経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、昭和の妖怪、岸信介

2010-03-31 03:30:35 | Weblog
     岸信介

 岸信介といえば、戦後の首相の中で最も右翼的と称される人物です。その由縁は、戦前官僚として国家による経済統制を主導した事、開戦の詔書に商工大臣として署名した事、そして極めつけが戦後A級戦犯として巣鴨に3年間入獄した事、などなどです。しかし彼信介(のぶすけ)は経済人としても興味ある人物です。戦後の内閣総理大臣経験者で、経済人として興味あるのは、岸信介、石橋湛山、池田隼人です。石橋はすでに取り上げました。池田に関しては、彼の政策は下村治の理論に体言されています。もう一人無視できない人物は多分田中角栄でしょう。田中に関しては後に取り上げると思います。
 岸信介は1896年(明治29年)現在の山口市に生まれました。父親佐藤秀助は県庁勤務、やがて酒造業に転じます。信介の曽祖父佐藤信寛(多分寛作改め)は幕末の長州藩にあって藩財政を主導した、村田清風の下で経済官僚として頭角を現し、後に島根県令を勤めた人物で、佐藤家では尊敬し誇るべき先祖でした。信介の母茂世は佐藤家の家付き娘、父親は養子です。信介の姉妹は7人、兄弟は彼も入れて3人、佐藤家は子福者でした。信介は非常な秀才で、小中学校はすべて首席で通します。叔父の佐藤松介(岡山医専教授)に一時引き取られ、難関岡山中学に入学します。しかし叔父の急逝で山口に帰り、山口中学に入ります。この間親戚の従妹である岸良子と婚約し、岸家の養子になります。信介は非常な腕白でしたが、体はあまり強くありません。ために軍人志望を諦めて、高校進学を目指します。彼の兄弟はすべて揃いも揃って秀才でした。兄の市郎は海軍兵学校に行き、海軍中将まで進みますが、比較的若くして死去しています。信介の秀才ぶりは有名でしたが、市郎はそれ以上だったと言われています。弟の栄作は熊本五高から東京帝大の法科に進み、鉄道省に入り、戦後吉田茂に認められ、政治家になります。59代首相として、栄作は日本で最も長期にわたり政権を運営します。
 信介は一高から東京帝大の独法科に進みます。ここで上杉慎吉の国家主義に強く影響されます。成績がいいので、大学に残り学者として自分の後継者になってほしいと、上杉に言われますが、断って農商務省に入ります。当時秀才官僚といえば、内務省か大蔵省と相場は決まっていましたが、信介はなぜかこの秀才コ-スをたどりません。
 31歳欧米出張を命じられます。アメリカの産業規模に驚くと同時に、反感も感じます。むしろドイツのカルテル主導による統制型(あるいは管理型)経済に魅せられて帰国します。37歳工務部工政課長になり、さらに文書課長、工務部長とエリ-トコースを歩みます。文書課長という役は、大臣に提出するあらゆる文書をチェックする役目です。信介はここで才能を発揮します。文案を一目見て、その矛盾を看破したと言われます。
 41歳、時の大臣とあわず、満州に転職になります。満州重工業株式会社総務部次長になり、以後3年間満州に滞在して、満州国の経済体制の基礎を作りました。帰国の途上の記者会見で、結果はどうであろうと自分は思うように満州国運営の青写真を描けた、と豪語したのは有名です。
 1939年44歳商工次官になります。大臣が京阪神急行社長の小林一三ですが、経済運営で意見が合わず、大喧嘩になり、信介は辞職します。1941年東条内閣の商工大臣
になり、開戦の詔書に国務大臣として署名します。翌年山口県から衆議院議員に立候補し当選します。大臣になった時より嬉しかったそうです。1944年サイパン陥落。この時信介は敗戦を予想し、戦争継続に反対し、東条内閣打倒運動を策します。1945年50歳敗戦、信介はA級戦犯として、巣鴨に収容されます。1948年53歳、釈放されます。
 1952年57歳、公職追放解除、すぐ政治活動を始めます。追放解除後3年半で政権を取ります。政権は取ろうと思って取れるものでもありませんが、その速さには驚かされます。再建連盟を結成します。占領下において歪められた日本の政治経済の構造を変える試みです。主要な目的の一つが、憲法改正です。58歳自由党に入党。ちょうどその頃、自由党の吉田政権は末期にさしかかっていました。同年衆議院議員選挙で当選、すぐ党の憲法問題調査会会長に就任。59歳新党結成準備会を作り自由党を除名されます。自由党鳩山派と改進党の合同に際し、作業の代行委員になります。やがて誕生した日本民主党(総裁は鳩山一郎)の幹事長になります。石橋湛山、三木武吉、河野一郎などと吉田内閣打倒を策し、吉田茂を退陣に追い込みます。自由党と民主党が合併して自由民主党ができます。信介の念願は保守合同でした。彼は自由民主党の幹事長になります。鳩山一郎の引退後、石橋湛山と党首の位置を争いますが、僅差で負けます。石橋内閣の外務大臣に就任。1ヵ月後石橋が病気で倒れ、信介が首相代行になります。石橋の正式引退後、信介が自民党総裁に選出され、同時に内閣総理大臣になります。彼の念願は日米安全保障条約の改定と憲法改正でした。政権獲得後3年半政権を維持し、1960年安保改定に伴う、抗議行動の中で辞任します。後任は池田隼人でした。
 以上が岸信介の生涯のあらましです。以下統制官僚、満州国経営、岸内閣の経済政策、そして岸信介という男の行動パタ-ンの4項目について考察してみましょう。
昭和の恐慌とそれに続く不況を機に現れた、新しいタイプの官僚の一群を統制官僚と言います。統制とは経済の統制です。不況克服のために、経済を自由な市場の動きに任せるのではなく、国家が介入して経済を管理するのが、統制経済の特徴です。主要な手段は、カルテル形成の支援と産業(特に成長を期待できる)の保護育成です。当時特に保護されるべき産業がありました。それが重化学工業です。鉄鋼、機械、自動車、電気、アンモニアとソ-ダ、人造絹糸、石油産業などです。これら重化学工業は新興産業として、旧財閥の支配の外にありました。新しい企業群とは理研、日産、日窒など、科学技術を重視し、株式発行という直接金融に拠り(従って銀行に頼ること少なく)、重化学工業の育成に専念する企業群です。彼らを新興コンツエルンと言います。(結局財閥なのですが)統制官僚も軍部も、日本の経済の将来には危機感を抱いていました。ここで軍部、新興企業群そして統制官僚は手を結びます。彼らのあせりは相当なものであったようで、彼らの一部は、同様に国家による経済管理を志向するものとして、ナチスドイツのみならずソ連の経済にも深い関心を寄せていました。信介なども一時はかなり左傾化したと言われています。
経済再建のための試みは容易に軍備拡張に連なります。こうして統制経済はかなり自動的に戦時経済体制に移行します。この方向での主要な立法は、1931年にできた重要産業統制法です。先に述べたような、重化学工業を中心とし、軍備に資する産業が特別に保護育成されます。この法律は1936年延長され、カルテル形成が促進されました。次に1937年にできた統制三法があります。臨時資金調達法、輸出入品など随時措置法、そして軍需産業動員法です。第一の法では、企業の資金繰り、例えば増資や新規会社の設立などに伴う資金の移動は、すべて国家の管理下に置かれます。第二の法では、輸出入に伴う製品の動きが規制されます。第三の法は、文字通りすべての資材を軍需に向けるべく経済を規制します。そして最後の仕上げが、1938年の国家総動員法です。こうして日本の経済は開戦3年前の時点で完全に戦時経済に移行しました。
満州国は1931年の満州事変の翌年、日本の強いてこいれでできました。傀儡国家ないし植民地でもあります。満州は広大な沃野と地下資源に恵まれています。日本はここに資金を投下して、農産物の増産と重化学工業の育成を試みました。農業政策では成果は上がらなかったようですが、重化学工業は成功します。後者は1933年から1944・45年にかけて総生産額が3倍になっています。満州の支配は関東軍と満州鉄道が握っていました。しかし彼らだけでは産業の育成はできません。そこで満州重工業株式会社が設立され、日産の鮎川義介が、呼ばれて経営を任されました。ただ鮎川は満州開発のためにはアメリカの資本がどうしても必要だと認識し、ために狭量な軍部と入れず撤退します。満州国経営は前記の統制経済の実施の一環です。1937年、満州国を対象とした、産業5ヵ年計画ができています。これが満州開発の法的前提になりました。
統制経済と満州経営のどれに岸信介が手を染めたかの詳しい事は解りません。これらの政策は国家全体で行ったもので、一官僚がどこまで云々はわかるはずもありません。ただ1936年の重要産業統制法の改正と延長、統制三法、そして満州の産業5ヵ年計画が彼の強いイニシアティヴでできた事は確かです。日米開戦は1941年ですから、戦時経済の根幹を岸信介が作ったとは言えるでしょう。
戦後の岸内閣の経済政策に関しては簡単にのみ留めます。高度経済成長は1960年の池田内閣からとのように言われますが、3年前の岸内閣の頃から、すでに6-8%の成長率を維持していました。それが1960年以後10%以上に飛躍します。そもそも日本の戦後経済はドッジ来日までは竹馬経済でのその日暮らしでした。傾斜生産と復興信用金庫の手形でインフレ覚悟の政策でした。それがドッジラインを引かれて四苦八苦します。そして朝鮮特需。これで日本経済は息を吹き返します。特需に頼ってばかりではいられないので、鳩山内閣の時、経済自立5ヵ年計画が策定されます。これが岸内閣でさらに新長期経済計画になり、池田内閣で所得倍増計画になりました。
岸信介の行動には特徴があります。まず簡単には(というより決して)人に頭を下げません。更に常に団体を指揮して反乱する傾向があります。彼がまだ平の事務官であったころ、不況による財政圧迫で政府は官吏の給与を引き下げようとしました。この時商工省の職員を率いて賃金カット反対に立ち上がったのが、彼でした。他の省では反対運動は早くから終焉したのに、商工省では信介が職員一同の辞表を取りまとめて、大臣に啖呵を切ります。こういう時の彼の凄みはなかなかのものです。
そういう彼ですから、信介は商工省のボスになります。それを嫌った新大臣が満州行きを命じた時、信介は「私個人は嫌です 命令だとおっしゃるなら、私は役人ですから、従わずにはいられません 嫌ですが行きます」と言います。人を食ったしかも叛骨露な言い方です。
商工次官の時、大臣の小林一三と大喧嘩します。この喧嘩は統制経済の指導者と自由経済の雄との意見の相違からきたものです。始め小林が、信介の政策を左翼(アカ)だと決め付けます。怒った信介が、何がアカだと、反論したのがきっかけです。小林の言い分も解ります。統制経済はアカにもシロにもなるのです。信介は小林から辞職を迫られ、徹底抗戦の後に辞職します。
東条降しにも信介は一役かいます。内閣内部の特に経済外交関係の閣僚をくどき、海軍の幹部と連絡し、木戸や牧野という重臣蓮とも意を通じます。こうして東条ににらまれ、憲兵に監視されます。憲兵大佐が彼を難詰した時、黙れ兵隊、と言ったのは有名です。野に下っては防長尊攘同志会を作って演説して歩きます。
戦後自由党に復帰しますが、その目的は保守合同にありました。そのために邪魔になる党首の吉田を排除しようとします。なんのことはない、反逆するためにその団体に加入したようなものです。再建連盟を作り、入党しては憲法問題調査会という反乱の隠れ蓑を作り、除名され、新党を結成し、保守合同を成し遂げ、自分がその党首に収まります。この間の離合集散は実に面白く、岸政権以来8個師団3連体という派閥ができました。派閥は少なくとも戦後に関する限り、彼の政権誕生と共に生まれました。
こういう信介の動きを読んでいると、ある種の爽快感を催されます。決してこそこそせず、常に堂々・しゃあしゃあと、しかも必ず新しい団体を結成して戦いに望みます。行動は直線的ですが、考えが変わると大胆に代り、変説(節)を気にする事もなく、過去をくよくよしません。しかも裏技も決して不得手ではない。
統制官僚はまた革新官僚とも言われました。信介はその典型です。ともかく新しい経済体制を志向します。信介は私有財産を否定するような、言い方もしています。信介は条件が整えば、あるいは時代が時代なら革新政党的な活動をしたかも知れません。彼の知人には社会党の人もいました。彼自身困った時、右派社会党から選挙に出馬する事を希望し断られています。反面信介に関しては多くの汚職贈賄の噂が絶えません。
1987年(昭和62年)90歳で死去。彼の外孫安部晋三は後に首相になっています。

