経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  小栗忠順

2021-05-07 21:11:48 | Weblog
経済人列伝  小栗忠順

 小栗忠順(ただまさ)は幕末を舞台とするドラマでは必ず出てくる人物です。鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜が新政府軍へ恭順・無抵抗の態度を取るに際して、これに強硬に反対し、慶喜から罷免され、非業の最期をとげます。忠順、官は上野介、幕府の役職は勘定奉行で通っていますが、特に後者の方は、彼の直言壁のためかなり転々としています。また同様の理由で彼の出世は彼の才能と家格から考えると、遅いようです。
 忠順は1827年家禄2500石の旗本の子として生誕しました。上級の幕臣です。勝海舟のような微禄軽輩の出自ではありません。安積艮斎に師事し漢学の素養を深める一方、男谷精一郎に直心影流の剣法を習っています。後年の俊敏な幕府官僚としての彼からはやや想像しにくいのですが、武道の修練は充分でした。上級幕臣の子として、御使番や書院番をつとめています。
 忠順が歴史に登場するのは1859年、33歳、目付に任命された時です。同時に日米修好通商条約批准のための使節の一人になりました。正使新見正興、副使村垣範正、目付小栗忠順が使節の正式メンバ-です。彼らはアメリカ軍艦ポ-ハタン号に乗り込み、パナマに上陸し鉄道で地峡を横断し、ワシントンに至ります。一方日本人だけで操縦する咸臨丸が随行し、この乗員はサンフランシスコで待機し、やがて太平洋を渡って帰ります。使節達はアメリカの軍艦で大西洋を超え、喜望峰を廻って、地球を一周する形で帰国します。
 アメリカ滞在中日本の使節一行は私費をはたいてアメリカの製品を買いまくりました。同地の新聞はこれを報道し、やがて彼らは製造技術をまねて逆に製品を続々アメリカに輸出してくるだろう、と書いています。事実その通りになりました。
 忠順に関しては逸話があります。日米間の重要懸案事項の一つが、両国の貨幣の交換比率をいくらにするかでした。協議中忠順は、換算率は含有される金銀の量に基づく、と主張し、米高官の面前で、天秤を取り出し重さを量り、象牙でできた小さい算盤でぱちぱちと計算しだします。論理の適格さと、俊敏さに米人はびっくりします。
 忠順は徹底した開国論者でした。だから彼は欧米から学ぶものはどんどん学び、取り入れようとしました。彼の短い生涯で行った先駆的経済政策はかなりあります。まず横須賀製鉄所の建設です。外国船の修理工場が当時の日本にはありません。修理工場の建設から、造船所そして、材料の鉄を造る製鉄所へとプランは進んで行きます。完成したのは幕府が瓦解し、忠順もすでにこの世にいない、新政府の時代になってからです。忠順はフランス公使ロッシュと協同し、仏人ウェルニ-を上海から呼び寄せ、製鉄所を造ります。フランス人技術者は45名、日本人労働者は12000名でした。他の外国は小さい植民地ができたようなものと噂していました。新政府もこの造船所建設を継承します。明治9年に国産第一号の軍艦「清輝」が造られました。造船所の性能は向上し、日清戦争に参加した「橋立」そして明治43年には20000トンの戦艦「河内」が建造されます。
 造船所の建設の方針は非常に近代的なものでした。例えばラインとスタッフ部門の確立と部長課長という名称の採用による命令系統の確立、職務分掌規定の作成、作業時間・休日・休憩時間と作業時間・昇進昇級制度をはっきりと決めた近代的雇用システム、社内教育体制、そして洋式簿記制度の採用などがあります。簿記は複式簿記であるのみならず、工業簿記です。当時世界でも稀な原価計算もされていました。
 こうして造船所が建設された横須賀は軍港として発展します。日露戦争でバルティック艦隊を壊滅させた連合艦隊司令長官東郷平八郎は、小栗忠順のおかげで勝てたと、忠順を顕彰する談話を行っています。
 もめにもめた兵庫港が開港になります。その時忠順は株式会社制度を提唱しています。兵庫商社構想です。外国商人は大資本、国内の商人は小資本のためどうしても買い叩かれてしまいます。忠順はパナマ鉄道で大陸を横断した時、米人に建設費用はどのくらい(700万ドル)、資金調達はどのようにして、と詳しく聞きます。この時の知識を土台にして、商社構想をまとめます。鴻池、加島屋、平野屋など大阪の大商人20名くらいに資本を出させて、商社を経営させ、内外の物品を売りさばき、内地業者を保護すると共に、利益は株主に還元する、という制度です。
 さらに忠順の上申書によると、この商社に100万両の金札発行を許可し、それを幕府に融通させ、開港の資金にあて、3年後関税収入を100万両と見込み云々という構想を抱いています。彼は紙幣発行論者でした。
 また信濃(長野県)の豪商高井コウ山は忠順の思想に感銘し、同じ構想で船会社を設立しようとしました。
 忠順が残した事業に築地ホテルの建設があります。忠順は欧米訪問の際、当地のホテルに泊まります。そこの近代的でハイカラな設備に一驚して帰国します。彼は江戸湾頭の築地に外国人も泊まれるホテルの建築を思いつきます。幕府財政難のおり、土地は幕府が無料で提供するが、後は民間資本でなんとかと考えます。神田新石町に大工清水組の棟梁で喜助(二代目)という人物がいました。彼が忠順の公募に応じます。結局金主兼保証人である鹿島清兵衛と吉池泰助は各1000両、喜助は500両出資し、一株100両で株主を集めます。総工費は30000両と見込まれました。配当は一年で1株100両だったといいますから、この配当率は現在の常識からみればむちゃくちゃです。しかし結構応募はあったようです。1867年完成します。敷地面積20000平米、建物の総面積5300平米、部屋数102、水洗トイレ、シャワ-、バ-、ビリヤ-ドを備えていました。日本最初の洋式ホテルです。経営はあまり順調ではなかったようです。当時外国人は商用他をほとんど横浜ですませ、東京まで出てくる必要がなかったからです。やがて火事で焼亡しました。この清水組から、現在の清水建設が発展しています。
 忠順はフランスと組んで日仏組合商会を作ります。フランスから600万ドル借款し、それを幕府の制度改革と軍備にあてようとしました。商会はそのための貿易機構です。この借款には従来から北海道が担保に入っていると言われて来ましたが、それは事実無根のようです。フランスと幕府の関係に嫉妬したイギリスの悪宣伝だったようです。忠順は軍備のみならず、幕府の行政改革も大胆に押し進めます。彼の最終構想は、将軍を大統領とする郡県制にありました。
 小栗忠順は徹底した開国論者であり、行政改革遂行者であり、近代制度の導入者であり、長州征討の積極論者でした。そして徳川将軍家の復権を念願していました。15代将軍慶喜に徹底抗戦を主張して免職になり、領地である上州(群馬県)権田に移り、そこで農業に専念します。1868年、新政府軍の東山道方面軍に捕らえられ、有無を言わさず斬首されます。この方面軍の指揮官は板垣退助、そして揮下の主力は土佐藩士でした。土佐藩士特に脱藩藩士はいろいろな理由で幕府から弾圧され、幕府には恨みを持っていました。罷免まで幕府を実質的に動かしてきた忠順への報復です。明治維新の回転は世界史に稀なほど流血の少ない革命ですが、幕臣で2名の人物が新政府軍により非合法に殺害されています。小栗忠順と近藤勇です。彼らは確かに新政府側から見れば反対勢力ですが、彼らの行為はすべて幕府機構の中で行われたものです。そのトップである徳川慶喜が恭順し許されたのですから、二人も無罪のはずです。小栗忠順の最後が非業の死であるというのはそういうわけです。なお忠順と並ぶ幕末の能吏、川路聖謨は新政府軍の江戸入城の時、ピストル自殺をしています。共に最後の幕臣です。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行  

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  武士道の考察(51)

