経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、津田梅子

2011-05-29 02:51:29 | Weblog
 明治4年に7歳で渡米し、10年余滞在し、帰国して女子の教育に一生を捧げた女性です。彼女の名を知らない人は稀でしょう。現在の津田塾大学の創始者です。彼女の生涯は彼女の父親津田仙の生涯を語ることから始めなくてはなりません。というのは梅子の人生を決定的に決定した渡米は梅子の意志ではなく、父親仙の意志により為されたのですから。7歳で親からひき離され、日本人にとってほとんど未知の国であるアメリカへ行く、という事は尋常の決断ではありません。考え方によっては非情冷酷な措置でもおあります。津田仙は1837年(天保8年)下総国(現千葉県)の藩主堀田正睦の家臣の子として生まれています。のち津田家に養子に行きます。仙は学問より、武芸に熱心な若者でした。ペリ-来航に刺激され、蘭学そして英語を学ぶようになります。幕府の外国奉行の通訳になります。渡米し半年アメリカを見る機会に恵まれます。帰国しH・ハッフォンの医学書を和訳して出版します。この本はかなり読まれたようです。この事は後に梅子が学校を設立し経営するに当たって重要な機縁になります。維新以後仙は官職から一切身を引きます。商才もあったようで、外国人用の野菜栽培を始めます。やがて農園を経営し、その延長上に学問的な農業経営を広め、学農社という学校も作ります。学農社は一時慶応義塾と並ぶほどの学校でした。仙が学校を作ったという事も、梅子の事業への刺激にはなっているでしょう。また梅子が学校を設立し経営するに際して、父親仙の影響力は無視できません。仙は明治初期の教育や事業においてかなりの知名度をもっていたようです。
 梅子は1964年(元治元年)江戸に生まれます。姉の琴子につぐ二番目の子供でした。男児を望んだ父親は失望し名もろくにつけませんでした。生後7日目に家族が、ちょうど芽が膨らんでいた梅にちなんで、梅と名づけます。仙は仕事の関係で、北海道開拓使次官の黒田清隆と昵懇でした。黒田は女子教育に熱心で、日本女性をアメリカに連れて行って、あちらで教育しようという考えを持っていました。この女子留学生のプランに仙は乗り、自身の子である梅子をその一員に加えてもらうことを望みます。こうして1871年(明治4年)に5名の日本人子女が米国に出発します。梅子は最年少でした。以上の事実から解ることは、梅子の留学には父親仙の強い意向が働いていたこと、仙自身の希望を梅子が代行する形になったこと、梅子は仙により男児として扱われたこと、などです。梅子は1871年に渡米し、1882年18歳で帰国します。なお五人の女子留学生のうち2名は1年で帰国します。梅子とともに長期滞在した、山川捨松(後大山陸軍元帥夫人)と永井繁子とは終生の親友になります。偶然でしょうが、この3名はすべて旧幕の出身です。
 アメリカではワシントン郊外の、Ch・ランメン(当時日本弁務館書記官)の家に滞在します。はじめ1年という約束でしたが、結局梅子はこの家で10年余養われ教育されることになります。ランメン夫妻は二度目の父母ともいえましょう。むしろ梅子としては実父母より親しい存在ではなかったかと想像されます。ランメン夫妻は旅行好きで梅子をあちらこちらに連れていってくれました。彼らには子供はなかったようです。アメリカでの滞在が長くなるにつれ、梅子は日本語を忘れ、英語に習熟してゆきます。父母への手紙はすべて英文でした。梅子はコレギエイト・インスティテュトに入り、さらにト-マスサ-クルに進学して勉強します。成績は優秀でした。9歳洗礼を受けます。1882年18歳で帰国します。帰国時日本語の会話ができませんでした。日本語は勉強しますが、梅子にとって思いを自由に伝えることができる言葉は英語でした。
しばらく家でぶらぶらの毎日が続く中、新帰朝者の一人として招かれたパ-ティ-で
伊藤博文から、下田歌子が主宰する華族女学校の英語教師にならないかと、誘われます。梅子は華族女学校の教師になります。華族相手の教育は彼女にとってそう張りのある仕事ではなかったようです。米人の英語教師の紹介を頼まれた時、梅子は親友山川捨松の米国における引受先であったR・ベーコンの娘、A・ベーコンを紹介します。A・ベーコンは来日し華族女学校の外人教師になります。このベ-コンとハッフォンは梅子の人生にとって極めて重要な役割を果たします。
梅子は日本で、何をしていいのか解らない、華族相手の教師では物足りない旨を、ベ-コンに打ち明け相談します。ベ-コンは再度の留学を勧めます。華族女学校を休職にしてもらい、梅子は渡米しプリンマ-カレッジに入学します。生物学を専攻し、蛙の卵の発生の研究で論文を書きます。優秀なので残って学究の道に進まないかと言われ、心は迷います。この間A・ベ-コンは帰国して「日本の女性」という本を出版します。この本とベ-コンの影響で、梅子は自分の生涯の仕事が、女子の高等教育にあると次第に悟ってゆきます。ベーコンは梅子の思いを知り、相談に乗り、将来梅子が女子教育施設を作ったとき来日して協力すると約束します。またプリンマ-カレッジでもう一人の終生の友であるA・ハッフォンと出会います。プリンマ-を卒業して、オズヴィ-ゴ-師範学校でも学び、帰国します。第二回目の留学は1889年から1892年のあしかけ3年に及びました。
1897年来日していたA・ハッフォンに、女性の英語と教養を高める、高等教育機関の創立の計画を打ち明けます。ハッフォンは大賛成でした。1898年から1899年にかけて、梅子はデンヴァ-で開かれる万国婦人連合大会に日本代表として参加します。この前後彼女は女子高等師範学校の教授に任命されます。1899年高等女学校令、私立学校令が発布されます。女子の教育に政府も遅まきながら腰を上げ始めました。
