経済人列伝 浅野総一郎
浅野セメントという会社がありました。業界ビッグ3に入る会社です。平成不況で他社と合同合併して社名は変更されています。私が日本の企業中、浅野の名前で知っているのは浅野セメントのみです。この会社の創立者が浅野総一郎です。浅野の社名はあまり残っていませんが、総一郎のした事業は極めて多伎に渡ります。彼は天性の商売人(というより商売好き)であり、天性の企画者(projector)でした。彼は金融資本には興味がなかったのか、その種の事業には手を出しておりません。そのために恐慌や不況や敗戦というショックの度に彼が創始した事業は他の手に渡ったのではないかと、と思われます。
浅野総一郎は1848年(嘉永元年)に能登国(富山県)藪田村(現在は氷見市内)に生まれました。生家は村医者です。多分農業を経営しつつ、医業をも営んでいたのでしょう。幼名は泰治郎と言います。姉夫婦が家業を継いだために、近隣の氷見町の町医のところに養子にやられます。養父は厳しい人で、漢方医学の基礎をみっちり仕込まれます。総一郎は無学を自称していますが、8年にわたる養子時代の教育は当時としては相当なものです。医者が嫌で嫌でたまりません。幕末のコロリ流行に際して、当時の医学が全く無力であった事を知り、実家に逃げ帰ります。確かに総一郎のような人間には、地道に臨床に励む医業は向いていません。医業は捨てましたが、偉業は打ち立てます。
実家に逃げ帰った15歳から総一郎の商売は始まります。栴檀は双葉より芳し、です。まず土地で織られる縮緬を商います。さらに稲こき機のリース業も試みます。土地の産物の商社を作り、また筵販売なども手がけます。成功したり失敗したりの連続です。飢饉に際し越後に米を買いに行きもみだけの空米を掴まされ300両の損をします。この時代彼は新規な試みをしています。親戚知人に出資させ、儲けを配当する、つまり現在の株式会社の手法です。誠に、栴檀は双葉より芳し、です。もっとも総一郎は儲けると、配当を大盤振る舞いするので、結局破産します。
故郷にいられず夜逃げ同然の形で、東京に出ます。水売りで小金をためます。東京は大阪同様、水質が悪く水が不味いので、こんな商売もできました。竹の皮の販売も手がけます。当時(と言っても昭和20年代までは)味噌や豆腐や肉は竹の皮で包んで販売しました。味噌屋の販売量に応じて竹の皮を調達します。薪(まき・たきぎ)も販売しました。薪の販売には 倉庫が必要でしたが、総一郎は屋根だけの簡易貯薪所を作り、資本の少なさを補います。薪炭商として大を為します。大水に漬かった石炭は使い物にならないと放置されていたのを、上手く売りつけて稼ぎます。(使えないと思うほうが、おかしいですね)横浜ガスという会社が、ガスを取った残りのコ-クスを廃物として放置していました。コ-クスも燃料です。総一郎はこれをセメント会社に持って行き利用させます。また同じく廃物視されていたコ-ルタ-ルから石炭酸を作り、これでも儲けます。石炭酸は消毒薬になります。
明治17年(1884年)総一郎36歳時、政府から深川セメントを払い下げされます。斡旋したのは渋沢栄一です。会社経営は成功します。上京までの失敗体験で鍛えられていました。薪炭商として有名になった頃、松方財政の方針である官営事業払い下げというチャンスに出会いました。これが総一郎の事業の飛躍の土台になります。
彼の経営の特徴は、一つの事業に留まらず、自然に延長出来る事にはどんどん向かってゆく事、何事にも興味を示し、新規な試みを為す事、当然そこには新技術の積極的採用も含まれます、そして人間関係を大事にし、決断即行とねばりです。だから彼の事業は多伎に渡りました。昭和5年彼が死去した時、直系会社7、傍系会社26、関係会社26、子会社16、総計75の会社に関係していました。ですから彼の事業を概観するのは大変です。時系列によるか、企業種によるか、迷います。後者の方向で考察してみましょう。
明治24年、総一郎43歳時、ロシアの石油の輸入をイギリスの会社と協同して行います。バラ売りで包装料を節約し、鉄製円筒形の容器を作り石油を運びます。この円筒形の容器は昭和20年代まであり、貨物列車の一部にはほとんどと言っていいほど連結されていました。子供心にもこの風景は印象深く刻み込まれていますが、これが総一郎の発案だったとは今知りました。石油輸入はセメント会社経営の延長上にあります。後に述べますが、セメントは土木事業に必須のものです。彼は港湾を埋め立てて作っていますから、セメント-港湾土木-輸入、という線は自然に繋がります。
