経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  石橋湛山(一部付加)

2020-06-03 15:32:51 | Weblog
 経済人列伝   石橋湛山(一部付加)

 石橋湛山の名を知っておられる人は60歳以上の人だけでしょう。彼は昭和31年(1956)に首相になりました。わずか2ヶ月後に辞任します。病気が原因ですが、その潔さは当時の評判でした。私が彼に関して知っていた事はそのくらいでした。最近、なぜ戦後日本から大量の餓死者を出さなかったのかと、考え、また石橋湛山が当時の蔵相である事を知った時、この人物の財政政策に興味が出てきました。
 終戦直後、日本の経済は崩壊します。あるいはそう見えました。この時の財政政策の基本は復興金融金庫(通称フッキン)と傾斜生産方式です。この政策のおかげで戦後猛烈なインフレになります。ところでもしインフレにならなかった(あるいは、しなかったら)どうなっていたでしょうか?私は日本の経済は崩壊し、予想通り1000万人の餓死者がでたのではないかと、思います。インフレになる(する)、と、企業は物を作ります。ともかく作れば売れる、儲かる、となると、物はどんどん作られるでしょう。企業は生き残るために、そこいらじゅうをさがして資源をかき集めて、生産します。眠っていた生産力を復活させます。前大戦でどのくらい日本の工業力が破壊されたかは、人により評価は違います。だからかなりの生産力が遊休状態にあったのかも知れません。復活金融公庫から債権を出させそれを日銀引き受けにして通貨量を増大させて、生産を賦活する方法をとった財政家が石橋湛山です。
 石橋湛山(幼名省三)は明治17年(1884年)、東京に生まれます。父親は後に日蓮宗身延山久遠寺81代法主になった杉田湛誓です。湛山は当時の仏家の習慣に従い、母方の石橋姓を名乗ります。やがて同じ日蓮宗の住職望月日謙の元に預けられ、修業させられます。
 早稲田大学に入学、文学部で哲学を専攻します。彼は大学でクラ-ク博士(札幌農大)の教えやプラグマティズムに興味を持ちます。島田抱月の主宰する早稲田文学にも投稿しています。こういう影響で彼はリベラリストでした。リベラリズムの定義は難しいのですが、ここでは省きます。彼の方向は政治と文学の統合にあったと、言いますから、遠大な抱負を抱いたものです。この間兵営に入隊します。社会主義者と間違われていたらしく、上官からたいそう丁寧な取り扱いを受けたというエピソ-ドがあります。
 1911年27歳、東洋経済新報社に入社、言論人としてのスタ-トを切ります。新報社は「東洋時論」という雑誌を発行しており、湛山はその編集に従事します。当時でだいたい3000-5000部売れていたようです。以後1945年の終戦まで、彼はこの会社に勤めています。1925年、41歳主幹・代表取締役、つまり最高責任者になります。鎌倉町会議員になり、経済倶楽部を作り経済学的思考の普及に努めます。東洋経済新報社は現在も、多くの経済学書を出しており、この分野の出版では一方の雄です。新報社からは、後に高橋亀吉、小浜利得など在野のエコノミストが出ています。私もこの出版社の本は100冊以上読みました。経済に関心を示す者にとって、ここの本は避けられません。そういう会社です。
 前後して湛山は経済学を独学し始めます。セリグマンやミルの本から入ったそうです。以下湛山の言論人としての主張を列記してみましょう。彼の意見は明白で書いたものが残っているので整理し理解しやすいのです。
移民不要論、植民地不要論。当時日本は貧乏国だから移民政策がとられていました。湛山はこれに反対します。論旨は生産力を育て、貿易を活発にすれば、財貨は増え、国は豊かになる、です。貿易して相互に豊になれば植民地は要らないと彼は言います。
ソ連の革命への肯定。リベラリストとしては当然かも知れません。多くの知識人、特に自由主義者はこの革命にロマンを抱き、またソ連の国家管理経済は不況に悩む国からはある種の憧れをもって見られていました。
ドイツ戦後処理への反対論。周知のように第一次大戦後の連合国によるドイツへの賠償請求は過酷でした。湛山は反対します。この点ケインズも同様でした。
護憲運動。
普選運動。財産による差別のない普通選挙実施を要求します。湛山はこの運動の急先鋒でした。普選運動が始まった当時、日本の人口の3%が投票権を持っていました。
軍備撤廃論。
日英同盟の破棄提唱と日米協調。
新平価解禁論。井上蔵相が旧平価(1弗2円)で金解禁をしたのに対して、実際のレイトである、100円=約40ドル、のレイトで解禁しようという事です。日本とイギリスは旧平価でフランス・イタリアは新平価で金を解禁しています。結果は既に述べたとおりです。
満州国建国反対。植民地不要論から出てくる当然の結論です。かれは広大な中国に先進国の資産と企業力(技術と考えてもいいでしょう)を導入して、中国を開発し、共に豊になろう、と主張します。この主張は現在実現されつつあると言えましょう。
大東亜共栄圏批判。ともかく封鎖的経済圏はいけないと言います。
日独伊三国同盟反対。湛山の基本的志向は日米協調です。当時の軍部はソ連を目して、同盟を結んだのこうなったのでしょうが、つまらない同盟を結んだものです。
小日本主義。大日本主義に対してこういいます。日本は領土を広げる必要はない、満州などに綿々とせず、古来からの国土の中で、産業を振興して貿易を増大させれば、結局それの方が、得だ、という事です。現在そうなっています。
大戦中湛山は軍部や東条首相から目をつけられていました。会社を田舎に疎開させ細々と経営するうちに終戦を迎えます。敗戦に際して、湛山は「前途洋洋」と言いました。この予言も当たっています。
 昭和21年(1946)衆議院選挙に立候補し落選します。総選挙直後第一次吉田内閣ができます。5月、吉田茂に乞われて、蔵相に就任します。言論人から蔵相になったのも嚆矢ですが、湛山はその時議席をもっていませんでした。蔵相としての湛山の方針は、戦後補償打ち切り、復活金融金庫による債権発行、傾斜生産方式、終戦処理費でした。戦後補償打ち切りとは、戦争に協力した企業が爆撃等で蒙った被害を政府が補償する事です。これを打ち切る事はGHQの意向でもありました。企業や財閥への援助を湛山は打ち切ります。これは彼の、積極経済と経済的自由主義に基づくものです。経済活動はなるべく自由にさせておいた方がいい、政府の援助は有害という発想です。終戦処理は、米軍による勝手な日本の予算消費をやめさせる事です。占領軍の威光を着て、末端の米軍将校までが勝手な建築などに予算を使っていました。日本の国費を用いて、駐留米軍の世話までする必要はないとして、湛山はこの方面の予算を大幅に削ります。これで彼は米軍・GHQににらまれました。当時この終戦処理費は全予算の36%に及びました。米軍としては賠償金のつもりだったのでしょう。極端な一例を挙げます。駐留軍用の野菜を栽培するプ-ル建設が行われていました。日本の野菜は糞尿を肥料とするので汚くて食べられない、とかの理由です。当時の日本人1人の一日分配給米の量は300g弱、一食は軽く茶碗にもって一杯でした。
 傾斜生産方式は、予算(外貨の場合はドル)を重点産業に特に篤く配分する事です。重点産業は石炭と鉄でした。石炭を増産し、列車を動かし、また石炭で鉄を作り、鉄で石炭採掘用の機械を作る、という按配です。最も基礎的な産業に徹底的に投資する、という作戦です。復活金融金庫を通じて債権(復金債)を発券し、それを日銀引き受けにする、言ってみれば新規の貨幣増刷です。
 湛山は、財閥にも米軍にも予算の浪費をやめてもらい、少ない予算と資源を徹底的に基礎産業に投資する。そして復金債でもって企業活動がやりやすいように、経済をインフレ気味にもって行きました。どう放っておいてもインフレは必至です。そうならインフレの波にのって増産すれば良い、とまで考えたのかも知れません。ただこの方向で経済を運営すれば、産業の活動力は最大限引き出せます。そしてインフレは資産移転を伴います。得をするのは、企業と労働者です。産業の基幹部分を優遇しようと考えたのかも知れません。
 GHQの方針はインフレを抑える事に重点が置かれていました。ここでGHQと湛山の方針は対立します。湛山と吉田茂の仲もおかしくなり始めていました。昭和22年(1947)5月湛山はGHQにより公職追放の処分を受け、大臣と議員の職を同時に失います。湛山は戦前の言動に自信をもっていたので、寝耳に水でした。以後の湛山の政治活動で興味を引くのは、吉田政権後できた鳩山政権の後継のイスを巡り、石橋石井の2・3位連合を組み、岸信介に逆転勝利して、首相に就任した事です。しかしこの政権は彼を襲った病魔のために、2ヶ月で終わりになります。
 経済あるいは財政の運営は、拡大か引き締めかのどちらかです。要は状況判断しだいで、どちらが正しい・間違っているというような問題ではありません。戦後1000万人餓死説が出た頃、インフレの波に乗って経済を拡大し、生産力の基礎を造った湛山の財政があったからこそ、我々は生き残り、また以後の経済政策も可能であったのではないのかと、考えています。湛山の思考がすべて首尾一貫しているとは言えませんが、日米独三国の経済提携、ヤルタ・カイロ・ポツダム宣言破棄、ドッジライン廃止、などなど常識に捉われない大胆な発想が興味を引きます。湛山の経済政策は、経済重視、生産第一主義、交易による相互繁栄、従って軍備不要、そしてなによりも楽天主義に特徴があります。1973年(昭和48年)死去 享年88歳

