経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  浅野総一郎

2021-05-31 21:19:10 | Weblog
経済人列伝 浅野総一郎

 浅野セメントという会社がありました。業界ビッグ3に入る会社です。平成不況で他社と合同合併して社名は変更されています。私が日本の企業中、浅野の名前で知っているのは浅野セメントのみです。この会社の創立者が浅野総一郎です。浅野の社名はあまり残っていませんが、総一郎のした事業は極めて多伎に渡ります。彼は天性の商売人(というより商売好き)であり、天性の企画者(projector)でした。彼は金融資本には興味がなかったのか、その種の事業には手を出しておりません。そのために恐慌や不況や敗戦というショックの度に彼が創始した事業は他の手に渡ったのではないかと、と思われます。
 浅野総一郎は1848年(嘉永元年)に能登国(富山県)藪田村(現在は氷見市内)に生まれました。生家は村医者です。多分農業を経営しつつ、医業をも営んでいたのでしょう。幼名は泰治郎と言います。姉夫婦が家業を継いだために、近隣の氷見町の町医のところに養子にやられます。養父は厳しい人で、漢方医学の基礎をみっちり仕込まれます。総一郎は無学を自称していますが、8年にわたる養子時代の教育は当時としては相当なものです。医者が嫌で嫌でたまりません。幕末のコロリ流行に際して、当時の医学が全く無力であった事を知り、実家に逃げ帰ります。確かに総一郎のような人間には、地道に臨床に励む医業は向いていません。医業は捨てましたが、偉業は打ち立てます。
 実家に逃げ帰った15歳から総一郎の商売は始まります。栴檀は双葉より芳し、です。まず土地で織られる縮緬を商います。さらに稲こき機のリース業も試みます。土地の産物の商社を作り、また筵販売なども手がけます。成功したり失敗したりの連続です。飢饉に際し越後に米を買いに行きもみだけの空米を掴まされ300両の損をします。この時代彼は新規な試みをしています。親戚知人に出資させ、儲けを配当する、つまり現在の株式会社の手法です。誠に、栴檀は双葉より芳し、です。もっとも総一郎は儲けると、配当を大盤振る舞いするので、結局破産します。
 故郷にいられず夜逃げ同然の形で、東京に出ます。水売りで小金をためます。東京は大阪同様、水質が悪く水が不味いので、こんな商売もできました。竹の皮の販売も手がけます。当時(と言っても昭和20年代までは)味噌や豆腐や肉は竹の皮で包んで販売しました。味噌屋の販売量に応じて竹の皮を調達します。薪(まき・たきぎ)も販売しました。薪の販売には 倉庫が必要でしたが、総一郎は屋根だけの簡易貯薪所を作り、資本の少なさを補います。薪炭商として大を為します。大水に漬かった石炭は使い物にならないと放置されていたのを、上手く売りつけて稼ぎます。(使えないと思うほうが、おかしいですね)横浜ガスという会社が、ガスを取った残りのコ-クスを廃物として放置していました。コ-クスも燃料です。総一郎はこれをセメント会社に持って行き利用させます。また同じく廃物視されていたコ-ルタ-ルから石炭酸を作り、これでも儲けます。石炭酸は消毒薬になります。
 明治17年(1884年)総一郎36歳時、政府から深川セメントを払い下げされます。斡旋したのは渋沢栄一です。会社経営は成功します。上京までの失敗体験で鍛えられていました。薪炭商として有名になった頃、松方財政の方針である官営事業払い下げというチャンスに出会いました。これが総一郎の事業の飛躍の土台になります。
彼の経営の特徴は、一つの事業に留まらず、自然に延長出来る事にはどんどん向かってゆく事、何事にも興味を示し、新規な試みを為す事、当然そこには新技術の積極的採用も含まれます、そして人間関係を大事にし、決断即行とねばりです。だから彼の事業は多伎に渡りました。昭和5年彼が死去した時、直系会社7、傍系会社26、関係会社26、子会社16、総計75の会社に関係していました。ですから彼の事業を概観するのは大変です。時系列によるか、企業種によるか、迷います。後者の方向で考察してみましょう。
 明治24年、総一郎43歳時、ロシアの石油の輸入をイギリスの会社と協同して行います。バラ売りで包装料を節約し、鉄製円筒形の容器を作り石油を運びます。この円筒形の容器は昭和20年代まであり、貨物列車の一部にはほとんどと言っていいほど連結されていました。子供心にもこの風景は印象深く刻み込まれていますが、これが総一郎の発案だったとは今知りました。石油輸入はセメント会社経営の延長上にあります。後に述べますが、セメントは土木事業に必須のものです。彼は港湾を埋め立てて作っていますから、セメント-港湾土木-輸入、という線は自然に繋がります。
 石油の輸入から、さらに石油採掘と精製へと彼の関心は向きます。越後(新潟県)では石油が出ました。すでに群小会社が採掘していましたが、総一郎はそこに乗り込みます。明治31年(彼50歳)、北越石油会社を設立します。石油は出ました。採掘場所である長嶺から柏崎まで鋼管を敷きます。これも全く新しい試みでした。ひょっとすると世界でも最新の試みであったかも知れません。結局石油事業は群小会社の合併に継ぐ合併で、彼の会社もその一部になるのですが、彼の進出が北越地方の会社の動向を左右した事には違いありません。この間総一郎の採掘権内にある青森県で天然のアスファルトがとれました。これにヒントを得て、コ-ルタ-ルからアスファルトを作り、大儲けします。
