経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、水野利八

2012-10-31 02:26:12 | Weblog
   水野利八

 水野利八は現在スポ-ツ用品製造で世界一を誇る美津濃株式会社の創立者です。利八は明治17年(1884年)、美濃(岐阜県)大垣に、大工水野利八の長男として生まれました。幼名は仁吉、快活で、故郷の山野を駆け回って、思い切り遊びます。学校の帰り、遊びに夢中になり、鞄をお稲荷さんに忘れてくる事などはしょっちゅうでした。この快活な幼少期体験は、彼の将来の方向を決定します。しかし当時の仁吉には、自らがたどるその運命にはもちろん気がつきません。父親利八は代々大垣藩御用を承る大工の棟梁で、その家は間口24mという広大なものでした。仁吉7歳の時、濃尾大地震に襲われます。死者は総計7200名、仁吉の家は崩壊します。翌年父親は過労で死去します。12歳、仁吉は高等小学校を自らの意志で中退し、大阪の商家に奉公に出ます。
 奉公先は始め、道修町の薬問屋である川屋です。仕事の傍ら仁吉はよく勉強をしました。「実業の日本」などの経営者向けの雑誌なども読みます。始めから立派な経営者になろうという、強い決意を持っていました。14歳の時には、すでに仕入れも任されていたようです。この間英会話を勉強するために、YWCAに通います。発音を難じられて腹を立ててやめます。この逸話には彼の性格の一端が見事に示されています。会話は真似が上手くなければいけません。仁吉の軌跡を見ていますと、発想・アイデアの連続です。自ら発案して、自信をもって遂行する。これが彼の生き方です。同時に彼の意志を掣肘する者には強く抵抗します。
 16歳、京都の小堀商店という呉服屋に奉公します。すでに番頭でした。川屋から推慮されたようです。三井呉服店(三越の前身)と取引して、名を上げます。京都時代に仁吉は二つの運命的体験をします。19歳、仕事の帰路、旧制三高(現京都大学)のグラウンドで学生達が野球をしているのを見て、野球の虜になります。以後仕事の合間をぬって、時には仕事時間を節約して、三高のグラウンドに出かけます。もう一つの出会いは、小堀家から娘のすがとの養子縁組を提案された事です。仁吉は、水野の家名を捨てる気がなかったので、一応この縁談は断ります。
 21歳、日露戦争に応召し朝鮮に渡ります。すぐ終戦になりましたが、長年の労苦のせいか、彼は肺尖カタルにかかり内地の陸軍病院で5ヶ月加療します。この間も寸刻を惜しんで、経済、算数、地理、新聞などを丹念に勉強します。彼はメモ魔でした。気がついたことはすぐメモします。それを参考にして発想し、また後年は社員に指示を出しました。メモの内容を忘れないようにと、自身作成したメモ複写機を利用します。さすが大工の棟梁の息子、血は争えません。仁吉の仕事振りには、職人的なところが濃厚にあります。
 退院して、仁吉は弟の利三と二人で、大阪市北区芝田町に、水野兄弟商会を作ります。クツシタ、ハンカチ、タオル、シャツ、半ズボン、などを扱う洋品店です。自身が長い入院生活を送っているので、知り合いのスポ-ツマンに(彼自身スポ-ツ大好き人間ですから知り合いは多いはずです)健康法を聞くうちに、彼らから運動用の服装のオ-ダ-を頼まれます。既製品では都合の悪い事が多いのです。水野の製品はスポ-ツマンには大好評でした。これが水野がスポ-ツ用品を作るきっかけになりました。
 経営が順調に行き、明治43年、36歳、店を梅田新道に移します。この時店名を。「水野」から「美津濃」へと変えます。「水野」に故郷の国名「美濃」を掛け合わせたタイトルです。大学対抗の野球大会で、自ら作成した赤シャツを着て応援します。話題になりました。翌年大阪周辺の野球好きを集めて、大阪実業野球大会を行います。話題になりました。そして利三の提案で東京に支店を出します。
 仁吉の野球好きは昂進します。大正2年(1913年)彼は、市岡中学(現市岡高校)・早稲田大学出身の佐伯達夫の協力を得て、大阪府豊中市の新しいグラウンドで、関西学生連合野球大会を開催します。43チ-ム出場しました。審判は主審、1・2・3塁審と左右の線審を一人でこなしました。野球帽を被り羽織袴を着用している審判の写真を見るとほほえましくなります。2年後朝日新聞の申し入れを仁吉は受け入れ、主催は朝日新聞社になります。こうして全国中学優勝野球大会ができました。場所は同じく豊中のグラウンド、大正13年に甲子園に場所を移します。現在の全国高校野球大会です。一方大正6年には、関西学生連合野球大会を主宰します。場所は西宮市の鳴尾です。これが発展して春の選抜高校野球大会になります。こうなると仁吉は野球中毒のようなものです。
一方仕事の方も忘れません。野球に熱心になると、野球の道具にも強烈な関心を抱きます。それまで野球のボ-ルは輸入品か、布でできた手製の物でした。仁吉の研究が始まります。この辺の感覚は完全に職人気質丸出しです。ボールの作り方はなかなか複雑です。直径21mmのコルクの芯にゴムをまきます。これで直径34mmになります。ですからボ-ルの芯は二重構造になっているわけです。その上に太い毛糸、中位の毛糸、細い毛糸と巻いてゆき、更に綿糸を巻きます。一方脱色した上質の牛皮をひょうたん状に切ったものを二枚用意します。ボ-ルにこの二枚の牛皮を巻いて、密着させ、合わせ目を丁寧に縫います。この縫い目が現在では108あるのが正式の野球ボールです。縫い目を増やすと糸が切れやすく、縫い目を減らすと皮が破れやすくなるそうです。出来上がったボ-ルの直径は73mmになります。出来上がったボ-ルはそれぞれ品質が異なります。特に問題とすべきは飛距離です。ボ-ルにより飛ぶボ-ル、飛ばないボ-ルがあっては試合は不公平になります。この点で品質を一定にしなければなりません。何回も実験を繰り返して、4m12cmの高さから落として、仁吉の目の高さ、1m32cmから37cmの範囲内に反跳するものを合格としました。仁吉はなによりも品質と信用を大切にしました。
こうして運動服から野球ボ-ルの作成を皮切りに、ゴルフやテニスのラケットなどスポ-ツ用品を製作してゆきます。この間仁吉に人生最大の不幸が持ち上がります。妻と長男が相継いで死去します。さすがの仁吉も仕事に精が入らず、故郷の大垣始め日本の各所を旅行します。妻の死去の翌年、父親の名を継いで、利八と名乗ります。またかって養子縁組を断った小堀すが、と結婚します。大正6年、仁吉改め水野利八45歳の時のことです。
利八はアイデアマンでした。スポ-ツ愛好家の経験と直感から色々な製品を作り販売します。カッタ-シャツは「勝ったシャツ」から命名された利八の新商品です。他にボロシャツ、換えズボン、ボストンバック、など現在普通名詞になっている物も、元はといえば利八が開発した製品の固有名詞でした。当時大阪の商家の丁稚の格好といえば、着物に股引をつけ藁ぞうりを履いているのが相場でした。美津濃の宣伝隊は、リヤカ-にミニバイクをつけ、洋服を着た青年が製品を積んで、町中を走りまわりました。宣伝のやり方は、鳥井信治郎のそれと似ています。大正10年本社を北浜に移します。大阪商人の一等地です。販売する店員は全員洋服、これはファッションの元祖になります。
大正12年社名を「美津濃運動用品株式会社」と改めます。この間国産スキ-の生産を始めています。美津濃は完全にスポ―ツ用品の製作と販売の方向に会社経営の舵を取ります。昭和2年に北区淀屋橋に本社ビルを建設します。そこのカレ-ライスは当時定評のあった阪急デパ-トのそれに劣らず美味い、と評判になります。昭和4年(1929年)に欧米視察の旅にでます。あしかけ8ヶ月、訪れた国は13カ国、都市は80に上りました。すべてオリンピック開催の土地などスポ-ツと縁の深い町です。そこで欧米のスポ-ツ用品を丹念に調査し、自分の会社の作品に自信をもって帰国しました。製造業に傾く自社の方向を見た利八は、それまで経営系の学部を志望させていた次男の健次郎に、大阪大学理学部受験を勧めます。健次郎は後父の後を継ぎますが、併行して美津濃の技術研究部の顧問を務めます。スポ-ツ用品の一環としてグライダ-制作も始めます。このために、飛行機生産にも軍の命令で駆り出されています。
昭和20年(1945年)終戦。終戦の玉音放送を聴いた61歳の利八は、お国の役に立たなかったと、男泣きに泣いたといわれています。しかし泣いてばかりはいられません。戦後の各企業と同じく、鍋や釜を作って糊口をしのぎます。まな板、ちゃぶ台、下駄などなんでも作りました。ここでも利八のアイデアは発揮されます。終戦直後といえば、買出し、です。買出した物を入れるに最も効果的で相応しいものは、と考え、リュックサックを制作販売します。戦後復興はスポ-ツからと信じて利八は頑張ります。終戦の丁度1年後、昭和46年8月15日に全国中学野球大会が復活します。革製は無く、グロ-ブもボ-ルもすべて布製でした。朝日新聞の要請で、野球の道具つくりに協力します。3年後から革製のボ-ルが使われるようになりました。
 昭和44年(1969年)85歳、経営を健次郎に譲って引退します。同年死去、85歳でした。翌年野球殿堂入りが決定されます。遺言により持株のすべては、スポ-ツ振興にあてられます。財団法人水野スポ-ツ振興会が作られました。利八の日常生活はけちで有名でした。

(補足) 
2008年3月現在
  所在地   大阪市北区北浜
  正式名称  ミズノ株式会社
  売り上げ  1740億円(以下連結決算)
  営業利益    78億円
  純利益     24億円
  純資産    814億円
  総資産   1441億円
  従業員数   5731名
 スポ-ツ用品のあらゆる分野に進出している世界屈指の企業。特に野球関係の領域でのシェアは圧倒的。プロアドヴァイザ-抱えて常にニ-ズに答える努力をしている。ボ-ルが当たった部分の材質に工夫をこらし、バットが傷つかないようにした、ビヨンドマックスは大好評を得る。1993年時、Jリ-グ開設当初のユニフォ-ムはすべて美津濃製品だった。英国の有名水着メ-カ-Speedo社と契約し、同社の製品をライセンス販売するが、2006年すべての製品を「ミズノ」で統一するためにこの契約を破棄している。

     発信
経済心理研究所
 In 中本精神分析クリニ-ク
  精神分析療法専門 週一回1時間以上
  適応症 神経症とその類縁疾患
   洗浄強迫など強迫性障害、ヒステリ-性障害、
不潔恐怖など恐怖症、抑鬱症、
対人不安および対人障害 諸種人格障害 
  自由診療(保険外)、治療費、一回13000円
  所在 兵庫県尼崎市東園田町8-110-16
 阪急神戸線園田駅下車徒歩5分
  電話 06-6491-1416
E-mail akb16401@bca.bai.ne.jp
京都大学医学部卒、医師
著作多数、アマゾン・グ-グルを参照 
参考文献  野球ボ-ルに夢をのせて  PHP研究所

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2012-10-29 01:58:25 | Weblog
<   水野利八