2021-05-07 18:49:08 | Weblog
 武士道の考察(51)

(徳川家では)
 徳川氏も毛利氏と似たようなものです。氏素性は毛利氏よりもはるかに怪しい。家康の十数代前、どこかから流れてきた坊さんが村の有力者である松平家の入り婿となり、その子孫が家康の家系を構成するとかいうお話です。どう良くても先祖は村落名主クラスです。この家計が家康の代までに分流して十八松平と称する小領主群になります。本家が家康の岡崎松平です。松平氏は後に徳川と改姓しますが、この家の特徴は家臣団による徹底した合議制です。家康は信長や秀吉のように勝手に決めることはありません。酒井、榊原、井伊、本多、大久保、鳥居、石川、内藤そして松平一族が主なところです。これらの家々もそれぞれ分流を持ちます。みんな衆議に参加します。領地拡大にともない新しく参加してきた家臣も衆議に加わります。徳川家とはそういう家です。三方が原でも長篠でも関ケ原の戦でも家康は家臣に相談します。家康の指導力はともかくとして、形だけでも彼は衆議にかけます。
 だからこの家からは、殿のためを思って頑固に換言する名物男がよく出ます。本多重次(作左衛門)、平岩親吉、大久保忠教(彦左衛門)など徳川が誇る三河軍団の根性を焼きこめたような男たちです。本多忠勝(平八郎)は徳川四天王の筆頭で徳川軍団の中核を為す武弁派でした。家康は後に謀臣本多正信を信頼し、何事も彼の意見を聴くようになります。この正信を忠勝は人の面前で、はらわたに腐ったやつ、とののしります。忠勝の言うことの正否はともかくとして、主君寵愛の近臣を面罵しても一向にかまわない、というのがこの家のならいです。家康は学者に貞観政要とか東鑑を読ませて政治の参考にしました。両書とも和漢の政治の要諦を書いた本です。唐の太宗李世民と源頼朝の事績に習ったわけです。信長や秀吉ならこんな事はまずしません。
 徳川幕府の制度を庄屋仕立てと言います。庄屋さんが村を取り仕切ると同じように政治を行う、という意味です。事実その通りです。幕府の老中と若年寄は郷村の老衆と中老に相当します。村の年寄り・経験者が村の事項を決めるように、幕府の機構もそうなっているのです。簡潔すぎて大丈夫かなと思いますが、これで世界史でもまれな300年の平和な時代を作り出しました。平和が一番です。平和を作り出す制度には特記すべき優秀さがあります。徳川家はそういう家柄です。衆議性には裏があります。衆議がうまく行かないと、暴力に走る場合もあります。家康の祖父清康と父親の広忠はともに20歳代で家臣に殺されました。清康はやりすぎたきらいがあり、広忠は指導力不足だったようです。ひょっとすると衆道(同性愛)がからんでいたのかもしれません。
(多胡辰敬教訓状 戦国の家訓)
 戦国時代、中國出雲の大名尼子氏に仕えた国人領主多胡辰敬(たこときたか)が一族にあてた家訓を残しています。次のように要約されます。
 他人に迷惑をかけるな 日常の小事をおろそかにするな 
  (武士社会での対人関係の維持と日々の仕事課題の確実な遂行を奨励します)
 子供と従者の教育
 礼儀作法と身だしなみ
 一般教養の重視 特に歌道 さらに連歌、蹴鞠、舞、華道
 手習学問と算法
 (この種の知識がないと日常でも戦場でも合理的な行動ができないと書かれています)
 主従は雇用関係
 (と作者は割り切ります 御恩と奉公の原点に戻ればそういうことになります)
 食事の重視
 (食は三宝と言います 感謝して頂きなさいとという意味もありますが、健康に留意して奉公にさしつかえないようにと作者は言いたいようです)
 武芸に関しては弓馬と兵法に関して簡単に触れているだけです これらの事項は実践だから言葉で書いても無意味なのでしょう
 武士に期待されたのはまず日常の課題を営々と務める事でした。すでにこの時期武士はサラリ-マン化しています。
(命捧げます/命頂きます 集団による死の保証)
 郷村を武士層が基盤とする限り、「一揆と座」つまり衆議と和合の精神が武士層に影響を与えたことは明らかです。では一揆は農村が起源なのでしょうか。逆も言えます。武士という身分が出現したから、郷村が発達し、一味同心という心情倫理が出現したのだとも言えます。武士は富裕農民が武装してできました。土地所有は半合法的ですから、彼らは戦って自己防衛し、所有をより確実なものとするため、保護を上級貴族や武家の棟梁に求めます。命の次に大事なのが財産です。だから彼らは財産の保護安堵を、命捧げます、という条項こみの軍役奉仕と交換します。命捧げます、の誓いは相手が契約に反した場合、命頂きます、の反対条項を暗黙裡に含みます。こんな物騒な契約は双方とも単独個々人ではできません。必然的に集団の盟約になります。集団で契約履行を保証します。死を媒介とする契約は集団を介してのみ可能です。集団により「死の意味」を保証し、死を媒介として集団の結束は強化されます。武士たちがおのれの生存に真剣であるかぎりそうならざるをえません。だから武士団の形成、そして「御恩と奉公」の契約自体が一揆あるいわ一味同心です。武士層に潜在する心情倫理が「下克上」の運動に乗って社会的に拡散した時、郷村を形成する活力になったと、とも考えられます。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

