上原正吉
大正製薬の事実上の創設者です。創設者というより、同社を大規模全国規模に発展させ、大企業といわれる会社に育てあげた功労者というべきかもしれません。正吉は1893年(明治3年)埼玉県の並塚(杉戸の近く)に生まれました。4-6歳時に父そして母と死別します。長兄の長十郎のもとに養われ、高等小学校を卒業し、15歳上京します。兄孝助のもとで仕事を手伝いつつ神田商業学校に通います。正吉の趣味は将棋、考える事が好きで数学は得意の科目でした。
1916年(大正5年)19歳時、石井絹治郎が経営する大正製薬所という小さな会社に入ります。正吉と石井の会社経営に寄せる信念が一致したから入社したと言われています。住み込みで給料は15円でした。はじめ事務方に回されますが、半年後に営業担当を希望します。薬物の知識の不足が営業成績に反映する事を知り、明治薬学校の夜学に通います。決断が早く、努力家で、信念に忠実な人柄が想像されます。営業成績は群を抜いて上がります。正吉はセ-ルスマンを天職にすると心に決めます。何事も決心したら実行するたちで、若いにも関わらす、社長である石井に広告への疑問を呈します。石井は主力製品である体素(一種の滋養強壮剤)の広告に大金を使っていました。正吉はデ-タを示して、その無益さを指摘し、かつ広告費が経営を圧迫している事を示します。石井は正吉より10歳年上ですが、経営者としては若く、二人の境遇も似ており、意気はあったようで、正吉の性格もあり、だんだん二人は共同経営者のような関係になって行きます。石井は拡張経営型で、鉱山や化学会社など他業種にも進出し、業界の役職を務めます。正吉は製薬一本の一人一業タイプです。こういう形で両者は住み分けをしていた感があります。石井の経営破綻を正吉の堅実経営が救った事もたびたびあります。
26歳時、17歳の小枝と結婚します。この妻に関しては特記する必要があります。内助の功のみならず、外助の功も甚大な女性です。特に正吉が大阪支店長になった時の活躍はすさまじく、住み込み職員の世話、慶弔や挨拶に見舞、得意先の仕事の手伝いなども自然な流れで行います。特に正吉が苦手な個人的交渉(negociation),ですから裏方の仕事はすべて小枝が引き受けたといわれています。職員からは「かあちゃん」と愛称され、後に「godmother」と呼ばれました。小枝は伊豆蓮台寺温泉の大工土屋仁作の娘で父親に似て、親分肌そして天真爛漫で躾も行き届いていました。ただ結婚当初、小枝は夫正吉とどう接していいか迷い、結婚生活に飽き足らない気持ちを抱いていたようです。正吉は、思考は深く決断は速いのですが、幾分内閉的なところがあります。この点を見抜いた小枝は、むしろ積極的に会社経営に参加する形で正吉との間に起こりうる間隙を埋めていったようです。後年起こる、石井一族との争い、そして参議院議員選挙に際して、事実上の作業の指揮は小枝がとったようです。彼女は、夫を成功させる四箇条なるものを言っています。夫に家庭の心配をさせない、給料や地位に不満を言わない、夫の仕事を手伝う、虚栄心の強い妻にはならない、です。
正吉は積極的に会社の経営改組を主張し取り組みます。個人経営を止め株式会社制度にします。大正15年、特約株主制度を設けます。小売店に株を持ってもらいます。配当金をはらいます。営業成績が良いと、収益の一部を小売店にキックバックします。こうして小売店を取り込み、販売網を拡充し安定させ、同時に株式会社制度の基礎にします。株式会社でもありますが、相互扶助組織でもあります。会社の規模と知名度が限られているので、全国的な直接投資システムは作れない段階でした。昭和3年社名を大正製薬株式会社と改めます。役員は社長の石井絹治郎以下4名、正吉は唯一の非石井系として役員になります。
