経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、久原房之助

2010-07-28 03:00:20 | Weblog
      久原房之助

 久原房之助が創始した久原鉱業所と言っても現在知る人はほとんどないと思います。しかし日産自動車、日立製作所、ジャパンエナ-ジ-は現在の日本を代表する企業です。房之助はこれらの会社を創立したというより、その基礎を作りました。同時に彼は明治末から大正時代にかけて出現した、富豪・成金の代表でもあります。もっとも彼を成金呼ばわりするのは少し酷かな。が、鉱山開発で巨万の富を作り、それを公私両面にわたって蕩尽したことは事実です。一時期彼の資産は2億5000万円とも言われました。「久原」は「くはら」と読みます。
 久原家は長州(山口県北部)の須崎で庄屋を務め、益田藩の財政にも関与し、苗字帯刀を許された御用商人でした。益田氏は長州毛利藩の家老で12000石を給され、その支配地は自治を許されていました。ここでは便宜上益田藩と呼びますが、幕府法制上正式な呼称ではありません。1956年(文久2年)久原家当主半平は暗殺されます。益田家の仕業です。さらに米買占の悪評を立てられ、藩民から白眼視されます。半平の養子である庄三郎はすぐ、須崎を捨てて萩に移り、そこで商売を始めます。房之助は萩で1969年(明治2年)に生まれました。庄三郎の商売はなかなかうまく行きません。庄三郎の実家である藤田家の三男伝三郎はすでに大阪に出て事業を始めていました。藤田伝三郎についてはすでに述べました。1874年(明治7年)久原庄三郎は弟の伝三郎を頼り大阪に出ます。同年藤田三兄弟、藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎が、藤田組を立ち上げます。一応兄弟会社になっていますが、実権者は末弟の伝三郎です。伝三郎達は長州閥の人脈をたどり、大阪鎮台の司令官山田顕義から軍靴製造を委託されます。これが藤田組成功の第一歩です。すぐ勃発した西南戦争では軍靴製造に加えて、人夫の手配と輸送を請負、組(総合会社くらいに考えて下さい)発展の基礎を築きます。西南戦争では、運輸は岩崎弥太郎、人夫手配は西の藤田に、東の大倉が引き受けています。岩崎、藤田、大倉とも以後富豪・財閥として栄えますが、発展の基礎は、西郷隆盛がおっぱじめた西南戦争がきっかけです。西南戦争では莫大な戦費が投入され、政府は紙幣を乱発します。インフレになります。こういう時は早く金を借りた方の勝ちです。借金して事業をし、儲けたら、下がった価値の紙幣で払う、二重三重の儲けになります。1881年(明治14年)藤田組は資本金6万円、内藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎各15000円の持分で同族会社を正式に作りました。
 1879年(明治12年)萩に残されていた房之助母子達は大阪に移住します。同年藤田組最大の事件(災禍)が起こります。当主の伝三郎に紙幣贋造の疑いがかかり、多くの幹部が逮捕され、厳しい取調べを受けます。結果は無実でしたが、これは西南戦争で長州閥に遅れをとった薩摩閥の陰謀のようです。藤田伝三郎が懇意にしていた井上馨追い落としが意図されました。この井上馨という人は、明治経済界のどこにでも顔を出す人で、裏工作の専門家であり、経済界の重鎮でした。また常に汚職・賂の噂が絶えません。海音寺潮五郎氏の「悪人列伝」に出てくるそうです。しかし彼井上馨が明治経済界に残した功績は、彼の悪徳を差し引いても充分おつりがくるでしょう。なおこの贋金事件は無実でしたが、大阪市民はずっと、それが事実であったと信じ続けました。伝三郎も一切弁明していません。どことなく不思議な事件です。
 房之助は1880年、12歳で東京商法講義所に入学します。この商法講義所は後に、東京商業学校、東京高等商業学校、そして現在の一橋大学になります。3年後卒業、実務に早く就く事を希望する父親庄三郎に嘆願し、福沢諭吉に憧れて慶応義塾に入ります。3年後卒業、房之助は森村市左衛門の作った森村組に押しかけ就職をします。始め森村は房之助のような金持の子弟は使い物にならないと、就職依頼を拒絶します。房之助は強引に嘆願して、神戸支店倉庫係に採用されます。彼の勤務振り、特にその仕事処理の独創性を支店長から聴いた森村は、房之助を抜擢して、ニュウヨ-ク支店勤務を命じます。房之助は欣喜雀躍しますが、ここで強力な反対に出会います。藤田組の後援者である、井上馨の反対です。藤田組の御曹司がなぜ藤田組に入らないのだ、と井上は言います。井上の言葉には伝三郎ですら逆らえません。なくなく房之助は森村組を辞します。房之助が遣られたところは、秋田県小坂にある小坂銀山でした。ここから彼の活躍が始まります。しかしニュウヨ-ク行き挫折に対する無念は終生彼の人生について回ります。
 1891年(明治24年)22歳、房之助は小坂鉱山に赴任します。彼の月給は10円、鉱夫でも8円でした。小坂鉱山は戦国時代から銀山として有名でしたが、当時掘りつくされ、藤田組としては廃坑か売却を考えていました。房之助はニュウヨ-ク行きを断念した結果が、廃坑の後始末ではかなわないと思い、なんとか鉱山の再生を考えます。銀鉱は掘りつくしたが、黒物(黒鉱)は充分にありました。黒鉱とは、銅、鉄、鉛、亜鉛、硫黄に少量の金銀を含む複合物です。これをなんとかできないかと房之助は考えます。特にそこから銅を抽出する事を考えます。東大工学科卒の新進気鋭の武内雅彦を迎えます。彼の卒業論文のテーマは自溶製錬法でした。最新式の精錬法です、自溶精錬法とは、燃料を加えることなく、鉱石内部の成分の燃焼で製錬する方法です。この方法なら燃費もかかりません。幾多の実験の末に、精錬は成功します。藤田組本社では房之助は廃坑に努力していると思っていました。房之助はこの本社の方針を、覆そうとします。ついに井上馨に応援を求めました。明治31年の銅生産額は360トン、翌年は833トン、産額はどんどん増加し明治39年には7000トンを超えます。産出額総体は現在の金額に直すと1000億円と想像されます。小坂鉱山は銀山から銅山に生まれ変わりました。
 この間藤田組本社は経営危機を迎えています。鉱山開発や工事請負、投機に手を広げすぎて、失敗が多く多額の借金を抱えます。井上馨の斡旋で毛利家から金を借ります。数度に分けて総計200万円以上の借財を毛利家から負います。当主伝三郎以下の幹部の俸給も制限され、経営権は毛利家に移ります。房之助の小坂鉱山での成功により藤田組の借財はなくなりました。併行して藤田三兄弟の間で財産分与をめぐっての争いが起こります。当主の伝三郎家に財産管理を集中する企てが進行します。すでに久原家の当主になっていた房之助は反対し、結局房之助は470万円を分与され、藤田組から分かれます。小坂鉱山を成功させ、藤田組の危機を救った彼としては不本意でした。
 鉱山経営、財産争い、本社の危機など多事の中、明治33年31歳、房之助は鮎川弥八の次女清子と結婚します。彼女の兄が後に日産コンツエルンを作った鮎川義介です。鮎川についてはすでに彼の列伝で述べました。また鮎川兄妹の母方の叔父が、今まで再々出てきた井上馨です。なお房之介は正式に結婚する以前から、彼はある女性との間に一女を設けています。この娘久子が後石井光次郎と結婚し、その間にできた娘が、シャンソン歌手で有名な石井好子です。このようにして久原家は二重三重に長州閥で囲まれます。また房之助は別に球子という女性との間にも多くの子を作っています。昭和17年といいますから、ずっと後年清子は房之助と協議離婚しています。3人の女性に産ませた子供や孫達は房之助の屋敷に集まり、みな仲良くしていたと言いますから、久原家は解放的なそしてかなり猥雑な家風であったと想像されます。
 1905年藤田組を退社した房之助は、茨城県の赤沢銅山の売買契約を締結し、久原鉱業日立鉱山の名に変更して、鉱山経営に乗り出します。この時三井銀行から50万円の融資を受けます。仲介者は例の井上馨です。房之助は鉱山経営にすべて斬新な方針で臨みました。まず発電所を造ります。手掘りをやめて、削岩機を使い機械掘りにします。電気鉄道を鉱山全体に走らせます。さらに鉱山と常陸海岸の間に、中央買鉱製錬所を作ります。これは将来鉱山の産出額が低下した場合、他の鉱山から鉱石を買って、製錬するためです。またダイアモンド式試錘機を使い、試錘探鉱を行います。断層にぶち当たりますが、なんとか鉱脈を探し、鉱山開発に成功します。房之助を慕って、多くの人材が日立に来ます。彼らの内重要な人物は小平浪平と竹内雅彦でしょう。小平は発電機の修理を担当していました。そのうち自分で発電機を作ってみたくなり、機械を組み立てます。房之助はあまりこの方向には関心がなく賛成ではありませんでしたが、小平の試みを黙認します。小平の試みは発展し、1912年久原鉱業日立製作所の開設に至ります。現在の日立製作所です。竹内雅彦は後に経営危機に陥った久原鉱業を受けつぎ、この会社は現在のジャパンエナ-ジ-になります。
 日立鉱山は開業3年目くらいから経営は軌道に乗り、銅の産出額は増加し続け、1916年(大正5年)には37000トンを産出します。第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は上昇し房之助は大富豪になります。盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されています。当時の国家予算がだいたい10億円ですから、彼の資産は国家予算の25%になります。現在の規模に換算すれば25兆円に昇ります。まさに大富豪です。また大戦景気に乗っているので成金でもあります。久原家の故地須崎に行き、公園や埠頭に波止場などの大規模な寄付を行います。房之助の祖父半平の非業の死と、言われ無き悪評の払拭、町民の冷眼視への反発、そして成功顕示などいろいろな気持が混ざっていたのでしょう。しかし須崎町民の反発は一部には残っていたようで、房之助の寄付行為の記録は一切ないそうです。房之助は金を使いまくりました。政界への寄金もします、亡命していた孫文にも300万円政治資金を融通しています。東京、大阪、京都そして神戸に豪邸を作ります。すべて10000坪以上の規模でした。成金がするように不必要なほどに贅をこらします。大阪中ノ島に豪壮な本社を造ります。突起すべきは山口県下松(くだまつ)に造船所を造る構想を持ったことです。土地はどんどん買い占めました。市民も大喜びします。造船所から発展して、機械製作に進み、日本のクルップになるつもりでした。しかし大戦勃発のために、アメリカが鉄鋼の輸出を禁止したために、この計画は無しになります。房之助は京浜海岸に臨海工業地帯を作る計画も経てました。これらの計画は房之助自身の手にはなりませんでしたが、他の人が代りにすることになります。小平浪平の日立製作所が代表ですが、京浜臨海工業地帯も事実上出現しています。
 第一次大戦を機に房之助は、海外開発、商事部門の設立、そして重工業機械工業への進出を試みます。銅の価格は変動します。それに対処するために、彼は以下のような処置をとりました。価格が低迷している時は、設備の改善に尽くす、価格が上がったら増産する。このやり方は為替についても応用できます。円高になったら設備改善に努め、研究に投資し、円安になったら増産して輸出する、のです。
 第一次大戦の2ヶ月前までが、房之助の絶頂期でした。彼は欧州戦線の動向に常に注視していました。戦争が終わりそうな時に経営を縮小する予定でした。欧州各国に派遣した駐在員は「戦争終結近し」と判断したら、「プラチナ高い」という暗号電報を送るべく、指示されていました。終戦の2ヶ月前にこの電文は届きます。しかしなんの事か解らない新米社員はこの電文を無視します。そのために久原鉱業は終戦に備える事が出来ず、大損をします。しかしこの話はおかしい。本当にそうなら久原鉱業の幹部は房之助も含めてぼんやりしていた事になります。この前後房之助は腸チブスを患い生死の境にありました。気力体力共に低下し、生死の問題ですから、会社どころではなかったのかもしれません。当時この病気は死に至る病でした。抗生物質がありません。病原菌と本人の体力との勝負だけでした。しかし腸チブスだけでは説明できないものが残ります。要は房之助の性格です。彼には財産防衛をいう考えはありません。儲けたら儲けただけ蕩尽するタイプです。三井三菱住友また藤田組のように家訓を作り、当主の恣意を掣肘し、同時に当主中心に資産が集まるような、処置を房之助はしていません。金融業にも熱心ではなかったようです。
 経済人としての久原房之助はここまでです。彼は急速に事業経営に関心を失います。彼のロマンをかなえそうなものは政治です。久原鉱業は義兄の鮎川義介に委ねます。鮎川は北九州ですでに若干の工場を経営していましたが、危機に陥った久原鉱業を引き受け、そこから後に日産コンツエルンといわれる一大重化学工業の結合体を作り上げます。この中で一番有名なのは日産自動車です。
 1928年(昭和3年)立憲政友会に入党します。同郷の宰相田中義一の勧めです。山口一区から出馬して当選し、そのまま逓信大臣になります。1931年政友会幹事長に就任。この出世の速さはやはり彼が抱える資金によるものでしょう。破産しかけたはずなのにどこから捻出するのでしょうか?少なくとも彼には日産と日立が背後にいました。1936年(昭和11年)2・26事件に巻き込まれ、謀議の疑いで逮捕されます。約8ヶ月収監され、証拠不十分で無罪になります。有罪なら死刑は免れかねません。普通ならこの辺で政治生命は絶たれるのですが、1939年(昭和14年)政友会総裁に推されます。もっとも彼がしたことは、政友会の解散です。大政翼賛会のさきがけを務めたようなものでした。
 2・26事件での入獄から帰った時、房之介の債務は約1億円でした。鮎川他が解決に努力します。房之助は20年の年賦で返却する事を約束します。この時点で彼は69歳でした。本当に返却を信じた者はいたのでしょうか。しかし20年後の昭和32年房之助は債務のすべてを返します。そして彼自身には井戸と塀のみが残りました。
 戦後A級戦犯に指定されかけます。房之助が孫文に贈った300万円のおかげで指定を免れます。公職追放は免れられません。普通なら昭和24年に解除なのですが、勝手に私有地を売却し、公職違反の規定に反し、さらに2年解除を延長されます。戦後も代議士になりました。しかし房之助の影響力を恐れた吉田茂の反対で入党はつぶされます。一時期久原内閣という噂もありました。昭和40年、97歳で死去。堂々たる大往生です。彼が基礎を作った会社は主なもので4つあります。日産自動車、総合電機メ-カ-の日立製作所、石油開発精製・石油化学のジャパンエナ-ジ-、非鉄金属開発加工・電子部品製造の日鉱金属です。すべて久原鉱業の分家です。そしてこれらの永続する堅実な企業は房之助の親族や部下により受けつがれて発展しました。
 