 水野利八は現在スポ-ツ用品製造で世界一を誇る美津濃株式会社の創立者です。利八は明治17年(1884年)、美濃(岐阜県)大垣に、大工水野利八の長男として生まれました。幼名は仁吉、快活で、故郷の山野を駆け回って、思い切り遊びます。学校の帰り、遊びに夢中になり、鞄をお稲荷さんに忘れてくる事などはしょっちゅうでした。この快活な幼少期体験は、彼の将来の方向を決定します。しかし当時の仁吉には、自らがたどるその運命にはもちろん気がつきません。父親利八は代々大垣藩御用を承る大工の棟梁で、その家は間口24mという広大なものでした。仁吉7歳の時、濃尾大地震に襲われます。死者は総計7200名、仁吉の家は崩壊します。翌年父親は過労で死去します。12歳、仁吉は高等小学校を自らの意志で中退し、大阪の商家に奉公に出ます。
 奉公先は始め、道修町の薬問屋である川屋です。仕事の傍ら仁吉はよく勉強をしました。「実業の日本」などの経営者向けの雑誌なども読みます。始めから立派な経営者になろうという、強い決意を持っていました。14歳の時には、すでに仕入れも任されていたようです。この間英会話を勉強するために、YWCAに通います。発音を難じられて腹を立ててやめます。この逸話には彼の性格の一端が見事に示されています。会話は真似が上手くなければいけません。仁吉の軌跡を見ていますと、発想・アイデアの連続です。自ら発案して、自信をもって遂行する。これが彼の生き方です。同時に彼の意志を掣肘する者には強く抵抗します。
 16歳、京都の小堀商店という呉服屋に奉公します。すでに番頭でした。川屋から推慮されたようです。三井呉服店(三越の前身)と取引して、名を上げます。京都時代に仁吉は二つの運命的体験をします。19歳、仕事の帰路、旧制三高(現京都大学)のグラウンドで学生達が野球をしているのを見て、野球の虜になります。以後仕事の合間をぬって、時には仕事時間を節約して、三高のグラウンドに出かけます。もう一つの出会いは、小堀家から娘のすがとの養子縁組を提案された事です。仁吉は、水野の家名を捨てる気がなかったので、一応この縁談は断ります。
 21歳、日露戦争に応召し朝鮮に渡ります。すぐ終戦になりましたが、長年の労苦のせいか、彼は肺尖カタルにかかり内地の陸軍病院で5ヶ月加療します。この間も寸刻を惜しんで、経済、算数、地理、新聞などを丹念に勉強します。彼はメモ魔でした。気がついたことはすぐメモします。それを参考にして発想し、また後年は社員に指示を出しました。メモの内容を忘れないようにと、自身作成したメモ複写機を利用します。さすが大工の棟梁の息子、血は争えません。仁吉の仕事振りには、職人的なところが濃厚にあります。
 退院して、仁吉は弟の利三と二人で、大阪市北区芝田町に、水野兄弟商会を作ります。クツシタ、ハンカチ、タオル、シャツ、半ズボン、などを扱う洋品店です。自身が長い入院生活を送っているので、知り合いのスポ-ツマンに(彼自身スポ-ツ大好き人間ですから知り合いは多いはずです)健康法を聞くうちに、彼らから運動用の服装のオ-ダ-を頼まれます。既製品では都合の悪い事が多いのです。水野の製品はスポ-ツマンには大好評でした。これが水野がスポ-ツ用品を作るきっかけになりました。
 経営が順調に行き、明治43年、36歳、店を梅田新道に移します。この時店名を。「水野」から「美津濃」へと変えます。「水野」に故郷の国名「美濃」を掛け合わせたタイトルです。大学対抗の野球大会で、自ら作成した赤シャツを着て応援します。話題になりました。翌年大阪周辺の野球好きを集めて、大阪実業野球大会を行います。話題になりました。そして利三の提案で東京に支店を出します。
 仁吉の野球好きは昂進します。大正2年(1913年)彼は、市岡中学(現市岡高校)・早稲田大学出身の佐伯達夫の協力を得て、大阪府豊中市の新しいグラウンドで、関西学生連合野球大会を開催します。43チ-ム出場しました。審判は主審、1・2・3塁審と左右の線審を一人でこなしました。野球帽を被り羽織袴を着用している審判の写真を見るとほほえましくなります。2年後朝日新聞の申し入れを仁吉は受け入れ、主催は朝日新聞社になります。こうして全国中学優勝野球大会ができました。場所は同じく豊中のグラウンド、大正13年に甲子園に場所を移します。現在の全国高校野球大会です。一方大正6年には、関西学生連合野球大会を主宰します。場所は西宮市の鳴尾です。これが発展して春の選抜高校野球大会になります。こうなると仁吉は野球中毒のようなものです。
一方仕事の方も忘れません。野球に熱心になると、野球の道具にも強烈な関心を抱きます。それまで野球のボ-ルは輸入品か、布でできた手製の物でした。仁吉の研究が始まります。この辺の感覚は完全に職人気質丸出しです。ボールの作り方はなかなか複雑です。直径21mmのコルクの芯にゴムをまきます。これで直径34mmになります。ですからボ-ルの芯は二重構造になっているわけです。その上に太い毛糸、中位の毛糸、細い毛糸と巻いてゆき、更に綿糸を巻きます。一方脱色した上質の牛皮をひょうたん状に切ったものを二枚用意します。ボ-ルにこの二枚の牛皮を巻いて、密着させ、合わせ目を丁寧に縫います。この縫い目が現在では108あるのが正式の野球ボールです。縫い目を増やすと糸が切れやすく、縫い目を減らすと皮が破れやすくなるそうです。出来上がったボ-ルの直径は73mmになります。出来上がったボ-ルはそれぞれ品質が異なります。特に問題とすべきは飛距離です。ボ-ルにより飛ぶボ-ル、飛ばないボ-ルがあっては試合は不公平になります。この点で品質を一定にしなければなりません。何回も実験を繰り返して、4m12cmの高さから落として、仁吉の目の高さ、1m32cmから37cmの範囲内に反跳するものを合格としました。仁吉はなによりも品質と信用を大切にしました。
こうして運動服から野球ボ-ルの作成を皮切りに、ゴルフやテニスのラケットなどスポ-ツ用品を製作してゆきます。この間仁吉に人生最大の不幸が持ち上がります。妻と長男が相継いで死去します。さすがの仁吉も仕事に精が入らず、故郷の大垣始め日本の各所を旅行します。妻の死去の翌年、父親の名を継いで、利八と名乗ります。またかって養子縁組を断った小堀すが、と結婚します。大正6年、仁吉改め水野利八45歳の時のことです。
利八はアイデアマンでした。スポ-ツ愛好家の経験と直感から色々な製品を作り販売します。カッタ-シャツは「勝ったシャツ」から命名された利八の新商品です。他にボロシャツ、換えズボン、ボストンバック、など現在普通名詞になっている物も、元はといえば利八が開発した製品の固有名詞でした。当時大阪の商家の丁稚の格好といえば、着物に股引をつけ藁ぞうりを履いているのが相場でした。美津濃の宣伝隊は、リヤカ-にミニバイクをつけ、洋服を着た青年が製品を積んで、町中を走りまわりました。宣伝のやり方は、鳥井信治郎のそれと似ています。大正10年本社を北浜に移します。大阪商人の一等地です。販売する店員は全員洋服、これはファッションの元祖になります。
大正12年社名を「美津濃運動用品株式会社」と改めます。この間国産スキ-の生産を始めています。美津濃は完全にスポ―ツ用品の製作と販売の方向に会社経営の舵を取ります。昭和2年に北区淀屋橋に本社ビルを建設します。そこのカレ-ライスは当時定評のあった阪急デパ-トのそれに劣らず美味い、と評判になります。昭和4年(1929年)に欧米視察の旅にでます。あしかけ8ヶ月、訪れた国は13カ国、都市は80に上りました。すべてオリンピック開催の土地などスポ-ツと縁の深い町です。そこで欧米のスポ-ツ用品を丹念に調査し、自分の会社の作品に自信をもって帰国しました。製造業に傾く自社の方向を見た利八は、それまで経営系の学部を志望させていた次男の健次郎に、大阪大学理学部受験を勧めます。健次郎は後父の後を継ぎますが、併行して美津濃の技術研究部の顧問を務めます。スポ-ツ用品の一環としてグライダ-制作も始めます。このために、飛行機生産にも軍の命令で駆り出されています。
昭和20年(1945年)終戦。終戦の玉音放送を聴いた61歳の利八は、お国の役に立たなかったと、男泣きに泣いたといわれています。しかし泣いてばかりはいられません。戦後の各企業と同じく、鍋や釜を作って糊口をしのぎます。まな板、ちゃぶ台、下駄などなんでも作りました。ここでも利八のアイデアは発揮されます。終戦直後といえば、買出し、です。買出した物を入れるに最も効果的で相応しいものは、と考え、リュックサックを制作販売します。戦後復興はスポ-ツからと信じて利八は頑張ります。終戦の丁度1年後、昭和46年8月15日に全国中学野球大会が復活します。革製は無く、グロ-ブもボ-ルもすべて布製でした。朝日新聞の要請で、野球の道具つくりに協力します。3年後から革製のボ-ルが使われるようになりました。
 昭和44年(1969年)85歳、経営を健次郎に譲って引退します。同年死去、85歳でした。翌年野球殿堂入りが決定されます。遺言により持株のすべては、スポ-ツ振興にあてられます。財団法人水野スポ-ツ振興会が作られました。利八の日常生活はけちで有名でした。

(補足) 
2008年3月現在
  所在地   大阪市北区北浜
  正式名称  ミズノ株式会社
  売り上げ  1740億円(以下連結決算)
  営業利益    78億円
  純利益     24億円
  純資産    814億円
  総資産   1441億円
  従業員数   5731名
 スポ-ツ用品のあらゆる分野に進出している世界屈指の企業。特に野球関係の領域でのシェアは圧倒的。プロアドヴァイザ-抱えて常にニ-ズに答える努力をしている。ボ-ルが当たった部分の材質に工夫をこらし、バットが傷つかないようにした、ビヨンドマックスは大好評を得る。1993年時、Jリ-グ開設当初のユニフォ-ムはすべて美津濃製品だった。英国の有名水着メ-カ-Speedo社と契約し、同社の製品をライセンス販売するが、2006年すべての製品を「ミズノ」で統一するためにこの契約を破棄している。

