経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

エロスとしての国家(3 結)

2018-01-25 17:38:01 | Weblog
   
     承前   エロスとしての国家(3)
(6)審議院
この本で論じる焦点は天皇制(君主制)にあり議会にはない。しかし既述した皇室文化機構との関連において議会の機能に触れなければならないのでここで論じる。この主題は皇族の婚姻問題とも関連する。
現在日本の議会は衆参二院制である。私はこの議会の在り方に極めて批判的である。人口数に応じた議員を直接投票において選ぶ点で両院は全く同一の選ばれ方をしている。私はこの選出方法は無意味だと思う。参議院を廃止して審議院(仮名)を作るべきである。審議院の定数は100名内外とする。原則として地方を代表し人口の多寡に依らない。各都道府県2名の人数になる。選出方法は都道府県に任せる。知事による指名が一番好もしい。さらに総理大臣経験者及び若干名の皇族を加える。総理大臣経験者は両院に議席を持つことが可能である。端的に言えば審議院議員の選出は頭数の差ではなく賢愚の差によることを目指す。なお審議院議員は必ずしも選出母体である都道府県の住民である必要はない。
審議院と衆議院の関係は、衆院優位とする。衆院の決議と反対の結果が審議院で出されれば衆議院は再度評決をしなければならない。決定は可否いずれにせよ衆議院の再議決に委ねられる。では審議院独自の権能は何か。審議院は議決と平行して議案の提出にその役割の大部を持つ。審議院で提案されその提案が可決されればその最終議決は衆議院に委ねられる。審議院は提案を充実すべく独自の機構を整備する。従来提案は例外を除き行政府が行ってきた。その役割の一部または多くを審議院は担う。同時に審議院は衆愚に陥りがちな衆議院を抑制する役割をも期待される。  
審議院は特定の事項、特に軍事同盟の締結に関しては衆院に対して拒否権を持つ。この案件に関して審議院で否決されしかも同案件を衆院が再度議決し、なお審議院が否決した場合審議院は衆議院に対して解散を命じる事ができる。解散後の議決は衆議院に一任される。何が特定の事項かは審議院自身の判断で決める。
審議院の役割は単なる提案のみではない。提案者を民間に求め、彼らの提案を議会行政に仲介する。むしろ役割としてはこちらの方が大きい。NPO、NGOはじめ民間には諸種の市民団体運動組織が存在する。彼らは一定人数の署名同意をもって審議院に彼らの議案を提出する。どちらかといえば非国家反国家になりやすい市民団体を議会制度と行政に取り込むことにこの制度の意味がある。この提案を審議院は受けて検討し提案団体と商議し、妥当と思われたら法案として整除し審議評決にかける。必要とあれば提案団体の代表数名をも審議院での討論に参加させる。政府関係者を状況に応じて呼び討議する事は衆院と同様である。審議院で可決されたらそれは衆院に廻される。もちろん提案団体とは独立に審議院が法案を提出審議することは可能である。民間団体による提案は有料にして濫訴を防止する。
審議院はそのような役割を担うのであるから、衆議院に比しその機能は複雑であり多彩である。審議院議員に付与される政策秘書の数は衆議院議員よりはるかに多くする。同様に政策検討のために諸種の団体と商議しなければならないので政策立案に要する経費も多くする。秘書の選定は議員に任される。国家あるいわ都道府県の公務員、民間企業の職員などの出張の形を加えてもいい。秘書の作業は将来行政企業経営の執務者か議員になるための訓練の場にもなりうる。議員が不適当と認めない限り秘書の地位は議員が辞任するまで保証される。
審議院議員の任期は10年、過誤がない限り5年延長可能とする。指名した知事あるいわ都道府県に審議院議員の解任権はない。議員の地位を安定させ、職務への習熟を図る。議員は出自がどうであれ、不偏不党をもって旨とする。政策秘書も同様。任期中は政党への所属は認めない。俸給などの待遇と序列は衆議院議員より上位とする。審議員の誰を介するかは提案団体の選択に任せる。なお審議院議員あるいわ審議院により当初から提案を拒否する事は可能である。提案されたらすべて受理し審議する必要はない。また既存の、行政への陳情、行政訴訟や民事裁判は従来通りとする。衆議院議員の数は増やす。衆議院議員の定数は一選挙区で最低2名とし、それ以上は人口比に応じる。首相は衆議院からのみ選出される。
審議院の役割はもう一つある。皇妃及び皇太子妃の推薦である。現任も含め審議院議員の経験者は団体を作り、そこで適当とみなされる女性を妃として推薦する。推薦は審議院独自で行ってもいいし、また審議院の特質を生かして民意に問うてもいい。もちろん決定ではない。決定はあくまで当事者による。ただし妃候補を審議院が拒否する事はできる。私は皇妃及び皇太子妃と書いたが、推薦の対象は皇族全般に拡大される。内親王の配偶者も同様である。次章に述べる側妾に関しても同じく同様である。
審議院は皇室文化機構の決議及び執行機関に所属議員あるいわ秘書を代表として送り込む。また宮内庁を宮内省に昇格させ担当大臣は審議院議員をもってする。
地方代表、識者による指名、主任務は提案であること、民意の仲介、一定の拒否権の保持、宮内省の統括、天皇による文化政策への参画そして皇妃推薦、以上が審議院の権能である。
審議院による提案は、立案者の多くが民間人でありまた皇妃推薦機能を持つという性格から、軍事外交財政などハ-ドな部門より、福祉教育学術などソフトな部門での提案が多くなると予想される。ハードな部門では抑止力をソフトな部門では積極的な提案が期待される。その分、皇室文化機構への関与と相まって審議院の文化に関しての提案も比重を増す。
審議院の存在によって民間文化と君主による文化事業は連接され仲介される。民間諸団体の政策立案の仲介と皇妃推薦機構という審議院の性格は民間と皇室の間の距離を縮小させる。
(7)宮家と側妾制度
 皇室の婚姻制度に言及しなければならない。文化は君主の血統の維持を基幹とするとは以前に述べた。皇室の血統の維持は緊潔の課題である。国民一般は一夫一妻制度を原則とする。この原則を皇室にそのままあてはめていいのかという疑問がある。国民各個の血統が絶えるのはやむを得ない。代替えはある。皇室は唯一無二の血統であるから代替えはない。明治以降男系の断絶の危機は二度あった。大正天皇即位時と現在である。大正天皇は側妾が生んだ子であられた。当時は直系以外に傍系の予備軍として多くの宮家が存在していたからいざとなれば宮家からの即位も可能であった。現在の皇室自体江戸時代中期113代東山天皇から分枝した閑院宮家のご子孫である。昭和天皇の直系で男子後継者を有する家は秋篠宮家だけである。昭和天皇在位中にも危機はあった。結果として男系の子孫を残されたのは今上天皇だけである。天皇の弟の常陸宮家には後継がない。皇統は常に危機に曝されている。外国の君主家との縁組は、男系一統を原則とする以上意味がない。