(付)満州国に関して
 満州国は1931年の満州事変後にできました。日本の植民地あるいは傀儡国家です。少なくともこの傾向を強く帯びています。しかし満州国建国の意義と展望まで否定していいのかとなると疑問です。日本が満州に侵入したという理屈は成り立ちません。そもそも満州は満州民族(清王朝を建てた女真民族)の故地であり彼らのものです。満州(現在の東北地区)が漢民族のものだったというのは、おかしな話です。女真族は征服王朝であるために、自らの郷里であり故地である、満州に漢人を入れることは禁止していました。それが清王朝末期の動乱の中で長城以南の漢人が満州に侵入したのです。日露戦争の当時満州の人口は100万と言われています。事実上人のいない土地なので、そこにロシアと日本が南北から進出します。満州は日露の資本で開発されました。その基盤の上に漢人が侵入(?)し、増殖しました。こと頭数で言えば、漢民族にかなう民族はありません。満州国成立当時人口は2000万人、1945年の時点で1億人です。日本人は100万人以下。この増加はすべて漢民族の増殖によるものです。
 満州はドイツとフランスを合わせた以上の面積を持ちます。農業そして工業資源は豊富です。満州経営の目的は、当時日本に育ちつつあった重化学工業を満州の地で大規模に育て、一大産業国家を作ることにありました。高橋是清や池田成彬の経済政策は非難されますが、資本と技術を満州にぶちこんでゆく、というやり方には一理も二理もあります。要は貨幣を増量して資本となし、それで満州の経営を行う、そこから収益が上がれば増えた貨幣は実質的な価値を持つ、となります。純経済的観点から言えば成功するはずです。ただしここに隘路があります。当時の日本の資本は充分とは言えません。円はハードカレンシ-にはなっていません。さらに産業技術も欧米に比べて一段格下でした。アメリカと比べると横綱と関脇くらいの違いはありました。満州という獲物を持ち上げるのに、日本という国はまだ力が足らなかったのです。結論から言えば、早々にアメリカと同盟し、満州経営にアメリカの資本と技術を引っ張り込めばよかったのです。日産の鮎川はそう主張しましたが、軍部が反対します。日本人の血で購った土地を他国に利用されてたまるか、と。軍事のみにしか視野が開かれない、軍人の狭量さです。結果として日本人はその10倍以上の血を流すことになります。

参考文献
   岸信介伝  東洋書館
   昭和の怪物、岸信介の真実  ワック株式会社
   岸信介政権と高度成長  東洋経済新報社
   満州国経営史研究  名古屋大学出版会
   満州国の遺産  光文社 

ロックとマルクス

2010-03-27 03:44:48 | Weblog
       ロックとマルクス
 
 ロックとマルクスと言えば政治学に関心のある方はピンと来るだろうと思います。二人の思想家の学説を簡潔に要約比較しながら、民主主義と共産主義のきわどい関係について考察してみましょう。なぜこういう事を企てるのか?すべては、昨年9月の民主党政権の誕生がきっかけです。この政権は容共的色彩の強い政権です。そして過去の歴史において容共的な政権は数多く、共産政権に移行しました。
 J・ロックの思想の核心は哲学では感覚論(あるいわ経験論)、政治思想としては人民主権論です。前者と後者は微妙にまた深甚に関係します。感覚論(経験論)だから、彼は彼が生きている現実を肯定し、現実に即して考えました。感覚の(政治論における)対象が私有財産です。彼が生まれた時から、半世紀以上に渡って、王権と議会は租税負担の問題で抗争してきました。内乱と革命が連続します。ロックは私有財産を無上のものと考えます。王権が私有財産権以上のものとして君臨する事は、彼には考えられません。ロックは彼が生きている現実、つまり生きるためには私産が要る事を第一にします。私産は目の前にある、空腹を満たし、満足を与えてくれる、現実の感覚です。なら生きるための私産を巡って闘争している人民に正義があるのではないか、と考えました。
 こうして人民主権説が誕生します。権力は生命を奪ってもいいが、財産は奪えない、もし権力があえて財産を収奪するのなら、その正否は天に訴える・革命を起こして政府を転覆させても良いのだ、と彼は言います。彼はこのような、当時としては過激な説を唱えたために、亡命せざるを得なくなったり、母校のオックスフォ-ド大学の卒業名簿から除籍されるはめになりました。(現在どうなっているかは、知りません)
 では人民主権論と議院内閣制はどう結びつくのでしょうか?両者はアプリオリには(先験的な公理としては)、必ずしも結びつきません。しかしロックの思想では両者は不可欠の関係になります。ただ現実に議会があったからというわけではありません。彼は私有財産を無上のものとしました。私有財産の管理と保障、そしてそれに伴う利害計算の場として議会は必要になります。お互いの対立する利害を商議し妥協するする場が議会です。利害だから商議できます。こうして議会と王権は妥協しました。王権の一角を占めていた、財務官筆頭である第一大蔵卿が王権を代表して議会に臨み、やがてこの職務は議会の承認を必要とする事になります。首相という職務(prime minister)が誕生します。

 K・マルクスの思想は、労働価値説、剰余価値収奪、労働者の絶対的窮乏化、労使の仮借なき対立、革命の必然、からなります。しかしそれを一点に要約すれば、剰余価値の収奪に行き着きます。労働価値説(注1)は別にマルクスの専売特許ではなく、リカルドやスミス、そして更に遡行すればロックにまでたどれます。ただロックやリカルドが労働の賜物である私有財産を肯定し、私有財産を保障する制度としてのsocietyを求めたのに対して、マルクスは収奪を必然と見ました。だから彼にとって,私有財産は極一部(極端に言えば一人に(注2)占有物になり、従って廃棄される悪の権化になります。
 最初に言っておかねばならない事は、労働価値の絶対的な収奪はマルクスが断言するようには、証明されていない事です。収奪の必然性は彼の信念・断定にすぎません。しかし労働価値の収奪という前提に立てば、私有財産は否定されます。(注3)そうなると共同体成員が共通に抱いて商議する媒介はなくなります。現実の場においては否定された媒介に代るものが、未来の理想社会、無限の欲望が満たされる理想社会・桃源郷・極楽浄土です。
 素朴な快の対象である私有財産が否定されるのですから、ロック的な感覚論はさらに遡行されなくてはいけません。感覚の背後にある物の体系が重要になります。(注4)唯物論が誕生します。ただマルクスの唯物論が彼以前の(ディドロやダランベ-ルの)それと決定的に違うのは、マルクスでは物の体系がそのまま直接に(人為による歪曲さえなければ)理想社会に繋がるという事です。
 絶対的な理想社会があり、そこには直線的に移行可能であり、現実的な顧慮一切は不必要なのですから、真理は自明であり、差異はそこに至る道程を知っているか否かになります。換言すれば多くの人間が知る必要はなく、ただ一人の指導者が知っていればいいことになります。こうして理想郷に至る方法の理解者としての独裁者が出現します。それがマルクスであり、レ-ニンでありスタ-リンです。彼らは物の体系から理想郷に無知な人民を導く魔術師です。(注5)
 私有財産と感覚論が否定されて、万能の指導者と唯物論が出現します。ここで論理の輪が閉じられ、循環論法が形成されます。唯物論だから理想郷は絶対であり、指導者に盲従すればよく、指導者絶対だからこの指導者は唯物論なる深遠な真理を知悉していることになります。(注6)
 同じ人民主権論を主張する、ロックとマルクスの違いは、どこのあるのでしょうか?両者の違いの根拠は、私有財産の肯定と否定にあります。そして私有財産を否定する以上は、現実の商議も妥協も成り立ちません。現代においてもこの危険は充分にあります。社会福祉の過大評価です。社会福祉は必要な制度ではありますが、程度を越すと、遊んで食べられる(かも知れない)社会になります。遊んで食べられる社会とは、必要充分な資源があるという前提に立ちますから、その前提が可能であろうと不可能であろうと、商議不能な社会のことです。このような現実にありもしない理想郷に導きうるのは全知全能の独裁者のみです。遊惰と独裁は表裏一体を為しつつ必然になります。

