経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

メディアとサロメ-「天皇制の擁護 第六章 古代ギリシャ」(解説 4)

2008-11-30 02:01:30 | Weblog

 メディアとサロメ-「天皇制の擁護 第五章 古代ギリシャ」解説(4)
 
 王位争いに巻き込まれたイア-ソンは王位継承の約束と引き換えに、金毛の皮衣を持ち帰るべくアルゴ-船に勇者を乗せて出かけます。途中いろいろな危険に会います。目指すコルキス王国に到着してその地の王アイエ-テ-スに金毛の皮衣を要求します。王は、口から火を吹く牛の番を打ち破れたらどうぞ、と言います。アイエ-テ-スの王女メディアは、エロス神の放った矢に当たりイア-ソンに恋します。メディアからさずかった魔法の力で金毛の皮衣をイア-ソンは奪います。追っ手を逃れて彼とメディアはギリシャへ帰ります。コリントの王はイアーソンに自分の娘と王位を約束し、メディアとの離別を勧めます。この提案にイア-ソンが乗ったのを知ったメディアは仇の王女を焼き殺し、イア-ソンとの間に出来た二人の子を刺し殺して、魔女となって天空に逃げ去ります。
 
 サロメは新約聖書に出てくる女性です。ユダヤ王ヘロデの娘(連れ子かも?)サロメは当時聖者の誉れ高かったヨハネに恋します。ヨハネはキリストの先行預言者です。ヨハネにはねつけられたサロメは父王にヨハネの逮捕と処刑を願います。ヨハネの首が宴席に運ばれてきた時、サロメはこの首を皿に載せて、手に持ちつつ踊ります。
 
 ギリシャとユダヤの二人の女性を登場させました。同情はメディアの方に多いようです。こういう血なまぐさい話はわが国にはありません。いったいあちらの人には人畜の区別がもう一つ曖昧です。鯨やペットが人間様のように扱われるかと思うと、ある時期の黒人やタスマニア人のようにれっきとしたhomo sapiensでさえも畜生扱いされます。しかしこの二人は西欧文化では最も有名な女性です。40年前「Never on sunday」というギリシャとアメリカの合作映画がありました。主演はメディナ・メルク-リ,後にギリシャの文化相になった女優です。ここでメディナのイメ-ジがうまく使われています。メルク-リは年増でしたが結構お色気がありました。演技もうまかった。

 申し遅れました。ギリシャ神話の英雄伝説はすべて神々の後裔として描かれます。その意味では神統譜です。神々の子孫がどのように地界に定着して行くか、神がどうのように人になるのか、の過程の叙述です。この過程を主催し了導する存在が英雄です。

 (12月1日から経済関係の意見を発表します 準備期間は終わりました) 

ギリシャの哲学 天皇制の擁護 第六章 古代ギリシャ」解説819

2008-11-29 03:05:34 | Weblog

ギリシャの哲学 -- 「天皇制の擁護 第六章 古代ギリシャ」解説(2)

哲学はギリシャに始まる、と言われます。哲学とは素朴な経験を概念へと抽象化する作業です。だから哲学がギリシャに由来するとすれば「学」的なものはすべてギリシャからとなってしまいます。それで我々はギリシャ文化に、従ってその後裔を自称する西欧文明にかなりな劣等感を抱きます。ソクラテスはともかくプラトンやアリストテレスの著作は現存しているものだけでもかなりあります。両者の全集はA4版で1m以上になります。私もこの翻訳にはお世話になりました。が、読んでいて眠たい。プラトンはどう見ても同工異曲、世捨て人の夢想です。アリストテレスは定義の羅列と整理です。面白いはずがありません。

