経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、上原正吉

2011-09-30 02:39:26 | Weblog
   上原正吉

 大正製薬の事実上の創設者です。創設者というより、同社を大規模全国規模に発展させ、大企業といわれる会社に育てあげた功労者というべきかもしれません。正吉は1893年(明治3年)埼玉県の並塚(杉戸の近く)に生まれました。4-6歳時に父そして母と死別します。長兄の長十郎のもとに養われ、高等小学校を卒業し、15歳上京します。兄孝助のもとで仕事を手伝いつつ神田商業学校に通います。正吉の趣味は将棋、考える事が好きで数学は得意の科目でした。
 1916年(大正5年)19歳時、石井絹治郎が経営する大正製薬所という小さな会社に入ります。正吉と石井の会社経営に寄せる信念が一致したから入社したと言われています。住み込みで給料は15円でした。はじめ事務方に回されますが、半年後に営業担当を希望します。薬物の知識の不足が営業成績に反映する事を知り、明治薬学校の夜学に通います。決断が早く、努力家で、信念に忠実な人柄が想像されます。営業成績は群を抜いて上がります。正吉はセ-ルスマンを天職にすると心に決めます。何事も決心したら実行するたちで、若いにも関わらす、社長である石井に広告への疑問を呈します。石井は主力製品である体素(一種の滋養強壮剤)の広告に大金を使っていました。正吉はデ-タを示して、その無益さを指摘し、かつ広告費が経営を圧迫している事を示します。石井は正吉より10歳年上ですが、経営者としては若く、二人の境遇も似ており、意気はあったようで、正吉の性格もあり、だんだん二人は共同経営者のような関係になって行きます。石井は拡張経営型で、鉱山や化学会社など他業種にも進出し、業界の役職を務めます。正吉は製薬一本の一人一業タイプです。こういう形で両者は住み分けをしていた感があります。石井の経営破綻を正吉の堅実経営が救った事もたびたびあります。
 26歳時、17歳の小枝と結婚します。この妻に関しては特記する必要があります。内助の功のみならず、外助の功も甚大な女性です。特に正吉が大阪支店長になった時の活躍はすさまじく、住み込み職員の世話、慶弔や挨拶に見舞、得意先の仕事の手伝いなども自然な流れで行います。特に正吉が苦手な個人的交渉(negociation),ですから裏方の仕事はすべて小枝が引き受けたといわれています。職員からは「かあちゃん」と愛称され、後に「godmother」と呼ばれました。小枝は伊豆蓮台寺温泉の大工土屋仁作の娘で父親に似て、親分肌そして天真爛漫で躾も行き届いていました。ただ結婚当初、小枝は夫正吉とどう接していいか迷い、結婚生活に飽き足らない気持ちを抱いていたようです。正吉は、思考は深く決断は速いのですが、幾分内閉的なところがあります。この点を見抜いた小枝は、むしろ積極的に会社経営に参加する形で正吉との間に起こりうる間隙を埋めていったようです。後年起こる、石井一族との争い、そして参議院議員選挙に際して、事実上の作業の指揮は小枝がとったようです。彼女は、夫を成功させる四箇条なるものを言っています。夫に家庭の心配をさせない、給料や地位に不満を言わない、夫の仕事を手伝う、虚栄心の強い妻にはならない、です。
 正吉は積極的に会社の経営改組を主張し取り組みます。個人経営を止め株式会社制度にします。大正15年、特約株主制度を設けます。小売店に株を持ってもらいます。配当金をはらいます。営業成績が良いと、収益の一部を小売店にキックバックします。こうして小売店を取り込み、販売網を拡充し安定させ、同時に株式会社制度の基礎にします。株式会社でもありますが、相互扶助組織でもあります。会社の規模と知名度が限られているので、全国的な直接投資システムは作れない段階でした。昭和3年社名を大正製薬株式会社と改めます。役員は社長の石井絹治郎以下4名、正吉は唯一の非石井系として役員になります。
 昭和4年大阪支店長になります。大正製薬の製品は関西地区だけすっぽ抜けたように売れていません。この仕事は失敗の可能性が高くは火中の栗を拾うような仕事です。正吉は失敗すれば、自分の将来はないもの、と覚悟して大阪に行きます。ひょっとすればこれは会社幹部の策略かも知れません。大阪は道修町を中心とする製薬資本のメッカで、塩野義、武田、田辺などの知名度の高い全国版メ-カ-が販売網をがっちり握っています。また商都大阪の商法は江戸時代からの伝統を引き、生き馬の目を抜くように厳しいと言われていました。
正吉は猛進します。まず営業マンの育成に努めます。社員は全員住み込み、夕食後は講義が始まります。上原学校と呼ばれました。挨拶、得意先の呼称から始まり、営業一般の心得、商業簿記のつけかた、商用文書の書き方、新薬の知識、得意先での応答など詳しく講義されました。正吉ははじめから答えを与えることはしません。各自に考えを出させ、自分で意見を言わせ、それを土台に質疑応答します。こうして戦士を養成します。
心得として特に二つの事を強調しました。商売は戦い、勝つことのみが善だ。もう一つが、商売は五分と五分、お互い対等だ、です。だから商品の押し売りや値引きは禁止します。注文表の出ていない商品の出荷は許可されません。二つの信条を総合すると、相手の立場を充分考慮して、押しまくれ、となります。ということは徹底的に考えよ、という事を要請します。
 特約株主制度を改良して、共成会制度に改めます。小売店が買わなければならない株式の額を下げます。会員専売品を設け、会員の特権化をはかります。共同工場制度を提唱し、小売店が大正製薬の工場を借りて製造するシステムを提案します。共成会制度は、既存の企業によりがっちり握られている問屋制度を利用しなくてもいいシステムです。あらゆる意味で正吉の成功の基礎はこの制度にあります。