 石油移送に鋼管が必要であること、そして鋼管製作には高度な技術が必要である事を知った、総一郎の女婿、白石元治郎は同窓の小泉嘉一郎(東大工学部卒、当時大倉組に在籍)と組んで、新しい鉄鋼会社を作ります。この会社がやがて日本鋼管になります。現在では川﨑製鉄と合併して、JEFエンジニアリングになっています。
 明治38年(57歳)原油輸入を思いつきます。当時の石油消費では灯油が一番でした。灯油は外国から輸入します。灯油消費量が1000トン、うち内国産が270トン、外国産が730トン、です。灯油には関税がかかりますが、原油にはほとんどかかりません。総一郎はここに目をつけます。原油を輸入し国内で精製して販売すれば、利益は非常に大きいのです。そのために、保土ヶ谷に精製工場用の土地を購入します。将来の販路を考えて、三菱造船に、重油燃料の機関を持つ13000トンの船を発注します。当時船の燃料は石炭でした。石油の方が安かったのです。また重油燃料の機関は既にありましたが、この機関をすえつけた船はまだ出現していません。結局原油の輸入は失敗します。灯油販売業者の反対と、精製所は危険だという地元の反対、がこの企てにとどめを刺します。
 大正7年(60歳)硫安製造に進出しようとします。ボーキサイトを加熱し、それに硫酸をかけると、硫酸アンモニウム(硫安)ができる事が発見されていました。硫安は人工肥料の代表です。将来の販路も大きい。総一郎はこの分野に進出しようとします。しかし硫安の製造には、多量の電力が必要であり、日本にはまだそれほどの電力供給がないと知り、一応退きます。硫安製造事業には多くの既成企業も関心を示し、競争は激しかったようです。もしこの分野に総一郎が進出しておれば浅野財閥の事業内容は相当に変わり、本格的な重化学工業資本になっていたでしょう。その代わり、日本の電力事業の現状を知った彼は、自ら電力開発に邁進します。
 明治36年(55歳)すでに関東地方の電力開発権を獲得していました。利根川上流の吾妻川や酒匂川上流の山中河内川などです。大正5年(58歳)、故郷の富山県の庄川上流に、水力発電用のダム建設を申請します。背後の山から出る木材運搬を流木に頼っていたので、木材会社から猛反対されます。木材運搬用の道路を造ったり、起重機様の機械での上げ下ろしを試みた後、申請から10年後に工事は着手されます。
 総一郎は多くの築港を手がけています。41歳と言いますから明治21年ごろ、門司近傍13万坪を埋め立て、門司港を大拡張します。門司は北九州から産出する石炭の積出港として期待されました。ちなみに「一坪」は「3・3平米」です。同じ頃彼は横浜築港も手がけています。拡張でしょうね。大正7年(60歳)小樽港を拡張します。小樽は北海道内陸で産する石炭の積出港でしたが、冬の北風が強く、船の安全が保障されません。第一次工事だけで国費217万円が投下されます。水深13m広さ216万坪の範囲で防波堤を作らねばなりません。セメントに火山灰を少し混ぜて、セメントの結合力を強化 するするシルト法などが採用されます。この時工事の技術上の責任者であった広井勇(後、東大教授)との友情は生涯続きます。総一郎は技術者を大事にしました。
 総一郎が行った最大の埋め立て事業は川崎・鶴見間の埋め立てです。彼はこの事業を60歳代になって始めます。作業は20年を要したと言いますから、完成は彼が死去する直前になります。京浜工業地帯は彼によって造られたといえましょう。
 磐城炭鉱は総一郎が36歳の時、手がけました。セメント事業には燃料が要ります。関東に一番近い石炭産出地は常磐地方です。磐城で石炭を掘り出します。それを汽車で港に運びます。始め政府は磐城地方には鉄道を作らない方針でしたが、総一郎が私鉄でも作るというので、その理屈と情熱を受け入れて、鉄道路線を敷きます。
 セメントの原料は石灰です。これは奥多摩地方の山で採掘されます。石灰をセメント工場のある川崎まで運ばなければなりません。青海鉄道を造り、そこから南武線を経て川崎に到達します。このように総一郎は鉄道事業にも進出します。
 セメント及びその原料や燃料を運ぶには船が一番です。総一郎36歳〈明治17年〉、三菱汽船と共同運輸(反三菱連合)の闘争が行われます。総一郎は共同運輸側に立ちます。明治29年(48歳)彼は東洋汽船株式会社を創設します。浅野回漕部の発展したものです。そしてインド航路を押さえようとします。当時すべての航路は欧米の会社に押さえられ、日本の船が利用するチャンスは低く設定されていました。渋沢の忠告に基づき、総一郎はアメリカ航路に進出します。東洋汽船は後の不況期に郵船と合併させられています。船を走らせれば船を造りたくなります。造船には鉄鋼の大量使用が不可欠です。総一郎は浅野造船や浅野製鉄などの会社も作りました。
 総一郎は沖電気の経営にも深く関与しています。もっとも沖電気との関係は妻の縁戚によるものです。浅野の資金は安田善次郎から融資される部分が大でした。総一郎と善次郎は気があいました。安田が貸し付けた浅野系企業は、浅野同族本社、日本鋼管、浅野セメント、沖電気、浅野重工、鋼管鉱業、関東電工、東亜港湾、日本鋳造、長府船渠、奥多摩工業、高炉セメント、両龍炭鉱、日本フ-ム、沖電気証券、となっています。安田が不慮の事故で殺害されてから、総一郎の資金繰りは苦しくなります。
 戦後の財閥解体で、浅野の名は消えます。浅野セメントは日本セメントになります。平成の不況で秩父小野田セメントと合併し、太平洋セメントになっています。
 浅野総一郎、昭和5年(1930年)死去。享年82歳。子沢山な人で、子供が8人、孫やひ孫を合わせると100名を超える縁戚でした。終生起業への情熱は止むことはありません。むしろやや老害の傾向もあり、子供達を悩ませたとはいえましょう。
 参考文献 浅野総一郎の度胸人生 毎日ワンズ