しかしそう割り切ってしまうと、種は案外簡単。原点はやはり彼らの師匠ソクラテスに行き着きます。そしてソクラテスの特技は否定弁証法、つまり相手に真実と思われる事を語らせて、その矛盾を突き、論敵が出した定義を次々に打ち破って行く手法です。彼は最終的には何も言いません。結論は出しません。哲学と言うものは結論を出すのが一番危険です。だから哲学とは、現在する諸概念の検討の過程そのものかも知れません。そしてソクラテスが出した結論は「無知の知」です。人間は何も知らないのだから、謙虚に反省して云々、になります。
なーんだそんなことだったのか、と言われても仕方ないことですが、どっこいこいつがなかなかおもしろい。ギリシャだけに視野を制限せずもっと広く見てみましょう。釈迦は「縁起無我」と言いました。縁起はともかく「無我」の方はかなりソクラテスの「無知の知」に近いところにあります。ソクラテスが「解らない」という「点」に留まったのに対して、釈迦はそこから「縁起」へ飛躍し、さら「世界全体」に視野と体験を広げます。こうして大乗仏教というものが誕生しました。ソクラテスと釈迦は案外同一物の表裏、の関係にあるのかも知れません。
さらに次章「ユダヤの神」で述べる予定の「一神教」も同じレヴェルで捉えられます。「一神教」とは「唯一の神」だから「命名不能、定義不能、表現不能なる神」です。下手に表現すればその全体性と神聖が傷つけられ、憶念は交錯して、唯一の神どころではなくなります。「何も言うな、何も知らないのだから」ということです。

 ギリシャ哲学、原始仏教、ユダヤ教といえば全く違う代物に見えますが、原点ではよく似ている、いや同じかもしれません。このうちユダヤ教が一番古いのか?BC538年ペルシャ王によりバビロン捕囚から解放されエルサレムに帰還したユダヤ人により、現在ユダヤ教といわれるものの骨子が出来上がりました。ソクラテスはBC5世紀後半の人、釈迦の生存年月日は正直不明です。550年ごろとも250年ごろとも言われその間の中間段階まで入れると確定不能です。まあBC500年ごろとしておきましょう。ユダヤ思想も帰還後すぐできたというわけでもありますまい。ソクラテスの先輩の哲人は沢山います。そう考えるとユダヤ、仏教、ギリシャの教えはほとんど同時期にできたと想像されます。そして肝心なところはよく似ている。

 世界地図を広げると、ギリシャ、パレスチナ、インドは結構近い。当時すでにインド洋を渡って商船は行き来していました。ペルシャ湾に入ってそれからチグリスとユーフラテスとを遡行すれば両河上流あたりでこの三者が交流してもおかしくありません。事実後年ユダヤ教の後裔であるキリスト教の諸派はインド方面に宣教しましたし、逆に仏教は僧侶をペルシャから両河方面に送っています。ユーラシア大陸の両端に位置する西欧人や日本人から見れば遠く思えても、彼ら三者はかなり近い関係にあったと思われます。無知の知、縁起無我、一神教はかなりな程度親縁関係にあるように私には見えます。

 専門家の話ではギリシャ・ラテンという古典古代の文献の翻訳は日本が数量ともに一番優れているそうです。西欧では同系統の言語という安心感ゆえか、翻訳は大雑把だそうです。また東アジア諸国の人々は日本語訳の恩恵を受けているとも言われます。日本に行けばたいていの重要な文献は翻訳されています。日本語のみで充分ともいえるのです。ある外大生がウクライナ語を勉強しました。日本国内に適当な文法書がなく、現地まで言ったそうです。そこで文法書なるものを探したところ、現地の人に、そんなものはない、といわれ唖然としたそうです。私は大阪市立図書館で文献を探します。そこには外国語の辞書が沢山あります。英和、独和、仏和は当然として、ロシア語、中国語、アラビア語はもちろん、東南アジア諸語、ヒンディ-、ウルドウ-、スワヒリ、ペルシャ、モンゴル、さらには東ゴ-ト語という西欧中世初期の死語まで、日本語辞書があります。ざっと50カ国くらいの辞書があるんではないでしょうか?便利なものです。

戦場民主主義-「天皇制の擁護 第六章 古代ギリシャ」解説(1)

