岩下清周
多くの経済人の伝記を読んでいますと、今まで知らなかった人の事跡が次第に鮮やかになってきます。岩下清周(きよちか)もその一人です。彼の名は明治大正時代の経済界のどこかによく出てきます。小林一三、森永太一朗、藤田伝三郎、豊田佐吉そして渋沢栄一や益田孝などは清周と多くの重要な接点を持っています。清周の事跡を非常に解りやすく、簡明に言えば、大阪五大私鉄のうち、阪急電車と近鉄電車の事実上の創立者が彼である事です。ちなみに阪急と近鉄は他の三つの私鉄の上に冠然と位置しています。また清周の寄与をやや抽象的に言えば、工業立国論です。彼は資産があっても資本の足りない企業に積極的に融資し、起業させ、工業を振興して、国家の繁栄を図るのが、銀行の使命であると信じ、その道を驀進しました。
清周は1857年(安政4年)信州松代藩士岩下左源太の長男として生まれています。幼名は小早太と言います。父親は夭折し、清周は叔父のもとで育てられます。負けん気の強い、腕白な子供でした。藩校に通い、13歳で藩主じきじきの四書五経検定に合格していますから、秀才です。18歳時、家屋敷と家財を処分し上京します。海軍兵学校を受けますが、体格の点で不合格になります。英語塾である立教学院に通い、大学南校(東大)を目指します。ある時ふと見た東京商法講義所の看板を見て、中に入り学校の主旨を尋ねます。商業関係の教育を、それも実践的な教育をするという説明に魅かれますが、東京出身者だけ学費が安いという項目に疑問を抱き、抗議します。校長の矢野二郎はその理由(東京府の資金で創設された)を清周に説明します。矢野は清周を気に入り入学させます。東京商法講義所は後に、東京高等商業学校を経て、現在では一橋大学になっています。もっとも、1年後には岩崎弥太郎達により設立された三菱商業学校の方に転校しています。
清周の最初の就職先は三井物産です。三井物産の前身である先取会社は明治6年(1876年)に井上馨の音頭で設立されました。社長は井上、副社長は益田孝、他に藤田伝三郎や馬越恭平などが役員にいました。ちなみに井上は大阪にも先取会社を設立しており、この会社は藤田組に引き継がれます。井上が政府にもどった時、三井組で会社を経営しないかという話になります。三井の三野村利左衛門が、益田孝を社長にして一任するべく話をまとめます。益田は三井から経営を請け負わされた形になりました。益田が退任して以後、三井の合名会社となり、正式に三井財閥が経営する会社になります。1878年(明治11年)清周は三井物産に入社します。逸話があります。販売上の事で、清周は馬越恭平からこっぴどく叱責されます。加えてそろばんで頭を叩かれます。清周は短刀をもって馬越の家におしかけ、衆目の面前でこのような叱責を浴びた以上、理解できる説明がなければ、覚悟して欲しい、と言います。馬越は必死になって説明したそうです。
清周は1882年(明治15年)にアメリカに派遣されます。二度渡米しました。しかし三井物産のニュ-ヨ-ク支店が閉鎖されたために、翌年支店長としてパリに派遣されます。25歳で支店長です。清周は正式に学校を卒業し、立教学院で英語をしっかり習得しています。当時の学歴はこんなに重要な意味を持ちました。外国派遣はエリ-トの道でもあります。清周と同時期にパリにいた加藤恒忠は清周のことを、無愛想な毒舌、新服をきちっと着て、一糸乱さない髪を中央で左右に分けた彼の態度は傲岸不遜で、親しみを豪も感じさせなかった、と言っています。そして加藤は清周と終生の友になります。加藤は清周のことを、近づき難く親しみ易い、と表現しています。この言葉が清周の人格を語るに最も相応しいでしょう。ともかく彼は、事実傲岸不遜で鼻っ柱の強い自信家でした。この性格が彼をして事業に成功せしめ、同時に彼の失脚の原因にもなります。