  参考文献
   石橋湛山    中央公論
   昭和経済史   日経文庫

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  日本史短評 大田南畝

2020-06-03 10:35:08 | Weblog

    日本史短評 大田南畝

ともかく文名、異名の多い人です。1749年江戸に御徒(下級幕臣)の子として生れ、幼名を直次郎と言います。歴史に残る名前「南畝」は本名なのか文号なのか解りません。ともかく狂詩、狂歌、狂文を創始し開発した人ですから文号は多彩です。ここでは「南畝」と、狂歌の作者名「四方赤良(よものあから)」、狂歌を辞めた後大阪に出張し詩文を請われた時名乗った「蜀山人」の三つを挙げておきます。
 15歳内山賀邸に入門します。超優秀でした。神童と言ってもいいでしょう。この塾で、内藤新宿で煙草屋を営みかたわら文学にいそしむ平秩東作と知り合います。東作とは親子ほど年齢差がありましたが、東作は南畝にほれ込み、詩文の友を紹介します。特に荻生徂徠流の影響が強かったようです。
 19歳、狂詩集「寝惚(ねぼけ)先生文集」を出版します。この「寝惚先生」も南畝の筆名の一つです。この作品の筆名には他にふざけた名前もあります。狂詩から狂歌に進みます。唐衣橘州などと狂歌の会を作ります。南畝はすでに「寝ぼけ先生」で有名でした。ここで住所の関係もあり、町人仲間の詩人俳人と交際を持ちます。南畝の人気が高かったのも、武士と町人の平等な交際からくる作風ゆえでした。一般にこの時代の文学芸術は武士と町人の間の活発な交流ゆえに人気が高かったのです。こうして狂歌はブ-ムになります。
狂歌は鎌倉時代初期ころからありました。狂歌・川柳では、和歌・連歌・俳句などの作成に必須とされていた季語を省きます。和歌連歌俳句は基本的に、詠みあい、掛けあいの文学です。詠みあい・掛け合いは言葉の交流であり、言葉の交流は言語に伴う必然的属性ゆえにそこにはエロスの感情が胚胎します。だから「季語」でもってこの感情を抑えたのです。狂歌・川柳では詠みあいは薄れます。ですから作品は季語から解放されます。こうして狂歌・川柳にはエロスに代わり「洒落・滑稽」の精神が生まれます。狂歌、狂詩、狂文など「狂」と名がつく作品に共通の傾向は、「洒落、冗談、ふざけ、滑稽」です。これが田沼時代の風潮の典型です。南畝の作品を一つ挙げておきましょう。
 とびつかれ手を取り合いの三味線は、こまを早めて犬の遠吠え
   27歳、黄表紙、洒落本などの戯作に進出し、「甲駅新話」、「評判茶臼芸」「世説新語茶」、「鯛の味噌津」、「深川新語」などの作品を出します。すべての作品において筆名は異なります。「世説新語」では深川、山下、音羽、谷中などの二流三流の娼婦を扱っています。「深川新語」も同様です。また歌舞伎役者の多くは狂歌を作りました。このような身分に囚われない作風が、南畝の人気のゆえんでもあります。南畝は戯作興隆の推進力になります。
南畝38歳、「狂歌新玉集」と黄表紙「手練いつわりなし」を出版しますが、この年をもって南畝は狂歌・戯作の世界から手を引き、実直な幕府役人の生涯を歩み始めます。理由は田沼意次の失脚により、田沼政権の官僚であった土山宗次郎と南畝などが交流していたからです。南畝は代わった松平定信政権の監視警戒を恐れました。時代は前後しますが、筆禍事件で処罰された文人はかなりいます。山東京伝、式亭三馬、為永春水、恋川春町、柳亭種彦などです。寛政の改革で、武士が歌舞伎を見る事は禁止されました。
南畝は44歳幕府の試験を受け落第します。理由はワイロを使わなかったからだと言われます。南畝は漢詩文の世界でも有名で優秀でした。昇進はその才能に比すれば、遅遅たるものでした。51歳大阪の銅座に出役として出向します。仕事は重要で繁忙でしたが持ち前の文才で手際よくこなします。あまりにも潔癖すぎる(ワイロは一切受け付けない)と言われています。大阪では南畝の文名を慕った人たちから書の揮毫を頼まれます。狂歌を印象されないように、この時「蜀山人」に筆名を用います。住吉で友人と出会う約束をした時、茶店の柱に
住吉のまつべきものを浦波の、立ちかえりしぞしづ心なき
と書き止めたのを、ある富豪が聴き知り、柱を買い取ろうとしたところ、茶店の主人はそれを断り、柱に布を巻き有料で見せたといわれます。
次に大阪へ出向いた時、上田秋成と会合しお互い満足しあっております。南畝と秋成では作風も人柄も異なりますが、息はあいました。長崎への出張も命じられています。ちょうどロシア使節レザノフが国交を求めて長崎へきた時でした。大阪や長崎に行かされたという事は南畝の才能がそれなりに認められていたからでしょう。また南畝は定信が老中を辞めてからしばらくしてまた適当に狂歌を作り始めています。
玉川巡視を終えて幕府からご褒美を頂いた時の歌が
 衣食住もち酒醤油炭たき木、なに不足なき年の暮れかな
  です。次の歌は75歳の時歌った歌、辞世でしょう。
    生きすぎて七十五年喰いつぶす、かぎり知られぬ天地の恩
 蘭学者や太田南畝の生涯を見ていると荻生徂徠(その先人伊藤仁斎も含む)の影響が強いようです。そして寛政異学の禁で標的にされたのは徂徠学派です。理由は三つあります。まず徂徠は朱子学を憫笑しています。次に徂徠の学問には封建制度否定の契機が多く含まれています。この事に関しては後述します。三つめは、徂徠は闊達な人で文学遊芸を愛し、その門下からは多くの詩人歌人が出ていることです。本居宣長などはその一例です。彼は京都遊学中徂徠学に触れてその影響を蒙り、和歌を愛し、源氏物語に強い関心を抱き、遊学中は試作歌作そして恋愛に興じています。徂徠の学風は定信から見れば危険であったのでしょう。

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平成不況に関して(11)

2020-06-02 17:45:36 | Weblog
 平成不況に関して(11)

ではどうすれば良かったのでしょうか?バブルの時点に帰って考えてみましょう。まず資本輸出があります。余った円を外国特に後進国などに投資してそこで産業を興し、人件費と租税を納め、それ以外つまり利益を国内に持ってくる事です。もう少し相手の国にサ-ヴィスしないといけないかも知れません。ただしこのやり方は相手の国の発達程度や民度さらに文化の質の差により障害も生じます。この方向も日本は取りました。最初アセアン中心でしたが途中から中国に切り替えました。中国は人口が多く、独裁でまとまりやすいからです。人口の大きさによる需要の大きさと安い賃金が魅力でしょう。この時点では政府のいいなりになる独裁国家の民衆はある意味で御しやすいとも言えます。しかし資本輸出は競争相手を育てます。
 もう一つの選択は米国の圧力を徹底的に排除することです。この方向を執ると必ず戦争になります。日本には充分な戦力はありませんから、話になりません。包括的経済協議とかス-パ-301条やミニマムアクセスなどは前大戦のハルノ-トに当たるものです。
 次なる処置は余った円で金を買い、金をそのまま日銀の金庫に保存しておくことです。経済の不胎化です。資本の機能の一部を停止してしまいます。こうすれば経済は安泰ですがその代り世界経済は縮小停滞します。
 さらなる選択は日本が金融業に徹する事です。余った金を他国に貸して利子で食う。このような例は世界史に多々あります。ヴィザンツ帝国、ヴェネチア、オランダなどなどです。長期的にはこれらの国はすべて衰亡するか第一線から撤退しています。

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経済人列伝  石橋正二郎(一部付加)

2020-06-02 13:17:40 | Weblog
経済人列伝 石橋正二郎(一部付加)