2008-11-28 01:34:13 | Weblog
 戦場民主主義 --「天皇制の擁護 第六章 古代ギリシャ」解説

 私はこの著作の中で、民主主義という政治体制の意味を検討、ありていに言えばその意義を限定しようと思っています。民主制・議院内閣制とは利害計算のための組織にすぎません。それはそれとして意味があるのでしょうが、それだけでは統治は不可能です。民主制といえば決まり文句のように、ギリシャとイギリスが模範とされます。天皇制、より広く君主制との対比において、民主制を取り上げます。それも端的に。ギリシャのそれは戦場から、イギリスのそれは異民族統治(これも一種の戦争です)から民主制といわれるものが誕生した、と思っています。
 民主制は資本主義の勃興と軌を一にして発展します。両者の共通点は欲望の無限解放です。現在最大の問題となっている金融不安は、この欲望解放への試みの挫折でもあります。ここでは経済には立ち入りません。別のblogを見てください。
 ギリシャ人は文化の創造者です。哲学、幾何学、彫刻や建築、天文学、文学、なによりもアルファベット文字の完成などなど、どの点でも当時の他の世界の水準をはるかに突破し、創造的でした。同時に彼らは優秀な戦士です。彼らが編み出した戦法が重装歩兵戦術です。鍛えに鍛え練りに練った歩兵が楯をもって横に連なり、互いの楯で相互の身体を守ります。横一列の集団で突進し、集団で防衛陣を作ります。徹底した集団戦法です。一度戦場に出れば逃げも隠れもできません。共に勝つか共に死ぬだけです。
 彼らは都市国家という小規模な共同体を作りました。人口は数千人からせいぜい数万人。成人男子すべてが戦士になるとしても、総人口一万人の都市からは最大限2500人の人数が出ればいいとこです。このくらいの規模の集団なら全体討論ができます。ギリシャ人は年中戦争に明け暮れています。生死をかけた戦いでは皆が発言権を持ちます。ギリシャ人の軍隊では始終討論していました。クセノフォンの「アナバシス」という本を読めばこの間の事情はよく分ります。これがギリシャの民主制の起源です。戦争が日常ですから、戦場の習慣は簡単に市民生活に持ち込めます。ギリシャ民主制は戦場民主主義です。
 実際彼らの軍隊は強かった。騎兵も歯が立ちません。世界の歴史を見てみますと、実際の戦闘では歩兵の方が強いのです。歩兵は人数が多いし、防御が厳重です。騎兵の長所は機動力、つまりすばやく移動する能力です。そして奇襲。しかし奇襲は兵法の常道ではありません。私が知る限り、騎兵戦術で一番成功したのはジンギスカンの軍隊です。騎射に優れ機動力に富む軽装騎兵を集団使用し、鈍重な歩兵部隊を各個に包囲し撃破する。他では源義経の戦法(一の谷、屋島)、とナポレオンでしょう。ただしナポレオンの騎兵は砲兵に援護されていますし、義経は外交でペテンを使いました。またジンギスカンの軍隊は残虐で、敵に与える恐怖心も勝利に寄与したようです。騎兵は後に戦車になります。しかし論理は同じで戦車部隊の特技は快速を利して敵の背後に回る事です。戦車が大砲やト-チカに向かって正面から攻撃すれば自殺行為です。
 ギリシャの戦場民主主義について語りましたが、似た組織はかなりあります。その典型が、日本の中世に活躍した僧兵です。彼らもみな平等な戦士集団です。大衆詮議と言って皆が集まり、一山の経営から戦法まですべて討議しました。比叡山延暦寺の山法師、南都興福寺の奈良法師が有名です。彼らもしょっちゅう戦闘をしました。僧兵は仏教腐敗の極のように言われますが、私はこの考えには賛成できません。自らの寺院を自ら守るからこそ、自らの信心に忠実になれたのです。
 また直接民主主義といえばスイスのカントン(県)の集会があります。スイス人はハプスブルク帝国からの独立に苦労し、以後も周囲の侵略から自らを守るために、軍事訓練は欠かしません。彼らは優秀な戦士になり、傭兵として出稼ぎします。フランス革命時、軍隊が離反する中、最後までルイ16世に忠実であったのはこのスイス人傭兵部隊でした。

 (経済に関する本格的な解説は12月1日より始めます)

