経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   経済人列伝  三井高利

2021-04-30 21:12:28 | Weblog
経済人列伝  三井高利

昭和の恐慌で中小銀行は潰れ、金融界は三井、三菱、住友、安田、第一の5大銀行中心に編成されました。三菱は岩崎弥太郎、安田は安田善次郎、第一は渋沢栄一の創立になります。では三井や住友の創立はいつか、と質問したくなります。彼らは江戸時代から両替商という金融業(だけではありませんが)に従事してきました。今回は三井財閥の始祖、三井高利についてお話しましょう。時代は200-300年遡ります。
 三井高利は1622(元和8)年伊勢松阪に生まれました。大阪夏の陣が終わり、豊臣氏は滅び、徳川幕府の権威が確立しようとする時期にあたります。高利が生まれた年から、死去する1694(元禄7)年の70年間は、日本の経済の大きな転換点になります。幕藩体制は当初、300有余の大名が領地を経営し、そこから上がる年貢米を大阪に回航させ、換金し江戸在住の費用にあてるとともに、領地に諸商品を持ち帰って、農民に販売する、というシステムでした。当然そこには領主である将軍や大名と結託した御用商人が介在します。これを領主的商品経済と言います。大名あるいは御用商人が大名城下町と大阪に介在し、同時に大名領では城下町と農村の間に商取引が行われていました。平和が続きますと、農民の生産性が上がってきます。米より収益の高い商品作物(木綿、養蚕、菜種、藍や紅花など)を栽培します。大阪周辺のような先進遅滞では農民は幕府の禁令にも関わらず、菜種や木綿を栽培しました。農民の生産性が上がると、商品の量は飛躍的に増えます。従来の御用商人ではさばき切れません。加えて彼らは大名と結託しているので、農民にすれば安心できません。独占団体ですから買い叩かれます。生産量を把握されて領主に通報されれば、年貢はきっちり取られます。農村経済を基盤とする、領主から独立した新興商人層が台頭してきます。三井高利はそういう新興商人であり、時代の変化を鋭く読んで、新しい経営を開拓しました。
(付)特権的御用商人としては、幕府に限れば茶屋氏と後藤氏が代表的です。彼らは帯刀と将軍にお目見えを許されました。ご奉公はなかなか大変でした。見返りが幕府独占事業への参入です。金銀座、外国貿易、鉱山経営などが主な事業です。また紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎、奈良屋茂左衛門などもこの範疇に入ります。
 先祖は御堂関白藤原道長で、戦国の豪族の子孫だと言いますが、そうかどうか?蒲生氏郷と関係があった事は確かです。先祖は近江出身という事になります。高利の生家は父高俊の代には松阪でほどほどの商人でした。質屋をしながら、味噌醤油を商っていました。母親の殊法がやり手でした。14歳高利は江戸へ出て、長兄俊次の店に手代奉公します。掛け金取りが抜群に上手く、商才にたけ、10年で兄の身上を10倍にさせます。兄は高利の商才を恐れて、松阪に追い返します。この時高利はすでに銀で200貫(金換算では3000両以上でしょう 私なら以後は遊んで暮らします)の財産を所有していました。   
松阪で商売を始めます。主として金融業です。このやり方がなかなか面白い。貸す相手の主だったところは、大名と農村です。前者を大名貸し、後者を郷貸しと言います。利回りは年で大体、13-14%くらい、大名貸しには担保なし、郷貸しには担保ありです。郷貸しができたのは、そのくらい農民経済が発達してきたからです。特に松阪は木綿の生産地として裕福でした。もう少し後に現れる、本居宣長の生家は木綿問屋です。米貸しという手法も高利は使います。金で貸して、米で返してもらいます。米の値段の変化を読めば投機で儲かります。分貸しというやり方も使います。出資者を分散する手法です。さらに現在で言えば当座貸越しのような事もしていました。貨幣を預かります、そしてコ-ルオ-ヴァ-もOKです。これはお客へのサ-ヴィスのようですが、これでお客は資金繰りを円滑にできます。貨幣流通領を増やすのですから。ともかく高利は、彼の人生では比較的不遇だったこの時期、いろいろ発案しながら商売をしています。
 1673年高利52歳の時、眼の上のこぶであった長兄俊次が死去します。以後の20年間、高利は大活躍します。彼はすぐ江戸本町一丁目に呉服屋を開きます。彼自身が経営するのではなく、長男高平に経営させます。店名は「越後屋八郎右衛門店」です。同時に京都に仕入れ店を始めます。これも子供に経営させます。当時の呉服の生産地は京都です。最大の消費地が江戸です。京都で仕入れ江戸で販売します。だから江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)が呉服商の理想でした。そうでないと面白い商いはできません。
この間高利は本拠地である松阪に在住し、手紙で指図し、時々江戸へ出向いては直接指示しています。当時の呉服屋の商いは、得意先を回って注文を聞いて後に品物を持参する見せ物売りと屋敷へ直接品物を持ち込んで売る屋敷売りの、二種類ありました。いずれも盆と暮れの二節季払い、つまり掛売りです。この商法は、資金の回転が遅いのと、掛け金の取りそこねが頻発するので、リスクが大きく、従って売る方も高く値をつけます。
 高利は色々な商い方を考案しました。主として奥州方面に売りさばく小売商人に品物を渡して売らします。この点では高利は卸売り商になります。諸国商人売り、と言います。店頭で顧客に直接販売する、店前売り(みせさきうり)、顧客の注文に併せて、小さい布の断片を売る、切り売りもします。すべて現金掛け値なしをモット-にします。顧客に商品の説明を懇切にする事も忘れません。こうして越後屋の商品は低廉な価格になりました。商売は大繁盛です。店規と符牒も定められます。後者は商取引上の秘密を保持するためです。店規では特に、賭博・遊女買い、掛売り、金銭の貸借、喧嘩と徒党を組む事などが厳しく禁止されています。衣服はすべて木綿でした。これは高利の縁戚も同様です。また使用人の採用にはすべて請け人が必要とされました。他の業者から妨害が入ります。新しい商法をする時どこも同じです。さらに他の兄弟の店と区別するためか、それまでの家紋を改めます。現在三井のシンボルになっている、「井」の中に「三」を入れた通称イゲタサン、という家紋が定められました。この間に剃髪して法名を宗寿と名乗ります。
 62歳火災を機に江戸店を駿河町に移します。正札販売の広告を江戸市内に出します。これも当時としては斬新な手法でした。店頭で即仕立てして売るという方法も考案します。当時店員は約70名くらい、店内分業のシステムも整います。高利が死去して数年後の駿河町越後屋の年間総売り上げは、銀で7000-8000貫、これに17-20を掛けると小判の数が出てきます。京都にも第2号店を出します。越後屋が特に商っていた商品は、西陣織りと唐物(中国産製品)でした。西陣の直買権を手に入れます。江戸では本店の向かいに第2号店を設けます。ここでは京呉服より廉価な商品、つまり桐生足利など関東産の絹織物と木綿製品を販売します。この間幕府の御納戸用達に任命されます。特権商人への仲間入りです。しかし高利はあまり気乗りしませんでした。幕府御用の方はあまり儲からなかったようです。高利の方針は、御用達しの方は適当に、商売を犠牲にしてまではするな、儲かる限りやれ、でした。しかし幕府御用をおおせつかった事は別の点で高利に大きな営利の機会を当たえます。
 1686年65歳、高利は本拠を松阪から京都に移し両替商を始めます。両替商の仕事は、文字通り取れば、金銀銭三貨制の当時にあたって、三貨を日日の時価に即して交換し、手数料を取る事です。高利のように大きな資本を持つ者は荷為替を扱います。当時江戸大阪間の商取引では金銀を直送しません。為替にします。その手数料と利回りが、両替商の収入でした。しかし江戸は商品の受け手、大阪は送り手では金銀は江戸から大阪に来るだけで、これでは為替業務は不十分です。ここで大きなチャンスがやってきます。高利は大阪御金蔵金銀御為替御用をおおせつかります。もちろん彼一人ではありませんが。幕領や各藩の米は大阪に廻されます。ここで売りさばき換金して金を江戸に送ります。この時米を取り扱う大阪商人に為替を作らせそれで支払いにあてさせます。為替(一片の紙切れですが)は江戸に廻され、大阪からの商品を受け取った江戸商人が為替を金に変えます。こうすれば江戸大阪間の商品と金銭の流通は極めてスム-スに行くことになります。高利はこれで大いに儲けました。為替の実質的利回りはだいたい13-16%でした。お上の米や金銀を扱うのですから、安全確実です。この方法は、大名・幕府、江戸大阪の商人には大きな便益を与えました。しかし一番喜んだのは街道沿いの農民でした。重い荷物が行き来すると、何かと賦役に狩り出されるのが当時の習いでしたから。
 1694年73歳で死去。彼が生前愛した風景に近い京都真如堂に葬られています。高利は大名貸しを子孫に厳しく禁じました。高利在世中も、紀州藩と牧野成貞という特殊な関係のある大名を除いては、大名への貸付はしていまさせん。また相場、鉱山経営、新田開発、土木事業などリスクの高い仕事には手を出さない事、政権には近づかない事などを子孫に命じています。それはそれで結構ですが、この家訓が維新の時、新しい産業にあまり手を出さず、あくまで金融と商業を主にして、製造業で三菱に遅れを取った遠因かもしれません。
 三井と越後屋の店員は、主人、元締、支配人、組頭、手代、丁稚という階層システムに組み込まれていました。賞与制を考え出したのも高利だといわれています。
 しかし資産は徹底した同族結合による管理下に置かれました。総資産は一括して共同で所有され共同で管理されます。両替と呉服商いから上がる利益は資産の中に組み込まれます。その内から定められた配分率に従って、利潤が分配されました。大元方の中で経験と年齢に従って、指導者を選出します。指導者は親分と呼ばれました。高利の長男高平の家系が本家です。本家の長は代々「八郎右衛門」と名乗ります。現在でもこの名称の人物はおられるはずです。三井はやがて主人層より、番頭が経営する体制になってゆきます。幕末の波乱に際して三井を存亡の危機から護り、三井財閥の基礎を気づいた三野村利左衛門などが代表です。高利の子供は男女・嫡庶・養子をあわせると、18人に及びます。この内嫡出男子6人を大元方として、彼らが資産を所有します。以後この六家は長子相続になります。維新以後六家は合名会社を作ります。次男以下は別家を作り、女子は連家として、一定の配分に預かりました。しかし財産を外に散らさないようにするために、なるべく同族同士の近親結婚が奨励されました。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

