経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人の為の政治思想史(24)  文化としての天皇

2014-10-31 01:59:04 | Weblog
(24)文化としての天皇
 鎌倉幕府成立に伴い朝廷は政治の実権を失います。以後700年武家政権が続きます。その間天皇はいかなる存在であったのでしょうか。答えは儀礼の執行者、そして文化の守護者、いや文化そのものです。摂関政治の成立により、天皇は実際の政治より、政治の演出である儀礼の執行者に役割を求めるようになります。併行して年中行事の慣例が平安時代中期、摂関政治の全盛期に確立します。儀礼の項目約400、代表的な年中行事は正月の四方拝、朝賀、白馬節会、3月の曲水宴(雛祭り)、彼岸、5月の端午の節句、7月の七夕、盂蘭盆会、9月の重陽宴、11月の新嘗祭、豊明節会、12月の追ナなどです。年中行事は宮中のみならず公卿の家でも行なわれ民間にも広がりました。年中行事は自然の循環とそれに伴う生活を祝うことです。主催者は天皇です。年中行事の執行は勅撰和歌集の編纂と意図を同じくし、儀式を通じて天皇が自然の進行に働きかけ統御する試みです。
 鎌倉時代初期に藤原定家がこれらの行事に包まれる美意識をまとめます。彼は王朝の美意識を和歌と源氏物語に集約しました。以後古今伝授という慣習が作られます。和歌作成と源氏物語の理解が伝統的美意識の基準になります。古今伝授とはこの美意識を師匠から弟子へ秘伝として伝える習慣です。室町戦国期の公卿達は古今伝授やそれに伴う文化的行為の指南で生活しました。
 江戸時代になります。天皇公卿は幕府から10万石のみを給付されほぼ完全に政治行為から遠ざけられます。公卿諸法度が作られ、天皇と公卿は伝統的な学問文化の保持に専心するように、幕府から指導されます。公卿はそれぞれの家により専修する学問文化を分担します。公卿は幕末の時点で約150家あり、摂関、清華、大臣、羽林、名家の5段階に分かれます。摂関家以外の諸家が学問文化を担当します。神祇、和歌、書道、神楽、蹴鞠、楽、明経、装束、陰陽などです。明経は儒学の五経の講義、陰陽は占い、神祇は神祭の司会、楽は琴、和琴、琵琶、笛、笙、篳篥など管弦の演奏です。和歌は二条、冷泉、飛鳥井、三条西の四家が、書道は清水谷、持明院の二家が担当しました。
 19世紀初期に刊行された「諸道家元鑑」によれば家元制度を持つ諸芸能は31あります。宗教関係と現在では家元制度でなくなった囲碁将棋を除くと26になります。内17が公卿の家職です。儒道9家、陰陽道2家、亀卜1家、衣紋2家、和歌3家、笙4家、篳篥3家、笛3家、琵琶4家、和琴1家、神楽3家、左舞1家、右舞2家、書道4家、蹴鞠1家、です。舞は雅楽のことです。公卿は15の分野の文化芸能の家元でした。残る九つは能楽、武家作法、連歌、俳諧、茶道、画工などです。連歌俳諧の出発点は和歌ですし、武家作法も朝廷の儀礼が本家です。画工も本来は朝廷専属でした。能楽の起源の一つは雅楽です。能の主人公はなんらかの意味で天地の神々の変体です。能楽の大成者である世阿弥は「風姿花伝」で、能楽は天岩戸から天照大御神を誘い出したアメノウズメの踊りが起源であると、その権威を朝廷の祭儀に求めます。
 このように見てくると江戸時代の文化芸能遊戯などの大部分、特に様式化した古典的芸能は朝廷公卿にその根幹を握られていたことになります。寺院起源の祭事芸能を加えるとその数はもっと増えます。朝廷は民衆文化の大部分に関与していました。
 朝廷と民衆は幕府の考えていたのとは違う次元で結びついていました。即位における大嘗祭、様式化された政治行為、文化技芸の掌握、そして年中行事を通じて天皇は別の形の君主、それも決して形式的とはいえない君主でした。江戸時代の民衆は遊び好きです。識字率は高く、みな学問遊芸を学び、人生を楽しみました。
 文化は別種の次元の政治です。下は民衆の享楽から、上は芸術学問神事に到る体系を通して文化は権威の存在を予示します。納得できる権威の背景基盤が文化です。我々は文化を共有することにより共同体の一員であることを納得します。この納得が権威の背景です。権威がなければ権力は単なる暴力に過ぎません。江戸時代を通じて天皇は文化の君主でした。付言すれば将軍の正室は摂関家の子女と決まっており、内親王が将軍家に降嫁することは原則としてありません。14代家茂への和宮降嫁が唯一の例外ですが、この時幕府の命脈は尽きようとしていました。
 江戸時代幕府は朝廷を監視はしましたが尊重もしました。五代綱吉の時、日光参詣は中止され幕府の伊勢神宮参拝が始まります。幼童将軍七代家継の正室には霊元天皇の皇女八十宮内親王の降嫁が企てられました。新井白石の計らいで東山天皇の皇子直仁親王を祖とする閑院宮家が建てられました。現在の皇室は閑院宮家のご子孫です。八代吉宗は財政難の中、桜町天皇即位の大嘗祭施行に協力しました。それまで大嘗祭は費用がかかるので中止されていました。伊勢神宮以下、賀茂、松尾、平野、石清水、春日、宇佐八幡など朝廷ゆかりの神社への奉幣使が復活されます。民間でも本居宣長、藤田幽谷、中井竹山などは、朝廷を正式政府とする意見を公然と唱えます。松平定信は大政委任論、幕府の権力は朝廷から委任されたものだと言い出します。外国船が日本周辺で出没すると朝廷は幕府に、国防をしっかり、と意見を述べ干渉します。江戸時代民衆は盛んに伊勢参りをしました。
 幕府は朝廷を尊崇しつつ、監視は厳しく天皇が皇居の外に出ることを事実上禁止しました。要するに天皇という存在は幕府にとっても誰にとっても触れてはならない禁忌でした。幕府は天皇の文化的政治的価値を充分認識していました。
天皇は江戸時代を通じて儀礼の執行者であり文化の守護者でした。天皇朝廷は深く民衆文化に関与しました。文化を共有する事においてのみ円滑な統治は可能です。天皇は文化そのものであり統治権力の背景であり深層です。幕府はこの事をよく理解しておりだから天皇の存在を禁忌として民衆の眼から遠ざけました。安定した文化の保持は統治を柔らかく平等なものにします。