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経済人列伝  出光佐三

2021-05-07 00:34:34 | Weblog
経済人列伝   出光佐三

 出光佐三は出光石油の創始者です。と言ってしまえばそれまでですが、多くの企業創始者がそれなりの逸話を持ち、それなりの特徴を持つ以上に、彼は個性的で奇抜な自己主張の強い、時として反抗的な商法を駆使して、企業を創設しました。彼の商法の特徴は、彼の人格と同様、理想と信念の固持、言い出したら聞かない強情さ、徹底した統制嫌い、そして楽観性とそれに会い呼応するような運の強さ、です。彼の挑戦的な人生は幾多の危機に遭遇します。しかしだめかと思うところでは運命の女神は彼に微笑みます。
 佐三は明治18年(1886年)福岡県宗像の赤間町(現宗像市)に生まれています。同地には宗像神社があります。宗像神社は裏伊勢と呼ばれる、一大大社で、天照大神から生まれた三神を祭ります。北は韓半島、西は中国、そして東は関門海峡を挟んで、畿内地方に通じる、交通の要衝にあり、海上交通の守り神として九州のみならず全国に渡って尊崇されました。従ってか、宗像地方の人は、神の子という意識が強く、自尊心と自立心に富む、と言われています。佐三はその典型です。彼の経営を彩る多分に観念的なところは、この宗像の神子、という意識と無関係ではありません。家業は藍デン屋です。阿波などから藍玉を買ってきて、それで布地を染める、染色業者の大手でした。佐三は長男に生まれます。生来病弱でした。しかし気は強かった。幼年時、ころんで草の葉で瞳を傷つけ、終生視力は弱いままで過ごします。小学校、高等小学校の成績はまずまず、父親の意向に反して、進学を望み、福岡商業学校に入ります。視力が弱いため、多読に耐えられず、逆に、自分の頭で考えること、をモット-とします。この学校は気に入らなかったようです。卒業旅行の約束を学校が一方的に没にしたのに抗議して、3年生はストを行います。結局一部の生徒による独断旅行になりました。その首謀者が佐三です。理想と反抗、まことに栴檀は双葉より芳しです。
 21歳神戸に出て、神戸高等商業学校(現神戸大学)に入学します。ここで内地廉吉から、商人は生産者と消費者の関係を安定させ媒介する者、と教わります。これは佐三の終生の指針になります。卒論は、石炭と石油の燃料としての可否優劣について、です。佐三は石油に軍配をあげました。そして彼は次第に石油関係の仕事に魅かれてゆきます。彼は、石炭は51年でその埋蔵量が尽きる、と結論を出しています。51年後の昭和35年、石炭から石油に燃料の重点が推移する危機として、有名な三井三池の石炭争議が起こります。佐三の予言が当たったようでなにやら薄気味悪くなります。始め当時飛ぶ鳥を落とす勢いにあった鈴木商店に応募しますが、結果がなかなか来ません。腹を立てた佐三は酒井商店という零細企業に勤めます。鈴木商店から採用の通知がきますが、一蹴します。鈴木商店に関しては、後に金子直吉の列伝で取り上げるでしょう。酒井商店は小麦と機械油を扱っていました。父親の家業が傾いた事を知った、佐三は独立した事業を起こす事を決心します。しかし資金がありません。悩んでいる時、同級生の日田重太郎が6000円の資金融通を申し出ます。貸すのではありません。勝手に使ってくれと、というわけです。今まで私は60名以上の経済人の列伝を書いてきましたが、こんな事は始めてです。かなり有名になり、その将来が嘱望された時に、有利な融資を受ける事はありますが、若干24歳の、海のものとも山のものとも知れない、若造に現在で言えば5000万円から1億円に昇る金を、気前よく出す、それも同級生とは、この話が真実だとすれば、佐三はよほど良い星の下に生まれてきた事になります。
 27歳門司で出光商会を創始します。機械油、諸種の機械の部品間に摩擦を少なくするために塗る油、の販売を始めます。彼の仕事の最大の特徴は、機械油を一律機械的にするのではなく、販売先の機械の状況に合わせて、三種類の油を調合する点にあります。現在では3種類どころではないのですが、当時彼のような販売法をする人間は皆無でした。しかしなかなか得意先がつかめません。一時商売を辞めようかとも、思います。秋田県に商用で行ったとき、港にあった漁船に眼をつけます。当時漁船は帆船から焼玉エンジンに変りつつありました。門司の、海を挟んだ眼と鼻の先に下関港があります。ここは漁船の一大集結地です。佐三は売り込みます。努力の甲斐があって、ある大手の漁業会社の売り込みに成功しますが、すぐ同業者からの圧力を受けます。佐三の商法の方が優れているのですが、漁業会社も大手の石油販売会社の圧力にはかないません。こういう時大手の会社はカルテルに近い同盟を結び、新規の参入者を阻止しようとします。佐三はその裏をかきます。海上でなら規約には抵触しません。小船に乗って、会場で漁船に油を売ります。同業者は佐三を海賊と呼びました。彼らから見れば佐三は、既成の縄張りを荒らす獅子身中の虫でした。佐三の人生は、既成の業界への挑戦の連続になります。既成業者はすべて外国石油会社の傘下にありますから、佐三は終生外国石油会社(外油)に挑戦し続けたことになります。この間世界大戦で油の値段が上がります。しかし佐三は暴利をむさぼらず、仕入価格に適正な利潤を上乗せするのみで油を販売します。これで出光は信用を獲得しました。
 大正3年(1914年)大戦のさ中、佐三は満州に進出します。日本内地では関税による保護がありました。満州ではありません。外油とじかに対決することになります。満鉄所有の車両の軸に塗る油をみて、外油を言うがままに使っていればやがて車軸が焼けると、佐三は予言します。関係者は一笑に付します。ある年、例年にない寒波がやってきました。満州の寒さは内地の比ではありません。満鉄の車両に事故が続出し、輸送に重大な支障がでます。満鉄から門司の出光商会に電報がきました。事故多発、すぐ来い、と。こうして出光は満州に進出し、販売網を広げます。この時点、そして終戦までの出光の仕事は、石油の販売のみでした。
佐三は独特の商法を繰り広げます。社員に徹底的に権限委譲をしました。融資のみならず、不動産の購入も現地の支店長の独断でできました。出勤簿もありません。社員個々人の自覚に任せます。多くの販売店を作り、その運営は現地に任せます。これを、大地域小売主義と佐三は言いました。これで社業は盛んになりますが、このやり方では当然大きな在庫を抱えます。その資金繰りに佐三は苦労しました。また佐三は株式経営を嫌いました。利益は、内部留保、社員の俸給、顧客への還元と三等分するのだと佐三は主張します。昭和15年株式会社組織にしましたが、非公開を貫きます。(現在は上場)
 昭和10年出光は上海に進出します。外地である上海では、外油の支配が徹底していました。どうして販売するか、倉庫を建てるに際して妨害が入ります。陸軍に頼んでかろうじて倉庫建設の地を確保します。割り込んできた新規参入者が営業する時、大資本である外油は新規業者の販売地のみに限定して、販売価格を下げます。こうして新規業者の資本が尽き、撤退すると値段を元に戻します。佐三はこの隙を突きます。ある地で販売を始める、外油がそこで廉売を開始すると、出光はすぐ他の地に移り、販売開始、というやり方です。外油もそうそう各地で廉売はできません。こうして出光は鉄鎖の一部を食いちぎります。出光の販売は消費者に歓迎されます。上海のみならず、奥地の武漢や重慶でも出光の商品が転売されてゆきました。
 ここで外油、外国石油会社に関して若干の説明をいたしましょう。19世紀末頃から内燃機関が発展し、その燃料である石油は多くの土地で掘り出されました。一番輸出用の石油が出た地が中近東です。そしてこの地の石油の発掘と販売は主としてアングロサクソンを中心とする10内外の資本により、独占されました。彼らは相互に同盟を結んで、利権を護ります。生産地では安く買い叩き、消費地では高く売ります。スタンダ-ド、カルラックス、シェル、ユニオンなどが代表です。彼らをメジャ-と呼びます。日本政府は太平洋戦争に敗北するまで、このメジャ-の(裏取引の)存在を知らなかったそうです。このメジャ-の一つが、戦後出光が挑戦するアングロイラニアン石油会社(AI)です。ちなみにアングロサクソン、つまり英米両国の強みは、石油と金融資本(というより操作)と情報の独占でした。この傾向は現在でも強く残っています。もう一つ彼らが世界制覇の武器にするものが、英語という国際語です。第二次大戦前において科学論文に使われる言語は英語とドイツ語が半々を占めました。私(中本)が専門とする精神医学や心理学ではむしろドイツ語が英語を圧倒していました。大戦後、つまりドイツの敗北後、アングロサクソンは着実にドイツ語の国際的地位を剥奪したといわれています。ドイツ憎しで、協力したフランス語の運命も同様の結果をたどります。
 出光に帰りましょう。戦争に備えて政府は各種産業の統制を始めます。政府の主導で石油連盟ができます。こういう時、割り込み屋であり秩序破壊者である出光は必ず、締め出される運命に遭遇します。佐三はこの統制に猛烈に反対します。当時彼は多額納税者で貴族院議員でもありました。そして第二次大戦勃発。出光は南方(東南アジア)に進出した軍隊や企業に石油を配給し管理する仕事を積極的に引き受けます。後に社長になる石田正実を団長として、97名の出光社員がこの仕事に従事しました。なにしろ危険な仕事なので他の会社は引き受けたがらなかったのです。内27名が戦病死しました。
 昭和20年終戦。どこの企業も同じで食うや食わずやです。出光の社員は約1000名でしたが、佐三は1名も解雇するなと指示し、その方針を履行します。しかし社員に食わせなければなりません。まず佐三所有の書画骨董を売ります。農場経営、醤油生産、定置魚網の製造、印刷業などなんでもしました。特にラジオの修理では助かりました。海軍が作った石油タンクの底油のかき出しをします。かなり危険な作業なので誰も手を出しません。この仕事で出光はGHQの信用を得ます。
 GHQと出光の関係はかなり複雑ですので割愛します。ただ元陸軍諜報将校でGHQに雇われていた手島治雄という人物は重要です。彼の情報のおかげで、商工省の作った販売業者指定要綱で、排除されかけた出光は、なんとか国内の石油元売業者の地位を獲得します。戦前は大規模とはいえ単なる小売業者でした。当時日本の石油はメジャ-から原油で輸入し、それを精製して国内で販売していました。佐三は石油製品つまりガソリンや重油を海外から輸入する事を試みます。メジャ-の独占を破り、販売価格を下げるためです。そのために佐三は18500トンという当時最大のタンカ-を建造しようとします。通産省の異議を廃し、強引に事を進めます。このタンカ-をアメリカに送り、メジャ-の網をくぐって、独立系の石油会社の製品を買い込み日本に持ち帰ります。かって門司で漁船に海上で機械油を売っていた事と同じ流儀です。また上海でメジャ-の眼をくぐって、ゲリラ的に石油を販売したのとも同じ手法です。出光の得意はこのゲリラ戦法にあります。巨大タンカ-は第二日章丸、別称アポロと名づけられました。当時のタンカ-は大型と言ってもせいぜい12000トンが限度でした。出光の巨大タンカ-建設は以後も続きます。
 佐三のメジャ-への挑戦はさらにエスカレイトします。別に彼がメジャ-を眼の仇にしたのでもないでしょうが、彼の事業が伸びてゆくためには、国際石油資本であるメジャ-との衝突は避けられません。私が知る範囲では、メジャ-に挑戦した男は佐三とアラビア石油の山下太郎です。
 昭和27年(1952年)あるイラン人を佐三は紹介されます。イランの石油を買ってほしいと頼まれます。当時中東の石油はそのほとんどがメジャ-の支配下にありました。イランの石油はアングロイラニアン石油会社(AI)の支配下に置かれ、その搾取はひどいものでした。他の中近東諸国や他のメジャ-と比べても、AIの商法はむき出しの略奪に近いものでした。反発した民衆は革命を起こし、モサデク首相の元に団結します。AIおよびその背後にいるイギリス政府はイランの石油の販売を封鎖でもって禁圧します。この禁圧を破る者はAIのみならず、メジャ-全体の報復を覚悟しなければなりません。最初佐三は、時期尚早として、慎重に構えていました。朝鮮動乱で石油の需要は増えます。いろいろ情報を集めた佐三は覚悟を決めます。弟計助と手島治雄を極秘裏にイランに派遣します。モサデク首相と二人は会談しますが、相手はこちらの意図を信じきれず、交渉は宙ぶらりんになります。煮え切らない交渉の末、出光はイランの石油の売買計画を契約します。石油輸送に始めは、直営の日章丸は使うつもりはありませんでした。イギリス海軍に拿捕されれ、下手をすれば没収される可能性があります。そうなると出光の商売は行きづまります。しかし最初石油を運搬してくれるはずの飯野海運は途中で契約をほごにします。佐三の決断で虎の子の日章丸が運搬に投じられます。インド洋からペルシャ湾に入り、湾の奥に位置するアバダンまで20000トン近い巨大な船を送ります。砂の多い河を遡ってアバダンに着き歓迎されます。石油を積んだタンカ-が河底に当たって座礁しないように注意して河を降ります。座礁すれば英軍に拿捕されます。ペルシャ湾に出た時、船長が一番警戒したのは、機雷を前方にまかれることでした。イギリスならやりかねません。帰路はマラッカ海峡を避けて東シナ海に入ります。帰路ここまで日章丸は無電を封止していました。安全域に入り、詳報を本社に打ちます。ここでわざと徳山入港と、示し合わせていたのでしょう、偽情報を流し、船は土佐沖を東進します。この時日本の新聞社の飛行機そして英軍航空機に発見されます。ここで佐三は奇策を考えます。わざと船の速度を落として、土日の週末川崎港に入るように指示します。入港と同時にAIから作業差し止めの告訴がなされますが、その執行は月曜日を待たなければなりません。その間に陸揚げを完了します。AIの提訴は裁判所に持ち越されます。結果は出光に有利な判決になります。出光の行為により、石油産出国であるイランと消費国である日本は共に救われました。以後メジャ-の網の目から解放された(一部)石油の値段は下がり始めます。偶然かそうではないのか、この頃から英国の衰退は速度を増します。
 佐三の仕事は続きます。昭和32年徳山に巨大製油所建設、35年ソ連のバク-油田からの石油輸入、などです。出光はいつも既成秩序に挑戦する割り込み屋なので、同業者の妨害は続きます。昭和37年恩人日田重太郎死去。37年87歳、悪化した眼の手術。この時は最新の技術を用いた手術でしたが、失明か回復か、一かばちかの勝負でした。勝負は吉と出て、佐三は視力の一部を回復します。看護婦の白衣の白さが、今まで見た以上に白くて感動的だったそうです。昭和56年、96歳死去。後継は弟計助で

