経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

ワクチン敗戦とか

2022-05-14 20:02:32 | Weblog
ワクチン敗戦とか
 某新聞にコロナ対策で日本はワクチン開発に遅れ云々という記事が載っていた。確かに日本のワクチン製造は遅れている。ただしここで二三の疑問が生じる。率直に言ってワクチンを開発するほどの必要性があるのか? 感染率は非常に低い。死者数に至っては世界一少ない。つまり日本はコロナで大した被害にあっているようには思えないということだ。もっとも外出自粛などの愚策に伴う経済的被害などを除けての話だが。皮肉を言えば日本人は今以上に長生きするほど医学のお世話にならなければならないのか。
日本人はかなり自虐的で何事でも自己に悪い方向に悲観的に考えすぎる。円安は経済発展の好機だが多くのメディアは日本衰亡の兆しだなどと言っている。だいたいコロナ蔓延は真実なのか、さほど用心すべきことなのかとさえ思う。どこかの国のなんらかの企業の利益になるために喧伝されているのではないのか。日本では薬価は政府が決める。医療保険を護るために。米国の薬価は天井知らずだ。企業が決める。だから薬剤会社の規模と儲けは極めて大きい。アメリカでは医療においては製薬会社と保険会社と弁護士が儲かるらしい。この三者は共同して日本の医療市場を狙っている。40兆円とも50兆円とも言われる社会保険を解体し、医療を自由な経済に任せるべきだと主張している。20年前に小泉・竹中コンビで、労働市場を自由化し非常勤労働者を増やしたように。気をつけよう。日本の真の敵はUSAだということを銘記しよう。
                            2022-5-14
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日本の賃金について

2022-05-12 13:33:59 | Weblog
  日本の賃金について

 日本では賃金が上がらないと言われる。それはそうだが物価も上がらないのだからしかたがないとも言える。仮に賃金を100円上げたとする。この100円は生産物の物価を100円押し上げる。他の条件は同じとして。これを輸出する。ドル100円として米国でのこの輸出品の価格は1ドル上がる。これを50年前つまり日米経済摩擦が始まったころのレイト、ドル360円としてみよう。100円価格上昇は 100/3.6 ドル、約0.28ドルの上昇で済む。つまり国内賃上げは国際価格上昇よりはるかに高くなる。企業は比較的安心して賃上げができる。こと輸出企業に関しては。
 すべてこの調子だ。円高では物価も賃金も上がらなくなっている。わざわざ50年前のレイトをもってきたのにはわけがある。過去50年間で自国通貨高になった国は日本以外ない。少なくとも先進国では。日本と似た経済構造のドイツのかっての通貨はマルクでありだいたい1マルク90円だった。マルクがユ-ロに変わったわけだが、ユ-ロはほぼ110円と140円の値をブラブラしている。むしろドルに対しては安くなっている。今から考えると経済摩擦はお座敷用語で実態は戦争だったとも言える。米国はなりふりかまわず日本の製造業の息の根を止めようとした。しかし米国の製造業は衰退をつづけた。米国は代わる産業として小売産業(retail industry) と金融業に進んだ。簡単に言えば内外の金をかき集めてコンビニで売りまくる商売に徹した。結果としてGDPは上がり同時に貧富の差は拡大した。日本の代役がシナだ。シナは20年以上前から元を事実上のドルペッグにしている。膨大な貿易収支黒字にもかかわらず元はドル6・7元近くに終始している。日本円の高騰とはまったく違う。これでGDPの上がらない方がおかしい。既述の通りで米国は大幅な入超だ。 膨大な国際債務を抱えている。通常ならドルは基軸通貨の資格はない。ただシナという、ドルを使い続ける国があって、ドルの存在が保たれているわけだ。基軸通貨国とは他国の商品を買う能力で維持しえるものだ。米国とシナはこの作業を分担しているとは言える。極めて不安定な平衡を維持しつつだが。米国の対中接近はクリントン民主党政権にまでさかのぼる。前大統領トランプ氏になって始めて米中貿易の異常さそして知財の盗奪が言われ始めた。考えようによっては民主党政権は知財盗奪を容認していたのかも知れない。ヒラリ-クリントンの財務も大幅に遡って洗うべきだろう。  2022-3-21

「君民令和美しい国日本の歴史」
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円安は賃上げの好機だ

2022-05-12 13:27:54 | Weblog
 円安は賃上げの好機だ
 コロナかウクライナのせいかどうか知れないが円安になっている。半年前に比べて対ドル20%の下落だ。賃上げの好機だ。輸出物は20%下がる。輸出産業の経費の大部分は人件費なので20%賃上げしても輸出産業には大きな支障はない。単純に言えば20%の賃上げは可能だ。デフレ脱却の好機だ。賃上げに踏み切ろう。当然国内の購買力は増大する。税収も然り。政府、財界、労組全体で協力し賃上げをしよう。以下付加。
 円安は輸入物の価格を増大させる。しかし同時に海外に投資した企業の国内還帰は促進され。雇用は増大する。景気は良くなる。現在日本の海外投資額は2000兆円以上になっている。すべてとは言わないがその半分でも国内還帰すればいわゆるGDPなるものは激増する。
 岸田総理は中間階層の子女への教育援助をするそうだ。賛成だ。率直に言えば中間階層こそ教育(大学)の対象として率先すべきものだ。低所得層の子弟の成績は良くない。高校それも実業高校進学を補助した方がいい。大学進学率は50%でいい。ただし卒業後の社会教育は充実すべきだろう。
 ウクライナの戦争は長引きそうだ。日本は一応西側だから適当に付き合えばいい。そのうちアメリカが日本に軍事費を要請してくるだろう。30年前の湾岸戦争の時のように。ほどほどに出しておけばいい。不必要に出す必要はない。
 今回のウクライナ戦争ではっきりしたことは海戦で空母は無用の長物であることが解ったことだ。日本は潜水艦、当然主力は原子力潜水艦になるだろう。もちろんミサイル搭載の。
 シナは終わりだ。不必要としか思えない対コロナ大都市閉鎖など政変か内乱を予想させる。さっさと逃げ出すべきだ、企業はね。フィリピンでマルコスの息子が大統領になり、副大統領は現職のドウルテ氏の娘だそうな。人材の貧困さを感じる。率直言えば一程度の資本蓄積(教育、治安、特に農業の生産余剰)がないとtake off(産業革命)はできないのだ。台湾と韓国がまがりなりにも新興国家づらをしているのは日本の植民地時代に日本が基本的インフラをしてきたからだ。この着実で膨大な基礎投資なくして工業化はできない。はっきり言えば富裕な国はずっと富裕で貧乏な国はずっと貧乏だ。
 岸田総理は「新しい資本主義」を目指すそうだ。結構な話だが経済には生産と分配しか処方はないことを失念されないように。生産に傾き過ぎると貧富の差拡大に、分配を重視しすぎると、もっともっと、パンとサーカス、をよこせとなる。人間は集団化すれば恩義は忘れる。せいぜいジニ係数30前後が理想なのではないのか。
                               2022-5-19
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「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13連歌と茶会 注6