 ブリジストンタイヤの創業者です。正二郎は1889年(明治22年)久留米に生まれています。家系はやや複雑です。久留米藩士龍頭民治の子徳次郎は母方の伯父である緒形安平の経営する仕立物屋「しまや」に奉公にでます。徳次郎(初代)は安平の妻リウの実家、久留米藩石橋家を継ぎます。初代徳次郎に二人の男児があり、兄が重太郎(後徳次郎を襲名)、弟が正二郎です。二人はしまやの経営を任されます。正二郎は生来病弱で内気な子供でした。利発で成績はトップ。兄徳次郎は対照的に、腕白のスポ-ツマンタイプ、勉強は嫌いな方でした。兄弟仲は良く、それぞれ分担してしまやの経営にあたります。
 正二郎は高等小学校卒後、久留米商業学校に入ります。この間、一部生徒により企てられたストライキに、少数グル-プとして参加を断固拒否した逸話があります。自分の意志に忠実で言い出したらきかない性格が現れています。久留米商業時代の同窓に、政治家石井光次郎がいます。正二郎は神戸高商をめざしましたが、父親の反対で断念します。正二郎としては、たかだか田舎の仕立物屋経営に男子二人は要らない、という所存でした。
 こうして正二郎は兄徳次郎とともに、しまやの経営に従事することになります。積極的に経営を引っ張っていったのは正二郎の方です。始めから、一介の仕立物商で留まるつもりはありません。どんどん新企画を実施します。まず製造品を足袋に特化します。店名も「しまや足袋」になります。それまで借金経営を一切拒んできた父親の方針を改め、銀行からの融資を受けることにします。この件では父親と対立しますが、押し切ります。徒弟に給料を払います。当時徒弟は商売を教えてもらう立場ですので、正式の給料支払いは破天荒な企てです。正二郎には、この破天荒な企てが実に多いのです。彼の事業家としての特徴は要所要所で思い切った決断をして躍進することです。その最も端的で代表的な例が、タイヤ製造です。
しまや足袋では行商もしました。足袋製造業者で行商をするのは珍しい試みでした。行商の主な狙いは宣伝です。自動車を購入し、九州中を宣伝して行商します。まだ全国で車が1000台あるかいないかの時代のことです。もちろん久留米では最初の自動車所有者でした。社名も「アサヒ足袋」に変更します。より印象の深い社名にしてブランド化を狙います。足袋のサイズに応じた価格を廃止し、均一価格にします。こうして無駄な作業を省きます。均一価格は当然です。足袋に必要な布地の量は知れています。製作に必要な労働と技術がコストの大半です。大人の足袋も子供の足袋も制作費は変わりません。均一販売は当然の合理的措置ですが、当時の足袋商は旧来の慣習を墨守していました。父親の堅実(従って保守的)経営にくらべて、恐ろしく斬新で積極的経営です。
 1919年(大正7年)久留米に洗町工場を作り、社名を「日本足袋」に変更します。この間東京と大阪に進出します。事業規模は拡大し足袋業界では四天王の一角にランクされるほどになりました。第一次大戦では恒例にもれず大儲けします。仕舞い時を忘れず手堅く対応しますが、戦後の反動不況で四苦八苦します。1000名の従業員を雇用し、100万足の足袋の在庫を抱え込みます。ここで正二郎の一大決心が行われ、苦境からの前進突破が試みられます。地下足袋の製造です。正二郎の経営者人生において一番光るのは、この地下足袋製造への飛躍です。地下足袋はゴム製品です。こうして後年のタイヤ製造、高度な製造業への基礎が築かれます。
 1921年(大正10年)縫いつけ式地下足袋を発売します。足袋にゴムの底を縫いつけたものです。激しい労働に縫いつけが耐えず不人気でした。2年後はりつけ式地下足袋を発売、足袋に粘着財でゴム底をはりつけたものです。これは非常に人気が高く大いに売れます。ここで地下足袋なるものの紹介をしておきましょう。現在ではあまり用いられませんが、昭和30年ごろまでは、農作業や工事現場、炭鉱など激しい肉体労働をする人は地下足袋を着用していました。地下足袋が出現するまではわらじをはいていました。わらじはわら(稲の茎)で編みます。丈夫なものではありませんし、防水もできません。正二郎が地下足袋を発売するまで、似たような物がありましたが、実用的ではありませんでした。正二郎は改良に改良を重ねて、はりつけ式地下足袋を作りました。当時は第二次産業革命の進行中です。あちこちで工場やビルが建ちます。更に軍隊という大口需要があります。鉱山と電気工事に従事する者は地下足袋着用が義務化されました。前者ではワイル氏病の予防のため、後者では感電を防ぐためです。加えて関東大震災です。東京中が工事現場になったようなものですから、地下足袋は加速度的速さで売れました。大正3年工場が火事で焼けます。すぐに鉄筋コンクリ-トの新工場を建てます。ヘンリ-フォ-ドに習って流れ式作業を取り入れます。1932年(昭和7年)には地下足袋の年間生産は1000万足を超えました。この間第一次大戦で捕虜となったドイツ人技師を雇って技術改善に努めます。当時(現在でもそうですが)ドイツは技術先進国でした。地下足袋生産への飛躍は正二郎の時代を見る目の確かさを示しています。社名は「日本ゴム」になります。
 1928年(昭和3年)ゴム靴製造を開始し、福岡に新工場を作ります。1931年にはゴム靴の輸出数量は3400万足を超えます。ゴム靴製造では日本がアメリカやドイツを抜いてトップに立ちます。昭和5年兄徳次郎が相談役に退いて、正二郎が日本ゴムの社長になります。徳次郎は経営を弟に任せ、自身は市会議員、商工会議所会頭、名誉市長を歴任し、久留米という地域の発展に尽力しています。この間代理店網を整備し、専売店を作り、価格統制と区域統制を行っています。販売店が勝手に価格を変更し、よその店の縄張りを荒らしてはいけないということです。この点は松下幸之助のやり方と同じです。石橋正二郎という人には、技術屋としてのセンスと力量があります。地下足袋、タイヤ製造への執着は明らかに理系あるいは技術者の感覚です。しかし同時に製造だけでは会社が成り立たないこと、販売網の整備が企業の死活を分けることを知りぬいていました。
 昭和3-5年にかけて、正二郎はタイヤ生産を考え始めます。タイヤは自動車の地下足袋のようなものですが、かかる圧力が格段に違います。周囲はみな反対します。特にそれまで正二郎を信頼しきっていた兄の徳次郎が猛反対でした。当時日本のタイヤはグッドリッチとダンロップが販売額も品質もだんとつで、日本産製品は足元にも及びませんでした。地下足袋とゴム靴で儲けているのだから、海のものとも山のものともわからない、新規業種に飛躍することはなかろう、というのが周囲の大勢でした。正二郎はタイヤ製造に踏み切ります。アメリカのモ-タリゼ-ションを観察していると、タイヤの将来性は大きいものです。こういう商売人の目も彼にはありますが、同時に新しいメカニズムに挑戦してみたいという、技術屋的根性も無視できません。この点ではトヨタ自動車を創設した豊田喜一郎とそっくりです。正二郎はタイヤ生産にこだわり続けます。
 1933年(昭和6年)社名を「ブリジストン」とする、日本ゴムとは別の会社として、タイヤ生産は発足します。外資系二会社の製品との差は歴然たるものでした。ブリジストンが殴りこみをかけたので、タイヤ業界は乱売そして価格引下げ競争になります。トヨタと同じく、品質の差はサ-ヴィスで補います。責任保証制を取り入れます。故障したタイヤはブリジストンが引き取ります。足元を見られていんちきされることも多かったようです。支払いの時期は貴店のご随意に、という企業としては屈辱的条件も提案します。昭和8年は10万本のタイヤを生産します。が、10年までは収益ゼロでした。地下足袋やゴム靴でえた利潤を吐き出しているようなものです。兄の徳次郎は心配して側近に「うちのタイヤは売れているのかね 正二郎が困ったことに手を出したばかりに---」と例にないぐちをこぼします。昭和11年クロロプレン系合成ゴムを開発します。12年には統制経済の風潮にあわせて本社を東京に移します。1941年(昭和16年)の時点でそれでも、国内のタイヤ生産は、ダンロップが42%、ヨコハマゴムが32%、ブリジストンは28%でした。ヨコハマゴムは古河財閥がグッドリッチと組んで作った外資系の会社です。
 正直この段階国内シェア-が3割近くもよくあったものだと思います。統制経済で民需は抑えられ原料の供給は制限されますが、日本陸軍は装備の機械化をめざし、特に軍用車両の製造には熱心でした。トヨタと同じくブルジストンも民族資本として陸軍から保護され優先されました。ブリジストンが生き残れた原因の一つはこの点にもあります。ブリジストンもトヨタと同じく、戦後の技術革新で世界企業に成長しますが、戦時体制により強力な競争相手から保護されたことは事実です。社名が英語という敵性言語であるのはよくないとして、日本タイヤに改めさせられます。(昭和26年ブリジストンに復旧)ジャワ島占領と同時に、当地にあったグッドイヤ-社の工場管理に駆り出されます。この時正二郎は、戦況が不利になり撤退することになっても、生産設備は温存しておけ、と派遣される部下に言います。戦局の推移を冷徹に見通す眼の確かさに驚かされます。部下はいいつけを守ります。この事は戦後のグッドイヤ-社との技術提携に際して大いに有利に作用しました。終戦の間際に、軍から工場の本州への移転を命令され、時期遅しと抗弁し、遠ざけられます。軽井沢の別荘で不遇をしのいでいるとき、鳩山一郎と知り合います。鳩山の長男威一郎と正二郎の次女安子は後に結婚します。二人の間にできた長男が前首相の鳩山由紀夫です。
 1945年終戦、正二郎56歳の時のことです。正二郎はすぐ会社再建に乗り出します。海外の工場はすべて失いましたが、幸い横浜と久留米の工場は焼かれていませんでした。また軍の命令でスクラップにすべき3000トンの工場設備は担当者の気転で温存され隠されていました。ばれたら厳罰は必至です。勇将の下に弱卒なし、です。天然ゴムからガソリンを作るつもりで、軍命令で東亜燃料KKにあったこの原料ゴムを買い取ります。財閥指定を避けるために、日本ゴムと日本タイヤを分けます。前者は兄徳次郎の系統の者が経営します。打つ手が素早い。昭和21年には他社の例にもれず、労働争議が勃発します。ブリジストンの組合は企業内組合でしたが、共産党の細胞が入り、一部が過激化します。組合は、給与他の労働条件改善と同時に、会社の人事権の掌握を図ります。クロ-ズドショップ制(closed shop)と、役員会議への役員数と同数の労働者代表参加を要求します。前者になると、労働組合員以外の者は採用できないことになります。正二郎は待遇改善には極力努力するが、人事権の委譲は一切だめで押し通します。この件で一部妥協しかけた長男の幹一郎に、今後この件では一切口を出すなと、命令します。幹一郎も人事権を渡そうとしたのではありません。一部の組合幹部と接触しようとしたのです。正二郎は人事権云々という限り、組合との交渉は無用という態度を取り続けました。経営者としては当然の態度です。
 昭和25年渡米します。しばらく前から、正二郎は日本のタイヤ生産技術の遅れを痛感し、グッドイヤ-社との技術提携を模索していました。渡米して作業能率、規模、そして技術のどれをとっても段違いであることを更に知ります。特に日本ではタイヤの中に入れて、タイヤの強度を補強する繊維が木綿であったのに、アメリカではすでに合成繊維レ-ヨンでした。正二郎はこの技術を熱望します。グッドイヤ-社との交渉の要点は次の通りです。グッドイヤ-が受け取る技術料と、同社がブリジストンに支払う委託生産費の額の問題がまずあります。更にグッドイヤ-の製品をどちらの会社が販売するかの問題があります。ブリジストンとしては、当然自社で販売したいし、グッドイヤ-反対のことを考えます。適当な線で交渉はまとまりました。なおこの時グッドイヤ-はブリジストンに25%の出資を提案していますが、正二郎は峻拒しています。
 昭和25年朝鮮戦争が勃発します。戦時景気で儲かりますが、先物買いした原料ゴムの価格暴落で30億円の損金をだします。ゴム関係の企業も右へならえで、この危機は日銀特融で切り抜けます。昭和28年ナイロンコ-ドのタイヤを生産します。ナイロンが入ったタイヤです。昭和32年株式を公開します。38年社長から会長へ、同時に担当常務制を施行して、新社長幹一郎以下の合議制を計ります。48年相談役になります。1976年(昭和51年)肝硬変のため死去、享年87歳でした。正二郎の社会的貢献はいくつかありますが、代表的なものは、石橋コレクション(美術品)と久留米医大設立への膨大な寄付があります。
 現在ブリジストンタイヤの資本金は1263億円、売上額は2兆5970億円、純資産は1兆1207億円、総資産は2兆8084億円、従業員数は13万6684人です。(すべて連結)また世界市場ではブリシズトンとミシュランとグッドイヤ-三社がシェア-の半分を占めています。三社のジェア-はほぼ均衡しています。

 参考文献 創業者・石橋正二郎  新潮社

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日本史短評、田沼時代の文化

2020-06-02 13:17:40 | Weblog
日本史短評、田沼時代の文化

 田沼時代は侍があまり威張らない、強引に力で問題を解決しようとはしない、そして身分や格式にあまりとらわれない時代でした。意次自身遺訓の中で、仕事や武芸ができれば、遊芸はしてもいい、と書き残しています。
 江戸では遊戯性のある大衆文学が栄えました。洒落本、黄表紙、小咄本、川柳、狂歌、滑稽本などいわゆる戯作というジャンルに属する一連の本です。ここでは色気と滑稽が重要視されます。恋川春町の「金々先生栄花夢」や山東京伝の「江戸生艶気蒲焼」などが代表的な作品です。すこし内容が変わりますが上田秋成の「雨月物語」もこの時代の産物です。この時代江戸では旗本出身の大衆文化人が多かったことも特徴の一つです。つまり武士と町人農民の境が緩みました。洒落本作家でもあり狂歌師でもある烏亭焉馬は「咄の会」を主宰し、落咄(おとしばなし)を集めます。ここから話芸としての落語が発展して行きます。
 和歌・俳句から季語の不可欠性を放棄してできたものが川柳と狂歌です。川柳は柄井川柳の「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」が有名です。狂歌では唐衣橘州、四方赤良(大田南畝、蜀山人)、朱良菅江、宿屋飯盛が有名です。前三者は侍です。
 田沼意次・意行父子は冷泉家の門人になっていました。なんらかの形で京大阪に出張したり勤務する武士は和歌を学ぶことが多かったのです。江戸時代名歌はそう出ませんでしたが、和歌人口はむしろ増えたのかも知れません。国学の影響もありましょう。
 大阪では竹田出雲の「菅原伝授手習鑑」や「仮名手本忠臣蔵」が浄瑠璃で人気を集めます。それが江戸へ移入されると歌舞伎になり千両役者が輩出しました。歌舞伎が三味線を取り入れると、長唄、常磐津節、新内節、さらに清元節、富木節などの歌舞音曲が出てきます。
 吉宗の時代、儒学者青木昆陽と本草学舎野呂元丈は幕府からオランダ語習得の命を受けます。こうして蘭学が開始されます。1771年オランダの解剖学書「タ-ヘル・アナトミア(原書はドイツ語)」が前野良沢、杉田玄白、桂川甫周たちによって和訳され「解体新書」として発行されます。杉田玄白らに西洋医学を学んだ大槻玄沢は蘭学の入門書である「蘭学階梯」を著わし、江戸に「芝蘭堂」を設け蘭学普及研究の中心になります。世界地理や天文学も蘭学の影響を受けます。林子平の「三国通覧図説」や「海国兵談」が有名です。大名の中にも「蘭癖(らんぺき、オランダ好き)」と言われる大名、薩摩の島津重豪や丹波の朽木昌綱のような人物が出ます。
 18世紀後半はどの藩も藩政改革に必死でした。旧来の秩序維持や習慣ではやってゆけない時代だったのです。この事に関しては次章・次次章で取り上げます。藩政改革の中の重要な項目が藩校の樹立です。武士を新進官僚として育てるためです。この余波は民衆にもおよび、19世紀に入ると「教育爆発」ともいえる現象が起こり、全国に寺子屋が林立します。
 田沼時代とはこのような時代でし