(注1)労働価値を主張した代表格は、アダム・スミスとリカルドです。しかし彼らは「あらゆる経済的価値の源泉は労働にある」と一般的に言っただけです。両者ともそう言いつつ、すぐ労働価値説と矛盾しかねない(少なくとも別個の論旨である)需給均衡論に移行します。事実労働価値を具体的に評価する事は不可能なのです。農民の労働と職工のそれの比較はできません。また肉体労働者と技師の労働の価値の比較も、労働価値説に厳密に従う限りは不可能です。この隘路からの逃げ道は二つあります。一つは労働価値説を捨てて、結果としてできた生産物を価格で比較する事です。経済学の主流はこの方向をとり、限界効用説とか均衡論と言われました。
 もう一つの方向はフランスのphysiocrat(重農主義者)のように、当時の農業労働に価値を局限してしまう方向です。マルクスはこの方向をとりました。だから彼の考察する労働とはすべて単純肉体労働です。製造技術や運輸通信簿記会計、そして経営者の智恵才覚とリスクはすべて捨象され無意味なものとされます。
(注2)このように考えると、マルクスとニ-チェは同質の思想だともいえるでしょう。
(注3)私有財産の否定は多くの人が主張しています。ほとんどが賤金感・嫌金感情か、理想郷への憧れによります。なかで特にマルクスに影響を与えたのは、J・J・ルソ-です。彼はロックとマルクスの間に立ち、両者の移行を仲介する役目を担います。彼も人民主権説の立場にあります。しかし私有財産への顧慮はありません。だからあくまで平等にこだわります。完全に平等な成員からなる社会の形成はどうなされるべきかと、考えて、ルソ-は「一般意志(volonte generale)」を提示しました。社会はただ一回だけ契約に基づき、社会の集団意志を成立させた、だから以後はこうして出来た一般意志には従わなければならない、と言います。これは独裁の全面的肯定です。その成果がフランス革命の恐怖政治です。この言説に呼応する形でルソ-は、教育の任務を全面的に社会に委ねます。不完全な個々人が養育するよりも、絶対的に正しい社会がそれを遂行すれば良いと。事実彼はこの確信に基づいて、生まれた子を片っ端から、孤児院に預けました。より理論的には「エミ-ル」の中で主張されています。教育の個人から社会への委譲は、換言すれば私有財産の徹底的否定です。
(注4)感覚の背後の物質の世界という風に考えますと。マルクスの所説は「意志と表象の世界」の著者ショッペンハウエルにも似ます。
(注5)マルクスの思想は、ルソ-を介して単純化された人民主権説、リカルドの労働価値説、ディドロなどフランスの唯物論、そしてヘ-ゲルの弁証法です。しかしマルクスはこれら諸思想のいいとこどりをしています。彼の思想は一見雄大ですが、4つの思想がマルクスの中で統合されているとは思えません。ヘ-ゲルの弁証法はあくまで、人と人の関係の中で変容し向上する人間の姿を描いており、その論述は難解ですが、納得できます。このヘ-ゲル弁証法の倒立を元に復元するとか言って、マルクスは彼の所論の要所要所で、論理の飛躍を修飾しています。「反対物への転化」とか「量から質への変化」など言葉が、本来の文脈から切り離されて、適宜都合よく使用されます。
 唯物論にしてもディドロのそれは、ただ人間の精神の基礎は物質であるという、あたりさわりのないものですが、マルクスになると、物質の運動の究極は理想社会の形成にあり、それは必然とされます。ここで理想は必然とされるのが、恐ろしいのです。人間の意志的選択をすべて否定しますから、必然の道は唯一の道になります。唯一の道は必然ですから、この道に背く者は、絶対悪になります。論敵の存在価値は否認されます。理想と必然が結合すれば、この理想を知りまた説くものは絶対的な知者になります。そしてこのような論理構造は巡り巡って、この論理を信奉する者に自己暗示をかけ、自らの正しさを確信させます。
(注6)マルクスは自己の所説を科学的社会主義としました。ここでいう科学の意味が不明です。本来科学とは実証科学であり、感覚により再現される現象のみを取り扱います。感覚により捉えられた経験を組み合わせて、仮説を作り、その仮説から導かれる新しい経験可能性の存否を実験をという試練にかけます。実験という仮説検証システム、そこから出てくる実証(反証)可能性が科学の科学たる由縁です。マルクスのいう「科学」はただ単に、「自分の学説は唯物論に基づいている」と言っているに過ぎません。