1900年梅子は華族女学校英語教師と女子高等師範学校教授の二官を辞職し、女子英学塾創設に踏み切ります。梅子36歳の時でした。教師は梅子以下数名、大山(山川)捨松が顧問です。A・ベーコンはすでに来日して待機していましたが、すぐかけつけます。立学の精神あるいは目的は、英語教育、女子の教養の涵養、そしてキリスト教主義です。梅子はそれまでの女子教育が家庭科中心である傾向に批判的でした。収支会計の予測は2025円、麹町一番町に買った家屋は総建坪83坪(1坪は約3・3平米)、少し大きい民家のような校舎でした。来賓なし、宣伝なし、質朴で実のある教育が方針です。下手に大きくして潰れないように、堅実を旨としました。潰れた学校は父親の学農社はじめ先例はたくさんあります。梅子は慎重でした。最初のうちは梅子とベ-コンは無報酬でした。
 生徒はだんだん増えます。手狭なので、1901年校舎を元園町の醍醐公爵旧邸に移します。相当なぼろ屋でした。建坪は150坪です。土地買収費用は、米国で梅子の企てを応援するフィラデルフィア委員会の募金で補います。1902年A・ベ-コン帰国、代ってA・ハッフォンが来日し、教師陣に加わります。ハッフォンは後に梅子が病気に倒れて第一線から身を引いた後も経営を指導し、第二次大戦のすぐ前まで、日本に在住しました。1903年英学新報という、研究・評論などを主として載せる雑誌を発刊します。これは梅子と英学塾の宣伝になりました。1903年麹町五番町に1000坪の土地を買い、そちらに移設します。このころ生徒数は50名、教師の月給は最高で10円、梅子やハッフォンは無報酬でした。
1903年専門学校令が出されます。女子英学塾は認可されます。梅子は25円の月給を受け取るようになります。1904年社団法人女子英学塾になり、教員無試験検定の認可を受けます。卒業したらそのまま無試験で教員免許が取得されるわけです。学校のこの資格は私立学校では、19年間梅子の学校だけの独占でした。それほど教育内容に信頼があったのでしょう。梅子の教育は、発音にも語意文法にも曖昧さを許さず、厳しいものでした。梅子は教育とか授業が好きでした。厳しい中にも心の通うものがある、というのが学生一般の評判でした。学校の評判はよく、生徒数は増え続けますが、資金繰りには常に苦しみました。経理に苦しみ、授業で楽しむ、が梅子の毎日でした。
1907年病気療養をかねて米欧に約1年間の外遊をします。それまでの経営の苦労で外遊前は欠席がちでした。あちらにゆくと身体の状態はころりと良くなります。1909年家庭科を新設します。結果として家庭科の経営はうまくゆきませんでした。1910年、ヘンリ-ウッズ夫妻の寄付に基づき、新校舎が落成します。延建坪257坪、400人入る講堂もできます。生徒数は150人を超えます。1913年世界キリスト教学生会議に日本代表として出席します。ここで20000円の寄付を集めます。国内での寄付を加えて50000円、これで隣地である五番町の土地500坪を買い増します。
1917年糖尿病が発病し、長期間の入院生活を送ります。1919年辞任の意向をしめし、辻マツが塾長代理になります。以後梅子は学校経営にはタッチしません。1922年学校は小平(現在の津田塾所在地)を購入します。1923年関東大震災。この時A・ハッフォンは単身渡米し50万ドルの募金を集めます。これが全壊した校舎の復興資金になりました。大体1ドル2円と勘定してください。1928年勲五等、瑞宝章。1929年脳卒中の発作で死去、享年65歳でした。1933年女子英学塾は、財団法人津田英学塾と改名され、梅子の功績を称え記念することになります。1948年津田塾大学になります。
津田梅子の人生を見ていますと経営者という印象はあまり受けません。じみちにこつこつ努力し、その蓄積の上に、さらなる積み上げを計ります。意志が強く慎重なのが目立ちます。確かに新しいこと、独創的なことは小規模の方が成功します。しかし梅子は莫大な資産を暗黙裡に受けついでいました。それは名声と人間関係です。父親は農政界や教育界では知名人でした。だから梅子は留学できました。そして10年の対米経験と英語力はそれだけで利器でありブランドです。だから伊藤博文は梅子に華族学校の英語教師の職を依頼しました。10年以上にわたる華族学校での在職は多くの名流家族との人間関係を培います。また梅子のような存在はそれだけで、日米友好の橋頭堡になります。多くの親日家、特に女性の親日家は梅子の周りに集まります。その代表例がフィラデルフィア委員会です。この組織はアメリカの親日家が梅子の試みを応援するものです。アメリカでも当時決して女性が男性と対等であったのではありません。梅子の活動に共感し刺激されたアメリカの女性は多かったと思われます。その上、日本で母国語である英語を広めてくれ、キリスト教(文化)を宣伝してくれるのです。英学塾の経営における寄付の役割は非常に大きいようです。やや皮肉なことを言えば、寄付で経営できれば、これほど楽なことはない、となります。しかし寄付を集めるのも能力です。梅子の成功は、彼女自身の意志強い慎重さと、父子二代に渡り培った人間関係とブランド、そして英語とキリスト教の普及です。また時代背景もあります。女性の自立云々はこの頃から始まっていました。青踏社の運動はすでに開始されており、第一次大戦後は女性が職場に進出する契機になります。日本でも中産階級が増加しつつあった時代です。

