経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

郵政逆民営化への反論

2009-10-29 00:51:50 | Weblog
  郵政逆民営化への反論

 民主党政権は、小泉政権において決定され現在進行中の郵政民営化を逆行させて、再び国営にする由です。私はこの方針に大反対です。以下その根拠を述べさせていただきます。
(1)4年前の総選挙は、郵政民営化を推進する小泉政権に対して、民主党と自民党の一部が反対し、参院で否決され、解散になった選挙でした。この選挙は、郵政民営化という明確な政策上の焦点、を巡って行われました。結果は周知のように小泉純一郎氏の率いる自民党の大勝になりました。国民は、郵政民営化に明確な賛意を表明したわけです。それから4年経ち、民営化は実行されつつあります。正否の結果は未だ不明です。一度国民が明確に意思表示した政策を、簡単に変えるのは、国民への裏切りないし国民の意見の無視ではないでしょうか。これでは選挙の度ごとに、政権党の意志で政策は容易に変更され、政策の首尾一貫性は失われてしまいます。
(2)郵政民営化がなぜ必要なのでしょうか?郵便業務、郵便貯金と簡易保険を全体で統括すればものすごい巨大資本になります。多分日本の全金融資産の40%を超えるでしょう。国営にすればそれは国家の資産になります。これは民業を、つまり民間銀行の経営を圧迫します。そもそも1992年頃から始まる平成不況は、わが国の金融行政が大銀行を中心とする間接金融であり、欧米で発達しつつあった直接金融の軽快さに太刀打ちできず、不良債権を山ほど抱え、銀行自身が行きづまり破産寸前になったから、金融行政の改革が叫ばれ実行されてきたわけです。郵政民営化はかかる政策の仕上げであり象徴です。郵政を国営化してはいけません。資産を民間の金融機関になるべく自由に運営させなければなりません。
 1970年代に通貨はフロ-ト制になりました。換言すれば通貨に国境はなくなったわけです。併行して預金と債権と保険と株式の境界も曖昧になりました。どちらからでも他方に移行できます。これを金融の自由化と言います。単純に言えば預貯金は簡単に株式に変えられ、ロウリスク・ロウリタ-ンの金融資産はハイリスク・ハイリタ-ンの資産に換えやすくなります。加えて外国の資金が容易に流入しますから、わが国内の銀行、企業、そして個人の資産はその影響化に常に晒されます。そしてここが肝心なところですが、株式資本は市場に一定の需要と人気があれば容易に作り上げる事ができるということです。(直接金融)何かの事業をしたい、当たりそうだ、人気がある、株を発行する、資金ができた、経営OKとなります。かならずしも発行した株式のすべてが換金されなくても、空の売買だけで資金ができたことにしてもいいのです。株式そのものが通貨になるのです。事業が成功しそうなら、上がった株を担保に新規の事業の融資を受ける、あるいは株を発行する事も可能です。つまり株式をうまく運用すれば、架空めいていますが、巨大な資本を作りあげる事ができます。こういう状況ではこつこつ貯金して、それを銀行に預け、銀行が一定の企業の営業成績を厳密に調査して融資し、以後の経営も監視し保護する、という間接金融では太刀打ちできません。平成不況の一因は日本の遅れた金融制度が欧米のそれについてゆけなくなったことにあります。ちなみに1998年の外為法改正の主要項目は以下の通りです。改正の意図するところは、資金運用の垣根を取り払って、預貯金、債権、保険、株式間の運用を極力軽快にする事です。
 適格年金の資金運用規制の撤廃 為銀主義(銀行中心主義)の撤廃、都銀と長短銀の長短分離による商品規制の撤廃 損保の保険料率の自由化 金融持株制度の導入 銀行証券の業態別子会社の業務範囲の見直し 有価証券取引にかかわる手数料の自由化 時価会計の導入 証券投資信託の運用気鋭撤廃
経済自由主義が行きすぎ否かはともかくとして、こういう金融自由化の趨勢に背く事はできません。郵政という巨大な金融資産がこのような趨勢から孤立して存在する事は、非常に危険です。固定された資金の投与による安定した企業経営は過去の夢です。自由化された金融空間の中で企業は生きてゆかざるをえません。かって日本は大和や武蔵という巨艦を持っていました。なんの役にもたたず、アメリカの艦載機の餌食になりました。銀行中心の間接金融は大和や武蔵です。株式資本は飛行機です。私にはそう思えます。
(3)郵政を国営にする事は、私のかんぐりかもしれませんが、政権にとってとても美味しいお話のはずです。この巨大な資金を政府運用部(でしたか?)なる機関を通して政府の意のままにできるからです。いわば闇の資金になりえます。民主党政権は埋蔵金を発掘すると言ったはずですが。また民主党は官僚支配を否定するはずです。郵政の国営化は再び膨大な郵政官僚を養う事にならないのでしょうか?

(追記)
過日岡田外相は、国会における、天皇陛下のお言葉、に対して注文をつけられました。岡田さん、ご自分を何様と思っておられるのですか。こういう場合、陛下の御言葉がある、というだけで充分なのです。そして神聖なのです。天皇は自らの署名を「御名御璽」とされます。この意味お解かりなのですか?岡田さん、貴方は心のどこかで天皇制廃止を希望されているのですか。不注意なのか無思慮なのか、いずれにせよ軽率な発言に抗議します。

