経済人列伝 三井高利
昭和の恐慌で中小銀行は潰れ、金融界は三井、三菱、住友、安田、第一の5大銀行中心に編成されました。三菱は岩崎弥太郎、安田は安田善次郎、第一は渋沢栄一の創立になります。では三井や住友の創立はいつか、と質問したくなります。彼らは江戸時代から両替商という金融業(だけではありませんが)に従事してきました。今回は三井財閥の始祖、三井高利についてお話しましょう。時代は200-300年遡ります。
三井高利は1622(元和8)年伊勢松阪に生まれました。大阪夏の陣が終わり、豊臣氏は滅び、徳川幕府の権威が確立しようとする時期にあたります。高利が生まれた年から、死去する1694(元禄7)年の70年間は、日本の経済の大きな転換点になります。幕藩体制は当初、300有余の大名が領地を経営し、そこから上がる年貢米を大阪に回航させ、換金し江戸在住の費用にあてるとともに、領地に諸商品を持ち帰って、農民に販売する、というシステムでした。当然そこには領主である将軍や大名と結託した御用商人が介在します。これを領主的商品経済と言います。大名あるいは御用商人が大名城下町と大阪に介在し、同時に大名領では城下町と農村の間に商取引が行われていました。平和が続きますと、農民の生産性が上がってきます。米より収益の高い商品作物(木綿、養蚕、菜種、藍や紅花など)を栽培します。大阪周辺のような先進遅滞では農民は幕府の禁令にも関わらず、菜種や木綿を栽培しました。農民の生産性が上がると、商品の量は飛躍的に増えます。従来の御用商人ではさばき切れません。加えて彼らは大名と結託しているので、農民にすれば安心できません。独占団体ですから買い叩かれます。生産量を把握されて領主に通報されれば、年貢はきっちり取られます。農村経済を基盤とする、領主から独立した新興商人層が台頭してきます。三井高利はそういう新興商人であり、時代の変化を鋭く読んで、新しい経営を開拓しました。
(付)特権的御用商人としては、幕府に限れば茶屋氏と後藤氏が代表的です。彼らは帯刀と将軍にお目見えを許されました。ご奉公はなかなか大変でした。見返りが幕府独占事業への参入です。金銀座、外国貿易、鉱山経営などが主な事業です。また紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎、奈良屋茂左衛門などもこの範疇に入ります。
先祖は御堂関白藤原道長で、戦国の豪族の子孫だと言いますが、そうかどうか?蒲生氏郷と関係があった事は確かです。先祖は近江出身という事になります。高利の生家は父高俊の代には松阪でほどほどの商人でした。質屋をしながら、味噌醤油を商っていました。母親の殊法がやり手でした。14歳高利は江戸へ出て、長兄俊次の店に手代奉公します。掛け金取りが抜群に上手く、商才にたけ、10年で兄の身上を10倍にさせます。兄は高利の商才を恐れて、松阪に追い返します。この時高利はすでに銀で200貫(金換算では3000両以上でしょう 私なら以後は遊んで暮らします)の財産を所有していました。
松阪で商売を始めます。主として金融業です。このやり方がなかなか面白い。貸す相手の主だったところは、大名と農村です。前者を大名貸し、後者を郷貸しと言います。利回りは年で大体、13-14%くらい、大名貸しには担保なし、郷貸しには担保ありです。郷貸しができたのは、そのくらい農民経済が発達してきたからです。特に松阪は木綿の生産地として裕福でした。もう少し後に現れる、本居宣長の生家は木綿問屋です。米貸しという手法も高利は使います。金で貸して、米で返してもらいます。米の値段の変化を読めば投機で儲かります。分貸しというやり方も使います。出資者を分散する手法です。さらに現在で言えば当座貸越しのような事もしていました。貨幣を預かります、そしてコ-ルオ-ヴァ-もOKです。これはお客へのサ-ヴィスのようですが、これでお客は資金繰りを円滑にできます。貨幣流通領を増やすのですから。ともかく高利は、彼の人生では比較的不遇だったこの時期、いろいろ発案しながら商売をしています。