日本人の為の政治思想史(23) 本居宣長

2014-10-26 13:47:39 | Weblog
(23)本居宣長
本居宣長、1730年伊勢松阪に出生、生家は木綿問屋。近隣の商家の養子になるが、本業には身が入らず、読書歌作の毎日、離縁になり実家に。母親の意向で医師を志し京都遊学。医学を修め、堀景山に儒学を学ぶ。堀は荻生徂徠の影響を強く受け、徂徠の影響は宣長にも及ぶ。影響は二つ。語彙の実証主義的研究と道の制作という思考法。宣長は歌作に専念、契沖の万葉集の研究の影響を受ける。26歳松阪に帰り小児科を開業、傍ら学習と研究に没頭。31歳結婚、京都時代の友人の妹草深たみの夫が死去した事を知りすぐ離婚、2年後たみと結婚、二児。1801年没、享年71歳。
 彼は徂徠の実証主義に従い日本古典の解読を始める。研究対象は源氏物語と古事記。源氏物語の研究が先行。宣長は歌人で浪漫主義者。彼は源氏物語を歌物語として読む、源氏を読みつつ歌作者の立場で歌を作るように、源氏の制作者として紫式部に自己を重ねる。「制作」は古事記研究に大きく影響。宣長は、光源氏の制度に拘束されない自由で自然な生き方に共感し、源氏物語の真髄をもののあわれに求める。自然な人情の重視も古事記研究に大きく影響。
 34歳賀茂真淵との出会い。宿舎に真淵を訪問歓談、意見交換、入門。二人の出会いはこの一夜だけ。以後は往復書簡。意見の相違故の破門状に近い手紙もある。真淵は万葉仮名解読をほぼ完成、古事記研究を志すが、老年なので次代の研究は宣長に。
 宣長は古事記研究に没頭。当時太安万侶が書いた古事記の原文があるのみ。古事記の文は独特、漢字の音と意を借りて日本語を表記。例えば神産巣日神という言葉、うむ=作る=むすぶ、の語連想から、カミムスビノカミと読む。加えて漢文表記も援用。古事記の表現はすべてこの調子で難解。文章は区切りなく続く。漢字の流れの中、一字一字漢字の音と意を特定し、漢字の一群一群を切り離し、音を組合わせ、日本語を発見。日本書紀、万葉、祝詞、宣命など当時解読されつつあった文献における用法、宣長当時の音と意からの類推などを駆使、古事記本文と併行し注釈をつけ解読。宣長38歳古事記伝の第一巻第二巻が、49歳17巻が完成し古事記上巻神代記の解読完成。61歳、五部出版。
 宣長が古事記で重視したのは上巻神代記。神代記には神々の世界と生き方が描かれる。世界は高天原中つ国根の国の三つに。高天原は神々の住む所、中つ国は人間世界、根の国は死者の国。古事記の神々の特徴は、神々に一切の徳性が与えられていない事。徳性付与を宣長は、異国の漢意(あだしくにのからごころ)と言い拒否。異国はシナ、シナには悪人が多い、道徳法律理屈でごまかす、日本では悪人が少ない、そんなものは要らない、と。日本にも悪人はいる、漢意のせい、シナ渡来の文明に日本人は犯され蝕まれてシナ風になったのだと。宣長は古事記の中に日本人の素直で明るい真情を見い出す。高天原の神々は自然でのびのびと生きていた。その通りに日本人は生きてきた、それでいいのだと言い切る。日本人が高天原を模範にして生きれば、素直で明るい浄らかな生活ができると。
 宣長は古事記神代記の世界のように生きようと言う。神々の生き方あり方が神道(かんながらのみち)。彼は彼が描く古事記の解釈、かんながらのみち、日本人絶対善説を神々の定められたところとして、一切の異見を認めない。宣長は徹底した実証主義者。その手法を駆使して解明し作成した古事記の解釈を絶対視。自己が作成した作品の内容と自己そして日本人一般を同一視。神は人、人は神。
高天原の主神天照大神の血統をひく天皇は日本の国の最高君主。宣長は日本人の生き方として、天皇以下の為政者への絶対服従を説く。彼は天皇以下のお上に絶対服従すべき民、が彼自身も神。宣長だけが神ではない、民衆一般もすべて神。神々に徳性付与を拒否した事で、人と神は平等同じに。宣長の逆説。国学者は宣長に習う。この逆説が国学の原動力。
 宣長没後の弟子平田篤胤は宣長の崇拝者、夢中で宣長に会い教えを受ける。彼は宣長の教えを彼流に解し民衆に解り易く熱烈に講演。宣長で頂点に達した国学は民間に広まる。天皇崇拝の国学は幕末維新の政治に大きく影響。維新回天の起爆剤水戸学には国学の影響が大。多くの国学者が熱狂的に説教。国学は思想、純粋の日本語で書かれた思想。日本語の地位は高まり、日本語を豊に、日本人の識字率に貢献。江戸時代庶民出身の学者が説いた教えは、主なもので三つ。石田梅岩の心学、二宮尊徳の報徳教そして国学。庶民は易しく講義され教えられる。
本居宣長は源氏物語の主題をもののあわれと捉え、それを基盤として古事記を解読。古事記の神々に徳性付与を拒否し、ただ浄い、明るい、素直な、人為によって汚されていない姿を与え、日本人もそうだ、と説く。神と人は一致。宣長は自己を神と為しつつ古事記を作成し、古事記に書かれている生き方を、かんながらの道、と言う。彼は天皇崇拝と権力への絶対服従と国粋主義、を説く。人間は支配され同時に支配する者という国学が内包する逆説。国学において人は神、人間は絶対的に平等。国学は民衆への講演を通して民衆の教養を高めまた維新の起爆剤となる。宣長は日本人の日本人たる由縁を強調。神は人、人は神、神と人は同じ、親鸞と日蓮の結論に酷似。