パリ滞在は清周にとって大きな財産になりました。パリ滞在日本人はたいていエリ-トです。パリだけでなく彼らは欧州全体を旅行します。ドイツやイギリスあるいはロシアなどなどの留学生仲間と親密になります。またパリには政府高官がやってきます。彼らとの知遇は将来仕事をするのに役立ちます。高橋是清は米国で非常に苦労し一時奴隷にされましたが、そういう境遇でも留学生仲間の知遇により、人間関係は豊になり、就職や仕事の拡張に大いに役立ちました。清周と特に昵懇になった人物は後の首相桂太郎です。彼は2000円の借金を負います。どうしても急遽返さなければならなくなり、三井物産パリ支店長の清周に相談します。彼は桂に独断で2000円融通しています。清周はパリ滞在中、10年前の普仏戦争でフランスが敗れた原因を調べ、仏軍の兵器不足にその原因があるとして、兵器国産論を説きます。またフランス資本を導入して、シンジケ-ト(融資団)を作ろうとも思います。帰国後これらの事を会社や政府関係者に説きますが、入れられず閑職にまわされます。往々として楽しまず、やがて物産をやめ、品川電燈を起業します。この会社経営は失敗します。東京電燈という先輩がすでに居たのと、電燈事業自体が時期尚早でした。清周の持論は工業立国論でした。ともかく彼はこの方針で突っ走ります。品川電燈で失敗した彼は米穀取引所の理事になります。投機業でしたが、この世界では成功します。しかし彼を相場師にしたくない周囲の斡旋で清周は三井銀行に入ることになりました。
1891年(明治24年)東京本店の副支配人として三井銀行に入社します。当時の三井銀行の実力者は中上川彦次郎でした。彼は福沢諭吉の甥であり女婿でした。彼によって三井は立て直されたといわれます。中上川はともかく人材を集めていました。清周をスカウトします。その時中上川は益田孝に清周のことを尋ねます。益田は、大変な暴れ馬だ、手を焼くぞ、と言います。中上川は三井の商業資本としての性格を変えて工業資本にしようと思っていました。この点では、つまり基本的な点では、中上川と清周は意見が合いました。
1895年(明治28年)清周は大阪支店長になります。彼はそれまでの銀行経営からは考えられない融資を開始します。彼の方針は、企業活動援助のためにどんどん融資することです。銀行は利鞘を稼ぐためにあるのではない、資産はあるが資本不足で思うように事業を展開できない、企業に融資する事が使命だと、言い切ります。融資の可否は、事業と人です。事業に将来性があり、事業を行う人に展望と見識があれば、門地や家格にこだわらず融資しました。それまで融資の対象とされなかった取引所の仲買人にも融資します。当時としては、多分今でもかなりな程度、破天荒な企てです。彼の融資があまりに大胆なのを本店の中上川が心配します。また中上川は以前大阪にいた時、大阪商人のいやらしさに憤慨した経験があり、清周が大阪経済界にあまりにも深入りするのを、嫌いました。こうして清周は横浜支店長に左遷されます。プライドを傷つけられた清周は三井銀行を辞めます。大阪支店長としては1年のみ勤務したことになります。中上川の心配は杞憂ではなかったようです。清周は後年北浜疑獄という事件で、それまで発展に尽くしてきた大阪人に裏切られる形になります。
1986年(明治29年)清周は北浜銀行を立ち上げます。資本金は300万円、磯野小右衛門、藤田伝三郎、久原庄三郎(久原房之介の父親)の三人が出します。初代頭取は久原庄三郎、二代は渡辺洪基、三代は原敬でした。後に清周も頭取になりますが、当初から会社を運営していたのは彼でした。北浜銀行を設立した清周は、自分の理想どおりの経営を遂行します。工業立国論に基づき、多くの事業に融資します。それまでの銀行経営は短期融資を基本とし、金利稼ぎが目的でした。清周は長期の工業金融を目指します。長期とは10年から20年におよぶ期間にわたる投資です。また彼は証券会社設立構想も持っていました。債権の発行支援も考えていました。つまり、預金、株式、債権のあらゆる面に渡る工業資金融通が彼の意図するところでした。また資本不足で経営困難になり、アメリカのハリマンに打診された東清鉄道売却に反対し、南満州鉄道創立総会に積極的に関与し監事に選出されています。彼の伝記によれば、彼が関わった主要な事業は30近くありますが、代表的なものは箕面有馬電気軌道(阪急電車)、大阪電気軌道(近鉄電車)、才賀電気商会、大阪合同紡績、豊田織機、阪神電気軌道(阪神電車)、森永製菓、大阪ガス、鬼怒川水力電気そして南満州鉄道(満鉄)などです。彼が関わった事業は全部工業資本に属するものです。
