経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

「天皇制の擁護 第八章「(解説)

2009-02-11 23:48:41 | Weblog
   ルネッサンス期の教皇

13世紀、特にインノケンティウス3世の時、教皇は太陽にして皇帝は月、とまで言われ教皇権力は絶頂を極めます。しかし台頭する国民国家の帝王達はこの教皇権力に対抗しそれを蚕食してゆきます。平行して異端や改革派が出現し、教皇の聖権独占に挑戦します。
1303年のアナ-ニ事件は教皇権没落の晩鐘でした。狡猾にして冷酷なフランス王フィリップ4世の謀略にかかり、教皇ボニファティウス8世は憤死します。1309年教皇庁は南仏アヴィニョンに移され、フランス王の監視下に入ります。(アヴィニヨン幽囚)1377年グレゴリウス11世は再びロ-マに戻ります。アヴィニヨンにも教皇が立てられ、同時に二人の教皇がいることになり、教会は分裂します。(シスマ、1978-1415)1431-1445年にわたって開催された公会議は教皇権力に一定の制限を加えようとします。
この頃からイタリアはルネッサンスに入ります。教皇権力はイタリアの教皇領を中心とする一領域国家になり、当時の教皇権はまさしく世俗権力と同じ様態でした。そのような教皇が出現します。世俗的であり、聖職の模範とはとてもいえませんが、結構魅力的な人物達ではあります。
シクストウス4世(在位1471- ----)
 教皇領の拡張 フィレンツエとの抗争・戦争
親戚縁者の引き立て(ネポティズム)
学問・芸術の保護 建設事業 システィナ礼拝堂(彼の名から命名)
教皇財政の強化 免罪符の合法化
アレクサンデル6世
 収賄で教皇職を入手 放縦にして不道徳
 有名な私生児がルクレジア・ボルジアとチェザ-レ・ボルジア(後は塩野七生さんの本を読んで下さい)
 チェ-ザレ・ボルジアを使って教皇領の私領化を画策
 フランスとの対抗 フランス王シャルル8世のイタリアへの介入 以後イタリア半島はフランスとスペインという絶対王政の草刈場 半島分裂の固定
ユリウス2世
 教皇中もっとも好戦的な教皇 自ら甲冑をつけて出陣したとか
 芸術建築の保護 特にミケランジェロお保護者として有名
レオ10世(---- 1521)
 メディチ家の出身 イタリア内外の諸勢力との均衡を模索 この法王のときルタ-の宗教改革が始まる

私に言わせれば教皇もフランスやスペインの王のように絶対君主になりたかったようです。
彼らの庇護下にイタリアルネッサンスの花が開きます。
同時にキリスト教会改革の動きが胚胎し始めます。早くはイノケンティウス3世当時の
ドミニコ・フランシスコ両托鉢修道会、カタリ派。シスマ期にはダンテ、エックハルト
、オッカム、タウラ-。シスマ以後はウィクリフとフス。やがてサヴォナロ-ラやルタ-、
ツウィングリが出現します。



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