参考文献  野球ボ-ルに夢をのせて  PHP研究所

      精神分析の淵源
 精神分析が精神医学の中に含まれるのか否かと問えば答えは複雑です。精神分析は確かに精神疾患の治療方の一つではあります。しかしほとんどの精神科医は精神分析療法を行いません。あるいはできません。多くの精神科医は精神分析に不審感、警戒感時には嫌悪感を持っています。少なくとも精神分析が精神医学に全体として包摂されることはありません。通常の精神医学は19世紀のヴィルヒョウ・グリ-ジンガ-以来、疾患はすべて身体起因、つまり身体の構成要素である細胞(さらに細胞内諸要素)の変化によるものとします。精神分析はこの立場をとりません。身体起因説を否定はしませんが、別個の原因もあるとします。つまり性衝動の発達、その過程でなされる生育環境との相互作用を疾患(もちろん一部ですが)の原因とみなします。そもそも両者は土俵が違うのです。医学史を書くのならかなり単線的に描写できます。16世紀A・ヴェッサリウスの解剖学、17世紀の科学革命、18世紀の実証主義・唯物論・人間機械論、19世紀の細胞病理説、20世紀の生化学・分子遺伝学、さらにその延長上に昨今ノ-ベル賞を受賞された山中氏のiPS細胞の発見というようなところが主なところでしょう。しかし精神分析になるとその淵源や発展過程は極めて多元的になります。ひとつづつ糸をほぐしながら考えてみましょうか?
 精神分析の淵源の一つが正統派医学にあることは否定できません。1543年コペルニクスの地動説発表と同年、イタリア人アンドレアス・ヴェッサリウスが人体の解剖学の本を出版しました。もちろん自分の解剖体験に基づいています。解剖学そしてそれに伴う生理学の発展により人間の体の諸部分の機能が徐々に解明されます。神経も同様です。こうして神経学(neurology)という学問が出現しました。19世紀後半、シャルコ-がパリで神経学を主宰し、フランスは神経学の先進地帯になりました。フロイトはシャルコ-のもとに留学しています。彼はここでシャルコ-から将来精神分析学の礎石になる重大な示唆を得ています。フロイトの研究の当初はヤツメウナギの神経の発達過程であり、また手術のための麻酔薬(神経の伝導遮断)の開発でした。幸か不幸かフロイトはあまり器用ではなかったようで、麻酔には失敗します。もし彼が麻酔に成功していたらかなりの金持ちにはなったでしょうが、精神分析学という学問が出現しなかったかもしれません。
 フロイトはフランスからもう一つ重大な影響を受けています。催眠です。かれは二度目の留学でナンシ-にゆきリエボ-から催眠に関していろいろ助言を受けています。フロイトの催眠技術ももう一つであったようで、催眠術の不成功が精神分析の発見を招いたともいえるのです。催眠術はフランス革命期にオ-ストリアからパリにきたFA・メスメルにより大体的に喧伝されました。もちろんそれ以前にも催眠術はあります。革命という非常に不安定な精神状態を招来する時期、メスメルは集団催眠を巧に使用して万病を治すといいました。事実著効があったようです。彼はこの催眠効果を当時発見されたばかりの磁気に関係付けて、宇宙磁気となづけました。パリではこの療法をめぐって賛否両論が起こり、フランス科学アカデミ-は最終的に、根拠なし、つまりインチキ、と烙印をおします。委員会の中には大量首切り装置(断頭台)の発明者ギヨタン(ギロチン)博士もいました。こうしてメスメルはパリを追われることになりますが、以後催眠術は欧州全般に広がり、民間療法として行われます。神経学の泰斗といわれたシャルコ-自身、治療に催眠術を使用していました。フロイトは催眠術を克服して精神分析学を作り上げましたが、精神分析療法にはやはり催眠効果が残っております。
 医学はヴェッサリウス以来身体-器官-組織-細胞と疾患の器質を探り続けてきましたが、そういう傾向にあきたらない異端的な医学もありました。この時期いくら科学的に考えても病気はなかなか治らなかったのです。正統派に飽き足らない異端的医学が出現します。現在では医学史の本の極小一部に書かれるくらいの評価しか受けていませんが、この異端的医学をロマン派医学といいます。ロマン主義はなにも医学に限りません。哲学、芸術、政治などすべての分野に広がります。当時の哲学思想の主流はアングロサクソンの実証主義・感覚論でしたが、特にドイツでこの風潮を嫌い反発する態度が著明になります。ヘルダ-、シュレ-ゲル兄弟、ヘルダ-リン達が活躍します。ゲーテやシラ-という文豪もフィヒテ・シェリング・ヘ-ゲルと言った哲学者も一時期はこの運動の影響を受けています。ロマン主義は人間を一個の総体として見ます。同時に相互の連帯と愛情を強調し、個人の独自の感情の発散と表現を重んじ、社会的影響を重視します。なによりもロマンと言えば、性感情です。その良い例がゲ-テのファウストです。だからハインロ-トなどによって唱導されたロマン派医学は身体という物質よりは、精神の影響を強調します。彼らが具体的にどんなことをしたのかは知りませんが、彼らの治療態度には精神分析学のそれと一致するところがあります。ロマン主義はその性格上どうしても民族の歴史を強調しますので、歴史認識に影響を与えます。これも精神分析の発展と関係がありそうです。
 すでにユダヤ教については述べました。この一神教は神の存在の確証を自己の倫理的発展、時間の中での発展に求めます。この態度はより大規模の形でキリスト教に持ち越されます。アウグスティヌスにより確立された三位一体論です。父なる神、子なる神、そして聖霊は三つの異相にして本来は一つと説きます。要は神様が聖霊の形で人間を見守ってくれるということです。かの教説は中世ヨアヒム・デル・フィオ-レ、近世ジャン・バプチスタ・ヴィ-コにより翻案されて、ヘ-ゲルに受けつがれます。即自、対自、即かつ対自という弁証法的発展論です。
 ところでこのヘ-ゲルの弁証法ですが、フロイトの転移論とそっくりなのです。フロイトは哲学を大上段に掲げて論じることを嫌いましたから、ヘ-ゲルの直接的影響は考えられませんが、19世紀の精神世界でヘ-ゲル哲学がもった影響力はどこかでフロイトに及んでいるはずです。精神分析療法では、転移現象を通じて自と他が交錯します。Clがまず自己を語ればそれは即自的自己認識です。ただ自分はこうだと見るだけのなまの自己像です。転移を通じてこの自己像が治療者の中に移され、治療者による指摘を通じてそこに別の自己像を見るとすれば、他者による認識を通して知る新たな反省的自己像です。転移解釈により得られる自己像はそれまで全く未知だったものです。これはヘ-ゲルの言葉では対自といっていいでしょう。Clと治療者はこの二つの自己像を統合しようと努力します。統合されたものは即かつ対自になります。この過程は一度ではなく何度も何度も繰り返されて、それまで見過ごされ・気がつかれず、疎外抑圧されていた自己の断片が統合されたとき、治療は終わります。この過程、即自・対自・即かつ対自という過程は治療者の側にも起こります。繰り返しますが、精神分析療法の過程とはまことに弁証法的であるのです。ただヘ-ゲル哲学では最終的に絶対精神(神様でしょう)を認識するのが目的ですが、精神分析では抑圧された性衝動を自覚することが目的です。上を見るか下を見るかの治外です。
 フロイトの教養の重大な一つに歴史があります。フロイトが30歳になるかならないころヤ-コブ・ブルクハルトの「ギリシャ文明史」が出ました。若いフロイトはこの本を読みふけったそうです。彼の終生の趣味は考古学でした。彼の思考法には歴史認識が影響を大いに与えています。この歴史認識の重大性、歴史主義という態度を創ったのが先述したヘ-ゲルです。そして以後ドイツ的教養から歴史主義を切り離すことはできません。フロイトがこの影響を受けていないはずがありません。精神分析とは時間の経過の中で過去を解明しそして未来をめざすわけですから、精神分析は典型的な歴史認識です。
 ユダヤ教と精神分析学は「性衝動」への対処を中心にその教(学)説が展開されていると私はいいました。前者ではそれを抑圧するのに対して後者ではそれを暴きます。両者にはもう一つ共通するものがあります。1対1の絶対神です。ユダヤ教に関して説明は不要でしょう。精神分析療法でも治療者は一時絶対者つまりカリスマになります。治療者はこのカリスマ性をなるべく外に出さないようにしますが、解釈の内容が内容ですから、そこにはどうしてもある種のカリスマ性が出現します。ユダヤ教の後進であるキリスト教は三位一体論をとります。この教説は、聖霊という神の化身に人間が導かれて神に近づいてゆくと、説きます。転移・逆転移という動的かつ流動的関係の中で治療が進む精神分析療法と、なんと似ていることでしょうか。カリスマは時として死の衝動に駆られます。転移・逆転移の中にあって、治療者とClは時として壊すか壊されるかという関係になりえます。ここで両者の自己は交錯していますから、壊すは自己を壊すことにも通じます。カリスマに後退はありません。
 ユダヤ人は国を失い2500年間放浪し迫害されました。この間彼らが民族意識を失わなかったのは、彼らがバビロン捕囚以後必至になってほどこした民族教育です。旧約聖書、律法、ミシュナ-、タルムードなどの膨大な文献が研究され、シナゴ-グという教育機関で普通のユダヤ人にラビというト-ラ-教師から教えられます。もちろん識字教育もされます。問題はユダヤ人はしょっちゅう対話をする習慣があるということです。私はそう推測します。神の言葉の解釈をめぐり対話説教をする、これは自由連想と解釈を通じて言葉を交換し、そこに内包される意味を追求する精神分析のやり方と似ています。私にはシナゴ-グでの体験がそのまま精神分析療法に持ち込まれたような気がしてなりません。
 もう一度ユダヤ教に帰ります。ユダヤ教は一神教、つまり絶対神の創造をすべてとする一元論です。フロイトの学説も心と身を包摂する性をすべてとする一元論です。
 精神分析という特異な治療法に影響を与えた諸々の淵源について思いつくまま書いてみました。

     発信
中本精神分析クリニ-ク
  精神分析療法専門 週一回1時間以上
  適応症 神経症とその類縁疾患
   洗浄強迫など強迫性障害、ヒステリ-性障害、
不潔恐怖など恐怖症、抑鬱症、
対人不安および対人障害 諸種人格障害 
  自由診療(保険外)、治療費、一回13000円
  所在 兵庫県尼崎市東園田町8-110-16
 阪急神戸線園田駅下車徒歩5分
  電話 06-6491-1416
E-mail akb16401@bca.bai.ne.jp
京都大学医学部卒、医師
著作多数、アマゾン・グ-グルを参照 
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経済人列伝、石坂泰三(再掲)