これらの事業中逸話性に富むのは、阪急と近鉄電車の創設でしょう。京阪神急行(阪急電車)の前身は箕面有馬電気鉄道と言います。更にその前身を阪鶴鉄道と言います。この会社の役員達は、大阪の梅田から箕面、宝塚に至る電気軌道を計画していました。そのために発行した株も一時は高値でしたが、日露戦争後の不況で阪鶴鉄道の株は暴落し、この鉄道は国有になり、清算される運命にありました。この時役員の一人である小林一三は清周に、この事業をやらせて欲しい、と言い株の引き受けを依頼します。この時清周は小林を、君の言い方は給料をもらう者の言い方だ、真に事業に責任を持つ者の言い方ではないと、叱責します。小林は不覚悟を謝し、もう一度依頼します。こうして阪急電車の創立が決定しました。小林はアイデアマンです。梅田から池田・箕面まで歩き、この土地は将来急増するサラリ-マン階層の住宅地に最適だと判断します。加えて阪鶴鉄道の解散云々でこの株価は暴落していますから、会社が成功して株価が上がれば大儲けできます。また今のうちに二束三文の沿線周辺の土地を買占め、鉄道路線が進展するに従い、その土地を売れば、投資資金は簡単に回収できると踏みました。阪急電車は小林が作ったようなものですが、清周の一諾がなければ、開設は不可能でした。小林は慶応義塾卒業後三井銀行に入り、大阪支店勤務になり、当時の支店長である清周と知り合いになり可愛がられます。小林は本来作家志望で銀行の仕事に飽き飽きしていました。清周に引き抜かれ阪鶴鉄道の役員になります。小林の文学志望は、彼が創立した宝塚少女歌劇に生かされています。
1906年(明治39年)大阪電気軌道(近鉄電車)が設立されます。大阪奈良間に電車を走らせる計画です。競争線が後に出現しないようにするためには、大阪奈良間を最速最短距離で結ばなければねりません。生駒山脈を越えるのか、そのどてっぱらを貫通するのか、計画は揺れます。当初はケ-ブルで電車を山に上げて引き降ろす予定でしたが、トンネル貫通に計画が変わります。300万円の資本金の会社が総工費750万円(予定)を負担しなければなりません。社長は自信をなくし退任します。清周は会社に対して融資に融資を重ね、自ら大阪電気軌道の社長になって督戦します。特に生駒トンネル貫通が難工事でした。落盤事故も起き、152名が生き埋めになり、19名が志望します。1914年(大正3年)にトンネルは開通し、しばらくして軌道は完成し、電車が走り始めます。しかし最初は意外と乗客は少なく、大阪電気軌道の経営難が非難されます。これが清周排撃のきっかけになります。この工事は大林組が引き受けました。大林芳五郎の損得を度外視した、健闘が印象的です。芳五郎は清周に殉じるつもりでした。事実後に起きた北浜疑獄事件に際し、芳五郎は徹底的に清周をかばい、為にか1年後に肺膿瘍で死去しています。
清周は大阪に新知識人をたくさん招来しました。特に山本達雄総裁の方針に反して総退陣した日銀の役員達の多くを大阪の企業に斡旋しました。大阪は商人の町ですから、知的雰囲気に乏しいところがあります。東京帝大に続く第二の帝大は当然大阪に造られるはずでした。政府もその方針でした。しかし大阪市民が猛反対します。大学を作り、学問なぞを学ばせたら、子供達は商売を怠ける、というのです。この雰囲気を見ていた京都市民は帝大設置を嘆願し、京都帝大が誕生しました。後にできた大阪帝大は常に京大の後塵を拝し、理科系片肺大学であり続けています。戦前まで東京と大阪の資本力は対等でした。戦後徐々に東京に差を開かれた一因は、大阪の反知的雰囲気にもあります。もうかりまっか、だけではやってゆけません。
大阪電気鉄道の工事は当初の予定を大幅に超えて、総工費800万円以上になりました。清周が積極的に支援し融資したために、北浜銀行も赤字になります。8分利付優先株を発行しましたが、売れ残ります。役員が株を引き受けるか、減資するかの選択で役員会はもめます。この時監査役の野村徳七(野村證券の創業者)が突然辞職します。役員の意志不一致をあからさまにするようなものです。裏切りと言われても仕方はないでしょう。ここで大阪日日新聞の清周攻撃が始まります。清周排撃の世論が盛り上がります。清周は日銀特融を求めます。日銀の条件の一つが藤田家による保障でした。しかし清周と昵懇だった伝三郎は既になく、後継者である平太郎は、清周の辞任を求めます。大正3年6月清周は辞任します。平太郎は新社長を任命します。新社長は経営内容を独断で一方的に公表し、北浜銀行は自動的に営業停止状態に追い込まれます。清周は背任横領で告発されます。告発された時彼は衆議院議員として東京にいました。