 対策は二つある。まず旧宮家を復活させることである。復活を提案するのは簡単だが、旧宮家の当事者がどう対処するかは解らない。断られる可能性も多々ある。旧皇族は皇籍を離脱して70年以上になり、皇族あるいわ皇位継承可能者としての訓練を受けていない。皇族という仕事、特に天皇皇后皇太子皇太子妃の仕事は多忙である。好き嫌いをはじめとして自らの意志を積極的に述べることは遠慮しなければならないし、決められた予定を多分に機械的に消化されることが期待される。その旨習慣づけられ訓練されないと皇族の生活に適応できない事が予想される。政府は誠心誠意をもって旧宮家の復活を計らねばならない。関連した事項であるが政府あるいわ宮内庁はもっと積極的に皇室皇族の生活任務などを公開し国民の理解に資するよう図るべきである。皇族にはどのような公務、どのような儀式があり、具体的にどのようにお忙しいのか、国民に解らなければ国民は皇族を雛人形のように見るだけで、皇室への関心は上滑りしてしまう。
 第二の提案は側妾制度の導入である。これは一夫多妻を意味する。どのようにこの制度を運営するかは状況による。公然と皇室の一員として活動してもらうのか、この形が一番好ましい。この際皇族のどの範囲まで側妾を認めるのかという線引きの問題が生じる。極端な場合、当事者の了承を得た上で匿名秘密に男性の精子を、了承をえた女性の胎内に注入し人工妊娠させることもありえる。現在の医学技術なら簡単である。生まれた子供は天皇皇后間の子供として公然と皇位後継者の一員として扱われる。事態を知る者は極一部とする。このような場合の緊急事態に対処する機関の設置が望まれる。
しかし男性の側に問題があれば側妾制度も意味をなさない。原則はなんとしても旧宮家を復活し、皇族の数を増やすことである。そして皇族が意義をもって社会活動する余地、自由な場を与えてあげる事が肝要である。その意味では前記した、文化の守護者としての天皇というあり方を充実する事は重要である。もし私が描いた通りの活動を天皇皇后に期待するとすればその羽翼として多くの皇族が必要とされる。のみならず皇族方がより積極的に活躍しうる環境も整備される。皇室の血統を維持するためにも皇族の文化活動への積極的参加は必須である。
どうしても男系皇嗣が得られないならば、旧宮家の方々に拝み倒してでも強引に即位してもらわなければならない。
なお天皇は終身とし引退は認められない。必要があれば摂政を置く。
 皇室に側妾制を取り入れたら並行して売春を非犯罪化する。売春は太古の昔から存続しており幾多の非難にも関わらず消滅する気配は一向にない。禁止しても無駄なら容認する方がいい。男が居れば女が要る。独身の男が居れば娼婦が要る。売春とは天賦の職業である。元来売春と自由恋愛の区別は不可能である。売春と不倫の境界も流動的である。極言すれば通常の家庭生活との区別だって怪しい。その線引きは不透明である。夫が妻を養うことを家庭生活というのなら、これは金銭と性行為の交換とも言える。個々の女性が自分の判断で、特別の組織に頼らず自由に男性を選択し了解のもとで性的サ-ヴィスと金銭を交換するのならそれは合法とし容認する。
売買春の非犯罪化は民間の側妾制度に通じる。側妾制度を容認すれば男女の交合の機会は飛躍的に増える。一夫一妻制の裏面は、慣れによる性的魅力の減退と育児への過度の関心集中である。生活が所帯じみてしまう。自己の生活を確保しようとして社会生活に過度の規制を加え権利主張のみ強くなる。側妾制度の容認により、各男女はその性的牽引力において競争状態に置かれる。男女ともに自己の性的魅力を高めようとする。性的魅力への関心の増大は他者への寛容をはぐくむ。交合の機会の増加は人口増加に通じる。婚姻制度の根幹は一夫一妻制である。しかし皇族一般庶民にかかわらず一夫一妻制は緩やかにしてその周辺には一夫多妻制を取り入れるべきである。性道徳は寛容な方が暮らしやすいし、国民の創造力も向上する。
(8) 神事祭礼
 神事祭礼は文化の中核であり、伝統維持の基幹である。神事祭礼はある特定の行為行事を中核としてそれを介して参加者の集団帰属性と相互共感を醸成する。従って神事祭礼はエロスの凝縮であり、文化の基軸であり、また信仰宗教の原点でもある。信仰は突き詰めてしまえば一定の儀式にそしてこの儀式を通じて祈ることに帰着する。神事祭礼を催すことは儀式を順守し祈りをささげることである。
あらゆる神事祭礼は国家に連なる。神事祭礼の主催者は天皇である。このことについては既に述べた。君主崇拝、国家護持のために神事祭礼は盛んに催されなければならない。神事祭礼が盛んになれば仏教行事も並行して盛んになる。日本の仏教においては神仏習合により神と仏は微妙に混交しているから。神社の祭礼を盛んにしよう。この際焦点は地方の中規模神社にあてられる。伊勢神宮、出雲大社、春日神社他の大規模で名のある神社は放任しておいてもいい。自力でその機能を遂行できるのであるから。中規模神社の神事祭礼を掘り起こしより華麗に演出する。神社の由来来歴を調べ整理記載し文書化して宣伝する。これらの内容は物語化あるいわドラマ化してもいい。併せて中規模神社の周辺に位置する小規模神社、そのかなりの部分は神主不在であることが多いのだが、これら小規模神社の由来も調査整理し、建物は補修し、その存在を明示する。皇室文化機構はこれらの神社すべての故事来歴を総括して出版刊行する。地方の神社の祭礼を皇居で再演し公開する。皇居は全国の祭礼の中心となる。付言すれば新嘗祭(にいなめさい)などの皇室行事はその一部または全部を公開できないのだろうか。
 肝心な事が二つある。まずこのような地方の神社の神事祭礼には必ず皇族あるいわ宮内省や皇室文化機構の職員が天皇の名代で祭礼の演出に参加する事である。天皇の行幸の代理である。もちろん状況によっては天皇ご自身が行幸されてもいい。この際中規模神社のみならず、周辺の小規模神社から適宜選択してそこにも奉幣する。すべての神社は国土の守護神天皇の身内であることを明瞭にさせる。
 もう一つ重要な事は以上の地方祭礼に都市住民(厳密には域外の住民)を参加させることである。各地域に祭礼振興のためのNPOを立ち上げ相互に協力しあいながら相互に往来し演出を競争する。祭礼には古式ゆかしい部分のみならず、現代文明の新しい要素も取り込むようにする。神事祭礼は圧倒的に農事と葬祭に由来する事が多いし神社仏閣は日本中の至るところにある。従って祭礼の振興は農業そして地方の復活にも資するところが大きい。
 繰り返す、神事祭礼は文化の中核である。
(9)農本主義
 神事祭礼はそのほとんどの由来を農事と葬祭に持つ。よって主題は農業と葬祭、農本主義と敬老の問題に移る。現在日本の農業は危機にあり、地方創生の問題は久しく解決されていない。
農業はなぜ国家体制の維持に不可欠なのだろうか。農業が一定程度以下になると国家は成り立たない。都市国家のような例外を除いて国家の存続が危うくなるあるいわ不快不安定になる。そしてこの一定という垣根は高い。最先端工業国家日本でもエンゲル係数は25%なのである。換言すれば我々の経済生活の相当な部分は農業に握られていることになる。農業は「食う」という人間生活の原点をおさえている。国家は一定程度の食料生産を維持しなければならない。人間はいざとなった時「食う」ことに一番ありがたさを感じるものだ。現に世界の半数以上の人口は飢餓線上にある。状況如何で食料は絶対的価値を持つ。その事を我々日本人は70年前の第二次世界大戦終了直後に痛烈に体験した。人間の社会は農業を基盤として発生した。そして現在でも農業は社会の基盤なのである。