(蘭学者たち)
① 青木昆陽
1698年江戸の魚問屋の子として生まれます。22歳、京都古義堂の伊藤東涯の門に入り、儒学特に経世の学を修めます。江戸に大火があり、両親の家が焼けたので江戸に帰り両親の面倒を見ることになります。父母の死に際しそれぞれ三年の喪に服します。この孝養を与力加藤枝直に認められ大岡忠相に推挙されます。昆陽は「甘藷考を」書いて大岡に提出し甘藷(さつまいも)の栽培や貯蔵の方法を述べます。これが吉宗の知るところとなり、薩摩芋御用掛に任じられ、また幕府の書物を自由に閲覧する事を許され、書物御用・写物御用を命じられやがて十人扶持の御留守居役に任じられます。42歳、吉宗から同僚の野呂元丈とともにオランダ語を学ぶように命令を受け、以後毎年江戸に参府するオランダ人からオランダ語を学びます。著作には「和蘭貨幣考」「和蘭話訳」「和蘭文訳」「経済簒要」「刑法国事訳」などがあります。評定所勤役儒者となり将軍にお目通りを許されています。1769年72歳で死去。
② 前野良沢
 1723年出生。父親は筑前藩士谷口新介、中津藩医前小野家の養子となります。両親が早く亡くなり、伯父淀藩医宮田全沢に養われます。全沢は博学であったが少し変わったところがあり、人のやらない事をする傾向があったと言われます。良沢も猿若狂言を習ったそうです。良沢が蘭学を志したのにもこの傾向が絡んでいるかも知れません。40歳過ぎ良沢は青木昆陽についてオランダ語を習います。もっとも昆陽の「和蘭話訳」を読んでオランダ語の一端を知っただけかもしれません。後、藩侯に請うて長崎に遊学しオランダ通詞に直接オランダ語を学びます。手に入った蘭書の中に「タ-ヘル・アナトミア」がありました。1771年千住小塚原で杉田玄白らとともに死体解剖をする機会に恵まれ、「タ-ヘル----」の記述が事実と一致する事を知り、杉田らとこの蘭書の翻訳を始めます。4年後の1774年翻訳完成、「解体新書」として出版。その後良沢はオランダ語の普及に努めます。著作は多く主たるものに、「和蘭訳文略」「助語参考」「和蘭築城書」「魯西亜本紀」などがあります。前野良沢によってオランダ語学がいちおう整理され、その教育が体系化されたと言えるでしょう。
③ 杉田玄白
1733年小浜藩医の子として江戸で出生。徂徠学派の宮瀬龍門について経世学を収めます。参府のオランダ人を尋ねオランダ外科の優秀なのを知り、通司を通じてオランダ語を学びます。前野良沢、中川淳庵らとともに刑場小塚原で死体解剖を実見し、これが「タ-ヘル・アナトミア」の解剖図と一致する事を知り同書の翻訳を開始、1774年翻訳完成、「解体新書」として出版します。オランダ外科の本格的導入を志し、ハイステルの外科書の翻訳を志し後、この翻訳を高弟大槻玄沢に託します。門人数は100名を超えます。著書は他に「傷家大成」「和蘭医事問答」「狂医之言」などがあり、他に社会問題を論じた随想「後見草」、北方問題についての「野卑独語」があります。「解体新書」翻訳の苦労の過程を語った「蘭学事始」は我が国における近代医学の起源を述べたものとして有名です。
④ 大槻玄沢
1757年仙台藩の支藩一関藩の医師の子として生れます。22歳の時杉田玄白の天真楼塾に入塾し医学を学ぶ傍ら、前野良沢についてオランダ語を学びます。長崎遊学、仙台藩医になり、江戸本材木町で芝蘭堂を構え、子弟の教育に当たります。門人数は総計100名を超えます。蘭学の入門書である「蘭学階梯」は名高く蘭学の普及に資するところが大でした。ハイステルの外科書の翻訳を志し、序文のみを「傷医新書」として出版します。完訳は子供大槻玄幹や弟子たちに任されます。「解体新書」の改訳を為し、「重訂解体新書」として出版します。翻訳は前者よりはるかに精緻でした。
玄沢は海外事情の研究にも貢献しています。1804年ロシア使節レザノフに伴われて漂流した仙台藩漁民が連れ帰られた時、彼らの漂流談を聞き取り「環海異聞」を編述する傍ら、日露関係の歴史を調べて「北辺探事」を著わしています。またイギリスとの関係にも注目し「捕影問答」を著わします。蛮書和書御用を命じられ、外交文書の翻訳に当たり後、将軍拝謁を許されています。71歳死去。
⑤ 司馬江漢
 1747年江戸に生れます。若くして画を学びます。はじめ狩野派そして浮世絵を学び、春信風の美人画を描きます。平賀源内と接触しその影響を受けて西洋画を描くようになります。前野良沢について多少オランダ語を学び、同門の大槻玄沢の影響で油絵・銅板画に転じます。一方西洋の天文学・地理学に興味を抱き、「銅板興地全図」「銅板地球全図」「銅板天球図」「西洋画談」「和蘭通舶」などを著わし、得意の画技をもって解りやすい図解を併用しつつ、西洋天文学を祖述し地動説の普及に努めます。後、思想的に変化し、虚無的・老荘的になり、「独笑妄言」「無言道人筆記」「天地理談」などを書きます。奇行もあり、その生涯は生年月日も含めて解らないところが多い、と言われます。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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  平成不況に関して(10)

2020-06-01 18:32:43 | Weblog
平成不況に関して(10)

日本の問題はアメリカを避けては語れません。ではアメリカの経済はどうなっているのでしょうか。アメリカの産業特に製造業が1980年代以後回復したとは聞いていません。日本との貿易関係に関する限り、単純に例示すると、自動車と農産物の交換です。ただアメリカで唯一伸びた・成長した産業があります。金融業です。バブルのころ東京の証券取引所がニュ-ヨ-クのそれにとって代わると言われました。既述のように日本の金融は低調なものになります。その分ニュ-ヨ-クは更に大きい金融センタ-になります。簡単な計算をしてみましょう。ニュ-ヨ-クの取引所で売買される株式の金額は一日で16兆円にはなります。これは比較的控えめな数字です。取引額の1%を手数料とすれば一日で1600億円の儲け、年に直すと約60兆円。日本国家予算の半分です。多分この額では済まないでしょう。(以上の概算は東京証券取引所の数字を参考にし、それを4倍にして計算しました。仮に売買の手数料が3%だとすると数字は三倍になります。)
更に株式は金融資産として利子を産みます。計算が難しいのですが東京証券取引所の資産総額と利子率を参考に計算するとやはり米国民は年間40兆円の利益を受けている事になります。アメリカのGDPに最大の寄与をしているものは金融業でしょうがせいぜいこのくらいでしょうか。しかし金・資金はともかくとして金融技術というものがそれほど経済に寄与するでしょうか?過去の世界史を見れば製造業が金融化するたびに、製造業は拠点を移し再生しました。中世欧州のギルド拒否、都市外脱出(ア-バンエクソダス)がいい例です。日本も同様です。平安末期から地方に産業が伝播して江戸時代の農業革命・人口増加を招きました。
 加えて金融には常に投機つまり「相手を出し抜く詐術」という印象がついて回ります。また株式の売買で儲けるためには資金の多い方が有利です。資金のある者が株価を操作して食い逃げすることもできます。ですから金融は弱肉強食、優劣(貧富)の差の拡大をどうしても伴います。仮に貧富の差の超拡大社会を想定し、1000人の人が一人1000億円の収入を得、1億人のその他の人が各自100万円の収入だったとすればその国の収入の半分は1000人の大富豪に行きます。人口を1000万人として同じ条件で計算すると貧富の差はもっと開きます。このような国はアフリカなどに行けばごろごろしています。
 どうやらアメリカとはそういう社会のようです。過去30年間にアメリカは三度金融恐慌に近い事をやらかしています。1997年(?)のアジア金融恐慌、ほぼ同年のLTCM事件、2008年のリ-マンショックです。アジア金融危機では発達途上国から資産を巻き上げ、リーマン事件では国内の貧乏人からお金を巻き上げました。LTCM事件に至っては所詮ギャンブル・偶然・確率でしかない賭け事を、科学的に勝利必然の方法を用いると言うのですから噴飯物です。当事者の頭脳と、もちろん良心を疑います。
 このように考えるとアメリカとは貧富の差を拡大させつつ金融から得た資産で食いつないでいる国になります。それでいてアメリカは純債務が莫大で1000兆円とも2000兆円ともいわれています。まっとうな製造業の弱い、金融のみで食いつなぎ、膨大な借金を抱えたアメリカの資金の出回り先はどこか、そのアメリカの紙くず同然のドルを保証している国はどこなのか?答えは中国と日本です。荒っぽく総括するとアメリカは金融で食い、しかも経常収支の大赤字を出し、それをドル増刷(垂れ流し)で補い、中国がこのドルを使います。ただし赤字国と後進国の取引は危険です、というより本来不可能です。貧乏人が貧乏人に資金を融通するのですから。その中間に日本が入れば関係は安定するでしょう。ドルが危ないとなると日本円に切り替えればいいのですから。日本のGDPはアメリカの1/4、中国の1/2(ほんまかいな)と言われます。日本の実質的経済力はそれ以上でしょう。加えて日本は軍事国家でありません。高度な製造業を所持し輸出輸入の平衡も保たれ豊かな資産を持ち(その多くは預金)、ですから日本の円は相対的に高く世界から安全資産とみなされています。ですから日本は米中の経済の保持発展の下支えをしていることになります。ドルの価値は円の価値で支えられているのです。世界経済は「円本位制」と言っても過言ではありません。ただしこのままでは日本はゆっくり衰微してゆきます。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
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経済人列伝  西山弥太郎(一部付加)

2020-06-01 13:51:21 | Weblog
経済人列伝  西山弥太郎(一部付加)

