「君民令和 美しい国日本の歴史」ch13 連歌と茶会 注5
(浄瑠璃説教)
平安時代から仏法のありがたさを説法として聴衆に聴かせる習わしがありました。唱導と言います。この唱導が専門化します。その遠祖は比叡山延暦寺の澄憲(保元平治の乱で有名な人物藤原信西の子)です。彼は破戒僧侶の典型でしたがその美声と弁才ゆえに朝廷の閨房にも出入り自由でした。多分婦人たちに人気があったのでしょう。彼の子供聖覚も同様で安居院(あぐい)派を作り以後唱導は職業になって行きます。やがて唱導は寺院から独立し、放浪の遊芸民に担われる大衆芸術になって行きます。彼らはささらという楽器(打楽器それとも弦楽器?)を用いて調子を取り、一定の内容のお話を語ります。もともとが説法説教であるだけに、内容は宗教的です。内容のあらましは、まず主人公の転落と悲劇(地獄の境涯)を語り、流浪彷徨の末に、主人公は浄土往生するというものです。
いろいろなものがあったそうですが、次の五つが五説法といわれ、ささら浄瑠璃の代表です。「さんせう太夫」「小栗判官」「しんとく丸」「かるかや」「愛護の若」の五つです。ここでは五説法のトップ「さんせう太夫」を取り上げその荒筋を紹介します。なおこの主題に関しては森鴎外の「山椒大夫」があります。また放浪遊芸民と浄土往生の二つを考慮に入れますと、鎌倉中期に生まれた一遍の時宗とも関係がありそうです。初めはささらだけが楽器でしたが江戸時代に入り三味線の伴奏も用いられます。しかし近松門左衛門をはじめとする浄瑠璃が盛況になると浄瑠璃説教は落ち目になりすたれてゆいます。「さんせう太夫」の筋書きは以下の通りです。
① 奥州54群の主、岩城判官正氏は帝の怒りに触れて所領を失い、九州大宰府に配流されます。正氏の妻と安寿厨子王の姉弟それに乳母の四人は、帝に事情を説明し、正氏を赦免してもらい、併せて所領安堵の為に、磐城国伊達郡信夫庄を経ち、京への旅に出ます。そして越後国直江津にやってきます。
② そこで山岡太夫という人買いの手にかかり、母と乳母は蝦夷に(乳母は途中海に身を投げ死去)、安寿と厨子王は丹後国由良庄のさんせう大夫のもとに売られます。この太夫は多くの譜代下人を使う無慈悲と貪欲を売り物にする土地の支配者でした。
③ 太夫は二人に呼び名を付け、姉には塩汲み、弟とには柴かりを命じます。二人は慣れぬ仕事に難渋し、いつもふさぎ顔をしているので、正月を迎えるある日、縁起が悪いと言う理由から、別屋に隔離されてしまいますこの差別に不運をかこつ二人でしたがどうすることのできません。
④ やがて二人は逃亡の計画を話し合いますが、不幸にも太夫の三男で残忍非情な三郎に立ち聞きされ、焼きごてを顔に当てられます。この刑罰に満足しない大夫は二人を松の木の湯舟(大きい船)の下に閉じ込め飢え死にするように仕掛けます。大夫の次男二郎は慈悲第一の人で、密かに二人に食事をあてがい、生命を全うさせます。
⑤ 餓死を免れた二人は大夫の命令で、山へ労役にやらされます。姉の安寿は良い機会と喜んで、厨子王を山から逃がし、自分は火責め水責めの極刑にあって惨死します。厨子王は大夫の邸を逃れ、丹後の国の国分字に入り身を隠します。大夫一味は追手をかけ、国分字に乗り込みますが、住職の聖(ひじり)は日本国中の神々を勧請して大誓文をたて、厨子王はいないとはねつけます。なおも執拗な三郎の詮索にあいますが、かなやき地蔵の霊験にあって三郎たちは退散し、厨子王は無事に護られます。
