経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、稲山嘉寛

2010-07-24 03:36:01 | Weblog
    稲山嘉寛

 鉄は国家なり、という言葉があります。西暦前1500年頃に栄えたヒッタイト帝国において鉄器が始めて使用されて以来、歴史を通じて鉄は武器、農機具、工具の原料として、国家経営には欠かせない必需品でした。中国では前漢の時代から塩鉄司を置いて、その生産と販売を独占しました。産業革命後は鉄の重要度は更にまします。紡績機自体、鉄がないと作れません。蒸気機関車を走らすにも鉄は要ります。高速運転と重量物運搬に耐えるだけの性能の良い鉄鋼が必要になります。こうして「鉄は産業の米」になりました。
 維新以後の鉄産業の発展は日本の資本主義興隆の歴史です。釜石に鉄鉱石が発見され、同地に鉄工所が作られます。官営は不能率で廃業になります。数年後田中長兵衛が経営を再開し、一定の成功を収めます。もう一つ重要なのは大阪砲兵工廠と横須賀海軍造兵廠です。軍需品作成が任務ですから、軍の管理下に置かれました。国策として造られた軍需工場ですから価格競争はありません。採算を度外視した新技術の輸入も可能でした。明治29年(1896年)官営八幡製鉄所が設置されます。野呂景義や大島道太郎の努力で明治末年頃にやっとなんとか銑鋼一貫生産までこぎつけます。大正初年の時点で、八幡、富士、日本鋼管、川鉄(ただしそのころは造船所の一部)、住友金属、神戸製鋼の大手六社が出揃います。
 稲山嘉寛は明治36年(1904年)に東京で次男として生まれました。父親は稲山銀行の頭取です。典型的な坊ちゃんとして育てられます。優しくて、気のいい、協調的な人柄でした。嘉寛の後年の性格は、無頓着、楽天主義、遊び好き(女好き)、人の和を大切にする寛容な現実主義者というところですが、この傾向は幼少期から著明だったようです。彼は後に経営者になった時、我慢の哲学を説きます。我を張ることなく、協調しよう、と言うのです。更に、他人が幸福にならなければ自分も幸福にはなれないと、言います。この哲学の延長上に、労働の大切さの強調があります。彼の人生哲学の圧巻は、幸不幸は欲望の関数、欲望が小さければそれだけ幸福は大きくなる、です。老荘思想に似ています。この考えは後年のカルテル重視に繋がります。嘉寛は必ずしも努力家ではありません。彼の人生の前半は落第の連続です。中学は一中を始めとして希望する4つはすべて不合格でした。錦城中学に入りますが、一中への未練を断ち切れず、再挑戦してまた落第します。高校は水戸高校を受けてすべり、仙台の第二高校の理科甲類に入ります。東京を避けたのは、自分が女の誘惑に弱い事を恐れたからとも言われます。理科を選択して東大の工学部を目指しますが、製図が読めず、つまり空間的認知力が弱く、文系に志望を切り替えます。法学部は落ち、当時無試験だった経済学部に入学します。卒業時は不況でした。10以上の会社や官庁を受け不合格になります。商工省を受験し、高等文官試験に合格する、という条件で採用されます。採用決定までの半年、彼は猛勉強をしました。こうして商工省の外局である官営八幡製鉄所に入社しました。
 昭和3年(1928年)八幡製鉄所に入り、任地の福岡県八幡に赴きます。あまり仕事はなかったようです。ここで恋愛事件を起こします。製鉄所幹部専用の集会所の女性にほれます。それ以上どうのこうのという事もなかったのでしょうが、当時としては評判になりました。それが祟ったのか、東京に転勤になります。製鉄所はあくまで八幡が本社で、東京は単なる販売のための営業所に過ぎず、明らかな左遷でした。しかし稲山嘉寛という人間は精細な事務作業は苦手ですが、販売という人間関係を重視せざるを得ない、分野は得意でした。得意先とのもめごとなどを調整します。もめ事仲介は気晴らしになったそうです。彼は自分の立場を率直に認めます。ですから他人の立場も解りやすくなります。この時期欧州を視察して帰国した販売課長の鈴木武志からカルテルの存在を知らされます。カルテル結成による販売の調整は彼の生涯の方針になります。この間柳橋の芸者ツルと同棲して子供をもうけています。父親が嘉寛の女好きを心配し、素人の女性を避けさせ、玄人の女性との遊びを勧めます。その延長上にこういう事が起こりました。父親はやむをえないということで黙認、母親と姉妹は猛反対でした。後、夫婦の仲のいい事を知った彼らは、嘉寛の結婚を正式に認めます。