2012-10-22 02:12:00 | Weblog
       石坂泰三

 戦後三等重役という言葉が流行しました。戦前の会社重役は、資本家そのものであり、従って一般庶民とはかけ離れた資産の持ち主である事が多かったのですが、戦後の公職追放のため正統派財界人が退場し、彼らの下にあった部長クラスの中堅管理職が重役(役員)になるケ-スが激増します。こうして出現した戦後派の重役、サラリ-マン重役を、皮肉って三等重役と言いました。日本は欧米と違い、資本と経営の分離が行われやすい環境にあり、戦前から経営者資本主義は盛んだったのですが、戦後になりこの傾向は一気に加速されます。この点で戦後という時期は経営方法の革命期であったといえましょう。
 石坂泰三という人は、この種の三等重役の代表かも知れません。彼は自分で企業を起こしていません。その点では豊田佐吉や鮎川義介あるいは堤康次郎とはかなり異なる人生を歩みます。彼自身、自らをサラリ-マンとして強く自覚していました。この自覚のもとに、第一生命を育て上げて社長になり、戦後は請われて東芝社長として大争議をおさめ、昭和31年から4期8年第二代経団連会長として、特に池田内閣の所得倍増論を強力に支持し、高度成長期の経済界をリ-ドしました。泰三は経団連会長時代、財界総理と呼ばれるほどの影響力を持ちます。しかし経団連つまり経営者団体連合会は、その名の示すとおり、企業集団の連合と合議を前提として機能します。ですから泰三の役割も、この集団の総意をどうくみ上げ、遂行させるのかにありました。彼は明治19年の生まれですが、この点では戦後型経営者の典型を示しています。
 石坂泰三は明治19年に埼玉県大里郡奈良村(現熊谷市)に生まれました。家は35ヘクタ-ルの田畑を所有する大地主です。父母はどういうわけか、早くから上京して生活します。子供が多く、教育費がかさみ、そう裕福な生活でもなかったようです。泰三は父母特に母親から漢籍の特訓を受けます。母親は家事の傍ら、四書五経、文選や唐詩選などの訓読を泰三に教えます。この教養は泰三の将来にとって有益なものになりました。彼は始め陸士を目指したようで、陸士コ-スの代表と言われた城北中学を受験しますが、不合格になります。家計に余裕がなかったので、商家への丁稚奉公の話も出ます。泰三は父母に懇請して、もう一年の猶予を乞い、翌年東京府立一中に合格し、更に一高、東大(法学部)というエリ-トコ-スを進みます。一中時代の同級生には谷崎順一郎、東大時代には河合良成や五島慶太がいます。卒業後逓信省に入ります。この間部下の汚職の責任を問われて戒告処分を受けています。汚職は前任課長時代の事ですから、泰三は不満でした。
 逓信省は4年で退職することになります。第一生命の社長矢野恒太が、泰三の恩師岡野敬次郎に、だれか良い人材はいないかと相談します。岡野は逓信省の知人に候補推薦を頼みます。こうして「本人の知らないところで、人身売買が行われて(泰三自身の言葉)」彼は第一生命に転職するはめになりました。本人にはあまり抵抗感はなかったようですが、妻は「私は官吏の嫁に来たのであって、保険屋の嫁に着たのではありません」と愚痴をこぼします。妻の言葉の方が正直で、東大法科卒のお役人が保険会社の一サラリ-マンに転職とは、当時の感覚では御殿からゴミ箱へ放り込まれたようなものでした。実際いざ勤務すると、逓信省時代との待遇の格差にさすがの泰三もびっくりし、後悔もします。きちんとした洋服を着て、涼しい部屋で威張っていた者が、丁稚同様の環境の中で駈けずり廻らなければなりません。後悔はするが、そう深刻に取らないところが、泰三の泰三たる由縁かも知れません。
 第一生命という会社の創設には面白い話があります。創立者である矢野恒太は医師として日本生命に勤務していました。会社に勤務する医師の待遇が悪いので、待遇改善を矢野は要求します。待遇は改善されましたが、矢野は解雇されます。そこで反発し奮起した矢野は、日本生命に劣らぬ会社を作ってやれと思い、第一生命を立ち上げます。そういう会社ですから、泰三が転職した当時、第一生命は業界では三流の上クラス、30数社中13位、社員は70名内外、まあ中小企業と言ってもいいでしょう。
加えて社長の矢野は、会社創立のエピソ-ドからも推察されるように、個性の強いくせのある人でした。泰三は矢野に秘書としてまた役員として仕えます。気苦労が多かっただろうと、周囲の者は想像しています。矢野の方針で社内重役は矢野と泰三だけ、社内重役を増やしても、結局は社長の意向を迎えるような意見しか言わないから無駄だということです。残りの役員はすべて社外重役です。これが財界の錚々たる大物陣、大橋新太郎、服部金太郎、森村市左衛門、松本健次郎、さらに小林一三などの面々です。彼らに泰三は社長の矢野ともども鍛えられます。ここで泰三は財界人の操縦法を会得したのだ、とも言われます。
転職後しばらくして、約束どおり、矢野は泰三の欧米留学を許します。2年間欧米に滞在し、特にニュ-ヨ-クのメトロポリタン保険会社で、みっちり保険の勉強をして帰国します。帰路は第二次大戦のさ中、連合国の船はドイツの潜水艦の標的になります。そのため比較的安全な喜望峰まわりで帰国しますが、暗い海を暗い船で(灯火管制)ひやひやしながらの帰国は、泰三に強い印象を与えたようです。潜水艦の魚雷を一発食らえば、確実にお陀仏ですから。
 35歳取締役、48歳専務取締役、そして昭和13年、52歳で泰三は矢野から社長職を譲られます。この間第一生命は躍進し、業界2位の順位を獲得し、日本生命に迫ります。泰三は矢野の懐刀として、共同経営者として、また社長として活躍します。泰三のこの間の業績は以下のようにまとめられています。
  IBM式会計器の導入による作業能率の増進
   保険は統計確率の世界ですから、この種の計算機は必須の武器です。しかし多くの社員は購入には反対でした。
  新社屋建設
   社長就任と同時に落成、地上8階地下4階、総工費1600万円。戦後マッカサ-がそこに住むことになります。それほど立派なビルでした。
  外交員の待遇改善
   保険会社の主力は外交員です。彼らの待遇を改善し、彼らの中から役員を任命します。
  資金運用
   株式と社債を購入し、それを運用して稼ぎます。泰三は投機の才に恵まれていたようです。兜町の飛将軍山一證券社長大田収も顔色無しではなかったかという、風評もあります。
 昭和21年、60歳、泰三は第一生命を退職します。公職仮追放の立場でしたので、退職金もでません。当時大企業の経営者は皆公職追放に脅えていました。占領軍の当初の意向は、日本を農業国にする事であり、企業の生産設備で優秀なものは、すべて東南アジアに持って行くつもりでした。そして大企業のトップのほとんどは退陣させられました。アメリカの思惑に反して、結果は日本の産業に吉とでます。代った三等社長、三等重役達は先輩以上に優秀でした。
泰三は退職後しばらく浪人します。そして公職仮追放は免除されます。そこへ降って湧いたような東芝社長就任の話が出ます。仲介は三井銀行頭取の佐藤喜一郎、昭和24年石坂泰三は正式に東芝社長に就任します。東芝は日本の電気機械製造の代表的企業ですが、一時期10万名を越す社員を擁した東芝も、戦後は2万8千名にまで社員が激減し、彼らは鍋や釜を作って糊口をしのいでいました。優秀な機械設備は封印され信州の工場で使用禁止になっていました。そして東急、読売、トヨタの項で述べたのと同じく労働争議の嵐が東芝をも襲います。労働組合の外部には共産党員がいて、争議を指導し先導します。共産党は、少なくともこの時点では、日本の企業をすべて潰し日本の資本主義にとどめを刺すつもりでした。
泰三の仕事は、労働争議の終結です。どうしても6000名の解雇が必要になります。まだ社長でない取締役の時、泰三は単身で組合事務所に出かけ、「今度社長になる予定の石坂です」と挨拶します。三分の侠気が彼のモット-です。こうして交渉相手との意思疎通の可能性を築きます。後はどうすれば会社を再建できるかの案を組合に提示します。大多数の組合員にしても、生活は大事です。会社を潰したくはありません。泰三は政府が容認し融資を斡旋するような、再建案を作ります。そのためにはどうしても6000名の解雇が必要であると組合幹部に説きます。誠実に数字を突きつけられれば、どのような条件で会社再建ができるかどうかは、判断できます。できるものはできるし、できないものはできない。ですから後は極力頑張るしかありません。こうして労組の主流派を納得させ、過激派を孤立させて、再建案(6000名解雇を含む)を労組に飲ませます。名門東芝の大争議を終結させ、会社の経営を軌道に乗せた、泰三の名は上がります。この間吉田首相から蔵相就任の打診がありましたが、泰三は断っています。後任の東芝社長に岩下文雄を選びます。もっとも泰三は岩下の経営には不満で、昭和40年に、意中の人である土光敏夫を東芝の社長になるべく尽力します。
昭和31年、70歳、経団連会長に就任。4期8年会長職を務め、財界総理の異名を取ります。泰三の経団連会長として方針は、
  業界の最大公約数の意見集約、個別企業の利害を代表しない
  財界の自主性確立、政府や政党の干渉は排除する、リベラリズム
  豊になろう、日本の産業の潜在力を信頼して、経済の成長と拡大の提唱
  対米協調
  中国との交渉の要、一方ソ連との交渉は急ぐべきでない
だいたい以上のようなものです。
経団連会長時代泰三は、日本商工会議所会頭藤山愛一郎と共同で、鳩山一郎内閣に退陣要求を突きつけています。鳩山内閣の経済政策が曖昧であり、経済を放置して日ソ国交回復に専念し過ぎていた、と両名は判断したようです。
反面池田内閣の所得倍増政策には大賛成で、山一證券が危機に陥った昭和38年にあっても拡大政策を支持しています。
また早くから貿易自由化を唱え、関税撤廃を主張し、財界の多数から批判されます。泰三が会長を退いて数年後から日米経済摩擦が激しくなります。泰三の先見の明と言うべきでしょう。彼がこういう主張をした(できた)背景には、日本の経済力への高い信頼があるからです。潜在的能力が充分あるのだから、貿易は自由化し、円は切り上げ(こう言ったかどうかはしりませんが、論理的にそうなります)をした方が、長い目で見れば日本経済の体力を強くするのだ、という信念です。
昭和39年経団連会長職を副会長の植村甲午郎に譲ります。しばらくして三木武夫通産相の依頼で、大阪万博の会長になります。昭和45年春、大阪万博は開催され、秋を迎えて大盛況のうちに終わります。
石坂泰三はこういう人ですから、交友知人にはこと欠きません。内3名を挙げておきましょう。山下太郎、彼は戦前満州太郎として鳴らし、戦後にはアラビア石油を立ち上げて、アングロサクソン主導のメジャ-に立ち向かいます。この時すでに経団連会長であった、泰三は90億円の個人補償にすぐ判を押しています。この時泰三が言った言葉は「山下のような山師でなければこんな仕事はできない」です。泰三が東芝社長就任を引き受けた時、周囲の声に反して、就任に賛成したのは山下太郎だけだったとも言われています。
小林中(あたる)とはツーカ-の仲で、泰三が表の、小林が裏の財界総理と言われ、吉田内閣や池田内閣の政策に協力します。二人は極めて対照的な育ちを背景に持っています。
土光敏夫を泰三は最も高く評価しました。惚れたと言ってもいいでしょう。土光を東芝の社長に推します。小林と土光についてはすぐ後の列伝で取り上げます。
泰三は経済人であると同時に、優れた文人でした。和歌を詠み、漢籍を愛し、シェ-クスピアやゲ-テを原文で読み、80歳を超えてなおフランス語を勉強しました。昭和37年、76歳から、和漢の原典の筆写を開始します。四書五経や万葉集などを筆写します。
昭和50年心疾患の悪化で聖路加病院に入院し死去。享年89歳。
泰三は多くの放言をしています。その語録もおもしろいものですが、最後に彼が述懐した言葉をあげてみます。彼は言います、高校・大学と多くの事を学んだ、文学や哲学にも親しんだ、今振り返れば、大学の授業で習った実際的な知識はどんどん変わって役に立たなくなったが、教養それ自身は変らず、自分をはぐくんでくれた、と。Das stimmt so.

参考文献  堂々たる人生、石坂泰三の生涯  講談社

経済人列伝、中部謙吉(再掲)