石油の輸入から、さらに石油採掘と精製へと彼の関心は向きます。越後(新潟県)では石油が出ました。すでに群小会社が採掘していましたが、総一郎はそこに乗り込みます。明治31年(彼50歳)、北越石油会社を設立します。石油は出ました。採掘場所である長嶺から柏崎まで鋼管を敷きます。これも全く新しい試みでした。ひょっとすると世界でも最新の試みであったかも知れません。結局石油事業は群小会社の合併に継ぐ合併で、彼の会社もその一部になるのですが、彼の進出が北越地方の会社の動向を左右した事には違いありません。この間総一郎の採掘権内にある青森県で天然のアスファルトがとれました。これにヒントを得て、コ-ルタ-ルからアスファルトを作り、大儲けします。
石油移送に鋼管が必要であること、そして鋼管製作には高度な技術が必要である事を知った、総一郎の女婿、白石元治郎は同窓の小泉嘉一郎(東大工学部卒、当時大倉組に在籍)と組んで、新しい鉄鋼会社を作ります。この会社がやがて日本鋼管になります。現在では川﨑製鉄と合併して、JEFエンジニアリングになっています。
明治38年(57歳)原油輸入を思いつきます。当時の石油消費では灯油が一番でした。灯油は外国から輸入します。灯油消費量が1000トン、うち内国産が270トン、外国産が730トン、です。灯油には関税がかかりますが、原油にはほとんどかかりません。総一郎はここに目をつけます。原油を輸入し国内で精製して販売すれば、利益は非常に大きいのです。そのために、保土ヶ谷に精製工場用の土地を購入します。将来の販路を考えて、三菱造船に、重油燃料の機関を持つ13000トンの船を発注します。当時船の燃料は石炭でした。石油の方が安かったのです。また重油燃料の機関は既にありましたが、この機関をすえつけた船はまだ出現していません。結局原油の輸入は失敗します。灯油販売業者の反対と、精製所は危険だという地元の反対、がこの企てにとどめを刺します。
大正7年(60歳)硫安製造に進出しようとします。ボーキサイトを加熱し、それに硫酸をかけると、硫酸アンモニウム(硫安)ができる事が発見されていました。硫安は人工肥料の代表です。将来の販路も大きい。総一郎はこの分野に進出しようとします。しかし硫安の製造には、多量の電力が必要であり、日本にはまだそれほどの電力供給がないと知り、一応退きます。硫安製造事業には多くの既成企業も関心を示し、競争は激しかったようです。もしこの分野に総一郎が進出しておれば浅野財閥の事業内容は相当に変わり、本格的な重化学工業資本になっていたでしょう。その代わり、日本の電力事業の現状を知った彼は、自ら電力開発に邁進します。
明治36年(55歳)すでに関東地方の電力開発権を獲得していました。利根川上流の吾妻川や酒匂川上流の山中河内川などです。大正5年(58歳)、故郷の富山県の庄川上流に、水力発電用のダム建設を申請します。背後の山から出る木材運搬を流木に頼っていたので、木材会社から猛反対されます。木材運搬用の道路を造ったり、起重機様の機械での上げ下ろしを試みた後、申請から10年後に工事は着手されます。
総一郎は多くの築港を手がけています。41歳と言いますから明治21年ごろ、門司近傍13万坪を埋め立て、門司港を大拡張します。門司は北九州から産出する石炭の積出港として期待されました。ちなみに「一坪」は「3・3平米」です。同じ頃彼は横浜築港も手がけています。拡張でしょうね。大正7年(60歳)小樽港を拡張します。小樽は北海道内陸で産する石炭の積出港でしたが、冬の北風が強く、船の安全が保障されません。第一次工事だけで国費217万円が投下されます。水深13m広さ216万坪の範囲で防波堤を作らねばなりません。セメントに火山灰を少し混ぜて、セメントの結合力を強化 するするシルト法などが採用されます。この時工事の技術上の責任者であった広井勇(後、東大教授)との友情は生涯続きます。総一郎は技術者を大事にしました。
総一郎が行った最大の埋め立て事業は川崎・鶴見間の埋め立てです。彼はこの事業を60歳代になって始めます。作業は20年を要したと言いますから、完成は彼が死去する直前になります。京浜工業地帯は彼によって造られたといえましょう。
磐城炭鉱は総一郎が36歳の時、手がけました。セメント事業には燃料が要ります。関東に一番近い石炭産出地は常磐地方です。磐城で石炭を掘り出します。それを汽車で港に運びます。始め政府は磐城地方には鉄道を作らない方針でしたが、総一郎が私鉄でも作るというので、その理屈と情熱を受け入れて、鉄道路線を敷きます。
