経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、岩下清周

2010-08-29 03:13:57 | Weblog
   岩下清周
 
 多くの経済人の伝記を読んでいますと、今まで知らなかった人の事跡が次第に鮮やかになってきます。岩下清周(きよちか)もその一人です。彼の名は明治大正時代の経済界のどこかによく出てきます。小林一三、森永太一朗、藤田伝三郎、豊田佐吉そして渋沢栄一や益田孝などは清周と多くの重要な接点を持っています。清周の事跡を非常に解りやすく、簡明に言えば、大阪五大私鉄のうち、阪急電車と近鉄電車の事実上の創立者が彼である事です。ちなみに阪急と近鉄は他の三つの私鉄の上に冠然と位置しています。また清周の寄与をやや抽象的に言えば、工業立国論です。彼は資産があっても資本の足りない企業に積極的に融資し、起業させ、工業を振興して、国家の繁栄を図るのが、銀行の使命であると信じ、その道を驀進しました。
 清周は1857年(安政4年)信州松代藩士岩下左源太の長男として生まれています。幼名は小早太と言います。父親は夭折し、清周は叔父のもとで育てられます。負けん気の強い、腕白な子供でした。藩校に通い、13歳で藩主じきじきの四書五経検定に合格していますから、秀才です。18歳時、家屋敷と家財を処分し上京します。海軍兵学校を受けますが、体格の点で不合格になります。英語塾である立教学院に通い、大学南校(東大)を目指します。ある時ふと見た東京商法講義所の看板を見て、中に入り学校の主旨を尋ねます。商業関係の教育を、それも実践的な教育をするという説明に魅かれますが、東京出身者だけ学費が安いという項目に疑問を抱き、抗議します。校長の矢野二郎はその理由(東京府の資金で創設された)を清周に説明します。矢野は清周を気に入り入学させます。東京商法講義所は後に、東京高等商業学校を経て、現在では一橋大学になっています。もっとも、1年後には岩崎弥太郎達により設立された三菱商業学校の方に転校しています。
 清周の最初の就職先は三井物産です。三井物産の前身である先取会社は明治6年(1876年)に井上馨の音頭で設立されました。社長は井上、副社長は益田孝、他に藤田伝三郎や馬越恭平などが役員にいました。ちなみに井上は大阪にも先取会社を設立しており、この会社は藤田組に引き継がれます。井上が政府にもどった時、三井組で会社を経営しないかという話になります。三井の三野村利左衛門が、益田孝を社長にして一任するべく話をまとめます。益田は三井から経営を請け負わされた形になりました。益田が退任して以後、三井の合名会社となり、正式に三井財閥が経営する会社になります。1878年(明治11年)清周は三井物産に入社します。逸話があります。販売上の事で、清周は馬越恭平からこっぴどく叱責されます。加えてそろばんで頭を叩かれます。清周は短刀をもって馬越の家におしかけ、衆目の面前でこのような叱責を浴びた以上、理解できる説明がなければ、覚悟して欲しい、と言います。馬越は必死になって説明したそうです。
 清周は1882年(明治15年)にアメリカに派遣されます。二度渡米しました。しかし三井物産のニュ-ヨ-ク支店が閉鎖されたために、翌年支店長としてパリに派遣されます。25歳で支店長です。清周は正式に学校を卒業し、立教学院で英語をしっかり習得しています。当時の学歴はこんなに重要な意味を持ちました。外国派遣はエリ-トの道でもあります。清周と同時期にパリにいた加藤恒忠は清周のことを、無愛想な毒舌、新服をきちっと着て、一糸乱さない髪を中央で左右に分けた彼の態度は傲岸不遜で、親しみを豪も感じさせなかった、と言っています。そして加藤は清周と終生の友になります。加藤は清周のことを、近づき難く親しみ易い、と表現しています。この言葉が清周の人格を語るに最も相応しいでしょう。ともかく彼は、事実傲岸不遜で鼻っ柱の強い自信家でした。この性格が彼をして事業に成功せしめ、同時に彼の失脚の原因にもなります。
 パリ滞在は清周にとって大きな財産になりました。パリ滞在日本人はたいていエリ-トです。パリだけでなく彼らは欧州全体を旅行します。ドイツやイギリスあるいはロシアなどなどの留学生仲間と親密になります。またパリには政府高官がやってきます。彼らとの知遇は将来仕事をするのに役立ちます。高橋是清は米国で非常に苦労し一時奴隷にされましたが、そういう境遇でも留学生仲間の知遇により、人間関係は豊になり、就職や仕事の拡張に大いに役立ちました。清周と特に昵懇になった人物は後の首相桂太郎です。彼は2000円の借金を負います。どうしても急遽返さなければならなくなり、三井物産パリ支店長の清周に相談します。彼は桂に独断で2000円融通しています。清周はパリ滞在中、10年前の普仏戦争でフランスが敗れた原因を調べ、仏軍の兵器不足にその原因があるとして、兵器国産論を説きます。またフランス資本を導入して、シンジケ-ト(融資団)を作ろうとも思います。帰国後これらの事を会社や政府関係者に説きますが、入れられず閑職にまわされます。往々として楽しまず、やがて物産をやめ、品川電燈を起業します。この会社経営は失敗します。東京電燈という先輩がすでに居たのと、電燈事業自体が時期尚早でした。清周の持論は工業立国論でした。ともかく彼はこの方針で突っ走ります。品川電燈で失敗した彼は米穀取引所の理事になります。投機業でしたが、この世界では成功します。しかし彼を相場師にしたくない周囲の斡旋で清周は三井銀行に入ることになりました。
 1891年(明治24年)東京本店の副支配人として三井銀行に入社します。当時の三井銀行の実力者は中上川彦次郎でした。彼は福沢諭吉の甥であり女婿でした。彼によって三井は立て直されたといわれます。中上川はともかく人材を集めていました。清周をスカウトします。その時中上川は益田孝に清周のことを尋ねます。益田は、大変な暴れ馬だ、手を焼くぞ、と言います。中上川は三井の商業資本としての性格を変えて工業資本にしようと思っていました。この点では、つまり基本的な点では、中上川と清周は意見が合いました。
 1895年(明治28年)清周は大阪支店長になります。彼はそれまでの銀行経営からは考えられない融資を開始します。彼の方針は、企業活動援助のためにどんどん融資することです。銀行は利鞘を稼ぐためにあるのではない、資産はあるが資本不足で思うように事業を展開できない、企業に融資する事が使命だと、言い切ります。融資の可否は、事業と人です。事業に将来性があり、事業を行う人に展望と見識があれば、門地や家格にこだわらず融資しました。それまで融資の対象とされなかった取引所の仲買人にも融資します。当時としては、多分今でもかなりな程度、破天荒な企てです。彼の融資があまりに大胆なのを本店の中上川が心配します。また中上川は以前大阪にいた時、大阪商人のいやらしさに憤慨した経験があり、清周が大阪経済界にあまりにも深入りするのを、嫌いました。こうして清周は横浜支店長に左遷されます。プライドを傷つけられた清周は三井銀行を辞めます。大阪支店長としては1年のみ勤務したことになります。中上川の心配は杞憂ではなかったようです。清周は後年北浜疑獄という事件で、それまで発展に尽くしてきた大阪人に裏切られる形になります。
 1986年(明治29年)清周は北浜銀行を立ち上げます。資本金は300万円、磯野小右衛門、藤田伝三郎、久原庄三郎(久原房之介の父親)の三人が出します。初代頭取は久原庄三郎、二代は渡辺洪基、三代は原敬でした。後に清周も頭取になりますが、当初から会社を運営していたのは彼でした。北浜銀行を設立した清周は、自分の理想どおりの経営を遂行します。工業立国論に基づき、多くの事業に融資します。それまでの銀行経営は短期融資を基本とし、金利稼ぎが目的でした。清周は長期の工業金融を目指します。長期とは10年から20年におよぶ期間にわたる投資です。また彼は証券会社設立構想も持っていました。債権の発行支援も考えていました。つまり、預金、株式、債権のあらゆる面に渡る工業資金融通が彼の意図するところでした。また資本不足で経営困難になり、アメリカのハリマンに打診された東清鉄道売却に反対し、南満州鉄道創立総会に積極的に関与し監事に選出されています。彼の伝記によれば、彼が関わった主要な事業は30近くありますが、代表的なものは箕面有馬電気軌道(阪急電車)、大阪電気軌道(近鉄電車)、才賀電気商会、大阪合同紡績、豊田織機、阪神電気軌道(阪神電車)、森永製菓、大阪ガス、鬼怒川水力電気そして南満州鉄道(満鉄)などです。彼が関わった事業は全部工業資本に属するものです。 
 これらの事業中逸話性に富むのは、阪急と近鉄電車の創設でしょう。京阪神急行(阪急電車)の前身は箕面有馬電気鉄道と言います。更にその前身を阪鶴鉄道と言います。この会社の役員達は、大阪の梅田から箕面、宝塚に至る電気軌道を計画していました。そのために発行した株も一時は高値でしたが、日露戦争後の不況で阪鶴鉄道の株は暴落し、この鉄道は国有になり、清算される運命にありました。この時役員の一人である小林一三は清周に、この事業をやらせて欲しい、と言い株の引き受けを依頼します。この時清周は小林を、君の言い方は給料をもらう者の言い方だ、真に事業に責任を持つ者の言い方ではないと、叱責します。小林は不覚悟を謝し、もう一度依頼します。こうして阪急電車の創立が決定しました。小林はアイデアマンです。梅田から池田・箕面まで歩き、この土地は将来急増するサラリ-マン階層の住宅地に最適だと判断します。加えて阪鶴鉄道の解散云々でこの株価は暴落していますから、会社が成功して株価が上がれば大儲けできます。また今のうちに二束三文の沿線周辺の土地を買占め、鉄道路線が進展するに従い、その土地を売れば、投資資金は簡単に回収できると踏みました。阪急電車は小林が作ったようなものですが、清周の一諾がなければ、開設は不可能でした。小林は慶応義塾卒業後三井銀行に入り、大阪支店勤務になり、当時の支店長である清周と知り合いになり可愛がられます。小林は本来作家志望で銀行の仕事に飽き飽きしていました。清周に引き抜かれ阪鶴鉄道の役員になります。小林の文学志望は、彼が創立した宝塚少女歌劇に生かされています。
 1906年(明治39年)大阪電気軌道(近鉄電車)が設立されます。大阪奈良間に電車を走らせる計画です。競争線が後に出現しないようにするためには、大阪奈良間を最速最短距離で結ばなければねりません。生駒山脈を越えるのか、そのどてっぱらを貫通するのか、計画は揺れます。当初はケ-ブルで電車を山に上げて引き降ろす予定でしたが、トンネル貫通に計画が変わります。300万円の資本金の会社が総工費750万円(予定)を負担しなければなりません。社長は自信をなくし退任します。清周は会社に対して融資に融資を重ね、自ら大阪電気軌道の社長になって督戦します。特に生駒トンネル貫通が難工事でした。落盤事故も起き、152名が生き埋めになり、19名が志望します。1914年(大正3年)にトンネルは開通し、しばらくして軌道は完成し、電車が走り始めます。しかし最初は意外と乗客は少なく、大阪電気軌道の経営難が非難されます。これが清周排撃のきっかけになります。この工事は大林組が引き受けました。大林芳五郎の損得を度外視した、健闘が印象的です。芳五郎は清周に殉じるつもりでした。事実後に起きた北浜疑獄事件に際し、芳五郎は徹底的に清周をかばい、為にか1年後に肺膿瘍で死去しています。
 清周は大阪に新知識人をたくさん招来しました。特に山本達雄総裁の方針に反して総退陣した日銀の役員達の多くを大阪の企業に斡旋しました。大阪は商人の町ですから、知的雰囲気に乏しいところがあります。東京帝大に続く第二の帝大は当然大阪に造られるはずでした。政府もその方針でした。しかし大阪市民が猛反対します。大学を作り、学問なぞを学ばせたら、子供達は商売を怠ける、というのです。この雰囲気を見ていた京都市民は帝大設置を嘆願し、京都帝大が誕生しました。後にできた大阪帝大は常に京大の後塵を拝し、理科系片肺大学であり続けています。戦前まで東京と大阪の資本力は対等でした。戦後徐々に東京に差を開かれた一因は、大阪の反知的雰囲気にもあります。もうかりまっか、だけではやってゆけません。
 大阪電気鉄道の工事は当初の予定を大幅に超えて、総工費800万円以上になりました。清周が積極的に支援し融資したために、北浜銀行も赤字になります。8分利付優先株を発行しましたが、売れ残ります。役員が株を引き受けるか、減資するかの選択で役員会はもめます。この時監査役の野村徳七(野村證券の創業者)が突然辞職します。役員の意志不一致をあからさまにするようなものです。裏切りと言われても仕方はないでしょう。ここで大阪日日新聞の清周攻撃が始まります。清周排撃の世論が盛り上がります。清周は日銀特融を求めます。日銀の条件の一つが藤田家による保障でした。しかし清周と昵懇だった伝三郎は既になく、後継者である平太郎は、清周の辞任を求めます。大正3年6月清周は辞任します。平太郎は新社長を任命します。新社長は経営内容を独断で一方的に公表し、北浜銀行は自動的に営業停止状態に追い込まれます。清周は背任横領で告発されます。告発された時彼は衆議院議員として東京にいました。
 清周への告発は7つありますが、おおまかに言えば、株式を通貨とみなすか否かの問題に帰着するようです。みなさなければ虚偽・詐欺になります。自身の北浜銀行や融資する企業にどんどん株を発行させる、あるいは銀行の株を融資の手段とする、などの方法は充分にありえます。清周自身が証券会社を構想したくらいですから。清周が工業への長期融資を押し進めるためには、どうしても、通貨で新たな通貨を作る株式発行、という方法は必要です。この方法は経済に暗い者から見れば一種のペテンに見えます。清周はともかく派手にどんどん融資したのですから、眼につきます。日産コンツエルンを作った鮎川義介は、三井三菱の商業融資に飽き足らず、株式発行で資金を得る直接投資の方法を取りました。判事や検事には、現在では常識になっている、現金と株と債権の同質性が理解できなかったのでしょう。検事の論告の中に、本来金を貸し付けてその利子を稼ぐのが本来の銀行業務なのに、というくだりがあります。
 控訴そして上告と裁判を4度繰り返し、1921年(大正10年)判決が確定します。懲役3年です。清周の私産はすべて公収され、彼自身は服役します。100日服役し恩赦で出所しました。出所してすぐ東京と大阪で雪冤会が開かれました。冤罪を雪ぐ(そそぐ)という意味の集会で、当時の有力財界人のほとんどがその発起人に名を連ねています。清周はやがて富士山麓に引退し、不二農園を営みます。また救らい事業にも取り組みます。1928年(昭和3年)死去、享年71歳。彼の長男荘一はカトリック教会の司祭として生きます。清周や彼の娘も信者でした。彼がよく口にした言葉は、100歩先が見える者は狂人視され、50歩先を見る者は犠牲者となり、1歩先を見るものが成功者となり、現在を見えない者が失敗者になる、でした。彼は50歩先を見たのでしょう。
 彼の失敗の原因はいろいろあります。まず彼の融資方法の先進性があります。長期金融のために株式発行を多用します。このやり方は誤解され、また失敗すれば損害が大きくなります。昨今のリ-マンショックに似ます。そして大胆で大規模な投資をします。成功すればその企業は阪急や近鉄のように大きく伸びますが、失敗すれば損失も大きい。背任に問われかねません。この世界では成功が第一で、敗者は常に裁かれます。また工業は投資の回収に時間がかかります。そして彼の性格です。傲岸不遜で自信家、まっしぐらに突進します。いきおい慎重さを欠き、人の意見に耳を貸さなくなります。周囲の反発は必至です。そして周囲の財界人の嫉妬もあります。特に旧来のやり方を踏襲していた銀行は、おのれの中庭をかき乱されたように思ったでしょう。
 岩下清周のように、工業を支援する活動を自らの企業家精神とした人は他にもいます。金子直吉は、鈴木商店という商社兼銀行のような会社を軸として、潰れかけた製造業に融資し、その再建を助けました。そしてかなりの企業を育てた後に、自身は破産します。先に述べた鮎川義介もやはり最後には銀行からの融資不足に泣きます。理研の大河内正敏は科学研究を軸に多くの企業を育てましたが、そのほとんどは中規模の企業でした。工業立国を計った企業が危機を迎えた時、既成財閥の金融機関がそれを買い取ります。
 清周の銀行事業は、もしこの銀行に発券機能があればもっと成功したでしょう。アメリカの銀行の多くは発券銀行として出発しました。銀行が自身の銀行券を発行します。それを適当な企業に貸付けます。企業が成功すれば銀行も発展します。企業が失敗すれば両者は共倒れです。こうして雨後のたけのこのように多くの企業と銀行が乱立し、一部の成功者が多くの失敗者の資金と労働を吸収して育ちました。清周には発券銀行の方が似合っています。人は彼を銀行家か事業家かと問います。私は、彼には国家財政の担当が最適であったと思います。国家には日銀という発券銀行があるからです。もっとも日銀の主流はおしなべて均衡主義ですから、せっかくの機能も役に立たないことが多いのですが。