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行








なぜコロナワクチン接種の作業に一般人を繰り出さないのか?

2021-05-31 20:25:18 | Weblog
なぜコロナワクチン接種の作業に一般人を繰り出さないのか?

この件に関しては今までさんざんブログで述べてきた。コロナワクチン接種の作業(筋肉注射)をなんで医師看護師のみにに限るのか。最近ではそれに薬剤師や救命士も加えられた。なら一般人にもさせる(してもらう)べきだ。繰り返すが簡単な作業なのだ。素人は経験がないのでビビるが、一回経験すれば、事情は飲みこめる。ビビらなくてもいいのだ。ビフテキを切るよりやさしい。素人を動員すれば接種の回数は十倍に飛躍するだろう。アナフュラキシ-ショックは運命だ。医師がするからショックは防げるなんてことはない。
摂取の速度は国家の運命に関わっている。五輪が中止されたらコロナ後予想される世界の変化に日本は遅れる。もちろん政権の運命もかかる。菅総理個人の運命も同様だ。五輪中止は即内閣総辞職に連なる。現在コロナに対する有効な手段はワクチン接種しかない。非常事態宣言などは意味がない。お芝居だ。知事たちのたっての要望(彼らは立場上芝居が好きだ)を建てての話だ。
肝心な事の一つは、疫病災禍・パンデミックは災難でもあるが、戦争でもある事だ。戦時・非常時には通常以上の方策が求められ許される。筋注を素人にやらせるのは現法には叛くが戦時には許されて良い。日本人は幸か不幸かこの80年戦争をしてこなかった。だから戦争というものを知らない。すべての外国は潜在的な仮想敵国だと言った人がいる。戦争は政治の生理なのだ。幸いコロナ危機でその戦時を経験できることになった。チャンスを生かそう。菅総理の閣僚経歴は総務相と官房長官だ。治安と情報が専門だ。そういう経歴の人物が政権のトップとは頼もしい。その経歴を生かして一刀両断に事態を処理してほしい。コロナ危機を乗り切れば菅氏は名宰相と言われるだろう。逆に五輪中止になれば石もて追われるだろう、戦犯として。
コロナ後について。現在の国際経済はアメリカのドル垂れ流しと中国の安物供給(輸出)で成り立っている。アメリカの経済は危ない。移民つまり低技能労働者とDEEP STATEとかいう金融貴族により成り立っている。アメリカは崩壊するかウィルソン以前のモンロ-主義に戻るかしかないだろう。ドルの支えを失った中国は、一か八かの戦争(この可能性は無いとは言えない)を仕掛けるか、鄧小平以前の内陸閉じこもりに回帰するかのいずれかだろう。EUに未来を拓く能力は全くない。なら次なるリ-ダ-は日本しかないのだ。この件についてはまた述べる。
最後に医師会へ。政府は医師全員とくに開業医(さらに特に内科医)にワクチン接種施行を強制すべきだ。指示に従わない医師には保険診療報酬支払を停止すべきだ。彼らの報酬はどこから出ているのか。もちろん公的保険からだ。特に切磋琢磨せずとも国民と国家と企業から報酬が出る。そんな時なんだって、接種の有無は各医院に任されるだと。なんのための近医・かかりつけ医だ。戦時なら戦時で国家に協力しろ。   2021-5-31

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

   武士道の考察(75)

2021-05-31 15:14:19 | Weblog
武士道の考察(75)

(元禄時代、豊かな消費生活)
綱吉の治世は元禄時代と呼ばれます。生活が豊かになった時代です。都市住民は白米を食べ、清酒を飲み、醤油で味付けし、畳の部屋に住みます。この時代の宴会のメニュ-を見ると
、現在我々が日本料理と言っているのもが出そろっています。油も大量に生産され夜の世界も楽しめるようになりました。島原・吉原の繁栄はその一例です。一人前三両も四両もする料理がよく売れたと言われます。当時一両で約一石から二石買えるとします。現在(2000年代前半)米価は小売値で5キロ2000円くらいです。一石150キロだから、2000x150=30000となり、2000x150=300000、300000/5=60000となり一石5-6万円になります。だから現在の価格で15万円から25万円くらいの料理がよく売れていたことになります。現在そんな高価な料理を食べる人は少なくとも私の周辺にはいません。たかが料理にそんな金を使う人はバカ、知性への冒涜者だとは思います。しかし餓死者の出現よりはずっとましですが。
 それはともあれ食生活が贅沢になると当然衣服の方もゴ-ジャスになります。現在女性が和服を着る時締める幅広い帯は当時の産物です。金銀の刺繍、西陣織の綾錦が出回ります。富裕な商人の細君同士が衣服の贅沢競争をします。荻生徂徠が江戸城で講義した時、身分の低い武士たちが老中より立派な衣服を着ているのを見てびっくりしたと書いています。米だけ食べていれば後は味噌少々という時代ではなくなっていました。
(貨幣改鋳、是か非か?)
経済に占めるコメの価値が低下すると、コメで給付を受ける武士の収入は相対的には低下します。対して農民も、職人も、商人も、価格の変動に対して生産販売するものを変えることができます。武士も人間だから人並みの生活はしたいでしょう。加えて彼らの生活は格式に縛られていました。勝手にそれを変更倹約はできません。大名将軍の財政は窮乏します。考え出されたのが、勘定奉行荻原重秀が発案した貨幣改鋳です。金貨銀貨の中の金銀量を減らします。幕府は名目上の増収を確保します。同時にこの金を使って公共投資か起業でもすれば良いのでしょうが、当時ではその知恵も能力もありません。流通貨幣量の単純な増加の結果はインフレです。生産者はインフレに対応できます。値段を挙げれば良いのですから。結果としてはかえって儲かります。しかし不労所得者(?)である武士はインフレに対応できません。武士の窮乏はかえってつのります。六代家宣の政治顧問であった新井白石は金銀の量を増やす政策に転じます。貨幣への信頼を取り戻すためです。結果は貨幣流通量の縮小、デフレ、不景気です。荻原・新井両氏は犬猿の仲で政策上も対立しましたが、貨幣流通量と物価景気の関係は現在の経済学でも論争中です。皮肉を言えば「経済学」というものはその外観はともかく実質は進歩していないのです。確実なことは、貨幣は魔物、ということだけです。そして魔物を飼うのは人間なのです。この時代赤穂浪士の吉良邸討ち入りという事件がありました。吉良が浅野をいじめたのはワイロが少ないというのが通説です。あくまで通説ですが、浅野の江戸詰め家老にインフレの認識が不十分だったとも言われております。インフレなどという高度な経済現象はこの時代が初めて(対策を講じるべき現象としては)ですから、あり得ない話ではありません。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

東京オリンピックを成功させよう

2021-05-31 12:36:24 | Weblog
東京オリンピックを成功させよう

 いよいよ東京五輪が二か月後に近づいた。何が何でも成功させよう。東京五輪の成功の可否は日本の将来に関わることになる。詳しく文献を調べると日本経済は手堅く順調だ。足らないのは「弱気なる」ことだけだ。現在の世界経済はドルと元(中国通貨)のなれ合い・一種の詐欺で成り立っている。米国がドル札を垂れ流し、それをドルペッグ中国が輸出で稼いだドルを元に替えて稼いでいる。それも薄利だが。米国は借金して輸入消費を増やし消費する。これならGDPは増えるわけだ。輸出、消費はGDPに換算されるが借金は換算されないからな。そしてどうわけか日本の円がこの詐欺に等しい米中の暗黙の契約の下支えをさせられている。損な役回りだ。こういう時米中は突然あるいは徐々に反日に成りうる。戦前の米中の反日と同じだ。下支えをさせられているので日本のGDPは伸びない。低利融資しか円の使い道がないものな。50年にわたる日米経済戦争に日本は勝った。見るべきデ-タを見れば解る。自信を持とう。
 五輪開催でこの弱気を突破して日本の経済と国力を発展させよう。真に独立しよう。一部の識者、朝日毎日それに孫某は五輪中止を叫ぶ。アサヒマイニチは日本の不幸を望む反日国賊メディアだ。孫某は株の売買で稼ぐ金融屋であり虚業だ不潔な金貸しだ。日本の経済にとって不必要というより有害な存在だ。金融資本全盛の成れの果ては貧富の差拡大(米中がいい例だが日本もそうなりかねない)がいい例だ。金貸しが繁栄した経済は必ず亡ぶ。
 五輪開催は好機だ。一部のバカの意見は無視して開催しよう。日本人の迷妄と弱気を覆す絶好のチャンスだ。菅総理は黙々として任務を遂行すればいい。説明責任など無視すればいい。疫病の蔓延は政府の責任ではない。緊急措置とかなんとかは二度と出すべきではない。効果は全くない。
 是が非でも五輪は成功させよう。臆病な衆愚を突破しよう。それから国会議員諸侯よ、早くワクチン接種を受けよう。遠慮はいらない。なんのかんのと言っても選良なのだ。感染に脅えて弱気になられたら困るのは国民だ。     2021-5-31