2022-03-28 17:57:05 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会  注5

(浄瑠璃説教)
 平安時代から仏法のありがたさを説法として聴衆に聴かせる習わしがありました。唱導と言います。この唱導が専門化します。その遠祖は比叡山延暦寺の澄憲(保元平治の乱で有名な人物藤原信西の子)です。彼は破戒僧侶の典型でしたがその美声と弁才ゆえに朝廷の閨房にも出入り自由でした。多分婦人たちに人気があったのでしょう。彼の子供聖覚も同様で安居院(あぐい)派を作り以後唱導は職業になって行きます。やがて唱導は寺院から独立し、放浪の遊芸民に担われる大衆芸術になって行きます。彼らはささらという楽器(打楽器それとも弦楽器?)を用いて調子を取り、一定の内容のお話を語ります。もともとが説法説教であるだけに、内容は宗教的です。内容のあらましは、まず主人公の転落と悲劇(地獄の境涯)を語り、流浪彷徨の末に、主人公は浄土往生するというものです。
いろいろなものがあったそうですが、次の五つが五説法といわれ、ささら浄瑠璃の代表です。「さんせう太夫」「小栗判官」「しんとく丸」「かるかや」「愛護の若」の五つです。ここでは五説法のトップ「さんせう太夫」を取り上げその荒筋を紹介します。なおこの主題に関しては森鴎外の「山椒大夫」があります。また放浪遊芸民と浄土往生の二つを考慮に入れますと、鎌倉中期に生まれた一遍の時宗とも関係がありそうです。初めはささらだけが楽器でしたが江戸時代に入り三味線の伴奏も用いられます。しかし近松門左衛門をはじめとする浄瑠璃が盛況になると浄瑠璃説教は落ち目になりすたれてゆいます。「さんせう太夫」の筋書きは以下の通りです。
① 奥州54群の主、岩城判官正氏は帝の怒りに触れて所領を失い、九州大宰府に配流されます。正氏の妻と安寿厨子王の姉弟それに乳母の四人は、帝に事情を説明し、正氏を赦免してもらい、併せて所領安堵の為に、磐城国伊達郡信夫庄を経ち、京への旅に出ます。そして越後国直江津にやってきます。
② そこで山岡太夫という人買いの手にかかり、母と乳母は蝦夷に(乳母は途中海に身を投げ死去)、安寿と厨子王は丹後国由良庄のさんせう大夫のもとに売られます。この太夫は多くの譜代下人を使う無慈悲と貪欲を売り物にする土地の支配者でした。
③ 太夫は二人に呼び名を付け、姉には塩汲み、弟とには柴かりを命じます。二人は慣れぬ仕事に難渋し、いつもふさぎ顔をしているので、正月を迎えるある日、縁起が悪いと言う理由から、別屋に隔離されてしまいますこの差別に不運をかこつ二人でしたがどうすることのできません。
④ やがて二人は逃亡の計画を話し合いますが、不幸にも太夫の三男で残忍非情な三郎に立ち聞きされ、焼きごてを顔に当てられます。この刑罰に満足しない大夫は二人を松の木の湯舟(大きい船)の下に閉じ込め飢え死にするように仕掛けます。大夫の次男二郎は慈悲第一の人で、密かに二人に食事をあてがい、生命を全うさせます。
⑤ 餓死を免れた二人は大夫の命令で、山へ労役にやらされます。姉の安寿は良い機会と喜んで、厨子王を山から逃がし、自分は火責め水責めの極刑にあって惨死します。厨子王は大夫の邸を逃れ、丹後の国の国分字に入り身を隠します。大夫一味は追手をかけ、国分字に乗り込みますが、住職の聖(ひじり)は日本国中の神々を勧請して大誓文をたて、厨子王はいないとはねつけます。なおも執拗な三郎の詮索にあいますが、かなやき地蔵の霊験にあって三郎たちは退散し、厨子王は無事に護られます。
⑥ 厨子王はここで一歳を聖に打ち明け、その背に負われて京都に出ます。聖は都の朱雀権現まで来て、そこで厨子王と別れて丹後にかえります。今は足腰も満足に立たない厨子王は乞食となり、都童子(わらんべ)に育まれ、土車に引かれて天王寺へ送られます。天王寺の石の鳥居にすがって足腰の立つようになった厨子王は、そこで天王寺の阿闍梨に拾われ、賤しい茶汲童子として暮らすようになります。
⑦ ある時都屈指の貴族、梅津殿が養子を求めて天王寺に現れ、百人の稚児が居並ぶ席に臨みます。そして末席に座る厨子王を見出し、満場の失笑を買いながらも、その身体を湯で清め、輝くばかりの稚児に変えてしまいます。
⑧ 梅津は厨子王を養子に迎え、厨子王はやがて帝と対面し、玉造の系図の巻物などを証拠として、もとの奥州54群の主に帰り咲きます。
⑨ 喜びのうちにも姉の安寿の死を悼み、また母の行くへを尋ねて蝦夷に行き、そこで盲目となって手足の筋を斬られ鳥追いの仕事に携わる母親を発見して喜びの対面をします。
⑩ 母を救出する一方、厨子王は復讐の思いを片時も忘れず、国分字の庭にさんせう太夫を呼び寄せて、三郎に命じて父の大夫の首を竹ののこぎりで三日三晩でひかせるという極刑でもって臨みます。不幸な死に方をした姉の安寿は後に鋳焼地蔵として現れ、衆生を利益するありがたい仏として今も信仰を集めています。
以上が「さんせう太夫」の荒筋です。他に「父親の後妻の呪詛で瀬病となった乙姫が彼を救い天王寺で元の体に還るしんとく丸」、「見初めた照手姫の親兄弟に殺され土葬されるが、物言えぬ餓鬼として蘇り照手姫の手で土車で熊野本宮に運ばれそこで蘇生する小栗判官」、「世の無常に耐えかねて法然上人のもとで出家し高野山に上り、妻子との面会を拒否する父親と会いたい子供の相克、子供が信濃の善光寺で出家してやっと父子対面がかなうあかるかや」「父親の後妻に邪恋され、断って家を追われ、最後は父親たちもろともに池に飛び込み死にそして後山王権現として蘇生する愛護の若」などがあります。