武士道の考察(44)

2021-04-30 18:45:08 | Weblog
武士道の考察(44)

(戦国家法)
 戦国大名は家臣団と領国を支配する法律を制定します。早雲寺殿二十一条や朝倉英林壁書のような家訓の形から始まり、相良氏法度、今川仮名目録、塵介集、六角式目などの法として整備されたものまでいろいろあります。この種の掟や家訓は鎌倉時代からありました。戦国大名がそれを、一定の領域に普遍的に妥当する強制力である法律として制定します。これを歴史家は戦国家法と呼びます。特徴は以下の通りです。
 ・主君が家臣団に与える法という形を取ります。法の主体は主君である戦国大名です。信賞必罰、つまり賞罰の二権は主君に帰属するとされます。
 ・主要な内容は家臣による所領の管理と、家臣団の紛争の調停と統制です。
 ・当時すべての土地を大名が直接支配していたわけではありません。知行地として家臣がその支配を任された土地があります。こういう土地の支配管理の詳細が規定されます。不当に年貢を取るなとか、農民の耕作を妨害するような行為は慎めとか。要は家臣が恣意的に土地を支配しないよう、注意と監視と干渉が為されます。
 ・家臣団内部の紛争は相互の知行地支配に関する争いといわゆる喧嘩です。もともと武士は在地性が強く、自立的で独立不羈です。腰の刀は伊達には持ちません。特にこの時代はそうです(よくよく考えるとこの時代だけではありません。幕末黒船来航と同時に瞬時にして柔弱といわれた武士は戦士へと一変しました。)喧嘩すると際限なく一族郎党を引き連れて報復合戦の繰り返しになりかねません。これでは大名はおちおち外敵と戦えません。内部の騒乱はすぐ外敵通牒に繋がります。大名は喧嘩両成敗を原則とし、私的な紛争を禁止しました。連座制も適用されます。下手に物を盗ったら一銭切とかで、死刑になります。家臣の服するべき倫理や日常生活の心得も諭されます。贅沢はするな、朝早く起きて屋敷を見回れ、武備に務めよ、高い武具を買うより安くて実用的な物をたくさんそろえよ、とか至って実践的です。要は武士戦士として身を修め家を整えなさい、ということです。
 ・以上のように見ると大名が一方的に家臣団に法を推しつけた印象が持たれますが、実質的にはこれは主君と家臣団の合議の産物です。肥後の大名相良氏の家法である相良氏法度は、家臣団がこの法を提議し、主君がそれに同意して誓うという形を取ります。ここでは郡中惣(相良氏が支配する郡全体の総意)とか、所衆談合(家臣みんなの話合い)という言葉が使われ、家臣団の総意が強調されます。のみならずこの法度は主君の専権事項を軍事指揮や外交に限り、こと郡内部の所領に関しては家臣団の同意が必要であるとはっきり宣言されています。六角式目も主君である義治の失政に際し、二十名の重臣が連署して提議し、義治がそれを認めるという形の文書です。この二つのみが例外であったとは思えません。戦国家法制定の背後には家臣団の同意があります。主君の意志を支え同時に掣肘する衆議は、武士社会では当たり前のことでした。
 戦国大名は、歩兵部隊による集団戦闘を掌握し、家法を制定して家臣団を統制し、検知を行い、農地農民の直接支配を目指します。こうして強固な家臣団が形成されます。厳島、川中島、桶狭間、姉川、三方原、長篠の戦いそして石山合戦など、戦国時代の代表的な戦はすべて天文後半から永禄元亀天正年間という十六世紀中葉以後、つまり戦国大名の統治体制が完成されたころ起こっています。やがて彼らはこれらの戦いを通じて選択淘汰され、織豊政権下の大名になります。同時にその性格も変わります。
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コロナワクチン投与において日本が遅れている事(ということ)について