参考文献
 難にありて人を切らず、快商・出光佐三の生涯  PHP研究所出版  

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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武士道の考察(50)

2021-05-06 18:50:52 | Weblog
武士道の考察(50)

(がめつい武士達)
 室町戦国期の武士の特徴は自己主張の強さにあります。現世的欲求に従って行動します。合理的でがめつい。目的はもちろん一所懸命、自分や祖先が開拓したり恩賞として獲得した所領の安堵です。そのためには裏切り、寝返り、反逆も辞さないどころかへっちゃらです。南北朝や応仁の乱がいい例です。南北朝の戦で絵や詩になるのは最初の数年間だけ、正成や顕家が退場したらドラマはおしまい。本番はこれからなのですが。利害関係による離合集散が露骨で激しすぎます。
 なぜかくも現世的で合理的でがめついのか。武士身分に特有の階層流動性がこの時期特に強いからです。武士とは突き詰めると武装した富裕農民です。農民がそれなりの自覚を持って武装すれば、武士かそれに似たようなものになれます。上将軍から下耕作農民に至るラインに位置する各身分が相互に依存しあい影響しあい連動しあったのがこの時代でした。「武」の究極の培養地である農村の運動が激しかったのです。郷村が一揆でもって暴れまわる限り身分の動揺は収まりません。各身分に属する人々の心情と行為は比較的自由です。足利義政の行動もこういう観点から見てもいいのではないでしょうか。
(武士と郷村)
 郷村は一揆でもって一味同心して結束を固めます。座を占めあって衆議します。武士が郷村を武力の基盤とする限り合議制の影響は受けます。受けないはずがありません。武士の中核である国人領主は村や郡の領主であり、耕作する農民を日常見て接しています。彼らの働きぶりは領主の財力戦力に直接響きます。現地にいる限り領主と農民の距離は非常に近い。だから郷村の一揆的性格、つまり衆議による意思決定という方式は、武士社会に強い影響を与えます。ここから武士社会の判断の合理性や現実性が出てきます。この時代主君が勝手に一方的に集団の意志を決定するということはありません。将軍は有力守護の、守護は国人領主層の衆議に従います。そうでないといつ叛乱されるか解りません。国人層も同様です。典型的な例が毛利家と徳川家です。相良氏法度や六角式目は衆議制を成文化したものです。
(毛利家では)
 毛利氏は鎌倉幕府の初代政所別当大江広元を祖とし、その庶流が安芸国吉田に土着しました。以後一族は多岐に分かれて周辺に住みますが、その一つ一つをとれば大きくて数百の、少なければ数十人の人数を率いられる程度の小領主です。彼らが毛利本家の当主を中心に他氏の小領主をくわえてまとまってもせいぜい一郡を支配できる程度です。だから何事も小領主の話合いで決められます。彼らの中から毛利本家に匹敵するほどの家が現れたらまとまりがつきません。井上氏がいい例です。毛利元就は井上一族のわがままに苦しみ我慢のはてにこの一族30余名を粛正しました。小領主の集団粛正は他でもよく行われています。合議制が行き詰まった時の緊急対処です。粛正事件のしばらく後、有力家臣一同が唐笠連判状を起請文として元就に提出します。起請文提出は元就の権威を確立する試みでもありますが、逆に言えばこういう形で衆議による了承を必要としたのです。唐笠連判とは、署名の上下前後を否定して、円形に署名する事です。責任も権利も同様と言う事です。江戸時代の百姓一揆でもこの方式がよく取られました。以後も毛利家はすべて有力家臣(一族も含みます)の合議で決めます。そのため関ケ原の戦にどう対処するか決定できず、毛利家は所領の七割を失うはめになります。
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  経済人列伝 渋沢栄一