女帝紹介-「天皇制の擁護 第五章 王家の系譜」解説(3)

2008-11-27 02:46:36 | Weblog

   女帝紹介-「天皇制の擁護 第五章 王家の系譜」続
エリザベス1世(イギリス)在位1558-1603
祖父ヘンリ-7世によりバラ戦争終結。チュ-ダ-王朝開始。
スペイン王との約束により7世の子ア-サ-の婚約者キャサリンが英国に。ア-サ-の死去。次男のヘンリ-8世がキャサリンと結婚し王位継承。
ヘンリ-8世は50余年の生涯で6回結婚し、2名の王妃を処刑。
キャサリンとの離婚を希望するヘンリ-にカトリック教会は反対。
修道院領没収、宗教改革。
キャサリンの次の王妃が英国貴族の娘アン・ブ-リン、エリザベスの母。アンは不倫の嫌疑で処刑。
8世の死後エドワ-ド4世、さらにキャサリンの生んだメアリ-1世が即位。メアリ-により再びカトリックに。エリザベスはロンドン塔に幽閉。メアリ-死去。エリザベス即位(1558)。イギリスは再度信仰を転換しカトリックを排撃。
エリザベスの政治は、新興貴族の登用による王権の伸張、一方貴族との妥協。宗教改革の継続、内政への専念、スペインとの対決(無敵艦隊の撃破)などが主なものですが、極力戦争に無駄な費用を使わないようにしました。在位45年。継嗣なく、従姉妹にあたるスコットランドの女王メアリ-・スチュア-ト(陰謀のかどでエリザベスにより処刑)の子ジェ-ムス1世が跡を継ぎ新しい王朝が開かれます。以後イギリスは1世紀にわたる内に突入。
エリザベス1世は語学に堪能でした。イタリア語とスペイン語にフランス語も流暢にあやつり外交の手段にします。ある臣下の話では進言してyesと言っても、気に入らなければすぐ忘れる(ふりをする)特技の持ち主でした。

 エカチェリ-ナ1世(ロシア)在位 1762-1796
彼女は本来ロシア人ではありません。ドイツ人貴族の娘です。ピョ-トル1世(大帝)の孫ピョ-トル3世と結婚。夫には奇矯な言動が多く、君主として不適格と判断されます。貴族の同意を得て彼女は夫を幽閉し殺害。即位。エリザベスと同様、多くの愛人に囲まれます。愛人は寵臣であり彼女の政治の尖兵でした。個人的次元では問題がありますが、彼女は有能な専制君主であり、ピョ-トル1世により開始された、ロシアの近代化を推し進めます。大帝が貴族の意向を無視して強引に事業を進めたのに対し、彼女は貴族と妥協しつつ巧妙に立ち回ります。19世紀ロシアの国力伸張の土台は彼女により作られました。彼女の長男であり後継者パ-ヴェル1世は父を殺した母を憎み、即位後急速な改革を試みて貴族に暗殺されます。

 持統天皇(日本)在位 686-697(称政も含む)
鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)父親は天智天皇、母親は蘇我氏。天武天皇の后。壬申の乱後夫天武を事実上の共同統治。天武天皇が乱の勝者になれたのも、天智天皇の子である彼女のブランドもあったと思われます。天武・持統朝に律令制・官制の整備、記紀神話の作成、仏教の登用など日本の政治制度の基礎が作られます。薬師寺は彼女が皇后時代、病に伏したとき、夫天武が病気回復を念じて建立した日本最初の官寺です。彼女の後継をめぐって争いが起こります。彼女は自分が生んだ草壁皇子を即位させるために、姉が生んだ天武の子大津皇子を忙殺します。しかし期待した草壁は夭折します。政争の勝者である彼女も敗者である大津も優れた詩人です。万葉集を参照して下さい。

3人の女帝の簡単な説明をしました。共通する点は男系断絶の間隙を埋めたこと、前代の男性王の治績を踏襲すること、男性王に比しやり方が、婉曲巧妙で妥協的でもある事です。3人ともなんらかの形で子に恵まれません。持統天皇に関する伝記はたくさんありますが、私は里中満知子氏の「天上の虹」を勧めます。エカチェリ-ナ1世に関しては池田理代子氏(?)に作品があります。