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「君民令和美しい国日本の歴史」ch13連歌と茶会 注5

2022-03-27 15:35:45 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会 注5

(御伽草子)
 室町時代は大衆文化が栄え始めた時期です。能楽と狂言、連歌、茶の湯もそうですが、おとぎ話というジャンルに総括される、一連の大衆文学が起こります。その起源は今昔物語いや日本霊異記にまで遡り、刊行は江戸時代にまで渡りますが、骨格ができたのは中世特に室町時代です。以下名称を挙げ内容を簡単に解説します。
「うたた寝草子」
 小野小町の「うたた寝に恋しき人を見てしより、夢てふものはたのみそめてき」から名前が由来します。春雨のある日、姫君がすることもなく琴を弾いています。やがてうたた寝します。夢の中になに物かが現れ歌を託します。男は姫君が歌に答えてくれなかったことを恨み、報われない恋がいかに酷い事かと訴えます。姫君は男になにか答えようとしますが、その時夜明けをつげる鶏が鳴き、男は帰らねばならないと言って消えます。なんとなく「三輪山神婚説話」に似ています。
「岩屋」
 中納言惟仲に対の屋姫という美女がいます。この姫が継母に苛められます。父親の中納言が九州へ赴任するに際し、継母は家来に姫を殺すよう言いつけます。家来は姫の美しさに魅了されて殺害できません。淡路沖の大岩に置き去りにします。姫は海人に助けられ村の岩屋にかくまわれます。航海の途中で遭難したある中将がやってき、姫を見てその美しさに心を奪われ都に連れ帰ります。
「和泉式部」
 和泉式部が男児を産み、それを捨てます。うぶ衣と和歌が書かれた小袖と鞘のない守り刀を沿えます。男児は比叡山で修行し道命という学僧になります。ある日道明は朝廷に呼ばれ法華経を講説します。その時御簾が風に吹かれて上がり美しい女房が見えます。道明はこの女房に恋します。ここの所は源氏物語若菜にそっくりです。道明はこの女房を一目で好きになります。商人に変装して柑子(こうじ、柑橘類の一種)を売りに行きます。例の女房の小女に柑子20個うり、おれに20首の和歌を沿えます。その時道明は「ふりふりして」という謎めいた言葉を残します。帝はその言葉の意味をすぐ理解します。報われない恋の意味でした。女房(式部)は心配して道明の所に行き、一夜をともにします。明けて、道明が持っていた守り刀に気づき自分が所持している鞘と一致する事を知ります。仔細を尋ねると道明は式部の子供であることが解ります。ギリシャ神話のオイデプスとイオカステの母子相姦とそっくりなお話です。
「三人法師」
 三の僧が会しそれぞれ自分の因果を語り合います。まず足利尊氏の家来糟谷某はある美しい女房を見初め恋煩いに陥ります。心配した尊氏が仔細を尋ね知ると、家臣に命じてこの女房の恋人の夫を殺させます。糟谷の思いは遂げられました。ある日ある女房が路上で盗人に襲われ殺されたというニュ-スを糟谷は知ります。殺されたのは糟谷が愛していた女房でした。糟谷は出家します。
 この話を聴いていたもう一人の僧(荒五郎)はその下手人は私だと言い出します。金に困り妻にせきたてられて殺し衣服金品を奪ったと言います。聞いていた糟谷の顔色が変わります。荒五郎の妻はそれでも満足せず,死体から髪を切り取って鬘に結います。荒五郎はその酷さ・浅ましさにぞっとして出家します。荒五郎はしゅっけいます。
「酒呑童子」
 源頼光が大江山にいて毎夜人をさらう酒呑童子一味を退治するはなしです。頼光一同は山伏に身を変え大江山に行き、酒呑童子にもてなされます。その時人間の女の体が酒肴に出されます。酒は人間の血です。盛んに飲食いして童子や鬼たちを油断させ夜中に起き上がって童子たちを殺します。
「小敦盛」
 一の谷の戦で死んだ敦盛の子は源氏の追及を恐れて捨てられ法然上人に育てられます。法然の弟子の一人が敦盛を打ち取った熊谷直実です。父親恋しさに小敦盛は病気になります。夢のお告げで、生田の森を尋ねよとあり、小敦盛は出かけます。一人の貴族が小さな神社で行をしています。彼に誰かと尋ねられ、敦盛の子だと答えます。その貴族は激しく泣き出します。彼は敦盛でした。敦盛は小敦盛を抱き寄せ、弱った体を解放し、仔細を話し、戦士ゆえの業・地獄の責苦を語ります。小敦盛は敦盛の膝で寝てしまいます。小敦盛が眠りから覚めた時、そこにあるのは人骨でした。
「横笛」
 滝口という武者が横笛なる建礼門院の女房に恋します。滝口は父親に反対されます。滝口は出家します。滝口が住む寺に横笛は出かけます。しかし滝口は網戸を隔てでないと面会しません。横笛は入水します。滝口は亡骸を荼毘に付し、弔い高野山に昇り修行します。この話は「滝口入道」として現代小説化されています。
「文正草子」
 鹿島神宮の宮司に仕えていた文太は宮司から解雇されます。文太は塩焼きの見習いになります。商売は大繁盛し文太は塩焼きの大企業家になります。名前も文正と変えます。しかし文正には子供がいません。鹿島大神宮に願かけすると40歳の妻に二人の娘が生まれます。二人とも美人で、一人は関白の子供と結ばれ、もう一人は女御として宮廷に上がります。文正自身も大納言になります。
「猿源氏草子」
 鰯売りが商売に第施行して都一の美女を仕留めるというお話。
 他に「鶴の恩返し」「花坂爺さん」「鼠地蔵」などがあります。また人口に膾炙したところでは「義経記」「曽我物語」「百合若大臣」などがあり、桃太郎・金太郎・一寸法師もこの範疇に入ります。

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「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13連歌と茶会 注3

2022-03-26 15:50:50 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会 注3

(能楽)
 中世の文化・芸術の領域で能楽を抜くことはできません。ここでは私の意見を中心にのべます。能楽の大成者である世阿弥の主著に「風姿花伝」があります。平明に見えますが言わんとする事は深甚です。しかし彼の言説は未だ表面を掻きまわしているようで隔靴搔痒の感があり、もの足りません。そこで私なりに「風姿花伝」の内容に介入してみます。能楽は猿楽から発展しました。猿楽は田楽と並んで当時の農村の芸能でした。その祖先を尋ねれば呪術的原始芸能に行き着き、また中国渡来の雅楽などの影響もあるでしょう。この猿楽を筋のある芝居にしたのが、観阿弥です。彼の子供が世阿弥です。
 世阿弥が「風姿花伝」の中で言わんとする主題は「幽玄」です。「幽玄」はまた「花」です。彼は「花」とえらい弱弱しい事を言いますが、彼が修行する後輩に求めるものは「能」であり「工夫」であり、敵に(この場合商売敵にでしょう)勝つことです。極めて攻撃的です。演ずる内容と演じる態度の間にはものすごい違いがあります。
 この違いは演じる内容そのものにも露骨に反映されます。彼は「幽玄、花」を、強く輝かしいものと弱くしおれたるものの対比、対立、共存に求めます。そして「幽玄」は陰陽・顕冥の対立とその時間における、時間を介しての止揚だとします。彼の文章を抜粋します。
① 「申楽も、人の心にメズラシキと知る所、すなわちオモシロキ心なり、花とオモシロキとメズラシキとこれ心は同じ心成り。いずれか花は散らで残るべき。散るゆえによりて、咲くことあればおもしろきなり。
② 「色見えで移ろふものは世の中の、人の心の花にぞありける」
③ 「心地含諸種、普雨悉皆萌、頓悟花情已、菩提果自成」
④ 「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」
 世阿弥の言説に必ずしも一貫性があるとは思えません。①の「面白い、珍しい」は外面です。「花」は内面です。その二つが共存する事が肝要と彼は言います。②で時の移ろいつまり時間の経過が花・幽玄だと言います。③は禅宗六代慧能の詩句(ゲと言います)です。外面(日常の行為)と内面(悟り)は本来同一であるとします。④は「花は秘密」ということで本来派手に賞でるべきものが秘密、というのですから、「花」は事実でありまたそうでもないという逆説つまり「幽玄」ということになります。
 彼の真意は「花が咲き、移ろいしおれる」それが「幽玄」だと要約されます。
 そこまでなら単なる観念でありその表現は役者個々人の能力と工夫に委ねられるだけです。そこで彼は彼の言う「幽玄」を表現するために、新たな能楽の様式を創造しました。それが「複式夢幻能」です。場面は二つ設定されます。現在と過去です。まず現在が語られます。というより現在の時点で過去が語られます。まずワキ(脇役)が登場します。ある場所でそこに過去起こった事を説明します。そして菩提を弔いやがてそこで眠りにつきます。ワキの夢の中に語られた人物が出てきます。語られた人物(シテ・主役、まあ亡霊でしょうな)が現れ過去の出来事・心境を現在の時点で語ります(告白します)。シテの語りとそれに応じるワキのやり取りが劇の主題であり見せ場です。ここで語る事(現在)と語られる事(過去)は同一になります。やがてワキは眠りから覚めシテは消えてゆきます。ワキは多くの場合諸国一見の僧侶(つまり放浪の人だから通常の人ではなく人間一般を表します)であります。これが「複式夢幻能」の形です。実際は能楽を見ないといけないのですが、次にこの様式の能の代表である「井筒」を簡単に紹介しましょう。世阿弥は心してシテを平安文学や平家物語に取りました。
 「井筒」ではまずワキの僧侶が現れます。場所を設定する出だしのコ-ラスがまことに枯淡寂静です。
「さなきだに物の淋しき秋の夜の、人目稀なる古寺の、庭の秋風更け過ぎて、月も傾く軒端の草、忘れて過ぎし古(いにしえ)を、忍ぶ顔にていつまでか、待つことなくてながらえん、げに何事も思い出の、人には残る世の中かな」
 この出だしの文句は場面設定であり、また主人公シテの独白でもあります。シテとワキのやり取りが始まります。シテは紀有常の娘です。シテはかっての恋人である在原業平との恋の成り行きを語ります。恋の語りとは大体慕情、怨恨、懺悔に決まっています。そういう事が語られますが、この紀有常の娘と業平の関係は伊勢物語に語られています。それは知り合いの童男童女が思春期に入り、相互に恋に目覚めて、お互い愛を告白しあう情景です。
 男「筒井筒、井筒にかけし、麻呂がたけ、伸びにけらしな、妹見ざるまに」
 女「比べこし、振り分け髪は、肩過ぎぬ、君ならでして、だれかあぐべき」
 この若い男女の恋愛歌贈答が「陽」です。翻ってその昔が語られる「秋風の吹く人目も稀な古寺」が「陰」です。二つの情景の落差対立とそれを繋ぐものすなわち「夢、菩提、語り」が「幽玄」です。
 ちなみに伊勢物語のこの場面は能楽のみならず、以後の小説にも取り入れられ反復されています。樋口一葉の「たけくらべ」や泉鏡花の「婦系図」などです。
 ここで取り上げられた「井筒の恋」は恋愛そのものです。恋愛とは過去への回帰であり、現在への突出でもあります。ただしそこには常に狂気と怨恨が伴います。世阿弥はそれを「物狂い」や「修羅物」として材料にしています。修羅物では「敦盛」「実盛」「忠度」など平家物語から多くの材料が取られています。繁栄を極めた平氏が西海に滅ぶのですから、様相の対比と時間の推移という点では平家物語は宝庫でしょう。
 世阿弥は1363年ころ生まれ父親観阿弥の英才教育を受けます。非常な美童だったようで「藤若」という名で足利義満の寵愛を受けます。つまり義満の寵童・同性愛者でした。世阿弥の成功は義満の保護にもよります。義満死後新しい将軍義持(父親義満と仲が悪かった)には退けられ越後に配流されます。死去は1443年ころと推定されます。世阿弥の作と伝えられる能楽は一時180以上にもなりましたが、段々専門家の考証が進み現在では30前後です。
 能楽は詞章と音曲と舞で成り立ちます。つまり語って歌って踊って演じます。このような歌台詞踊を同時に一人でこなす演劇は世界で能楽が初めてです。
 能楽の先祖である猿楽は農村の座の芸術でした。初め室町将軍ごひいきでも将軍と庶民は同じ場所で観劇しました。将軍は一段高い座席におり、庶民は芝に直に座ったので、「芝居」という言葉が発生しました。後江戸時代には、朝廷の雅楽に対抗して武家の式楽となります。そのころから新たな庶民演劇「歌舞伎」が始まります。