2021-05-05 22:51:18 | Weblog
経済人列伝 渋沢栄一

日本の経済人を語るとき、まず筆頭に挙げるべきは渋沢栄一でしょう。彼は明治期の経済活動のほとんどに積極的に関与しています。大げさに言えば、日本経済あるいは日本の資本主義の生みの親(の一人)であるとも言えます。
 渋沢は天保11年(1840)武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に生まれました。生家は農耕の他、養蚕や藍玉の製造販売も営む豪農です。御用金500両を課されたと言います。富裕な家であったことは確かです。父親市郎右衛門は武士になろうと志した人ですから、栄一の環境にあっては武士と農民の区別は曖昧だったのでしょう。彼は武芸を学び、父親さらには師匠について当時武士たるものが習得すべき漢学の素養をつけていました。異常ともいえる記憶力と旺盛な知識欲、さらには少年の頃から優れた商才をもっていました。
 栄一も当時の世相に連動して尊皇攘夷運動に魅かれ、横浜の外人居留地焼討ちを計画します。周囲に説得されて断念し、京都に行き、そこで一橋慶喜(後の15代将軍)の家臣になります。慶喜の智恵袋と言われた平岡円四郎に見込まれたようです。平岡は後尊攘浪士(?幕府内反慶喜派)により暗殺されます。栄一はやがて慶喜の側近になり、主として経済面の活動を引き受けたようです。一橋家の家領の殖産興業や藩札発行に関わります。慶喜は将軍になり、自動的に栄一も旗本幕臣になります。
 人生の転機は遣欧使節の随員に選ばれたことです。大使徳川昭武(慶喜の実弟)の側近として欧州に行き、パリ万博を見、それ以上に民主主義と資本主義経済の実態に触れた事が重要です。もしこの経験が無ければ栄一が明治期の経済活動であそこまで活躍することはなかったでしょう。この点は福沢諭吉と同じです。滞欧中大政奉還と鳥羽伏見の戦が起こり幕府は瓦解し、慶喜は静岡70万石の一大名になります。栄一も暫く事実上の浪人生活を送ります。
 明治2年(1069)30歳、新政府の大蔵大輔(次官)大隈重信に懇請されて出仕し、租税正(現在なら国税庁長官)に成ります。大隈に代わった井上馨の下で当時の経済政策の事実上の立案者・遂行者の役を務めます。廃藩置県の際の処分案の大綱は彼が作りました。渋沢栄一の本来の希望は民間の起業者になることでした。政府内の対立を機に辞職します。実力者大久保利通と意見が会わなかったようです。以後が彼の活動の本番です。以下箇条書きにしてみましょう。
第一国立銀行の設立
ここで国立銀行という名称には注釈が要ります。当時の国立銀行は現在の日銀のようなものではありません。米国のnational bankを模範として作られた発券銀行です。簡単に言いますと政府による一定の保護と制限下に、各国立銀行独自の判断で独自の銀行券(流通貨幣)を発券できます。銀行券を貸し出してその利子で稼ぎます。もちろんそれ以外の業務、預金や為替取扱もしますが、現在の普通銀行と決定的に違うのは銀行券発行資格です。丁度そのころ秩禄処分が行われ、武士大名は金録公債を与えられました。これが銀行資金になります。国立銀行はどんどん増えます。100以上の銀行ができました。国立銀行の発券なども寄与し、通貨が膨張しインフレ・好景気になります。反動で不景気になった時、国立銀行はほとんどつぶれました。あるいは普通銀行になりました。渋沢が設立した第一国立銀行は生き残り、第一銀行として発展し、現在では、安田・勧銀とともに瑞穂銀行になっています。安田銀行は渋沢と並ぶ明治の経済人ですが、ともに同じ銀行に合併されたのも何かの縁でしょう。なお明治30年、日本は金本位制に移行しますが、渋沢ははじめはあまり賛成ではなかったようです。
手形交換所の設立
手形にはいろいろな種類がありますが、手形取引の利点は債務が貨幣の機能に転換する事にあります。そして支払いと受け取りの時間差が大きい分、貨幣流通量が増えます。資本主義が発展するためには手形取引は絶対必須です。西欧では手形取引が発展するにつれて銀行そして金融業務が成長しました。また日本にも手形は以前からありました。大阪堂島での米の売買に手形取引は必要でしたし、それ以前といえば平安時代にも似たようなものがありました。こういう下地のある日本の経済活動の上により新しいシステムを渋沢は導入したわけです。手形取引の前提は信用です。信用の無いところに手形は発展しません。
鉄道敷設
渋沢は明治の鉄道敷設のほとんどに発起人あるいは相談役として関与しています。 
紡績業
渋沢の寄与は大雑把に言えば次の3つです。インド綿の採用と外国商人による販路独占への対抗戦線の結成、そして大阪合同紡績会社の設立です。合同紡は明治15年に設立された日本で始めての大規模紡績会社です。それまでの中小紡績会社は特に技術の移転と導入に苦労しました。外国人はそれほど親切ではないということです。そこで渋沢達は当時藩主の子息に随行してロンドンで経済学を学んでいた山辺丈夫に機械工学を学ばせ、帰国後彼を合同紡の技術総責任者に任じ、会社を運営します。この時エピソ-ドがあります。英国人の技師は、絶対に日本人だけでは工場は運営できないと主張しました。山辺はそれをはねつけます。結果は成功でした。約半世紀後日本の紡績業を視察に来たイギリスの代表は日本の工場の優秀さに脱帽します。
海運業発展への寄与
海運業の発展は三菱の岩崎弥太郎から始まります。西南戦争で政府の軍需輸送を独占した三菱汽船は一時日本の海運業をも独占しそうになります。対抗して共同運輸会社が設立されます。渋沢は両者の調停をします。両社は合併して日本郵船になります。海運業と紡績業は当時の経済界では密な関係にありました。輸入するインド綿、輸出する綿糸綿布はすべて船で運ばれます。そのためには運輸業者は日本人である方が望ましい。紡績業発展のという国策に従って、融通はきくし、運賃も安く出来ます。紡績業と郵船の提携を計り促進した人物が渋沢栄一です。両産業は近代日本発展の牽引車でした。
商工会議所の設立
商工会議所設立の趣旨は、法案作成および法制度の制定改廃への意見具申、官庁への経済統計の報告、官庁からの諮問に答えること、そして商工業関係者間の紛争の調停などです。商工会議所は民間経済団体を代表して、これと政府官庁との関係を仲介します。換言すれば、卑しい商人(あきんど)とされがちな商工業者の社会的立場を改善しました。

渋沢栄一の事業・功績の主なところを簡潔に述べました。他にいろいろな文化事業にも関係し貢献していますが割愛します。渋沢の活動を岩崎弥太郎のそれと比較すると、後者の方がはるかに自己の営利性が目立つことです。別にそれがいけないといっているのではありません。対して渋沢は個人の事業の発展もさることながら、日本経済全体の起案者・調停者・指導者になろうとしたことです。結果としてそうなったのか否かはしりません。昭和6年(1931)92歳の高齢でその長い人生を終わります。丁度満州事変が勃発した年でした。

   (典拠 「渋沢栄一」吉川弘文館、「日本産業史」日経文庫他)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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    武士道の考察(49)

2021-05-05 17:25:51 | Weblog
 武士道の考察(49)