社内報「美つ葉」を発行し情報の徹底を期します。それまでの商習慣であった、候文を廃止し、得意先への文書はすべて平易な口語にします。何々どん、という職員の呼称をやめて、何々君に改め、職員間の平等意識を涵養します。営業マンはそれまで、外務員とか外交員とか呼ばれていました。外商員に切り替えます。外商すなはちセ-ルスマンが会社の支えである事を強調します。採用には作文を重視しました。この間妻の兄が急死します。子供の一人昭二を引き取り養子にします。大阪滞在8年たった昭和12年(1937年)大阪支店の営業成績が東京本店を抜きました。
 逆に東京の成績は散々でした。原因は石井の拡張主義にあります。多くの会社に手を出し、名誉的な役職を兼務します。本業の製薬への関心と配慮はおざなりになります。石井一族が役員であり、彼らは石井個人から恩恵を受ける立場ですので、イエスマンに終始します。昭和13年正吉は東京に呼び返され、常務取締役になり東京大阪の営業を統括することになります。大正製薬の経営をすべて任せると石井から一任されました。
 正吉は経営再建に取り組みます。例の猛烈調で取り組みます。まず経費節約と能率向上です。薬の容器の種類が多すぎるとして、極力統一し、種類を1/10に絞り込みます。能率の一番良い作業員の作業をモデルとして、作業のマニュアルを作ります。最小の労力で最大の効果、が狙いです。毎月営業マンの成績表を張り出し、一番のものには背広を賞品として与えます。当時背広一着の値段は初任給に相当しました。即断即決速効を強調して、ワンマン的態度も容認します。何事もスピ-ドです。社内での貸借と贈答は禁止しました。社内報「かたばみ」を発行し情報と意志伝達の徹底をはかります、一度紙上に載った事は、知らなかったではすまない、責任を追及される、と布告します。
 以上の取り組みを見ていますと、凱旋将軍のク-デタを連想させます。大阪で8年、東京に充分対抗できる地盤を築き、その実力と声望をもって本社に帰り、経営不振を徹底的に改善します。当然大阪子飼いの社員は多数いますし、共成会(彼らは株主です)は正吉の作品です。着任当初の反上原感情は相当なものでした。この感情は特に役員に強く、石井なき後の政権争いまで引きずります。
 統制経済の時代になります。原料は配給制です。正吉は売る競争から、買う競争への転換を強調します。同業者からも他業種からも、原料のみならず、製品まで買い込みます。買って売るのだ、商品を探せ、売るもののない会社ならないほうがましだ、と檄を飛ばします。時代の様相(物がない)を良く見ています。終戦時大正製薬は馬糧(馬のえさ)を作らされていました。どこの会社もそんな目にあっています。正吉はそういう状況の中で必死に生き抜くことを考えました。一方満州や朝鮮の支店は開戦当初から閉鎖します。他社とは逆の方針を貫きます。戦争の帰趨を読んでいたようです。この辺の慧眼には一驚させられます。
 昭和16年石井絹治郎が急死します。社長は石井の長男輝司、正吉は専務代表取締役になります。輝司は外地で軍務に服しているのでその地位は形式的、実質的経営のすべては正吉の手腕に託されます。正吉は独裁宣言をします。社長が急死し、時局も時局、多数の意見の交錯は経営を破綻させる、爾後は私上原がすべてを取り仕切る、と言い切ります。社外役員はすべて退任させ、役員補充は内部昇格で行います。当然正吉子飼いの社員が抜擢されます。
 終戦になります。社長の席をめぐる闘争がかなり隠避に開始されます。それまでの経緯と実績を見れば正吉の社長就任は当然視されていました。ある日MP(米軍憲兵)が正吉を連行します。麻薬密売の容疑です。実際は製薬原料のカフェインを会社が持っていただけです。妻小枝の必死の救済作業が始まります。内務省を通じてGHQに問い合わせると、そういう指令は出していないとのことです。誰かが(多分石井一族のもの?)が労組を通じて密告したようです。留置場に3日拘留され釈放されます。臨時株主総会にはまにあいました。正吉が正式に社長に選出されます。旧役員が物納する株を会社で買い取り、彼らの発言権を完全に封じます。共成会は共成会チェ-ンに改組されます。大正チェ-ンと呼称されました。社名は株式会社大正製薬と改名されます。
 薬は必要なものでしたから、作れば売れました。事務能率の向上と経費節減に励みます。帳簿を自社の運営に適合させるべく改善します。社内で必要とする用紙のサイズを統一し
さらに自社印刷にします。
民放のラディオさらにテレヴィを宣伝に駆使します。これらのメディアを使って、大衆の気持ちに沿うような製品を発売します。それまでの解熱剤は粉で飲みにくいと決まっていました。水溶性の飲みやすく味付けしてある解熱剤パブロンを売り出します。昭和30年代前半と言えば日本がやっと飢餓の恐怖から解放され、やれタンパク質だビタミンだと贅沢を言い出した時代です。ビタミンを入れた、薬とも飲み物ともつかないリポビタンDが発売されます。冷やしてのむ美味しい栄養剤でした。ジュ-スとしても活用できます。巨人の王選手をコマ-シャルアイドルに起用したのも当たりました。このリポビタンDは医学的に見れば無用な代物です。ただコマ-シャルを見、飲むと実際に効くような感じになります。「D」を「デ-」とドイツ語風に読ませるところが味噌でもあります。当時は医学での第一外国語はまだドイツ語でした。こうして大衆を暗示にかけてゆきます。まさしくセ-ルスマンを天職と心得る正吉の出番です。中年からの強壮剤サモンも売れました。こうして大正製薬は大衆薬品メーカ-のトップに躍り出ます。 
 昭和25年参議院議員に当選、戦傷者戦没者援護法通過に尽力し、財団法人日本遺族会の設立に努力します。昭和28年から新工場を増設します。規模最大の大宮工場ができます。昭和48年社長の座を息子である昭二に譲ります。昭和56年完全引退。1983年(昭和58年)死去、享年85歳でした。
 上原正吉の性格はかなり複雑です。自信家で努力家であり思考は緻密で、決断は早く大胆です。強引でもあります。一方どこか内閉的でシャイな傾向もうかがわせます。そして結構ロマン的でもあります。妻の外助の功は必要であったのでしょう。