世界の国々で自力で産業革命へ離陸しえた国は極めて少ない。農業革命が行われ農業による資本蓄積が一定の段階に達した国のみが産業革命を成し遂げている。後進国途上国といわれる国々の農業はいずれも脆弱である。食えなければそれ以上の産業も文化も発展不可能である。世界中で難民問題が多発している。難民を出す国が一定量の食料を生産できれば難民は生じないはずだ。農業の発展が一定程度の段階に達しないと民度は向上しない。人的資本は育たない。「食えるプラスα」、このαが工業化の資本である。繰り返すが農業はあらゆる産業の原点である。仮に日本の農業が衰退し絶滅したとしよう。表面上は他産業で食って行ける。しかし何かの理由で世界の食料価格が高騰したら、工業生産物は安く買いたたかれ日本の産業は委縮する、あるいは壊滅する。工業製品は代替えが効くが食料は代替えが効かない。繰り返すが農業はすべての産業の原点なのである。
農業は非常に健康な職業である。戸外で陽光を浴びて働き新鮮な空気を吸う。身体を使い額に汗して働く。身体の稼働は精神を賦活する。農業は日常平時に行われる身体訓練であり、優秀な兵士は農民から徴兵される。
農業は空気を浄化する、光合成を介して二酸化炭素排出量を抑え空気中の酸素の濃度を高め空気を新鮮なものとし、併せて地球の温暖化を防止する。農耕地及び森林は水を貯え水の流れを調節して洪水と旱魃を防ぎ、温度湿度を安定させる。農業は自然との代謝関係において成り立つ。従って農業は自然を安定させる。もし日本の国土が都市機械建造物のみになったら我々は生きてゆけないだろう。多分発狂するだろう。農業は我々人間の生命を包む自然の保護衣である。
なによりも農業は季節の推移自然のリズムに従ってその作業が行われる。人間もその自然のリズムに応じて働き自らを形成する。だから農業に従事する事は、土という神秘な自然に親しみ、自然と一体化し、時として自然を崇拝し、職務に服し、職務を通じて創造する喜びを感じることにも通じる。農業において最も、自然への回帰、自己実現、労働共同体への帰属などの感情は惹起されやすい。年中行事は農作業のサイクルにあわせて作られている。従って農作業を営むことは、心身を健康にし、国家への帰属性を涵養する。土を通じて民衆は結ばれる。国家と社会は安定する。
農業を通じて人類は規則正しい労働という習慣を身につけた。農業を通じて人類は、予測とその実現という科学的思考を、自己のものとした。農業を通じて人類は時間の意義を学んだ。だから農業は合理的思考科学産業の原点である。合理的な思考と知識なくして共同体への帰属性はあり得ない。
農耕は商工業に比べて富創造の速度が遅い。人知でどうともできない部分が大きい。逆に言えば農耕は格差拡大の防波堤、つまり社会の安定装置になる。一程度以上の数の独立自営農民の存在は社会にとって不可欠である。
また人知でいかんともしがたい部分の存在は神々を我々にとって身近なものにする。我々は農業を介して自然と共同体との一体化を成し遂げ素朴な宗教的情操を養ってきた。この事はいくら強調しても、し足りない。
毎年宮中ではその年の収穫を祝して新嘗祭(にいなめさい)が行われる。主宰者は天皇である。民間では同様の趣旨をもって祭りが挙行される。天皇の代替わりごとに大嘗会(だいじょうえ)が行われる。この行事は天上の天照大神と地上の神である天皇との聖婚であり、天皇は地方から献上された農作物を食し豊穣を予祝する。日本の芸能の始まりは田楽である。田楽は農業労働を模擬演出し賦活激励しその年の五穀豊穣を祈って行う神事芸能田遊びである。新嘗祭大嘗会という祭儀が神聖視されるのは、農業が国家存立の基盤であるからである。
以上述べたように農業は経済産業に対して大きな衝撃力を持っているのみならず、人間の精神にも深甚な影響力を持っている。
その農業が日本では危機に瀕している。農家の後継者はなく、農業技術そのものの優秀さにも関わらす耕作放棄地は増え、人口は大都市に流出して、地方は過疎に悩み、行政を維持する事すらできないでいる。水と温度と太陽に恵まれた広大で肥沃な大地が放置されている。馬鹿々々しいのを通り越して、一種の背徳行為罰当たりであるとすら思えてくる。
農業は経済行為において無視できない規模を持ち、また農業が国家や人間の精神に対して持つ影響力は大きい。この農業を荒廃するまま放置する事はいかなる結果をもたらすのであろうか。
大都市特に東京への一極集中が進み、人口、産業施設、インフラ、資本、技術、情報のすべてが東京とその近辺に集積され、他の地域ではあらゆる生産活動が不可能になったと仮定しよう。気候は不安定になり、水害は頻発し、空気は汚れ、排出物は堆積し、食費地価従って物価は不自然に上昇し、ストレスは飛躍的に増加する。総人口は減少し極めて住みづらくなる。そうなると平衡は逆方向に傾く。傾かざるを得ない。
 人口は地方に徐々に流出する。流出せざるを得ない。この際一番産業として実施しやすいのが農業である。なぜなら農業においては土地以外の資本はさほど要らない。居住耕作が放棄されているのなら土地代はほぼゼロである。残りの資本は水と空気と温度と陽光、天賦のもの原則としてただである。工業製品の需要は複雑である。需給の見通しは難しい。それに比し食料は絶対必要なものである。一定の量は必ず購買される。仮に無人の地に工業施設を移そうとすれば付帯施設は膨大になる。人口が超過疏の事実上無人の地にこのような施設は設けられない。
 問題は自然の平衡回復まで日本がもつか否かである。極めて悲観的に見れば、東京以外の土地は荒野と化し、人口は急激に減少して経済力国力は低下する。国民の企画力創造力は低下する。他国の侵入も招きかねない。遅れないうちに農業を復活させねばならない。規制を緩和し、農業従事者の自由な経営に任せなければならない。農業が復興すれば製造業もその土地で復活する。農産物加工、肥料農薬の製造、農業機械の販売修理組立、部品生産果ては機械そのものの生産も可能である。製造業が一定の段階に達すれば製造業の発展は製造業自身の推進力で行われる。重大な問題は農業の復活を自然の推移に任せていいのか否かである。思い切った政策的関与が必要である。この政策は明治維新の廃藩置県地租改正と同規模の政策になることが予想される。
 一案がある。現在老人の介護施設の建設は大都市では限界に達している。介護施設を大規模に地方に移転させるべきである。このことにより地方での当面の需要と雇用は確保される。農業の復活に弾みがつく。介護健康管理も含めて老人の福祉は集団で行う方が、効率がいい。個々の家庭での介護には限界がある。地方は地代賃金生活費が安い分移転に伴う利益も大きい。葬祭は折り目正しくやや大規模に行う。敬老の精神に基づいて行う。
 ここで農業と介護敬老は結びつく。人口の増加はその地方の農産物の需要を刺激し、近隣に購買力があることは農産物の価格従って生活費を安くする。直近の需要地という存在は農耕地の過度の集積を防止する。農産物の国際競争力は高まる。農業は復活する。生活費の低下は老人はじめ住民の生活を円滑安寧にする。介護敬老の内容はより豊かになる。介護も需要を喚起する。介護用品は農業機器と同じく販売修理組立を必要とする。地域の範囲を拡大させれば部品生産、更には機器そのものの生産も可能になる。製造業の発展は農業の発展をさらに刺激する。好循環が生まれる。一言で言えば地方の地域内内需を増大させることが必要である。そのためには人口の大規模な地方への移転が図られなければならない。為政者の指導力ありていに言えばある程度の強制力が必要になる。
 日本のエンゲル係数は25%前後である。この数値は農業の直接生産物の価値のみならずその加工販売まで含めた数値である。エンゲル係数をGDPに換算すれば内需が総GDPの60%だから生産加工販売まで含めた農業の総GDPに占める比率は15%になる。農業機械の生産販売、肥料農薬の製造まで加算すると農業関係の対総GDP比率は20%を超える。これが日本の農業の潜在力である。農業再興は地方復活に対して大きな衝撃力を持つ。これに介護産業が加わる。
