があります。1314年の聖堂騎士団の解体です。話は400年前に戻ります。中世西欧の王権はカトリック教会に丸抱えされていた観があります。だから聖界と俗界はごちゃごちゃでした。世俗権力が教会に介入する事を避けて、聖職の倫理を向上させるために、聖職叙任権闘争が起こります。これはそれまで王侯が握りがちであった僧職(司教・司祭)の任命権を教会に取り戻そうという運動です。グレゴリウス7世と神聖ロ-マ皇帝ハインリッヒ4世の争い、その象徴的出来事であるカノッサ事件が有名です。
教会への権力集中のための一環として、十字軍があったとも言えます。あまり根拠もありませんが、エルサレムを目指して、西欧の騎士を動員して寝耳に水のムスリムを襲います。やがてムスリム側の反撃が開始されます。遠征が一進一退する中、近東における占領地確保のために、三つの騎士団が作られました。その代表が聖堂騎士団です。名目としては戦士であり同時に僧院の戒律に従う聖職でもあります。十字軍の戦果はさえませんが、この騎士団は金融業にも進出して莫大な富を蓄えます。

 事はカペ-王朝11代の王、フィリップ4世が1285年に即位したことから始まります。「美男王」という異称を持つこの王は怜悧で俊敏な政治家でした。当時のフランス王権は弱く、彼は騎士団に財政的に世話にあり膨大な借金を抱えていました。1303年、フィリップはそれまで確執のあったローマ教会の法王ボニファティウス8世を急襲し、屈辱的講和を結ばさせます。ボニファティウス8世は悶死し、教会は南フランスのアヴィニョンにうつされ、事実上フランス王の管理下に置かれます。(アヴィニヨン捕囚)

まず教会の力を弱めます。次の標的が聖堂騎士団です。

1291年十字軍は終結します。戦地に用の無くなった騎士団はフィリップ4世の勧めでパリに入りタンプル修道院に宿営します。1307年フィリップと部下のノガレはタンプル僧院を急襲し(偽言と急襲がこの王様の得意技です)、騎士団総長ジャック・モレ-以下の騎士団を逮捕します。まともに戦闘すれば武力も財力も騎士団の方が上でした。総長以下のほぼ全員の身柄を拘束した上で裁判が始まります。告発の嫌疑は「異端」です。拷問、偽証、密告、内部告発、そして自白強要が続きます。裁判で騎士団を弁護した騎士は焚刑になり、内部告発した者もすぐ逮捕され処刑されます。

1314年3月のある日、総長のジャック・モレ-以下の数名の幹部が、フィリップが観覧する前で焚札されます。マレ-は、自白を撤回し、「自分は異端ではない、無実だ」と叫んで焼き殺されます。パリにいた約500名の騎士団員のうち36名が拷問死、113名の騎士が焚殺されました。莫大な騎士団の財産はフランス王家のものとなり、フランス王国の権力強化の資金になります。

 呪いはすぐ始まります。この事件の関係者達に不幸が襲いかかります。フィリップ4世はモレ-が死んだ同年の1314年11月に46歳で死去します。鹿狩りの最中落馬したのが原因です。伝説では十字架の頭をした白い羊に出会い、落馬し引きずられたということです。

 フィリップの強要に屈して聖堂騎士団を異端と断定した法王クレメンスは1314年4月発病し悶死。遺骸は落雷にあい焼失します。

 フィリップの三子、ルイ、フィリップ、シャルルは夭折してフィリップ4世の男系は絶えます。

 ルイとシャルルの妻達は小姓と密通し、露見します。相手の小姓の処罰は酸鼻を極めます。二人の小姓は、生きながら皮を剥かれ、車裂にされ、性器を切断され、断首、首はさらされます。公開処刑です。この状景を二人の元王妃はむりやり見物させられます。

 フィリップの参謀であり実働部隊長でもある二人の側近、ノガレとマリニ-の最後もすぐ来ます。ノガレは公務中吐血して死去、マリニ-は汚職の嫌疑で新王から告発され絞首刑になります。

 結局王位は兄の政治を嫌ったヴァロア伯シャルルの子がフィリップ6世として王位を継ぎます。彼以前をカペ-王朝、彼以後をヴァロア王朝と言います。いとこ間の継承ですから、血統は近いのですが、フィリップ4世の専制政治を嫌った後継者により王朝の名は変ります。フィリップ4世の男系は絶え、女系は汚辱にまみれ、側近は死去します。

以上の内容はほぼすべて篠田雄次郎氏の「聖堂騎士団」(中央公論社)によりました。篠田氏はこの裁判を東京裁判に酷似するといっておられます。同感ではありますが、同時に私はボルシェヴィキ革命後政権を握った、スタ-リンが権力闘争でかってのライヴァルであるジノヴィエフやカーメネフを粛清していったやり口、そしてその延長上に起こった、トハチェフスキ-事件を想起します。
 