景行天皇、成務天皇そして仲哀天皇

2009-10-25 14:11:49 | Weblog
  景行天皇と成務天皇および仲哀天皇

12代景行天皇記の内容の大部分は征戦です。古事記はこの記述を徹底して日本武尊個人の生涯に託して、描きます。対して日本書紀では日本武尊の記事はほぼ同一ですが、その前後で天皇ご自身の軍事行動も客観的に述べています。当然なのでしょうが、天皇の行動の記載は編年的であり散文的です。ここではまず日本武尊の行為を述べ、ついでそれをもう少し違う視野から眺めてみましょう。
景行天皇は垂仁天皇の皇子、和風では、おおたらしひこおしろわけのすめらみこと、と申し上げます。天皇の多くの皇子の中に、おおうすのみこと、おうすのみこと、という双子の兄弟がいました。みそめた女性を後宮に連れてくるよう、天皇はおおうすのみことに命じられました。おおうすのみことは、かの女性を欲しくなり、自分のものにしてしまいます。そのせいかどうか、おおうすのみことは朝夕の会食をさぼるようになります。会食は古代においては、重要な儀式であり、会食に参加する事は天皇への忠誠の証でもありました。天皇は弟のおうすのみことに、兄を連れてくるように命じられます。何日たってもおおうすのみことは現れません。おうすのみことに天皇が事情を聞かれますと、おうすのみことは、便所に入るところで待ち構え、手足を引き裂いて、こもに包んで捨てました、と平然として答えます。
おうすのみことの豪強というより乱暴に驚かれた天皇は、おうすのみことに、熊襲たける(九州の熊襲の頭目二人)の征討を命じます。熊襲とは現在の熊本県南部の地名です。おうすのみことは、熊襲に着くと女装して兄のたけるに近づきます。宴たけなわになった時、おうすのみことは短刀で、たけるの首から胸にかけて突き刺します。逃げる弟のたけるも突き殺します。兄のたけるは、おうすのみことの素性を尋ねます。そして、今までは西方の地域で我々二人に優る強者はいないと思っていました、その私達に勝った貴方に新たな名前を差し上げましょう、と言い、日本武尊(やまとたけるのみこと)の尊称を奉ります。
日本武尊は出雲のたけるも征伐します。これはペテンです。川で水浴していた出雲のたけるの刀を木刀に変えておいて、たけるに挑戦します。たけるは簡単に切られます。日本武尊はペテンにかかって負けた敵をあざ笑います。ここで「たける」とは「猛る」つまり荒々しい者・強者豪傑一般に与えられる普通名詞です。またこの言葉には指導者・頭目という意味もあります。やまとたけるのみこと、は大和の強者であり、熊襲とか出雲などの地方を越えた 日本全体の強豪である事、を意味します。
大和に帰った日本武尊はすぐ東国への征戦を天皇から命じられます。みこと(尊)は途中伊勢の斎宮である叔母、倭姫を訪ねます。この時みことは、天皇は自分が死ぬ事を願っている、と泣きながら訴えます。日本書紀ではこのような物語的・情緒的なくだりはありません。倭姫はこの時みことに、剣と袋を与えます。相模国(書記では駿河国)で土地の豪族である国造(くにのみやっこ)の謀にかかり、野原の中で焼討ちにあいます。この時みことは叔母からもらった剣で草をなぎ払い、同じく叔母から与えられた袋を開けて火打石を取り出し、草に火をつけて向火を放って敵をやっつけます。この故事から剣は、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれました。三種の神器の一つとして、名古屋の熱田神宮に奉納されています。三浦半島と房総半島の間の海峡、走水の海を渡る時、海は荒れます。海神の怒りをなだめるために、妃である弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)が入水します。関東を平定して西に向かう時、みことは碓氷峠から関東の地を見下ろし、弟橘姫を偲んで、あづまばや、と言います。あづまとは吾妻、つまり私の妻、の意です。ここから関東の地を東(あずま)と呼ぶようになったと言われます。甲斐国(山梨県)の酒折宮で、火の番をする老人と歌を交換します。これが連歌の始まりになったと後世の連歌師達は言います。尾張ではみやずひめと結ばれます。草薙の剣を姫のもとにおいて伊吹山に向かいます。山の中で牛ほどもある大きな白い猪(書紀では大蛇)に出会います。これは山の神でした。山の神は大氷雨を降らします。それがもとでみことは病気になります。伊勢国の三重村まで来た時みことは、私の足は三重に曲がってしまった、と言います。さらに進んで能煩野(のぼの、現在の鈴鹿市周辺)に至り、ここでそれ以上進めなくなります。みことはすぐ隣にある大和を偲んで、
倭は 国のまほろば たたなずく 青垣 山こもれる 倭しうるわし
と歌います。日本書紀ではこの歌は景行天皇が九州に遠征された時日向国で故郷を偲んで歌われた歌となっています。日本武尊は能煩野で亡くなります。その地に葬られますが、この御陵から一羽の白鳥が現れ、大和の方へ飛んで行きます。白鳥は河内国(大阪府)磯城に留まります。この地にも陵が造られ、白鳥の御陵と言われます。日本書紀では享年30歳となっています。
 以上が古事記による日本武尊の征戦の記述です。この記述ではみことのみが征戦を遂行した事になっていますが、日本書紀の記載は違います。九州遠征はまず景行天皇が行われ、再び反乱が起こったので未だ青年にも達しないおうすのみこと(日本武尊)が派遣された、と書かれています。また天皇とみことの関係も決して悪くはなく、大王と将軍の信頼できる関係が述べられています。命の死後天皇は、大切な武将を失って以後征討戦をどのように行えばいいのか、と歎かれています。命の死後、天皇ご自身が東国に遠征されています。天皇の征戦は日時と場所の記載の連続で、ロマンに欠けます。が、次の話はなかなか興味をそそられます。熊襲たけるを征伐される時、天皇はたけるの娘を騙して寵愛される振りをされます。娘は父親に酒を飲ませます。酔った時、娘と同行していた天皇配下の兵(つわもの)がたけるを殺します。娘は父親を裏切ったとして天皇に殺されます。ここのくだりは、ギリシャ神話のメディアの物語に似ています。また娘と兵を併せた像を作れば、古事記の日本武尊の像になります。
 日本書紀の景行天皇記では、日本武尊の記事が古事記とほぼ同様の形で真中に置かれ、前後が天皇の九州と東国への遠征の記述になっています。
 13代成務天皇(和名、わかたらしひこのすめらみこと)の記述はまことに短く内容も乏しいのが目立ちます。記紀ともに、記載は10行に達しません。内容としては武内すくねを大臣(おおおみ)に任命した事くらいです。もっとも大臣職の設定は統治にとって重要な事ではあります。ちなみに武内すくねは景行天皇の子供ですから、成務天皇にとっては異母兄弟になります。武内すくねは以後代々の天皇に大臣として仕えます。
 14代仲哀天皇記の事実上の主役は神功皇后です。肝心の天皇の行為はわずかばかりです。仲哀天皇が熊襲を征討されるために九州に行かれます。ここで夢を見られます。夢のお告げは、なにも熊襲などの辺境に行くより、海の彼方に肥沃な土地があるではないか、それを征討して領土とせよ、でした。天皇は岡から海を眺められて、何もないじゃないか、変なお告げだなあ、と夢告を無視されます。その夜天皇は頓死されます。夢告の実行は天皇の妻である神功皇后に引き継がれます。仲哀天皇は日本武尊の子供です。
 景行・成務・仲哀天皇記の特色から推察しますと、まず成務天皇の実在が疑われてきます。もう少し想像をたくましくしますと、三輪王朝の景行天皇の事跡に後の河内王朝のそれが混入されているとも言えましょう。この事は応神天皇と仁徳天皇について述べる時振り返ってみましょう。

