経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

人口とGDP、新経済政策の提唱

2010-11-28 03:18:57 | Weblog
    人口とGDP、新経済政策の提唱

 アメリカ合衆国と日本の人口及びGDPを比較検討すればおもしろい事に気づかされる。20年前の1990年と比し、アメリカの人口は1・5倍になっている。同様にアメリカのGDPも1・5倍に増大している。この間日本の人口もGDPもほぼ横ばいで変らない。従ってアメリカと日本のGDPは20年前の2対1から3対1に変化している。同様に日米の人口比は2対1から3対1に移行している。換言すればアメリカのGDPは日本のGDP総量だけ増大している。また両国の、一人当たりのGDPは共に不変である。以上の事実からでてくる単純な帰結は、成熟国家におけるGDPの増加は人口の増大によるしか無いことになる。アメリカの人口増加はアメリカ国民の繁殖力によるものではない。ヒスパニック系を始めとする、正当また不当な移民によるものである。
 ここで中国のデータを加味してみよう。20年前の中国のGDPは現在のそれに比べれば、ほぼ無視できる、ネグリジブル、つまりゼロと見ていい。現在中国のGDPは日本のそれとほぼ同額である。またアメリカのGDP増大額と中国のそれも等しい。アメリカが人口増大策を取って、GDPを外延的に増大させたのに対し、中国は人口増大を極力抑えつつGDPを内包的に増大させたことになる。ここから出てくる結論は、GDPの増大すなはち経済成長は人口増によるか、それとも絶対的貧困の克服によるしかない、ということになる。この結論は日本にとっていささか悲観的である。私は移民の必要性を認識するものである。日本が日本というアイデンティティを保持しつつ強国でありうるためには、人口増の増大は必要である。のみならず世界の貧困を撲滅するためには、貧困国から移民を受容して、共に栄えるしかない、と考えている。
 しかしその前に他の方法がないか考えてみよう。日本の国民が欲しているニ-ズ、つまり需要は何かと考えてみよう。かって高度成長経済と言われた時代、生活はどのように豊かになって行ったのかを振り返ってみよう。昭和30年(1955年)くらいから日本人の生活はどんどん向上した。生活の向上は生活への物質的な付与によるものがほとんどだ。三種の神器、電気掃除機、洗濯機、冷蔵庫、TV、ク-ラ-、自動車などなどの新しい用具が生活に付与され、その分生活は豊かになった。戦争直後には、純綿とか純毛とか言われて、貴重品扱いされた、綿布や毛織物は巷に溢れるようになった。食糧にしても同様である。昭和40年前後を転機としてフランスやイアリアのワインや菓子が店頭に並んだ。
 なぜこのように生活を豊かにする事ができたのか?答えは簡単である。日本の製造業の技術が発展し、諸種の用具を安価に大量に国内市場に提供できるようになったからである。
その延長上に輸出力つまり国際競争力の増大が伴う。自動車を例に取ってみよう。自動車の素材の主要部分は鉄である。仮に自動車が全部鉄でできているとして、鉄と自動車のトンあたり価格を比較すれば多分10対1を超えるであろう。他の品目においても同様だ。技術とはそのようなものだ。内需が増え、国際競争力が増大すれば輸入量も増える。欧州のワインや菓子を買っても困らなくなる。ちなみに昭和30年代まで百貨店の店頭にあったワインはサントリ-の赤玉ポ-トワインだけだった。技術とは生活を豊かにする打ちでの小槌なのだ。高度成長期といわれる時代はこのように製造業が発展し、その余慶として福祉があった。
 現在においては製造業と福祉の順を逆に考えるべきではないか?製造業が技術であり、価値を生み出すように、医療教育介護などの福祉も技術であり、価値を生み出す。かって政府が道路港湾橋梁などに公共投資し需要を生み出したように、現在上記した福祉分野に公共投資し有効需要を生み出せばいいのだ。福祉は単なる対人サ-ヴィスではなくなってきている。福祉分野を充実させるためには、膨大な機械装置を必要とする。50年前の医療と現在のそれは全く異なる。聴診器一つの時代ではない。現在の介護福祉士はかっての女中さんではない。福祉分野の充実はその分製造業を刺激する。自動車の製造と介護ロボットの製造では必要とされる技術水準が全く異なる。福祉分野を体系的に充実させれば製造業の発展が加速される。
 政府も野党も均衡財政を優先し、その範囲内で経済政策を考えている。医療機関が取得する点数を削減し、介護でも国民負担を増加させようとしている。一見合理的に見えてナンセンスだ。経済の発展成長とは経済規模の増大なのだ。経済規模の増大には流通貨幣量の増大は必須だ。私のかねてからの以下の主張を繰り返している。個々人の医療費負担をゼロとして、総医療費を大幅に増額する。現在総医療費は35兆円から40兆円の範囲にある。これを100兆円にしてもいい。必要な資金は日銀券発行で賄う。教育や介護においても同様の措置を取ればいい。捲いた金は必ず税収となって帰ってくる。増税の必要などはない。貨幣量を増やせばインフレになる恐れがあると言う。基軸産業の育成を図らず、ただ貨幣をばらまいたらそうなるだろう。しかし医療教育介護などのサーヴィスは国民が渇望する価値だ。それに貨幣の裏づけをしてインフレになるはずはない。もっとも私はある程度のインフレは現在の状況では歓迎するが。
 肝心な事は福祉を政府が下賜する余慶としてではなく、基軸的な成長産業であるとしっかり認識することだ。かっては製造業が福祉を牽引した。現在では福祉が製造業を牽引すればいいのだ。福祉の増大はそれに伴う機械器具の需要を介して製造業に結びつく。これが日本の経済を真底から賦活する道だ。そして日本はこの方策をとりうる世界唯一の国かもしれない。

経済人列伝、大橋新太郎

2010-11-25 03:26:27 | Weblog
      大橋新太郎
 
 大橋新太郎という名は今までの各列伝の資料模索中によく出てきました。しかし私はこの人物の名さえ知りませんでした。新太郎の事業の基礎は博文館という出版社であります。ところで明治期に大活躍したこの人物の拠って立つ博文館という出版社については、私の認識は、たしかそんな名の出版社があったなあ、くらいです。出版不況と言われる時期がもう20年続いている今日の感覚からすると、出版社を基礎として、以下に述べるような、新太郎の事業拡大がありえたことは、正直びっくりです。
 博文館の設立は新太郎の父、大橋佐平によるものです。佐平は越後(新潟県)長岡で材木商そして酒造業をしていました。佐平は政治への関心の極めて旺盛な人で、町人の身分ながら、軍学や撃剣を学んで国事に奔走しました。町人としては稀と、伝記には書いてありますが、幕末においては上層の農民や商人の政治への関心は低いものではなかったと思います。戊辰戦争において、長岡藩牧野家は家老河合継之助の指導のもとに、薩長軍と戦いますが、佐平は和平派として活躍したようです。
 佐平は非常に事業拡大に熱心な人で、維新後長岡に小学校を作り、更に洋学校を作って、英語教育を広めました。また越佐毎日新聞(北越新聞の前身)を創設しています。1887年(明治20年)出版社博文館を設立します。新太郎は佐平の長男として、1863年(文久3年)長岡に生まれます。父親が作った洋学校に入り、14歳時、上京して中村正直の経営する同人社で教育を受けます。同人社は当時、つまり明治初期においては慶応義塾と並ぶ、エリ-ト養成機関でした。そのころの高等教育用の学校としては、多分、東大の前身である開成学校と慶応義塾くらいしか他に学校はなかったようです。2年後、父親がしている図書雑誌販売を助けるために、同人社を中退し帰郷します。
 明治20年佐平は博文館を設立します。ですから博文館の事業は佐平と新太郎の共同経営として出発したと、見ていいようです。この出版社は日本の古典の復興を主たる目的の一つにしました。博文館は最初に「日本大家論集」という雑誌を出します。中村正直、加藤弘之などの当時の知的指導者の論文を載せた雑誌です。ついで「日本の数学」「日本の商人」「日本の女学」など「日本-」が頭につく雑誌をどんどん出版します。また市町村制が敷かれ、憲法が作られると、新制度の解説注釈などを内容とする本を出版します。また日本古来からの文学文芸を復興させるべく、「日本文学全書」「日本歌学全書」「俳諧文庫」「心学叢書」「温知叢書」「帝国文庫」なども次々に出版します。
 「日本文学全書」はそれまでに出版されていた古典の翻刻出版で、以下のようなものがあります。 伊勢物語、土佐日記、方丈記、徒然草、枕草子、源氏物語、紫式部日記、竹取物語、十訓抄、公事根源、水鏡、大鏡、増鏡などです。
 「日本歌学全書」は佐々木信綱に委嘱し、万葉・古今・新古今はじめとし、歴代勅撰和歌集、山家集、金カイ集、などの和歌を注釈解説したものです。
 「心学叢書」は石田梅岩と彼の弟子たちの著作を復刻し集成したものです。
 「帝国叢書」は源氏や万葉に比べればもう少し大衆的な文学、源平盛衰記、平家物語、太平記、太閤記、里美八犬伝、東海道中膝栗毛、浮世床、浮世風呂などを収録しています。
 以上のような出版内容を見ますと、まず政治意識が高いことが特記されます。保守的な、政府支持の方向で、当時の指導者論客の意見を開陳させました。古典の復刻は、それまで西洋文化を崇拝し、古来の日本文化を劣等視してきた風潮への反発反動です。博文館の設立は明治20年ですが、その直前まで井上馨外相が主宰する鹿鳴館文化という仇花が咲き誇っていました。大橋佐平はこの傾向に反発し、日本の文化を護ろうとします。この点で博文館は慶応義塾の福沢とは対照的な路線を歩みます。事実福沢が主宰する時事新報は、博文館の出版物特に古典を、骨董文化と揶揄しています。
 今時なら、こんな本は売れない代表なのですが、博文館創設以後、出版物の売れ行きは極めて好調でした。理由の一つは廉価販売に徹したことです。そしてこの時代、諭吉的傾向にせよ、博文館的傾向にせよ、知的刺激を、多くの人が求めていました。それに日本の識字率の高さも貢献しています。
 出版物紹介は控えますが、特記すべきは、日清・日露の戦争の実記を出版し、戦争の実態を紹介したことです。また博文館が後に出した「太陽」「少年クラブ」「文芸クラブ」の三つの雑誌は当時の日本の世論形成に大いに影響しました。
 博文館経営で、資本を貯え、言論界の有力者となり、また多くの知的指導者を知己にもった新太郎は1986年(明治29年)、他の事業に進出します。その皮切りが、東京馬車鉄道の経営改善です。同社の取締役になり、建てなおします。東京ではこの会社の他に、二つの会社が東京市内の交通利権をめぐって争っていました。後に新太郎は東京市公民会活動に従事し、東京市の交通が民間会社では困るという立場から、市営を主張し、それを実現させています。
 明治30年には東京ガスの株を買い、取締役になり、経営を立て直します。専務取締役として、一気に300人全員を解雇し、自分の意見に同調する者のみを、再雇用します。今ならとても考えられないやり方です。東京商業会議所議員、東京市会議員を歴任。明治34年大橋図書館設立、翌年衆議院議員に当選します。
 この明治35年に小中学校用教科書をめぐる一大疑獄事件が持ち上がりました。多くの視学官、校長などが逮捕されます。それまでは教科書作成は民間業者に任され、教育者と業者の癒着は日常茶飯で、知る人ぞ知る、ような状態でした。新太郎は早くからこの事態に呆れ果て、教科書作成から撤退しています。政府は教科書出版を国定にし、そのための国策会社として、日本書籍株式会社と合名会社国定教科書共同販売会社を作ります。新太郎はどちらの会社でも、社長あるいわ理事長として、この企てを指導します。
 新太郎は朝鮮にも進出し、京城電気会社、日韓ガス株式会社、朝鮮興業株式会社の設立に手腕を振るいます。朝鮮興業では16000町(ヘクタ-ル)を16000人の小作人に耕作させ、食糧を増産します。
 他の事業との関連では、第一生命の発起人・取締役になったこと、馬越恭平を助けて大日本ビール創設に貢献したこと、日本工業倶楽部創設に和田豊治を支援して尽力をつくしたことなどがあります。ともかく晩年の新太郎は無数の会社の役員を兼任しています。経済界のまとめ役です。私として特記したいことは、金沢文庫と称名寺の復興です。北条氏の支流である、金沢実時が作った称名寺とそこに保存されている膨大な古典の保存に新太郎は貢献しました。
 1944年(昭和19年)死去、享年82歳です。なお博文館は明治大正期には当時最大の出版機関でしたが、戦後は衰退し、現在では博文館新社として残っています。