  参考文献 
   世評正しからず、銀行家・岩下清周の闘い  東洋経済新報社


経済人列伝、福沢桃介

2010-08-25 03:10:42 | Weblog
     福沢桃介

 「福沢」といえばまず「福沢諭吉」を思い出します。桃介は諭吉の養子です。彼は養父の教えにことごとく背き、しかも経済人として歴史に名を残しました。桃介の事歴で主なものは二つです。相場の神様、そして電力王です。桃介の生涯を語るに際しては諭吉以外に二人の人物を無視できません。生涯の相棒となった松永安左エ門と愛人川上貞奴です。安左エ門の列伝は既に読んでいただけたと思っています。貞奴はこの列伝の最後で少し詳しく触れる予定です。
 桃介の旧姓は「岩崎」です。1868年、武蔵国(埼玉県)横見郡荒子村に提灯屋の子として生まれました。岩崎家は代々村の庄屋を務める旧家でしたが、分家のサダ(桃介の母親、父親紀一は養子)の代になると落ちぶれ一反百姓になります。しかたなく提灯屋をすることになります。桃介は何事も大げさにいうので、どの程度貧乏であったかはわかりかねます。当時すべての人間が小学校に通えたとは思えませんし、慶応義塾に入るためにはそれなりの資金は要ります。桃介の伝では、小学校に通うにも下駄がなく、裸足で通学したそうです。神童といわれるほど成績は抜群でした。
 慶応義塾に入学します。運動会の競争でライオンの顔を描いたシャツを着て走り、衆目を集めます。自信家であり目立ちたがり屋です。多分諭吉は桃介の才能を高く評価したのでしょう、桃介を養子にとり、次女房子の婿とします。桃介が19歳の時のことです。交換条件が米国留学です。ここで不審な事が二つあります。諭吉には既に男児が二人ありました。養子は不要のはずです。加えて諭吉は大の養子制度反対論者でした。諭吉も桃介も個性は強烈です。二人は心底ではお互いを認め合っていますが、生き方は正反対で、ことごとく対立します。確実にいえることは、桃介は諭吉の実子達よりはるかに有能であったことです。そして諭吉は子煩悩でした。この結婚は典型的な政略結婚です。
 桃介は約束どおり米国に留学します。たちまち地が出ます。勉学などつまらない、それより実務だと思い、将来日本にとって必要かつ有望な事業である、鉄道経営に興味を示します。すぐフィラデルフィアに赴き、米国最大の鉄道である、ペンシルバニア鉄道の重役モリスと交渉し、入社を許可されます。事務見習いということでしたが、社員一名が秘書につき、ファ-ストクラスのフリ-パスという破格の条件でした。諭吉の令名が背景にあったとしか考えられません。ここで桃介は鉄道経営の一切を習得します。鉄道車両の造り、列車の運行状況、運転手や車掌の役割、運賃の算出方法、経営管理と労務管理などを短期間に貪欲に学び取ります。そのほかに、桃介は米国のあらゆる物に関心を示し、見て歩き見聞します。本を読んでいるのが馬鹿らしく、時間が惜しいのです。桃介が米国の家庭をみて一番関心をそそられたのは電燈でした。ある宴会で時の大統領クリ-ブランドと握手を交わします。
 1989年21歳帰国。諭吉の紹介で北海道鉄道炭鉱に就職します。月給は100円、これも破格の待遇でした。当時日本一の大企業であった三井銀行に入った池田成彬の初任給は30円、武藤山治のそれは25円です。会社の上役は桃介に向かい、60円は福沢家への支払いだ、と皮肉を言います。その通りでしょう。会社経営は不振でした。薩長藩閥人事で、経営に専念する有能な人物がいません。高島嘉右衛門(後に高島易断を創始)が社長になりました。この人は占いで経営します。びっくりするような話ですが、この種の逸話は時々あります。桃介は占いで姓名が宜しくないと判断され解雇されます。後に復職できますが。
 妻の房子が諭吉に嘆願して、桃介は東京支店勤務になります。石炭販売が主な仕事でした。パ-フォ-マンスは派手、頭と気分の切り替えは素早い、加えて図々しい桃介は販売には最適でした。販路をどんどん広げます。それまで九州炭の独壇場であった名古屋市場を北海道炭の方に引き寄せます。香港にまで石炭を売り込みました。日清戦争で輸送船が徴用されます。困った桃介はノルウェイ船をチャ-タ-してしのぎます。外国船のチャ-タ-は桃介が第一号です。一方内緒で福田商店を経営しました。社員一名を雇い、火災保険と黒ビ-ルを主として扱います。多分石炭の方にも手を出していたのでしょう。八面六臂の活躍ですが、過労で倒れ喀血します。結核です。当時の結核は死に至る病でした。1994年、桃介が27歳の時のことです。
 入院中桃介は考えます。激しい労働はできない、体をあまり動かさずにできる商売は何かと考えます。答えは株式売買、いわゆる相場です。徹底的に研究し、貯金3000円を100000円にまで膨らませます。彼の相場での成功は、売り買いの速さと見切りの良さにあるといえます。見切りとは売り時の判断です。桃介の性格には冷徹さとある種の虚無性がありますから、他人にはできない、見切りの良さ、つまりとことんまで儲けようとしないで、山の六・七合目でさっさと引き返す行動は、他人よりしやすかったでしょう。しかし私は、実際はかなりな程度、現在で言うインサイダ-取引があったとにらんでいます。事実株で大儲けして生涯を全うできた人はいません。無事に人生を送ろうと思えば、適当なところで足を洗わなければなりません。大阪の岩本栄三郎や山一證券の大田収は、神様と言われましたが、最後は自殺しています。野村證券の生みの親である野村徳七は、銀行を作った時実弟から、兄さんは相場を張るから経営陣に入らないでくれ、と釘をさされています。
 ただ桃介がただものでないところは、相場に手を出したのは、結核療養中以後の5年間と後は日露戦争前後の1年だけです。儲かる状況の判断が的確だったといえます。勝てない戦いには手を出しません。しかし相場師の名称をえた桃介は、逆に相場嫌いの諭吉の不興を買い、両者の仲はややこしくなります。療養は幸運なことに短期間ですみ、入院8ヵ月後退院します。退院して義兄にあたる三菱財閥の実力者、中上川彦次郎の紹介で王子製紙に役員として務めます。視察にやってきた井上馨の不興を買い、解雇されます。就職早々で製紙に関して何も知らず、井上の質問にほとんど答えられなかったからです。井上はこれを自分に対する無視侮辱と受け取りました。井上馨という人物は人の面倒見は良い人物です。しかし徹底的に自分の意に従わせようとします。そして極めて復讐心が強い。桃介のような人物とは気が合いません。多分桃介もふてくされた態度で応対したのでしょう。
 1899年31歳、桃介は株で儲けた資金で、自前の会社を作ります。丸三商店です。諭吉も出資しました。慶応の後輩松永安左エ門を相棒に引き入れます。二人とも諭吉ゆかりの人物ですが、諭吉の教えに背くことはへっちゃらで、学問には身を入れない、女好き、遊び好き、相場好き、しかも無制限ときています。心配した諭吉は丸三商店に自分の意向を理解している者を社員として送り込み、桃介・安左エ門の行動を密かに監視します。アメリカの商社から満州の北清鉄道建設に使う木材20万円分の輸出の仲介という話が丸三商店に来ます。米国商社は一応丸三の信用調査を興信所に依頼ます。興信所の所長は諭吉の弟子でした。所長は諭吉にお伺いを立てます。諭吉は桃介のやり方に不満でした。商売上手の桃介に対する嫉妬もあったかも知れません。そして桃介夫婦の仲もしっくりとゆかず、妻の房子は父親諭吉に始終愚痴をこぼしていました。諭吉の不興は所長にすぐ伝わります。こうして興信所は「丸三商店の信用度はゼロ」という衝撃的な報告をします。また桃介がつなぎ融資を依頼した三井銀行も断ります。三井銀行の実力者は諭吉の女婿であり桃介の義兄に当たる中上川彦次郎です。ここにも諭吉の意志が働いていたようです。桃介は義父と義兄そして慶応人脈から裏切られます。そして再び喀血します。幸い病気は短期間で回復し、桃介はまた北海道炭鉱に勤めます。やがて日露戦争。この時期に乗じて相場をはり、300万円の大金を手中にします。
 1909年、41歳松永安左エ門のたっての懇請で、桃介は福博電気軌道に出資し社長に就任します。実質的な社務は専務の安左エ門が取り仕切ります。翌年の1910年、経営不振の名古屋電燈の経営を依頼され引き受けます。桃介も安左エ門も電力事業と石炭には関係が深く、また桃介の資産は有名でしたから、経営を依頼されたのでしょう。しかし株売買による会社乗っ取りを疑われ、また名古屋閥の狭量さに嫌気がさして、桃介は半年で経営からおりています。2年後再び請われて、名古屋電燈の株の半数以上を握り、社長になります。桃介が名古屋電燈に執着したのは木曽川の水力に魅力を感じたからです。木曽川の水量は豊富、流れは急峻、そしてなによりも消費地名古屋に近い、また京阪神もそう遠くはありません。桃介は名古屋電燈を関西電気と改称し、木曽川の水利権をこの会社で握り、関西方面へ電力を送るために大阪送電を造ります。そしてこれらの諸会社を合併させて、大同電力を設立し、社長におさまります。事業のほとんどは安左エ門と二人三脚で行われました。安左エ門も、地元の九州と関西・名古屋の電力会社を合併させて、東邦電力を作ります。安左エ門は東京電燈(東京電力の前身)の筆頭株主でしたから、桃介と安左エ門の両名で日本の電力の70%近くを支配下に置いたと思われます。彼らから完全に独立していたのは宇治川電力(後の関西電力)とその子会社に相当する、日本電力くらいのものです。日本電力は北陸方面の電力を開発し送電する目的で、宇治川電力により設立されました。こうして日本の電力業界は、東京電燈、大同電力、東邦電力、宇治川電力、日本電力の5社に集中されてゆきます。この間代議士になり3年間勤めています。1928年60歳、事業から引退し後身に道を譲ります。1938年(昭和13年)死去、享年69歳でした。桃介の終生の事業は木曽川大井発電所の建設でした。1000万円を投資したところで、関東大震災が起こります。融資が行き詰まります。桃介は渡米して外債を募ります。2800万円の債権はすべて外国で売りさばけました。民間で外資を使ったのは桃介が最初です。
 養父の諭吉とは終生確執していました。諭吉が特に桃介を憎んだのではありません。両者は思想心情において異なります。諭吉には社会主義的傾向があり男女同権論者でした、桃介は自由競争を重んじ富国強兵に傾き、女は抱くものという考えです。妻の房子との折り合いは悪くなります。房子は子煩悩の諭吉を敬愛し、したがって親離れができていません。桃介と房子の仲は冷えて行きます。諭吉はそういう桃介を許せなくなります。共通点もあります。その一つが、けちなことです。
 桃介は浪費を防ぐ心がけを説いています。以下参照。
必要以外のものを買わない。
小買いする。
手元にある金額は貯金し、使うに際し苦痛を感じやすくする。
金を使うときには、その状況を考える。
大金は考えずに使ってもいいが、小さい金は綿密に注意して使う。
(この意味は読者の方で考えて下さい)
桃介は昭和初年度の日本経済を評して以下のように言っています。日本には農業を中心として労働力が過剰だ、だから新しい産業を育成するしか不況から抜ける方策はない。この方向がダメなら外国資本を輸入するべきだと。現代でも通用する意見です。大所高所からものを見ています。
 福沢桃介の人生と事業を語るに川上貞奴の存在は欠かせません。貞奴は1871年(明治4年)の生まれ、生家が没落して芸妓置屋浜田屋に入ります。日舞に優れ、美貌で才色兼備の名妓として有名になり伊藤博文や西園寺公望にひいきにされます。23歳川上音二郎と結婚します。アメリカ公演中、女形が急死し、貞奴が代役を勤めます。以後舞台女優になります。日本の近代演劇での女優第一号です。経済観念が全くない夫音二郎に苦労して仕えます。1911年、貞奴40歳の時音二郎は死去します。この時から桃介との旧情が復活します。桃介が慶応在学時、乗馬中に野犬に襲われた貞奴を助けた事から、二人は恋仲になります。もっとも野犬云々の話は音二郎との縁であったという説もあります。桃介が福沢家と縁組したので、貞奴は去ります。木曽川大井発電所建設中は、両名は常時一緒でした。馬に乗る貞奴の真紅のシャツが有名でした。名古屋市内に二葉御殿を造り二人は住みます。そこは政界財界の名士のサロンになりました。「双葉」とは極めて暗示的な名称です。桃介の死去まで二人は恋愛感情を抱き続け、それを楽しみました。桃介夫妻の仲が冷え切るのは当たり前です。貞奴、1946年(昭和21年)75歳で死去、「奴」の名は東京の妓界では伝統ある名だそうです。
  参考文献 鬼才福沢桃介の生涯

経済人列伝、松永安左衛門(再掲)