天皇ご紹介・垂仁天皇

2009-10-22 03:22:06 | Weblog
   垂仁天皇

11代垂仁天皇は崇神天皇の皇子、和風では、いくめいりひこいさちのすめらみこと、と申し上げます。記紀により表記は異なります。古事記ではこの天皇の事跡は、ほとんど逸話のみで構成されています。その方がロマンティックと言えばそう言えます。垂仁天皇の皇后はさほ姫と言います。開化天皇の子孫です。皇后の兄のさち彦はさほ姫に、夫である天皇と兄である自分のどちらを愛しているかと、尋ねます。皇后は兄を選びます。兄のさほ彦は、天皇の睡眠中に刺せ、と言って小刀を与えます。皇后は、兄の命令を実行しようと思い、眠っている天皇を刺そうとしますが、できません。刺そうとして、涙がこぼれ、天皇の顔にかかります。天皇は目覚められ、夢を報告されます。「さほの方から 暴雨がやってきて私の顔にかかった、また錦色の蛇が首にまつわりついていた」と。皇后は兄に言われた事を語ります。天皇はさほ彦征討の軍を起こされます。皇后は兄の陣営に逃げ込みます。落城に際して、皇后は天皇との間の皇子を天皇に渡そうとします。その時天皇は臣下に、同時に皇后もこちらに連れてくるように、と命じられます。皇后はかねてこの事態を予想しており、髪を剃ってかつらを作り頭につけ、衣服もすぐ破れるように細工しておきます。天皇の臣下は命令を実行しようとしましたが、皇后のトリックのために捕まえるところがなく、皇子のみを抱いて天皇の陣営に帰ります。皇后は兄と運命を共にして火の中に滅びます。落城に際して皇后は、自分無き後の後宮に入れる婦人を5名推挙します。開化天皇の子孫の王族で丹波道主王の娘達です。その中からひはす姫を選んで皇后とされます。五名の中の一人竹野姫は美しくなかったので返されます。この姫は天皇の仕打ちを悲しみ、途中輿から落ちた形で自殺します。この地を堕国(おちくに)後に訛って乙訓(おとくに)と言うようになりました。京都府乙訓郡です。
 さほ姫腹の皇子を、ほむちわけのみこ、と言います。天皇はこの皇子を常に傍において寵愛されますが、皇子は成人しても言葉を話しません。ある時くくいという鳥が鳴いているのを聞いた皇子は、これは何物か、と尋ねます。天皇は臣下にくくいを捕らえる事を命じます。臣下は諸国を巡り歩いてやっと鳥を見つけます。日本書紀では、くくいを飼う事によって、皇子は話せるようになったとあります。古事記ではくくいの効果はなく、さらに話が続きます。天皇の夢に出雲大神が現れて、私の神殿を修理すれば皇子は話せるようになる、と言われます。天皇が臣下を出雲に派遣されて、神託に答えられた時、皇子は話し始めます。この皇子は出雲でひながひめという女性と交接します。この姫の本体は蛇でした。皇子は必死に大和に逃げ帰ります。
 古事記に比し日本書紀の記述は、より客観的です。垂仁天皇の容貌は美麗、そして寛容で度量の大きい人柄と記載されています。新羅から天日槍(あめのひほこ)が多くの珍しい物をもってやってきます。畿内諸国を転々として但馬国出石に住みつきます。天日槍は出石神社に祭られています。任那の朝貢使に与えた赤絹を新羅が途中で奪い、以後新羅と任那は不和になった云々の話もあります。
 大和の当麻郷にたいまのけはやという力持ちがいました、天下に自分ほど強い者はない、と自慢する蹴速に出雲の野見のすくねが挑戦します。野見のすくねは一撃でけはやを蹴り殺します。この逸話は大相撲の紀元説話です。
 垂仁天皇は皇女倭姫を天照大神の祭司に任命し、大神の斎宮を伊勢国五十鈴川の川上に措定されます。斎宮つまり神殿をどこにするかは、なかなか決まらず、天照大神はその間、大和、近江、美濃と転々されました。こうして伊勢神宮できました。
 垂仁天皇の時殉死の風習が無くなります。天皇の弟である倭彦命が亡くなります。この時側近の者はすべて生きながら埋められました。哀訴、号泣が野に山にこだまし、あまつさえ野犬や烏についばみ、悪臭が満ち満ちて、腐乱した死体が散乱しました。天皇はいたく悩まれました。天皇の皇后ひはすはひめが死去した時、先に述べた野見のすくねが献言し、人間の代りに埴(はにつち)で作った土製の人形等を埋葬しました。以後高位の貴人の陵墓にはこの埴輪(はにわ)が副葬されるようになりました。
 兵器を神社に収める風習もこの天皇の代から始まります。特に大王の軍隊の兵器は石上神社に収められ、軍事士族である物部氏が管轄しました。
 天皇は灌漑治水にも熱心であられ、高石池はじめ多くの池溝を造られています。垂仁天皇の代には、反乱はありましたが、大和国の外への征戦はほとんど記載されていません。次代の景行天皇の代になると、九州から関東にいたる征戦の記述が激増します。