日本人のための政治思想史(22) 荻生徂徠

2014-10-22 02:05:03 | Weblog
  (22)荻生徂徠                           10
 徳川家康は堅実な人、学者の意見を聴き、政治の参考にした。藤原セイカの意見に従い林羅山を採用、林家の家学朱子学は幕府正統の学問に。綱吉は林信篤に束髪を許す、儒者を正統な武家として認知。
 漢字仏教律令制とともに日本に招来された儒学が一般でも学習されるのは江戸時代から。日本で儒学が学ばれだすと変化は速く、速度は本家のシナの比ではない。山崎闇斎は儒学を神道と習合、中江藤樹熊沢蕃山は陽明学を日本化、新井白石は実証的な歴史を著述、伊藤仁斎は儒書の歴史的考察を試みた。儒学の多伎な進化の結節点に荻生徂徠は位置する。
 徂徠は館林綱吉(将軍就任前)の侍医の子として1666年に生まれる。林家に入門、朱子学の観念性に飽き足らず、彼自身の学風を育て独自の学問を樹立。柳沢吉保に仕え、後浪人し民間の学者として活動。彼の学問は実証方法から形而上学哲学そして実学たる政治経済学に及び、規模は雄大。学風に応じ徂徠は陽気で寛容な人柄。
 徂徠が成人した元禄時代、農民町人台頭と裏腹に幕藩財政は行き詰まる。幕藩体制の改革に理論的根拠を与えたのが荻生徂徠。徂徠は儒学を抜本的に勉強、シナ語をシナ語として習う。四書五経が書かれた頃のシナ語と徂徠が生きた時代のシナ語は異なるはずと見て、古代シナ語を研究。これが彼の学問、古文辞学の出発点。徂徠は与えられた倫理や論理には満足しない、遡及し原点に帰る。四書五経を研究、儒学の要点は制度の叙述にあると悟る。制度なら作られたはず、政治行為の原点は制度を作り定める事にある、作られた制度なら、作り変えうるはず、と彼は考える。
 政治経済は自然に循環すると認識されていた。徂徠は循環に起動者を設定。設定の根拠が「利」の肯定。儒学では仁義が重視される。仁は人と人の間を繋げる概念、義は人と人の間の差異対立を強調。対立とは利害の対立、義は利。利害の対立を克服調整する装置が政治経済。利を持ち込むことにより徂徠は、政治も経済も利の過程に関与し起動させる事で成り立つ、政治経済は人間が積極的に作ってゆくものと説く。政治経済が操作すべき機構として設定される。利害の調整は商議、衆議の前提。徂徠は、政治制度は皆で衆議して作り上げるものと明言。これが徂徠学の根幹。
 政治経済に対し積極的具体的な提言。農村居住の武士が都市に住む。武士の都市居住を旅する境地に喩える、旅は人が意図して行なう変化する人為。徂徠は都市生活更に政治経済一般を人為的で作られたもの、変更可能、政策的に介入可能なものとみなす。
 身分制を否定。高位の者は苦労を知らず馬鹿が多い、下位の者の方が有能だ、下級武士を登用、農民町人も能力次第で登用せよ、人は使わなければ能力が解らない、適材適所で使って専門家を養えと徂徠は言い切る。八代吉宗は老中に江戸市中の米価を尋ねた。満足に答えた者は誰もいない。徂徠の政治論「政談」は吉宗の要請で書かれた。
 金銭関係の騒動は多発、貨幣経済が盛んになれば当然の事。幕府は当事者同志の内談を勧める、裁くための法律がない。幕初の慣例、10両盗めば首が飛ぶ、では経済行為など怖くてできない。徂徠は民事法作成を提唱。彼の死後1742年吉宗の在任中「お定め書き百か条」ができる。吉宗政権が、経済政策の基本は通貨の統制にある、貨幣の量は経済政策の要だと気づいたのもこの頃。民事法制定を説く徂徠は寛刑を主張。公共の秩序を重視し訴人を推奨し私闘を非難、吉良邸に討ち入った赤穂浪士には死刑を主張。
 裁判の記録がない。慣習と記憶による政治。徂徠は行政の文書化を説く。文書を書く者を書役留役調役といい官庁の係長クラスの役職。書役の設置は幕藩官僚の育成、下級武士の台頭を促す。幕末、川路聖アキラは勘定奉行所留役から昇進し外国奉行となり日露通商条約締結で活躍、西郷隆盛は群奉行調役から彼の政治生活を始める。
 徂徠は農地の自由売買を主張。当時農地は原則として売買禁止。農民の耕作権の保証、年貢徴取と扶持給付が封建制度の根幹。生産力が一定程度に保たれ安定していることが前提。農地の自由売買はこの前提を取り払う。自由売買土地集積大地主出現と武士の存在は矛盾。農地の自由売買は上杉鷹山や田沼意次の政治にも散見される。徂徠の発想は近代的資本主義的、武家政治の否定。
 徂徠は貨幣流通量に着目、その増大を推奨。貨幣が経済に対し持つ意義については綱吉政権、吉宗政権が苦闘しつつ探求。金銀貨の金銀含有量を減らし金銀の量に応じて新旧の貨幣を交換。貨幣は単なる交換の媒体ではなく、常に増大させねばならない、人間の欲望が増大する限りは増大させねばならない、ということが解り始める。
 徂徠は武家政治の意義と危機を見抜き、同時に民主主義と資本主義の機構を鋭く把握。
 徂徠の思想を西欧のそれと比較。作為としての政治、制度は約束で作られるという考えは17世紀末ホッブスにより始めて主張された。社会契約説。徂徠は衆議による政治を主張するのだから、彼は民主主義あるいは議会主義を説いたといえる。ロックもそう考えた。ロックの主著も17世紀末葉。政治から経済に視点を移したヒュ-ムの経済思想は18世紀中葉に著わされる。スミスが彼に続く。
 徂徠以後経済学では彼の弟子太宰春台がいる。太宰が経済という用語を作る。他に一藩重商主義を説いた海保青陵、農本主義の安藤昌益、さらに本多利明や佐藤信淵。私は政治経済学への貢献という点では二人の庶民学者、石田梅岩と二宮尊徳を挙げる。梅岩は徂徠の説を進化させ社会契約説を論じる。倹約を義つまり利を積む事、約束により営利を営む事と解釈。倹約は一方で社会契約になり他方では流通過程になる。彼は、商人は利を積んで利を流通させ社会の必要を満たす行為者だから武士より貢献度が高いと言う。農村や藩の経済を立て直す民政家尊徳は、実践の中から有効需要の意義を発見。梅岩、尊徳ともに異色独創的な思想家、同時に民衆の教育者。
荻生徂徠は、制度は衆議により作られるとして、身分制武家政治を否定。利を肯定し利への関与が政治経済であるとし、政治行為における公権力の積極的な介入を提唱。都市経済を重視し、その人為性の中に資本主義の本質を見抜き、農地売買の自由、流通貨幣量の意義を説き、民事法作成、専門職養成、行政の文書化、寛刑を主張。石田梅岩の社会契約説は庶民の政治経済への主体性を唱導。二宮尊徳は有効需要の意義を発見し、そこに経済立て直しの要を見る。18世紀の江戸時代は徳川合理主義ともいうべき思想的にも実践的にも多産で多彩な時代。

日本人のための政治思想史(21)