昭和4年大阪支店長になります。大正製薬の製品は関西地区だけすっぽ抜けたように売れていません。この仕事は失敗の可能性が高くは火中の栗を拾うような仕事です。正吉は失敗すれば、自分の将来はないもの、と覚悟して大阪に行きます。ひょっとすればこれは会社幹部の策略かも知れません。大阪は道修町を中心とする製薬資本のメッカで、塩野義、武田、田辺などの知名度の高い全国版メ-カ-が販売網をがっちり握っています。また商都大阪の商法は江戸時代からの伝統を引き、生き馬の目を抜くように厳しいと言われていました。
正吉は猛進します。まず営業マンの育成に努めます。社員は全員住み込み、夕食後は講義が始まります。上原学校と呼ばれました。挨拶、得意先の呼称から始まり、営業一般の心得、商業簿記のつけかた、商用文書の書き方、新薬の知識、得意先での応答など詳しく講義されました。正吉ははじめから答えを与えることはしません。各自に考えを出させ、自分で意見を言わせ、それを土台に質疑応答します。こうして戦士を養成します。
心得として特に二つの事を強調しました。商売は戦い、勝つことのみが善だ。もう一つが、商売は五分と五分、お互い対等だ、です。だから商品の押し売りや値引きは禁止します。注文表の出ていない商品の出荷は許可されません。二つの信条を総合すると、相手の立場を充分考慮して、押しまくれ、となります。ということは徹底的に考えよ、という事を要請します。
特約株主制度を改良して、共成会制度に改めます。小売店が買わなければならない株式の額を下げます。会員専売品を設け、会員の特権化をはかります。共同工場制度を提唱し、小売店が大正製薬の工場を借りて製造するシステムを提案します。共成会制度は、既存の企業によりがっちり握られている問屋制度を利用しなくてもいいシステムです。あらゆる意味で正吉の成功の基礎はこの制度にあります。
社内報「美つ葉」を発行し情報の徹底を期します。それまでの商習慣であった、候文を廃止し、得意先への文書はすべて平易な口語にします。何々どん、という職員の呼称をやめて、何々君に改め、職員間の平等意識を涵養します。営業マンはそれまで、外務員とか外交員とか呼ばれていました。外商員に切り替えます。外商すなはちセ-ルスマンが会社の支えである事を強調します。採用には作文を重視しました。この間妻の兄が急死します。子供の一人昭二を引き取り養子にします。大阪滞在8年たった昭和12年(1937年)大阪支店の営業成績が東京本店を抜きました。
逆に東京の成績は散々でした。原因は石井の拡張主義にあります。多くの会社に手を出し、名誉的な役職を兼務します。本業の製薬への関心と配慮はおざなりになります。石井一族が役員であり、彼らは石井個人から恩恵を受ける立場ですので、イエスマンに終始します。昭和13年正吉は東京に呼び返され、常務取締役になり東京大阪の営業を統括することになります。大正製薬の経営をすべて任せると石井から一任されました。
正吉は経営再建に取り組みます。例の猛烈調で取り組みます。まず経費節約と能率向上です。薬の容器の種類が多すぎるとして、極力統一し、種類を1/10に絞り込みます。能率の一番良い作業員の作業をモデルとして、作業のマニュアルを作ります。最小の労力で最大の効果、が狙いです。毎月営業マンの成績表を張り出し、一番のものには背広を賞品として与えます。当時背広一着の値段は初任給に相当しました。即断即決速効を強調して、ワンマン的態度も容認します。何事もスピ-ドです。社内での貸借と贈答は禁止しました。社内報「かたばみ」を発行し情報と意志伝達の徹底をはかります、一度紙上に載った事は、知らなかったではすまない、責任を追及される、と布告します。
以上の取り組みを見ていますと、凱旋将軍のク-デタを連想させます。大阪で8年、東京に充分対抗できる地盤を築き、その実力と声望をもって本社に帰り、経営不振を徹底的に改善します。当然大阪子飼いの社員は多数いますし、共成会(彼らは株主です)は正吉の作品です。着任当初の反上原感情は相当なものでした。この感情は特に役員に強く、石井なき後の政権争いまで引きずります。
