経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

国防と経済

2013-01-31 15:44:19 | Weblog
国防と経済

 安倍新政権は国防に重点を置く政策をとろうとしている。賛成だ。ここで国防と経済の相関について考えてみよう。67年前の敗戦を契機に、日本は軽武装、経済重視の政策を基本方針としてきた。敗戦でほとんどの生産施設を破壊され飢餓線上にあった当時の状況ではやむをえなかったのかもしれない。以後経済は復興し、日本は世界屈指の産業大国になった。その間国の安全は日米安全保障条約のもと、事実上米軍の保護下にあったといっていい。国防の義務を他国に委ねて、経済の繫栄を謳歌してきたわけだ。さてこの状況がいつまで許されるのだろうか?米軍に国防を委ねる、という状況がどこまで許されるのか?
 米軍の傘の下では、日本の政治的自己主張が制限される。例えばTPPの問題がある。米国が困れば、つまり米国の利害優先が必至になれば、米国はTPP実施を強要するのみならず、その実施方法についても米国の利害に沿う主張をしてくるだろう。(注1)既に先記したように、平成に入ってからの日本の経済政策は、構造改革・包括的日米協議・市場開放という名の、米国によるごり押しに対する後退後退でしかなかった。軍事力において圧倒的な立場にある米国の主張に日本はいざという時、立ち向かえなかった。詳しくは私のblog「平成経済二十年史、の紹介」を参照されたい。端的に言えば、日本が軍事において米国の保護下にある限り、経済の発展にはおのずと限界を課されてしまうということだ。
 現在の日米関係はこと経済力に関する限り、ほぼ対等の関係にある。敗戦直後のように圧倒的な米国の経済力下に甘えておられる状況にはない。対等である以上、利害は必ず衝突する。というより経済行為というものは、それが利害計算である以上、必ず衝突するようにできている。例外はない。米軍の保護下にある限り、米国の利害を超えた自己主張を日本はできない。(注2)現在尖閣問題で日中がもめている。米国は一応リップサ-ヴィスとして、尖閣諸島は日本の領土だとは言ってくれている。しかし日中が軍事衝突に突入した時米国は本当に参戦してくれるだろうか?はなはだ危うくいかがわしいかぎりだ。また米中共通の経済的利害が優先したとき、彼らは提携して日本に彼らの利害を押し付けてくるだろう。
 アルジェリアで日本人9名(現在判明しているだけで)がゲリラに殺害された。中国では日経企業の幹部が中国人労働者に監禁されて労働条件の改善を強要されている。インドネシア(フィリピン?)では待遇改善のデモが外資に対して為された。こういう暴力行為に対して日本は毅然と対決できていない。外交の背景に相応する軍事力がないからだ。これから進出してゆく諸外国は、日本のような平和な秩序が保たれている国ではない。経済外交の背景には軍事力保持は必須事項となる。
 ドル、ユ-ロ、ポンドと円は一応世界で共通するハードカレンシ-(国家間の貿易決済に使用可能な通貨)とされている。しかし実際の決済はほとんどが、ドルだ。これは米国の軍事力保持の結果によるところが大きい。
 軍事力の制限はおのずと、一部の産業の発展を阻害する。航空機と艦船製造などだ。日本の技術力なら、第一線戦闘機は製造可能なはずだ。すでに30年前、日本はこの試みを為そうとして、米国の強力な反対にあった。現在でも米国から大量の兵器を購入させられている。敗戦と同時に多くの日本の製造業が禁止ないし制限された。航空機、軍艦、電波兵器(TV製造も含む)、核開発などなどだ。この影響は現在でも生きており、日本の製造業の発展に大きな足かせとなっている。日本の軍需産業はもっと発展させられなければならない。これは単なる軍事問題ではない。軍需産業のない製造業は片肺飛行のようなものだ。平和産業が軍需産業に技術的影響を与えうるように、軍需産業も平和産業に同様の影響を与えうる。産業の裾野はもっと広げるべきだ。(注3)軍事力の自主規制は、建艦、航空機、人工衛星、核開発、銃砲製造、戦闘用車両、偵察及び情報収集用兵器などの製造と開発に制限を課す。これらの機具の製造は機械工業や製鉄業のそしてIT産業の発展に大いに資するはずだ。
 外交のセンスと影響力も軍事力と関係する。外交と情報収集において日本はお世辞にも優秀とは言えない。日本はスパイ天国だとは国際間の定評だ。軍事力を自覚し背景としてのみ、外交の迫力と切れ味は増す。自国を護るという意識が明確になる。軍事力を持つことによってのみ、外交官の責任感は尖鋭化する。適当に金でごまかしておけ、とはいかなくなる。平和がいい、平和がいい、だから戦力を持ってはならないとは、思考停止でしかない。この種の念仏的平和主義者は、平和の値段を知らない。平和を維持するにはそれなりの力が要る。平和、平和、オンリ-平和という、政策なき主張は、言ってみれば金が欲しい、リッチになりたい、といっているようなものだ。金が欲しい、といってどこのだれが金をくれるだろうか?(注4)韓国という不快な隣人が竹島問題やいわゆる「慰安婦問題」であそこまで非常識な態度を取れるのは、日本が決して攻めてこないと思っているからだ。それなりの軍事力を持ち、一挙に竹島を占拠すれば韓国は黙るしかないだろう。同様に中韓が執拗に歪曲した歴史(彼らの都合の良いように捏造された)を押し付けて平然としているのも日本にしかるべき軍事力がないからだ。あるいはこうもいえる。中韓は日本が本格的に軍事力を持つことを恐れるが故に、歪曲された歴史観を押し付け、日本人の心理を操作しようとしているのだとも。(注5)
 国防と経済は決して無関係ではない。

(注1)米国とFTAを結んでいるカナダとメキシコが経済紛争になった時、カナダ・メキシコでのアメリカ企業の勝訴は約50%、米国での両国企業の勝訴率は0%だった。
(注2)1970年代の前半ニクソン大統領は、米中の国交回復を日本の頭越しに成立させた。時の佐藤首相は、せめて事前連絡でもしてくれたら、とぐちをこぼすだけだった。
(注3)太平洋戦争の敗戦後、米国は日本を徹底的に非軍事化そして非工業化しようとした。日本の生産施設の最良の部分を東南アジアにもって行こうとした。ソ連と共産中国の台頭により、日本の工業力を防共政策に利用しようとして、米国の態度は変わった。米国いや外国とはそういうものだ。自己の利害関係如何で態度は豹変する。米国が日本を主要な同盟国として選んだのは、4年にわたり世界最強の米国と世界戦争を遂行するだけの力を日本が持っていたからだ。逆に考えれば米国は日本を潜在的には恐れているの。日本に関して言える事はドイツにも相当する。ついでに言えば自ら米国に戦争をふっかけた国家は日本しかない。
(注4)平成不況でどこのだれが日本を助けてくれたか?米国は日本の市場を開放させて自国有利に貿易を展開させた。中国は日本の資本と技術(日本だけではないが)で自国の産業を成長させた挙句が、反日政策だ。韓国や台湾は天安門争乱で日米欧が資本提供を中止した隙をついて、中国市場に進出した。韓国の経済発展の基礎投資は、植民地時代の日本の政策によるところが大きい。払わないでもいい賠償を払い、技術移転に協力したはてが、「慰安婦問題」というでっちあげの馬鹿騒ぎだ。経済摩擦、つまり利害の衝突の結果は必ず自国の利害中心になる。
(注5)尖閣問題で、また竹島問題で中韓が妙におとなしい。米国の裏技を憶測する。東アジアの争乱を一番嫌うのは米国だから。また安倍総理のこの問題での発言もト-ンダウンしている。

(付1)衆議院議員数の選挙区への割り振りで選挙法改正とか言っている。私にはこの騒ぎがどうも腑に落ちない。代議士1人あたりの選挙民総数の格差は1対2・5以下であった。このくらいの格差は容認すべきではないのか?選挙民総数あたりの代議士数を完全に平等にしてしまえば、過疎地帯は代表を出せなくなる。私は若い頃数年兵庫県北部(但馬地方)に住んだことがある。旧選挙法では代議士1人あたりの選挙民数の一番少ない地方だった。昨年久しぶりにその地を訪れたが、かってに比しそう発展している様子も見えない。私が幼い頃疎開して過ごした岡山県北部に従妹が住んでいる。彼女の話では、町の住人100余名のうち60歳以下は1人とのことであった。人口が減ることは、寂しいを通り越して怖いと、言っていた。選挙法を強引に変えて機械的に平等にすれば、全国の過疎地帯の発言権はなくなってしまう。東京や大阪などの都会は選挙とは別に、企業、文化、興行、ファッション、学術などなど諸々の発信装置を持っている。2・5倍くらいの格差は許容範囲ではないのか。選挙法改正論者達は19世紀の英国の腐敗選挙区改正のことが念頭にあるのかもしれないが、この腐敗選挙区における格差は2・5倍どころではなく、もっともっと巨大な数値だった。
(付2)1-21日の朝日新聞朝刊に、あるアンケ-ト調査の結果がでていた。赤字国債への賛否を問うている。結果は、国債への賛成が反対を大きく下回っていた。この調査は一種のペテンであり世論の誘導だ。いったい一般庶民のだれが赤字国債の経済的意味を理解しているのかと、問いたい。ある40歳前後の女性公務員と国債の問題で、話す機会があった。私は国債発行の意義を説明し、彼女も納得したように見えたが、最後に「やはり借金はいけないとおもいます」とおっしゃった。これが平凡な市民の平凡な感覚だと思う。彼女は有名国立大学を卒業しており、決して知能や教養に欠ける人物ではない。代議士でさえ経済問題のからくりは理解できていないのだ。経済政策を遂行するには、賢者の独裁が必要だ。その結果がだめなら国民は選挙で彼らを引きずり落とせばいい。理解にあまる質問を発して、平凡な結論に誘導する朝日新聞の手法はいただけない。
(付3)1-24日の読売新聞朝刊に貿易赤字6・5兆円、と仰々しく載っていた。石油輸入による赤字だ。だが円安になれば石油輸入代金が増加することは当然だろう。今まで円高円高と騒ぎ続けて、アベノミクスで円安になれば、その害(裏面)を責め立てる。マスコミとはこういうものか。

