経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

ムスリムへの苦言

2012-03-30 02:46:24 | Weblog
ムスリムへの苦言

 イスラム社会が騒がしい。特にアフガン情勢が問題になっている。その政治的問題はさておき、宗教的情操から、ムスリム(イスラム教徒)に一言文句を言いたい。アフガニスタンで米軍将校2名がアフガニスタン軍人に射殺され、その報復かどうかは知らないが、現地の米兵がアフガニスタン人20名近くを殺した。アメリカ国内でキリスト教徒がコ-ランを焼いたことが発端だ。それでムスリムが怒りアフガニスタンで、上記の事件が起こった。多くの人が尊重する経典を焼却するのは愚かしく良くないことだ。しかしムスリムも自分達がしたことを考えてほしい。多分10年近く前になるが、アフガニスタン国内にあるバ-ミヤンの石仏を大砲で破壊したのはタリバンというムスリムの一部ではなかったのか。私は仏教徒としてこの事件に非常な不快感を持った。多分私だけではないと思う。紀元前500年頃に出現した仏教は紀元前後に北西インドから現在アフガニスタンとかカザフスタンとかタジキスタンと呼ばれている土地を通って中国にわたり、そこから日本に伝わってきた。バ-ミヤンはこの仏教伝来の主要な通路にあたり、仏教史では必ず出てくる地名である。仏教徒にとっては一種の思い出の聖地なのだ。ムスリムの一部であるタリバンはこの石仏を容赦なくしかも極めて意図的に破壊した。偶像崇拝の異端として許せなかったのだろう。日本人の大部分は仏教徒である。日本では仏教が国民感情に浸透しつくしている。ムスリムはわれわれのこの感情を考えたことがあるのか?コ-ラン焼却と全く同じ行為をしているのだ。タリバンはムスリムの一部、コ-ラン焼却の張本人はキリスト教徒の一部。どこの社会にも跳ね上がりや馬鹿はいる。もっと冷静になれないのか?別に仏像の礼拝をムスリムに押し付けているわけではない。ほっといてほしい。
 コーランに関しては不可解なことがある。私が知る範囲では、コーランは古典アラビア語から他の外国語に翻訳してはいけないらしい。日本にも井筒俊彦氏による日本語訳が岩波文庫として出ている。しかしこれはコ-ランとしては認められないようだ。あくまでコ-ランの注釈としてのみ容認されている。仏教でもキリスト教でも経典はすべて翻訳されている。日本語で表現されても法華経は法華経であり、バイブルはバイブルなのだ。
 疑問が数多ある。コ-ランはムハンマッド在世当時の古典アラビア語ということだが、現在のアラブ諸国の国民に1500年前の言語が解るのか?トルコやマレ-シアやインドネシアではアラビア語は母国語でないのだが、これらの諸国の住民にアラビア語が解るのか?解らないと思う。イスラム諸国では定時的にコ-ランの読経が聴かされるということだが、解らないものをただ聞いているだけなのか?
 経典をその成立当初の言語に留めておくことは、経典の内容を化石化することに等しい。あらゆる思想は再解釈されてのみ発展する。イスラム文明圏ではこれを許さないのか?もしそうなら、経典の内容は儀礼化することになる。経典の内容に発展がないということは、その経典を信奉する社会集団に発展が無いことだ。換言すればその社会は部族のまま留まり続けることになる。コ-ラン成立時のアラブ社会は部族社会だった。仏教もキリスト教も同様、その成立した社会は部族社会だった。その原始的社会を仏教は柔らかく、キリスト教は手荒く解体して現在の社会がでてきた。
コ-ランを絶対視し、その内容を経典成立時の時点に固定するのなら、それはそれで結構だ。私達外部の人間のあずかり知らぬところだ。ただそうする事は、経典の内容は単なる儀式と慣習の寄せ集めであり、その社会は部族社会でしかないことを告白しているのに等しい。私はコ-ランの井筒訳を読んだことがある。率直な印象をいえば、深みに欠ける。儀礼と慣習の集大成という印象は拒めない。これ以上は言わないことにするジハ-ドとやらにやられては困るので。
(付)私はコ-ランをアラビア語で読もうとして3年間勉強した。アラビア語を。だから少しだけはこの言語が解る。限界は感じた。教材、日本国内で手に入る教材が少なすぎる。アラブ諸国、特に産油国はもう少しアラビア語普及に金をつぎ込んだらどうだろうか。
 アフガニスタンの米軍将校射殺、米軍兵士による乱射事件は、少なくとも駐留米軍軍人は精神的に限界にきていることを示唆する。米政府はあくまで個人の精神状態の問題にしたいようだが。

経済人列伝、高橋是清(改訂版)

2012-03-27 02:28:20 | Weblog
  高橋是清(改訂版)