2010-08-22 02:57:13 | Weblog
 松永安左エ門
 
 日本の電力企業は、二人の好色漢(女好き)によって形成されたとも、言えます。二人とは、福沢桃介と松永安左エ門です。まずよりまじめな方から語ってみましょう。安左エ門は1975年(明治8年)に長崎県壱岐群、壱岐島で生まれました。幼名は亀之助、やがて祖父以来の名前を継いで、安左エ門と名乗ります。家は様々な事業を営む、裕福な商人でした。呉服雑貨販売、醸造、網元、船舶運送、そして田畑山林を所有する大地主です。安左エ門は幼少期から腕白で、癇癪持ちで、わがままでした。15歳時、福沢諭吉を慕って、慶応義塾に入学します。しかし勉学にはあまり身が入りません。「学問のすすめ」を書いた諭吉その人に、先生区々たる知識を知るよりはもっと重大な事が人生にはあるはずです、それは何でしょうか、と質問します。諭吉は、うどん屋か風呂屋の三助が適当だろうと、答えます。多分、カチンときたので、安左エ門をからかってやれと思ったのでしょう。諭吉の紹介で三井呉服店(三越の前身)に入り、呉服販売に従事します。面白くなくてすぐ辞めます。ついで、諭吉の養子である福沢桃介に誘われて、利根川水力発電という会社を興そうとします。技術がこの企ての水準まで達せず、企画は挫折します。しかし、この企ては二人の人生に大きな刻印を押します。栴檀は双葉より芳し、あるいは、雀百まで踊り忘れず、の喩えどおり、桃介も安左エ門もその終生の事業は電力会社経営になります。
 24歳、日銀に入社。総裁山本達雄に多分、福沢桃介から紹介されたのが効いたのでしょう、為替掛として就職できました。この間慶応義塾は中退しています。日銀も2年足らずで辞めます。桃介が経営する丸三商会の神戸支店長になります。ここも失敗。大きな仕事をやろうとし過ぎるのです。そしてしばらく桃介宅に居候します。桃介の妻房子からは使用人同様の待遇を受けます。26歳神戸に福松商会を作ります。「福松」とは言うまでもなく、桃介と安左エ門両名の姓を組み合わせたものです。安左エ門は桃介に師事していました。彼は桃介に教えられ、利用され、からかわれ、可愛がられて成長します。そして桃介から精神的に独立した時、安左エ門は真の企業家として活躍し始めます。新会社はなんでも扱う、自称ジェネラル・ブロ-カ-でした。安左エ門は慶応の同窓である武藤山治が采配を振るう、鐘紡を尋ね、商談の機会を伺う内に、紡績工場の燃料として絶対必要な石炭に眼をつけます。武藤の好意で鐘紡に石炭を入荷します。
 普通のおとなしい商売だけに安住できる安左エ門ではありません。山下亀三郎という人物と組んで北海道炭を大阪の今西商店に売り込む事に成功し、かなり儲けます。四日市の米富商店と組んで、愛知石炭商会の縄張り荒らしをたくらみます。また大阪市への石炭入札に際して、業者間の談合破りをします。危険な行為です。下手をすると命にかかわります。この辺の行為は、奇道、権道そして多分に悪党的です。この時代、つまり福松商会時代、遊び好きの安左エ門が一番遊んだ時期です。石炭業界は活況をしめしてきます。安左エ門は日露開戦を予想し、石炭が高騰すると読んで、特に低価格粗悪炭を大量に買い込みます。開戦後もなかなか値が上がりません。天の恵みか、九州地方は豪雨に襲われます。当時の技術では採炭は不可能になります。保管しておいた石炭を売って、安左エ門は大儲けします。勢いに乗り炭鉱経営をも目指し、ボロ鉱山を掴まされて失敗します。
 桃介の勧めか影響でしょう、相場に手を出します。横浜電鉄の株を買い、60万円の資金を600万円にしようと、たくらみます。株は774円をピ-クにして下がり始め、最終値は28円になります。安左エ門はすべてを失います。桃介は途中でさっさと売り払い、逆に大儲けします。安左エ門は、桃介がなぜ売り時を知らせてくれないか、と恨めしく思いますが、これは結果論で無理な話です。仮に桃介が教えたとしても、安左エ門は売らなかったでしょう。投機とはそういうものです。投機熱の渦中にあって冷徹になれるのは極小数の人間です。そういう点では桃介は天才です。この機微を知っていたから、桃介は安左エ門に忠告しなかったのだろうと、思います。桃介の桃介たる由縁は、このように冷えたところを多分に持つ点です。所詮は自分の体験で知らないと意味がない、教えて解るものじゃない、と桃介は割り切っていたのでしょう。
 無一文になった安左エ門は大阪住吉の呉田に移住し、貧乏生活に甘んじます。1年間の閑居生活中、彼は猛烈に読書をします。不肖の弟子もようやく敬愛した諭吉の勧めに従います。すでに諭吉は死去しています。敬愛する師匠の墓に布団を着せることはできません。この1年間で安左エ門の人生・人格は大きく変化します。この間29歳、竹岡一子と結婚します。逸話があります。縁談と石炭投機は同時進行でした。結婚式の日に大事な商談があります。商談をまとめて、息せききって宴席に帰り三々九度の杯を交わしたと伝えられています。安左エ門は遊び人でしたが、一子との夫婦仲はいたって良好でした。その点では桃介とは対照的です。桃介は福沢諭吉の次女房子と結婚します。桃介は「超」がつく美男子であり、房子も美人でした。3人の子を設けたのに、二人の仲は冷え切っていました。安左エ門と桃介の性格の差でしょうか。
 三井呉服店、利根川水力、日銀、丸三商会、福松商会という、24歳から33歳までの9年間における安左エ門の行動は、試行錯誤、紆余曲折そして多分に支離滅裂という印象を与えます。がむしゃらで、突っ走り、反倫理的でもあります。しかしこの行動の中で、安左エ門は石炭という方向を少しづつに掴んでゆきます。いつの時期かは解りませんが、安左エ門がかなり成功した頃の逸話です。真偽のほどはわかりかねます。安左エ門が東京から福岡に向かう道中、東海道線の主な駅で必ず下車し、土地の芸者を総揚げして遊びながら、西に向かったそうです。女好き、宴会好き、当然酒好きです。戦後、安左エ門は電力政策を代表してGHQ(占領軍総司令部)とやりあいますが、時の首相吉田茂がどうしても彼を信頼しきれなかったのは、この逸話に代表される安左エ門の性格です。加えて彼は先輩であり師匠でもある福沢桃介から株相場の面白さを教えてもらっております。まさしく飲む・打つ・買うの三悪を猛然と実行しました。福沢諭吉が丸三商店の経営を心配したのも、問題児桃介がよりによって安左エ門のような、人物を経営陣に加えたからです。
 1908年33歳、安左エ門は復活します。三井銀行大阪支店長平賀敏の紹介で、大阪ガスからコ-クスの処理を頼まれます。コ-クスは火力がきつすぎて、家庭用には不向きでした。安左エ門はコ-クス用の特別なコンロを作り、併せて販売します。この作戦は当たりました。彼は、品質の統一と販売量の正確さを重んじます。なによりもお客である主婦層が商品の使用を喜ぶすがたに、安左エ門は感動を受けました。この時点で彼は高利貸資本から産業資本の運営者に代ります。虚業から実業へと、言ってもいいでしょう。ここでも逸話があります。大阪ガスではコ-クスをいちいち精確に計って、安左エ門に渡していました。彼は副社長そして社長の片岡直輝に会い、ガスの生産量からコ-クスのそれは簡単にできるはず、と進言し、片岡を感心させます。化学方程式を理解していれば簡単な判断です。
 東洋製革での技術上の問題に関して、既に社長になっていた平賀敏から相談を受けます。安左エ門は同会社の役員になり、現場から技術的に堪能な者を引き上げ、問題をほぼ解決します。桃介の勧めで泉尾土地会社の経営にも加わります。
 安左エ門の運命を決する時が来ます。かって石炭商のころ、彼は福岡市内に電気軌道を敷く事を申請していました。3年間放置されていましたが、九州地方の博覧会を主宰する福岡市が積極的になります。安左エ門は自己の資金に加え、渋る桃介にも出資させます。更に桃介の紹介で三菱財閥の総帥岩崎久弥も出資します。福博電気軌道を立ち上げます。福岡市内に市電が走るようになりました。桃介が社長、安左エ門は専務です。低料金の方針を貫き、利用者開発に全力を挙げ、どんな辺鄙なところでも走るように、心がけます。1909年、34歳の時のことです。時代は重化学工業を軸とする第二次産業革命に入っていました。安左エ門の、利用者優位、積極経営は当たります。ここから彼の驀進が始まります。電気を利用する側から、電気を生産する側に軸を起きます。日本瓦斯会社を作ります。そして九州電気会社を作り、福博電気軌道と博多電燈を合併させて、九州電燈鉄道会社を作ります。更に唐津鉄道や糸島電気、博多ガスや熊本ガスをも合併して、西部合同ガスを設立します。安左エ門の八面六臂の活躍ぶりを見ていた社員たちは、うちの社長はやくざの親分みたいだ、と評しました。事実出入り寸前の際どい局面もありました。なにしろ土地に石炭が絡む商売です。向こう傷の一つや二つは負うくらいの覚悟は要るでしょう。こうして安左エ門は九州地方の電気とガスの生産を握りました。40歳、博多商業会議所会頭に押されます。同年衆院選に出ます。強敵中野正剛を下して当選します。国会では、シベリア出兵に反対し、炭鉱労働の危険防止を訴え、瀬戸内海の小島が製錬事業で丸裸になっているのを取り上げ、環境保全策の必要性を提案しています。
33歳から40歳までの間に、安左エ門は実業の基礎を作りました。この成功の原因を以下に追究してみましょう。まず安左エ門が産業資本家としての明確な生き方を自覚し自得した事が重要です。高利貸資本のような、他人の金を奪うだけの、ゼロサムゲ-ムから足を洗います。然るべき便益を供与し、その見返りを頂く、この間に会社もお客も共に大きくなる、換言すれば経済成長を遂げる、というのが産業資本の論理です。自らも、また相手も豊になる方向に彼は舵を取ります。
 次に時代です。九州地方のみならず、全国的に都市が発展し、住居は郊外に移っていました。この動向の背景には、産業の進展に伴う、サラリ-マン層の増加があります。全国の大都市では、彼らを都心に運ぶ機関を必要としました。小林一三の阪急電鉄、堤康次郎の西部電鉄などはこうして発展しました。安左エ門も同様です。彼が小林や堤と違うのは、ここから一気に工業エネルギ-を供給する側に廻ったことです。それには九州で石炭が豊富に産出するという事情も寄与しています。
 そして第二次産業革命です。重化学工業の発展には、石炭と電力は欠かせません。九州という地の利を生かして、安左エ門は一挙に状況をわしづかみにする形で、電力会社経営に邁進します。
安左エ門の人間関係も重要です。彼は試行錯誤、疾風怒濤の時代に幾多の人間関係を作っています。なにしろハチャメチャで、駈けずり廻ったのですから、知名度は抜群です。そして彼には、彼が可愛いなと思わせる魅力があります。最初にコ-クスの件を紹介した平賀敏などが代表です。また福博電気軌道設立に協力したのは桃介ですが、あの冷徹な桃介をして産業資本というじっくりとしか儲からない事業に投資させたのは、安左エ門の魅力です。桃介が投資しなければこの会社はできなかったでしょう。桃助はすでに財界では鬼才として名をなしていました。三菱の岩崎久弥の協力は事業の信用に大きく寄与しましたが、これも桃介の協力によるものです。桃介は、牛に引かれて善光寺に参る欲張り婆のように、安左エ門に引かれて虚業から実業の世界に入ります。
 最後に言うべきことは、安左エ門は若くして事業経営に乗り出し、この世界の酸いも甘いも知悉していることです。確かに虚業は捨てましたが、虚業に伴う知識は生きています。安左エ門が短期間に九州の群小資本を合併させた速さは、株式売買も含めて、この種の智恵のさせるところでしょう。
 この間突発事件が起こります。安左エ門は贈賄容疑で収監されます。発端は小林一三の電鉄経営にあります。小林は、彼が経営する箕面有馬電気鉄道(阪急電車の前身)と京阪方面の鉄道をつなぐために必要な、大阪市内路線の認可を市に申請します。この際、大阪市の助役以下の幹部に便を計ってもらう為に、電鉄会社の新株を提供します。大阪市の幹部と小林を仲介したのが、安左エ門です。収賄が発覚します。贈賄容疑で小林と安左エ門も逮捕されます。当時の法律では贈賄側は白状すれば無罪でした。二人は白状しません。白状して他に迷惑がかかる事を恐れました。警察も困ります。小林の親分に当たる岩下清周が桃介に連絡し、二人を説得しましたが、頑として聞き入れません。やむなく岩下と桃介が代理で白状し、明確な証拠を示し、それに小林・松永の両名にむりやり書名捺印させて、出所した(そうです)。ただしこの話には裏がありそうです。こういう時白状しない方が、経営上では有利になります。信用がつくから、きわどい話つまり大きな儲け口がやってくるからです。ともかく電力の鬼と郊外型住宅地開発の魁は一時臭い飯を食いました。
 大正年間に電力会社の合併再編成巨大化が進みます。この動向の音頭を取ったのが安左エ門です。名古屋は彼の盟友である桃介が押さえていました。桃介は名古屋電燈を支配し、群小の同地方の電力会社を合併し、関西の一部の会社も併せて、大同電力を作ります。関西の他の電力会社と九州電燈鉄道会社を併せて東邦電力が誕生します。この会社のボスは安左エ門です。若尾一族の経営で不振にあえぐ東京電燈に安左エ門は乗り込み、筆頭株主になります。こうして日本の電力会社は、東京電燈(後の電力)、大同、東邦、日本、宇治川電力の五社に編成されます。
 経営者である安左エ門は、競争は進歩の母、基礎から技術を磨く、そして一度決心したら不退転、を信条とします。しかし時代は次第に彼の方針とあわなくなってゆきます。各種の産業は統制下に入ります。小林一三も統制の方向で業界をまとめるようになり、安左エ門の批判を浴びます。近衛内閣の逓信大臣である永井柳太郎が、電力国家管理法案を作ろうとしたとき、安左エ門は激論の末に、「官僚は人間の屑だ」と発言し、しばらくして彼は経営から身を引いて、引退します。戦争が終わるまで、売り食い生活を行い、趣味の茶道三昧に明け暮れます。彼の号は耳庵と言います。電力業界は日本発電に統合され、国家の強い指導を受けます。東邦電力も解散します。
 終戦、そして1949年に安左エ門は吉田内閣から電気事業再編審議会委員に任命され、互選で会長になります。時の最高権力はGHQです。GHQの十分割案と安左エ門の九分割案が対立します。分割とは日本の電力供給を10とか9の地域に分けて、行おうとする案です。9と10なら大した違いはないではないかとも、思われますが、決定的な違いがあります。GHQの10分割案では、10の地域は発電・配給を含めて、その地域を独占してしまいます。この案では大きな弊害があります。北陸や東北地方では資金不足のために、電源開発が充分にできません。逆に関東、中部、関西地方では消費量が多く、地域内の電源では不足になり、余っている他の地方から電力を買わなければなりません。そのためには再び日本発電のような、中央統制機関を必要とします。安左エ門の案では、分割された地方は他地方の電源開発をしてよいようになります。典型的な例が関西電力の黒部発電所です。こうなると消費に応じた電力供給が可能になります。また各会社は、ピ-ク時に強い水力発電と安定した供給ができる火力発電のバランスを取ることができます。つまり安左エ門の9分割案の方が、電力会社の自発性が発揮されやすくなります。電気事業再編審議会は解散され公益事業委員会が作られます。吉田内閣は安左エ門の任命をいやがりましたが、彼の電力業界における実績と人望にまけ、安左エ門は委員長代理になります。安左エ門とGHQは対立します。結局1951年に九分割案が通ります。同時に電気代の値上げが行われました。およそ値上げというものはどこでも反対にあうものですが、安左エ門は妥協しつつも、値上げを敢行して、電力業界の経営安定を計ります。この時彼は齢71でした。彼の特記すべき事業はここまでです。以後も色々な会議や事業に参画しています。毛色の変ったものは、A・トインビ-の「歴史の研究」の邦訳に尽力したことです。彼は著しく長命でした。1971年(昭和46年)97歳で死去します。死因はアスペルギリス熱という奇病でした。なお安左エ門の好色に関しては色々な話がありますが、すべて割愛します。ただ彼が公益委員に任命される時、時の首相吉田茂は反対しました。理由は吉田が、池田成彬から聞いた「松永氏の人格に関する問題」でした。昭和初期の恐慌で神戸の鈴木商店が倒れた時、鈴木の総帥金子直吉を評して安左エ門は次のように言いました。金子は立派な事業家だが、惜しいかな女を知らない。女を知らないから金のことも解るらないのだ。政界の連中に金をばらまいておけばこういう事にはならなかったのに、と。
 安左エ門は遺族にあてた遺言状のようなものを残しています。葬儀、墓碑、法名、法事一切不要、勲位勲章断固断れ、邸宅什器美術品等一切寄付、子孫に美田は残さない。といいこの遺言の執行人に時の首相池田隼人以下の人々を指名しています。(昭和36年、1961年)

 参考文献 まかりとおる 新潮社
      鬼才福沢桃介の生涯  NHK出版

いつまで韓国に謝罪するのか?(四訂版)

2010-08-21 01:25:54 | Weblog
   いつまで韓国に謝罪をするのか?(四訂版)