2021-04-30 14:35:34 | Weblog
 コロナワクチン投与において日本が遅れている事について
 
今日のネットニュ-スで日本のコロナ対策・ワクチン投与が遅れている、と非難する記事があった。比較の対象は英国である。理由はいろいろあろうが、日本は製薬業では欧米の先進国に比し、本来弱いのである。他の製造業では日本は世界一である。輸出品の99%は工業製品だ。一部のメディアが騒いでいたように半導体生産でも決して遅れてはいない。鉄鋼も堅調だ。かってのように量に任せて輸出などはしない(中国が今それをやって世界の顰蹙を買っている)。現在の日本はどこでも作れるような鉄鋼など作る必要はない。そして半導体そのものより半導体製造装置を輸出できている国は日本以外にない。輸出入は各70兆円でとんとん、輸出は工業製品ONLY,完璧と言っていいくらいの製造業王国だ。この日本に迫りうるのはドイツだけだろう。(「日本貿易の現状 2021」日本貿易会参照)
ところが医薬品だけは輸入国なのだ。これも医薬品ONLYだ。具体的には対米で5000兆円、対EUで1兆5000億円だ。アメリカが日本に輸出する主要品である穀物・肉・乳製品の総額に医薬品は迫っている。コロナでワクチンワクチンと騒いでいる時から、私は日本のワクチン製造はだめだろう、それより外国(欧米)から買った方がいい、と思っていた。記事では政府がもっとワクチン製造過程に投資して云々と書いていたが、もともと無理な話だ。私が医師になったころは欧米産の薬だけだったように思う。日本の会社が製造していても外国のパテントを買ってのことだった。その後50年日本は既述の通り世界一の工業国になったが、クスリだけは相変わらずだ。武田製薬は日本のクスリ屋のトップだが世界では20番以下だ。トヨタやキャノン、コマツなどと比較すれば、これが日本の会社かなと驚かされる。特別クスリの製造が難しいとも思えないのだが。
一つだけ心当たりがある。医薬品には治験が必要だ。治験とは人体実験のことだ。新薬ができる。試験管内実権はOK、動物実験もOKだが、最後は人間の体で試験しなければならない。統計学的に有意な成果を得るためには最低1000名の人数は要る。対照も同数必要だから人数は倍になる。問題は日本では治験がしにくいのではないのか。個人もそうだが世論の同意が要る。それでなくても副作用副作用と騒いで医者の邪魔をする団体がいる。ここからは憶測だがアメリカでは貧富の差が激しい。ちょっとはずめば治験に応じてくれる人間はいくらでもいる。監獄なら囚人を使える。減刑を餌に取引すればいい。欧州は移民が多い。人種問題は多い。治験を受け入れる層は厚いはずだ。記事にあった英国だが聴くところによると、人種の差は激しい。人種により職種が決まっているとかいう。治験は行い易いはずだ。
私は日本は政府の努力を待てばいいと思っている。医薬品だが今までのように輸入品で良いのではないのか。でないと欧米から輸入する物がなくなる。ワクチン接種が遅れても死者数が少し増すくらいだ。あまり焦らずに待とう。医薬品が将来先端産業にでもなれば別だが。しかしこれ以上寿命が伸びてどうするのだ。なおコロナに関する情報には各国の政府の宣伝が入るから慎重に聴かねばならない。  2021-4-30

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

「天皇制の擁護 断章12 アングロサクソンの思想」

2021-04-30 13:28:00 | Weblog
「天皇制の擁護 断章12 アングロ・サクソンの思想」

 私は本書で日本以外の政治思想史をギリシャ(古代に決まっています)、ユダヤ、そしてアングロ・サクソンつまり英国の三者の思想に絞りました。近代の政治・経済・思想は英国を中心に発展します。ドイツもフランスもアメリカもロシアも日本も、すべて英国の発展にどう追いつき、どう挑戦するかで、それぞれの近代史を形成します。
 アングロ・サクソンの思想家を簡潔に絞れば、4人に行きつきます。ホッブス、ロック、
ヒュ-ム、スミス(アダム)の4人です。私の判断では才質はホッブスとヒュ-ム、特に後者が優れているようです。優秀すぎる才能の運命なのか、この両人は恵まれた人生を送ったとは言えません。ホッブスからスミスへと見てみますと、そこには一定の傾向があります。宗教から経済への道程があります。「神の見えざる手」を信じたスミスは理神論者です。彼がそう自覚していたかどうかとは別に、理神論が彼の思考の背景にあります。理神論と言いますのは、神は世界の創造には関与されたが、以後は世界の運動は世界自身の機制に任せて、背後に回られた。神が偉大なのは、この合法則的な世界と言う精巧な機械を作られた事だ。となります。要は神様にでしゃばって欲しくないのです。神様に代わるものが、スミスによれば経済機構です。しかしホッブスの時代ではそうは言えません。そんなことを言ったら即火刑です。ホッブスが生まれてから、スミスが死去するまで約200年の時間があります。この間アングロ・サクソンの思想は変化し、その骨格を形成します。
 ホッブスが生まれたのは1588年、英国がスペインの無敵艦隊を撃破した年です。この頃の英国の宗教事情は極めて不安定でした。ヘンリ-8世の宗教改革、メアリ-1世によるカトリックへの復帰。エリザベス1世は再び新教へ。英国聖公会は国教になります。
 宗教改革は同時に経済の変動を伴います。(修道院領の没収)こうしてエリザベス1世の死去(1600年頃)後の英国は好むと好まざるとに関わらず、動乱の1世紀に突入します。失礼ながらエリザベス1世の後を継いだ王様達の資質ももう一つでした。
 カトリック万能という安定した状態に宗教改革という爆弾が投げ込まれました。後は為政者の制御能力を越えて、信仰者はいかにあるべきか、という最も難しく最も恐ろしい問題を国民個々人が考え始めます。個人と神様の間を調整する組織を排除したわけですから、答えは無限です。信仰者としてどうあるべきか、とは、個人としてどうあるべきか、の問題です。こうして英国の宗教界は無限に近い宗教的心情の燃え盛る世界になりました。百花繚乱、百家争鳴です。むしろ英国風に、DOG S AND CATS と表現した方がいいでしょう。宗教だけならなんとかなります。これに経済つまり物質的利害打算が絡みます。必ず絡ます。およそ血の雨を降らすような騒乱の種はまず宗教か経済です。あとは恋愛ですが、この事で民族戦争が起こったという話は聞きません。演劇や裏の事情はともかくとして。
 ホッブスが生きた時代はこの動乱の真っただ中でした。権利の請願の時、40歳。チャ-ルス1世の処刑時、60歳。王政復古の時にはもう70歳を超えていました。名誉革命の10数年前89歳で、歴史的大著「リヴァイアサン」を残して死去します。彼の政治思想への貢献は、社会契約説と言われます。ただその内容が直截ですさまじい。彼は、万人は本来完全に自由であった、何をしてもよかった、自由である事は万人が万人に対して狼になることだ(狼に失礼!)、だから個々人は安心して生きるか自由という危険を覚悟するしかない、こうして個々人はその生存確保と引き換えに自由を国家に委譲した、委譲した以上文句は言えない、委譲された国家は絶対的権力であり、万人はその権力に無条件に服従するしかない。が、ホッブスの政治思想の骨幹です。
 ここまでは常識です。なぜ彼がこのような考えに至ったのかと申しますと、宗教と経済が絡み合って生じる内乱をなんとかしなければと思ったからです。経済の方はもう少し後の時代に任せましょう。では宗教・信仰はどうすべきか?ただ個々人が勝手に自己の心情を開陳していては、意見はまとまるわけはない。(現在日本には形式的な統計ですが20万に近い宗教団体があるそうです)どうすべきか?絶対正しい唯一の宗教上の真実を見つける。まさか?こんな野暮はしません。喧嘩相手を増やすだけです。それに命も危ない。
ホッブスはその代わりに、人間は如何にして知ることができるか、という問題に取り組みます。認識論が誕生します。認識論に実証的知識特に実験に基づく知見が加わると心理学になります。ホッブスは人間心理を当時の彼に許される範囲で突き詰めようとしました。「リヴァイアサン」の最初の1/3はこの種の知識の探求です。当時近代的な解剖学はすでに始まっていました。ホッブスはこの知識の上に認識の基礎を感覚に求めようとします。もしこうして客観的知識を獲得する方法が得られたら、宗教上の論争は鎮まるはずです。
 もちろんホッブスは心理学を意図して創造しようとしたのではないでしょう。彼の関心はあくまで政治思想、簡単に言えば、あまり争うことなく比較的平穏に暮らしてゆける政治体制の模索にありました。そして個々人を自由かつ自己中心的な主体としてとらえ、その個人が共同体を形成するための方途として契約を持ち出しました。こうして個々人は既存の価値体系から離れて客観的にとらえられる存在になりました。ホッブスの論旨はだから感覚論を超えて、唯物論に近いものになっています。
 ホッブスの思想はロックに受け継がれます。ロックは唯物論的傾向を避けて、認識の基礎を感覚(これは曖昧な概念ですね)に置き、感覚=快楽=財産、という線上に私有財産保護機関としての国家、具体的には議院内閣制を最良の体制としました。ロックの段階で政治学の課題は終了します。民主制にしろ混合君主制にしろ、こうなれば国家とは利害打算の商議・取引・駆け引きの機関になります。
 ホッブスの後に続くヒュ-ムには哲学的には感覚論の徹底化の課題が残されていました。彼は時々懐疑主義者に間違われますが、それはともかく彼の論証能力はさすがです。しかし彼には政治学上の課題はありません。そして彼は経済学に方向を変えます。ロックの晩年もそうでした。ヒュ-ムは現在貨幣数量説と言われる考えを考案しています。ちなみに貨幣数量説は過去の問題ではありません。経済学の重要な因子であり、現在世界全体を脅かしている金融危機の解決はこの貨幣数量説の理解如何に関連します。そしてスミスです。スミスは近代経済学の始祖の位置に置かれていますが、私はその名誉はヒュ-ムに与えられるべきだと思っています。でなければリカルドでしょう。
 ホッブスからスミスへの道程を検討してきますと、次のような事に気づかされます。まず宗教上の内乱をどうするか、無条件無前提な心情告白よりその心情が生起する由縁の探求、つまり認識論の誕生、と。政治思想の確立は認識論の誕生を伴います。そして政治思想が一応確立し、社会が安定してくると政治学の課題は終了し、政治行為の中身である利害打算の客観的秤量の方法が問題になります。こうして経済学が誕生します。平行して心理学も生まれます。ともに18世紀末アングロ・サクソン社会に誕生しました。心理学はまず連想、詳しくは観念の連合という考え方から始まります。個々の観念あるいは知覚・感覚をまず切り離して同定し、その連合でもって高次機能を説明します。観念連合は心理学の基礎です。現在の心理学もこれを基礎としています。また経済学の発展のためには個人の主観から切り離された因子が必要です。富を構成する基礎を定めなければなりません。。これは通常、労働〈力〉か需給平衡かどちらかに求められます。詳細には入りませんが、心理学と経済学の誕生の基礎・背景は似ています。19世紀に入り心理学と経済学は(歴史学は別として)人文科学の主役になります。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


