経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

東北大地震を日本経済復興のばねとせよ!(再再度追加版)

2011-10-30 16:39:09 | Weblog
東北大地震を日本経済復活のばねにせよ!(再再度追加版)

 2011年3月11日午後、青森・岩手・宮城・福島県の太平洋岸で巨大な地震が起き、当地域は地震と津波で壊滅的な影響を受けた。政府はどう対処するのか。人命救助、食糧医療の確保、交通の復活などあたりまえのことであり、これらのことは政府と名のつくものなら、常套的手法を持っている。私は今回の不幸を、日本経済復活の礎石にするべきだと思う。
 徹底した復興対策を講じるべきだ。倒壊した家屋はすべて再建する。市庁舎、学校、駅などの公共機関、防波堤や河岸、港湾、橋梁なども再建する。海水にしみこんだ田畑の整備、ふさがった河川の浚渫と泥土除去などなど、必要な作業はいくらでもある。その個々のことをここで述べてもしかたがないだろう。肝心な事は、復興を徹底的にし、その出来上がりは充分に贅沢にすることだ。質、数、量すべてにおいて贅沢にしよう。すべての新建造物は高度な耐震設計にする。防波堤なども同様。津波銀座地震銀座といってもいいこの地方において、以後決して大被害が起こらないように充分資本と技術をつぎ込む。被害地を耐震設計のモデルにしよう。以後の日本の建築のモデルにしよう。そのために充分な金をつぎ込むのだ。
 単に被害地の復興だけが目的なのではない。東北地方全体の経済的発展の基礎を固める一環として、今回の事件を考えるべきだ。新しい市や町を創造するつもりで再建する。道路など広くしてつけかえてもいいのだ。耐震設計のモデルを作って、建築物を大量生産できるほうにとりはからう。
 被害地の多くは日本全体の中で比較的貧しい土地が多い。これらの町をリッチにしよう。のみならず東北地方全体の発展を計る政策の一環として、この度の災害に取り組もう。被害地を再建し、さらに開発から取り残されている様相を示しがちな東北地方の産業を賦活し、この地方を豊かにしよう。
 大地震による被害は多大な復興資金を必要とする。逆に考えれば、膨大な需要が発生したという事でもある。被害地の復興に、さらにその向こうに東北地方全体の発展を、さらに日本の経済回復をにらみつつ、雄大で長期的な復興計画を立てよう。
 さて金はどうするのか?現在の財政状況では充分なことは行えない。均衡財政を維持すれば、被害地の復興を放棄するしかないだろう。これは国家にとっても被害地にとってもともに衰弱する道でしかない。ともに発展する方途を追求すべきだ。被害地は貧しかった上にさらに貧しくなっている。被害地のみに復興の責任を持たせることはできない。極論すれば、政府が全部負担する覚悟で臨むべきなのだ。国債を発行せよ。赤字国債にする必要はない。日銀引き受けで政府が自由に使える資金を大量に作れ。それで日本の優秀な技術を被害地の救済と復興にかければいい。被害は逆に見れば需要なのだ。被害地の全地域を政府が再建する覚悟でやるべきだ。
 被害地に発生した膨大な需要を満たそう。それは日本経済の復活に通じる。被害地の再建、これは意味のありすぎる事業であり、意味があり役に立つ作業は、有効需要なのだ。では日本にこの需要を満たす資本はないのか、と問えば、あると答えよう。資本とは即人材と技術だ。それは現在の日本には充分すぎるほどある。需要と資本技術を媒介するもの、つまり貨幣が足らないだけなのだ。印刷すれば済むことだ。資本と技術がある、需要もある、ないのは金だけ。なら印刷すればいい。繰り返すが、資本と技術のあるところでは、紙切れ一枚が金になる。信用があるからだ。
 被害地の復興に大胆な投資をしよう。そして東北地方全体に投資し、それを日本経済復活の起爆剤にしよう。需要と投資がマッチすれば、経済は自動的に良い方に回転する。
 早速一つ提案がある。現在被害地の整理と救出に自衛隊が派遣されている。これは大賛成だ。さらにヴォランティアも募集されるとか?反対はしないが、効果があるのか?むしろ全国の土木建設業者に依頼して、傘下の社員作業員を集団で派遣したらどうだろう。彼らの方がはるかに訓練されている。会社ごとでもいいし、複数の会社を単位にしてもいい。もちろんこれはヴォランティアではない。きっちり給料を払う。現在建設業界は仕事がなくて困っている。雇用を喉から手の出るほど欲しがっている。彼らを使わない、あるいは協力してもらわない手はない。私はそう思う。

(追加)