 近代日本、特に戦前において特筆されるべき財政家といえば、松方正義と高橋是清です。二人の処方は対照的です。前者はデフレ・引き締め財政、後者はインフレ・積極財政が特徴です。
 高橋是清は1859年(安政元年)に幕府御用絵師川村庄右衛門の非嫡出子として生まれました。名は和喜次、実父には認知されています。仙台藩足軽高橋家に里子として預けられ、養祖母喜代子にかわいがられ、高橋家の養子になります。私生児、里子、養子と形式的には異常な幼少期でしたが、祖母の愛情にくるまれて幸せな時代を送ります。しかし内心はどうだったのでしょうか、彼の人生の軌跡を見ていますと、39歳日銀に拾われるまでは仕事を転々としています。才能に任せて食い散らしている感もあります。この傾向は彼の財政のあり方に影響していると思ってもいいでしょう。
 横浜で外人に英語を習い、14歳仙台藩留学生として渡米します。目的は英語習得です。オ-クランドのヴァンリ-ドという人物の家に寄留します。この人物に騙され、是清は3年間拘束される奴隷(年季奉公人?)に売られます。先輩の援助で解放されます。米国で幕府瓦解を知ります。仙台藩は賊軍ですので、公然とは帰国できません。密かに東京に帰り、米国で知り合った森有礼の紹介で大学南校(後の東大)の教官3等手伝になります。今で言えば、講師か助手でしょうか?
 高橋という人の特徴は、頼まれれば嫌とはいえない事、従って騙されやすい事です。南校時代、300円ほど融通してくれと頼まれ、躊躇なく引き受けます。騙されました。こうして彼はかなりひどい放蕩生活にはまり込みます。この間米人フルベッキ博士から聖書の講義を受けています。放蕩と敬虔、高橋と言う人は複雑な性格の人です。
 34歳、森有礼のひきで東京英語学校(後の第一高等学校)の教師になります。先輩の非行を糾弾して辞職します。浪人時代は英語の翻訳で食べていたようです。その間銀相場に手を出し失敗します。友人達の世話で文部省、農商務省と渡り歩き、やがて初代の特許局長に任命されます。仕事は良くできました。しばらくして先輩にペル-の銀鉱採掘を勧められわざわざアンデス山中に入ります。鉱山は廃坑でした。一杯食わされたわけです。山師(ペテン師)の風評が立ちます。
 39歳日銀総裁川田小一郎の世話で日銀の建築主任になります。かって唐津で英語を教えた生徒である辰野金吾の部下になるはめになります。年俸1200円。やがて西部(福岡)支店長になり、46歳日銀副総裁になります。松方正義の推薦です。日銀人事でごたごたがあり、7人の幹部職員が辞めた後釜でもあります。是清の人生の方向が定まりました。
 ここまでの高橋是清の人生を見て、ある事に気づかされます。確かに彼は仕事はできたのでしょう。しかしかなりの大失敗をしながら(財政家としては致命的でさえある銀鉱山や銀相場)、そう苦労する事なく立ち直っています。必要な職は与えられています。すべて友人や先輩の斡旋です。最初が森有礼です。森は薩摩出身で賊軍の仙台藩士と面識はありません。高橋と森は米国で知り合いました。当時の留学生は超エリ-トです。そして雲煙万里の彼方の外国暮らし。明治初年度の日本には外国に通じた専門家は多くはいません。同志同朋意識はすぐ育ちます。この人間関係はどんどん増殖されます。加えて恬淡、無欲、無邪気な高橋は(津島寿一評)誰からもかわいがられたのでしょう。
 1904年日露戦争が始まります。是清51歳の男盛りです。外債公募のためにロンドンに行きます。なかなか国債がさばけません。国債500万ポンドを年6分利で、関税収入が担保と言うきつい条件で売りさばきます。この時美談があります。ニュ-ヨ-クにヤコブ・シフというユダヤ人がいました。彼が外債を500万ポンドほど買ってくれました。当時猛烈に残酷だった、ロシア政府によるユダヤ人迫害故です。ヤコブ・シフは同朋の敵ロシアと戦う、日本を応援してくれたのです。日露戦争の戦費は総計で17億円超、うち外債は8億円超です。ロンドンで公債がさばけなければ日本海海戦はありえなかったでしょう。この功績で高橋は貴族院議員になりやがて子爵に叙せられます。
58歳日銀総裁、60歳山本権兵衛内閣蔵相、65歳原内閣蔵相、になります。そして原敬暗殺の後を受けて、首相兼蔵相になります。もっともこの頃の高橋の事跡はそうぱっとするようなものでもありません。首相としては失敗の方でしょう。
この間日本の経済は大きく変動します。日露戦争後は不況が続きます。神風が吹きます。第一次世界大戦です。日本の製品は質を問われることなく、いくらでも売れました。大戦前には11億円の債務国が大戦後には27億の債権国になっていました。やがて反動恐慌がきます。大戦中雨後の竹の子のようにできた企業はどんどんつぶれます。そして1925年東京大震災。首都圏の資本のあらかたは廃墟になります。大戦後の日本経済は、第二次産業革命(重化学工業)達成のための資本をどう捻出するかという問題と、それに伴う国債発行による赤字財政をどう立て直すのかという二つの問題が中心でした。日本の経済は大戦期を除いて日露戦争から満州事変のころまでズ-と赤字でした。大戦で稼いだ外貨を食いつぶしているようなものでした。産業が勃興する時には避けられない苦難の時期です。この間の経済の動揺を象徴するような事件が二つあります。震災手形法案と金解禁です。
 関東大震災により多くの企業が発行した手形の決済は不可能になりました。このままでは企業は倒産します。この事態を防ぐために震災で異常な被害を蒙った企業の手形は、最終的に日銀が割り引く事になりました。つまり日銀により当分の間この種の手形は信用を供与されたわけです。震災手形の総額は約4億3000万円です。この手形に関してはいろいろ悪い噂も流れました。当然の事ですが、そう大した被害でもないのに、震災手形を申請する輩も出てきます。高橋亀吉氏などは財政赤字と不況の第一の原因はこの手形にあると言っています。