日中関係の歴史を見直そう

2013-01-26 20:59:11 | Weblog
日中関係の歴史を見直そう

 尖閣諸島の問題をめぐって日中関係が荒れている。尖閣に公務員を常駐させよという、石原氏の言明は正しい。それを機にしてか中国で反日暴動が起こったことは周知のところだ。朝日新聞などは、石原氏の言がこの騒ぎを起こしたなどと、本末転倒したことを言っている。尖閣諸島に中国が関心を示したのは、1970年前後であり、それ以前から尖閣諸島は日本の領土と銘記されている。もっとも共産中国にものの道理を求める方が、無理というものだ。彼らの頭には領土という観念はない。すべて自分のものだと思っている。彼らはまだ世界革命の幻想を捨ててはいないのだ。
 反日暴動は過去10年間に2回あった。暴動の詳細には触れない。ただこういう事件が頻繁に起こることは、中国という国が法治国家ではないという明らかな証拠でもある。さて中国の反日暴動は、これまでの日中関係の歴史を見直す良い機会を与えてくれる。中国の主張では、日本が一方的に満州を占拠し、満州国という傀儡国家を造り、さらに中国本土を侵略したことになっている。そして日本の良心的(?)知識人もその言に従い、日本の歴史の教科書でもそう記述されており、私達(私は現在70歳)もそう教わってきた。日本は中国に侵略し多くの人を殺し、中国の財富を奪った極悪非道な国家であると、教わってきた。しかしもし今回のような暴動が90年前の中国・満州で頻繁に起こっていたとすれば、物の見方は変わってくる。
 1931年満州事変が起こった。満州軍閥の張作霖を関東軍が爆殺し、それを機に関東軍と張作霖軍の衝突が起こり、日本は満州を占領する。その数年後満州国が成立する。これだけ見れば日本が一方的に攻撃したことになる。しかし当時の満州の治安はどうであったのか?張作霖は馬賊上がりの人物、悪事を働いて収監され、時の関東軍の田中義一大将の温情で釈放された。このような山賊出身の人物がまともな政治をするはずはない。ある識者によると、税金の97%は軍事費と張作霖の私生活の費用であり、民政にまわす金などなかったらしい。10年後の税金まで取られた、という。治安がいいはずがない。日本は満州を開発しようとしていた。治安の悪化は開発の進展を阻止する。治安と開発に責任をもつ関東軍はいらいらさせられる。今回の反日暴動を見ていると、これは歴史の再現ではないのかと、思わされる。当時の満州ではいつもかかる争乱が起こっていたと思われる。関東軍や満州にいた日本人や日本企業は常時危険にさらされていたことになる。
満州は漢族の領土ではない。満州族(女真族)あるいは蒙古族の故地だ。満州族が中国に侵入し、清という王朝を建てた。清王朝は、自分達の故郷である満州の地に、漢族を入れさせなかった。満州は漢族にとって入禁の地だった。19世紀後半ごろから人口膨張に押されて漢族がこの地に侵入してきたのだ。実際に満州を開発したのは、ロシアと日本だ。日本が開発したインフラを利用する形で膨大な漢族が満州の地に押し寄せたというのが、真実だ。満州は日本人の土地でもなく、漢族の固有領土でもない。いわば無主の地だった。無主の地である満州を事実上開発した日本は、それを守らなければならない。馬賊の跳梁跋扈を許すわけにはいかなかったのだ。これが事実だ。反日暴動と言う無頼の騒ぎ、中国政府の統治能力の低さ、そしてそれを利用する低劣な狡猾さ、をみれば満州事変当時の状況がおおよそのところ想像がつく。ここでは深入りしないが義和団の乱に関しても同様の考察が可能だ。
 南京事件における虐殺が根拠のない一方的な主張であることは、すでに大部分の日本人には解ってきている。しかしすべての日本人が誤解しているある重要な案件がある。1915年日本政府が当時の中華民国大総統袁世凱に突きつけたという「21か条の要求」だ。これが対中侵略のきっかけになり、併行して反日運動が激化したといわれている。この要求の内容をみてみよう。大雑把に言えば、
 1 山東省におけるドイツ権益の継承
 2 旅順大連・満州鉄道沿線の土地租借の99年延長および満州各地での開発権の尊重
 3 中国の政・財・軍への日本人顧問の採用
これくらいだ。1および2は当時の列強(英仏露独)が常時行ってきたことで、日本が特殊というわけでもない。3も同様だ。特に中国の税関長には外国人がつく事が多かった。中国人を責任者にすれば、不正が多くなるからだ。盧溝橋事件当時ですら、蒋介石の軍事顧問に日本軍人がいたほどなのだ。3項については、結局日本は提案を撤回している。当時の列強がしたことを日本がして何が悪いのだ、と言いたい。日本の歴史学者の圧倒的多数が、この21か条が対中侵略の橋頭堡になったと無批判に言う。当時は領土の拡大と権益の確保は強者の当然の権利だった。
 ここで考慮すべきことは、第一次大戦終結後しばらくして、この21か条を理由として反日運動が起こったことだ。大戦勃発までは日本は中国のモデルであった。大戦後21か条を理由に、急に反日運動が急進化する。考えられることは一つロシア革命だ。革命を起こしてロシアの政権を奪取したボリシェビキは、自国あるいは共産党政権を護るために、コミンテルンを造り、各国の共産主義者を指導した。以後米英はこのコミンテルン路線に乗せられていく。
 日清日露戦争後中国は日本をモデル視し、多くの中国人が日本に留学している。孫文は日本を亡命の地とし、魯迅は仙台に留学し、蒋介石は日本の陸軍士官学校卒と偽称する。多くの日本人が辛亥革命に協力した。第一次大戦後の中国の対日態度の変貌には疑念がある。策謀の臭いがする。
 1937年北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し日本軍と蒋介石軍は全面戦争に突入する。私たちは開戦の責任は日本軍にあると、教わった。しかし以後の詳細な研究によると、現在のところ日中のどちらが発砲したかは解らないのだ。ただ一つ確実らしいことは、当時中国共産党の周恩来が北京付近に滞在していたことだ。その前年、蒋介石は西安に拉致され、国共合作を強要されている。
 そもそも日本の歴史歪曲は東京裁判を起点としている。東京裁判で戦犯が作られた。東条英機以下の7人が絞首刑になった。戦争とは当事者の利害の対立に決着をつけるための一つの方法にすぎない。だから正義の戦争も、悪なる戦争もない。戦争が終結すれば、条約を結び、領土を割譲(あるいは取得)し、賠償金を払う(あるいはもらう)。ただそれだけのことだ。しかしなぜか第二次大戦では一方的に敗戦国に道義上の問題が要求された。米英は民主主義を護るために戦い、だから彼らの敵・交戦国になった日独は悪いと。ドイツも日本もただ自国の利益を護るために戦っただけだ。米英も同様だ。民主主義は日本にもあったが、国制の違いは道義の問題にはならない。負けたから領土を失い、投下した膨大な資産も失った。賠償金も支払わされた。支払う根拠の全くない韓国にまで支払わされた。
 東京裁判あるいは戦後処理の結果、日本の指導層はことごとく戦犯になるか、公職追放の憂き目にあった。一憲兵、あるいは一町内会長にいたるまで、戦争協力の名のもとに追放された。一時期日本の工業設備の最良の部分は東南アジアにもってゆくことにされた。米国は日本を非工業化しようとした。航空機、無線など軍事に直結する技術の開発はすべて禁止された。そのために戦前は世界でトップを走っていたTV開発も延期された。許可されたときはすでに米国がはるか向こうを走っていた。世界にも稀な、自国を防衛してはいけないという、通称平和憲法なる滑稽なものを持たされた。一時は日本の教育から、歴史と地理の名称は抹殺され社会科という語が導入された。日本の過去、日本的なものはすべて封建的・悪とされた。時代劇は禁止された。武士道、敵討ちなど封建道徳を称揚しているからだと。忠臣蔵が歌舞伎や映画で上演されたのは、1952年からだった。そういえば私が時代劇「鞍馬天狗」を見たのは小学4年生の時、符号は一致する。すべてマッカ-サ-将軍の指揮する進駐軍(実態は米軍)の指揮下で起こった。マッカ-サ-は太平洋戦争開始に際して日本軍により植民地フィリピンから追い出されているので、その復讐もあったのだろう。
 価値観による事実の歪曲がある。一つはマルクス・レ-ニン主義、もう一つはアングロサクソン流の民主主義だ。前者M・L主義では、資本主義体制は必然的に崩壊し、プロレタリア独裁を経て、人民は働かなくても腹いっぱい食べれる世界が到来すると予言する。この予言は絶対正しいのだから、それに反対する奴は抹殺してしまえということになる。実際ソ連や中国ではM・L主義の摂理に従い酷烈なことが行われた。このような非人道的な制度はまっぴら御免蒙りたい。後者民主主義は私有財産の肯定と代議制度を骨幹とする。思想としてこの制度を確立したのは、一応イギリスのロックとされる。民主主義なる制度は別に英米の専売特許ではない。日本にも維新以前から同様の体制は存在した。他国でも同様だろう。それが思想として顕在化するか否かの違いだ。米英に対してはいつまでも師匠面をするなと言いたい。
 政治思想の一つである民主主義、その鬼子であるM・L主義。これが戦後の思想世界を了導してきた。これにはずれるものはすべて不完全か悪とされた。東京裁判はその端的な例証だ。我々日本人はあらためて我々が蒙った歴史の歪曲を見直さなければならない。中国における反日暴動は、そのためのいい機会を提供してくれている。
 歴史を見直そう。特定の価値観に縛られたり惑わされないようにしよう。脅しによる恐怖と贖罪感は他者操作の常套手段なのだ。警戒は単に日中関係のみならず対米関係もあてはまる。米国はドルを垂れ流しにして価値の下がったドルを日本に持たせ、日本の資産を減少させている。これを帝国循環というらしい。そしてTPPの押し付けだ。警戒しよう。くれぐれも。
(付)二三の方から日本語の現代中国語への深甚な影響について示唆を頂いた。日本語の影響なくして現代中国語はありえないそうだ。私もこの件についての定量的な考察はできないが、言われてみると思い半ばになるものがある。私には中国語は解らないが、古典漢文ならいささか読める。現在日中で共用されている言葉、裁判・国家・賠償・法人・警察・科学・哲学・解放・会話・社会主義・歴史・時間・交通・金融・学生などなどの言葉(いわゆる和製漢語)と、唐詩選に出てくる言葉は全く趣を異にする。日本人は仮名を発明することにより、和漢混交文を作った。仮名を漢文の中に挿入する事で、漢文の意味の不可解な流動性を断ち切り、漢字の意味を安定させて、それらを組みなおすことにより、新たな漢語を作った。現在中国語として用いられているこの和製漢語の数は1000を優に超えるといわれている。
(付)コミンテルンはドイツにおけるナチス台頭に責任がある。1930年台初頭ワイマ-ル共和国の財政は大恐慌下で行き詰まっていた。当時コミンテルンの支配下にあったドイツ共産党は、徹底してワイマ-ル共和国の支柱であった社会民主党(SPD)に反対した。結果としてこの共和国は崩壊し、やがてヒットラ-の台頭を招くにいたる。
(付)中国に対して日本が自己主張をすることは、同時に日本がアメリカに対して自己を主張することになる。対中政策は対米政策と連動する。太平洋戦争にいたる過程もそうだった。用心しよう。
(付)靖国神社に放火して逃走した中国人が韓国政府に捕まり、裁判を受けた。結果中国政府に引き渡された。中国と韓国の順法感覚を疑うが、それはともかくとして、日本と中国は今でも準戦時関係にあると思ってもかまわない。儒教と共産主義の組み合わせは史上最悪のイデオロギ-・体制だと思っていい。

中国との戦争の正しいやりかた

2013-01-21 02:48:12 | Weblog
中国との戦争の正しいやりかた

 現在日本は中国と尖閣諸島をめぐって対立関係にある。領土問題は微妙でかつ深刻な問題だ。尖閣諸島が日本固有の領土であることは明白だが、相手次第ではどうなるか解らない。最終的には武力行使・戦争という事態も考慮して問題に対処すべきだ。政府と国民はかかる事態がありうることを覚悟すべきだ。極力戦争は避けるべきだが、最後の一線としての武力行使を視野の中に入れておかないと、相手のペテンにはまってしまう。そして戦争を導きかねない状況においては、まず相手つまり中国という国の性格とやり口を知悉する必要がある。相手を知ることが、正しい戦術の大前提なのだ。
 肝心なことは相手の正体を認識することだ。まず相手は共産主義国家である事を銘記する必要がある。共産主義者は必ず恫喝し嘘をつく。なぜならば彼らは自分達が絶対正しい、と信じているからだ。彼らはまだ、世界革命の看板を降ろしていない。資本主義は必ず崩壊して、理想が実現する日が来ると、だからこの理想に反する一切の制度や状況は否定すべきであり、そのためにはどんな手段を弄してもかまわないと、信じている。絶対正しい理想が必ず実現するのだから、理想実現の過程で生じる犠牲はやむをえないし、無視しうる、むしろ積極的に排除すべきだ、と考えている。通常の感性理性では、自分が間違っているかもしれないと考える。だから他者の尊重という考えも生じうる。共産主義者にはこのような惻隠の情はない。将来実現されるに決まっている正義と理想のためには、邪魔者は消せばいいのだ。だからどんな手段の行使も許される。恫喝と欺瞞と虚言と暴力は彼らの常套手段だと思うべきだ。この認識がないと彼らの陥穽にはまる。中国はすでに共産主義を放棄した、という人もある。社会主義的市場経済なのだといわれる。しかしその裏には何があるかは解らない。いつ毛沢東路線に回帰するか解らない。資本主義と共産主義の冷酷な部分を合わせ持っている。
 次に彼らは漢族であることを一考しよう。漢族あるいは漢民族の特徴は、誇大な口舌にある。白髪三千丈の類の表現だ。宣伝、欺瞞に満ちた宣伝が得意で、実行は伴わない。だから彼らの言葉には言葉で対応すればいい。彼ら漢族の歴史をみていると、口舌に強く、実際の戦闘には著しく弱い。そして相手が強いと見れば決して戦わない。逆に弱いと見れば必ず襲いかかる。言葉には言葉で対応すること、言葉は控えめに、そして決して弱みを見せない事が肝要だ。
 共産主義者は自分達が絶対正しいと思い込んでいる。そして、だから、彼らが常習とする手段は、欺瞞の宣伝と、それにより相手にすりこむ贖罪感だ。相手を、自分達が悪いと、思わせれば、相手をいかようにも操作できる。相手の側、例えば日本にも、操作に乗りやすい連中はいある。いわゆる左翼だ。彼らは常に自己の置かれた状況に不満で批判的だ。そして左翼は自分達を知識人だと思いやすいから、その立場から状況を支配しようとする。外国の宣伝・非難に乗りやすく、自国の非難をもって自分の立場を主張する。中国とそれに同調しがちな左翼(知識人?)の共鳴により歴史の偽造が行われ、日本人に贖罪感が埋め込まれ刷り込まれた。日清日露そして太平洋戦争は侵略戦争云々、対華二十一カ条の要求、盧溝橋、南京事件、三光作戦、満州国の存在意義の否定、日中戦争の実態の無視(共産党が日本軍と本気で戦争したなどという大嘘)などなどの虚構・虚言・欺瞞が作られる。相手に贖罪感をもたせるのが、相手を操作する絶好の手段だということを忘れないようにしよう。共産主義者は自分達が絶対正しいと思っている。だから相手に贖罪感を持たせるには格好の立場にある。このことを認識した上で、歴史の見直しをしよう。今回の尖閣問題は、我我日本人に与えられてきた歴史の見直しをする絶好の機会だ。
 中国の内部事情も勘考しよう。毎年10万件を上まわる争乱事件が起きている。民間需要の小ささゆえに、中国政府はバブル・インフレと公共投資の間で苦しんでいる。そして漢族とは歴史的に見て征服された諸民族のかたまりにすぎない。(ここではチベットやウイグル・モンゴルというれっきとした異民族のことを言っているのではない、湖南湖北山西四川などのいわゆる中国本土の住民を指している)漢族の内部団結は脆弱であり、彼らの民族的自己同一性は低い。常に累卵の危うきにある。この事実は彼らの歴史が教えてくれる。だから彼らは戦争をできないともいえるし、逆にだから彼らは戦争を欲するとも言える。彼ら漢族の置かれたこの両義的状況は知っておくべきだろう。
 共産主義政権の正統性の問題もある。前大戦で彼ら共産党は、日米英さらにソ連をも手玉にとって、国民党政府を追い出し、政権を奪取した。彼らは実際に日本と本格的な戦闘はしていない。この事は彼らの政権の正統性の問題に突き当たる。この弱みを彼らが一番自覚しているはずだ。もし再び日中戦争が起これば、あるいは日本との間に武力行使の可能性に満ちた緊張関係を惹起せしめれば、彼らの正統性は表面的には保たれる。
 相手の争闘手段に応じてこちらもその手段を選ぶことだ。一歩遅れて相手の手段と等しい戦術を使う。例えば中国海監の航空機が領空内に入ったとする。警告を発しつつこちらも同じ規模の航空機を飛ばし、併走せしめる。接触して事故が起きない程度の距離をもって。相手の船舶が領海内に侵入すれば、こちらも同程度の船舶をもって併走させる。警告を発しつつ、執拗に執拗に併走する。中国が軍艦を派遣すればこちらも同規模の軍艦を送り込む。尖閣に中国が人員兵員を上陸させようとすれば、同規模か少し多い人員兵員でもってそれを阻止する。
 このように中国のやり口と併行しつつ、戦術を駆使する。肝心な事は二つ。一つは、執拗に、根気よく、諦めず、油断せず、相手の戦術と歩調に合わせて、繰り返すことだ。相手は執拗だ。ではこちらも執拗になろう。繰り返すが相手の戦術と併行しつつ繰り返すことが必要だ。こうしてとことんまで付き合う。ということは挑発に決して乗らないことを意味する。相手の最大の武器である、執拗さを学習しよう。相手は蛇だ。ならこちらも蛇になろう。
 もう一つは、武力行使・戦争は起こりうると、認めること、覚悟を決めることだ。どこで決断するかだが、理想は相手に先に銃を抜かせることだ。相手の発砲は、こちらの発砲を意味する。相手が発砲するまで、こちらは根気よく、くりかえし付き合う。
 外交は必要だ。日米安保条約は尖閣諸島に適用されるとアメリカ政府は言った。安倍首相は、日米豪印で中国封じ込め戦線を作ろうと言った。ヴェトナムやフィリピンとも共同歩調をとる必要はある。外交は必要であり、緻密な連携はもちろんなすべきだが、外交は各国の利害により転変する。外交上の言辞はリップサ-ヴィスでしかありえないことも銘記しよう。最後は自分、自国、日本自身の問題であり、日本自身が最終的に責任を取る、自国防衛のために責任をとる覚悟が肝心だ。

