天皇制の擁護 第九章 アングロ・サクソンの政治 解説(3)
イギリス農業事情
信じられないような話ですが、西欧中世の前半では小麦一粒植えてせいぜい2-3粒の小麦が得られたそうです。この事実を語る歴史家自体が、嘘のような話だが、そうとしか言えない、と言っています。収穫高はわずか2-3倍。日本古代の稲作ではまず20―30倍というところでしょうが。西欧の農民はよく生きてゆけたなと思います。だからあちらでは牧畜を盛んにしたのでしょう。混合農業ということになります。中世初期の大荘園といっても広大な原っぱか荒蕪地で羊などを放し飼いし、そのあちこちで生産性の低い麦作をしていたようです。日本との比較ですが、稲作と麦作では根本的な違いがあります。稲は半水棲植物です。メコン川下流では2-3mの深さで栽培できる品種があります。水棲ですから耕地は常に川上から運ばれてくる肥料で潤されます。麦ではそうは行きません。1年か2年耕作したら休閑。従って予備としての広い土地が必要です。
11―12世紀になり農業上の革命が起こります。まず鋤が改良されました。6頭の馬に引かせる鉄製の有輪鋤です。両側に車輪がつき、馬に引かせます。6頭びきだから大型で高価です。ここで農法が変化します。三甫制農業の出現です。大型の鋤なので方向変換をなるべく避け、直線コ-スで耕運します。また費用がかかるのでこの鋤は共同所有になります。となると各農家が、土地を小規模な断片で所有し耕作するわけには行きません。どうするかと言うと、村落共同体の耕地全体を農家の数で除し、それを各農家の持分として、収穫物の取り分を決め、あとは共同耕作にします。
鉄製有輪鋤の出現により、村落全体による共同作業が可能になりました。ただ土地の肥力は弱いので土地は時々休ませます。耕作地全体を、冬まき小麦用、春まき小麦用、休閑地の三つに分けます。休閑地は自然な草地にし、羊や牛を放牧します。彼らの糞便が肥料になるわけです。こうして生産力の低い土地の有効利用が可能になりました。個々人が荒蕪地をあちこち耕していては休閑する土地が増えてしまいますから。耕作地以外の森林やらです。その点商品作物なら付加価値が高く生産工程が複雑で、お上の目をごまかせます。
その他は村落の共同所有になりました。農民はここに豚を放し(どんぐりが飼料)燃料確保の場所にします。
こういう事情ですから、冬には家畜の餌がありません。やむなく必要な数だけ残して、後は殺して塩漬けにして保存します。現在ベ-コンだソ-セ-ジだといっている食品です。あまり大量に殺すことへの後ろめたさ故か、殺戮した家畜の弔いの祭りをします。これがカ-ニヴァル(謝肉祭)の起源のようです。弔いというより肉の大量摂取という楽しみの祭りでもあります。飲んで食って騒ぎます。
また腐らないように大量の岩塩で塩漬けにした上、冬も半ばを過ぎると不味く(臭く?)なります。だから中世の農民、というより贅沢ができる貴族や大商人にとっては臭いを消して、美味しくしてくれるものが必要でした。胡椒です。中世胡椒はアラビア商人とイタリア商人の独占でした。金1gと胡椒1gがほぼ等価であったとも言われます。中世の西欧の胡椒への渇望が、ガマやコロンブス、マゼランをして大航海させた事は周知のところです。我々日本人にはあまりピンと来る話ではありませんが。
中世末期から近代初頭にかけて、農業は大きな変革を迎えます。農業生産力が向上します。まず土地改良、次に交通網の整備(販路確保)、商品作物の栽培、そしてなによりも農法の改良です。農法の改良の中で特記すべきは、クロ-バ-と蕪の栽培です。クロ-バ-はマメ科の植物なので、空中窒素を固定でき土地を肥沃にしてくれます。蕪は家畜の飼料になります。保存もききます。こうして家畜を大量殺戮する習慣をやめることが可能になりました。
農業が儲かるものとなると、今までの三甫農法ではまだるこくなります。村落共同体の平均ペ-スに合わせるより、甲斐性のあるものはなるべく自分の判断で大胆かつ独創的に経営したほうが宜しいとなります。こうして金持ち有力者による土地の集積が行われました。囲い込み(enclosure 厳密には第二次)と言います。どうしてこういう暴力的なことが可能になったのか、私にはわかりかねる事が多いのですが。事態は次のように進行します。まず森林や荒蕪地を有力者(ジェントリ-及びそれ以上の貴族)が柵をして一方的に私有を宣言します。共有地を占拠されては中世的共同経営は不可能です。加えて耕作地も柵で囲い込まれます。農民は小作になるか、外へ出るしかありません。第二次囲い込み運動が盛んに行われた17世紀から18世紀にかけてイギリスでは乞食が激増したそうです。私にはこの暴力による土地占有としか思えません。囲い込み運動が理解できません。当時の日本は徳川将軍の治世下にありました。将軍も大名もこんな事は考えつきもしません。農本主義の下に、百姓は「おおみたから」としてその耕作権は明治に至るまで確固として護られていました。