2014-10-16 16:25:50 | Weblog
(21)江戸時代の経済政策
 江戸時代の経済政策を総合的に考察する。共通する第一の特徴は農村手工業の振興、米作依存からの離脱。米作を尊重しつつ商品作物の栽培加工に財政再建の方途を探る。商業資本との提携は必須。提携方法は三つ。融資、商人からの借金。商人の事業請負、藩政への直接参加、商人が藩籍を得て武士になることも。三番目が流通税の徴収。有力商人に同業団体を作らせ間接税を上納。
藩が銀行の役割を。商人から金を借り農民に融通、民間の金融機構を藩直営にする。
 農政改革。徴税の厳格化、中間搾取層の排除、村の相互扶助組織を育成、農事指導。
農村手工業の振興と商人資本との提携、行政改革は必至。冗員を省き合理化、実務官僚育成、藩主に権力が集中する中央集権制を志向。情報公開を計り下級武士を登用。情報公開は庶民層にまで及ぶ。
 貿易の重視、藩間貿易。地の利を生かして薩摩は外国貿易、長州は中継貿易。各藩の経済思想は重商主義。藩内の産物を外に売って稼いだ金を貯める事が基本方針。
 重商主義の主導者は藩、だから藩専売制。改革で得られた利益を誰が取るかでもめ、よく一揆が起った。江戸時代後半の一揆は条件闘争、現在のストライキ。
 貨幣流通量の増大。貨幣の量を増やさないと経済は萎縮。典型が幕府の貨幣改鋳。銀の定額化は貨幣改鋳の公然化、貨幣量の増大を意図。銀の従属貨幣化から金本位制を志向。幕府政治の中央集権化。各藩はなんらかの形で藩札を発行。薩摩藩の砂糖手形、熊本藩のはぜ札、上杉藩の米札などは藩札の特殊な形、手形の一種。藩札は17世紀中葉、幕府が開かれて50年後には出現。藩札の発行は財政の補完、同時に通貨量増大と経済拡大の効果。上杉藩などでは現在の買いオペもしていた。大阪の米市場では信用取引空売空買。江戸大阪間の金融決済のほとんどは信用手形、すぐ全国に広がる。これも通貨流通量の増大へ寄与。どのくらい財政規模が拡大したのか、いい例がある。享保の改革時18世紀前半の幕府の予算はだいたい200万両、100年後の文化文政年代には2000万両、10倍の増大。各藩も同様だろう。
 開拓開墾は藩政改革の基礎的作業。増産計画。成功した代表は上杉藩の飯豊山のトンネル、失敗した例は印旛沼干拓。道路橋梁の保全改修、灌漑施設の整備は常識。公共事業、支払われる賃金は民間の需要を増大。有効需要創出という政策を世界で初めて言い出したのは二宮尊徳だと思うが、藩政幕政の改革実施の中で有効需要は実際に作られてゆく。
 上杉藩では米の藩外移出を容認。米は重要産物、米の交易自由化を計らないと他の産物の動きも不活発。
 福祉政策の端緒が出現。飢饉に備えて米穀を貯蔵。松平定信は江戸市民から基金をつのり幕府が追加出資して生活保護資金を作る。年金制度にもつながる。長州では貧しい武士の借金返済のために資金を貸与。綱吉の捨て子保護は福祉政策の始り。武士の救済のもう一つの方策が帰農。武士の故郷である農村に帰り生産人口に加わること。
 経済政策が進展すると経済事件が多発。民事法制定の動き。代表が「お定め書き百か条」。
 幕府諸藩は経済改革と同時に教育を充実。藩校造設は18世紀後半、藩政改革と併行。幕府の湯島聖堂が先行。教育の充実、藩幕府は藩政改革で士庶の区別が曖昧になるのを恐れる、武士の自覚強化が目的、武士道形成の要因の一つ、同時に人材登用の手段。藩政改革は農民の同意を前提とし農民商人を巻き込む。藩政改革による商業流通の拡大に対処するためには一定の教養学問は必要。庶民の教育促進。全国に寺子屋が出現。教育の充実は生活程度を引き上げ、労働生産性向上と有効需要創出に寄与。藩政改革の第一歩は倹約、倹約は貯蓄投資の源泉。
 幕政藩政改革、現在の政府の政策のほとんどが出現。工業化、資本融資、間接税(流通税)、交易自由化、貨幣流通量の増大、公共事業、有効需要喚起、信用取引、紙幣手形の使用、銀行機能、金本位制、買いオペなどの金融政策、貯蓄と投資、重商主義、行政改革、官僚養成、中央集権化、福祉政策、民事法制定、教育改革。江戸期の武家政治とはこういうもの、維新後の日本の発展の基盤を提供。ミニ国家藩の事跡を経験として維新政府は政治経済政策を展開。
 困窮しても幕府も藩も武士を解雇しない。上杉毛利の両家は知行を大削減されたが、藩士をそのまま養った。貧乏でも団結は崩さない。改革をしながら貧窮に耐え、同時に積極的に財政改革と経済成長に取り組む。団結し貧しさに耐えつつ教育を充実。武士である自覚を維持するためには教養は必要。幕藩官僚が育つ。
 藩政改革は下級武士の救済を中心に、まず弱者から。下級武士の台頭、藩官僚の成長、幕末維新の改革の準備が整う。
 改革は士農工商提携で行なわれる。特に武士と農民は対立しつつも提携。農村手工業の成長を欠いては武士も農民も食えない。農民の理解と協力が必要。理解協力するために農民自身も教養をつける。士農の提携は武士のみならず農民の教育を促進。藩校の設立に併行して全国に寺子屋が激増。
 改革は全国的規模。庄屋の藩への意見具申、農民の藩当局との団体交渉は全国的に多発。
 江戸時代の藩政幕政改革で武士は解雇されない。窮乏化した農民も見捨てられない。農業の資本主義化と平行して農本主義も強調される。農民保護と武士の永久雇用は同根。武士は農村から出現、農村を理解できた。農村を見捨てず農本主義を維持する分、同根である武士自らの身内を解雇することもない。武士と農民は非常に密な関係に。士農提携が日本の社会、日本型資本主義の原型。武士と農民が近い関係にある故に、比較的平等でぶ厚い中産階級が形成され、社会の集団帰属性は強くなる。武士の職能意識は庶民に及ぶ、勤勉、技術尊重。技術立国日本の原点。

日本人のための政治思想史(20) 藩政改革(2)