 参考文献 惑星が行く、久原房之助伝 

経済人列伝、稲山嘉寛

2010-07-24 03:36:01 | Weblog
    稲山嘉寛

 鉄は国家なり、という言葉があります。西暦前1500年頃に栄えたヒッタイト帝国において鉄器が始めて使用されて以来、歴史を通じて鉄は武器、農機具、工具の原料として、国家経営には欠かせない必需品でした。中国では前漢の時代から塩鉄司を置いて、その生産と販売を独占しました。産業革命後は鉄の重要度は更にまします。紡績機自体、鉄がないと作れません。蒸気機関車を走らすにも鉄は要ります。高速運転と重量物運搬に耐えるだけの性能の良い鉄鋼が必要になります。こうして「鉄は産業の米」になりました。
 維新以後の鉄産業の発展は日本の資本主義興隆の歴史です。釜石に鉄鉱石が発見され、同地に鉄工所が作られます。官営は不能率で廃業になります。数年後田中長兵衛が経営を再開し、一定の成功を収めます。もう一つ重要なのは大阪砲兵工廠と横須賀海軍造兵廠です。軍需品作成が任務ですから、軍の管理下に置かれました。国策として造られた軍需工場ですから価格競争はありません。採算を度外視した新技術の輸入も可能でした。明治29年(1896年)官営八幡製鉄所が設置されます。野呂景義や大島道太郎の努力で明治末年頃にやっとなんとか銑鋼一貫生産までこぎつけます。大正初年の時点で、八幡、富士、日本鋼管、川鉄(ただしそのころは造船所の一部)、住友金属、神戸製鋼の大手六社が出揃います。
 稲山嘉寛は明治36年(1904年)に東京で次男として生まれました。父親は稲山銀行の頭取です。典型的な坊ちゃんとして育てられます。優しくて、気のいい、協調的な人柄でした。嘉寛の後年の性格は、無頓着、楽天主義、遊び好き(女好き)、人の和を大切にする寛容な現実主義者というところですが、この傾向は幼少期から著明だったようです。彼は後に経営者になった時、我慢の哲学を説きます。我を張ることなく、協調しよう、と言うのです。更に、他人が幸福にならなければ自分も幸福にはなれないと、言います。この哲学の延長上に、労働の大切さの強調があります。彼の人生哲学の圧巻は、幸不幸は欲望の関数、欲望が小さければそれだけ幸福は大きくなる、です。老荘思想に似ています。この考えは後年のカルテル重視に繋がります。嘉寛は必ずしも努力家ではありません。彼の人生の前半は落第の連続です。中学は一中を始めとして希望する4つはすべて不合格でした。錦城中学に入りますが、一中への未練を断ち切れず、再挑戦してまた落第します。高校は水戸高校を受けてすべり、仙台の第二高校の理科甲類に入ります。東京を避けたのは、自分が女の誘惑に弱い事を恐れたからとも言われます。理科を選択して東大の工学部を目指しますが、製図が読めず、つまり空間的認知力が弱く、文系に志望を切り替えます。法学部は落ち、当時無試験だった経済学部に入学します。卒業時は不況でした。10以上の会社や官庁を受け不合格になります。商工省を受験し、高等文官試験に合格する、という条件で採用されます。採用決定までの半年、彼は猛勉強をしました。こうして商工省の外局である官営八幡製鉄所に入社しました。
 昭和3年(1928年)八幡製鉄所に入り、任地の福岡県八幡に赴きます。あまり仕事はなかったようです。ここで恋愛事件を起こします。製鉄所幹部専用の集会所の女性にほれます。それ以上どうのこうのという事もなかったのでしょうが、当時としては評判になりました。それが祟ったのか、東京に転勤になります。製鉄所はあくまで八幡が本社で、東京は単なる販売のための営業所に過ぎず、明らかな左遷でした。しかし稲山嘉寛という人間は精細な事務作業は苦手ですが、販売という人間関係を重視せざるを得ない、分野は得意でした。得意先とのもめごとなどを調整します。もめ事仲介は気晴らしになったそうです。彼は自分の立場を率直に認めます。ですから他人の立場も解りやすくなります。この時期欧州を視察して帰国した販売課長の鈴木武志からカルテルの存在を知らされます。カルテル結成による販売の調整は彼の生涯の方針になります。この間柳橋の芸者ツルと同棲して子供をもうけています。父親が嘉寛の女好きを心配し、素人の女性を避けさせ、玄人の女性との遊びを勧めます。その延長上にこういう事が起こりました。父親はやむをえないということで黙認、母親と姉妹は猛反対でした。後、夫婦の仲のいい事を知った彼らは、嘉寛の結婚を正式に認めます。
 昭和9年(1934年)戦時体制移行の一環として、官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、富士製鋼、九州製鋼が合併し、日本製鉄株式会社が結成されます。八幡製鉄所は以後民間企業になります。この時川、住友、神戸製鋼、日本鋼管を始めとする民間会社は合併から逃れています。嘉寛は合併と同時に販売第四課長になります。戦時中は鉄鋼統制会が作られます。まあ国家主導のカルテルが作られたようなものです。ちなみに昭和18年の鉄鋼総生産高は765万トン、それが終戦時には56万トンになっています。サイパン喪失により、米軍機の本土爆撃が可能になったからです。製鉄業はほぼ壊滅しました。
 終戦。日鉄は八幡と富士に二分され、嘉寛は八幡製鉄の営業部長になります。昭和25年、常務取締役営業部長に就任します。46歳でした。彼の専門は販売です。また彼の販売方針は、企業間の調整でした。鉄は産業の米、だから安定価格を維持する事が肝要、と言います。そのためには鉄鋼業全体で需要に見合った供給をしなければならないと、言います。ですからカルテルを当然視し、独占禁止法は鉄鋼業にとっては迷惑な法律だと公言しました。過当競争による値下げは、製造技術の水準を低下させる、と主張します。値下げは製品を作る労働への侮辱だとも言いました。一理はあります。独占あるいは寡占が必ずしも悪とはいえません。経済学でよく使う需給の無差別曲線で考えれば、独占は不能率なのですが、この理論が正しいとも限りません。現に主要な製造業はその殆んどが寡占状態です。寡占でない業種の典型が農業と飲食業です。鉄は産業の基礎だから、安定供給しなければならず、またその方が技術水準を保てるのかもしれません。しかし彼のいう事には、もう一つ納得できないものもあります。そういう識者も多く、嘉寛はミスタ-カルテルという仇名を頂戴しました。こういう方針に基づいて、嘉寛は公開販売制を実施しようとします。各社が販売額を公開するのですから、生産調整です。彼は生産中心主義者でした。作った物はすべて売れるはず、売れるようにすれば(生産を調整すれば)いい、となります。みんなで必要な物を作ってそれを消費すればいい、とも言います。そのモデルが彼が訪問した当時の(1960年前後)の中国でした。生産調整をするためには、企業の活動に社会か国家が関与せざるをえない、資本は社会化すべきだ、となります。先に彼の考えは老荘思想に近いと言いました。老荘思想は原始共産主義を前提にしています。昭和37年(1962年)に社長になった嘉寛が自らの経営方針の具現として行ったの事が、八幡と富士の合併です。昭和45年(1970年)両社は合併します。なお彼は以上のような考えですから、1960年代後半から出現してくるアメリカとの経済摩擦には敏感でした。対米自主規制を提唱し、トヨタやソニ-の憤激を買います。その時彼が言った言葉が「なんと強欲な人達」です。
 八幡と富士の合併の理由は沢山あります。まず資本自由化への対応が必要でした。日本も先進工業国になったのだから、欧米も今までのように甘い顔はしてくれません。いつまでも関税障壁に護ってもらうことは不可能です。大型合併して、国際競争力をつけねばなりません。そのために余剰設備(重複する)を一部廃棄し、生産工程を合理化してコストを減らします。そして軽量化した分のメリットを技術開発に向けます。特に自主技術の開発、製品の高度化、多角化、そして新規用途の開発が必要です。当時の技術の多くは欧米からの輸入であり、嘉寛はその事に不安を抱いていました。また国際金融体制の動揺、つまりドルにまつわる不安にどう対処するかという問題もあります。以上のような問題意識に導かれて、嘉寛は企業を大規模化し、無駄を省いて、技術水準を上げようとしました。一理はあります。それは当時から現在に至るアメリカの鉄鋼産業(USスティ-ル等)の運命を見れば解ります。
合併には野党も学会の大勢も、特に公取委が反対でした。公取委には政界を通じて工作します。こうして昭和45年(1970年)に両社は合併し新日本製鉄株式会社ができました。代表取締役会長には旧富士の永野重雄、代表取締役社長には嘉寛が就任します。数年後人事抗争があり、会長に嘉寛、社長には平井富三郎となりました。
確かに嘉寛はミスタ-カルテルです。原価プラス適正利潤を強調します。生産者がこの価格で売れば、すべて売れるはず、と言います。作っただけ消費すればいい、とも主張します。逆に言えば、売れるよう・消費できるように生産量を調整せよ、です。通常この種の調整は市場自身が行うとされますが、ミスタ-カルテルはそれを企業連合による意識的判断で為そうとします。また彼は、安ければ売れない、とも言います。この意味は解りかねるのですが、私なりに忖度すれば、安ければ製品の質が落ちるというのでしょうか?彼が新日鉄の経営から身を引いた、1980年前後から、日本の製鉄業はNIESなどに追い上げられます。ここ30年間で新日鉄は約約6万名の人員整理をしました。そうして製品の高度化を徹底して国際競争場裏で生き残ります。
 稲山嘉寛の財界人としての特徴は日中国交に尽力した事です。昭和33年(1958年)まだ八幡製鉄常務であった嘉寛は日本鉄鋼代表団を作り、中国に行き、周恩来首相と会談します。日本の鉄鋼と中国の鉄鋼石・石炭をやりとりする貿易のためです。日本の正統派財界人で戦後中国に赴いたのは嘉寛が最初です。この企てには日本政府(岸内閣)も在日米大使館も反対しました。中国との貿易はその後も二転三転しますが、嘉寛は常に積極的でした。昭和47年(1972年)武漢製鉄所建設の交渉が成立します。中国側の要請はホット・ストリップ・ミルとシリコン薄板製造のプラント設置です。二つのプラントの設備供給、技術資料の提供、操業のノウハウと特許使用権の供与、プラントの据付、中国人実習生の受け入れ、日本人技術者の派遣など、総じて950億円の商談が成立します。もっともこの商談は後に、中国側の外貨不足で支払ができなくなり、日本は3000万ドルの借款をして援助しています。また中国には外貨が不足していたので、石油と鉄鋼のバ-タ-取引を中国側は要請してきますが、嘉寛はそれに応じています。両国間の石油と鉄鋼の交易の仲介をしているのですから、嘉寛抜きには、日中国交は成り立たなくなった観があります。
 1968年経団連副会長、1973年新日鉄会長、1980年経団連会長、1986年財政審議会会長を務めます。1987年死去、享年83歳でした。