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見ちゃあいられないロシアの戦闘下手

2022-03-25 22:24:14 | Weblog
見ちゃあいられないロシア軍の戦闘下手

ロシアがウクライナに侵入してすでに一か月になる。新聞の記事を見るとロシア軍は北西南の三方から攻め込んでいる。実に下手な戦略だ。北方に軍隊を集結し一気にウクライナの首都キエフを攻略すべきだった。ベラル-シの南端からキエフまで100キロしかない。しかも地形は平原だ。首都を落とせば戦機は決まる。他の地域はあとでゆっくり攻略すればいいのだ。ウクライナの国境線は南・東。北で1600キロにわたる。そこへ高々20万人に兵士をぶち込めば攻撃力は極めて薄いものになる。ロシアには戦略家はいないのか。またロシア軍は戦車や大砲・ミサイル・爆撃に頼り過ぎている。勝敗のけじめは歩兵に依る占拠で決まる。歩兵が首都キエフに入り政府官庁を占領したらウクライナはおしまいなのだ。ロシア軍(旧ソ連、旧帝政も含めて)は兵力の多寡にこだわり過ぎる。日露戦争でロシア軍の司令官クロポトキンは兵力を温存集結しようとして戦略的後退を重ねているうちにロシア国内で革命(第一)が起こってしまった。その轍を今回も踏むのか。1942年の日本軍のシンガポ-ル攻略を参考にしたらどうか。と思う。私は別にロシアやプ-チン氏に同情しているのではない。もっともロシアは外交は得意だ。舌が何枚あるか解らないからな。
                          2022-3-25
「君民令和 美しい国日本の歴史」
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「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会 注2

