ムスリムへの苦言
イスラム社会が騒がしい。特にアフガン情勢が問題になっている。その政治的問題はさておき、宗教的情操から、ムスリム(イスラム教徒)に一言文句を言いたい。アフガニスタンで米軍将校2名がアフガニスタン軍人に射殺され、その報復かどうかは知らないが、現地の米兵がアフガニスタン人20名近くを殺した。アメリカ国内でキリスト教徒がコ-ランを焼いたことが発端だ。それでムスリムが怒りアフガニスタンで、上記の事件が起こった。多くの人が尊重する経典を焼却するのは愚かしく良くないことだ。しかしムスリムも自分達がしたことを考えてほしい。多分10年近く前になるが、アフガニスタン国内にあるバ-ミヤンの石仏を大砲で破壊したのはタリバンというムスリムの一部ではなかったのか。私は仏教徒としてこの事件に非常な不快感を持った。多分私だけではないと思う。紀元前500年頃に出現した仏教は紀元前後に北西インドから現在アフガニスタンとかカザフスタンとかタジキスタンと呼ばれている土地を通って中国にわたり、そこから日本に伝わってきた。バ-ミヤンはこの仏教伝来の主要な通路にあたり、仏教史では必ず出てくる地名である。仏教徒にとっては一種の思い出の聖地なのだ。ムスリムの一部であるタリバンはこの石仏を容赦なくしかも極めて意図的に破壊した。偶像崇拝の異端として許せなかったのだろう。日本人の大部分は仏教徒である。日本では仏教が国民感情に浸透しつくしている。ムスリムはわれわれのこの感情を考えたことがあるのか?コ-ラン焼却と全く同じ行為をしているのだ。タリバンはムスリムの一部、コ-ラン焼却の張本人はキリスト教徒の一部。どこの社会にも跳ね上がりや馬鹿はいる。もっと冷静になれないのか?別に仏像の礼拝をムスリムに押し付けているわけではない。ほっといてほしい。
コーランに関しては不可解なことがある。私が知る範囲では、コーランは古典アラビア語から他の外国語に翻訳してはいけないらしい。日本にも井筒俊彦氏による日本語訳が岩波文庫として出ている。しかしこれはコ-ランとしては認められないようだ。あくまでコ-ランの注釈としてのみ容認されている。仏教でもキリスト教でも経典はすべて翻訳されている。日本語で表現されても法華経は法華経であり、バイブルはバイブルなのだ。
疑問が数多ある。コ-ランはムハンマッド在世当時の古典アラビア語ということだが、現在のアラブ諸国の国民に1500年前の言語が解るのか?トルコやマレ-シアやインドネシアではアラビア語は母国語でないのだが、これらの諸国の住民にアラビア語が解るのか?解らないと思う。イスラム諸国では定時的にコ-ランの読経が聴かされるということだが、解らないものをただ聞いているだけなのか?
経典をその成立当初の言語に留めておくことは、経典の内容を化石化することに等しい。あらゆる思想は再解釈されてのみ発展する。イスラム文明圏ではこれを許さないのか?もしそうなら、経典の内容は儀礼化することになる。経典の内容に発展がないということは、その経典を信奉する社会集団に発展が無いことだ。換言すればその社会は部族のまま留まり続けることになる。コ-ラン成立時のアラブ社会は部族社会だった。仏教もキリスト教も同様、その成立した社会は部族社会だった。その原始的社会を仏教は柔らかく、キリスト教は手荒く解体して現在の社会がでてきた。
コ-ランを絶対視し、その内容を経典成立時の時点に固定するのなら、それはそれで結構だ。私達外部の人間のあずかり知らぬところだ。ただそうする事は、経典の内容は単なる儀式と慣習の寄せ集めであり、その社会は部族社会でしかないことを告白しているのに等しい。私はコ-ランの井筒訳を読んだことがある。率直な印象をいえば、深みに欠ける。儀礼と慣習の集大成という印象は拒めない。これ以上は言わないことにするジハ-ドとやらにやられては困るので。
(付)私はコ-ランをアラビア語で読もうとして3年間勉強した。アラビア語を。だから少しだけはこの言語が解る。限界は感じた。教材、日本国内で手に入る教材が少なすぎる。アラブ諸国、特に産油国はもう少しアラビア語普及に金をつぎ込んだらどうだろうか。
アフガニスタンの米軍将校射殺、米軍兵士による乱射事件は、少なくとも駐留米軍軍人は精神的に限界にきていることを示唆する。米政府はあくまで個人の精神状態の問題にしたいようだが。