 西山弥太郎といえば、川崎製鉄千葉製鉄所の設立で有名です。千葉製鉄所がなぜ、それほど画期的な試みで、弥太郎の名をいやがうえにも高くさせたのかと、言いますと、次のような理由が考えられます。それまで鉄鋼御三家といわれた、八幡、富士、日本鋼管が独占していた銑鋼一貫製造メ-カ-の中に食い込んだ事、のみならず将来の鉄鋼需要の増大を予想して、三社独占では日本の鉄鋼生産が不十分であり、工業立国たるに相応しくないという見地から、果敢な挑戦を成し遂げた事にあります。
(注)八幡と富士は後に合併して現在の新日鉄になっています。なお文中「弥太郎」と表記しますが、「弥」は略字であり、本来は難しい旧字を使うべきですが、ワ-ドにないので失礼とは思いますが、略字の方を使用します。
 弥太郎は1893年(明治26年)神奈川県ゆるき郡吾妻村に生まれています。先祖は北条氏に仕えていましたが、秀吉により北条氏が亡ぼされると、帰農し代々酒造業を営む一方、本陣を経営する村の有力者でした。屋号は井筒屋、当主は豊八を名乗ります。父親豊八は養蚕業を営み、網元も兼ね、村の収入役を堅実にこなす、実直な人柄でした。弥太郎は豊八の十男に生まれます。本当は十一男でしたが、長男が夭折したので十男になりました。履歴書を書くときなど、なにかの間違いではないかと、よく反問され恥ずかしかったと述懐されています。少年期は運動万能、特に水泳大好きで、遊びまわっていました。成績はまずまずの上というところです。小学校(4年)高等小学校(4年)を卒業すれば、特に本人も両親も、それ以上の高等教育を望まず、親戚の金物屋の手伝いにやられます。ここで弥太郎は鉄や他の金属でできた製品がいかに高く売れるか、に仰天し、鉄の研究を志したとあります。すこし怪しそうな話です。しかし弥太郎という人物は、徹底した技術屋であると同時に、後年川崎製鉄社長に就任した時のやり方からわかる様に、営業における商才も充分持ち合わせています。だからこの話は伝説に限りなく近い事実でしょう。
 弥太郎の生き方は一変します。私立錦城中学に進み、そこから一高、東大工学部というお決まりのエリ-トコ-スを進みます。工学部では競争の激しい冶金工学科に入り、俵国一教授の指導を受けます。一高・東大時代の弥太郎は黙々と勉強する特徴のない優等生であり、同期のものが逸話を語るに困る、と言われました。学生時代八幡製鉄で実習し、また川﨑造船を見学しています。1921年東大を卒業し、川﨑造船に就職。26歳ですから少し遅れた卒業になります。なぜ川﨑かといえば、どうも見学した時川崎が一番新鮮に写ったからのようです。入社早々労働争議に出会います。ともかく戦前戦後を通してこの川﨑造船(製鉄)というのは争議に縁の深い会社です。当時友愛会という日本で始めての労働者の団体ができ(鈴木文治の項を参照)、室蘭製鉄、川﨑・三菱の両造船所で大争議が持ち上がりました。結果は友愛会側の敗北ですが、会社が無傷というわけには行きません。ただ入社早々のホワイトカラ-である弥太郎には直接の関係はありません。しかし歴史に残る大争議ですから、事情によっては弥太郎の人生に影響を与えたかもしれません。多分彼はかなりの興味をもって、この争議を見ていたと思います。第二次大戦後弥太郎を経営者として有名にさせた理由は、戦後の争議を解決したからです。経営者としての実力を認められたから、千葉製鉄所建設という破天荒な事業をかなり強引に推し進める事が可能になったのでしょう。
入社した弥太郎は葺合(ふきあい)工場の製鋼掛に任命されます。神戸市には以前葺合区という区がありました。葺合区は生田区と合併して現在、中央区になっています。つまり弥太郎は関東から関西の神戸にやってきました。以後人生の大部分を関西で過ごし、彼の名を不朽にする事業では、再び関東の千葉に進出して大仕事をします。弥太郎は製鉄製鋼一本に生きますが、彼が就職した会社の主力は造船業です。徐々に製鉄部門の比重が大きくなり、製鉄所を兵庫、葺合、久慈(岩手県)、西宮、保土(長野県)、知多(愛知県)、千葉、水島(岡山県)と増設拡張してゆきます。入社当時の社長は松方幸次郎、正義の子供で、幸次郎も明治大正の経済界に波乱を呼んだ男の一人です。後に列伝で取り上げようと思っています。
工場の上司は小田切延寿という人でした。鉄鋼製造の事実上の責任者で、海軍の技術将校(大佐)から、川﨑へ転職し、厳しい指導で知られた人です。弥太郎は火で眉を焦がすと言われたほど、現場重視に徹します。小田切の指導です。就職して以後、金融恐慌さらに大恐慌などがあり、3500名の解雇、争議と、会社は青息吐息の経営です。昭和6年満州事変勃発でやっと一息つきます。この間現場ではドイツ人技師ドリ-ゼンの指導下に、作業能率の改善を試みます。作業成果を数値で示すようにして計量化を計ります。その数値に基づき、能率給にします。弥太郎はこの改革の先頭に立ちます。どんな改革も現場の保守勢力には歓迎されません。反発、抵抗そしてとうとう暴力事件が起こります。この事件は基本的には旧来の職人と新勢力である技師との対立です。暴力事件を知った小田切は関係者を全員解雇します。のみならず改革派には警察をつけます。こういう事もありました。そしてこの事件の解決は、後年の大争議に際して弥太郎がとった対処法とよく似ています。
 1933年(昭和8年)「塩基性平炉改造の経過とその成績」を雑誌「鉄と鋼」に載せ、服部賞を取ります。この賞は工業技術者の世界では最高の栄誉でした。これで弥太郎は「平炉の西山」の異名をもらうことになります。同年製鋼課長に昇進。1935年当時の社長のめがねにかない洋行し、帰国して技師長に昇進します。この間工場の一部が日本鋼管の一部と合併し、昭和鋼管という会社が生まれます。また会社自体が株主の肩代わり問題で揺れます。川﨑は何度も危機に立ったので自己資本は少なかったようです。株主が変ると経営方針に影響が出ます。この問題は軍部が介入してかたがつきました。国家の大事の時に、株主騒動とは何たる事かと、すでに軍人の時代に入っていました。会社は昭和14年社名を「川﨑重工業株式会社」に変更します。弥太郎は昭和17年に取締役に就任します。会社は軍需工場に指定されます。昭和18年のサイパン陥落により米軍機の本土爆撃が可能になり、日本の大都市、特に東京、名古屋、大阪は徹底的に爆撃されます。川﨑重工業も同様、生産工程の大部分が破壊されました。しかし弥太郎はこのような状況下で、将来の鉄鋼生産の基本的青写真を考えています。それは銑鋼一貫製造工場、つまり溶鉱炉を持つ工場の建設です。川﨑重工業の中の、6つの製鉄工場は統合され弥太郎が製鉄所長になります。
 終戦。鋳谷社長以下の役員多数は退陣します。公職追放です。弥太郎は追放か否かのぎりぎりの、立場に置かれひやひやします。幸い追放は免れました。会社は当分社長なし、役員の合議制を取ります。この難しい時期弥太郎は将来の日本の鉄鋼業に関して以下のような構想を語ったと伝えられます。
  既存の施設が破壊されたのだから、最新の設備を備える好機
  原料を近くに持つ必要は少なくなる
  日本の工業は鉄鋼業を基幹産業として復興する
  銑鋼一貫過程は鉄鋼業の宿命 そこまで行かなければ意味はない
  外地から引き上げてきた技術者の活用
  株式売買で成績を上げるのは嫌だ、あくまで製造技術で勝負
この構想は千葉製鉄所建設で実現されます。しかしその前に弥太郎が解決しておかければならない事があります。戦後ほとんどの大企業を襲った争議の嵐です。
 昭和23年に大争議が持ち上がります。組合は物価上昇に伴い、賃上げを要求します。製鉄所側は能率給と増産、そして人員整理を提案します。戦後の危機にあって組合は生活防衛を、会社は会社存続をかけて対決します。しかし当時の争議は単なる経済問題ではありません。共産党は会社の乗っ取りや壊滅を要求していました。資本主義の牙城である大企業を、ソ連型の国営ないし共有制にしようとします。ストをうち、生産管理を要求します。戦術は過激になり、暴力的になります。役員がタバコの火を顔に押し付けられるというような事もありました。(東芝での話)弥太郎は断固対決に踏み切ります。部下に「葺合工場をつぶしても良い 責任は俺が持つ」と発破をかけます。共産党の政治優先を嫌う、組合幹部の意向を見抜き、会社側に抱きこみ、管理職にして、対組合交渉の前面に立てます。第二組合を作ります。大学教授を法律顧問に雇います。組合の一部過激派が給食場に乱入したのを、好機として、警察を導入し、関係者を逮捕させ、告訴します。彼らは懲戒免職になります。そして残りの幹部に会社の置かれた実情を話し、結局3000名の解雇に同意させます。こうして川崎重工業製鉄所の争議は会社側の勝利に終わります。弥太郎という男は単なる技術屋ではありません。争議を解決した事で弥太郎の経営者としての名声は上がります。東芝の争議を解決した石阪泰三と同様です。また会社における評価も格段にあがります。西山天皇の異称が与えられました。この間川崎重工業の造船部門と製鉄部門が分離します。製鉄部門の独立は弥太郎の念願でした。1950年(昭和25年)57歳、弥太郎は川崎製鉄株式会社の初代社長に就任します。資本金は5億円でした。前後して日本鉄鋼連盟常任理事になります。5億円の資本で総計270億円の事業が試みられます。それが千葉製鉄所の建設です。
 社長就任の昭和25年、銑鋼一貫工場建設計画書を沿え、見返り資金供与の嘆願書を通産省に提出します。川鉄千葉建設の資金計画は、総計273億円、第一期工事費用は114億円、うち増資15億、借入金19億、社債9億、自己資金71億円でした。場所は防府(山口県)にするか千葉にするか、最後の最後まで迷います。結局千葉の日本航空機跡の60万坪(1坪は3・3平米)を買い、加えて前面の海30万坪を埋め立てます。さらに海を掘りぬき突堤を作って港を作ります。水は印旛沼から直接引き、足らないところは井戸を掘ります。技術者には旧満州から引き上げてきた人材を大量に雇用し活用します。
 川鉄千葉の建設は早くから弥太郎が胸に抱いていた計画です。なによりも溶鉱炉を持った製鉄所、つまり銑鋼一貫工場の建設を弥太郎は念願していました。彼は戦後日本の工業が飛躍的に発展すると確信していました。「鉄は国家なり」(これは彼の言葉ではありません)の確信のもとに、戦後の鉄需要の増大を見込み、計画を立てました。当時銑鋼一貫工場を持っていたのは、八幡、富士、日本鋼管の三社だけ、他の大手である川鉄、神戸製鋼、住友金属は銑鉄を他から買い、鋼鉄を作る平炉メーカ-でした。これらの三社はすべて関西に本拠を置きます。川鉄千葉の建設は、平炉メーカ-による三社独占への挑戦という意味もあります。しかしなによりも三社独占を崩して、国全体での鉄鋼の大増産を計るのが弥太郎の意図です。技術的には酸素利用とストリップミルの採用が焦点になります。二つの工法はすでに欧米では試みられていましたが、弥太郎はこれの最新式を大規模に採用します。つまり世界で一番進んだ技術を取り入れます。銑鋼一貫製造は製造費用を低下させます。遠くから重い銑鉄を運ぶのにかかる、運搬費がほとんどいらなくなります。そして新工場は簡素化を旨に、移動行程を最小化する方向で進められました。
 資金計画を提出された通産省は検討に入ります。通産省としては前向きに臨んだようです。問題は日銀です。お金はここから借りる、あるいは承諾を得るのですから。時の日銀総裁は一万田尚人で法皇といわれていました。一万田はいい顔をしません。「千葉工場にぺんぺん草が生える云々」という事実か伝説か解らない話は、天皇と法皇両者の交渉の過程ででました。結局一万田は折れます。1951年(昭和26年)千葉製鉄所開設。同年世界銀行から2000万ドルの融資を受けます。当時の1弗は360円ですから、日本円に直せば72億円になります。1953年千葉工場所第一高炉火入れが行われます。こうして川﨑製鉄千葉製鉄所は運転を開始します。なお弥太郎はくず鉄の値上がりを予想して、買い込み、約100億円の資金を作ったといわれています。単なる技術屋のできる事ではありません。
 弥太郎はもう一つの銑鋼一貫工場を岡山県の水島に作っています。1961年同工場は開設されました。1966年(昭和41年)癌のため死去。享年73歳でした。