天皇ご紹介、崇神天皇

2009-10-17 03:09:14 | Weblog
   天皇ご紹介 崇神天皇

 第10代崇神天皇は記紀では開化天皇の第2皇子、みまきいりひこいにゑのすめらみこと、と申されます。神武天皇と同じくもう一つの名称を持たれます。はつくにしらすすめらみこと、つまり「始めて統治された天皇」という意味の名前です。ですからかなり多くの史家は神武天皇と崇神天皇を重ねて考察します。歴史的事実に関する部分は崇神天皇に、そしてこの天皇の事跡を10代150-200年遡らせて投影し、神武天皇の物語ができたのだと、言います。従って崇神天皇はその実在が確証される始めての天皇、という事になります。事実この天皇から、記紀の記載内容は豊富になり、統治の実際を具体的に物語る記述が始まります。
 崇神天皇の時、全国に疫病が蔓延し、多くの人民が死にました。天皇の夢の中に、大国魂神(おおくにのたまのかみ)が現れて、私をちゃんと祭れ、そうすれば疫病は止むだろう、と言われます。天皇のみならず二人の臣下も同じような夢を見ます。大国魂神、あるいは大物主神は大和古来の土着神でした。皇室の祖神は天照大神です。この話は土着神とその上に為政者として望んだ集団が擁する新しい神との相克を表しています。結果として天照大神は大和笠縫邑に、そして最終的には伊勢国に祭られる事になります。天皇は夢告に従って、大物主神の子孫である、大田田根子(おおたたたねこ)をして三輪山で大物主神の祭祀を司らせます。その他の重要な神々の祭祀も確定されます。この話は重要です。大物主神と天照大神という二神の争いは、土着の人々と為政者側の人々との争いと妥協を意味します。征服者である、あるいは大和周辺一帯の統一者である崇神天皇は土着の人々の神々を受け入れ、像を複合させて神話を作り、統治の正当化に努めました。崇神天皇から、垂仁、景行、成務、仲哀と続く5代の天皇の王朝を史家は三輪王朝と呼んでいます。仲哀天皇と応神天皇の間に神功皇后という女傑が介在し、応神天皇から清寧天皇までを河内王朝と言います。三輪山に関しては王権のいわれを物語る面白い神話があります。
 崇神天皇記にでてくる内容の多くは征戦です。天皇は北陸、東海、山陽、丹波の四方面に将軍を派遣して、統一戦を遂行されました。四人を四道将軍といいます。また出雲地方の豪族出雲振根を殺して、この地方を服属させます。しかし最大の危機は庶兄である埴安彦(はにのやすひこ)の反乱です。天皇の軍と安彦の軍は現在のなら山で対峙します。天皇の軍は叫び、足を踏み「なら」して、戦意を高めます。ここから対峙した場所が「なら」山とつけられたそうです。現在の奈良の名称はこの故事に由来するのでしょう。もう一つ地名伝承があります。天皇の軍は勝ち進みます。安彦の軍はパニックを起こして逃走します。現在の大阪府北部(淀川東岸の)にまで逃げてきた安彦の軍は恐怖のため、糞便を失禁します。兵士の褌は汚れました。くそ褌(くそばかま)から現在の楠葉(くすは)の地名が出てきたそうです。
 天皇は二人の皇子、豊城尊(とよきのみこと)と活目尊(いきめのみこと)を呼ばれ、二人が見た夢により、後継者を決めると宣言されます。豊城尊は「御諸山に登って東に向き、矛を突き出し、矛を八度振る」という夢を報告します。活目尊は「御諸山の頂上に上り、縄を四方に張り、粟を食う雀を追う」という夢を見たと言います。天皇は、兄の皇子には東国の支配を、弟の皇子には皇位継承を約束されます。夢の内容は戦争と祭祀の象徴ですから、意味は解りやすいのですが、重要な事はこの天皇の時代に、東国(三河以東)が支配され始めたという事です。半島の任那(みなま)からも朝貢使がきます。
歴史家の話では崇神王朝の時の事実上の支配領域は現在の近畿地方全域というくらいでした。また天皇は依網池(よさみいけ)他の池を沢山作らせます。これは灌漑工事です。支配し統治するためには、まず殖産です。男女の仕事に応じて課役を定められたとも書かれています。長幼の序に関しても同様です。このような記述を読んでいますと、崇神天皇をもって最初の大王(おおきみ)とする定説がうなづけます。もっともこの天皇と現在の皇室との関係は判然とはわかりません。しかし象徴的次元では繋がっているようです。

三輪山神婚説話
 古事記には次のような逸話が載せられています。活玉依姫(いくたまよりひめ)という絶世の美人がいました。若くて美しい男性が彼女のところに毎夜通ってきて同衾します。いつの間にか妊娠します。父母が問い詰めます。父母は姫に、若い男性の着物のすそに針を刺すよう、教えます。針には麻の糸がついています。ある夜事果てて、男性は帰ります。針についた糸をたぐって到着したところが三輪山の神社(かみのやしろ)でした。男性は三輪山の神なのでした。麻糸は糸巻三個分必要でした。糸巻三つ、つまり三勾(さんわ)から三輪山の名が出たようです。
 これが日本書紀になると少し話しの形が違ってきます。女性の名は、倭とと姫命になります。倭とと姫が若者の素性を尋ねます。若者は、明夜櫛箱に入っているでしょう、私の形に驚かないで下さい、と答えます。姫が櫛箱を開けて見ると、一匹の小さい蛇がいました。姫は驚き声を上げます。とたんに蛇は若者に変身し、大空を駆けて三輪山に登ります。姫は仰ぎ見て、ほと(女陰)を箸でついて死にます。
 この説話は三輪の大神が人間の女性に通う(犯す)話ですが、これを別角度から見れば、神と神に仕える女性祭司の関係とも言えます。倭とと姫は祭祀を司りました。崇神天皇は実際の政治の主権者でした。ここで男女は祭祀と政治を分業している事になります。これは魏志倭人伝の中に出てくる、卑弥呼と男弟の関係に似ています。そういう学者も結構います。雄略天皇(倭の武王)が南朝の宋に入貢したのが5世紀前半ですから、その10代前なら3世紀前半、魏志の年代と会います。こういう考察も可能です。
 三輪山型の逸話は極めて普遍的です。京都上賀茂神社の起源伝説も同様です。瀬見の小川で遊んでいた玉依姫は流れてきた朱塗りの箸に触れて妊娠しました。基本的にはこの種の神話は、神が魔となって襲来し、女を犯す、というパタ-ンです。ギリシャ神話の中のデウス神は水や雄牛になって自由自在に女の寝所に出入りしました。中国の殷王朝や周王朝の始祖は、母親がどこかを歩いていて急に産気づいて生まれています。源氏物語で、主人公光源氏は若紫を略奪し、夕顔を人知れぬ屋敷に誘拐しますが、これも三輪山神婚説話の亜形です。
 なおここで三輪山の大神は大国魂神、大物主神などいろいろな名前で呼ばれますが、みな同じです。時には大国主神とも呼ばれます。大国主神は出雲系神話の神ですが、出雲のみならず大和も含めて全地域の土着神の代表でした。崇神天皇記の物語は、三輪山の主神である大物主神が、自らへの祭祀が不十分である事を怒って、疫病をはやらせた、という事になります。裏から見れば、為政者に対して土着の住民が大きな不満を持っていた、という事です。