1673年高利52歳の時、眼の上のこぶであった長兄俊次が死去します。以後の20年間、高利は大活躍します。彼はすぐ江戸本町一丁目に呉服屋を開きます。彼自身が経営するのではなく、長男高平に経営させます。店名は「越後屋八郎右衛門店」です。同時に京都に仕入れ店を始めます。これも子供に経営させます。当時の呉服の生産地は京都です。最大の消費地が江戸です。京都で仕入れ江戸で販売します。だから江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)が呉服商の理想でした。そうでないと面白い商いはできません。
この間高利は本拠地である松阪に在住し、手紙で指図し、時々江戸へ出向いては直接指示しています。当時の呉服屋の商いは、得意先を回って注文を聞いて後に品物を持参する見せ物売りと屋敷へ直接品物を持ち込んで売る屋敷売りの、二種類ありました。いずれも盆と暮れの二節季払い、つまり掛売りです。この商法は、資金の回転が遅いのと、掛け金の取りそこねが頻発するので、リスクが大きく、従って売る方も高く値をつけます。
高利は色々な商い方を考案しました。主として奥州方面に売りさばく小売商人に品物を渡して売らします。この点では高利は卸売り商になります。諸国商人売り、と言います。店頭で顧客に直接販売する、店前売り(みせさきうり)、顧客の注文に併せて、小さい布の断片を売る、切り売りもします。すべて現金掛け値なしをモット-にします。顧客に商品の説明を懇切にする事も忘れません。こうして越後屋の商品は低廉な価格になりました。商売は大繁盛です。店規と符牒も定められます。後者は商取引上の秘密を保持するためです。店規では特に、賭博・遊女買い、掛売り、金銭の貸借、喧嘩と徒党を組む事などが厳しく禁止されています。衣服はすべて木綿でした。これは高利の縁戚も同様です。また使用人の採用にはすべて請け人が必要とされました。他の業者から妨害が入ります。新しい商法をする時どこも同じです。さらに他の兄弟の店と区別するためか、それまでの家紋を改めます。現在三井のシンボルになっている、「井」の中に「三」を入れた通称イゲタサン、という家紋が定められました。この間に剃髪して法名を宗寿と名乗ります。
62歳火災を機に江戸店を駿河町に移します。正札販売の広告を江戸市内に出します。これも当時としては斬新な手法でした。店頭で即仕立てして売るという方法も考案します。当時店員は約70名くらい、店内分業のシステムも整います。高利が死去して数年後の駿河町越後屋の年間総売り上げは、銀で7000-8000貫、これに17-20を掛けると小判の数が出てきます。京都にも第2号店を出します。越後屋が特に商っていた商品は、西陣織りと唐物(中国産製品)でした。西陣の直買権を手に入れます。江戸では本店の向かいに第2号店を設けます。ここでは京呉服より廉価な商品、つまり桐生足利など関東産の絹織物と木綿製品を販売します。この間幕府の御納戸用達に任命されます。特権商人への仲間入りです。しかし高利はあまり気乗りしませんでした。幕府御用の方はあまり儲からなかったようです。高利の方針は、御用達しの方は適当に、商売を犠牲にしてまではするな、儲かる限りやれ、でした。しかし幕府御用をおおせつかった事は別の点で高利に大きな営利の機会を当たえます。
1686年65歳、高利は本拠を松阪から京都に移し両替商を始めます。両替商の仕事は、文字通り取れば、金銀銭三貨制の当時にあたって、三貨を日日の時価に即して交換し、手数料を取る事です。高利のように大きな資本を持つ者は荷為替を扱います。当時江戸大阪間の商取引では金銀を直送しません。為替にします。その手数料と利回りが、両替商の収入でした。しかし江戸は商品の受け手、大阪は送り手では金銀は江戸から大阪に来るだけで、これでは為替業務は不十分です。ここで大きなチャンスがやってきます。高利は大阪御金蔵金銀御為替御用をおおせつかります。もちろん彼一人ではありませんが。幕領や各藩の米は大阪に廻されます。ここで売りさばき換金して金を江戸に送ります。この時米を取り扱う大阪商人に為替を作らせそれで支払いにあてさせます。為替(一片の紙切れですが)は江戸に廻され、大阪からの商品を受け取った江戸商人が為替を金に変えます。こうすれば江戸大阪間の商品と金銭の流通は極めてスム-スに行くことになります。高利はこれで大いに儲けました。為替の実質的利回りはだいたい13-16%でした。お上の米や金銀を扱うのですから、安全確実です。この方法は、大名・幕府、江戸大阪の商人には大きな便益を与えました。しかし一番喜んだのは街道沿いの農民でした。重い荷物が行き来すると、何かと賦役に狩り出されるのが当時の習いでしたから。