2014-10-11 17:28:01 | Weblog
(20)藩政改革(2)
細川重賢と上杉鷹山の藩政改革は江戸時代中期から後半にかけて行なわれた。調所広郷と村田清風の改革は幕末、改革はそのまま倒幕につながる。
 薩摩藩財政改革者、調所広郷は1776年鹿児島に生まれる。生家は川崎氏、12歳調所家の養子。調所家は藩の茶坊主を職とし、格は小姓組無高の最下級。始め清悦、後に改名して広郷、通称は笑左衛門、酒好きで豪放な人柄。
 藩の実力者隠居島津重豪の側近になり江戸へ。1827年52歳重豪の直命で財政改革の総責任者、更に家老に。藩には銀30万貫、金にして600万両の借金、藩年収の30倍。広郷以前にも、改革の試みはあるがすべて失敗。誰も薩摩藩には金を貸さず、高利貸に手を出し借金を増大。
 広郷は役目を断った。財政改革など恩より恨みを多く買う。断れば打首になるような雰囲気の中で改革遂行を引受ける。改革の内容の主たるものは、唐物貿易(密貿易も含む)、砂糖の藩専売制、農政改革、給地高改正、藩政事務と流通機構の改革。広郷は実力者重豪藩主斉興の強力な支持をえて、豪快強引に改革を進める。
 藩債務を処理。500万両を250年の年賦で償還、利子は払わず、借金の踏み倒し。薩摩藩にも言分はある。160万両だった借金が数年後には600万両に、悪質な高利貸。相手のやり口を見て広郷は強引に出る。公的機関が背負う膨大な借金は踏み倒しが常道。紙幣を大量に発行、インフレにし借金を帳消しにする方法もある。アメリカ独立、フランス革命、明治維新すべてこの手口。新しい貸し手、出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛などの協力。彼らは薩摩藩の国産物売買に目をつけ、藩政改革に深く食い込む。
 収入増大策の第一は唐物貿易。シナからの輸入品、生糸綾薬物鼈甲臙脂桂枝沈香などの需要は大。本来シナとの貿易は幕府の独占。薩摩藩は属国である琉球を通じてシナとの交易があり、幕府も黙認。広郷は貿易を表裏両面で強引に実行。表では幕府に貿易許可項目の増大申請、裏は密貿易。薩摩船は日本海に行き輸出品俵物(乾燥したなまこあわび昆布などの海産物)を買う、琉球に運んで売買。表裏の貿易の利潤は莫大。
 財政支出の基本方針。臨時及び緊急の支出は借金で対応、通常の経費は国産物で賄うと。
 砂糖専売制。奄美大島以下三島にはサトウキビ以外の栽培は不許可。栽培強制、砂糖増産。藩がすべて買い上げ、島民は砂糖の販売消費貯蔵を許されない。違犯者は厳刑、密売は死罪。島内での金銭使用も禁止、島民が必要とする生活物資は藩から直に支給、砂糖との直接交換。砂糖の生産者消費者価格の比率は1対4、流通経費を除外して200%の利潤。10年間で砂糖専売から得た利益は銀6万貫。短気流通手形を発行、砂糖徴収を円滑に。手形は他に流れて貨幣化されないよう3ヶ月で回収。
 農政改革。検見法を定免法に換え、藩財政が天候に左右されないように。高利貸し禁止、農民への貸付利子を10%切り下げ、貧農からの利子徴収は禁止。投機富くじも禁止、郷士が農民相手に行なう頼母子講は禁止。民間の頼母子講を藩営に、民間の貨幣を藩に吸い上げる。頼母子講の手数料の徴収、頼母子講に集まった金の藩借上げ。薩摩の特産物、蠟菜種ウコン朱粉薬種そして米の栽培法の改善、郡奉行を派遣し督励指導監視。
 行政事務の能率増進。実務者書役を優遇し、趣法講にまとめ財政責任者直属に。各部局の独立採算制を徹底。金を受け取る側と支払う側の機能の分離。支払い方法の監視の強化、支払いは手形で行い、上部の許可があり次第換金。収納用の秤を統一。農民の利益になり、武士からは恨まれる。枡からこぼれた散落米の意図的増加、役得。この悪習を広郷は排除。
 軍制改革。高島秋帆に習い洋式軍事技術を導入。武士への給付制度の改正。広郷は武士の給付地売買を制限し一部復元。軍役負担の最低水準が50石、武士達の石高をこの線以上に、50石以下の者には藩から援助金。
 道路改修、橋梁架橋、河川疎通、新田開発など諸種の公共事業。産業振興。離散した農民の呼び戻し、農業生産力向上のため。出費抑制。隠居の薩摩在住と参勤交代の回数減免を幕府に申請。
 浄土真宗門徒の弾圧、門徒が本願寺に上納する金銭を奪う。金銀の藩外流出を防止。
 幕府は貿易を制限し始める、広郷はその分密貿易に傾斜。フランス船が琉球にきて、琉球日本との交易を希望。広郷はこれに乗る。幕府への完全な挑戦、彼の命取り。
 広郷は隠居重豪、藩主斉興の信認を得て20年政権を掌握。末年にはお由羅騒動。斉興の世子斉彬に代わりお由羅の生んだ庶子久光を藩主にする云々の騒動。斉彬が襲封。広郷は斉彬の開明的政策が、財政危機を招くと心配し、斉彬襲封に反対。密輸とお家騒動の二つを斉彬から追及された広郷は1948年江戸藩邸で自殺、73歳。
 広郷は貨幣経済を利用、強権的に掌握、藩への貨幣吸い上げを計る。重商主義。20年で借金ゼロ、備蓄金50万両の成果。幕末薩摩の活躍の基礎を広郷は築く。
 村田清風、幕末長州藩の財政改革者、彼の藩財政再建が維新回天の事業の基礎。1783年生まれ、この年浅間山が爆発、関東一体に大被害、田沼意次の失脚、松平定信の登場、幕府自身体制の危機を鋭く感じた年。清風の祖父父親も藩経済の実務に携わる中堅官僚、家禄は50石。 
長州藩は以前から財政的に苦しかった。関が原で敗け8カ国120万石から防長2国30万石に減知。上杉藩と同様家臣を解雇せず。藩財政も藩士の家政も1/4に縮小。財政は赤字続き。第7代藩主重就の時、借金は銀3万貫、重就は鋭意改革に取り組む、それなりの成果。清風は正面から考えじっくり取り組むタイプ、頑固者。
江戸時代の藩財政を考える時重要な点は二つ。江戸時代初期の経済は、農民が米を作り、その一部を武士が取って食う、見返りが治安維持という体制、この段階では貨幣が経済に介入する余地は小さい。農民は米以外の物を作り加工し販売する、農村手工業の発展、藩が介入し藩専売制を計る。利益を誰が取るかが問題。割を食った農民は、最悪の場合一揆。
もう一つは、幕府の大名窮乏化政策。参勤交代、家格と禄高に従い、形式を整える。沿線の住民に落ちる莫大な金。大名の襲封結婚葬式に多額の出費。勝手に簡素なことは不可、家格により決められた形式は遵守。家臣の3-4割は江戸在府、都市生活は金が要る。大名の妻子が住む大奥は奢侈の巣窟。大名は自動的に貧乏に。見方を変えれば需要の喚起、武士階層から町人農民への所得移転
1830年天保年間長州藩内で大一揆が勃発。農民の要求は、田租は4割を原則、畑租も本租だけ、畔に植えた茶や桑は免税、臨時の租税は廃止か減少、郡費超越した時の農民負担は軽く、米麦菜種櫨などの自由販売は認めるなど。税金は安く、行政費用は節約、経営の自由は容認、というところ。一揆は条件闘争。
1837年藩主に毛利敬親が就任、大塩平八郎の乱の年。前年に三人の旧藩主が死去、葬式と敬親の襲封で経費は飛躍的増加。長州藩の借銀は9万貫、180万両。清風は一代家老に任命され改革を推進。改革の第一は倹約、奢侈禁止、絹布着用禁止。大奥は猛反発、敬親は清風を断固擁護。
行政機構の改革、人員削減。余剰人員は藩が行う新田開発に。
情報公開の徹底。藩経済の実情を藩士従って庶民にも知らせる。併せて人材登用の手段。計数に明るい中下級武士を財政の実務官僚に取り立てる。家格より実務能力。
殖産興業。長州の特産物紙蠟米塩を増産。特権御用商人を抑え、藩の役人との癒着を警戒。豊富な海産物を加工し大阪方面に出荷。
殖産興業ではかって痛い経験、天保の大一揆。手工業から上がる利益を誰が取るかで問題が起こる。清風は一藩単位での重商主義政策を行う。下関は北前船、日本海から関門海峡を通って大阪に行く船、の中継地点。長州藩はここに倉庫を置き品物を買う。大阪の市況を調べて売りさばき利益を上げる。中継貿易。
民間の頼母子講から発した相互扶助組織を充実。困窮者救助、特産振興、土木工事、入植者援助のための頼母子講に藩から補助を与えて奨励。
藩士の借金対策。藩士が藩から借りた借金は取り消し、ただし以後藩が貸す事はない。民間から藩士が借りていた場合、藩が肩代わりして利子のみ毎年支払い、元本は37年後に。商人層に人気の悪い施策。商人を苛めすぎると、藩士が借金できない。藩士達からも苦情。清風は第一線を退く。代って坪井九右衛門が商人層に有利な政策を実行するが、藩の借金が増えて坪井は失脚。清風再登場。
清風はインフレ防止のため大量の藩札を焼却。思い切った措置。改革が進み藩内部の蓄積に自信を持つ。大操練、銃砲中心の洋式軍隊を用いた訓練の実施。清風は、海に面した長州に生まれ育ち海からの侵入には敏感。ロシアやイギリスの船が日本近海に出没。清風は海防重視を呼号。洋式軍隊保持には莫大な資金が必要。
藩校明倫館を再建、江戸には藩士教育のために有備館を造る。1854年までに9万貫の借金皆済。維新政府樹立時、長州藩は政府に70万両、毛利家に30万両を寄贈。1855年清風死去、享年73歳。
調所広郷と村田清風の政策の要約。貿易、藩営銀行業、農村手工業の育成、藩専売制、実務官僚の養成、相互扶助組織の形成、藩札の利用、軍制改革。