(啓蒙宣伝)
 仙台でオリンピックを開催しよう!

仙台でオリンピックを開催しよう!

2013-01-20 02:42:23 | Weblog
  仙台でオリンピックを開催しよう!

 東京でオリンピックを開催するとかなんとか騒いでいる。私はオリンピックなぞ運動会くらいにしか考えていないので等閑視してきたが、心境が変化し、重大な関心をもつようになった。まず東京オリンピックは二度目になる。なぜ東京にばかり資本を集中させるのか?これ以上東京に資本を投下する意味があるのか、と問いたい。東京オリンピックは屋上屋を重ねる行為であり、資本の過剰投資だ。東京は首都という名に甘えて、一極集中を意図して行ってきた。石原前知事の行為もそうだった。加えて東京オリンピック開催の理由がおもしろい。東北大地震からの回復をアピ-ルするそうだ。おかしな話だ。
 災害克服のアピ-ルというのなら。オリンピック開催の地は東北地方になるべきだろう。適当な地は仙台になる。別に仙台にこだわる必要はない。もう少し南に下がって、阿武隈川流域の土地、いっそのこと福島県のどこかでもいい。福島の名は今度の地震と原発事故で世界的に有名になった。このブランド・知名度を逆に利用すればいい。福島あるいは東北地方のどこかで、オリンピックを開催するといえば、これほどヒットする提案は世界中ないのではないのか。原発事故の克服と立ち直り、地震大国日本が生き残って見せるという決意、阻止てそれを支える日本産業の底力の立証顕示などなどだ。
8年後のオリンピック開催地の候補は、イスタンブ-ルとマドリ-ドだそうだ。前者はアラビア・イスラム圏で最初の開催地になる。後者は現在崩壊しかけているスペイン経済への、だからUR全体へのてこ入れという意味を持つ。名分としては、あるいは利害関係においては、漫然と東京東京というよりは訴えるものあり響きがいい。それ以上に福島・仙台での開催は意味を持つ。意味の最大のものは地震災害と原発事故の克服だ。大地震と原発事故を克服して云々は充分な(オリンピック開催への)名分・歌い文句・意義になる。加えて仙台・福島という一地方都市を開催地とする日本国・日本人の決意と心意気をも喧伝できる。東京開催にはどうみても意味がない。東京が災害克服云々というのは絶対におかしい。首都の思いあがりだ。
 東北地方にはオリンピックを開催するだけの経済力がないだろう。東京に比べて維新以後投下された資本の量が違うのだからしかたがない。なら政府国家が総力を挙げて応援したらどうだ。国際空港を造り、道路・鉄道・水路の交通網を整備すればいい。オリンピック会場および諸種付帯施設などなどを含めて、50万人程度の人口を持つ新都市を建設すればいい。もちろん天皇皇后両陛下の御臨幸をお願いする。私はかねがね日本経済復活の橋頭堡は東北の復興にあると言ってきた。東北に資本の最大部分を投下すべきだ。仙台・福島でのオリンピック開催は東北復興のいい目標と宣伝になる。オリンピックを開催するのなら、絶対に東北地地方だ。
 資本過剰なところに資本を投下しても、その効果はしれている。下手をするとインフレになる。資本寡少なところに資本を投下して成功すれば、効果は、つまり収益は最高になる。また日本が大国であるかぎり、一極集中は避けるべきだ。イギリスが悪い例の見本だ。イギリスで産業革命がおこったのは、マンチェスタ-、バ-ミンガム、リヴァプ-ルなどの、当時としてはイギリスの過疎・後進地域においてであった。イギリスの文化や社会はこの動向を是認せず、結局ジェントリ-主導の地主・金融資本中心の経済になった。その結果がロンドンへの資本集中と一極化、そしてイギリス経済の衰退だ。フランスのパリも同様だ。大国が繁栄し続けるためには、首都級の大都市が複数ある必要がある。アメリカでもドイツでもそうだ。ロシアはモスクワとペテルスブルクという二極構造だ。中国がなんとかやっているのも、北京のほか首都に匹敵する規模の上海・広州という大都市をもっているからだ。資本がその効率を超えて過度に集中すれば、必ず金融資本に転化する。かなりの数のシャイロックを産み、他は貧乏になる。資本は狭く深く投下してはいけない。資本は広く厚く投下すべきだ。
 私は、仙台(あるいは福島)でのオリンピック開催を提案する。

(付)時間がないという反論があるだろう。なら開催を一期4年延ばせばいい。10年の時間をかけてゆっくり取り組めばいいのだ。大手メディアは東京オリンピックで動き出しているようだ。しかし今からでも遅くない。考え直そう。

朝日新聞報道「豪外相の河野談話破棄に反対」に関しての意見と反論

2013-01-17 02:12:03 | Weblog
朝日新聞報道「豪外相の河野談話破棄に反対」に関しての意見と反論

 2013年1月14日付の朝日新聞朝刊の報道」によれば、豪州(オ-ストラリア)のカ-外相は日本の河野談話破棄という意見に対して、岸田外相に反対の意見を表明したという。河野談話破棄は望ましくない、と豪外相は言ったと報道されている。この報道は多くの問題を露呈している。
 まず第一に、如何なる根拠、如何なる理由があって、豪外相は、河野談話破棄に反対するのか?河野談話、つまりいわゆる従軍慰安婦の存在の可能性はある、という20年前の言明は、事実において否定されている。事実というのならその根拠を明示すべきであろう。国家の名誉に関わる問題に対して、豪外相が如何なる資格でもって、こんな発言に及ぶのか?事の判断の根拠は事実か否かだ。くりかえし言うが、従軍慰安婦なる存在には根拠がない。ここで「従軍慰安婦」というのは韓国が主張する、当時の日本国家の権力により強制的に日本軍兵士の性交渉の相手をさせられた女性、という意味だ。この意味での「従軍慰安婦」の存在の根拠は一切確認されていない。豪外相の意見を拝聴したい。
 第二に、岸田外相は何ゆえに、河野談話破棄の可否を豪外相に相談するのか?むしろ、おうかがい、を立てている印象を持つ。この問題は日韓間の、というより日本の国内問題に過ぎない。事実の存在の可否は、日本国家と日本人の判断に主としてよるべきだ。豪州はおろか他の外国が干渉すべき問題ではない。もし安倍政権が、この問題に対して、外国の機嫌を斟酌するとするならば、安倍政権は外交の自立を放棄したことになる。
 第三の問題は、朝日新聞がなぜこの問題を報道したのかということだ。14日付の日経、毎日、産経、読売の新聞は一切報道していない。わざわざ遠い、しかも従軍慰安婦問題と無関係な、豪州外相の発言を朝日新聞は大きく報道するのか?精確な報道が為されているか否かも不審だ。そもそも河野談話を誘発したのは、20年前の朝日新聞の報道だった。朝日新聞が、一方的に「従軍慰安婦」なる存在を報道し、狼狽した当時の宮沢内閣の官房長官河野洋平氏が、そういう事実はありうる、と発表したのだ。この報道は当時の政府にも国民一般にも寝耳に水だった。言ってみれば朝日新聞による奇襲だった。「従軍慰安婦」問題は、朝日新聞が韓国世論におもねって為した、典型的な反日報道であり、国賊的行為だった。国賊とは、国家国民の名誉と利害に大いに反する、しかも意図的行為を意味する。
 果たして豪外相は、前記のように明言したのか否かも、疑問だ。豪州にとって慰安婦問題など、どこをどう探しても、積極的に発言するような問題ではない。豪州にとってそんなことより、日本が豪州の農産物をもっと買ってくれる方が、より重大なる関心ではないのか?朝日新聞による意図的誤報道あるいは誘引された誤報道かもしれない。現在日本では、南京事件と慰安婦問題の存在を信じる人は多くはいない。関心を持つ人は、この問題の政治性と過誤をいやでも知悉する。慰安婦の存在は現在の日本ではほぼ否定されている。正面切っては報道できないから、遠方の豪外相の片言に飛びつき、歪曲した可能性もある。豪首相には問題の可否を判断する材料も関心もないだろう。現在の豪州政権は労働党つまり社会主義の政権であることも発言に微妙な影響及ぼしているのかもしれない。以上のような状況を朝日新聞は意図して利用したのかもしれない。朝日新聞は、自らが捲いた嘘を擁護するために、この種の微妙な記事を時々掲載する。その責任は極めて重い。
 政府もこの問題では遠慮なく自主外交を進めるべきだ。他国への遠慮など一切いらない。日韓を除く他国にとって、この問題は重大なものではない。反面他国にとって、日韓関係がぎくしゃくするのは好もしくもない。当たり障りのない事を婉曲に言うはずだ。その中には韓国よりの発言もあろう。特に日韓関係がこじれるのを嫌う米国にとってはそうだろう。日本政府はこの問題では一切遠慮してはいけない。早期に河野談話は破棄するべきだ。そもそも20年前、朝日が報道した時河野官房長官は、この問題は複雑な問題なので後日調査した上でご説明申しあげると、言えばよかったのだ。私の記憶では、この報道は宮沢首相訪韓と同時ではなかったのか?(宮沢訪朝と同時に朝日が乗せた記事は進出・侵略云々の記事だったか?)いずれにせよ朝日新聞の責任は重大である。しかも朝日は責任を自覚せず、このようなゲリラ的報道を繰り返している。
 人間と言うものは、自分がしたあるいはしようとすることを、他人がしたという風に思いがちである。専門的にはこの心理機制を投影という。ここで韓国の現在と過去の性風俗あるいは性倫理を簡単に紹介しよう。韓国では、強姦事件が極端に多い。性犯罪(その過半数は強姦)の発生率(人口にならして、2011年)は日本の40倍。強姦天国といわれるアメリカでも政府が、韓国を訪問する女性に、特別の注意を与えている。強姦以外の凶悪犯罪の発生率も日本の5倍くらいだ。売春も多く、売春による収入は韓国GDPの2%以上を占めている。韓国人売春婦は国外、特に米豪日に進出し(約10万人)、多くの非難を浴びている。米国における外国人売春婦の比率は約25%、ダントツである。また韓国では詐欺横領背任が多く、特に裁判での偽証と誣告は深刻な問題になっている。偽証件数は1544人(日本では9人)、誣告は2171人(日本では10人)になる。裁判や法執行は信じられないということだ。昔、嘘つきは朝鮮人の始まり、という言葉があったが、残念ながらこの言葉は真実らしい。日本の特許やブランドの偽造、ただ取りは日常茶飯だ。読者はこのような状況をも考慮していわゆる「従軍慰安婦」問題を捉えてほしい。「従軍慰安婦」問題は歴史の歪曲だ。韓国による歴史の歪曲は多方面に及ぶ。韓国では世界史をほとんど教えないそうだ。自国の歴史記述と矛盾するからだろう。
暗殺された朴大統領の時代、韓国は政府直営の売春組織を持っていた。キ-センという組織だ。このキ-センに韓国政府は外貨を稼がせていた。なおキーセンの名は李氏朝鮮時代から存在する、奴隷階級の娼婦に由来する。また代々の朝鮮国王は宗主国である中国の王朝に自国の女性を貢ぎとして与えた。自分達が行ってきた行為を他国に転移させているのが、彼らの真実なのだ。
 ちなみに開発途上国での性倫理は低い。最近の報道では、インドで強姦事件に対する女性のデモが起きている。よほど頻発しているのだろう。ブラジルでは売春は公認らしい。この点では韓国も同じか。半年前くらいに韓国で、売春婦のデモがあった。「性労働者の権利を認めろ」とか。おどろおどろしい顔の写真も掲載されていた。
 繰り返すが、「従軍慰安婦」問題では妥協できない。歴代の日本政府の態度は弱すぎる。事実でないことを喧伝され、それを正当に反論できないで他国の顔色を伺う。こういう態度は外交全体に影響し、国益を損なう。東京裁判の影響はまだまだ残って、我々日本人の精神を縛っている。東京裁判史観から脱却しよう。