1 日銀は40兆円の金を市中にばらまいた。それはそれでいい。しかしそこまで貨幣量を増加させるのなら、なぜその種の金を使って政府は復興事業を推進できないのか?金は作れる。政府はそれを思うままに使えるのだ。問題は首相が一国の責任者として、明確な復興計画を打ち出せていないことだ。大災害に臨んで、経済をどういう方向にもって行くのかの宣言がなされていない。それができないのなら首相を辞めよ。明確な方針の宣言は為政者の義務だ。
2 義援金も結構だ。私も幾ばくかの献金をするつもりだ。しかし義援金の額はしれている。義援金はあくまで心情的なあるいは象徴的な援助にすぎない。一つ提案がある。現在各自治体がいろいろな援助をしている。これらのことにはすべて金がかかる。自治体の予算にも限度がある。自治体に手形を振り出させたらどうだろう。例えば都道府県一律に100億円の手形払いを認める。自治体はそれで費用を賄えばいい。そしてこの手形の決済は日銀にしてもらう。自治体の窮屈な予算では限度がある。援助物資が手形払いで買われれば、支払いは寛大になり、業者は潤い、民間に金が流れる。私は一律と言った。沖縄県や鹿児島県などは援助するに、不適当な地にある。そういう府県は大阪府や愛知県に手形支払いの権利を譲渡すればいいのだ。
3 被災地の人を受け入れる場所に関して一言。空いているマンションの部屋を自治体が安く借りて、そこに入ってもらうこともできる。どのくらい安くするかは状況次第だ。ただこういう事をするためにも金は要る。1を参照のこと。
4 原発に関するTV会見を見ていて不思議なことを感じた。東京電力の人達が出てきて、なにか言うが、彼らは会社のどういう立場を代表しているのだろうか?肝心な社長の姿は見えない。東電も震災には責任がある。まず最高責任者である社長が出てきて説明するべきだ。たとえ専門家であっても責任ある地位にいないと責任あることは言えない。専門の技術者達は自分の責任範囲の事しか言えないし言おうとしない。加えて下の者は常に上の者の意見を考慮し、縛られる。社長でなければ会社を代表し、国家全体を視野においた発言はできない。トヨタが米国で事件を起こした時、社長は米国にすっとんで行った。東電の社長は自ら進んで説明すべきだ。政府もそのように東電にきつく要請すべきだ。首相の指示や命令がきけないのなら、しかるべき法的措置をとればいい。
5 心のケア-について。こちらは専門なので具体的に進言する。被災地であるから専門的なことができるわけではない。一番肝心なことは集団の対話だ。専門家やそれに近い人あるいは素人でもいい、10人内外の人数で、指導者を決めて、集団で対話しあうのがいい。1対1より、集団がいい。そうする事で集団への帰属意識を涵養できる。一番怖いことは、自分が独りだと思い込むことだ。対話の内容はさほど高度あるいは専門的な内容である必要はない。まず当面の関心事、次に身近なこと、昔語り、昔話、おとぎ話などなどでいい。リーダ-を中心に自由に話し合うことが大切だ。なお全国の人にお願いする。被災地に適宜手紙を送ろう。宛名は被災地の市町村名でいい。これらの手紙を被災者が入っているところにもってゆき読んでもらうのだ。
6 春の高校野球が開催と決まった。いいことだ。大災害だからといって中止する必要はない。お祭りはお祭り、開催すれば被災地にも全国にも、明るい話題が提供される。
(再度追加)
1どこかの新聞に日銀引受は国債の価格暴落を招くと書いてあった。論者はなにか勘違いしているのではないのか?日銀に引き受けられた国債は市中に出さない。出すから国債の価格は下がる。出さなければ下がらない。極端なことを言えば、日銀内部で国債を焼却してもいいいのだ。昔松方正義はインフレ退治のために償却した紙幣を焼却した。デフレ退治のために国債を焼き捨てても一向に構わないだろう。要は貨幣流通量を増やすことなのだ。3月29日(日曜?)付け産経新聞のオピニオンを参照して頂きたい。
2 自粛自粛とかまびすしい。多くの公演が中止になっている。そんな事をしても被災者の慰めにはならないだろう。むしろ陽気なお祭り騒ぎをする方が慰めになる。芝居の公演はお通夜の代理にもなるのだ。それ以上気になるのは自粛により景気が悪化することだ。景気は強気陽気でないと回復しない。恋愛の数と景気は相関関係にある、とドイツの有名な経済史家が言っていた。代議士連中がやっと制服を脱いだ。それだけでもほっとする。本来彼らが制服を着る必要はない。彼らの任務は他にあるのだ。
3 東電は頑張っているのではないのか。多くのメディアは東電を非難するが、もともと地震は東電の責任ではない。もたもたしているように見えるが、工学とはあんなもの、つまり地道な試行錯誤の連続なのだ。ともかく問題が起これば当事者は必ず非難される。特に海外のメディアに気をつけよう。一段落したらまた日本が叩かれる可能性がある。本来日本はあまり同情されない(同情されるようなものがない)国なのだ。援助は援助、外交は外交なのだ。どの国も自国の利害で動いている。現内閣にその自覚はあるのか?