鳥井信治郎とサントリ-

2014-10-05 02:29:34 | Weblog
    鳥井信治郎、飲んでみなはれ、サントリ- 

 最近新聞をにぎわせたニュ-スにキリンビ-ルとサントリ-の合併破談があります。両社は株式保有のあり方が対照的で、この点が最大の障害になりました。サントリ-の株式の90%が創業家である鳥井家の所有とありました。今時大企業でこんな古風な話があるのかと思い、創業者鳥井信治郎の伝記を読みました。そしてなるほど、この人の性格と業績から言えば、そうなっても不思議ではないと、思い至りました。記者会見でサントリ-の佐治社長(多分信治郎のお孫さん?)が、創業家支配にはそれなりの良いところがあるのだが、と残念そうに言っていたのもうなづけました。
 信治郎は明治12年(1879年)大阪市東区釣鐘町に生まれています。家業は銭両替商(小口金融)、野村徳七と同じ環境です。父親は後に米穀商に転業しています。比較的裕福な家でしたが、当時の大阪商人の習慣に従い、高等小学校卒業後、丁稚奉公に出ます。(注1)奉公先は道修町(どしょうまち)の卸商小西儀助商店、この店は洋薬や洋酒をも商っていました。薬も酒も輸入されたままの状態では商品として出しません。国内で売れるべく数種の品を混合して調合(blend)します。信治郎はここでblendの勘を磨きます。blend如何により、商品の価値と売行が決まります。彼のこの方面での才能は極めて優れていました。後年彼が有名になった時、利き酒の大会に出ました。出された30種類の日本酒のうち、彼がはずしたのは2-3種だけだったそうです。この才能にあわせてか信治郎は極めて大きな鼻の持ち主でした。

(注1)江戸時代以来商人になる道は丁稚から手代番頭と勤め上げて、別家として暖簾分けしてもらうのが常道です。丁稚といえば極貧階層出身のように誤解されていますが、実際は農村の中農以上で、ちゃんとした保証人がいる信頼できる人物のみが、都市の商家に奉公できました。

 明治32年信治郎21歳の時、独立します。得意の鼻を生かして、甘みのあるぶどう酒を調合し向じし印のぶどう酒を売り出します。これは結構当たりました。東京の蜂印ぶどう酒がライヴァルでした。
また彼は友人の親戚になるスペイン人セレ-スのところに遊びに行き、そこでスペイン産のぶどう酒を味あう機会に出会います。本格的なこのぶどう酒を売り出したところ、さっぱり売れません。欧州の本場のぶどう酒をどのようにして日本人の味覚に会うように調合し売り出すかが、信治郎の念願になります。信治郎の野望は、いかにして西洋の酒と同じ物を日本で作るかに、あったと言えましょう。彼はハイカラ趣味の人でした。この情熱は後年国産ウィスキ-の開発に向けられます。
明治39年、屋号を寿屋と改めます。
 こうして明治44年売り出されたのが、赤玉ポ-トワインです。濃紅色でとろりとした甘みのあるワインです。(注2)信治郎はこのぶどう酒に自信を持っていました。大阪の祭原商店、東京の国分商店を中心に東西で売り込みます。赤玉ポ-トワインの宣伝に関しては逸話があります。信治郎は宣伝の一手段として赤玉楽劇団を作って全国を公演させました。そういう関係から芸能人も彼と親しくなります。ある時来阪していた松島栄美子に寿屋の宣伝部長である片岡敏郎が密かに相談を持ちかけます。料亭のある部屋で松島に上半身裸になってくれ、という頼みです。松島の半裸体をふすまの蔭から数人の男がしきりに観察し写真を撮ります。こうして赤玉ポ-トワインのポスタ-ができました。松島栄美子の上半身露な像、全体は黒味がかったセピア色、松島の白い肉体、彼女が持つグラスに注がれた真っ赤なぶどう酒、という配色です。このポスタ-は全国で有名になりぶどう酒の売り上げに大きく貢献しました。(注3)赤玉の「赤い」は太陽(sun)の意味です。日本は太陽の国だという、信治郎の信念からこのような発想が出てきました。
 この間信治郎は色々な商品を発売しています。スモカという煙草飲み用の歯磨き、五色酒、トリスソ-ス、トリスウィスタン(ウィスキ-の炭酸割り)、オラガビ-ルなどなどです。

(注2)もっとも現在ではこのような物はワインの内に入らないかも知れません。昭和30年代になっても、一部の人を除いてはぶどう酒といえば蜂印か赤玉でした。日本経済が高度成長に入った40年代、欧州各国から一斉に各種のワインが輸入され、店頭に並びました。私は赤玉ポ-トワインは甘くて美味しいので、母親の目を盗んではちょくちょく飲んでいました。どちらかというと子供向けのようなお酒でした。
(注3)この写真で松島栄美子の上半身は裸身ですが、乳首以下は隠されています。当時の法令違反すれすれの写真です。これ以上露出すれば猥褻な印象を与え、またこれ以上隠すと写真の魅力がなくなるというところです。