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

  経済人列伝 石坂泰三

2021-05-30 20:44:12 | Weblog
経済人列伝  石坂泰三

 戦後三等重役という言葉が流行しました。戦前の会社重役は、資本家そのものであり、従って一般庶民とはかけ離れた資産の持ち主である事が多かったのですが、戦後の公職追放のため正統派財界人が退場し、彼らの下にあった部長クラスの中堅管理職が重役(役員)になるケ-スが激増します。こうして出現した戦後派の重役、サラリ-マン重役を、皮肉って三等重役と言いました。日本は欧米と違い、資本と経営の分離が行われやすい環境にあり、戦前から経営者資本主義は盛んだったのですが、戦後になりこの傾向は一気に加速されます。この点で戦後という時期は経営方法の革命期であったといえましょう。
 石坂泰三という人は、この種の三等重役の代表かも知れません。彼は自分で企業を起こしていません。その点では豊田佐吉や鮎川義介あるいは堤康次郎とはかなり異なる人生を歩みます。彼自身、自らをサラリ-マンとして強く自覚していました。この自覚のもとに、第一生命を育て上げて社長になり、戦後は請われて東芝社長として大争議をおさめ、昭和31年から4期8年第二代経団連会長として、特に池田内閣の所得倍増論を強力に支持し、高度成長期の経済界をリ-ドしました。泰三は経団連会長時代、財界総理と呼ばれるほどの影響力を持ちます。しかし経団連つまり経営者団体連合会は、その名の示すとおり、企業集団の連合と合議を前提として機能します。ですから泰三の役割も、この集団の総意をどうくみ上げ、遂行させるのかにありました。彼は明治19年の生まれですが、この点では戦後型経営者の典型を示しています。
 石坂泰三は明治19年に埼玉県大里郡奈良村(現熊谷市)に生まれました。家は35ヘクタ-ルの田畑を所有する大地主です。父母はどういうわけか、早くから上京して生活します。子供が多く、教育費がかさみ、そう裕福な生活でもなかったようです。泰三は父母特に母親から漢籍の特訓を受けます。母親は家事の傍ら、四書五経、文選や唐詩選などの訓読を泰三に教えます。この教養は泰三の将来にとって有益なものになりました。彼は始め陸士を目指したようで、陸士コ-スの代表と言われた城北中学を受験しますが、不合格になります。家計に余裕がなかったので、商家への丁稚奉公の話も出ます。泰三は父母に懇請して、もう一年の猶予を乞い、翌年東京府立一中に合格し、更に一高、東大(法学部)というエリ-トコ-スを進みます。一中時代の同級生には谷崎順一郎、東大時代には河合良成や五島慶太がいます。卒業後逓信省に入ります。この間部下の汚職の責任を問われて戒告処分を受けています。汚職は前任課長時代の事ですから、泰三は不満でした。
 逓信省は4年で退職することになります。第一生命の社長矢野恒太が、泰三の恩師岡野敬次郎に、だれか良い人材はいないかと相談します。岡野は逓信省の知人に候補推薦を頼みます。こうして「本人の知らないところで、人身売買が行われて(泰三自身の言葉)」彼は第一生命に転職するはめになりました。本人にはあまり抵抗感はなかったようですが、妻は「私は官吏の嫁に来たのであって、保険屋の嫁に着たのではありません」と愚痴をこぼします。妻の言葉の方が正直で、東大法科卒のお役人が保険会社の一サラリ-マンに転職とは、当時の感覚では御殿からゴミ箱へ放り込まれたようなものでした。実際いざ勤務すると、逓信省時代との待遇の格差にさすがの泰三もびっくりし、後悔もします。きちんとした洋服を着て、涼しい部屋で威張っていた者が、丁稚同様の環境の中で駈けずり廻らなければなりません。後悔はするが、そう深刻に取らないところが、泰三の泰三たる由縁かも知れません。
 第一生命という会社の創設には面白い話があります。創立者である矢野恒太は医師として日本生命に勤務していました。会社に勤務する医師の待遇が悪いので、待遇改善を矢野は要求します。待遇は改善されましたが、矢野は解雇されます。そこで反発し奮起した矢野は、日本生命に劣らぬ会社を作ってやれと思い、第一生命を立ち上げます。そういう会社ですから、泰三が転職した当時、第一生命は業界では三流の上クラス、30数社中13位、社員は70名内外、まあ中小企業と言ってもいいでしょう。
加えて社長の矢野は、会社創立のエピソ-ドからも推察されるように、個性の強いくせのある人でした。泰三は矢野に秘書としてまた役員として仕えます。気苦労が多かっただろうと、周囲の者は想像しています。矢野の方針で社内重役は矢野と泰三だけ、社内重役を増やしても、結局は社長の意向を迎えるような意見しか言わないから無駄だということです。残りの役員はすべて社外重役です。これが財界の錚々たる大物陣、大橋新太郎、服部金太郎、森村市左衛門、松本健次郎、さらに小林一三などの面々です。彼らに泰三は社長の矢野ともども鍛えられます。ここで泰三は財界人の操縦法を会得したのだ、とも言われます。
転職後しばらくして、約束どおり、矢野は泰三の欧米留学を許します。2年間欧米に滞在し、特にニュ-ヨ-クのメトロポリタン保険会社で、みっちり保険の勉強をして帰国します。帰路は第二次大戦のさ中、連合国の船はドイツの潜水艦の標的になります。そのため比較的安全な喜望峰まわりで帰国しますが、暗い海を暗い船で(灯火管制)ひやひやしながらの帰国は、泰三に強い印象を与えたようです。潜水艦の魚雷を一発食らえば、確実にお陀仏ですから。
 35歳取締役、48歳専務取締役、そして昭和13年、52歳で泰三は矢野から社長職を譲られます。この間第一生命は躍進し、業界2位の順位を獲得し、日本生命に迫ります。泰三は矢野の懐刀として、共同経営者として、また社長として活躍します。泰三のこの間の業績は以下のようにまとめられています。
  IBM式会計器の導入による作業能率の増進
   保険は統計確率の世界ですから、この種の計算機は必須の武器です。しかし多くの社員は購入には反対でした。
  新社屋建設
   社長就任と同時に落成、地上8階地下4階、総工費1600万円。戦後マッカサ-がそこに住むことになります。それほど立派なビルでした。