   参考文献 上原正吉伝  かんき出版

経済人列伝、河合良成

2011-09-21 02:31:46 | Weblog
      河合良成

 土木建設用機械の製造会社である小松製作所を一流会社に仕上げた人物です。自伝を読んだ限りでは、意志の強い、自己主張のはっきりした戦闘的な人柄を連想させます。良成は1886年(明治19年)に富山県砺波郡福光町(現砺波市))に生まれました。家は代々豪農でしたが、祖父の代に事業をやりすぎ、資産を減らします。父親は汽船運航の会社を経営していました。良成は母親を敬慕し尊敬しています。母親は教育には厳しい人でした。世に出よ、つまり出世しなさいと息子である良成に常に発破をかけます。豊臣秀吉や楠正行の事歴をくりかえし、聞かされたそうです。良成は幼少の頃は温順だったと言います。数学が好きで、将来は科学者になりたいと思っていました。金沢四高に入ります。ここで有名な哲学者西田幾多郎の影響を受けます。西田哲学に魅かれるとは、良成もかなり瞑想的雰囲気を持った人物だったのでしょう。意志の弱さは罪悪、という西田の格律が心に浸みこんだと述懐しています。当時の優等生の公式どおり、東京帝国大学法学部に入ります。途中2年くらい休学かなにかしたようです。本人の語るところでは、神経衰弱でよく追試験をうけたとか。もっとも卒業試験はトップでした。
 明治44年25歳時、東大を卒業し、農商務省に入ります。大正7年臨時外米監理部業務課長になり、米価統制の実務上の責任者になります。本人の口ぶりではかなりな辣腕を振るったようです。本来彼は商務畑でしたが、能力を買われて農務畑で腕をふるい、嫉妬されます。この仕事をしていて一番感じたことは、統制経済のむなしさでした。統制すればするほど物は隠れ、統制を解けば物はでてくる、ことを経験します。この事は彼の将来の経営姿勢に大きく影響したことでしょう。
 米価問題、特に米騒動で寺内内閣が倒れます。良成も農商務省を辞職します。東京証券取引所の理事長郷誠之助に請われ、東証の理事になります。郷が東証をやめると、良成もやめ、大正13年日華生命(第百生命)保険会社に請われて、常務として勤めます。この間に東大の経済学部や農学部で取引所論の講義を行います。昭和14年満州国嘱託、17年東京市助役になります。五島慶太が運輸大臣になると、依頼されて船舶局長になります。終戦、幣原内閣の農林大臣になった松村謙三(同郷の先輩)の懇請で農林次官を勤め、吉田内閣では厚生大臣になります。官僚としては課長、局長、次官、大臣とすべてのクラスを経験したわけです。それもすべて異なる分野で。という事はこの人物の才能の多彩さをしめしています。厚生大臣時代に公職を追放され、大臣を辞任します。
 この間昭和初年に帝人事件なるものにまきこまれます。台湾銀行が20万株の帝人株を生保団に売りました。増資そして株価が上昇します。台湾銀行は背任、生保団は背任協力ということで告発されます。3年に及ぶ裁判が開かれ、良成個人は200日あまり収監されます。留置所で日ごろ食べない麦飯を食わされ下痢して体重は減ります。麦飯だけではなくストレスも強烈だったはずです。監獄になれた犯罪常習者ならともかく、普通の市民生活をしている人がこの種の施設に入ればたいていショックを受けます。拘禁反応も出現します。判決は「証拠不十分ではない 犯罪自体が存在しない」でした。しかし世間の目は厳しく、関係者は冤罪に泣きます。良成は数百ペ-ジにのぼる弁明書を書いて上申します。番町会という会合がありました。財界世話人と言われた郷誠之助の屋敷(番町にあります)に良成や、正力松太郎、渋沢正雄、伊藤忠兵衛、永野護などが集まりいろいろ話しあっていました。この会が裏で動いたといわれました。武藤山治が時事新報に番町会の存在を報じ、帝人株の動きと関係があるような記事を書きます。世間は騒然とします。小林中や良成の伝記では、帝人事件は存在しないとされます。武藤の伝記では、あったと書かれています。武藤が暗殺され、事件を取調べた検事が自殺します。いずれにせよ後味の悪い事件でした。帝人事件なるもの、としか書けない出来事でした。
1947年(昭和22年)、良成は小松製作所の社長に就任するように、当時の社長から懇望されます。同社は資本金3000万円という小規模な地方企業(石川県)でした。大正10年の創立で、戦前はトラクタ-などを造っていました。トラクタ-製造はGHQのある少佐に禁止されます。日本にはトラクタ-が必要ないということでした。当時一少佐や一大佐が日本全体の運命を左右するほどの決定権を持っていました。そして小松製作所では他の会社と同様、ストライキに襲われていました。20年代のストは現在の争議と根本的に違います。当時のストライキは、企業を資本主義という悪の砦とみなし、それを壊滅させることが目的でした。会社は組合によって管理されます。上部団体から派遣されてきたオルグ(組織する者)は従業員である一般組合員を扇動し、洗脳し、会社と幹部への敵意を植えつけます。経営がまともになるためには、このストを解決しなければなりません。  