選択的夫婦別姓に関する意見

2010-03-25 23:39:42 | Weblog
      選択的夫婦別姓に対しての意見

 民主党政権は選択的夫婦別姓を法制度として導入しようと画策しています。経済無策、外交支離滅裂、政治倫理壊滅、とでも言うべき状況で、せめて夫婦別姓や外国人参政権付与で、開明的であるというポ-ズを示したいのだろう、と私は想像しています。外国人参政権の問題は今回さておき、夫婦別姓に関して私の意見を以下に開陳いたします。
そもそも何で夫婦別姓なのかが、理解できません。特に差し迫った障害が、現制度にあるとは思えません。一部の人達による、為にする行為、ある種の意図を持った工作、体制破壊遂行の一環ではないかと憶測してしまいます。ですから夫婦別姓という事そのものもともかく、その意図が危険です。夫婦別姓はあらゆる意味で将来の禍根になる可能性を、それも多大に持っています。
 生物学的に言えば、子供は父母のDNAを半分づつ与えられて、この世に生を受けます。子供は父母一方のどちらのものでもありません。生誕時から子供は父母共同の産物です。常に遺伝子を多用な形態に保つ事が、種族保存のための必須条件です。これが第一点。
 以上の生物学的前提を受けて、父母による養育が始まります。養育過程を極めて簡潔に言えば、それは愛着、掟、分離の三つの段階を踏まえて完成されます。愛着とは、親による保護、接触(スキンシップ)、生存に必要な条件の付与つまり満足、安全感などから成り立ちます。掟とは規範です。社会に出るのにしてはいけない事・するべき事の認識です。分離とは、親からの心身双方における分離、達成感の獲得を通しての自立を意味します。そして愛着・掟・分離という過程の遂行は、父母協同で行わなければ、充分な成果は挙げられません。父母はこの作業において、協業しかつ分業します。協業と分業は相補的関係にあります。愛着と掟は成長する子供にとっては対立する要因になります。ですからこの作業は父母により分業されます。一般的には愛着は母親が、掟は父親の仕事になります。子供は母親の愛情にくるまれ保護され、やがて父親の背中を見て社会とは何かを認知します。愛着と掟という相反する過程を、父母のどちらかが単独で遂行する事はできません。それは極めて危険な企てです。
 養育の目的は人格の完成にあります。安定した人格とは、同一性と連続性の意識が保てる事です。もう少し詳しく言いますと、個人は、自らが持つ属性や行為が全体として同一な「われ」にあり、またこの「われ」が時間の中で連続したものであるという自覚を持った時、自己を安定し完結した存在として認知できます。平たく言えば、自分のした事やその傾向の一部が自己のものでないとか、あるいは以前の自己が現在のそれとは別のものだと、いう認識に陥れば、人格は崩壊し始めるという事です。同一性と連続性の意識が崩壊した極が、統合失調症という病気です。そして同一性と連続性の意識を前提としてのみ、自己の人格の独立性が獲得できます。
 養育の目的は、人格の完成の基盤である、この同一性と連続性の意識を子供に与える事にあります。この作業は父母が緊密な連携下にある事によってのみ可能です。父母の緊密な協同作業を見聞し、体験してのみ、子供は自分がこの協同作業の中にいる、と思うことが可能です。まず父母が緊密な共同作業を提示している、作業の目的が自分であり、自分もその作業に参画している、という子供の自覚が養育の基本的条件です。この過程を経てのみ、人間は、自己の独立性の意識を獲得できます。もちろんこれは理想的な範疇であります。しかし基本はそういうことです。精神疾患を心因的に見る限り、その前提は以上の要因の欠如ないし障害です。
父母が子供に影響を最大限に発揮する期間、子供の精神あるいは脳神経の発達は極めて盛んです。神経結合(シナップス結合)の数から言えば乳幼児期におけるその数は成人の比ではありません。
 仮に子供が、父母をばらばらな存在、協同して自分に対しえない存在と感じたとき、どんな事が起こるでしょうか?簡単に言えば、パパとママは別々、だからボクも別々、となります。別々とはばらばらという事です。これを平等と言えばそうとも言えますが、極めて危険な悪平等です。かくなりますと親子の位置が揺らいできます。時として子は親に過大な要求をするかと思えば、逆に親の責任を自ら負い、親の親役を引き受ける事になります。そして一番の問題は、親子の位置が不安定になる事によって、親子間のけじめ、もう少し端的に言いますと、親子間に設定されている近親相姦禁忌(incest-tabu)が揺らいでくる事です。近親相姦は簡単には発見できませんが、現在性的虐待と言われている行為は無視できないほどあります。また近親相姦行為の代理現象として問題なのが、低年齢恋愛と恋愛依存症です。近親相姦禁忌の弛緩解体は社会統合の根幹を揺るがす問題です。夫婦はばらばらであってはいけません。夫婦別姓はこのばらばらな関係を促進し意図するものです。
 そもそも婚姻とは如何なる現象でしょうか?婚姻あるいは配偶者選択は少なくとも三つの要因から成り立ちます。まず社会維持と種族保存の義務、次に利害計算、そして愛情(なるもの)です。利害計算は義務感から来る結果です。愛情は義務感を補足します。もし第一項である義務感を欠いたら、婚姻はどういう事になるでしょうか?配偶者の適否を冷静客観的に考察する必要はなくなります。残るのは愛情だけです。
 愛情とは何でしょうか?愛情とは人が簡単に考えているほど単純なものではありません。
複雑で不安定限りないものです。簡潔に言えば愛情は、願望の投影、外傷の治癒、身体による精神の代償置換、という三つの、かなりな程度病理的要因から成り立ちます。願望の投影とは、相手が自己の願望を受け入れ、満たしてくれる、という期待です。外傷の治癒とは、自分が過去に受けた何らかの外傷を相手が癒してくれる、という期待です。この場合相手の外傷を自分が治してやる事により自分を癒すという、逆方向の力も働きます。ここで恋愛当事者は相互に自己を被害者・幼弱者に擬しています。恋愛において期待は容易に確信に変ります。身体による置換とは、自己が始めて経験した母親の体(あくまで体です)を無上のものとする事です。結果は幻想への埋没と理性の喪失です。
 このように愛情なるものには、極めて多大な不安定要因、病理的要素が含まれています。そしてなによりも肝心な事は、恋愛関係においては当事者双方に、離れるつまり裏切る権利があるという事です。もし一度恋愛したら、決して離れてはいけないとなると、恋愛とは地獄であり、無期懲役に等しくなります。愛情とはこのように不安定なものです。もし結婚に義務感が欠如すれば、夫婦関係は無政府状態、修羅場裏になるでしょう。私は職業柄人様の恋愛行為を観察させてもらう機会が多々あります。私の臨床経験から推す限り、恋愛感情はせいぜいもって2・3年です。その後は結婚するか、別れるかです。後者の方が圧倒的に多いのです。
 教育は誰がするのか、という問題もあります。社会か父母家族か?どちらであるともいえましょう。しかし教育は養育の延長であり、前者は後者を前提としてのみ可能です。既に父母と子供の三位一体を論じた時、ここで自己の同一性と連続性の意識が作られ、それは同時に自己の自立の前提でもあると、申しました。またそれは父母と子供が安定した共同体を形成しているという意味で、帰属感あるいは全体性の意識を育てる事でもあります。この帰属感と全体性の意識を前提としてのみ、公教育は可能です。学級崩壊など現在教師を悩ませている問題の根源はここにあります。だから社会は父母を代理できません。安易に教育を社会に委譲する事は教育の放棄に繋がります。教育の延長線上に労働があります。最初の前提を欠けば労働生産性も低下するでしょう。
 よく子供は保育所で育てればいい、というような粗暴な論旨を展開する人がいます。保母や教師は、両親を代理できるでしょうか?できません。特に養育上決定的な意義を持つ、3歳児までは父母の存在が不可欠です。母親は生理的にも心理的にも子供と繋がっています。乳児期は胎児期の延長です。乳児期を過ぎれば父親の役割は徐々に増大します。血縁によって結ばれた自分の子供という意識があるからこそ、わが子にその全力を注げます。自分の子と他人の子に差別無く接しられる人がいるでしょうか?そして発達の最初の段階である乳幼児期は、特に関心と配慮を多量に注がなければならない時なのです。この事を成しうるのは父母のみです。
 再び問います。教育は誰がするのか、と。それは父母であり、教師であり、保母であり、隣人でありそして社会です。しかし教育の原点たる養育は父母の権利でありまた避けられない義務でもあります。これを欠いてはあらゆる教育は不可能です。仮に養育と教育をすべて社会に任せれば、他者が自己に決定的な影響を及ぼしうる時期、子供は極めて希薄な人間関係に置かれます。それは重大な発達の障害を結果するでしょう。このような状況はある意味で自由で平等かも知れません。ここで共産主義社会を思い起こして下さい。彼らは私有財産を否定すれば、すべては良くなるといいました。結果は経済の停滞のみならず、倫理の破壊でした。財貨という人間の実存の外部にあるものに関してもこの有様です。まして養育まで完全社会(主義)化すればその影響は、私有財産否定の比ではないでしょう。
 夫婦別姓はその事自体もともかく、そこに潜むある種の意図も危険です。この意図を完遂すれば、結果は倫理の破壊になります。
私が経験した数例の夫婦別姓の例を回顧して見ましょう。多くは自立を目指すと言う女性側の積極的な意志と、それに対応する物分りのいい、開明的で進歩的であろうとする男性側の気取りから、別姓になりました。結果はすべて対立と喧嘩、悪罵の投げ合いから離婚に至っています。恋愛依存症に関して言えば、しがみついて(cling 愛着の病理的形態)から、依存しつつ支配し、恋愛対象を頻繁に取替え、暴力と身体毀損を繰り返す状態が一般的です。またここ30年来境界線人格障害と名づけられる疾病が激増しています。自覚的症状よりも、他者に対する暴力も含む迷惑行為を主とする疾患です。厳密な原因究明は難しいのですが、自分に甘え他者の寛大さにつけこむ態度は彼らに著明です。
 最後に。男性は婚姻に際して、共同体維持という義務感があるから、家庭にだから配偶者に忠実になりえます。これは婚姻外の恋愛過程においても同様です。夫婦がばらばらでいいのなら、話は違ってきます。忠実な番犬をわざわざ野に放って餓狼にする必要がどこにあるのでしょうか?夫婦別姓はその序曲です。そして人類滅亡の葬送曲になります。