 こういう事情を背景として1927年若槻内閣の時、震災二法案が提出されます。法案の趣旨は、震災手形を所有する者への救済措置です。ここで議会がもめます。救済の目的は特定の企業、具体的には台湾銀行と鈴木商店の救済にあるのではないかと、反対論が噴出します。台銀は、大戦後の経営に苦しむ鈴木商店に融資し、不良債務を抱え込んでいました。震災手形二法案の実質的救済対象は台湾銀行(と鈴木商店)でした。こういう事態が明らかになるにつれて銀行への信用が揺らぎ、取り付け騒ぎが頻発します。若槻内閣は倒れます。
 代って田中義一内閣ができます。高橋は蔵相就任を懇願されます。高橋是清がこの時打った策は、モラトリアム(銀行の支払猶予)、銀行の休業(数日間)、そして日銀特別融通損失補償法案です。この法案は、困った銀行には日銀が、総計5億円までの資金内で、融資する事を意味します。同時に緊急の事態に備えて、200円札が印刷され準備されました。印刷が間に合わなかったので裏は真っ白、通称裏白と言われる紙幣です。こうしてパニックは収まりました。  
このやり方は高橋財政の特徴を如実に示しています。まずすばやい行動です。彼は危機介入(crisis intervention)に強いのです。次に積極財政、つまり通貨流通量の大胆な拡大です。ともかくパニックは収まり、高橋はその顛末を見届けて辞職します。42日間の蔵相就任でした。人気はグンと上がります。時に彼74歳です。
ところで日本は第一次大戦中、ロシアと中国に戦費を貸し付けていました。その総額はほぼ4億円になります。震災手形とほぼ同額です。今更言いませんが、貸し金を返してもらっていたら、事情は違ったかも知れません。ちなみに英仏の両国は日本からの借金をきれいに返済しています。
 金解禁そのものに関しては既に井上順一郎の項で述べました。結果だけ言いますと、物価は下がり、デフレになり、企業は倒産して、散々でした。浜口内閣は倒れ、犬養内閣ができます。またまた高橋は蔵相就任を懇請され、引き受けます。高橋が取った措置は、まず金輸出再禁止(金本位制廃止)です。これで円はドルに対して50%以上減価します。インフレにはなりますが、輸出は伸びます。ついで低金利です。企業への融資を容易にするためです。そして目玉政策が、国債の日銀引き受けです。国が国債を発行する。それを日銀が引き受ける。資金は紙幣増刷です。日銀の保証発行限度額は1・2億円から一挙に10億円に拡大されます。この金が政府の施策や事業を通じて民間に流れます。極めて短期間なら貨幣量増大にもかかわらずインフレは起きないという読みでした。インフレになる前に国債を消化して民間の通貨を減らそうというわけです。もちろん目論見どおりには行きません。物価は上がります。国債の価値は下がります。どうしてもさらに通貨を増やすためには云々の悪循環に陥ります。インフレは亢進します。そして時局救済事業という諸種の政府の事業があります。それは福祉政策であり公共事業でもありました。しかし最大の事業はやはり戦争でした。
 高橋の政策はあたります。列強中最も早く不況を抜け出したのは、日本でした。高橋は日本に対する列強の嫉妬を感じ、それを後進に言い残しています。国債の日銀引き受けはインフレを亢進させます。高橋はそれに対して引き締め政策を考えていましたが、軍事費を要求する軍部の圧力が強く、押し問答しているうちに、1936年2月26日、青年将校の率いる反乱軍に殺害されます。享年83歳、高橋是清は波乱に富んだ人生を終えます。
 高橋財政はインフレを必然とします。いくら巧妙な図を描いてもインフレは避けられません。そして当時の日本にはこの種のインフレは必要でした。もっとも恩恵を蒙ったのが重化学工業です。以後鮎川義介を筆頭にして新興財閥が興隆します。旧財閥もこの流れに乗ります。重化学工業の最大のお得意先は軍隊です。戦車に火砲に軍艦などは鉄の塊です。軍備も需要です。それは民間に還元されないと言われますが、そうでもありません。利潤の回収が遅いのとリスクが高いだけです。第二次大戦で完敗し廃墟になった日本が立ち直り、世界の奇跡と言われる高度成長を為しえた背後には、戦前における重化学工業の成長育成があります。
 高橋財政のような積極的経済政策は当時の日本国内だけでは完結できません。仮に豊富な資源が国内にあってもです。積極的財政とは、新しい産業、それもleading industoryを育てる政策です。当時の国内だけでそれをやろうとすれば、産業界から一部の資本を回収しなければなりません。貨幣不足になり、デフレになります。苦労して新しい産業を作っても、できた製品の価格は低くなり、資本を回収できません。どうしても海外の市場が必要です。こうして日本は満州に進出します。この時ネックになったのが、資本と技術でした。結果から言えばハリマンの要望を入れて、満州をアメリカと共同で開発すればよかったのです。そうすれば外資を導入できるし、技術援助もあります。なによりも米国と対立しなくていい。これが日米中三国にとって一番いい方策であったのでしょう。
 よく高橋是清とケインズの考え方の相同性が言われます。大きく言えば同質の政策です。高橋財政とドイツのシャハト財政をケインズは注意深く見ていたはずです。高橋とケインズの差を少し違う点から、比較して見ましょう。まず二人ともばくちが好きなようです。この点ではケインズの方が上です。ケインズは優れたギャンブラ-ですが、高橋には下手なばくち打ちの印象があります。しかし高橋は蔵相を4度、首相を1度務め、実際の国政に関与できました。ケインズは英国政府からある意味で重用されましたが、肝心の彼の経済政策を実施する機会は与えられませんでした。正しい予言はするが、決して用いられないカッサンドラでした。ケインズの人生の方が悲劇的であったとも言えます。