参考文献   大橋新太郎伝  博文館新社

経済人列伝、服部金太郎

2010-11-22 03:39:42 | Weblog
        服部金太郎

 「一人一業伝、服部金太郎」を読んでこれほど面白くない伝記も珍しい、という印象を受けました。少なくとも松永安左衛門や福沢桃介のそれに比べると。多くの経済人にはそれなりの人生の起伏がありました。私が読んだ本のせいなのか、金太郎の生涯がそうなのか、解りません。多分後者でしょう。しかしこの平板さが金太郎の持ち味かもしれません。謹厳、実直、計画性に富み、着々と積み重ねる、趣味はあるが決して惑溺しない、そして人には優しい、まさしく理想的な人格です。時計王といわれるくらいになったのですから、それなりの苦労があるはずです。しかしそれが伝記の表面に出てきません。仕事は、火災や震災などを、除けば常に順調、世間が不況不況と騒いでいても、彼の経営する会社、服部時計店・精工舎、の営業成績は伸び続けます。
 服部金太郎は1860年(万延元年)に江戸に生まれました。父親は古物商、まあ中堅どころの商人でした。青雲堂という私塾で初学を修めます。ここの師匠から養子に欲しい、旨の要請があったと言いますから、頭が良くて向学心に燃える子供であった事には違いありません。後に金太郎の会社が成長し、経営者として繁忙を極める中でも、英語や漢学の受講は続けますから、向学心は相当なものです。
 1872年13歳時、当時の商人の慣習に従い、丁稚奉公に出ます。最初江戸市内の用品問屋辻屋に奉公します。仕事先の小林時計店で、店員の仕事振りを見て考えます。時計店では客がなくても、店員は時計修理の仕事があり、時間の無駄がない、と。そして時計修理でこつこつ貯めれば資本もできるとも考えました。こう考えて辻屋を2年で辞めます。亀田時計店、坂田時計店で丁稚奉公を続け、次第に時計修理の技術を磨きます。この時、初心者には雑用をさせて、なかなか技術を教えてくれない、旧習を経験します。彼はこの旧習には極めて批判的でした。美談があります。坂田時計店が倒産寸前になった時、7円を店に寄贈し、主人に感涙を流させます。更に当時時計店として有名だった桜井時計店に技術者として勤務します。時計修理のアルバイトもして、資金を貯えたようです。
 1877年(明治10年)、中古時計修理を業務とする服部時計修繕所を開き、4年後の明治14年には、時計の販売と修理を兼ねる、服部時計店を開設します。金太郎22歳、資本金は150円でした。金太郎は外国商人の信用を得ました。理由は彼らが要求する、一ヶ月以内の支払いを忠実に守ったからです。他の商店は、旧来の慣習を捨てず、盆と暮2回払いをして、外商の信用を損ねていました。この間の経歴を外から見る限り、まるで精密機械である時計のように着実に計画立案とその遂行を積み重ね、一片の過誤もないように見えます。ただ一つだけ謎があります。彼は最初の妻を1年で離縁しています。  
 開設から10年、商店の営業成績は順調に伸びました。1892年(明治25年)時計製造を始めます。この間10年なんの波乱もありません。伝記を読むとそういう印象を受けてしまいます。製造業となると要求される資金が一桁違います。時計製造に踏み切ったのは、松方デフレの時期が終わり、財政が健全化した明治20年前後の形勢を読んでのことです。また金太郎は吉川鶴彦という天才的技師を技師長に任命します。最初製造したのは大型のボンボン時計でした。技術が外国に及ばない段階では、大型時計製造が適当でした。私達の年代では、懐かしい、柱にかけられて、例えば7時ジャストになると、7回ボンボン----と音のする時計です。この時金太郎が為した驚嘆すべき事(少し大げさな表現かな)は熟練工の組織的養成機関の設置です。自分が小僧時代に経験した、雑用で追いまくられて、ろくに肝心の機械に触らせてもらえなかった事を踏まえ、無駄な作業に人材を使用する愚を避けます。寄宿舎を作って見習工に、時計と製造機械の知識と技術を体系的に教えるべく務めました。これは立派です。立派としか言いようがないほど、立派です。
 早くから小型時計製造に関心を持ちます。明治32年に製造発売されたエキセレントは好評を博し、恩賜の時計に指定されます。恩賜の時計とは、帝国大学や陸海軍大学校卒業者のうち成績トップの者に、天皇から下賜される時計のことです。帝大卒の場合は銀時計でした。他は知りません。明治34年、東京時計組合頭取に推されます。
 日露戦争では軍の命令で軍需品生産を行います。時計は精密機械で平和産業の代表ですが、部品生産は少し応用すれば軍需品の部品に転換できます。例えば大砲の薬莢、爆管体、発火金などです。
 1904年(明治42年)上海における時計販売量で精工舎はドイツ製を圧倒します。1913年金太郎はかねて念願していた腕時計の生産に踏み切ります。腕時計が時計産業の主流になると見越してのことです。また腕時計は小型なので、精密でなければならず、技術競争で優位に立てば、業界を圧倒できます。それほど自社の技術力に自信を持ちつつあったということでしょう。最初生産した腕時計の商標はロ-レルとマ-シ-でした。翌年第一次大戦、英仏から時計の大量注文が殺到します。時計生産国であるドイツからの輸入が止まったからです。この時アメリカは時計のスプリング生産に必要な特殊鋼材の輸出を停止します。自国の生産を増強するためです。金太郎はそれを見越しておいて、大量買いだめし、他社が生産中止に追い込まれる中、悠々と生産販売を続けます。大量と言っても時計の部品ですから、買い置く量は知れています。同様の事態に直面した、鈴木商店の金子直吉は鉄鋼と船舶を、重量比3対1でアメリカ大使と取引しています。
 1917年、株式会社制にします。貿易部を切り離して、資本金100万円の服部貿易株式会社にし、本体は服部時計店として資本金500万円で株式会社にします。関東大震災で工場の大部分は壊滅します。金太郎は一時従業員を解雇し、4カ月で工場生産を復興します。4ヶ月で復興可能なら解雇しなくてもいいのになあ、とは思います。太平洋戦争が終わって、日本の工業は壊滅状態になった時、出光佐三はそれでも社員を解雇しませんでした。一応比較のため。
 昭和初期の不況時にも、工場を拡張し、成功しています。1930年(昭和5年)に発売された、セイコ-シャ19型および17型は大成功を収め、鉄道の時計に指定されました。以後服部時計店より、精工舎の名前の方が有名になります。私も数年前まで前者の名は知りませんでした。精工舎の名は子供の時から知っています。この間貴族院議員に推されます。犬養内閣の閣僚にセイコ-シャを贈ります。時の外相は芳沢謙吉でした。彼は27年後に、贈られた時計を、名刺をつけて返還します。名刺には、27年愛用しその間故障なし、記念に返還します、と書いてありました。ともかく伝記上からは、金太郎の生涯は一本線で成長の連続です。会社はいつも発展し成長しているように見えます。
 金太郎は一人一業を是とし、それを実行しました。ですから他社の役員になることは、少なかったようです。この点では第一生命の創設者である矢野恒太と、気が合い終生の親友になります。第一生命創設の時、発起人の一人として矢野を援助しています。
 他に金太郎が役員になり援助した計画としては、田園都市株式会社があります。この事に関しては五島慶太の列伝で述べました。田園都市KKが発展して東急電鉄になります。
 金太郎は社会への寄付、利益還元の好きな人で、報公会を作り諸々の事業を援助しています。また服部商業学校を作って事務系職員の育成を計ります。
 1934年(昭和9年)死去、享年75歳、趣味は読書、漢詩、そして古書画でした。1966年(昭和41年)BOAC(イギリス海外航空)のボーイング707旅客機が富士山麓に墜落し乗員124名が全員死亡するという事故がありました。この時欧米産の時計はすべて停まりましたが、精工舎の時計だけはコチコチと動いていました。最後に金太郎没後ある寄稿に矢野恒太が書いた文を紹介いたします。
「鋭敏な智の優れた人は冷たくなりやすいものだが、服部君は温かだった。僕は30年間の交際だが、最初はある人の紹介で、第一生命についての援助を頼みに行った。その紹介してくれた人は決して服部君を圧迫するような偉い人ではなかったのだが、僕は服部君に設立しようとしている組織、構成、目的を説明しただけで、即座に援助を約束してくれた。その後第一生命は14・5人の有力なバックを得て設立したのち、服部君に重役になってくれとたのんだが、なってくれぬ。やっと四・五年たって取締役になってくれた。ところが重役としての報酬を一切拒絶するのだ。僕はそれでは困る、他の重役との振り合い上からも取ってもらいたいというと、それでは重役報酬に対する税金の分だけ頂こう、その残りは公共の用に使ってくれ、という話で、結局一文も自分の懐には入れなかった。
 それから、も一つ不思議なことは、大抵の会社の平重役というものは、会社の仕事には冷淡になりやすいものだが、服部君の場合には会社の報酬は一文も受け取らないくせに、あたかも自分が会社の社長であるかのように会社のことを心配したことだ。保険事業は全くの素人でよくわからなかったが、金の運転には非常に細心であった。それだから夜でも僕のところに電話をかける。昼間でも気がつくと何時でも会社にやってくる。そしてあの株は売払ってしまえとか、この預金はどうしたらよいだろうかとか親切に注意してくれた。みずから深い責任を会社に対して感じていた。いわゆる平重役という人には、とても見出せない点である。僕は服部君から、かようにしていつも指導してもらった」(後略)