 参考文献 西山弥太郎伝 鉄鋼新聞社編 非売品 大阪市立図書館蔵
 日本産業史(2) 日経出版
(付)川崎製鉄h2002年日本鋼管と合併し、JEEスチ-ル株式会社となる。JEEの現況概観は以下の通り。
  売上高     3兆2033億円(連結)
  営業利益    4080億円
  純利益     3147億円
  純資産     1兆1067億円
  総資産     3兆6412億円
  従業員数    45317名

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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日本史短評、公事方御定書、世界で初めての(?)民事法典

2020-06-01 13:51:21 | Weblog
日本史短評、公事方御定書、世界で初めての(?)民事法典

 吉宗の政治で特記すべき事は「公事方御定書」の制定です「武家諸法度」とならぶ江戸時代を代表する法律です。二つの法を比較してみます。武家諸法度は
   大名同士が将軍の許可なく同盟や婚姻関係を結ぶこと
   大名が将軍の許可なく城を糧に普請すること
   幕府の法に反した者をかくまうこと
   主君への反逆者殺害犯を召し抱えること
等の禁止を主要内容とします。対象は大名です。この法度の目的は大名の叛乱の防止監視にあります。武家諸法度と並ぶ幕府初期の主要法典である「慶安のお触れ書」の対象は農民で、そこには、勤倹節約して労働し年貢を完済しよ、と強調されています。そのためには、お上への服従が奨励されます。後は武家に対しても農民に対しても、その時その時の慣習に従って判決していただけです。荻生徂徠は幕府のこのやり方を批判し、せめて判決の記録くらいは残しておくべきだ、進言しています。彼の意見に影響されたのか、吉宗はそれまでの幕府の法制や判例を参考にして、総合法典といえる、「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」を1742年に作成しました。ここに書かれていることは以下の内容です。
   訴訟手続、裁判管轄、訴訟要件、時効、内容などの一般的事項
   村政に関すること
   町政に関すること
   殺し・盗み・火付け等の、一般刑法の対象となること
が実務的見地からかなり詳細に記載されています。特に村落共同体の財政、質地小作に関する事例(事実上の農地売買)、貸借関係、偽証文や二重質入れなど経済関係の事項が目立ちます。さらに奉公人請負、捨子、隠れ娼婦、駆落ち、不義密通、心中など、当時の民政を悩ませていた事項も沢山盛られています。武家諸法度と比較すると公事御定書は次のような特徴を持ちます。
 訴訟裁判が客観化され法制化されている
   全体に量刑が軽くなっている
   経済や民政関係の事項が増加している
 この法律の制定は当時の世相を反映し、同時にこの法律により経済行為が促進されます。流通商業と経済現象が成文法の中に初めて記載されます。しかしこの法律の経済行為に対する力には限界があります。幕府は、貸借関係をなるべく内済つまり当事者同士の話合いで解決させ、公権力による民事訴訟への介入は極力避けようとします。1719年に(ですから吉宗の政治の初期)に江戸町奉行所で取り扱った公事26000件のうち、93%が金公事(貸借関係)なのにもかかわらずです。しかし吉宗が裁判手続きを客観化し、経済や民政の事項を成文法の内容として明記した事実は大きいものです。法が明確にされないと高度な経済生活は営めません。
 西欧と比較してみましょう。西欧で初めて民法ができたのはナポレオン法典です。それなら西欧ではそれ以前には民法は無かったのでしょうか。イギリスにもフランスにも弁護士法律家はいました。彼らは民事に関与していたはずです。刑事事件だけでは食って行けませんから。ここに面白い事実があります。18世紀前後に活躍した政治哲学者にJ・ベンサムという人がいます。彼は功利主義哲学を創始しました。そのきっかけが当時に刑事裁判の実態への批判にあります。当時イギリスでは金銭を盗むと文句なく縛り首つまり死刑でした。これではひどい・残酷だというのでベンサムは法律の適用の合理化に務めた次第です。この実態を見ると英仏に民法が整備されていたとはとても思えません。そう考えれば「公事御定書」は近代の世界で最初の民法になります。また当時のイギリスでは犯罪者が多く、とてもすべて処刑するわけにはいかないので、北米や豪州などの流刑植民地に追放しました。

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経済人列伝  正力松太郎(一部付加)

2020-05-31 15:55:50 | Weblog
経済人列伝  正力松太郎(一部付加)

(1)正力松太郎は明治18年(1885年)富山県射水郡大門(おおかど)町に生まれました。家業は祖父の代からの土建請負業、苗字帯刀を許された家柄です。小学校時代は腕白、しかし体はひ弱い方でした。高岡中学に入ります。松太郎の健康を心配した父親は、運動部に入る事を強く要請します。松太郎は柔道部に入ります。中学の同級生には河合良成や松村謙三がいます。中学卒業時成績はビリから3番目だったとか言われています。少なくとも優等生秀才には程遠い人柄のようでした。金沢第四高等学校在学時、柔道に関して逸話があります。三高・四高戦で三高の猛者を捨て身の巴投げで急襲し、四高の勝利に貢献します。東京帝大法学部卒、高等文官試験の順位がぱっとしないので警察庁に入り、デカ(刑事)生活を始めます。警察に入ってからの昇進は猛スピ-ドでした。
(2)最初の任地が東京市内日本橋堀留署の署長です。位は警視でした。通常なら現場の刑事が長年勤め上げて、やっと就ける地位です。普通高等文官試験(現在では上級国家公務員試験、キャリア-組)合格者は現場の仕事は現場任せです。松太郎は違ったようで、現場の捜査にも熱心でした。熱心と言うより好きだったのかも知れません。彼の署の管轄内に米相場の取引所と兜町があります。言ってみれば、日本中で一番金が、それも投機専門のホットマネ-が動くところです。ややこしい不正事件は沢山あります。脅し、たかり、ゆすりの類にも事欠きません。ある札付きの地回り(一定の縄張りを支配し、上納金を取るやくざ)の不正事件を担当します。代々の刑事がどうしても挙げられなかった事件です。この時松太郎は、自分が責任を持つからと、現場の刑事を激励します。さらに刑事買収用に贈られた金を、一時受け取るべく指示します。これが決め手となって、地回りは御用になりました。賄賂は現場の刑事から松太郎に渡され、封筒のまま金庫に保管されていました。この事実は松太郎が職務に熱心だっただけでなく、捜査活動が好きだった事を示唆します。おとり捜査(コ-ルバ-ド)です。現在日本では禁止されていますが、アメリカではよくこの手を使うようです。もう一つ当時世間を騒がせた事件が島倉義平の殺人事件です。被害者は島倉の女中でした。事件はすでに被害者の自殺と認定されていたのを、あるきっかけから松太郎は再度捜査し、島倉を挙げます。
 以後は米騒動、早稲田大学の争議、普選運動に伴う争議、東京市電スト、共産党幹部の検挙などと治安畑を歩きます。職歴から見ると典型的なエリ-トです。職位の方も、現場の署長から監察官、刑事課長、警務部長そして官房主事と昇進します。刑事課長はヴェテランの叩き上げでないと務まらない、とされていました。高文出身の松太郎の就任は異例です。松太郎が他の職に栄転するとされた時、上司が、彼がこの職を去れば東京の治安は乱れる、といって反対哀訴したそうです。
(3)官房主事は警察庁にあって政界要人と接触し、政界の意向を伺うと同時に政界を監視するような職務でもありました。当時貴族院があり、貴族院は衆議院より実際には政界を動かす力は強かったと言われています。松太郎は貴族院のメンバ-、つまり華族と親しくなり、また次期総理と噂される後藤新平や財界世話人と言われた郷誠之助などと、昵懇になります。ここで培われた人脈は松太郎の後の人生に大きく影響してきます。そして大正12年虎ノ門事件が起こります。難波大助という共産主義者が虎ノ門付近で、摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃します。難波は死刑になりましたが、この事件で山本権兵衛首相以下、内相、警視総監、果ては末端の署長に至るまで辞職します。松太郎も辞職し浪人生活に入ります。懲戒免職でした。松太郎の警察官時代、よく大病をする彼を、彼の母親が歎いて、お前が捕まえた悪党達の怨念で病気になるのではないのかと、心配しました。有能且つ峻厳な警察官、正力松太郎であったようです。
(4)翌大正13年松太郎は読売新聞の経営の話を持ち込まれます。読売新聞は明治7年創刊になる古い歴史を持っていました。明治20年ごろにはなかなか盛んな名声を得ていましたが、以後振るわず、郷誠之助を筆頭とする財界巨頭が集まる工業倶楽部に、事実上の経営方針は任されていました。(注)経営者である社長に人を得ず、当時実質発行部数は5万部くらいでした。松太郎は読売新聞の経営を引き受けます。この時ちょっとした逸話があります。さしあたり10万円ほどの資金が要ります。後藤新平に相談に行くと、即座に快諾されました。後で解ったことですが、後藤は自分の家屋敷を抵当に入れて、銀行から10万円を借りてきたということでした。

(注)当時一番発行部数の多かったのは大阪系の朝日と毎日でした。東京系は振るわず、時事新報、報知新聞、東京日日新聞、そして読売新聞というところですが、これらの新聞は朝日毎日の後塵を拝していました。これら4新聞のうち、後に大を為すのは読売のみで、あとはほとんど他社に吸収合併されています。