2012-10-17 02:04:04 | Weblog
    中部謙吉

 中部謙吉は日本水産業界のトップ、大洋漁業(マルハ)の三代目社長です。謙吉を語る時、父親幾次郎と兄兼市を除外することはできません。マルハ、大洋漁業は幾次郎と兼市・謙吉の兄弟、計三人のトリオで形成され大をなしました。正直創業者である幾次郎の貢献は大きいものです。兄弟二人は父親の事業を継承し発展させます。父親の起業者としての大胆さと切れ味の良さを多分に持っているのは、弟の謙吉の方でしょう。中部家の祖先は兵庫県明石の近傍の林村で漁師をしていました。幾次郎の4代前に明石に移住して、魚商を営みます。近海で獲れた魚を明石へ運び、そこから大市場である大阪へ運搬します。明石では屋号を林屋といい代々の当主が兼松を襲名する事が多かったので、通称を「林兼」と言います。
 幾次郎という人は、極めて積極的で大胆で、斬新なアイデアに富む、優れた起業家でした。まだ手漕ぎの舟で漁をしていた時代、幾次郎は独得の天気予報で同業者に信頼されていました。それも単なる勘でなく、例えば雨が降ればそれを桶で受け止め、現在風に言えば、雨量を測定するなど、実証に基づく予報でした。明石から大阪の市場まで鮮魚を運ばなければなりません。難関は明石海峡です。大阪湾が満潮になれば水は西に流れます。このとき手漕ぎの舟では潮は乗り切れません。しかし海流をよく観察していると、必ず細い反流があります。幾次郎はこの潮目を把握していて、同僚より早く有利に魚を運びました。林兼は四国から北九州方面に進出して、鮮魚を買い付けるようになります。同業他社の中では群を抜きつつありました。こういう父親の次男として謙吉は1893年(明治26年)に明石に出生します。
 幾次郎は魚運搬船にエンジンを取り付けることを考えます。大阪市内の川を運行する船のエンジンを候補にします。それが明治37年に完成します。12t、8馬力、6ノット、幅3m、長さ14m、新生丸と名づけられます。これで明石海峡の満潮も克服できます。新生丸は日本で最初のエンジン付き漁船でした。林兼は明治40年には朝鮮海岸に進出し、そこを主な漁場とします。1910年(明治43年)謙吉は高等小学校を15歳で卒業します。父親は上級の学校への進学を許しましたが、謙吉自身の希望で林兼の下関支店に勤務します。大正2年、本店は明石から下関に移ります。多くの逸話があります。ハモが朝鮮沿岸で大漁しました。下関に運ぶ途中、台風に会います。沈没は免れましたが、ハモのほとんどは水槽から海中に逃げ出します。多くの乗組員は下関に回航して船の修理を進めますが、まだ20歳に足らない謙吉は朝鮮沿岸に引き返すことを決断します。大漁でした。そして台風のため品薄になった大阪の市場にハモを運び、大儲けします。また鯖漁の漁船に対して、一匹一匹鯖を数えて買うのではなく、大体の見当で船ごと買う方式を提案します。船頭の言う数に妥協して買うのですが、鮮度は保証され、結果はこれも大儲けでした。この辺のことになると、仕事や成果は幾次郎のものか、謙吉のものか解りません。ごっちゃになりますが、親子共同の作業として読んでください。板底一枚地獄と言われる大海で仕事をする漁船のこと、他の業種に比べると逸話は多いのです。
 朝鮮沿岸で大漁となり、本土に引き返す直前、朝鮮ではコレラが大流行しました。挑戦で獲れた魚の本土搬入は禁止されます。林兼の乗組員にも患者が出ます。林兼のみ朝鮮沿岸に踏みとどまりました。幾次郎は徹底的な予防対策をほどこします。手足の洗浄は各個人の責任になります。命が大事ならしっかり洗え、ということです。飯はおひつに移さず、釜から直接盛ります。副食は梅干だけです。どんなことがあっても手を口元にはもって行かないよう、厳命されます。こうしてコレラを乗り切り、競争相手のいない海で存分に魚を取り、品不足の本土に持ち帰ります。災い転じて福となります。林兼という企業にはこの種の逆転劇が多いのです。
 林兼は機械船で巾着網漁法を考案しました。巾着とは財布のことです。二隻の和船が網の両端を取り、絞りながら、網の中に魚を追い込みます。これを機械船つまりエンジン・スクリュウ付きの舟でします。機械船は和船に比べて早いので巾着網漁法できないと、思われていました。そこで網の降ろし方を研究し、何度も実験し訓練して、ついに片手回しテ-ブル式漁法なるものを考案します。そうなると速度に優り大きい機械船はより大量の魚を捕獲できます。
 林兼は定置網漁法にも進出します。既に朝鮮沿岸のめぼしい漁場には定置網が張られていました。林兼は不利な漁場に進出します。しかし沿岸に近い定置網周辺は汚れやすく、魚は移動します。少し時間を待っていれば林兼の網にも魚が寄ってくるのです。さらにこの定置網を利用して夏鰤を飼育し油の乗った寒鰤にして市場に出します。
 林兼すなはち幾次郎親子は何事にも新しい考案をほどこします。漁法だけではありません。経営も積極的に拡大します。商事部門を作り、傘下の(林兼に魚を売ってくれる)漁師に漁労用資材や食料・酒・タバコを安く売ります。さらに漁師に漁具や資金を前貸しします。前貸しは単に漁師へのサ-ヴィスとは思えません。漁師や漁船を借金漬けにしてその行動を縛ることもできます。また商事部は石油の取引にも乗り出します。始めは自社船用の石油確保が目的で各地に重油タンクを作っていましたが、次第に石油の取引にも進出するようになります。大正末年の時点で林兼は以下のような部門を擁していました。
鮮魚部(魚の運搬)、漁業部、水産物冷蔵庫部、冷凍・干乾物部、練製品部、製材製罐部、船具魚網部、石油販売部、缶詰工場、精米精塩部、肥料部、農事部、です。これらの部局から子会社が派生してゆき、林兼は次第に水産物コンツエルンになってゆきます。農事部とは朝鮮沿岸で作業する従業員の食糧確保のための部局です。林兼は2000町の未開墾地を購入し水田を造りました。この時点で保有する船舶は、漁運搬船60隻、3600t、漁船180隻、7000t以上、です。この間大正13年、林兼商店は株式会社になり、持株会社である林兼商店KK、と林兼漁業KK、林兼冷蔵KKの三つに分かれます。
 昭和に入って林兼は北洋漁場にも進出を企てます。蟹工船とサケマス漁が狙いです。経営は順調に行きましたが、当時の風潮である国策としての企業合併に抗しきれず、北洋漁業の先輩である、日魯漁業の膝下に屈し、単独営業を諦めます。北洋漁業の利権を売却して得た130万円のうちの50万円を使って南氷洋捕鯨に進出します。これは謙吉の担当でした。林兼は政治との接触を嫌いましたが、統制経済の中では、政府との接触は欠かせません。謙吉は常務として東京在住になります。最初の捕鯨船団は2万トン級の母船1隻、捕鯨船8隻からなります。総工費は750万円でした。川造船が積極的に造船を引き受けます。林兼の経営は信用を得ていたので、融資はスム-スに行きました。捕鯨船のエンジンをディ-ゼルにするかスティ-ムで行くかの問題が出てきます。後者なら速度とスクリュ-の回転を容易に調節でき、その分鯨を追跡しやすくなります。ディ-ゼルだと消費する重油の量はスティ-ムの1/3ですみます。林兼はディ-ゼル方式を採用し、シリンダ-の中に圧縮空気を逆噴射して入れることで、スクリュウ-回転の急停止を可能にします。こうして昭和11年母船日新丸以下の捕鯨船団が南氷洋に派遣されます。途中船団長の急死という不慮の事件がありましたが、捕鯨船団は1116頭の鯨を捕殺し、15280トンの鯨油と187トンの鯨肉を持ち帰ります。大成功でした。林兼は同規模の船団をもう一つ作ります。この船団は出航する前後に、母船が陸軍の上陸作戦で上陸用舟艇運搬に徴用され、30日以上遅れたために十分な成果が得られませんでした。
 戦争になります。二隻の母船はタンカ-として徴用され、米軍の爆撃で撃沈されます。他に多くの舟が徴用され、多くの設備が供出されました。そして敗戦、戦時補償は打ち切られ、林兼の本拠地であった朝鮮の施設はすべて失います。
 昭和20年幾次郎が死去します。長男兼市が社長に就任し、次男の謙吉は副社長になります。戦後すぐ林兼は立ち上がります。何もありませんが、培った技術と信用はあります。トロ-ル船、マグロ船など総計216隻を建造します。この点では占領軍の協力を得られました。当時は深刻な食糧不足でした。魚を取れば売れます。また戦後の虚脱状態の中でも工業資本はかなり残っていました。ただ戦争被害と戦後の混乱の中で、これらの資本は遊んでいたのです。だから林兼に資本がなくても、船団を作ることは可能であったのです。林兼は急いでいたので造船会社に分散発注します。また林兼は戦争中の統制経済に極力反対し、供出した資本のかなりの部分を売却ではなく貸与という形にしていました。敗戦で国家統制が解体すると、他の会社、日魯漁業や日本水産と違い、貸した物を返してもらえばよかったのです。この点で林兼は有利でした。
 小笠原捕鯨も再開します。南氷捕鯨への助走です。余っていた無用の長物である軍艦を旧海軍省にかけあい、貸してもらい、捕鯨船や母船に改造します。母船は2000tでした。昭和21年、南氷洋捕鯨が再開されます。潜水艦を捕鯨船に改造し、タンカ-を母船に転用します。戦争中は逆に母船をタンカ-として海軍に貸していました。この時代肉は極めて貴重品でした。餓死者が1000万人は出ると予想された当時(実際はほぼゼロ)鯨肉は重要な栄養源でした。私も給食で食べた記憶があります。本来鯨肉は美味なのですが、一度冷凍したものを解凍する際にでるある種の脂肪酸のために臭みがあり、あまり美味しいものではありませんでした。しかし南氷洋からもたらされる、鯨油と鯨肉は戦後の国民の重要な栄養源になりました。だから獲れば売れるのです。
 ここまでは林兼と占領軍は友好関係にありました。昭和22年、林兼の役員の大部分が追放になります。理由は多くの傘下子会社を抱え、小規模ながら財閥の体をなしていた事と、日魯、日水と並んで業界ではBIG3の一つ、つまり寡占状態をなしていたからです。占領軍も狡猾です。戦後の混乱期には旧経営陣を利用し、一応混乱が収まると彼らを追放します。理由はなんとでもつきます。林兼は国家統制に反対し自由主義経済を主張しましたが、戦時中のことですから、なんらかの形で戦争遂行に協力はさせられます。3年間徹底した追放解除への嘆願が繰り返されます。昭和25年、兼市、謙吉を含む全役員は追放解除になります。昭和28年(1953年)兼市が死去し、謙吉が社長に就任します。
 昭和27年サンフランシスコ講和条約締結、しばらくしてソ連とも国交が回復されます。北洋漁業が再開されます。今度は国家統制がないので、大洋漁業もオホ-ツク海に進出し好成績を挙げます。とかくソ連がうるさく、沿岸では漁業しにくいので遠洋の流し網でサケマスを獲ります。流し網漁法は大洋漁業の独壇場でした。昭和30年代春4月ともなると、ソ連との漁業交渉が難航し、北海道で交渉妥結を待つ漁船団の姿が新聞に載りました。春の風物詩でした。南氷洋の捕鯨そして北洋でのサケマス漁業の双方で活躍するこの時期、昭和25年から40年は大洋漁業の絶頂期でした。以後は経済水域の設定で遠洋漁業が制限され、規模を縮小します。2006年に宿敵日魯漁業と合併し、マルハ・ニチロ水産になっています。合併当時の資本金は150億円、売上高は2735億円、総資産は1638億円となっています。
 社名について述べますと、本来は林兼商店KKです。昭和11年の南氷洋捕鯨船団結成に際し、捕鯨部門を独立させて、大洋捕鯨KKを作ります。昭和20年敗戦を期に、全漁業部門を大洋漁業KKに統括させます。戦後は大洋漁業あるいはマルハのマ-クでおなじみです。なおこの間昭和24年本社を下関から東京に移転させています。昭和35年現在で大洋漁業の資本金は100億円、日本最大の水産コンツエルンです。
 中部謙吉、1977年(昭和52年)死去、明石名誉市民。謙吉の生涯を振り返ると父親幾次郎の偉大さがいやでも応でも解らされます。ですから謙吉の生涯は父と兄とのトリオでしか語れません。謙吉は兄より父親に似た経営法をとったようです。果敢で大胆なところは父親そっくりです。謙吉が父親から離れて仕事をするのは、国家統制が強化される昭和10年前後、東京に赴任して、東京駐在マルハ大使として、官憲と交渉し、その延長上に南氷洋捕鯨の事実上の総責任者になってかからです。そして昭和28年社長に就任し、南氷洋と北洋の両面で活躍し、さらに諸所に遠洋漁業をを展開し、自ら曰く、世界の中部なる時期が彼の絶頂期でしょう。この絶頂期に大洋漁業は「大洋ホエ-ルズ」という球団を作っています。昭和35年(だったと思います)この球団は、三原脩監督に率いられて日本シリ-ズで優勝し全国制覇をしています。当時私は大学生でしたが、中部社長と三原監督が握手する姿を新聞でみました。
 大洋漁業は幾次郎、兼市、謙吉の親子兄弟の固い団結の下に発展しました。この事情を反映し大洋漁業KKは徹底した同族経営です。昭和32年現在、総株式の 68%を中部一族が握っています。

  参考文献 中部謙吉 時事通信社

中国の対日暴動の考察(再掲)