自民党への提言

2010-03-21 03:18:45 | Weblog
       自民党への提言

 現在日本は政治的、従って経済的な危機にあります。民主党政権の存在は日本に災禍をもたらす以外の何物でもありません。なによりも現政権の担当者には政策への、特に経済政策への積極的な意思が見られません。ただ小児的な理想を声高言い立てるだけです。次の参院選挙で自民党が負けたら、日本は壊滅します。正直参院選の結果を見るのが恐ろしい気持ちです。
 私は現在自民党の支持者です。なぜかと言いますと、自民党あるいはより広く保守党は空疎な理想を喧伝しません。その分現実的であり、現実的であるから、対応が素早く、結果として変化をもたらし、現実を改革しえます。空疎な理想を唱える者は、何もしないか、あるいは破壊のみ為すものです。そういう理由で私の立場から自民党に二三の提言をしたく思います。
 まず自民党が昨夏の総選挙で大敗した理由を考えて見ましょう。大きな 理由が一つ、もう少し小さい理由が一つあります。大きな理由は橋本政権から麻生政権に至る15年間、自民党政権は国民に耐乏生活を強いてきた、そうせざるを得なかったということです。私個人は自民党がしてきた諸種の構造改革は正しいと思っています。しかし耐乏を強いられた国民には不満が蓄積していました。そこに民主党がつけこみ、ばらまき福祉でばら色の幻想をふりまきました。正直世界中どこを見てもそうばら色の生活が実現しているわけではありません。またこの四半世紀という歳月は世界のトップに伍した日本が、この先どう政治経済の展望を切り開いてゆくのかと、という課題に面した時間でした。従ってこの時間は日本の政治経済の模索期であります。遅疑逡巡し試行錯誤もやむをえないとは思います。しかし国民の不満は不満です。
 もう少し小さい理由は、地方利権の問題です。政権政党である自民党が、地方の一部の政治経済勢力に対して利権を斡旋した、という事です。私は、政治は広義の意味での利権配分であると、思っていますから、利権を無視して政治は不可能だと考えています。しかし過去の自民党にそういう弊害があった事は事実です。特に神戸空港と新幹線栗東駅の問題は弊害の最たるものです。3年前滋賀県知事選挙で嘉田氏が当選した時、昨夏の選挙の結果は暗示されていたとも言えます。
 小さい理由がより大きい理由に接続されたら、凄まじい結果になります。自民党という団体は、私利私欲で国政を壟断し、国民にその付けをまわし、犠牲を強いる存在と言う、神話は容易にできあがります。
 以下若干の提言を行います。政策は大胆で斬新でなければなりません。大きな政府による強力な指導、必ず景気が回復するという信念に満ちた成長政策、国益を明確に打ち出す積極的外交、現実を肯定した上での現実の変革などを、はっきりと声高に主張するべきです。
1) 提案の第一は流通貨幣量の思い切った増大策です。現在日本の実物資本と技術は過飽和状態にあります。必要なのは貨幣です。要は政府が金を握って、政策あるいは機関に投資して、経済を牽引しなければなりません。まず金、次に指導力のある政府がそれを握る事、そしてその実践力の上に立った成長政策です。いくら政策があっても政府に金がなければどうにもできません。金を造る方法はいくらでもあります。この事に関してはすでに再三ブログで訴えてきましたので、詳細は割愛します。
数日前新型オペが企画されるそうです。政府債権の買いオペによる通貨量増大と低金利がその骨旨ですが、20兆円前後という規模も小さいし、またこのオペだけでは需給ギャップは変りません。あくまで行政が資金を握る必要があります。
2)第二には「先進国同盟」を提案します。現在中国の経済が躍進していると諸々のメディアが騒いでいますが、中国経済の発展は日本を含む経済先進国の資本で成り立っています。歴史の転機は1985年のプラザ合意あたりです。この時点で先進国の資本と技術は飽和状態になりました。そこからの脱出口が海外の後進国への投資です。日本がその典型を行いました。主としてアセアンに直接投資し、彼らと垂直分業する事で、過剰な資本を分散しました。この過程を見ていた中国はより大胆にかつ狡猾に対応しました。
資本を必要としている国はまだまだ沢山残っています。だから先進国が慌てる必要はありません。むしろ先進国はこの状況を逆手にとって、資本と技術の売り手になればよろしい。今までは買い手市場でした。しかし資本に限りがあれば必ず売り手市場になります。要は先進国が、資本と技術の国際カルテルを結ぶのです。かって石油産出国がOPECを形成した故智に習うべきです。現況は先進国が個々ばらばらに後進国に投資あるいは借款供与をして、資本と技術をいいように買い叩かれています。
こういう状況が長引くと、技術の価値が低下します。いくら先進国が必死になって新しい技術を開発しても、どんどんスピルオフして技術は外部に漏れます。与えられる方には、技術の価値が解りませんから。現在日本の技術貿易による特許の国際収支は約1兆円の黒字ですが、同額以上のものが、知的財産権の侵害で失われています。その90%は中国と韓国によるものです。これでは先進国がやってられないだけでなく、将来新技術を開発する意欲がそがれます。この四半世紀資本と技術が買い手市場だったとすれば、今度は売り手市場に転じさせればいいのです。その為には先進国の緊密な連絡と同盟が必要です。こうする方が長い展望で見れば後進国にも良いでしょう。ここで先進国とはいわゆるG5、日米英独仏の5カ国です。他に入れるべき国があれば、かまいませんが、私はG5で充分だと思います。先進国は先進国で自らの利害に率直になるべきです。先進国同盟を結成しましょう。なおこの先進国同盟は国際通貨の安定のための条件でもあります。
3)利権の調整に関して私は、各都道府県単位で利権調整委員会(少し露骨な名前ですが、実態がそうならその名でいいでしょう)を作ります。構成委員は選出国会議員に知事と府県会議長、市長代表などを加えた10名内外の超党派にします。この機関が情報をある程度公開して、地方公共団体と政府を仲介し、助言します。それ以上は所詮は利権の世界、ある程度は闇の中になります。仕方ありません。ただ闇の一部を公開する事の意義は小さくはないと思います。元来保守党は地方名望家の政党です。自由民権運動の昔からそうです。名望家つまり地方ボスがそれなりのやり方で利権を地方に分配してきました。そのやり方を、現実の許す範囲内で、公開し共同化すればいいと思います。
 私は派閥そのものの意味を否定しません。政権とはどこまで行っても、利害集団の商議調整の機関です。ほどほどにこの種の閥はあればいいのです。その方が政治は安定します。現在の民主党政権では鳩山・小沢両氏ともども、致命的と言ってもいい、政治倫理の問題を抱えています。しかし党内から表立った批判は聞こえてこず、両氏は知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいます。もの言えば唇寒し、でしょうか。党内に安定した政策集団がなく、すべて小沢幹事長に集約されているからです。自民党なら事態は違うでしょう。ただ自民党において派閥の弊害があった事も事実です。党内の政策集団をどのような形で保持するかは、今後の自民党の課題になります。
4)長期的展望に立った移民政策の推進を提案します。移民に関しては私、いまだ勉強中なので詳細は語れません。しかし移民は海外への投資・借款供与と同じ意味を持ちます。移民政策に成功すれば日本の力は増大できます。私は日本人個々が必要以上に富裕になる必要はない、と思っています。それより海外から新しい同胞を向かえ、同胞として育て上げ、より多くの人が、現在我々が享受している生活水準を獲得できればいいのです。日本の国内に常に開発するべきフロンティアを導入し模索すべきです。
5)自民党がなんらかの大胆な政策を提示できないのなら、民主党との大連合を勧めます。両党あいまって、一度連立連合し、どういう政策が可能なのかを、党利党略を離れて検討すべきでしょう。もちろん連立政権から、鳩山・小沢両氏は除かれます。最後に、鳩山邦夫、升添、細田また与謝野氏は自ら属する自民党を批判していますが、彼らから具体的な政策は聞こえてきません。それでは今後の政局を担う資格は無いでしょう。奮起を促します。

経済人列伝・山本為三郎、なにわのボンの優雅な商法(?)