参考文献  津田梅子  吉川弘文館

経済人列伝、菊池寛

2011-05-22 02:32:12 | Weblog
   菊池寛

 菊池寛は作家です。同時に彼はジャ-ナリストであり、なによりも「文言春秋」はじめ多数の雑誌の発行者つまり経営者でもあります。寛は頭がよく活発で茶目でいたずら好きの性格でした。そのために進学にずいぶん苦労しています。彼は現実的なことへの関心が強く、かつ一度頭に浮かんだらそれを言葉にして語らなくてはならない、自由な放言が好きな男でした。多作家です。私が概算したら200に近い作品がありました。テ-マも多分野にわたります。彼が作家になったのはこういう性格や行動の延長上にあるのでしょう。文芸春秋創刊のいきさつについて彼は、あらゆる方面の現実を自由に生きた言葉で語ってみたいと、言っています。話好き、世話好き、遊び好きでした。この性格ゆえに、彼は一作家に留まることなく、文壇の垣根を越えて進出し、諸々の組織を作り、いろいろな企画を打ち出します。彼の経営者としての態度は独得でした。出勤は夕刻、社長室には将棋板が置いてあり、彼はしょっちゅう客や社員と将棋をさしていました。社員達も彼にならって奔放にふるまいます。経営者としては遅刻や社内での遊びは困るので、禁止しますが、この禁令の一番の被害者は寛でした。こういう経営者もいるということです。文芸春秋を日本一の総合雑誌に育て、売上を伸ばして経営を安定させ、一つの文化を作り、併せて多くの後進を育てました。キャノンの御手洗毅が医師出身の異色経営者なら、菊池寛は作家出身の経営者です。
 菊池寛は1888年(明治21年)香川県高松市で生まれました。父祖は高松藩の藩儒でした。父親はかなり零落して小学校の庶務係で薄給でした。ために寛は小学校時代、遠足にも修学旅行にも行けませんでした。成績は優秀でした。小学校から高等小学校へ、中学に行くか行かないかで、家の者が迷い、ずるずる4年間過ごして、中学校に上がります。いたずらがひどく、教師の評判は散々でした。この時代英語の辞書を丸暗記します。読書が好きで、読み出すとまるで催眠にかけられたように、本の中に溶け込みます。寛はこの傾向を、読書随所浄土と言っています。高松に図書館ができた時、真っ先に通い、蔵書2万冊を読破します。特に彼は井原西鶴が大好きでした。
 東京高等師範学校に入ります。歴史の授業中忘れ物をとりに帰ります。途中で仲間がしているテニスに加わり終日プレ-して、授業をサボ(本人は完全に忘れていました),
そして退学になります。法律家になるべく明治大学に通います。やがて文学に転じ、徴兵のがれのために早稲田に入ります。この間郷里の金持ちと養子縁組をします。第一高等学校に入学します。養子縁組解消。以後の学資は親の借金でまかないます。高等学校時代、マント盗難事件に巻き込まれ、退学します。このため希望した東京帝大文学部には入れず、京都帝大文学部に入ります。この前後から作品を発表します。
 大正3年、寛26歳時、「第三次新思潮」が設立されます。芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、成瀬正一、山本有三、土屋文明、豊島与志雄、山宮充が同人でした。寛も勧められ喜んで同人になります。この新思潮に載せた「玉村吉弥の死」が寛の処女作品になります。第一次新思潮は小山内薫によって設立されたもので、同人誌としてはブランドでした。第二号の作品が「弱虫の夫」です。大正5年京都帝大を卒業し、上京して時事新報の社会部記者になります。この間結婚。金持の娘と結婚して生活を楽にしたいと思いその通り実行します。こういう極めて世俗的で勘定高い結婚でしたが、夫婦は円満でした。以後寛は続々と作品を発表します。大正7年から8年にかけて「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」などを書きます。寛の作家としての評価が定まります。大正8年時事新報を辞めて、大阪毎日新聞社に勤めます。同年「藤十郎の恋」が中村鴈治郎により、「父帰る」が市川猿之助により上演されます。こうして劇作家としての地位は定まり、生活も安定します。同業者の組織作りにも活躍します。作家という職業に伴う生活の不安定さを少しでも和らげるために、相互扶助組織として、劇作家協会や小説家協会と作ります。二つの組織はやがて合同し文芸家協会になります。
 1923年(大正12年)雑誌文芸春秋を発刊します。寛35歳の時のことです。初刊は3000部、一冊10銭という破格の廉価、表紙に目次という特異の装丁です。あっというまに売り切れます。自油な言葉で、あらゆる方面に関心を向け、現実を生きた言葉で語ってみたい、というのが発刊の志しです。寛の、話好き人間好きの延長に、作家活動そして雑誌創設があります。