 参考文献  稲山嘉寛  国際商業出版

(付)
新日本製鉄株式会社の
資本金   4195億円
売上    3兆4877億円(連結)
営業利益  3200億円
純利益   -115億円
純資産   2兆3356億円
総資産   5兆23億円
従業員   51554人 

経済人列伝、小平浪平

2010-07-20 02:22:53 | Weblog
         小平浪平

 伝記の冒頭にある浪平の写真を一見して、私はどう言っていいのか解らない複雑な、しかし爽やかな感情に襲われました。荒っぽく言えば、この顔は聖人の顔だな、という印象です。しかし単なる「聖」ではなく、限りなく人間味を感じさせてくれる「聖」ではあります。浪平は明治7年(1874年)栃木県下都賀郡中村に生まれます。生家は数十町の田畑山林を所有する大地主、旧家です。父母とも人間としては最良のタイプの人でした。父親惣八は諸種の事業に手を出し、すべて失敗します。事業は、山林買付け、炭鉱、鉛丹などいろいろです。そして49歳で病没します。残された借財を返すために、母親は苦労します。東京の一高に在学中の兄儀平は中退して、土地の銀行員になります。しかし母と兄の願いで、親戚の反対を押しきり、浪平は進学する事を強く勧められます。その割にはのんきで念願の一高には落ちます。翌年上位で合格。一度落第して復活するというパタ-ンを浪平は繰り返しています。そこにこの人物の特徴、魅力とも言える生活態度を観取することもできます。父親の事業の経歴はある意味で、浪平の以後の人生と微妙に重なります。浪平は後年、次々と事業のジャンルを広げてゆきますが、このスタイルは父親の事業が原型かもしれません。そして父子ともに、言い出したら聞かない頑固さを持ち、また沈思黙考、別の角度から考えるとある種の独善性、をも持っていました。
 15歳時、父親死去、17歳一高不合格、18歳合格して入学、そして東大工学部に入学します。高校大学時代、勉強もしますが、趣味生活も豊富でした。特に絵画と文章に興味を持ち、山水を愛して散策と旅行を楽しみます。写真機と絵筆は必携でした。彼は当時、「晃南」というタイトルの日記を数年にわたり書いています。文章は素直な美文です。第三者が読める、読んでもいい、文章です。浪平には詩人的な素質があったようです。彼は将来如何なる方面に進むか、考えるというより悩んでいました。単純な技術者の気分ではありません。造船ダメ、造兵ダメ、採鉱ダメ、冶金ダメ、化学ダメ---となります。残るは電気と機械くらいでしょう。悩んだ末、当時有名だった作家、村井弦齋に相談しています。作家などと昵懇ということ自体、浪平のかなり複雑な素質をうかがわせます。村井の勧めでしょうか、彼は電気の方面に進みます。しかし工学部在学中も一度落第しています。何分とも彼の精神の方向は未だ決まらず、多岐亡羊の心中であったようです。こういう人は没落するか、雄飛するかです。実際は前者の方が多いのですが。
 当時の電気技術の進展状況を一見してみましょう。世界で始めて発電所ができたのは、1882年米国ウィスコンシン州アップルトンです。発電してどうしたのかは知りません。1891年、ドイツのネッカ-河で発電し、180km離れたフランクフルト・アム・マインに送電し、そこで200馬力のモ-タ-を動かしています。日本では1892年京都蹴上に琵琶湖の水を引き、120馬力の発電をしています。火力発電(石炭)はそれより早く、関西と名古屋に発電所ができ、翌年東京方面にもできます。明治17年には三吉電機製作所が日本で始めて発電機を作り、明治20年代には、芝浦製作所、石川島造船所などで電動機が作製されています。これら三社はこの方面のパイオニ-アなのですが、いずれも産業にならず、途中で電動機製造から手を引きます。浪平は工学部在学中、色々な設備を見学しましたが、日本の会社の輸入機械依存に憤慨しています。この頃から既に、国産電機機械製作を決意していたのでしょう。
26歳東大工学部を卒業して、合名会社藤田組に就職します。大阪の藤田伝三郎が統率する、一大総合企業です。そして藤田組が経営する、秋田県の小坂鉱山に、電気主任技術者として赴任します。仕事は鉱山に設備されている、電機機械の施設、設計、工事一般です。鉱山では重い物を運搬するので、専用の電機設備が要ります。発電所も同様です。浪平はここで止滝発電所を建設しています。彼が去った後、小坂鉱山に赴任してきた新任技師の何某が、あまりに電機施設が完備されているので、浪平を崇拝し、日立まで彼を慕ってきた、という逸話もあります。小坂鉱山の経営者である久原房之介と知り合います。この出会いは浪平の人生に大きな影響を与えます。久原房之介に関しては彼の列伝を参照して下さい。
 29歳、小坂鉱山を辞めて、広島水力電気に就職します。この間友人の妹である小室也笑(やえ)を見初めて結婚します。広島在住は1年半、逸話は一つあります。支払いの悪い電灯会社への電力配給を彼の一存で停止します。相手はすぐ降参しました。
 30歳、送電課長として東京電燈(今日の東京電力)に就職します。桂川発電所の建設に従事します。発電所はできましたが、用いた機械装置は、ジ-メンスやGEなど外国のものばかり、日本人技術者である浪平の出番は、外国人技術者と職人の仲介役のみ、だったと彼は後年述懐しています。ここへ久原房之介が現れ、浪平に自社への入社を熱心に勧めます。小坂銅山で産を為した久原は、藤田組を辞め、茨城県北部にある赤沢銅山を買い、新技術でもって、再開発に挑戦します。浪平は悩みます。偶然汽車の中で会った、東大時代の同級生渋沢元治(栄一の甥)と猿橋で下車し、東電に留まるか久原の勧誘に乗るか、相談します。東電は当時から企業中の名門でした。黙っていても、末は技術部長から役員の席は確保されているようなもの、電気畑出身の浪平はやはり電機関係の会社、鉱山では電機は脇役、加えて鉱山経営者とは所詮は山師、と渋沢は常識論で浪平を説得しようとします。浪平は桂川発電所での屈辱体験を語り、模倣をもってする限り日本の産業は論じるに足りない、と言います。多分腹はできていたのでしょう、彼は久原の勧めを受けて、東京都心から草深い常陸の山の中に飛び込みます。彼の妻も渋沢と同意見でした。これは決断です。鮮やかな決断です。よほど腹ができていたのでしょう。自信家の行動でもあります。限りなく自分の能力に対して抱く自信なくしては、こんな行動は取れません。同時にこの方向しか道はない、国産技術を育てる道はない、という思い切りもあります。事をなす人は行動が素早い。飛行機の中島知久平は海軍技術将校になって8年で中島飛行機を作りました。浪平も同様、学校を出るまではもたもたしていましたが、26歳で卒業すると、小坂鉱山に3年、広島に1年、東電に1年、そして久原鉱業所に事実上5年、そして独立します。必要な体験を無駄なく積み、敢然と独立します。行動は直線的で一方的でもあります。何かを見つめ、何かを追い求めます。こういうカリスマ的行動は若い新進技術者を引付、彼のもとには東大卒の人材が集まりました。
 31歳、浪平は久原鉱業所日立(赤沢改め)鉱山に入社します。工作課長として鉱山が所有するあらゆる機会の設置、保全、修理などが職務でした。この時代彼がした大きな仕事は、電軌鉄道の建設ともう一つ、石岡発電所の建設でした。特に後者は4000kwの大型発電所で、この建設で浪平は技術者としての自信、更に技術者として独り立ちして経営する自信をつけます。鉱山での日常の主な仕事は機械の修理、特に電動機(モ-タ-)の修理でした。修理しているうちに機械のからくりが見えてきます。浪平は修理から製造に進みます。1910年5馬力の電動機3台を製造し、すぐ200馬力に挑戦します。このように更なる大きな目標に挑戦する事が、彼の彼たる由縁です。同年久原に意見を具申し、鉱山内に、日立製作所を立ち上げます。2年後に久原鉱業から独立します。久原から資本金を9万円とも50万円とも言われる額、出してもらったと言われます。久原にすればあまり歓迎できない話ですが、浪平の独立不羈な性格とその才能を知悉しているだけに、千里の駒をいつまでも自分の厩舎につないでおくわけにはいかないと、思ったのでしょう。惑星と仇名を取る久原のことですから、太っ腹です。浪平と久原は終生良好な関係にありました。性格は正反対ですが。創立当初の製作所は貧しい板屋根の小屋でした。食堂は近くの旅籠一軒のみ、職人は5名でした。
 創立当初はどの企業でも同じです。思ったようには行きません。廻るはずのモ-タ-が廻らない、故障は続出、製品を納入した後は常にひやひやのしどうしです。トヨタ自動車も同様でした。浪平が知人に、納入後は放蕩息子を外に出したようで油断もすきもない、と言ったという逸話があります。母屋である久原鉱業も久原自身が国産機械を信用していないので、そう注文は来ません。そういう中、所詮は努力です。故障が起きれば、誠心誠意修理し、心底から謝る、この態度に尽きます。そして浪平のやり方の特徴は、常に大きな仕事に飛び込む事です。失敗は失敗、挑戦してみよ、です。久原鉱業から電線の注文が来ます。これで一息というところでした。そして神風が吹きます。1914年第一次大戦勃発。競争相手であった、欧米企業の製品は来ません。国内の企業はやむなく、日本産の機械で満足しなければならなくなります。こうして販路は伸びます。販売したがって生産量が上がれば、経験を積む機会は増え、技術は向上し、価格も低下できます。
 単純にただむやみに頑張ったのではありません。故障が起きないように、製作品を出す前に、慎重な試験をする設備を作ります。次に原価計算を徹底させます。大雑把などんぶり勘定ではなく、原料の購入使用から始まって、失敗・繰り返し・在庫なども計算に入れて、精細な原価を計算します。それを基準として定価を定め、販売予想を立てます。もう一つが徒弟養成制度です。熟練した職人を養成するために、そのための学校を所内に造りました。なにぶんとも草深い田舎ですので、諸種の娯楽厚生施設も他社に先駆けて作りました。ゴルフ場造設もその一環です。浪平は外目には無趣味な人でしたが、多忙でやや神経衰弱気味になっていた時、知人からゴルフを勧められ、以後病みつきになります。
 大戦が終わった1918年(大正7年)日立製作所は久原鉱業所属の佃島製作所を買収します。1921年には山口県の笠戸造船所を買収併合し、電気機関車の製作に進みます。翌年から10000KVA級の発電機を製作し始めます。この間1920年日立製作所は久原鉱業から正式に独立し、株式会社制をとります。
 1929年(昭和4年)、この頃すでに日立は機械メ-カ-としては業界で首位でした、昭和肥料(後の昭和電工)から、水を電気分解するための分解槽制作の注文を受けます。硫安を製造するためにはアンモニア(NH3)が要ります。水を分解して発生した水素(H)と、空気中の窒素(N)を固定したものを、反応させてアンモニアを作ります。極めて微妙で、それに酸素と水素が接触すれば大爆発を起こすので、危険な仕事でもありました。失敗すれば会社の信用は落ちます。かと言って同業他社が成功すれば、社のブランドに傷がつきます。なによりも不況の中、大きい仕事は欲しい。慎重審議の末、浪平の決断で注文に応じ、仕事を成功させます。得意の試験設備をフルに使いました。
 1930年(昭和5年)日立製作所は敷地を海岸方面に進めます。10万坪(1坪は3・3平米)、総工費の見積もりは300万円です。資金を取引銀行である第一銀行に頼みます。簡単に断られました。次に日本興業銀行、ここもだめでした。昭和5-6年といえば金解禁に失敗し、加えて世界恐慌のまっただ中、300万円の大金をすぐ貸してくれるはずもありません。浪平は最後に、日本勧業銀行の頭取石井光雄に頼みます。結局石井の決断で融資は成功しました。この時石井が驚いたのは、日立は社長の浪平以下重役陣のだれも、依頼した各銀行の役員に挨拶をしたことがなかった、ということです。こういう世間知らずに伴う爽やかさが、石井をして融資を決断させた背景かも知れません。日立製作所は、一切ご馳走政策を用いません。浪平はさらに1000万円の貸付を興銀に頼み、800万円の融資を得ています。大不況のさ中なぜ大拡張なのか?それは浪平が自社の技術に自信を持っていたからです。不況が回復するかどうか、それが何時、という事に関しては必ずしも浪平の判断は精確とはいえないでしょう。むしろ、うちの製品は売れる・売れるはず、少なくともこの世に産業がある限り、という技術への自信が、彼をしてこういう大胆な行動を取らせたのでしょう。技術は、それが必要とされる限り、価格による支配から解放されます。技術がこの段階に到達した時、それをbreak through(突き抜ける)と言います。当時の日本の機械技術は一部とはいえ、そこまで達していたのでしょう。昭和7年の時点で、2000kw以上の電気設備の外国製品と国産の比率は1対1、国産製品の30%を日立が占めています。輸出も始まります。
 昭和8年、八幡製鉄所に23600馬力の大発電機を納入、10年には大阪鉄工所を買収(後の日立造船)、同年信濃川千手発電所に47000kwの発電機を納入しています。この間昭和9年、株式を上場し、同時に日立研究所の設立を計画しています。昭和13年時点で、資本金は2億円、同業企業中トップです。生産するものは、重電機、水力発電機、水車、変圧器、火力発電機、タ-ビン、起重機、圧縮機、捲上機、ポンプ、送風機などです。
 統制経済になると軍需品生産にも協力させられます。日立航空機や日立兵器などの会社が作られます。昭和14年、満州松花江の発電所に、ドイツのフォイトとAEG、スイスのエッシャ-・ワイス、アメリカのウェスティングハウスと並んで日立の製品が納入されます。
 そして終戦、御定法どおり浪平は公職追放になります。これが昭和22年、そして解除が26年でした。この間浪平は一切会社に入っていません。同年、つまり1951年の秋、心筋梗塞で死去します。
 小平浪平という人物には幾多の特徴があります。欲しいなと思えば、万難を排しても手に入れたい、と彼は言います。だからといって裏技に訴える事は一切しません。正面から取り組みます。また仕事や研究において、とっかかりさえあれば、何でもやる、とも言います。だから社の仕事の領域を可能な限り広げてゆきました。宴会嫌いでした。社の重役全員と会食したのは、追放が決定した後のお別れの会が最初でした。閥を作らず、財界活動というものもしません。国家社会を念とすべし、がモット-でしたが、その通り実行します。第二次大戦後、追放でぶらぶらしていた時、東大の物理学の講義に出かけ、若い学生に混じって、原子物理学を受講します。自動車を使わず、電車出勤を好みました。女性には淡白な方でしたが、妻は生涯一度の恋愛で得ました。なによりも驚かされるのは、あれだけの技術者であり、あれほどの経営者であるのに、生涯一度も欧米に出かけた事がないことです。多忙なのか、自信がそうさせるのか、意地なのか?浪平の生涯は、外国製品にまさる国産機械の製造という理念で貫かれています。そしてそれに徹しきります。山小屋から出発して、20年間で世界のトップと並ぶ総合機械メ-カ-を作り上げます。このカリスマ性に満ちた精神には、俺がやらねば、という強い意志があります。彼の事業への取り組みには、事業への興味と意地と自信とそして義務感が混在しています。やりたい、できる、やってやる、やらねば、という色々な気持ちが混在し統合されています。複雑な性格です。この複雑さは容易には外からは見えません。その意味で浪平という人物は「聖人」に似ます。私はつい最近までこの人物の名も存在も知りませんでした。鮎川義介、久原房之介、と列伝の項を重ねるうちに、小平浪平という名を知ります。彼が日立製作所という日本を代表する重機メーカ-の創立者である事を知り、彼の伝記を読みました。列伝の人物はそれぞれ個性があり魅力に富む人物ですが、私はこの浪平という人物に一番魅かれます。