 参考文献  時計王 服部金太郎 時事通信社

経済人列伝、森村市左衛門

2010-11-19 03:32:26 | Weblog
      森村市左衛門

 彼の名を現在知る人は少ないと思います。則武チャイナとTOTOといえばおなじみですが、彼の活躍の結果の一つがこの両会社の設立です。市左衛門は1839年(天保10年)に江戸で生まれました。先祖は遠州森といいます。代々の馬具商を営んできました。市左衛門、幼名市太郎は幼少期、病弱でした。当時の商人の子が経験する他店での丁稚奉公もできず、家に帰されています。ところが思春期を過ぎる頃から、健康になってきます。精神は元来強靭でした。
 16歳、日雇いに出て働き、夜は露店を開いて古物を売ります。しばらくして安政の大地震。日雇い家業は人手不足になりました。こうして元手を貯めます。開港。江戸-横浜間を往復して、外国製品を江戸で売ります。この時代旧来の閉鎖的な商慣習はどんどん崩れつつありましたので、市左衛門のようなアウトサイダ-にはチャンスでした。資本がたまり、商いが大きくなると、販路も広がります。中津藩奥平家から呉服の注文を受けます。ここで福沢諭吉と知り合います。遣米外交使節団が米国に携えてゆくみやげ物の調達を幕府から依頼されます。幕府お雇いの仏人軍事顧問の一人である、デシャルム大尉から洋式馬具の製法を学びます。維新になって陸軍省から重騎兵用の馬具の注文がきます。なかなか良い商売でしたが、官吏が賄賂を請求したのを怒り、御用商人を辞めています。直線的で潔癖なところは市左衛門の特徴です。その間、製塩、養蚕、漁業などいろいろ試みましたが、すべて失敗し、数万円の借金を負います。
 政府御用を降りたとき、市左衛門は年来の志しである外国貿易に乗り出します。その為には英語の習得が必要です。弟豊吉を慶応義塾に入学させます。諭吉の勧めで卒業した豊吉を1876年、ニュ-ヨ-クに送り、ここで日本の品物を販売します。こうして森村商店あるいは森村組ができました。豊吉の性格と商法が米人の信用を得て、アメリカでの商売はだんだん軌道に乗ってきます。豊吉はアメリカ人顧客のどんな注文にも誠実かつ精確に答えることをむねとしました。「米状神聖」と言い森村組は、ニュウヨ-クからの注文には絶対に応じなければならない、習慣を固持しました。扱う商品は日本茶、生糸、織物、漆器、家具、陶磁器、扇子、団扇、などです。雑貨が多いようです。政府は輸出奨励金を出していましたが、市左衛門は断ります。
 1878年、東京商法会議所が設立されました。市左衛門も会員の一人になっています。この組織は現在では商工会議所になっており、当時としては日本の商人は外国の事情を知らず、騙されることが多いので、団結して、政府や外国と交渉し、併せて国際経済について学ぼう、という主旨で作られました。この間大倉孫兵衛が入社しえいます。彼は市左衛門の終生の共同者となり、彼と彼の子供和親はノリタケの設立者になりました。
 市左衛門は日銀ができると同時に日銀の監事になっています。金本位制を主張します。10年早いという感じです。森村商店は経営規模が拡大します。小売から卸売りに経営を変えます。
 明治20年、1887年頃から、森村商店の主力商品は陶磁器になります。技術は欧米の方が進んでいました。日本の技術でコ-ヒ-カップを作ったら、厚くて、灰色で、把手が太くうまく付けられないという代物でした。ドイツやフランスに見学に行かせ、東京工業学校(現在の東工大)出身の技師を雇い、なんとかして薄くて、硬くて、大きい食器を作れないかと研究します。製品の主力を食器におきます。日本の土は粘土分が少なく、どうしても製品が軟らかくなります。天草の陶石が粘土分に富むことが解りました。硬く焼くためには、高温度にしなければなりません。木炭より石炭です。問題は窯(かま)です。高温に耐える窯を作らなければなりません。食器に描く彩画も従来の日本風では、あちらでは売れません。画工を説得して洋風の彩画にさせます。森村商店は東京を本社にし、東京と京都と瀬戸に近い名古屋に工場を持っていました。生地を名古屋で作って、東京と京都で絵付けをして輸出していました。これでは不能率です、そこで東京と京都の工場をすべて名古屋に集めることにします。職人は伝統を重んじるので、東京や京都を離れる事を嫌がります。この件も説得してなんとかしました。
 こうして1904年(明治37年)日本陶器株式会社が設立されます。資本金は10万円、市左衛門3万円、大倉孫兵衛・和親父子が4万円出資しています。本社および工場は愛知県愛知郡則武にあり、会社の通称はノリタケあるいはノリタケチャイナです。経営は主として大倉父子がしました。大正初期には生産は軌道に乗り、ディナ-セットが万単位で輸出されるようになります。純白で硬くて薄手の食器が作れるようになりました。
 日本陶器から二つの会社が分離独立しています。水洗便所用の陶器を作る東洋陶器(TOTO)と、高圧電気の絶縁体、碍子を作る、日本碍子です。ともに大企業に成長しています。市左衛門は多くの起業を援助しています。経営不振の富士紡績に鐘紡東京工場の支配人である和田豊治を送り込み、建て直します。川正蔵が政府から官営兵庫造船所払い下げを希望した時の資金援助を市左衛門がしています。東洋汽船の取締役を兼ね、経営を安定させました。矢野恒太が第一生命を作ろうとした時、援助者の一人が市左衛門です。明治製糖の設立資金も彼が提供しています。北里柴三郎が破傷風菌を純粋培養して業績をあげ、帰国した時、彼は政府から、というより東大医学部から厚遇されませんでした。福沢諭吉が斡旋し市左衛門達が資金を出して、北里研究所を立ち上げています。ちなみに福沢は大の東大嫌いでした。北里は後に慶応に医学部ができるとき協力しています。市左衛門は女性を尊重し、女性の教育機関設立に熱心でした。日本女子大学校の設立資金の一部は彼の負担です。
 1919年(大正8年)死去、享年80歳、男爵、クリスチャンです。市左衛門は馬具師の家に生まれました。馬具を作り売るのですから、職人であり商人です。商人として出発し、開国に伴うチャンスをつかんで交易のうま味を知り、幾多の失敗の後に、外国貿易に進出します。交易品を次第に陶磁器にしぼり、やがて製造業に乗り出します。森村商店は現在でいう、総合商社であり持株会社でもありますが、この森村商店自体はやがて消滅同然の形になります。代って製造業であるノリタケ、TOTO、日本碍子などが発展して今日に至っています。市左衛門は政府との癒着を嫌いました。企業はあくまで私的なものであるべきだというのが、彼の信条です。西南戦争の時彼はすでに38歳、岩崎・藤田・大倉組のように、戦争を介して大儲けができたかもしれません。彼はその間、製塩、養蚕、漁業など、より生産的な事業経営を試み失敗しています。彼は剛直で不正を嫌い勤勉でした。ですから彼自身の本拠である森村商店は消滅し、そこから出藍してきた製造業が栄えることになります。市左衛門が陶磁器勢作に乗り出すのは明治20年ごろですが、この頃三井や三菱はこれという製造業を持ち合わせていません。商社、銀行、倉庫、地所、それに海運くらいでしょうか?彼らはこの時期商業資本主義に終始したのですが、一左衛門は別の道、つまり工業資本主義の方向に経営の舵を向けます。