2012-10-09 01:42:39 | Weblog
   中国の対日暴動の考察
1)以前からくすぶり続けていた、尖閣諸島問題は新しい局面に達した。石原東京都知事による買収計画そしてそれに尻を押された形の民主党政権による国家による購入を機として、中国では核心的利害と称して、尖閣領有を主張し、民衆を扇動し、激甚な反日暴動が起こっている(起こしている)。まず主張しておくが、明治28年1月14日、時の日本政府は尖閣諸島の領有を明確に宣言している。対して当時の中国政府である清王朝は何も言っていない。以後今日までこの島々に日本人が定住していたこともあったし、沖縄在留米軍の訓練場の一部として使われたこともあった。中国政府が尖閣諸島の領有を主張しだしたのは周辺海域に石油資源があることが発見された2年後の、1970年からだ。事の黒白、理非曲直ははっきりさせておく。
2)尖閣領有問題を機に中国では反日デモ・暴動・略奪が起こり、日本大使館や他の日本企業が襲撃されている。沈静化の気配もない。明らかに政府の主導だ。領土問題で自国の利益を主張する権利はどの国にもある。しかしそれを正式の外交ル-トを通じて行わず、民衆暴動を誘導する形で行われるとなると、事態は違ってくる。日本大使館が襲撃されたのなら、在日中国大使館を日本人が襲撃すればよいではないかともなるが、我々はそれほど馬鹿ではない。意見の違いはあくまで言論を通してあるべきだ。ここに日中の国民性の違いがある。彼我の性格・行動様式の違いは銘記しておこう。
3)9月18日は1931年満州事変の起こった日だ。奉天付近の柳条湖で張作霖が日本軍人の一部により爆殺された日だ。事柄の表面だけを見るとそういうことになる。しかし現在の反日暴動を体験している我々はこの体験を80年前に遡らせて考察するべきだろう。尖閣問題で日本が暴力行使の対象となる由縁はない。しかし中国の無知な民衆は政府に扇動され明らかな暴力行為を頻発させている。扇動と暴力はエスカレ-トして民衆は集団催眠におちいり、自己の意見を反省する能力は失われる。80年前も同様であったのではないのか。本来満州には漢族は入ってはいけない土地だった。清王朝は満州族なので、故郷の土地を漢族に汚され、数の力で奪われたくはなかった。だから清王朝は満州を漢族入禁の地とした。19世紀後半に入り人口圧に押されて清王朝は漢族の満州居住を黙認した。日露戦争当時でも満州の総人口は100万人くらいだったといわれる。そして満州を開発したのは前半はロシアと日本、後半は日本だったのだ。道路橋梁港湾ダム発電所などのインフラ、学校企業工場、農地交通網の整備などのほとんどが、満州国を建設した日本の力でなされている。そういう王城楽土に食い詰めた漢族がどんどん入り込んできた。日本が敗退したあと国共内戦の主舞台は満州になり、満州を取った中共軍がやがて中国の覇権を握る。終戦当時中国の工業生産の70%は満州に集中していた。戦後6年も7年も旧日本企業の運営のために中共政府により抑留されていた人も多いのだ。
4)清王朝を倒した孫文も袁世凱も蒋介石も毛沢東も、漢族であり、彼らの政権には、異民族の故地満州の領有を自明とする根拠は無い。ただ力で奪っただけだ。日本が満州を支配したのは無主の地を統治しただけであって、決して他から奪ったものではない。張作霖は本来馬賊の頭目で、関東軍に逮捕拘留されていたことがある。こういう盗賊上がりの人物が時の満州を支配していた。彼が支配する正統性はない。のみならず馬賊の素性ゆえか、租税は強奪に近く、予算の95%は軍事費で、この馬賊政権から満州の民衆はいはば見捨てられていた。日本が満州を支配した動機はあくまで日本の利害のためだ。しかし日本は日本の利益のために多くの資本を投入した。つまり満州を著しく豊かにした。満州国が成立する前後、満州ではいろいろな暴動が起こった。満州在住の日本人日本企業は危険でしかたがない。満州を開発し発展させる為には治安の回復が必要だ。馬賊政権、それを支援する蒋介石を始めとする各軍閥による扇動宣伝で満州の治安は悪くなる。治安を回復し開発を進展させるために一部の日本軍人は張作霖を除去した。現在の反日暴動を見ていると満州事変の裏側が透けて見えてくる。騒動を起こし、無知な細民流民を扇動し、事実を歪曲拡大して、それを自分にも相手にも事実と思わせてしまう。こうして歴史は捏造される。第一次大戦後の中国における反日運動には、扇動に乗りやすく流民化しやすい中国人の特性により事実の多くが歪められている。それにコミンテルンの活動と一時期日本の史学を支配したマルクス主義、左翼反日がからんでいる。
5)9月17日の読売新聞朝刊に「中国政府は尖閣問題を歴史問題とする」という記事があった。満州事変と尖閣問題を結びつけ、尖閣諸島は戦争により日本が奪ったことにするらしい。尖閣諸島と満州事変はなんの関係もない。この日「歴史の捏造」が行われた。中国とはそういう国だ。銘記しておこう。
6)中国はデモをするだけではない。大量の漁船の集団を尖閣近辺に集結せせるそうだ。日本も同様のことをすればいい。最も日本の漁民は暴力行使にはなれていない。大量の小船舶をチャ-タ-し、全国の警察機動隊を乗船させる。自衛隊の一部を一時民間人にして同乗させてもいい。海保には特別部隊があるはずだ。ともかく相手と同量の暴力を行使する。そして最後は銃砲だ。銃砲がすべてを決定する。しかし発泡は相手にさせる。このぎりぎりのところを踏まえて丹念に神経戦を行う。日本にとって不利なものではない妥協を提示して、一時的に妥協し、機を見て素早く、尖閣諸島に港湾・宿泊施設などの建造物を作るか自衛隊を配備する。南沙諸島で中国がヴェトナムやフィリピンに対してやったことだ。すべては実効支配にある。それに失敗すれば千万言費やしても事はならない。領土問題は特別の問題だ。一度譲歩すればすべては失われる。沖縄九州は中国固有の領土、石原知事は中国の利益にならないから辞めさせろ、天皇制は廃止し、天皇陛下を戦犯・人民の敵として死刑に処せよなどなど、要求は限りなくエスカレ-トする。これが共産主義というものだ。自己の主張を絶対視し、相手の意見には一切耳をかさない。日本は中国の属国になる。現在チベット、ウイグル、モンゴルがそうであるように。私は対中国経済より尖閣を取る。これはロシアや韓国への警告でもある。
7)そろそろ中国市場への期待を捨てて、日本の企業は中国から撤退すべきではないのか。中国から他の新興市場へという方策もある。しかしマスコミは成長力ある新興市場というがそれがどれほど期待できるのか。彼らの国の景気が一時的にいいのは、日本他の先進国の資本と技術の移転のおかげだ。EUと中国の関係のように本家がこけたら分家もこける。他人の資本と購買力しだいだ。企業の運営が波に乗るとすぐ賃上げ、そして暴動になりかねない。所詮は資本主義精神の核心である契約遵守がわかっていない連中ばかりだ。彼らには適当に投資して中級品を製造させ、残りの資本は日本の内需拡大に用いるべきだ。日本国内ですることはいっぱいある。高速自動車道路、高速鉄道、耐震型都市設計、原発、道路網の整備による交通革命(要は運転せずに自動的にいどうできる装置)そして学校と病院の増設、みなみな資本投下の対象分野だ。そしてこれらの技術はすべて輸出に直結する。
8)中国政権は現在極めて不安定なのではないのか?重慶事件、ほとんど表にでない次期首席といわれる習近平(だっけ)の様態を耳にするたびにそう思う。中国政府の対日態度の変動も政権の不安定さを示唆する。日本に経済制裁するなどとは、正気の沙汰かとしかいえない。困るのはむしろそっちだろう。経済成長は止まり、2014年から始まる高齢化社会のためのインフラはほとんどできていず、経済格差は増大している。水や土地や大地は汚染され、富裕階級は自国産の食物や水を口にしないといわれる。毎年10万件以上の争乱が全国で起こり、100万件とか1000万件とかいう上訴が地方農民から北京政府に寄せられるという。土地の所有権が曖昧なので、不正は横行し弱者は泣く。争乱が起こってあたりまえだ。富裕階層の半分は日本などに移住したいそうだ。ジ二係数からいえばすでに暴動革命暴発の水準を超えているらしい。もっとも真実は解らない。政府の意向で製作される数字なのだから。いつ人民解放軍が反乱を起こしても不思議ではない。もっともこの軍隊の正体も解らない。
9)中国人の国民性について。反日暴動に見られる彼らの態度は彼らの本性だ。昔から彼らは、生活に困窮すると流民となって他の民衆の物を奪い、盗賊化して全国を荒らしまわった。旧くは赤眉緑林、黄巾、黄巣、紅巾の乱、太平天国に義和団などなど。清王朝が倒れてからは軍閥割拠、国共内戦、大躍進、反右派闘争、そして文化大革命。中共が政権をとってから、1億人近い人間が、餓死・戦死・虐殺されている。反日暴動に彼らの国民性がはっきり現れている。
10)最後に中国の実態を描いた書物を数冊挙げておく。
 中国貧困絶望工場(日経BP社)
 中国農民調査(文芸春秋)
 共産主義黒書(恵雅堂出版)
 餓鬼(中央公論社)
 墓標なき草原(岩波書店)
 暗黒大陸、中国の真実(芙蓉書房出版)
    
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コレキヨとケインズ(再掲)