  外交員の待遇改善
   保険会社の主力は外交員です。彼らの待遇を改善し、彼らの中から役員を任命します。
  資金運用
   株式と社債を購入し、それを運用して稼ぎます。泰三は投機の才に恵まれていたようです。兜町の飛将軍山一證券社長大田収も顔色無しではなかったかという、風評もあります。
 昭和21年、60歳、泰三は第一生命を退職します。公職仮追放の立場でしたので、退職金もでません。当時大企業の経営者は皆公職追放に脅えていました。占領軍の当初の意向は、日本を農業国にする事であり、企業の生産設備で優秀なものは、すべて東南アジアに持って行くつもりでした。そして大企業のトップのほとんどは退陣させられました。アメリカの思惑に反して、結果は日本の産業に吉とでます。代った三等社長、三等重役達は先輩以上に優秀でした。
泰三は退職後しばらく浪人します。そして公職仮追放は免除されます。そこへ降って湧いたような東芝社長就任の話が出ます。仲介は三井銀行頭取の佐藤喜一郎、昭和24年石坂泰三は正式に東芝社長に就任します。東芝は日本の電気機械製造の代表的企業ですが、一時期10万名を越す社員を擁した東芝も、戦後は2万8千名にまで社員が激減し、彼らは鍋や釜を作って糊口をしのいでいました。優秀な機械設備は封印され信州の工場で使用禁止になっていました。そして東急、読売、トヨタの項で述べたのと同じく労働争議の嵐が東芝をも襲います。労働組合の外部には共産党員がいて、争議を指導し先導します。共産党は、少なくともこの時点では、日本の企業をすべて潰し日本の資本主義にとどめを刺すつもりでした。
泰三の仕事は、労働争議の終結です。どうしても6000名の解雇が必要になります。まだ社長でない取締役の時、泰三は単身で組合事務所に出かけ、「今度社長になる予定の石坂です」と挨拶します。三分の侠気が彼のモット-です。こうして交渉相手との意思疎通の可能性を築きます。後はどうすれば会社を再建できるかの案を組合に提示します。大多数の組合員にしても、生活は大事です。会社を潰したくはありません。泰三は政府が容認し融資を斡旋するような、再建案を作ります。そのためにはどうしても6000名の解雇が必要であると組合幹部に説きます。誠実に数字を突きつけられれば、どのような条件で会社再建ができるかどうかは、判断できます。できるものはできるし、できないものはできない。ですから後は極力頑張るしかありません。こうして労組の主流派を納得させ、過激派を孤立させて、再建案(6000名解雇を含む)を労組に飲ませます。名門東芝の大争議を終結させ、会社の経営を軌道に乗せた、泰三の名は上がります。この間吉田首相から蔵相就任の打診がありましたが、泰三は断っています。後任の東芝社長に岩下文雄を選びます。もっとも泰三は岩下の経営には不満で、昭和40年に、意中の人である土光敏夫を東芝の社長になるべく尽力します。
昭和31年、70歳、経団連会長に就任。4期8年会長職を務め、財界総理の異名を取ります。泰三の経団連会長として方針は、
  業界の最大公約数の意見集約、個別企業の利害を代表しない
  財界の自主性確立、政府や政党の干渉は排除する、リベラリズム
  豊になろう、日本の産業の潜在力を信頼して、経済の成長と拡大の提唱
  対米協調
  中国との交渉の要、一方ソ連との交渉は急ぐべきでない
だいたい以上のようなものです。
経団連会長時代泰三は、日本商工会議所会頭藤山愛一郎と共同で、鳩山一郎内閣に退陣要求を突きつけています。鳩山内閣の経済政策が曖昧であり、経済を放置して日ソ国交回復に専念し過ぎていた、と両名は判断したようです。
反面池田内閣の所得倍増政策には大賛成で、山一證券が危機に陥った昭和38年にあっても拡大政策を支持しています。
また早くから貿易自由化を唱え、関税撤廃を主張し、財界の多数から批判されます。泰三が会長を退いて数年後から日米経済摩擦が激しくなります。泰三の先見の明と言うべきでしょう。彼がこういう主張をした(できた)背景には、日本の経済力への高い信頼があるからです。潜在的能力が充分あるのだから、貿易は自由化し、円は切り上げ(こう言ったかどうかはしりませんが、論理的にそうなります)をした方が、長い目で見れば日本経済の体力を強くするのだ、という信念です。
昭和39年経団連会長職を副会長の植村甲午郎に譲ります。しばらくして三木武夫通産相の依頼で、大阪万博の会長になります。昭和45年春、大阪万博は開催され、秋を迎えて大盛況のうちに終わります。
石坂泰三はこういう人ですから、交友知人にはこと欠きません。内3名を挙げておきましょう。山下太郎、彼は戦前満州太郎として鳴らし、戦後にはアラビア石油を立ち上げて、アングロサクソン主導のメジャ-に立ち向かいます。この時すでに経団連会長であった、泰三は90億円の個人補償にすぐ判を押しています。この時泰三が言った言葉は「山下のような山師でなければこんな仕事はできない」です。泰三が東芝社長就任を引き受けた時、周囲の声に反して、就任に賛成したのは山下太郎だけだったとも言われています。
小林中(あたる)とはツーカ-の仲で、泰三が表の、小林が裏の財界総理と言われ、吉田内閣や池田内閣の政策に協力します。二人は極めて対照的な育ちを背景に持っています。
土光敏夫を泰三は最も高く評価しました。惚れたと言ってもいいでしょう。土光を東芝の社長に推します。小林と土光についてはすぐ後の列伝で取り上げます。
泰三は経済人であると同時に、優れた文人でした。和歌を詠み、漢籍を愛し、シェ-クスピアやゲ-テを原文で読み、80歳を超えてなおフランス語を勉強しました。昭和37年、76歳から、和漢の原典の筆写を開始します。四書五経や万葉集などを筆写します。
昭和50年心疾患の悪化で聖路加病院に入院し死去。享年89歳。
泰三は多くの放言をしています。その語録もおもしろいものですが、最後に彼が述懐した言葉をあげてみます。彼は言います、高校・大学と多くの事を学んだ、文学や哲学にも親しんだ、今振り返れば、大学の授業で習った実際的な知識はどんどん変わって役に立たなくなったが、教養それ自身は変らず、自分をはぐくんでくれた、と。Das stimmt so.