統制経済の時代になります。原料は配給制です。正吉は売る競争から、買う競争への転換を強調します。同業者からも他業種からも、原料のみならず、製品まで買い込みます。買って売るのだ、商品を探せ、売るもののない会社ならないほうがましだ、と檄を飛ばします。時代の様相(物がない)を良く見ています。終戦時大正製薬は馬糧(馬のえさ)を作らされていました。どこの会社もそんな目にあっています。正吉はそういう状況の中で必死に生き抜くことを考えました。一方満州や朝鮮の支店は開戦当初から閉鎖します。他社とは逆の方針を貫きます。戦争の帰趨を読んでいたようです。この辺の慧眼には一驚させられます。
昭和16年石井絹治郎が急死します。社長は石井の長男輝司、正吉は専務代表取締役になります。輝司は外地で軍務に服しているのでその地位は形式的、実質的経営のすべては正吉の手腕に託されます。正吉は独裁宣言をします。社長が急死し、時局も時局、多数の意見の交錯は経営を破綻させる、爾後は私上原がすべてを取り仕切る、と言い切ります。社外役員はすべて退任させ、役員補充は内部昇格で行います。当然正吉子飼いの社員が抜擢されます。
終戦になります。社長の席をめぐる闘争がかなり隠避に開始されます。それまでの経緯と実績を見れば正吉の社長就任は当然視されていました。ある日MP(米軍憲兵)が正吉を連行します。麻薬密売の容疑です。実際は製薬原料のカフェインを会社が持っていただけです。妻小枝の必死の救済作業が始まります。内務省を通じてGHQに問い合わせると、そういう指令は出していないとのことです。誰かが(多分石井一族のもの?)が労組を通じて密告したようです。留置場に3日拘留され釈放されます。臨時株主総会にはまにあいました。正吉が正式に社長に選出されます。旧役員が物納する株を会社で買い取り、彼らの発言権を完全に封じます。共成会は共成会チェ-ンに改組されます。大正チェ-ンと呼称されました。社名は株式会社大正製薬と改名されます。
薬は必要なものでしたから、作れば売れました。事務能率の向上と経費節減に励みます。帳簿を自社の運営に適合させるべく改善します。社内で必要とする用紙のサイズを統一し
さらに自社印刷にします。
民放のラディオさらにテレヴィを宣伝に駆使します。これらのメディアを使って、大衆の気持ちに沿うような製品を発売します。それまでの解熱剤は粉で飲みにくいと決まっていました。水溶性の飲みやすく味付けしてある解熱剤パブロンを売り出します。昭和30年代前半と言えば日本がやっと飢餓の恐怖から解放され、やれタンパク質だビタミンだと贅沢を言い出した時代です。ビタミンを入れた、薬とも飲み物ともつかないリポビタンDが発売されます。冷やしてのむ美味しい栄養剤でした。ジュ-スとしても活用できます。巨人の王選手をコマ-シャルアイドルに起用したのも当たりました。このリポビタンDは医学的に見れば無用な代物です。ただコマ-シャルを見、飲むと実際に効くような感じになります。「D」を「デ-」とドイツ語風に読ませるところが味噌でもあります。当時は医学での第一外国語はまだドイツ語でした。こうして大衆を暗示にかけてゆきます。まさしくセ-ルスマンを天職と心得る正吉の出番です。中年からの強壮剤サモンも売れました。こうして大正製薬は大衆薬品メーカ-のトップに躍り出ます。
昭和25年参議院議員に当選、戦傷者戦没者援護法通過に尽力し、財団法人日本遺族会の設立に努力します。昭和28年から新工場を増設します。規模最大の大宮工場ができます。昭和48年社長の座を息子である昭二に譲ります。昭和56年完全引退。1983年(昭和58年)死去、享年85歳でした。
上原正吉の性格はかなり複雑です。自信家で努力家であり思考は緻密で、決断は早く大胆です。強引でもあります。一方どこか内閉的でシャイな傾向もうかがわせます。そして結構ロマン的でもあります。妻の外助の功は必要であったのでしょう。
参考文献 上原正吉伝 かんき出版