(付)全く関係のない話だが、大阪桜宮高校で起こった事件に関して、スポ-ツ指導において体罰は必要か否かの問題が提起されている。私見では必要ないと思う。数年前に、某野球名門校の監督の話を聞く機会があった。彼の話の中で、指導に際しての体罰は一切でなかった。もちろん練習はハ-ドであったが。この高校では試合に勝つことがそのまま経営に直結する。そのような状況下にあってさえ体罰は不要のようだ。

 仙台でオリンピックを開催しよう!

仙台でオリンピックを開催しよう!

2013-01-14 03:03:44 | Weblog
  仙台でオリンピックを開催しよう!

 東京でオリンピックを開催するとかなんとか騒いでいる。私はオリンピックなぞ運動会くらいにしか考えていないので等閑視してきたが、心境が変化し、重大な関心をもつようになった。まず東京オリンピックは二度目になる。なぜ東京にばかり資本を集中させるのか?これ以上東京に資本を投下する意味があるのか、と問いたい。東京オリンピックは屋上屋を重ねる行為であり、資本の過剰投資だ。東京は首都という名に甘えて、一極集中を意図して行ってきた。石原前知事の行為もそうだった。加えて東京オリンピック開催の理由がおもしろい。東北大地震からの回復をアピ-ルするそうだ。おかしな話だ。
 災害克服のアピ-ルというのなら。オリンピック開催の地は東北地方になるべきだろう。適当な地は仙台になる。別に仙台にこだわる必要はない。もう少し南に下がって、阿武隈川流域の土地、いっそのこと福島県のどこかでもいい。福島の名は今度の地震と原発事故で世界的に有名になった。このブランド・知名度を逆に利用すればいい。福島あるいは東北地方のどこかで、オリンピックを開催するといえば、これほどヒットする提案は世界中ないのではないのか。原発事故の克服と立ち直り、地震大国日本が生き残って見せるという決意、阻止てそれを支える日本産業の底力の立証顕示などなどだ。
8年後のオリンピック開催地の候補は、イスタンブ-ルとマドリ-ドだそうだ。前者はアラビア・イスラム圏で最初の開催地になる。後者は現在崩壊しかけているスペイン経済への、だからUR全体へのてこ入れという意味を持つ。名分としては、あるいは利害関係においては、漫然と東京東京というよりは訴えるものあり響きがいい。それ以上に福島・仙台での開催は意味を持つ。意味の最大のものは地震災害と原発事故の克服だ。大地震と原発事故を克服して云々は充分な(オリンピック開催への)名分・歌い文句・意義になる。加えて仙台・福島という一地方都市を開催地とする日本国・日本人の決意と心意気をも喧伝できる。東京開催にはどうみても意味がない。東京が災害克服云々というのは絶対におかしい。首都の思いあがりだ。
 東北地方にはオリンピックを開催するだけの経済力がないだろう。東京に比べて維新以後投下された資本の量が違うのだからしかたがない。なら政府国家が総力を挙げて応援したらどうだ。国際空港を造り、道路・鉄道・水路の交通網を整備すればいい。オリンピック会場および諸種付帯施設などなどを含めて、50万人程度の人口を持つ新都市を建設すればいい。もちろん天皇皇后両陛下の御臨幸をお願いする。私はかねがね日本経済復活の橋頭堡は東北の復興にあると言ってきた。東北に資本の最大部分を投下すべきだ。仙台・福島でのオリンピック開催は東北復興のいい目標と宣伝になる。オリンピックを開催するのなら、絶対に東北地地方だ。
 資本過剰なところに資本を投下しても、その効果はしれている。下手をするとインフレになる。資本寡少なところに資本を投下して成功すれば、効果は、つまり収益は最高になる。また日本が大国であるかぎり、一極集中は避けるべきだ。イギリスが悪い例の見本だ。イギリスで産業革命がおこったのは、マンチェスタ-、バ-ミンガム、リヴァプ-ルなどの、当時としてはイギリスの過疎・後進地域においてであった。イギリスの文化や社会はこの動向を是認せず、結局ジェントリ-主導の地主・金融資本中心の経済になった。その結果がロンドンへの資本集中と一極化、そしてイギリス経済の衰退だ。フランスのパリも同様だ。大国が繁栄し続けるためには、首都級の大都市が複数ある必要がある。アメリカでもドイツでもそうだ。ロシアはモスクワとペテルスブルクという二極構造だ。中国がなんとかやっているのも、北京のほか首都に匹敵する規模の上海・広州という大都市をもっているからだ。資本がその効率を超えて過度に集中すれば、必ず金融資本に転化する。かなりの数のシャイロックを産み、他は貧乏になる。資本は狭く深く投下してはいけない。資本は広く厚く投下すべきだ。
 私は、仙台(あるいは福島)でのオリンピック開催を提案する。

(付)時間がないという反論があるだろう。なら開催を一期4年延ばせばいい。10年の時間をかけてゆっくり取り組めばいいのだ。大手メディアは東京オリンピックで動き出しているようだ。しかし今からでも遅くない。考え直そう。

