経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

イギリスという国の成立ち

2009-02-23 00:04:33 | Weblog

 「天皇制の擁護 第九章 アングロ・サクソンの政治」解説(1)

   イギリスという国の成立ち

  ここで詳しい英国史を語るつもりはありません。簡単に民族の交流に触れておきます。紀元前の大昔ブリテン島にはイベリア人という種族が住んでいたそうです。現在のイベリア半島の住人ではないようです。それ以上は解りません。ただイベリア半島の西岸あたりでメキシコ湾流に乗れば自動的にブリテン島に流れ着きます。広東か福建から黒潮に乗って日本列島へ漂着するようなものでしょう。

 その次にブリテン島に移住したのがケルト人です。ケルト人はギリシャ人がつけた名称で、ロ-マ人はガリア人と呼びました。ゲルマン民族の移動前には、ライン・ドナウの南方各地に住み大勢力でした。ロ-マは一度ガリア人にロ-マ市の大部分を占拠され略奪される屈辱を味わっています。イギリスを島とみなせばブリテン島と言います。その対岸のフランスにはブルタ-ニュ半島がありますが、ここは現在でもケルト系の人々が住んでいます。ブリテン、ブルタ-ニュはほぼ同じ意味です。ロ-マ人はブリテン島に住むケルト人をブリトン人と、フランスに住む人々をガリア人といって区別しました。ケルト人はドルイド教という民俗宗教と、妖精の活躍するお話とウィスカ(ウィスキ-の本家)で有名です。

 そこへ紀元前後ロ-マ人が侵入します。カエサル以後歴代の皇帝や部下の将軍達はブリテン島南部、現在イングランドと呼ばれている一帯を属州にしました。あまり豊ではない州なので統治もほどほどでした。なんのためにローマ人がこの島に侵入したかと言いますと、大陸のガリア人が反乱を起こすとこの島の同族と呼応しまた退却路になるからです。ロ-マ人が進出したのは現在のイングランド・スコットランドの境界までです。それ以上は進出しません。ハドリアヌスの壁という長城を築いて北部からの侵略を防ぎました。南部ではケルト人の中にロ-マの植民市が点々としていました。ロンドンもこの植民市の一つです。ケルト人はブッディカという女性族長に率いられて大反乱を起こしましたが、以後はロ-マ人とケルト人はうまくやっていました。イギリスがロ-マ人にとって住みごごちの良かったところとは思えません。日照時間が少なく陰気です。寒い。そして何よりもロ-マ人の好物であるワインができません。ある皇帝はゲルマン人がビールを飲むと聞いて、彼らはワインを知らないから麦で作った酒を飲むのだろう、といいました。ワインは地中海諸民族にとっては必須のものです。

 4世紀後半からゲルマン諸族の移動が活発になります。彼らが居住を希望する垂涎の地は当然、ロ-マ帝国内部です。現在のドイツに住んでいたアンゲル族とザクゼン族は海を超えてブリテン島に移動します。その侵略は猛烈なものだったようです。当時ケルト人もローマ市民権を付与され、ロ-マの貴族階級に属する層も出現し、ロ-マ・ケルト混交で比較的平和でした。アンゲル・ザクゼン族の侵入によりそれまでの文明はすべて(?)破壊されます。森林の中に点在する村・教会・別荘・農耕地はすべて略奪され住民は殺戮されて、村は廃墟になったそうです。ギボンはそう言っています。トレウェリアンもほぼ同意権です。

 アングロ・サクソン族はロ-マ人を駆逐し、ケルト人をブリテン島の辺境へ追いやりつつ相互に抗争しあい、やがてケント、ウェセックス、サセックス、マーシャ等の七王国(ヘプタ-キ-)を作ります。この当時の英語をold Englishと言いますが、英語よりむしろラテン語に近い感じがします。古事記が一見漢文の印象を与えるのと同じでしょう。七王国は統一に向かいますが、今度はデンマ-ク周辺に居住する北方のゲルマン人であるデ-ン人の侵入があります。デ-ン人とアングロ・サクソンの抗争が約2世紀。イングランドの北部はデ-ン人の支配下に入り、この地帯は南方と法制・土地制度も異なることになりました。

 デーン人自身ノルマンですが、別のノルマン人はフランスに侵入し、ノルマンディ-半島一帯を与えられフランス国内の大領主になります。このノルマンディ-侯がウィリアムの時対岸のブリテン島に侵入します。この時イギリスにはかろうじて統一王朝というものが存在しました。その王(または王の候補)がハロルドです。ウィリアムはハロルドの即位に異議を立てて侵入しました。丁度北方からは新たなデ-ン人の侵入があり、ハロルドはまずこのデ-ン人部隊を倒します。その隙をついてウィリアムはケント地方に上陸。ハロルドは急遽引き返します。歩兵を置いて馬乗りだけで引き返します。ウィリアムは待ちうけ、ヘイスティングスの野で両軍は会戦します。ハロルドの軍は馬で運んでもらうだけの馬乗り歩兵です。ウィリアムの軍隊は歩騎共同。激戦の末ハロルドは戦死、英国の王位は勝者ウィリアムが継ぎます。1066年のウィリアムの戴冠をもってノルマン王朝が始まります。これが統一されたイギリス王国の最初です。

 イギリスは海に向かって開かれています。ノルマンディ-候の侵入までは、イギリスは侵入されるばかりでした。以後海はイギリスにとって海外進出、つまり侵略の出口になります。トレヴェリアンはそう書いています。イギリスは東西二方向に侵略します。西とはフランスです。もともとノルマン王朝はフランス王の家臣で大領主です。この王朝は4代で耐えますが、ウィリアムの娘マチルダはフランスの大領主アンジュウ-伯プランタジネット家のジョフロアと結婚します。二人の間にできたのがアンジュウ-朝の初代であるヘンリ-1世です。この王様は名君でした。同時に血縁関係からフランスの王位継承にも介入できました。その結果が200年後に現れます。英仏戦争です。

 1339年英仏戦争(100年戦争)が勃発します。イギリスは侵入する一方で、戦場はフランス。だから略奪はイギリスの一方的行為になります。戦勢は常にイギリスに有利でした。結果としてイギリスは負けた形になりますが、100年の間の略奪と身代金は巨大なものになり、イギリス国内のジェントリ-やヨ-マンを富裕にします。1453年戦争終了。100年戦争が終わることによって、初めて英国王でありかつフランス王制下の大領主という二重の性格が英国王位からなくなります。この時点で英仏の国家としての境界がはっきりしました。ただカレ-だけはかなり後まで英領でした。英仏戦争以後イギリスは30年にわたるバラ戦争を克服して統一王権を確立します。1588年無敵艦隊を撃破してイギリスはスペインの影響を払拭します。100年にわたる宗教上の内乱。18世紀初頭スペイン王位継承戦争。優秀な軍人である国王ウィリアム3世に率いられた英軍は欧州に上陸します。戦勝の獲物は植民地です。1707年スコットランド併合。こうして現在のイギリスができました。この間11世紀からアイルランドへの侵攻はず-と続けられています。

(笑い話)
 知人でグラスゴ-に住んだ人がロンドンに行きました。彼はロンドンはなんと明るく日照時間が長いかと感動した由です。我々日本人から見ればロンドンなどクル病が名物の霧の都ですが。その通りでイギリスを征服したフレンチノルマンの貴族たちはイギリスより対岸の南仏に住みたがりました。



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