   経済人列伝 桜田武

2021-04-29 21:13:38 | Weblog
経済人列伝  桜田武

 桜田武は日清紡績の経営者ですが、彼を有名にしたものは、経営者総体の労組対策を指導し遂行した事にあります。武は明治37年(1904年)に広島県赤坂村(現福山市)に生まれました。家は旧家で田畑を20町(ヘクタ-ル)所有していますから、大地主と言っていいでしょう。父親は厳格な教育を武にほどこします。泣虫の武兄弟に毎朝、冷水を浴びせ、裏山の階段を何回も上下させる、猛訓練を行いました。岡山六高から東大法学部に入学します。高校大学時代は柔道に明け暮れます。六高在学中、全国大会で宿敵金沢四高を倒して、全国優勝したのが、青春の誇りでした。卒業して日清紡績を受けます。社長は宮島清次郎、武の終生の師匠になる人です。「お前成績悪いな」「もっぱら柔道をしていたので」の会話の後に、採用されます。こいつ面白い奴と宮島に目を付けられたようです。日清紡は福田桃介が日清戦争前後の投機で大儲けした資金を元として創立されました。社内での昇進は順調です。昭和14年35歳、名古屋の支店長をしていましたが、応召の命令が来て、軍隊生活を余儀なくされます。砲兵少尉として中国戦線の武漢で勤務につきます。やがて情報主任将校として中尉になります。この時武勇伝があります。急襲してきた中国軍に応戦し白兵戦になります。武は刀の使い方を知らないので敵兵を切れません。やむなく丸腰になり中国兵を得意の柔道で投げ飛ばしながら突進します。軍隊生活は武に深い感銘を与えました。上官と部下は一体でないと、戦争できないという事実を知らされます。この体験は後年の会社経営に生かされます。昭和17年除隊し、会社に帰ります。
 戦時中は苦労します。まず紡績は不要不急の産業として、軍部から規模縮小を強制されます。生産額や工場の規模は厳しく押さえられます。統制しやすいように、合併が奨励されます。軍需工場への転換を迫られます。紡績機械は潰されて軍需用品の原料にされます。やむなく一部軍需用部品製造も行いました。宮島も武も「日清紡」の名と社風を残すのに苦労します。二人は社名に「紡」の字が残るべく、執拗に軍部の要請に抵抗しました。もっとも強引にやらされた異業種の経験は戦後役に立ったようです。
 終戦。武の感想は「ああ、今日から電灯を明るくして眠れる」でした。戦時中は灯火管制のために、電灯をつけたら、黒い幕で光が周辺にもれないようしなければなりません。同様の感想を私は母親から聞かされました。多分終戦時の大多数の人間の思いだったのでしょう。昭和20年12月に宮島は経営者の座を退き、社長に武を推薦します。彼はその時若干41歳でした。若い社長が誕生します。しかし工場を動かすにも原料がなく、動力源の石炭もありません。とにかく社員を食べさせなくては。終戦直後どこの企業もした苦労を日清紡もします。弁当箱に水筒、石鹸にアイスクリ-ム、そして農園や塩田の経営などもします。焼け残った女子浴場を利用して開業した大衆浴場は人気を呼びます。
 軍需工場になっていた工場を返してもらい、乏しく不安定な外貨で輸入できた原料を使い、機械も少しづつ整備して、紡績業を再開します。衣食足りて云々と言うくらいですから、戦後軍の統制から解放されると、紡績製品である綿布の需要は大きいものでした。加えて当時の日本の技術水準では欧米に対抗できる産業は紡績のみ、ですから紡績業は外貨の稼ぎ頭です。こうして日清紡もなんとか戦後を乗り切ります。そして朝鮮戦争という神風が吹きます。需要はさらに増大します。紡績機を一回ガチャンと回せば、万円単位の利益が上がるというので、ガチャ万景気と言われ、紡績業、糸偏は好景気産業の代表になります。しかし武はその空気に溺れないよう、部下を厳しく監督します。景気に酔って他社を買収したり、合併して、規模を拡大する事を避けます。景気の良い間に、作業工程を合理化し、設備を最新のものに変え、内部蓄積を増やします。桜田武の経営は、外部への拡大ではなく、内部の充実に力点を置くことでした。一方財テクも行います。当時の優良企業である、銀行、ビ-ル、機械関係の株を買います。法人税対策とインフレヘッジが主な目的ですが、日本経済の上昇に乗って利益をあげます。昭和42年(1967年)の時点で、株等の有価証券は総資産の20%弱を占めています。日清紡は高配当を続けました。彼は合繊には手を一切出していません。ライヴァルの東洋レ-ヨンがアメリカのデュポンからナイロンの製造設備を資本金の3倍以上の価格で買ったのとは対照的です。石油を欧米に握られている状況下では、合繊製造で勝ち目はないと思ったようです。こういう点では彼の経営は堅実でやや保守的な感じがします。しかし非繊維製品も作っています。自動車のブレ-キ、レーザ-加工機、印刷、製紙などです。
 武の経営の特徴をまとめてみましょう。保護統制は極力避け嫌いました。だから会社の自己責任を強調します。この方針は社内の部下にも向けられます。まず、自分の頭で考えてみろ、です。指示待ち人間を嫌いました。顧客に対しては契約遵守を徹底します。契約期間である以上、原料が値上がりしても、価格は据え置きます。社内での贈答品のやり取りは一切禁止します。彼自身秘書は使いません。秘書がするような作業はすべて自分自身で処理します。肩書きにもこだわりません。課長であり同時に取締役という、立場の者が続出します。この方針は他社の誤解を招きます。課長程度のものをよこして、となります。株式の時価発行も嫌がりました。確かにこの方法は資本増大には簡単で有利な方法ですが、資本が株価に影響されるのでリスキ-な面も多分に持っています。武の経営方針の影響でしょう、日清紡は堅実経営で知られます。多くの企業は平成不況の時、社名を変える運命になりましたが、日清紡は社名を変えず今日に至っています。
会社は公器であり、社長以下社員は家族的な共同体である事、を強調します。労使の交渉も社員の実地教育とみなします。だから会社の状況を開示はするが、それに対して労組も会社のために協力するべきである、という態度をとります。そういう社長の影響かどうかは知りませんが、日清紡から、総評と対立する労使協調主義の同盟の指導者滝田実が出ています。昭和38年59歳で社長を退きます。もっとも彼の活躍はまだまだ続きます。彼は帝人や東邦レ-ヨン等の経営危機に相談され立ち直らせています。再建屋とも言われました。山下太郎のアラビア石油創設にも深く関与しています。アラ石に関係するところなどは、単なる堅実一本の男とは思えません。
彼の経営には2年間の軍隊生活が色濃く影響しています。軍隊は実務です。彼の経営は実務に徹しています。部下への叱咤も厳しかった。昭和34年の伊勢湾台風で名古屋工場を視察している写真を見ましたが、堂々たる貫禄と同時に、あたかも師団長が前線に出て直接指揮している印象を受けました。武は中国戦線で村上啓作中将の師団に入りました。武はこの村上中将を尊敬すると同時に、軍隊の用兵上、師団という単位が(通常は一万名程度の兵員を擁す)、極めて有効で能率的な規模であると、実感します。だから彼は人間関係を重視し、それが希薄になるような規模に、会社組織がなることを避けました。