(死ぬべき時には死ぬ)
 死ぬべき時には死ななければなりません。武将の馬回り・旗本つまり親衛隊は名誉の職ですが、この部隊はいざという時主君を逃がしそして身代わりに死ぬのが役目です。籠城したり、逃げ場がなくなって主人が切腹する時、殉じるのは一族と馬回り・旗本です。鎌倉幕府滅亡時、高時に殉じて切腹した将兵は500名、近江番場で追い詰められた六波羅探題仲時以下の自害者は百数十名、鎌倉幕府の内紛である宝治合戦に負け、頼朝墓前で自刃した三浦一族は数百名です。湊川の戦で敗れた楠正成以下七十余名は近くの寺で刺し違えて死にます。秀吉に包囲された柴田勝家が越前北の庄で死んだ時も同様です。
 主君の退却を安全にするために親衛隊が防ぎ身代わりになります。三方が原の戦で武田信玄と戦い敗北した家康が、ここに踏みとどまって死なねば武士の面目が立たない、と言い出した時、側近は家康の意志を無視して彼を馬に乗せ強引に退却させました。親衛隊の武士が次々に討死する中、家康の本拠地浜松に帰還します。部下としては、この殿様は何を血迷ったことを言っているのか、馬鹿じゃなかろか、と思ったことでしょう。
 主君を護って壮烈な退却戦を遂行した典型は関ケ原の島津隊です。あれこれ事情があって島津隊は戦闘中味方であるはずの西軍に協力しません。戦いは終わります。敵勢10万の中に孤立した島津隊は総勢千名ほどでした。島津の名誉にかけても主将の島津義弘を無事退却させねばなりません。島津隊は後退せず逆に敵正面の中央突破をねらいます。突破に成功した島津隊はすでに数百でした。追い討つ敵に対して島津隊は少しでも敵の進撃を遅らそうとし、一人敵の攻撃進路にあぐらをかいて座ります。敵勢が射程距離に入ると鉄砲で一番前の武者を撃ち、暫く退きます。退くことが不可能だと見れば、敵中に討ち入りし斬り死にします。すてがまり、という戦法ですが、これをやられると追撃する方も速度が鈍ります。追う方も命は惜しい。最も目立つ勇敢な突進者が一番危ない。家康の有力武将井伊直政はこの時の傷がもとで死にました。島津隊は追撃を振り切り堺に着きます。おどしすかして船を出させ故郷の薩摩に帰ります。堺に到着した時島津隊は80名足らずでした。
 関ケ原退却戦は以後島津藩のお祭りになり、現在に至るまで演じられています。この強さがあったからこそ島津氏は関ケ原後も領地を削られることなく存続できました。また幕末維新時、雄藩として幕府と対等に渡り合えたのも、この実績と誇りがあったからです。主君と領国あっての家臣です。国が亡び主君がいなくなれば、家臣の生活も生命も保証されません。だから自分の命を捨ててでも主君を護ります。逆また真なりで、家臣のための主君です。関ケ原退却戦でもそれを端的に示すお話があります。退却の途上みな飢えます。死馬の肉を食らって生き延びます。主将の義弘も食おうとしたら、ある家臣が抗議します。殿様は板輿に乗っているだけだ、食う必要はない、担ぐ俺たちがいなければどうする、と。義弘は納得して食うのを止めます。合理的な提案です。
 主君の最期に殉じた例は、本能寺で信長の最後を見届け討死した森蘭丸、武田勝頼の最期に際して彼と彼の一族を介錯し闘死した土屋昌恒です。明智光秀の家老斎藤利三や石田三成の家老島勝猛は主君の義と情に殉じます。土屋昌恒の死にぶりにいたく感激した家康は後に昌恒の子孫を召し抱えます。土屋家は徳川幕府の中で老中などの役職者を出し、譜代大名や旗本として幕末まで存続します。こういうDNAも遺伝するのでしょうか、赤穂浪士討ち入りの時、吉良家の隣に屋敷を持っていた土屋主税という旗本が、浪士の依頼に応じて協力し浪士を励ますくだりがあります。
 反対の例が信州真田家です。武田氏の滅亡後は転々と帰属を変え叛服常なく、関ケ原では父親昌幸と長男信幸が東西両軍に分かれて、どちらが勝っても真田の家は残るように計らいます。しかし私は真田家の生き方を非難する気にはなれません。戦国時代上信国境辺で千石程度の小領主として武田氏に属し、武田上杉北条そして織田豊臣徳川という大勢力への帰属と離反をくりかえしつつ、近隣の小土豪を制圧し服属させて戦国大名として成長する、というのはこの時期に成功する家の典型的パタ-ンです。毛利氏や徳川氏が起こるのと同じパタ-ンです。家康より昌幸の方が生まれるのが少し遅かっただけです。真田家は江戸時代信州松代で10万石の大大名になっています。外様大名としては珍しく老中を出しています。幕末の鬼才佐久間象山はこの藩の出身です。武家の生き方もさまざまです。
 主君のために家臣が死ぬだけではありません。家臣のために主君が死ぬ・死なないといけない場合もあります。備中高松城で羽柴秀吉の水攻めにあった清水宗治、因幡鳥取城の吉川経家、播州三木城の別所長治などの武将です。彼らは全員玉砕を選ばず、自分の一命に代えて部下全員の助命を乞います。家臣のための主君です。清水宗治の子孫は後、毛利家の庇護を受け、幕末維新まで家名を存続させています。
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コロナ災禍に対して「徳政令」を施行せよとの記事に関して

2021-05-05 17:25:51 | Weblog
コロナ災禍に対して「徳政令」を施行せよという記事に関して

タイトルに表されたような内容の記事が某新聞に載せられていた。言うまでもなく「徳政令」とは鎌倉室町時代に幕府から発布された「借金帳消し」の政策である。コロナで特に観光・飲食・交通などの産業が不振を極め、借金を余儀なくされているから借金棒引きも考えよということである。
私は直截な借金棒引きには反対である。むしろ懐疑的であると言ってよい。新聞では関東大震災との比較が為されていた。まず死者数が違う。関東大震災での死者数は約30万人、今回のコロナ災禍では終了時点でまず3万人を超えることはあるまい。
次に関東大震災ではインフラがほぼ全滅した。コロナ災禍ではインフラは健在である。損害の規模が異なる。出すべき金の量が全く違う。
 関東大震災で当時の政府は震災手形と言って震災復興のための債権は無条件で割り引いた。つまり借金は全部政府が被った。その結果震災被害者でない者も被害者と偽り政府の借金は膨大に膨れ上がった。政府財政への信頼は動揺し噂は噂を呼び片岡蔵相の失言を機に金融恐慌(これは7-8年後恐慌とは異なる)が起こった。取り付け騒ぎだ。高橋蔵相の機転で収まったが、これは典型的な風評被害つまりパニックだ。恐慌という者は気分・風潮で起こる。第一次大戦後のドイツのインフレもその終息も合理的な根拠はなくすべて気分、大衆がそう思う気分で生じている。下手に借金棒引きなどするとインフレ懸念、我意の亢進、倫理の頽廃、政府への信頼感の動揺などで何が起こるか解らない。大衆とは決して賢明な者ではない。
 借金棒引きにすると、貸した方の損害も補償しなければならないのだから、結局政府が紙幣を刷って支払わなければならない。流通貨幣量の増大はインフレを結果する。政府は動揺してはならないのだ。多くのエコノミストは日本の物価が上がらない・不景気だと騒いでいるが私はこの種の意見には同調しない。
 コロナ災禍による経済的窮迫は主として運転資金の欠乏にある。それを政府が補償すればいい。ただし帳消しにはしない。一定期間(数年か)の支払い免除(モラトリウム)をし、その後は低利で返してもらう。私は日本にとって観光業飲食業がさほど大事なものとも思わないが、この種の商売は風評被害の発火点になりやすい。
 内需産業を振興させる。交通インフラと耐震建築の増強が適当だろう。内需振興でコロナで生じた失業を救済する。
 病院を建てたければ建てればいい。コロナ終了後は老人施設に転用すればいい。施設は地方に設置する。地方振興の一助とする。
 5Gとか6Gとか言っている情報システムを整備する。格好の内需振興になる。今がチャンスと言えるだろう。
 医師・看護師が足らなければ高給でやとえばいい。最終学年の学生を動員して対価として免許を付与すればいい。大体日本の医師養成制度は長すぎる。資本の無駄だ。また素人を一か月くらいで養成し看護師の代用としても良い。
 富裕税を設定し財政資金を充実させる。この措置には二つの意味がある。貧富の差の縮小。海外特に中国に流れている資本の国内回帰。富裕税を設定する事により民衆の不満(ルサンチマン)を低減できる。そのことは風評被害を少なくする。富者も安全な国日本に住みたいと思えば払うべきものは払え、だ。
 なおコロナに関する情報はかなりの部分フェイクの可能性がある。政府も民意もそこに留意する事だ。1年の死者総数は日本に限ると150万人だ。コロナで騒ぎだしてからコロナに依る死者は1万人。有意の差があるのか?大体コロナ肺炎の症状自体が不明確だ。
 最後に東京五輪はどんなことがあっても実行せよ。事は菅政権だけの問題ではない。総理は地方自治体の知事たちの意見を不必要に聴く必要はない。国民の総意なるものも判然としない。コロナ対策は貧乏くじだ。何をしても非難はされる。風評に踊らされた衆愚は恐ろしい。総理はやった格好をしなければなるまい。国民に対しては面従腹背で行け。民衆が酒を飲めば、適当に騒がし、一応訓告を与え見て見ぬふりをすればいいのだ。
                              2021-5-5