セメントの原料は石灰です。これは奥多摩地方の山で採掘されます。石灰をセメント工場のある川崎まで運ばなければなりません。青海鉄道を造り、そこから南武線を経て川崎に到達します。このように総一郎は鉄道事業にも進出します。
セメント及びその原料や燃料を運ぶには船が一番です。総一郎36歳〈明治17年〉、三菱汽船と共同運輸(反三菱連合)の闘争が行われます。総一郎は共同運輸側に立ちます。明治29年(48歳)彼は東洋汽船株式会社を創設します。浅野回漕部の発展したものです。そしてインド航路を押さえようとします。当時すべての航路は欧米の会社に押さえられ、日本の船が利用するチャンスは低く設定されていました。渋沢の忠告に基づき、総一郎はアメリカ航路に進出します。東洋汽船は後の不況期に郵船と合併させられています。船を走らせれば船を造りたくなります。造船には鉄鋼の大量使用が不可欠です。総一郎は浅野造船や浅野製鉄などの会社も作りました。
総一郎は沖電気の経営にも深く関与しています。もっとも沖電気との関係は妻の縁戚によるものです。浅野の資金は安田善次郎から融資される部分が大でした。総一郎と善次郎は気があいました。安田が貸し付けた浅野系企業は、浅野同族本社、日本鋼管、浅野セメント、沖電気、浅野重工、鋼管鉱業、関東電工、東亜港湾、日本鋳造、長府船渠、奥多摩工業、高炉セメント、両龍炭鉱、日本フ-ム、沖電気証券、となっています。安田が不慮の事故で殺害されてから、総一郎の資金繰りは苦しくなります。
戦後の財閥解体で、浅野の名は消えます。浅野セメントは日本セメントになります。平成の不況で秩父小野田セメントと合併し、太平洋セメントになっています。
浅野総一郎、昭和5年(1930年)死去。享年82歳。子沢山な人で、子供が8人、孫やひ孫を合わせると100名を超える縁戚でした。終生起業への情熱は止むことはありません。むしろやや老害の傾向もあり、子供達を悩ませたとはいえましょう。
参考文献 浅野総一郎の度胸人生 毎日ワンズ
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
浅野セメントという会社がありました。業界ビッグ3に入る会社です。平成不況で他社と合同合併して社名は変更されています。私が日本の企業中、浅野の名前で知っているのは浅野セメントのみです。この会社の創立者が浅野総一郎です。浅野の社名はあまり残っていませんが、総一郎のした事業は極めて多伎に渡ります。彼は天性の商売人(というより商売好き)であり、天性の企画者(projector)でした。彼は金融資本には興味がなかったのか、その種の事業には手を出しておりません。そのために恐慌や不況や敗戦というショックの度に彼が創始した事業は他の手に渡ったのではないかと、と思われます。
浅野総一郎は1848年(嘉永元年)に能登国(富山県)藪田村(現在は氷見市内)に生まれました。生家は村医者です。多分農業を経営しつつ、医業をも営んでいたのでしょう。幼名は泰治郎と言います。姉夫婦が家業を継いだために、近隣の氷見町の町医のところに養子にやられます。養父は厳しい人で、漢方医学の基礎をみっちり仕込まれます。総一郎は無学を自称していますが、8年にわたる養子時代の教育は当時としては相当なものです。医者が嫌で嫌でたまりません。幕末のコロリ流行に際して、当時の医学が全く無力であった事を知り、実家に逃げ帰ります。確かに総一郎のような人間には、地道に臨床に励む医業は向いていません。医業は捨てましたが、偉業は打ち立てます。
実家に逃げ帰った15歳から総一郎の商売は始まります。栴檀は双葉より芳し、です。まず土地で織られる縮緬を商います。さらに稲こき機のリース業も試みます。土地の産物の商社を作り、また筵販売なども手がけます。成功したり失敗したりの連続です。飢饉に際し越後に米を買いに行きもみだけの空米を掴まされ300両の損をします。この時代彼は新規な試みをしています。親戚知人に出資させ、儲けを配当する、つまり現在の株式会社の手法です。誠に、栴檀は双葉より芳し、です。もっとも総一郎は儲けると、配当を大盤振る舞いするので、結局破産します。