 菅首相は数日前に、韓国に日韓併合100周年にあたる時として、韓国の植民地化に対して謝罪文を声明しました。いつまでこの幼劣な隣国に意味のない謝罪を日本政府は続けるのか、と私は問います。20年前の村山談話で充分以上の声明になっているはずです。ここで二つの事が問題になります。まず首相声明の中に「韓国民の意に反して云々」とあることです。もう一つは韓国政府が「行動で示せ」と言っていることです。
 韓国の植民地化は韓国民の意に反したかもしれません。少なくとも現在の韓国民の意には反しているのでしょう。さて歴史において意に反しない出来事がいくらあったでしょうか?古くは、カルタゴは彼らの意に反して、ロ-マに徹底的に破壊されました。アイルランドは彼らの意に反して英国に侵略されてきました。インドもエジプトも彼らの意に反して英国の植民地になりました。インドネシアとオランダ、ヴェトナムとフランスの関係も同様です。さてイギリス、オランダ、フランス諸国が、彼らがかって支配した旧植民地に対して謝罪し賠償したでしょうか?していません。
 植民地政策で一番成功し、そこから多大な利権を引き出したイギリスでさえ、必ずしもイギリスの意向だけでそういう行為をしたのではありません。もしイギリスがそのような行為に出なければ、イギリスはスペインやフランスの属国になっていたでしょう。イギリスは生き残るために必死になり、結果として植民地帝国を作り上げたのです。ここで政治とは何かと考えてみましょう。少なくとも外交における限り、母国の利害を代表し主張します。外交、一般に政治とは利害の駆け引きであり、利害計算そのものでしかありません。そこに一片の情誼をもはさむ余地はありません。ただ締結した約束は守ります。守らない国もありますが。外交に不必要な情誼を加えれば、外交は成り立ちません。植民地化、侵略、政治的圧力など個人的次元では悪徳であっても、外交においては許されます。基本的にそこは弱肉強食の世界です。この法則に従い強国は強国なりに、弱国は弱国なりに駆け引きし反謀をめぐらします。そして条約などの約束が結ばれれば、それに従いそれを護るだけです。この基本に違反すれば結果として戦争を招きかねません。韓国は竹島のみならず対馬も固有の領土のようなことを喧伝していますが、もしかの国がこの路線を強行すれば日本は戦争に訴えるしか手段はなくなります。読者諸氏には、外交は利害計算の術数であると、明確に認識してください。外交ではむしろ意に反する事を押し付けあっているのです。だから外交における最大の美徳は、あるいは武器は我慢です。そして外交と政治の延長上に戦争があります。相手国の意に反することをしたから謝罪云々と言っていたら、外交などできません。
 1910年日本は朝鮮を併合し植民地にしました。歴史的にはただそれだけです。率直に言えば、韓国が植民地になりたくなければ、もっと国力を充実させていればよかったのです。弱いから植民地にされたのです。日本も朝鮮半島を植民地にしなければ、ロシアに半島を奪われ、日本自身がロシアの植民地になっていたでしょう。日本は生き残るために半島を植民地にし、日本本土の防波堤にしたまでです。弱い隣国の存在は大きな危機を招きかねません。おのれを捨てて仁を為すほど、国家間の葛藤と摩擦は甘いものではありません。朝鮮半島は日本でなければ、ロシアの植民地になっていました。さて韓国の皆さん、冷静に考えて、日露両国のどちらの方の植民地になるのを選びますか?現在の時点で、日露両国のどちらにモデルを求めますか?答えは解っているので回答は不要です。
 植民地化に対する日本政府の対応は1965年の日韓基本条約ですべて終結しています。それがすべてです。それ以上の対応は言語と行為の両面において不要です。この条約で日本は韓国に有償3億ドル、無償2億ドル、さらに民間の資金供与3億ドルの援助をしています当時の韓国の国家予算は4億ドルです。国家一つを2年に渡り丸抱えしたようなものです。この資金が韓国経済の発展に大きく寄与したことは、国際経済では常識です。これ以上日本は何をするというのでしょうか?もっともこの条約はこと日本に関する限り、意に反して締結されました。アメリカの強い圧力があったからです。アメリカは韓国が弱体になる事によりアジア全体が共産化することを恐れました。アメリカのこの対応は正しいので、私もかの条約締結には賛成です。この条約ですべておしまいです。それ以上要求されるならお互い運命を天の判断に仰ごうではありませんか!ちなみに基本条約締結時の韓国の一人当たりGDPは100ドルです。
 日本の資金供与が韓国の以後の発展に大きく寄与したことを、韓国政府は一切国民に知らせません。同じ頃、日本製鉄の技術陣が総力をあげて援助し完成した、浦項製鉄所の開設式には日本人は一切招待されていないそうです。韓国は自国の歴史認識を正すべきです。歴史上の事実を一切無視する・できるから日本に対して、厚顔な謝罪要求ができるのです。のみならず、日本名を強制した、韓国語を奪った、などと虚言を弄び、挙句の果ては「従軍慰安婦」なるデマを捏造し、日本人の品位を故意に貶めるような、陋劣な行為を繰り返します。
 なぜ韓国あるいは朝鮮民族一般は、かくも恥知らずで愚劣なのでしょうか。簡潔に彼らの歴史を見てみましょう。特記すべきことは、朝鮮民族が過去の歴史で統一された独立を経験したことはほとんどありません。日清戦争から日韓併合に至る間の僅か数年のはずです。三韓、三国、新羅、高麗、李氏朝鮮という各時代にわたり、朝鮮民族の国は中国の王朝に対して属国でした。唐、宋、元、明、清の王朝すべてに属国としての礼を取りました。年号は中国のそれを用い、中国の皇帝に女を貢ぎ(貢女)、朝鮮国王は中国皇帝の使者に九叩頭の礼(簡単に言えば土下座)をもって対しました。太平洋戦争後は南北に分裂し、あまつさえ彼ら自身の動機から民族戦争を起こして、分裂を固定化しました。独立した経験がなく、常に属国であったから、真の外交・政治というものを知りません。個人の次元の問題と政治の次元のそれとを、区別できず、不満や恨みや嫉妬を政治に持ち込み、あくなく恥知らずな要求を繰り返すのです。個人的な感情を政治意識へと昇華させる装置を彼らはもっていません。こんな国とはただ利害計算のみで対応していればいいのです。国家間の友好など考えられません。ともかく日韓間の問題は半世紀前の基本条約で終了しています。
 菅首相は、韓国民の意に反して、とおっしゃった。すでに述べたとおり、国家間の関係において、当該の国民の意に反する事など多々あります。一々その国民の意に反しないように、などと言っていたら外交などはできません。韓国民が、対馬が欲しいと、言えば、彼らの意に反しないように、対馬を譲渡するのですか?韓国企業が、日本の技術の無料供与を望めば、日本の立場を無視して、そうするのですか。「意に反して」は単純な言葉ですが、重大な意味を持ちます。その意味では菅首相には政治的見識のかけらもない。もしこの事をわきまえた上でそう申されたのなら、首相は日本という国家に対して重大な背信行為をしたことになる。首相は市民運動経験者です。市民運動と国際政治は全く異なることを自覚して頂きたい。韓国は、行為で示せ、と言いました。これは要するに、銭をくれ、ということです。これからもたかってやる、ということです。
 民主党政権には甘えの構造があります。政権交代に際し菅首相は、最大の懸案事項である経済問題の審議を拒み選挙に直行された。一昨年麻生氏が政権を取られた前後、リ-マンショックで世界経済の先行きが不安なために、解散に有利な時期を失ってでも経済財政問題に取り組まれたのとは、大違いです。選挙中急に消費税増税を持ち出し、不利とわかるとお詫びする。侘びればすむと思ってらっしゃったら甘えもいいところです。重大問題で失敗すれば引退が常識です。そして沖縄の米軍基地問題。史上類を見ない、ばかばかしい喜劇を演じた末、にっちもさっちも行かなくなった基地問題に対して、民主党政権は沖縄知事選の後とおっしゃる。国政の問題を一地方の選挙に任せる。それで済むと思っている。責任回避という大甘えです。極め付きが千葉法相の留任です。選挙で落ちるという事は選挙民を通じて民意がその人の政治的適確性にNOと言ったのですから、当然やめるべきです。本人も辞めないし、首相も辞めさせない。これなら選挙など不要です。これも大甘え。
 アメリカが通貨量の増加をはかり、緩和策を取り始めました。そのつけは日本の経済にやってきます。アメリカの景気向上政策は日本のデフレ要因を悪化させかねません。それに対して政府は無策無能、ただ政権の維持に汲々とするのみです。民主党政府との心中だけはごめんです。路上巷間、さまざまの声、ほんの十分の一を申し上げました。

(追加)
菅首相の謝罪が中国や韓国でえらく評価されています。同時に中国でも謝罪要求が再燃しました。当然賠償請求なるものも伴うでしょう。ロシアは千島樺太で対日戦勝記念式を行い、北方領土の占拠を正当化しようとし、イギリスも対日戦勝記念を催しています。国際関係とはこういうものです。勝った勝ったという国があるのに、一方では、すみません・すみませんと、謝る国がある。これ外交?菅首相の政治意識の低さにあきれます。
 日本はロシアや中国や英国に軍事的に敗れたのではありません。アメリカに完敗しただけです。真に勝ったと思えば、わざわざ記念式などしません。英国もロシアも、もちろん中国も日本には劣等感を充分に持つ理由があります。
(追加2)
 昨日のネットニュ-スでニュ-ヨ-クでも対日戦勝記念が催されたと聞きました。小規模ですけどね。
(追加3)
 イギリスのタイムズ紙が、日本を沈む太陽、と言いました。ひがみですね。あえて「太陽」と言うところに劣等感が表現されています。(産経新聞 2010-8-9)
(追加4)
 日韓国会議員会議で韓国は、慰安婦の補償を、再び要求しました。(産経新聞8-10)従軍慰安婦は日本の一部の連中が、韓国の意向を請けて、勝手に作りあげた言葉です。従軍慰安婦なるもの、つまり、国家管理の売春婦などは、こと日本に限り、存在しません。詳しくは、「慰安婦と戦場の性」を読んでください。1970年代に韓国に君臨したバクという大統領の政治の時、韓国は国家の管理下にキ-センなる売春制度を設けました。外貨獲得が目的です。自国の歴史に照らして、他国の歴史を憶測し捏造する。韓国とはこういう国です。なお中国が喧伝する南京虐殺事件も同論です。漢民族の歴史には、屠城という伝統があります。城を攻め落としたとき、勝った側は、敗者の財産と人命を意のままにしてもいいという伝統がありました。
 (追加5)
 首相がしょうもない謝罪をしているうちに、円高は進み84円台に達しました。政府はどういう対策を立てるのか、さっぱり解りません。円高になるという事は一面、日本の経済の底力があるということです。同時に国際経済の矛盾を日本一国にしわ寄せしようという、暗黙の合意に基づく画策、日本いじめでもあります。(製造業がほぼ壊滅した老残の国であるイギリスから、太陽は沈む、と揶揄されるのです)米欧中とも通貨量を大幅に増やしたのに、日本だけがそれをせず、必要な財源を増税で補うか、国債を発行するかという、出口のない議論を繰り返しています。(この点では自民党も同罪です)日銀券を大量に刷ればいいのです。これで財源は確保でき、円安に傾きます。政治経済の肝心なところには無関心で、敵(国際関係では他国はいつ敵になるかもしれないのです)に付け入らせるようなことばかりしている。菅さんや鳩山さんの個人的な倫理につきあっている暇は国民にはない。日本には資本と技術は豊富にあります。だから貨幣量を増量して一番効果があるのは日本です。日本の景気が回復する事は国際貢献です。単純に言いましょう。300兆円通貨を増やしなさい。併行して医療は全額無料にする。けちけちせずに必要な医療は国民に受けさせる。これだけで景気は回復します。プロセスの問題はありますがね。なぜかは読者諸氏で考えて下さい。
いずれにせよ経済に無知無関心な政権は早く消えてくれ、といいたい。

いつまで韓国に謝罪するのか?(三訂版)

2010-08-20 03:18:41 | Weblog
いつまで韓国に謝罪をするのか?(三訂版)