 昭和9年(1934年)戦時体制移行の一環として、官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、富士製鋼、九州製鋼が合併し、日本製鉄株式会社が結成されます。八幡製鉄所は以後民間企業になります。この時川、住友、神戸製鋼、日本鋼管を始めとする民間会社は合併から逃れています。嘉寛は合併と同時に販売第四課長になります。戦時中は鉄鋼統制会が作られます。まあ国家主導のカルテルが作られたようなものです。ちなみに昭和18年の鉄鋼総生産高は765万トン、それが終戦時には56万トンになっています。サイパン喪失により、米軍機の本土爆撃が可能になったからです。製鉄業はほぼ壊滅しました。
 終戦。日鉄は八幡と富士に二分され、嘉寛は八幡製鉄の営業部長になります。昭和25年、常務取締役営業部長に就任します。46歳でした。彼の専門は販売です。また彼の販売方針は、企業間の調整でした。鉄は産業の米、だから安定価格を維持する事が肝要、と言います。そのためには鉄鋼業全体で需要に見合った供給をしなければならないと、言います。ですからカルテルを当然視し、独占禁止法は鉄鋼業にとっては迷惑な法律だと公言しました。過当競争による値下げは、製造技術の水準を低下させる、と主張します。値下げは製品を作る労働への侮辱だとも言いました。一理はあります。独占あるいは寡占が必ずしも悪とはいえません。経済学でよく使う需給の無差別曲線で考えれば、独占は不能率なのですが、この理論が正しいとも限りません。現に主要な製造業はその殆んどが寡占状態です。寡占でない業種の典型が農業と飲食業です。鉄は産業の基礎だから、安定供給しなければならず、またその方が技術水準を保てるのかもしれません。しかし彼のいう事には、もう一つ納得できないものもあります。そういう識者も多く、嘉寛はミスタ-カルテルという仇名を頂戴しました。こういう方針に基づいて、嘉寛は公開販売制を実施しようとします。各社が販売額を公開するのですから、生産調整です。彼は生産中心主義者でした。作った物はすべて売れるはず、売れるようにすれば(生産を調整すれば)いい、となります。みんなで必要な物を作ってそれを消費すればいい、とも言います。そのモデルが彼が訪問した当時の(1960年前後)の中国でした。生産調整をするためには、企業の活動に社会か国家が関与せざるをえない、資本は社会化すべきだ、となります。先に彼の考えは老荘思想に近いと言いました。老荘思想は原始共産主義を前提にしています。昭和37年(1962年)に社長になった嘉寛が自らの経営方針の具現として行ったの事が、八幡と富士の合併です。昭和45年(1970年)両社は合併します。なお彼は以上のような考えですから、1960年代後半から出現してくるアメリカとの経済摩擦には敏感でした。対米自主規制を提唱し、トヨタやソニ-の憤激を買います。その時彼が言った言葉が「なんと強欲な人達」です。
 八幡と富士の合併の理由は沢山あります。まず資本自由化への対応が必要でした。日本も先進工業国になったのだから、欧米も今までのように甘い顔はしてくれません。いつまでも関税障壁に護ってもらうことは不可能です。大型合併して、国際競争力をつけねばなりません。そのために余剰設備(重複する)を一部廃棄し、生産工程を合理化してコストを減らします。そして軽量化した分のメリットを技術開発に向けます。特に自主技術の開発、製品の高度化、多角化、そして新規用途の開発が必要です。当時の技術の多くは欧米からの輸入であり、嘉寛はその事に不安を抱いていました。また国際金融体制の動揺、つまりドルにまつわる不安にどう対処するかという問題もあります。以上のような問題意識に導かれて、嘉寛は企業を大規模化し、無駄を省いて、技術水準を上げようとしました。一理はあります。それは当時から現在に至るアメリカの鉄鋼産業(USスティ-ル等)の運命を見れば解ります。