経済人列伝、豊臣秀吉

2009-10-12 03:38:04 | Weblog
 経済人列伝、豊臣秀吉
太閤秀吉を経済人として捉えるのはいささか突飛かも知れません。しかし日本の歴史上の人物で秀吉ほど日本の経済に影響を与えた人も少ないでしょう。もう一人挙げれば平清盛です。秀吉の経済への貢献を、まず彼にまつわる逸話、彼の最大の事業である検地と刀狩、そして秀吉が生きた時代が日本経済の一大転換期であった事、の三点から考察してみましょう。
秀吉に関しては多くの逸話があります。甫庵太閤記などの通俗書の記載も援用しますので、必ずしも以下の逸話が真実であるとも言えません。しかし逸話は幾ばくかの真実を含むものです。秀吉がまだ織田家に仕える以前、彼は木綿針を売って地方を行商していたそうです。年代で言えば多分1550年代の後半頃でしょう。木綿は秀吉の青少年時代にすでに日本国中で栽培され始めていました。近世製造業の基軸である綿業と秀吉の武家奉公以前の職業が重なる事を私は偶然のようには思いません。このような体験の中から彼は政治や軍事に経済がいかに重要な事項として関係するかを学んだのでしょう。彼の行為には常に経済を考慮し経済を利用する姿勢が顕著です。
 太閤記の中の有名なお話に、清洲城の割普請があります。台風か水害で城の石垣が百間(180m)崩れました。秀吉は修理責任者を買ってでます。秀吉は持ち場を100組に分け、1組1間とし、各組を競争させます。修理は1-2日で完成します。同じ割普請は墨股築城の時にも行われます。割普請は20世紀のテ-ラ-方式あるいはトヨタ方式を髣髴させます。割普請は秀吉の発案と考えてもいいようです。
 鳥取城の兵糧攻め。ここで秀吉は彼の経済感覚をいかんなく発揮します。攻め込む前に味方の領地に住む米商人を抱きこみ鳥取に行かせます。そこで、上方ではひでりで米の成りが悪い、いくらでも買うぞ、と言わせ、鳥取の農民の米を高値で買い取ります。あまり条件が良いので、城に備蓄しておいた米の大部分も売られました。見計らって攻め込みます。城を大軍で遠巻きし、要所要所に臨時の要塞を造って、城から撃って出られないようにし、上方から商人や遊女を呼び寄せて、将兵が飽きないように配慮します。これを鳥取の干殺しと言います。結局城将以下数人の切腹のみ、兵士の被害はほとんど無しで、落城しました。同様の事は備中高松城の水攻めでも行われています。ここでは数万人の人夫を賃用し、あっという間に城を水で囲みます。
 秀吉の統一戦の仕上げが北条氏攻伐です。北条氏の本拠地小田原城を攻囲します。その十数年前越後の上杉謙信が小田原城を囲んだ事があります。しかし謙信は1ヶ月で引き上げています。理由は兵糧不足です。北条氏は今回もそんなものだろうとたかをくくっていました。秀吉は米20万石を海路急送して駿河清水に送り、さらに金10000枚(慶長小判にして10万両)で東海道一帯の米を買い、それも前線に送ります。総計50万石から60万石です。20万人の将士が1年以上食ってゆける量です。小田原城は喧々諤々の評定の末に落城しました。無血開城です。
 秀吉は割普請で労働形態の新基軸を考案し、城攻めでは当時発展しつつあった商業を巧にしかも大規模に利用しています。
 秀吉が新しい時代を開いたと言うならば、彼の最大の事業は検地と刀狩です。検地はなにも彼の独創ではありません。戦国大名も、彼の先輩であり主君である織田信長も、後の徳川将軍達も検地は熱心にしています。しかし最初に全国規模で検地をしたのは秀吉です。検地の意義はどこにあるのでしょうか?兵農分離です。源平の昔から武士は農村出身であり農場の開拓者・経営者でした。ですから農民と武士の境界は曖昧でした。各地に数町(数ヘクタ-ル)から数十町の土地を所有する土豪(名主、みょうしゅ)がいました。彼らの下には彼らに雇用され隷属する農民がいます。戦国大名は彼ら豪族を武力として臣下に組み入れます。しかし豪族は在地では独立した経営主体です。耕作民の労働の成果を大名が取るか豪族が取るかで、いつももめます。信長・秀吉は極力武力を城下に集めました。そして検地をします。各村の農地を精確に測量し、そこから取れる収穫高を決め、それに課税します。こうなると大名と耕作民の中間にいて利益を吸い取っていた名主豪族はそのうま味を失います。各地で一揆がもち上がります。そこで一揆の武力を削ぐために、刀狩が行われました。こうして在地の豪族達は大名の家臣になって軍役奉仕を行い俸禄を頂戴するか、それとも農村に在住して農業に専念し、軍役奉仕を免除される代わりに租税(年貢)を収めるかの選択を迫られます。農村に残った名主豪族の家は代々その地の名主(なぬし)庄屋を務めました。
 再び、検地の意義は何でしょうか、と問います。兵農分離です。ここでは兵より農の方が重要です。検地により農村は農業に専念する耕作民のみになりました。また商工階層も都市に集住させられます。ここでも兵農分離と同様な事が行われました。それ以前の商人は武器を持って旅行していました。道中が危険だったからです。武器携帯禁止の代わりに治安の保障が与えられます。なぜ治安が保障されたのでしょうか?豪族達の武器を取り上げ彼らを農民にしてしまったからです。考えても御覧なさい、一つの国や郡に何十何百の小豪族が番居していて、常に武力を養っているとなると、物騒です。豪族は勝手に関所を作り私税を徴収します。時には盗賊にはや代わりしてよそ者の商人の物品を直接収奪します。検地刀狩が厳密に施行されると、こういう現象は次第に影を潜めます。代表的な例が倭寇です。九州北部海岸の住民が武装して倭寇となり、朝鮮や中国の沿海を荒らしました。代々の明の皇帝は盛んに倭寇取締りを室町幕府に要請しましたが、らちはあきません。しかし秀吉の代ごろになると、倭寇はほとんど収まりました。他にも原因はありますが、検地と刀狩による兵農分離の影響は見逃せません。倭寇の首領クラスは在地土豪です。彼らが配下の農民とともに海に繰り出していたのです。
 兵農分離により兵つまり武力を持った連中は家臣団として大名の統制に服します。農民は農業に専念します。商工階層も同様です。安心して労働できるようなると余剰の生産物も増えます。こうして全国の通商圏ができあがります。米以外の商品作物の栽培も増えます。江戸時代も元禄の頃になると、農民の余剰蓄積は進み、名目上の年貢は60%でも実質は30%以下になりました。富裕になった農村を土台として新しい商人層(例えば三井高利)が出現します。