日本にないもの-「天皇制の擁護 第五章 王家の系譜」解説(2)

2008-11-25 23:25:39 | Weblog
日本にないもの
奴隷制
 この種の制度が皆無だったとは言いません。古代にはという身分がありました。また中世の農村には隷農もいました。しかし彼らが生産の主力になったことはありません。古代のギリシャ・ロ-マでは肉体労働はすべて奴隷により担われ大規模な奴隷市場がありました。近代西欧が勃興する過程で黒人奴隷の果たした役割は重要です。16世紀以降の200年間にアフリカから新大陸に連れてこられた奴隷は約1000万人。彼らに現在の日本人が享受している給料を支払ったとすると、その額は私の試算では日本のGDPの10倍になります。途中で死亡した人数もいれると多分その倍にはなるでしょう。

宦官
 宦官は宮廷の女性を管理するために、生殖器を切り取られ去勢された男性です。この制度は西欧と日本を除いてほぼ全歴史に存在します。特に古代の専制君主体制下にあっては重要でした。独裁者は臣下を信用できません。身辺整理の雑用に従事する宦官を秘密信頼しやすくなります。中国の歴史ではこの宦官が跳梁跋扈しました。特に秦の趙高は有名です。「馬鹿」の語源を作った人です。宦官のすべてが悪ではないでしょうが、このような制度は女性というより人間への不信の極地です。正直私は気持ち悪い。

ジェノサイド 
 旧約聖書はジェノサイドの記録です。ジェノサイドの代表的事例を挙げてみましょう。
 カルタゴの抹殺---ロ-マはカルタゴを滅ぼし、生存者はすべて奴隷にし、都市城砦は破壊して平地に塩まいて、二度とカルタゴが復活しないようにしました。同時期コリントも同様の目にあっています。

 アルビジョア十字軍---13世紀南フランスにアルビ派という異端がはやりました。フランス国王とロ-マ法王は討伐軍を派遣します。司令官は「どれが異端か否かは天の神様が判断してくださる 全部焼き殺して天に昇らせろ」と命じたそうです。以後フランスの南北の経済的力関係は逆転します。

 タスマニア人抹殺---オ-ストラリア方面に入植したイギリス人は南方洋上のタスマニア島の原住民を抹殺します。人間とは意識されていなかったのか、射撃の的にしたそうです。

南北アメリカ大陸にはインデアンという褐色の肌の人間が住んでいました。南米では白人による征服と略奪、銀鉱山での酷使、白人が持ち込んだ疫病で人口は一時期1/10に減りました。北米ではインデアンは居留地という貧寒な土地に押し込められます。私はJ・フォ-ドのファンです。「駅馬車」は好きな作品ですが、あれほど事実を歪曲した作品も珍しいとはいえます。50年前まではアメリカ人の大多数にとってインデアンは凶悪な野蛮人だったのでしょう。
 世界の歴史においてこの種の事例は無数にあります。日本にはほとんどと言っていいほどありません。

傭兵
 金で戦争を請負い雇われた人間です。仕事の内容からして尊敬されません。殺人を生業とする以上それなりの大義名分と倫理はいります。傭兵の動機は金だけです。だから戦争には強いが残忍です。戦争そのものより傭兵の被害のほうが恐ろしい。傭兵の元祖はギリシャ人です。彼らは小さな都市国家を作って戦争に明け暮れました。負ければ殺されるか奴隷です。他国へ逃げ放浪する連中もいます。彼らのほとんどは傭兵になりました。中世の封建諸侯の騎士団がだめになると、王侯は傭兵を頼ります。まずイタリア人、ついでドイツ人、スイス人、最後にアイルランド人などが傭兵になりました。共通する点は、国内で戦争が耐えないか、外国の侵略下に生きる事をよしとしないか、などです。もっともスイス人は土地が貧寒なので出稼ぎでした。フランス革命で最後まで王に忠実だったのはこのスイス人傭兵です。多くの場合戦争が終わればお払い箱です。戦争から戦争へと戦争を求めて動かざるをえません。虚無的になるのは当然、犯罪も多発します。中世から近代にかけての西欧社会で傭兵は最も貧しく卑しめられた階層でした。
日本の歴史で足軽というのが登場します。南北朝期からです。彼らも傭兵です。農兵であり一揆の主力をなす連中です。大名は彼らを傭兵として抱えました。戦国大名の主力部隊は足軽です。彼らは原則的には一年ごとの雇用契約でしたが、江戸時代の大名は彼らを維新まで扶持します。