フィリップ4世の時にフランス王権の基礎は整いました。この延長戦上にフランス革命が、もっと先にはロシア革命があります。

 権力とは過酷なものでもあります。日本史上では菅原道真を追放した藤原時平の子孫、鎌倉幕府創業の主である源頼朝の子孫の哀話がありますが、残虐さの規模においてとてもこの聖堂騎士団壊滅事件とは比較になりません。
 権力闘争の敗者による呪いは現実にあります。というより呪いは現実的に機能します。権力者は敗者の嫉妬と憎悪を意識せざるをえません。敗者のこの怨念は他の被支配者にもかなりな程度共有されます。勝者にとって民衆の動向が一番怖い。勝者は強くても、その縁類が同様とは限りません。罪責感、自己合理化、開き直り、投影、被害念慮は、集団を介して広がります。上杉謙信や山内容堂(豊信)は彼らが処刑した有力家臣の感情に終生おびえ続けました。


「天皇制の擁護 第八章 パウロとアウグスティヌス」解説(1)

2009-02-07 03:07:04 | Weblog
   
初期キリスト教史を年表で示します。

BC4年頃      イエス生誕
AD6年      ユダヤ、ロ-マの直轄領になる
 26年      ピラト、ユダヤ総督になる 
 30-32    イエス十字架にて刑死   エルサレム教会成立
 33-34    パウロの回心 以後三回におよぶ伝道旅行
 59-60    パウロ、ロ-マに護送される
 64       皇帝ネロによるキリスト教迫害
 66       第一次ユダヤ戦争 エルサレム陥落
 70頃     「マルコによる福音書」成立
 80-85頃  「マタイによる福音書」「ルカによる福音書」成立
 90-100頃 「ヨハネによる福音書」「使徒行伝」成立 この間パウロの書          簡編纂
 132      第二次ユダヤ戦争 ユダヤ人はディアスポラに
 177      リヨンで迫害
 197      テルトウリアヌス「弁証論」を著す
 225頃     オリゲネス「原理論」を著す 
 250      全国的な大迫害 教皇ファビアヌス殉教 
255       ゴ-ト族の侵入始まる
 303      皇帝ディオクレティアヌスによる迫害  
 313      皇帝コンスタンティウス、キリスト教を公認(ミラノ勅令)
 325      ニカイア公会議、アリウス派を異端に
 330      帝国、首都をロ-マからビザンチンに遷都(コンスタノポリス)
 336      アタナシオスの第一回追放
 354      アウグスティヌス生まれる
 361      皇帝ユリアヌスの反キリスト教政策
 386      アウグスティヌスの回心
 392      皇帝テオドシウス、キリスト教を国教に
 395      ロ-マ帝国最終的に東西に分裂
 411-431  ペラギウス論争
 413-426  アウグスティヌス「神の国」を著す その前後「三位一体論」 
431       エペソ公会議、アリウス派を最終的に異端として追放
 476      西ロ-マ帝国滅亡
 496      フランク王クロヴィス、カトリックに改宗

(補注)
テルトウリアヌス
初期教会の教父、一切の妥協を排してキリストへの絶対的帰依を主張 「荒唐無稽なるゆえに、われ信ず」の格言あり 理性による煩瑣な思弁を拒否 後迫害に際しての離脱者への教会復帰を非難して、厳格な禁欲を主張するモンタノス派に接近
 
オリゲネス
キリスト教をギリシャ哲学で解釈した碩学 教父の一人

アタナシオス
アレキサンドリアの大司教 アリウス派に対する戦闘的批判者 ために三度追放される

アリウス派
キリストは人間の中の最良の者という立場をとり、キリストの神性従って三位一体論を否定 ミラノ勅令前後から約150年間は、キリストの神性をめぐって聖俗を巻き込む論争と騒乱が相継ぐ 三位一体論者が勝ってはじめてカトリック教会が成立したと見てもいい 

ペラギスス派
人間の善行は救済にとって意味があるのかないのか、というキリスト教のみならず宗教一般における永遠の主題において、この派は人間の善行の意義を強調 一般の常識からするとやや奇異に写るかもしれないが、善行の強調は信仰信心の否定に繋がる ペラギウス派はある意味でアリウス派と同じことを言っている 他の異端、モンタノス派、マルキオン派、さらに後年のカタリ派やワルド派、なども様は変えても同様の立場になる

三位一体論
 父なる神と子なる神キリストと聖霊は三にして一つ、三つの形をとるが本来同じと、いう主張 カトリック教会の根本的命題 ちなみに「カトリック」とは「普遍的に正しい」というくらいの意味らしい

  (典拠 キリスト教史 W・ウオ-カ- ヨルダン社)