 菅首相は数日前に、韓国に日韓併合100周年にあたる時として、韓国の植民地化に対して謝罪文を声明しました。いつまでこの幼劣な隣国に意味のない謝罪を日本政府は続けるのか、と私は問います。20年前の村山談話で充分以上の声明になっているはずです。ここで二つの事が問題になります。まず首相声明の中に「韓国民の意に反して云々」とあることです。もう一つは韓国政府が「行動で示せ」と言っていることです。
 韓国の植民地化は韓国民の意に反したかもしれません。少なくとも現在の韓国民の意には反しているのでしょう。さて歴史において意に反しない出来事がいくらあったでしょうか?古くは、カルタゴは彼らの意に反して、ロ-マに徹底的に破壊されました。アイルランドは彼らの意に反して英国に侵略されてきました。インドもエジプトも彼らの意に反して英国の植民地になりました。インドネシアとオランダ、ヴェトナムとフランスの関係も同様です。さてイギリス、オランダ、フランス諸国が、彼らがかって支配した旧植民地に対して謝罪し賠償したでしょうか?していません。
 植民地政策で一番成功し、そこから多大な利権を引き出したイギリスでさえ、必ずしもイギリスの意向だけでそういう行為をしたのではありません。もしイギリスがそのような行為に出なければ、イギリスはスペインやフランスの属国になっていたでしょう。イギリスは生き残るために必死になり、結果として植民地帝国を作り上げたのです。ここで政治とは何かと考えてみましょう。少なくとも外交における限り、母国の利害を代表し主張します。外交、一般に政治とは利害の駆け引きであり、利害計算そのものでしかありません。そこに一片の情誼をもはさむ余地はありません。ただ締結した約束は守ります。守らない国もありますが。外交に不必要な情誼を加えれば、外交は成り立ちません。植民地化、侵略、政治的圧力など個人的次元では悪徳であっても、外交においては許されます。基本的にそこは弱肉強食の世界です。この法則に従い強国は強国なりに、弱国は弱国なりに駆け引きし反謀をめぐらします。そして条約などの約束が結ばれれば、それに従いそれを護るだけです。この基本に違反すれば結果として戦争を招きかねません。韓国は竹島のみならず対馬も固有の領土のようなことを喧伝していますが、もしかの国がこの路線を強行すれば日本は戦争に訴えるしか手段はなくなります。読者諸氏には、外交は利害計算の術数であると、明確に認識してください。外交ではむしろ意に反する事を押し付けあっているのです。だから外交における最大の美徳は、あるいは武器は我慢です。そして外交と政治の延長上に戦争があります。相手国の意に反することをしたから謝罪云々と言っていたら、外交などできません。
 1910年日本は朝鮮を併合し植民地にしました。歴史的にはただそれだけです。率直に言えば、韓国が植民地になりたくなければ、もっと国力を充実させていればよかったのです。弱いから植民地にされたのです。日本も朝鮮半島を植民地にしなければ、ロシアに半島を奪われ、日本自身がロシアの植民地になっていたでしょう。日本は生き残るために半島を植民地にし、日本本土の防波堤にしたまでです。弱い隣国の存在は大きな危機を招きかねません。おのれを捨てて仁を為すほど、国家間の葛藤と摩擦は甘いものではありません。朝鮮半島は日本でなければ、ロシアの植民地になっていました。さて韓国の皆さん、冷静に考えて、日露両国のどちらの方の植民地になるのを選びますか?現在の時点で、日露両国のどちらにモデルを求めますか?答えは解っているので回答は不要です。
 植民地化に対する日本政府の対応は1965年の日韓基本条約ですべて終結しています。それがすべてです。それ以上の対応は言語と行為の両面において不要です。この条約で日本は韓国に有償3億ドル、無償2億ドル、さらに民間の資金供与3億ドルの援助をしています当時の韓国の国家予算は4億ドルです。国家一つを2年に渡り丸抱えしたようなものです。この資金が韓国経済の発展に大きく寄与したことは、国際経済では常識です。これ以上日本は何をするというのでしょうか?もっともこの条約はこと日本に関する限り、意に反して締結されました。アメリカの強い圧力があったからです。アメリカは韓国が弱体になる事によりアジア全体が共産化することを恐れました。アメリカのこの対応は正しいので、私もかの条約締結には賛成です。この条約ですべておしまいです。それ以上要求されるならお互い運命を天の判断に仰ごうではありませんか!ちなみに基本条約締結時の韓国の一人当たりGDPは100ドルです。
 日本の資金供与が韓国の以後の発展に大きく寄与したことを、韓国政府は一切国民に知らせません。同じ頃、日本製鉄の技術陣が総力をあげて援助し完成した、浦項製鉄所の開設式には日本人は一切招待されていないそうです。韓国は自国の歴史認識を正すべきです。歴史上の事実を一切無視する・できるから日本に対して、厚顔な謝罪要求ができるのです。のみならず、日本名を強制した、韓国語を奪った、などと虚言を弄び、挙句の果ては「従軍慰安婦」なるデマを捏造し、日本人の品位を故意に貶めるような、陋劣な行為を繰り返します。
 なぜ韓国あるいは朝鮮民族一般は、かくも恥知らずで愚劣なのでしょうか。簡潔に彼らの歴史を見てみましょう。特記すべきことは、朝鮮民族が過去の歴史で統一された独立を経験したことはほとんどありません。日清戦争から日韓併合に至る間の僅か数年のはずです。三韓、三国、新羅、高麗、李氏朝鮮という各時代にわたり、朝鮮民族の国は中国の王朝に対して属国でした。唐、宋、元、明、清の王朝すべてに属国としての礼を取りました。年号は中国のそれを用い、中国の皇帝に女を貢ぎ(貢女)、朝鮮国王は中国皇帝の使者に九叩頭の礼(簡単に言えば土下座)をもって対しました。太平洋戦争後は南北に分裂し、あまつさえ彼ら自身の動機から民族戦争を起こして、分裂を固定化しました。独立した経験がなく、常に属国であったから、真の外交・政治というものを知りません。個人の次元の問題と政治の次元のそれとを、区別できず、不満や恨みや嫉妬を政治に持ち込み、あくなく恥知らずな要求を繰り返すのです。個人的な感情を政治意識へと昇華させる装置を彼らはもっていません。こんな国とはただ利害計算のみで対応していればいいのです。国家間の友好など考えられません。ともかく日韓間の問題は半世紀前の基本条約で終了しています。
 菅首相は、韓国民の意に反して、とおっしゃった。すでに述べたとおり、国家間の関係において、当該の国民の意に反する事など多々あります。一々その国民の意に反しないように、などと言っていたら外交などはできません。韓国民が、対馬が欲しいと、言えば、彼らの意に反しないように、対馬を譲渡するのですか?韓国企業が、日本の技術の無料供与を望めば、日本の立場を無視して、そうするのですか。「意に反して」は単純な言葉ですが、重大な意味を持ちます。その意味では菅首相には政治的見識のかけらもない。もしこの事をわきまえた上でそう申されたのなら、首相は日本という国家に対して重大な背信行為をしたことになる。首相は市民運動経験者です。市民運動と国際政治は全く異なることを自覚して頂きたい。韓国は、行為で示せ、と言いました。これは要するに、銭をくれ、ということです。これからもたかってやる、ということです。
 民主党政権には甘えの構造があります。政権交代に際し菅首相は、最大の懸案事項である経済問題の審議を拒み選挙に直行された。一昨年麻生氏が政権を取られた前後、リ-マンショックで世界経済の先行きが不安なために、解散に有利な時期を失ってでも経済財政問題に取り組まれたのとは、大違いです。選挙中急に消費税増税を持ち出し、不利とわかるとお詫びする。侘びればすむと思ってらっしゃったら甘えもいいところです。重大問題で失敗すれば引退が常識です。そして沖縄の米軍基地問題。史上類を見ない、ばかばかしい喜劇を演じた末、にっちもさっちも行かなくなった基地問題に対して、民主党政権は沖縄知事選の後とおっしゃる。国政の問題を一地方の選挙に任せる。それで済むと思っている。責任回避という大甘えです。極め付きが千葉法相の留任です。選挙で落ちるという事は選挙民を通じて民意がその人の政治的適確性にNOと言ったのですから、当然やめるべきです。本人も辞めないし、首相も辞めさせない。これなら選挙など不要です。これも大甘え。
 アメリカが通貨量の増加をはかり、緩和策を取り始めました。そのつけは日本の経済にやってきます。アメリカの景気向上政策は日本のデフレ要因を悪化させかねません。それに対して政府は無策無能、ただ政権の維持に汲々とするのみです。民主党政府との心中だけはごめんです。路上巷間、さまざまの声、ほんの十分の一を申し上げました。

(追加)
菅首相の謝罪が中国や韓国でえらく評価されています。同時に中国でも謝罪要求が再燃しました。当然賠償請求なるものも伴うでしょう。ロシアは千島樺太で対日戦勝記念式を行い、北方領土の占拠を正当化しようとし、イギリスも対日戦勝記念を催しています。国際関係とはこういうものです。勝った勝ったという国があるのに、一方では、すみません・すみませんと、謝る国がある。これ外交?菅首相の政治意識の低さにあきれます。
 日本はロシアや中国や英国に軍事的に敗れたのではありません。アメリカに完敗しただけです。真に勝ったと思えば、わざわざ記念式などしません。英国もロシアも、もちろん中国も日本には劣等感を充分に持つ理由があります。
(追加2)
 昨日のネットニュ-スでニュ-ヨ-クでも対日戦勝記念が催されたと聞きました。小規模ですけどね。
(追加3)
 イギリスのタイムズ紙が、日本を沈む太陽、と言いました。ひがみですね。あえて「太陽」と言うところに劣等感が表現されています。(産経新聞 2010-8-9)

いつまで韓国に謝罪するのか?(再々改訂版)

2010-08-19 03:09:38 | Weblog
いつまで韓国に謝罪をするのか?(再々改訂版)

 菅首相は数日前に、韓国に日韓併合100周年にあたる時として、韓国の植民地化に対して謝罪文を声明しました。いつまでこの幼劣な隣国に意味のない謝罪を日本政府は続けるのか、と私は問います。20年前の村山談話で充分以上の声明になっているはずです。ここで二つの事が問題になります。まず首相声明の中に「韓国民の意に反して云々」とあることです。もう一つは韓国政府が「行動で示せ」と言っていることです。
 韓国の植民地化は韓国民の意に反したかもしれません。少なくとも現在の韓国民の意には反しているのでしょう。さて歴史において意に反しない出来事がいくらあったでしょうか?古くは、カルタゴは彼らの意に反して、ロ-マに徹底的に破壊されました。アイルランドは彼らの意に反して英国に侵略されてきました。インドもエジプトも彼らの意に反して英国の植民地になりました。インドネシアとオランダ、ヴェトナムとフランスの関係も同様です。さてイギリス、オランダ、フランス諸国が、彼らがかって支配した旧植民地に対して謝罪し賠償したでしょうか?していません。
 植民地政策で一番成功し、そこから多大な利権を引き出したイギリスでさえ、必ずしもイギリスの意向だけでそういう行為をしたのではありません。もしイギリスがそのような行為に出なければ、イギリスはスペインやフランスの属国になっていたでしょう。イギリスは生き残るために必死になり、結果として植民地帝国を作り上げたのです。ここで政治とは何かと考えてみましょう。少なくとも外交における限り、母国の利害を代表し主張します。外交、一般に政治とは利害の駆け引きであり、利害計算そのものでしかありません。そこに一片の情誼をもはさむ余地はありません。ただ締結した約束は守ります。守らない国もありますが。外交に不必要な情誼を加えれば、外交は成り立ちません。植民地化、侵略、政治的圧力など個人的次元では悪徳であっても、外交においては許されます。基本的にそこは弱肉強食の世界です。この法則に従い強国は強国なりに、弱国は弱国なりに駆け引きし反謀をめぐらします。そして条約などの約束が結ばれれば、それに従いそれを護るだけです。この基本に違反すれば結果として戦争を招きかねません。韓国は竹島のみならず対馬も固有の領土のようなことを喧伝していますが、もしかの国がこの路線を強行すれば日本は戦争に訴えるしか手段はなくなります。読者諸氏には、外交は利害計算の術数であると、明確に認識してください。外交ではむしろ意に反する事を押し付けあっているのです。だから外交における最大の美徳は、あるいは武器は我慢です。そして外交と政治の延長上に戦争があります。相手国の意に反することをしたから謝罪云々と言っていたら、外交などできません。
 1910年日本は朝鮮を併合し植民地にしました。歴史的にはただそれだけです。率直に言えば、韓国が植民地になりたくなければ、もっと国力を充実させていればよかったのです。弱いから植民地にされたのです。日本も朝鮮半島を植民地にしなければ、ロシアに半島を奪われ、日本自身がロシアの植民地になっていたでしょう。日本は生き残るために半島を植民地にし、日本本土の防波堤にしたまでです。弱い隣国の存在は大きな危機を招きかねません。おのれを捨てて仁を為すほど、国家間の葛藤と摩擦は甘いものではありません。朝鮮半島は日本でなければ、ロシアの植民地になっていました。さて韓国の皆さん、冷静に考えて、日露両国のどちらの方の植民地になるのを選びますか?現在の時点で、日露両国のどちらにモデルを求めますか?答えは解っているので回答は不要です。
 植民地化に対する日本政府の対応は1965年の日韓基本条約ですべて終結しています。それがすべてです。それ以上の対応は言語と行為の両面において不要です。この条約で日本は韓国に有償3億ドル、無償2億ドル、さらに民間の資金供与3億ドルの援助をしています当時の韓国の国家予算は4億ドルです。国家一つを2年に渡り丸抱えしたようなものです。この資金が韓国経済の発展に大きく寄与したことは、国際経済では常識です。これ以上日本は何をするというのでしょうか?もっともこの条約はこと日本に関する限り、意に反して締結されました。アメリカの強い圧力があったからです。アメリカは韓国が弱体になる事によりアジア全体が共産化することを恐れました。アメリカのこの対応は正しいので、私もかの条約締結には賛成です。この条約ですべておしまいです。それ以上要求されるならお互い運命を天の判断に仰ごうではありませんか!ちなみに基本条約締結時の韓国の一人当たりGDPは100ドルです。
 日本の資金供与が韓国の以後の発展に大きく寄与したことを、韓国政府は一切国民に知らせません。同じ頃、日本製鉄の技術陣が総力をあげて援助し完成した、浦項製鉄所の開設式には日本人は一切招待されていないそうです。韓国は自国の歴史認識を正すべきです。歴史上の事実を一切無視する・できるから日本に対して、厚顔な謝罪要求ができるのです。のみならず、日本名を強制した、韓国語を奪った、などと虚言を弄び、挙句の果ては「従軍慰安婦」なるデマを捏造し、日本人の品位を故意に貶めるような、陋劣な行為を繰り返します。
 なぜ韓国あるいは朝鮮民族一般は、かくも恥知らずで愚劣なのでしょうか。簡潔に彼らの歴史を見てみましょう。特記すべきことは、朝鮮民族が過去の歴史で統一された独立を経験したことはほとんどありません。日清戦争から日韓併合に至る間の僅か数年のはずです。三韓、三国、新羅、高麗、李氏朝鮮という各時代にわたり、朝鮮民族の国は中国の王朝に対して属国でした。唐、宋、元、明、清の王朝すべてに属国としての礼を取りました。年号は中国のそれを用い、中国の皇帝に女を貢ぎ(貢女)、朝鮮国王は中国皇帝の使者に九叩頭の礼(簡単に言えば土下座)をもって対しました。太平洋戦争後は南北に分裂し、あまつさえ彼ら自身の動機から民族戦争を起こして、分裂を固定化しました。独立した経験がなく、常に属国であったから、真の外交・政治というものを知りません。個人の次元の問題と政治の次元のそれとを、区別できず、不満や恨みや嫉妬を政治に持ち込み、あくなく恥知らずな要求を繰り返すのです。個人的な感情を政治意識へと昇華させる装置を彼らはもっていません。こんな国とはただ利害計算のみで対応していればいいのです。国家間の友好など考えられません。ともかく日韓間の問題は半世紀前の基本条約で終了しています。
 菅首相は、韓国民の意に反して、とおっしゃった。すでに述べたとおり、国家間の関係において、当該の国民の意に反する事など多々あります。一々その国民の意に反しないように、などと言っていたら外交などはできません。韓国民が、対馬が欲しいと、言えば、彼らの意に反しないように、対馬を譲渡するのですか?韓国企業が、日本の技術の無料供与を望めば、日本の立場を無視して、そうするのですか。「意に反して」は単純な言葉ですが、重大な意味を持ちます。その意味では菅首相には政治的見識のかけらもない。もしこの事をわきまえた上でそう申されたのなら、首相は日本という国家に対して重大な背信行為をしたことになる。首相は市民運動経験者です。市民運動と国際政治は全く異なることを自覚して頂きたい。韓国は、行為で示せ、と言いました。これは要するに、銭をくれ、ということです。これからもたかってやる、ということです。
 民主党政権には甘えの構造があります。政権交代に際し菅首相は、最大の懸案事項である経済問題の審議を拒み選挙に直行された。一昨年麻生氏が政権を取られた前後、リ-マンショックで世界経済の先行きが不安なために、解散に有利な時期を失ってでも経済財政問題に取り組まれたのとは、大違いです。選挙中急に消費税増税を持ち出し、不利とわかるとお詫びする。侘びればすむと思ってらっしゃったら甘えもいいところです。重大問題で失敗すれば引退が常識です。そして沖縄の米軍基地問題。史上類を見ない、ばかばかしい喜劇を演じた末、にっちもさっちも行かなくなった基地問題に対して、民主党政権は沖縄知事選の後とおっしゃる。国政の問題を一地方の選挙に任せる。それで済むと思っている。責任回避という大甘えです。極め付きが千葉法相の留任です。選挙で落ちるという事は選挙民を通じて民意がその人の政治的適確性にNOと言ったのですから、当然やめるべきです。本人も辞めないし、首相も辞めさせない。これなら選挙など不要です。これも大甘え。
 アメリカが通貨量の増加をはかり、緩和策を取り始めました。そのつけは日本の経済にやってきます。アメリカの景気向上政策は日本のデフレ要因を悪化させかねません。それに対して政府は無策無能、ただ政権の維持に汲々とするのみです。民主党政府との心中だけはごめんです。路上巷間、さまざまの声、ほんの十分の一を申し上げました。

(追加)
菅首相の謝罪が中国や韓国でえらく評価されています。同時に中国でも謝罪要求が再燃しました。当然賠償請求なるものも伴うでしょう。ロシアは千島樺太で対日戦勝記念式を行い、北方領土の占拠を正当化しようとし、イギリスも対日戦勝記念を催しています。国際関係とはこういうものです。勝った勝ったという国があるのに、一方では、すみません・すみませんと、謝る国がある。これ外交?菅首相の政治意識の低さにあきれます。
 日本はロシアや中国や英国に軍事的に敗れたのではありません。アメリカに完敗しただけです。真に勝ったと思えば、わざわざ記念式などしません。英国もロシアも、もちろん中国も日本には劣等感を充分に持つ理由があります。
(追加2)
 昨日のネットニュ-スでニュ-ヨ-クでも対日戦勝記念が催されたと聞きました。小規模ですけどね。

いつまで韓国に謝罪するのか?(改訂版)

2010-08-18 03:22:38 | Weblog
いつまで韓国に謝罪をするのか?(改訂版)

