(24)文化としての天皇
鎌倉幕府成立に伴い朝廷は政治の実権を失います。以後700年武家政権が続きます。その間天皇はいかなる存在であったのでしょうか。答えは儀礼の執行者、そして文化の守護者、いや文化そのものです。摂関政治の成立により、天皇は実際の政治より、政治の演出である儀礼の執行者に役割を求めるようになります。併行して年中行事の慣例が平安時代中期、摂関政治の全盛期に確立します。儀礼の項目約400、代表的な年中行事は正月の四方拝、朝賀、白馬節会、3月の曲水宴(雛祭り)、彼岸、5月の端午の節句、7月の七夕、盂蘭盆会、9月の重陽宴、11月の新嘗祭、豊明節会、12月の追ナなどです。年中行事は宮中のみならず公卿の家でも行なわれ民間にも広がりました。年中行事は自然の循環とそれに伴う生活を祝うことです。主催者は天皇です。年中行事の執行は勅撰和歌集の編纂と意図を同じくし、儀式を通じて天皇が自然の進行に働きかけ統御する試みです。
鎌倉時代初期に藤原定家がこれらの行事に包まれる美意識をまとめます。彼は王朝の美意識を和歌と源氏物語に集約しました。以後古今伝授という慣習が作られます。和歌作成と源氏物語の理解が伝統的美意識の基準になります。古今伝授とはこの美意識を師匠から弟子へ秘伝として伝える習慣です。室町戦国期の公卿達は古今伝授やそれに伴う文化的行為の指南で生活しました。
江戸時代になります。天皇公卿は幕府から10万石のみを給付されほぼ完全に政治行為から遠ざけられます。公卿諸法度が作られ、天皇と公卿は伝統的な学問文化の保持に専心するように、幕府から指導されます。公卿はそれぞれの家により専修する学問文化を分担します。公卿は幕末の時点で約150家あり、摂関、清華、大臣、羽林、名家の5段階に分かれます。摂関家以外の諸家が学問文化を担当します。神祇、和歌、書道、神楽、蹴鞠、楽、明経、装束、陰陽などです。明経は儒学の五経の講義、陰陽は占い、神祇は神祭の司会、楽は琴、和琴、琵琶、笛、笙、篳篥など管弦の演奏です。和歌は二条、冷泉、飛鳥井、三条西の四家が、書道は清水谷、持明院の二家が担当しました。
19世紀初期に刊行された「諸道家元鑑」によれば家元制度を持つ諸芸能は31あります。宗教関係と現在では家元制度でなくなった囲碁将棋を除くと26になります。内17が公卿の家職です。儒道9家、陰陽道2家、亀卜1家、衣紋2家、和歌3家、笙4家、篳篥3家、笛3家、琵琶4家、和琴1家、神楽3家、左舞1家、右舞2家、書道4家、蹴鞠1家、です。舞は雅楽のことです。公卿は15の分野の文化芸能の家元でした。残る九つは能楽、武家作法、連歌、俳諧、茶道、画工などです。連歌俳諧の出発点は和歌ですし、武家作法も朝廷の儀礼が本家です。画工も本来は朝廷専属でした。能楽の起源の一つは雅楽です。能の主人公はなんらかの意味で天地の神々の変体です。能楽の大成者である世阿弥は「風姿花伝」で、能楽は天岩戸から天照大御神を誘い出したアメノウズメの踊りが起源であると、その権威を朝廷の祭儀に求めます。
このように見てくると江戸時代の文化芸能遊戯などの大部分、特に様式化した古典的芸能は朝廷公卿にその根幹を握られていたことになります。寺院起源の祭事芸能を加えるとその数はもっと増えます。朝廷は民衆文化の大部分に関与していました。
朝廷と民衆は幕府の考えていたのとは違う次元で結びついていました。即位における大嘗祭、様式化された政治行為、文化技芸の掌握、そして年中行事を通じて天皇は別の形の君主、それも決して形式的とはいえない君主でした。江戸時代の民衆は遊び好きです。識字率は高く、みな学問遊芸を学び、人生を楽しみました。