清周への告発は7つありますが、おおまかに言えば、株式を通貨とみなすか否かの問題に帰着するようです。みなさなければ虚偽・詐欺になります。自身の北浜銀行や融資する企業にどんどん株を発行させる、あるいは銀行の株を融資の手段とする、などの方法は充分にありえます。清周自身が証券会社を構想したくらいですから。清周が工業への長期融資を押し進めるためには、どうしても、通貨で新たな通貨を作る株式発行、という方法は必要です。この方法は経済に暗い者から見れば一種のペテンに見えます。清周はともかく派手にどんどん融資したのですから、眼につきます。日産コンツエルンを作った鮎川義介は、三井三菱の商業融資に飽き足らず、株式発行で資金を得る直接投資の方法を取りました。判事や検事には、現在では常識になっている、現金と株と債権の同質性が理解できなかったのでしょう。検事の論告の中に、本来金を貸し付けてその利子を稼ぐのが本来の銀行業務なのに、というくだりがあります。
控訴そして上告と裁判を4度繰り返し、1921年(大正10年)判決が確定します。懲役3年です。清周の私産はすべて公収され、彼自身は服役します。100日服役し恩赦で出所しました。出所してすぐ東京と大阪で雪冤会が開かれました。冤罪を雪ぐ(そそぐ)という意味の集会で、当時の有力財界人のほとんどがその発起人に名を連ねています。清周はやがて富士山麓に引退し、不二農園を営みます。また救らい事業にも取り組みます。1928年(昭和3年)死去、享年71歳。彼の長男荘一はカトリック教会の司祭として生きます。清周や彼の娘も信者でした。彼がよく口にした言葉は、100歩先が見える者は狂人視され、50歩先を見る者は犠牲者となり、1歩先を見るものが成功者となり、現在を見えない者が失敗者になる、でした。彼は50歩先を見たのでしょう。
彼の失敗の原因はいろいろあります。まず彼の融資方法の先進性があります。長期金融のために株式発行を多用します。このやり方は誤解され、また失敗すれば損害が大きくなります。昨今のリ-マンショックに似ます。そして大胆で大規模な投資をします。成功すればその企業は阪急や近鉄のように大きく伸びますが、失敗すれば損失も大きい。背任に問われかねません。この世界では成功が第一で、敗者は常に裁かれます。また工業は投資の回収に時間がかかります。そして彼の性格です。傲岸不遜で自信家、まっしぐらに突進します。いきおい慎重さを欠き、人の意見に耳を貸さなくなります。周囲の反発は必至です。そして周囲の財界人の嫉妬もあります。特に旧来のやり方を踏襲していた銀行は、おのれの中庭をかき乱されたように思ったでしょう。
岩下清周のように、工業を支援する活動を自らの企業家精神とした人は他にもいます。金子直吉は、鈴木商店という商社兼銀行のような会社を軸として、潰れかけた製造業に融資し、その再建を助けました。そしてかなりの企業を育てた後に、自身は破産します。先に述べた鮎川義介もやはり最後には銀行からの融資不足に泣きます。理研の大河内正敏は科学研究を軸に多くの企業を育てましたが、そのほとんどは中規模の企業でした。工業立国を計った企業が危機を迎えた時、既成財閥の金融機関がそれを買い取ります。
清周の銀行事業は、もしこの銀行に発券機能があればもっと成功したでしょう。アメリカの銀行の多くは発券銀行として出発しました。銀行が自身の銀行券を発行します。それを適当な企業に貸付けます。企業が成功すれば銀行も発展します。企業が失敗すれば両者は共倒れです。こうして雨後のたけのこのように多くの企業と銀行が乱立し、一部の成功者が多くの失敗者の資金と労働を吸収して育ちました。清周には発券銀行の方が似合っています。人は彼を銀行家か事業家かと問います。私は、彼には国家財政の担当が最適であったと思います。国家には日銀という発券銀行があるからです。もっとも日銀の主流はおしなべて均衡主義ですから、せっかくの機能も役に立たないことが多いのですが。
参考文献
世評正しからず、銀行家・岩下清周の闘い 東洋経済新報社