4 援助で一番役にたったのは米軍の友達作戦だろう。仙台空港への空挺部隊の強行着陸は戦闘なれした米軍でなければできない。自衛隊にも海外出動の機会をもっと与えるべきだろう。インド洋での活動をやめさせた民主党政権は、軍隊の必要性を銘記すべきだ。
5 中国2題。地震の1-2日後、中国国内で買占め騒ぎが起こった。日本製品の品不足への不安と放射能への危惧感だ。日本でも起こっていないのに不思議な現象だ。中国政府も苦労するなあ。日本に不法滞在していた(千葉県?)中国人が放射能をおそれて自首し、本国送還を願ったとか。
6 被災地の復興に関して。津波防止のために、環壕集落風に都市を設計することも可能だ。住民は一定の地域に集住し、それを高い頑丈な塀で取り巻くという方法もある。木曽川の下流の中州では洪水から町を護るためにそのような都市づくりになっている。
7 ロシア機や中国機の日本領土への接近が地震以来増加している。外交は外交、国益優先、援助や同情に安住しないでおこう。
8 国会を一度東北地方(仙台が好適)で開催したらどうか?国会の全部ではなく一部でいい。あるいは東北地方復興のための特別国会を召集し、それを仙台で行う。この際おそれながら天皇陛下に数日のご動座をお願いする。
(再再度追加)
1 このBLOGは半年前に書いた。若干追加する。最近野田首相は、復興増税を言い出している。この政策には大反対だ。デフレで景気が沈滞している時の増税は経済を萎縮させ、結果として減税に繋がる。企業が赤字になり、失業者が増えれば自動的に税収は減る。このくらいのことは経済の常識だ。不況期の均衡財政(増税)のもたらしたすさまじい結果は、戦前の井上(準之助)財政明らかだ。野田首相も、財務相のポチなどと言われたくなければ、増税路線を転換すべきだろう。

経済人列伝、松原興三松

2011-10-11 12:45:13 | Weblog
       松原興三松
 
 松原興三松は1899年(明治32年)福井県坂井郡に農家の子供として生まれました。8人兄弟の7番目です。9歳で父親は死去し、母親の手一つで育てられます。母親は熱心な仏教徒でした。福井県(越前国)は戦国時代本願寺の蓮如が布教し、浄土真宗の盛んな土地です。興三松は本願寺系の北陸中学に通わされました。母親は彼を僧侶にするつもりだったようです。興三松は僧侶になることを嫌い、陸軍士官学校を受けます。近眼のために不合格、長崎高等商業学校に入学します。
 1917年(大正6年)久原鉱業に入社します。愛媛県の鉱山の会計係になります。給料を徒歩で輸送する際には拳銃を携行したそうです。大正9年日立製作所東京本社に転勤し、経理畑一本で通します。既に他の列伝で述べたように、久原鉱業から日立製作所が分離独立しました。興三松は、社長の小平浪平に他の仕事をさせてほしいと頼みます。小平は、一つの仕事の博士になりなさい、と説諭します。
 1941年(昭和16年)興三松は大阪鉄工所に経理部長として転任します。この会社は明治14年英国人E・ハンタ-が大阪の安治川に造った造船会社です。大正9年に日立製作所は100%株式を取得して、大阪鉄工所を買収しました。昭和18年に日立造船と改名されます。19年興三松は同社取締役になります。終戦。財閥解体で、同社の株は公開されます。日立造船は日立製作所の支配から解放されたことになります。
 1950年(昭和25年)興三松は日立造船の社長に就任します。戦後造船業は壊滅状態でした。戦前の需要の二本の柱の一つ海軍は消滅しました。もう一本の柱海運も青息吐息の状態でした。戦争中650万トン造り、940万トン沈められ、僅かに134万トンの船舶が日本に残っていただけでした。戦前の1/10くらいに減少したと見ていいでしょう。加えて戦時補償は打ち切られます。戦時補償とは、戦時中企業が戦争のために蒙った損害は、これを政府が補償するという約束です。GHQはこれを禁止します。戦争では儲からないことを企業は知るべきだということです。アメリカ本国の事情はどうなのでしょうか。政府は海運と造船を育成するために、計画造船を行います。政府が費用を出して船舶を注文します。資金は復興金融金庫からださせます。しかし財閥の背景のない日立造船は、この計画造船の恩恵にあずかれません。社長の興三松は活路を輸出に求めます。他の造船会社だって同様であったのでしょうが、日立の場合輸出への脱出は特に苛烈でした。興松三は輸出の鬼になります。彼の格律は、輸出365日でした。