もう一つ見逃せない要因もあります。当時漱石や鴎外以来の文学は行き詰まっていました。そしてプロレタリア文学からの激しい攻撃があります。人民の労苦を忘れて、高踏的インテリの遊びにすぎないと、攻撃されます。寛の意向は、こういう左翼の攻撃から文学を護ることにもありました。高踏的でなく、内に閉じこもらず、文学と政治を混同することなく、生きた現実に向かおうとなると、勢い大衆文学ということになります。文芸春秋の誕生には、文学とリベラリズムの危機への対処という、意味もあります。寛の多くの作品の中には大衆文学といいきれないものが多数あります。芥川龍之介の自殺は文学の危機ゆえともいわれます。寛の多くの組織作りの活動には文学と文士の存在を護ろうとする意図があります。
文芸春秋の初刊の第一ペ-ジに芥川龍之介の「シュ儒の言葉」が載せられています。企ては当たりました。すぐ数万部売れきれの段階に進みます。ここで大災難がやってきます。関東大震災です。東京は壊滅、寛は一時大阪に移住しようかなと思います。なんとか踏ん張って対象14年には5万部の発行にもってゆきます。
 寛はアイデアマンでありいろいろな企画を思いつきました。思いついたらすぐ実行するのは寛の性向です。地方講演会を催します。雑誌に、自社の会計報告を載せます。雑誌
「文芸講座」を発刊します。ついで同じく雑誌「演劇新潮」「映画時代」。劇団、新劇協会の設立。文芸創作講座、の開始。文筆婦人会、設立、これは女性の文学への進出を促進するためです。文芸春秋社倶楽部を作り、文学者の相互交流を計ります。昭和5年には、「オ-ル読物」と「モダン日本」という雑誌を創刊します。御手洗辰雄にペンネ-ムで「政界夜話」として政界の裏話を語らせます。言論が自由でなくなりつつある時代でした。文芸春秋相談所を開設します。産児制限の相談のためです。「現代百家小事彙」というすぐ役に立つ百科辞典のようなものを作ります。読者が、買って損をしなかった、という気にさせることが、寛のモット-でした。文芸懇話会を作り、作家と当局の意志の疎通を計ります。思想弾圧の時代でした。愛読者大会を各地で開きます。文士劇も開催します。この辺になると、寛の楽しみか仕事か解りません。
 1925年(大正15年)社屋と菊池邸を分離します。昭和3年社会民衆党から第一回普通選挙に立候補し次点で落選。同年文芸春秋社を株式会社にします。額面20円、2500株、資本金5万円でした。昭和4年には、ある実話を載せて文芸春秋は発禁処分になります。昭和6年、社内の粛清を行います。寛の経営方針には杜撰なところがあります。それをいい事にして、多くの課が独立した動きをします。広告部では特に規律が乱れ、広告収入のかなりの部分が個人の収入になっていました。管理すべき経理部もたるんでいました。思いつくと即実行の社長のもとにいるのですから、事業は多岐にわたり、散乱しがちで、雑誌特に文芸春秋は売れているのに、会社は赤字、というより赤字か黒字かわからない、状態でした。社員総数は69名でした。一部のまじめな社員が佐々木茂索を立てて、寛に社内粛清を進言します。広告部員5名を解雇し、社員給与を3ヶ月にわたり半分にしました。すぐ経営は立ち直ります。以後佐々木は暴走しがちな寛のお目付け役になります。昭和6年には「話のくずかご」をもうけて、雑談・漫談・情報公開・裏話・批判などなどをすべてを籠めた欄を文芸春秋に設けます。
 昭和8年雑誌「話」を創刊します。以下のような内容です。これを見れば寛の意図がわかります。
講談社とはどんなところか
水谷八重子に愛人はあるか
野依秀市とはどんな人物か、
松竹王国を動かす者は誰か
大本教は果たして没落したか
人の道教団の正体
岐阜浅野屋とはどんなところか
円宿ホテルの客調べ
国維会とはどんな会か、
日本のメッカ長野善光寺を裸にす
三原自殺者の実況を弔う
などです。水谷八重子は新派の有名女優、大本教はそのころ盛んだった宗教団体で、天皇に対する不敬罪とかで、ものすごい弾圧をされました。
 1935年(昭和10年)寛は芥川賞と直木賞を創設します。前者は純文学、後者は大衆文学の新進作家に与えられます。賞の創設にはいきさつがあります。芥川龍之介も直木三十五も寛の親友でした。芥川は昭和2年に自殺し、直木は昭和9年に病死します。彼ら二人の才能ある親友の追憶をも籠めて、両賞を作りました。第一回の受賞者は石川達三と川口松太郎です。昭和11年日本文芸家協会の初代会長になります。前後して日本映画協会の理事にも就任します。
 1936年(昭和11年)に2-26事件が起こります。この時寛は、自由を束縛されないか不安だ、知らせないでおいて非常事態を認識せよというのはおかしい、と述べます。また「軍に直言する座談会」も開いています。しかし昭和13年以後は段々と、軍のいう国策に協力して(させられて)ゆきます。「皇軍慰問全集」発行、雑誌「航空文化」創刊、日本文学振興会創立、作家を代表して南京にゆき汪兆銘に挨拶、文士部隊20数名を引き連れ大陸にわたり軍を訪問、日本文学報国会設立などなどの事跡があります。
 終戦。昭和21年寛は文芸春秋社を解散します。同時に昭和17年に就任した映画会社大映の社長も辞任します。やがて追放になります。創作活動は衰えず、「新今昔物語」を執筆しています。1948年(昭和23年)心筋梗塞で死去、享年61歳でした。なお現在の文永春秋社は寛と行動を共にした人達の一部が新たに立ち上げた会社です。寛の会社とは経営上の縁は切れています。