 菅首相は数日前に、韓国に日韓併合100周年にあたる時として、韓国の植民地化に対して謝罪文を声明しました。いつまでこの幼劣な隣国に意味のない謝罪を日本政府は続けるのか、と私は問います。20年前の村山談話で充分以上の声明になっているはずです。ここで二つの事が問題になります。まず首相声明の中に「韓国民の意に反して云々」とあることです。もう一つは韓国政府が「行動で示せ」と言っていることです。
 韓国の植民地化は韓国民の意に反したかもしれません。少なくとも現在の韓国民の意には反しているのでしょう。さて歴史において意に反しない出来事がいくらあったでしょうか?古くは、カルタゴは彼らの意に反して、ロ-マに徹底的に破壊されました。アイルランドは彼らの意に反して英国に侵略されてきました。インドもエジプトも彼らの意に反して英国の植民地になりました。インドネシアとオランダ、ヴェトナムとフランスの関係も同様です。さてイギリス、オランダ、フランス諸国が、彼らがかって支配した旧植民地に対して謝罪し賠償したでしょうか?していません。
 植民地政策で一番成功し、そこから多大な利権を引き出したイギリスでさえ、必ずしもイギリスの意向だけでそういう行為をしたのではありません。もしイギリスがそのような行為に出なければ、イギリスはスペインやフランスの属国になっていたでしょう。イギリスは生き残るために必死になり、結果として植民地帝国を作り上げたのです。ここで政治とは何かと考えてみましょう。少なくとも外交における限り、母国の利害を代表し主張します。外交、一般に政治とは利害の駆け引きであり、利害計算そのものでしかありません。そこに一片の情誼をもはさむ余地はありません。ただ締結した約束は守ります。守らない国もありますが。外交に不必要な情誼を加えれば、外交は成り立ちません。植民地化、侵略、政治的圧力など個人的次元では悪徳であっても、外交においては許されます。基本的にそこは弱肉強食の世界です。この法則に従い強国は強国なりに、弱国は弱国なりに駆け引きし反謀をめぐらします。そして条約などの約束が結ばれれば、それに従いそれを護るだけです。この基本に違反すれば結果として戦争を招きかねません。韓国は竹島のみならず対馬も固有の領土のようなことを喧伝していますが、もしかの国がこの路線を強行すれば日本は戦争に訴えるしか手段はなくなります。読者諸氏には、外交は利害計算の術数であると、明確に認識してください。外交ではむしろ意に反する事を押し付けあっているのです。だから外交における最大の美徳は、あるいは武器は我慢です。そして外交と政治の延長上に戦争があります。相手国の意に反することをしたから謝罪云々と言っていたら、外交などできません。
 1910年日本は朝鮮を併合し植民地にしました。歴史的にはただそれだけです。率直に言えば、韓国が植民地になりたくなければ、もっと国力を充実させていればよかったのです。弱いから植民地にされたのです。日本も朝鮮半島を植民地にしなければ、ロシアに半島を奪われ、日本自身がロシアの植民地になっていたでしょう。日本は生き残るために半島を植民地にし、日本本土の防波堤にしたまでです。弱い隣国の存在は大きな危機を招きかねません。おのれを捨てて仁を為すほど、国家間の葛藤と摩擦は甘いものではありません。朝鮮半島は日本でなければ、ロシアの植民地になっていました。さて韓国の皆さん、冷静に考えて、日露両国のどちらの方の植民地になるのを選びますか?現在の時点で、日露両国のどちらにモデルを求めますか?答えは解っているので回答は不要です。
 植民地化に対する日本政府の対応は1965年の日韓基本条約ですべて終結しています。それがすべてです。それ以上の対応は言語と行為の両面において不要です。この条約で日本は韓国に有償3億ドル、無償2億ドル、さらに民間の資金供与3億ドルの援助をしています当時の韓国の国家予算は4億ドルです。国家一つを2年に渡り丸抱えしたようなものです。この資金が韓国経済の発展に大きく寄与したことは、国際経済では常識です。これ以上日本は何をするというのでしょうか?もっともこの条約はこと日本に関する限り、意に反して締結されました。アメリカの強い圧力があったからです。アメリカは韓国が弱体になる事によりアジア全体が共産化することを恐れました。アメリカのこの対応は正しいので、私もかの条約締結には賛成です。この条約ですべておしまいです。それ以上要求されるならお互い運命を天の判断に仰ごうではありませんか!ちなみに基本条約締結時の韓国の一人当たりGDPは100ドルです。
 日本の資金供与が韓国の以後の発展に大きく寄与したことを、韓国政府は一切国民に知らせません。同じ頃、日本製鉄の技術陣が総力をあげて援助し完成した、浦項製鉄所の開設式には日本人は一切招待されていないそうです。韓国は自国の歴史認識を正すべきです。歴史上の事実を一切無視する・できるから日本に対して、厚顔な謝罪要求ができるのです。のみならず、日本名を強制した、韓国語を奪った、などと虚言を弄び、挙句の果ては「従軍慰安婦」なるデマを捏造し、日本人の品位を故意に貶めるような、陋劣な行為を繰り返します。
 なぜ韓国あるいは朝鮮民族一般は、かくも恥知らずで愚劣なのでしょうか。簡潔に彼らの歴史を見てみましょう。特記すべきことは、朝鮮民族が過去の歴史で統一された独立を経験したことはほとんどありません。日清戦争から日韓併合に至る間の僅か数年のはずです。三韓、三国、新羅、高麗、李氏朝鮮という各時代にわたり、朝鮮民族の国は中国の王朝に対して属国でした。唐、宋、元、明、清の王朝すべてに属国としての礼を取りました。年号は中国のそれを用い、中国の皇帝に女を貢ぎ(貢女)、朝鮮国王は中国皇帝の使者に九叩頭の礼(簡単に言えば土下座)をもって対しました。太平洋戦争後は南北に分裂し、あまつさえ彼ら自身の動機から民族戦争を起こして、分裂を固定化しました。独立した経験がなく、常に属国であったから、真の外交・政治というものを知りません。個人の次元の問題と政治の次元のそれとを、区別できず、不満や恨みや嫉妬を政治に持ち込み、あくなく恥知らずな要求を繰り返すのです。個人的な感情を政治意識へと昇華させる装置を彼らはもっていません。こんな国とはただ利害計算のみで対応していればいいのです。国家間の友好など考えられません。ともかく日韓間の問題は半世紀前の基本条約で終了しています。
 菅首相は、韓国民の意に反して、とおっしゃった。すでに述べたとおり、国家間の関係において、当該の国民の意に反する事など多々あります。一々その国民の意に反しないように、などと言っていたら外交などはできません。韓国民が、対馬が欲しいと、言えば、彼らの意に反しないように、対馬を譲渡するのですか?韓国企業が、日本の技術の無料供与を望めば、日本の立場を無視して、そうするのですか。「意に反して」は単純な言葉ですが、重大な意味を持ちます。その意味では菅首相には政治的見識のかけらもない。もしこの事をわきまえた上でそう申されたのなら、首相は日本という国家に対して重大な背信行為をしたことになる。首相は市民運動経験者です。市民運動と国際政治は全く異なることを自覚して頂きたい。韓国は、行為で示せ、と言いました。これは要するに、銭をくれ、ということです。これからもたかってやる、ということです。
 民主党政権には甘えの構造があります。政権交代に際し菅首相は、最大の懸案事項である経済問題の審議を拒み選挙に直行された。一昨年麻生氏が政権を取られた前後、リ-マンショックで世界経済の先行きが不安なために、解散に有利な時期を失ってでも経済財政問題に取り組まれたのとは、大違いです。選挙中急に消費税増税を持ち出し、不利とわかるとお詫びする。侘びればすむと思ってらっしゃったら甘えもいいところです。重大問題で失敗すれば引退が常識です。そして沖縄の米軍基地問題。史上類を見ない、ばかばかしい喜劇を演じた末、にっちもさっちも行かなくなった基地問題に対して、民主党政権は沖縄知事選の後とおっしゃる。国政の問題を一地方の選挙に任せる。それで済むと思っている。責任回避という大甘えです。極め付きが千葉法相の留任です。選挙で落ちるという事は選挙民を通じて民意がその人の政治的適確性にNOと言ったのですから、当然やめるべきです。本人も辞めないし、首相も辞めさせない。これなら選挙など不要です。これも大甘え。
 アメリカが通貨量の増加をはかり、緩和策を取り始めました。そのつけは日本の経済にやってきます。アメリカの景気向上政策は日本のデフレ要因を悪化させかねません。それに対して政府は無策無能、ただ政権の維持に汲々とするのみです。民主党政府との心中だけはごめんです。路上巷間、さまざまの声、ほんの十分の一を申し上げました。

(追加)
菅首相の謝罪が中国や韓国でえらく評価されています。同時に中国でも謝罪要求が再燃しました。当然賠償請求なるものも伴うでしょう。ロシアは千島樺太で対日戦勝記念式を行い、北方領土の占拠を正当化しようとし、イギリスも対日戦勝記念を催しています。国際関係とはこういうものです。勝った勝ったという国があるのに、一方では、すみません・すみませんと、謝る国がある。これ外交?菅首相の政治意識の低さにあきれます。
 日本はロシアや中国や英国に軍事的に敗れたのではありません。アメリカに完敗しただけです。真に勝ったと思えば、わざわざ記念式などしません。英国もロシアも、もちろん中国も日本には劣等感を充分に持つ理由があります。

いつまで韓国に謝罪するのか!

2010-08-15 03:54:13 | Weblog
   いつまで韓国に謝罪をするのか?

 菅首相は数日前に、韓国に日韓併合100周年にあたる時として、韓国の植民地化に対して謝罪文を声明しました。いつまでこの幼劣な隣国に意味のない謝罪を日本政府は続けるのか、と私は問います。20年前の村山談話で充分以上の声明になっているはずです。ここで二つの事が問題になります。まず首相声明の中に「韓国民の意に反して云々」とあることです。もう一つは韓国政府が「行動で示せ」と言っていることです。
 韓国の植民地化は韓国民の意に反したかもしれません。少なくとも現在の韓国民の意には反しているのでしょう。さて歴史において意に反しない出来事がいくらあったでしょうか?古くは、カルタゴは彼らの意に反して、ロ-マに徹底的に破壊されました。アイルランドは彼らの意に反して英国に侵略されてきました。インドもエジプトも彼らの意に反して英国の植民地になりました。インドネシアとオランダ、ヴェトナムとフランスの関係も同様です。さてイギリス、オランダ、フランス諸国が、彼らがかって支配した旧植民地に対して謝罪し賠償したでしょうか?していません。
 植民地政策で一番成功し、そこから多大な利権を引き出したイギリスでさえ、必ずしもイギリスの意向だけでそういう行為をしたのではありません。もしイギリスがそのような行為に出なければ、イギリスはスペインやフランスの属国になっていたでしょう。イギリスは生き残るために必死になり、結果として植民地帝国を作り上げたのです。ここで政治とは何かと考えてみましょう。少なくとも外交における限り、母国の利害を代表し主張します。外交、一般に政治とは利害の駆け引きであり、利害計算そのものでしかありません。そこに一片の情誼をもはさむ余地はありません。ただ締結した約束は守ります。守らない国もありますが。外交に不必要な情誼を加えれば、外交は成り立ちません。植民地化、侵略、政治的圧力など個人的次元では悪徳であっても、外交においては許されます。基本的にそこは弱肉強食の世界です。この法則に従い強国は強国なりに、弱国は弱国なりに駆け引きし反謀をめぐらします。そして条約などの約束が結ばれれば、それに従いそれを護るだけです。この基本に違反すれば結果として戦争を招きかねません。韓国は竹島のみならず対馬も固有の領土のようなことを喧伝していますが、もしかの国がこの路線を強行すれば日本は戦争に訴えるしか手段はなくなります。読者諸氏には、外交は利害計算の術数であると、明確に認識してください。外交ではむしろ意に反する事を押し付けあっているのです。だから外交における最大の美徳は、あるいは武器は我慢です。そして外交と政治の延長上に戦争があります。相手国の意に反することをしたから謝罪云々と言っていたら、外交などできません。
 1910年日本は朝鮮を併合し植民地にしました。歴史的にはただそれだけです。率直に言えば、韓国が植民地になりたくなければ、もっと国力を充実させていればよかったのです。弱いから植民地にされたのです。日本も朝鮮半島を植民地にしなければ、ロシアに半島を奪われ、日本自身がロシアの植民地になっていたでしょう。日本は生き残るために半島を植民地にし、日本本土の防波堤にしたまでです。弱い隣国の存在は大きな危機を招きかねません。おのれを捨てて仁を為すほど、国家間の葛藤と摩擦は甘いものではありません。朝鮮半島は日本でなければ、ロシアの植民地になっていました。さて韓国の皆さん、冷静に考えて、日露両国のどちらの方の植民地になるのを選びますか?現在の時点で、日露両国のどちらにモデルを求めますか?答えは解っているので回答は不要です。
 植民地化に対する日本政府の対応は1965年の日韓基本条約ですべて終結しています。それがすべてです。それ以上の対応は言語と行為の両面において不要です。この条約で日本は韓国に有償3億ドル、無償2億ドル、さらに民間の資金供与3億ドルの援助をしています当時の韓国の国家予算は4億ドルです。国家一つを2年に渡り丸抱えしたようなものです。この資金が韓国経済の発展に大きく寄与したことは、国際経済では常識です。これ以上日本は何をするというのでしょうか?もっともこの条約はこと日本に関する限り、意に反して締結されました。アメリカの強い圧力があったからです。アメリカは韓国が弱体になる事によりアジア全体が共産化することを恐れました。アメリカのこの対応は正しいので、私もかの条約締結には賛成です。この条約ですべておしまいです。それ以上要求されるならお互い運命を天の判断に仰ごうではありませんか!ちなみに基本条約締結時の韓国の一人当たりGDPは100ドルです。
 日本の資金供与が韓国の以後の発展に大きく寄与したことを、韓国政府は一切国民に知らせません。同じ頃、日本製鉄の技術陣が総力をあげて援助し完成した、浦項製鉄所の開設式には日本人は一切招待されていないそうです。韓国は自国の歴史認識を正すべきです。歴史上の事実を一切無視する・できるから日本に対して、厚顔な謝罪要求ができるのです。のみならず、日本名を強制した、韓国語を奪った、などと虚言を弄び、挙句の果ては「従軍慰安婦」なるデマを捏造し、日本人の品位を故意に貶めるような、陋劣な行為を繰り返します。
 なぜ韓国あるいは朝鮮民族一般は、かくも恥知らずで愚劣なのでしょうか。簡潔に彼らの歴史を見てみましょう。特記すべきことは、朝鮮民族が過去の歴史で統一された独立を経験したことはほとんどありません。日清戦争から日韓併合に至る間の僅か数年のはずです。三韓、三国、新羅、高麗、李氏朝鮮という各時代にわたり、朝鮮民族の国は中国の王朝に対して属国でした。唐、宋、元、明、清の王朝すべてに属国としての礼を取りました。年号は中国のそれを用い、中国の皇帝に女を貢ぎ(貢女)、朝鮮国王は中国皇帝の使者に九叩頭の礼(簡単に言えば土下座)をもって対しました。太平洋戦争後は南北に分裂し、あまつさえ彼ら自身の動機から民族戦争を起こして、分裂を固定化しました。独立した経験がなく、常に属国であったから、真の外交・政治というものを知りません。個人の次元の問題と政治の次元のそれとを、区別できず、不満や恨みや嫉妬を政治に持ち込み、あくなく恥知らずな要求を繰り返すのです。個人的な感情を政治意識へと昇華させる装置を彼らはもっていません。こんな国とはただ利害計算のみで対応していればいいのです。国家間の友好など考えられません。ともかく日韓間の問題は半世紀前の基本条約で終了しています。
 菅首相は、韓国民の意に反して、とおっしゃった。すでに述べたとおり、国家間の関係において、当該の国民の意に反する事など多々あります。一々その国民の意に反しないように、などと言っていたら外交などはできません。韓国民が、対馬が欲しいと、言えば、彼らの意に反しないように、対馬を譲渡するのですか?韓国企業が、日本の技術の無料供与を望めば、日本の立場を無視して、そうするのですか。「意に反して」は単純な言葉ですが、重大な意味を持ちます。その意味では菅首相には政治的見識のかけらもない。もしこの事をわきまえた上でそう申されたのなら、首相は日本という国家に対して重大な背信行為をしたことになる。首相は市民運動経験者です。市民運動と国際政治は全く異なることを自覚して頂きたい。韓国は、行為で示せ、と言いました。これは要するに、銭をくれ、ということです。これからもたかってやる、ということです。
 民主党政権には甘えの構造があります。政権交代に際し菅首相は、最大の懸案事項である経済問題の審議を拒み選挙に直行された。一昨年麻生氏が政権を取られた前後、リ-マンショックで世界経済の先行きが不安なために、解散に有利な時期を失ってでも経済財政問題に取り組まれたのとは、大違いです。選挙中急に消費税増税を持ち出し、不利とわかるとお詫びする。侘びればすむと思ってらっしゃったら甘えもいいところです。重大問題で失敗すれば引退が常識です。そして沖縄の米軍基地問題。史上類を見ない、ばかばかしい喜劇を演じた末、にっちもさっちも行かなくなった基地問題に対して、民主党政権は沖縄知事選の後とおっしゃる。国政の問題を一地方の選挙に任せる。それで済むと思っている。責任回避という大甘えです。極め付きが千葉法相の留任です。選挙で落ちるという事は選挙民を通じて民意がその人の政治的適確性にNOと言ったのですから、当然やめるべきです。本人も辞めないし、首相も辞めさせない。これなら選挙など不要です。これも大甘え。
 アメリカが通貨量の増加をはかり、緩和策を取り始めました。そのつけは日本の経済にやってきます。アメリカの景気向上政策は日本のデフレ要因を悪化させかねません。それに対して政府は無策無能、ただ政権の維持に汲々とするのみです。民主党政府との心中だけはごめんです。路上巷間、さまざまの声、ほんの十分の一を申し上げました。