宗教裁判
 ともかくこの裁判が多いのはキリスト教です。中世になりカトリック教会が社会に魂の支配者になってからは異端審問の連続です。コペルニクスもガレリオも危なかった。ブル-ノ-は焼き殺されました。みな地動説に傾斜したからです。魔女裁判という集団ヒステリ-も一種の宗教裁判です。先にのべたアルビジョア十字軍もそうです。日本で宗教裁判といえばキリシタン弾圧ですが、西欧のそれにくらべるとままごとです。

防衛都市
 城壁で囲まれた都市を知らないのは日本の歴史くらいかもしれません。他の国では近代まで人々はこの壁の中で生活しました。理由は外的への警戒からです。日本ではこの種の心配がないので都市を護る壁は要りません。戦国時代戦争は専門家の武士が請け負います。庶民はどこかへ逃げて戦争を見物しておればいいのです。死ぬのはサムライだけ。だから戦争による被害特に死者の数は多くありませんでした。

議会
 一同が会して丁々発止と議論を戦わせる。これを議会といいます。議会の起源は古代ギリシャです。議会は戦場の討論から生まれました。近代での議会の模範はイギリスと言われています。ではなぜ?以下は本文を見てください。(第九章)
 日本で明確な形の議会は出現していませんが、集団の意思を統一するための制度組織は充分に発達していました。鎌倉幕府の評定衆・貞永式目とイギリスの議会・マグナカルタはほぼ同じものです。

日本の歴史にないものを7つあげました。奴隷制の上に議会がある方が幸せでしょうか?これも本文を参照して下さい。

王家の系譜-「天皇制の擁護 第五章」解説 

2008-11-25 01:43:00 | Weblog
 王家の系譜(1)---「天皇制の擁護 第五章」

比較の対照を英仏露三国の君主制に取ると、日本には7つの王朝があったことになります。内乱による廃位と傍系相続(介在する世代が7世代以上の)を断絶とみなすとそうなります。以下のようになります。

 継体天皇 ---------- 弘文天皇 
 天武天皇 ---------- 称徳天皇
 光仁天皇 ---------- 仲恭天皇
 後堀河天皇 ------- 後亀山天皇
 後小松天皇 -------- 称光天皇
 後花園天皇 -------- 後桃園天皇
 光格天皇 ----------- 今上天皇
           (平成19年2007年10月現在)

この基準で四国の君主制を比較すれば下のようになります。周知のようにフランスとロシアでは君主制は廃止されています。もっともあちらにはロ-マ法王という潜在的君主が存在しますが。
        君主制の継続期間   君主の数  王朝の数
 イギリス   942年       41名    9
 フランス   884年       38名    8
 ロシア    306年       17名    4
 日本     1467年      100名   9

 女帝の数は
   
イギリス 6名、ロシア 4名、日本 9名、フランス 0名

です。実質的に統治した女帝は全くといいほどその国の勃興期に登場します。イギリスのエリザベス1世、ロシアのエカチェリーナ1世、日本の持統天皇です。
 殺害された君主は 

イギリス 1名、フランス 2名、ロシア 2名、日本 2名

です。処刑された君主は英仏露各1名ですが、日本では存在しません。
こう考えると万世一系ではないような観があるのですが、しかしやはり日本の天皇制は万世一系と言っていいのです。なぜかは本文を読んで下さい。


天皇は文化の守護者(2)--「天皇制の擁護 第四章」解説

2008-11-23 23:56:34 | Weblog
「天皇制の擁護」第四章 天皇は文化の守護者(続)