 検地刀狩は民衆の経済活動を開放しただけではありません。これは秀吉も家康も全く予期しなかった事でしょうが、検地の結果日本の社会は独特の平等性を帯びるようになります。武士は都市に集住、農民は農耕に専念、職人商人も同じ。となりますと、働く方に富が集まるのは当然です。農民の家内工業や商工階層の営利活動をきちんと調査して課税する能力は幕府大名にありません。農工商は裕福になり、武士は窮乏します。つまり政治の実権と経済力の保持は別々の階層が担う事になりました。かといって武士階層が消滅したわけではありません。武士は食わねど高楊枝、で幕藩官僚に転進します。世界中の封建家臣団の中で一番教養があったのは江戸時代の武士です。文字通り文武両道です。維新時官僚はほとんど武士階層から補給されました。日本の官僚の優秀さはこの事情にもよります。また武士の物質的生活レベルはそう高くありませんから、日常生活の中では庶民と共存します。
 これを他国と比べてみましょう。イギリスでは地主が社会の主勢力になりました。彼らの代表が上下の議院です。彼ら地主階層は政治権力と経済力を独占しました。イギリスの方が日本よりはるかに身分格差はきついようです。また中国(例えば清王朝)では、科挙官僚が地方官に任命されますと、彼らは一族近親知人子分をわんさとひきつれて赴任し、任地で商売を始めました。政経不分離もいいとこです。
 秀吉の時代は、室町時代という開放的で猥雑な時代の中で醸成されてきた日本の諸産業が集約されて転回点を迎えた時代でした。代表的なものを挙げてみましょう。朝鮮半島から伝わってきた木綿は兵衣、下着、庶民の上着の材料などとして重用されます。保温性と吸湿性に優れ、着色しやすく丈夫です。全国で栽培されましたが、代表的産地は摂津・伊勢・三河です。商品作物の代表になりました。木綿の着色料の代表は藍です。藍の栽培も盛んになります。摂津平野の対岸阿波では、蜂須賀家入部と同時に、藩の指導で藍栽培が開始されます。木綿の栽培には肥料が沢山要ります。その頃山陰北陸の海岸では鰯が豊漁でした。その辺の海を網ですくったら鰯が山ほど入っていたとか言います。これが肥料になります。魚肥、金で買う肥料なので金肥と言います。裏日本の漁民も儲かりました。
 次に菜種。室町時代は胡麻から油をとっていましたが、それは菜種油にとって代わられます。菜種も商品作物としては重要です。油は灯油にもなり夜の生活は闇から解放されます。酒は伊丹に住んだ鴻池家が始めて清酒を作り関東に海路輸送をし始めます。酒造業と廻船業が始まります。茶の湯は足利義政以来盛況になり、秀吉の時代には千利休が出て庶民用の茶道を確立します。平行して茶の生産量も増大します。茶と言えば陶磁器がすぐ浮かびます。加藤景正が中国から持ち帰った技術を使って瀬戸焼を始めましたが、それが唐物に並んで高い評価を受け始めるのが、秀吉の頃です。製陶業は全国的規模で盛んになります。
 決め付けは金銀です。どういうわけか16世紀の日本には金銀が湧くがごとくに出ました。世界の銀生産量の1/3は日本産です。金銀の大量出現は流通貨幣量を増やします。そして農村の生産力の向上です。生産物と貨幣が平行して増大しました。景気の良い時代になります。また金銀の増量はそれまで中国の銅銭を貨幣として使っていた、換言すれば中国経済圏から抜け出せていなかった日本の経済を開放します。逆に中国は日本の銀を必要とし始めます。
 秀吉が生きた時代はこのような日本の経済構造が転換する時期でした。では秀吉はこの時期、どのように経済構造の変化と進展に寄与したのでしょうか?まず全国的規模の通商圏の確立は彼に負います。大名同士の私的抗争は禁止されます。在地に番居する小豪族はその政治的影響力と武力を奪われます。安心して歩け、商売できる時代になったわけです。検地により労働に従事する階層は安心して働けるようになります。武士は俸給で生活する官僚になります。勤労とその成果である財貨は民間に解放され民富は増大します。
 秀吉は金銀の価値を熟知していました。恩賞は金銀で支払われる事が多かったのです。手づかみで金銀を功臣に渡します。パ-フォ-マンスもあります。しかし金銀に関しての秀吉の最大の貢献は、定額貨幣である天正大判を作った事です。この企ては家康に受け継がれ、慶長小判を中心とする金銀銅の三貨体制ができあがり、日本の幣制が確立します。
 秀吉は遊び好きでした。北野天満宮の大茶会、醍醐の花見など秀吉が主宰した遊興は数多あります。築城も彼の道楽でした。大阪城に伏見城、聚楽第など。後続する家康も江戸城、名古屋城など大きな城を建築します。遊興と築城、それに伴う大都市建設は資材の集積、労働力の動員を必要とします。労働は原則として賃労働です。資材と労働力は全国的規模で移動し、都市に富が集まり、都市の大商人が栄えます。大商人のもとに蓄積された富は地方と下層に移動します。富が散布される中で地方農村の産業が賦活されてゆきます。経済が好況であるためには、物と金が動き回らなければなりません。
 秀吉は茶の湯が大好きでした。茶の湯は日常性の中での祝祭です。祝祭の象徴が茶碗などの道具です。秀吉は利休の考案した侘び茶を好み、そのパトロンになります。侘び茶とは、それまでの高価な唐物とは違う値段の安い和製陶磁器を使った茶の湯です。日本製の陶磁器が評価され始めました。秀吉と利休により従来の茶の湯が一大転換をした事は確かです。こうして茶と陶磁器の生産は増大してゆきます。増産だけではありません。日常の中の祝祭を楽しむ事は生活文化を向上させます。18世紀に入ると、日本人特に都市住民は、お茶・お華、俳句に連歌、歌舞伎と文楽、琴・三味線・浄瑠璃・謡曲・舞・踊りなどの稽古事、そして学問にいそしみました。当時朝顔栽培が盛んでした。一株1000両近くもする朝顔が売れていたそうです。生活文化の向上は有効需要の増加をもたらしますから、経済は活気を帯びてきます。このような転換は秀吉の時代に負い、秀吉自身が転換を促進しています。
 