 単に農業の復活のみが問題の焦点ではない。農業の復活は神事祭礼の興隆に繋がる。老人が増えれば葬祭も増える。葬祭の増大は地域の神社仏閣の増加をもたらし地域の神事祭礼を発展させる。神事祭礼は農事と葬祭に結びつくものが多い。神事祭礼の演出挙行は農事を賦活する。逆に農業という実質産業の拡大は祭礼の施行を刺激する。地域の文化は豊かになりそれに伴い生産は増大する。繰り返すが神事祭礼は文化の原点であり集団帰属性の基軸である。文化は賦活されれば文化自身の手で賦活されてゆく。神事祭礼から分化した諸々の行事イヴェントが出現する。神事祭礼を全国的規模で結合し、その演出を競争させれば効果は乗数的に増加する。地方に活気がよみがえり地方の文化は再生する。農事は生命を産む作業であり、葬祭は生命を送る儀式である。生命の表裏において両者は重なる。従って農事と葬祭神事祭礼は本来極めて近い関係にある。相互に賦活しあう。そして共同体ひいては国家への帰属性を涵養する。農業復興と介護敬老は併せて行うべきである。我々人間は土から採れた食物を食い、土に帰って行く。この原点を忘れてはならない。
(10)結語
人と人はエロスによって結ばれ、共同体を作る。人と人の関係は本来対立しない。和解が人間関係の本質である。エロスを抑制し純化してできたものが信仰共同体である。信仰共同体は自らを維持するために自らを世俗の世界に投射する。国家共同体が形成される。両者は相互補完相互抑止の関係にある。君主と家族が出現する。君主の下で国民は平等であり同時に不平等である。では現今における君主の責務は何であろうか。文化の維持守護が君主の任務となる。文化は最終的には君主の血統に帰着する。文化と血統は深い関係にある。国家が安定するためには、文化が豊潤であることが必要である。文化と婚姻を介して、国民と君主が結ばれることが望まれる。その為には民間からの提案を受理する議会の設置と、神事祭礼の再興奨励と、農業の復活が急務となる。(結)

エロスとしての国家(2)

2018-01-24 17:44:56 | Weblog
     (承前 エロスとしての国家2)
(4)衆議制 
国家とカリスマである君主、階層性、生産単位エロスの培地である家族が定立された。信仰に支えられて君主は存在する。その下部には所有欲求を管理調整する装置としての衆議機構が展開する。自動的に展開する。君主が存在すれば衆議は必然的に生じる。物財への所有欲求は制度の安定要因であり、だから衆議機構はどんな社会にも存在する。信仰は取引できないが財貨は取引できるがゆえに。すべて一人あるいわ極少数の人間で国家を切り回すことは不可能であるのだから。あらゆる生産活動はこと人間に関する限り分業である。分業は衆議に基づき衆議の基盤をなす。例を挙げればロ-マ帝国には元老院があったし、鎌倉幕府には評定衆があった。皇帝や将軍だけで政治は行えないのである。
衆議機構の成員はどのようにして決められるのであろうか。君主による任命、同僚による推挙、同僚あるいわ部下による選挙などである。現在ほぼどこの国でも、完全平等な資格を前提とした無記名投票による選挙が一般的である。ただしこの方式が理想的であるとは必ずしも言えない。歴史の変遷の中で君主制をとる国は減少している。君主制を取らない国はほぼおしなべて大統領制を実施している。大統領に実権のあることもないこともあるが大統領は君主の代行である。肝要な事は現在君主制を取るか否かはともかく衆議機構、その発展した形である議会は君主制のもとでのみ生じたことである。逆に君主制を否定した国家は独裁制に陥りやすい。
現在極一部の国を除いて君主は政治に直接関与しない。君臨はするが統治はしない。君主の下に首相を置き、首相は国民の直接投票で選ばれた議員による選挙で選出され君主によって形式上任命される。この制度を議院内閣制という。首相という名称そのものが臣下であることを表している。議会あるいわ首相の仕事にはここでは触れない。それらの機構はいわゆる政治を行う。政治の内容は外交、軍事、財政、教育、学術、司法、治安などである。重要なのは財政と外交である。積極財政をとるか均衡財政を取るかは内閣議会の管轄事項である。またどこの国と同盟しどこの国と戦争するかも同様であり、ここで主要な論題となっている君主制の存在意義そのものとは直接関係はない。
私は国家形成の基軸は君主制にあると言った。ところで現在世界に略200の国家が存在するが君主制をとっている国は少ない。君主制は衰退するのだろうか。ここで熟考してみよう。200の諸国家の大半は欧州覇権国家の植民地であった地域である。植民地化の過程で土着の文化は破壊された、あるいは衰退させられた、あるいは二級文化とみなされた。そして脱植民地化による新興国家の続出。しかしこの種の国家では自生的文化の発展は幼弱である。安定した君主制は存在せず、その政治機構は宗主国のそれの都合のいい部分をとってきただけである。いわば寄せ集め継ぎ接ぎ国家だ。国家のまねをしているだけである。アフリカ、アセアン、中近東の諸国家がその例証である。共産主義国家も例外ではない。
特殊な例としてはアメリカ合衆国がある。この国は先住民族を虐殺して支配民族が侵入占拠した国である。無限といっていい土地を略奪し使用するのだから、利害調整の象徴としての君主制は成立のしようがない。カナダ、オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランドも同様である。合衆国で四年に一回ほぼ半年強の時間をかけて行われる大統領選挙運動は私にはなにか戴冠式の挙行のように思える。
総じて文化の継続が一度絶たれた国では君主制が成立発展しにくい。
残るはロシアも含めた欧州と日本だけである。視野をこの地域に限定すると国家の半数以上は君主制である。フランス、ロシア、ドイツ、イタリアは何らかの革命で君主制を放棄したが、それに代わる体制として出てきたものは独裁制と政治的混乱であった。私はロシアなぞむしろ帝政時代の方が結果として良かったのではないかと思っている。なお欧州に関してはロ-マ教皇の存在は無視しえない。教皇は象徴的にそして実質的に君主として振る舞いえる。ロシアとロシア正教会の関係にも同様のことが言えるかもしれない。こう考慮してくると君主制が衰退したとは言えない。
では現在、世俗的統治から離れた君主あるいわ君主制の役割はどこにあるのであろうか。私は日本人であるから日本の皇室を中心に考えてみる。君主は文化の守護者である、文化の保持発展は君主制の維持において最大限の効果を発揮する。これが私の提示する主題である。ではどのように?主題は議院内閣制そして婚姻制度の根幹に触れる。
(5)文化
君主の最大の任務は血統の維持にある。血統は伝統であり、伝統の蓄積が文化である。従って文化は君主個人の中に体現される。少なくとも我が国にあってはそうである。一例をあげれば和歌や能楽はさかのぼれば古今和歌集や天皇主宰の歌合せそして神事芸能に連なる。アニメは明らかに浮世絵の系譜を引く。浮世絵は天皇が文化の守護者として隠然たる影響力を発揮した江戸時代の文化的雰囲気を度外視してはありえない。
    文化は広義には社会のすべての事象を意味しえるが、狭義には以下の五つの要因すなわち神事祭礼、学術、遊戯遊芸、美意識、共感からなる。遊戯遊芸は神事祭礼の裏面であり、共感美意識も最終的には神事祭礼に集約される。