イギリスではこうして農業生産性が向上します。結果としては食料が安価に都市に供給されるようになります。農村は、地主と大借地農、と農業労働者(小作農ではありません)の三階級に分かれた階層社会になりました。地主はジェントリ-(郷紳)以上の貴族です。イギリス紳士(gentleman)とは基本的に土地収入だけで食っていける階層を意味します。アガサ・クリスティ-の名作「ポアロ」で描かれる社会では、ご主人様と召使の階層がくっきりと分かれています。
農業革命が行われて食糧生産が向上して、産業革命が起こります。本はといえば三甫農業が原点です。ベルギ-のブリュッセルを中心に半径500kmの円を描いて、その内部に含まれる、南イングランド、北フランス、西南ドイツそしてベネルックス3国に相当する地域が産業革命の始発地です。これは同時に三甫農業が栄えた地域でもあります。
18世紀の日本の農業事情はどうだったでしょうか?こちらの発展も相当なものです。肥料の使い方が違います。当時の日本海には鰯や秋刀魚がうようよしていました。これらの小魚を煮て干して臼で砕いて、肥料にします。お金で買う肥料なので金肥といわれました。これをどんどん使います。そしてどこの世界でもそうですが、食料そのものより商品作物の方が儲かります。大阪周辺の農民は米を作りたがりませんでした。木綿と菜種、それに煙草、茶に酒米。地方では藍、紅花、塩、砂糖などの特産です。幕府は食料を増産させようとしましたが、農民は嫌がりました。あまり儲からず、きっちり年貢を取られるからです。うまく税金をとれないことを悔しがって、8代吉宗に仕えたある能吏は「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど取れる」と放言しました。本来農民が富裕になった証のこの言葉が、一部の不勉強な学者によって歪曲され、酷吏に搾取される貧しい農民、を表す言葉になりました。
以下19世紀初頭のイギリス社会の年収です。(山川出版 イギリス史3巻より)
王族 42000£ 高級貴族 5000-10000£
ジェントリ- 2000£ 高級官吏 980£
下級官吏 300£ 将校 200-250£
兵卒 42£ 下位聖職者 200£
法律家 400£ 医師 300£
上層自作農 275£ 借地農 120£
大貿易商・大銀行家 2600£ 船主 600£
浮浪者・売春婦 12£ 被救済民 10£
(注)£はポンド
船員 45£ 製造業者 804£
小売商 200£ 事務員 70£
宿屋・パブの主人 100£ 職工・労働者 48£
大学教授 600£ 学校教員 204£どうしても農民からう
イギリス農業事情
信じられないような話ですが、西欧中世の前半では小麦一粒植えてせいぜい2-3粒の小麦が得られたそうです。この事実を語る歴史家自体が、嘘のような話だが、そうとしか言えない、と言っています。収穫高はわずか2-3倍。日本古代の稲作ではまず20―30倍というところでしょうが。西欧の農民はよく生きてゆけたなと思います。だからあちらでは牧畜を盛んにしたのでしょう。混合農業ということになります。中世初期の大荘園といっても広大な原っぱか荒蕪地で羊などを放し飼いし、そのあちこちで生産性の低い麦作をしていたようです。日本との比較ですが、稲作と麦作では根本的な違いがあります。稲は半水棲植物です。メコン川下流では2-3mの深さで栽培できる品種があります。水棲ですから耕地は常に川上から運ばれてくる肥料で潤されます。麦ではそうは行きません。1年か2年耕作したら休閑。従って予備としての広い土地が必要です。
11―12世紀になり農業上の革命が起こります。まず鋤が改良されました。6頭の馬に引かせる鉄製の有輪鋤です。両側に車輪がつき、馬に引かせます。6頭びきだから大型で高価です。ここで農法が変化します。三甫制農業の出現です。大型の鋤なので方向変換をなるべく避け、直線コ-スで耕運します。また費用がかかるのでこの鋤は共同所有になります。となると各農家が、土地を小規模な断片で所有し耕作するわけには行きません。どうするかと言うと、村落共同体の耕地全体を農家の数で除し、それを各農家の持分として、収穫物の取り分を決め、あとは共同耕作にします。
鉄製有輪鋤の出現により、村落全体による共同作業が可能になりました。ただ土地の肥力は弱いので土地は時々休ませます。耕作地全体を、冬まき小麦用、春まき小麦用、休閑地の三つに分けます。休閑地は自然な草地にし、羊や牛を放牧します。彼らの糞便が肥料になるわけです。こうして生産力の低い土地の有効利用が可能になりました。個々人が荒蕪地をあちこち耕していては休閑する土地が増えてしまいますから。耕作地以外の森林やらです。その点商品作物なら付加価値が高く生産工程が複雑で、お上の目をごまかせます。
その他は村落の共同所有になりました。農民はここに豚を放し(どんぐりが飼料)燃料確保の場所にします。