 (付)日立製作所の概要
    資本金    2820億円
    売上高    8兆9685億円(連結)
    営業利益   2021億円
    純利益    1059億円
    純資産    8兆9517億円
    従業員数   約360000名 

 参考文献 日本の電機工業を築いた人、小平浪平翁の生涯   
     国政社  大阪市立中央図書館所蔵

IMFよ、内政干渉するな(改訂版)

2010-07-17 03:19:59 | Weblog
内政干渉するな、IMF(改訂版)

 読売新聞夕刊(15日)のトップに、
     
IMF「日本消費税を」
14-22%案提示

とありました。大きなお世話です。内政干渉はやめてもらいたい。10%でも増税となり均衡財政の犠牲として一大不況が出現すると予想されるのに、とんでもない話です。新聞紙面上では消費税をかける事により、強制的に消費させ、その結果税収が増えるというようなことが書いてありました。そのとおりに行くでしょうか?逆に倹約を助長して、消費を低迷させる事態にもなります。税収が上がる前に不況が先行するでしょう。一度不況感
に襲われると、回復には極めて長い時間がかかります。不況にしておいてから、景気刺激をしても手遅れです。IMFの処方では手遅れになります。
 むしろ国債発行を増やすべきです。それを日銀に引き受けさせて、流通貨幣量を増加させ、そのかなりの部分を政府が握り、成長産業育成に積極的に投与すべきです。何事も士気と気分です。積極的で拡大的な政策の方が優れています。空腹を抑えて、パイが大きくなるのを待つより、パイを食べながら、成長しましょう。後退そして前進より、前進しつつ戦いましょう。空腹を抑えすぎると飢え死にします。
IMFの勧めに従えば、こういう事になりかねません。
  Operation succeeded ,patient died. 
だいたい日本を欧州、ましてギリシャなどと比較するほうがおかしい。欧州の経済危機は、アメリカの金融資産運用で膨らんだ資産が欧州諸国の国債に向けられ、破綻したものです。ギリシャなどは本来これという産業もないのに、国債を買ってもらって、借金で生活していました。
 日本は違います。財政赤字といっても、それは国民が政府に貸したお金です。国内のことですから、妥協次第でどうにでもなります。本来その国に必要な通貨量は、その国の資本と技術、特に将来成長するであろう分野の資本と技術により決められます。日本ではこの意味での資本は過剰です。ならなにも均衡財政による緊縮経済を取らなくても、必要な通貨を増量すれば足ります。なんなら欧州などに金を貸してあげてもいいのです。
 通貨量を増やし、それを資本として、成長産業を育成すれば、不況などはふっとびます。そうなれば税収は自然に増大します。通貨量が増えた分、雇用は促進されますから、所得は老年者から若者に移転し、更に消費も増えます。
 そもそもなんで今頃IMFは日本にこんな滑稽な要求をするのでしょうか?まずIMFと言っても、彼らは所詮、金融屋、銀行です。銀行は不況になると融資をしぶり、資産勘定の安定を求めます。その程度に考えておればいいのです。
 米欧そして中国が優等生的な均衡財政の方策をとっていますか?もしそうなら米欧はリ-マンショック後すぐ破綻していたはずです。自分達がしない事を人に押し付ける、かっての占領下でGHQが日本にした事と同じです。シャウプ税制、ドッジラインetcです。IMFは自分たちの狭量な判断で、しかもどうにもならないから、教科書的で優等生的な方策を日本に示し、日本の国債額の高さや消費税の低さ、を格好の材料として、日本に世界不況の責任を押し付けようとしているのです。
 今回の参院選では消費税が最大のテ-マになりました。それと、菅民主党政権の経済オンチという弱点に付け込んで、自分達の意志を押し付け、日本をいいようにしようとしています。政局混迷の時、そして各党派が明確な経済政策を見出せないでいる時、こういう提案は、効果があります。狡猾な脅しです。IMFなどのいう事をまともに聞いていると、日本経済は縮小し、衰退し、挙句は欧米の金融屋に食いちぎられ解体されてしまいます。案外その辺が狙いかも知れません、今回のIMFのお言葉は。
 具眼の士はあるものです。私はいままで、みんなの党、についてあまり知りませんでした。新聞報道によれば、みんなの党は、増税に反対しています。より特記すべきは、この政党は、インフレ促進と、経済政策を日銀管理から解き放つ事を提唱していることです。日銀管理の否定とは、私が言う通貨量の増大を意味するはずです。IMFも日銀も所詮は銀行屋、銀行に積極的な方策がうてるはずがない。みんなの党の意向が、私の推量するとおりなら、大歓迎です。政治に影響力を与えうる勢力の中で、始めて有効な意見が出てきました。
 付言すれば、日本の消費税率は高いといわれますが、私が仄聞した限りでは、間接税率総体は日本と欧米の間に差がほとんどない、ということです。なによりも消費税率という言葉が独り歩きするのが危険です。狭義の意味での消費税のみならず、同質の税総体で考えるべきです。なによりも諸外国のそれとの厳密な比較が必要です。
 今日の世界経済の混迷は、新しい成長産業が見出せない状況に由来する長期的なものです。こういう時は根本的なところから発想しなければいけません。増税で事足りるなどと考えるのは愚の骨頂です。
 そもそもリ-マンショックなどで世界経済を不況に導いた根源は弱いドル、ふらふらするドルにあります。ドルが弱ければ、それを補強する方策はあります。かってケインズが唱えた、混合通貨、つまり世界主要経済国で新しい世界通貨を作ればいいのです。例えば、ドル:円:ユ-ロ(ないしマルク)を5:2.5:2.5の比で計算し、新しい紙幣を創造するなどの方策もあります。なおよくbricsなどと言われますが、彼らの経済実態は弱いものです。世界通貨形成に参加するほどの力はありません。
 欧米はショック以来大量の資金を注入しましたが、その金はどこに消えたのでしょうか?恐らく彼らが抱える多量の不良債権です。これでは債権が紙幣になっただけで、真の景気促進効果はありません。なんらかの形で製造業に結びついてのみ、経済は成長します。
 日本は多量の赤字国債を抱えています。政府が国民から多額の借金をしています。しかしこの事実は裏から見れば、それだけの国債を抱え込む能力が日本にはある、ということです。単純な仮定を設け、国債はすべて福祉にまわされているとしましょう。つまり国家が国民に代わって福祉という事業をやっているのです。それをやれるほどの経済力が日本にはあるという事です。ただ現状では、この事業は事業というほどのものになっていない。ただ金をばらまくのみで、その一部が景気刺激となり、国税等に還流するだけです。この福祉事業を産業化する必要があります。ただ金をばらまくだけでなく、必要な人員を大幅に増やし、そして福祉事業を極力機械化する、つまり人と人の間に機械を入れます。こうすれば福祉事業は極めて大規模なものになり、IT・電気・機械工業、製薬・化学工業さらには、農業・食品製造業などとの繋がりが大きく強くなります。福祉事業は巨大な後方連関を得て、投入された資金は大きな乗数効果を発揮します。経済は刺激され成長し、税収は増加します。こうする事により、福祉は産業化できます。輸出も可能になります。日本はこの福祉工学を実践するに必要な資本も技術も充分に持ち合わせているのです。
 Onse again
You , IMF. Don’t interfere with our economy!