1694年73歳で死去。彼が生前愛した風景に近い京都真如堂に葬られています。高利は大名貸しを子孫に厳しく禁じました。高利在世中も、紀州藩と牧野成貞という特殊な関係のある大名を除いては、大名への貸付はしていまさせん。また相場、鉱山経営、新田開発、土木事業などリスクの高い仕事には手を出さない事、政権には近づかない事などを子孫に命じています。それはそれで結構ですが、この家訓が維新の時、新しい産業にあまり手を出さず、あくまで金融と商業を主にして、製造業で三菱に遅れを取った遠因かもしれません。
三井と越後屋の店員は、主人、元締、支配人、組頭、手代、丁稚という階層システムに組み込まれていました。賞与制を考え出したのも高利だといわれています。
しかし資産は徹底した同族結合による管理下に置かれました。総資産は一括して共同で所有され共同で管理されます。両替と呉服商いから上がる利益は資産の中に組み込まれます。その内から定められた配分率に従って、利潤が分配されました。大元方の中で経験と年齢に従って、指導者を選出します。指導者は親分と呼ばれました。高利の長男高平の家系が本家です。本家の長は代々「八郎右衛門」と名乗ります。現在でもこの名称の人物はおられるはずです。三井はやがて主人層より、番頭が経営する体制になってゆきます。幕末の波乱に際して三井を存亡の危機から護り、三井財閥の基礎を気づいた三野村利左衛門などが代表です。高利の子供は男女・嫡庶・養子をあわせると、18人に及びます。この内嫡出男子6人を大元方として、彼らが資産を所有します。以後この六家は長子相続になります。維新以後六家は合名会社を作ります。次男以下は別家を作り、女子は連家として、一定の配分に預かりました。しかし財産を外に散らさないようにするために、なるべく同族同士の近親結婚が奨励されました。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
昭和の恐慌で中小銀行は潰れ、金融界は三井、三菱、住友、安田、第一の5大銀行中心に編成されました。三菱は岩崎弥太郎、安田は安田善次郎、第一は渋沢栄一の創立になります。では三井や住友の創立はいつか、と質問したくなります。彼らは江戸時代から両替商という金融業(だけではありませんが)に従事してきました。今回は三井財閥の始祖、三井高利についてお話しましょう。時代は200-300年遡ります。
三井高利は1622(元和8)年伊勢松阪に生まれました。大阪夏の陣が終わり、豊臣氏は滅び、徳川幕府の権威が確立しようとする時期にあたります。高利が生まれた年から、死去する1694(元禄7)年の70年間は、日本の経済の大きな転換点になります。幕藩体制は当初、300有余の大名が領地を経営し、そこから上がる年貢米を大阪に回航させ、換金し江戸在住の費用にあてるとともに、領地に諸商品を持ち帰って、農民に販売する、というシステムでした。当然そこには領主である将軍や大名と結託した御用商人が介在します。これを領主的商品経済と言います。大名あるいは御用商人が大名城下町と大阪に介在し、同時に大名領では城下町と農村の間に商取引が行われていました。平和が続きますと、農民の生産性が上がってきます。米より収益の高い商品作物(木綿、養蚕、菜種、藍や紅花など)を栽培します。大阪周辺のような先進遅滞では農民は幕府の禁令にも関わらず、菜種や木綿を栽培しました。農民の生産性が上がると、商品の量は飛躍的に増えます。従来の御用商人ではさばき切れません。加えて彼らは大名と結託しているので、農民にすれば安心できません。独占団体ですから買い叩かれます。生産量を把握されて領主に通報されれば、年貢はきっちり取られます。農村経済を基盤とする、領主から独立した新興商人層が台頭してきます。三井高利はそういう新興商人であり、時代の変化を鋭く読んで、新しい経営を開拓しました。