2022-03-25 16:06:47 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会 注2

(千利休)
 茶道と言えばその大成者としてはやはり千利休が挙げられます。茶道の事を説明したいのですが、何分芸術の領域のこととて文字で解説するのは難しい限りです。彼の目指したものが「侘び茶」と言っても解るようで解りません。芸術とはそう思えば芸術になる極めて主観的な何物かですから。
 利休は1522年(推定)、堺の納屋衆千与兵衛の子として生まれました。幼名は与四郎です。納屋衆の中では中クラスの地位で魚問屋をしていたとも言われます。今でも堺の魚市は有名です。なお利休の先祖が足利義政の同朋衆であったという説もあります。同朋衆とは将軍側近で芸術関係の事を取り扱う職務です。堺は細川氏によって繁栄させられました。細川氏が大内氏に対抗して外国貿易をしようとした時、尼崎を根拠地とする大内氏に対して堺を外港としました。時は戦国時代です。諸大名が争う中、ほどほどに細川氏の庇護に頼りつつ堺は次第に自治権を獲得して行きます。その原因の最たるものは外国との貿易による富の蓄積です。こうして堺は尼崎そして博多と並ぶ自由都市に変貌します。この堺を牛耳っていたのが10人とも36人とも言われる納屋衆です。応仁の乱の戦禍を避けて多くの公卿僧侶文化人が堺に移住します。武士も同様です。自治権を持つ堺はその点で一番安全な場所でした。こうして堺は多くの職種の混在する自治都市、経済都市そして文化都市になります。村田珠光により革新された茶の湯「侘び茶」も堺にやって来ます。
 茶は嵯峨天皇の頃から一部では飲まれていました。多分それは奈良時代まで遡れるでしょう。宋ではもっぱら禅院で茶が飲まれました。禅院の喫茶と優良な茶種を日本に招来したのが臨済僧栄西です。以後飲茶は主として禅院で盛んになります。やがて民間にも普及します。禅院茶と並んで盛んになったのが闘茶です。賞品を賭けて茶の銘柄を当てる遊びです。闘茶は唐物を絶賛しました。派手な成金趣味です。村田珠光の「侘び茶」もなお唐物崇拝の風を持っていました。珠光の改革はまず、飲茶の場所を禅院のような広い場所から四畳半の狭い畳の部屋に移した事です。次に彼は茶会に出席する人数を少なくしました。せいぜい10名内外です。こうして珠光は茶会を和合団欒の芸術に変貌させます。珠光の弟子の一人が武野紹鴎です。紹鴎は珠光の改革を押し勧めます。唐物も重視しますが、信楽焼などの和物も使います。利休は珠光・紹鴎によってなされた革新をさらに推し進めたと言えましょう。極めて単純に言えば、後の利休と秀吉の対立は、和風の侘び茶重視か唐物(器物)重視かにあると言えます。利休は紹鴎の直系の弟子ではありません。こうして茶の湯は堺で隆盛を極めます。考えてみると茶の湯とは外面だけを見ていると習得しやすい芸術です。決められた規矩作法を護っていれば最低限の事はでき恰好はつきます。
 利休は30歳半ばですでに堺の茶人として名を成していました。茶名は「宗易」です。1568年織田信長が将軍足利義昭を擁して京都に入ります。堺には20000貫の矢銭が課されました。拒否か承諾かで堺の議論が割れる中、今井宗久が信長と取引し和睦(臣従と言っていい)します。宗久は信長から1200石の領地を与えられます。堺は信長の軍勢の軍需工場としても栄えます。信長は茶の湯の習得に務めました。公家や将軍に対する文化的劣等感を克服する必要があります。この点では茶の湯は格好の代物でした。確かに芸術ではありますから。次に公卿僧侶商人武将家臣などとの談合の場として飲茶は最適です。和合団欒の場です。もっと和合団欒の中には政治上の駆け引き・取引あるいは陰謀の類も含まれます。第三に家臣の統制です。信長は多くの名器を買い上げあるいは取り上げ収集します。それを家臣に褒美として与えます。また信長の許しを得ないと、家臣は勝手に茶の湯を主宰する事は許されません。
こうして千宗易は津田宗及、今井宗久とともに信長昵懇の町衆となり、やがて信長の茶頭に取り立てられます。この間羽柴秀吉とも知り合います。
 1582年本能寺の変、そして山崎の戦、秀吉は天下人へと駆け上がります。千宗易はやがて秀吉の茶頭になります。秀吉及び彼の重臣たちが主催する茶の湯の司会指導采配はすべて宗易に任されます。1585年豊臣秀吉は禁裏に参内し小御所で茶会を催し正親町天皇に献上します。この時宗易は「利休」という称号を許され賜ります。これは禅門における道号授与です。こうして宗易は秀吉の茶頭筆頭、天下一の茶人と認められるようになります。時に利休64歳です。秀吉は天下人の常として、多くの名器を収集しました。秀吉は有名な黄金の茶室を作ります。利休は秀吉のこの趣向に反発したと言われますが、利休の茶道はそれほど単純ではありません。侘び茶を奉じる一方、道具茶にも関心を持ち続けます。利休の性格は複雑です。この点では秀吉も同様で単純な道具集めにのみ狂奔するほど単純な人間ではありません。
 利休は秀吉の側近になります。利休の秀吉に対する関係は複雑です。一介の側近でもありません。精神的指導者とも言いかねます。佞臣ではありません。あえて言えば同好の士・友人であり、同じ性向と資質を共有するライヴァルでした。この同じ資質とは、道具茶と侘び茶、つまり実利と幽玄という、相反する傾向の並立共在です。利休も秀吉もかかる矛盾を精神の内に多量に持っていたようです。それが利休の悲劇的死に通じます。私は「悲劇」と言いましたが、ある意味では「大往生」かも知れません。ともかく利休は死ぬまでの6年間秀吉政権内で大変権力(秀吉への影響力)を持っていました。大友宗麟が上坂して秀吉に拝謁した時のもようを国に送った手紙に「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(豊臣秀長)存じ候」とか「宗易ならでは関白様に申し上げる人これなし」と書いています。秀長は豊臣政権のNO2で兄秀吉の信頼篤い人物でした。利休は秀吉から預かった名器を勝手に自分が主催する茶会で使ったこともあります。恩寵に狎れた行為だとも言えましょう。また秀吉の小田原攻めに遅着して秀吉の機嫌をそこねた伊達正宗を秀吉に取り持っています。奥州の大大名の生死帰趨を決めるのですから大変な実力者でもあります。1590年豊臣秀長死去、これは利休の権力にとっては大打撃でした。1591年秀吉利休を追放、利休堺へ、10数日後切腹。利休の木造が磔になります。利休の死は小田原開城、奥州制覇をした、つまり天下統一を果たした1990年9月から僅か4か月後でした。この間利休は豊臣政権内の諸将と頻繁に茶会を催しています。
 利休の切腹命令がなぜ出たのかは解らない部分が多くあります。表面上の理由は、利休が大徳寺の山門を修理しその楼上に自分の木像を置いた事が、勅使が通る頭の上に云々で僭上の極みだということです。また利休は茶道具を作りそれを高額で売っていたとも言われています。これが賄賂に当たるとも語られました。利休は侘び茶で和風好みですから、作った和製茶器を、高い唐物なみの値段を付けたのかも知れません。この値段は利休の権威により保証されます。芸術品に正確な価格はありません。好む人・値打ちを知る人次第です。利休が金銭に無関心でなかったことは確かです。また利休の娘(後家でした〉を秀吉の妾に差し出すようにと言う命令に逆らったからだとも言われます。ただしこの時代この種の行為は普通でした。蒲生氏郷、前田利家、京極高次などは娘や姉妹を秀吉の側室に入れています。
もう一つ考えられるのは秀吉政権の性格の変化です。検知刀狩り以後、政権は軍事中心から行政中心に移行します。文治派の官僚が台頭してきます。利休の役割は終わったのかも知れません。ここで石田三成が悪役として登場しますが確かな事は解りません。やはり考えられるのは秀吉と利休の性格それも芸術家としての資質の衝突でしょう。幸か不幸か二人は同様の資質を持ち、相魅かれ相反発する関係にあったようです。近年秀吉の歌人としてのまた茶人としての資質が評価されています。秀吉にとって利休は殺したいくらいに妬ましくまた殺したいほど好きであったようです。それが友情と言うものです。
利休は多分死なないでもすんだかも知れません。秀吉は利休が詫びと赦免を乞うてくるのをまっていたようです。大政所(秀吉の母親)や北政所(秀吉の妻、通称寧々)のとりなしもあり得、そうするように助言する人も多くいました。しかし利休は慫慂として切腹します。最後の言葉は「人生七十、力囲希トツ、吾コノ宝剣、祖仏共殺、ひっさぐる我得具足の一つ太刀、今この時ぞ天になげうつ」です。
利休の弟子は沢山います。豊臣秀吉秀長兄弟、古田織部、織田有楽、細川三斎、荒木村重、桑山重治晴、蒲生氏郷などなどです。利休の孫の代に表千家、裏千家、武者小路千家他が出て今日にいたっております。
(追記)現在日本に貴族という階層はありません。もちろん皇室を除いてですが。例外は二家あります。親鸞由来の両本願寺と裏表の千家です。
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「君民令和美しい国日本の歴史」 ch13 連歌と茶会 注1

2022-03-24 15:56:53 | Weblog
「君民令和美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会 注1