Uncore unifois

Pas d’ interference dans economie japonaise

Noch einmal

Sollst nicht eingreifen in japanische Wirtschaft

内政干渉するな、IMF

2010-07-16 03:02:14 | Weblog
      内政干渉するな、IMF

 読売新聞夕刊のトップに、
     
IMF「日本消費税を」
14-22%案提示

とありました。大きなお世話です。内政干渉はやめてもらいたい。10%でも増税となり均衡財政の犠牲として一大不況が出現すると予想されるのに、とんでもない話です。新聞紙面上では消費税をかける事により、強制的に消費させ、その結果税収が増えるというようなことが書いてありました。そのとおりに行くでしょうか?逆に倹約を助長して、消費を低迷させる事態にもなります。税収が上がる前に不況が先行するでしょう。一度不況感
に襲われると、回復には極めて長い時間がかかります。不況にしておいてから、景気刺激をしても手遅れです。IMFの処方では手遅れになります。
 むしろ国債発行を増やすべきです。それを日銀に引き受けさせて、流通貨幣量を増加させ、そのかなりの部分を政府が握り、成長産業育成に積極的に投与するべきです。何事も士気と気分です。より積極的で拡大的な政策の方が優れています。
 だいたい日本を欧州、ましてギリシャなどと比較するほうがおかしい。欧州の経済危機は、アメリカの金融資産運用で膨らんだ資産が欧州諸国の国債に向けられ、破綻したものです。ギリシャなどは本来これという産業もないのに、国債を買ってもらって、借金で生活していました。
 日本は違います。財政赤字といっても、それは国民が政府に貸したお金です。国内のことですから、妥協次第でどうにでもなります。本来その国に必要な通貨量は、その国の資本と技術、特に将来成長するであろう分野の資本と技術により決められます。日本ではこの意味での資本は過剰です。ならなにも均衡財政による緊縮経済を取らなくても、必要な通貨を増量すれば足ります。なんなら欧州などに金を貸してあげてもいいのです。
 通貨量を増し、それを資本として、成長産業を育成すれば、不況などはふっとびます。そうなれば税収は自然に増大します。通貨量が増えた分、雇用は促進されますから、所得は老年者から若者に移転し、消費も増えます。
 そもそもなんで今頃IMFは日本にこんな滑稽な要求をするのでしょうか?まずIMFと言っても、彼らは所詮、金融屋、銀行です。銀行は不況になると融資をしぶり、資産勘定の安定を求めます。その程度に考えておればいいのです。
 米欧そして中国が優等生的な均衡財政の方策をとっていますか?もしそうなら米欧はリ-マンショック後すぐ破綻していてはずです。自分達がしない事を人に押し付ける、かっての占領下でGHQが日本にした事と同じです。シャウプ税制、ドッジラインetcです。IMFは自分たちの狭量な判断で、しかもどうにもならないから、教科書的で優等生的な方策を日本に示し、日本の国債額の高さや消費税に低さ、を格好の材料として、日本に世界不況の責任を押し付けようとしているのです。
 今回の参院選では消費税が最大のテ-マになりました。それと、菅民主党政権の経済オンチという弱点に付け込んで、自分達の意志を押し付け、日本をいいようにしようとしています。政局の混迷の時、そして各党派が明確な経済政策を見出せないでいるとき、こういう提案は、効果があります。狡猾な脅しです。
 しかし具眼の士はあるものです。私はいままで、みんなの党、についてあまり知りませんでした。新聞報道によれば、みんなの党は、増税に反対しています。より特記すべきことは、みんなの党は、インフレ促進と、経済政策を日銀管理から解き放つ事を提唱しています。多分そうだと思いますが、幾ばくかは私の記憶に錯誤があるかもしれません。日銀管理の否定とは、私が言う通貨量の増大を意味するはずです。IMFも日銀も所詮は銀行屋
銀行に積極的な方策がうてるはずがありません。みんなの党の意向が、私の推量するとおおりなら、大歓迎です。政治に影響力を与えうる勢力の中で、始めて良い意見が出てきたと思っています。みんなの党の代表である渡辺さん、どう思われますか。
 なお付言すれば、日本の消費税率は高いといわれますが、私が仄聞した限りでは、間接税率総体は日本と欧米の間に差がほとんどない、ということです。なによりも消費税率という言葉が独り歩きするのがいけません。狭義の意味での消費税のみならず、同質の税総体で考えるべきです。なによりも諸外国のそれとの厳密な比較が必要です。
 また今日の世界経済の混迷は、新しい成長産業が見出せない状況に由来する長期的なものです。こういう時は根本的なところから発想しなければいけません。増税で事足りるなどと考えるのは愚の骨頂です。