 また彼の経営法には、彼の出自が地主層である事も関係します。彼の父親も祖父も村の有力者として村政に責任を持って関与しています。日本の地主を一概に西欧特にイギリスの地主と同一視すれば誤解を生じます。日本の地主は地代徴取と同時に村政にも関与し、配下の小作農のみならず、村民全体に対して、彼らを管理しまた彼らの生活維持に責任を持っていました。江戸時代後半から彷彿として起こる村方騒動の中で地主・有力者はこのように村政に責任を持つべきものという慣習が成立します。比べてイギリスの地主は資本主義的農業経営に徹底します。小作農という階層も寡少で、耕作は賃雇いの農業労働者が行います。地主と労働者の間には画然とした区別があり、地主は賃金を支払えばそれで終わり、農民の生活への関与に関心なく、視界は都市生活特にロンドンのそれに向けられます。そもそもイギリスの地主は囲い込み運動という暴力的土地略奪で成立したのです。日本では地主と農民の生活水準の差がひどくなく、両者は一体化しやすいのに比し、イギリスでは両者の関係はばらばらです。イギリスあるいはアングロサクソン民族に株式売買(直接融資)が盛んなのもこういう背景あってのことです。株式制度においては株主と会社は別々の存在であり、利害は必ずしも一致しません。株主はただ金を出して、その利子配当の計算のみに没頭します。経営者はこの株主の意向を迎えることに汲々とします。会社は株主と多分経営者の利権になります。翻って日本の会社では経営者はまず会社と社員の利害に関心があり、株主層からは比較的独立しています。現在郵政民営化か否かで日本は国論が二分されています。私は民営化論者ですが、欧米特にアングロサクソン風の直接金融の背景には上記の事情がある事は念頭に置かなければなりません。ちなみに19世紀前半の時点で、日本の武士層と農民層の所得の比は2対1です。ただし長州藩だけでの話ですが。イギリスのジェントリ-(郷紳、地主層)と一般農民では10対1になります。
 第二次大戦後GHQは日本を民主化すると称して、労働組合を育成します。多くの企業に労組ができました。彼らはすべて日本共産党に指導され、生産管理と政治闘争を信条としました。生産管理とは、労組が経営権を握る事、政治闘争は賃上げや待遇改善もさることながら、何よりも日本の政治体制の変革、もっとはっきり言えばソ連の政治体制にしてしまう事です。東宝、読売、東芝、トヨタなどの大企業はその洗礼を受けます。もし労組の目的が貫徹していたら日本は東欧諸国のような衛星国になり、強制収容所と秘密警察が跋扈していたことでしょう。経営者は押され自身をなくし、労組のいうがままになっていました。随所で人民裁判が開かれ、経営者はつるし上げられ、暴力の犠牲になっていました。そういう中昭和23年(1948年)日本経営者連盟(日経連)ができます。諸井貫一(秩父セメント)、三鬼隆(八幡製鉄)、加藤正人(大和紡績)の3人が代表、桜田武は総理事に選ばれ行動部隊長役を務めます。日経連結成の目的は経営権の確立でした。武は後に会長になります。
 日経連は多くの争議に介入しましたが、圧巻は昭和35年(1960年)の三井三池の争議です。そのころ動力源は石炭から石油へ急速に変化し、かって黒いダイヤと言われて生産を奨励され、わが世を謳歌していた石炭産業は落ち目を迎えていました。会社は経営を建て直すために大量解雇を労組に要請します。こうして戦後最大といわれる争議が勃発しました。日経連は終始経営者側を応援します。必要な資金も集めます。労組側も必死です。炭労・総評が全面的に支援し全国からカンパを募ります。同年安保闘争があり、三井三池の争議は。総資本対総労働と言われました。三池の労組には、九州大学教授で資本論の翻訳者である向坂逸郎に指導された、革命至上主義者が中核としています。社長の栗木幹は技術者出身で、彼ら革命至上主義者達を生産阻害者として断固排除つまり解雇を主張します。労組員と警官が各一万名以上招集され、暴力と流血の対決は避けられなくなります。武は経営者側を支援すると同時に、組閣に際して池田隼人に、石田博英の労相就任を要請します。当時労組に関して一番理解のあった政治家は石田でした。石田労相が労使の仲に入り、日経連は経営者をなだめてようやく争議は収まりました。石田は止め男の異称を頂戴します。もっとも私は、労組が敗北した最大の理由は、産業構造の変化を理解し得ないその時代錯誤にあったと、思っています。もし労組の主張が勝ち、エネルギ-源としての石油への転換が遅れていたら、高度成長もなく、日本はイギリスのような経済衰退を招いていたでしょう。この事に労組員の大部分は気づいていたようで、第二組合ができ、戦闘的な第一労組は衰退してゆきます。
 桜田武の労使観は、労使運命共同体であり、企業別組合であり、経営者資本主義です。そして労働の付加価値生産性を強調します。労働と生産により付加価値が上昇した分は、そしてその分だけ賃金を上昇させる、が彼の信念です。戦後多くの財閥が解体され、経営は資本家から、資本を持たない経営者(つまりサラリ-マン社長)に移行していました。武もその一人です。資本を持たない経営者が、経営権を握る事を正当化する論理が、武の言う「公器としての企業」観です。ここから自動的に、企業別組合、労組は経済問題にその行動を限定する事、労使協調、という路線が出てきます。この対労使観は彼の経営姿勢の反映でもあります。彼は会社を外に拡大する事を嫌いました。内部充実がモット-です。この姿勢は経済政策全体にも大きく影響します。武は拡大経済政策をあまり評価しません。賃金と物価の上昇を抑えた、安定成長路線を支持します。早くから輸出の行き過ぎに警戒を示し、内需主導を唱え、貿易摩擦を予想し、円高を容認しています。
 彼の手腕は昭和48年(1973年)の石油危機に端を発した狂乱物価の時発揮されました。一時30%以上の物価上昇、それに続く同率の賃金上昇が起こりました。武は物価と賃金の同時上昇という悪循環を抑えるべく提言します。その事だけではありませんが、日本は最も石油危機に弱いと言われながら、最も早く効率的に危機を乗り切りました。逆に米国は過剰な福祉と戦費と石油危機でスタグフレ-ション(インフレ下の不況)に陥ります。これがアメリカ経済衰退のはじまりです。
 かといって自分の信念を頑固に守るだけではありません。昭和40年日本経済は一時不況に襲われます。山一證券を政府が全面的に資金援助した時の不況です。佐藤内閣の蔵相福田赳夫も、財政審議会会長代理である武もともに安定成長論者でしたが、この二人の協力で、戦後初めての国債発行が行われます。40年に2590億円、41年に7000億円発行されました。また狂乱物価対策として行われた総需要抑制は不況を招来します。この時、昭和53年(1978年)国債の予算に占める率が30%を超えます。これを容認したのは時の首相である福田赳夫と日経連の相談役である武です。妙な因縁です。
 桜田武が財界で活躍する機会を提供したのは、彼の師匠である宮島清次郎です。宮島は東大法学部で吉田茂と同期でした。吉田は政界に入るに際し、宮島に相談します。宮島の推薦で多くの財界人が吉田政権の後押しをしました。特に、小林中、水野成夫、永野重雄、そして桜田武が著明で彼らは財界四天王と呼ばれました。吉田内閣の蔵相に池田隼人を押したのは彼らです。こうして武は池田、その派閥である宏池会を支持することになります。池田の次は大平正芳を押し、前尾繁三郎に引導を渡します。大平の死後は中曽根康弘に期待をかけました。行革や国鉄民営化にも参加します。昭和53年日経連会長を辞任します。昭和60年(1985年)癌のために死去、享年81歳でした。この年は日本の経済の転回点となった年です。