「平成経済二十年史」の紹介

2013-01-09 02:24:04 | Weblog
 「平成経済二十年史」の紹介

 おもしろい本を読んだ。内容はあたりまえといえばあたりまえだが、銘記すべき事項が多くそして解りやすく書かれている。書名は表題に書いたとおり、著者は紺谷典子という人、早稲田大学の東洋史学卒というから、経済学にとっては変り種だろう。現在、女性に経済のことを啓発する活動に従事されている由。出版社は幻冬舎。ちなみに私もこの社から一書を出している。
 書の内容は極めて明快である。論点は二つに絞られる。構造改革という名の均衡財政・緊縮予算の大弊害、そしてそれを了導してきたアメリカ(USA)の脅しと姦計だ。結果として日本の経済は20年間その成長を完全に阻止された、と著者は言う。私はこの結論には賛成だ。とにかく1990年前後の、USAによる日本たたきはすさまじかった。日本的経営は、異質で非効率で経済の基本原則からはずれているから、それを改革して、アメリカ型(アングロサクソン型)の正常に戻さなければならないと、言われてきた。USAはまた、現在TPPとかいうものを、グロ-バルなる経済として推奨している。財界、官界そしてマスコミ(特に読売新聞)などは、賛成々々の大合唱だ。歴史はそして過誤は繰り返す。銘記すべきだろう。
 この書の書き出しは、1985年前後における、前川レポ-トとプラザ合意から始まる。1980年頃から始まる、レ-ガンの経済改革(レ-ガノミクス)はほぼ失敗に終わった。アメリカの製造業はこれで完全に崩壊した、と言っていい。ひきかえ日本の輸出は洪水の如く欧米を席捲していた。ここからUSAの反攻が始まる。それは自国の製造業の復活をめざすという形ではなく、競争国特に日本の産業を潰すという形で始まった。レーガノミックスがマネタリストという経済学派の指導下に行われたことは覚えておこう。プラザ合意とはドル高(アメリカが勝手にそうしただけなのだが、つまり自縄自縛)に悩むアメリカ経済回復のために、1ドル250円のレイトを定めたことだ。ドルはこの域を超えて、安くなっていく。日本の輸出は大幅に減退する。前川レポ-トとは、日本式経営が不合理だから、アメリカ型に変更しようという試みのリストアップだ。
 日本たたきはピケンズという米人の日本的経営への批判で頂点に達する。株の合同持ち合い、系列会社の存在、日本型衆議制、などなどが徹底的に批判される。そして日米構造協議開催が要求される。改革するのは日本のみであって、アメリカではない。この要求は日米包括協議(包括的、すべての領域にわたって)へと進む。さらに年次改革要望書が提案され、USAは日本に年ごとに、改革(アメリカに都合いいように)を要求するべくエスカレ-トされる。極め付きが1994年のス-パ-301条だ。これによればアメリカは日本の非合理で(?)非法な(?)制度・構造の改革を突きつけ、改められなければ、高関税をかける、という一方的な脅しだ。改革を突きつけるのは正義だ・義務だ、というところが、アメリカらしい。内政干渉の典型。傲慢この上ない。
 プラザ合意でドル安が進み、それに困ったUSAは今度はル-ブル合意を突きつける。日本等の諸国にもっと利子を引き下げろと。日本の公定歩合は9%から一気に2・5%に落下する。利子低下で、日本の資産は土地と株式にむかう。バブルだ。一時期日経平均は4万円に近くなる。ここで日銀の失政が重なる。バブルに驚いた日銀は金利を一気に引き揚げる。バブルが崩壊する。株と土地の価格下落、資産減少。資産の減少は購買意欲の減退につながる。物は売れなくなる。不景気、デフレ。供給過剰、需要減退下の日本企業の活動は外国に向かう。海外への直接投資だ。
 1993年細川政権、そして村山政権(自社さ政権)、消費税増税の提唱、ミニマムアクセス(日本が輸入する量の最低限の決定、もちろんUSAから押し付けられたもの)、ス-パ-301条の強要。回復しかけた景気に再び雲がさす。阪神大地震。泣きっ面に蜂のところに、ム-ディ-ズなどの格付会社による、日本の銀行の格下げ、むろん米政府と組んだ陰謀。日本の経済体制が不公平だとヒステリックに叫ぶヒラリ-・クリントンの顔は今でも覚えている。女狐(in english,bitch)と言いたいくらいだ。不良債権の整理、一部で止めておけばよかった。後は公的資金を注入すべきだった。経済が不安定でパニックになりそうなとき、最後の貸し手という存在が必要なのだ。その最後の貸し手は政府日銀だった。この機を逸す。
 橋本政権。構造改革。省庁再編製という大仕事。構造改革は無駄の排除・効率的な行政を看板に掲げる。何か効果があったのか?結果は緊縮財政のみ。作られた財政危機。財政は赤字と言われた。大蔵・財務官僚の暗躍。確かに政府は赤字だ。しかし経常収支は黒字。国家全体では黒字なのだ。このことは現在にもあてはまる。現在国債残高が問題になっている。しかし経常収支は黒字だ。加えて海外資産は250兆円。国民が政府に金を貸しているだけ。なのに一部の勢力は財政赤字・財政赤字と騒ぎ立てる。橋本政権当時健全財政の基準はマ-ストリヒト条約によるEU各国のそれにとられた。ただそれだけ。この基準に何の意味があるのか。ただの念のための指標にすぎない。
 財政赤字を解消するために、財政が削減され、そして増税。消費税の増税で5兆円、特別減税の廃止で2兆円、医療保険が削減され、サラリ-マンの自己負担が1割から2割に、つまり2兆円の社会補償費を国民に転嫁、総計9兆円の国民負担増。さらに公共事業の4兆円削減。日本経済は一気に不況へ転落、デフレ経済。
 そして金融ビッグバン、フリ-、フェア-、グロ-バルとか。不況で痛めつけられた日本の銀行に外資が参加。BIS規制という罠がしかけられる。銀行の自己資本が8%以上でなければ、銀行業務を営めないと。少なくともUSAでは。日本とアメリカの銀行の規模は全く違う。それを無視したUSAのごり押し。邦銀は自己資本増加のために、貸し出しを制限しはじめる。不況の深化。兜町の名門山一證券、北海道拓銀、日産生命の破産。政府は見てみぬふり。なぜ公的資金をつぎ込まなかったのか?この事は現在にもあてはまる。シャ-プやエルピ-ダの苦境。政府は知らん顔なのか。
 長期信用銀行の破綻。住友信託銀行の合併救済の志しを無視して、政府は事態を放置。長銀破綻後政府は公的資金を注入して、そしてどういうわけか知らないが、ゴ-ルドマンサックスの仲介で、外資リップルウッドへ売却。11兆円の資産と有形無形の情報網を持つ長銀がたったの1000億円でリップルウッドへ。時の金融大臣柳原氏いわく、効率的経営に長けた外資の手に入れば、長銀は再生するだろうと。日本人はお人よし、とは日本以外の国では常識だが、かの大臣の発言を今聞くと、正直の上に馬鹿がつく。アメリカ金融資本の笑い声が聞こえる。外資下の長銀は新生銀行としてたしかに生まれ変わった。新生銀行は邦銀にはない特権を持つ。瑕疵担保特約という特権を。「瑕疵(かし)」とは傷物のこと。もし新生銀行が融資した企業の債務が2割以上悪化した時には、その損失は日本政府が保障するとされる。だから新生銀行は、企業を救済しようとはしない。そのような動機は全くない。むしろ企業経営を悪化させて、破産した企業を売り飛ばす。こうして長銀がメインバンクであった企業をはじめ、次々に企業が破綻させられる。ライフ、マイカル、そごう、第一ホテル、熊谷組、ハザマetc。長銀は明治時代だったかな、日本の重工業育成のために、長期債権を振り出せる金融機関として生まれた。言ってみれば日本産業の生みの親の一人。だが相貌を変じた新生銀行は、慈母変じて鬼母になる。新生銀行により100以上の企業が破綻に追い込まれてゆく。新生銀行は、日本の銀行なら当然と心得る機関銀行としての責務、企業の保護育成という任務は一切放棄する。そもそもビッグバン・金融自由化とは、機関銀行のような銀行中心の間接投資は時代遅れ・まだるっこいとして、アングロサクソンが得意とする直接投資、つまり株式発行を称揚することだった。この直接投資の成れの果てがリ-マンショックだった。リ-マンショックつまりサブプライムロ-ンは一種の詐欺であった事は強調しておく。長銀についで、日本債権銀行も同様の過程で外資サ-ベラスの手になり青空銀行に生まれ変わる。日本の二つの大銀行が外資の手に落ちる。一種の詐欺だが、騙される方にも責任はある。新自由主義による経済運営、市場は最高の判定者というイデオロギ-に騙されて、公的資金の注入を怠ったつけだ。だがこのネオリベラリズム(実態はマネタリズム)の呪縛は現在でも続いている。橋本さんで一ついいことがある。彼は「もし日本がUSAの国債を売ったら」と言った。たちまちアメリカの株式は大幅下落。橋本さんの言うとおりなのだ。米国と日本のマスコミが一斉に非難。アメリカはともかく日本のマスコミまでねえ?どこの国のメディアなんだ。
 小渕政権。橋本政権と正反対の積極的拡大経済。成功と言っていい。日経平均は12000円から18000円にアガル。税収増加、財政改善。反対に橋本政権の時には、健全財政とかやらで、税収は落ち込んだ。この事実も銘記しよう。現在でも同じ問題に直面している。小渕さんが渡米した時、アメリカのマスコミは彼を「冷えたパイ(誰も食わない物)」と言った。それに日本のマスコミが同調する。自国の代表をくさされてどこが嬉しいのだ。
 小泉政権になる。再び構造改革と不良債権の処理。構造改革とは何度も言うが、無駄なるものの排除。つまり緊縮予算。こうして再び不景気。不良債権は処理しなければならなかったのか?公的資金の投入ではいけなかったのか?時の金融相竹中平蔵氏は、どんな大きい銀行でも、経営内容が不良なら潰しうる、と明言。つまり「最後の貸し手」という役割の放棄を宣言。日本の大銀行は合併につぐ合併を重ねる。住友と三井(神戸に太陽銀行も)が、東京(元横浜正金銀行)と三菱が合併する必要があったのか?それでなくても日本の銀行はbigだったのに。問題はこうして大銀行を合併させて、自己資金を増加させることだ。この資金が外資(米資ゴールドマンサックス等)から出ていることだ。それも4・5%という高利回りの資本配当で。張本人の竹中氏は安部新政権の日本経済再生審議会のメンバ-の一人になっている。気をつけよう。要はここまで無理し合併させなくても、公的資金の投入ですんだのだ。外資が活躍し、おいしい部分を頂くのは、企業の不良債権の整理の時だ。こういう会社は買い叩かれる。そして転売するか、人員整理で再生させ、儲ける。これはどこでもある手口だが、国際的に有名な外資の口元に、日本企業と言う美肉を運んでいったのは、日本の政治家だったのだ。構造改革と不良債権整理で日本経済の景気は再び谷底へと向かう。
 以上が紺谷氏の「平成経済20年史」の内容だ。ほとんど丸写しに誓い。若干のみ私の意見を付加した。以下コメント。
 本書の主たる内容は、構造改革(企業の場合は不良債権整理)と民営化の孕む問題だ。構造改革は財務官僚の暗躍で、緊縮予算になった。不景気がやってきた。民営化で公的資本は劣化した、と説く。たしかに何でも民営化すればいいという問題ではない。市場が必ずしも公正な審判者だとは限らない。
 それ以上に恐ろしいのは、USAの姦計だ。構造改革、民営化、自由主義経済などなどと言えば聞こえはいい。20年前こういって乗り込んできたアメリカに日本人はころっと騙された。いまでも騙され続けているのかもしれない。万能な経済原則などない。自由主義と言えば聞こえはいいが、その実態はマネタリストだ。マネタリズムという経済学派は、戦後一世を風靡したケインズ主義に代り、それを批判非難する形で登場した。彼らが実際に行う施策は、貨幣流通量の管理のみ、それも少なめに管理することだけだ。つまり均衡・緊縮財政の推奨と国家の経済行為への参加の排除。後は市場が公平に審判してくれるという。侵犯のまちがいではないのか?こうして彼らはレ-ガンやサッチャ-の政策を舵どり、結果として米英両国の製造業(manifacuture)を潰した。アルゼンチン経済も潰したと聞いている。ソ連がロシアになった時、ロシアの新政権の財政経済を了導したのも彼らだ。竹中氏はマネタリストだ。
 5年前から私は私なりに経済学を勉強している。10年前くらいから日本経済のことが、心配になってきたからだ。勉強すると専門家のいう事が結構異なり、そして彼らのいう事はことごとくはずれる。新聞の経済記事などはなおさらだ。日本の記者は勉強していない。だから私は自分で勉強して自分の判断のみを信じるようになった。もちろん他の先学の意見はそれなりに尊重するが。みんな自分で考えよう。日本の、だから世界の経済を考えよう。知らないでは済まされないのだ。経済の問題は必ず自分に降りかかってくる。特に要注意はノ-ベル経済学賞という代物だ。1960年代に新たにできた。さて経済学なるもの、はたして客観的な評価(estimate)に値するのか?自然科学とは違う。こういう曖昧なものを評価し権威付ける。いかがわしい。受賞者はほとんどUSA人ではないのか?ノ-ベル経済学賞の存在は、ある国の政策を権威付け正当化するためにも使われる。1995年度に受賞したブラック・ショ-ルズの二氏の受賞理由は、株式とデリヴァティヴから得られる利益の長期平均はプラマイゼロ、ということだった。これあたりまえのことではないのか?二氏はLTCMとかいう利殖専門の会社の役員になった。LTCMはつぶれ、一部の役員は収監だれた。だいたい株式などで確実に儲けられるなどありえない。インサイダ-を除けば。私は経済学賞の存在に疑問を感じる。ノーベル経済学賞はUSA(アングロサクソン)の経済行為の犯罪性を隠蔽する、イチジクの葉っぱではないのか。
 もう少し突っ込んで言えば、経済学なるものって一体何なんだ?しっかり読み込めば、違う意見の羅列で実態はばらばらの知識の寄せ集めではないのか?事実経済や財政において、確実な知識はすべて経験則でしかない。それを数学(専門の数学者も首をひねる)を駆使して、格好良く纏め上げ表面を糊塗しているだけではないのか?うかつには信じられない。そういえばおもしろい傾向がある。政府や大学で給料をもらっているエコノミストには、均衡財政支持者が多く、民間在野の人達には拡張経済の支持者が多い。昭和初年の金解禁の時、官僚企業家そして経済学者の大多数は、井上蔵相の説く金解禁(金本位制復活)に賛成だった。反対したのは東洋経済新報などに拠る石橋湛山、高橋亀吉、小浜利得など在野の人だけ。
 経済学では正式の論文はすべて英語表記と言う。物理学(physics)をまねて、経済学(economics)と称する。猿真もいいところ。経済史を排して数学を万能視する。形の上では整合的になる。その分経済学は実態から乖離する。USAにはUSAの経済があり、日本には日本の経済があり、ドイツにはドイツの経済がある。数学で割り切れるほど経済の実態は簡単ではない。経済とは人間の欲望の果てしない混沌と運動だ。安定した経済などありえない。この複雑なメカニズムに単純な数学的方法論を用い、そして英語表記万能となれば、さあどういう事が起こるのか。経済学というイデオロギ-による、一部の国家つまりUSAによる、頭脳支配だ。アメリカで教育を受けた経済学者(大半がそうだが)はすべてUSAのマインドコントロ-ルに置かれかねない。数学など、ちゃんと勉強してみれば解る。問題が具体的実際的に解けるのは、高校数学の段階まで。それ以上の数学は形式論理に過ぎない。数学は難しいと思われているので、数式を使われると、正しいのだろうと思ってしまう。陥穽・罠だ。経済学者はこうして人をまた、自らを罠にはめる、あるいははめかねない。
 アメリカに騙されたとしておこう。ではアメリカの経済はこの20年の間にどう進展したのか?ITバブルとサブプライムロ-ンに代表される住宅投資で稼いだ。IT,ITというが実態は情報のこね回し。IT技術の進歩と併行して金融犯罪は増加した。住宅投資には詐欺の臭いがぷんぷんする。肝心の製造業はおきっぱなしだ。大量の不法難民を安価な労働力として移入して、あげくの果てが、ヒスパ-ニッシュという英語を使えない連中の増加、USAの国家アイデンチティ-は崩壊同様だ。因果はめぐるのだ。日本はこのようにならないようにしよう。しかし気をつけよう。また犯罪と罠がしかけられるかもしれない。
 紺谷氏は、財務官僚について、この頭のいい人達がどうしてこんなめちゃくちゃをするのかと、首をひねっておられる。私はそうは思わない。彼らは本当に馬鹿なのだ。東大かどこかを出て、官僚中の官僚になり若い時から、他人の生殺与奪の権を与えられ威張っておれば誰でも馬鹿になる。彼らは一事の専門家ではない。Generaristなのだ。専門家のみが持ちうる謙虚さは彼らにはなくなる。ただ対人操作のみに熟達してゆく。つまり馬鹿になる。
 もう一つ付加。財界人の発言には気をつけよう。彼らは経営のプロではあるが、経済のプロではない。