 昭和24年アメリカのキャラスカンパニ-から2万トンタンカ-4隻の注文がきます。赤字の受注ですが、船舶のような大きな注文品は途中の工程如何で黒字に変えられるそうです。納期が厳守され注文主の信用を得ます。昭和25年ソ連のイエルメン号を大改造する事になりました。以後ソ連は日立に修繕船、ニシン工船、貨物船の修理や製造を依頼します。興三松は共産圏とも積極的に商売をします。彼の信条は、商売に国境はない、でした。ソ連以外の共産圏諸国にも船舶・プラントともに売り込みます。東南アジアにも、こちらは主としてプラント輸出の攻勢をかけます。昭和30年にビルマで砂糖工場のプラント輸出が成立します。以後、肥料,塩化ビニル、パルプ、水門扉、水圧鉄管、など諸種のプラントが同地へ輸出されます。
 昭和24年には技術研究所を作ります。特に溶接技術の習得に研究員を派遣します。昭和25年、デンマ-クのBandW社とディ-ゼルエンジンに関して技術提携をします。同社のパテントを買います。ディ-ゼルエンジンは石油消費量が少なく、大型化する趨勢にある船舶のエンジンとしては極めて経済的でした。
 昭和31年からの10年間日本は造船の質量の双方において世界一でした。以後も同様の状況が続きます。そういう中日立はじめ各社は陸上機械部門への進出を計ります。船の受注は増減の幅が大きく不安定です。戦争や動乱が起これば需要は激増し、不況となれば即キャンセルです。徹夜仕事の連続か遊休かと、いうようなものです。陸上部門に進出することによって、経営は安定します。特に日本の造船会社は船体とエンジンを同一社で行っているので、技術の総合性が高く、組合せ如何ですぐ陸上の重機械に変貌できます。昭和38年欧州のドックに閑古鳥が鳴いているのに比し、日本は世界の受注の半分を占め900万トンの船を造っていました。
 日立造船は昭和40年に堺に新工場を建設します。20万トンのタンカ-を造るためです。特にセミタンデム方式を採用します。この方式でゆくと納期がぐんと早くなります。ドックの前方(海と反対側)で第二船の半分を造り、同時に海側で第一船の全部を造ります。第一船が完工すれば、第二船を海側に移して残り半分を造る一方、前方では第三船に着工します。
 企業というものも、その業種さらに経済全体の中にあります。一企業だけで自分の会社の運命を左右することはできません。日立造船の場合も同様です。造船業全体の動きの中の日立です。こういう中で松原興三松という人物の存在はどこにあるのでしょうか?それは輸出に企業の脱出口を求めた点にあります。ですから商売に国境はありません。結果として対共産圏にも進出しました。この点では先駆者です。どこの国とも仲良くなろうと勤めました。日立の新年会は有名です。外国人も多く、1000名規模の大会になります。興三松は路上で外国人から挨拶されることが多かったといいます。新年会の招待客でした。人柄は誠意に富み親切でまじめでした。麻雀と囲碁が趣味でした。人生で一番つらかったのは造船疑獄で3週間留置され取調べを受けたときです。この時社員15000名が、また別に社長クラスの人物が太田垣士郎の斡旋で33名が、連署して嘆願書をだしてくれます。無罪放免。労使関係は極めて良好、経営家族主義を掲げ、ガラス張経営に徹し、学閥なしの会社でした。