(応仁の乱)
 連歌と茶道という民衆芸術は、応仁の乱を画期として盛んになっていますからまず、応仁の乱の簡単な説明から始めます。乱の社会的背景から考えてみましょう。この乱は治承寿永の争乱から関ヶ原の戦までに至る社会変化、「緩慢なる下剋上」の激しい端的な現れです。その意味で鎌倉幕府内部で起こった多くの陰謀内紛、南北朝の戦乱の延長上にあると言えます。足利幕府の治世の大半は何らかの意味で内乱状態です。足利義満が約20年に渡り安定した施政を敷いたのはほんの過渡期であるといえます。戦乱情況の中の小島小康期です。彼が日本国王を名乗り帝位簒奪を試みたのも、不安定な政権を維持する一つの手段であったかも知れません。尊氏は建武新制後2年にして幕府を開きました。南北朝間の戦が始まります。その間に観応の擾乱という激しい戦闘が7年間続きます。これは幕府内部での守旧派と革新派(あえて言えば悪党派)の間の争乱です。南北朝間そして幕府内部の争乱は続きます。幼少の義満も京都に置いておけず、父親義詮が管領細川頼之に義満の保護養育を依頼し、義満は青年期まで播磨で育てられました。
大内・山名の強力守護大名を圧伏して義満政権は成立します。しかし足利幕府の政権は基本的に畿内周辺の有力守護大名の連合政権でした。それを端的に表す言葉が「三管四職(さんかんししき)」です。三管領とは管領職(将軍の下のトップ)を細川・斯波・畠山の家が交代で継承する事です。四職は侍所長官(だから武門の総括者になります)を山名・赤松・京極・一色の四家で適当に世襲する制度です。関東東北は関東公方とか関東管領を置いて幕府中央からは間接の統治になります。九州はほぼ地元の守護の自治に任せられました。
ですから政権内部は基本的に不安定要因に満ち満ちていたのです。加えて守護大名の足元も安定していません。大名の下に地元の豪族が勢力を伸ばし被官として大名の下に入ります。その中で有力なのが守護代です。彼ら被官は大名の家臣とは言えません。この被官の下に在地の名主が成長してきます。被官層も名主の支配には苦労します。端的な例を言えば後世天下人になる信長・秀吉・家康の三人は被官か名主の出身です。こういう矛盾が一気に噴き出したのが応仁の乱です。
乱の下地は充分ありました。義満の死(1408年〉の8年後関東では上杉禅秀の乱が起こります。関東公方に対し関東管領である禅秀が背いた事件です。1438年永享の乱が起こります。関東公方足利持氏と関東管領上杉憲実の争いです。持氏は追われ関東以北の地は関東管領の支配になります。この管領家も二つに分裂し争闘しやがて北条早雲に乗っ取られます。1441年六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されます。満祐は本国播磨に帰って反旗を翻します。この事件を嘉吉の乱と言います。ここで特記すべきことは二つあります。将軍が殺された事に対して幕閣は毅然として対処できず、朝廷から赤松氏討伐の綸旨をもらったことです。以後幕府は綸旨に頼り続けます。もう一つ、殺された義教はくじで選ばれた事です。父親の四代将軍義持は、どうせ大名間の意向で将軍職は決まるのだからとして、将軍の選択を有力守護大名の衆議に一任しました。くじで選ばれた六代将軍義教は将軍の権威を取り戻すために、極めて高圧的な政策を実施しました。高圧的とは守護大名の任命配置を将軍の一存でし、大名の権限を削ぐことです。ですから嘉吉の乱は起きるべくして起きたともいえます。満祐でなくとも誰かが義教を殺したでしょう。時の狂歌は「鎌倉も京にも事の起き果てて、公方に事を欠きつ元年」と揶揄しました。こういう背景のもとで応仁の乱(1467-1478年)が勃発します。
乱の経過は非常にややこしく入り組んでいて何度読んでも覚えきれません。しかし乱の直接のきっかけが将軍家と斯波・畠山両氏の家督継承問題にある事は確かです。畠山氏では庶子義就と養子政長が対立します。双方の側に被官などの有力者がつきます。斯波氏も同様でした。八代将軍義政には子がありません。そこで弟の義視を養子として将軍後継にします。ところが御台所の富子に子供、義尚が生まれます。義視の後見者は管領細川勝元でした。富子は勝元の政敵山名宗全に近づきます。ところで勝元は宗前の娘を養女として正室にしているのですからで驚きです。こうして細川・山野両氏に各大名がそれぞれの思惑で味方します。1467年京都の御霊神社で両畠山氏の軍勢がぶっつかり戦端が開かれます。後は両軍に各地の大名や被官が駆けつけて参戦します。彼らとしては参戦して恩賞に預かろうとします。また参戦しないと裏切り者みなされます。両軍合わせて20万人の兵が参戦しました。20万の兵が10年滞在すると兵糧はどうなるのでしょうか。
戦争は激しく行われましたが決着はつきません。激しかったのですがこれという有名な戦闘はありません。壇ノ浦とか関ケ原とかという名場面は一切ありません。将軍義政は中立つまり傍観する態度に徹します。さらに入り組んだ事情で義視は勝元から宗全に乗り換えます。敵と味方が混交します。よく10年間戦ったと思いますが、諸大名も厭戦気分に駆られ本国に引き上げ始めます。軍の統制は皆無でした。この戦いで活躍したのが足軽。です。彼らは近くの農村から駆り集められました。簡単な武装で機動力に富み有能です。彼らの副業は略奪でした。公卿の館は略奪の対象になります。バリケ-ドや簡単な砦を作るために近くの家を壊して材料にします。彼らは工兵でもありました。公卿寺院朝廷から苦情が出ましたが、両軍とも彼らを使わないと負けるので使用を中止はできません。
諸大名の引き上げの理由は、いつまでも参戦していると地元が危ないからです。それでなくても戦費は自己負担つまり地元の被官・名主・農民の負担になります。戦争は戦争を呼び、下層は上層になろうとし、また各階層内部でも争います。戦乱は全国に広がります。応仁の乱に参加した大名家で江戸時代まで生き残ったのは一家もありません。守護大名は被官を核としてル-ズな広域支配を行っていました。地域支配の方法が変わってきます。一群くらいの規模の支配者(被官、黒人、国衆、豪族)が在地の名主以下の階層をしっかり把握し家臣団に組み入れます。彼らが相互に戦い合併吸収同盟を繰り返してできたのが戦国大名です。武田、北条、上杉、島津、伊達、毛利、長曾我部、浅井、朝倉などという面々です。結局守護大名は応仁の乱に参戦する事で自らの地位を没落させました。なお応仁の乱後まもなく加賀の一向一揆と山城国一揆が起こっています。
乱の直接の結果はどうなったでしょうか。勝元も宗全も乱の途中死にます。九代将軍は富子の産んだ義尚が継ぎます。義視は関東へ亡命します。しかし以後の将軍は義尚と義視の両系統から出て混乱します。以後の将軍で京都で安楽に死んだ人はいません。義政は遊興に明け暮れます。飢饉で死者累々の中平気で花見に出かける義政を、時の後花園天皇は「満都の紅緑たがためにか映える」と風諫しました。義政夫人富子は金融業で大儲けをします。
京都は完全な焼け野が原になりました。「都は野辺の夕ひばり、上がるを見ても落つる涙は」と歌われました。普通の国ならこれで都はおしまいなのですが、日本の京都では戦乱直後から日蓮門徒を中心に急速に復旧されました。街の形も性格も変わります。現在の街並である「両側町」ができ、京都は政治都市から商工業都市へと変貌してゆきます。足利将軍家が以後百年持ったのはこの京都及び周辺の生産性の高い領域を押さえたからでもあります。
(注)
 これまで「被官」という言葉が多用されてきましたが、「被官」とは上級領主に下属するものです。実態は在地の有力者です。ですから被官、国衆、国侍、土豪はほぼ同じ存在です。地侍も同様でしょう。

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「君民令和 美しい国日本の歴史」 ch12 一揆・宮座・悪党 注6 

2022-03-23 12:54:18 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」 ch12 一揆・宮座・悪党 注6