神事祭礼は遂行する行事を焦点としてそこに参加者の意識を集中させ、参加者の集団帰属性と一体化を図る。従って神事祭礼は共感の場であり媒体である。集団の最大なるものは国家であるから、神事祭礼の最終的主宰者は君主である。
神事祭礼は信仰である。信仰の原点と言っていい。信仰は突き詰めると一定の儀式を挙行しそこへ精神を集中して祈りをささげ集団と一体化することである。
神事祭礼は荘厳厳粛絢爛豪華に行われる。神事祭礼は美意識の原点である。あらゆる芸術芸能は神事祭礼を起点とする。能楽は天岩戸を起源とし、茶道は仏教儀礼の流れを汲み、造形美術も仏像作成に習い、文学は神話の系譜を引く。美意識は普遍的価値である「美」を多くの人が共有することにおいて成り立つ。従って美意識は共感の範疇に入る。
学術について。科学技術は真実を限りなく追及する。真実は原則として一つとされ共有される。また学術に従事する者は好きでこの行為に打ち込む。彼らは芸能者とその精神を等しくする。
遊戯遊芸は神事祭礼の裏面云々に関して簡単に説明しておく。神事祭礼の後には必ず宴会が開かれる。厳密には神事祭礼は、その挙行における集中緊張とその後の解放弛緩の両局面からなる。解放弛緩とは狂騒無礼講である。無礼講の内容は飲酒、舞踏、唱歌そしていちゃつきなどからなる。ここから舞踊、音楽、詩歌、管弦、演劇、絵画造形などの後年芸術あるいわ文化といわれる様式が出現する。
こう考えれば文化は神事祭礼に還元集約される。神事祭礼は共感の媒体であり、その対象の最大なるものは国家である。従って神事祭礼の最終的担当者が君主、我が国の場合天皇である。
神事祭礼はそれを主宰する者にとっては生活の一部である。ここで君主の生活と神事祭礼は融合する。神事祭礼は複雑なものであり、それを生活の場で遂行してゆくとなると君主の生活と神事及びそれを施行するための機構は世襲という形にならざるをえない。君主が血統により継承される由縁である。文化の起点が神事祭礼であればその主宰者である天皇の血統は文化の伝統の中軸を為す。
    では君主は文化に対して如何に為すべきか。まず神事祭礼を執行する。天皇皇族が執行しない神事祭礼はそれを皇居あるいわその代理の施設において再現せしめ執行を援助し、執行を主宰する。全国の神社仏閣で行われている神事祭礼も主要なものは同様の形でその演出を主宰する。当然演出の場がなければならないであろうからそういう施設を作る。逆に地方の神事祭礼に天皇あるいわその代理としての皇族がおもむき演出を援助鼓舞する。行幸である。
神事以外の文化芸術の挙行を援助する。皇居で行ってもいいし、施行の場に皇族が出向かれてもいい。皇室主催の美術展などもする。お歌会のみならず、俳句川柳の演出も援助主宰する。洋楽雅楽の演奏演舞や詩小説随筆などの論評鑑賞も時として皇室主催で行う。囲碁将棋あるいわ相撲アニメ漫画などの庶民文化の演出も皇室で行う。能楽狂言歌舞伎漫才落語も然り。茶道華道日本舞踊などの家元制度はこれを保護しその文化活動を促進する。外国の文化芸術の輸入と日本の文化の輸出紹介も積極的に行う。世界の食文化の紹介展示解説などをしてもおもしろい。服飾文化も同様、ファッションはなにもパリとミラノだけの占有物ではない。皇族を文化特使として外国に派遣し外国の王室民間との交流を盛んにする。主宰するのみならず評価も行い表彰する。およそ創造的な文化なるものは多くの場合採算に合わない。そういう文化を保護し援助する。日本及び世界の文化の調査研究もする。要約すればあらゆると、言っていいほどの文化の中に押し入り、その執行演出を天皇は主宰する。
 問題となることはこれらの文化行事を執り行う機構である。政府行政が行う従来の機構(たとえば文化庁)などとは別個に組織機関を作るべく法整備をする、予算をつける。仮にこの機構を皇室文化機構と命名しておく。皇室文化機構は天皇の直卒として天皇皇族の意志が反映されやすくする。ここで天皇は行為の象徴ではなく、行為の主体であり実権者となる。必要な専門家有識者の賛助助言機関を設置し、時にあっては彼らの中から直接の執行者を任命する。当然事務機構も整備されなければならない。予算は政府が出すが、個々の行事に対する予算ではなく、一か年全体の予算を組み金額の詳細は政府との交渉に委ねる。一言にして言えば天皇は日本文化の大半に実質的に関与する。ただし予算による一定の制約、内容への政府の拒否権は政府側に留保しておく。このようにして君主あるいわ天皇の存在に内包されている文化の守護者という機能を明示化顕在化させてゆく。天皇の任務の最大なるものはここにある。文化はエロスである。天皇はエロス演出の主宰者となる。
文化が豊潤であり安定していないと国家社会は安定しない。文化は共同体への帰属意識の基盤である。帰属意識がなければ政治も経済も空中の楼閣となる。文化を安定させる最大の要素は伝統、端的に言えば君主の血統である。
文化と国家の関係について一言。文化は国家に内在し、同時に文化は国家を超越する。文化はソフトで内面的間接的な統治であり強制力をともなわない。国家はハ-ドで強制力を伴う外面的直接的な統治機構である。神事祭礼を基軸とするゆえに文化は国家に内在し、共感と美意識の表出であるゆえに文化は国家を超える。
文化と国家の関係に関してさらにもう一言。文化は神事祭礼に集約される。神事祭礼は集団の帰属意識を涵養する媒体である。従って神事祭礼は文化であり同時に政治である。神事祭礼の主宰者は天皇(君主)である。ここで君主主権と祭政一致が導出される。
文化は政治であり同時に国家を超えうる。そうだとすると文化の守護者である君主の比重は今まで考えられた以上のものになる。少なくとも君主は国家の半分以上を握る。ここから君主制の反撃が始まる。既存の君主制を保守するのみならず、新しい君主制国家の創出は可能だろうか。考えてみよう。
思考の対象をアフリカ諸国に取る。サハラ砂漠以南のアフリカの国々では治安は悪く、部族紛争が絶えず、飢餓は慢性的で、汚職がはびこっている。後進国の最たるもので悲惨たることこの上ない。これらの国は君主制になった方がいいのではないのか、なれるのか。その手順を考えてみよう。
まずこれらの国家は農業を主産業として農業に重点的な投資を行うべきである。地下資源開発だ、外資導入だなどと安易でやくざな事は考えない。資源などはいずれなくなるしそれでなくとも先進国の収奪にあう。外資はただではない、利子を取られる。借金が払えなければその国の利権を取られる。外資企業は賃金が上がればさっさと他国に逃げてしまう。国内での資本蓄積は滞る。後進国あるいわ中進国の罠だ。外資は安い労働力と資源を喰い散らすのみだ。後進国では農業に結びつかない代替産業は当分の間控える。インフラはまず水利灌漑森林保全から始める。進歩した農業機械に飛びつかない。犂鍬鎌斧など古典的な農具を用いて農耕を進める。高価な農具の使用は採算を危うくする。手作業に徹する。一番豊富な資源である肉体労働を有効に使用する。自力更生に徹する。農作物栽培は米麦粟豆とうもろこし芋など主穀に重点を置く。まず「食える」ことから始める。主穀生産が一定の段階に達したら徐々に農業の比重を換金輸出用の作物に切り替える。同じく徐々に農作業の機械化と農産物加工を進める。「食える」ということを基盤にして換金作物の栽培加工さらに農機具製造へと進む。こうして農業を製造業に接続させる。「食える」分以上が蓄積された資本だ。飢餓水準にあっては医療など無力なのだ。