 藤原定家の時点で日本の古典文化の基準が定まります。古今和歌集と源氏物語が範例になります。二つの作品の意味するところは同じです。古今の情緒と編纂の意義を統合すれば源氏ができあがります。古今が歌いあげる情念を表向きは尊重しつ
つ、その奥に潜在する何物かを掘り起こせば源氏になります。

 ところで古今の中で歌われる感情は現在まで引き継がれています。恋、別れ、旅、涙、祝い、それに四季の状景が古今が歌う主なものですが、能楽も歌舞伎も小唄長唄さらには演歌の類が扱うものも同じです。フランスのシャンソンも似たようなものです。

 古今和歌集と源氏物語は日本人の情緒の基準になりました。

 江戸時代天皇朝廷は幕府の意向で政治から遠ざけられ、文化と教養に専念するように指示されました。その結果かそれともそうなる必然があったのか、この時代の文化は古典・大衆文化を問わず、大本は天皇朝廷により握られました。 和歌、管弦、書道、蹴鞠、装束、式典などは公家の家職になります。連歌、俳句、茶道、華道、香道、画工なども直接間接に朝廷の影響下にあります。幕府は式典の作法を習得するために武家の名家を京都に送りました。高家と言います。彼らが諸大名を教育します。坊ちゃん育ちの大名は苦労したそうです。吉良と浅野の喧嘩つまり忠臣蔵騒動の背景です。

 江戸時代の大衆文化の大半は朝廷に握られていました。俳句は連歌を経て和歌に由来します。江戸中期から後期にかけて俳句のコンク-ルが至るところで行われます。応募者は数万にのぼりました。典型的な大衆文学です。芭蕉は下級藩士、蕪村と一茶は農民です。これほどの大衆文化(それも決して教養を欠くことのない)が世界の他の歴史にあるのでしょうか?

 幕府と朝廷の関係ですが、これがなかなかに面白い。三代家光のころまで幕府はいばっていました。五代綱吉の時伊勢神宮代参がはじまります。七代家綱の夫人は内親王から迎える予定でした。吉宗も朝廷を大事にします。松平定信は大政委任論を唱えます。十四代家茂の御台所は仁孝天皇の和宮内親王です。端的に言えば幕府の御金蔵が空になり、幕府が統治に自信を失うにつれて朝廷を重んじ始めます。

天皇は文化の守護者(1) - 「天皇制の擁護 第四章」解説 

2008-11-23 00:11:58 | Weblog
「天皇制の擁護」 第四章 天皇は文化の守護者(1)

本章の主題は上記お通りです。天皇が天皇であるために天皇は自らが「神」である事を演じます。第一が即位の時に行われる大嘗祭。「ゆき」と「すき」の二つの黒木の宮(御屋)が造られます。そこで天皇は天なる神と共寝し共食して自らが神である事を演じ確認します。儀式は夜、浄闇の中で行われます。
第二が和歌の編纂です。和歌は呪言、天に訴える言の葉です。和歌の編纂は、天地を主宰する天皇の重要な行為とされました。醍醐天皇の古今和歌集から花園天皇の新続古今集まで計21。万葉集は孝謙天皇の命で作られた準勅撰集です。収録された和歌は総計略4500。こんな詩集歌集は世界のどこを探しても無いでしょう。天皇・皇族・大臣他の高級官僚以下地方の一農民に至るまで実名で収録されています。1500年前の昔からわが国の文化は民衆のものでもありました。和歌そして連歌と俳句などは現在でも作られ続けています。私はある会合の後の宴会で、連歌をやってみました。みな結構面白がって発句挙句を作り続けました。カラオケより面白かった。歌のできばえは自慢できませんが。
「古今」と「源氏」の伝統により日本の古典的情緒が作られます。古今伝授という形の師子相承でもって文化が引き継がれます。やや偏狭な形態ですが、これで日本の文化の伝統が維持され護られた事は否定できません。
「お内裏さまにお雛様、二人並んですまし顔」これは3月3日桃の節句を祝う童謡です。内裏(だいり)は宮殿の中の天皇の私室、転じて天皇その人を指します。桃の節句は上巳祓、本来は旧年の厄を人形に託して放逐する悪魔祓いの儀式です。これが優雅な桃の節句の儀式になりました。このような儀式を年中行事と言います。この年中行事を天皇は主宰して天地の司祭であること演じました。
大嘗祭、和歌編纂、古今と源氏に代表される美意識、年中行事などなどわが国の文化は天皇朝廷によって主宰され保持されてきました。わが国ほど多彩な文化の伝統を保持する国はありますまい。天皇は文化の守護者です。(続)