参考文献  堂々たる人生、石坂泰三の生涯  講談社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


「中共」という呼称の使いにくさ

2021-05-30 18:30:52 | Weblog
「中共」という呼称の使いにくさ

 ブログで「中共」という呼称を使おうとしても非常に使いにくい。「中共(ちゅうきょう)」とは言うまでもなく「中国共産党」の略称である。かって毛沢東時代には「中共」という言葉は盛んに使われた。現在かなりの本やネットでも使われている。しかし「中共」という語彙を打つには「なかとも」を漢字変換するか、「中国」と「共産党」から他の字を消して合成するほかない。まことに不便である。「中共」という言葉を使う人たちはこの言葉で意味する国に悪意を持つ人が多い。かくいう私もその一人なのだが。現在の中国を統治するのは中国共産党であり、一党独裁であり国家の上に党があるのだから、現在の中国=中国共産党である。その略語としての「中共」の意味するところは充分通じるはずだ。日本では自民党の一党政権が続いているが、自民党は国家の下の私的団体なので「自民党」という名称でもって日本を表記することはできない。
 通常ワ-ドなどで文字を打つと、最初は変換に苦労する語彙も使い続けると簡単に変換できるようになるのだがこと「中共」になると直接には打てない。国内外で言論統制の厳しい国だから、ネットの用語にも変な圧力がかかっているのかと邪推(?)してしまう。
                     2021-5-30
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

   武士道の考察(74)

2021-05-29 20:27:45 | Weblog
武士道の考察(74)
  
(五代綱吉の財政改革 勝手方老中と勘定吟味役の設置)
 江戸時代の初期には幕府の財政は潤沢でした。700万石という全国の石高の三割以上を占める直轄領(旗本領も含む、更に譜代親藩の領地も含めると7割以上が徳川家の領地になります)外国貿易の独占、埋蔵量豊かな金銀山、家康以来の蓄積などのゆえに四代家綱のころまではたいした経済問題は起こりません。むしろ大名家の内紛や大名改易の方が重大事件でした。幕府の仕事の主たるものは潜在的な敵である大名への軍事的圧力行使にありました。大名を厳しく統制することにより幕府はむしろ豊かになったという面もあります。大名領を天領に組み入れるのですから。また武士農民町人を問わず生活は質素でした。
 五代綱吉のころから経済問題が深刻になります。勝手掛という財政専管の老中が置かれます。大蔵大臣です。初代は堀田正睦、彼は綱吉擁立に功績があり大老という一格上の閣僚になります。以来勝手掛老中は老中筆頭つまり首相職になります。洋の東西を問わず似たような事は起こるもので、地球の裏側の英国ではドイツ出身の君主ジョ-ジ一世治下の第一大蔵卿ロバ-ト・ウオルポ-ルが首相となり内閣制度が充実します。綱吉もジョ-ジも偶然から登位できたので、臣下に遠慮すべき事情はありました。いつの時代どこの国でも治世において経済・財政の問題は最重要な問題です。人間は食わねば生きて行けませんから、食えないとなると必ず暴動、内乱、戦争の類が起こります。英国の内閣制の初期には閣僚は三名から四名くらいでした。大蔵、外務、海軍くらいです。国璽尚書とかいう日本人には解らない閣僚席もあります。陸軍省はずっと後に置かれます。日本も同様で正規の閣僚である老中はやはり数名でした。もっとも日本は鎖国下にありますので外相は要りません。しょっちゅうどこかの国と交戦状態にあった英国とは対照的です。
 勘定奉行所の内容も充実します。役所の長は勘定奉行です。元来武断政治では財政関係の職務はその重要性にもかかわらず賎視されます。勘定奉行は三奉行の中では一番格下でした。その勘定奉行の下に勘定吟味役という職が設置されます。吟味役設置の目的は主として地方に置かれた天領(幕府直轄領)に置かれた代官の監視です。天領は数万石から十万石くらいに分割され、代官郡代と言われる役人により管理されました。代官の下に着いて実務を担当する手代という現地採用の職員はせいぜい多くて20名内外、この人数で広い領地を統治します。大名領なら1万石で300名の人数を動員できます。ですから天領での統治は緩く、つまり大名領に比すると租税は安かったのです。代官は任地の旧土豪系の有力者が任命されました。現地に顔が効く代わりに徴収した年貢の申請はル-ズでした。年貢の2-3割はごまかされていました。支配下の農村とも癒着します。そこで年貢をきっちり取るために勘定吟味役が置かれ、代官を厳しく監視督励します。不正がばれて切腹させられた代官もいました。幕府は旧豪族系に代えて直接中央から地元に縁のない人物を送り代官にします。徴税請負人が正規の官僚になります。この政策は成功します。吟味役の人数は4-5名ですが、上司である勘定奉行を超えて老中に直接報告することもできます。
 下部機構も整えられます。勘定吟味役や組頭の下に勘定所留役という役職ができます。この役は本来書記の仕事担当でしたが、下調べや予審も担当し役所の実務者になります。さらに留役が評定所(幕府の合議機関)に出向して評定所調役となり評定所の実務を担当します。寺社奉行所にも出向します。寺社奉行は大名職なので正規の官僚がいないのです。勘定奉行所の役人が次第に評定所に進出し、政策決定に大きな影響力を与えるようになります。評定所一座といえども、留役(記録を留めて保管したところからこの職名になりました)という、現在では係長クラスの役人の意見は無視できません。もっとも現在でも中央地方を問わず官庁役所での決定は係長とせいぜい課長で決まり後はめくら判とかいうことです。もともと勘定奉行は三奉行の末席に置かれ、必ずしも家格と関係なく登用される傾向にありました。金銭を扱うから抑商主義の幕政初期には若干不浄役人視されたきらいがありました。勘定奉行自身が実務派です。さらに吟味役の下に留役が置かれると、これらの役職は微賎の武士が実務派官僚として出世するコ-スになりました。幕末の開明派能吏である川路聖謨は浪人から小普請組、支配勘定出役、支配勘定、勘定所留役助、同留役、評定所調役、寺社奉行吟味方留役、勘定吟味役、そして地方の奉行を経て勘定奉行と着実な出世コ-スを歩み、黒船来航に際しては外務官僚として活躍します。彼は留役の頃から時の老中阿部正弘に着目され何かあると相談に預かりました。そういう次第ですので三奉行所中勘定奉行所の定員は膨張し(特に田沼時代に)幕府官僚の供給源(同時に汚職の)となりました。19世紀に入ると算術も試験科目になります。役に立たない論語より計数です。幕府官僚としての出世コ-スは家柄の良い者は目付、下から這い上がるものは勘定吟味役でした。
 五代綱吉の政治は重大な転回点です。この頃から幕政全体が財政経済重視の方向に政策の軸を向け、幕臣そして諸藩士は経済官僚の道をたどり始めます。算勘のできぬ武士はものの役に立たない。綱吉は悪名高い生類憐みの令のせいで人気はぱっとしませんが、彼の施策は将来の幕政に重大な影響を与えます。保科正之、徳川吉宗、松平定信も結構ですが、幕政に実質的影響を与えたのは綱吉と田沼意次です。彼らの政策に依り幕府は270年生きれたと私は思います。綱吉の「生類憐みの令」自体が、社会福祉の端緒なのです。綱吉の不人気は忠臣蔵にあります。綱吉は近松門左衛門という不世出な作家(同時にジャ-ナリスト)の被害者です。メディアとは古今東西問わず恐ろしいものです。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社