CAMPAIGN
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経済人列伝、竹鶴政孝

2013-01-07 02:34:13 | Weblog
    竹鶴政孝

 竹鶴政孝は1894年(明治27年)、広島県竹原市に生まれています。家は代々の造り酒屋でした。兄弟は多く、四男六女、政孝は三男でした。子供の頃は非常に腕白で、二度大怪我をしています。二階から階段を転げ落ちて、意識不明になり奇跡的に助かった、と本人は言っています。お蔭で鼻のところに七針も縫う傷跡を残しました。母親は、無事育つかと心配でした。向こう意気が強く、独立自存の気風でした。頑固ともいえましょう。彼の生涯を概観しますと、やりたい事をやる、という傾向を強く感じさせられます。忠海中学に進みます。後輩に後に首相になった池田隼人がいます。池田は往時を振り返って、柔道の強い寮長の竹鶴さんが竹刀をもって回ってくると怖かった、と述懐しています。
 大阪工業高等学校(現大阪大学)の醸造学科に進学します。日本中で醸造学科があるのはこの学校だけでした。ここで日本酒より洋酒に興味を持ちます。結果として家業を継がないのですから、父母ともめました。結構親不孝をしています。1916年(大正5年)卒業して、摂津酒造に入ります。この会社はみりんや合成酒以外に、ウィスキ-、ぶどう酒、リキュ-ルなども製造し、当時洋酒メ-カ-として有名でした。摂津酒造は昭和39年に宝焼酎に合併されています。社長は阿部喜兵衛、事務5-6人、工場30人前後の規模でした。
当時のウィスキ-について若干の説明をします。政孝はそれをイミテ-ションウィスキ-と言います。原酒(モルト)をイギリスから輸入し、それにアルコ-ルを適宜混ぜて少し味付けして、売り出します。原酒の割合は1%くらいでした。原酒が0-10%のウィスキ-を三級ウィスキ-と言います。政孝の終生の願望は、こういう三級品ではなく、本物のスコッチを日本で造ることでした。当時スコッチはスコットランド以外ではできないとされていました。
入社後2年社長から、スコットランドに留学して、本格的にスコッチの製造法を学んでこないか、と言われます。政孝が見込まれたのでしょうが、望外の幸運です。そして当時は第一次大戦の真最中、日本は戦争景気にわいていました。どこの企業でも使うに困るほどのお金を持っていました。ウィスキ-造り一筋にかける政孝には三人の恩人がいます。摂津酒造の阿部喜兵衛、壽屋(サントリ-)の鳥井信治郎そしてアサヒビ-ルの山本為三郎です。このうちの誰一人欠けても政孝の生涯はなかったものと思われます。彼の人柄もあるのでしょうが幸運な人生といえましょう。
 スコットランドに行きます。大正7年から10年までの3年間在英し勉強します。太平洋を渡ってアメリカに行き、そこでカリフォルニアワインの工場を見学します。大西洋を船で渡らなければなりませんが、ドイツの潜水艦が怖くて、なかなか船がでません。ウィルソン大統領に電報をうって、理解を求め船出します。途中僚船が沈没するという惨事に出会います。ベルギ-皇太子の発案で犠牲者への義援金を政孝が集めることになります。彼が乗船者中一番若かったからです。
 グラスゴ-大学で聴講します。講義自体はありふれていて、知ったことばかりで、おもしろくなく、図書館でウィスキ-関係の本ばかり読んでいました。肝心な勉強はウィスキ-を造っている工場の見学と実習です。ここでウィスキ-、もちろん本格的なスコッチですが、その造り方を説明します。まずモルトウィスキ-を造らねばなりません。大麦を発芽させ、それを草炭(ビ-ト)で乾燥させます。これに酵母を加えて発酵させます。こうしてできたものをポットスティルで蒸留します。何回も何回も蒸留をくりかえして、アルコ-ル濃度を70%にします。これを樫などの硬い材質の樽に入れて、5-10年寝か(貯蔵)します。樽の中の酒は、木材を通してゆっくりと酸化されます。同時に酒は少しづつ外に蒸発します。10年寝かせると、量は半分になります。こうして原酒ができます。原酒自体はおいしいものではないそうです。
 原酒はアルコ-ルを加えられて味のいいものになります。このアルコ-ルの作り方により味が違ってきます。スコットランドではこのアルコ-ルをグレ-ンウィスキ-と言っていました。大麦、小麦、カラス麦、コ-ンなどを発酵させて、連続蒸留装置で蒸留してこのグレ-ンウィスキ-ができます。グレ-ンウィスキ-を混ぜることにより風味がでます。ウィスキ-造りには、もう一つの難関があります。原酒のブレンド(混合)です。いろいろな原酒をブレンドして、それにグレ-ンウィスキ-を混ぜて、本物のスコッチができます。厳密に言えば本物のスコッチは30%以上の原酒を必要とします。ブレンド如何によりそれぞれのウィスキ-の味と特徴が決まります。ブレンドの能力は経験とそしてなにより才能、嗅覚の才能によります。
 政孝は工場見学と実習を重ねてゆきます。原酒の工場は小規模なので、気安く見学させてくれますが、グレ-ンウィスキ-の方は大工場になり、秘密厳守で実習はなかなかできません。ある工場の老蒸留主任が、政孝のひたむきな態度に感じ入り、蒸留の機微を仔細に教えてくれます。アルコ-ル濃度が何%というのなら機械的に蒸留すればいいのでしょうが、蒸留する温度や速度も風味に関係してくるようです。またある工場では、日本酒の麹(こうじ)に興味を持つ技術者に麹を日本から取り寄せて渡し、交換にウィスキ-製造法を教えてもらいます。こういう縁はすべてグラスゴ-大学のウィリアム教授の紹介によるものです。イギリス人は赤の他人には冷淡で心を開きません。しかし一度紹介されたり昵懇になると非常に親切にしてくれると言われています
 在英中政孝はホ-ムシックにかかります。こういう中招待された医師の家でのパ-ティで、そこの娘ゼシ-・リタを知ります。政孝は積極的にプロポ-ズします。一目ぼれです。結婚しリタを日本に連れて帰ることになりますが、それを知った父母は大騒ぎそして大反対です。阿部社長が渡英し、リタを見て、両親に結婚を許可してもらいます。日本への帰路はハネム-ンになりました。
 さて日本に帰ります。戦争は終わって潜水艦の心配はありませんが、戦後不況です。ウィスキ-生産の計画は役員会の反対で立ち消えになります。ウィスキ-は製造を開始して少なくとも5年は発売できません。ある程度の品質を保とうとすればです。膨大な資金を寝かせることになります。不況時、そんな冒険はできない、というのが多数の意見でした。そういうことでしょう。政孝はあっさり辞職します。しばらく帝塚山学院で、化学をおしえます。妻のリタは同院で英語を教えます。
 1923年(大正12年)壽屋(サントリ-)の鳥井信次治郎からウィスキ-製造主任として招かれます。鳥井は始めイギリスからム-アを招聘して、ウィスキ-製造を一任するつもりでした。ム-アの来日が不可能になり、白羽の矢が政孝にたったわけです。年俸はム-アと同じ4000円です。当時の首相の年俸が3000円でした。鳥井は赤ダマポ-トワインで稼いだ金をウィスキ-造りに投入しました。政孝の在任期間は10年と契約されます。工場設置の場所として政孝は北海道を望みましたが、鳥井は流通の便宜上近畿圏内を望みます。こうして天王山の山崎が選定されました。この事以外の案件はすべて政孝に一任されます。途中で蒸留に際しての、かまどと火の距離が解らず、再度スコットランドに渡ります。1929年(昭和4年)白札サントリ-ウィスキ-が発売されます。当時としては一番本格的なウィスキ-でした。一本3円50銭、輸入品のスコッチが5-6円でした。以後も普及品を発売しますが、売れ行きは芳しくありません。壽屋の中で、ウィスキ-部門は金を食うだけの極道者だと、白眼視されます。この間税金問題で税務庁の星野直樹とやりあいます。酒は製造して在庫にしておくとすぐ課税されます。ウィスキ-にこれを適用されると、寝かせる期間が長いので、利益なきまま税金を払わねばなりません。結局庫出税にしてもらい難を免れます。鳥井がウィスキ-製造にかけた資金は250万円でした。鳥井がいなければ政孝はウィスキ-造りの経験を得られなかったことになり、以後の彼の生涯はなかったでしょう。壽屋には2年延長して12年在社しました。
 1934年(昭和9年)政孝は独立し、加賀正太郎と芝川又四郎の後援で、大日本果汁株式会社を立ち上げます。資本金は政孝が2万円、加賀と芝川二人で7万円、柳沢伯爵が1万円、の総計10万円です。本社は東京ですが、工場は政孝の念願どおり北海道の余市に建設しました。北海道には草炭(ビ-ト)があります。石造りの工場を建て、すべてスコットランド方式にします。本格的なウィスキ-は最低5年間寝かせて熟成させなければなりません。資金がいります。経営は苦労の連続でした。昭和15年始めてニッカウィスキ-を発売します。極力原酒の割合を多くします。あくまでスコッチに近づく努力をします。
 戦後は苦難の時代を迎えます。サントリ-は本格的なウィスキ-を金持の占有物と批判して、昭和21年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。トリスウィスキ-です。サントリ-はお得意の宣伝で、販売を促進します。政孝はあくまでスコッチに近い本格派のウィスキ-造りにこだわります。ニッカの経営は悪化します。政孝は節をまげずがんばりますが、税金が滞納されるようになります。国税庁の説得に負けて、昭和25年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。昭和27年社名をニッカウィスキ-とします。「大日本果汁」から「日果」を取りそれをカタカナにしました。
 1953年(昭和28年)大株主である加賀正太郎の死に際し、加賀は自己所有の株式を山本為三郎のアサヒビ-ルに渡します。山本は政孝の経営に理解を示してくれました。政孝の判断で経営をすることを容認する一方、政孝があまりにも技術一辺倒であることを心配して、販売部門の担当に弥谷醇平を専務として送り込みます。弥谷は販売網の整備と価格切り下げ、そして宣伝に活躍します。それまでの政孝のやり方は、宣伝嫌い、品質第一、だから高くてもいい、でした。以後ニッカの販売額は増加の一途をたどります。昭和31年ブラックニッカ発売、これは好評でした。
 山本は政孝に、カフェ式グレ-ンスピリッツの設置を提案します。そのために朝日酒造という新会社を造り、西宮の工場に、このグレ-ンウィスキ-製造装置を購入し設置します。こうして1966年(昭和41年)日本で始めての日本産スコッチ、つまりもっとも本格的なウィスキ-が出て、新ブラックニッカとして発売されます。政孝がスコットランドに留学し帰朝して46年後に、始めて彼の意図した製品が世に出たことになります。この間昭和37年彼の最愛の妻、リタは他界しています。1979年(昭和54年)死去、85歳。現在ニッカウィスキ-は非上場になっており、100%アサヒビ-ルが株式を所有しています。

  参考文献  ヒゲと勲章  ダイヤモンド社

鳥居信治郎、飲んでみなはれ、サントリ-

2013-01-05 02:26:19 | Weblog
    鳥井信治郎、飲んでみなはれ、サントリ- 

 最近新聞をにぎわせたニュ-スにキリンビ-ルとサントリ-の合併破談があります。両社は株式保有のあり方が対照的で、この点が最大の障害になりました。サントリ-の株式の90%が創業家である鳥井家の所有とありました。今時大企業でこんな古風な話があるのかと思い、創業者鳥井信治郎の伝記を読みました。そしてなるほど、この人の性格と業績から言えば、そうなっても不思議ではないと、思い至りました。記者会見でサントリ-の佐治社長(多分信治郎のお孫さん?)が、創業家支配にはそれなりの良いところがあるのだが、と残念そうに言っていたのもうなづけました。
 信治郎は明治12年(1879年)大阪市東区釣鐘町に生まれています。家業は銭両替商(小口金融)、野村徳七と同じ環境です。父親は後に米穀商に転業しています。比較的裕福な家でしたが、当時の大阪商人の習慣に従い、高等小学校卒業後、丁稚奉公に出ます。(注1)奉公先は道修町(どしょうまち)の卸商小西儀助商店、この店は洋薬や洋酒をも商っていました。薬も酒も輸入されたままの状態では商品として出しません。国内で売れるべく数種の品を混合して調合(blend)します。信治郎はここでblendの勘を磨きます。blend如何により、商品の価値と売行が決まります。彼のこの方面での才能は極めて優れていました。後年彼が有名になった時、利き酒の大会に出ました。出された30種類の日本酒のうち、彼がはずしたのは2-3種だけだったそうです。この才能にあわせてか信治郎は極めて大きな鼻の持ち主でした。

(注1)江戸時代以来商人になる道は丁稚から手代番頭と勤め上げて、別家として暖簾分けしてもらうのが常道です。丁稚といえば極貧階層出身のように誤解されていますが、実際は農村の中農以上で、ちゃんとした保証人がいる信頼できる人物のみが、都市の商家に奉公できました。

 明治32年信治郎21歳の時、独立します。得意の鼻を生かして、甘みのあるぶどう酒を調合し向じし印のぶどう酒を売り出します。これは結構当たりました。東京の蜂印ぶどう酒がライヴァルでした。
また彼は友人の親戚になるスペイン人セレ-スのところに遊びに行き、そこでスペイン産のぶどう酒を味あう機会に出会います。本格的なこのぶどう酒を売り出したところ、さっぱり売れません。欧州の本場のぶどう酒をどのようにして日本人の味覚に会うように調合し売り出すかが、信治郎の念願になります。信治郎の野望は、いかにして西洋の酒と同じ物を日本で作るかに、あったと言えましょう。彼はハイカラ趣味の人でした。この情熱は後年国産ウィスキ-の開発に向けられます。
明治39年、屋号を寿屋と改めます。
 こうして明治44年売り出されたのが、赤玉ポ-トワインです。濃紅色でとろりとした甘みのあるワインです。(注2)信治郎はこのぶどう酒に自信を持っていました。大阪の祭原商店、東京の国分商店を中心に東西で売り込みます。赤玉ポ-トワインの宣伝に関しては逸話があります。信治郎は宣伝の一手段として赤玉楽劇団を作って全国を公演させました。そういう関係から芸能人も彼と親しくなります。ある時来阪していた松島栄美子に寿屋の宣伝部長である片岡敏郎が密かに相談を持ちかけます。料亭のある部屋で松島に上半身裸になってくれ、という頼みです。松島の半裸体をふすまの蔭から数人の男がしきりに観察し写真を撮ります。こうして赤玉ポ-トワインのポスタ-ができました。松島栄美子の上半身露な像、全体は黒味がかったセピア色、松島の白い肉体、彼女が持つグラスに注がれた真っ赤なぶどう酒、という配色です。このポスタ-は全国で有名になりぶどう酒の売り上げに大きく貢献しました。(注3)赤玉の「赤い」は太陽(sun)の意味です。日本は太陽の国だという、信治郎の信念からこのような発想が出てきました。
 この間信治郎は色々な商品を発売しています。スモカという煙草飲み用の歯磨き、五色酒、トリスソ-ス、トリスウィスタン(ウィスキ-の炭酸割り)、オラガビ-ルなどなどです。