⑥ 厨子王はここで一歳を聖に打ち明け、その背に負われて京都に出ます。聖は都の朱雀権現まで来て、そこで厨子王と別れて丹後にかえります。今は足腰も満足に立たない厨子王は乞食となり、都童子(わらんべ)に育まれ、土車に引かれて天王寺へ送られます。天王寺の石の鳥居にすがって足腰の立つようになった厨子王は、そこで天王寺の阿闍梨に拾われ、賤しい茶汲童子として暮らすようになります。
⑦ ある時都屈指の貴族、梅津殿が養子を求めて天王寺に現れ、百人の稚児が居並ぶ席に臨みます。そして末席に座る厨子王を見出し、満場の失笑を買いながらも、その身体を湯で清め、輝くばかりの稚児に変えてしまいます。
⑧ 梅津は厨子王を養子に迎え、厨子王はやがて帝と対面し、玉造の系図の巻物などを証拠として、もとの奥州54群の主に帰り咲きます。
⑨ 喜びのうちにも姉の安寿の死を悼み、また母の行くへを尋ねて蝦夷に行き、そこで盲目となって手足の筋を斬られ鳥追いの仕事に携わる母親を発見して喜びの対面をします。
⑩ 母を救出する一方、厨子王は復讐の思いを片時も忘れず、国分字の庭にさんせう太夫を呼び寄せて、三郎に命じて父の大夫の首を竹ののこぎりで三日三晩でひかせるという極刑でもって臨みます。不幸な死に方をした姉の安寿は後に鋳焼地蔵として現れ、衆生を利益するありがたい仏として今も信仰を集めています。
以上が「さんせう太夫」の荒筋です。他に「父親の後妻の呪詛で瀬病となった乙姫が彼を救い天王寺で元の体に還るしんとく丸」、「見初めた照手姫の親兄弟に殺され土葬されるが、物言えぬ餓鬼として蘇り照手姫の手で土車で熊野本宮に運ばれそこで蘇生する小栗判官」、「世の無常に耐えかねて法然上人のもとで出家し高野山に上り、妻子との面会を拒否する父親と会いたい子供の相克、子供が信濃の善光寺で出家してやっと父子対面がかなうあかるかや」「父親の後妻に邪恋され、断って家を追われ、最後は父親たちもろともに池に飛び込み死にそして後山王権現として蘇生する愛護の若」などがあります。
(浄瑠璃説教)
平安時代から仏法のありがたさを説法として聴衆に聴かせる習わしがありました。唱導と言います。この唱導が専門化します。その遠祖は比叡山延暦寺の澄憲(保元平治の乱で有名な人物藤原信西の子)です。彼は破戒僧侶の典型でしたがその美声と弁才ゆえに朝廷の閨房にも出入り自由でした。多分婦人たちに人気があったのでしょう。彼の子供聖覚も同様で安居院(あぐい)派を作り以後唱導は職業になって行きます。やがて唱導は寺院から独立し、放浪の遊芸民に担われる大衆芸術になって行きます。彼らはささらという楽器(打楽器それとも弦楽器?)を用いて調子を取り、一定の内容のお話を語ります。もともとが説法説教であるだけに、内容は宗教的です。内容のあらましは、まず主人公の転落と悲劇(地獄の境涯)を語り、流浪彷徨の末に、主人公は浄土往生するというものです。
いろいろなものがあったそうですが、次の五つが五説法といわれ、ささら浄瑠璃の代表です。「さんせう太夫」「小栗判官」「しんとく丸」「かるかや」「愛護の若」の五つです。ここでは五説法のトップ「さんせう太夫」を取り上げその荒筋を紹介します。なおこの主題に関しては森鴎外の「山椒大夫」があります。また放浪遊芸民と浄土往生の二つを考慮に入れますと、鎌倉中期に生まれた一遍の時宗とも関係がありそうです。初めはささらだけが楽器でしたが江戸時代に入り三味線の伴奏も用いられます。しかし近松門左衛門をはじめとする浄瑠璃が盛況になると浄瑠璃説教は落ち目になりすたれてゆいます。「さんせう太夫」の筋書きは以下の通りです。
① 奥州54群の主、岩城判官正氏は帝の怒りに触れて所領を失い、九州大宰府に配流されます。正氏の妻と安寿厨子王の姉弟それに乳母の四人は、帝に事情を説明し、正氏を赦免してもらい、併せて所領安堵の為に、磐城国伊達郡信夫庄を経ち、京への旅に出ます。そして越後国直江津にやってきます。