  参考文献  菊池寛  時事新報社

塩と水、物と金

2011-05-12 02:39:50 | Weblog
       塩と水、物と金

 経済を人体の生理に例えてみよう。それも簡潔に血液を例として考える。人間の血液には多くの成分が含まれるが、一番重要なものは水と塩(NaCl)だ。もちろんこの二つだけで生命が維持できるわけではない、ブドウ糖にタンパク質、さらに他のミネラルも必要だ。しかし話を簡単にするために、塩と水に絞る。生命は塩と水の平衡でもって維持されている。水が少ないか塩が多すぎると脱水状態になり、生命は危機に直面する。この場合外部から水分を補給する。逆に水分過剰になれば、我々は塩を求め摂取する。
 塩と水は、経済行為でいえば、物(生産設備、技術、人材などを含めた総体としての)と金に相当する。現在の日本経済は塩分過剰の脱水状態のようなものだ。海外への直接投資を通じて、過剰な塩分を外に放出している。雇用削減も同じだ。あたかも塩分を固体として沈殿せしめ、その機能を縮小させるようなものだ。断わっておくが、実際の生体で塩分が沈殿するようなことはない。在れば死が訪れるだけだ。あくまで比喩。
 じゃあどうすれば良いのか。水分補給が必要。人体の場合なら消化管あるいは血管から水分を補給する。経済行為においては貨幣量を増やせばいい。物あるいは資本を貨幣でもって薄める。遊休資本は活動し、雇用は促進される。なぜかはすでにブロッグで述べた。再述は避ける。現在の日本の経済で貨幣量を増やすことは、辛いものを食いすぎて喉がからからになった人に水を与えるようなものだ。案外人体と経済は似ている。塩と水の平衡で生命は維持される。物と金のバランスで経済活動は円滑に行われる。
 もう少し比喩を続けよう。人体の場合だいたい血液量は決まっている。そうむやみと増やせばいいというものではない。しかし他の動物と比べれば人間の血液量は多い。少なくとも甲殻類や軟体動物のような無脊椎動物に比べれば、人体ははるかに多量のそして機能性の高い体液(血液)を持っている。他の哺乳類と比較しても人間の血液量は多い。なぜか?脳神経組織が人間では圧倒的に発達しているからだ。大脳などは血液の袋のようなものなのだ。
 さてこの事実を経済行為に移して論じればどうなるのか。経済成長の問題に連なってくる。経済成長とは有効開発と需要の拡大だ。社会が発達すれば、社会の成員が社会に要求するニーズが増える。比較的未発達の経済では、国民が要求するものは単なる物であることが多い。かって高度成長経済と言われた時代、三種の神器なる、家電製品や自動車などがそれだ。CTなどハイテク機械もその口だ。社会がより発達すれば物への要求はサ-ヴィスへのそれに変わる。サ-ヴィスにもいろいろあるが、主要なのは教育、医療、介護などになる。つまり社会福祉への要求が強まる。社会福祉を充実させることは、身体に例えれば脳神経組織を発達させることだ。さらにきめ細かな福祉は毛細血管を増殖させるようなものだ。必要な血液量は激増する。貨幣量の増加は必至だ。そして対人サ-ヴィスは人間だけでは行えない。当然より高度な機器を必要とする。
 社会福祉についてもう一つの意見。社会福祉の発達と充実は将来の社会にとって必須のことだ。ところで社会福祉には、国家(とか他の共同体)からのサ-ヴィスの提供という側面がある。福祉を充実させるためには、国家が先行して投資しなければならない。投資、雇用増、税収増という円環が形成されるまで待てず、国家の出費が先行する。出費は蓄積するだろう。こういう時、適宜国家の出費(国債で賄うことが多いが)の一分は帳消しにされてもいいのではないのか?つまり貨幣量を増やして国債を償還し、それを人為的になくしてしまう。福祉の時代に入るのなら、このくらいの覚悟はいるだろう。あたかも動脈硬化になりかけた血管壁面から危険な物質を取り去るようなものだ。もっとも現在の医学ではこの種の技術は不完全だが。
 一昨日の読売新聞だったか、政府は国家公務員の給与を10%カットする方針と書いてあった。増税に対するのと同じく、この措置には反対だ。Aの地点からBの地点に金を動かすだけだから、単純な所得移転で、経済効果はプラマイゼロだろう。しかし市場は萎縮する。気分が暗くなる。この悪影響は大きい。政府はもっとダイナミックな方策を考えるべきだ。そもそも地震対策と景気浮揚を切り離して考えるのが、無知無能というものだ。ちなみに私は 公務員の味方ではない。しかし裏から考えると、日本の公務員のような安定した椅子に座れる者が多いから日本の治安は良いのかもしれない。
 やはり読売新聞に、電力の絶対的不足とか書いてあった。よくよく考えればこの意見もおかしい。日本に原発は80基くらいあるはずだ。その内の4基がだめになっただけではないのか。1/20の減少だ。さらに原発の総発電量に占める割合は1/3くらいだろう。なら総発電量の1/50から1/60がストップしただけではないのか。これくらいの減少はどうとでもやりくりがつくはずだ。私はそう思う。