良成の自伝では3時間で解決したそうです。解決したのは事実ですが、3時間というのは眉唾ものです。しかし一般組合員の説得のやりかたは決まっています。闘争はしんどいだろう、ストして銀行から融資を拒否され給料ももらえないのが良いか、それとも働いて給料をもらう方がいいか、と選択を迫ることです。つまりオルグと一般組合員を分断します。それから経理を話の解る代表に明らかにして、再建の方法を説得することです。時によっては第二組合を作ります。いずれにせよ政治闘争から経済的合理性を踏まえた論争に切り替えさせることが肝要です。たいていの人間は政治闘争など好みません。しかし算盤勘定はわかります。この際重要なことは、決断と計算とそしてなによりも誠意です。ともかく良成の社長就任により争議は解決しました。長引くと数年にもなるようで、戦後最大最悪の争議は東宝のそれでした。再建には資金が要ります。金融機関に頼みにゆくと、人員整理を要求されます。400人自主退職、600人を解雇して3000人にまで人員を圧縮します。過激な連中はこの際すべて解雇しました。今ならこのような指名解雇はなかなかできません。しかし会社が倒産の危機に陥り、再建を目指すとき、解雇、減俸、株式切捨は必然です。これが経済法則の冷酷なところです。経済学を「陰鬱な科学」と言った人もいました。(カ-ライル)
 小松製作所再建の方向は何でゆくのか?良成はブルド-ザ-で行こうと決意します。小松のシェアは国内の60%でした。そして戦後復興は必ず建設ブ-ムを招来するとみます。いい調子で行っていたら昭和24年のドッジラインです。このお蔭で日本中の企業が青息吐息というより壊滅の危機に見舞われました。東北大地震の被害よりはるかに甚大でした。アメリカは自国でできない理想を占領中の日本で実験したきらいがあります。シャウプ税制や農地改革などです。良成はドッジラインを非難し、外車のダッジ(そういう名の車がありました)を見ても腹が立つと述懐しています。
朝鮮戦争が勃発し日本経済は息を吹き返します。小松は旧相模工廠で米軍車両の修理に従事します。あまり儲からないが、技術習得の便があり、また米国流のやり方に詳しくなったのは、将来役にたったとい言われています。米軍は小松に砲弾製造をも要請しました。大阪府の旧枚方工廠を国から払い下げてもらい、そこで砲弾を生産します。砲弾販売総額404億円の40%が小松の生産でした。戦争と言うものはいつまでもは続きません。戦争が終わったとたんに、即日注文はなくなります。戦争終結の潮時を良成は模索します。だいたい彼の推察どおりでした。
ブルド-ザ-のほかにダンプ、トラック、フォ-クリフトの生産も行います。1960年(昭和35年)に、アメリカのキャタピラ-社が三菱と手を組んで日本に合弁工場を作り日本でブルド-ザ-を生産して販売しようという計画が持ち上がります。当時キャタピラ社は世界のブルド-ザ-の50%を製造していました。製品が輸入されるだけなら、日本の低賃金で対抗できる、しかし直接投資でこられると、競争は極めて不利だ、と良成は考えます。販売、価格、生産能力の面では負けない自信はあるが、品質の面では劣る、と踏みます。政府は小松製作所一社を護ってはくれません。降伏か全面対決か?良成は後者を断固選びます。まず自由化反対を声高に叫びます。そのため他業種と連帯して騒ぎたてます。しかしこれは陽動作戦、時間稼ぎです。
品質向上のために、まずQC運動を徹底させます。Quality control(品質管理)です。職場の一作業員にいたるまで、作業、能率、休憩時間、在庫管理などすべての面に渡って、問題点を指摘させます。部品のすべてを点検し、不備なもの不具合なものは改良させます。市場調査も徹底します。販売店や建設会社に技術者を派遣して、不備や不満を積極的に聞きだし、また新しい提案を求めます。出来上がったブルド-ザ-の試験運転を建設会社に依頼します。もちろん小松でも実験は繰り返します。そのために実験部という新組織を作りました。実験の度に訂正を加えます。特に長期間使用に耐えられるか否かの実験は小松が担当します。すべての機種においてこの試験運転を行います。
良成はこの時、コスト無視、JIS否定の原則を徹底しました。コストより品質です。特に実験段階ではコストは高めにでます。将来コストを減らせると見込んで、コスト無視を徹底します。JIS規格はあくまで平均値です。部品はこの平均値を超えることを要請されるかも知れません。良成は最高のものを作ろうとしました。彼は一度戦うとなれば徹底します。そして極めて好戦的な性格です。キャタピラ社に対抗できるこの品質向上の対策を良成はマルA対策と名づけました。マルA対策は昭和36年6月に開始され、昭和37年12月に一応完了し、対策車が完成します。
この間良成はアメリカのカミンズ社と提携して、同社のエンジンの国内生産を始めています。このエンジンは高速も出します。そしてすべてのブルド-ザ-にこのエンジンの搭載を命じます。現場から指令に対して轟々たる反対がおきました。良成はこの時、指令を徹底させる一方、エンジニ-ア(技術者)というものの保守性を実感させられます。そして技術だけではいけない、技術に経営を加味しないと、技術自体が退化すると悟ります。技術プラス経営、これを技術常識と彼は言いました。言葉の選択がよくないようです。技術はそれだけを放置しておくと自然と現状維持に傾きます。そこには経営者の将来への方針、つまり向上と競争への目的意識が要ります。そうした時のみ技術は向上します。このことはマクロの視点においても妥当します。市場の消費性向が製造と技術を牽引します。良成の経営哲学は、リスクのない経営は衰退する、でした。小松製作所社長時代ソ連との貿易の重要性を説き、自ら団体を率いて訪ソし、時の首相フルシチョフと会っています。1964年(昭和39年)社長を辞任、後任は良成の長男良一です。1970年(昭和45年)死去、84歳。
小松製作所は現在でも建設機械の専門メ-カ-です。世界第2位で1位のキャタピラ社を猛追中です。日経新聞の有料ランキング調査では2006年、2007年、トヨタやキャノンを抜いて1位でした。資本金678億円、売上1兆4315億円、純資産8767億円、総資産1兆9590億円、従業員数38000人余(すべて連結)です。