  参考文献  森村市左衛門の無欲の生涯  草思社

大倉和親

2010-11-14 02:49:21 | Weblog
      大倉和親

 大倉和親はTOTO(東陶機器)、ノリタケ・カンパニ-リミッテド、日本碍子、日本特殊陶業そしてINAX、という製陶関係業種の代表的企業を立ち上げた、人物です。和親を語る場合、彼の父親孫兵衛、そして二人が属した森村組の森村市左衛門、さらに陶器製造の実務にあたった、販売の村井保固、技術の江副孫右衛門を除いては、語れません。孫兵衛は森村組に所属していました。当時の「組」とは現在の「合名会社」のようなもので、各員がそれぞれ資本を持ち合って、共同で商売あるいは経営をしました。他に、三井組、藤田組などがあります。森村組は、相互に意見をぶっつけ合い、時には喧嘩になっても。構わない、という気風で、各員の性格が強烈な反面、共同意識が強く、分離しながらまとまって経営をしてゆきました。森村市左衛門の本領は輸出入商社ですが、彼は当時の商業資本主義に飽き足らず、彼の発案から日本の製陶業は出発します。
 大倉孫兵衛は1843年(天保14年)江戸で生まれました。大倉家には四郎兵衛家と孫兵衛家の二家がありました。孫兵衛は四郎兵衛家に生まれ、孫兵衛家の養子になり、孫兵衛を襲名します。家は江戸で絵草子を販売していました。絵草子から錦絵、更に絵図、画集を出版するようになります。大倉出版という会社を造りました。大倉出版はさらに、地図、学術書、英和・独和辞典などを出版し、本格的な出版会社になります。孫兵衛は、出版業の延長上に、洋紙販売にも進出します。富士製紙と組んで、洋紙を生産し販売します。この積極的な経営法は後に製陶業において如実に発揮されます。出版社の方の経営は後に孫兵衛の義弟保五郎に任されます。大倉出版は昭和27年に廃社になっています。
孫兵衛は1876年(明治9年)に設立された森村組に入ります。森村組は日本で始めてできた日米貿易商社でした。森村組は最初多くの品を米国に輸出していましたが、やがて輸出品の主力を陶磁器に置くようになります。アメリカ人が欲しがる物はコ-ヒ-茶碗でした。コーヒ-茶碗には把手がついています。当時の日本の製陶技術では把手を付ければ、茶碗の形がぐにゃりと曲がってしまいます。硬質で純白の陶磁器を焼かねばなりません。さらに八寸皿という大型の皿(直径25-26cm)も作って輸出したいと、森村組は思います。これが難しい。こんな大皿は焼くと、中心部が垂れてしまいます。
はじめ製陶は森村組が名古屋に出張するような形で、営んでいました。名古屋近郊にある瀬戸は日本で一番たくさん陶磁器を生産していました。1904年(明治37年)に日本陶器合名会社が、愛知県愛知郡則武に、森村組から離れて設立されます。資本金10万円、うち森村市左衛門が3万円、大倉孫兵衛和親父子が4万円出資しています。代表社員つまり社長は大倉和親です。和親は明治8年に生まれていますか、社長就任当時は29歳でした。製陶業への進出には森村より大倉親子の方が、はるかに積極的でした。森村は進取的ではありましたが、まだ商人でしかなかったとも言えます。
八寸大皿を作るために、飛鳥井孝太郎という技師を雇います。彼は現在の東京工大の出身でした。原料の粘土、焼き方特に窯の温度などを調べつくさねばなりません。大倉親子はあらゆる粘土を取り寄せて試験し、欧州の製陶工場を見学します。相手も企業秘密ですから、簡単には見学させてくれません。1週間と日限を切り、工員と偽って大急ぎで技師を呼び寄せて観察させます。苦心の結果、材料の粘土にアルミナ分を加えればいい事が解ります。窯はトンネル窯という新しい方式を採用します。1914年(大正3年)に八寸大皿が完成します。日本製陶を立ち上げて10年かかりました。この間あまり製陶自体に乗り気でない、森村と孫兵衛は2度、大喧嘩をしています。大皿の完成で、技術は世界水準に達しました。すぐ大戦が勃発します。陶磁器の最大輸出国であるドイツの商品は英米には輸出できません。日本製陶はこの間隙に乗じてどんどん輸出を伸ばします。製品はノリタケチャイナというブランドで有名になります。戦争は技術をも伸ばします。技術輸入が止まると、自力で開発しなければなりません。水金製造、石膏作成、絵の転写法などの技術を独自に開発してゆきます。この間技師長飛鳥井孝太郎を解任し、江副孫右衛門を後任に据えます。八寸大皿の完成には江副の功績が大でした。
当時は日本の電力産業の勃興期でした。発電や送電の装置には碍子という絶縁体が必要です。それも高圧に耐えるものが必要です。芝浦製作所(東芝の前身)の注文に応じて、碍子専門の会社、日本碍子を作ります。社長は和親、技術は江副の担当です。資本金200万円で名古屋市熱田区に設立されました。恐慌で碍子の生産が伸び悩むと、化学工業からの注文が現れ、窮境を救います。東京硫酸会社から硫酸吸収槽が発注されました。当時は化学工業の勃興期でした。電解槽や水質浄化装置も注文されてきます。耐酸磁器、電気浸透、電解透析、下水処理、濾過用多孔質体、水質浄化装置、さらには家庭用の濾過器も作ります。
自動車産業、飛行機製造も、この時代、つまり日本製陶が大皿を完成した頃から、始まります。エンジンの点火装置にス-パプラッグが必要です。これは磁器製でないといけません。ス-パ-プラッグ製造のために、日本特殊製陶業式会社が設立されました。社長は江副です。彼は技師出身らしく、製品の均質性(conformity)にこだわりました。太平洋戦争に入り、軍部の要求は急角度に大きくなります。ス-パ-プラッグの生産拡大を要求されます。江副は品質の低下、粗製濫造を恐れて、軍部の要求を蹴ります。結果として江副は、日本碍子そして日本特殊陶業の社長の座を降ります。
1917年(大正7年)、日本陶器は衛生陶器、例えば洗面器、浴槽、便器などの分野に進出します。最初水洗便所もろくに無い日本で製品が売れるのかと心配でしたが、どんどん売れ出します。日本人は清潔好きですから。森村の一人一業主義に従って、東洋陶器という新しい会社を興します。
また和親は、愛知県常滑の伊奈家の製陶を助けて、建築用タイルを製造する、伊奈製陶を立ち上げさせます。(大正13年)今度は吸水性の低い陶磁器製造が課題になります。
他に、美術品としての陶磁器製造にも着手しました。大倉陶園です。これは和親の趣味のようでもあります。
孫兵衛は1921年(大正10年)に死去、享年78歳。和親は1955年(昭和30年)死去、享年70歳です。
 孫兵衛は、良い品を作ることを終生の念願としました。企業は必ずしも資本(金銭としての)ではない、経験つまり技術だと、言い切ります。良い品を作るのに邪魔だとして、会社内外での贈答を一切禁止しました。晩年の彼の人格は次第に宗教性を帯びて来ます。和親は慶応ボウイですが、孫兵衛の血を引いたのか、常に最高の物を目指しました。数値の把握が早く、碍子や衛生陶器製造に踏み切ったことが示すように、将来の需要を見通す眼力を持っていました。TOTOは現在、衛生陶器国内市場の6割を生産しています。
大倉親子が造った、あるいは設立に極めて深く関わった、五つの会社は現在も活躍中です。一応下に社名の変遷を示しておきましょう。
 日本陶器 - - - ノリタケカンパニ-リミッテド
 日本碍子 - - - 日本ガイシ
 東陶陶器 - - - TOTO
 日本特殊陶業 - - 日本特殊陶業
 伊奈製陶 - - - INAX