経済人列伝、三島海雲

2011-05-09 02:57:59 | Weblog
     三島海雲

 「初恋の味」カルピス食品の創業者です。正直なぜこのような人物が、生き馬の目を抜く、といわれる競争社会である実業の世界で生き残り、だけでなく世界のカルピスをそだてたのか、解りません。経済人としてはそれほど変った人です。常に国民の利福を唱え、企業の存在理由を国民の福祉増進に起きました。金は必要な時には、手に入る、人を信じて進め、が海雲のモット-です。超俗的経営者といえましょう。ただ少なくとも広告宣伝にかけては、非凡な鋭さがあるようです。
 海雲は1878年(明治11年)現在の大阪府箕面市に真宗の僧侶の子として生まれました。檀家が少ないので、家計は苦しく、母は隣町の伊丹で風呂屋を営みました。当時風呂屋経営はあまり名誉ある仕事とは思われず、社会的には下目に見られました。母親の口癖は「偉い人になれ」でした。もっとも海雲はどういう偉い人になるのか解らず、自分の記憶の中から、法然を選び出し、彼をモデルに生きようと思います。生来のどもりで幼児期にはほとんどしゃべれなかったそうです。母はどもりの治療に一心不乱になります。成績はよかったが、健康はすぐれない虚弱児でした。小学一年落第します。仲間のボスに言われてカンニングの手伝いをしたのがばれました。海雲が教える側です。母親は教育には熱心で、家計の苦しい中、教育費を捻出してくれました。風呂屋の経営が順調にいきだしたのでしょう。
 海雲は母親に私淑していたようで、その分父親には批判的でした。母親が風呂屋経営に苦労する中、父親いいかげんな態度で読経しているのを見て、激亢し仏像を焼いてしまいます。そういう激しい一面も充分に持ち合わせていました。小学校は5年で中退します。私淑し、尊敬し、可愛がってもらい、父親代わりのように思っていた、校長安田貞吉が女性関係の醜聞で退職させられたことに対する反応が退学です。安田に裏切られたという気持ちもありますし、安田を退職に追い込んだ勢力への反発もあったのでしょう。退学後漢学塾である弘深館で学びます。師匠である大田北山も海雲が尊敬する人物の一人です。本願寺の経営する文学寮に入学します。ここで学監杉村楚人冠にであいます。杉村は後に朝日新聞の記者となりジャ-ナリストとして有名に成った人です。海雲との交友は杉村が死去するまで50年にわたり続きます。文学寮は当時の中学校かそれより少し高い程度の学校でした。卒業後山口県の、これも本願寺が経営する開導中学校で勤務します。英語の教師です。
しばらくして文学寮が東京に移り、大学になったので、入学します。3年生に編入されました。大学では前田慧雲に私淑します。ともかく海雲という人の事跡には、私淑尊敬する人物が多いのです。運がいいのか、海雲が求めるのか、それともだれかに引っ付いていたいのか、ともかく彼の周囲にはそういう種類の人物が多いのです。そしてこれらの人物たちは海雲に、なんらかの援助をしてくれます。智慧やチャンスは言うにおよばず、時としては金銭の提供もしてくれました。海雲の人生の特徴は、こういう人物に恵まれたことです。交友の広さと闊達さ、そして信頼関係が彼の最大の財産であったかも知れません。
25歳時、中国行きの話しがでます。北京付近の学校で教師を求めていると情報が入り、紹介されてゆきます。めざした学校ではありませんが、東文学舎の教職につきます。この時土倉五郎と親友になります。知り合ってまだ半年にもならないのに、土倉は海雲に、土倉の姉から約束の10000円をもらってくるよう依頼します。日華洋行という会社を作ります。そこでいろいろなことをしました。日露戦争の時には、軍馬を求めて蒙古に行きます。陸軍の小銃を蒙古で売りさばきます。この点では死の商人です。この取引は結構儲かりました。蒙古牛を神戸まで苦労して運びます。予期しない事情がどんどん出てきて、結果は1000円の損害でした。予備の調査も不十分だったようには思いますが。大隈重信に勧められて、蒙古でめん羊を飼育する話もでます。海雲は熱心に計画を進めますが、義和団の乱以後、外国勢力に猜疑的いなっている清朝政府の消極姿勢にさえぎられて、計画は頓挫します。38歳日本に帰ります。27歳で結婚し妻子がいるのですが、彼らをほっぽりだして10年以上大陸でなにかしていたことになります。こういう点も超俗的といえるでしょう。日本に帰ったとき、海雲は無一文でした。中国での仕事は、こと経済的にはすべて失敗したことになります。ただ一つ、蒙古人が好む発酵乳の知識、それが以後の海雲の人生を大きく変える鍵になります。
海雲は美味しかった蒙古の発酵したミルクの味を商売にしようと思います。彼の人徳ゆえか多くの人が数百円づつ出資してくれて2500円が集まりました。すっぱいクリ-ムを醍醐味として売り出します。「実業の日本」で宣伝したら、注文が相継ぎます。生産が追いつきません。最初から大量生産のシステムがなかったのです。この商品は没になります。大正6年資本金25万円で、ラクト-KKという会社が設立されます。生きた乳酸菌の入ったキャラメルを発売します。夏にはべとべとになり返品が相継ぎます。牛乳を発酵させたものから脂肪分を抜き去った脱脂乳に砂糖とカルシウムを加えて寝かせると(自然発酵させると)非常に美味な飲み物ができることに気づきます。これがカルピスです。当時のカルピスと現在のそれは違っているかもしれませんが、カルピスの味を知らない人はいないでしょう。私も中学校のころでしたかなあ、氷水で薄めたカルピスを飲んで絶句し、何杯も何杯もおかわりした記憶があります。この商品の売れ行きは順調でした。