故郷にいられず夜逃げ同然の形で、東京に出ます。水売りで小金をためます。東京は大阪同様、水質が悪く水が不味いので、こんな商売もできました。竹の皮の販売も手がけます。当時(と言っても昭和20年代までは)味噌や豆腐や肉は竹の皮で包んで販売しました。味噌屋の販売量に応じて竹の皮を調達します。薪(まき・たきぎ)も販売しました。薪の販売には 倉庫が必要でしたが、総一郎は屋根だけの簡易貯薪所を作り、資本の少なさを補います。薪炭商として大を為します。大水に漬かった石炭は使い物にならないと放置されていたのを、上手く売りつけて稼ぎます。(使えないと思うほうが、おかしいですね)横浜ガスという会社が、ガスを取った残りのコ-クスを廃物として放置していました。コ-クスも燃料です。総一郎はこれをセメント会社に持って行き利用させます。また同じく廃物視されていたコ-ルタ-ルから石炭酸を作り、これでも儲けます。石炭酸は消毒薬になります。
明治17年(1884年)総一郎36歳時、政府から深川セメントを払い下げされます。斡旋したのは渋沢栄一です。会社経営は成功します。上京までの失敗体験で鍛えられていました。薪炭商として有名になった頃、松方財政の方針である官営事業払い下げというチャンスに出会いました。これが総一郎の事業の飛躍の土台になります。
彼の経営の特徴は、一つの事業に留まらず、自然に延長出来る事にはどんどん向かってゆく事、何事にも興味を示し、新規な試みを為す事、当然そこには新技術の積極的採用も含まれます、そして人間関係を大事にし、決断即行とねばりです。だから彼の事業は多伎に渡りました。昭和5年彼が死去した時、直系会社7、傍系会社26、関係会社26、子会社16、総計75の会社に関係していました。ですから彼の事業を概観するのは大変です。時系列によるか、企業種によるか、迷います。後者の方向で考察してみましょう。
明治24年、総一郎43歳時、ロシアの石油の輸入をイギリスの会社と協同して行います。バラ売りで包装料を節約し、鉄製円筒形の容器を作り石油を運びます。この円筒形の容器は昭和20年代まであり、貨物列車の一部にはほとんどと言っていいほど連結されていました。子供心にもこの風景は印象深く刻み込まれていますが、これが総一郎の発案だったとは今知りました。石油輸入はセメント会社経営の延長上にあります。後に述べますが、セメントは土木事業に必須のものです。彼は港湾を埋め立てて作っていますから、セメント-港湾土木-輸入、という線は自然に繋がります。
石油の輸入から、さらに石油採掘と精製へと彼の関心は向きます。越後(新潟県)では石油が出ました。すでに群小会社が採掘していましたが、総一郎はそこに乗り込みます。明治31年(彼50歳)、北越石油会社を設立します。石油は出ました。採掘場所である長嶺から柏崎まで鋼管を敷きます。これも全く新しい試みでした。ひょっとすると世界でも最新の試みであったかも知れません。結局石油事業は群小会社の合併に継ぐ合併で、彼の会社もその一部になるのですが、彼の進出が北越地方の会社の動向を左右した事には違いありません。この間総一郎の採掘権内にある青森県で天然のアスファルトがとれました。これにヒントを得て、コ-ルタ-ルからアスファルトを作り、大儲けします。
石油移送に鋼管が必要であること、そして鋼管製作には高度な技術が必要である事を知った、総一郎の女婿、白石元治郎は同窓の小泉嘉一郎(東大工学部卒、当時大倉組に在籍)と組んで、新しい鉄鋼会社を作ります。この会社がやがて日本鋼管になります。現在では川﨑製鉄と合併して、JEFエンジニアリングになっています。
明治38年(57歳)原油輸入を思いつきます。当時の石油消費では灯油が一番でした。灯油は外国から輸入します。灯油消費量が1000トン、うち内国産が270トン、外国産が730トン、です。灯油には関税がかかりますが、原油にはほとんどかかりません。総一郎はここに目をつけます。原油を輸入し国内で精製して販売すれば、利益は非常に大きいのです。そのために、保土ヶ谷に精製工場用の土地を購入します。将来の販路を考えて、三菱造船に、重油燃料の機関を持つ13000トンの船を発注します。当時船の燃料は石炭でした。石油の方が安かったのです。また重油燃料の機関は既にありましたが、この機関をすえつけた船はまだ出現していません。結局原油の輸入は失敗します。灯油販売業者の反対と、精製所は危険だという地元の反対、がこの企てにとどめを刺します。