2010-03-18 03:28:49 | Weblog
   山本為三郎

 今回の列伝の主人公、山本為三郎は今までの経済人とはかなり毛色の変った人物、あるいはそういう生き方をした人物です。山本為三郎といえばアサヒビ-ルとなりますが、かといってこの会社を彼が作ったというわけでもありません。作ったと言えばそうとも言え、そうでないと言えば、そうでもないのです。為三郎は岩崎弥太郎や豊田佐吉のように、ゼロから出発し、苦労して、名を成したとも言えません。苦労したのでしょうが、少なくとも表面からは解りません。大阪でも有名な 実業家の一人息子として生まれ、殿様教育を受け、若くして家業を継ぎ、父親譲りの豊富な資金力に恵まれ、お茶屋通いは日常茶飯、ロータリ-クラブとホテルが趣味、諸種の文化事業を行い、云々の人生です。外面的にはなんの苦労も無くといいたいのですが、しかしこの人物は経済人列伝にとって欠かせない魅力を持っています。彼の魅力は何かと問えば、それは大局的見地に立っての調整能力、それも抜群の調整能力といえるでしょう。為三郎はアサヒビ-ルの初代社長ですが、彼は自分の会社の為よりも、ビ-ル業界全体の為に損得を捨てて業界を調整したと言えます。後で述べますが、その結果アサヒビ-ルはライヴァルのキリンビ-ルにそのシェアで大きく差をつけられます。
 山本家は商人としては新兵衛が大阪日本橋で油屋を開いたのに始まります。2代新助の時放蕩で家業が傾きます。新助の娘ヨネに養子を取ります。この養子が3代為蔵、為三郎の父親になります。為蔵は積極的な人で、他の商店に奉公に出、やがて当時の新産業であるガラス製造販売に進みます。為蔵が作った山為ガラスは、大阪でガラス業界を二分するほどの会社でした。為蔵の長男として、為三郎は明治26年に生まれます。ボンボンのガキ大将として育ち、大阪第一の進学校北野中学に進みます。普通ならここから旧制高校さらに大学へと進むのですが、為三郎は4年生17歳の時、大阪商人の伝統に従い結婚し、同時に家業の山為ガラスを継ぎます。在学中から父親について、得意先を廻り、お茶屋にも出入りしていました。以後の教育はすべての面に渡って、大学教授の出向による家庭での教育です。典型的な殿様教育、当時こんな教育を受けていたのは皇族と華族のごく一部の方だけでしょう。山為ガラスはビン製造が本業です。ここから関連産業であるビ-ル製造に為三郎は進みます。ではどのようにして?ここからはビ-ル業界全体の動きを解説して、叙述した方がいいでしょう。
 日本のビ-ル製造には大きく4つの系統があります。まずノルウェイ人コブランドがドイツ方式の製造法を始めます。彼は技術を公開します。コブランドは早々に引き上げますが、ここからスプリング・ヴァレ-・ブリュワリ-、そしてジャパン・ブリュワリ-と続き、やがてキリンビ-ルに引き継がれます。北海道開拓使はビール製造を北海道発展のための重要産業に指定し、米人T・アンチセルそして中川清兵衛の技術指導の下に、ビ-ル醸造を始めます。この工場はやがて民間に払い下げられて、後年のサッポロビ-ルになります。大阪では渋谷庄三郎が米人技師フルストを招きビ-ル醸造を始めます。この企ては失敗します。渋谷の遺産を受け継いで、松本重太郎や鳥井駒吉が大阪ビ-ルを創業します。東京には桂二郎や馬越恭平による日本ビ-ルがありました。他に名古屋の丸三ビ-ルなどもあり、明治末年頃には日本のビ-ル業界は過当競争に突入していました。4社のうちキリンを除く、札幌、日本、大阪ビ-ルの3社は明治39年、時の農商務大臣北浦圭吾の斡旋下に合同し、大日本麦酒(ビ-ル)になります。ビール産業の合同は国産技術推進、過当競争防止、海外進出の旗の下に行われました。ビ-ルは本来外国の酒です。それに当時のアジアはその殆んどが西欧の植民地であり、白人が多く居住していたので、得意先になりえたのでしょう。
 以上の過程の中で山本為三郎はどのように活動したのでしょうか?表面から見る限り、為三郎はこの企業合同の波に乗り、それを推進しつつ、人脈を形成して、ビ-ル業界全体の指導者に成りあがっていった、という印象を受けます。彼が父親から受け継いだ家業は山為ガラスというガラスの製造販売でした。この家業の成績は良好で、販路も大きく、内部留保も充分でした。つまり軍資金には事欠かなかったのです。また当時のガラス製造業は大阪が中心でした。
ビ-ルの生産にはビンの製造が欠かせません。ビール産業における製ビンの占める比重は大きいのです。ビ-ル産業が発展し競争が苛烈になりますと、各社はビンの確保に狂奔します。為三郎はこの状況下に、ビ-ル壜製造を狙い、各種企業と提携し、技術革新を背景に、日本製壜(ビン)という会社を立ち上げ、自分は専務取締役に納まります。この時の肝いり役が、紡績工業の雄である和田豊治です。こうして為三郎は全国的な次元での人脈形成に出発します。それまで人力で作っていたビンを、機械製造に切り替えます。
 大阪を本拠とする企業に帝国鉱泉という会社があります。規模は山為ガラスより、大きく三矢サイダ-という全国ブランド、それも非アルコ-ル系飲料では日本最大の会社でした。山為ガラスは作った壜(ビン)をこの会社に納入します。だから帝国鉱泉は山為ガラスの最大の得意先でした。この会社の資金繰りが悪くなります。この時為三郎は帝国鉱泉に資金を融通します。これを機会に両社は名古屋の加富登(カブト)ビ-ルを加えて合同し、日本麦酒鉱泉という会社を作ります。これが大正7年、為三郎は同社の常務取締役になります。つまり為三郎は家業のガラス製造を、その最大の販路であるビ-ルや清涼飲料水の製造業と組み合わせて、企業合同を試み成功したわけです。なお加富登ビールは名古屋の丸三ビ-ルを(東武鉄道を作った)根津嘉一郎が買収したものです。根津も当時の財界の巨頭でした。ここでも為三郎は人脈を広げます。そしてこの日本麦酒鉱泉は大日本ビ-ルと合併します。為三郎は東京に移住します。(昭和9年)
 大日本ビ-ルに合併された直後為三郎は一時非常勤になりますが、1年後常務取締役副工務部長(やがて工務部長)になり、会社の中心に帰り咲きます。この時彼がした事の一つが工場の格上げです。それまで工場は当該する支店の管理下にありました。為三郎は工場を支店長の拘束から解放します。つまり工場を営業部長の管理下ではなく工務部長の管理下に起きます。換言すれば開発製造部門の位置を高めたわけです。
 時局は戦争に向かって進んでいました。重要産業指定法が作られます。日本の産業を、戦争遂行に効率よく再編成しようと政府は強力に産業界に干渉してきます。そもそも大日本麦酒(ビール)の成立自体が、不況カルテル形成であると同時に、政府の方針への協力でもあります。ビールが戦争遂行にとって必要か否かは意見の分かれるところですが、政府は食糧確保の観点から、ビ-ル製造に圧力をかけてきます。ある時為三郎は呼び出されて、ドイツのビ-ルを示され、ビ-ルの本家のドイツでもこの味だ、もっとビ-ルを薄めろ、と言われます。為三郎は、薄くすればビ-ルではない、酒は一度味を落とすとその信頼はなかなか取り戻せない、ビ-ル製造用n麦が全体に占める割合は知れている、と抵抗します。ビ-ルの品質低下に抵抗する一方、当局の意向を先取りして、自主減産に踏み切ります。ホッブ栽培に圧力をかけられると、自腹を切ってホッブを救います。ホッブが無ければビールではないのですから。戦争も末期になりますと軍も政府も必死です。ビ-ルどころではありません。欲しがりません勝つまではで、すべてが軍需生産に動員されます。ビ-ル工場もその工業施設の提供を求められました。施設をスクラップにして、それで砲弾や銃砲を作ろうというわけです。繊維業などはこの政策のために、その生産施設をほとんど奪われ、終戦時の日本人は木綿の衣類にさえ事欠く有様でした。純綿という言葉がその次第を語っています。為三郎はスクラップ化に必死に抵抗します。
 終戦。今度は占領軍からビールの製造禁止命令が発せられます。敗戦国民である日本人がビ-ルなどを飲むのはけしからん、という次第です。GHQ(連合軍最高司令部)は日本の工業を絶滅する方針でしたから、こういう意見も当然でしょう。為三郎はつてを通して、この政策を回避します。一方GHQの方針である独占禁止法施行を見抜いて、先手を打ち、大日本麦酒を、サッポロビールとアサヒビ-ルの二社に分割します。GHQはキリンビ-ルも解体する方針でしたが、為三郎はこの企てからキリンを救います。昭和24年為三郎はアサヒビ-ルの社長に就任します。このような行動は為三郎が自社のみでなく、ビ-ル産業全体に対して公平な態度で接した事を表しています。ただその結果はサッポロ・アサヒにとって非常に悪い条件を作りました。サッポロは東日本、アサヒは西日本を販売の中心とします。だから両社が伸びるためには、相互に食い合いしなければなりません。この間隙にキリンが付け込みます。大日本麦酒の分割時、キリンのシェア-は25%でした。それがぐんぐん伸び、昭和50年代には60%のシェア-まで近づきました。この情勢を苦慮した為三郎は再び二社の合同を試みますが果たせず、昭和41年急死します。享年73歳でした。
 アサヒビ-ル時代に為三郎がした事を二三取り上げます。まず昭和32年アサヒゴ-ルドを発売しました。戦後不味くなったビ-ルを美味しくする試みです。アメリカの食品会社と提携して、バヤリ-スオレンジを発売します。これは当時の果汁飲料水として代表的なものです。私も若い頃愛飲しました。美味しかった。こうして果汁飲料水の時代が開かれます。ニッカウィスキ-の竹鶴政孝を援助して、サントリ-に負けない、ハイニッカとブラックニッカという上質なウィスキ-を発売させます。
 山本為三郎という人は外貌や育ちにもかかわらず、製造技術革新に強い関心を持っていました。日本製壜(ビン)を作った時に、人力製造から機械製造に切り替えた事、そして戦後屋外発酵貯酒タンクを作り、製造工程を大規模にし、同時に労働環境を改善した事が挙げられます。
 為三郎はなによりも文化人でした。遊び人とも言えます。彼は古美術と建築を愛しハイフェッツやストロ-クなどの外国人音楽家を招聘し、民芸運動を後援し、ロ-タリ-クラブで活動します。なによりお茶屋遊びが好きでした。これらの多彩多岐な行動はすべて、彼の人脈を形成しています。人と付き合うのが好きなんでしょう。世話好きで協調共栄をモット-としハイカラ趣味でした。このような性格と行動は彼をして抜群の紛争調停役にしています。
 山本為三郎はかなり多くの著書を出しています。その一冊に「上方、今と昔」という本があります。私は、子供時代に父親の書棚に見つけて、読みました。その中から面白かった話を二つします。まず関東と大阪の料理の違いです。関東ではマグロやイワシをよく食べ、大阪ではタイを好みます。前者の調理法では捨てる部分が多いのに対して、タイは全身すべて調理の対象になります。焼いても煮てもまた生でもタイは美味しい。骨はあぶってそこに付いた身を食べます。障子という名の料理です。頭は酒蒸しにすればこれがまた美味。眼のゼラチンとそのすぐ下にある筋肉が美味い。タイの皮は軽く焼いて、和え物にします。そしてアラ炊き。こういう風にその本には載っていました。私の家もかなりの美食でしたので、為三郎氏のご意見に全く同調できました。氏は、大阪の調理法を語る中で、大阪商人の合理性、捨てるところ無く利用する合理性を強調していました。タイの調理法を通して、為三郎は彼の経営感覚、協調と共栄を物語っているようです。
 もう一つ。彼の語るところに拠れば、大阪の花柳界の芸者衆は「半助」という料理を好みました。大正期の大阪では鰻の頭を一盛50銭で売っており、彼らはこれをダシにして鍋物や雑炊を作ります。一円硬貨を円助と言ったので、この料理に半助と名がついたそうです。美味かろうなあ、と想像します。これも大阪料理の合理性を物語る話ですが、同時に為三郎が花柳界に如何に通じていたか、が解ります。なお同じ本に「ヤジキタ寿司」というのがありました。どんなものかは皆さんの方で調べて下さい。
 最後に現今でのビ-ル業界の趨勢について。20数年前にアサヒス-パ-ドライが発売されて、これが爆発的な売れ行きとなり、現在ではアサヒビ-ルがシェア-のトップを占め、キリンが必死に巻き返そうとしているところです。私はキリンのラガ-ビ-ルを愛飲していましたが、ドライ発売と同時にそちらに切り替えました。今ではビ-ルを卒業して冷酒と焼酎です。大阪の美酒を二つ紹介しておきましょう。一つは大黒正宗の「天乃梅樹」。素晴らしく美味しい、甘露です。少し値を下げれば、大関酒造の「大阪屋長兵衛」、これなら毎日飲むのにそう差し支えはないでしょう。食べる・飲むというのは楽しいものです。快楽は人間を豊に寛容にします。山本為三郎という人格の中に、この快楽の持つ寛容性が表現されており、それが氏の魅力の根源であるようです。

 参考文献  山本為三郎翁傳  非売品、大阪市立図書館蔵

経済人列伝・鳥井信治郎、飲んでみなはれ、サントリ-(再掲)