カルピス(calpis)の語源について一言。「カル」は「カルシウム」から、「ピス」はサンスクリット語の「サルピス」からきています。後者の説明には仏教の知識がいささかいります。中国隋唐の仏教徒は、諸種のお経をありがたい順に並べました。それを牛乳が発酵して経過する順に例えます。サルピスは熟した発酵乳という意味で、美味の点ではほぼ完成域に達したものです。最高の段階を「醍醐」といいますが、サルピスもほぼ醍醐にちかかろう、というわけで「ピス」を頂戴しました。従って「カルピス」とはカルシウムをたっぷり含んだ醍醐すなはち最高の飲物という意味になります。当時日本人のカルシウム不足が問題として大きく取り上げられていました。そこに海雲の仏教上の関心が加わったわけです。この「カルピス」という国籍不明の名称を案出したように、海雲の広告家としてのセンスには非凡なものがあります。実際「カルピス」という呼称には明るさ、新鮮さ、楽しさ、さわやかさ、そして甘ったるさがあり、独得の雰囲気をかもし出します。
商品の名前は以上の通りです。そして有名な「初恋の味」というキャッチフレ-ズが案出されます。確かに初恋の味なんですよねえ、カルピスは。明るさ、新鮮さ、楽しさ、さわやかさ、甘ったるさ、もう一つ加えましょう、やるせなさ、そういう諸々の感覚を刺激し包含するものをこの商品はもっています。健康に良い、も宣伝材料になります。カルシウムに乳酸菌ですから健康にはいいのです。特に海雲のように胃腸の弱いものには最適な飲料です。商品のマ-クは、黒人がストロウで飲んでいる図柄です。これも当たりました。私の瞼にも焼き付いています。最後が包装紙です。これにも工夫がこらされました。戦前は、青地に白の水玉模様、戦後は逆になって、白地に青い水玉模様です。カルピスは東京の国分商店を通じて販売されました。国分平次郎の義侠心に助けられます。カルピスは味、健康食品、名前、マ-ク、キャチフレ-ズ、などの効果が相乗作用して大いに売れました。
海雲は広告に非凡な才能を持っていました。商品もさることながら、会社企業そのものを宣伝します。伝書鳩の競争、囲碁大会、宮城道雄の独演会などを催します。全盛期のムッソリ-ニから日本の青少年へのメッセ-ジを贈ってもらいます。こういう事業はカルピスの後援ですが、商品とは無関係です。しかし海雲は国民福利のためとして遂行します。彼は商品より会社を売り込みたかったのですから国民福利でいいでしょう。結果としては後援企業の名も売り込めます。
宣伝の圧巻はカルピスのポスタ-の募集です。当時第一次大戦後ドイツは猛烈なインフレに襲われます。特に画家が生活に困っていると聞いた海雲は、彼らの救済策の一環としてポスタ-募集をしました。1500枚の応募があります。選定を公開にします。優秀なポスタ-は東京と大阪の商店に頼んではってもらいます。心斎橋はこのポスタ-で溢れかえりました。選定で第三位になったのが、黒人がストロウでカルピスを吸っている図柄です。楽しくて軽やかで可愛い図柄でした。後年人種差別に通ずるとかで廃止になりました。ドイツ人画家、オット-・デュンケルの作品です。
1923年(大正12年)関東大震災、この時海雲は在庫をすべてはたいて、自動車でカルピス(もちろん水割りの)を配ってまわります。大人気でした。地震は9月1日に起こっています。暑さで飲み水も満足にない中のカルピスは乾天の慈雨でした。巧まずして宣伝になります。カルピスは歌の文句にも取り入れられました。戦後ヒットした「銀座カンカン娘」の歌詞の中に「カルピス飲んでカンカン娘、赤いブラウス、サンタル履いて、誰を待つやら銀座の街角」というのがあります。
他にりんご酒を試みたり、ドイツからビ-トシュガ-(砂糖大根)のかすを輸入して、それを原料に味の素と提携して味の素以上の調味料を作ろうなど試みますが、失敗します。結局海雲はカルピス一筋でゆくことになります。鈴木商店の味の素とカルピスはなかなか複雑な因縁があるようです。
企業としてのカルピスの歩んだ道は甘いよりむしろ酸っぱいものでした。戦時体制になるとカルピスなどは典型的な平和産業ですから、カルピス生産など相手にされません。物価は統制され、原料等資材の割り当てを減らされます。やむなく軍の需要にこたえる形の軍納でしのぎます。
そして戦後になります。すぐ立ち上がらなければならなかったのですが、海雲は爆風で呼吸器をやられ、長い療養生活を送ります。その間実弟が副社長として経営の采配をとります。彼は、ビタミン入りのカルピスなど、手を広げ、経費がかさみ赤字になります。昭和25年整理会社になりました。第一、三井、協和、山梨中央の四行が再建のための融資をします。海雲は代表権のない会長になります。カルピス一本に徹し、経費削減で立ち直り、昭和31年海雲は社長に帰り咲きます。以後の経営は順調でした。毎年25%以上の売上高の増加を示します。昭和33年930万本の売上が、39年には3500万本になります。この時期は高度成長期でしたから、大手の会社はのきなみ成長したことは事実です。
海雲の人生の特徴は健康に対して細心の注意をはらったことです。若い頃は衛生家と仇名されました。社長を退いたのは、1970年(昭和昭和45年)、92歳の時です。1974年(昭和49年)死去、96歳でした。松永安左衛門と並ぶ長命です。
海雲の超俗ぶりを示す逸話があります。昭和12年、海雲は増資を企てます。増資は味の素が引き受けます。海雲は会社が大きくなったと単純に喜んでいたら、鈴木三郎助(三代目)が社長として乗り込んできます。この時初めて海雲は経営権を奪われたことをしります。事情を知った知人達が中に入り、カルピスは三島が作った会社だから、と言って経営権を取り返します。人望もあったということです。2007年カルピスKKは味の素の傘下に入り、完全な子会社になりました。味の素とは色々な因縁があるわけです。