経済人列伝、森永太一郎

2010-07-12 02:51:35 | Weblog
      森永太一郎

 森永太一郎はその名が示すとおり、わが国最大製菓会社の一つである森永製菓の創業者です。太一郎は慶応元年(1865年)に肥前(佐賀県)伊万里町に生まれました。伊万里は肥前の名産有田焼の積出港として栄えました。秀吉の文禄の役に従軍した鍋島直茂が朝鮮から連れ帰った、陶工李参平が有田で白磁鉱を発見し、そこで磁器を焼きます。後、酒井田柿右衛門が色絵磁器作成の方法を完成し、全国的名声を獲得します。産地の名を取れば有田焼、積出港の名を取れば伊万里焼になります。森永家は代々伊万里焼の問屋を営み、祖父の代には大いに栄えます。しかし太一郎の父親は事業に失敗し、多額の借財を残して死去します。母親は資産をすべて売り払い、借金を返します。そして再婚しますが、再婚相手は太一郎同伴を拒みます。太一郎は7歳では孤児になります。親戚の家を半年ごとに転々とたらいまわしにされる生活を送ります。特に陶器商叔父山崎文左衛門には可愛がられ、叔父の配慮で、近くの文具商盛観堂の川久保雄平に初学を習います。飲み込みは極めて早かったようです。やはり教育です。太一郎は頭の良い子供でしたが、もし教育を受けていなかったら、彼の将来は無かったでしょう。文左衛門に商人道徳を教わります。以下の教訓です。
  正当な商品だけを扱う
  目先の利益につられて粗末な品を商わない
  自分が正当と思った価格は絶対に下げない
  仕事を急がず、10年を一区切りとしてやる
 太一郎の生き方を決定した倫理は、この叔父に教わった商人道と後アメリカで入信するキリスト教(プロテスタント)です。彼はこれらの教えを忠実に実行します。この規範に背くような行いは絶対しません。のみならず人にも許しません。こういう彼の行動を見ていますと、太一郎の性格が解ります。俊敏で積極的で攻撃的でもあり、自らを持すること高く、非妥協的です。怒りやすく、喧嘩っぱやく、腕力も辞しません。体力に優れ腕力には自信がありました。切れやすいのですが、後に残さないのがいいところです。また6歳で父を、7歳で母を失い、森永家の没落を体験した太一郎には、名門復興の悲願もあったと思います。ちなみに森永家は苗字帯刀を許され、祖母は鍋島藩の家老の家から嫁いできています。この祖母チカに太一郎は可愛がられました。13歳行商を始めます。最初に商った品がこんにゃくです。
 太一郎は東京行きを志しますが、なかなかチャンスがありません。17歳、伊万里の商人達が横浜で、集団で経営している有田屋の店員に推薦され、そこで働きます。商売はうまく、順調に行き、将来の元手もたまりかけますが、松方デフレに会い、店の経営は行き詰まります。この間妻サキと結婚します。運転資金を借りるために伊万里に帰りますが、断られます。どこも同じなのです。帰路旅費が無くなり、大阪から横浜まで妻と徒歩で帰るはめになります。途中で餓死寸前になり、ある農夫の家でやっかいになったり、他人の畑のとうもろこしを取って食べたりします。帰路の旅費がたらない事は解っているのですから、わけを話せば借りられるのに、強情を通します。太一郎の性格の一端を示しています。
 伊万里で借金に失敗した太一郎は、有田屋の資金つくりのため、3000円分の九谷焼をもって、単身渡米します。しかし売れません。帰路の旅費もなくなり、やむなくコック、皿洗い、スク-ルボ-イ(下男のようなもの)などをして生活します。さんざん人種差別にあい、そのつど喧嘩になり、勤め先を転々とし、一時は酒に溺れかけます。この時ふと目についた、オ-クランド・メソジスト・日本人教会に入りキリスト教に接し、やがて受洗しクリスチャンになります。彼は天上から来る神の声を聴いたそうです。同時に公園で二日酔いを覚ましている時、アメリカ人少女からもらった、キャラメルの美味に驚嘆し、ここで太一郎は洋菓子職人を一生の仕事に選びます。すこし短絡的な感じもしますが、思い立ったら即、極端から極端へ、が彼の性格の特徴です。しかし決断とはそんなものでしょう。飛躍できない人には決断はできません。太一郎の飛躍は続きます。急遽帰国し、故郷の伊万里で伝道を行います。評判は散々でした。彼の性格には確信的、もっと率直に言えば狂信的ところもあります。結果として彼は11年間滞米します。その間一度帰国しただけで、妻子は日本に残したままです。普通なら離婚されます。一方的な態度と言えます。
 伝道は大失敗で、叔父の叱責を受け、再びアメリカに渡ります。つてを求めて、オ-クランドのパン焼き工場や菓子作り工房に勤めます。ここでも人種差別を経験しますが、洋菓子職人になると決めた太一郎はねばり強くなります。特にブル-ニング・キャンディ・ストアで、みっちり菓子作りの技術を習得します。明治32年、34歳、太一郎は帰国します。それまでに倹約して貯めた1700円と、太一郎の働きに感謝したブル-ニングから選別にもらった1000円が資本です。
 東京の赤坂溜池の近くに2坪(6平米強)の土地を借り、工場を作り、森永洋菓子製造所を立ち上げ、妻子を呼び寄せて菓子を作ります。特に力を入れたのはマシュマロでした。最初はなかなか売れません。当時の日本人の口には洋菓子は珍奇でもあり、食べるに抵抗はありました。販売をめぐって色々不愉快な事も経験します。新しい食べ物が広まる過程はそんなものです。私(中本)は18歳学生食堂で始めて納豆を食べました。当時関西では納豆を食べる人はいません。始め、なんてけったいな食い物なんやろ変な味、と思っていました、食べていると病みつきになり、現在では常食です。関西のどこのス-パ-でも納豆は売られています。
 太一郎の洋菓子もぼつぼつ売れるようになります。彼は宣伝を重視します。あちこちに売り込む一方、箱車を作り、ガラスの陳列台に諸々の菓子を並べ、行商する傍ら、キリスト教の教えも伝えて歩きます。「耶蘇の菓子屋」と評判をとります。品質第一を心がけ、従業員には白い制服を着させ、もちろん自分も着て「菓子屋の大礼服」と称します。台所の清潔さ維持には特に努力します。当時の菓子屋の台所は汚いものと決まっていました。太一郎は菓子屋の社会的地位向上のためにも、この点には留意しました。駐日アメリカ公使夫人が噂を聴いて注文してくれます。在日の欧米人は故国の菓子を数ヶ月経って味わわなければいけなかったのです。こうして上流階級にもコネができます。皇室からも注文がきます。太一郎はお上御用の商人になったわけです。しかし彼はこの事だけは吹聴しませんでした。
 良い事もあれば悪い事も起こります。森永太一郎の人生には悪い事が多く起こるようです。他の経済人の生涯と比べた時、私はそう感じます。菓子にカビが生え、チョコレ-トが溶け出します。日本とアメリカ西部の気候の差を考慮にいれていなかったからです。菓子問屋と上げ底のことで論争します。太一郎は当時の習慣である上げ底を断固拒否します。理由の一つは、倫理上の問題です。羊頭狗肉はしたくありません。また上げ底にすると包装に無駄な経費がかかります。明治35年(太一郎37歳)工場が火事に会います。翌年赤坂田町に60坪の新工場を建て、作業工程を一気に機械化します。ロ-ラ-、手回し切断機、バタ-カップ製造機、煮込み機を据え、ガス乾燥室も設けます。こういう時の立ち直りは実に素早く、災いにくよくよする事無く、それを将来への飛躍のチャンスにします。決断が早いということは、彼の経営がワンマン経営ということです。太一郎はよく従業員をどなりました。ガッデム、今畜生、と。
 明治38年(40歳)太一郎は終生の片腕(というより共同経営者)になる、松崎半三郎を森永洋菓子製造所に迎え入れます。太一郎のたっての懇請でやむなく松崎は腰をあげました。劉備玄徳が諸葛孔明に三顧の礼を取ったのと同じ行為です。太一郎は伊万里から呼んだ親族による経営に、限界を感じていました。これ以上の発展を望めば、自分と同じ立場と能力を持つ人物に経営の半分を任さなければなりません。これは賭けになります。有能な人物は、会社経営を乗っ取りかねません。事実他の従業員からその種の不安と猜疑が告げられます。しかし太一郎は松崎に全面的な信頼を置き続けました。
 松崎半三郎は明治7年(1874年)埼玉県に生まれています。太一郎より9歳下になります。立教学院(立教大学の前身)を卒業して、南洋貿易関係の三光商事に入り、やがて独立して貿易商社を経営していました。取り扱う品はオルガンやピアノの部品、洋菓子の原料などで、太一郎とも取引がありました。松崎が太一郎に運転資金を借ります、太一郎は二つ返事で工面し、松崎は期限までに完済する、そんな仲でした。松崎は近代的とはいえない、社会的地位も高くない菓子製造に誘われ困惑します。約2年太一郎の懇請は続きます。やむなく松崎は懇請を受諾し、自分の会社をたたんで、森永に入ります。この時松崎は太一郎に条件をつけます。以下の通りです。
   製造は太一郎、営業は松崎
   なるべく早く株式会社にする
   人物本位の採用(縁故採用の中止)
太一郎は松崎が提示した条件を承諾します。またこの条件を終生守ります。松崎は立教在学中に受先しており、太一郎と松崎はクリスチャンコンビになりました。
 同年、有名な商標ができました。エンジェル(天使)の像です。そう言われて私は子供時代に買って食べた森永キャラメルの図柄を思い出しました。現在でもこのキャラメルを私はよく食べるので、手持ちのものの図柄を見ました。天使がTとMの字を手で抱えている商標です。Tは「太一郎」、Mは「森永」です。
 日露戦争で森永の製品は兵食として人気がでました。第一次大戦では西欧からの輸入ストップで、アジア向け輸出が盛んになります。一方この人独自の人生のように、なんだかんだと災難が降りかかります。キャラメルの原料であるグルコ-ス(ブドウ糖)に亜硫酸が入っているといわれて、新聞で書き叩かれます。官庁からは在庫品の処分を迫られます。禁止している亜硫酸を防腐剤に使ったと非難されます。防腐剤としてではなく、キャラメル製造に不可欠な極少量の亜硫酸の使用を説明して、なんとか切り抜けます。この辺の対処はすべて松崎がします。その前には資金を預けていた新橋銀行の預金封鎖で東奔西走しました。再び火事で工場が焼けます。月島の地に新工場を建設しようとしたら、土地の顔役に仁義を切らなかったとかで、建設中止になります。丁度寺島伯爵家の土地が売りに出されていたので、急遽1200坪を借り受け、そちら芝田町に新工場を作ります。この際さらに機械化を進めます。新式機械の輸入には貿易商社経験の松崎が活躍します。災難をはねのけて更に飛躍します。太一郎にとって災難は神が与える試練なのです。
 宣伝の方も積極的です。時事新報の1ペ-ジ全面に広告を出して、業界をあっと言わせます。それまで菓子業界でそんな事をした人はいません。東京美術学校(現東京芸大)出身の和田三造を雇い入れ、菓子箱や包装紙のデザインを書かせます。週一度の出勤に重役並の給料を払います。東京勧学博覧会で菓子類は農産物の待遇を与えられたのに、松崎ともども審査委員長に抗議し、結果として逆に表彰されます。製品等の防湿には特に苦労しました。大学にその対策を研究してもらいます。明治42年、東京菓子同業組合副組合長に推されます。アメリカから技師R・ゲーザ-を呼んで、製菓技術の向上を計ります。こうしてコストダウンに成功し輸出が可能になります。菓子輸出の先鞭は森永であったようです。
 金融界の大物、北浜銀行頭取の、岩下清周が太一郎の事業が有望である事に着目し、資金融通を申し込みます。利子のことで両者は喧嘩になりますが、和解し、和解するだけでなく、これを機に、会社を株式会社にします。外部の人間に乗っ取られるという一部の反対は無視します。役員は計8名、取締役社長は太一郎、取締役が3名、松崎半三郎はその内の一人、監査役が3名、相談役が岩下です。資本金30万円、すぐ後に50万円に増資、社員数165名、初年度の売り上げは62万円、純益は33500円でした。この辺の差配はすべて松崎の尽力です。株式会社になると同時に大卒の採用に踏み切ります。
 大正元年(1912年)社名を森永製菓株式会社と改めます。同3年大串という社員の発案で、それまで缶にいれていたキャラメルをボール紙の箱に入れるようにします。一箱に20個のキャラメルを入れました。ところでこの箱型キャラメルが大当たり、それまであまり売れなかったキャラメルが売れ出します。ここで宣伝広告を押しだします。森永社員は全員電車の中で、ポケットからキャラメルを出して美味そうに食べます。歩く広告塔です。松崎は新聞に
   禁煙を欲せらるる
   紳士淑女のため
   特製ポケット用
などの奇抜な広告を出します。松崎は森永製品を販売する業者を集めて森友会を形成します。しかし大正5年またまた出火して第一工場を焼失します。
 森永の最大のライヴァルである明治製菓は、大正5年設立されてた東京菓子会社が出発点です。今村太平治が発起人、若尾ショウ八、和田豊治、大橋金太郎、馬越恭平達が名を連ねます。後に明治製糖の子会社大正製菓を合併して、明治製菓株式会社になります。
 大正4年妻セキが肋膜下膿瘍で死去します。享年56歳でした。苦労をかけた妻でした。太一郎は一時もぬけの殻のようになり、アルコ-ルに溺れます。妻が夢に出てきて太一郎をたしなめ、立ち直ります。この時彼が詠んだ自戒の和歌がなかなかのものです。
   酒は毒、飲むな飲ますな笹の露
     一しずくだに、飲むな飲ますな
むしろ酒を飲みたくなるような歌ではあります。
 大正12年(1923年)関東大震災。太一郎は難民雄歳のために、菓子やミルクを提供して救援活動に活躍します。やがて大恐慌、どの会社も同じでやりくり算段、四苦八苦します。松崎の提案で半分に減資して切り抜けます。満州事変が起こります。この頃から日本の景気は回復し、森永の販売成績も良くなります。
 大正12年、太一郎の嗣子太平が明治大学を卒業して森永に入社します。同時に大卒50名を一挙に採用します。
 昭和10年、70歳で太一郎は社長の席を松崎に譲り、かねて希望していた伝道活動を始めます。昭和12年死去、享年は72歳でした。
 松崎半三郎は昭和21年まで務め、太一郎の長男太平に社長の座を譲ります。中一代置いて、4代目社長が松崎の孫の昭雄です。昭雄は太平の娘(従って太一郎の孫)の恵美子と結婚します。森永製菓は森永、松崎両家の創作と言えましょう。
 太一郎の経営の特徴は、決断の早さです。災難苦難にくよくよしません。というより少しくよくよしますが、立ち直りが早い。そして進取の気性です。製造過程の機械化、大学研究室との提携、広告宣伝の重視、大卒の大量採用などは、従来の菓子製造業のイメ-ジを一新します。頑固な職人意識も充分持っていますが、この気分の狭さも克服しています。松崎を終生信頼したように、一度信じたら信用しきります。そして彼の人生にはある種の使命感のようなものも感じさせられます。キリスト教倫理や叔父の教えもさることながら、やはりそこには潰れた名門再興という、名望家のみが持ちうる気分が潜在しているようです。
  参考文献  菓商、森永太一郎の生涯  徳間書店

菅首相への更なる問い(再掲)