参考文献  製陶王国を築いた父と子  晶文社

経済人列伝、矢野恒太

2010-11-11 03:15:38 | Weblog
   矢野恒太

 矢野恒太の人生には詰屈とした特徴があります。その生活は質素で蓄財せず、清貧といってもいい生き方を旨としました。知識欲が旺盛で、投稿・上申・建白のマニアでもあります。理屈好きで、10冊以上の著作を、それも専門分野に拘泥せづ幅広く、問題を扱っています。彼の創始した刊行物の一部は今でも大書店の店頭に置かれています。理屈好きですが、学者にはならず、政治に関心を持っていても政治家にはなりません。学者にも政治家にもなれるチャンスはありました。本職は医者のはずです。しかし生涯医業には一時期を除いて従事していません。若い時リュウマチにかかり、不便をかこちかすが、その割には長命です。有病長命型とか言われます。
 恒太は1865年岡山県角山村(現岡山市)で生まれました。父親は医者です。1889年(明治22年)第三高等中学校医学部(現岡山大学医学部)を卒業します。そのまま田舎にこもって父親の医業を継ぐのももうひとつ、と考え恩師である大阪医学校(現大阪大学医学部)の清野勇の紹介で、日本生命に入社します。日本生命の社長は鴻池善右衛門でしたが、経営の実際は副社長の片岡温直が行っていました。3年間の間社医の俸給は据え置かれ、医師たちの不満はたまります。彼らの不満を代弁する形で、片岡副社長とかけあいます。しばらくして一方的に解雇されます。その上、片岡は「泣いて馬ショクを切った」と言います。馬ショクに関しては三国志を読んでください。この諺は、有能で殺すには惜しいが、有罪なのだからあえて処刑する、を意味します。不当に解雇された上、罪人あつかいにされ、恒太は憤慨します。わざわざ新聞広告に無罪(?)宣言を載せたほどです。同時に彼は、よしそれなら自分で保険会社の一つでも作ってやろう、と決心します。片岡温直という人は失言癖のある人です。後年大蔵大臣になった時、「いま渡辺銀行が倒産しました」と事実にあらざる発言を国会でして、昭和金融恐慌の引き金を引きました。
 恒太は東京経済雑誌などに「本邦生命保険事業の欠点」や「述卑意見書」などを投稿し、当時一般的に用いられていた藤沢式死亡表が極めて不完全である事、また生命保険行政の不備などを訴えます。この意見は田口卯吉や日銀理事の川上謹一の目にとまり、彼らの縁故で銀行王と言われた安田善次郎の知遇を得ます。安田が経営していた共済500人社に入り、明治30年これを改革した共済生命保険の支配人になります。この間欧米を視察し、ドイツのゴ-ダやイギリスのオ-ルドイクイタブルなどの会社経営を学び、相互主義経営の良さに魅かれ、確信します。恒太は非営利・相互主義の方向をとろうとしますが、安田はあくまで利益を上げることを要求し、やがて二人は袂を分かちます。
 明治31年岡野金次郎の引きで、農商務省に入り保険課長になります。岡野はじめ多くの学者と共同で、保険業法を作成します。ほとんどの作業を恒太がしました。明治33年に公布されたこの法律では、
  生名保険業の開業には官庁の認可が必要

  相互会社か株式会社以外の業務形態をとってはいけない
  他業種の兼業は禁止
  保険金受領者の権利を保護するために、官庁は業務停止を含む指導ができる
などです。それまでは生命保険業はほぼ野放しの状態でした。恒太が日本の生命保険業の行政の基礎を作ったといえます。保険課長として全国の保険会社の審査に赴きます。日本生命にも行き、かって自分を解雇した片岡副社長と対峙したという逸話もあります。日本生命のあり方には問題はありませんでしたが、片岡が経営するもう一つの保険会社は基準を満たさず、廃止になります。
1902年(明治35年)、かねて計画していた会社設立に踏み切ります。第一生命の誕生です。知名度の高い人に基金を提供してもらいます。池田謙三、服部金太郎、原六郎、加藤正義、大橋新太郎、藤山雷太と矢野恒太が発起人になります。発起人にはなりませんでしたが、森村市左衛門、住友吉左衛門のバックアップは強力でした。創立費は1260円と格安でした。第一生命の経営の特徴は、相互主義、高額保険、長命無損害(加入者の健康診査を徹底する事)、低経営費(事務費/契約高が低い事)などです。相互主義について簡単に説明します。株式会社では、利益は株主に還元されます。相互主義の経営では、出資者にあたる基金提供者はだいた定率の利息をもらいます。保険料の運営で出た利益は保険加入者に還元されるか、基金の償却(基金提供者への返還)にあてられます。完全に償却されれば、保険加入者全員が会社の所有者になるというわけです。相互主義は加入者の利益を優先しますから、下手に大規模化せず、事務経費を極力抑えました。そのために最初は募集員を採用していません。もっともこの原則が必ずしも護られたのではありません。
 創立から1916年(大正5年)ころまで、会社はどちらかと言えば低迷期でした。あるいは発展準備期と言うべきかも知れません。これは生保業界全体について言えるでしょう。恒太のモット-は「ゆっくり急ぐ」と「最大より最良に」でした。しかし幾多の災難が会社を襲います。まず期待していた側近で支配人が結核で病死します。次に任命した支配人は積極主義を推進し、会社の規模拡大に突進します。契約高は大きくなりましたが、経費が増え、恒太の経営方針と食い違います。1917年と1918年(大正8年)と二度に分けて流行したスペイン風邪(インフルエンザ)で死者数が平常の予想を上回ります。両度のスペイン風邪で総計約1300万円の支払いが必要になりました。ちなみにこの5年後に起こった関東大震災に際しての支払いは約700万円です。第一生命の経営は契約高と経費の間の葛藤にもまれながら一進一退していたようです。
 1916年-1921年(大正5年-10年)は生保業の躍進時代と言われます。すべての生保会社は契約高を大きく増加させます。その中で第一生命の急進ぶりが目を引きました。それまで30社前後の中で13位に甘んじていた会社が、5位に躍進します。更に1928年(昭和3年)には日本生命についで第2位に進みます。生保業の躍進は必ずしも業界の努力によるだけではありません。当時新興中産階級が増加していました。彼らの住環境を整備するために、郊外型住宅と都心を結ぶ私鉄が発展します。小林一三の阪急電車が皮切りですが、ついで堤康次郎の西武鉄道や後藤慶太の東急鉄道などはこの時代に発展の基礎を作りました。生保業が伸びたのは、多分この動向によるのでしょう。また恒太自身西武鉄道の前身である田園都市会社の株を郷誠之助から依頼され、一時買っています。生保も郊外住宅も、一定の資産を買うだけの力をつけてきた、中産階級の発展によるところが大きいと思います。その中で特に第一生命が伸びたのは、利益を保険加入者に優先的に分配する方式をとった第一生命が、中産階級の人気を博したからだと想定されます。
 恒太という人は相互主義の権化のような人でした。相互主義に基づく銀行設立も企てました。配当を渡すべき株主がいないのですから、通常の利子に配当分を加算できます。もちろん黒字決算の場合に限られますが。これを第二利子と言います。しかし大蔵省の反対で、取りやめになりました。これが実行されていたら三井三菱住友などの大銀行はパニックに陥っていたでしょう。また相互主義の新聞発行も企画しました。恒太の志操がよく解るので、彼の構想を簡単に整理して紹介します。
  振り仮名はつけない
  小説・碁将棋・俳諧などの娯楽的要素は掲載しない
  主として政治経済の記事を載せる
  外電には原文と解説をつける
  すべて署名入りの記事にして、責任を明確にする
  誤報道は必ず親切に訂正する
  論説の類は簡潔に
  米英中には大使級の特派員を置く
  広告は一切ダメ
ということです。講読料金を試算したら、現在価格で月10000円を越すでしょう。しかしもしそんな新聞があれば20000円でも、私は買います。恒太とはこういう人です。読売中興の祖・正力松太郎に新聞経営はそんなに甘いものではないと言われ、断念しました。映画というメディアを巧に利用し、巨人ジャイアンツ・プロ野球を作って新聞の大衆化に成功した正力なら当然そう言うでしょう。
 矢野恒太に関して論じる時石坂泰三をはずすわけにはまいりません。石坂については既に論じています。彼は1915年(大正4年)東大の岡野金次郎の仲介で逓信省貯金課長からスカウトされて第一生命に入社しました。1938年(昭和13年)社長に就任しています。偶然か必然か、石坂の入社のころから会社の成績は急進します。石坂の伝記では、石坂の功績のように述べてあります。しかし私が参照した恒太の伝記の著者、稲宮又吉は、石坂の後輩であり、至近距離で矢野と石坂両者を観察できる立場にあったせいか、石坂の器量を激賞しつつも、石坂に対しては冷静な判断をしています。著者は、この時期は生保業界にとって、躍進期であり、石坂は平穏な時期に務められた、と言います。また稲宮は、恒太と石坂は全く対照的な性格だった、とも言っています。逸話を一つ。石坂が入社するまで、支店の経営はほぼ支店長の独断にまかされていました。社員の採用と給料の決定はすべて支店長が裁量します。石坂はこの慣習を禁止し、人事はすべて本店の指揮下に置かれるようにしました。大震災の時、本店壊滅というデマが流れます。大阪支店長は全国の支店長を招集して、自分が社長になると宣言します。本店の被害は軽微である事が解り、この話は立ち消えになります。石坂は大阪支店長を呼び、引退を勧告します。支店長は引退しました。
 恒太は言論人でした。多くの発言や提案があります。彼は逓信省が経営する簡易保険制度に反対でした。簡保は民営の保険の営業を圧迫する事、簡保は国営だから民保に比べて不能率になる事、だから簡保は国民に利益をもたらさない事、が理由です。雑誌上で下村貯金局長と論戦しました。伝記の著者稲宮は1962年(昭和37年)の時点の数字を挙げて、恒太の予想が当たったと断じています。この問題は現在の経済問題の焦点のひとつである、郵政民営化可否云々と同じです。
 恒太は税制についても発言しています。間接税は廃止し、所得税一本で行け、と言います。間接税は大衆課税になるので、貧乏な人にとって不利になる、が理由です。これも現在の課題の一つです。
1930年(昭和5年)に実施された金解禁に際して、日本の物価は上昇しているのだから、1ドル2円ではなく4円くらいに平価を切り下げて、解禁すべきだ、と提唱しています。井上準之助蔵相は、平価切下は根本的愚論、と一蹴します。結果は歴史が示すとおりです。平価切下論者は恒太以外にもたくさんいました。在野のエコノミスト、石橋湛山や高橋亀吉などです。満州国が成立し、満州生命保険会社が作られます。満州国政府は内地の保険会社の満州進出を禁じようとしました。恒太は満州に乗り込み抗議します。当時満州の関東軍に抗議するのは相当に勇気の要る行動でした。暗殺される可能性もあり、周囲はすべて恒太の満州渡航に反対しています。
 恒太は結核予防にも貢献しています。青年用の診療所を作り、村山保生園で家族ぐるみの入院を提案します。またデンマ-ク式の農法を日本も採用すべきだとも、言っています。
ともかく著書の多い人です。経済人でこんなに多くの本を書き、投稿した人は常太をもって嚆矢とするでしょう。代表的な著作は、一言集、ポケット論語、芸者論、簡易利息算法、日本国勢図絵(年刊)、国勢グラフ(雑誌)などがあります。視野は専門分野を超えて大きく広がっています。国勢図絵は現在でも年々刊行され、日本の経済情勢を概観するには適当な本になっています。世界国勢図絵もあります。
 1951年(昭和26年)死去。享年86歳。
 矢野恒太という人はかなり複雑な人物です。多面的と言いましょうか。解雇された事に反発し、見返してやろうと、同じ会社を作ります。雑誌に投稿して有力者の知遇を得ます。官吏になって保険制度の基礎を確立します。ともかくじっくり勉強し研究します。これらの事跡を基盤に会社を立ち上げます。相互主義という友愛倫理に基づく理想を押し進めます。理想どおりいかなければあっさり転進もします。喧嘩っぱやいようで我慢強く、温厚で寛大とも言われます。独立自尊でありつつ、仕事を人に委ねることもできます。積極的でうが、猛進はせず、企業経営の質を重視しつつも、規模は拡大しています。生保一業に徹しつつ視野は広く著作投稿は非常に多い。政治家、学者、ジャ-ナリストのどの分野でも活動できますが、生保業に徹します。蓄財を好まず、財界人としては清貧と言っていい生活を送ります。仕事のために家庭を顧みる暇はないが、家庭は平和でした。そして若い時にリュウマチに羅患したにもかかわらず、長寿を全うしています。天才と申していい人物です。