   経済人列伝  石黒忠篤

2021-05-29 20:27:45 | Weblog
経済人列伝  石黒忠篤

 石黒忠篤は1984年(明治17年)東京に生れました。忠篤の先祖は戦国時代の上杉氏の家臣まで遡れますが、謙信の死と同時に浪人し越後の国で帰農して、代々豪農として栄えます。忠篤の5代前、信濃川から分水して農地を開墾しようとする試み失敗し、貧乏になります。祖父の代から幕府代官の手代(地方採用の事務員)になります。父親は勤皇の志に燃えて活動します。また佐久間象山の影響を受けて、医師を志望し、江戸医学校(東大医学部の前身)に入り、学問を修めます。明治初期に医療制度創設に尽力して初代軍医総監になり男爵、更に子爵に叙せられます。
 忠篤は華族の子弟としてのんびり育てられました。東京師範学校付属の幼稚園、小中学校とエスカレ-タ-方式で進学し、東京第一高等学校を受験します。当然合格すると思っていたのに不合格、新設された鹿児島第七高等学校に入学します。東京大学法学部に入り、25歳時卒業します。学生時代トルストイと二宮尊徳の影響を受け、自然を相手に労働する素朴な農民生活に共感し、なんとか農民の生活に資する職はないかと模索し、農商務省に入り農政一筋に生きます。
 大正4年32歳、1年間欧州に留学します。大正8年農政課長になります。この頃全国には澎湃として小作争議が勃発していました。政府も対策に本腰を入れます。主務者は農政課長である忠篤です。彼は真剣にまた情熱をもってこの問題に取り組みました。農政課の中に、小作分室を作り、このグル-プで小作問題を検討します。やがて分室は小作課新設に発展し、忠篤は自らこの新しいポストに就きます。忠篤は徹底して実証を重んじました。無類の調査好きです。小作慣行調査を全国において実施し、小作の実態をつかもうとします。こうして小作調停法案、小作法、自作農創設維持規則ができます。彼は「自分は百姓になれなかったので、百姓の世話をすることで、今日に至っている」と常に言っていました。41歳農務局長になります。前後して農商務省から農林部門が分かれ、彼が所属する官庁は農林省になります。大正15年忠篤は、自作農創設事業に取り組みます。全国の小作農に、日歩四分三厘、1年据え置き、24年後元利償還という条件で融資し、小作地の買い取りを援助します。うち一分三厘は国庫が負担します。私の計算では、年利が1%前後になり非常な低利です。さらに年賦償還金が小作料を超える土地には、法を施行しないという条件も付けます。こういう法案を熱心に施行したので忠篤は「アカ、左翼」とみなされたこともあります。
 この間肥料問題に取り組みます。明治末年頃から日本の肥料消費量は飛躍的に増加します。それだけ農業が発展しつつあったということです。忠篤は肥料価格の安定を計り、特に硫安の増産を進めます。昭和5年の時点で硫安の輸入総量を国産総量が上まわりました。蚕糸業にも関心を示します。自ら蚕糸局長になり、品種改良(蚕と桑)、蚕糸技術の改良、蚕糸の価格安定と需給調整、生糸と絹織物の海外宣伝に努めます。当時明治末年から戦後にいたるまで、蚕糸つまり生糸と絹は綿糸・綿布と並んで日本の輸出の花形でした。
 米価調整にも取り組みます。大正10年までの10年間米価は著しい騰落を繰り返し、極めて不安定でした。11年米穀法が施行されやがて米穀統制法、米穀配給統制法、そして昭和17年の食糧管理法に発展してゆきます。忠篤は綿密な調査を行い、統計を駆使しあるいは新しい統計を導入して、生産費調査、農家経済調査、農業経営調査などを行います。彼は基本的には主食である米穀の販売は国家により調整(統制)されるべきだ、という考えの持ち主でした。農家簿記の普及にも尽力します。
 昭和の始めには恐慌が相継ぎました。農村は荒れます。農家の娘の身売りが問題になった時代です。農林省に経済厚生部が設けられます。全国の農村を対象として、毎年1000町村に総額500万円の厚生資金が低利で融資されます。時の大蔵大臣は高橋是清であったのでこの案は日の目を見ます。農村負債整理組合法が創られ、農村厚生協会が創られ、国庫助成で農民の修練道場が創設されます。更に新設された農村自治講習所はやがて加藤完治の指導のもとに日本国民高等学校に発展します。これらの事業のすべてに忠篤は深く関与しています。厚生協会、自治講習所、国民学校などの目的は、農民の農民としての自覚を促し、農業(経営)技術を習得せしめ、併せて農民の団結を促進することにあります。これらの作業の延長上に農民の満州移民があります。忠篤は移民に熱心で何度も満州に渡っています。
 昭和16年(1941年)第二次近衛内閣の農林大臣に就任します。食糧増産を促進し、茨城県内原に20000人の農民を集め、農業増産推進隊を作ります。芋類特にサツマイモの増産を計り、全国の荒蕪地や空き地にサツマイモを栽培させます。単位面積あたりのカロリ-生産量はサツマイモが一番だそうです。
 昭和20年鈴木内閣の農林大臣になります。農村労働力の減少を歎き、国内の食糧の絶対的不足を痛感し終戦のやむなきを説きます。6月忠篤は天皇陛下に拝謁し、食糧の絶対的不足という状況を前提として、「これだけでも戦争をやめる理由は十分にあり、これ以上戦争を続ける理由はなく、国民の生命を損ずる問題は、敵の銃火をまつまでもなく、食糧の不足から生ずる状態が、国内に生ずるのは明白です。これ以上国民を傷めないためにも、戦争をやめるべき時にきていると存じます」と奏上しています。
 敗戦、昭和21年忠篤は追放になります。26年追放解除。ほとんど同時に改進党総裁就任の話がきます。総裁に就任していたら、石黒内閣が誕生していたかもしれないと言われています。特に夫人の反対もあり、この話は断ります。昭和27年参議院議員の静岡県補欠選挙に緑風会から立候補し当選します。緑風会は、貴族院から転じた第二院である参議院の中の会派で、党議拘束なく個々人の判断で行動する議員の集団でした。良識派の牙城と言われました。忠篤はこの緑風会の方針に頑固なまで、やや空想的なまでに、固執し、緑風会の存在を擁護し続けます。彼の努力に反比例して、一時は参院で最大会派だった緑風会は衰勢に向かいます。資金力と動員力に富む団体を背景とする候補がのし上がってきます。参院補選に関してはおもしろい逸話があります。自由党は選挙で緑風会と対立する立場にありましたが、時の総裁吉田茂はあえて静岡県では忠篤を応援しました。
 追放中、忠篤がなんにもしなかったのではありません。かなり野放図にずうずうしく活動しています。戦後復員してきた人口に対する失業計画として、北海道に開拓農民を移住させる方策を検討し発案します。全国の農民に呼びかけて、信州諏訪で全国農民連合会を結成し、食糧増産と農村の経営改善に尽力します。追放解除後の昭和29年、この会の会長に就任しています。昭和24年新穀感謝祭の復活を唱導します。この感謝祭は新嘗祭の全国版であり一般化ですので、神道に警戒的であったGHQの強い反対に会います。忠篤がこの運動を中止したと言う形跡はありません。鷹司信輔明治神宮宮司と協力して、新穀感謝祭の復活を推し進めます。
 昭和35年(1960年)心筋梗塞で急死します。享年77歳でした。忠篤の人生を省みますと、華族の子弟らしい、おおらかさ、お坊ちゃん気質が明白に観取できます。大声で談論風発し、隣室で聞いていると喧嘩と誤解されることもよくありました。事実よく怒り怒鳴りました。部下には、怒るのは私の趣味だと、言ったという噂もあります。彼は二宮尊徳に心酔していました。ですから基本的にはリベラリストです。同時に農本主義者でもあります。その分農政の国家統制を容認しました。彼は、尊徳は倫理道徳の代名詞のように扱われているので、尊徳の偉大さは理解されていないと、言いました。事実その通りです。この列伝でも尊徳を取り上げました。尊徳の「二宮翁夜話」は一読再読三読するに値する傑作です。