 (「高橋是清---中央公論」及び「日本証券史」「昭和経済史」参照 後二者は日経文庫)

約50年にわたりNHKは大河ドラマを放映しています。なんで高橋是清を取り上げないのでしょうか?数奇な生い立ち、外国留学、奴隷生活の経験、芸者との駆け落ち、特許局長、ペル-山師事件、日銀内部でのごたごた、ロンドンでの国債消化、昭和金融恐慌、金解禁による不況を積極財政で回復、軍部との対立、そして悲劇的な死(喜劇?私は彼を殺した青年将校の行為が馬鹿らしくて喜劇としかみえません)、など見るべき場面はいくらでもあります。是清の周辺を彩る人物も多彩でゴマンといます。83年の彼の生涯は維新から戦争直前にいたる時代を網羅しています。そしてなにより彼の人柄が明るくておもしろい。どうとでも脚色できるはずです。もっとも是清のような積極財政派を主人公にしたら政府や財務省ににらまれるのかな?なら現在放映中の平清盛にしても同様です。清盛は当時の機運に乗り周囲の反対派を押し切って貨幣流通量を高めた財政家でもあったのですから。

楽天の「社内会話の英語化」をあざ笑う。

2012-03-21 03:09:30 | Weblog
   楽天の「社内会話の英語化」をあざ笑う

 数ヶ月前ですか、楽天という企業が、社内の会話をすべて英語にすると聞きました。そう実行されているようです。ユニクロ(?)も追随しています。馬鹿げた話しです。言語というものを知らない、多分英語コンプレックスの持ち主の、無知な提案です。この企てが成功しようとしまいと、楽天ユニクロの運命に私はあまり関心がありませんが、この種の企てが拡大することを恐れて、批判を展開します。
 英会話そのものは高校卒の力量があればそう難しいものでもありません。ただし円滑に進むのは、専門用語と卑近な日常生活の領域に限られています。例えば物理学者が米国で生活するとなると、自分の専門である物理学用語は駆使できなければなりません。また買い物、交通機関の使用、ホテルなどの予約など日常生活のごくポピュラ-な場面での会話は必須です。しかしこの次元を超えると会話と作文は次第に難しくなります。きりがありません。基本的に言語はその国の慣習と文化に深く根ざしています。慣習と文化を習得しないと完全な英語(外国語)は習得できません。逆に言えば外国語をそこまでやる必要があるのかという問題になります。専門領域と日常生活くらいの次元での会話能力でいいのです。それなら、基本的力量(基礎語彙と文法の習得、具体的には高校英語程度の力量)があれば、いざという時には数ヶ月会話学校に通えばすむことです。後は専門家である通訳に任せればよろしい。
 戦後の歴代総理の中で一番英語の能力が高かったのは宮沢喜一氏だと思いますが、彼は自分の英語能力を過信して、失敗したことがあるという話を聞きました。日本文学を世界に紹介されたドナルド・キ-ンさんは大著「日本文学の歴史」を書かれましたが、原文は英語です。彼ほどの日本語能力があってもそうなります。ドイツ人作家ト-マス・マンのフランス文はフランス人の文と明らかに違います。言語とはそういうものです。完全な言語をしゃべり書くには、つまりネイティヴと同じになるには、その国に生まれ育つ以外に方法はありません。私達は外国語を外国の文化として享受すればいいのです。
 楽天やユニクロが社内で英語通用させるのは自由ですが、所詮は英語がピジン化するだけです。日本人同志、限られた領域で使用される英語はだんだんその世界特有になってゆきます。香港人の使う英語は香港英語と言って米英のそれとは違うものでした。
 社内の会話をすべて英語にしたら、人間関係の微妙なニュアンスや複雑な意味を交流できるのでしょうか?できないでしょう。対人関係に支障をきたさないでしょうか?