 参考文献 「矢野恒太」 稲宮又吉著 時事通信社

経済人列伝、吉本せい

2010-11-06 03:29:54 | Weblog
        吉本せい

 お笑い王国吉本興業の創始者です。厳密には彼女だけではなく、彼女の夫である吉兵衛も創始者です。せいは1889年(明治22年)大阪の米穀商林豊次郎の娘として生まれました。12人兄弟の中の次女です。一説には生誕地は兵庫県明石だとも言われます。勉強好きの利発な娘でした。尋常小学校4年を終えた後、大阪市内の商家に奉公にでます。明治40年18歳荒物商吉本吉兵衛と結婚します。吉兵衛は家業に身を入れず、演芸に打ち込んで、旅回りもするという道楽者でした。せいは、姑にかなりいびられたようです。こんにゃくに煮干をいれて煮付けとして出したら、叱られました。以下に参考文献から引用します。当時の大阪の庶民の生活水準と現在の我々のそれとを比較してください。姑曰く、このこんにゃくのたき方はなんや、正月の煮しめやないで、こんにゃくを惣菜に買うたんは、おつけにするからやで、おつけやったら汁でおなかが一杯になるさかい、ごはんの足しになりますのや、こない所帯持ちの悪い嫁に来られては、わてら乞食せなならん。
 1912年(大正2年)、結婚して5年後、夫婦は吉本興行部を立ち上げます。吉兵衛の道楽が昂じた結果なのか、せいの勧めになるのか、その辺の事情は曖昧です。大阪天満天神裏の第二文芸館を500円で買います。主として落語を語らせる寄席です。寄席にも色々ランクがあります。大阪では桂派の金沢亭と三友派の紅梅亭がトップクラスでした。この二つの寄席の木戸銭は20銭、第二文芸館のそれは5銭でした。こういう下のクラスの寄席を端席と言います。吉本はこの段階から出発しました。せいは主として裏方に徹したようです。暑い時には店の前で冷たい飴を売る、雨に汚れた客の下駄を洗っておくなどします。暑い日にはわざと蒸し暑くしたり、時にはこれも故意に下手な芸人に長く語らせて客の回転を早めたりのトリックも使います。芸人の汗を拭いてかいがいしく世話もします。芸人の歓心を買うためです。ともかく人件費を節約し、せい一人が裏方として働きました。亭主の吉兵衛は、実務はすべてせいに任せていたようです。
 当時の大阪の落語界には三つの派がありました。古典落語の桂派、もう少し演劇的な話し方をする三友派、そしてこの両者に対抗する浪花反対派です。浪花反対派の実態は、前二者に比し、より素人っぽく、時勢に合わせる、大衆的な路線でした。吉本吉兵衛はこの浪花反対派と提携します。大衆路線を進みます。この方針は以後の吉本の基本方針になります。第二文芸館の客入りは良くて、吉本は他の端席を徐々に買収し、店を増やして、多角経営をします。この辺の才覚は演芸狂いの吉兵衛の智恵でした。もっとも吉兵衛はあくまで芸人でありたくて、寄席の経営者に徹しきることには抵抗があるらしく、基本的方針以外の指示は出していなかったようです。
 1918年(大正7年)法善寺裏にある金沢亭が売りに出されます。15000円で吉本はこれを買収します。やっと一流の寄席を手に入れました。こうして吉本は大阪の寄席の世界のトップに躍り出ます。亭の名は花月と変えられました。ここの花月は大阪南にあるので、南地花月と呼ばれ、吉本の本店でもありました。金沢亭を買収することにより、そこに出ていた芸人を使えるので、吉本の寄席の水準は上がります。木戸銭は10銭でした。この間せいは実弟林正之助を吉本興業に入れ、実務を担当させています。ついで次の弟弘高を東京方面の支配人にしています。二人の弟は経営の実務では極めて優秀でした。また興業という商売の性格上やくざ社会との接触は避けられません。せいや吉兵衛は彼らを適当に使う一方、退職した警官を雇い、警察にもコネをこしらえます。
 次の節目が桂春団子治を引き抜いた事です。1921年(大正10年)南地花月に春団治の大看板が上がりました。月給700円、前貸し20000円です。前貸しは彼を吉本に縛り付けるためです。春団治に関しては、多くの小説や演劇で、彼の生涯や生き方が虚実取り混ぜて描かれています。彼の出自ははっきりしません。ただ天性の芸人で、浪花の落語の頂点を作った人気者であり、その人生自身が破天荒でした。ある大商家の未亡人、岩井しう、と恋仲になり、春団治は後家殺しと仇名されました。彼が残した「はなしか論語」なるものがあります。弟子に与える、芸人としての処世訓です。以下に紹介します。彼には金銭感覚はなく、ほぼ文盲でした。
 
名をあげるためには、法律に触れない限りなんでもやれ
 借金はせなあかん
 芸人は衣装を大切にせよ
 自分の金で酒を飲むようでは芸人の恥
 師匠と弟子は親子の仲、女中や車夫は使用人、使用人は時間までに寝さねばならない、弟子に時間はなし
 女は泣かしなや