多くの経済人の伝記を読んでいますと、今まで知らなかった人の事跡が次第に鮮やかになってきます。岩下清周(きよちか)もその一人です。彼の名は明治大正時代の経済界のどこかによく出てきます。小林一三、森永太一朗、藤田伝三郎、豊田佐吉そして渋沢栄一や益田孝などは清周と多くの重要な接点を持っています。清周の事跡を非常に解りやすく、簡明に言えば、大阪五大私鉄のうち、阪急電車と近鉄電車の事実上の創立者が彼である事です。ちなみに阪急と近鉄は他の三つの私鉄の上に冠然と位置しています。また清周の寄与をやや抽象的に言えば、工業立国論です。彼は資産があっても資本の足りない企業に積極的に融資し、起業させ、工業を振興して、国家の繁栄を図るのが、銀行の使命であると信じ、その道を驀進しました。
清周は1857年(安政4年)信州松代藩士岩下左源太の長男として生まれています。幼名は小早太と言います。父親は夭折し、清周は叔父のもとで育てられます。負けん気の強い、腕白な子供でした。藩校に通い、13歳で藩主じきじきの四書五経検定に合格していますから、秀才です。18歳時、家屋敷と家財を処分し上京します。海軍兵学校を受けますが、体格の点で不合格になります。英語塾である立教学院に通い、大学南校(東大)を目指します。ある時ふと見た東京商法講義所の看板を見て、中に入り学校の主旨を尋ねます。商業関係の教育を、それも実践的な教育をするという説明に魅かれますが、東京出身者だけ学費が安いという項目に疑問を抱き、抗議します。校長の矢野二郎はその理由(東京府の資金で創設された)を清周に説明します。矢野は清周を気に入り入学させます。東京商法講義所は後に、東京高等商業学校を経て、現在では一橋大学になっています。もっとも、1年後には岩崎弥太郎達により設立された三菱商業学校の方に転校しています。
清周の最初の就職先は三井物産です。三井物産の前身である先取会社は明治6年(1876年)に井上馨の音頭で設立されました。社長は井上、副社長は益田孝、他に藤田伝三郎や馬越恭平などが役員にいました。ちなみに井上は大阪にも先取会社を設立しており、この会社は藤田組に引き継がれます。井上が政府にもどった時、三井組で会社を経営しないかという話になります。三井の三野村利左衛門が、益田孝を社長にして一任するべく話をまとめます。益田は三井から経営を請け負わされた形になりました。益田が退任して以後、三井の合名会社となり、正式に三井財閥が経営する会社になります。1878年(明治11年)清周は三井物産に入社します。逸話があります。販売上の事で、清周は馬越恭平からこっぴどく叱責されます。加えてそろばんで頭を叩かれます。清周は短刀をもって馬越の家におしかけ、衆目の面前でこのような叱責を浴びた以上、理解できる説明がなければ、覚悟して欲しい、と言います。馬越は必死になって説明したそうです。
清周は1882年(明治15年)にアメリカに派遣されます。二度渡米しました。しかし三井物産のニュ-ヨ-ク支店が閉鎖されたために、翌年支店長としてパリに派遣されます。25歳で支店長です。清周は正式に学校を卒業し、立教学院で英語をしっかり習得しています。当時の学歴はこんなに重要な意味を持ちました。外国派遣はエリ-トの道でもあります。清周と同時期にパリにいた加藤恒忠は清周のことを、無愛想な毒舌、新服をきちっと着て、一糸乱さない髪を中央で左右に分けた彼の態度は傲岸不遜で、親しみを豪も感じさせなかった、と言っています。そして加藤は清周と終生の友になります。加藤は清周のことを、近づき難く親しみ易い、と表現しています。この言葉が清周の人格を語るに最も相応しいでしょう。ともかく彼は、事実傲岸不遜で鼻っ柱の強い自信家でした。この性格が彼をして事業に成功せしめ、同時に彼の失脚の原因にもなります。