参考文献
  秀吉の経済感覚(中央公論)、黄金太閤(岩波書店)、茶の文化史(岩波書店)、茶人豊臣秀吉(角川書店)、新・木綿以前(中央公論)、日本通史⑪(岩波書店)

経済人列伝、二宮尊徳

2009-10-08 00:36:52 | Weblog
二宮尊徳
 最近報徳教が見直されているようです。報徳教は二宮尊徳の思想を中心として形成された、倫理処世そして経世のための教えです。尊徳はかなり誤解されています。戦前は孝子の代表として小学校の庭には必ず彼の銅像が建てられていました。尊徳は国粋思想に利用されたようです。しかし彼の思想はそんなに底の浅いものではありません。ここではそれを主として経済学という見地から考察してみましょう。
 二宮尊徳は江戸時代後期の人です。幼名は金次郎、1787年に生まれ、1856年死去しています。彼が生まれる4年前浅間山の大爆発が起こり、関東全域が大きな被害を蒙りました。田沼政権は崩壊し、代って松平定信が登場します。尊徳が死去する3年前、ペリ-は浦賀に来航し開国を迫ります。そういう時代に彼は生まれました。彼の生涯は農民の生活と農村財政の立て直しに捧げられます。その行為の積み重ねから「尊徳仕法」という実践的な政治経済学が生まれました。
 彼は、まず自家の経済の立て直しを行い、このやり方を農民や武士の家政さらにあ藩政へ一般化して、仕法と称します。彼の学問は三教一致で、仏教・神道・儒教をすべて取り入れた独特の宇宙観を持ちます。
彼の本領は「経世」、すなわち家や村や藩の経済が成り立つようにその経済の仕組みを考え整え変えてゆくこと、の実践です。
 彼は農業技術者であり、経済学者であり、農民の指導者であり、哲学者でした。主として農村の立て直しが彼の仕事です。土木灌漑、経理や村政、藩との交渉、そして仕法を実践するに際しての心構えと心情の涵養訓練も、彼の仕事です。
当時の農村は疲弊していました。幕末の人口は3000万、わが国の経済が農業と手工業の上に成立する限り、ぎりぎり養える人口です。洪水などがあると村の生産は激減し、餓死者や放浪者も出て、生産単位としての農民の家は崩壊します。農民の生産の上に成り立つ武士の生活も破壊されます。
 石高が1000石といっても、実高は400から500国程度が実態にあります。幕府の政策で関東は小大名旗本の領地に天領が複雑に組み合わされ、統一的な開発ができません。関東の地は火山灰地が多く肥沃ではなく、大河川が多く洪水に悩まされます。尊徳が生きたころの関東の農村はこんな状態でした。彼は相模国、現在の神奈川県の出身です。
 尊徳を経済学者として考えてみましょう。
尊徳は人間の欲望を肯定し、衣食住の資源である諸々の財貨を「天禄」と称します。「天からの給付」です。この天禄をうまく使い、衣食住に支障のないようにすることが経国済民であり、人間は、みながみな、そう努めなければならないといいます。商業を含む一切の経済行為は肯定されます。「ただ欲望をどう制御するかが問題になる」と、尊徳は説きます。
 制御の手段が、推譲と分度、お互い譲りあい自己の分を知ることです。道徳的な言葉づかいですが、これは共感を基盤とする商議と妥協ですから、契約関係を意味します。契約関係の最たるものが「交換」です。
 尊徳は富の源泉としての農業を強調する重農主義者です。当時の為政者も重農主義といえば重農主義です。しかし農民である尊徳が、資源を天禄として万人に共有されるべきものとし、商議と妥協に基づく契約関係を重視し、その果てに交換経済の重要性を説くと、特権的支配者としての武士が存在する余地はなくなります。土地の政治的占有を否定して、効率的管理が強調されると、土地は富自体とみなされます。これが厳密な意味での重農主義です。尊徳は意識してか否か、商業行為としての農業へ一歩を進め、明治政府の地租改正の前駆をゆきます。
 彼は「倹約」を「資本蓄積」として、積極的に解釈します。倹約して蓄積したものをどう増殖させるかが問題だといいます。
 失業対策事業もも積極的に進めます。彼の失態事業は単なる救済ではありません。尊徳はすでに有効需要喚起の意義を理解しています。
ある村が洪水で荒れた時、壮健者には土木事業をさせ、残りの者には縄を作る仕事を与えます。藩当局にそれを高値で買い取るよう指示し、ともかく農村に仕事を与えて金を落とせ、といいます。ケインズが説くところと同じです。
 以上の考え方から、尊徳が万人平等を推奨したことが解ります。食う、を焦点として論理を展開すれば必ずそうなります。彼は徹底した合理主義者であり、現世肯定論者です。
 尊徳はかなり複雑な形而上学を描いています。彼の思想で重要なのは、天道と人道の区別です。天のものは天のもの、人の道は人の道、といいます。天という抽象的厳選から地上の行為を切り離し、作為としての人道、つまり人智で作り為すところの営為を、彼は愛しました。この考えの背後には荻生徂徠の影響があります。
 尊徳ほど誤解された思想家も少ないでしょう。戦前は勤倹節約孝子の鑑のようにいわれ、戦後は保守反動の象徴とみなされました。
 彼に関する逸話を一つ紹介します。彼は結婚早々妻に逃げられています。仕事に熱中して家を空けることがおおく、あきれた妻に逃げられたのです。豊田佐吉も同じ経験をしています。
 最近「ザ・トヨタウェイ」という本を再読しました。いわゆる、かんばん方式とかリ-ンシステムとかいわれる、豊田自動車の工程管理方式です。読んでいて、実に着実だが案外泥臭いやり方だな、と思いました。現場の土壌そのものから出てきたというニオイムンムンです。どこかにこのようなやり方があったように感じました。その時トヨタの始祖である豊田佐吉が報徳教(二宮尊徳の教えを奉じる倫理や処世に関する道徳団体)に入っていた事に思い当たりました。豊田方式と尊徳のやり方は似ています。佐吉も尊徳も出自は同じです。佐吉は自作農兼大工、尊徳は小地主です。二人とも仕事に没頭して最初の嫁さんに逃げられた点でも酷似します。ちなみに豊田自動車の創業者は、この逃げた妻の産んだ喜一郎です。

参考文献
 二宮翁夜話(日本思想史体系)---岩波書店
 天皇制の擁護---幻冬舎
  ザ・トヨタウェイ(上下)---- 日本経済新聞社

民主党政権は左翼・ファッショ政権か?(2)

2009-10-02 23:44:05 | Weblog
  民主党内閣は左翼・ファッショ政権か?(2)
 