大正製薬の事実上の創設者です。創設者というより、同社を大規模全国規模に発展させ、大企業といわれる会社に育てあげた功労者というべきかもしれません。正吉は1893年(明治3年)埼玉県の並塚(杉戸の近く)に生まれました。4-6歳時に父そして母と死別します。長兄の長十郎のもとに養われ、高等小学校を卒業し、15歳上京します。兄孝助のもとで仕事を手伝いつつ神田商業学校に通います。正吉の趣味は将棋、考える事が好きで数学は得意の科目でした。
1916年(大正5年)19歳時、石井絹治郎が経営する大正製薬所という小さな会社に入ります。正吉と石井の会社経営に寄せる信念が一致したから入社したと言われています。住み込みで給料は15円でした。はじめ事務方に回されますが、半年後に営業担当を希望します。薬物の知識の不足が営業成績に反映する事を知り、明治薬学校の夜学に通います。決断が早く、努力家で、信念に忠実な人柄が想像されます。営業成績は群を抜いて上がります。正吉はセ-ルスマンを天職にすると心に決めます。何事も決心したら実行するたちで、若いにも関わらす、社長である石井に広告への疑問を呈します。石井は主力製品である体素(一種の滋養強壮剤)の広告に大金を使っていました。正吉はデ-タを示して、その無益さを指摘し、かつ広告費が経営を圧迫している事を示します。石井は正吉より10歳年上ですが、経営者としては若く、二人の境遇も似ており、意気はあったようで、正吉の性格もあり、だんだん二人は共同経営者のような関係になって行きます。石井は拡張経営型で、鉱山や化学会社など他業種にも進出し、業界の役職を務めます。正吉は製薬一本の一人一業タイプです。こういう形で両者は住み分けをしていた感があります。石井の経営破綻を正吉の堅実経営が救った事もたびたびあります。
26歳時、17歳の小枝と結婚します。この妻に関しては特記する必要があります。内助の功のみならず、外助の功も甚大な女性です。特に正吉が大阪支店長になった時の活躍はすさまじく、住み込み職員の世話、慶弔や挨拶に見舞、得意先の仕事の手伝いなども自然な流れで行います。特に正吉が苦手な個人的交渉(negociation),ですから裏方の仕事はすべて小枝が引き受けたといわれています。職員からは「かあちゃん」と愛称され、後に「godmother」と呼ばれました。小枝は伊豆蓮台寺温泉の大工土屋仁作の娘で父親に似て、親分肌そして天真爛漫で躾も行き届いていました。ただ結婚当初、小枝は夫正吉とどう接していいか迷い、結婚生活に飽き足らない気持ちを抱いていたようです。正吉は、思考は深く決断は速いのですが、幾分内閉的なところがあります。この点を見抜いた小枝は、むしろ積極的に会社経営に参加する形で正吉との間に起こりうる間隙を埋めていったようです。後年起こる、石井一族との争い、そして参議院議員選挙に際して、事実上の作業の指揮は小枝がとったようです。彼女は、夫を成功させる四箇条なるものを言っています。夫に家庭の心配をさせない、給料や地位に不満を言わない、夫の仕事を手伝う、虚栄心の強い妻にはならない、です。
正吉は積極的に会社の経営改組を主張し取り組みます。個人経営を止め株式会社制度にします。大正15年、特約株主制度を設けます。小売店に株を持ってもらいます。配当金をはらいます。営業成績が良いと、収益の一部を小売店にキックバックします。こうして小売店を取り込み、販売網を拡充し安定させ、同時に株式会社制度の基礎にします。株式会社でもありますが、相互扶助組織でもあります。会社の規模と知名度が限られているので、全国的な直接投資システムは作れない段階でした。昭和3年社名を大正製薬株式会社と改めます。役員は社長の石井絹治郎以下4名、正吉は唯一の非石井系として役員になります。