 参考文献 桜田武の人と哲学  日経連広報部

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


  武士道の考察(43)

2021-04-29 19:50:15 | Weblog
武士道の考察(43)

(兵農分離)
 戦国大名が守護大名と異なるのは兵農分離、所領の一円支配、家臣団の統制、の三つが際立っていることです。兵農分離は、武装勢力の最末端に位置する郷村の名主クラス(もう少し下の富裕農民層も入れてもいいでしょう)に、家臣団に入るか農耕に専従するかの選択を迫ることです。武士と農民の曖昧なつながりは断ち切られ、大名は武力を独占します。武装を奪われた農民は大名の支配に服します。農民への反対給付は治安の保証です。逆に武士を土地から切り離せば、叛乱の温床を奪うわけですから、家臣団の統制もやりやすくなります。こうして大名は土地と農民を、その間に介在する権力なしに、直接支配できるようになります。検知を行い、土地の一片一片を丹念に調査し、意図的書き漏れによる脱税を監視し、土地の納税責任者を登録させます。刀槍鉄砲などの武器は労働に不要で、統治者には危険だから取り上げます。検知は最初「指出検知」といって農民自身の申告に任されました。当然農民は過少申告してごまかしますから、段々大名が直接測量して決めるようになります。こういう形の検知が終了するのは徳川五代将軍綱吉の代くらいです。検知終了後も耕作地は増えます。大名としては再検知そして増税をしたいところですが、農民は極力抵抗しました。どこの国でも同様で11世紀ノルマンに征服された英国では検知が行われました。誰がつけたのかこの検知帳は「ドウームズデイブック」、邦訳すると「天地最後の日の記録」になります。
(一円支配)
大名の土地台帳に登録され、納税の義務を負う農民を本百姓と言います。もちろん戦国期には検知は端緒についたばかりです。だから大名の家臣には、豪族や地侍で土地を直接支配するまま、臣従するものもいました。この場合大名は支配権を付属させて土地を給付します。知行給付です。大名の権力が強化されると、土地の管理は代官がとりしきり、生産される米穀のみを給付します。扶持と言われる形の給付です。大名はなるべく知行給付から扶持給付に切りかえようとしました。農民の方にもいつでも一揆を起こしてやるという連中がごろごろいます。指出検知から実測検知への移行がほぼ完成するのは綱吉の元禄時代です。江戸時代全期で農民の一揆は3000件と言われます。そして一揆は幕初と幕末に集中しています。前者は農民を支配する名主クラスの有力者が自己の権威権限を護るため、後者は商品作物から得られる利益をめぐってです。
(家臣団の統制)
 兵農分離が成功し家臣団の統制が効率よくなると、軍事上の指揮命令権が確立します。守護大名には、配下の国人領主がいったい何人軍勢を率いて来るか、おおよそのことしか解らなかったでしょう。国人の内部も複雑ですから。戦国大名になると家臣個々人に、お前にはなんぼなんぼ土地を給付しているから、なんぼなんぼの兵士と武器を持ってこい、違反すれば死刑、と命令できます。騎馬武者、歩兵、旗槍弓鉄砲、補助夫などにつき数がきっちりと指定され、武装の内容も規定されます。軍事単位ごとに定期検査も行われます。
(足軽部隊)
兵農分離の最も有効で具体的な施策が足軽部隊の正式編成です。足軽は武士階層の最末端に位置します。逆に言えば農村では、武装可能なのですから上層に属します。余剰労働力、はみ出し者でもあります。この層を強引に分離して、正式兵団に入れてしまうと、戦国大名にとって二重三重に利益になります。農村から武装兵力を奪えます。足軽は歩兵だから集団で使用しないと力が出ません。集団で戦闘させるためには、集団で訓練しなければなりません。ですから足軽は大名直属にして、大名の城下に集住させることになります。軍事力における大名の家臣団に対する力は飛躍的に増大します。足軽の戦闘用の武器も発達します。槍と鉄砲です。槍は刀より簡単に大量に作れます。私も刀で人を殺すことはできませんが、槍で突き殺すのならできそうです。槍の穂先をそろえて密集突撃する事はある程度の訓練で可能です。馬上で弓を引き絞り敵を射落とすには10年以上の訓練が要りますが、槍を振るって馬を突きさすのは勇気さえあればなんとかなります。槍は集団戦法のための、したがって足軽のための兵器です。
16世紀中葉鉄砲が伝来しました。鉄砲は遠くから撃つので殺人兵器としては簡単に操作できます。敵の頭を勝ち割り、目の前で憤怒と苦悶の表情を見、返り血を浴びる事は避けられます。殺人行為に際して必要な訓練と罪悪感は著しく少なくて済みます。当時の鉄砲は命中精度と弾込めに要する時間から集団で使用する方がより有効です。足軽用の武器としては最適です。槍同様集団訓練が必要です。鉄砲は高価です。権力を集中させつつある大名だから大量の鉄砲が買えます。大名同志でもより大きなより裕福な大名が勝ち残ります。弱肉強食による選択淘汰が進行し天下は統一に向かいます。なお足軽はもともと一年契約の臨時雇用です。つまり傭兵です。しかし戦国大名も江戸時代の幕藩大名も年期を自動的に更新し終生というより永久雇用にしました。明治維新では足軽は士族の下に「卒族」として位置づけられています。日本型経営の最たるものでしょう。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


「天皇制の擁護断章11 天皇は文化の守護者」

2021-04-29 11:31:50 | Weblog
「天皇制の擁護断章11 天皇は文化の守護者」

本章の主題は上記お通りです。天皇が天皇であるために天皇は自らが「神」である事を演じます。第一が即位の時に行われる大嘗祭。「ゆき」と「すき」の二つの黒木の宮(御屋)が造られます。そこで天皇は天なる神と共寝し共食して自らが神である事を演じ確認します。儀式は夜、浄闇の中で行われます。
第二が和歌の編纂です。和歌は呪言、天に訴える言の葉です。和歌の編纂は、天地を主宰する天皇の重要な行為とされました。醍醐天皇の古今和歌集から花園天皇の新続古今集まで計21。万葉集は孝謙天皇の命で作られた準勅撰集です。収録された和歌は総計略4500。こんな詩集歌集は世界のどこを探しても無いでしょう。天皇・皇族・大臣他の高級官僚以下地方の一農民に至るまで実名で収録されています。1500年前の昔からわが国の文化は民衆のものでもありました。和歌そして連歌と俳句などは現在でも作られ続けています。私はある会合の後の宴会で、連歌をやってみました。みな結構面白がって発句挙句を作り続けました。カラオケより面白かった。歌のできばえは自慢できませんが。
「古今」と「源氏」の伝統により日本の古典的情緒が作られます。古今伝授という形の師子相承でもって文化が引き継がれます。やや偏狭な形態ですが、これで日本の文化の伝統が維持され護られた事は否定できません。
「お内裏さまにお雛様、二人並んですまし顔」これは3月3日桃の節句を祝う童謡です。内裏(だいり)は宮殿の中の天皇の私室、転じて天皇その人を指します。桃の節句は上巳祓、本来は旧年の厄を人形に託して放逐する悪魔祓いの儀式です。これが優雅な桃の節句の儀式になりました。このような儀式を年中行事と言います。この年中行事を天皇は主宰して天地の司祭であること演じました。
大嘗祭、和歌編纂、古今と源氏に代表される美意識、年中行事などなどわが国の文化は天皇朝廷によって主宰され保持されてきました。わが国ほど多彩な文化の伝統を保持する国はありますまい。天皇は文化の守護者です。(続)