(注2)もっとも現在ではこのような物はワインの内に入らないかも知れません。昭和30年代になっても、一部の人を除いてはぶどう酒といえば蜂印か赤玉でした。日本経済が高度成長に入った40年代、欧州各国から一斉に各種のワインが輸入され、店頭に並びました。私は赤玉ポ-トワインは甘くて美味しいので、母親の目を盗んではちょくちょく飲んでいました。どちらかというと子供向けのようなお酒でした。
(注3)この写真で松島栄美子の上半身は裸身ですが、乳首以下は隠されています。当時の法令違反すれすれの写真です。これ以上露出すれば猥褻な印象を与え、またこれ以上隠すと写真の魅力がなくなるというところです。

 鳥井信治郎の性格や行動には著明な特徴があります。彼は最初奉公した小西商店でも自分の信念を曲げず、主人に対しても決して引き下がりません。赤玉ポ-トワインの最大の卸商特約店である祭原商店で、寿屋の看板が他用に使われていると知ったとき、店の番頭と大喧嘩した話もあります。
 経営のやり方は一言で言えば、温情的家父長制、社員に対して待遇はすこぶる良いが、極めて独裁的でした。社員に自らを決して社長とは呼ばせません。大将と呼ばせました。理由は社長と言われるのは、せいぜい三井三菱住友くらい、お客の前で自分を社長と呼ばせて悦に入っているようではあきまへん、というところです。彼の口癖は「やってみなはれ」です。一応社員の自主性を認めているようであり、確かにそうですが、この言葉はもっと激烈な意味を持ちます。おやりなさい、自分の意志と信念で、やる以上とことんまでやりなさい、となります。信治郎が「東京へ手紙を出してくれ」と社員に指示します。何を書くのかと反問すれば、社員失格です。社長である信治郎の意向が解っている必要があります。万事この調子です。そういう背景において、やってみなはれ、の文句を吟味する必要があります。会議は大嫌い、役員会議など開きません。重役も自分の手足同様に使用します。織田信長を彷彿させます。事実信長のように短気で、すぐ怒鳴りつけました。戦時中社員は信治郎をB69と仇名しました。当時恐れられた米軍爆撃機B29をもじったのです。また彼は八卦占いを信じました。人事採用も八卦で決めたので大学から学生紹介を断られた事もあります。仏教といわず神道といわず八百万の神様仏様はすべて信じました。その一環が放生会です。その辺で買ってきた、魚や亀や蛇などみな放ちました。馬鹿にならない費用なので社員が忠告すると怒鳴れました。この行動の一環でしょう、彼の社会事業への貢献は大きいものがあります。終戦直後大阪駅周辺の浮浪者すべてに握り飯を振舞いました。次から次と浮浪者が現れてもひるまず、慈善を続けました。信治郎の信念は、事業家はその収益のうち、1/3を社会に、1/3を顧客に、残り1/3を資本に廻す事でした。このような信念ゆえか、彼は株式の上場を極端に嫌いました。理由は株式公開にすれば、株主の機嫌を伺い、結果として良い商品は生産できない、ということです。全面的には賛成できませんが、昨今の米国の状況を見れば、なるほどと思わされます。以上信治郎の商法の一端を紹介しました。このような頑迷なまでの信念と独裁性と楽観があればこそ国産ウィスキ-生産という難事業ができたのでしょう。
 信治郎は宣伝好きでした。赤玉ポ-トワインが発売されると、健康に良いとかで、当時希少価値のあった医学博士の推慮を総動員します。またサイドカ-に軍服に似た服装の社員を乗せて宣伝隊を町に繰り出します。毎日新聞の宣伝部長片岡敏郎を月給倍の条件で引き抜きます。松島栄美子の半裸体ポスタ-は彼の考案になります。赤玉額劇団を編成して日本中を公演させて廻ります。洋酒を世間に広めるために、トリス喫茶店を開きます。カクテル相談室も開催します。「洋酒天国」という雑誌を作り、宣伝しないような形で宣伝します。この雑誌は私も見たことがありますが、自社のことなどあまり触れていません。本当に洋酒のための雑誌という感じで、私が見た頃は発売部数も多いポピュラ-な一般雑誌でした。サントリ-の宣伝部からはかなりの人物が出ています。作家の開高健、随筆家の山口瞳、漫画家の柳原良平などです。
 大正12年関東大震災、この事件とはどう見ても関係なさそうですが、信治郎は、本場のスコッチに負けない本物の国産ウィスキ-を作ろうと、思い立ちます。と言ってしまえばそれまでですが、この企ては一大壮挙、というより暴挙、かなりの人にとっては愚挙でしょう。事実会社の内部も外部も猛反対でした。理由は簡単です、資本がかかり、しかも資本が回収できるまで、最低10年の歳月が必要になります。もちろんうまく行ったとしての話ですが。加えて、酒は文化という事情もあります。英国の文化にマッチした微妙な味わいを作り出し、それを日本の文化に適合するべく云々、というだけで難題だなと思わされます。
ここでウィスキ-の作り方に伴う難事を簡単に説明します。まず醸造所の選定に条件があります。スコットランドの高地地方ロ-ゼス峡谷のような、霧が適当にかかる湿気の多い土地でないといけません。原料の大麦も選定されます。信治郎は、ゴールデンメロンという品種の麦を使いました。麦芽も酵母も品質が限定されます。発酵してできた新酒は蒸留されます。それも何回も何回も。この蒸留には、スコットランドの湿地(沼地?)でできるヒースという草が、湿地に堆積し炭化してできた、泥炭ピ-トを使わなければいけません。ピ-トは輸入します。ピ-トを焚いて蒸留する過程で付く独特のにおいが、ウィスキ-の味を決めます。こうして原酒(モルト)が出来上がります。これを樽にいれて暗い冷たい地下室で保存します。樽は樽で特別性です。アメリカから輸入したホワイトオ-ク(白樫)で作ります。それを一度シェリ-酒を入れてあくぬきをしてから使います。新しい樽を使うのと、古い(つまり一度以上ウィスキ-を保存した)樽を使うのとでは、できる酒の味が違います。もちろん寝かせる期間によっても違ってきます。どのような樽を使い、何年寝かせたかで諸種の原酒が出来上がります。これらの原酒をblend(調合)し、さらにグレ-ンウィスキ-という比較的単純な酒を加味して、ウィスキ-が出来上がります。blendの能力は天賦とされています。また麦や麦芽にしてもできた年の気候により微妙に違います。さらに発酵・蒸留させる時の気候も作品のできばえに影響するでしょう。
大量の資本と高度な技術を長期間必要とし、しかもそれだけでは必ずしも成功は保障されない事業がウィスキ-造りです。まるでケルト・アングロサクソンの文化全体を日本に輸入するようなものです。この壮挙(愚挙?)に信治郎は敢然かつ欣然と取り組みます。これは信治郎の遊び心の表れでしょう。そういえば英国の人士がスコッチに寄せる気持ちも遊びに似ています。
幸い工場の土地としては山崎というか格好の土地が見つかりました。大阪府と京都府の境にあり木津・宇治・桂の三川が合流する山崎地峡は、結果としてウィスキ-造りには最適の土地でした。(注4)問題は技師長の人選です。信治郎は最初、イギリスの醸造学の大家ム-ア博士を日本に招聘して指導してもらおうと思っていました。博士も快諾しましたが、そのうちムーア博士は、日本人でスコッチの工場に留学し、製法を学んで帰った若者がいる事を知り、彼に技師長を委ねたらと、言います。信治郎としてはやや気がそがれた感もありましたが。この人物竹鶴政孝を採用し、(注5)ウィスキ-造りの全権を委ねます。この時信治郎はムーア博士に出すべく予定していた年俸4000円を竹鶴の年俸としました。大正12年10月山崎工場起工式。

(注4)山崎は昔羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の戦をした古戦場です。信治郎の本拠地大阪からも現在なら電車で30分かかりません。いいところに最適の地があったものです。またこの地は灘伏見の酒水に連なります。この地は竹が多く生え、その分余計な植物の繁殖が少ないので、細菌環境もウィスキ-造りに最適と後になって判明しました。加えて太閤さんびいきの信治郎には、秀吉出世の古戦場は縁起も良かったのでしょう。
(注5)大阪高等工業学校醸造科卒業。摂津酒造に入社。摂津酒造もウィスキ-造りを企て、竹鶴はグラスゴ-大学に留学。帰国後不況のために、摂津酒造は企てを放棄。浪々の身になっていた竹鶴に信治郎は白羽の矢を立てる。竹鶴は後独立し、ニッカウィスキ-を設立。大阪高等工業学校は後の大阪大学工学部です。当時醸造学は日本中ここしかありませんでした。多分灘伏見という酒どころに近かったからでしょう。なお信治郎の次男の佐治敬三もここの出身です。なお信治郎は何ゆえか、次男敬三に山陰の旧家である佐治家の姓を名乗らせています。ですからサントリ-の創業家は鳥井家ですが、佐治家も同様となります。

 ぼつぼつウィスキ-が出荷されます。予想通り始めのうちは、焦げ臭い、という悪評でした。ピ-トの焚きすぎが原因でした。酵母の選定にも問題がありました。そこは信治郎得意の粘りで切り抜けます。まあ、飲んでくだはれ、と次々にできたウィスキ-を得意先に持って行きます。課税でも苦労します。当時の酒税は仕込んだ酒の量に従って一年単位で課税されました。仮にウィスキ-を10年寝かせるとします。この間金にはなりません。だから一年単位で課税されると、ものすごい税金になります。信治郎は国税庁に掛け合いにいきます。多くの場合喧嘩になりました。こうして池田隼人(後の首相)と昵懇になります。昭和6年サントリ-特角を出します。この頃からサントリ-も商品化できるようになったのでしょう。この間当然ですが、ウィスキ-部門は大赤字の金喰虫でした。信治郎は赤玉ポ-トワイン以外の商品の生産をすべて中止し、赤玉とウィスキ-のみに専心します。赤玉ポ-トワインで稼ぎ、それをウィスキ-製造につぎ込むのです。なにやらトヨタの自動織機と自動車の関係によく似ています。ちなみに「サントリ-」という名称は「サンsun、太陽」と「トリイ、鳥井」からきています。もちろんサン(太陽)は赤い玉で象徴されます。
 事業も段々好調になって行きます。昭和8年アメリカでは禁酒法が廃止になりました。これでアメリカにウィスキ-を輸出できます。ということはアメリカでは当時たいしたウィスキ-が製造されていないことになります。スコットランドに似た土地なら広いアメリカのこと、どっかにあるとは思いますが。昭和12年サントリ-角瓶、同15年サントリ-オ-ルドを発売します。このあたりから洋酒の寿屋とサントリ-の名称はブランドになって行きます。しかし信治郎には不幸が訪れます。頼みの右腕と期待していた長男吉太郎が急死します。信治郎には男児が3人います。長男吉太郎、次男敬三、三男道夫です。次男は佐治を、他の系譜の親族は鳥井を名乗ります。
 戦火が勃発します。しかし戦争は酒造業にとって有利に働いたようです。酒の成分はアルコ-ルであり、この物質は軍需物資ですから、生産は保護奨励されます。加えて戦争に従事する軍人は明日の命も解らない状況に置かれるので、酒量は進みます。ウィスキ-は舶来品であり、英国の酒でしたから、英国仕込の海軍に重用されました。やがて陸軍も眼をつけ、陸海の争奪戦になりましたが、ことウィスキ-に関しては海軍有利に配分されました。
 戦争が終わります。しかしサントリ-の経営は、他の業種に比べれば順調だったようです。最大の生産施設である山崎工場は戦火を免れました。私はよくこの近くを電車で通りますが、どう見ても爆弾なぞ落とす気にはならない、地形に工場はあります。更に進駐してきた米軍の需要もありました。米国のウィスキ-より上質らしく、米軍将校の愛飲するところとなります。信治郎はひばりヶ丘の自宅を解放して、米軍将校の接待会合の場にしました。当時米軍(つまりGHQ)と親しいという事は、多くの便宜に繋がったはずです。将校だけ美味い酒を飲むのはけしからんと、米兵も同様の要求をします。拳銃を突きつけられて脅迫強奪される事もありました。そこで兵卒用のブル-リボンというウィスキ-を作りました。どこへ行っても階級格差はあるようです。
 当時主税局長だった池田隼人から信治郎は助言されます。サントリ-もいいが、もう少し大衆的なウィスキ-を出したらどうかと。期待に答えてトリスウィスキ-を発売します。池田自身が大酒のみであり、彼の実家は酒造業でしたから、酒飲の気持ちはよく解ったのでしょう。トリスウィスキ-を発売すると同時に、トリスバ-も全国に開きます。このバ-開設の条件は、酌婦がつかない事と値段が公正である事でした。健全な居酒屋とでも言いましょうか。私が昭和35年大学に入り、始めて友人とウィスキ-を飲んだ当時、トリス、サントリ-角瓶、オールドの順にランクが上がりました。角瓶は比較的金のある連中が飲む物、オ-ルドになると国産の一級品という格でした。この上に確かサントリ-ロイヤルというのがありましたが、それはジョニ-黒と変らないという評判でした。
 昭和30年紫綬褒章を受賞します。昭和34年現在、寿屋の資本金は1億9200万円、大阪本社以外、支社6、工場8の陣容でした。36年社長の座を降り、次男の敬三に譲ります。37年死去、83歳でした。喪主は信一郎(信治郎の孫)、友人代表は池田隼人(首相)や山本為三郎(アサヒビ-ル社長)、高崎達之助他数名でした。山本と高崎については後の列伝で取り上げる予定です。
 ここで鳥井信治郎の魅力とでも言うべき項目を列挙して見ましょう。この作業は同時になぜ彼がウィスキ-生産という難事業を成功させたか、という問題に繋がります。まず商人根性と職人気質の同居、信二郎にはこの相反する傾向が多量に同居している事が挙げられます。商売熱心でがめつく売りまくり、宣伝を大規模に行います。この辺は商人的ですが、ウィスキ-やポ-トワインの品質に関しては頑迷なほど、品位にこだわります。算盤を度外視して品位にこだわったから、英国産に劣らないウィスキ-ができました。
 生活は派手同時に地味です。社会事業に多額の寄付をして、おしゃれな反面、当時の金持ちが愛好する自動車と別荘の所有には断固反対しました。地味だが派手と言うべきでしょうか?彼の活動にはある種の快楽主義を感じさせられます。ハイカラ趣味といえば少し浅薄になるかも知れませんが、彼はそう言われていました。
 快楽主義は楽観主義に通じます。彼の口癖は、やってみなはれ、でした。とことんやってみなはれ、です。単に頑張るというだけではありません。自分の思うようになるだろう、という信念か確信のようなものがあります。この確信を彼は他人にも押し付けます。確信と楽観の基底には快楽という一種の麻薬が存在するようです。彼が大酒家だったとは聞いていません。しかし赤玉ポ-トワインが発売された当時、これを飲んだ日本人は多分、美味とある種の悦楽感に襲われたでしょう。信治郎はこのイメ-ジを真っ赤な太陽(sun)でもって表しました。松島栄美子のセミヌ-ド姿はそれを象徴しています。自分が感じた快楽を自分だけのものとはせず、みんなに解放します。本人がそうと変に自覚していない分、この印象は強烈です。
 これらの要因があわさって、信念と使命感が出現します。そういう単純に言葉で表されるだけのものではなく、図々しさ、頑迷なあつかましさ、そして自己肥大感と言った方がいいでしょう。しかしそこには否定できない信念と使命感があります。
 そこから出てくるものが、独裁と自信です。
 信治郎を語る場合、彼がいわゆる、こてこての大阪人、であったことも考慮に入れる必要があります。換言すれば土着性です。しかも都会的な土着性です。だから彼の考えは一見奇矯なようで常に大地に根をはやした感があります。だから英国の文化の、しかも土着性の強い文化であるウィスキ-を、やはり大阪という土地に土着させえました。
ウィスキ-を生産し成功させるためには、10年近く大量の資本を寝かせる必要があります。試みを敢行するには、野放図な大胆さと文化移入への使命感、そして自己への信頼が要ります。それを鳥井信治郎という男はやり遂げました。多分日本以外の国で、英国産と同格のウィスキ-を生産した国は無いでしょう。