 鳥井信治郎の性格や行動には著明な特徴があります。彼は最初奉公した小西商店でも自分の信念を曲げず、主人に対しても決して引き下がりません。赤玉ポ-トワインの最大の卸商特約店である祭原商店で、寿屋の看板が他用に使われていると知ったとき、店の番頭と大喧嘩した話もあります。
 経営のやり方は一言で言えば、温情的家父長制、社員に対して待遇はすこぶる良いが、極めて独裁的でした。社員に自らを決して社長とは呼ばせません。大将と呼ばせました。理由は社長と言われるのは、せいぜい三井三菱住友くらい、お客の前で自分を社長と呼ばせて悦に入っているようではあきまへん、というところです。彼の口癖は「やってみなはれ」です。一応社員の自主性を認めているようであり、確かにそうですが、この言葉はもっと激烈な意味を持ちます。おやりなさい、自分の意志と信念で、やる以上とことんまでやりなさい、となります。信治郎が「東京へ手紙を出してくれ」と社員に指示します。何を書くのかと反問すれば、社員失格です。社長である信治郎の意向が解っている必要があります。万事この調子です。そういう背景において、やってみなはれ、の文句を吟味する必要があります。会議は大嫌い、役員会議など開きません。重役も自分の手足同様に使用します。織田信長を彷彿させます。事実信長のように短気で、すぐ怒鳴りつけました。戦時中社員は信治郎をB69と仇名しました。当時恐れられた米軍爆撃機B29をもじったのです。また彼は八卦占いを信じました。人事採用も八卦で決めたので大学から学生紹介を断られた事もあります。仏教といわず神道といわず八百万の神様仏様はすべて信じました。その一環が放生会です。その辺で買ってきた、魚や亀や蛇などみな放ちました。馬鹿にならない費用なので社員が忠告すると怒鳴れました。この行動の一環でしょう、彼の社会事業への貢献は大きいものがあります。終戦直後大阪駅周辺の浮浪者すべてに握り飯を振舞いました。次から次と浮浪者が現れてもひるまず、慈善を続けました。信治郎の信念は、事業家はその収益のうち、1/3を社会に、1/3を顧客に、残り1/3を資本に廻す事でした。このような信念ゆえか、彼は株式の上場を極端に嫌いました。理由は株式公開にすれば、株主の機嫌を伺い、結果として良い商品は生産できない、ということです。全面的には賛成できませんが、昨今の米国の状況を見れば、なるほどと思わされます。以上信治郎の商法の一端を紹介しました。このような頑迷なまでの信念と独裁性と楽観があればこそ国産ウィスキ-生産という難事業ができたのでしょう。
 信治郎は宣伝好きでした。赤玉ポ-トワインが発売されると、健康に良いとかで、当時希少価値のあった医学博士の推慮を総動員します。またサイドカ-に軍服に似た服装の社員を乗せて宣伝隊を町に繰り出します。毎日新聞の宣伝部長片岡敏郎を月給倍の条件で引き抜きます。松島栄美子の半裸体ポスタ-は彼の考案になります。赤玉額劇団を編成して日本中を公演させて廻ります。洋酒を世間に広めるために、トリス喫茶店を開きます。カクテル相談室も開催します。「洋酒天国」という雑誌を作り、宣伝しないような形で宣伝します。この雑誌は私も見たことがありますが、自社のことなどあまり触れていません。本当に洋酒のための雑誌という感じで、私が見た頃は発売部数も多いポピュラ-な一般雑誌でした。サントリ-の宣伝部からはかなりの人物が出ています。作家の開高健、随筆家の山口瞳、漫画家の柳原良平などです。
 大正12年関東大震災、この事件とはどう見ても関係なさそうですが、信治郎は、本場のスコッチに負けない本物の国産ウィスキ-を作ろうと、思い立ちます。と言ってしまえばそれまでですが、この企ては一大壮挙、というより暴挙、かなりの人にとっては愚挙でしょう。事実会社の内部も外部も猛反対でした。理由は簡単です、資本がかかり、しかも資本が回収できるまで、最低10年の歳月が必要になります。もちろんうまく行ったとしての話ですが。加えて、酒は文化という事情もあります。英国の文化にマッチした微妙な味わいを作り出し、それを日本の文化に適合するべく云々、というだけで難題だなと思わされます。
ここでウィスキ-の作り方に伴う難事を簡単に説明します。まず醸造所の選定に条件があります。スコットランドの高地地方ロ-ゼス峡谷のような、霧が適当にかかる湿気の多い土地でないといけません。原料の大麦も選定されます。信治郎は、ゴールデンメロンという品種の麦を使いました。麦芽も酵母も品質が限定されます。発酵してできた新酒は蒸留されます。それも何回も何回も。この蒸留には、スコットランドの湿地(沼地?)でできるヒースという草が、湿地に堆積し炭化してできた、泥炭ピ-トを使わなければいけません。ピ-トは輸入します。ピ-トを焚いて蒸留する過程で付く独特のにおいが、ウィスキ-の味を決めます。こうして原酒(モルト)が出来上がります。これを樽にいれて暗い冷たい地下室で保存します。樽は樽で特別性です。アメリカから輸入したホワイトオ-ク(白樫)で作ります。それを一度シェリ-酒を入れてあくぬきをしてから使います。新しい樽を使うのと、古い(つまり一度以上ウィスキ-を保存した)樽を使うのとでは、できる酒の味が違います。もちろん寝かせる期間によっても違ってきます。どのような樽を使い、何年寝かせたかで諸種の原酒が出来上がります。これらの原酒をblend(調合)し、さらにグレ-ンウィスキ-という比較的単純な酒を加味して、ウィスキ-が出来上がります。blendの能力は天賦とされています。また麦や麦芽にしてもできた年の気候により微妙に違います。さらに発酵・蒸留させる時の気候も作品のできばえに影響するでしょう。
大量の資本と高度な技術を長期間必要とし、しかもそれだけでは必ずしも成功は保障されない事業がウィスキ-造りです。まるでケルト・アングロサクソンの文化全体を日本に輸入するようなものです。この壮挙(愚挙?)に信治郎は敢然かつ欣然と取り組みます。これは信治郎の遊び心の表れでしょう。そういえば英国の人士がスコッチに寄せる気持ちも遊びに似ています。
幸い工場の土地としては山崎というか格好の土地が見つかりました。大阪府と京都府の境にあり木津・宇治・桂の三川が合流する山崎地峡は、結果としてウィスキ-造りには最適の土地でした。(注4)問題は技師長の人選です。信治郎は最初、イギリスの醸造学の大家ム-ア博士を日本に招聘して指導してもらおうと思っていました。博士も快諾しましたが、そのうちムーア博士は、日本人でスコッチの工場に留学し、製法を学んで帰った若者がいる事を知り、彼に技師長を委ねたらと、言います。信治郎としてはやや気がそがれた感もありましたが。この人物竹鶴政孝を採用し、(注5)ウィスキ-造りの全権を委ねます。この時信治郎はムーア博士に出すべく予定していた年俸4000円を竹鶴の年俸としました。大正12年10月山崎工場起工式。

(注4)山崎は昔羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の戦をした古戦場です。信治郎の本拠地大阪からも現在なら電車で30分かかりません。いいところに最適の地があったものです。またこの地は灘伏見の酒水に連なります。この地は竹が多く生え、その分余計な植物の繁殖が少ないので、細菌環境もウィスキ-造りに最適と後になって判明しました。加えて太閤さんびいきの信治郎には、秀吉出世の古戦場は縁起も良かったのでしょう。
(注5)大阪高等工業学校醸造科卒業。摂津酒造に入社。摂津酒造もウィスキ-造りを企て、竹鶴はグラスゴ-大学に留学。帰国後不況のために、摂津酒造は企てを放棄。浪々の身になっていた竹鶴に信治郎は白羽の矢を立てる。竹鶴は後独立し、ニッカウィスキ-を設立。大阪高等工業学校は後の大阪大学工学部です。当時醸造学は日本中ここしかありませんでした。多分灘伏見という酒どころに近かったからでしょう。なお信治郎の次男の佐治敬三もここの出身です。なお信治郎は何ゆえか、次男敬三に山陰の旧家である佐治家の姓を名乗らせています。ですからサントリ-の創業家は鳥井家ですが、佐治家も同様となります。