経済人列伝、松永安左衛門

2010-08-14 03:27:30 | Weblog
     松永安左エ門
 
 日本の電力企業は、二人の好色漢(女好き)によって形成されたとも、言えます。二人とは、福沢桃介と松永安左エ門です。まずよりまじめな方から語ってみましょう。安左エ門は1975年(明治8年)に長崎県壱岐群、壱岐島で生まれました。幼名は亀之助、やがて祖父以来の名前を継いで、安左エ門と名乗ります。家は様々な事業を営む、裕福な商人でした。呉服雑貨販売、醸造、網元、船舶運送、そして田畑山林を所有する大地主です。安左エ門は幼少期から腕白で、癇癪持ちで、わがままでした。15歳時、福沢諭吉を慕って、慶応義塾に入学します。しかし勉学にはあまり身が入りません。「学問のすすめ」を書いた諭吉その人に、先生区々たる知識を知るよりはもっと重大な事が人生にはあるはずです、それは何でしょうか、と質問します。諭吉は、うどん屋か風呂屋の三助が適当だろうと、答えます。多分、カチンときたので、安左エ門をからかってやれと思ったのでしょう。諭吉の紹介で三井呉服店(三越の前身)に入り、呉服販売に従事します。面白くなくてすぐ辞めます。ついで、諭吉の養子である福沢桃介に誘われて、利根川水力発電という会社を興そうとします。技術がこの企ての水準まで達せず、企画は挫折します。しかし、この企ては二人の人生に大きな刻印を押します。栴檀は双葉より芳し、あるいは、雀百まで踊り忘れず、の喩えどおり、桃介も安左エ門もその終生の事業は電力会社経営になります。
 24歳、日銀に入社。総裁山本達雄に多分、福沢桃介から紹介されたのが効いたのでしょう、為替掛として就職できました。この間慶応義塾は中退しています。日銀も2年足らずで辞めます。桃介が経営する丸三商会の神戸支店長になります。ここも失敗。大きな仕事をやろうとし過ぎるのです。そしてしばらく桃介宅に居候します。桃介の妻房子からは使用人同様の待遇を受けます。26歳神戸に福松商会を作ります。「福松」とは言うまでもなく、桃介と安左エ門両名の姓を組み合わせたものです。安左エ門は桃介に師事していました。彼は桃介に教えられ、利用され、からかわれ、可愛がられて成長します。そして桃介から精神的に独立した時、安左エ門は真の企業家として活躍し始めます。新会社はなんでも扱う、自称ジェネラル・ブロ-カ-でした。安左エ門は慶応の同窓である武藤山治が采配を振るう、鐘紡を尋ね、商談の機会を伺う内に、紡績工場の燃料として絶対必要な石炭に眼をつけます。武藤の好意で鐘紡に石炭を入荷します。
普通のおとなしい商売だけに安住できる安左エ門ではありません。山下亀三郎という人物と組んで北海道炭を大阪の今西商店に売り込む事に成功し、かなり儲けます。四日市の米富商店と組んで、愛知石炭商会の縄張り荒らしをたくらみます。また大阪市への石炭入札に際して、業者間の談合破りをします。危険な行為です。下手をすると命にかかわります。この辺の行為は、奇道、権道そして多分に悪党的です。この時代、つまり福松商会時代、遊び好きの安左エ門が一番遊んだ時期です。石炭業界は活況をしめしてきます。安左エ門は日露開戦を予想し、石炭が高騰すると読んで、特に低価格粗悪炭を大量に買い込みます。開戦後もなかなか値が上がりません。天の恵みか、九州地方は豪雨に襲われます。当時の技術では採炭は不可能になります。保管しておいた石炭を売って、安左エ門は大儲けします。勢いに乗り炭鉱経営をも目指し、ボロ鉱山を掴まされて失敗します。
桃介の勧めか影響でしょう、相場に手を出します。横浜電鉄の株を買い、60万円の資金を600万円にしようと、たくらみます。株は774円をピ-クにして下がり始め、最終値は28円になります。安左エ門はすべてを失います。桃介は途中でさっさと売り払い、逆に大儲けします。安左エ門は、桃介がなぜ売り時を知らせてくれないか、と恨めしく思いますが、これは結果論で無理な話です。仮に桃介が教えたとしても、安左エ門は売らなかったでしょう。投機とはそういうものです。投機熱の渦中にあって冷徹になれるのは極小数の人間です。そういう点では桃介は天才です。この機微を知っていたから、桃介は安左エ門に忠告しなかったのだろうと、思います。桃介の桃介たる由縁は、このように冷えたところを多分に持つ点です。所詮は自分の体験で知らないと意味がない、教えて解るものじゃない、と桃介は割り切っていたのでしょう。
無一文になった安左エ門は大阪住吉の呉田に移住し、貧乏生活に甘んじます。1年間の閑居生活中、彼は猛烈に読書をします。不肖の弟子もようやく敬愛した諭吉の勧めに従います。すでに諭吉は死去しています。敬愛する師匠の墓に布団を着せることはできません。この1年間で安左エ門の人生・人格は大きく変化します。この間29歳、竹岡一子と結婚します。逸話があります。縁談と石炭投機は同時進行でした。結婚式の日に大事な商談があります。商談をまとめて、息せききって宴席に帰り三々九度の杯を交わしたと伝えられています。安左エ門は遊び人でしたが、一子との夫婦仲はいたって良好でした。その点では桃介とは対照的です。桃介は福沢諭吉の次女房子と結婚します。桃介は「超」がつく美男子であり、房子も美人でした。3人の子を設けたのに、二人の仲は冷え切っていました。安左エ門と桃介の性格の差でしょうか。
三井呉服店、利根川水力、日銀、丸三商会、福松商会という、24歳から33歳までの9年間における安左エ門の行動は、試行錯誤、紆余曲折そして多分に支離滅裂という印象を与えます。がむしゃらで、突っ走り、反倫理的でもあります。しかしこの行動の中で、安左エ門は石炭という方向を少しづつに掴んでゆきます。いつの時期かは解りませんが、安左エ門がかなり成功した頃の逸話です。真偽のほどはわかりかねます。安左エ門が東京から福岡に向かう道中、東海道線の主な駅で必ず下車し、土地の芸者を総揚げして遊びながら、西に向かったそうです。女好き、宴会好き、当然酒好きです。戦後、安左エ門は電力政策を代表してGHQ(占領軍総司令部)とやりあいますが、時の首相吉田茂がどうしても彼を信頼しきれなかったのは、この逸話に代表される安左エ門の性格です。加えて彼は先輩であり師匠でもある福沢桃介から株相場の面白さを教えてもらっております。まさしく飲む・打つ・買うの三悪を猛然と実行しました。福沢諭吉が丸三商店の経営を心配したのも、問題児桃介がよりによって安左エ門のような、人物を経営陣に加えたからです。
 1908年33歳、安左エ門は復活します。三井銀行大阪支店長平賀敏の紹介で、大阪ガスからコ-クスの処理を頼まれます。コ-クスは火力がきつすぎて、家庭用には不向きでした。安左エ門はコ-クス用の特別なコンロを作り、併せて販売します。この作戦は当たりました。彼は、品質の統一と販売量の正確さを重んじます。なによりもお客である主婦層が商品の使用を喜ぶすがたに、安左エ門は感動を受けました。この時点で彼は高利貸資本から産業資本の運営者に代ります。虚業から実業へと、言ってもいいでしょう。ここでも逸話があります。大阪ガスではコ-クスをいちいち精確に計って、安左エ門に渡していました。彼は副社長そして社長の片岡直輝に会い、ガスの生産量からコ-クスのそれは簡単にできるはず、と進言し、片岡を感心させます。化学方程式を理解していれば簡単な判断です。
 東洋製革での技術上の問題に関して、既に社長になっていた平賀敏から相談を受けます。安左エ門は同会社の役員になり、現場から技術的に堪能な者を引き上げ、問題をほぼ解決します。桃介の勧めで泉尾土地会社の経営にも加わります。
 安左エ門の運命を決する時が来ます。かって石炭商のころ、彼は福岡市内に電気軌道を敷く事を申請していました。3年間放置されていましたが、九州地方の博覧会を主宰する福岡市が積極的になります。安左エ門は自己の資金に加え、渋る桃介にも出資させます。更に桃介の紹介で三菱財閥の総帥岩崎久弥も出資します。福博電気軌道を立ち上げます。福岡市内に市電が走るようになりました。桃介が社長、安左エ門は専務です。低料金の方針を貫き、利用者開発に全力を挙げ、どんな辺鄙なところでも走るように、心がけます。1909年、34歳の時のことです。時代は重化学工業を軸とする第二次産業革命に入っていました。安左エ門の、利用者優位、積極経営は当たります。ここから彼の驀進が始まります。電気を利用する側から、電気を生産する側に軸を起きます。日本瓦斯会社を作ります。そして九州電気会社を作り、福博電気軌道と博多電燈を合併させて、九州電燈鉄道会社を作ります。更に唐津鉄道や糸島電気、博多ガスや熊本ガスをも合併して、西部合同ガスを設立します。安左エ門の八面六臂の活躍ぶりを見ていた社員たちは、うちの社長はやくざの親分みたいだ、と評しました。事実出入り寸前の際どい局面もありました。なにしろ土地に石炭が絡む商売です。向こう傷の一つや二つは負うくらいの覚悟は要るでしょう。こうして安左エ門は九州地方の電気とガスの生産を握りました。40歳、博多商業会議所会頭に押されます。同年衆院選に出ます。強敵中野正剛を下して当選します。国会では、シベリア出兵に反対し、炭鉱労働の危険防止を訴え、瀬戸内海の小島が製錬事業で丸裸になっているのを取り上げ、環境保全策の必要性を提案しています。
33歳から40歳までの間に、安左エ門は実業の基礎を作りました。この成功の原因を以下に追究してみましょう。まず安左エ門が産業資本家としての明確な生き方を自覚し自得した事が重要です。高利貸資本のような、他人の金を奪うだけの、ゼロサムゲ-ムから足を洗います。然るべき便益を供与し、その見返りを頂く、この間に会社もお客も共に大きくなる、換言すれば経済成長を遂げる、というのが産業資本の論理です。自らも、また相手も豊になる方向に彼は舵を取ります。
次に時代です。九州地方のみならず、全国的に都市が発展し、住居は郊外に移っていました。この動向の背景には、産業の進展に伴う、サラリ-マン層の増加があります。全国の大都市では、彼らを都心に運ぶ機関を必要としました。小林一三の阪急電鉄、堤康次郎の西部電鉄などはこうして発展しました。安左エ門も同様です。彼が小林や堤と違うのは、ここから一気に工業エネルギ-を供給する側に廻ったことです。それには九州で石炭が豊富に産出するという事情も寄与しています。
そして第二次産業革命です。重化学工業の発展には、石炭と電力は欠かせません。九州という地の利を生かして、安左エ門は一挙に状況をわしづかみにする形で、電力会社経営に邁進します。
安左エ門の人間関係も重要です。彼は試行錯誤、疾風怒濤の時代に幾多の人間関係を作っています。なにしろハチャメチャで、駈けずり廻ったのですから、知名度は抜群です。そして彼には、彼が可愛いなと思わせる魅力があります。最初にコ-クスの件を紹介した平賀敏などが代表です。また福博電気軌道設立に協力したのは桃介ですが、あの冷徹な桃介をして産業資本というじっくりとしか儲からない事業に投資させたのは、安左エ門の魅力です。桃介が投資しなければこの会社はできなかったでしょう。桃助はすでに財界では鬼才として名をなしていました。三菱の岩崎久弥の協力は事業の信用に大きく寄与しましたが、これも桃介の協力によるものです。桃介は、牛に引かれて善光寺に参る欲張り婆のように、安左エ門に引かれて虚業から実業の世界に入ります。
最後に言うべきことは、安左エ門は若くして事業経営に乗り出し、この世界の酸いも甘いも知悉していることです。確かに虚業は捨てましたが、虚業に伴う知識は生きています。安左エ門が短期間に九州の群小資本を合併させた速さは、株式売買も含めて、この種の智恵のさせるところでしょう。
 この間突発事件が起こります。安左エ門は贈賄容疑で収監されます。発端は小林一三の電鉄経営にあります。小林は、彼が経営する箕面有馬電気鉄道(阪急電車の前身)と京阪方面の鉄道をつなぐために必要な、大阪市内路線の認可を市に申請します。この際、大阪市の助役以下の幹部に便を計ってもらう為に、電鉄会社の新株を提供します。大阪市の幹部と小林を仲介したのが、安左エ門です。収賄が発覚します。贈賄容疑で小林と安左エ門も逮捕されます。当時の法律では贈賄側は白状すれば無罪でした。二人は白状しません。白状して他に迷惑がかかる事を恐れました。警察も困ります。小林の親分に当たる岩下清周が桃介に連絡し、二人を説得しましたが、頑として聞き入れません。やむなく岩下と桃介が代理で白状し、明確な証拠を示し、それに小林・松永の両名にむりやり書名捺印させて、出所した(そうです)。ただしこの話には裏がありそうです。こういう時白状しない方が、経営上では有利になります。信用がつくから、きわどい話つまり大きな儲け口がやってくるからです。ともかく電力の鬼と郊外型住宅地開発の魁は一時臭い飯を食いました。
 大正年間に電力会社の合併再編成巨大化が進みます。この動向の音頭を取ったのが安左エ門です。名古屋は彼の盟友である桃介が押さえていました。桃介は名古屋電燈を支配し、群小の同地方の電力会社を合併し、関西の一部の会社も併せて、大同電力を作ります。関西の他の電力会社と九州電燈鉄道会社を併せて東邦電力が誕生します。この会社のボスは安左エ門です。若尾一族の経営で不振にあえぐ東京電燈に安左エ門は乗り込み、筆頭株主になります。こうして日本の電力会社は、東京電燈(後の電力)、大同、東邦、日本、宇治川電力の五社に編成されます。
 経営者である安左エ門は、競争は進歩の母、基礎から技術を磨く、そして一度決心したら不退転、を信条とします。しかし時代は次第に彼の方針とあわなくなってゆきます。各種の産業は統制下に入ります。小林一三も統制の方向で業界をまとめるようになり、安左エ門の批判を浴びます。近衛内閣の逓信大臣である永井柳太郎が、電力国家管理法案を作ろうとしたとき、安左エ門は激論の末に、「官僚は人間の屑だ」と発言し、しばらくして彼は経営から身を引いて、引退します。戦争が終わるまで、売り食い生活を行い、趣味の茶道三昧に明け暮れます。彼の号は耳庵と言います。電力業界は日本発電に統合され、国家の強い指導を受けます。東邦電力も解散します。
 終戦、そして1949年に安左エ門は吉田内閣から電気事業再編審議会委員に任命され、互選で会長になります。時の最高権力はGHQです。GHQの十分割案と安左エ門の九分割案が対立します。分割とは日本の電力供給を10とか9の地域に分けて、行おうとする案です。9と10なら大した違いはないではないかとも、思われますが、決定的な違いがあります。GHQの10分割案では、10の地域は発電・配給を含めて、その地域を独占してしまいます。この案では大きな弊害があります。北陸や東北地方では資金不足のために、電源開発が充分にできません。逆に関東、中部、関西地方では消費量が多く、地域内の電源では不足になり、余っている他の地方から電力を買わなければなりません。そのためには再び日本発電のような、中央統制機関を必要とします。安左エ門の案では、分割された地方は他地方の電源開発をしてよいようになります。典型的な例が関西電力の黒部発電所です。こうなると消費に応じた電力供給が可能になります。また各会社は、ピ-ク時に強い水力発電と安定した供給ができる火力発電のバランスを取ることができます。つまり安左エ門の9分割案の方が、電力会社の自発性が発揮されやすくなります。電気事業再編審議会は解散され公益事業委員会が作られます。吉田内閣は安左エ門の任命をいやがりましたが、彼の電力業界における実績と人望にまけ、安左エ門は委員長代理になります。安左エ門とGHQは対立します。結局1951年に九分割案が通ります。同時に電気代の値上げが行われました。およそ値上げというものはどこでも反対にあうものですが、安左エ門は妥協しつつも、値上げを敢行して、電力業界の経営安定を計ります。この時彼は齢71でした。彼の特記すべき事業はここまでです。以後も色々な会議や事業に参画しています。毛色の変ったものは、A・トインビ-の「歴史の研究」の邦訳に尽力したことです。彼は著しく長命でした。1971年(昭和46年)97歳で死去します。死因はアスペルギリス熱という奇病でした。なお安左エ門の好色に関しては色々な話がありますが、すべて割愛します。ただ彼が公益委員に任命される時、時の首相吉田茂は反対しました。理由は吉田が、池田成彬から聞いた「松永氏の人格に関する問題」でした。昭和初期の恐慌で神戸の鈴木商店が倒れた時、鈴木の総帥金子直吉を評して安左エ門は次のように言いました。金子は立派な事業家だが、惜しいかな女を知らない。女を知らないから金のことも解るらないのだ。政界の連中に金をばらまいておけばこういう事にはならなかったのに、と。
 安左エ門は遺族にあてた遺言状のようなものを残しています。葬儀、墓碑、法名、法事一切不要、勲位勲章断固断れ、邸宅什器美術品等一切寄付、子孫に美田は残さない。といいこの遺言の執行人に時の首相池田隼人以下の人々を指名しています。(昭和36年、1961年)