合併には野党も学会の大勢も、特に公取委が反対でした。公取委には政界を通じて工作します。こうして昭和45年(1970年)に両社は合併し新日本製鉄株式会社ができました。代表取締役会長には旧富士の永野重雄、代表取締役社長には嘉寛が就任します。数年後人事抗争があり、会長に嘉寛、社長には平井富三郎となりました。
確かに嘉寛はミスタ-カルテルです。原価プラス適正利潤を強調します。生産者がこの価格で売れば、すべて売れるはず、と言います。作っただけ消費すればいい、とも主張します。逆に言えば、売れるよう・消費できるように生産量を調整せよ、です。通常この種の調整は市場自身が行うとされますが、ミスタ-カルテルはそれを企業連合による意識的判断で為そうとします。また彼は、安ければ売れない、とも言います。この意味は解りかねるのですが、私なりに忖度すれば、安ければ製品の質が落ちるというのでしょうか?彼が新日鉄の経営から身を引いた、1980年前後から、日本の製鉄業はNIESなどに追い上げられます。ここ30年間で新日鉄は約約6万名の人員整理をしました。そうして製品の高度化を徹底して国際競争場裏で生き残ります。
 稲山嘉寛の財界人としての特徴は日中国交に尽力した事です。昭和33年(1958年)まだ八幡製鉄常務であった嘉寛は日本鉄鋼代表団を作り、中国に行き、周恩来首相と会談します。日本の鉄鋼と中国の鉄鋼石・石炭をやりとりする貿易のためです。日本の正統派財界人で戦後中国に赴いたのは嘉寛が最初です。この企てには日本政府(岸内閣)も在日米大使館も反対しました。中国との貿易はその後も二転三転しますが、嘉寛は常に積極的でした。昭和47年(1972年)武漢製鉄所建設の交渉が成立します。中国側の要請はホット・ストリップ・ミルとシリコン薄板製造のプラント設置です。二つのプラントの設備供給、技術資料の提供、操業のノウハウと特許使用権の供与、プラントの据付、中国人実習生の受け入れ、日本人技術者の派遣など、総じて950億円の商談が成立します。もっともこの商談は後に、中国側の外貨不足で支払ができなくなり、日本は3000万ドルの借款をして援助しています。また中国には外貨が不足していたので、石油と鉄鋼のバ-タ-取引を中国側は要請してきますが、嘉寛はそれに応じています。両国間の石油と鉄鋼の交易の仲介をしているのですから、嘉寛抜きには、日中国交は成り立たなくなった観があります。
 1968年経団連副会長、1973年新日鉄会長、1980年経団連会長、1986年財政審議会会長を務めます。1987年死去、享年83歳でした。

 参考文献  稲山嘉寛  国際商業出版

(付)
新日本製鉄株式会社の
資本金   4195億円
売上    3兆4877億円(連結)
営業利益  3200億円
純利益   -115億円
純資産   2兆3356億円
総資産   5兆23億円
従業員   51554人 

1 コメント

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玉鋼(和鉄)について (マルテンサイト千年)
2024-03-08 07:19:52
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムにんげんの考えることを模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。どこか日本らしさのある多神教的でなつかしさのあるなにかによって。

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