    経済人列伝 細川重賢

2021-04-28 20:27:30 | Weblog
経済人列伝  細川重賢

 細川重賢は、藩祖忠利を初代とすれば五代目の肥後熊本藩主です。もっとも家祖藤孝(幽斉)から数えれば7代目に当たります。肥後の細川家はもともと足利幕府の御番衆、つまり旗本でした。藤孝が足利義昭に仕え、さらに織田、豊臣そして徳川と相継ぐ天下人を乗り換え、生き抜いて、関が原の功で藤孝の子忠興の時豊後39万石に襲封されます。三代目忠利は改易された加藤家に代り肥後に入り、熊本を拠点として、肥後一国を治めることになります。以後光尚、綱利、宣紀と続きます。宣紀には5人の男子がいましたが、上の3人は夭折します。5代目藩主は四男の宗孝、五男の重賢は部屋住の身でした。部屋住とは独立して一家を持たず、正式の録を与えられない身分です。普通なら重賢はどこかの大名の養子になるのですが、兄宗孝に嗣子がなく、兄に万一の事があれば、藩主の地位を継ぐいはばスペアとして必要でした。しかし兄に子供ができれば無用の存在、年たけてからでは養子の口はありません。言ってみれば重賢は飼い殺しの存在でした。哀れな立場といっていいでしょう。
 重賢は1720年(享保5年)に生まれています。1747年(延享4年)兄の宗孝が江戸城中で斬殺され、兄の仮養子となっていた重賢が、従四位下左近衛少将越中守として藩主の地位につきます。ちなみに宗孝の殺害は全くの人違いから起こった、細川家としては非常に迷惑な偶発事件でした。どこの藩でも同じですが、熊本藩も財政赤字に苦しみ、農民には苛税、藩士からは半知借上(藩士に与える俸禄の半分を藩が借上げる、実質的には取り上げる)で、武士も農民も貧窮にあえいでいました。農民の逃散は続き、藩の人口は減少してゆきます。藩の首脳部、家老達はどうしていいのか解らなかったのでしょう、その場その場のしのぎに明け暮れ、大阪の鴻池には借財が重なり、どこの商人も細川家だけには金を貸す事は考えられない状況でした。
こんな中重賢はそれまでに描いていた藩政改革を開始します。参勤交代で熊本に入った重賢はまず重役と一門の非礼、重賢を部屋住上がりと軽く見て、正式の拝礼をしない態度を一喝します。藩士全員の総登城を命じ、藩士全員に宣言します。意見書を密封して上申することを勧め、まず下級藩士から救済する事を約束します。それまで藩政を牛耳ってきた6名の重役(家老、ちなみに細川家では他の藩では家老にあたる職務を老中といいます)とその配下の実力者奉行の中に重賢の息のかかったものを入れます。藩政改革は重賢の側近を中心に行われます。側用人竹原勘十郎、観察兼小納戸役堀平太左衛門、監察松野七蔵、儒者秋山玉山が中心メンバ-です。
 なによりも経費削減が急務です。節約が奨励されます。藩組織が簡略化され冗員は省かれます。仕事のない藩士の俸禄は削減されます。出る方を締めてばかりではいけません。入るほうを増やす政策が必要です。なによりも産業振興が模索されました。熊本産の名物が物色され増産を奨励されます。はぜ蠟、樟脳を始めとして、赤酒、水前寺のり、うに、ザボン、朝鮮飴、高瀬飴、山鹿灯篭、肥後こま、高田焼、肥後縞、熊本桶、うちわ、和紙などの産物があります。
 特にはぜは重要視され藩の専売制にされました。それまで一部の特権商人が販売を独占していたのをやめさせ、はぜは藩が買い上げます。集荷と買い取りを藩が独占します。そして藩を通して、一般商人にはぜを売ります。藩が、はぜ売買にのみ通用するはぜ札、を発行してはぜを買い取ります。藩が商人にはぜを売るときは現金を要求します。またはぜ札は現金(幕府発行の金銀銅貨)といつでも交換されるとされました。藩ははぜの売買を独占して利鞘を稼ぎます。またはぜ札の使用で、赤字に苦しむ藩財政に負担をかけることなく、買い取り資金を確保できます。資金は潤沢になります。またはぜ札の発行により、藩内の流通貨幣量は増加し、その分景気を刺激します。藩がはぜ札の交換を約束どおり行う限り、はぜ札は通貨として機能しますから。もっともよほど財政を締めない限り、ついつい札を増刷し、札が現金に比し溢れ、はぜ札の信用は下がります。この辺はやり方次第でしょう。また藩が専売すればどうしても藩の利益を中心に考えるので、買いは安く、売りは高くなり、農民や商人の恨みを買います。はぜから蠟がとれます。蠟は当時一番高級な灯りである蝋燭の原料でした。その意味で普遍的な価値をもつ商品でした。
 藩の組織を簡潔にします。家老達を単なる相談役にして事実上政治への発言権を奪います。すべての権限は、藩主に直属する大奉行に集中させます。大奉行の下に行政官である奉行を定員6名にして設置します。奉行の職務内容を明示します。人事、勘定、普請、城内、船、学校、刑法、屋敷、郡、類族、寺社などです。こうして冗官を除きます。監察機能は大監察に統一し、配下に目付8名と横目10名を配置します。従来からある郡奉行は郡代と改称し大奉行直属にします。改革の焦点である大奉行には掘平太左衛門勝名をあて、大奉行と藩主のみ入れる機密室を設置します。従来の家老重役と大奉行の間には中老をおいて連絡係としますが、当分の間は堀勝名が中老を兼務します。権限は大奉行に完全に集中します。
 刑法が改正されます。従来は死刑と追放の二種の刑罰しかありませんでした。杖刑(鞭打ち)と徒刑(強制労働、懲役)をいれ、刑罰全体を軽くします。徒刑囚には賃金を与え、その半分を貯えさせ、刑期終了時の更正資金にあてさせます。行政と司法を分離しようとします。年貢未納などの経済事件を破廉恥罪と区別します。
 藩士の教育には特に力をいれました。藩校時習館を作り、総裁は名門出身の長岡忠英をあて、実際の教育には秋山玉山を用います。医学と薬学の学校も造りました。再春館といいます。藩営薬草園を設置し種々の薬草を実験的に栽培します。蕃滋園と名づけます。
 武士の帰農も勧めました。本来武士が多すぎるのです。武士の帰農は改革を試みた他の多くの藩も実行しています。
 そして以上の改革計画に基づいて借金返済計画を明示します。新たな借財がどうしても必要であるからです。鴻池に代り、新興商人の長田作兵衛が金主になります。
 重賢襲封の1747年に始まり、治年、斉シゲ(-1807年)と続く三代の君主による藩改革を宝暦の改革と称します。重賢の藩政改革は上杉鷹山や松平定信の改革に影響を与えています。重賢は1985年(天明5年)65歳で死去します。通称は銀台公、彼が部屋住のころいた下屋敷のある芝白金からそういう名称が与えられました。白金とは銀のことです。
 藩政改革の第一号が細川重賢ですが、どの藩でもまた幕府でも財政改革は5代目か6代目の頃から始まります。初代の時に藩を作り、2・3・4代で蓄積を食い潰し、次代の藩主が改革に取り掛かるという段取りです。江戸時代初期、つまり多くの藩が設置された頃、の状況を紙上計算してみましょう。例を極端にして、周防と長門を領有する毛利氏を材料にします。毛利氏は関が原以前120万石でした。一万石で約250人の軍勢をさしださなければいけませんので、毛利氏が抱える全兵員は3万人になります。内1/3が帰農したとします。養わなければならない武士総数は2万人になります。これが30万石に減知された防長二国に押し込まれます。6公4民の取り分として武士層が得る米は18万石、藩と武士個人の取り分を3対7とすれば、平均して武士一家の米収入は6・3石になります。一家4人として一年の米消費量を4石とします。副食を1石と加算すれば5石が一家の食費です。当時のエンゲル係数を80%とすれば、生活費総額は6・25石、なんとか生活できます。家庭菜園や麦などの雑穀を加えれば、飢餓線上というほどのことでもありません。しかし時代の進展とともに、商品(換金)作物が出現し、生活は派手になります。つまりエンゲル係数は低下します。これが武士層貧困化の原因です。農民や町人は生産者ですから換金できる物を持っており貨幣経済の進展についてゆけます。武士が米穀収入に頼っている限り貧困化は避けられません。この状況を背景に藩政改革は始まります。
 藩政改革、藩財政充実の焦点は藩専売制です。これは藩という軍事行政組織が、直に民間の経済行為に参加する企てです。ここで当然、藩と農民商人の間で利益の分配をめぐって対立が起こります。毛利長州藩における天保の一揆などはその代表例です。
 専売制と並んで藩改革で必ずなされる事業が藩校という教育機関の設置です。多くの藩校は1750年以後設置されています。藩自体が商人化し、一部の藩士の帰農を促せば、武士のアイデンティティはぼやけます。為政者支配者指導者としての武士の情操を知育でもって育て護る必要がありました。
 次に述べる上杉鷹山の改革と細川重賢の改革はよく似ています。改革組織の焦点に中級武士をもってきて、中下級武士の賛同で改革を成し遂げようとする点です。人名で言えば、堀勝名とノゾキ戸善政です。
 重賢や鷹山の改革が全面的に成功したとは言い切れません。幕末の横井小楠(熊本)や池田成彬(米沢)の生活を見れば、思い半ばに過ぎます。改革はあくまで崩壊寸前の藩組織の再建、武士層救済を目指してぎりぎりの地点で行われました。人間に利欲というものがある限り、経済は常に運動をします。経済とは変化の連続です。安定した経済などはありえません。