文化慣習宗教を共有すべく務める。特に宗教は重要である。宗教と慣習はある程度分離されるのが望ましい。慣習から分離されれば宗教は共有されやすくなる。豚を食べないとか酒を飲まないとかなどの刺のある(他の信仰者の実生活と共有され得ない)条項は破棄する。人は仲良く暮らせればいいのであって、他の宗教と相いれない枝葉末節の慣習の刺は切り捨てる。
異なる宗教宗派の長老代表者が集まり教義を審議し調停する。この会議は政治に直接の影響は与えないが頻繁に開く。宗教そしてそれに基づく慣習の摩擦はこの会議で協議する。このシステムが充分進行したら自ずと指導階層あるいは指導家系が現れる。この種の家系は会議指導を世襲とし、各指導家系は通婚する。ある程度共有された教義は民衆に告知宣伝する、説教宣教する。説教宣教を具体的可視的にして祭儀祭礼を挙行する。この会議は政治に直接の指示はしないが、説教宣教を通じて民衆の尊敬を集めるべく振る舞う。会議は政治的には極力中立を維持する。民衆を福祉教育活動に誘い啓蒙指導する。喜捨献金なども積極的に促進する。民衆をまとめるべく教義の一部を変更し共有可能なものとする。指導者の生活は布施で賄う。元来信仰とか宗教というものの根っこは同一であり共有可能を原則とする。この会議の指導者が君主(厳密には祭祀王)の元型である。君主の家系は複数でも構わない。交代で世襲すればいい。どうしても共有できない事情があればその部分を共同体から切り捨てる。神話を収集編纂する。その延長上に歴史を編纂する。
新しい君主あるいわ国家を作るに際して肝要な条項は経済と信仰と言語である。前二者に関しては既に述べた。残るは言語問題である。私が想定している状況では複数あるいわ多数の言語が併用混用されていると見なされる。統一言語を作る必要がある。三つの案がある。現在使われている言語の中から最大の人口が用いている言語を公用語正式言語とする案が一つ。この方式は公用語となる言語人口が圧倒的である必要がある。でなければ言語戦争ひいては本物の戦争になる可能性が高い。二番目は旧宗主国の言語を公用語として使用する場合である。この案は簡便であるが、民衆と国家のプライドの問題が生じる。また全然系統の異なる言語を全国民が簡単に習得できるものでもない。言語格差が生じひいては経済格差の出現に通じる。全く異なる言語の採用はその国の歴史意識従って国への帰属性を損ねる。一番良いのは国民が使う各種言語から共通の部分を抽出し共通言語を新造し、これを公用語とすることである。なるべく共通部分の多い言語を有する部族が集合すればいい。従来の部族語を離れて新規の共通言語を作った例は私が知る限りではインドネシアがある。部族語は語彙が少ない。少なくとも現在国際交流に必要な語彙、特に抽象的な語彙は少ない。そういう部分は外来語を用いる。外来語は当然その国の新言語の発音書体に会わせて表記される。教育を通じて共通言語を育ててゆき語彙を増やし文法を整える。従来の部族語は方言ないし補助言語とする。語彙が少なく文法が不完全であるということは共通語を作りやすいということでもある。
共通言語作成に関して二三例を挙げる。明治以前の日本では各地方が方言を話し、口語は通じにくかった。政府は既存の文語を軸として方言を整除し標準語なるものを作った。欧州では各地でそれぞれの言葉が使われているがある意味でこれらは方言である。英語もイタリア語もオランダ語もドイツ語もフランス語も欧州方言とも言える。この方言群から似た語彙、似た用法を修正し整除して新しい言語が作られた。エスペラント語である。エスペラント語は易しく論理的で理解しやすい。
歴史はどう変動するか解らない。私は国家への帰属性は文化特に神事祭礼にあると述べた。この観点に従って君主制新生に関して一つの憶見を述べた。かなりの国で君主制が倒れた。この歴史事象に関して多くの人は君主制の崩壊は必然であったと考えているが、私はそうは思わない。君主制を倒した革命はどの革命をとっても必然ではなくむしろ偶然である。革命が必然だったなどの意見は革命の勝者がつけた後知恵刷り込み洗脳に過ぎない。君主制が倒れたのは君主自身の不手際によるところつまり偶然によるところが大きい。君主制は新しい形で再興可能である。繰り返すが歴史はどう展開するか解らない。
君主制再興の可能性について論じた。もう少し論を進めたい。君主制の対極にあるように見える制度は民主制である。私は「見える」と言った。君主制と民主制は必ずしも対立はしない。民主制の本質は、政治に対して従ってすべての社会事象に対して自由に意見を開陳しうることにある。実践的には無差別平等な選挙権に基づいて投票し代表を選ぶ権利が民主制の本質である。これを基本的人権という。それはそれでいい。ただ民主制それ自身には国民をまとめる機構はない。民主制の定義から国民の帰属性を保証する装置は出てこない。民主制がそれを否定するわけではないが、それを積極的に支持し構築するのでもない。純粋に民主的な政治が行われたとすると、それは単純に頭数の多さで政治的事項を決定することになる。民衆とは必ずしも賢明なものではない。彼らが所持する知識情報は少なく大局的な視野は乏しく小利に拘泥し扇動に乗せられやすい。過去の歴史において純粋な民主制を発展させたのは古代ギリシャのアテネだけである。この都市国家は衆愚主義に堕して自らの運命を閉じた。民主主義は信仰とは無関係である。民主主義は信仰を創造しないし、評価もしない。信仰を保持し擁護するのは君主制だけである。信仰は突き詰めると神事祭礼の演出に至る。この儀式を通じてのみ国家への帰属性が確保される。神事祭礼のないところに文化はない。もし完全に純粋な民主政治なるものが施行されたら国民は次第に愚かになり先祖の遺産としての文化を食いつぶし衆愚の果てに国家を衰滅させてしまうだろう。フェミニズムはその兆しである。帰属意識の媒体である信仰を保持し擁護する君主制の存在は必要である。民主制と君主制、この両者を円滑に連接する政治的装置はないのだろうか。答えは、君主は文化の保護者、という命題に包含されている。次章を参照されたい。
この章での内容を要約する。文化は相互共感従って集団帰属性の媒体である。文化の中核は神事祭礼にある。神事祭礼は世襲される。神事祭礼は同時に政治行為でもある。ここから君主主権と祭政一致という原則が導かれる。

エロスとしての国家(1)

2018-01-23 19:45:53 | Weblog
 エロスとしての国家
(1)「和」そして「エロス」 
国家とは人間関係の集約でありその最高の実現形態である。では国家の基礎単位である人と人の関係とは何であろうか。答は簡単、その基礎単位は「和」すなわち「仲良くすること」である。聖徳太子は政治の原理を十七条の憲法の冒頭で、和を以って尊しと為す、と言われた。一見単純な常識のように見えるが、あるいわ高邁すぎて実現不可能な理想のようにも思われるが。この言明の背後には深遠な仏教の哲理がある。太子が編纂された三教義疏の三教とは維摩経、勝まん経、法華経だ。維摩経は利他、つまり人のために尽くすことを強調する。勝まん経は如来蔵、人間の中には如来になる可能性と必然性が存在する、人間は根本的には成道していると説く。法華経は人間の救済は常に共同体の中でしか実現されないし、共同体は人間の自己実現の媒体であると教える。聖徳太子は日本人として初めて仏教を理解した人であった。