  参考文献  美酒一代、鳥井信治郎伝、毎日新聞社

ウィスキ-考(改訂版)

2013-01-02 02:36:02 | Weblog
   ウィスキ-考(改訂版)

 一昨日の新聞で、日本産のウィスキ-が好評で、年間10億円以上の輸出をあげていると報道されました。特にワインの本場のフランスやウィスキ-の本家イギリスでの販売が伸びています。あのうるさくて口の悪いイギリス人が日本産のウィスキ-を飲むのだから、品質は特上なのでしょう。国際的な品評会からも表彰されています。まあ日本産のウィスキ-は品質世界一ということです。10億円強の輸出額は日本の総輸出額の0.003%にしか過ぎませんが、ウィスキ-の輸出ということは、日本の産業と日本人を考える上で貴重な示唆を与えます。
 日本以外で英国人の国民酒といわれる、それも彼らが誇りとし、また世界が名酒と認めるスコッチを本家以上の品質で造った国があるのでしょうか?(注)TVや自動車あるいは繊維製品ならわかります。必要性は万国共通であり、好みの問題もそう重大ではありません。しかしこと酒となると事情は違います。各国々に各国々が誇りとする酒があります。フランス・イタリア・スペインなど南欧諸国ではではワイン(フランスならブランデ―を付け加えなくてはいけませんね)、イギリスではウィスキ-、ロシアならウオッカ、ドイツならビ-ル、中国なら老酒、日本なら酒(英語に翻訳すればライスワインとか)などなどです。それぞれ好みがあり、この好みがそのままブランドになります。ですから日本人が本格的なウィスキ-を作ろうとしたら、イギリス人の味覚や好み、大きくいえばイギリスの文化全体を取り入れるくらいの覚悟が必要です。そこまでして異国の酒を造る必要があるのでしょうか?あるといえばあるし、ないといえばありません。ウィスキ-が欲しければ輸入すればいいのですから、それで済ませればいっこうに痛痒はないといえます。この無用ともいえる試み、外国人が誇りとするその国民酒の製造にとりかかって成功したのは日本だけではないでしょうか?以下にウィスき-の作り方を簡単に要約しますが、ウィスキ-(多分ブランデ-もそうなのでしょう)の製造は極めて複雑で、好みと伝統というややこしい事情に左右され、そして長期間かかるものです。この試みに挑戦した二人の人物がいます。サントリ-の鳥井信治郎とニッカの竹鶴政孝です。
 鳥井は大阪の銭換商の子として生まれ、生来の商才を生かして、赤玉ポ-トワインを作り大いにあてました。この酒は一応ワインといっていますが、本場のワインから見るとワインといえるほどのものではありません。この鳥井信治郎が営業方針を転換して、本場のウィスキ-を製造しようと思い立ちます。周囲の誰も猛反対でした。成功するとはとても思えませんので。鳥井は英国留学帰りの竹鶴を雇い、彼にウィスキ-の製造を全面的に任せます。鳥井が竹鶴の要求で唯一承諾しなかったことは、工場をスコットランドと似た北海道に造ることだけでした。工場は大阪と京都の境ある山崎の地に造られます。かなり上質のウィスキ-が販売されだしたのは、工場ができてから10年後でした。10年間資本が眠らされます。ウィスキ-造りは金食い虫だと、他の部門の連中からは白眼視されました。しかも当時の酒税法では、蔵に眠っている酒にも税金がかかります。鳥井は大蔵省と掛け合い、製品完成までは無税であることを勝ち取ります。当時の主税局長が池田隼人(後の首相)で大の酒好きでした。ちなみにワインやビ-ルは一年で製造できます。短期間に資本を回収できます。
 竹鶴政孝は広島県出身、大阪高等工業学校(後の阪大工学部)醸造科を出て、摂津酒造に入社、イギリスに2年間留学します。大学で講義など聴いても意味ありません。ひたすらグラスゴ-近辺のウィスキ-製造工場を見てまわりました。当然技術は、その工場の秘密ですし、職人も同様です。なによりも経験と勘が必要です。竹鶴は苦労をします。まあ学び盗み考え云々のくりかえしであったのでしょう。竹鶴の実家は酒造業なので、秘伝の麹を提供することを見返りとして、知識伝授にあずかったこともあります。苦労したせいか、それともイギリスの風土に溶け込みすぎたのか、現地の医師の娘リタと結婚して日本に帰ります。竹鶴の両親も、リタの父母も結婚には反対でした。竹鶴はリタと日本で添い遂げます。その竹鶴が伝授されたウィスキ-造りの方法は以下の通りです。
 まずモルトウィスキ-を造らねばなりません。大麦を発芽させ、それを草炭(ビ-ト)で乾燥させます。これに酵母を加えて発酵させます。こうしてできたものをポットスティルで蒸留します。何回も何回も蒸留をくりかえして、アルコ-ル濃度を70%にします。これを樫などの硬い材質の樽に入れて、5-10年寝か(貯蔵)します。樽の中の酒は、木材を通してゆっくりと酸化されます。同時に酒は少しづつ外に蒸発します。10年寝かせると、量は半分になります。こうして原酒(モルト)ができます。原酒自体はおいしいものではないそうです。
 原酒はアルコ-ルを加えられて味のいいものになります。このアルコ-ルの作り方により味が違ってきます。スコットランドではこのアルコ-ルをグレ-ンウィスキ-と言っていました。大麦、小麦、カラス麦、コ-ンなどを発酵させて、連続蒸留装置で蒸留してこのグレ-ンウィスキ-ができます。グレ-ンウィスキ-を混ぜることにより風味がでます。ウィスキ-造りには、もう一つの難関があります。原酒のブレンド(混合)です。いろいろな原酒をブレンドして、それにグレ-ンウィスキ-を混ぜて、本物のスコッチができます。厳密に言えば本物のスコッチは30%以上の原酒を必要とします。ブレンド如何によりそれぞれのウィスキ-の味と特徴が決まります。ブレンドの能力は経験とそしてなにより才能、嗅覚の才能によります。
 政孝は工場見学と実習を重ねてゆきます。原酒の工場は小規模なので、気安く見学させてくれますが、グレ-ンウィスキ-の方は大工場になり、秘密厳守で実習はなかなかできません。ある工場の老蒸留主任が、政孝のひたむきな態度に感じ入り、蒸留の機微を仔細に教えてくれます。アルコ-ル濃度が何%というのなら機械的に蒸留すればいいのでしょうが、蒸留する温度や速度も風味に関係してくるようです。またある工場では、日本酒の麹(こうじ)に興味を持つ技術者に麹を日本から取り寄せて渡し、交換にウィスキ-製造法を教えてもらいます。こういう縁はすべてグラスゴ-大学のウィリアム教授の紹介によるものです。イギリス人は赤の他人には冷淡で心を開きません。しかし一度紹介されたり昵懇になると非常に親切にしてくれると言われています
 竹鶴は帰国後しばしらく浪人しますが、前記のように鳥井に見出されウィスキ-製造を一任されました。この間どうしても解らない事があり、再度スコットランドに留学しています。山崎でのウィスキ-製造が成功して後、しばらくして竹鶴は鳥井の工場をやめます。鳥井とはウィスキ-の製造に関して意見が違いました。鳥井は基本的には商人です。ほどほどの品質でいいやないか、なにも本場のスコッチそのもののようにする必要はない、というのが基本方針です。対して竹鶴は徹底した職人でした。竹鶴は鳥井のもとを去って北海道の余市に本格的なウィスキ-製造工場を造ります。本業は大日本果汁というりんごジュ-スの製造でした。竹鶴の保護者の株主が死ぬ時、この株主は竹鶴の後見をアサヒビ-ルの山本為三郎に依頼します。戦後鳥井は大衆用のウィスキ-としてトリスウィスキ-を販売します。竹鶴はあくまで本場のスコッチ製造を目指します。苦難20年(この間税務署からも経営方針転換の忠告をうけています)1966年、ブラックニッカという名酒が発売されます。ちなみにサントリ-は赤球ポ-トワインを太陽(サン)に見立てて、それに「鳥井」をつけて造られた商号です。ニッカは日本果汁からとりました。
 竹鶴は根っからの職人気質ですが、鳥井もなかなかのものです。10年多額の資本を投資し寝かせ、それでできたものが必ずしも成功する・日本人の口にあう・売れるとは限らないのですから。鳥井も竹鶴も有能で努力家で独創的です。同時に両者はロマンチックでいささかマンガチックなところもあります。
 鳥井と竹鶴という二人の人物により、英国産ウィスキ-と同等あるいはそれ以上のものができ、現在に及んでいます。最初に申しましたとおり、日本以外でスコッチの名品を造った国があるのでしょうか?必ずしも造る必要のない、芸術品ともいえる異国の醸造酒を、精魂こめて造り、本場の製品を凌駕する、ところに日本人の独自性、物作りの精神を、同時に遊びの精神をも看取します。日本人とはおもしろい民族ではあります。そして日本では製造業に関する限りほぼ何でも造れます。
(注)終戦後占領軍が日本に進駐します。大阪も同様でした。鳥井は進駐軍(ほぼ米軍)の将校を阪急宝塚線ひばりヶ丘の別荘に招待してウィスキ-で歓迎します。将校たちにはこのウィスキ-が大人気で、アメリカにはこんな美味いものはないと、いうことでした。文化的には米英はアングロサクソン同志で似ているのですが、アメリカ人にもスコッチは造れなかったようです。さらに余談があります。将校ばかりウィスキ-を楽しむのはけしからん、ということで米兵がピストルで脅しウィスキ-を要求します。ただちに鳥井は兵卒要の安価なウィスキ-を提供します。

(付)私が小学校か中学校のころ、当時の人気ラディオ番組で河合ぼっちゃというタレントが演じる寸劇がありました。昭和30年前後のことです。その中でかぐや姫を茶化した歌がありました。1番のみ覚えています。以下歌詞。
   始めの男はインドに渡り
  仏陀の石鉢天然記念物
  ピカピカ光らず真っ黒なので
  よくよく見たらメイドインジャパン(made in Japan)
  泣く泣くかぐや姫 
  月の出を見て泣きじゃくる

 なぜ私がこの歌詞を取り上げたかと言いますと、当時つまり昭和30年前後ではmade in Japan とは安物の代名詞でした。10年後事態は逆転します。