 松太郎の経営が始まります。始め幹部や記者達の松太郎への反感は激しいものでした、松太郎が警察出身なので、デカ上がりに何ができると、思われていました。部長クラスが揃って辞表を出します。威嚇です。松太郎はこの内の少数を除き、他の辞表は受理します。幹部一掃です。松太郎は朝8時に出勤します。異例です。まずなによりも無駄な出費を省かねばなりません。記者の前借は禁止します。この額は相当な額に昇り、浪費に加えて、社内人脈の紊乱の原因にもなっていました。新聞社の出費のかなりの部分が紙代です。松太郎は現場に張り付いて、紙の無駄を指摘します。広告取得に伴うバックマ-ジンのピンはねの防止、新聞の未収代金の回収などなどが行われます。人員整理も敢行されました。
 新聞経営は、紙面拡充と広告と販売政策の三つから成ると言われます。まずなによりも読者の獲得です。松太郎の水雷艇戦術なる奇襲戦法が開始されます。そのころラジオ放送が始まっていました。ラジオ版を紙面に作ります。ラジオ番組の紹介です。ただ機械的に番組の時間表を載せるのではなく、芝居、小説、芸能などなどの番組を、その道の有名な専門家に説明してもらいます。これは当たりました。もっとも当初肝心のラジオ販売業者は、無理な事としてこの試みを無視していました。
 次に碁の報道を開始します。宿敵同志の、本因坊と雁金七段の対局を報道します。紙面に全三段をとり、大体的に報道します。単に碁の布置のみならず、碁好きの有名人に感想を語らせます。その頃不況で大きな新聞は夕刊を廃止しました。松太郎は逆に、それまで夕刊を発行していなかった読売に(だから二流新聞であったわけです)、日曜日の夕刊を発行させます。色刷漫画も搭載し、子供たちの人気も引きます。
 日本名宝展を開催します。旧家に代々伝わる家の宝を展覧会の形で主催します。松太郎は警察庁官房主事の時、貴族院のメンバ-と昵懇になっていたのでコネは充分です。華族の筆頭である、近衛家の当主文麿を標的にします。彼とも松太郎は旧知の仲でした。近衛家の門外不出と言われる「御堂関白日記」(注)の展示を請います。快諾されました。今ならこの種の催し物はしょっちゅうですが、当時としては全く新規で破天荒な企てでした。記事には専門家の解説が付きます。他に以下のような家法が展示されました。「伴大納言絵巻(酒井家)」、「金の茶釜(藤堂家)」「三日月宗近の名刀(徳川家)」「後鳥羽院の熊野懐紙(西本願寺)」などです。前後して多摩川園菊人形展も行います。これらの催し物に際し、松太郎は無料入場券を大量に配りました。理由は、タダのお客も見たら、吹聴してくれる、客が多いと、景気よく見えて客が増える、ということです。

(注)御堂関白とは藤原氏の全盛を謳歌した道長のこと。彼がつけた日記を御堂関白日記と言う。これは古典としての、また歴史の資料としての価値もさることながら、貴族の日記には特異な政治的価値もあった。平安時代有力な貴族は日記をつけた。これは故事来歴を知り、政治における儀礼行為を誤らないためであり、その意味では彼らの日記は彼らの政治行為の記録である事を超えて、政治的抱負でもあった。日記を持つ事はその家筋の当主である事の表明であり、政治権力の根拠でもあった。だから日記は通常の財宝以上に尊重された。藤原氏(北家)は道長の6代後の忠通の時、近衛家と九条家に分かれる。この時日記の所有を巡って争いが起こり、日記は忠通の長男、基実の家系に引き継がれている。従って近衛家は道長さらに遡り鎌足直系の藤原氏の当主という事になる。なお近衛家から鷹司家が分流し、九条家から一条家と二条家が分流して、五摂家と言われて今日に至っている。摂家は臣下筆頭とされるが、事実上は準皇族とも言える立場にある。

 以後イヴェントを催し、それをニュウスヴァリュ-と為し、記事を書きたてるのは読売新聞の得意芸になります。あれやこれやの活躍で読売新聞は昭和5年現在で22万部の発行に至ります。 
(5)翌昭和6年満州事変が勃発します。戦争は新聞にとって飛躍のチャンスです。日本の新聞は、西南戦争、日清戦争、日露戦争と戦争を機にして、伸びてきました。同時に戦争と言う状況は取材能力の差を露にさせます。大きな新聞は特派員を派遣して取材し、また軍や政府の内部から情報を引き出しますが、小さな新聞はそれができず大新聞社に吸収合併されます。読売も危急存亡の時を迎えます。松太郎は読売の資本力を超えて、思い切って夕刊発行に踏みきります。特派員を戦地に派遣します。試みは吉と出て、これを機に販売部数は増大します。22万部が翌年には50万、更に57万、60万、75万と躍進し、昭和12年には98万部に達します。昭和17年時点で、朝日128万部、読売156万部、です。もっとも新聞社の発行部数の本当は解りません。
 この間松太郎は東京市長選挙に立候補し、落選しています。市長選と微妙に絡み合いながら、彼は京成電鉄疑獄事件や帝人事件に巻き込まれます。前者は、京成電鉄と東京市電の相互乗り入れを斡旋する、東京都の政界のボス二人に、松太郎が京成電鉄から送られた10万円を渡すのを仲介した、事件です。本当の事は解りませんが、松太郎は無罪のところ進んで入獄したと書かれております。
 帝人事件というのはもう少し複雑です。鈴木商店が帝国人絹の株を抵当として台湾銀行に入れていました。株価が繊維業界の好況により上昇します。帝人株の売買に政財界の黒幕と言われた番町会という組織が、暗躍して株価操作で儲けたと、時事新報を主宰していた武藤山治が紙上で告発し、国会でも大問題になりました。松太郎はこの番町会のメンバ-の一人でした。この事件にはいろいろ解らないところがあります。告発者の武藤が暗殺され、捜査はうやむやになったとか、後味の悪さを残した事件です。(注)昭和10年、松太郎も暴漢に襲われ重傷を負いました。これは帝人事件とは関係ないようで、新聞社の販売合戦からくるもつれという線が濃厚です。新聞販売の裏面はかなりやばくて、ややこしいそうです。

(注)番町会について。財界の長老渋沢栄一の引退後、財界世話役として活躍していた郷誠之助の東京麹町区番町の私邸に集まるグル-プ。メンバ-には、伊藤忠兵衛、永田護、長崎英造、小林中、河合良成、正力松太郎、鳩山一郎、中島久万吉、三土忠造らがいる。(長尾和郎著、正力松太郎の昭和史、より)

(6)松太郎の新聞販売拡張策は常にイヴェント絡みですが、これらの試みの中で最大の成果はプロ野球の創設です。はじめ松太郎は拳闘やテニスの試合を主宰し記事にしていました。その延長上に野球があります。事の発端は米国の人気選手ベーブル-スの招待にあります。昭和9年にベ-ブル-スを始めとする米国の球団が来日し、日米親善試合を行いました。日本の選手は大学野球と都市対抗野球の選手団からなっていました。この試みにお上から待ったがかけられます。神宮球場を職業的選手に使用させるわけにはいかないと。それならいっそプロの球団を日本にも作ろうではないかと、松太郎は考えました。こうして読売巨人軍あるいは巨人ジャイアンツという球団ができました。一球団だけでは試合はできません。松太郎は各地に職業野球の球団創設を訴えます。すぐ8球団ができました。昭和11年までに巨人、阪神、中日、阪急、金星、近鉄、太平洋、東京セネタ-ズが名乗りを挙げます。なお日米親善試合の出場メンバ-は、総監督・市川忠男、監督・三宅大輔・浅沼誉夫、投手沢村栄治、・青柴憲一・スタルヒン・浜崎真二・伊達正男、捕手久慈次郎・倉信雄、内野手三原脩・苅田久徳・山下実、外野手二出川延明・中島治康他総計31名、これが巨人軍の最初のメンバ-になります。
(7)満州事変で読売は躍進しましたが、状況は破局に向かい急傾斜して進行します。戦時経済体制が敷かれました。政府命令により、社外出資が禁止されます。株式会社の運営は事実上不可能になります。読売は資本金700万円の有限会社になります。次に用紙が制限されます。これで新聞社はのど元を押さえられました。紙面は検閲されます。新聞社合併法案が成立します。政府は1県1新聞社の方針を取ります。京都新聞、東京新聞、中日新聞はこの時の合併でできました。朝日、毎日、読売の三大中央紙の合併も指示されました。三者は必死になってこの方針に抵抗したそうです。読売はこの間報知新聞を吸収合併しています。
(8)終戦のほぼ直後、読売新聞では労働争議が持ち上がります。昭和20年末から21年前半にかけて争議は熾烈を極めました。労働組合は争議団体を結成して、団体交渉を行います。指導者は鈴木東民という記者でした。争議団の要求は、社内運営の民主化、編集第一主義、戦争責任の追及、正力松太郎の引退です。要は会社の自主管理、そして好きなことを好きなように書かせろ、です。争議団体の背後には、社外の支援勢力がいます。社会党の河上丈太郎、加藤勘十や、出獄したばかりの共産党の徳田球一が乗り込んできました。背後には日本の民主化(?)を計るGHQ(占領軍司令部)がいました。しかも松太郎は戦犯の指定を受けて、巣鴨に入獄しなければなりません。会社占拠、工場の争奪戦、争議団体による自主的な(?)新聞発行が行われます。昭和21年に入ると占領軍の認識に変化が訪れます。米ソの対立は激しくなり、日本への態度も変ります。旧敵国・潜在的敵性国家から、反共の砦として、日本の位置づけが変化します。読売争議がなんとか、会社を潰さずに済んだのは、占領軍の意向の変化のお陰です。GHQの態度の変化を見た政府はただちに争議に介入し、新聞ゼネストを中止させ、左翼系社員を一掃します。それにしてもこの争議は熾烈なものです。豊田喜一郎の項でのべたトヨタの争議もきついものでしたが、比較になりません。トヨタ争議は昭和26年、読売は戦争直後ですから、時代背景の違いがあります。(注)

(注)戦犯指定・追放は占領軍の日本民主化(?)の一環として行われました。最初はそれなりの一貫した方針があったようですが、次第に占領軍の意向にそわない者が追放されるようになります。政府部内での権力の対立により巧に追放された者もいました。最も代表的な被害者が石橋湛山です。戦前から小日本主義を唱え、植民地反対、議院内閣制の堅持を訴え、リベラリズムを信奉していた、石橋は占領軍の経済政策に反対して、拡張型経済を指導したため、追放されました。なお占領直後のGHQ(事実上米軍)は日本のエリ-トを一掃し、工業施設の最良部分は東南アジアに持ち去り、日本を完全な農業国にする意向でした。