2012-10-04 01:50:30 | Weblog
    コレキヨとケインズ

高橋是清は1859年(安政元年)に幕府御用絵師川村庄右衛門の非嫡出子として生まれる。名は和喜次、実父には認知されている。仙台藩足軽高橋家に里子として預けられ、養祖母喜代子にかわいがられ、高橋家の養子になる。私生児、里子、養子と形式的には異常な幼少期だったが、祖母の愛情にくるまれて幸せな時代を送る。しかし内心はどうであったか?彼は39歳日銀に拾われるまでは仕事を転々とし、才能に任せて人生を食い散らしていた感がある。この傾向は彼の財政のあり方に影響していると思ってもいい。
 14歳仙台藩留学生として渡米。騙されて、是清は3年間拘束される奴隷に売られる。密かに東京に帰り、米国で知り合った森有礼の紹介で大学南校(後の東大)の教官3等手伝になる。
 コレキヨの特徴は、頼まれれば嫌とはいえない事、従って騙されやすい事だ。南校時代、300円ほど融通してくれと頼まれ、躊躇なく引き受け騙される。こうして彼はかなりひどい放蕩生活にはまり込む。芸者と駆け落ちし唐津で変名して英語教師、名前が東太郎、東はげいしゃの名。この間米人フルベッキ博士から聖書の講義を受ける。放蕩と敬虔、コレキヨの性格には複雑なところがある。加えて快活、恬淡、無欲、そして無邪気。誰からもかわいがられやすい人柄だった。
 34歳、森有礼のひきで東京英語学校(後の第一高等学校)の教師になる。先輩の非行を糾弾して辞職。浪人時代は英語の翻訳で食べていた。その間銀相場に手を出し失敗。友人達の世話で文部省、農商務省と渡り歩き、やがて初代の特許局長に任命される。日本の特許制度は是清によってその基礎が作られた。しばらくして先輩にペル-の銀鉱採掘を勧められわざわざアンデス山中に入る。鉱山は廃坑、一杯食わされたわけだ。山師(ペテン師)の風評が立つ。
 39歳日銀総裁川田小一郎の世話で日銀の建築主任。やがて西部(福岡)支店長に、46歳松方正義の推薦で日銀副総裁になる。
 日露戦争、是清51歳の男盛。外債公募のためにロンドンに行く。国債500万ポンドを年6分利で、関税収入が担保と言うきつい条件で売りさばく。その功で貴族院議員に。58歳日銀総裁、60歳山本権兵衛内閣蔵相、65歳原内閣蔵相、そして原敬暗殺の後を受けて、首相兼蔵相。もっとも首相としての仕事はぱっとしない。是清活躍の場は震災手形法案と金解禁への対処だ。
 関東大震災により被害を蒙った企業救済のために震災手形が出される。最終的には日銀が割り引くことになり、震災手形は不良債権化する。総額4億5000万円。財政赤字は必至。これに鈴木商店・台湾銀行への救済問題がからみ、議会は紛糾し取り付け騒ぎが勃発。若槻内閣は総辞職。
 代ってできた田中義一内閣から高橋は蔵相就任を懇願される。高橋是清がこの時打った策は、モラトリアム(銀行の支払猶予)、銀行の休業(数日間)、そして日銀特別融通損失補償法案。困った銀行には日銀が、総計5億円までの資金内で、融資できることになる。同時に緊急の事態に備えて、200円札を印刷。印刷が間に合わなかったので裏は真っ白、通称裏白と言われる紙幣。こうしてパニックはうそのように収まりまる。  
このやり方は高橋財政の特徴を如実に示している。まずすばやい行動、彼は危機介入には強い。次に積極財政、つまり通貨流通量の大胆な拡大だ。
 井上準之助の金解禁政策は大失敗、日本は不況のどん底におちいる。犬養内閣ができ、コレキヨは蔵相に就任。コレキヨが取った措置は、まず金輸出再禁止(金本位制廃止)。これで円はドルに対して50%以上減価。インフレにはなるが、輸出は伸びる。ぐんぐん伸びた。ついで低金利で企業への融資を容易にする。そして目玉政策が、国債の日銀引き受け。国が国債を発行する。それを日銀が引き受ける。資金は紙幣増刷だ。日銀の保証発行限度額は1・2億円から一挙に10億円に拡大される。この金が政府の施策や事業を通じて民間に流れこむ。物価は上がる。国債の実質価格は下がる。インフレは亢進する。時局救済事業という諸種の政府の事業(福祉政策であり公共事業でもある)も行う。インフレだが好景気になる。コレキヨの政策は当たった。列強中もっとも早く不況をから脱出したのは日本だった。しかし最大の事業はやはり戦争だった。軍事費削減交渉で軍部と対立し、コレキヨは非命に倒れる。
 高橋財政はインフレを必然とした。いくら巧妙な図を描いてもインフレは避けられない。そして当時の日本にはこの種のインフレは必要だった。もっとも恩恵を蒙ったのが重化学工業だ。以後鮎川義介を筆頭にして新興財閥が興隆し、旧財閥もこの流れに乗る。重化学工業の最大のお得意先は軍隊。軍備も需要だ。それは民間に還元されないと言われるが、そうでもない。利潤の回収が遅いのとリスクが高いだけ。第二次大戦で完敗し廃墟になった日本が立ち直り、世界の奇跡と言われる高度成長を為しえた背後には、戦前における重化学工業の成長育成がある。
 ケインズの彼の父親は自由党の議員で進歩的政治家であり経済学者、母親は非国教系の信仰者で、社会福祉に熱心な活動家。進歩的エリ-トである両親に育てられ、パブリックスク-ル、ケンブリッジ大学。加えて当時イギリスを代表する経済学者マ-シャルとその後継者ピグ-は父親の親友であり、ケインズは彼らに幼少の頃から親しみ、その影響を物心がついた時から受けていた。だから若いころの彼はバリバリの均衡論者そして文句なしの革新的エリ-ト。インド省に入る。一年後退職し母校のケンブリッジで経理運営に携わり、大学の財政を一挙に好転させる。第一次大戦後のヴェルサイユ会議には経済関係の主席委員として出席、彼三十一歳。会議はフランスの主唱するドイツへの過酷な賠償を決議するが、ケインズは終始反対し、帰国後「平和の経済的帰結」を書きベストセラ-になる。
ケインズを呼称する時、ケインズ氏とかケインズ卿と言う。ケインズ教授と言われたのを私は知らない。多くの経済学者がプロフェッサ-であったのに対して、彼は仕事をくるくる変えている。大学の行政者、大蔵省の嘱託(待遇は大臣並)、保険会社の社長、解説評論家、バレ-公演の援助者主催者等の実践活動に従事しながら経済学の著述をする。なんとなく高級フリ-タ-の観がある。株式投機の方もお盛ん、多分好きなのだろう。一時破産しかけたが、無一文から出発し1946年の死去時には5万ポンドの資産を残す。彼の両親は彼より長生きしたので、両親からの遺贈はないとする。金額を1950年時の日本円に換算すると略5000万円、当時小中学校の教師の初任給は5000円を超えなかった。また一説には45万ポンドとか。ほんまかいな?
ケインズは多彩な人生を送っている。彼はハ-ヴェイロ-ドと言われる当時の知的エリ-トが住む地域で育つ。大学時代かその後ブル-ムズベリ-なるかなり退廃的な文化グル-プにも参加している。そこで当時名が知られつつあった精神分析学説と接したらしい。貨幣の考察には一部精神分析理論が適用されている。ブル-ムズベリ-では若い優秀な画家ダンカンと知り合い十年近く同性愛関係を楽しむ。三十台半ばロシア人バレリ-ナであるリディア・ポトコバと出会い結婚。見事な転向だ。
ケインズのケインズゆえの経済概念は三つある。有効需要、賃金の下方硬直性、流動性の罠。これらの概念は1929年の大恐慌、経済機構と欧州文明崩壊の危機に対してケインズが対処すべく考え出したものだ。有効需要は購買力を伴う需要、これが減少するから企業の製品は売れず倒産する。古典派ないし新古典派の考えでは、成り行きに任しておけばいい、倒産するだけ倒産させればいい、製品は数少なくなり価格は上がり、企業収益は回復し、新しい企業が出現する、自然放任、Laissez-Faireでいいんだと。
非常に長いタイムスパンを取ればそうだろう。しかしケインズの言葉を借りれば、その時には我々は死んでいる。短期間に考察を限れば倒産失業者貧困者犯罪者が続出し自殺者は増える。人心は荒廃し、専門家の能力は低下し、生産経営の為のノウハウは失われ、経営者は自信を失い、国民は政府への信頼を喪失する。社会的動乱も起こる。今風の言い方をすればサプライが減少するということだ。短期間をどのくらいに取るかによるが、ぼやぼやしておれば経済機構インフラは壊滅する。高度化した経済ほどショックで失う物は大きい。経済にせよ政治にせよ時間は単純な直線ではない。現実の時間の流れの線は大小の太さを持つ。時間は瞬間瞬間あるいは短期短期の連なりだ。数珠の連鎖を想像すればいい。だから大きなショックに対しては早く対処しなければならない。時間を待っている間に時間を失う。そこでケインズはまずなんでもいいから需要を作れと主張した。失業者に働いてもらい、賃金が購買力になって、企業の製品が買われ-----云々となる。需要喚起。おもしろい事に同じような事を幕末の日本で二宮尊徳が言っている。尊徳も仕法家という実践的経済改革者だった。
ところでなぜ価格が新古典派の言うようには下がらないのか?賃金の下方硬直性ゆえ、賃金は一定度以下には下がらない。下がらないのか下げたくないのか、そのどちらでもある。ケインズに言わせれば、下がらないし下げてはいけないのだ。生活程度が非常に低ければ不景気は生活を切り詰めてなんとか凌げる。その過程には餓死という可能性も含まれる。このように人間の生活をアニマルレベルまで拡張して考えれば賃金価格の伸縮性は成り立つ。しかし人間は生活を一度一定の水準にまで上げてしまうとそれを再び失う事にはものすごい抵抗をするものだ。逆に一度下がると簡単には上がらない。また生活レベルが高度になるから高度の技術開発に精励できる。「お前しばらく乞食をやっとれ」「へっ、さいですか」では産業の水準は保てない。現代では経済機構の崩壊即人的資本の壊滅。賃金の無限低下による景気の自然回復は不可能だ。だからケインズは有効需要の政府による喚起を提唱した。具体的には公共事業を起こして民間に金をばらまく事だ。
流動性とは富財貨が他の富の形に変化できる速度。不動産の流動性は最小で、現金のそれが一番大きい。普通は流動性が高いほど利子率は低くなる、とされる。不景気対策として企業が投資を容易になるべく金利を下げる。しかし国民は貯蓄しないかもしれない。利子が低くてあほくさいからか、利子率上昇を待つのか。一定度以下の利子率になると国民は富を現金の形で持とうとするかも知れない。この場合利子率低下は投資促進に結合しない。景気が悪いのは、有効需要が少なく、企業家の投資意欲が小さいからだ。金が現金で所持され投資にも消費にも結びつかない状態をケインズは流動性の罠と称した。
重要な事はケインズが利子率と価格あるいは貨幣流通量との関係を断ち切った事だ。ケインズ以前、すなわち大不況以前の新古典派の学説が妥当するかに見えた時代には、利子率は貨幣流通量を介して価格に連動するとされていた。利子率が下がる、預金は現金に逃げる、流通貨幣は増加、物価上昇と好景気、そして企業の投資増加、金利上昇、貨幣量減少、物価低下と不景気、まあざっとそんな循環が考えられていた。利子率や貨幣流通量操作だけで説明のできる経済システムが考えられていた。景気は適当に循環する。循環はするが成長はしない。ケインズが挑戦したのはこの貨幣による自動調節なる仮構だ。
ここで賃金の下方硬直性の問題が絡む。確かに賃金が下がらないから価格は下がらず売れない。だから賃金が下がればとなると餓死の危険性は度外視するとしても、経済は風船が膨らんだりしぼんだりする往復運動をするだけでそれ以上の展開はない。逆に言えば賃金が上がるから生活程度が上がり有効需要が増える。有効需要の増加は需要される物の種類が増える事も伴わなければならない。同じ物は一定の量に達するとあまり需要されなくなる。生活程度の向上と有効需要の増加は比例する。賃金の下方硬直性の問題は単に不況の原因としてそれをネガティヴに捉えるのではなく、経済成長の原動力としてよりポジティヴに理解しなければならないのだ。有効需要は造らなければならないのだ。
ケインズ学説における貨幣とは何か?有効需要の喚起、公共事業への投資となると、お金が要る。不況時の政府にはお金が無い。銀行券増刷か国債の発行しか手段はない。つまり信用創造だ。通常の貨幣流通機構から一部切り離された物の生産という空間に新しく創造された貨幣をぶち込んで行くのが経済発展の原動力になる。
 ケインズの学説では資本や利潤という項目は重要視されない。投資と利子は常に等しいと言うのだから、この二つの概念の比重も大きいとは言えない。彼の所説は結局、生産-賃金-消費、と言う三項目だけから成る円環運動がすべてだ。生産により生み出される価値のほぼすべては賃金となり、それは消費され、生産過程に還帰する。このサイクルのくり返しがすべてだ。サイクルが大きくなる為には消費性向が増大し消費の質量が変らなければならない。主著「一般理論」を出して以後のケインズは多忙だった。第二次世界大戦の戦費捻出、ブレトンウッズ会議での米英の覇権争い。持病の心臓疾患の発作で死去。享年63歳。働き過ぎた一生と皮肉な批評を浴びる。
よくコレキヨとケインズの考え方の相同性が言われる。同質の政策だ。高橋財政とドイツのシャハト財政をケインズは注意深く見ていたはずだ。高橋とケインズの差を少し違う点から、比較して見よう。二人ともばくちが好きなようだ。この点ではケインズの方が上。ケインズは優れたギャンブラ-だが、コレキヨには下手なばくち打ちの印象がある。しかしコレキヨは蔵相を4度、首相を1度務め、実際の国政に関与できた。ケインズは英国政府からある意味で重用されたが、肝心の彼の経済政策を実施する機会は与えられなかった。ケインズは、正しい予言はするが、その予言が決して用いられないカッサンドラでしかなかった。ケインズの人生の方が悲劇的であったとも言える。
 二人の人生は結構似ている。それなりに恵まれた子供時代を送り、エリ-トコ-スをたどる。積極的で享楽的でもある。自分の考えは絶対正しいと素朴に思える性格。だから自己主張が強く、思考はいきおい独創的・異端的になる。
(付1)ケインズの母国、英国は常に古典的財政をとってきた。結果として製造業は衰退しサプライは減少した。
(付2)アメリカ経済の覇権が怪しくなってきたのはレ-ガン政権以後の政策からだ。インフレを押さえ込むために強引な貨幣量縮減を実施した。こうしてアメリカの製造業は衰退し始めた。レ-ガノミックスは基本的にはマネタリストの政策だ。マネタリストにできる事は流通貨幣量を一定の範囲に押さえ込むことだけ。英国のサッチャ-首相はこれにならった。英国の製造業は壊滅した。
(付3)米英がマネタリストの政策をとらざるをえなかった背景には賃金上昇・インフレがある。両国は日本に比べてはるかに階級対立が強い。典型が英国のジェントルマンとブル-カラ-の関係だ。階級融和ができないとストが頻発する。賃金協定がなかなか成立しないからだ。両国に比し階級融和が進んだ日本では経済政策の選択範囲が多いことは確かだ。これは大きなことなのだ。階級融和の明確な指標は犯罪率の低さだ。
(付4)コレキヨの時代に比べれば現在の日本の経済規模ははるかに大きい。拡大経済を施行してもインフレになる可能性ははるかに小さい。内需が内需を呼び込むような構造になっている。
(付5)使い道がないから日本人の多くは銀行に預金している。0金利で。盗難予防のためにのみ銀行があるようなもの。かれも流動性の罠だ。
(付6)現在シャ-プが苦境にある。シャ-プ(旧名早川電気)は技術馬鹿といっていい会社であり(ついた仇名がハヤマッタ電気)、極めて日本的な会社だ。金融機関や政府はシャ-プ救済になぜもっと真剣にならないのか。日航にしたように。金融支援、リストラはもちろん将来の経営方向の指導(行政指導、なつかしい言葉だ)などを行わないのか。最悪でも日本の他企業との合併が望ましい。苦境にある企業を新リベラリズムとかで見捨てていいのか?
    
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経済人列伝、松方幸次郎(改訂版)

2012-10-01 02:59:54 | Weblog
  松方幸次郎

(早川電気シャ-プが経営危機に陥っています。今を去ること80年前同様の危機に落ちいった企業があります。川造船です。この時政府はどうしたか?シャ-プ救済の参考にはなりましょう。川造船は鉄鋼部門を分離して川製鉄を立上ました。川崎製鉄は日本鋼管と合併し現在ではJEFスティ-ルになっています)