参考文献 歴史を作る人々 河合良成

経済人列伝、竹鶴政孝

2011-09-14 02:34:17 | Weblog
    竹鶴政孝

 竹鶴政孝は1894年(明治27年)、広島県竹原市に生まれています。家は代々の造り酒屋でした。兄弟は多く、四男六女、政孝は三男でした。子供の頃は非常に腕白で、二度大怪我をしています。二階から階段を転げ落ちて、意識不明になり奇跡的に助かった、と本人は言っています。お蔭で鼻のところに七針も縫う傷跡を残しました。母親は、無事育つかと心配でした。向こう意気が強く、独立自存の気風でした。頑固ともいえましょう。彼の生涯を概観しますと、やりたい事をやる、という傾向を強く感じさせられます。忠海中学に進みます。後輩に後に首相になった池田隼人がいます。池田は往時を振り返って、柔道の強い寮長の竹鶴さんが竹刀をもって回ってくると怖かった、と述懐しています。
 大阪工業高等学校(現大阪大学)の醸造学科に進学します。日本中で醸造学科があるのはこの学校だけでした。ここで日本酒より洋酒に興味を持ちます。結果として家業を継がないのですから、父母ともめました。結構親不孝をしています。1916年(大正5年)卒業して、摂津酒造に入ります。この会社はみりんや合成酒以外に、ウィスキ-、ぶどう酒、リキュ-ルなども製造し、当時洋酒メ-カ-として有名でした。摂津酒造は昭和39年に宝焼酎に合併されています。社長は阿部喜兵衛、事務5-6人、工場30人前後の規模でした。
当時のウィスキ-について若干の説明をします。政孝はそれをイミテ-ションウィスキ-と言います。原酒(モルト)をイギリスから輸入し、それにアルコ-ルを適宜混ぜて少し味付けして、売り出します。原酒の割合は1%くらいでした。原酒が0-10%のウィスキ-を三級ウィスキ-と言います。政孝の終生の願望は、こういう三級品ではなく、本物のスコッチを日本で造ることでした。当時スコッチはスコットランド以外ではできないとされていました。
入社後2年社長から、スコットランドに留学して、本格的にスコッチの製造法を学んでこないか、と言われます。政孝が見込まれたのでしょうが、望外の幸運です。そして当時は第一次大戦の真最中、日本は戦争景気にわいていました。どこの企業でも使うに困るほどのお金を持っていました。ウィスキ-造り一筋にかける政孝には三人の恩人がいます。摂津酒造の阿部喜兵衛、壽屋(サントリ-)の鳥井信治郎そしてアサヒビ-ルの山本為三郎です。このうちの誰一人欠けても政孝の生涯はなかったものと思われます。彼の人柄もあるのでしょうが幸運な人生といえましょう。
 スコットランドに行きます。大正7年から10年までの3年間在英し勉強します。太平洋を渡ってアメリカに行き、そこでカリフォルニアワインの工場を見学します。大西洋を船で渡らなければなりませんが、ドイツの潜水艦が怖くて、なかなか船がでません。ウィルソン大統領に電報をうって、理解を求め船出します。途中僚船が沈没するという惨事に出会います。ベルギ-皇太子の発案で犠牲者への義援金を政孝が集めることになります。彼が乗船者中一番若かったからです。
 グラスゴ-大学で聴講します。講義自体はありふれていて、知ったことばかりで、おもしろくなく、図書館でウィスキ-関係の本ばかり読んでいました。肝心な勉強はウィスキ-を造っている工場の見学と実習です。ここでウィスキ-、もちろん本格的なスコッチですが、その造り方を説明します。まずモルトウィスキ-を造らねばなりません。大麦を発芽させ、それを草炭(ビ-ト)で乾燥させます。これに酵母を加えて発酵させます。こうしてできたものをポットスティルで蒸留します。何回も何回も蒸留をくりかえして、アルコ-ル濃度を70%にします。これを樫などの硬い材質の樽に入れて、5-10年寝か(貯蔵)します。樽の中の酒は、木材を通してゆっくりと酸化されます。同時に酒は少しづつ外に蒸発します。10年寝かせると、量は半分になります。こうして原酒ができます。原酒自体はおいしいものではないそうです。
 原酒はアルコ-ルを加えられて味のいいものになります。このアルコ-ルの作り方により味が違ってきます。スコットランドではこのアルコ-ルをグレ-ンウィスキ-と言っていました。大麦、小麦、カラス麦、コ-ンなどを発酵させて、連続蒸留装置で蒸留してこのグレ-ンウィスキ-ができます。グレ-ンウィスキ-を混ぜることにより風味がでます。ウィスキ-造りには、もう一つの難関があります。原酒のブレンド(混合)です。いろいろな原酒をブレンドして、それにグレ-ンウィスキ-を混ぜて、本物のスコッチができます。厳密に言えば本物のスコッチは30%以上の原酒を必要とします。ブレンド如何によりそれぞれのウィスキ-の味と特徴が決まります。ブレンドの能力は経験とそしてなにより才能、嗅覚の才能によります。
 政孝は工場見学と実習を重ねてゆきます。原酒の工場は小規模なので、気安く見学させてくれますが、グレ-ンウィスキ-の方は大工場になり、秘密厳守で実習はなかなかできません。ある工場の老蒸留主任が、政孝のひたむきな態度に感じ入り、蒸留の機微を仔細に教えてくれます。アルコ-ル濃度が何%というのなら機械的に蒸留すればいいのでしょうが、蒸留する温度や速度も風味に関係してくるようです。またある工場では、日本酒の麹(こうじ)に興味を持つ技術者に麹を日本から取り寄せて渡し、交換にウィスキ-製造法を教えてもらいます。こういう縁はすべてグラスゴ-大学のウィリアム教授の紹介によるものです。イギリス人は赤の他人には冷淡で心を開きません。しかし一度紹介されたり昵懇になると非常に親切にしてくれると言われています
 在英中政孝はホ-ムシックにかかります。こういう中招待された医師の家でのパ-ティで、そこの娘ゼシ-・リタを知ります。政孝は積極的にプロポ-ズします。一目ぼれです。結婚しリタを日本に連れて帰ることになりますが、それを知った父母は大騒ぎそして大反対です。阿部社長が渡英し、リタを見て、両親に結婚を許可してもらいます。日本への帰路はハネム-ンになりました。
 さて日本に帰ります。戦争は終わって潜水艦の心配はありませんが、戦後不況です。ウィスキ-生産の計画は役員会の反対で立ち消えになります。ウィスキ-は製造を開始して少なくとも5年は発売できません。ある程度の品質を保とうとすればです。膨大な資金を寝かせることになります。不況時、そんな冒険はできない、というのが多数の意見でした。そういうことでしょう。政孝はあっさり辞職します。しばらく帝塚山学院で、化学をおしえます。妻のリタは同院で英語を教えます。
 1923年(大正12年)壽屋(サントリ-)の鳥井信次治郎からウィスキ-製造主任として招かれます。鳥井は始めイギリスからム-アを招聘して、ウィスキ-製造を一任するつもりでした。ム-アの来日が不可能になり、白羽の矢が政孝にたったわけです。年俸はム-アと同じ4000円です。当時の首相の年俸が3000円でした。鳥井は赤ダマポ-トワインで稼いだ金をウィスキ-造りに投入しました。政孝の在任期間は10年と契約されます。工場設置の場所として政孝は北海道を望みましたが、鳥井は流通の便宜上近畿圏内を望みます。こうして天王山の山崎が選定されました。この事以外の案件はすべて政孝に一任されます。途中で蒸留に際しての、かまどと火の距離が解らず、再度スコットランドに渡ります。1929年(昭和4年)白札サントリ-ウィスキ-が発売されます。当時としては一番本格的なウィスキ-でした。一本3円50銭、輸入品のスコッチが5-6円でした。以後も普及品を発売しますが、売れ行きは芳しくありません。壽屋の中で、ウィスキ-部門は金を食うだけの極道者だと、白眼視されます。この間税金問題で税務庁の星野直樹とやりあいます。酒は製造して在庫にしておくとすぐ課税されます。ウィスキ-にこれを適用されると、寝かせる期間が長いので、利益なきまま税金を払わねばなりません。結局庫出税にしてもらい難を免れます。鳥井がウィスキ-製造にかけた資金は250万円でした。鳥井がいなければ政孝はウィスキ-造りの経験を得られなかったことになり、以後の彼の生涯はなかったでしょう。壽屋には2年延長して12年在社しました。
 1934年(昭和9年)政孝は独立し、加賀正太郎と芝川又四郎の後援で、大日本果汁株式会社を立ち上げます。資本金は政孝が2万円、加賀と芝川二人で7万円、柳沢伯爵が1万円、の総計10万円です。本社は東京ですが、工場は政孝の念願どおり北海道の余市に建設しました。北海道には草炭(ビ-ト)があります。石造りの工場を建て、すべてスコットランド方式にします。本格的なウィスキ-は最低5年間寝かせて熟成させなければなりません。資金がいります。経営は苦労の連続でした。昭和15年始めてニッカウィスキ-を発売します。極力原酒の割合を多くします。あくまでスコッチに近づく努力をします。
 戦後は苦難の時代を迎えます。サントリ-は本格的なウィスキ-を金持の占有物と批判して、昭和21年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。トリスウィスキ-です。サントリ-はお得意の宣伝で、販売を促進します。政孝はあくまでスコッチに近い本格派のウィスキ-造りにこだわります。ニッカの経営は悪化します。政孝は節をまげずがんばりますが、税金が滞納されるようになります。国税庁の説得に負けて、昭和25年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。昭和27年社名をニッカウィスキ-とします。「大日本果汁」から「日果」を取りそれをカタカナにしました。
 1953年(昭和28年)大株主である加賀正太郎の死に際し、加賀は自己所有の株式を山本為三郎のアサヒビ-ルに渡します。山本は政孝の経営に理解を示してくれました。政孝の判断で経営をすることを容認する一方、政孝があまりにも技術一辺倒であることを心配して、販売部門の担当に弥谷醇平を専務として送り込みます。弥谷は販売網の整備と価格切り下げ、そして宣伝に活躍します。それまでの政孝のやり方は、宣伝嫌い、品質第一、だから高くてもいい、でした。以後ニッカの販売額は増加の一途をたどります。昭和31年ブラックニッカ発売、これは好評でした。
 山本は政孝に、カフェ式グレ-ンスピリッツの設置を提案します。そのために朝日酒造という新会社を造り、西宮の工場に、このグレ-ンウィスキ-製造装置を購入し設置します。こうして1966年(昭和41年)日本で始めての日本産スコッチ、つまりもっとも本格的なウィスキ-が出て、新ブラックニッカとして発売されます。政孝がスコットランドに留学し帰朝して46年後に、始めて彼の意図した製品が世に出たことになります。この間昭和37年彼の最愛の妻、リタは他界しています。1979年(昭和54年)死去、85歳。現在ニッカウィスキ-は非上場になっており、100%アサヒビ-ルが株式を所有しています。