② そこで山岡太夫という人買いの手にかかり、母と乳母は蝦夷に(乳母は途中海に身を投げ死去)、安寿と厨子王は丹後国由良庄のさんせう大夫のもとに売られます。この太夫は多くの譜代下人を使う無慈悲と貪欲を売り物にする土地の支配者でした。
③ 太夫は二人に呼び名を付け、姉には塩汲み、弟とには柴かりを命じます。二人は慣れぬ仕事に難渋し、いつもふさぎ顔をしているので、正月を迎えるある日、縁起が悪いと言う理由から、別屋に隔離されてしまいますこの差別に不運をかこつ二人でしたがどうすることのできません。
④ やがて二人は逃亡の計画を話し合いますが、不幸にも太夫の三男で残忍非情な三郎に立ち聞きされ、焼きごてを顔に当てられます。この刑罰に満足しない大夫は二人を松の木の湯舟(大きい船)の下に閉じ込め飢え死にするように仕掛けます。大夫の次男二郎は慈悲第一の人で、密かに二人に食事をあてがい、生命を全うさせます。
⑤ 餓死を免れた二人は大夫の命令で、山へ労役にやらされます。姉の安寿は良い機会と喜んで、厨子王を山から逃がし、自分は火責め水責めの極刑にあって惨死します。厨子王は大夫の邸を逃れ、丹後の国の国分字に入り身を隠します。大夫一味は追手をかけ、国分字に乗り込みますが、住職の聖(ひじり)は日本国中の神々を勧請して大誓文をたて、厨子王はいないとはねつけます。なおも執拗な三郎の詮索にあいますが、かなやき地蔵の霊験にあって三郎たちは退散し、厨子王は無事に護られます。
⑥ 厨子王はここで一歳を聖に打ち明け、その背に負われて京都に出ます。聖は都の朱雀権現まで来て、そこで厨子王と別れて丹後にかえります。今は足腰も満足に立たない厨子王は乞食となり、都童子(わらんべ)に育まれ、土車に引かれて天王寺へ送られます。天王寺の石の鳥居にすがって足腰の立つようになった厨子王は、そこで天王寺の阿闍梨に拾われ、賤しい茶汲童子として暮らすようになります。
⑦ ある時都屈指の貴族、梅津殿が養子を求めて天王寺に現れ、百人の稚児が居並ぶ席に臨みます。そして末席に座る厨子王を見出し、満場の失笑を買いながらも、その身体を湯で清め、輝くばかりの稚児に変えてしまいます。
⑧ 梅津は厨子王を養子に迎え、厨子王はやがて帝と対面し、玉造の系図の巻物などを証拠として、もとの奥州54群の主に帰り咲きます。
⑨ 喜びのうちにも姉の安寿の死を悼み、また母の行くへを尋ねて蝦夷に行き、そこで盲目となって手足の筋を斬られ鳥追いの仕事に携わる母親を発見して喜びの対面をします。
⑩ 母を救出する一方、厨子王は復讐の思いを片時も忘れず、国分字の庭にさんせう太夫を呼び寄せて、三郎に命じて父の大夫の首を竹ののこぎりで三日三晩でひかせるという極刑でもって臨みます。不幸な死に方をした姉の安寿は後に鋳焼地蔵として現れ、衆生を利益するありがたい仏として今も信仰を集めています。
以上が「さんせう太夫」の荒筋です。他に「父親の後妻の呪詛で瀬病となった乙姫が彼を救い天王寺で元の体に還るしんとく丸」、「見初めた照手姫の親兄弟に殺され土葬されるが、物言えぬ餓鬼として蘇り照手姫の手で土車で熊野本宮に運ばれそこで蘇生する小栗判官」、「世の無常に耐えかねて法然上人のもとで出家し高野山に上り、妻子との面会を拒否する父親と会いたい子供の相克、子供が信濃の善光寺で出家してやっと父子対面がかなうあかるかや」「父親の後妻に邪恋され、断って家を追われ、最後は父親たちもろともに池に飛び込み死にそして後山王権現として蘇生する愛護の若」などがあります。