 参考文献 まかりとおる 新潮社
      鬼才福沢桃介の生涯  NHK出版

経済人列伝、奥村綱雄

2010-08-11 03:33:32 | Weblog
 奥村綱雄 

 野村証券第三代社長、奥村綱雄の人生は、野村證券という関西の一中小金融機関が世界の野村、ガリヴァ-といわれる大企業に成長する過程と併行します。発展の主役が綱雄です。綱雄は明治36年、滋賀県甲賀郡に生まれました。家業は信楽焼の窯元ですが、父勝治郎は惣領ではなく、分家して堺市に移住します。ここで菓子商として成功します。綱雄は大阪商科大学(現大阪市立大学)から京都大学経済学部に進みます。大学生活は有意義でしたが、あまり勉強するタイプではありません。京都大学は当時スタ-教授を抱えていました。教授の教える事の理解に終始する東大型の教育を批判して、京大が設立されたのですから、京大の教授法も独特で特に個人の創意と独創性を重んじます。綱雄は、川上肇や西田幾多郎の講義が面白かったと言っています。京大に進学したことは、彼が本来持つ思考の自由さに、大いに役立ったことでしょう。父親勝治郎は独特の教育観の持ち主でした。大いに遊べ、遊んで智恵を磨け、ということで、当時の学生生活に必要な額の5倍以上の仕送りをしました。大正15年、綱雄は京大を卒業して、野村證券に就職します。すんなりとではありません。三井、三菱、山口銀行(三和銀行の前身)を受け、すべて不合格、教授のお世話で野村證券を紹介され、補欠で合格します。幸い合格者が就職を辞退したので、正式入社になります。入社後すぐ結婚します。相手は堺市浜寺の大地主の娘でした。両家から存分の給付があるので、綱雄の甘い生活は続きます。結婚して一度もまともな帰宅はなかったといわれています。さらに綱雄は名古屋支店長代理時代に、株の相場に手を出して大失敗します。素行はよくない、昇進は遅れる、相場で失敗はするで、妻の実家では離婚を前提として、家族会議が開かれました。普通なら離婚ですが、綱雄は「何か魅力のある男」だからと妻が反対し、彼の首は妻に繋がります。綱雄は終生、妻に対して感謝し続けます。
 綱雄が入社した年は野村證券にとっても重大な転機を迎えつつある時でした。野村徳七の列伝で言いましたように、野村證券の前身は野村商店です。野村商店は徳七が。父親の両替商に飽き足らず、有価証券現物問屋として株式売買と公債引き受けを事業にした商店です。徳七は経営に際して特に調査を重視し、毎日新聞幹部を引き抜きました。それまでの経験と勘と度胸ではなく、数量的な解析に基づく景気の判断をします。調査の野村として有名でした。綱雄が入社する1年前の大正14年に野村商店から独立した野村銀行証券部から更に、野村證券株式会社が分離独立します。この会社は主として公債を扱いました。公債の引き受けあるいは下請けを行います。成立当初の野村證券は株式売買に手を出していません。
綱雄はこのできたばかりの新会社の調査部に配属されます。以後の綱雄の生活にはいろいろな逸話があります。株式相場での失敗は前記しました。昭和4年(1929年)の金解禁が大失敗に終わり、金再禁止の憶測からドル買いが始まります。円で資産を持っていた企業にとってはやむをえない資産防衛です。金解禁の当事者である井上蔵相は、この行為を国賊と呼びました。丁度その時、綱雄は調査部で、円暴落は必至、そううなれば資産をどうする、ぜひ当社の投資相談部へ、というパンフレットを作り全国の地方銀行にばらまきます。これが井上蔵相の眼に触れて、野村證券は叱責されます。綱雄は社長の片岡音吾に呼び出され、辞職を迫られます。幸い周囲の人達が助命嘆願してここでも綱雄の首はつながりました。理由は、あいつはどこか見所がある、です。しかし証券番号書きという閑職にまわされます。
 片岡社長の病気回復の宴会で、重役部長連が次々にお流れを頂戴しました。その時末席にいた綱雄が立ち上がり大声で叫びました。この文句が凄まじい。以下の通りです。
「キサマら、茶坊主ばかりがそろっているから、会社は危機におちるのだ 社長が株式業務について慎重だからといって、誰一人進言したものはおらんじゃないか そんなことでどうする 茶坊主は下がれ」
侮辱された幹部は綱雄の辞職を社長に要求します。片岡社長は綱雄を解雇しません。昭和12年野村證券は株式売買へ進出します。それまで同証券は公債売買のみを扱っていました。堅実ですが利益は大きくはありません。株式売買と同時に野村證券は投資信託に積極的に取り組みます。投資信託は綱雄の終生の事業になります。証券会社には色々な機能があります。まず公債や株式発行の引き受けがあります。次に顧客の株式売買への助言があります。この際お客の資金を預かって、証券会社の思惑で売買する事もありました。山一證券が得意とした分野です。更に証券会社自身の金で株式売買することもあります。株式売買の特殊な形態が投資信託です。投資信託においては、証券会社が顧客に買ってもらった株式から得た資金を、信託会社に委託して、資金を運用させます。この際複数の株式が一定の単位の中にパックされます。こうして危険を分散します。投資信託の売買単位は小さく設定されます。当然投資信託の顧客層は富裕階級に限られず、中産階層にまで広がります。山一證券が、富裕階層や企業の株式売買を得意として、相場を張るのにたいして、野村證券は、この種のリスクを最小限にして、小口の顧客を主な対象としました。ですから投資信託は小口の金を広く集めて産業資本にします。それまで相手にされなかった、中産階級以下の人達から資本集めます。peaples capitalism です。
昭和12年陸軍の招待で関西財界の幹部が満州に行きます。野村徳七にも招待状が来ました。徳七は多忙で行けず、代理の人物を差し向けます。この人物が調査部長代理の綱雄でした。肩書の無さに苦慮した綱雄は勝手に、未だ存在しない企画部長という名刺を刷って、財界幹部の面々と同行します。彼だけ図抜けて若かったのです。ところがこの若造が団体内で一番多弁に咆哮しました。満州は革新官僚の意図の下に、社会主義的色彩の強い国家統制で運営されていました。綱雄は社会主義ではだめだ、資本主義下での自由競争こそが、経済に活力を与える、と言います。メンバ-の面々はびっくりして聞いていたそうです。
 太平洋戦争中の綱雄の地位はさえません。証券部、株式部、調査部の部長代理という閑職を転々としています。戦争であらゆる産業は国家統制下に置かれていますから、証券会社の経営もそう積極的にできるはずもありません。
 昭和20年終戦。取締役に任命された綱雄はどういう判断からか、京都支店長への転勤を希望します。社長にびっくりされました。会社は戦時統制に対応するために、すでに本社機能を東京に移していました。(昭和21年正式に東京が本社に)支店で別格は大阪です。ついで名古屋と福岡が重要でした。京都支店などちっぽけなもので、将来を嘱望された人材のくるところではありません。綱雄はあえて京都への転勤を希望します。これが結果として彼の運命を飛躍させることになります。京都で綱雄は映画館「宝館」を経営し、ぼろもうけして豪遊したと言われています。当時株式売買より映画館経営の方がずっと儲かりました。
 野村證券は野村銀行などの他業種とともに、野村合名会社という持株会社の傘下企業でした。野村合名はGHQにより、財閥に指定されます。そして野村證券の役員のうち上級幹部は公職追放になります。残った重役陣の最高が綱雄になりました。彼は専務取締役を経て、昭和23年45歳で、社長に就任します。ここから綱雄本来の活躍が始まります。
 戦後の数年間、証券会社には本来の仕事はあまりありません。マッカ-サ-は株が嫌いで、日本の株式市場を閉鎖しようとさえ試みました。綱雄の仕事の第一は「野村」という名称を護ることでした。三井銀行は帝国銀行、三菱・安田はそれぞれ千代田・富士と改名させられ、一時期財閥の名称を失います。野村にも同様の命令が来ました。綱雄はなんのかんのと命令の実行をサボタ-ジュします。ためにGHQは社長の更迭さえ考えました。その内占領軍の政策が変わってきます。日本を共産主義の防波堤にすべく、日本の産業育成に方針を切り替えます。こうして野村という名称の変更はうやむやになりました。
(注)敗戦直後のGHQの日本処理の方針は凄まじいものでした。日本の軍事力を壊滅させるために、一切の製造業を破壊しようとさえしました。ほとんどの企業の幹部は追放になりました。各企業の優良設備はすべて使用禁止にして、東南アジアに国に与えるつもりでした。財閥解体、農地改革、ドッジライン、シャウプ税制など多くの改革なるものを日本におしつけます。しかしアメリカ本国では日本の地主など足元にも及ばない大農地所有者がいます。ロックフェラ-やモルガンなどは世界的規模での財閥です。緊縮財政や税制改革を本国で本気になってやったとは、少なくとも戦争直後の時点では考えられません。
 昭和24年ドッジ不況がやってきます。超緊縮予算で日本の産業は死活の時期を迎えます。株式市場も同様です。株は暴落します。この時綱雄は次のような対策を考え、一部を日銀総裁一万田尚人に進言しています。
  放出株の売り出し延期
  増資の調整圧縮
  生保による買出動
  証券保有会社の設置
  信用取引、株式担保金融の実施促進
 昭和26年から綱雄は投資信託事業を本格化してゆきます。まず各地に支店を増設します。百万両と名を打った、千両箱型の貯金箱を各家庭に持って行き、零細な資本を投資信託に繰込みます。綱雄は労組形成には反対でした。野村には労組はありません。反対の理由は、人様のお金を預かり一瞬一瞬の変化に対応しなければならない証券業には罷業はゆるされない、ということです。しかし反対給付として野村の給与は群を抜いていました。上場企業の平均給与額の2倍は超えていたでしょう。しかし仇名がノルマ証券というように、成果主義で仕事はきついものでした。
 綱雄は「ダイアモンド経営」という著書を出版しています。これは彼の経営方針そのものでした。ダイアモンドが中央の大きな面を中心に色々な面により構成され、堅実な構造を持つように、経営も社長中心に取締役全員でもって為されなければならない、と言います。戦後、平の取締役から一気に社長になり、サラリ-マン社長である事を充分に認識していた彼の本音です。彼は自身を軽量社長と呼びました。そしてどんどん膨れあがる重役陣の中から、社長以下副社長と専務6名からなる、トップ・ボ-ド(top・board)を作ります。ボードとは取締役会議のことです。
 昭和31年成長株という概念を経営に導入します。成長株とは、その時の経済の動向にそって大きく伸びるであろう株のことです。以下に当時の成長株の銘柄を列挙しておきます。三井化学、三菱化成、住友化学、東洋高圧、東洋レ-ヨン、倉敷レ-ヨン、東洋紡績、東亜合成、松下電器、横河重機、東京芝浦電気、日立製作所、トヨタ自動車、日本精工、日本軽金属、昭和電工、新三菱重工、東亜燃料、旭硝子、王子製紙、日本セメント、です。
 昭和36年に外資法が改正されますが、これも綱雄の尽力によるところが、大きかったようです。綱雄は日本の株式市場に外資を導入しようとしました。それまでの外資法では外資は日本への投資後、最低7年経過しないと、元利合計を受け取れません。これでは外資は入ってきません。7年が改正により2年になりました。
 逆に日本の企業を外国で上場することも心がけます。昭和36年「株の人工衛星第一号」としてソニ-の株をアメリカ金融市場で売り出します。10株単位のADR(証券預託証書)が22ドル50セントの値をつけました。
 この間昭和34年に社長を引退し会長になっています。年齢は56歳でした。社長になるのも若かったが、引退するのも若く、その出処進退の潔さに周囲は驚きました。もっとも社長を退いたからといって、経済界から引退したわけではなく、野村という一企業の枠を離れて、財界全体のために活躍します。そのためにしょっちゅう外国に出かけます。加えて私的会合の多い人で、宴会大好きです。酒量も相当なものでした。昭和47年(1972年)急性肺炎のため死去します。享年69歳、少し早すぎた死でした。私見を言いますと活動及び酒量過多です。社長を10年以上務めて、社宅に住み、豪遊して借金を2億円残したと伝えられています。

(付)野村證券株式会社
   資本金  100億円
   売上高  1兆5937円
   従業員数  12227人

(補)私(中本)は奥村綱雄という人とは些少ですが、関係があります。まず私の父親が野村證券の社員でした。ですからこの人の名は家庭でも周辺でもよく耳にしました。私はこの人の経営する会社で養われたようなものです。父親が大阪難波支店長に、そして福岡支店長になったいきさつは、奥村氏の伝記を読んでいるうちに、ああなるほどなと、理解できました。また私は高校と大学がこの人と同じです。私は大阪府立三国ヶ丘高校を卒業して、京都大学医学部に進学しています。高校の前身は堺中学です。高校卒業時の同窓会会長が奥村氏でした。卒業証書をいれる筒に、彼の名が書いてあったのを鮮明に記憶しています。
    
  参考文献 野村王国を築いた男、奥村綱雄のトコトン人生   集英社