 言語戦争というものがあります。ベルギ-ではオランダ語とフランス語使用者がほぼ半々で、議員の数から市長の選出まで、使用言語の比率によって決まります。昨年まで約1年以上にわたり、この言語戦争によって、首相は選出できませんでした。それならいっそ分裂すればいのですが、かの地はライン川下流域にありフランス、イギリス、ドイツさらにオランダの利害が交錯して、やはり現在のままのほうが欧州の安定のためにはいいのです。スペインではスペイン語とバルセロナを中心とするカタロニア語の間で熾烈な争闘があります。中世のカスティリアとアラゴンの対立を今にいたるまでひきずっています。それにバスク語も加わります。アメリカではヒスパニック系の国民が6000万人を越し、英語の通じない米国人が増えました。このままでは米国は多言語国家になります。カナダ東部のケベック地方では住民はフランス語を使います。もともとフランス系住民の上にアングロサクソンがかぶさってきたのです。アングロサクソンも原住民インディアンの諸言語は滅ぼし無視できましたが、伝統ある言語であるフランス語やスペイン語を無視することはできません。アフリカの諸国家は部族対立だらけですが、ここでも言語使用の問題は深刻です。言語と文化の違う部族の対立がアフリカの近代化を疎外しています。
 なぜ言語戦争が起こるのか?それは言語使用は国家主権の問題と深く関わるからです。仮に日本人に英語使用が強制されたら、あるいは外交交渉で自国語使用を禁止制限されたら、国家の利害の主張には支障が生じます。君の言っていることは解らない、といえば優位にある言語使用者はすむのです。そうなれば外国の利害下に置かれるか、外国人になりきるかの選択しかありません。言語使用は関税自主権と同じです。だから母国語は尊重しなければなりません。
 数年前から小学校で英語を教えています。私はこの試みに反対です。まだ母国語が完全でない年齢に外国語を教えるのはバイリンガルになり、母国語の習得が不十分になります。6歳から10歳までに習得した国語がその人間の創造性の基盤です。人間は所詮は母国語でしか考えられません。外国語習得は基本的には模倣です。英語能力と他の作業能力との平行は一定段階までです。みながみな通訳になって外国語習得に血道を挙げていたら、民族の創造力は枯渇します。大阪府立高校では英語の教師は生徒との対話も含めて英語で授業することが強要されています。生徒との対話が制限されるから府立高校の英語教師にはなりたくないという人も多いのです。
 日本人は英語の能力が低いといわれます。それが事実だとして考えてみます。英語あるいは他の欧米諸言語に強いのは欧米の植民地になった国ばかりです。インドとアイルランドが良い例です。逆に日本は植民地にならなかったから、英語を国内で使う必要が無く、英語が下手といわれるようになったのです。それはそれでいいのではないでしょうか。サ-ヴァントになって石油成金国家にゆくフィリピン人は多分アラビア語が上手いと思いますよ。
 五大世界語というのがありました。ギリシャ語、ラテン語、アラビア語、サンスクリット語そして古典漢文です。ギリシャ語がオリエント世界に広がると同時にギリシャ語の創造力はなくなりました。アラブ諸国、インド、中国は一定の段階で文化の発展を止めてしまいました。ラテン語支配を脱し、国民諸言語を開発した、西欧諸国が近代文明を作ります。日本も同様です。源氏物語に代表される仮名書き文を開発してから、日本の文化は独自なものになってゆきます。
 必要以上の外国語習得は模倣であり、民族の創造性と国家主権を侵犯するものであるとは銘記すべきです。断っておきますが、私は、外国語習得は不必要と言っているのでありません。外国語を知らなければ、母国語も十分には知りえません。私は読むだけならかなりのポリグロットです。
(付)
 私の知人に親日家の台湾人がおられます。職業は医師、来日し定住30年、日常会話は堪能で漱石や鴎外の本も読みこまされます。が、発音、抑揚、術語特に故事成語の使い方、礼容の場面での応対の仕方などでは、違和感を感じます。Nativeでない語学習得の限界でしょう。
 3月12日の読売新聞に、バカロレアに関する記事がありました。語はフランスの大学入学資格からきていると思いますが、記事の内容は、大学入学時に英語がぺらぺらになるよう教育システムを改築せよ、ということでした。要はアングロサクソンになれと言うことです。私は二流のアングロサクソンになるより、一流の日本人になる事を選びます。