 昭和22年松太郎は釈放されます。23年夕刊復活。松太郎は芸能連盟を支援します。歌舞伎や落語あるいはその他の芸能人の生活も戦争直後は苦しいものでした。さらに彼らは芸人馬鹿とでも言いましょうか、金勘定に疎く、騙されて生活は困窮していました。松太郎は彼らを助けます。さらに関東レ-スクラブを支援します。競艇と競馬の支援です。
 が、戦後松太郎が行った最大の事業は、民営テレヴィ会社の設立、原子力行政、そして念願の読売新聞大阪進出です。政府は始めテレヴィはNHKだけでいいと考えていました。松太郎はこの方針に猛反対し、あくまで民営テレヴィ設立を要求します。すぐ10億円の資金を集めます。昭和27年テレヴィ免許第一号が下り、翌28年日本テレヴィ(読売系)が開局します。新しいメディアに乗り、その成長を支援しながら、新聞発行を増やしてゆくのは、ラディオの時と同じです。巨人阪神戦は最大の人気番組になりました。テレヴィがまだ普及しない頃、街頭でテレヴィ放映を見せる商法は、松太郎のアイデアです。まず実物を見せる、見た人は買いたくなる、需要増大は大量販売を可能にし、価格は下がる、という循環が形成されます。
 昭和27年大阪進出が大体的に行われました。大阪市北区野崎町にビルを建てます。このビルの管理は朝日芸能という会社に任せ、新大阪印刷株式会社を設立します。覆面部隊です。大阪日日新聞や新大阪新聞を賃刷りしつつ、戦時統制の影響がまだ残り、まだ専売網のが再建されていない虚を突いて、一気に販売網を広げます。朝日毎日の朝刊行月250円だったのを、180円にして売ります。大阪は朝日毎日の根拠地であり金城湯池でした。そして大阪系のこの二新聞が東京に進出して、全国の新聞界を牛耳っていました。読売新聞の経営を松太郎が引き受けた時、朝日毎日は一流紙、読売は二流紙以下の存在でした。正力松太郎にとって、大阪進出は生涯の念願でした。朝日と読売のいわゆる朝読戦争は以後今日まで続いています。
 昭和30年衆議院議員初当選、同年第三次鳩山内閣の国務大臣兼原子力委員会委員長就任。昭和44年死去、享年84歳。ちょうど王・長島を擁し、川上監督に率いられた、巨人軍の、V9進軍の真最中でした。正力松太郎が造った文化が四つあると、ある人が言います。読売新聞、プロ野球、民営テレヴィそして原子力行政です。当たっています。良い生涯でした。

 参考文献  伝記・正力松太郎   御手洗辰雄 講談社
       正力松太郎の昭和史  長尾和郎  実業之日本社

(付記)
正力松太郎の伝記を読んでいると、プロ野球の巨人阪神戦の意味が実感されます。松太郎は隆盛にある大阪系新聞、朝日・毎日に対して、弱小の東京系新聞である読売の経営を引き受けました。幕下が横綱に挑戦する観があります。読売が生き残るためには、大阪系に勝たねばなりません。野球特に巨人阪神戦は、その点では新聞販売の象徴・代理戦争の意味を持ちます。ただそれだけではありません。野球は宣伝媒体としても重要です。特に巨人阪神戦は!松太郎は昭和9年の時点でそこまで見通していたのでしょうか?もしそうなら頭が下がります。その通りに成りましたから。
一時期子供の好きなもの、巨人・大鵬・卵焼きと言われました。それほど巨人の人気はすごかった。宣伝媒体としては充分です。大阪系の新聞も反撃しました。毎日オリオンズです。しかし毎日は強引な選手引き抜きで阪神ファンの敵意を買い、大阪を代表する球団には成れませんでした。昭和27年時点では読売より毎日の方が全国の販売部数は上です。しかし40年代になると関西の読売新聞読者は急増し、その分毎日は凋落します。また朝日も一時球団を持った事がありますが、早々にこの分野からは退却しています。ちなみに私は父親の代からの阪神ファンです。そしてどういうことか現在は読売新聞を購読しています。
 なぜ阪神巨人戦が重要なのか?特に読売新聞にとって。もう一考すれば甲子園という存在があります。松太郎が巨人ジャイアンツを作る前から全国中学野球大会(現在では高校野球)があり、人気は急上昇していました。この大会の後援者は朝日新聞です。松太郎や読売新聞には甲子園をライヴァル視する充分な理由がありました。甲子園に優る人気を求め、実現した結果が巨人ジャイアンツです。

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日本史短評、大岡忠相と徳川吉宗

2020-05-31 13:50:20 | Weblog
日本史短評、大岡忠相は徳川吉宗

大岡忠相は41歳で町奉行に就任しています。吉宗将軍就任1年後の事です。以後20年間町奉行を続けています。本文にも書きましたようにこの長さは異常です。寺社奉行は大名職なので町奉行は旗本の就く行政官では最高位です。吉宗は自分を将軍に建ててくれた老中たちに遠慮して、綱吉家宣政権で実力者であった側用人(大名職)を置かず、旗本職の御用取次(側衆)に替え、紀州から連れてきた有馬氏倫と加納久通を側衆に任じました。吉宗は実際の政治をこの二人の側衆と三奉行でやりました。三奉行の内寺社奉行は形式的で譜代大名の出世コ-スでしかありませんし、当時も勘定奉行は一格下に見られていましたから、町奉行は実務官僚の中で最高官になります。ということは、大岡忠相は最初から吉宗政権に深く関係していたと言えましょう。町奉行は重職です。単に江戸市内の治安警備だけでなく、本文に述べたように江戸の物価政策にも関与します。簡単に言えば江戸の物価が上がれば打ちこわし(暴動)が起きます。だから江戸の治安に責任を持つ町奉行は当然経済政策に関与してきます。こういう重職を20年大岡は務めました。
 特に元文の貨幣新鋳は幕府の貨幣政策で成功した初めてものです。この新貨幣鋳造は金貨の中の金含有量を減らし、そしてそのことを公開します。また新旧の貨幣を金の量目でもって価値を計り交換しました。この措置は二つの事を結果します。まず貨幣量が増大します。次に金に対する銀の価格が安くなります。前者は好景気を結果し、後者は米価を引き下げます。米は大坂から江戸に搬入されていました。金高銀安になると大阪からのコメの値段は下がります。吉宗政権は始め、年貢増徴、通貨改良(小判等の金銀含有量を増やすこと)などをやってことごとく失敗してきました。そしてこの元文の新鋳です。この政策を大岡は主導しました。彼の器量と将軍の信頼の篤さが解るというものです。
 吉宗は1745年に引退し将軍職を長子家重に譲りますが、その際大岡は吉宗から重大なそして内密の相談を受けています。家重相続には多くの反対がありました。家重には言語障害という重大なハンディがありました。ですから多くの関係者は吉宗の次男田安宗武を押しました。この宗武は極めて優秀な人物で国学や狂歌の世界でも一派をなすほどの文化人でした。しかし吉宗は家重という不肖の息子が可愛くてたまりません。加えて嫡庶長幼の順というものがあります。吉宗は家重後継の事と、自分が30年間に敷いてきた政策の一貫性を引退の後にも保持したく思います。ここで邪魔者が出てきます。勝手係老中(従って老中首座)の松平乗サトです。彼が勘定奉行神尾春央(百姓と胡麻の油は搾れば絞るほど云々、の名文句を吐いた能吏です)と組んで次第に幕府を牛耳り始めていました。二人とも有能ででした。別に乗サトが反逆を企てたと言うのでもありません。ただ乗サトも宗武擁立派でした。家重襲封となると、乗サトの専権はいよいよ強化されます。ここで吉宗は乗サトを罷免します。そして安心して家重に将軍職を譲ります。この陰謀と言っても良い相談、吉宗死後の事、などなど内密の件に関して大岡はすべて吉宗の相談にあずかっています。こうなると大岡は一介の実務官僚ではありません。れっきとした懐刀謀臣です。初代家康の謀臣本多正信のような存在です。
 大岡忠相の幕政における主要な仕事は、財政具体的には物価の安定でした。前記したごとく大岡の主敵は大坂の両替商(金融資本)でした。20年間大岡は戦い、最後には寺社奉行という閑職に追いやられます。1751年吉宗と忠相はほぼ同時に亡くなります。運命ですがこれを君臣水魚の契りと言うのでしょう。
 吉宗は名君です。徳川将軍15人の中で一番人気が高い将軍です。理由はいろいろあります。まず武勇を愛する武断派でありつつ荻生徂徠の極めて先進的な政見に興味を示し、公事方御定書という日本最初の民法法典」(ひょっとすると世界で初めての)を制定します。政策の施行は柔軟です。吉宗が怒った言葉を吐いたのを見た人はいないというくらい性格の安定した人物でした。そして長男家重への愛情も深かった。これには事情があります。家重を産んだ側室お須磨の方は早く死にます。吉宗はこのお須磨の方が忘れられず、側室に彼女の有縁のものを探すように言います。有縁の女性はいましたが、御面相は良くありません。側近がその旨告げると、女は器量などどうでもいいい・温和で嫉妬深くなければ良い、と言います。その新たな側室との間にできたのが次男の宗武です。かく愛情深い反面、松平乗サトにしたような謀略も平気で行います。だいたい紀州徳川家の三男で美濃の小大名だった吉宗が兄二人の頓死にめぐり合わせて将軍になれたのも不思議と言えば不思議です。吉宗は将軍直属の諜報機関「御庭番」を作りました。吉宗の時代は元禄から田沼時代に移行する過渡期でした。だから政策も試行錯誤の連続です。吉宗のような人物だからこそ時代の危機を乗り越え得たのでしょう。
 ちなみに吉宗は自分の子供(将軍家重以外)の子供に田安と一ツ橋の両家を作り与え、将軍家嫡流の血統が絶えた時この両家(加えて9代家重の子供の清水家)から出すように指示しています。御三卿と言います。田安宗武の子供が松平定信です。
 大岡忠相と田沼意次を比較した時面白い事にきづかされます。大岡はせいぜい1万石の大名、寺社奉行と奏者番に留まりました。意次は次に述べるように老中と側用人を兼ね実質的に専権を行使します。時代の差もありましょうが、主君である将軍の違いもあります。吉宗は強い自己の意志と政見をもった君主でした。意次の主君は身障者家重そして坊ちゃんである家治でした。主君の違いが大岡と田沼の位置の違いに反映されています。
 なお大岡忠相の裁判をドラマ化したお話が以後出回りました。名奉行大岡越前守の裁判を舞台にしたお話です。代表的なものに、「天一坊」、「白子屋お熊」、「髪結い新左」、「煙草屋喜八」、「村井長庵」などがあります。そのほとんどは能吏大岡忠相に仮託した作り話です。
 吉宗の治世で忘れてはいけないのは「「江戸城御庭番」の設置です。監察期間としては目付・大目付がありましたが、彼らは行政官僚化し本来の監視機能は衰退していました。吉宗は紀州以来の武士を登用し、彼らの一部を「御庭番」とします。簡単に言えば新たな諜報機関です。彼らは単なるスパイではありません。御庭番を務めた人には栄進の道が開かれています。幕末渡米し日米通商条約の締結に努力した使節の一人には御庭番出身の人もいます。

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