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「天皇制の擁護断章16 徳川合理主義」

2021-05-05 11:32:21 | Weblog
「天皇制の擁護断章16 徳川合理主義」

ヨーロッパの18世紀は啓蒙思想と合理主義の時代と言われます。 全く同様のことがわが日本の徳川時代にもあてはまります。
前者の代表がホッブス・ロック・ヒューム・スミス、
後者は荻生徂徠・石田梅岩・二宮尊徳です。
合議システムの展開、社会契約説、身分制の否定、耕地の自由売買、金本位制と信用経済
流通経済の肯定、経済政策の必要性、貨幣数量説、労働価値説、有効需要などなど
あちらはあちらなりに、こちらはこちらなりに新しい考えを発展させています。

徳川時代は、民衆の自由や自治などは一切ない時代と思われてきました。
「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど取れる」は、
封建的搾取を端的に示す言葉とされてきました。
実態は違います。
貨幣経済により商品作物(木綿、菜種、藍、塩、煙草等)を栽培し富裕になった農民から充分な年貢が取れない為政者がくやししまぎれに言った言葉です。

私は大阪府豊中市の上野小学校を卒業しました。
20年前に校舎を訪れたところ、3階から2階にかけて一面の壁画が眼に入ります。
徳川時代の農民が重労働にあえぎつつ酷使されている風景です。
このような時代像は専門家によりすでに否定されています。
しかし教育とは恐ろしいもので、いまだにこのイメージが支配的です。
徳川時代は合理的な思考を発展させ日本人の知性を高めた時代です。
幕末維新、日本人の識字率は世界一でした。