橋下大阪市長への提言

2012-03-14 02:56:46 | Weblog
   橋下大阪市長への提言

 私は橋下氏の大阪市長就任を歓迎するものです。その立場から若干の批判と提言をいたします。まず橋下氏の市職員への対応にはいささか厳しい、時により思想の自由を侵す傾向があります。しかし私は、こと大阪に関する限りはそれもやむをえないと思っています。現在の大阪市政は腐りきっています。そういっても構わないでしょう。私が個人的に聴きえた範囲で言えば、大阪市の幹部職員の任命は暗黙裡に労組の承諾を必要とします。従って市政の内容も労組の意向しだいです。職員の半数以上はネポティズム(縁故採用)と言われます。年間数千億円といわれる、人権対策費のほとんどは飲食など使われているという話もききました。バスの運転手の給与が高いということですが、多分実際の給与はそれ以上でしょう。いわゆる闇(裏)給与です。今までの大阪市政は極端に言えば、市職員と労組そして解放同盟、さらにひょっとすると一部在日外国人のためにあっただけともいえます。企業が大阪を嫌うのは、この種の政治が結果する不透明不能率性にあります。聞いたところによりますと、松下電器(パナソニック)が工場を名古屋近辺に移してほっと安堵したとか。生活保護が多いのも市政の審査の甘さゆえかもしれません。中国人が日本に来てすぐ生活保護を申請し許可されたのも大阪ではなかったでしょうか。このままでは大阪は沈没してしまう。10年以上前、自民党の森元首相(?)が来阪し、大阪は日本のたんつぼと言いました。非常に不愉快でしたが、今考えるとあたっていないこともありません。残念なことです。橋下さん頑張って下さい。殺されないようにしてくださいよ。知人でそれを心配する人もいるのです。昭和10年までは大阪市の人口は東京市のそれより多く、GDPも高かったのです。
 次に批判。TPP賛成、首長選挙制には全く賛成できません。ここでは結論のみ言います。橋下氏の現在の仕事は大阪市長です。国政に関する発言をするには、時期が早すぎます。貴方はジャ-ナリストではないのです。発言すればいいというわけには参りません。政治家の一番悪いところは不勉強です。もっと経験し勉強し良いブレインを採用してじっくり考えて下さい。
反原発もいただけません。感情的に反原発に走ると日本の経済力は破壊されます。今から約45年前に米国のスリ-マイル島で原発事故が起きました。以後しばらく米国では原発へのアレルギ-が強く、それが米国の経済発展にかなりのブレ-キをかけました。文明の恩恵に浴する以上は多少の危険はやむをえません。石器時代なら公害も薬害もありません。しかし平均寿命は20歳を超えず、人間は常に飢餓と疫病の危険にさらされていました。原発云々を心配するより、来るべき大阪都の建築物他のインフラに徹底した耐震装置をつける方が重要です。費用がかかる分、有効需要は膨大です。日本経済の発展に大いに寄与するでしょう。
また大阪にカジノを招来する由ですが、本来この種の施設は北海道とか沖縄とか、商工業力の乏しい地域振興のために、もってくるべきものです。有名な米国のラスベガスは、核実験場のあるアリゾナ州にあります。賭博は人間の常習であると同時に一種の中毒です。ギャンブルをしたい人間はどこにでもでかけます。遠方で貧困な(失礼)地に作ればいいのです。そこに膨大なあぶく銭を落とさせればいいのです。
 それよりもっといい提案があります。市長は大阪府立大学と市立大学を統合される方針ですが、いっそのこと新しい大学を難波の南にもってこられたらどうでしょうか。そこから愛隣地区まで一気に建築を伸ばし、広大な大学町にする。同時に大阪近郊の諸大学もそこに集合させる。阪大や京大、神大、関関同立さらに早慶・東大などの遠方の大学はそこにプラ-ネットを作る。もちろん諸々の研究所も同様。企業の実験工場や工場自身も同じです。町に大学あるいは学校があるというだけでその雰囲気はがらっと変ります。何よりも技術開発の核になります。知は集約されなければ力を発揮できません。大学や研究機関がばらばらでは困ります。市大や府大の跡地は住宅用地として適当です。私は大阪市大の講師をしていますが、自宅のある尼崎から通うのに難儀しています。杉本町は遠くて不便です。神戸方面から市大に通学を希望する人はおおいのですが、地理的不便さで二の足を踏むようです。土地の価格が高騰したとき大学は郊外に逃げました。今は逆です。土地は安い。大学を、つまり研究と技術の中枢を市の中枢にすえるべきです。
 梅田から関西新空港までリニヤ-モ-タ-の新幹線を通される由ですが、大いに結構です。ついでに阪急-地下鉄-南海を一本に接続できないでしょうか。北摂阪神と和泉河内方面の連絡が不十分です。尼崎から堺に行くとなると結構時間がかかります。大阪は北高南低です。大阪南部の再開発は関西の発展にとって重要です。もちろん伊丹空港は廃止すべきです。
 
(付)10年前の話になります。ある大阪市の課長から聴いたのですが、某課長がパソコンを持ち込んで仕事をしていたら、労組から吊るし上げにあったそうです。当時労組はパソコン導入に反対でした。某課長が個人的にといえどもパソコンを使用することは労働強化につながるという話しでした。
 大阪市の交通局(地下鉄やバス)では大学卒を採用しないという方針でした。これも10年前の話になります。交通局の職員と係長から聞いた話です。学卒不採用はどういう意味を持つのでしょうか?縁故採用?一部の勢力の優遇策?いろいろ考えられます。はっきりしているのは作業の不効率です。