(悪党列伝1 源義経)
 源義経こと九郎判官は日本史上の有名人でありヒ-ロ-です。彼の宣伝媒体である平家物語、源平盛衰記特に義経記などには真偽とりまぜたお話が溢れています。彼が源義朝の子であり頼朝の弟だったことは確かですが、他のことは安易に信じる事はできません。義経が奥州から頼朝の陣にはせ参じたのか、畿内でゲリラ戦をいていたのか、はたまた奥州と畿内を往復していたのかは解りません。奥州と畿内を往復していたかも知れません。海運を用いれば往復はそう難しくはありません。
彼の戦法は独特です。伝統の騎射戦など一切せず少数の騎兵を率いて機動力を駆使します。全く革新的です。そして彼の戦法にはほとんど必ず詐術が含まれています。その典型例が一の谷の戦です。彼そして彼を使う後白河法皇は一の谷の砦に立てこもる平氏を、一時休戦と言って偽り、虚を突いて急襲し勝を収めました。この点では義経と後白河院は好一対です。頼朝としては一の谷・屋島の戦いなど平家との全面衝突はしたくなかったとも思われます。義経は総帥頼朝の命令を無視して戦を挑みました。また壇ノ浦では船頭漕ぎ手を射るのは反則という海戦の常識を無視して大勝利を収めています。やり口は全く悪党的です。
 更に摂津大物浦から出発し九州を目指した彼の船が、難破してから奥州平泉の藤原秀衡のもとで保護されるまでの、約4年間の足取りは全く解りません。頼朝の追捕にも関わらず義経は逃れ続けます。畿内の貴族や大寺院更にその配下の悪党と連絡を取り巧妙に動いていたのでしょう。4年間逃げ回っていただけとは考えられません。討幕作戦を密かにたくらんでいたかも知れません。貴族朝廷院寺院にも幕府内部にもつては沢山あります。義経追捕の記事は「東鑑」には一切記載されてはいません。この本は当然のことですが幕府に都合のいいことは書きません。だから何か都合の悪いことがあってもおかしくはありません。4年間の逃亡とは異常です。頼朝が「今床の下からでも飛び出しかねない奴」と言って義経を恐れた気持ちは解ります。頼朝にとっては奥州の果てに逃げてくれた方が安心でした。関係者一同で暗黙の了解があったとも考えられます。義経死後40年たって執権北条泰時の言葉に初めて「悪党」という言葉が登場します。義経は悪党第一号です。
(悪党列伝2 楠正成)
 楠正成は後醍醐天皇の股肱の忠臣のように言われています。そういう面はあるにはあるのですが彼正成はれっきとした「悪党」です。彼の出自は判然としません。正規の御家人でない事は確かです。一時は当時の被差別民部落集団のボスが領主化したとも言われました。この説は完全には否定できません。また駿河国の得宗被官(ですから御家人ではありますはな)が河内に移住しそこで悪党化したとも言われています。悪党の定義が既述のように曖昧模糊としていて無限の広がりを持っていますからどうとでも言えます。
彼の悪党ぶりは千早赤坂城の興亡でいかんなく示されます。1331年元弘の変で後醍醐天皇は隠岐へ流されます。同時に赤坂城で挙兵した正成は一時地下に潜ります。1333年正成は再び千早赤坂で挙兵します。攻防は1年に及び正成は100万と号する幕府の大軍の総攻撃に耐え抜きます。この時正成が取った戦闘方法は、南河内の地形を利用したゲリラ戦法です。千早赤坂の地は低い山と丘陵が連なり大軍を集結できません。要所々々に砦を構え軽歩兵に槍薙刀や弓を持たせて戦います。正成の兵は地理を知り尽くしているので神出鬼没で地形を利用して迅速に移動し、戦います。幕府軍は伝統的な重装騎兵が主力ですから正成の戦法に翻弄されます。また千早赤坂は西方には開けていますが、東方は葛城金剛山系が連なり天然の防壁を為しています。南方も同様で高野山に連なります。北方は淀川大和川が摂津平野に流れ込み水路は網のように入り組んでいます。海は現在より山に迫っていました。これも天然の防壁ですが、正成にとっては補給経路になり、また幕府軍の補給を攻撃する要衝ともなりました。正成は土地の農民や小名主を抱き込み幕府に対してゲリラ戦を展開します。正成にとっては海と河川が入り組み、葦や草が生い茂る一帯は絶好の隠れ家になりました。かって米軍を追い払ったヴェトコンと同じです。正成には補給の心配はなかったと思われます。大和側からでも海からでも補給は可能です。また正成は水軍を使った可能性さえあります。こうして戦う事約一年の間に諸国で反幕の群が続々と現れます。その代表の一人が次項で述べる赤松円心です。後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に迎えられ京都に進軍し六波羅は陥落します。この間鎌倉から派遣された軍の大将軍の一人足利高氏が幕府に反旗を翻しやがて幕府は滅亡します。千早赤坂城蜂起から幕府滅亡まで一年と経っていません。
 正成は湊川の戦いで戦死しますがこの時の戦法は千早赤坂の時のそれと真逆で全く無意味な戦です。正成は天皇に尊氏と和睦するか、戦うなら都に尊氏の軍を引き入れて補給を遮断し戦う事を進言しました。北は叡山が南は正成が補給を断ち切れるのでこの作戦は非常に有効でした。事実正成死後の半年間事態はそのように進みます。湊川の戦は一種の自殺です。正成は尊氏から誘いを受けているので少なくとも中立は保てます。情勢を見て有利な方につけばいいのです。それが悪党というものです。後醍醐天皇の建武新政が全くの失敗であり、武士の大多数は尊氏についた事を正成は知り尽くしているのです。正成の子正行も四条畷で自殺的な戦いをしています。千早赤坂と湊川は全く対照的な戦です。不思議でもあります。まあ湊川で討ち死にしなければ「ああ、忠臣楠氏の墓」などという石碑はなく、湊川神社もあり得ないでしょうが。
(付)正成の妹が伊勢の某に嫁ぎできた子供が能楽の創始者観阿弥らしいという文書もあります。能楽は賎民の業だと言われました。ここから正成の出自を被差別賎民とする説が出たようです。賎民の立場から天皇の親衛隊隊長に抜擢され感激して天皇の為に自殺的戦闘を行ったとも考えられます。