 次の節目が安来節の上演です。島根県の民間俗謡に振り付けが入り、女性の踊り陣の中で男性が泥鰌すくいを踊るという極めて土臭い大衆芸能ですが、これが大当たりします。正之助の提案です。もっとも落語家の人気は散々でした。
 大正13年、せい34歳の時、夫吉兵衛が死去します。脳卒中でした。ここからせいの単独経営が始まります。ともかく夫が残した30余の寄席の数を減らしてはならないとがんばります。月掛け2900円の貯金を企てます。かなり無理な貯金計画です。
 寄席の看板に名が出る時、落語は黒字で、他の芸は赤字で書かれました。赤字で書かれる、曲芸、琵琶、奇術、尺八、剣舞、万歳、軽口などは色物と言われて、落語からは一段下のランクにありました。吉本はこの色物を重視します。時は大正デモクラシ-の時代、新中間層が増え、サラリ-マンが出現します。この大勢を掴んで郊外型住宅が建ち、私鉄が走り、生命保険が盛んになります。せいは、自己の寄席を見ながら、現状に不満を抱きます。もっと新しくて若い世代に受けるものを考えなくてはと思います。いつまでも和服姿の中年のおじさん達相手では、と疑問を感じます。一大転換期です。ここで吉本は万歳に力を入れ始めます。万歳ははじめ、太夫と歳蔵が演ずる予祝を事とする門付け芸能でした。ここから予祝性を取ればどうなるか?決まりきった定型的な振舞いをやめて、万歳を、二人の芸人に語らせ、歌わせ、演技させて、雑芸化します。現在のしゃべくり漫才、どつき漫才です。吉本はこの方向へ経営の舵を取ります。昭和2年、大阪の弁天座で、全国万歳座長大会が開けれ、万歳が競演され大成功を収めます。
 昭和6年1月に横山エンタツ・花菱アチャコの万歳が始まります。横山は本名、エンタツは大学出のインテリ、米国公演の経験もある理論派です。アチャコは大阪の仏壇屋の子、新派の俳優に憧れ、そのもって生まれた軽妙な滑稽さから当時すでに吉本で万歳をしていました。花菱は実家の屋号です。吉本は米国帰りのエンタツを丁重に迎え入れます。エンタツは相棒にアチャコを指名します。アチャコでないといけないと断じ切ります。エンタツは理論派であり、アチャコの真髄は芸の技術にあります。エンタツはアチャコに和服をやめて、洋服で高座に上がる事、それまでの予祝芸能にあった万歳における一切の形式を捨てて、すべて対話、それも君と僕の対話、で通す事を指導します。エンタツは万歳の中に、当時のサラリ-マン社会の日常生活を持ち込み、それを題材として、それを描こうとしました。これはせいの年来の抱負とぴったりです。東京風インテリのエンタツとこてこての大阪の庶民アチャコの組み合わせも絶妙でした。二人の演じた万歳はたくさんありますが、その中で「早慶戦」は芸能史を飾る名作です。二人の漫才はNHKで放送されます。はじめせいはラヂオに人気を奪われると、警戒気味でしたが、いざ放送されると、ラヂオで聴いたファンが吉本に押し寄せました。
 昭和7年吉本は合名会社吉本興業になります。せいが社長、正之助と弘高が理事です。吉本演劇通信という冊子を発行し、芸人の私生活を、つまりゴシップを紹介します。これが新聞雑誌等で取り上げられ、芸人と吉本の人気を煽ります。橋本鉄彦を入社させて、文芸部と宣伝部を統括させます。「万歳」というなお予祝性を残す名前を捨て、「漫才」に切り換えます。この処置はかなり強引でしたので非難轟々でした。しかし吉本は、伝統的名称を廃棄するほどの、力を持っていました。更に即興の観があった漫才に脚本を与えます。すでにエンタツは脚本をかいていました。大学卒の文学青年を大量に就職させて、脚本を書かせます。秋田実、長沖一、前田栄一らが代表です。秋田実は東大文学部哲学科卒、変り種です。
 エンタツ・アチャコのコンビは昭和6年1月から9年10月まで続きます。短い期間でした。コンビ解消には、せいが絡んでいます。いやむしろ、彼女のせいでしょう。アチャコが中耳炎になります。無理を押して出演していたので、重症になり入院します。せいはこの1ヶ月の入院をもったいないとして、エンタツに他のコンビを組ませます。回復したアチャコにも別の相棒を与えます。こうすれば二人の人気を倍に使えると、せいは踏みました。この処置は特にアチャコにショックでした。ただ漫才以外、映画などでは二人はコンビで出演していました。しかし映画ではコンビの味は薄れます。アチャコはエンタツの指導に頼り、エンタツはアチャコの芸に自分は遠く及ばないと、思っていました。
 漫才の台頭に反比例して落語の人気は凋落の一途をたどります。せいのやり口は芸人を金、前貸しの金で縛ることです。落語で経営の地盤を固め、落語の古典性を排して、大衆芸能路線を取りますが。落語家は圧倒的組織である、吉本の金縛りにあい、自由な行動は取れません。こうして大阪の落語は衰亡します。東京では、落語は健在でした。吉本が落語を潰したというのは、当たっています。せいは確かに芸人を可愛がりましたが、それは役に立つ、あるいは己が好む、芸人であって、そうでない芸人は容赦なく解雇しました。
 落語の中から吉本への反逆者が出ます。桂春団治の弟子、桂小春団治です。小春団治は、新作落語を自ら書き、自ら話して、古典落語を乗り越えようとします。同時に吉本に解雇願いを出して、吉本からの解放を目指します。吉本は、大阪はもちろん、東京の落語会にも働きかけて、小春団治の出演を妨害します。小春団治は落語界では戦い敗れて東宝に入ります。後に彼は落語をやめ、踊りに転向し、花柳芳兵衛と名乗ります。小春団治は理論派でした。彼の書いた落語「禁酒運動」「夜店行進曲」などの題名を見ると、社会派という印象を感じます。当時文学界を席巻していたプロレタリア文学の影響でしょうか?やがて師匠の春団治が死去し、落語の凋落は決定的になります。
 せいは、大阪府議会議長であった、辻阪信次郎と昵懇になります。この昵懇の意味は色々に取れます。色と欲の二足のわらじだったかもしれません。昭和10年京都を皮切りに脱税問題が検察に追求されます。辻阪にも嫌疑がかかり、収監されます。せいも取り調べられます。辻阪は留置所内で自殺し、せいの嫌疑はうやむやになります。辻阪がせいのためを思って、そうしたのかどうかは解りません。
 当時つまり昭和10年代には、映画界では松竹と東宝が角逐していました。この争いに吉本が巻き込まれます。戦時体制で映画の配給本数は制限されました。映画会社は映画と映画の間に、芸能を組み込んで、上演するようになります。松竹と東宝の間で芸人の取り合いが起こりました。本来吉本は東宝系でした。そこで松竹は吉本の芸人を高額の給料で引き抜きます。ワカナ・一郎のコンビはエンタツ・アチャコと並ぶ大看板でしたが、引き抜かれます。なお松竹から東宝に移った、林長次郎(長谷川一夫)の刃傷事件は世間を驚かせました。
 「清水次郎長伝」で有名な浪曲家、広沢虎造の映画出演で、吉本と他の興行師がもめます。結果として吉本と縁のある山口組が他のやくざ団体と抗争し、死者を出す騒ぎになりました。吉本は興業という仕事の性格と、芸人ににらみを効かすために、この種の闇の組織とつかず離れずの関係を続けていました。一方彼らの世界に吸収されないために、警察とも昵懇にしていました。
 戦後ブギで一世を風靡した、笠木シツ子とせいの次男泰典は相思相愛でした。せいは二人の結婚に反対します。シズ子は身ごもり、泰典の子を産みます。泰典はしばらくして結核で死去します。泰典とシズ子の縁談がそう悪いとは思えません。何がせいをして、かたくなに反対せしめたのでしょうか?
 吉本せいの経営方針は三つあります。まず、必要な事には大金を惜しげもなく出すが、不必要となれば一銭も出さない、という大阪商人の伝統的な思考法です。これはこれで合理的ではありますが、限界もあります。イノヴェ-ションに乗り遅れやすいことです。二番目の帝国大学を京都市に持って行かれたのは、その典型です。これで大阪は学問知性の地ではない、というレッテルが貼られました。三井銀行の中上川彦次郎が、傘下の鐘紡の労働者の待遇を改善した時、大阪の紡績会社は一致団結して、この企てを妨害しました。
 次にせいは、大衆芸能路線を推し進めます。こうして古典落語を駆逐します。反対から見れば、面白ければいい、となります。芸能の質の向上という点では、大衆路線は足を引っ張ります。
 最後が、吉本の前期資本主義、前貸し資本主義の体質です。資本主義が勃興する初期、問屋制家内工業といって、商人が職人に資本を前貸しして、紡織させました。こうして職人を金で縛ります。いわば商人型資本主義ですが、産業革命はこの型を破って出現しました。この前貸し資本主義は、鉱山労働、あるいは売春などにはまだ残っていました。吉本の経営体質はこの名残を濃厚に持っています。
 せいの性格の特徴は嫉妬深さです。吉本は夫吉兵衛との共同で出発し、吉兵衛がいなければ、吉本はなかったはずです。吉兵衛が死ぬまで、経営の表は彼であり、芸能界の裏の裏まで知り尽くした、吉兵衛なくして、経営が成り立つわけはありません。吉兵衛が死んだ時、30くらいの寄席を残し、すでに吉本は大阪の寄席では巨大と言ってもいいくらいの大きさになっていました。しかし後年のせい語り口では、吉兵衛の貢献はゼロになり、すべて自分一人で吉本を作ったことになっています。確かに吉兵衛はあまり良い亭主で
なかった事は事実ですが。
 笠置シズ子と泰典の結婚に反対したのも嫉妬でしょう。せいは子供に恵まれたとは言えません。長男は夭折、頼むは泰典だけ。別に他の女性が相手でも、せいは泰典の結婚には反対したでしょう。露骨に言えば、近親相姦的感情です。こういう人物の感情は複雑で、激しく転変します。執念深いともいえます。
 昭和24年死去、享年60歳、死因は肺結核でした。