  参考文献  ヒゲと勲章  ダイヤモンド社

経済人列伝、田中久重

2011-09-07 21:47:54 | Weblog
    田中久重

 通称からくり儀右衛門、田中久重は没年から逆算すれば1798年、筑後久留米に生まれました。父親は鼈甲細工の職人で同時に経営者でした。久重は幼時より器用で、細工物製造の過程に興味を示し、父親の仕事場の隅から、職人の仕事振りをじっと観察する習慣がありました。寺子屋に通います。久留米絣の考案者井上伝に協力し、花鳥図の模様を織り込むことに成功します。父親の家業は継ぎません。茶運び人形を作り、それを久留米の五穀神社の境内で披露し、観衆を驚かせます。この人形は盆に茶碗をのせて運んできます。人の前で立ち止まります。人が茶を飲み干し、元の盆に茶碗を戻すと、人形は向きを変えて、元の位置まで歩いてゆきます。
 久重は1824年(文政7年)久留米を出ます。熊本の清正公前で茶運び人形を披露し、観衆をうならせます。からくり儀右衛門の名は広まります。大阪に出ます。道頓堀で雲切人形を興行し、人気を博します。盛名は得られましたが、久重はどこかしっくりきません。実際の生活に役に立たない技術になんの意味があるのかと思います。一時久留米に帰ります。
1934年(天保5年)36歳時、家族と大阪に移住します。無尽燈を製造します。それまでの照明器具は行灯でした。油に芯をつけて、芯の先を燃やして灯りをとります。灯りが風で消えないように、周りを紙で覆います。ですから灯りは暗く、夜の作業には差し支えます。加えて行灯では、始終油を補給しなければなりません。久重の作った無尽燈では、圧縮空気を利用して油槽から油を芯に補給します。材料は銅、高さ60cm、従来の行灯に比べて安定し、なにより油の補給をしょっちゅうしなくてすみます。銅製ですので火災の心配がなく、芯を大きくして照明を強くすることができます。サイズにより3両から1両までの7種類ありました。結構高価ですが、大阪商人には喜ばれ売れました。夜間の仕事が非常にやりやすくなります。類似品目である鼠燈や折りたたみ式燭台も考案します。儲かりましたが、せっかく建てた家も、1839年(天保7年)の大塩平八郎の乱で焼失します。
49歳、雲竜水を作りました。消火器の一種です。それまでの消火器は水鉄砲のようなもので、連続注水ができません。雲竜水はそれを可能にしました。おもしろい花火も考案します。空に一隻の軍艦が浮かび、号砲を出して消えてゆく、というものです。
組織的な学問の必要性を感じて、土御門家に入門し陰陽学を習います。大覚寺から近江大ジョウの称号をもらいます。優れた職人や芸人に与えられる称号です。
1851年(嘉永4年)京都四条烏丸で機巧堂を開設します。からくり及び機械のメ-カ-です。この間万年自鳴鐘を作っています。これは1年間自動的に進行する時計です。京都の広瀬元恭に師事しオランダ学を学びます。恐らくオランダ語は習わず、師の解説を傾聴していたのでしょう。ここで久重は西洋機械の要諦をつかみます。それ以上に幸運だったことは、広瀬門下の同僚です。佐野栄寿左衛門(常民)、陸奥宗光、中村奇助、石黒寛二らがいました。天真爛漫な久重は彼らからも愛されました。久重も私財を研究費に投じます。
佐野栄寿左衛門を通して彼の主君である佐賀藩主鍋島斉正(閑叟)から、佐賀にきて機械作成を指導してくれるように、依頼されます。この依頼に答えた第一号の成果が、蒸気船と蒸気機関車のミニチュアです。オランダ船を解体し、構造を知った後、組み立てます。組立作業は久重が指導し、オランダ語を読める者が書物からの知識を久重に伝えて援助します。1855年(安政2年)藩主の前で行われた実験は成功し、ミニチュアの機関車は線路を走り、蒸気船は池の中を進みました。多分大隈重信などもこの実験供覧を見ていたはずです。後に大隈は参議として明治初年の政界を切り回し、電信交通などのインフラ整備の基礎を作ります。久重の作った蒸気船と蒸気機関車の印象は大隈の潜在意識に焼き付いていたのでしょう。
大船建造を解禁した幕府は、佐賀藩の科学技術の能力を評価し、オランダから贈与された汽船の管理を佐賀藩に委任します。観光丸、150トン木製外輪式蒸気船です。観光丸は練習線として使われました。1853年佐賀藩は長崎に第一次伝習生を派遣し、オランダ人から、造船、砲術などの教育を受けます。伝習生の中に久重も佐野もいます。こうして佐賀海軍ができました。
1858年(安政5年)佐賀藩は蒸気船建造予算を発表し、いよいよ本格的な船の建造に取り組みます。1865年(慶応元年)竣工、長さ18m、幅3m、10馬力、凌風丸と名づけられます。
 幕府は佐賀藩に汽罐の製造も依頼します。佐賀藩が久重の指導のもとで、作った装置や機械には、電信機、大砲鋳造、反射炉、蒸気機関砲などがあります。佐賀藩は鳥羽伏見の戦いでは中立を保ちました。薩長土の軍隊が江戸に進駐し、彰義隊を討伐する寸前に新政府軍に参加します。この時蒸気機関砲や新式大砲はものすごい威力を発揮し、以後の戊辰戦争でも活躍します。幕末中立を保った佐賀藩が薩長土肥と並び称せられる藩閥に加わり、新政府に多くの人材を送り込み、活躍できた背後には、この藩の機械技術の能力があります。
佐賀での久重の名声はすぐ隣である、彼の故郷久留米にも伝わります。真木和泉が久重招致を提唱し、藩主有馬慶頼が賛成します。結局久重は佐賀久留米両藩で仕事を半分づつすることになります。この間久重の養子である儀右衛門が長崎で佐賀藩士に惨殺される事件が起きています。久留米では、溶鉱炉と鋳砲工場を作っています。80ポンド砲を製造します。藩主御前の実験では10km飛びました。合格です。15石3人扶持中小姓に任じられ正式の士分になります。藩士としては中位の身分でしょう。久留米藩士今井栄とともに、久留米海軍の創設に参加し、船を買いに上海まで行っています。久留米には海はありません。豊前(現大分県)の大浦近辺を艦隊の根拠地にします。製氷機も造りました。製造所諸職裁判役に任じられます。久留米藩の機械製造の総責任者になりました。久留米藩も新政府に参加することになり、船で兵を江戸に送ります。新式砲は威力を発揮しました。
1868年(明治元年)、明治天皇の臨場を仰いで、新政府海軍の観艦式が行われます。参加した船は、千歳丸(久留米藩)、電流丸(佐賀藩)、華陽丸(山口藩)、丙寅丸(山口藩)、万里丸(熊本藩)、三封丸(薩摩藩)、旗艦は電流丸でした。電流丸と千歳丸のエンジンは久重が作成したものです。
維新後も久重は久留米に留まり工場で製造を続けます。1973年(明治6年)に上京し麻布大泉寺で工場を開きます。久留米の旧工場を東京に移転させました。事情があります。久留米にやってきた県令の水原久雄は、旧久留米藩の施設は、版籍奉還廃藩置県後は新政府のものと考えます。本来なら国家へ収公されるはずですが、久重の役割の重要性を考えれば、いっそのこと久重の個人事業として、少なくとも一時期は行わせた方が都合がいいだろうと考え、久留米の工場施設を久重に一任しました。この間には新政府で活躍している佐野常民の尽力もあります。佐野は海軍の国産化を考え久重を起用しました。
久重は工場を二度移転させ、芝新橋金六町九番地(現在の銀座8丁目近く)におさまります。久重が製作した製品のトップはモ-ルス電信機です。他に電信用時計仕掛のスクリュ-や生糸試験器を作っています。明治11年工部卿伊藤博文の主宰で電信開業式が大体的に行われます。この機に久重の工場は工部省に吸収され、逓信省電信燈台用品製造所になります。
久重は1881年(明治14年)に死去します。享年83歳でした。彼は儀右衛門の死後、久留米の金属工匠金子平八郎の六男大吉を養子に迎えて二代目久重と名乗らせます。二代目久重は海軍のために多くの仕事をしましたが、明治15年に工部省を辞め、芝金杉新浜町に工場を建てます。二代目の田中工場です。海軍省発注のあらゆる製品を製造しました。電信、電話機、機械水雷缶、火薬砲、発火電池、信管電信機、電気表示機、特殊望遠鏡などが造られました。明治20年の時点で680人の人員を抱えていました。当時としては大企業です。1993年(明治26年)懇望により二代目久重は工場を三井に譲ります。三井は社名を芝浦製作所と改めます。これが現在の東京芝浦電気、東芝の発祥です。しかし東芝では初代久重が芝新橋金六町(銀座)に造った製作所を東芝の原点にしています。三井側でこの譲渡交渉に当たった人物が藤山雷太です。藤山は三井を産業資本に変えようとした中上川彦次郎の股肱です。また藤山も佐賀の出身でした。以上の経過から解るように、東芝の成り立ちには、久留米藩、田中久重個人、工部省、三井と資本が入り乱れております。これも幕末維新の変革期の特徴でしょう。
久重は東京で工場を経営する中、万端の機械考案の依頼に応ず、と広告を出しました。自らの発案を公開し、同時に技術コンサルタントのさきがけをも為しました。
久重の生涯を振り返ってみて、私は以下数点の事に気がつかされます。まず幕末佐賀藩における機械技術の水準です。時の中央政府である幕府よりも一時期は高い水準にあったようです。海軍力においても同じでしょう。久留米藩が海軍建設に邁進した事実には驚かされました。ということは私達が知らないだけで、全国の津々浦々において、同様の動きがあったのであろうと憶測されます。幕府や薩長のみならず、全国の諸藩が必死に軍制改革したがって政治改革に取り組んでいたのでしょう。
私達は製造業の近代化というと、西欧の文物の輸入しか知りませんが、一方で久重に代表されるような自前の国産技術もあり、この下地の上に輸入された種が捲かれ、育っていったのだろうと思われます。
からくりを製造業に結びつけたのが久重です。ぜんまい、ネジ、軸、歯車、棒や糸を組み合わせてからくりを作ります。工学も基本的には同じ作業なのでしょう。近代化されれば扱う資材は違いますが、エンジニ-アや職人の作業の原点はからくり製作と同じです。その意味で工学とは地味で泥臭い作業でもあります。臥雲辰致、豊田佐吉、同じく喜一郎、小平浪平、早川得次、高柳賢次郎、それぞれ分野も立場も違いますが、やっていることは同質です。現在ある素材を組み合わせ組立、時として新しい素材を求め、組み立てるのが工学というものでしょう。工学の背後には物理学や数学があり、一見華やかな理論に魅せられますが、物作りの原点はからくりと同じでしょう。田中久重と一番似ている経済人はやはり島津製作所の島津源蔵です。