大正7年(60歳)硫安製造に進出しようとします。ボーキサイトを加熱し、それに硫酸をかけると、硫酸アンモニウム(硫安)ができる事が発見されていました。硫安は人工肥料の代表です。将来の販路も大きい。総一郎はこの分野に進出しようとします。しかし硫安の製造には、多量の電力が必要であり、日本にはまだそれほどの電力供給がないと知り、一応退きます。硫安製造事業には多くの既成企業も関心を示し、競争は激しかったようです。もしこの分野に総一郎が進出しておれば浅野財閥の事業内容は相当に変わり、本格的な重化学工業資本になっていたでしょう。その代わり、日本の電力事業の現状を知った彼は、自ら電力開発に邁進します。
明治36年(55歳)すでに関東地方の電力開発権を獲得していました。利根川上流の吾妻川や酒匂川上流の山中河内川などです。大正5年(58歳)、故郷の富山県の庄川上流に、水力発電用のダム建設を申請します。背後の山から出る木材運搬を流木に頼っていたので、木材会社から猛反対されます。木材運搬用の道路を造ったり、起重機様の機械での上げ下ろしを試みた後、申請から10年後に工事は着手されます。
総一郎は多くの築港を手がけています。41歳と言いますから明治21年ごろ、門司近傍13万坪を埋め立て、門司港を大拡張します。門司は北九州から産出する石炭の積出港として期待されました。ちなみに「一坪」は「3・3平米」です。同じ頃彼は横浜築港も手がけています。拡張でしょうね。大正7年(60歳)小樽港を拡張します。小樽は北海道内陸で産する石炭の積出港でしたが、冬の北風が強く、船の安全が保障されません。第一次工事だけで国費217万円が投下されます。水深13m広さ216万坪の範囲で防波堤を作らねばなりません。セメントに火山灰を少し混ぜて、セメントの結合力を強化 するするシルト法などが採用されます。この時工事の技術上の責任者であった広井勇(後、東大教授)との友情は生涯続きます。総一郎は技術者を大事にしました。
総一郎が行った最大の埋め立て事業は川崎・鶴見間の埋め立てです。彼はこの事業を60歳代になって始めます。作業は20年を要したと言いますから、完成は彼が死去する直前になります。京浜工業地帯は彼によって造られたといえましょう。
磐城炭鉱は総一郎が36歳の時、手がけました。セメント事業には燃料が要ります。関東に一番近い石炭産出地は常磐地方です。磐城で石炭を掘り出します。それを汽車で港に運びます。始め政府は磐城地方には鉄道を作らない方針でしたが、総一郎が私鉄でも作るというので、その理屈と情熱を受け入れて、鉄道路線を敷きます。
セメントの原料は石灰です。これは奥多摩地方の山で採掘されます。石灰をセメント工場のある川崎まで運ばなければなりません。青海鉄道を造り、そこから南武線を経て川崎に到達します。このように総一郎は鉄道事業にも進出します。
セメント及びその原料や燃料を運ぶには船が一番です。総一郎36歳〈明治17年〉、三菱汽船と共同運輸(反三菱連合)の闘争が行われます。総一郎は共同運輸側に立ちます。明治29年(48歳)彼は東洋汽船株式会社を創設します。浅野回漕部の発展したものです。そしてインド航路を押さえようとします。当時すべての航路は欧米の会社に押さえられ、日本の船が利用するチャンスは低く設定されていました。渋沢の忠告に基づき、総一郎はアメリカ航路に進出します。東洋汽船は後の不況期に郵船と合併させられています。船を走らせれば船を造りたくなります。造船には鉄鋼の大量使用が不可欠です。総一郎は浅野造船や浅野製鉄などの会社も作りました。
総一郎は沖電気の経営にも深く関与しています。もっとも沖電気との関係は妻の縁戚によるものです。浅野の資金は安田善次郎から融資される部分が大でした。総一郎と善次郎は気があいました。安田が貸し付けた浅野系企業は、浅野同族本社、日本鋼管、浅野セメント、沖電気、浅野重工、鋼管鉱業、関東電工、東亜港湾、日本鋳造、長府船渠、奥多摩工業、高炉セメント、両龍炭鉱、日本フ-ム、沖電気証券、となっています。安田が不慮の事故で殺害されてから、総一郎の資金繰りは苦しくなります。
戦後の財閥解体で、浅野の名は消えます。浅野セメントは日本セメントになります。平成の不況で秩父小野田セメントと合併し、太平洋セメントになっています。
浅野総一郎、昭和5年(1930年)死去。享年82歳。子沢山な人で、子供が8人、孫やひ孫を合わせると100名を超える縁戚でした。終生起業への情熱は止むことはありません。むしろやや老害の傾向もあり、子供達を悩ませたとはいえましょう。
参考文献 浅野総一郎の度胸人生 毎日ワンズ
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行