2010-07-09 23:33:26 | Weblog
    菅首相への更なる問い

 菅首相、貴方は消費税率アップについて、明確な答と展望をお持ちなのですか?なにやら増額のご意向のようですが、はっきりした意見が伺えません。自民党は既に財政再建の見地から、消費税率を10%にすると明言しています。首相は自民党案を参考にするといわれるのですから、基本的にはこの方向でしょう。政権担当者としてまず、自らがはっきりと、消費税率をアップするのか否か、アップするのなら何%かを明言されるべきです。首相の態度は右顧左眄・首鼠両端の典型です。優しい言葉を用いれば、ウロウロしているということです。強大な権限を有する政権担当者がこの状態では、いかなる経済政策も効果を発揮しえません。  
 本来なら国会、特に予算委員会で、経済政策は審議されるべきです。それを放棄しあるいは、この作業から逃避したのは、菅首相ご自身ではなかったのですか?最重要な場を放棄して超党派で議論云々もありますまい。選挙に突入して野党がTVでの公開討論を要求すれば、吊るし上げだと、逃げる。政治の最高責任者はつるし上げにあっても、耐えて頑張るべき存在ではないのでしょうか?甘えにもほどがあります。討論を逃げるのは、政策遂行に自信がないからですか、それとも世論を無視して独裁政治を強行するためなのですか?吊るし上げといえば、安部内閣や麻生内閣の失点(それも時として微々たる)を捉え、朝日新聞などと共謀(?)して、世論を操作し、当時の内閣にあらん限りの悪罵をなげつけたのは、民主党自身ではなかったのですか。
 仮に財政再建を先行させて、増税路線をとるとしましょう。それで大丈夫ですか?私は増税には大反対です。それよりは国債発行を増やす方がいい。わが国の国債は、国民が国家に貸したものですから、景気浮揚まで国民に眼をつぶってもらえばいい。不況の時財政再建や増税、総じて緊縮財政を実行して効果のあったためしはありません。増税は消費を減少させます。単に数値だけの問題ではなく、気分が大切です。経済は弱気になれば切が無い。悪循環、デフレスパイラルに陥ります。こうならないだけの自信が首相にはおありなのですか?消費税のみならず、所得税も増税するという意見が一部にはあり無視できないようですが、それで宜しいのですか?均衡財政重視がいかなる結果になるかは、昭和5-6年(1930-31年)にかけて遂行された井上準之助蔵相の金解禁の結果を見ればよろしい。結果は流通貨幣量の収縮による、大不況でした。増税も同様の結果になります。
 福祉と増税をどう両立させられるのですか?福祉に金をばらまき、俗流ケインズ政策に基づいて愚考すれば、それが有効需要になり、消費が刺激されて、景気が良くなり、税収も増える、とお考えのようですが、それで大丈夫なのですか?福祉はだけで経済が立ち直ったという話は聴いたことがない。福祉を経済再生の基軸にすえるのなら、福祉を支える産業基盤特に製造業とどう連結させるか、つまり後方連関の問題がありますが、そこまで踏み込んで考えられておられるのでしょうか?要は徴収した税金の使い方だといわれるのなら、その機制の詳細と展望を伺いたいものです。
 農家への個別補償制度はどうされますか?これも歴史的愚案です。単なる選挙用の人気取り政策でしかありません。この政策の眼目は、生産費と販売価格の差額を政府が補償するという点にあります。例えば1ヘクタ-ルあたりの小麦の生産費はわが国では60万円ということですが、販売価格は6万円にしかならないと聞きます。差額54万円を政府が補償する事になります。これでは農業の自立はできません。農家から価格競争という、事業経営において最も重要なスピリットを奪い、日本の農業を補助金づけにするだけです。私は日本の農業は、資本主義的大農経営の方式をとる以外にはないと、思っています。現にこの経営方式で成功している農家は多いし、また日本の農業技術自身は極めて優秀です。個別補償制度は日本の農業を扼殺してしまいます。
 民主党は政権を取る以前に諸種の公約をし、マニフェストなるものを喧伝しました。いざ政権を取ると、何も実現できず、公約をすべて変更しました。ある程度の変更は許されるという方もおられますが、これほど極端な方向転換も珍しい。その最たるものが、消費税率アップの件です。公約では増税はしないと明言された。そして今増税やむなしのように言われる。なら変換への反省と将来への展望について、はっきりと説明されるべきです、菅首相は!しかし首相の態度は正反対でした。何事にも一切説明なし、臭いものにはふた、そしてすべては選挙に、です。国民を愚弄し、国政を壟断して、独裁政治を行わんとするものでしかありません。
 以下は、首相にではなく、世論一般に対して言いたい事です。現在不況不況と騒いでいますが、もう少し長い展望でものを見て欲しい。25年前のプラザ合意が転機です。この時点で先進国の資本と技術は過飽和状態になりました。この事態に対して、米欧は金融操作を手段とする内需拡大でもって対処し、日本は途上国への資本投下で対応しました。それで世界はなんとか生き延びてきた。現在世界的視野で見て、何が一番足らないかといえば、新基軸になる牽引力のある成長産業です。イノヴェ-ションの基本が足りないのです。だから新基軸を創造する以外に大なる発展の条件はありません。私はこの新機軸はすぐそこにあると思っています。要はやり方です。
 次に不況は日本だけではありません。世界中不景気です。むしろ日本の経済ポジションは優れています。自分たちだけだ、と思うから慌てて妙な政権を選ぶ事になります。鳩山政権から菅政権へのV字型回復は国民の軽挙さを示しています。もっとじっくりと考えるべきです。過去日本の歴史で四半世紀にわたる長期不況期はありました。日露戦争から満州事変にかけての時期、戦争と言う麻薬の効果を除けば、日本の経済は慢性的に不況でした。しかしこの間の技術革新あるいは技術の蓄積が、戦後の経済成長の基盤となったことは事実です。
 最後に、一見空想的とも思える提案をしてみましょう。保険診療における患者負担を一切ゼロにしてしまえばいいのです。もっともやり方次第ですけども。それ以上は皆様で考えて下さい。

外国人参政権と夫婦別姓

2010-07-09 03:13:34 | Weblog
      外国人参政権と夫婦別姓

 外国人参政権と夫婦別姓という、二つの問題は一見別種の事項のように見えますが、両問題は密接な関係にあります。前者に関してはすでに多くの識者から批判の声が上がっているので、ここでこの問題について詳述する事は避けます。問題の要点は、国家の一員としてのアイデンティティ-が希薄なあるいはほとんどない個人に、国家の運命を託する権利を与えるべきではない、ということです。希薄なアイデンティティ-とは換言すれば国家への忠誠心の欠如です。後者つまり夫婦別姓の問題に関してはすでに論じました。夫婦別姓にすれば、親子関係の絆は弛緩し、近親相姦的関係が現出する、そうなりやすくなる、というのが私の主張です。今回は外国人参政権と夫婦別姓という二つの問題を、個々ばらばらにではなく、あい関連するものとして考察してみましょう。
 夫婦別姓になれば、夫婦の関係(気楽な友人とでもいうべき無責任な関係になります)、従って父母子という関係は希薄になり、親子関係は崩れ、社会の基本である秩序意識が崩壊する、そういう方向に社会は向かう、というのが私の主旨でした。詳しくはこの問題に関する私のブロッグを参照して下さい。親子関係という他に変えられない濃密な関係のもとでのみ、他者への思いやりと、先達の経験と権威を納得して受け入れるという気持、長幼の序の意識が涵養されます。この気持ちが忠誠心の基礎です。親や先達先輩を尊敬する気持ちがなくなれば、その最上位に位置する国家への忠誠心が維持できるはずがありません。
 親子関係の弛緩は私有財産の否定に繋がるとも、私は言いました。私有財産とは、自分のためのみならず、子供や自分の血を分けた子々孫々のために、自己の労働の成果を残そうとするところに生じる意識です。こうして国富民富は蓄積され増大します。私有財産を保障し管理する機構が国家です。同時に私有財産は国家が濫りに個人に干渉しないようにする防波堤でもあります。つまり私有財産は国家と個人の間にあって、両者の関係を安定させる巧妙で重要な媒体です。親子関係が希薄になれば、私有財産への意識も崩れます。このような状況になりますと、どんな政体が出現してもおかしくはありません。
 親子関係の弛緩は国家あるいはより広く共同体への帰属意識の崩壊に繋がります。それだけではありません。親子関係の希薄化は信仰心をも解体します。信仰の信仰たる由縁は、その根底で近親相姦を禁止する事にあります。親子関係の崩壊、近親相姦の出現、そして信仰心の解体、というプロセスは自働的に進行します。信仰心の解体は国家への帰属意識の消滅を意味します。
 夫婦別姓が実現すれば、国家への忠誠心はなくなり、私有財産の維持管理という国家統治の原理は失われ、信仰心は崩壊します。
逆も言えます。国家への忠誠心がなくなれば、親子関係という最大の感情の絆も失われます。国家の統制管理下にあってのみ、共同体への帰属意識つまり共同体への忠誠心は涵養されます。この事は親子関係つまり家というシステムにも適用されます。国家と家とは相互に補完しあう最も重要な共同体です。
国家の統治力が薄れると、私有財産の観念もあやふやになります。私有財産を保障する機構がないのですから。私有財産の観念が薄らぐと、人間関係の最も安定した媒体である利害計算の機制が消滅します。人間相互の関係は複雑に入りこみ、錯綜し、歪み、極めて不安定になります。親子関係に関しても同様です。親が親として子に対処する事はできません。近親相姦が出現します。
国家という共同体への帰属意識の弛緩は、信仰心も解体します。信仰は個々人のみで成立するものではありません。あくまでなんらかの共同体を介してのみ存立します。信仰とは最大公約数的に言って、共同体維持のための集合意識です。そして信仰心を維持させる大元が国家であります。信仰心の崩壊が近親相姦禁忌を弛緩させることは容易に想像できるでしょう。信仰心はほとんど大多数の人が、意識無意識に持っています。信仰心は異界彼岸の問題である以上に俗世此岸の問題でもあります。
 以上、夫婦別姓と外国人参政権の問題の関連を簡潔に考察しました。理解いただければ幸いです。

選択的夫婦別姓に関しての意見(再掲)