経済人列伝、平清盛

2012-03-06 20:56:22 | Weblog
      平清盛

 平家物語の主人公である平清盛を経済人とする事に抵抗感を抱く人は、経済というものが解っていない人でしょう。清盛の履歴に関しては真偽取り混ぜ、人工に膾炙しているので、ここでは簡単にのみ述べ、力点は彼の経済活動に置きたいと思います。ただ何分にも精確な、特に数量的な資料を欠くために、叙述にはどうしても推量が入ってしまいます。
清盛の略歴を簡単に述べます。清盛は1118年(元永1年)に伊勢平氏の棟梁、正四位上刑部卿忠盛の長男として京の都で生まれました。白河法皇の院政の絶頂期です。清盛の出生に関しては、白河法皇が祇園女御に産ませたのを、忠盛に払い下げた、という白河落胤説があります。この件に関しては現在でも賛否両論あり、定かではありません。
 父親忠盛は白河・鳥羽二代にわたり、法皇の近臣でした。院の近臣は、単に独裁者法皇の側近として発言力が強いのみならず、受領や知行国主に任じられることが多く、非常に富裕でした。忠盛も例外ではありません。加えて彼は武士の棟梁です。西国・瀬戸内の海賊討伐に功があり、出世します。彼が武士として始めて院の昇殿を許された事に対する嫉妬から、殿上闇打ち事件があったと、平家物語では語られています。海賊と言いましたが、海賊は現在我々が連想するような、単なる賊徒ではありません。彼らは瀬戸内などの沿岸地帯を本拠とする豪族か有力農民で、運輸を本業としまた通行税も取っていました。時として盗賊になります。西国の荘園などが都に運ばれる時、その財貨を奪います。海賊討伐の目的は彼らを逮捕殺害する事ではなく、彼らを自らの配下に置く事でした。こうして忠盛は西国の海賊を支配し、彼らを自己の武力に組み込みます。清盛もその跡に習います。播磨、備前、讃岐、安芸、などの瀬戸内沿岸の富裕な国の受領に、彼ら二人は相継いで任命されています。
 こういう武力と財力をもって、保元平治の乱を勝ち抜き清盛は朝廷・院政の中でトップに上り詰めます。10歳左兵衛尉、18歳従四位下、43歳従三位、48歳大納言、49歳内大臣、同年太政大臣、と位階を登り、辞任し、やがて出家します。法名は静海(じょうかい)です。後白河院政とは上手くやっていましたが、対立し(鹿ケ谷の変など)1179年(治承3年)ク-デタ-を起こして全権を握り(注)、福原に遷都し、畿内西国の軍事力を掌握します。都の貴族層、寺社勢力、そして源氏などの反対勢力が蜂起する中、1981年(養和1年)に死去します。その4年後に彼の一族は壇ノ浦に亡びます。この辺の事は平家物語を主とする諸々の小説の類に、真偽取り混ぜ詳しく描かれています。
 清盛の経済への貢献は、日宋貿易の振興にあります。960年大陸に宋王朝が出現します。内乱を克服してできたこの王朝は文治主義政策をとります。経済と文化はこの王朝のもとで栄えます。併行してそれまで日本で細々と発行されていた皇朝十二銭の発行は停止されます。代って宋銭が輸入されます。宋銭の輸入は日本の経済を賦活しました。活発になるべき条件が日本の土壌の中に出現していました。それは何でしょうか?
10世紀の半ば頃から受領という階層が現れます。受領は、律令制の国司の長官ですが、それ以前の国司と異なり、徴税請負人でした。つまり任国の租税を規定どおり徴収してそれを中央政府に納めると、後は自分の収入としてかまいません。ですから有能な受領は富を貯えます。この富、例えば米と絹や麻とか、鉄や馬とか、金銀とか、などなどを都に持ち帰り倉庫に貯えます。これらの財貨の一部、特に米は既に手形で売買されていました。こうして全国的規模での交易活動が盛んになります。また受領の任地では、一国規模での交易が始まります。受領が京から持ってきた物は、任地で産物と交換されます。任地の有力者は、在庁官人として国府を中心に勢力を貯え、受領と対立しつつまた提携する関係になります。
 その上に知行国主という制度が加わります。中央政府に一定の功績があると、その人物に特定の国を期限付きで与えられます。その期間内での国の租税はこの人物のものになります。これは売官制度です。この人物を知行国主といいますが、彼らは任地に赴く受領には近親者を任命するのが常でした。さらに受領も任地に行かず、代理の者を派遣します。この代理を目代と言います。
 こういうと一般農民は徴税請負と売官という悪政の下で徹底的に搾取され貧窮のどん底にあえいでいたように聞こえますが、実際はそうでもなく、むしろ富裕になったようです。実証はできませんが傍証はあります。ともかく受領や知行国主のもとに富が集まる。この富は当然交換されるべきです。ちょうどその頃宋王朝が大陸に現れて、信頼できる貨幣である宋銭を大量に発行します。こうして日本には大量の宋銭が輸入されます。日本が輸入しすぎて、本国の宋で銭が足らず(銭荒)、一時輸出を禁止になったこともあります。(1155年)銭が輸入されるのは、それが必要だからです。もし日本国内にそれを受け入れる余地がなければ、結果はインフレだけですから、銭の輸入は止まるはずです。
 伊勢平氏は忠盛の代から日宋貿易を積極的に行います。院の昇殿を許された翌年の1133年、忠盛は九州の任地、神崎庄の飛び領である、博多の津で宋商と直接交易します。のみならず日宋貿易を独占します。この神崎庄は法皇の荘園であったので、法皇の権威を借りて、交易を独占します。こうして日宋貿易の中心は古代以来の大宰府から博多に移ります。福岡市民は忠盛に感謝しなければなりません。