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  経済人列伝 鹿島守之助

2021-05-04 23:19:16 | Weblog
経済人列伝  鹿島守之助

 生家は播磨の大地主、東大法学部卒、外交官、法学博士、そして建設業界の雄である加島建設社長鹿島精一の女婿として四代目社長、という経歴を並べれば、エリ-ト中のエリ-ト、創業の苦労もなく、ただ暖簾を墨守した養子社長、だんなさん、という印象を受けてしまいます。事実彼が自己を語る口調には、苦労の跡があまり感じられず、のびのびとした明るさのみが目につきます。実際はそんなものではなかったのでしょうが。私は偶然、だんなさん、という言葉を使いましたが、守之助が一番嫌った言葉は、この言葉です。守之助は、だんなさんとして祭りあげられ、経営の実践から浮いてしまうことを避け、経営の革新にどしどし発現し踏み込みました。
 鹿島建設の創業は、1840年(天保11年)に遡ります。初代の岩吉は主として大名や旗本の屋敷建築で産をなしました。時代は明治へと移ります。岩吉は開港された横浜に進出し洋風建築に手をつけます。英一番館(ジャ-ディン・マディソン商会の店舗)はその代表です。二代目の岩蔵は鉄道建設の方向に経営の舵を取ります。東北線や北陸の路線、軽井沢横川間のアプト式鉄道、さらに朝鮮の京仁鉄道や台湾の鉄道建設が有名です。岩蔵には男子がなく、東大土木工学科卒業の葛西精一を女婿とします。精一は第一次大戦後の不況に対して、手堅く守勢の経営を行います。本列伝の主人公守之助は精一の長女である卯女と結婚し鹿島の家業を受けつぎます。
 守之助は1896年(明治29年)兵庫県竜野の南、揖保郡半田村に、永富敏夫の四男として生まれました。生家は大地主です。祖先は300町以上の田畑を所有していたと伝えられます。父の代には30町になっていましたが、それでも豪農です。母親や祖母の生家はさらに金持で父親は劣等感を抱き、あまり親密にはしなかったようです。父親は雅号を持ち、茶室を建てて、ゆうゆうと、詩歌の道にいそしむ文人墨客であったといいますから、永富家は典型的な名望家です。永富家の家宝に「身代わり名号」があります。本願寺第八代顕如の筆になるという名号です。仔細は略しますが、この名号ご開帳の時、永富家の前は、名号を拝みに来る信者達で門前市を為しました。それほどの名望家です。
竜野中、三高、東大法学部と進学し、1920年(大正9年)卒業して、外務省に勤めます。大学時代は哲学と文学に興味を持ちます。守之助も父親の持つ雅趣と世ばなれした傾向を受けついでいたのでしょう。哲学は新カント派、文学はツルゲ-ネフにドストイェフスキ-、イプセンにホフマンスタ-ルなどを原書で読みふけります。マルクスやレ-ニンさらにスタ-リンの著作、総じて社会主義者の本にも興味を示していますから、彼の内面はかなり複雑であったろうと推測されます。
 守之助が最初に派遣された外国はドイツです。ここで彼は多くの原書を買い込み読み漁ります。大変な勉強家であることはまちがいありません。クーデンホ-フ・カレルギの汎欧州論に興味を示し、駐独大使を介して紹介されます。第一次大戦後の超インフレのなかで、強い通貨を持った国の外交官として王侯のような生活を楽しみました。ヒットラ-のミュンヒェン一揆が勃発したのもリアルタイムで見ています。守之助は後年、ヒットラ-がドイツ人に労働の尊さを教えたことは立派であると言っています。ヒットラ-は自らシャベルを取って労働の実践を見せ、クルップの御曹司にも労働奉仕させています。
 帰国して上司から「日英外交史」の研究と執筆を依頼されます。秘密保持のために学者には依頼できないという首脳部の意向でこうなりました。以後守之助は外交史の研究を深め専門にするようになります。昭和5年に外務省を退官します。昭和9年「日英外交史」と「日本外交政策の史的研究」で法学博士号を授与されます。この間昭和2年鹿島精一の娘である卯女と結婚します。そして1938年(昭和13年)精一の跡を追って鹿島建設の社長になります。
 社長就任時、日本の大勢は戦争へ戦争へと傾斜していました。満州で急に軍が支払いを中止し、その横暴に泣かされます。鹿島建設の経営は一見好調のように見えましたが、経営が雑で、実質は赤字でした。品物を売り上げても、販売にかかる経費がそれを超えれば、損失がでます。取引が急なとき、よくあることです。建設会社の製品は建造物です。価格は膨大で、工事期間も長くかかります。工事中に色々な内外の状況変化も起こります。TVを売るのとは違います。ですからもうかっているように見えて赤字ということは、特にこの業界ではよくおこりました。守之助は科学的経営というものを提唱し導入します。骨旨は三つになります。文書化、予算計画、チ-ムワ-クです。
守之助が調べたら、取引にかんするデ-タや、指示した文書はほとんどなく、すべては口頭で行われていました。これでは何をしてどうなったのかは一切解りません。経営上の指示や結果はすべて文書にして行うことになりました。文書化が行われないと、経営の計画は立ちません。
計画は予算統制でもって行われました。ある事業が行われます。建築ですから事業は長期になります。必要な予算を組みます。事業の展開にそって適宜調整します。予算とにらめっこしながら作業すれば、赤字か否か、どこで赤字がでたのかは、すぐ解ります。要はどんぶり勘定をやめよということです。特に事業に際してあらかじめ、どのくらいの利益を見込むのかの計算の必要性を説きます。配当、内部留保、固定資産償却、将来の拡張に備えての予備費などが利益内容を構成する主要な項目になります。さらに過去の実績の検討(要は過去利益に上がらなかった仕事は避けよ、ということです)、収入逓減の法則(事業があまりに大きくなれば利益率は下がる)、需要の季節的変動、業界での競争、将来における需要の見込み、一般経済市況(特に物価騰貴)などを充分考慮するべく指示しています。そして材料、労力、時間、経費の節約について具体的な指示を行っています。
 チームワ-クの意義は、人材育成です。上司には、部下を育てよ、と言います。一人で仕事をするな、人に割り振れ、部下には少し難しめの仕事をさせることにより人材育成を計れ、と説きます。人に仕事をさせることは難しいことです。しかし人に仕事をさせることにより、自分もより有能になります。人に教えるためには自分はより多く知り、知識を整理しておかねばなりません。さらに人に仕事を教えることは相互刺激にもなります。人の考えや行動は自分のそれと必ず違ってきます。ですから良いにつけ悪いにつけ、人から学ぶことになります。さらに言えばチ-ムワ-クには相互監視の意義も含まれます。人材育成に関しては、高給たるべきことを力説しています。また本を読むことを奨励します。守之助自身が猛烈な読書家でしたから、自分の趣味の押し付けという印象もありますが、本を読むことにより広がる視野は、人材育成やチ-ムワ-クと重なるところがあるでしょう。
 守之助が科学的経営と称して、鹿島建設再建の方針としてあげたのは以上の三つ、文書化、予算統制、チ-ムワ-クです。逆に言えば、個人の判断だけに頼り、勘と度胸のどんぶり勘定でやる作業は全面的にやめるということです。守之助の指示を見ていますと、ある有名な書物を想起させられます。古代中国の戦法書、和漢の武人の必須の教養と言われた、「孫子」です。この本には戦争遂行にさいしての法則が書かれています。しかしよく読んでみると、当たり前のことばかりで、実際の運用は指揮官個々人の判断に任されます。逆に言えば、こうしてはいけない、という範囲を限定し、その内部で判断せよ、ということです。守之助の指示も同様です。では実際彼がした指揮ぶりはどうだったのでしょうか?
 日本は1951年(昭和26年)まで連合軍(実質は米軍)に占領されていました。連合軍最高司令部(GHQ)の権力は絶対でした。佐官級の軍人が日本の政治経済文化政策に決定的影響をもつ権限を与えられていました。昭和25年朝鮮戦争が勃発します。GHQは国内の諸種軍事基地の整備建設のために30億円の工事を発注します。指示と解答(業者の)はすべて英語、工事方式もアメリカの方式を強要されます。ですから工事遂行にさいしてとかく食い違いが生じます。鹿島建設も例外ではありません。厚木飛行場建設工事で相模川の砂利を使うことに対して、監督官である米軍大尉からストップがかかります。砕石を使うように指示されます。日大に検査してもらって、相模川の砂利で工事にさしつかえない事の証明もえました。しかし大尉は頑強に反対します。当時米軍監督官の命令は絶対でした。しかしこの契約外の指示により莫大な損失が出ます。守之助は第五空軍司令官にクレ-ム(異議申立)を行います。米軍にクレ-ムをつけるなどは、当時としては破天荒な試みでした。第五空軍はクレ-ムを取り上げてくれましたが、損害の補償額は3%でした。守之助はそれを不服として、さらに上の極東空軍司令部に上訴します。結果は損害の50%保証を勝ち取りました。米軍相手にクレ-ムをつけるというので、鹿島建設に融資している銀行団も逃げ腰になったそうです。この事件は、守之助が経営指針として強調する、合理性追及の一環でありますが、なによりも実際の課題に対して、果敢にまた粘り強く対応してゆく彼の素質を証明しています。指揮官合格ということです。指揮官は戦わなければなりません。
 また守之助という人は、ある種の楽観性をもった見通しのしっかりした人でした。戦後の混乱の中にあって彼は日本の経済の成長を確信していました。彼が学者であり高い視線を保持できたこともあります。その点では石橋湛山と同様です。守之助は日本経済を信じていましたから、設備投資をどんどん行います。作業の機械化を押し進め、技術研究所を設立します。大卒をどんどん採用し、外部から人材を自社に導入します。役員の半分は鹿島建設以外の会社の出身でした。ですから常に進歩、新しい試み、改良を説きます。
 戦後鹿島建設が受注した主な工事は次の通りです。日本原子力研究所の第一号原子炉、奥只見、小河内、上椎葉、一ツ川、川俣、魚梁瀬などのダム、横須賀、新潟、仙台他の火力発電所、八幡製鉄他の製鉄施設、日比谷三井ビル、日石本館、京王百貨店などがあります。とりわけ東海道新幹線の新丹那トンネルの工事と日本最初の超高層(地下4階、地上36階)の霞ヶ関三井ビルは鹿島建設の技術の象徴になります。1963年(昭和38年)の時点で、請負額は鹿島建設が世界トップにたっております。なお上位10位にわが国の五大建築会社、鹿島、大成、清水、竹中、大林がすべて入っており、上位五社には日本勢は4社が入っています。
 鹿島守之助、昭和28年参議院議員(全国区)当選、32年国務大臣就任、34年「日英外交史」「日本外交政策の史的考察」で学士院賞受賞、彼は経営者であり学者でありまた政治家でもありました。国務大臣就任と同時に社長の座を妻卯女に譲り、社長を辞任しています。

  参考文献 鹿島守之助 ダイアモンド社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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日本のワクチン製造の弱さ

2021-05-04 20:41:15 | Weblog
 日本のワクチン製造の弱さ

 数日前のブログで日本の製薬業の弱さを論じた。欧米からのクスリ輸入は2兆円に登り輸出はほぼ皆無、クスリに関する限り工業大国日本の面目はない。その際私はクスリくらい輸入してもいいだろう、と言った。前言を一部取り消す。経済的見地を優先し軍事的見地を軽視していた。平時ならともかく大量感染に際しては各国とも自国の利害を最優先する。
 昨日菅首相は我が国の製薬業の劣位を認め、国費でクスリ業界にてこ入れすると述べていた。この場合軍事的見地にはBC兵器(化学生物学兵器)も含まれる。一応国際的には禁止されているがさてどんなものか。北朝鮮などならず者国家は何をするか解らない。韓国も同様。韓国人は教育で「日本憎し」に凝り固まっている。中国は台湾にたいしてBC兵器を使うかも知れない。
 ここでつらつら考えるのだがワクチン製造には野党・メディアの圧力がありはしまいか?彼らが北方領土に関して発言した事は聞かない。私はBC兵器といったが日本にとって必要なのはA兵器つまり核兵器だ、攻撃的兵器だ。立民党共産党などの野党そして中国のお雇い代言メディアである朝日毎日は憲法改正に反対している。つまり攻撃的兵器は持つな、と言っている。単純に言えば国防は放棄せよということだ。
 日本の製薬業界の弱さはそういうところからも来ているとしか思えない。2021-5-4
(注)Atomic(核兵器)Biological(細菌兵器) Chemical(毒ガス兵器)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社
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