(付)特権的御用商人としては、幕府に限れば茶屋氏と後藤氏が代表的です。彼らは帯刀と将軍にお目見えを許されました。ご奉公はなかなか大変でした。見返りが幕府独占事業への参入です。金銀座、外国貿易、鉱山経営などが主な事業です。また紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎、奈良屋茂左衛門などもこの範疇に入ります。
先祖は御堂関白藤原道長で、戦国の豪族の子孫だと言いますが、そうかどうか?蒲生氏郷と関係があった事は確かです。先祖は近江出身という事になります。高利の生家は父高俊の代には松阪でほどほどの商人でした。質屋をしながら、味噌醤油を商っていました。母親の殊法がやり手でした。14歳高利は江戸へ出て、長兄俊次の店に手代奉公します。掛け金取りが抜群に上手く、商才にたけ、10年で兄の身上を10倍にさせます。兄は高利の商才を恐れて、松阪に追い返します。この時高利はすでに銀で200貫(金換算では3000両以上でしょう 私なら以後は遊んで暮らします)の財産を所有していました。
松阪で商売を始めます。主として金融業です。このやり方がなかなか面白い。貸す相手の主だったところは、大名と農村です。前者を大名貸し、後者を郷貸しと言います。利回りは年で大体、13-14%くらい、大名貸しには担保なし、郷貸しには担保ありです。郷貸しができたのは、そのくらい農民経済が発達してきたからです。特に松阪は木綿の生産地として裕福でした。もう少し後に現れる、本居宣長の生家は木綿問屋です。米貸しという手法も高利は使います。金で貸して、米で返してもらいます。米の値段の変化を読めば投機で儲かります。分貸しというやり方も使います。出資者を分散する手法です。さらに現在で言えば当座貸越しのような事もしていました。貨幣を預かります、そしてコ-ルオ-ヴァ-もOKです。これはお客へのサ-ヴィスのようですが、これでお客は資金繰りを円滑にできます。貨幣流通領を増やすのですから。ともかく高利は、彼の人生では比較的不遇だったこの時期、いろいろ発案しながら商売をしています。
1673年高利52歳の時、眼の上のこぶであった長兄俊次が死去します。以後の20年間、高利は大活躍します。彼はすぐ江戸本町一丁目に呉服屋を開きます。彼自身が経営するのではなく、長男高平に経営させます。店名は「越後屋八郎右衛門店」です。同時に京都に仕入れ店を始めます。これも子供に経営させます。当時の呉服の生産地は京都です。最大の消費地が江戸です。京都で仕入れ江戸で販売します。だから江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)が呉服商の理想でした。そうでないと面白い商いはできません。
この間高利は本拠地である松阪に在住し、手紙で指図し、時々江戸へ出向いては直接指示しています。当時の呉服屋の商いは、得意先を回って注文を聞いて後に品物を持参する見せ物売りと屋敷へ直接品物を持ち込んで売る屋敷売りの、二種類ありました。いずれも盆と暮れの二節季払い、つまり掛売りです。この商法は、資金の回転が遅いのと、掛け金の取りそこねが頻発するので、リスクが大きく、従って売る方も高く値をつけます。
高利は色々な商い方を考案しました。主として奥州方面に売りさばく小売商人に品物を渡して売らします。この点では高利は卸売り商になります。諸国商人売り、と言います。店頭で顧客に直接販売する、店前売り(みせさきうり)、顧客の注文に併せて、小さい布の断片を売る、切り売りもします。すべて現金掛け値なしをモット-にします。顧客に商品の説明を懇切にする事も忘れません。こうして越後屋の商品は低廉な価格になりました。商売は大繁盛です。店規と符牒も定められます。後者は商取引上の秘密を保持するためです。店規では特に、賭博・遊女買い、掛売り、金銭の貸借、喧嘩と徒党を組む事などが厳しく禁止されています。衣服はすべて木綿でした。これは高利の縁戚も同様です。また使用人の採用にはすべて請け人が必要とされました。他の業者から妨害が入ります。新しい商法をする時どこも同じです。さらに他の兄弟の店と区別するためか、それまでの家紋を改めます。現在三井のシンボルになっている、「井」の中に「三」を入れた通称イゲタサン、という家紋が定められました。この間に剃髪して法名を宗寿と名乗ります。