 前のBlogで主な主張はできたと思う。補足する形で意見を追加する。
1 民主党政権は首相の鳩山氏と幹事長の小沢氏の二頭政権と言われる。この組み合わせはある意味で絶妙だ。宇宙人(空疎な理念に走りやすいことになる)鳩山首相と壊し屋(政策の目標はなんでもいい、ただ権力の行使のみが目的となる)小沢氏の組み合わせだ。また鳩山内閣の17人の閣僚のうち7人が連合傘下にある。(注1)加えて市民運動出身の菅氏、さらに連立与党の社民党の存在、日教組出身の参院実力者、このような布陣は旧社会党の亡霊が蘇ったに等しい。宇宙人と壊し屋のコンビを取り巻く重厚な左翼的人事配置。コンビが迷走暴走しやすい分、周囲は彼ら二人を容易に操作できるだろう。ここにこの政権の危うさがある。深刻な危うさだ。
2 社民党の存在に着目しよう。日本の社民党は特異な存在だ。ドイツの社民党などと同列には論じられない。そもそも細川政権から村山政権への移行において、旧社会党のメンバ-はほとんど現在の民主党に移った。残った連中が土井隆子氏を擁して社民党を結成した。その過程で幹部は女性になった。率直に言えば社民党はフェミニストの政党だ。
フェミニズムとは何か?フェミニズムは究極的な共産主義だ。共産主義は財産の平等を主張した。その結果は惨憺たるものだった。フェミニズムは性の平等、性差の無差別否定を主張する。(注2)これは婚姻秩序の否定であり、その影響はかっての共産主義の比ではあるまい。繰り返すがフェミニズムは究極的な共産主義だ。社民党の本質はそこにある。そしてその政策は一見して優しそうに見える。現体制下に抑圧されているとかの、女性の権利云々と言えば、女性そして民衆に優しく、彼らの味方のように聞こえる。しかし社民党が性差の無差別否定を介して、社会の根本的な転覆を図っているという事は忘れるべきではない。民主党はこの社民党と友党関係にある。民主党は社民党が表にかもし出す、雰囲気を利用して、それを自らの人気の中に取り込んだ。その点では宇宙人鳩山首相は適役だった。いずれにせよ民主党は社民党と意図的に、つまり単なる数合わせという以上の意味で連携している。社民党の得票数は300万、民主党の広告塔としてなら充分に意味のある数だ。
3 亀井静香氏率いる国民新党も同様だ。この党は郵政民営化に頑強に反対する。国営化を目指すという事は大きな政府を志向する事だ。ここでもこの党は民主党と一致しうるし、民主党の広告塔になりうる。
4 宇宙人と壊し屋の提携、そして彼ら二人を取り巻く重厚な左翼包囲陣。鳩山小沢の両氏が共産主義者だとは思わない。しかし左翼・共産主義者には共通のやり口がある。歴史に範を求めてみよう。ロシア革命でボルシェビキ(共産党)は単独で政権を取ったのではない。始めはむしろ少数派であった。他党、特に社会革命党などと提携して政権を取り、その後に分派活動をし、他党を駆逐するのみか、粛清してしまった。中国共産党もしかりだ。日中戦争は、主として日本軍と蒋介石の国民党軍との間で戦われた。(注3)共産党は、日本が連合軍に降伏し、国民党軍が弱体化した隙に付け入り、国民党を駆逐して政権を取った。鳩山小沢のコンビは共産主義者にとっては最も利用しやすい組み合わせだ。
5 前blogで民主党政権のやり方はトップダウン方式が目立つと言った。亀井氏の中小企業の借金帳消し云々、また厚労省の派遣社員の禁止、などがその典型だ。(注4)中小企業が困っている事は解る。また派遣社員という制度が必ずしも良いとはいえない。しかし金融制度にせよ雇用慣習にせよ、それを上から見て駄目と判断し、一方的に即中止というのは、権力の過剰行使だ。現実の制度慣行はなるべく現実の推移に任せ、部分的にのみ補修する。それが穏健な政治というものだ。権力により、民間の慣行を一気に変更する、これは独裁であり、ファッショだ。なぜ独裁がいけないのか?全体を見回し、絶対正しい判断をする、どこかの国の将軍様のような、人間はいない、と謙虚に思うからだ。上から見て正しい判断を絶対できると思う事は、それ以上に間違った判断を醸成する。だから人間は不必要に介入せず、人の手の触れえない部分は神の手に任せる、という謙虚さが必要なのだ。神様の手も当てにならないことも多多あるが、それは仕方がない。このような態度を真のリベラリズムと言う。
6 財界への苦言も言っておこう。円高円高とあまり騒ぎなさるな。円高は仕方がない。それだけ日本の経済力が強いという事だ。円高のメリットを充分生かせばいいのだ。円高になれば、輸出も輸出産業の利益も落ちる。同時に燃料や食料の値は下がり、生活はしやすくなる。生計費が下がれば、賃金も上げなくていい。円高のうちに必要なものを輸入すべきだ。知的財産(特許)など、日本でもまだ足りないものは、研究者や専門家という人的資本といっしょに、今のうちに輸入すればいいのだ。M and Aなどもどんどんすればいい。 どうしてもしんどいのなら、政府は輸出奨励金を出すか、法人税の減税に踏み切ればいい。私は5年以内にドル=70円までには行くと思う。
7 中国の経済をあまり過大評価しないことだ。中国経済の発展は外国資本と外国技術に支えられている。中国が提供したのは労働力だけ。だから中国経済は外資とそれが伴う技術により、労働力を賃金に変換して肥った。さすがにマルクス主義の国ではある。これで真の経済発展があるのかと疑わざるを得ないが、私見では中国経済には重大な弱点がある。労働が資本や技術と有効に結合しない。従って産業の有機的構成の度合が低くなる。それをあえて結合させるためには政府による強圧が必要になる。なお日本の技術貿易(特許収入)は年間約1兆円前後だが、知的財産の被害はほぼ同額だ。加害者の圧倒的大部分が中国なのだ。
(注1)
労働組合は必要だ。しかし労組があまり働きたくない人達の擁護機関である事も事実だ。だからパイを大きくする事より、パイの分配に与ろうとする。目下世界経済は危機にある。その中でゆっくりパイを切っている閑があるのかどうかが、私の深刻な疑問だ。
(注2)
前世紀ソ連邦が衰退し、世界的に左翼勢力が後退した。労働者はマルクスが言うような、失うものは鉄鎖以外にはないような存在ではなくなった。ここで左翼の主張の力点は、労働者から次の三つのものに移った。緑と平和と女性である。環境保護は大切な事だ。しかし産業の発展を止めるわけには行かない。平和も大事だ。しかし自国が他国に侵されても平和平和と言うわけにはゆかない。女性の解放?何をどこまで解放するのか?フェミニズムの問題は重要なので、多分後に体系的に考察するであろう。
(注3)
国民党軍と日本軍の戦いは10年近く続く。しかし最初の短い期間を除くと、激しい戦闘はほとんど無い。上海事変、南京攻略、徐州作戦、そして武漢攻略くらいが主な戦闘だった。後はゲリラ討伐戦だけだった。それも中国共産党が言うように派手なものではなかった。なお中国が執拗に言う、南京事件は、虚構である。
(注4)
加えて新政権は政策の連続性を否定しすぎる。