徳川合理主義---「天皇制の擁護」第三章

2008-11-22 02:54:40 | Weblog
     「天皇制の擁護」 第三章 徳川合理主義

ヨーロッパの18世紀は啓蒙思想と合理主義の時代と言われます。 全く同様のことがわが日本の徳川時代にもあてはまります。
前者の代表がホッブス・ロック・ヒューム・スミス、
後者は荻生徂徠・石田梅岩・二宮尊徳です。
合議システムの展開、社会契約説、身分制の否定、耕地の自由売買、金本位制と信用経済
流通経済の肯定、経済政策の必要性、貨幣数量説、労働価値説、有効需要などなど
あちらはあちらなりに、こちらはこちらなりに新しい考えを発展させています。

徳川時代は、民衆の自由や自治などは一切ない時代と思われてきました。
「百姓と胡麻の油はしぼればしぼるほど取れる」は、
封建的搾取を端的に示す言葉とされてきました。

実態は違います。
貨幣経済により商品作物(木綿、菜種、藍、塩、煙草等)を栽培し富裕になった農民から充分な年貢が取れない為政者がくやししまぎれに言った言葉です。

私は大阪府豊中市の上野小学校を卒業しました。
20年前に校舎を訪れたところ、3階から2階にかけて一面の壁画が眼に入ります。
徳川時代の農民が重労働にあえぎつつ酷使されている風景です。
このような時代像は専門家によりすでに否定されています。
しかし教育とは恐ろしいもので、いまだにこのイメージが支配的です。

徳川時代は合理的な思考を発展させ日本人の知性を高めた時代です。
幕末維新、日本人の識字率は世界一でした。

 (経済関係の意見は12月1日以後発表します その間自著の紹介をさせていただきます 読者の皆さ、貴方にとっての天皇制の意味が解りますか? あえて質問いたします)

親鸞そして日蓮、「天皇制の擁護」第二章

2008-11-21 00:15:20 | Weblog
  親鸞そして日蓮
      天皇制の擁護---第二章

鎌倉仏教は民衆を政治の主体にしました。
仏教特に日本の仏教では次のような等式が成り立ちます。 
   衆生 = 菩薩= 仏
これを翻案すれば
 民衆 = 武士 = 君主
になります。この主題を一番明瞭に宣言したのが親鸞と日蓮です。
親鸞は「悪人正機」といいました。悪人が真っ先に救済に預かると。
言い換えれば人間は本来の生地のままで救済される、というわけです。
日蓮の信心の基軸は「折伏逆化」です。世俗を場とし資糧として戦うことにより世俗に理想を実現するとなると、人間には政治行為が必要だ、だから人間はすべて政治の主体だとなります。
これ以上明晰な人民主権説があるでしょうか?この思想はインドのヴェ-ダ、秦漢隋唐の文化と思想をわが国の培地で総合し創造してでき上がった日本独自の政治思想です。

親鸞・日蓮やその後継者が活躍した鎌倉室町時代は活気に満ちた時代でした。簡単な例を挙げます。14世紀、現在の神戸市近傍にあった兵庫北関を通過する財貨は、同時期ハンザ同盟の中心都市リューベックの10倍あったそうです。

「天皇制の擁護」目次
 目次 記紀・源氏物語・愚管抄、親鸞そして日蓮、徳川合理主義、天皇は文化の守護者
王家の系譜、古代ギリシャ、ユダヤの神、パウロとアウグスティヌス、アングロ・サクソン(1)、アングロ・サクソン(2)、統治、君主