昭和4年大阪支店長になります。大正製薬の製品は関西地区だけすっぽ抜けたように売れていません。この仕事は失敗の可能性が高くは火中の栗を拾うような仕事です。正吉は失敗すれば、自分の将来はないもの、と覚悟して大阪に行きます。ひょっとすればこれは会社幹部の策略かも知れません。大阪は道修町を中心とする製薬資本のメッカで、塩野義、武田、田辺などの知名度の高い全国版メ-カ-が販売網をがっちり握っています。また商都大阪の商法は江戸時代からの伝統を引き、生き馬の目を抜くように厳しいと言われていました。
正吉は猛進します。まず営業マンの育成に努めます。社員は全員住み込み、夕食後は講義が始まります。上原学校と呼ばれました。挨拶、得意先の呼称から始まり、営業一般の心得、商業簿記のつけかた、商用文書の書き方、新薬の知識、得意先での応答など詳しく講義されました。正吉ははじめから答えを与えることはしません。各自に考えを出させ、自分で意見を言わせ、それを土台に質疑応答します。こうして戦士を養成します。
心得として特に二つの事を強調しました。商売は戦い、勝つことのみが善だ。もう一つが、商売は五分と五分、お互い対等だ、です。だから商品の押し売りや値引きは禁止します。注文表の出ていない商品の出荷は許可されません。二つの信条を総合すると、相手の立場を充分考慮して、押しまくれ、となります。ということは徹底的に考えよ、という事を要請します。
特約株主制度を改良して、共成会制度に改めます。小売店が買わなければならない株式の額を下げます。会員専売品を設け、会員の特権化をはかります。共同工場制度を提唱し、小売店が大正製薬の工場を借りて製造するシステムを提案します。共成会制度は、既存の企業によりがっちり握られている問屋制度を利用しなくてもいいシステムです。あらゆる意味で正吉の成功の基礎はこの制度にあります。
社内報「美つ葉」を発行し情報の徹底を期します。それまでの商習慣であった、候文を廃止し、得意先への文書はすべて平易な口語にします。何々どん、という職員の呼称をやめて、何々君に改め、職員間の平等意識を涵養します。営業マンはそれまで、外務員とか外交員とか呼ばれていました。外商員に切り替えます。外商すなはちセ-ルスマンが会社の支えである事を強調します。採用には作文を重視しました。この間妻の兄が急死します。子供の一人昭二を引き取り養子にします。大阪滞在8年たった昭和12年(1937年)大阪支店の営業成績が東京本店を抜きました。
逆に東京の成績は散々でした。原因は石井の拡張主義にあります。多くの会社に手を出し、名誉的な役職を兼務します。本業の製薬への関心と配慮はおざなりになります。石井一族が役員であり、彼らは石井個人から恩恵を受ける立場ですので、イエスマンに終始します。昭和13年正吉は東京に呼び返され、常務取締役になり東京大阪の営業を統括することになります。大正製薬の経営をすべて任せると石井から一任されました。
正吉は経営再建に取り組みます。例の猛烈調で取り組みます。まず経費節約と能率向上です。薬の容器の種類が多すぎるとして、極力統一し、種類を1/10に絞り込みます。能率の一番良い作業員の作業をモデルとして、作業のマニュアルを作ります。最小の労力で最大の効果、が狙いです。毎月営業マンの成績表を張り出し、一番のものには背広を賞品として与えます。当時背広一着の値段は初任給に相当しました。即断即決速効を強調して、ワンマン的態度も容認します。何事もスピ-ドです。社内での貸借と贈答は禁止しました。社内報「かたばみ」を発行し情報と意志伝達の徹底をはかります、一度紙上に載った事は、知らなかったではすまない、責任を追及される、と布告します。
以上の取り組みを見ていますと、凱旋将軍のク-デタを連想させます。大阪で8年、東京に充分対抗できる地盤を築き、その実力と声望をもって本社に帰り、経営不振を徹底的に改善します。当然大阪子飼いの社員は多数いますし、共成会(彼らは株主です)は正吉の作品です。着任当初の反上原感情は相当なものでした。この感情は特に役員に強く、石井なき後の政権争いまで引きずります。