2010-03-16 03:31:55 | Weblog
鳥井信治郎、飲んでみなはれ、サントリ- 

 最近新聞をにぎわせたニュ-スにキリンビ-ルとサントリ-の合併破談があります。両社は株式保有のあり方が対照的で、この点が最大の障害になりました。サントリ-の株式の90%が創業家である鳥井家の所有とありました。今時大企業でこんな古風な話があるのかと思い、創業者鳥井信治郎の伝記を読みました。そしてなるほど、この人の性格と業績から言えば、そうなっても不思議ではないと、思い至りました。記者会見でサントリ-の佐治社長(多分信治郎のお孫さん?)が、創業家支配にはそれなりの良いところがあるのだが、と残念そうに言っていたのもうなづけました。
 信治郎は明治12年(1879年)大阪市東区釣鐘町に生まれています。家業は銭両替商(小口金融)、野村徳七と同じ環境です。父親は後に米穀商に転業しています。比較的裕福な家でしたが、当時の大阪商人の習慣に従い、高等小学校卒業後、丁稚奉公に出ます。(注1)奉公先は道修町(どしょうまち)の卸商小西儀助商店、この店は洋薬や洋酒をも商っていました。薬も酒も輸入されたままの状態では商品として出しません。国内で売れるべく数種の品を混合して調合(blend)します。信治郎はここでblendの勘を磨きます。blend如何により、商品の価値と売行が決まります。彼のこの方面での才能は極めて優れていました。後年彼が有名になった時、利き酒の大会に出ました。出された30種類の日本酒のうち、彼がはずしたのは2-3種だけだったそうです。この才能にあわせてか信治郎は極めて大きな鼻の持ち主でした。

(注1)江戸時代以来商人になる道は丁稚から手代番頭と勤め上げて、別家として暖簾分けしてもらうのが常道です。丁稚といえば極貧階層出身のように誤解されていますが、実際は農村の中農以上で、ちゃんとした保証人がいる信頼できる人物のみが、都市の商家に奉公できました。

 明治32年信治郎21歳の時、独立します。得意の鼻を生かして、甘みのあるぶどう酒を調合し向じし印のぶどう酒を売り出します。これは結構当たりました。東京の蜂印ぶどう酒がライヴァルでした。
また彼は友人の親戚になるスペイン人セレ-スのところに遊びに行き、そこでスペイン産のぶどう酒を味あう機会に出会います。本格的なこのぶどう酒を売り出したところ、さっぱり売れません。欧州の本場のぶどう酒をどのようにして日本人の味覚に会うように調合し売り出すかが、信治郎の念願になります。信治郎の野望は、いかにして西洋の酒と同じ物を日本で作るかに、あったと言えましょう。彼はハイカラ趣味の人でした。この情熱は後年国産ウィスキ-の開発に向けられます。
明治39年、屋号を寿屋と改めます。
 こうして明治44年売り出されたのが、赤玉ポ-トワインです。濃紅色でとろりとした甘みのあるワインです。(注2)信治郎はこのぶどう酒に自信を持っていました。大阪の祭原商店、東京の国分商店を中心に東西で売り込みます。赤玉ポ-トワインの宣伝に関しては逸話があります。信治郎は宣伝の一手段として赤玉楽劇団を作って全国を公演させました。そういう関係から芸能人も彼と親しくなります。ある時来阪していた松島栄美子に寿屋の宣伝部長である片岡敏郎が密かに相談を持ちかけます。料亭のある部屋で松島に上半身裸になってくれ、という頼みです。松島の半裸体をふすまの蔭から数人の男がしきりに観察し写真を撮ります。こうして赤玉ポ-トワインのポスタ-ができました。松島栄美子の上半身露な像、全体は黒味がかったセピア色、松島の白い肉体、彼女が持つグラスに注がれた真っ赤なぶどう酒、という配色です。このポスタ-は全国で有名になりぶどう酒の売り上げに大きく貢献しました。(注3)赤玉の「赤い」は太陽(sun)の意味です。日本は太陽の国だという、信治郎の信念からこのような発想が出てきました。
 この間信治郎は色々な商品を発売しています。スモカという煙草飲み用の歯磨き、五色酒、トリスソ-ス、トリスウィスタン(ウィスキ-の炭酸割り)、オラガビ-ルなどなどです。

(注2)もっとも現在ではこのような物はワインの内に入らないかも知れません。昭和30年代になっても、一部の人を除いてはぶどう酒といえば蜂印か赤玉でした。日本経済が高度成長に入った40年代、欧州各国から一斉に各種のワインが輸入され、店頭に並びました。私は赤玉ポ-トワインは甘くて美味しいので、母親の目を盗んではちょくちょく飲んでいました。どちらかというと子供向けのようなお酒でした。
(注3)この写真で松島栄美子の上半身は裸身ですが、乳首以下は隠されています。当時の法令違反すれすれの写真です。これ以上露出すれば猥褻な印象を与え、またこれ以上隠すと写真の魅力がなくなるというところです。

 鳥井信治郎の性格や行動には著明な特徴があります。彼は最初奉公した小西商店でも自分の信念を曲げず、主人に対しても決して引き下がりません。赤玉ポ-トワインの最大の卸商特約店である祭原商店で、寿屋の看板が他用に使われていると知ったとき、店の番頭と大喧嘩した話もあります。
 経営のやり方は一言で言えば、温情的家父長制、社員に対して待遇はすこぶる良いが、極めて独裁的でした。社員に自らを決して社長とは呼ばせません。大将と呼ばせました。理由は社長と言われるのは、せいぜい三井三菱住友くらい、お客の前で自分を社長と呼ばせて悦に入っているようではあきまへん、というところです。彼の口癖は「やってみなはれ」です。一応社員の自主性を認めているようであり、確かにそうですが、この言葉はもっと激烈な意味を持ちます。おやりなさい、自分の意志と信念で、やる以上とことんまでやりなさい、となります。信治郎が「東京へ手紙を出してくれ」と社員に指示します。何を書くのかと反問すれば、社員失格です。社長である信治郎の意向が解っている必要があります。万事この調子です。そういう背景において、やってみなはれ、の文句を吟味する必要があります。会議は大嫌い、役員会議など開きません。重役も自分の手足同様に使用します。織田信長を彷彿させます。事実信長のように短気で、すぐ怒鳴りつけました。戦時中社員は信治郎をB69と仇名しました。当時恐れられた米軍爆撃機B29をもじったのです。また彼は八卦占いを信じました。人事採用も八卦で決めたので大学から学生紹介を断られた事もあります。仏教といわず神道といわず八百万の神様仏様はすべて信じました。その一環が放生会です。その辺で買ってきた、魚や亀や蛇などみな放ちました。馬鹿にならない費用なので社員が忠告すると怒鳴れました。この行動の一環でしょう、彼の社会事業への貢献は大きいものがあります。終戦直後大阪駅周辺の浮浪者すべてに握り飯を振舞いました。次から次と浮浪者が現れてもひるまず、慈善を続けました。信治郎の信念は、事業家はその収益のうち、1/3を社会に、1/3を顧客に、残り1/3を資本に廻す事でした。このような信念ゆえか、彼は株式の上場を極端に嫌いました。理由は株式公開にすれば、株主の機嫌を伺い、結果として良い商品は生産できない、ということです。全面的には賛成できませんが、昨今の米国の状況を見れば、なるほどと思わされます。以上信治郎の商法の一端を紹介しました。このような頑迷なまでの信念と独裁性と楽観があればこそ国産ウィスキ-生産という難事業ができたのでしょう。
 信治郎は宣伝好きでした。赤玉ポ-トワインが発売されると、健康に良いとかで、当時希少価値のあった医学博士の推慮を総動員します。またサイドカ-に軍服に似た服装の社員を乗せて宣伝隊を町に繰り出します。毎日新聞の宣伝部長片岡敏郎を月給倍の条件で引き抜きます。松島栄美子の半裸体ポスタ-は彼の考案になります。赤玉額劇団を編成して日本中を公演させて廻ります。洋酒を世間に広めるために、トリス喫茶店を開きます。カクテル相談室も開催します。「洋酒天国」という雑誌を作り、宣伝しないような形で宣伝します。この雑誌は私も見たことがありますが、自社のことなどあまり触れていません。本当に洋酒のための雑誌という感じで、私が見た頃は発売部数も多いポピュラ-な一般雑誌でした。サントリ-の宣伝部からはかなりの人物が出ています。作家の開高健、随筆家の山口瞳、漫画家の柳原良平などです。
 大正12年関東大震災、この事件とはどう見ても関係なさそうですが、信治郎は、本場のスコッチに負けない本物の国産ウィスキ-を作ろうと、思い立ちます。と言ってしまえばそれまでですが、この企ては一大壮挙、というより暴挙、かなりの人にとっては愚挙でしょう。事実会社の内部も外部も猛反対でした。理由は簡単です、資本がかかり、しかも資本が回収できるまで、最低10年の歳月が必要になります。もちろんうまく行ったとしての話ですが。加えて、酒は文化という事情もあります。英国の文化にマッチした微妙な味わいを作り出し、それを日本の文化に適合するべく云々、というだけで難題だなと思わされます。
ここでウィスキ-の作り方に伴う難事を簡単に説明します。まず醸造所の選定に条件があります。スコットランドの高地地方ロ-ゼス峡谷のような、霧が適当にかかる湿気の多い土地でないといけません。原料の大麦も選定されます。信治郎は、ゴールデンメロンという品種の麦を使いました。麦芽も酵母も品質が限定されます。発酵してできた新酒は蒸留されます。それも何回も何回も。この蒸留には、スコットランドの湿地(沼地?)でできるヒースという草が、湿地に堆積し炭化してできた、泥炭ピ-トを使わなければいけません。ピ-トは輸入します。ピ-トを焚いて蒸留する過程で付く独特のにおいが、ウィスキ-の味を決めます。こうして原酒(モルト)が出来上がります。これを樽にいれて暗い冷たい地下室で保存します。樽は樽で特別性です。アメリカから輸入したホワイトオ-ク(白樫)で作ります。それを一度シェリ-酒を入れてあくぬきをしてから使います。新しい樽を使うのと、古い(つまり一度以上ウィスキ-を保存した)樽を使うのとでは、できる酒の味が違います。もちろん寝かせる期間によっても違ってきます。どのような樽を使い、何年寝かせたかで諸種の原酒が出来上がります。これらの原酒をblend(調合)し、さらにグレ-ンウィスキ-という比較的単純な酒を加味して、ウィスキ-が出来上がります。blendの能力は天賦とされています。また麦や麦芽にしてもできた年の気候により微妙に違います。さらに発酵・蒸留させる時の気候も作品のできばえに影響するでしょう。
大量の資本と高度な技術を長期間必要とし、しかもそれだけでは必ずしも成功は保障されない事業がウィスキ-造りです。まるでケルト・アングロサクソンの文化全体を日本に輸入するようなものです。この壮挙(愚挙?)に信治郎は敢然かつ欣然と取り組みます。これは信治郎の遊び心の表れでしょう。そういえば英国の人士がスコッチに寄せる気持ちも遊びに似ています。
幸い工場の土地としては山崎というか格好の土地が見つかりました。大阪府と京都府の境にあり木津・宇治・桂の三川が合流する山崎地峡は、結果としてウィスキ-造りには最適の土地でした。(注4)問題は技師長の人選です。信治郎は最初、イギリスの醸造学の大家ム-ア博士を日本に招聘して指導してもらおうと思っていました。博士も快諾しましたが、そのうちムーア博士は、日本人でスコッチの工場に留学し、製法を学んで帰った若者がいる事を知り、彼に技師長を委ねたらと、言います。信治郎としてはやや気がそがれた感もありましたが。この人物竹鶴政孝を採用し、(注5)ウィスキ-造りの全権を委ねます。この時信治郎はムーア博士に出すべく予定していた年俸4000円を竹鶴の年俸としました。大正12年10月山崎工場起工式。