2010-07-08 03:16:17 | Weblog
      選択的夫婦別姓に対しての意見

 民主党政権は選択的夫婦別姓を法制度として導入しようと画策しています。経済無策、外交支離滅裂、政治倫理壊滅、とでも言うべき状況で、せめて夫婦別姓や外国人参政権付与で、開明的であるというポ-ズを示したいのだろう、と私は想像しています。外国人参政権の問題は今回さておき、夫婦別姓に関して私の意見を以下に開陳いたします。
そもそも何で夫婦別姓なのかが、理解できません。特に差し迫った障害が、現制度にあるとは思えません。一部の人達による、為にする行為、ある種の意図を持った工作、体制破壊遂行の一環ではないかと憶測してしまいます。ですから夫婦別姓という事そのものもともかく、その意図が危険です。夫婦別姓はあらゆる意味で将来の禍根になる可能性を、それも多大に持っています。
 生物学的に言えば、子供は父母のDNAを半分づつ与えられて、この世に生を受けます。子供は父母一方のどちらのものでもありません。生誕時から子供は父母共同の産物です。常に遺伝子を多用な形態に保つ事が、種族保存のための必須条件です。これが第一点。
 以上の生物学的前提を受けて、父母による養育が始まります。養育過程を極めて簡潔に言えば、それは愛着、掟、分離の三つの段階を踏まえて完成されます。愛着とは、親による保護、接触(スキンシップ)、生存に必要な条件の付与つまり満足、安全感などから成り立ちます。掟とは規範です。社会に出るのにしてはいけない事・するべき事の認識です。分離とは、親からの心身双方における分離、達成感の獲得を通しての自立を意味します。そして愛着・掟・分離という過程の遂行は、父母協同で行わなければ、充分な成果は挙げられません。父母はこの作業において、協業しかつ分業します。協業と分業は相補的関係にあります。愛着と掟は成長する子供にとっては対立する要因になります。ですからこの作業は父母により分業されます。一般的には愛着は母親が、掟は父親の仕事になります。子供は母親の愛情にくるまれ保護され、やがて父親の背中を見て社会とは何かを認知します。愛着と掟という相反する過程を、父母のどちらかが単独で遂行する事はできません。それは極めて危険な企てです。
 養育の目的は人格の完成にあります。安定した人格とは、同一性と連続性の意識が保てる事です。もう少し詳しく言いますと、個人は、自らが持つ属性や行為が全体として同一な「われ」にあり、またこの「われ」が時間の中で連続したものであるという自覚を持った時、自己を安定し完結した存在として認知できます。平たく言えば、自分のした事やその傾向の一部が自己のものでないとか、あるいは以前の自己が現在のそれとは別のものだと、いう認識に陥れば、人格は崩壊し始めるという事です。同一性と連続性の意識が崩壊した極が、統合失調症という病気です。そして同一性と連続性の意識を前提としてのみ、自己の人格の独立性が獲得できます。
 養育の目的は、人格の完成の基盤である、この同一性と連続性の意識を子供に与える事にあります。この作業は父母が緊密な連携下にある事によってのみ可能です。父母の緊密な協同作業を見聞し、体験してのみ、子供は自分がこの協同作業の中にいる、と思うことが可能です。まず父母が緊密な共同作業を提示している、作業の目的が自分であり、自分もその作業に参画している、という子供の自覚が養育の基本的条件です。この過程を経てのみ、人間は、自己の独立性の意識を獲得できます。もちろんこれは理想的な範疇であります。しかし基本はそういうことです。精神疾患を心因的に見る限り、その前提は以上の要因の欠如ないし障害です。
父母が子供に影響を最大限に発揮する期間、子供の精神あるいは脳神経の発達は極めて盛んです。神経結合(シナップス結合)の数から言えば乳幼児期におけるその数は成人の比ではありません。
 仮に子供が、父母をばらばらな存在、協同して自分に対しえない存在と感じたとき、どんな事が起こるでしょうか?簡単に言えば、パパとママは別々、だからボクも別々、となります。別々とはばらばらという事です。これを平等と言えばそうとも言えますが、極めて危険な悪平等です。かくなりますと親子の位置が揺らいできます。時として子は親に過大な要求をするかと思えば、逆に親の責任を自ら負い、親の親役を引き受ける事になります。そして一番の問題は、親子の位置が不安定になる事によって、親子間のけじめ、もう少し端的に言いますと、親子間に設定されている近親相姦禁忌(incest-tabu)が揺らいでくる事です。近親相姦は簡単には発見できませんが、現在性的虐待と言われている行為は無視できないほどあります。また近親相姦行為の代理現象として問題なのが、低年齢恋愛と恋愛依存症です。近親相姦禁忌の弛緩解体は社会統合の根幹を揺るがす問題です。夫婦はばらばらであってはいけません。夫婦別姓はこのばらばらな関係を促進し意図するものです。
 そもそも婚姻とは如何なる現象でしょうか?婚姻あるいは配偶者選択は少なくとも三つの要因から成り立ちます。まず社会維持と種族保存の義務、次に利害計算、そして愛情(なるもの)です。利害計算は義務感から来る結果です。愛情は義務感を補足します。もし第一項である義務感を欠いたら、婚姻はどういう事になるでしょうか?配偶者の適否を冷静客観的に考察する必要はなくなります。残るのは愛情だけです。
 愛情とは何でしょうか?愛情とは人が簡単に考えているほど単純なものではありません。
複雑で不安定限りないものです。簡潔に言えば愛情は、願望の投影、外傷の治癒、身体による精神の代償置換、という三つの、かなりな程度病理的要因から成り立ちます。願望の投影とは、相手が自己の願望を受け入れ、満たしてくれる、という期待です。外傷の治癒とは、自分が過去に受けた何らかの外傷を相手が癒してくれる、という期待です。この場合相手の外傷を自分が治してやる事により自分を癒すという、逆方向の力も働きます。ここで恋愛当事者は相互に自己を被害者・幼弱者に擬しています。恋愛において期待は容易に確信に変ります。身体による置換とは、自己が始めて経験した母親の体(あくまで体です)を無上のものとする事です。結果は幻想への埋没と理性の喪失です。
 このように愛情なるものには、極めて多大な不安定要因、病理的要素が含まれています。そしてなによりも肝心な事は、恋愛関係においては当事者双方に、離れるつまり裏切る権利があるという事です。もし一度恋愛したら、決して離れてはいけないとなると、恋愛とは地獄であり、無期懲役に等しくなります。愛情とはこのように不安定なものです。もし結婚に義務感が欠如すれば、夫婦関係は無政府状態、修羅場裏になるでしょう。私は職業柄人様の恋愛行為を観察させてもらう機会が多々あります。私の臨床経験から推す限り、恋愛感情はせいぜいもって2・3年です。その後は結婚するか、別れるかです。後者の方が圧倒的に多いのです。
 教育は誰がするのか、という問題もあります。社会か父母家族か?どちらであるともいえましょう。しかし教育は養育の延長であり、前者は後者を前提としてのみ可能です。既に父母と子供の三位一体を論じた時、ここで自己の同一性と連続性の意識が作られ、それは同時に自己の自立の前提でもあると、申しました。またそれは父母と子供が安定した共同体を形成しているという意味で、帰属感あるいは全体性の意識を育てる事でもあります。この帰属感と全体性の意識を前提としてのみ、公教育は可能です。学級崩壊など現在教師を悩ませている問題の根源はここにあります。だから社会は父母を代理できません。安易に教育を社会に委譲する事は教育の放棄に繋がります。教育の延長線上に労働があります。最初の前提を欠けば労働生産性も低下するでしょう。
 よく子供は保育所で育てればいい、というような粗暴な論旨を展開する人がいます。保母や教師は、両親を代理できるでしょうか?できません。特に養育上決定的な意義を持つ、3歳児までは父母の存在が不可欠です。母親は生理的にも心理的にも子供と繋がっています。乳児期は胎児期の延長です。乳児期を過ぎれば父親の役割は徐々に増大します。血縁によって結ばれた自分の子供という意識があるからこそ、わが子にその全力を注げます。自分の子と他人の子に差別無く接しられる人がいるでしょうか?そして発達の最初の段階である乳幼児期は、特に関心と配慮を多量に注がなければならない時なのです。この事を成しうるのは父母のみです。
 再び問います。教育は誰がするのか、と。それは父母であり、教師であり、保母であり、隣人でありそして社会です。しかし教育の原点たる養育は父母の権利でありまた避けられない義務でもあります。これを欠いてはあらゆる教育は不可能です。仮に養育と教育をすべて社会に任せれば、他者が自己に決定的な影響を及ぼしうる時期、子供は極めて希薄な人間関係に置かれます。それは重大な発達の障害を結果するでしょう。このような状況はある意味で自由で平等かも知れません。ここで共産主義社会を思い起こして下さい。彼らは私有財産を否定すれば、すべては良くなるといいました。結果は経済の停滞のみならず、倫理の破壊でした。財貨という人間の実存の外部にあるものに関してもこの有様です。まして養育まで完全社会(主義)化すればその影響は、私有財産否定の比ではないでしょう。
 夫婦別姓はその事自体もともかく、そこに潜むある種の意図も危険です。この意図を完遂すれば、結果は倫理の破壊になります。
私が経験した数例の夫婦別姓の例を回顧して見ましょう。多くは自立を目指すと言う女性側の積極的な意志と、それに対応する物分りのいい、開明的で進歩的であろうとする男性側の気取りから、別姓になりました。結果はすべて対立と喧嘩、悪罵の投げ合いから離婚に至っています。恋愛依存症に関して言えば、しがみついて(cling 愛着の病理的形態)から、依存しつつ支配し、恋愛対象を頻繁に取替え、暴力と身体毀損を繰り返す状態が一般的です。またここ30年来境界線人格障害と名づけられる疾病が激増しています。自覚的症状よりも、他者に対する暴力も含む迷惑行為を主とする疾患です。厳密な原因究明は難しいのですが、自分に甘え他者の寛大さにつけこむ態度は彼らに著明です。
 最後に。男性は婚姻に際して、共同体維持という義務感があるから、家庭にだから配偶者に忠実になりえます。これは婚姻外の恋愛過程においても同様です。夫婦がばらばらでいいのなら、話は違ってきます。忠実な番犬をわざわざ野に放って餓狼にする必要がどこにあるのでしょうか?夫婦別姓はその序曲です。そして人類滅亡の葬送曲になります。

菅首相への更なる問い

2010-07-05 03:59:15 | Weblog
    菅首相への更なる問い

 菅首相、貴方は消費税率アップについて、明確な答と展望をお持ちなのですか?なにやら増額のご意向のようですが、はっきりした意見が伺えません。自民党は既に財政再建の見地から、消費税率を10%にすると明言しています。首相は自民党案を参考にするといわれるのですから、基本的にはこの方向でしょう。政権担当者としてまず、自らがはっきりと、消費税率をアップするのか否か、アップするのなら何%かを明言されるべきです。首相の態度は右顧左眄・首鼠両端の典型です。優しい言葉を用いれば、ウロウロしているということです。強大な権限を有する政権担当者がこの状態では、いかなる経済政策も効果を発揮しえません。  
 本来なら国会、特に予算委員会で、経済政策は審議されるべきです。それを放棄しあるいは、この作業から逃避したのは、菅首相ご自身ではなかったのですか?最重要な場を放棄して超党派で議論云々もありますまい。選挙に突入して野党がTVでの公開討論を要求すれば、吊るし上げだと、逃げる。政治の最高責任者はつるし上げにあっても、耐えて頑張るべき存在ではないのでしょうか?甘えにもほどがあります。討論を逃げるのは、政策遂行に自信がないからですか、それとも世論を無視して独裁政治を強行するためなのですか?吊るし上げといえば、安部内閣や麻生内閣の失点(それも時として微々たる)を捉え、朝日新聞などと共謀(?)して、世論を操作し、当時の内閣にあらん限りの悪罵をなげつけたのは、民主党自身ではなかったのですか。
 仮に財政再建を先行させて、増税路線をとるとしましょう。それで大丈夫ですか?私は増税には大反対です。それよりは国債発行を増やす方がいい。わが国の国債は、国民が国家に貸したものですから、景気浮揚まで国民に眼をつぶってもらえばいい。不況の時財政再建や増税、総じて緊縮財政を実行して効果のあったためしはありません。増税は消費を減少させます。単に数値だけの問題ではなく、気分が大切です。経済は弱気になれば切が無い。悪循環、デフレスパイラルに陥ります。こうならないだけの自信が首相にはおありなのですか?消費税のみならず、所得税も増税するという意見が一部にはあり無視できないようですが、それで宜しいのですか?均衡財政重視がいかなる結果になるかは、昭和5-6年(1930-31年)にかけて遂行された井上準之助蔵相の金解禁の結果を見ればよろしい。結果は流通貨幣量の収縮による、大不況でした。増税も同様の結果になります。
 福祉と増税をどう両立させられるのですか?福祉に金をばらまき、俗流ケインズ政策に基づいて愚考すれば、それが有効需要になり、消費が刺激されて、景気が良くなり、税収も増える、とお考えのようですが、それで大丈夫なのですか?福祉はだけで経済が立ち直ったという話は聴いたことがない。福祉を経済再生の基軸にすえるのなら、福祉を支える産業基盤特に製造業とどう連結させるか、つまり後方連関の問題がありますが、そこまで踏み込んで考えられておられるのでしょうか?要は徴収した税金の使い方だといわれるのなら、その機制の詳細と展望を伺いたいものです。
 農家への個別補償制度はどうされますか?これも歴史的愚案です。単なる選挙用の人気取り政策でしかありません。この政策の眼目は、生産費と販売価格の差額を政府が補償するという点にあります。例えば1ヘクタ-ルあたりの小麦の生産費はわが国では60万円ということですが、販売価格は6万円にしかならないと聞きます。差額54万円を政府が補償する事になります。これでは農業の自立はできません。農家から価格競争という、事業経営において最も重要なスピリットを奪い、日本の農業を補助金づけにするだけです。私は日本の農業は、資本主義的大農経営の方式をとる以外にはないと、思っています。現にこの経営方式で成功している農家は多いし、また日本の農業技術自身は極めて優秀です。個別補償制度は日本の農業を扼殺してしまいます。
 民主党は政権を取る以前に諸種の公約をし、マニフェストなるものを喧伝しました。いざ政権を取ると、何も実現できず、公約をすべて変更しました。ある程度の変更は許されるという方もおられますが、これほど極端な方向転換も珍しい。その最たるものが、消費税率アップの件です。公約では増税はしないと明言された。そして今増税やむなしのように言われる。なら変換への反省と将来への展望について、はっきりと説明されるべきです、菅首相は!しかし首相の態度は正反対でした。何事にも一切説明なし、臭いものにはふた、そしてすべては選挙に、です。国民を愚弄し、国政を壟断して、独裁政治を行わんとするものでしかありません。
 以下は、首相にではなく、世論一般に対して言いたい事です。現在不況不況と騒いでいますが、もう少し長い展望でものを見て欲しい。25年前のプラザ合意が転機です。この時点で先進国の資本と技術は過飽和状態になりました。この事態に対して、米欧は金融操作を手段とする内需拡大でもって対処し、日本は途上国への資本投下で対応しました。それで世界はなんとか生き延びてきた。現在世界的視野で見て、何が一番足らないかといえば、新基軸になる牽引力のある成長産業です。イノヴェ-ションの基本が足りないのです。だから新基軸を創造する以外に大なる発展の条件はありません。私はこの新機軸はすぐそこにあると思っています。要はやり方です。
 次に不況は日本だけではありません。世界中不景気です。むしろ日本の経済ポジションは優れています。自分たちだけだ、と思うから慌てて妙な政権を選ぶ事になります。鳩山政権から菅政権へのV字型回復は国民の軽挙さを示しています。もっとじっくりと考えるべきです。過去日本の歴史で四半世紀にわたる長期不況期はありました。日露戦争から満州事変にかけての時期、戦争と言う麻薬の効果を除けば、日本の経済は慢性的に不況でした。しかしこの間の技術革新あるいは技術の蓄積が、戦後の経済成長の基盤となったことは事実です。
 最後に、一見空想的とも思える提案をしてみましょう。保険診療における患者負担を一切ゼロにしてしまえばいいのです。もっともやり方次第ですけども。それ以上は皆様で考えて下さい。