利他性、救済可能性、そして共同性という属性に通底するものはエロスでしかありえない。エロスとは愛し愛されることである。そこには愛することによる利他性、愛されることによる安心と満足、愛し愛されることによる共感可能性の実現がある。あるいわ実現の過程がある。政治とは和である、和を目指し、和を実現することである。みながみな仲良く暮らせればそれ以上のものは要らない。和をエロスととらえその意味の内包する由縁を考えてゆくと、政治行為とはエロスであり、政治あるいわ国家はエロスの最高の実現形態であるということになる。なんとならば人は共同して集団でしか生きてゆけないのだから。そして集団維持のためには合意に基づく強制力が要る。だから国家とは人間が為す営為の最高の実現形態である。
エロスを国家共同体の基礎にすえるという試みはプラトンに始まる。しかし西欧近代の政治思想の出発点は異なる。マキャベリやホッブスは人を善なるものとしてとらえず、悪意や暴力の抑制操作をもって国家形成の起動力とした。ロックは私有財産への欲求を社会の根底においた。この欲求はエロスでもある。ヘ-ゲルで更に風向きが変わる。人間の営為は神の異称である絶対精神に向かって進歩するというのだから彼の国家哲学の基音はエロスであることになる。フロイトに至ってエロスは万物の奥底に据えられ、エロスの評価はここに極まる。
人間社会あるいわ国家の起源をエロスに求める事は神話に表現されている。代表が日本の記紀神話。荒筋、アメノウズメノミコトの裸踊り、神々の哄笑、天岩戸から誘い出されるアマテラスオオミカミ、政治秩序の再現。これらの事象は性的交合から国家が生み出されたことを意味する。さらに、天孫降臨、地上に降りた神々の世界。コノハナヤサクヤヒメとトヨタマヒメの受難は婚姻秩序形成の過程を表す。これほど鮮やかにエロスと国家形成の関係を表現した神話は他にない。比較する。ユダヤ教、エデンの園で性差に気づいたアダムとイヴは即楽園を追放される。性のモラルは峻厳にして苛烈だ。キリスト教もこの倫理を受け継ぐ。ギリシャ神話、神々の始祖ウ-ラノスやクロノスは妻を強姦同然に処遇し、生まれた子供は飲み込むか地底に監禁する。ここではエロスは暴力でしかない。ユダヤ教とギリシャ神話においてもエロスは社会と国家の起源に関与するが、その様態は極めて暴力的である。そこには円滑な秩序形成の片鱗も見られない。
(2)信仰
 ところでこの和あるいわエロスの実現はいかにしてなされるのであろうか。エロスを実現する方途は二つある。恋愛と信仰である。両者は密に絡みあい相互補完的である。前者に伴いがちな逸脱と争覇を避ける方途として後者が存在する。恋愛も信仰もともに強固な共同体を作る。共同体の中で、愛し愛されること、を維持しようとする。
恋愛における共同体は二者の関係において閉じられ凝縮されている。それ以上の拡大発展はなくエロスは相互間を直線的に二方向に交錯しあう。従って恋愛において幻滅は必然である。幻滅がなければ殺害情死しか結末はない。幻滅しそして性懲りもなく恋愛を繰り返す、これが人間というものなのだ。恋愛つまり個人間のエロス的関係においても最高の実現の形として諦念と他者への自己放棄はありうる。これは既に信仰である。信仰という脱出口があるから恋愛は成立する。もちろん恋愛がなければ信仰もあり得ない、人間間の強力な牽引力なくしてなんで信仰がありえようか。繰り返す、恋愛と信仰は相互補完的関係にある。さらに繰り返す。信仰がなければ恋愛は成立しない。例証を二つだけ挙げる。日本では歌人西行法師であり欧州ではアベラ-ルとエロイ-ズだ。
エロスはその起源を母子間の絆に持つ。母子間の愛情は強固であると同時に排他的である。母子間のエロスには生存競争が伴う。エロスが万人に共有されるためにはエロスは脱生殖化されなければならない。エロスの脱生殖化された結果生じるものが信仰である。エロスを信仰という形で万人共有とするから、エロスは安定する。信仰を持つことによって人は人たりうる。信仰によってのみ人は心の平安を獲得しうる。
信仰共同体は同胞同心者獲得のために共同体を外に向かって開き拡大しようとする。信仰においてはエロスが成員相互間に横に共有され、同心者としての和が実現される。そして共有されたエロスは縦に上に一個の人格に集約される。団体のエロスを集約し保持受容する存在をカリスマという。信仰集団の最高指導者である。カリスマは尊敬されるだけでなく愛される。カリスマは愛されなければならない。カリスマはエロスの実現受容において成員全体に対して完全に平等にふるまう。各成員も同様あくまで他の成員と平等な立場でカリスマに対する。各成員が平等であるからカリスマが存在し、カリスマが存在するから成員は平等である。こうしてエロスは集合化され非生物化あるいわ非生殖化され逸脱と嫉妬争覇は回避される。くりかえすがカリスマはエロスの最終的受容体であり、エロスの最高の実現である。
信仰は国家形成の動因でありまた国家社会形成の反映でもある。
(3)君主と家族
信仰共同体はそれ自身だけでは存続できない、生き延びられない。信仰共同体は生産活動に直接関与しない。自らの存続を維持するためには信仰共同体はその組織全体を俗社会に投射しその類似物を作らなければならない。カリスマとエロス的関係全体が俗社会において再現される。こうして出現するものが俗な意味での社会、具体的には政治経済機構、発展すれば国家である。世俗社会それ自身はカリスマを作れない。世俗共同体は信仰共同体からカリスマを借りる、あるいわ模写する。信仰カリスマは君主を作る。このような経緯からして国家社会は原則として君主制である。また強調すべきことであるが、社会の成員は原則として平等であり、君主は愛されなければならない。私はこれまでの叙述で信仰共同体から世俗社会が派生したように述べたが、事実において両者は同根であり、歴史の経緯において信仰共同体と世俗共同体は併行し相互に影響を与えつつ分化したものと考えられる。未開太古の社会においては祭儀祭礼(信仰)と生産は不可分離の関係にある。
なぜ信仰共同体を作るのか、エロスによる結合のためである。なぜ世俗社会を作るのか、生産生存のためである。信仰には能率も格差もない。生産活動には所有をめぐっての能率、競争、強制そして格差がある。従って国家社会には階層と位階は必然として生じる。この階層と位階の頂点にカリスマである君主が位置する。君主は血縁によって相続される。なんとならば所有物は血縁を介してしか相続され得ないから。カリスマである君主の下に能力により配別された組織が位階階層である。同時に国家社会の成員は原則として平等である。世俗社会は信仰共同体を背景にせざるをえないのであるから。
 エロスと生産は必ず結合する。エロスなき生産は弱肉強食であり無政府と独裁を結果する。生産なきエロスは空想夢想でしかなくその延長上には餓死しかない。エロスと生産が結合した基本的単位が家族である。なんとならばエロスの原点は母子間の絆にあるのであるから。原初的母子関係を信仰と国家権力により整除し規律を与えた結果家族という機構が生じる。家族の中で、家族を介してエロスがはぐくまれ、生産活動が行われる。家族は国家社会に対して正反二様の態度を取る。家族は家父長制という形の階層の縮小形態であり、同時に国家社会の階層構造への防波堤迎撃装置でもある。
ちなみに日本では厳密な意味での家父長制は展開されていない。平安時代つまり古代末期まで続く潜在的女権優位は日本社会の特徴である。換言すれば日本では国家の基盤が形成されるまで女権が優位にあったことになる。厳格な家父長制下においてはこのようなことは起こりえない。家父長制が強固に固まると信仰の円滑な展開を妨げる。このことは古代ロ-マやシナ民族の宗教的情操とその機構をみればあきらかだろう。ロ-マにおいては諸々の宗教の雑多な混在しかありえなかったし、キリスト教が容認された時はすでに帝国の滅亡寸前であった。シナ民族の宗教は旧慣墨守と迷信以上のものにはならなかった。