参考文献  田中久重  集英社インタ-ナショナル

経済人列伝、川路聖アキラ

2011-09-01 02:13:58 | Weblog
聖アキラは1801年に生まれ、1867年幕府瓦解に準じて自決した幕臣です。彼を経済人と言っていいのかどうかはともかく、彼は徳川幕府の典型的な経済官僚です。彼の生涯を省み  川路聖アキラ

 川路て、当時の経済官僚は実際何をしていたのか、を見てみましょう。「聖アキラ」は「トシアキラ」と読みます。「アキラ」は「膜」の肉月をゴンベン(言)に変えた字ですが、ワ-ドにはありませんのでカタカナで表記します。この名前は彼が師事した儒者が四書五経の中の文句からとってくれたもので、彼自身も自分の名前の読み方が解らず「トシアキラ」としたそうです。ちなみに彼は猛烈な勉強家で漢詩にも和歌にも習熟していました。
 聖アキラは豊後国日田代官所で生まれました。現在の大分県日田市です。父親は代官の手代、つまり地方採用の武士です。手代は代官の手伝いという意味ですが、代官と地元の間にあっていろいろと斡旋する仕事ですので、なにかと謝礼が多く、結構裕福な生活でした。4歳時、父親(内藤氏)は決意して江戸に出ます。父親は西丸徒士に採用されます。この職は武士とはいえ、正式の旗本御家人ではなかったようです。父親は聖アキラの将来の出世を願って、彼を川路家の養子にします。川路家もたいした家柄ではありません。旗本御家人のなかで役職のない連中が一括されたグル-プ、小普請組に川路家は代々入っていました。言ってみれば小普請組とは無能で出世街道からはずれた連中の溜まり場です。聖アキラは猛烈に勉強し、猛烈な就職運動を展開します。聖堂の学問吟味の試験には落ちましたが、勘定所の筆算吟味の試験には合格します。18歳支配勘定出役になります。勘定所への臨時派遣職員です。しかしこれで役職とそして出世への足がかりができました。非常に運のいい話しです。
 21歳支配勘定になります。勘定所の正式職員です。同時に評定所に出向し留役助、2年後留役になります。評定所とは、老中若年寄、三奉行、大目付総計役20人前後で、重要議題を審議する機関です。老中若年寄が一存で決定できない場合、この評定を行います。幕府の合議機関あるいはある種の立法機関と言ってもいいでしょう。もちろん最終の裁可は将軍が下します。留役とは記録係のことですが、予審も行います。留役は評定所の実務者、そして実力者でもありました。将軍に拝謁する資格も持ちます。聖アキラは寺社奉行吟味調役にもなります。勘定所の職員でありながら、評定所や寺社奉行所に出向するにはわけがあります。評定所も寺社奉行所も自前の官僚機構を持ちません。幕府機構が肥大した後期あるいは末期において、自前の官僚機構を持っているのは、目付職をやや例外として、勘定所だけでした。ここでは支配勘定、勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行(その上は勝手掛老中-財政担当大臣))ときちんとした序列、つまり官僚機構があります。町奉行所の実務は与力同心が行います。奉行と与力以下は截然と分けられ、与力から奉行への昇進はありえません。寺社奉行は大名の職で、実務を大名の家臣がとったとしても、正式な発言権はないし、そこから上の幕府の役職につくことは不可能です。
 勘定奉行は町奉行、寺社奉行とならんで幕府行政の実務をとります。勘定奉行の職務は天領からの徴税とそれに伴う訴訟でした。綱吉の代になり、財政が逼迫します。徴税を能率的にするために、勘定吟味役というポジションを作りました。通常四名からなり、徴税実務の監視が主な仕事ですが、奉行を超えて老中じきじきに提案上訴することができました。この勘定吟味役を設置することで、勘定所は官僚的階層性が他のポジションより整備されることになります。時代が進むと、勘定所は幕府行政官の輩出地になります。理由は時代が進むほど、財政の行政における比重が増してくるからです。幕府後期から末期にかけては、幕政の実務に責任を持つ中堅層は、勘定吟味役か目付のどちらかの出身者でした。目付は多くの場合名門旗本、対して勘定吟味役は卑賤あるいは軽微な地位の出身者で占められました。聖アキラは後者の典型です。
 支配勘定そして評定所留役になった聖アキラがした大仕事は、彦根藩領と宮津藩領の間で起こった山境紛議取調です。両藩領の村民が山をめぐってともにその所有権を争います。聖アキラは下僚を率いて紛争地に赴き、検地して所有の帰趨を決めます。この時彼は下僚達に、金品を受け取らない、食事は一汁一菜にすることを誓わせ、実行します。
 勘定所所属といえば、その主たる任務は経済関係のことのはずですが、既に述べましたとおり、勘定所は実務官僚の培地ですから、いろいろなところに出向き、そこでの用件を片付けます。仕事の多くは訴訟への対応ですが、時代がら金公事つまり経済問題が多かったようです。聖アキラは吟味取調が迅速で精確、未決事件が非常に少ないので評判になりました。有能な官僚としての名を上げてゆきます。
 31歳、勘定組頭格になります。この地位にあった時有名な仙石騒動の調査を行っています。仙石騒動とは但馬国出石藩仙石家のお家騒動です。藩主と同族の国家老仙石左京が自分の子供に藩主の地位を継がせようと策動します。聖アキラは間宮林蔵を使って調査し左京を告発しようとします。幕閣内部で動揺がありましたが、将軍家斉の意向で取調べとなり、左京は死罪になり出石藩は減知されます。
 35歳、勘定吟味役になります。異例の昇進です。37歳、五両金の新鋳と一分判金の改鋳を命じられます。38歳、西丸普請の用材伐採の監督として木曽出張を命じられます。木曽の木材は尾張藩のうちでしたが、新任藩主と家臣の間で、用材提供の意志が徹底せず、こういうこみいった事情ゆえに江戸からじきじきに吟味役が出張しました。この時も金品贈与と接待の攻勢に悩みます。39歳、一分銀と通用銀の吹立御用を拝命します。この頃蛮社の獄に巻き込まれかけます。渡辺崋山と親密な交際をしていたからです。