 参考文献  細川重賢  学陽書房
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

    武士道の考察(42)

2021-04-28 17:28:34 | Weblog
武士道の考察(42)

(将軍守護家の没落)
 真先に権威を失ったのは足利将軍家です。六代義教が赤松満祐に殺され、八代義政は政治への関心を失い、応仁の乱以後、歴代将軍で都で安定した地位を保てた者はいません。流れ公方とか島公方と言われ諸国を流浪します。十三代義輝は陪臣である松永久秀に殺されます。最後の将軍義昭は織田信長に擁立され将軍職に就きますが、1575年信長に追放され、細々と命脈を保ってきた足利幕府は滅びます。守護大名も没落します。将軍家同様配下の武力の掌握が不完全だったからです。三管四職の家柄細川、斯波、畠山、一色、山名、赤松、京極の諸家はすべて没落し、江戸時代では支族が小大名か旗本くらいの地位で生き延びました。九州の大伴・少弐、中国の大内なども没落します。
 代わって台頭してくるのが「戦国大名」という新しいタイプの大名たちです。彼らは旧来の守護大名の系統を引く家もありますが、ほとんどは国人階層の出自です。それ以下の地侍名主出身の大名もいます。織田豊臣徳川氏が天下を取ると、彼らの部下たちは出世して大名になります。彼ら出来星大名の出自はおしなべて、地侍以下です。前田、丹羽、浅野、黒田、加藤、仙石、脇坂、山内、酒井、榊原、内藤など数え挙げればいくらでもあります。
 鎌倉時代後半から徳川幕府成立までの350年間、武士あるいわ武装勢力の社会は、上が落ちると下が伸びる、という下剋上の階層流動を繰り返します。階層流動は江戸時代に入っても形を変えて繰り返されます。ちなみに最後に天下人になった三人の覇者の出身階層は、信長家康は土豪地侍、秀吉は地侍か名主というところです。また鎌倉時代における守護大名クラスで江戸初期まで生き延び得たのは島津・伊達を代表とする少数で、全国の石高に換算すると10%程度です。大半は徳川幕府の旗本、譜代大名,親藩、そして織豊大名です。
(個人領主から戦国大名へ)
 戦国大名の走りは小田原の北条早雲や越前の朝倉敏景です。出自で追うと戦国大名は国人層が圧倒的です。旧来の守護家からストレ-トに戦国大名化した家は甲斐の武田氏、駿河の今川氏、薩摩の島津氏それに奥州の伊達氏を加えるべきでしょう。彼らも簡単に戦国大名になれたのではありません。新羅三郎義光以来の名門武田氏は、甲斐の国に勢力を振るう同族や他氏の豪族と死闘を重ね、彼らを押さえつけてやっと甲斐一国の支配者になりました。武田信玄や父親の信虎などは酷い事をしています。島津氏は鎌倉時代一時守護になりますが、常に周辺に侵略を繰り返し、室町幕府の九州探題と抗争しつつ、戦国大名への道を歩みます。
 越前の朝倉氏と出雲の尼子氏は守護代(地方豪族の代表のような者)出身です。これなぞ出自のいい方です。越後の上杉氏はもと長尾氏(駿河の得宗被官出身)といい守護代でしたが、守護の上杉氏を圧倒します。関東管領の上杉氏が没落して名跡を謙信(景虎)に譲り、以後長尾氏は上杉と改姓します。
 国人領主出身の戦国大名としては、近江の浅井氏、安芸の毛利氏、肥前の鍋島氏、立花氏、土佐の長曾我部氏、関東の北条氏、美濃の斎藤氏、尾張の織田氏、三河の徳川氏、が代表的です。もっと群小の大名になる国人領主的性格を濃くします。織田氏は尾張の守護斯波氏の守護代の家老(従って斯波氏の陪臣)の家柄です。徳川氏は家康の祖父くらいの時には国人層になりましたが、それ以前はせいぜい地侍か有力名主といったところです。秀吉に至ってはまあ一般農民に毛の生えたくらいのものでしょう。
 国人は一国の一郡半郡規模を所領とする領主です。一国の中で土着しているから国人と言います。律令制の行政単位である郡は、だいたい数百名の軍勢が半日で郡の境まで行けるくらいの大きさです。この程度の大きさの版図なら豪族の一家でにらみが効きます。稲の実りもよく解ります。だから国人領主は成長するにしたがい、小さいががっちりした支配を確立します。この種の新しい領主層がお互い攻防し併呑し、守護大名を没落させて取って代わり、戦いの過程で配下の武士や農民への支配を強めながら、戦国大名に成長します。守護家あるいわ守護代家の場合も事態は同じです。守護職や守護代職にあぐらをかいている家は没落します。名門であろうと自らは一介の国人領主のつもりでやらないと、戦国大名にはなれません。名門であればあるほど一族は分枝します。こういう分家を他氏の豪族同様潰し滅ぼし押さえつけ服属させねばなりません。織田信長は尾張一国を支配下に置くため悪戦苦闘しました。大内義隆を滅ぼした陶晴賢は大内氏の支族でした。また出自が国人以下では出発点が小さすぎます。資本が小さくて一代で家を為すのはしんどい。戦国大名は国人領主を基盤起点として成長しました。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


「君民令和、美しい国日本の歴史」 目次

2021-04-28 14:48:37 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」 目次

1 聖徳太子
2 大仏開眼
3 記紀神話
4 万葉集
5 神仏習合
6 摂関政治
7 勅撰和歌集
8 源氏物語
9 愚管抄
10 御恩と奉公
11 評定衆と貞永式目
12 座、一揆、悪党
13 連歌と茶道
14 親鸞と日蓮
15 徳川幕藩体制
16 武士道、男道
17 元禄時代
18 大岡忠相と田沼意次
19 細川重賢と上杉鷹山
20 調所広郷と村田清風
21 江戸時代の経済思想
22 荻生徂徠
23 本居宣長
24 文化としての天皇
25 歌舞伎と浮世絵
26 村方騒動
27 処士横議
28 明治維新
29 西郷隆盛
30 福沢諭吉と渋沢栄一