 信仰共同体と国家社会は常に不即不離相互補完的関係にあり、共同かつ対立しつつ相互に監視しそして牽制する。信仰を無視して国家の機能を遂行しようとすれば、それは単なる暴力集団か無政府状態になる。国家社会なき信仰集団は統制を失い分裂し異端が続出し最後は反社会的カルトとなる。信仰共同体と国家社会は相互補完相互抑止の関係にある。
この点に関して一言。信仰者は同じ信仰を持つ限り融和的協調的である。しかし異宗派異教徒間においては極めて非妥協的でしかない。お互い自己を絶対とするから原則としてはそこに妥協はない。国家の役割には実利の調停が含まれる。宗教は国家に保護監視される事によって宗派闘争が過熱し泥沼に陥ることから逃れ得ている。宗教が国家を作ると同時に国家は宗教を作る。両者はあくまで相補相反的関係にある。
信仰と国家の相補的関係の好例は西欧のキリスト教社会と日本の仏教において典型的にみられる。西欧社会はその発生の当初古代ロ-マ帝国ですでに制度と教理をほぼ完成させたキリスト教の協力のもとでその国家を成長させた。またキリスト教も自らの存続の保証を新しく成長するゲルマン民族の国家による保護に求めた。国家と教会は相互に依存しつつ時として対立する。ローマ教皇と神聖ロ-マ皇帝との間で為された聖職叙任権闘争は信仰と国家権力間の相互補完相互牽制の典型例である。
日本では仏教伝来以来、王法仏法は車の両輪とされ仏教は国家の手厚い庇護下にあり同時に国家の監視下にあった。世界宗教である仏教により律令政府は自らを形成し維持できた。同様に政府の庇護援助により仏教は繁栄した。政府に弾圧された行基が弟子たちを率いて聖武天皇の東大寺大仏開眼供養に尽力したことは信仰と権力の典型的な対立そして協力関係である。
仏教はシナでも一定の役割を果たしている。シナ仏教が興隆した魏晋南北朝及び隋唐の国家の支配者は胡族遊牧民であった。彼らは漢族を支配し統一を維持する媒体として仏教に頼り仏教を利用した。同時に仏教は国家の保護下で繁栄した。クマラジ-バの法華経漢訳、敦煌などの石仏はその記念碑である。
 信仰共同体と国家機構は相補的関係にある。両者が共存し交差する場が家族家庭である。家族においてエロスと、それは既述した通り信仰でもある、生産は生殖により結合される。家族はエロスの培養器である。しかし一定の制限がなければならない。家族内部のエロスを放置すれば、そこに生じるものは近親相姦である。近親相姦関係にあっては財貨の所有が極めて曖昧になる。従って経済機構は消滅しその上部機構である政治行為も実行不可能になる。家族は消滅し社会も崩壊する。逆にエロスなき経済政治活動は暴力無政府独裁でしかありえない。政治経済を主宰する世俗国家にあって家族制度は不可欠である。安定したエロスの享受と安定した生産単位は家族制度によってのみ維持される。同時に家族制度は国家機構によって形成される。エロスは生産所有という事項と結びつかざるを得ないがゆえに。こうしてカリスマと一夫一妻制を基幹とする家族が連なる一定の階層構造、つまり国家が出現する。
近親相姦とは親子兄妹間の性的関係という狭義の関係のみならず、不倫売春同性婚などすべての婚姻外性関係を包括する。非血縁者間の、制度によって容認された婚姻以外の性的関係はすべて近親相姦関係とみなされる。不倫一つをとってもそれが所有関係に及ぼす影響は憶測できる。肝要な事は近親相姦とは社会にとって不可欠な前提である所有関係に甚大な悪影響を及ぼし得る性関係を意味することである。逆も言える。所有欲求があるから近親相姦は防止される。所有欲求を安定させるためには近親相姦を阻止しないといけないのだから。人類は本来対人欲求であるエロスを対物欲求すなわち所有欲へと転化させることによって近親相姦の歯止めとした。私はすべての近親相姦的関係が不可と言っているわけではない。人間である以上この敷居を超えることはある。要はこの関係が公然と容認されないことであり、また違反に対する一定の懲罰を肯定することである。なおこれらの諸行為の中で一番罪の軽いのが売買春である。
 信仰における平等と世俗においての不平等が社会存続の前提である。世俗における完全平等は不可能である。あえてそれを試みようとすれば独裁に頼るほかはない。そして完全な平等は家族制度を崩壊させる。なんとなれば家族は所有そして一度所有したらさらに所有したいという欲望を実現しようとする機構であるのだから。
完全平等を求めて独裁に至った好例は共産主義である。ソ連のソフォ-ズ・コルフォ-ズ、共産シナの人民公社や文化大革命など幾多の例証があるが、最も酷烈で典型的なものは1970年代後半におけるカンボジアのポルポト政権であろう。ポルポト政権下では単なる財貨のみならず、技術も家族もすべて否定され、国民は完全無所有完全平等な存在にさせられた。結果は人口の半分を超えるとかいう人民の大量殺害である。当然のことながら独裁は偽善を呼ぶ。
完全平等の夢想という点ではフェミニズムも同様である。フェミニズムは男女の性差という天賦の資質の差の存在を拒絶する。男女の区別を否定するフェミニズムは情愛と生殖を無関係、完全独立つまりばらばらなものとする。生殖という義務の否定はあらゆる義務の否定につながる。信仰は否定され、家族は消滅する。社会の帰属性は弛緩し人間関係は揮発し希薄で極めて不安定なものになる。最大限に人権なるものが追及され主張される。どんな我意をも押し通し得、またどんな我意をも容認しなければならない。フェミニズムは共産主義の極地極北である。
 世俗における不平等、信仰における平等、これが自己自我主体といわれるものの背景である。世俗における不平等を前提としてのみ信仰における平等、独立不羈の自意識は生じうる。平等であるから自己でありまた不平等であるからまた自己である。不平等を背景としてのみ主体である自己は明晰判明に覚知される。
この点で一番明瞭な教理を持つ宗教は仏教とキリスト教である。両宗教は無所有乞食喜捨という形で世俗的次元の自己を一度絶対的に否定しつつ、反転して信仰においては強烈な自意識を発露させる。日本においては鎌倉室町時代に民衆仏教が盛行したのと並行して経済活動は盛んになったし、キリスト教世界にあってもプロテスタントの台頭は明らかに産業を賦活した。日蓮親鸞はパスカルデカルト同様に透徹した自意識を持っていた。逆にイスラム教、ヒンヅ-教、ユダヤ教そして儒教にあっては教義が世俗社会と距離を取りえていない。その分経済社会の形成には混沌とした未分化なものが残り、紛争が絶えない。
教義が部族民族など特定の集団と密な関係を持たず、その関係を超えて成立した宗教を世界宗教という。厳密な意味での世界宗教は仏教そしてキリスト教である。仏教においては「縁起無我」、キリスト強にあっては「原罪と復活」という形で、世俗的な自己は一度徹底的に否定され、完全平等なものとなる。世界宗教のみが国家形成の基盤となりうる。世俗的自己を絶対否定しいわば叩き潰さないと、強力なカリスマは現れない。従って変容されたカリスマである君主君主制は幼弱になる。
 信仰における平等と世俗における不平等は決して完全に独立不可侵の関係にはない。世俗における不平等は信仰における平等により必ず一定の制約を受ける。信仰における平等は社会の絶対的な安定装置である。信仰における不平等を示唆する宗教の存在はその宗教とそれが属する社会の自殺を意味する。