こういう事情ですから、冬には家畜の餌がありません。やむなく必要な数だけ残して、後は殺して塩漬けにして保存します。現在ベ-コンだソ-セ-ジだといっている食品です。あまり大量に殺すことへの後ろめたさ故か、殺戮した家畜の弔いの祭りをします。これがカ-ニヴァル(謝肉祭)の起源のようです。弔いというより肉の大量摂取という楽しみの祭りでもあります。飲んで食って騒ぎます。
また腐らないように大量の岩塩で塩漬けにした上、冬も半ばを過ぎると不味く(臭く?)なります。だから中世の農民、というより贅沢ができる貴族や大商人にとっては臭いを消して、美味しくしてくれるものが必要でした。胡椒です。中世胡椒はアラビア商人とイタリア商人の独占でした。金1gと胡椒1gがほぼ等価であったとも言われます。中世の西欧の胡椒への渇望が、ガマやコロンブス、マゼランをして大航海させた事は周知のところです。我々日本人にはあまりピンと来る話ではありませんが。
中世末期から近代初頭にかけて、農業は大きな変革を迎えます。農業生産力が向上します。まず土地改良、次に交通網の整備(販路確保)、商品作物の栽培、そしてなによりも農法の改良です。農法の改良の中で特記すべきは、クロ-バ-と蕪の栽培です。クロ-バ-はマメ科の植物なので、空中窒素を固定でき土地を肥沃にしてくれます。蕪は家畜の飼料になります。保存もききます。こうして家畜を大量殺戮する習慣をやめることが可能になりました。
農業が儲かるものとなると、今までの三甫農法ではまだるこくなります。村落共同体の平均ペ-スに合わせるより、甲斐性のあるものはなるべく自分の判断で大胆かつ独創的に経営したほうが宜しいとなります。こうして金持ち有力者による土地の集積が行われました。囲い込み(enclosure 厳密には第二次)と言います。どうしてこういう暴力的なことが可能になったのか、私にはわかりかねる事が多いのですが。事態は次のように進行します。まず森林や荒蕪地を有力者(ジェントリ-及びそれ以上の貴族)が柵をして一方的に私有を宣言します。共有地を占拠されては中世的共同経営は不可能です。加えて耕作地も柵で囲い込まれます。農民は小作になるか、外へ出るしかありません。第二次囲い込み運動が盛んに行われた17世紀から18世紀にかけてイギリスでは乞食が激増したそうです。私にはこの暴力による土地占有としか思えません。囲い込み運動が理解できません。当時の日本は徳川将軍の治世下にありました。将軍も大名もこんな事は考えつきもしません。農本主義の下に、百姓は「おおみたから」としてその耕作権は明治に至るまで確固として護られていました。
イギリスではこうして農業生産性が向上します。結果としては食料が安価に都市に供給されるようになります。農村は、地主と大借地農、と農業労働者(小作農ではありません)の三階級に分かれた階層社会になりました。地主はジェントリ-(郷紳)以上の貴族です。イギリス紳士(gentleman)とは基本的に土地収入だけで食っていける階層を意味します。アガサ・クリスティ-の名作「ポアロ」で描かれる社会では、ご主人様と召使の階層がくっきりと分かれています。
農業革命が行われて食糧生産が向上して、産業革命が起こります。本はといえば三甫農業が原点です。ベルギ-のブリュッセルを中心に半径500kmの円を描いて、その内部に含まれる、南イングランド、北フランス、西南ドイツそしてベネルックス3国に相当する地域が産業革命の始発地です。これは同時に三甫農業が栄えた地域でもあります。
18世紀の日本の農業事情はどうだったでしょうか?こちらの発展も相当なものです。肥料の使い方が違います。当時の日本海には鰯や秋刀魚がうようよしていました。これらの小魚を煮て干して臼で砕いて、肥料にします。お金で買う肥料なので金肥といわれました。これをどんどん使います。そしてどこの世界でもそうですが、食料そのものより商品作物の方が儲かります。大阪周辺の農民は米を作りたがりませんでした。木綿と菜種、それに煙草、茶に酒米。地方では藍、紅花、塩、砂糖などの特産です。幕府は食料を増産させようとしましたが、農民は嫌がりました。あまり儲からず、きっちり年貢を取られるからです。うまく税金をとれないことを悔しがって、8代吉宗に仕えたある能吏は「百姓と胡麻の油は絞れば絞るほど取れる」と放言しました。本来農民が富裕になった証のこの言葉が、一部の不勉強な学者によって歪曲され、酷吏に搾取される貧しい農民、を表す言葉になりました。
以下19世紀初頭のイギリス社会の年収です。(山川出版 イギリス史3巻より)
王族 42000£ 高級貴族 5000-10000£
ジェントリ- 2000£ 高級官吏 980£
下級官吏 300£ 将校 200-250£
兵卒 42£ 下位聖職者 200£
法律家 400£ 医師 300£
上層自作農 275£ 借地農 120£
大貿易商・大銀行家 2600£ 船主 600£
浮浪者・売春婦 12£ 被救済民 10£
(注)£はポンド
船員 45£ 製造業者 804£
小売商 200£ 事務員 70£
宿屋・パブの主人 100£ 職工・労働者 48£
大学教授 600£ 学校教員 204£どうしても農民からう