パリ滞在は清周にとって大きな財産になりました。パリ滞在日本人はたいていエリ-トです。パリだけでなく彼らは欧州全体を旅行します。ドイツやイギリスあるいはロシアなどなどの留学生仲間と親密になります。またパリには政府高官がやってきます。彼らとの知遇は将来仕事をするのに役立ちます。高橋是清は米国で非常に苦労し一時奴隷にされましたが、そういう境遇でも留学生仲間の知遇により、人間関係は豊になり、就職や仕事の拡張に大いに役立ちました。清周と特に昵懇になった人物は後の首相桂太郎です。彼は2000円の借金を負います。どうしても急遽返さなければならなくなり、三井物産パリ支店長の清周に相談します。彼は桂に独断で2000円融通しています。清周はパリ滞在中、10年前の普仏戦争でフランスが敗れた原因を調べ、仏軍の兵器不足にその原因があるとして、兵器国産論を説きます。またフランス資本を導入して、シンジケ-ト(融資団)を作ろうとも思います。帰国後これらの事を会社や政府関係者に説きますが、入れられず閑職にまわされます。往々として楽しまず、やがて物産をやめ、品川電燈を起業します。この会社経営は失敗します。東京電燈という先輩がすでに居たのと、電燈事業自体が時期尚早でした。清周の持論は工業立国論でした。ともかく彼はこの方針で突っ走ります。品川電燈で失敗した彼は米穀取引所の理事になります。投機業でしたが、この世界では成功します。しかし彼を相場師にしたくない周囲の斡旋で清周は三井銀行に入ることになりました。
1891年(明治24年)東京本店の副支配人として三井銀行に入社します。当時の三井銀行の実力者は中上川彦次郎でした。彼は福沢諭吉の甥であり女婿でした。彼によって三井は立て直されたといわれます。中上川はともかく人材を集めていました。清周をスカウトします。その時中上川は益田孝に清周のことを尋ねます。益田は、大変な暴れ馬だ、手を焼くぞ、と言います。中上川は三井の商業資本としての性格を変えて工業資本にしようと思っていました。この点では、つまり基本的な点では、中上川と清周は意見が合いました。
1895年(明治28年)清周は大阪支店長になります。彼はそれまでの銀行経営からは考えられない融資を開始します。彼の方針は、企業活動援助のためにどんどん融資することです。銀行は利鞘を稼ぐためにあるのではない、資産はあるが資本不足で思うように事業を展開できない、企業に融資する事が使命だと、言い切ります。融資の可否は、事業と人です。事業に将来性があり、事業を行う人に展望と見識があれば、門地や家格にこだわらず融資しました。それまで融資の対象とされなかった取引所の仲買人にも融資します。当時としては、多分今でもかなりな程度、破天荒な企てです。彼の融資があまりに大胆なのを本店の中上川が心配します。また中上川は以前大阪にいた時、大阪商人のいやらしさに憤慨した経験があり、清周が大阪経済界にあまりにも深入りするのを、嫌いました。こうして清周は横浜支店長に左遷されます。プライドを傷つけられた清周は三井銀行を辞めます。大阪支店長としては1年のみ勤務したことになります。中上川の心配は杞憂ではなかったようです。清周は後年北浜疑獄という事件で、それまで発展に尽くしてきた大阪人に裏切られる形になります。
1986年(明治29年)清周は北浜銀行を立ち上げます。資本金は300万円、磯野小右衛門、藤田伝三郎、久原庄三郎(久原房之介の父親)の三人が出します。初代頭取は久原庄三郎、二代は渡辺洪基、三代は原敬でした。後に清周も頭取になりますが、当初から会社を運営していたのは彼でした。北浜銀行を設立した清周は、自分の理想どおりの経営を遂行します。工業立国論に基づき、多くの事業に融資します。それまでの銀行経営は短期融資を基本とし、金利稼ぎが目的でした。清周は長期の工業金融を目指します。長期とは10年から20年におよぶ期間にわたる投資です。また彼は証券会社設立構想も持っていました。債権の発行支援も考えていました。つまり、預金、株式、債権のあらゆる面に渡る工業資金融通が彼の意図するところでした。また資本不足で経営困難になり、アメリカのハリマンに打診された東清鉄道売却に反対し、南満州鉄道創立総会に積極的に関与し監事に選出されています。彼の伝記によれば、彼が関わった主要な事業は30近くありますが、代表的なものは箕面有馬電気軌道(阪急電車)、大阪電気軌道(近鉄電車)、才賀電気商会、大阪合同紡績、豊田織機、阪神電気軌道(阪神電車)、森永製菓、大阪ガス、鬼怒川水力電気そして南満州鉄道(満鉄)などです。彼が関わった事業は全部工業資本に属するものです。