 清盛も父に習います。一族を受領や知行国主に任じます。治承のクーデタ-の後には、知行国は32カ国になりましたから、平氏は国富の半分を独占したことになります。これらの資本を清盛は日宋貿易振興につぎ込みます。彼はそれまでせいぜい博多までしかこなかった宋商人を都の近くにまで引き入れます。そのために大輪田泊(おおわたのとまり、現在の神戸港)を、大型の商船が入港できるように、何度も修築します。厳島神社を改築し、氏神とします。音戸の瀬戸を切り開いて船の往来の便宜を計ります。厳島参詣の途上にある、室、児島、尾道は海港として整備されます。後白河法皇を福原の別荘に招き、宋人を拝謁させます。それまで都の貴族は天皇や法皇が異人と会うことには猛反対でした。こうして清盛は外人アレルギ-を取り除きます。1164年周囲の(公卿官人層)の反対を押し切って、組織的に宋銭を輸入するようにします。1179年宋銭を輸入しすぎたのか猛烈なインフレになります。当時はやっていた悪疫もそのせいにされて、銭の病と言われました。平氏政権の不人気の一因になりました。
 ここまでが実証できる内容です。以下傍証を提示します。当時から畿内には悪党と呼ばれる新興勢力がありました。彼らは小名主であり有力農民ですが、なんらかの商交易に従事し、同時に武力を貯えて活動する、従って経済行為に最もアクティヴな階層でした。彼らは受領や知行国主あるいは院政自身の商業活動と呼応します。平氏政権を挟んで、この悪党勢力が急伸したと推測させるものがあります。それは源平両軍が動員した戦闘員の数です。保元平治の乱やそれ以前の戦乱では数百騎かせいぜい千人内外でした。源平合戦、治承寿永の内乱では、動員される武士の数は一桁上がります。そして彼らの戦法も変わります。それまでの騎射戦法から、太刀打ち・組み討ちに変わります。つまり長年の修行をしなくてはならない技術から、体力さえあればなんとかなる戦術に切り替わったわけです。歩兵も増えます。工兵も出現します。
 戦法と戦闘員の内実の変化は、戦闘員を提供できる産業構造の変化の反映です。飲まず食わずでは戦闘はできません。戦闘員を提供できるという事は、それだけ農村が裕福になった、より具体的に言えば、村落内部により小規模の経営者が育ち始め、彼らが従来の由緒ある武者とは違う、戦闘員になり始めたことを意味します。
 源平の内乱期には、悪党という階層を表す明確な言葉は使われていません。しかし半世紀後に書かれた貞永式目の中には、はっきりと悪党の文字が見え、悪党対策が鎌倉幕府の緊要な課題として認識されています。以後幕府はこの悪党に悩まされ、結局幕府は畿内の悪党勢力に滅ぼされた形になります。貞永式目には悪党の事のみならす、利子の制限も明記されています。悪党の商業活動から御家人を護るためです。つまり源平合戦の半世紀後には、幕府が正式政策の対象として取り上げないといけないほど、商業活動が盛んになったというわけです。
 当時の日宋貿易で取り扱われた商品は次の通りです。
輸出品-金、砂金、水銀、硫黄、真珠、松、杉、檜、蒔絵、螺鈿、檜扇、屏風、日本刀
輸入品-綾、錦、陶磁器、文房具、書籍、絵画、香料、薬物、人参、紅花
 貿易は明らかに出超のはずです。なぜならば日本の最大の輸入品は宋銭でした。宋銭を大量に輸入できるほどの産業構造がすでに日本で出来上がっていたということです。鎌倉時代に入り国内の商工業活動は急伸します。平清盛は悪党勢力に示唆される新興小名主が勃起するちょうどその時期に大量の宋銭を輸入し、流通貨幣量を飛躍的に増大せしめて、日本の経済を賦活し発展させたと言えましょう。
 銭を輸入すると当然物価は上がります。もしそれを支える産業構造がなければインフレだけで終わりです。しかし然るべき生産過程があれば、銭を持った者は物を買い、結果として生産活動は賦活されます。歴史はこの事を間接的にではありますが、証明しているようです。この日本経済発展の画期を作ったのが、平清盛です。
 私は、なぜ平氏が源氏に負けたのかと考える事があります。平家物語に拠れば、平氏が弱かったからだとなりますが、実態は違うようです。私は平氏を打ち負かしたのは、寺社勢力だと思っています。叡山、三井寺、興福寺だけですぐ10000人の戦闘員は動員できます。そして彼らの内実は先に述べた悪党勢力です。この悪党を経済政策を介して平氏政権は育てました。平氏自身もこの勢力を自身の兵力に組み込もうとします。結果として平氏政権は自ら育てた勢力を充分に掌握できないまま滅んだと言えましょう。悪党の戦法を遺憾なく駆使したのが、源義経です。小人数による奇襲、公然たるだまし討ちと虚言などなど、義経は悪党の戦法を使い切っています。頼朝が恐れたのは、義経のこの悪党性にあったと言えるでしょう。

 参考文献  平清盛  吉川弘文館
       日本通史(6、7巻) 岩波書店
       渡来銭の社会史  中央公論社

(付記)
 源平の戦いは周知のように壇ノ浦で決着します。平家物語によると双方数千隻の軍船を動員しています。海戦は基本的には歩兵戦闘です。そして源氏も平家も瀬戸内や九州の海賊を味方につけるべく必死になっています。これだけ多数の歩兵を輩出できる生産力を当時の日本は持っていました。
 源平の戦いで古典的な騎射戦術、馬をかけちがいざまに相手の鎧のサネを射通すという騎射戦術はほとんど用いられていません。橋合戦、山木夜討、倶梨伽羅峠、一の谷、屋島などなどのどのシ-ンを思い出しても基本的な戦闘は歩兵戦です。