 40歳、佐渡奉行に任命されます。初めての奉行職です。一定の範囲の職務をある程度独立して行える職務です。佐渡金山の管理とあとは佐渡の一般行政を行いました。
 41歳、小普請奉行になります。小普請とは江戸城をはじめとする江戸市内の幕府関係建築物の営繕修理が職務です。今度は金を使う仕事に回ります。勘定所は現在でいう経済産業省の仕事も兼ねていました。仕事の関係上業者との癒着が多く、問題の起こりやすいポジションです。この年1841年天保の改革が始まります。聖アキラは水野忠邦の改革に積極的に協力しました。彼は任官して従五位下左衛門尉になります。
 43歳、普請奉行になります。仕事は幕府が行う建築の指導と監督です。前職同様、業者と腐れ縁のできやすい職場です。小普請と普請の奉行に彼が任命されたのは、水野がこのような職場での風紀粛清をねらったからでしょう。
 46歳奈良奉行に転出します。やや左遷じみています。聖アキラは奈良に6年間いました。結構楽しかったようです。賭博を取り締まり、年少犯罪の防止対策を講じ、拷問を廃止し、貧民を救済し、囚人に憐れみをかけ、植樹植林に務め、学問を奨励します。裁判は迅速で滞獄は減少しました。聖アキラは忠義な幕臣ですが、同時に勤皇の志も篤く、奈良奉行在任中御陵を調べ、「神武御陵考」という本を出版しています。奈良の吏民から慕われました。後年聖アキラが所用で京大阪を通る時奈良(と大阪)の役人や庶民がおしかけ、応接に一苦労します。
 51歳、大阪東町奉行。1852年パリ-来航を予期した老中阿部正弘に呼び返され、勘定奉行に任命されます。翌年ロシア公使プチャ-チンが長崎に来航、聖アキラは海防掛に任命され長崎に赴きます。以後安政の大獄まで聖アキラは外交そして軍事の面で老中直属の高級官僚として活躍します。
 プチャ-チンとの交渉内容の主たるものは開港と国境画定の二件です。樺太の国境をどこにするかに関しては、結局定まらず、雑居ということになります。ロシアは江戸か大阪近海の二箇所開港を要求します。幕府は、原則として開港には応じるが、準備不足時期尚早と対応します。つまりぶらかして時間をかせごうという腹です。聖アキラはこの幕府の方針に従い、硬軟両様の手段を用いて対応します。プチャ-チンと聖アキラは個人的には意気投合します。
 55歳、下田取締掛になります。下田にやってきたアメリカ総領事ハリスとの対応の責任者になります。併行して軍事掛に任じられ軍制改革を担当します。品川台場築造を行います。蕃書翻訳御用掛に任じられます。彼は洋学所建造を進言します。これは実現しました。蕃書調所です。禁裏ご造営掛になり、御所の建築の監督をします。この間住吉、堺、西宮の沿岸を巡視します。海防、台場建造のためです。56歳、外国貿易取締掛、57歳勘定奉行勝手方首座、同年米国総領事T・ハリス上府御用掛、金銀貨吹直吹立の総責任者などの要職(というより緊急緊要な職務)に就きます。金銀の吹直は外国との貿易に対処するための貨幣政策です。詳しくは言いませんが、当初日米の貨幣に含まれる銀量が異なるために、日本は相当な銀の損失を蒙りました。この害を防ぐためには銀貨そして金貨の金銀含有量を変えねばなりません。
 1958年58歳、老中堀田正睦に随行して、開国の勅許をいただきに上京します。天皇や公卿の頑迷な保守性のため勅許を得られません。また将軍継嗣問題で聖アキラは、一橋慶喜を押す進言をします。ちょうど井伊直弼が大老に就任した直後のことでした。にらまれた聖アキラは西丸留守居に左遷されます。典型的な閑職です。5年後の1863年62歳時、再び外国奉行に登用されます。66歳中風の発作を起こし半身不随になります。発作はさらに二回繰り返されます。1868年(明治元年)西郷隆盛と勝海舟が江戸城で会談します。江戸城明け渡しの報を聞いて、同年3月17日拳銃で自決します。享年68歳。
 聖アキラの性格はどう形容していいか解りません。謹厳なのは事実ですが、この言葉の範囲には収まりません。仕事はてきぱきしますが、頭の切れる才子風のところはありません。官吏としては極めて清潔です。が、この面でつっぱったような風もありません。自己宣伝はしませんが、仕事の面では遠慮はしません。努力家ですが、がちがちしたところはありません。開明的です。拷問に反対します。外国と折衝しなければならなくなった時、60歳前後でオランダ語を学びはじめます。勉強家で読書家、剣術と槍術には熱心で、和歌漢詩をよくします。絵に描いたような能吏ですが、冷たいところなく、骨太です。剛直ですが、水野忠邦、阿部正弘、堀田正睦などの閣僚には信頼され可愛がられました。官僚を超えた、政治家としての資質もあります。もっともこの可能性は井伊により摘み取られてしまいます。幕臣として忠義を貫きますが、勤皇家でもあります。交友関係は広かった。藤田東湖、渡辺崋山、徳川斉昭、佐久間象山、江川太郎左衛門、佐藤一斎、板倉勝静などなどが有名なところです。なお聖アキラは人生で4度結婚しています。最後の妻とは死ぬまで沿いとげます。
 彼が任官したとき、律令制の官名を名乗らなければなりません。聖アキラの通称は三右衛門だたので、音が似ている左衛門尉を名乗りました。そういうことに拘泥しない人です。
 挿話をいくつか話してみましょう。聖アキラが下田掛を担当しているときに大事件が持ち上がります。吉田寅次郎(松陰)他2名が米国軍艦に行って、米国行きを依頼します。彼らは断られます。身元がわかります。寅次郎は彼の師匠である佐久間象山の指示で出国を企てたことも解ります。本来なら両名とも国禁を犯したのですから、死罪です。二人は国許での謹慎ですみました。この影に佐久間の友人である聖アキラの尽力があったと伝えられています。
 聖アキラは井伊直弼により政治生命を奪われました。彼だけではありません。多くの有能な幕府官僚は一橋慶喜の支持者でした。彼らも政治生命を失います。井伊が倒れて後急速に幕府は衰弱しますが、その原因の一つは有能な実務官僚が払底していたからでもあります。

 参考文献  川路聖アキラ   吉川弘文館