 参考文献 女興行師吉本せい  中央公論社

経済人列伝、荻生徂徠

2010-11-01 03:12:08 | Weblog
     荻生徂徠
 荻生徂徠は徳川幕府が開かれて約半世紀後の1666年、館林藩主徳川綱吉の侍医荻生方庵の子として江戸に生まれました。この間に幕府の統治は安定し、経済もめざましく発展します。商品作物の栽培と商工業の発展により、農民町人は裕福になります。江戸初期年貢率は5-6割とされましたが、元禄期には実質的には3割を切るようになります。
 大名統制のための参勤交代他の政策は、武士から庶民への所得移転になりました。武士の生活は困窮します。将軍大名から幕臣藩士に至るまで、貧乏になります。政治は根本的に立て直されなければならないと、為政者は考えます。幕政藩政の改革がさかんに行われました。
 政治改革に理論的支柱を与えたのが荻生徂徠です。当時の例にもれず、彼は儒者でした。幕府公認の儒学の家元林家に入門します。しかし彼は林家の儒学、つまり朱子学とか宋学とかいうものとは全く異なる、彼自身の体系を作り上げます。彼が創始した学問は儒学の範疇を大きく超えます。徂徠の主著「弁名」「弁道」「政談」「太平策」を中心に彼の思想を検討してみましょう。前二者は哲学・形而上学、後二者は実務のための政策提言です。
 徂徠は儒学を勉強しました。そのためには中国語で本が読めなければならないと考え、中国語の発音練習から始めます。当時の中国語は、四書五経が書かれた時代の発音と同じなのかどうかと考えます。彼は古代中国語の研究をします。彼が始めた古典言語の研究は、古文辞学と言われます。彼は四書より五経の方を重んじました。五経の内容の方が古いからです。徂徠は儒学の源流を突き止めようとしました。五経、特にその中心である礼記は、殷周時代の漢民族の風習と儀礼の書です。
 徂徠は、制度という概念にゆきつきます。彼の言葉では「礼楽刑政」です。礼は儀礼と風習、楽は音楽、人と人の間を取り持ち和ませ柔らげるための音楽、刑は刑法、政は政治です。徂徠は宋学で重視される倫理中心主義と唯心論を排し、礼楽刑政、つまり政治制度が重要なのだと強調します。
 制度を建立した人物を先王あるいは聖人と名づけます。作られた制度が先王の道です。一度作られたものなら、また新しく作り上げることができるはずです。倫理といわれれば、作り変えがたく見えるが、制度としてみると、作り変え可能になります。
 朱子学・宋学には、変革を試みる公理がありません。何事も精神主義です。自己を内省して自己変革を期するのみです。聖人君子の道、といいますが、ありていにいえば大勢順応です。倫理から制度に視点を移し変えることにより、徂徠は体制変革の公理を作ります。
 1279年、南宋最後の継承者は崖山に亡びます。近侍していた陸秀夫は,衣冠を正して「中庸」の一節を講義していたとか。徂徠はこの話を引いて朱子学の無内容さを憫笑します。
 徂徠は以上の思考を総括して、「礼は物なり、衆議の包塞するところなり」といいます。物は具体的状況、包塞は塞ぎ包み満ちていることです。具体的状況の中で、それをみんなで討議することによって形成された何かに、一定の名をつけて形にしたものが礼なのだ、と徂徠はいうのです。
 徂徠は「元享利貞」という宇宙の循環を再解釈します。元は物の始まり、享は勢い盛んな様子転じて変化、理はその結果、貞は変らぬこと、を意味しました。
 易のこの原理に、徂徠は彼自身の解釈を加えます。元は事を起こすこと、享は起こされた過程の推移、利は結果としての収穫効果、貞はその過程に潜在する不変のものあるいは自然、と解釈します。
 徂徠の解釈の鍵は「元」にあります。これを彼は、過程の起動者、つまり制度の建立者と解します。彼の解釈に従うと、自然に働きかけて、過程を起こさせ、収穫を取り入れた後、元の自然に戻すとなり、こうして一循が終わり、再び新たに起動させるものが----となります。
 易は自然の過程を読み取る図式ですが、易の枠組を設定するのは人です。徂徠はこのからくりを見破り、自己の思想に組み込みます。自然の過程は作為の対象になります。
 徂徠は義も再解釈します。義は仁義と併称されるように、儒学の基本概念です。義を重視したのは孟子、しかし徂徠は孟子に飽き足りません。
 仁が、人と人の間の柔らかくて自然に流れる関係を示唆し、対立や葛藤を含まない関係様式なのに比べ、義は仁の流動的状況に一部を切り取り組み合わせてできる、かなりごつごつしてぶつかりあうあり方です。したがって義には仁の外在化されたものという意味も含まれます。
 徂徠は、義に仁の流動性を含ませつつ、それを適用と理解します。適用は、運用であり、流通であり、需給関係であり、利の追求です。
 元享利貞と義の再解釈は、運動、適用、運用そして循環を意味します。徂徠は政治行為の拠って立つ基盤を探りつつ、同時に経済現象をも視点に組み込みます。
 徂徠は、宋学が重視する仁のもつ曖昧さを排除し、その背後にある制度を、眼に見えるように顕在化させ、それを人間の主体的行為の対象としてとらえます。
 徂徠は、具体的政策を提案します。武士社会の危機を、旅宿の境涯、と表現します。本来武士は農村から出てきた。そのころは有能で強かった。都市生活を営むようになって柔弱で貧乏になった。だから武士は農村に帰るべきだと、帰農論を説きます。ここまでならいいところを突いても所詮はアナクロニズムです。
 徂徠は続けます。旅宿の境涯に武士をおきながら、何の制度も設定しないのはおかしいと。彼はいいます、旅ではとかく金がいると。ここから彼の提案は未来に方向を転じます。
 人材の登用は、だれでもいうことです。徂徠は極めて大胆な提案をします。能力のある者なら百姓町人でも武士に取りたてよと。士農工商の身分撤廃を主張します。
 徂徠はさらにいいます。高位にある者は苦労が足りないから馬鹿が多く、下賎な者の方が有能だとも。さらに、人は使って見なければその能力は解らない、適材適所で使って専門家を作れ、やる気になるようにおだてて使え、と。朱子学的精神主義の欺瞞への批判です。徂徠にとってはまず実用、倫理より制度と政策です。
 8代将軍吉宗は、就任早々、老中に江戸市内の米の値段を尋ねます。1人がかろうじて答えられたのみで、他の老中は知りません。徂徠の「政談」は吉宗の要請により書かれました。
 徂徠は寛刑を主張します。金銭にまつわる紛争は激増していました。しかし幕府は極力当事者間の和解を勧めます。徂徠はこの態度を批判し、ともかく民事法を作れといいます。この要求は寛刑を必要とします。金銭沙汰をそれまでの荒っぽい刑法で裁かれては、首がいくつあっても足りません。武は武断です。うかつに民事法を作れば、幕府存立の精神的基盤は崩れます。しかし幕府は不充分ながら作りました。公事御定書(くじがたおさだめがき)は徂徠の死後1742年、吉宗の時代に成立します。
 民事法の必要性を説く徂徠は、また訴人と私闘に関して明白な意見を述べます。訴人をなぜ非難するのか、と。由比正雪の事件の時、彼の片腕である丸橋忠弥を、密かに訴えでた仲間がいました。訴人の功績で、彼らは旗本にとり立てられましたが、旗本は彼ら訴人を仲間あつかいしません。武士にあるまじき卑怯な行為というわけです。徂徠はこの態度を非難します。まず公権力、それを護った訴人は公儀への功人ではないのかと、いいます。
 裁判判決や政策判断の記録を残せ、と彼はいいます。それまで記録がないから、かなりいいかげんな判断で執行されていました。だから記録の保存とその担当者である留役の必要性を主張します。帳面を留めるから留役あるいは調役といいます。係長級のこの役職は次第に重要になります。
 幕末の能吏、川路聖アキラは勘定奉行留役でしたが、老中阿部正弘から常に相談を受けました。西郷隆盛は薩摩藩郡奉行調役から彼の政治人生を始めます。記録の保存は行政と裁判の手続きの明文化を意味します。同時に実務官僚を育成します。
 徂徠は経済政策について2つの重大な提案をします。
 田畑の自由売買。幕府および諸藩は農民が自由に耕作地を売買することを禁じました。農村には真の地主はいなかった。入質という形で所有権が委譲されることもありますが、基本的にはそれは質であり、農民はいつでも取り返せました。原則的にはそうなるし、事実そうなる事例も多かったのです。地主が育たなかったことがいいかどうか解りません。しかし耕作地の自由売買が資本制生産の基盤であることは確かです。徂徠の大胆な発言は、武家政治の否定に連なります。
 徂徠は貨幣流通量増加を提案します。
 元禄期荻原重秀が金銀貨を改鋳し金銀の含有量を減らして財政を救いました。対して新井白石は逆をします。経済政策としては荻原の方が先進的です。徂徠は荻原の政策を支持します。
 貨幣量の減少は不景気につながります。徂徠の提案に乗ったのか、吉宗は貨幣の金銀含有量を減らし、新貨と旧貨を含有率に応じて交換する政策を施行します。貨幣流通量増加を目的とした誠実なやり方です。
 併行して定量銀貨を発行し、金銀比価を固定し金本位制への先鞭をつけます。これは幕府が経済行為に積極的に乗りだそうという決意でもあります。吉宗以後、幕府は中央集権化を進めます。吉宗はお庭番という将軍直属の諜報機関も作りました。
 徂徠学の要点をまとめました。
 民事法の制定、田畑の自由売買、貨幣流通量の増加、百姓町人からの人材登用、は武家政治の否定です。
 これらの提案はフランス革命の人権宣言とほぼ同じ内容です。人権だ平等だと使いようによっては危険でもある空手形・空念仏を振りまわさないだけのちがいです。維新政府が施行した政策とも同じです。徂徠は政談提言のすぐ後の1728年死去します。人権宣言は1789年、明治維新は1868年です。
 徂徠の貢献は、政治を伝統と自然の過程に任せるのではなく、政府が積極的に政治に関与し、必要な制度を状況に合わせて製作してゆくための原則を明示した点にあります。具体的に彼が提案した内容は、武家政治を超え、それを否定するものでした。徂徠の思想の特記すべき点は、彼の論旨が流れるように首尾一貫していることです。彼は言語学者でもあります。彼の創始した古文辞学は日本語の研究に受けつがれています。本居宣長は徂徠の孫弟子です。
 徂徠に関する挿話を2-3紹介しましょう。彼は幼少児期を上総国(千葉県)で過ごしました。青年になって江戸に移住します。この時彼は、少しでも儒学の本家である中国に近くなったと喜んだそうです。
 彼が大家となった時、弟子や知人を集めて、毎月一回例会を催します。酒と一汁三菜、他の食物は各自自由に持ち込んでよし、出入り自由、でした。彼は弟子の独創性を愛し、学問に関する限り、意見は自由でした。
 徂徠は礼記の内容に見習って、古代中国の音楽を皆で練習しました。彼がある楽器を吹くと、彼の家猫がくしゃみしたそうです。
 最後にもう一度徂徠の経済政策への貢献をまとめてみましょう。彼は政治を作為(さい、人が意図して為し、作ること)の対象として捉えます。政治は可視的な存在として浮かび上がります。この存在を具体的に吟味考察すれば、政策の選択肢の一環として、経済現象が捉えられます。政治を作為として捉えることは、政治を公権力の独占から解放するための前提でもあります。民意を前提としてのみ経済現象の理解は可能になります。
 政治から経済への推移の重要なステップが、土地の資本化、つまり耕作地の自由売買です。こうして財貨は流動化され貨幣で計算されうるものになります。徂徠が提唱した、耕作地の売買自由を前提としてのみ貨幣流通量の増加という政策とその提案は可能になります。 
 
参考文献
   弁名、弁道、政談、太平策  日本思想体系・荻生徂徠に所収  岩波書店
   荻生徂徠  中央公論社