これらの事業中逸話性に富むのは、阪急と近鉄電車の創設でしょう。京阪神急行(阪急電車)の前身は箕面有馬電気鉄道と言います。更にその前身を阪鶴鉄道と言います。この会社の役員達は、大阪の梅田から箕面、宝塚に至る電気軌道を計画していました。そのために発行した株も一時は高値でしたが、日露戦争後の不況で阪鶴鉄道の株は暴落し、この鉄道は国有になり、清算される運命にありました。この時役員の一人である小林一三は清周に、この事業をやらせて欲しい、と言い株の引き受けを依頼します。この時清周は小林を、君の言い方は給料をもらう者の言い方だ、真に事業に責任を持つ者の言い方ではないと、叱責します。小林は不覚悟を謝し、もう一度依頼します。こうして阪急電車の創立が決定しました。小林はアイデアマンです。梅田から池田・箕面まで歩き、この土地は将来急増するサラリ-マン階層の住宅地に最適だと判断します。加えて阪鶴鉄道の解散云々でこの株価は暴落していますから、会社が成功して株価が上がれば大儲けできます。また今のうちに二束三文の沿線周辺の土地を買占め、鉄道路線が進展するに従い、その土地を売れば、投資資金は簡単に回収できると踏みました。阪急電車は小林が作ったようなものですが、清周の一諾がなければ、開設は不可能でした。小林は慶応義塾卒業後三井銀行に入り、大阪支店勤務になり、当時の支店長である清周と知り合いになり可愛がられます。小林は本来作家志望で銀行の仕事に飽き飽きしていました。清周に引き抜かれ阪鶴鉄道の役員になります。小林の文学志望は、彼が創立した宝塚少女歌劇に生かされています。
1906年(明治39年)大阪電気軌道(近鉄電車)が設立されます。大阪奈良間に電車を走らせる計画です。競争線が後に出現しないようにするためには、大阪奈良間を最速最短距離で結ばなければねりません。生駒山脈を越えるのか、そのどてっぱらを貫通するのか、計画は揺れます。当初はケ-ブルで電車を山に上げて引き降ろす予定でしたが、トンネル貫通に計画が変わります。300万円の資本金の会社が総工費750万円(予定)を負担しなければなりません。社長は自信をなくし退任します。清周は会社に対して融資に融資を重ね、自ら大阪電気軌道の社長になって督戦します。特に生駒トンネル貫通が難工事でした。落盤事故も起き、152名が生き埋めになり、19名が志望します。1914年(大正3年)にトンネルは開通し、しばらくして軌道は完成し、電車が走り始めます。しかし最初は意外と乗客は少なく、大阪電気軌道の経営難が非難されます。これが清周排撃のきっかけになります。この工事は大林組が引き受けました。大林芳五郎の損得を度外視した、健闘が印象的です。芳五郎は清周に殉じるつもりでした。事実後に起きた北浜疑獄事件に際し、芳五郎は徹底的に清周をかばい、為にか1年後に肺膿瘍で死去しています。
清周は大阪に新知識人をたくさん招来しました。特に山本達雄総裁の方針に反して総退陣した日銀の役員達の多くを大阪の企業に斡旋しました。大阪は商人の町ですから、知的雰囲気に乏しいところがあります。東京帝大に続く第二の帝大は当然大阪に造られるはずでした。政府もその方針でした。しかし大阪市民が猛反対します。大学を作り、学問なぞを学ばせたら、子供達は商売を怠ける、というのです。この雰囲気を見ていた京都市民は帝大設置を嘆願し、京都帝大が誕生しました。後にできた大阪帝大は常に京大の後塵を拝し、理科系片肺大学であり続けています。戦前まで東京と大阪の資本力は対等でした。戦後徐々に東京に差を開かれた一因は、大阪の反知的雰囲気にもあります。もうかりまっか、だけではやってゆけません。
大阪電気鉄道の工事は当初の予定を大幅に超えて、総工費800万円以上になりました。清周が積極的に支援し融資したために、北浜銀行も赤字になります。8分利付優先株を発行しましたが、売れ残ります。役員が株を引き受けるか、減資するかの選択で役員会はもめます。この時監査役の野村徳七(野村證券の創業者)が突然辞職します。役員の意志不一致をあからさまにするようなものです。裏切りと言われても仕方はないでしょう。ここで大阪日日新聞の清周攻撃が始まります。清周排撃の世論が盛り上がります。清周は日銀特融を求めます。日銀の条件の一つが藤田家による保障でした。しかし清周と昵懇だった伝三郎は既になく、後継者である平太郎は、清周の辞任を求めます。大正3年6月清周は辞任します。平太郎は新社長を任命します。新社長は経営内容を独断で一方的に公表し、北浜銀行は自動的に営業停止状態に追い込まれます。清周は背任横領で告発されます。告発された時彼は衆議院議員として東京にいました。