イスラム社会が騒がしい。特にアフガン情勢が問題になっている。その政治的問題はさておき、宗教的情操から、ムスリム(イスラム教徒)に一言文句を言いたい。アフガニスタンで米軍将校2名がアフガニスタン軍人に射殺され、その報復かどうかは知らないが、現地の米兵がアフガニスタン人20名近くを殺した。アメリカ国内でキリスト教徒がコ-ランを焼いたことが発端だ。それでムスリムが怒りアフガニスタンで、上記の事件が起こった。多くの人が尊重する経典を焼却するのは愚かしく良くないことだ。しかしムスリムも自分達がしたことを考えてほしい。多分10年近く前になるが、アフガニスタン国内にあるバ-ミヤンの石仏を大砲で破壊したのはタリバンというムスリムの一部ではなかったのか。私は仏教徒としてこの事件に非常な不快感を持った。多分私だけではないと思う。紀元前500年頃に出現した仏教は紀元前後に北西インドから現在アフガニスタンとかカザフスタンとかタジキスタンと呼ばれている土地を通って中国にわたり、そこから日本に伝わってきた。バ-ミヤンはこの仏教伝来の主要な通路にあたり、仏教史では必ず出てくる地名である。仏教徒にとっては一種の思い出の聖地なのだ。ムスリムの一部であるタリバンはこの石仏を容赦なくしかも極めて意図的に破壊した。偶像崇拝の異端として許せなかったのだろう。日本人の大部分は仏教徒である。日本では仏教が国民感情に浸透しつくしている。ムスリムはわれわれのこの感情を考えたことがあるのか?コ-ラン焼却と全く同じ行為をしているのだ。タリバンはムスリムの一部、コ-ラン焼却の張本人はキリスト教徒の一部。どこの社会にも跳ね上がりや馬鹿はいる。もっと冷静になれないのか?別に仏像の礼拝をムスリムに押し付けているわけではない。ほっといてほしい。
コーランに関しては不可解なことがある。私が知る範囲では、コーランは古典アラビア語から他の外国語に翻訳してはいけないらしい。日本にも井筒俊彦氏による日本語訳が岩波文庫として出ている。しかしこれはコ-ランとしては認められないようだ。あくまでコ-ランの注釈としてのみ容認されている。仏教でもキリスト教でも経典はすべて翻訳されている。日本語で表現されても法華経は法華経であり、バイブルはバイブルなのだ。
疑問が数多ある。コ-ランはムハンマッド在世当時の古典アラビア語ということだが、現在のアラブ諸国の国民に1500年前の言語が解るのか?トルコやマレ-シアやインドネシアではアラビア語は母国語でないのだが、これらの諸国の住民にアラビア語が解るのか?解らないと思う。イスラム諸国では定時的にコ-ランの読経が聴かされるということだが、解らないものをただ聞いているだけなのか?
経典をその成立当初の言語に留めておくことは、経典の内容を化石化することに等しい。あらゆる思想は再解釈されてのみ発展する。イスラム文明圏ではこれを許さないのか?もしそうなら、経典の内容は儀礼化することになる。経典の内容に発展がないということは、その経典を信奉する社会集団に発展が無いことだ。換言すればその社会は部族のまま留まり続けることになる。コ-ラン成立時のアラブ社会は部族社会だった。仏教もキリスト教も同様、その成立した社会は部族社会だった。その原始的社会を仏教は柔らかく、キリスト教は手荒く解体して現在の社会がでてきた。
コ-ランを絶対視し、その内容を経典成立時の時点に固定するのなら、それはそれで結構だ。私達外部の人間のあずかり知らぬところだ。ただそうする事は、経典の内容は単なる儀式と慣習の寄せ集めであり、その社会は部族社会でしかないことを告白しているのに等しい。私はコ-ランの井筒訳を読んだことがある。率直な印象をいえば、深みに欠ける。儀礼と慣習の集大成という印象は拒めない。これ以上は言わないことにするジハ-ドとやらにやられては困るので。
(付)私はコ-ランをアラビア語で読もうとして3年間勉強した。アラビア語を。だから少しだけはこの言語が解る。限界は感じた。教材、日本国内で手に入る教材が少なすぎる。アラブ諸国、特に産油国はもう少しアラビア語普及に金をつぎ込んだらどうだろうか。
アフガニスタンの米軍将校射殺、米軍兵士による乱射事件は、少なくとも駐留米軍軍人は精神的に限界にきていることを示唆する。米政府はあくまで個人の精神状態の問題にしたいようだが。