 松方幸次郎の人生は華に満ち溢れています。人生の後半では大失敗し、彼が育成してきた川造船を経営危機に追いやり、自らは財界ルンペンと称して、他人の居候になって渡り歩きますが、このすべてに華があります。彼の人生は華麗な御曹司の一生です。かと言って幸次郎が財界の単なる飾り物であったのではありません。
 幸次郎は1865年(慶応1年)に鹿児島で生まれています。父は、後に蔵相になり松方財政で有名な、さらに首相を二度務めた、松方正義です。幸次郎が生まれた時は幕末維新の激変期、正義はここを乗り切り、日田県知事をへて中央政界に乗り出してゆきます。同時に幸次郎も東京に呼ばれます。1875年、9歳、上京。共立学校、大学予備門(後の第一高等学校)とエリ-トの教育課程を進みます。予備門時代、学校当局に反抗してストライキが起こります。幸次郎は最も先鋭な分子の一人でした。放校されます。父親正義の立場(当時蔵相)もあり反省文を父親に書かされ、いやいやながら復学嘆願をおこないますが、帝大総長の加藤弘之に、あんな暴れん坊はごめんだと、却下されます。
父親にねだって海外留学を志します。いかに政府高官とはいえ、既に兄二人を留学させている正義にとって、負担は小さくありません。が、幸次郎はたって留学を希望し実現します。1884年19歳時、米国のラドガ-ズ大学に私費留学します。この時幸次郎はアメリカンフットボ-ルのクラブに入部しています。写真を見ると幸次郎の頭は他の学生の肩ほどにあり、体格の差は歴然としています。普通の日本人なら、このハンディを考慮してアメフトになどに入部はしません。こういう点にも幸次郎の大胆さと積極性が看取されます。ラドガ-ズ大学での授業はどうも理科系であったようで、幸次郎はそれを好みません。エ-ル大学に転校を希望します。エ-ル大学は名門です。ハーヴァ-ド、エ-ル、MITと並び称される名門です。この難関を突破して入学、大学院に進学して、法学博士号をとります。秀才で頑張り屋です。1890年25歳時、帰国します。留学の費用は、川造船所を経営していた川正蔵から出ていました。
1894年(明治27年)29歳の時、幸次郎は日本火災保険の副社長になっています。また灘商業銀行(神戸銀行の前身)や高野鉄道(南海電鉄の前身)などの監査役をしています。30歳になるかならぬかの若造が会社の幹部に簡単になれたのは、現在の常識から考えると不思議です。もちろん親のコネもありますが、当時の洋行帰りは超エリ-トの看板でした。また日本の資本主義が本格的に勃興する時期でもあり、新進エリ-トは官界でも民間でも必要とされていました。
1896年(明治29年)31歳の時、幸次郎は川正蔵に請われ川造船所の初代社長に就任します。資本金200万円、従業員1800人の規模でした。政府は造船奨励法を定め、大鑑建設に非常に積極的になっています。日清戦争に勝ち、次の標的はいやがうえにも、大国ロシアしかいないと仮想敵を定め、海軍の大拡張を行い始めたときでした。ここで川造船の前史について少し語ります。同社の基礎は川正蔵により定められます。川崎は鹿児島県の商人で上京して、東京と神戸に小さな造船所を経営していました。川崎は、石川ショウが作り経営不振のために国営になっていた神戸の加賀製鉄所を払い下げしてもらい、造船所の機能を神戸に集中させます。川には三人の男児がいましたが、みな夭折します。他に芳太郎という養子がいましたが、あえて社長には幸次郎を選びます。(芳太郎は副社長、正蔵は顧問)理由の一つは川も松方(正義)も同じ鹿児島県出身、つまり薩摩閥であること。幸次郎の父親の正義が政界の実力者であること。最後は幸次郎の才能です。華麗な経歴とその積極性は、商人上がりの川には、前進する時代の中にあって、自分にはかけており、将来必ず必要とされるだろう、という読みがあったであろうと思われます。
川造船所社長に就任してからの5年間幸次郎は、乾ドックの建設に務めます。努力し苦労しました。乾ドックとは陸上で造船できる施設です。それも5000トンを超える船を造れる規模のドックが必要です。川のライヴァル三菱造船所はすでにそれを持っていました。川崎造船所のある土地は砂地で水分を多く含み、硬くて安定した地盤が得られません。必要とするドックができなければ、せいぜい数百トンの小型船しか建造できず、正蔵時代と変りのない規模に留まります。底を固めなければ、地下から海水が侵入して、底を吹き飛ばします。ドックに必要な硬くて安定した地盤を作るために、大きい管を敷き内部にコンクリ-トを流します。さらに1万本の松材を打ち込みます。深く打ち込むために、松材を縦に連接させて打ち込みます。こうして乾ドック建造になんとか成功しましたが、失敗の連続で、幸次郎は二度辞表を川に提出しています。川崎は二度とも慰留します。この間旧三田藩主子爵九鬼隆義の娘好子と結婚し、神戸七実業団体連合会の会長におさまります。
乾ドックができてから経営は進展します。軍艦の建造に積極的に乗り出します。まず水雷艇の建造から始めます。明治37年には潜水艦を受注します。潜水艦の試運転中潜水艦が沈み多くの犠牲を出しています。潜水艦建造では二度事故をだします。その度に数十名の犠牲がでました。人命の問題もありますが、潜水艦の事故では、海軍と造船所双方の実験ティ-ムが一挙に失われるので、犠牲の大きさは計り知れないものでした。
1907年(明治40年)日露戦争の戦後不況でやむなく500名解雇します。この解雇は幸次郎に後味の悪さを残しました。
1909年(明治42年)鉄道車両の生産に進出します。後藤新平が鉄道国産を奨励していたのに歩調を合わせます。大正末年(1920年代前半)までに川造船車両部は1000台の機関車を作っています。翌1910年代議士になります。しかし大戦勃発で商売の方が忙しく二期目は立候補していません。
1911年(明治44年)幸次郎は出張先の欧州から、急遽技師12名の欧州派遣を命令します。ドイツから、エア-ポンプと船舶用ディ-ゼルエンジンの技術導入の契約を幸次郎は仕上げていました。背景があります。同年川造船は海軍から超ド級戦艦榛名(27500トン)の注文を受けていました。この大発展に備えるための技術導入です。ちなみに7年前の日露戦争では、日本海軍の主力部隊の艦艇はすべて外国製でした。大型艦艇建造のためにはガントリ-という巨大な鉄製装置が必要です。その中に建造中の艦船を囲い込み、クレ-ンで部品を自由に移動させる装置です。ここでも軟弱な地盤に泣かされます。いくら金がかかってもかまわん、ともかくガントリ-を設置する、という幸次郎の言葉で、しゃにむにガントリ-建造が進められます。製造費用は総計1000万円でした。現在の貨幣価値なら2000倍になります。この時二つの逸話があります。しゃにむに建設を進めて犠牲者が4名出ます。警察から調べられます。ここで幸次郎は工員達にいったん休養を与えます。労働時間を短縮した結果、労働生産性が上がることに気づきます。この経験は後年の組合対策に生かされます。1000万円の建設費用で資金難というより破産の危機に陥ります。幸次郎は海軍を尋ね前代未聞の要求をします。ガントリ-建設費用の一部250万円を海軍から出してほしいと頼みます。海軍はかんかんに怒ります。その時幸次郎が言った文句は、川が潰れれば軍艦はできませんよ、です。海軍は幸次郎の提案を呑みます。このことも後年川造船が最大の経営危機を迎えたとき生かされます。
幸次郎は技師達会社エリ-トだけでなく、ブル-カラ-の教育にも尽力を尽くします。親方連中を欧州に送り込み、エア-ポンプによる鋲打ちの技術を実地見学させます。工員に夜間学校に通うことを勧め、通学して一定の成績をあげたものには賃金に歩合を上乗せします。
1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発します。幸次郎は長期戦争と見極め、日本の輸出が飛躍的に伸びることを予想します。特に船舶の需要増を予想し、鉄の買付けを命じます。船を注文により製造する方式から、ストックボ-トつまりあらかじめ見込み生産する方式に切り替えます。海運景気で船舶の価格は10倍以上に騰がります。幸次郎の見込みは当たります。川造船や鈴木商店の管理職クラスのボ-ナスは100万円近くになりました。2000をかけてください、現在の相場がでます。それほどの好景気でした。しかし好況でも危機はあります。アメリカが参戦し、当然の措置として、鉄の輸出を禁止します。これでは船は造れません。鈴木商店の金子直吉が駐日米大使とじかに交渉し、船と鉄の交換を成り立たせます。幸次郎は、鉄が不足なら製鉄会社を作ろうと、して川造船製鉄部を立ち上げます。後の川製鉄です。またこの間川汽船という運輸会社も作っています。大戦景気で儲かって儲かって仕方のない中、幸次郎はイギリスのポスタ-を見て、絵画の魅力と意義に目ざめます。そしてどしどし名画を購入します。松方コレクションが創始され始めます。
幸次郎の生活は少なくとも外から見る限りは派手でした。豪邸に住み、毎日二頭立ての馬車で通勤します。英語は日本語と同じくらい流暢に話せ、よく海外に出かけます。1年以上も会社をあけたこともあります。会社では超ワンマンで、他の役員は単なる留守番と言われました。
1918年(大正7年)大戦終結。幸次郎は、船価はまだまだ騰がると読みます。戦後復興のために欧州はまだまだ日本の製品を必要とする、と予想します。結果として船価は暴落します。幸次郎はもう一つの予想をしています。戦後労働組合運動は激化すると。この予想は当たります。幸次郎は組合運動の理解者でした。1919年国際労働会議に出席し、そこで8時間労働制を支持する発言をしています。同じく労働組合の理解者であった武藤山治は、8時間労働になったら会社は潰れるといっています。造船と紡績、技術集約型産業と労働集約型産業の違いでしょうか?同年の川造船のストライキに際しての団体交渉で幸次郎は、8時間労働に踏み切っています。賃金は切り下げませんから、残業も入れると実質的には賃上げになります。
八八艦隊という海軍力拡充計画がありました。不況にあえぐ川造船や三菱造船はこの軍需に期待しました。が、1921年のワシントン軍縮条約締結により、この案は葬られます。川崎造船は、戦艦加賀を建造中でした。この戦艦は廃艦になり、以後の注文は取り消されます。
1920年幸次郎は海軍の密名を帯びて、ドイツの最新式潜水艦の設計図の取得を行います。スパイです。川は、ここで海軍と利害は完全に一致するのですが、潜水艦建造に展望を開こうとします。ドイツ人技師を招いて、行う潜水艦建造は二度目の事故で遅れます。幸次郎は不況打開の対策として多角化経営をめざします。飛行機製造部門を作ります。薄鋼板製造を押し進めます。これは将来の自動車製造を見込んでのものです。太平洋戦争中、飛行機製造は、川と三菱と中島の三社が主として行いました。薄鋼板製造も成功しました。造船部門のみが、苦境に立ちます。
不況打開策としての多角化経営には合理的な根拠があります。多角化で成長産業の方にシフトすれば、需要は見込まれるわけです。もう一つ幸次郎は解雇を避け、雇用を促進するためにも多角化経営の方向をとりました。1921年、賀川豊彦の指導下に、川三菱の両造船会社を中心に一大労働争議が持ち上がります。この時ライヴァルの三菱は3000名以上の解雇を断行しましたが、幸次郎は解雇を避けました。結果としてこれも川造船の苦境を促進することになります。
成長産業の方に多角化し、経営を拡大して利益を上げるために必要なものが資金、単純に言えば現金です。つなぎ資金で経営を持続させ、需要の拡大を期待します。資金獲得に際して、この時期不幸が重なりました。1923年(大正12年)関東大震災が起こります。政府は復興に追われます。民間への投資あるいは資金提供は大幅に制限されます。
1928年(昭和2年)金融恐慌が起こります。大震災に際して政府は震災被害にあった企業の手形を割り引いていました。どこの世界にもあることですが、震災とは無関係なのに、震災手形と称して、割引を受けようとする不正行為がはびこります。このことが国会で問題になっていました。幸次郎は国から特別融資を受けようと、その筋に運動していました。ある日国会で審議中、片岡直温蔵相が、渡辺銀行が閉鎖されたと、誤報を報告します。この一言でパニックが起こり、全国で取り付け騒ぎが勃発し、金融機関は一時マヒ状態になります。苦境を財界世話人と言われた郷誠之助が斡旋します。郷の父親純造はかって松方正義の下で大蔵次官を務めた経緯があり、松方家とは浅い関係ではありません。郷の斡旋で、上海と神戸の社有地処分、6割減資、工場を担保に政府融資3000万円、という案が高橋蔵相により了承されていました。この時川造船に銑鉄を収めていた大倉商事と大倉鉱業が、川の造船資材の差し押さえを申告します。それまでに川と大倉は銑鉄の代金支払いでもめていました。この申請で川造船の資産は担保としての価値を失います。幸次郎は万策尽きて辞任します。では会社は潰れたのかと言えば、そうではありあません。海軍としては川造船を潰すわけには参りません。会社の中に、海軍艦政本部臨時艦船建造部という機関がおかれ、一時期海軍が経営を実行する形になります。この時3000名が解雇されました。数年して軍需景気が起こり、会社は再び好景気の時期に入ります。太平洋戦争後、しばらくして川造船から、川崎製鉄が分離します。
辞任した幸次郎は財界ルンペンと称して、あちこちに居候する形の生活を送ります。石油価格高騰に際してソ連製石油を輸入するべくモスクワに飛んだこともあります。1936年(昭和11年)床次竹次郎の地盤を継いで、鹿児島から立候補し代議士になります。国会の廊下で時の東条首相に会い、東条を面罵したこともあります。あんたが首相では国が危ないと、言いました。1950年死去、84歳でした。
松方幸次郎と言えば、松方コレクションが有名です。第一次世界大戦の好況期に幸次郎は大量の美術品を欧州から購入します。約10000点と想定されます。うち9000点は日本に運ばれましたが、その大部分は負債処理のために売却されます。イギリスにあった300点は爆撃で焼かれます。フランスにあった400点余は戦後フランス政府により没収されます。1951年のサンフランシスコ講和会議で、首相の吉田茂が、この400点余の変換をフランス外相に懇請し、フランス政府はそれを受諾します。1959年国立西洋美術館が作られ、そこで371点が展示されました。幸次郎がコレクションに走った意図は、日本の画学生に実物を見せること、さらに西洋美術を国民が鑑賞して、文化の力を体験することにあったといわれております。1930年大原美術館が岡山県倉敷に開設されるまで、日本には西洋美術を体系的に展示する場所はありませんでした。なお幸次郎がコレクション収集に使ったお金は、1000万円とも3000万円とも言われます。もちろん第一次世界大戦当時の物価です。
松方幸次郎の関係する企業で現在でもがんばっているのは、私の知る限りでは川崎製鉄(2003年日本鋼管と合併しJEFスティ-ル)、川造船、川汽船と神戸新聞です。

参考文献 火輪の海  神戸新聞社
  松方幸次郎
     発信
経済心理研究所
 In 中本精神分析クリニ-ク
  精神分析療法専門 週一回1時間以上
  適応症 神経症とその類縁疾患
   洗浄強迫など強迫性障害、ヒステリ-性障害、
不潔恐怖など恐怖症、抑鬱症、
対人不安および対人障害 諸種人格障害 
  自由診療(保険外)、治療費、一回13000円
  所在 兵庫県尼崎市東園田町8-110-16
 阪急神戸線園田駅下車徒歩5分
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京都大学医学部卒、医師
著作多数、アマゾン・グ-グルを参照