清周への告発は7つありますが、おおまかに言えば、株式を通貨とみなすか否かの問題に帰着するようです。みなさなければ虚偽・詐欺になります。自身の北浜銀行や融資する企業にどんどん株を発行させる、あるいは銀行の株を融資の手段とする、などの方法は充分にありえます。清周自身が証券会社を構想したくらいですから。清周が工業への長期融資を押し進めるためには、どうしても、通貨で新たな通貨を作る株式発行、という方法は必要です。この方法は経済に暗い者から見れば一種のペテンに見えます。清周はともかく派手にどんどん融資したのですから、眼につきます。日産コンツエルンを作った鮎川義介は、三井三菱の商業融資に飽き足らず、株式発行で資金を得る直接投資の方法を取りました。判事や検事には、現在では常識になっている、現金と株と債権の同質性が理解できなかったのでしょう。検事の論告の中に、本来金を貸し付けてその利子を稼ぐのが本来の銀行業務なのに、というくだりがあります。
控訴そして上告と裁判を4度繰り返し、1921年(大正10年)判決が確定します。懲役3年です。清周の私産はすべて公収され、彼自身は服役します。100日服役し恩赦で出所しました。出所してすぐ東京と大阪で雪冤会が開かれました。冤罪を雪ぐ(そそぐ)という意味の集会で、当時の有力財界人のほとんどがその発起人に名を連ねています。清周はやがて富士山麓に引退し、不二農園を営みます。また救らい事業にも取り組みます。1928年(昭和3年)死去、享年71歳。彼の長男荘一はカトリック教会の司祭として生きます。清周や彼の娘も信者でした。彼がよく口にした言葉は、100歩先が見える者は狂人視され、50歩先を見る者は犠牲者となり、1歩先を見るものが成功者となり、現在を見えない者が失敗者になる、でした。彼は50歩先を見たのでしょう。
彼の失敗の原因はいろいろあります。まず彼の融資方法の先進性があります。長期金融のために株式発行を多用します。このやり方は誤解され、また失敗すれば損害が大きくなります。昨今のリ-マンショックに似ます。そして大胆で大規模な投資をします。成功すればその企業は阪急や近鉄のように大きく伸びますが、失敗すれば損失も大きい。背任に問われかねません。この世界では成功が第一で、敗者は常に裁かれます。また工業は投資の回収に時間がかかります。そして彼の性格です。傲岸不遜で自信家、まっしぐらに突進します。いきおい慎重さを欠き、人の意見に耳を貸さなくなります。周囲の反発は必至です。そして周囲の財界人の嫉妬もあります。特に旧来のやり方を踏襲していた銀行は、おのれの中庭をかき乱されたように思ったでしょう。
岩下清周のように、工業を支援する活動を自らの企業家精神とした人は他にもいます。金子直吉は、鈴木商店という商社兼銀行のような会社を軸として、潰れかけた製造業に融資し、その再建を助けました。そしてかなりの企業を育てた後に、自身は破産します。先に述べた鮎川義介もやはり最後には銀行からの融資不足に泣きます。理研の大河内正敏は科学研究を軸に多くの企業を育てましたが、そのほとんどは中規模の企業でした。工業立国を計った企業が危機を迎えた時、既成財閥の金融機関がそれを買い取ります。
清周の銀行事業は、もしこの銀行に発券機能があればもっと成功したでしょう。アメリカの銀行の多くは発券銀行として出発しました。銀行が自身の銀行券を発行します。それを適当な企業に貸付けます。企業が成功すれば銀行も発展します。企業が失敗すれば両者は共倒れです。こうして雨後のたけのこのように多くの企業と銀行が乱立し、一部の成功者が多くの失敗者の資金と労働を吸収して育ちました。清周には発券銀行の方が似合っています。人は彼を銀行家か事業家かと問います。私は、彼には国家財政の担当が最適であったと思います。国家には日銀という発券銀行があるからです。もっとも日銀の主流はおしなべて均衡主義ですから、せっかくの機能も役に立たないことが多いのですが。
参考文献
世評正しからず、銀行家・岩下清周の闘い 東洋経済新報社