62歳火災を機に江戸店を駿河町に移します。正札販売の広告を江戸市内に出します。これも当時としては斬新な手法でした。店頭で即仕立てして売るという方法も考案します。当時店員は約70名くらい、店内分業のシステムも整います。高利が死去して数年後の駿河町越後屋の年間総売り上げは、銀で7000-8000貫、これに17-20を掛けると小判の数が出てきます。京都にも第2号店を出します。越後屋が特に商っていた商品は、西陣織りと唐物(中国産製品)でした。西陣の直買権を手に入れます。江戸では本店の向かいに第2号店を設けます。ここでは京呉服より廉価な商品、つまり桐生足利など関東産の絹織物と木綿製品を販売します。この間幕府の御納戸用達に任命されます。特権商人への仲間入りです。しかし高利はあまり気乗りしませんでした。幕府御用の方はあまり儲からなかったようです。高利の方針は、御用達しの方は適当に、商売を犠牲にしてまではするな、儲かる限りやれ、でした。しかし幕府御用をおおせつかった事は別の点で高利に大きな営利の機会を当たえます。
1686年65歳、高利は本拠を松阪から京都に移し両替商を始めます。両替商の仕事は、文字通り取れば、金銀銭三貨制の当時にあたって、三貨を日日の時価に即して交換し、手数料を取る事です。高利のように大きな資本を持つ者は荷為替を扱います。当時江戸大阪間の商取引では金銀を直送しません。為替にします。その手数料と利回りが、両替商の収入でした。しかし江戸は商品の受け手、大阪は送り手では金銀は江戸から大阪に来るだけで、これでは為替業務は不十分です。ここで大きなチャンスがやってきます。高利は大阪御金蔵金銀御為替御用をおおせつかります。もちろん彼一人ではありませんが。幕領や各藩の米は大阪に廻されます。ここで売りさばき換金して金を江戸に送ります。この時米を取り扱う大阪商人に為替を作らせそれで支払いにあてさせます。為替(一片の紙切れですが)は江戸に廻され、大阪からの商品を受け取った江戸商人が為替を金に変えます。こうすれば江戸大阪間の商品と金銭の流通は極めてスム-スに行くことになります。高利はこれで大いに儲けました。為替の実質的利回りはだいたい13-16%でした。お上の米や金銀を扱うのですから、安全確実です。この方法は、大名・幕府、江戸大阪の商人には大きな便益を与えました。しかし一番喜んだのは街道沿いの農民でした。重い荷物が行き来すると、何かと賦役に狩り出されるのが当時の習いでしたから。
1694年73歳で死去。彼が生前愛した風景に近い京都真如堂に葬られています。高利は大名貸しを子孫に厳しく禁じました。高利在世中も、紀州藩と牧野成貞という特殊な関係のある大名を除いては、大名への貸付はしていまさせん。また相場、鉱山経営、新田開発、土木事業などリスクの高い仕事には手を出さない事、政権には近づかない事などを子孫に命じています。それはそれで結構ですが、この家訓が維新の時、新しい産業にあまり手を出さず、あくまで金融と商業を主にして、製造業で三菱に遅れを取った遠因かもしれません。
三井と越後屋の店員は、主人、元締、支配人、組頭、手代、丁稚という階層システムに組み込まれていました。賞与制を考え出したのも高利だといわれています。
しかし資産は徹底した同族結合による管理下に置かれました。総資産は一括して共同で所有され共同で管理されます。両替と呉服商いから上がる利益は資産の中に組み込まれます。その内から定められた配分率に従って、利潤が分配されました。大元方の中で経験と年齢に従って、指導者を選出します。指導者は親分と呼ばれました。高利の長男高平の家系が本家です。本家の長は代々「八郎右衛門」と名乗ります。現在でもこの名称の人物はおられるはずです。三井はやがて主人層より、番頭が経営する体制になってゆきます。幕末の波乱に際して三井を存亡の危機から護り、三井財閥の基礎を気づいた三野村利左衛門などが代表です。高利の子供は男女・嫡庶・養子をあわせると、18人に及びます。この内嫡出男子6人を大元方として、彼らが資産を所有します。以後この六家は長子相続になります。維新以後六家は合名会社を作ります。次男以下は別家を作り、女子は連家として、一定の配分に預かりました。しかし財産を外に散らさないようにするために、なるべく同族同士の近親結婚が奨励されました。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行