参考文献  初恋五十年 ダイアモンド社
      20世紀日本の経済人 日経新聞社

経済人列伝、大原孫三郎

2011-05-04 02:56:02 | Weblog
大原孫三郎

 生家は600町歩(ヘクタ-ル)の大地主、若様としてなに不自由なく、同時に孤独感を抱きつつ育ち、放蕩と倹約、進歩と旧弊、強さと弱さを併存させ、自らいうように靴と下駄をはいた人生を送ります。多くの社会事業を起こし、一方父親から譲られた倉敷紡績を発展させ、周囲により大規模な関連事業を起こします。魅力はあるが、見方を変えればかなり危うい人ではあります。
 孫三郎は1980年(明治13年)岡山県倉敷村(現倉敷市)に大地主の若様として生まれました。600町歩の田畑は当時で約6000石(一石は150kg)の収入を地主にもたらします。現在米価は一石30000円から40000円くらいです。大原家の年収は現在の貨幣価値に換算すれば2億円はくだらなかったことになります。実際の富裕感は当時では現在の比ではないでしょう。地元の人にとって大原家は殿様のようなものです。私も多くの経済人の生涯を読んできましたが、これほどの金持ちはいません。
 大原家は祖父も父も養子でした。男系に恵まれません。孫三郎はそういう状況の中、父親が40歳台で生まれた一人息子です。孫三郎は父母によりかなり自由に、やや奔放に育てられます。強情で傲慢なところはあります。金持ちには金持ちの苦労があります。少しばかりの金持ちならまだしも、大原家くらいになると、周囲は大原家を雲上人扱いにします。金持ちに対する嫉妬と面従腹背は当然です。こういうネガティヴな面はえてして子供に向けられます。孫三郎は学校で友達ができなかったようです。少なくとも親友という存在は思春期までは経験していません。高等小学校をでて、入った閑谷コウでは苛められます。布団蒸しに会ったとか言われています。孫三郎は、教師に誉められる奴なんかろくなものがいない、とよく言いました。この気持ち私には解ります。この学校を退学した孫三郎は、上京し東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。放蕩を重ね、悪友にたかられ、高利貸の鴨になり、できた借金が15000円です。三井銀行の初任給が30円くらいでしたから、この金額の大きさを想像して下さい。借金対策に奔走する義兄は心労と疲労で頓死します。孫三郎は義兄と姉への深刻な 贖罪感をもって倉敷に帰ります。以後彼の人生は倉敷中心に展開されます。
 こういう中、岡山孤児院院長の石井十次に出会います。石井は医師出身ですが、キリスト教に入信し、孤児の救済事業に邁進していました。孤児救済のためには、自分も家族の困窮も健康も省みない、利他主義に徹した、カリスマでした。石井の事業を支えたものは主として寄付であったようです。同時に、労働は神聖、として孤児達になんらかの労働をさせます。労働技能を高めるために教育もします。孫三郎は石井を知って、自己の事業の方針に目覚めます。石井の事業には多額の寄付をしました。石井につぎ込んだ金額は10万円を超えます。1906年(明治39年)27歳時、倉敷紡績の社長になります。倉敷紡績は地元の素封家が集まって作った会社で、孫三郎の父孝四郎が社長をしていました。明治17年の創設です。孫三郎は石井の影響を深く受けましたが、次第に距離をとるようになります。少なくとも石井のような救済道楽、自己破滅型の人生を送ろうとはしません。一方石井の人生に現されている社会事業や社会改革には深い理解を示します。大金持ちの経営者がなんのために事業をするのかという疑問を抱き、自己同一性の危機に悩まされていた孫三郎に、生きる意義を石井が与えたことは事実でしょう。孫三郎にとって石井は人生で始めて得た親友でした。孫三郎は、主張のない仕事はするな、主張のない生活は送るな、を座右の銘にして生きます。別に主張がなくても勤労はできます。日々の飲食に感謝しておれば、それはそれで自動的に他者の利益になるという一面を勤労という行為は持っているのですが、孫三郎にはもっと強い刺激が必要であったのでしょう。孫三郎はキリスト教に近づきます。聖書はあまり読書をしない彼の愛読書でした。
 孫三郎は社会事業に邁進します。教育懇話会を立ち上げます。全国の名士をよんで来て講演会を催します。孫三郎は本を読みませんが、こういう知名人との付き合いが多く、彼らの話をよく聞いて耳に入れるので視野は広く教養も充分にありました。世間はこういう彼を、不学の大学者と呼びました。小作農の経営改善のために、農事試験場を作ります。これは大原農業研究所(現岡山大学資源生物科学研究所)になります。倉敷紡績の女工の労働環境の改善を目指します。大部屋に集住していた労働者に散居式の住宅を与えます。会社と労働者の間にあって中間搾取の温床になっていた飯場制度をやめます。これには多くの抵抗がありましたが、孫三郎は徹底します。女工の教育のために彼女達の指導役を作ります。
 岡山県出身で児島虎次郎という画家がいました。優秀な画家です。彼がフランスに留学している時、日本の画学生のために欧州の絵画を買ってほしいと孫三郎に頼みます。児島の意図を了解した孫三郎は、エヲカッテヨシ、カネオクル、と電報をうちます。エル・グレコの「受胎告知」他多数の絵が買われました。これが現在の大原美術館の濫觴です。
 第一次世界大戦で日本の景気が良くなった時、孫三郎は労働者の賃金を引き上げます。のみならず株式引受権を彼らに与え、また株式配当とは別に労働配当として賃金の10%を加算します。工場衛生研究費、職工組合基金、従業員退職手当賃金などの制度も設けます。労働者に手厚くするので、その分株式配当は低くなりました。
 社会から貧乏をなくすための研究機関を作ります。直接のきっかけは米騒動です。大阪に大原社会問題研究所を作りました。はじめ川上肇を所長にと考えますが、断られ高野岩三郎を所長にします。森戸辰夫や大内兵衛などが関係し、マルクスやレーニンの書籍を集めて研究し、次第に左傾化し、当局ににらまれます。この研究所はのちに法政大学に寄贈され、同名の研究所として存続されます。
 労働者の疲労測定、健康増進さらに労働能率改善を目的として倉敷労働科学研究所を設立します。これは現在労働科学研究所になっています。
 1923年(大正12年)には倉敷中央病院を作りました。京大出身の医師を破格の高級で招きます。当時の医学水準のトップをゆく装備を備えました。この病院は現在でも日本のトップクラスに位置する高い水準の医療を誇り有名です。
 孫三郎は社会問題に取り組む一方、会社経営はきちんと行います。のみならずその経営姿勢は極めて積極的です。日露戦争の反動不況時にライヴァルの吉備紡績を買い取ります。さらに工場を増設して、倉敷紡績を拡大します。自己資金で作った倉敷銀行を中心に他の地方銀行を合併せしめて、第一合同銀行を作ります。さらに山陽銀行と合併し中国銀行を作り、孫三郎が初代頭取におさまります。三備電力を作り、倉敷紡績に電力を供給していましたが、やがてそれを周囲の地方電力会社と合併させ、現在の中国電力の基礎を固めます。
 人絹製造には特に意欲を示しました。京大に日本人のパテントがあったので、京大から技術陣を招き、京大と共同で人絹製造の開発に努めます。孫三郎は日本人自得の技術を尊重しました。会社は倉敷絹織、そして倉敷レイヨンと名が変わり、現在ではクラレになっています。
 1929年(昭和4年)の恐慌では会社は窮地に陥ります。合理化はやむをえません。合理化反対のストに見舞われます。自治制にしていたのが、仇になり自治の指導者達が共産化して、美術館は、労働者の膏血を搾り取った搾取の見本とされます。ある女性活動家は、資本主義社会での階級的矛盾は個人ではどうしようもない鉄則でまわるもの、と言いました。孫三郎の善意はもうけ主義を隠すイチジクの葉だといいます。こういう人達が増えたら、会社は危ない。職場の規律は弛緩し、人間関係は荒廃します。一切の人間の善意は通じないとされるのですから。人間社会はある種の法則にしたがって動いてもいますが、反面人間の意志の総和でもあります。孫三郎は窮地に陥ります。彼を評価していた井上準之助蔵相のはからいで緊急融資を受けて、会社の破産を免れました。孫三郎は金解禁の支持者でした。
 大原孫三郎は石井十次から多大な影響を受けました。石井は晩年、救済から生産へと軸を移して、生産的救済を敢行しようとしました。孫三郎は救済と生産の関係を逆転させて、生産から救済つまり社会福祉に向おうとします。しかし一方では冷徹な経営者としての算盤勘定ははずしません。そして経営の組織を拡大します。彼自身がいうように、靴と下駄をはきながら歩きます。それがたとえイチジクの葉であっても、救済という項目がなければ、孫三郎には事業そのものが耐えられなかったのかも知れません。会社の経営は極めて独裁的でした。1942年(昭和17年)死去、享年64歳。
孫三郎にはやはり一人息子である總一郎がいました。父親似の理想家肌で、やや超然としていますが、父親の眼鏡にかなうような経営者でした。彼の代で人口繊維の事業が躍進します。孫三郎にとってはかけがえのない傑作品です。
 孫三郎に関しては鉄道路線にまつわる逸話があります。伯備線(岡山米子間)をどう敷くかで岡山県の大物政治家である犬養毅ともめます。孫三郎は伯備線が倉敷を通ることを頑強に主張し、実現させます。倉敷は岡山に対して対抗意識が非常に強烈です。江戸時代岡山は藩主池田家の城下町でした。そういう意識が岡山にはあります。対して倉敷は天領つまり幕府の直轄領でした。そういう誇りが倉敷にはあります。わざわざ岡山を見に行く人はあまりいないでしょうが、倉敷見物なら多くの人が出かけます。そういう観光地倉敷の焦点が大原美術館です。美術館を中心にして、倉敷の市街を整備したのが孫三郎です。彼は観光資源も開発しました。ちなみに倉敷中央病院と岡山大学病院も対抗意識は強いのです。

  参考文献  わしの眼は十年先が見える  新潮文庫