 ぼつぼつウィスキ-が出荷されます。予想通り始めのうちは、焦げ臭い、という悪評でした。ピ-トの焚きすぎが原因でした。酵母の選定にも問題がありました。そこは信治郎得意の粘りで切り抜けます。まあ、飲んでくだはれ、と次々にできたウィスキ-を得意先に持って行きます。課税でも苦労します。当時の酒税は仕込んだ酒の量に従って一年単位で課税されました。仮にウィスキ-を10年寝かせるとします。この間金にはなりません。だから一年単位で課税されると、ものすごい税金になります。信治郎は国税庁に掛け合いにいきます。多くの場合喧嘩になりました。こうして池田隼人(後の首相)と昵懇になります。昭和6年サントリ-特角を出します。この頃からサントリ-も商品化できるようになったのでしょう。この間当然ですが、ウィスキ-部門は大赤字の金喰虫でした。信治郎は赤玉ポ-トワイン以外の商品の生産をすべて中止し、赤玉とウィスキ-のみに専心します。赤玉ポ-トワインで稼ぎ、それをウィスキ-製造につぎ込むのです。なにやらトヨタの自動織機と自動車の関係によく似ています。ちなみに「サントリ-」という名称は「サンsun、太陽」と「トリイ、鳥井」からきています。もちろんサン(太陽)は赤い玉で象徴されます。
 事業も段々好調になって行きます。昭和8年アメリカでは禁酒法が廃止になりました。これでアメリカにウィスキ-を輸出できます。ということはアメリカでは当時たいしたウィスキ-が製造されていないことになります。スコットランドに似た土地なら広いアメリカのこと、どっかにあるとは思いますが。昭和12年サントリ-角瓶、同15年サントリ-オ-ルドを発売します。このあたりから洋酒の寿屋とサントリ-の名称はブランドになって行きます。しかし信治郎には不幸が訪れます。頼みの右腕と期待していた長男吉太郎が急死します。信治郎には男児が3人います。長男吉太郎、次男敬三、三男道夫です。次男は佐治を、他の系譜の親族は鳥井を名乗ります。
 戦火が勃発します。しかし戦争は酒造業にとって有利に働いたようです。酒の成分はアルコ-ルであり、この物質は軍需物資ですから、生産は保護奨励されます。加えて戦争に従事する軍人は明日の命も解らない状況に置かれるので、酒量は進みます。ウィスキ-は舶来品であり、英国の酒でしたから、英国仕込の海軍に重用されました。やがて陸軍も眼をつけ、陸海の争奪戦になりましたが、ことウィスキ-に関しては海軍有利に配分されました。
 戦争が終わります。しかしサントリ-の経営は、他の業種に比べれば順調だったようです。最大の生産施設である山崎工場は戦火を免れました。私はよくこの近くを電車で通りますが、どう見ても爆弾なぞ落とす気にはならない、地形に工場はあります。更に進駐してきた米軍の需要もありました。米国のウィスキ-より上質らしく、米軍将校の愛飲するところとなります。信治郎はひばりヶ丘の自宅を解放して、米軍将校の接待会合の場にしました。当時米軍(つまりGHQ)と親しいという事は、多くの便宜に繋がったはずです。将校だけ美味い酒を飲むのはけしからんと、米兵も同様の要求をします。拳銃を突きつけられて脅迫強奪される事もありました。そこで兵卒用のブル-リボンというウィスキ-を作りました。どこへ行っても階級格差はあるようです。
 当時主税局長だった池田隼人から信治郎は助言されます。サントリ-もいいが、もう少し大衆的なウィスキ-を出したらどうかと。期待に答えてトリスウィスキ-を発売します。池田自身が大酒のみであり、彼の実家は酒造業でしたから、酒飲の気持ちはよく解ったのでしょう。トリスウィスキ-を発売すると同時に、トリスバ-も全国に開きます。このバ-開設の条件は、酌婦がつかない事と値段が公正である事でした。健全な居酒屋とでも言いましょうか。私が昭和35年大学に入り、始めて友人とウィスキ-を飲んだ当時、トリス、サントリ-角瓶、オールドの順にランクが上がりました。角瓶は比較的金のある連中が飲む物、オ-ルドになると国産の一級品という格でした。この上に確かサントリ-ロイヤルというのがありましたが、それはジョニ-黒と変らないという評判でした。
 昭和30年紫綬褒章を受賞します。昭和34年現在、寿屋の資本金は1億9200万円、大阪本社以外、支社6、工場8の陣容でした。36年社長の座を降り、次男の敬三に譲ります。37年死去、83歳でした。喪主は信一郎(信治郎の孫)、友人代表は池田隼人(首相)や山本為三郎(アサヒビ-ル社長)、高崎達之助他数名でした。山本と高崎については後の列伝で取り上げる予定です。
 ここで鳥井信治郎の魅力とでも言うべき項目を列挙して見ましょう。この作業は同時になぜ彼がウィスキ-生産という難事業を成功させたか、という問題に繋がります。まず商人根性と職人気質の同居、信二郎にはこの相反する傾向が多量に同居している事が挙げられます。商売熱心でがめつく売りまくり、宣伝を大規模に行います。この辺は商人的ですが、ウィスキ-やポ-トワインの品質に関しては頑迷なほど、品位にこだわります。算盤を度外視して品位にこだわったから、英国産に劣らないウィスキ-ができました。
 生活は派手同時に地味です。社会事業に多額の寄付をして、おしゃれな反面、当時の金持ちが愛好する自動車と別荘の所有には断固反対しました。地味だが派手と言うべきでしょうか?彼の活動にはある種の快楽主義を感じさせられます。ハイカラ趣味といえば少し浅薄になるかも知れませんが、彼はそう言われていました。
 快楽主義は楽観主義に通じます。彼の口癖は、やってみなはれ、でした。とことんやってみなはれ、です。単に頑張るというだけではありません。自分の思うようになるだろう、という信念か確信のようなものがあります。この確信を彼は他人にも押し付けます。確信と楽観の基底には快楽という一種の麻薬が存在するようです。彼が大酒家だったとは聞いていません。しかし赤玉ポ-トワインが発売された当時、これを飲んだ日本人は多分、美味とある種の悦楽感に襲われたでしょう。信治郎はこのイメ-ジを真っ赤な太陽(sun)でもって表しました。松島栄美子のセミヌ-ド姿はそれを象徴しています。自分が感じた快楽を自分だけのものとはせず、みんなに解放します。本人がそうと変に自覚していない分、この印象は強烈です。
 これらの要因があわさって、信念と使命感が出現します。そういう単純に言葉で表されるだけのものではなく、図々しさ、頑迷なあつかましさ、そして自己肥大感と言った方がいいでしょう。しかしそこには否定できない信念と使命感があります。
 そこから出てくるものが、独裁と自信です。
 信治郎を語る場合、彼がいわゆる、こてこての大阪人、であったことも考慮に入れる必要があります。換言すれば土着性です。しかも都会的な土着性です。だから彼の考えは一見奇矯なようで常に大地に根をはやした感があります。だから英国の文化の、しかも土着性の強い文化であるウィスキ-を、やはり大阪という土地に土着させえました。
ウィスキ-を生産し成功させるためには、10年近く大量の資本を寝かせる必要があります。試みを敢行するには、野放図な大胆さと文化移入への使命感、そして自己への信頼が要ります。それを鳥井信治郎という男はやり遂げました。多分日本以外の国で、英国産と同格のウィスキ-を生産した国は無いでしょう。