文化は別種の次元の政治です。下は民衆の享楽から、上は芸術学問神事に到る体系を通して文化は権威の存在を予示します。納得できる権威の背景基盤が文化です。我々は文化を共有することにより共同体の一員であることを納得します。この納得が権威の背景です。権威がなければ権力は単なる暴力に過ぎません。江戸時代を通じて天皇は文化の君主でした。付言すれば将軍の正室は摂関家の子女と決まっており、内親王が将軍家に降嫁することは原則としてありません。14代家茂への和宮降嫁が唯一の例外ですが、この時幕府の命脈は尽きようとしていました。
江戸時代幕府は朝廷を監視はしましたが尊重もしました。五代綱吉の時、日光参詣は中止され幕府の伊勢神宮参拝が始まります。幼童将軍七代家継の正室には霊元天皇の皇女八十宮内親王の降嫁が企てられました。新井白石の計らいで東山天皇の皇子直仁親王を祖とする閑院宮家が建てられました。現在の皇室は閑院宮家のご子孫です。八代吉宗は財政難の中、桜町天皇即位の大嘗祭施行に協力しました。それまで大嘗祭は費用がかかるので中止されていました。伊勢神宮以下、賀茂、松尾、平野、石清水、春日、宇佐八幡など朝廷ゆかりの神社への奉幣使が復活されます。民間でも本居宣長、藤田幽谷、中井竹山などは、朝廷を正式政府とする意見を公然と唱えます。松平定信は大政委任論、幕府の権力は朝廷から委任されたものだと言い出します。外国船が日本周辺で出没すると朝廷は幕府に、国防をしっかり、と意見を述べ干渉します。江戸時代民衆は盛んに伊勢参りをしました。
幕府は朝廷を尊崇しつつ、監視は厳しく天皇が皇居の外に出ることを事実上禁止しました。要するに天皇という存在は幕府にとっても誰にとっても触れてはならない禁忌でした。幕府は天皇の文化的政治的価値を充分認識していました。
天皇は江戸時代を通じて儀礼の執行者であり文化の守護者でした。天皇朝廷は深く民衆文化に関与しました。文化を共有する事においてのみ円滑な統治は可能です。天皇は文化そのものであり統治権力の背景であり深層です。幕府はこの事をよく理解しておりだから天皇の存在を禁忌として民衆の眼から遠ざけました。安定した文化の保持は統治を柔らかく平等なものにします。
鎌倉幕府成立に伴い朝廷は政治の実権を失います。以後700年武家政権が続きます。その間天皇はいかなる存在であったのでしょうか。答えは儀礼の執行者、そして文化の守護者、いや文化そのものです。摂関政治の成立により、天皇は実際の政治より、政治の演出である儀礼の執行者に役割を求めるようになります。併行して年中行事の慣例が平安時代中期、摂関政治の全盛期に確立します。儀礼の項目約400、代表的な年中行事は正月の四方拝、朝賀、白馬節会、3月の曲水宴(雛祭り)、彼岸、5月の端午の節句、7月の七夕、盂蘭盆会、9月の重陽宴、11月の新嘗祭、豊明節会、12月の追ナなどです。年中行事は宮中のみならず公卿の家でも行なわれ民間にも広がりました。年中行事は自然の循環とそれに伴う生活を祝うことです。主催者は天皇です。年中行事の執行は勅撰和歌集の編纂と意図を同じくし、儀式を通じて天皇が自然の進行に働きかけ統御する試みです。
鎌倉時代初期に藤原定家がこれらの行事に包まれる美意識をまとめます。彼は王朝の美意識を和歌と源氏物語に集約しました。以後古今伝授という慣習が作られます。和歌作成と源氏物語の理解が伝統的美意識の基準になります。古今伝授とはこの美意識を師匠から弟子へ秘伝として伝える習慣です。室町戦国期の公卿達は古今伝授やそれに伴う文化的行為の指南で生活しました。
江戸時代になります。天皇公卿は幕府から10万石のみを給付されほぼ完全に政治行為から遠ざけられます。公卿諸法度が作られ、天皇と公卿は伝統的な学問文化の保持に専心するように、幕府から指導されます。公卿はそれぞれの家により専修する学問文化を分担します。公卿は幕末の時点で約150家あり、摂関、清華、大臣、羽林、名家の5段階に分かれます。摂関家以外の諸家が学問文化を担当します。神祇、和歌、書道、神楽、蹴鞠、楽、明経、装束、陰陽などです。明経は儒学の五経の講義、陰陽は占い、神祇は神祭の司会、楽は琴、和琴、琵琶、笛、笙、篳篥など管弦の演奏です。和歌は二条、冷泉、飛鳥井、三条西の四家が、書道は清水谷、持明院の二家が担当しました。