  参考文献 石黒忠篤 時事通信社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


台湾にコロナワクチンを供与しよう

2021-05-29 14:23:20 | Weblog
 台湾にコロナワクチンを供与しよう。

 習近平氏が台湾のワクチン購入を妨害している。台湾はコロナ対策の優等生だったがここにきて急速にコロナが蔓延しだした。こういう国ほど危ない。感染履歴がなく、だから自然抗体ができていないからだ。台湾の祭総統が昨日語ったところでは、台湾がドイツの製薬会社(ビオなんとかとか)からワクチンを買おうとしたら中共の妨害にあって購入不可能になったという。無茶な話だ。ワクチンの効果はともかく中国製(私は怖くて撃てない)を買わざるを得ない事自体が中国による台湾併合の口実になりかねない。日本にはワクチンは余っているらしい。菅総理はそれを一部(5000万本か)台湾に譲る事を検討しているとか。この話急いでほしい。コロナ災禍で私が一番恐れているのは中国による台湾侵攻だ。心配しなくても台湾はチャンとお題は払うよ。韓国とは違うのだから。ついでに台湾を五輪に招待したらどうか。五輪は成功させよう。
                             2021-5-30
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

   武士道の考察(73)

2021-05-29 12:10:43 | Weblog
 武士道の考察(73)

(大名財政の破綻 商人の台頭)
 その結果大名財政は比較的早くから破綻し始めます。反面農民は公共投資の恩恵を受けます。商品作物の栽培、副業への精励などで稼ぎます。課税されなかった作物もありますし、巧みに作柄を隠すこともできます。米のできは監視できても、他の作物の作柄・加工工程・流通経路まで為政者も簡単にはつかめません。働く者の知恵であり特権です。こうして江戸時代中期になると、建前は五公五民でも実態は三公七民くらいになります。農村の余剰産物は商人の手でほぼすべて中央市場である大阪へ、更に膨大な消費人口を擁する江戸へ廻されます。結果は生活程度の向上、消費の増大と物価の上昇です。そうなると百石とか二百石とか米の量で給付される武士達には不利になります。米価が上がればいいが、生活の向上とは主食以外の必需品の比重が増大することですから、米という固定された給付で生活する武士達の生活はどうしても貧困化します。幕府は家康秀忠の二代で貯めた金銀を食いつぶしていました。それも元禄中期になると破綻します。270年間の統治の間、徳川幕府が腐心したことは軍事力の行使などではなく、経済対策です。窮乏化する武士階層の生活、だからその上に立つ藩や幕府の政治生命をどう維持するかが緊要な課題となります。

(武士は経済官僚に)
武士は治者です。農村から年貢を取り、反対給付として治安を保証しますが、それは当然です。年貢徴収も含めて治者である武士たちが苦心惨憺したことは経済政策をどうするかです。幕府の対策としては、勘定吟味役設置による収税システムの効率化、貨幣改鋳(金銀比率と貨幣量の変更)、年貢増徴と米価統制、経済政策への商人資本の導入、社会福祉政策の実施などがあり、最後に上地令という名の中央集権化政策があります。諸藩の方では、商品作物の栽培奨励とその藩営化政策があります。もちろん年貢増徴も試みられます。そして倹約。最も成功したのは藩営化政策です。しかしその時は幕府というより封建制度が崩壊して、新しい時代を迎える時でした。江戸時代のほぼ全期間武士は経済官僚になります。刀をソロバンに持ち替えます。
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