 以下日本の造船業の歴史を簡単に振り返ってみましょう。近代造船業の起源は幕末のペリ-来航以後に求められます。徳川幕府は苦しい財政の中、長崎、横浜、横須賀などの各地に製鉄所を造りました。製鉄は造船をも含みます。幕府の施設は維新政府によって受けつがれます。しばらくは官営でしたが、政府は明治13年以後工場を民間に払い下げます。長崎は岩崎弥太郎(三菱)に、兵庫は川正蔵に払い下げられました。横須賀は官営のまま海軍工廠になります。民間じばえの企業としては大阪鉄工所と石川島造船所があります。大きなところはこの4つです。日清戦争に際して海運はほとんどが外国船にたよりました。この経験に鑑みて、政府は造船と海運の奨励法を作ります。1000トンを超える大型船の建造には助成金を出しました。日露戦争は造船業に拍車をかけますが、この戦争で活躍した艦艇の大半は外国性でした。明治40年三菱造船は天洋丸・地洋丸の2隻を造ります。ともに13500トンと大型、20ノットの高速でした。明治44年三菱が榛名、川が霧島という25000トンの巡洋戦艦を造ります。建艦技術では世界水準に追いつきます。 
第一次世界大戦、日本の船は外国に輸出されます。特にアメリカとの間で締結された鉄と船の交換は有名です。大戦間に日本は184隻、40万トンの船舶を輸出しています。大正5年、1916年大戦のさ中、奨励法は廃止されます。大正年間の同法適格船は、三菱、川、大阪鉄工所が大体19万トンで肩を並べています。大阪鉄工所が後に日立造船になることは既にのべました。
大戦後の不況、さらに1921年(大正10年)に結ばれた海軍軍縮条約で造船業は更に不況を深化させます。解雇、争議、特に三菱と川での大争議、鈴木商店の没落、松方川造船社長の辞任などなど事件が相継ぎます。官民一体で不況対策がとられます。経営の合理化、エンジンのディ-セル化が計られます。高速船つまり高度な船舶が奨励され、助成金がでます。陸上機械への経営の重心移転が計られました。三菱と川は航空機に、石川島は航空機と自動車(みすず)に進出します。第二次世界大戦では大量の船舶を作る必要から戦時標準船が等級別に造られました。一律に生産します。粗製濫造でした。
敗戦、海軍と海運の壊滅、造船業は需要を失います。戦時補償はなくなり、あまつさえ優良施設は戦時賠償とかで、東南アジアにもってゆかれそうになります。昭和22年船舶公団ができ、計画造船が始まります。政府が買手となって、船を発注します。資金は復興金融金庫から出します。朝鮮動乱で一息つきますが、造船不況は克服できません。政府は企業に利子を補給します。開発銀行の融資利率7・5%を3・5%にして残った4%は政府の負担にします。技術上ではブロック建造方式、電気溶接法を採用し、ディ-ゼル化を計ります。工作機械も新鋭化します。高度な船舶を早く安く造ろうとします。粗糖リンク制を導入します。粗糖輸入で得た政府の資金の一部を造船の助成にまわします。
こうして1956年(昭和31年)から10年間に及ぶ造船の世界一が始まります。昭和40年534万トンを造り、世界のシェア-の40%を占めました。昭和49年には1766万トンを製造し世界の総生産額の半分を占めました。日本の造船が歓迎されたのは納期が短いことでした。昭和40年代で平均納期が、英国500日、西独250日、日本は200日でした。この間経営の陸上化は続けられます。専用船化、超大型化、高速化が計られ、巨大タンカ-とコンテナ船が造られ、洋上接合技術、二分割建造、先行艤装方式が採用されます。企業の合併もどしどし行われました。
1970年代は造船業にとって危機の時代です。円高で為替差損がでます。最大の衝撃は1973年(昭和48年)の第一次石油ショックでした。タンカ-の需要が激減します。世界が不況になるのですから、産業は停滞し、その分輸送も停滞します。造船業は大きな需給ギャップに直面します。造船設備の縮減が必要です。1/3以下に縮減されました。人員整理もします。経営の陸上機械部門への移転が推進されます。そして製造品つまり造る船の高度化も計られました。石油ショックだけではありません。日本は高賃金になります。低賃金を武器として韓国や台湾が台頭し、価格競争で挑戦されます。現在三菱は三菱重工、川も川崎重工となり、造船部門は総売上げの1/10くらいです。日立造船と日本鋼管(JEFスティ-ル)はともに造船部門を切り離し、合併させて、ユニヴァ-サル造船を作りました。つまり三菱・川・日立はすべて陸上の重機械部門に重心の9/10を移行させています。同時に造船部門を高度化、専門化させ、付加価値の高いものを造ろうとしています。

 参考文献  松原興三松  ダイヤモンド社
       日本産業史(全三巻)日経新聞社