統制経済の時代になります。原料は配給制です。正吉は売る競争から、買う競争への転換を強調します。同業者からも他業種からも、原料のみならず、製品まで買い込みます。買って売るのだ、商品を探せ、売るもののない会社ならないほうがましだ、と檄を飛ばします。時代の様相(物がない)を良く見ています。終戦時大正製薬は馬糧(馬のえさ)を作らされていました。どこの会社もそんな目にあっています。正吉はそういう状況の中で必死に生き抜くことを考えました。一方満州や朝鮮の支店は開戦当初から閉鎖します。他社とは逆の方針を貫きます。戦争の帰趨を読んでいたようです。この辺の慧眼には一驚させられます。
昭和16年石井絹治郎が急死します。社長は石井の長男輝司、正吉は専務代表取締役になります。輝司は外地で軍務に服しているのでその地位は形式的、実質的経営のすべては正吉の手腕に託されます。正吉は独裁宣言をします。社長が急死し、時局も時局、多数の意見の交錯は経営を破綻させる、爾後は私上原がすべてを取り仕切る、と言い切ります。社外役員はすべて退任させ、役員補充は内部昇格で行います。当然正吉子飼いの社員が抜擢されます。
終戦になります。社長の席をめぐる闘争がかなり隠避に開始されます。それまでの経緯と実績を見れば正吉の社長就任は当然視されていました。ある日MP(米軍憲兵)が正吉を連行します。麻薬密売の容疑です。実際は製薬原料のカフェインを会社が持っていただけです。妻小枝の必死の救済作業が始まります。内務省を通じてGHQに問い合わせると、そういう指令は出していないとのことです。誰かが(多分石井一族のもの?)が労組を通じて密告したようです。留置場に3日拘留され釈放されます。臨時株主総会にはまにあいました。正吉が正式に社長に選出されます。旧役員が物納する株を会社で買い取り、彼らの発言権を完全に封じます。共成会は共成会チェ-ンに改組されます。大正チェ-ンと呼称されました。社名は株式会社大正製薬と改名されます。
薬は必要なものでしたから、作れば売れました。事務能率の向上と経費節減に励みます。帳簿を自社の運営に適合させるべく改善します。社内で必要とする用紙のサイズを統一し
さらに自社印刷にします。
民放のラディオさらにテレヴィを宣伝に駆使します。これらのメディアを使って、大衆の気持ちに沿うような製品を発売します。それまでの解熱剤は粉で飲みにくいと決まっていました。水溶性の飲みやすく味付けしてある解熱剤パブロンを売り出します。昭和30年代前半と言えば日本がやっと飢餓の恐怖から解放され、やれタンパク質だビタミンだと贅沢を言い出した時代です。ビタミンを入れた、薬とも飲み物ともつかないリポビタンDが発売されます。冷やしてのむ美味しい栄養剤でした。ジュ-スとしても活用できます。巨人の王選手をコマ-シャルアイドルに起用したのも当たりました。このリポビタンDは医学的に見れば無用な代物です。ただコマ-シャルを見、飲むと実際に効くような感じになります。「D」を「デ-」とドイツ語風に読ませるところが味噌でもあります。当時は医学での第一外国語はまだドイツ語でした。こうして大衆を暗示にかけてゆきます。まさしくセ-ルスマンを天職と心得る正吉の出番です。中年からの強壮剤サモンも売れました。こうして大正製薬は大衆薬品メーカ-のトップに躍り出ます。
昭和25年参議院議員に当選、戦傷者戦没者援護法通過に尽力し、財団法人日本遺族会の設立に努力します。昭和28年から新工場を増設します。規模最大の大宮工場ができます。昭和48年社長の座を息子である昭二に譲ります。昭和56年完全引退。1983年(昭和58年)死去、享年85歳でした。
上原正吉の性格はかなり複雑です。自信家で努力家であり思考は緻密で、決断は早く大胆です。強引でもあります。一方どこか内閉的でシャイな傾向もうかがわせます。そして結構ロマン的でもあります。妻の外助の功は必要であったのでしょう。
参考文献 上原正吉伝 かんき出版