19世紀初期に刊行された「諸道家元鑑」によれば家元制度を持つ諸芸能は31あります。宗教関係と現在では家元制度でなくなった囲碁将棋を除くと26になります。内17が公卿の家職です。儒道9家、陰陽道2家、亀卜1家、衣紋2家、和歌3家、笙4家、篳篥3家、笛3家、琵琶4家、和琴1家、神楽3家、左舞1家、右舞2家、書道4家、蹴鞠1家、です。舞は雅楽のことです。公卿は15の分野の文化芸能の家元でした。残る九つは能楽、武家作法、連歌、俳諧、茶道、画工などです。連歌俳諧の出発点は和歌ですし、武家作法も朝廷の儀礼が本家です。画工も本来は朝廷専属でした。能楽の起源の一つは雅楽です。能の主人公はなんらかの意味で天地の神々の変体です。能楽の大成者である世阿弥は「風姿花伝」で、能楽は天岩戸から天照大御神を誘い出したアメノウズメの踊りが起源であると、その権威を朝廷の祭儀に求めます。
このように見てくると江戸時代の文化芸能遊戯などの大部分、特に様式化した古典的芸能は朝廷公卿にその根幹を握られていたことになります。寺院起源の祭事芸能を加えるとその数はもっと増えます。朝廷は民衆文化の大部分に関与していました。
朝廷と民衆は幕府の考えていたのとは違う次元で結びついていました。即位における大嘗祭、様式化された政治行為、文化技芸の掌握、そして年中行事を通じて天皇は別の形の君主、それも決して形式的とはいえない君主でした。江戸時代の民衆は遊び好きです。識字率は高く、みな学問遊芸を学び、人生を楽しみました。
文化は別種の次元の政治です。下は民衆の享楽から、上は芸術学問神事に到る体系を通して文化は権威の存在を予示します。納得できる権威の背景基盤が文化です。我々は文化を共有することにより共同体の一員であることを納得します。この納得が権威の背景です。権威がなければ権力は単なる暴力に過ぎません。江戸時代を通じて天皇は文化の君主でした。付言すれば将軍の正室は摂関家の子女と決まっており、内親王が将軍家に降嫁することは原則としてありません。14代家茂への和宮降嫁が唯一の例外ですが、この時幕府の命脈は尽きようとしていました。
江戸時代幕府は朝廷を監視はしましたが尊重もしました。五代綱吉の時、日光参詣は中止され幕府の伊勢神宮参拝が始まります。幼童将軍七代家継の正室には霊元天皇の皇女八十宮内親王の降嫁が企てられました。新井白石の計らいで東山天皇の皇子直仁親王を祖とする閑院宮家が建てられました。現在の皇室は閑院宮家のご子孫です。八代吉宗は財政難の中、桜町天皇即位の大嘗祭施行に協力しました。それまで大嘗祭は費用がかかるので中止されていました。伊勢神宮以下、賀茂、松尾、平野、石清水、春日、宇佐八幡など朝廷ゆかりの神社への奉幣使が復活されます。民間でも本居宣長、藤田幽谷、中井竹山などは、朝廷を正式政府とする意見を公然と唱えます。松平定信は大政委任論、幕府の権力は朝廷から委任されたものだと言い出します。外国船が日本周辺で出没すると朝廷は幕府に、国防をしっかり、と意見を述べ干渉します。江戸時代民衆は盛んに伊勢参りをしました。
幕府は朝廷を尊崇しつつ、監視は厳しく天皇が皇居の外に出ることを事実上禁止しました。要するに天皇という存在は幕府にとっても誰にとっても触れてはならない禁忌でした。幕府は天皇の文化的政治的価値を充分認識していました。
天皇は江戸時代を通じて儀礼の執行者であり文化の守護者でした。天皇朝廷は深く民衆文化に関与しました。文化を共有する事においてのみ円滑な統治は可能です。天皇は文化そのものであり統治権力の背景であり深層です。幕府はこの事をよく理解しておりだから天皇の存在を禁忌として民衆の眼から遠ざけました。安定した文化の保持は統治を柔らかく平等なものにします。