一揆、宮座、悪党(7)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(悪党列伝3 赤松円心)
 同じ悪党でも赤松円心の履歴は比較的よく解っています。それは赤松家が後、室町政権の幹部になったからです。円心(則村)は1279年播磨佐用で生まれました。佐用は播磨の西端にあり低い山と丘陵がまじりあう山間の小盆地です。赤松家は先祖が小土豪の家であったと推測されます。赤松家はその先祖を村上天皇の子供具平親王としていますが怪しいものです。一応系図はあります。赤松家が歴史に登場するのは後醍醐天皇の元弘の変からです。1333年円心は楠正成に少し遅れて大塔宮の令旨を奉じて、鎌倉幕府に対して旗を挙げました。周囲を固めて東進し摂津尼崎から京都を目指します。兵力の中心は歩兵でした。六波羅探題にとって一番煩わしいのはこの赤松軍でした。赤松円心も楠正成と同様ゲリラ的な戦法を行います。赤松と楠の間にはすでに通牒交流関係があったとみなせます。楠正成は城に立てこもってもっぱら防衛戦に徹したのに対し、赤松円心は積極的に京都侵入を試みます。六波羅勢は円心の軍を何度も退けますが、円心は後退しまた復活して攻め込みます。問題は尼崎から大阪を経て堺に至る海浜と淀川河口を赤松勢が封鎖したことです。この措置で六波羅の幕府軍は兵糧に苦しみ所属する兵は脱落して行きます。後醍醐天皇が隠岐から帰り名和長年を先導として山陰から東進し、それに円心が共同し、足利尊氏が叛旗を翻した時、京都六波羅への天皇方の総攻撃が行われます。円心の兵力の中心は歩兵でした。彼は歩兵に弓を持たせます。この兵力は農村のあぶれ者や野盗が中心でした。地上から射る弓は騎馬武者の弓より正確で強く、この弓兵は関東方の脅威の的になります。鎌倉から派遣された軍の総大将は名越高家(北条氏の庶流の筆頭家)と足利高氏でした。名越高家は緒戦で赤松勢の佐用憲家にあっさり射殺されます。それまでに尊氏は天皇に内通していたのでしょうが、尊氏をして最後の決心をさせたものは同僚の名越高家の戦死にあります。こうして六波羅は陥落し、また鎌倉も新田義貞に滅ぼされます。巷間ではこれらの戦いで一族から一番多く戦死者を出したのは赤松氏であると言われました。
 ですが戦後の恩賞では円心は報われません。高々播磨の守護に任命されただけです。建武新制では守護の上に国司がいます。楠正成が河内和泉両国の国司(守)に任命されたのとは大違いです。その上一年後には播磨守護職も取り上げられ本領のみを安堵されます。円心は故郷の佐用に引きこもります。円心がここまで冷遇されたのは大塔宮護良親王の事件があったからだと言われます。円心の子供律師則祐は護良親王の側近であり親王が潜伏して活動中ずっと親王に仕えた豪傑です。
(付)大塔宮護良親王の事件は解らない事だらけです。護良親王は畿内諸国の豪族悪党を駆使しゲリラ戦法で幕府軍を苦しめました、また自分で令旨を出し反幕府決起を呼びかけます。幕府討滅の最大の功労者であったと言えます。親王は尊氏と対立します。また父親である後醍醐天皇とも対立したようです。戦功が戦功ですから親王は多分帝位を望んだのでしょう。功績ある一族臣下が警戒される事は当然です。ここで天皇の妃の一人阿野廉子が絡みます。廉子は自分が産んだ恒良親王(後の後村上天皇)の即位を望み暗躍したようです。廉子は賄賂をとって恩賞授与に干渉した女性です。こういうややこしい関係の中護良親王は逮捕され、どういう密約があったのか尊氏の本拠地鎌倉に送られ幽閉されます。後殺されます。
 そういう事情で円心は尊氏が後醍醐天皇に背いた時躊躇なく尊氏につきます。尊氏が京都で負けて九州へ行く時、播磨室の津で諸大将の協議に円心は参加しています。会議が開かれた場所から推して円心が主催した可能性は高いようです。円心は白旗城築き抵抗の拠点にします。新田義貞はこの城に執着して3か月包囲します。円心の子供則祐は九州に下り尊氏の決起を促します。この間急速に勢力を回復した尊氏は東進し湊川の戦で天皇方を破りやがて京都を占領し幕府を開きます。その後南朝北朝間の戦いの真っただ中、1349年観応の擾乱が起こります。これは尊氏と高師直に対し尊氏の弟直義が対立した戦争で7年間近く続きます。円心はこの乱では尊氏方に組みします。乱の際中1350年円心は死去します。観応の擾乱は尊氏方の勝利に終わります。
 円心の後継者は則祐です。赤松氏はのち幕府で要職を閉めます。三管四職の一角を閉め畿内有力守護の連合政権である幕府の重鎮の一人になります。則祐の孫満祐が六代将軍足利義教を殺し(嘉吉の変)討伐を受けた赤松氏の宗家は滅びます。
 円心と正成の生き方を比較してください。円心の方が悪党です。
(付)赤松氏は領内で鉱業を営んでいたとも言われます。佐用から当時の海港、室の津までの距離は20キロくらいです。
(悪党列伝4 日蓮)
 最初に断っておきます。私は法華一乗の立場に立ち、日蓮を世界の宗教家の中で第一の思想家として尊敬しています。また私の「悪党」概念は既述の通りで「悪党」という存在にはかなりの好感をもっています。そういう前提で「悪党日蓮」を語ります。日蓮の思想に関しては次次章で説明します。ですからここでは日蓮の行動スタイルだけ述べます。まず日蓮の布教スタイルが独特です。それまで民間で菩薩業を行い、布教した僧侶はたくさんいました。日蓮もその一人ですが、彼の布教はまるで街頭演説であり扇動です。彼の思想の特徴の一つはその政治性にあります。布教には必ず政治批判が伴います。いや政治批判の方が多いかも知れません。北条時宗に「立証安国論」を奉呈したのもその一例です。法華経の中に極めて鋭利で峻厳な政治行動の展開の必要性否むしろ必然性が説かれています。だから政治扇動は当然でしょう。日蓮はこの論旨を法華経の中からくみ取り行動に移しただけです。政治扇動は一揆と通底します。
 次に日蓮は刀杖の使用もためらいません。小松原で東條景信に襲撃された時、日蓮一行も武器をもって応酬しました。死傷者も出しています。そもそもこの襲撃事件の背後には、信心の問題のみならず、日蓮が敬慕(?)する領家の尼の土地をめぐる訴訟事件に、日蓮が積極的に関与したからでもあります。景信は当地の地頭ですし、日蓮の出自は荘官クラスと推定されますから、これは御家人と非御家人の争いとも取れます。この襲撃事件で日蓮一党は武器をもって戦います。
 更に鎌倉市内で他宗を排撃し、他宗と対立し、争乱になります。幕府が日蓮の宿所に踏み込んだ時日蓮一党は武器を所持していました。そこで日蓮は、武器を持っていて何が悪い、と答えます。
 また日蓮は叡山の天台宗出自です。天台僧徒は幕府が一番来てほしくない連中でした。既述のように叡山は悪僧の巣窟であり、また金融業の本拠地でもあり、素朴な幕府御家人はその食い物にされていました。日蓮はその一党同類とみなされました。事実そうでしょう。
 日蓮の人生後半における大事件には熱原(あたはら)事件があります。幕府内部の婦人たちが背景にあるようですが、ある荘園の農民が逮捕されました。事件の本音は日蓮の教えの排撃です。ここで日蓮は訴訟指揮を行います。日蓮が直接指揮し、法廷での弁明の仕方、下手に答えてあるいは相手を非難して揚げ足を取られない事、日蓮の教えは正しいと論じつくすことなどなどを詳細に具体的に指示します。法廷闘争に極めて熟達していたようです。この事件は結局日蓮側の勝訴に終わります。
 日蓮はいろいろ予言しています。重要なのは「自界反逆難」と「他国侵ピツ難」です。幕府の内部から反逆者が出る事と、他国(モンゴル)が来襲することです。そしてこの予言はすべて当たりました。前者に関しては、日蓮が幕府内部の矛盾、執権政治から得宗専制への移行、をしっかり見ていた事、後者に関しては最新の情報を持っていたらしい事が挙げられます。日蓮は天台宗徒です。叡山畿内で10年以上過ごしました。叡山は商業金融の本拠地です。金の流れを追えば情報も伝わります。彼の予言はこのような世俗生活への強い関心があったが故でしょう。
 日蓮の弟子にあてた書簡が面白いのです。まず弟子や檀家から来る喜捨特に飲食には極めて過大な礼状を書いています。読んでいてこちらが唾をのみ込むくらいの文章です。特に酒の贈り物には歓喜歓喜です。彼は酒好きでした。
 また女性の門徒に対する褒め言葉も絶品です。現在問題になっているセクハラに近い文言もあります。
 日蓮は悪党です。

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