(注4)山崎は昔羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の戦をした古戦場です。信治郎の本拠地大阪からも現在なら電車で30分かかりません。いいところに最適の地があったものです。またこの地は灘伏見の酒水に連なります。この地は竹が多く生え、その分余計な植物の繁殖が少ないので、細菌環境もウィスキ-造りに最適と後になって判明しました。加えて太閤さんびいきの信治郎には、秀吉出世の古戦場は縁起も良かったのでしょう。
(注5)大阪高等工業学校醸造科卒業。摂津酒造に入社。摂津酒造もウィスキ-造りを企て、竹鶴はグラスゴ-大学に留学。帰国後不況のために、摂津酒造は企てを放棄。浪々の身になっていた竹鶴に信治郎は白羽の矢を立てる。竹鶴は後独立し、ニッカウィスキ-を設立。大阪高等工業学校は後の大阪大学工学部です。当時醸造学は日本中ここしかありませんでした。多分灘伏見という酒どころに近かったからでしょう。なお信治郎の次男の佐治敬三もここの出身です。なお信治郎は何ゆえか、次男敬三に山陰の旧家である佐治家の姓を名乗らせています。ですからサントリ-の創業家は鳥井家ですが、佐治家も同様となります。

 ぼつぼつウィスキ-が出荷されます。予想通り始めのうちは、焦げ臭い、という悪評でした。ピ-トの焚きすぎが原因でした。酵母の選定にも問題がありました。そこは信治郎得意の粘りで切り抜けます。まあ、飲んでくだはれ、と次々にできたウィスキ-を得意先に持って行きます。課税でも苦労します。当時の酒税は仕込んだ酒の量に従って一年単位で課税されました。仮にウィスキ-を10年寝かせるとします。この間金にはなりません。だから一年単位で課税されると、ものすごい税金になります。信治郎は国税庁に掛け合いにいきます。多くの場合喧嘩になりました。こうして池田隼人(後の首相)と昵懇になります。昭和6年サントリ-特角を出します。この頃からサントリ-も商品化できるようになったのでしょう。この間当然ですが、ウィスキ-部門は大赤字の金喰虫でした。信治郎は赤玉ポ-トワイン以外の商品の生産をすべて中止し、赤玉とウィスキ-のみに専心します。赤玉ポ-トワインで稼ぎ、それをウィスキ-製造につぎ込むのです。なにやらトヨタの自動織機と自動車の関係によく似ています。ちなみに「サントリ-」という名称は「サンsun、太陽」と「トリイ、鳥井」からきています。もちろんサン(太陽)は赤い玉で象徴されます。
 事業も段々好調になって行きます。昭和8年アメリカでは禁酒法が廃止になりました。これでアメリカにウィスキ-を輸出できます。ということはアメリカでは当時たいしたウィスキ-が製造されていないことになります。スコットランドに似た土地なら広いアメリカのこと、どっかにあるとは思いますが。昭和12年サントリ-角瓶、同15年サントリ-オ-ルドを発売します。このあたりから洋酒の寿屋とサントリ-の名称はブランドになって行きます。しかし信治郎には不幸が訪れます。頼みの右腕と期待していた長男吉太郎が急死します。信治郎には男児が3人います。長男吉太郎、次男敬三、三男道夫です。次男は佐治を、他の系譜の親族は鳥井を名乗ります。
 戦火が勃発します。しかし戦争は酒造業にとって有利に働いたようです。酒の成分はアルコ-ルであり、この物質は軍需物資ですから、生産は保護奨励されます。加えて戦争に従事する軍人は明日の命も解らない状況に置かれるので、酒量は進みます。ウィスキ-は舶来品であり、英国の酒でしたから、英国仕込の海軍に重用されました。やがて陸軍も眼をつけ、陸海の争奪戦になりましたが、ことウィスキ-に関しては海軍有利に配分されました。
 戦争が終わります。しかしサントリ-の経営は、他の業種に比べれば順調だったようです。最大の生産施設である山崎工場は戦火を免れました。私はよくこの近くを電車で通りますが、どう見ても爆弾なぞ落とす気にはならない、地形に工場はあります。更に進駐してきた米軍の需要もありました。米国のウィスキ-より上質らしく、米軍将校の愛飲するところとなります。信治郎はひばりヶ丘の自宅を解放して、米軍将校の接待会合の場にしました。当時米軍(つまりGHQ)と親しいという事は、多くの便宜に繋がったはずです。将校だけ美味い酒を飲むのはけしからんと、米兵も同様の要求をします。拳銃を突きつけられて脅迫強奪される事もありました。そこで兵卒用のブル-リボンというウィスキ-を作りました。どこへ行っても階級格差はあるようです。
 当時主税局長だった池田隼人から信治郎は助言されます。サントリ-もいいが、もう少し大衆的なウィスキ-を出したらどうかと。期待に答えてトリスウィスキ-を発売します。池田自身が大酒のみであり、彼の実家は酒造業でしたから、酒飲の気持ちはよく解ったのでしょう。トリスウィスキ-を発売すると同時に、トリスバ-も全国に開きます。このバ-開設の条件は、酌婦がつかない事と値段が公正である事でした。健全な居酒屋とでも言いましょうか。私が昭和35年大学に入り、始めて友人とウィスキ-を飲んだ当時、トリス、サントリ-角瓶、オールドの順にランクが上がりました。角瓶は比較的金のある連中が飲む物、オ-ルドになると国産の一級品という格でした。この上に確かサントリ-ロイヤルというのがありましたが、それはジョニ-黒と変らないという評判でした。
 昭和30年紫綬褒章を受賞します。昭和34年現在、寿屋の資本金は1億9200万円、大阪本社以外、支社6、工場8の陣容でした。36年社長の座を降り、次男の敬三に譲ります。37年死去、83歳でした。喪主は信一郎(信治郎の孫)、友人代表は池田隼人(首相)や山本為三郎(アサヒビ-ル社長)、高崎達之助他数名でした。山本と高崎については後の列伝で取り上げる予定です。
 ここで鳥井信治郎の魅力とでも言うべき項目を列挙して見ましょう。この作業は同時になぜ彼がウィスキ-生産という難事業を成功させたか、という問題に繋がります。まず商人根性と職人気質の同居、信二郎にはこの相反する傾向が多量に同居している事が挙げられます。商売熱心でがめつく売りまくり、宣伝を大規模に行います。この辺は商人的ですが、ウィスキ-やポ-トワインの品質に関しては頑迷なほど、品位にこだわります。算盤を度外視して品位にこだわったから、英国産に劣らないウィスキ-ができました。
 生活は派手同時に地味です。社会事業に多額の寄付をして、おしゃれな反面、当時の金持ちが愛好する自動車と別荘の所有には断固反対しました。地味だが派手と言うべきでしょうか?彼の活動にはある種の快楽主義を感じさせられます。ハイカラ趣味といえば少し浅薄になるかも知れませんが、彼はそう言われていました。
 快楽主義は楽観主義に通じます。彼の口癖は、やってみなはれ、でした。とことんやってみなはれ、です。単に頑張るというだけではありません。自分の思うようになるだろう、という信念か確信のようなものがあります。この確信を彼は他人にも押し付けます。確信と楽観の基底には快楽という一種の麻薬が存在するようです。彼が大酒家だったとは聞いていません。しかし赤玉ポ-トワインが発売された当時、これを飲んだ日本人は多分、美味とある種の悦楽感に襲われたでしょう。信治郎はこのイメ-ジを真っ赤な太陽(sun)でもって表しました。松島栄美子のセミヌ-ド姿はそれを象徴しています。自分が感じた快楽を自分だけのものとはせず、みんなに解放します。本人がそうと変に自覚していない分、この印象は強烈です。
 これらの要因があわさって、信念と使命感が出現します。そういう単純に言葉で表されるだけのものではなく、図々しさ、頑迷なあつかましさ、そして自己肥大感と言った方がいいでしょう。しかしそこには否定できない信念と使命感があります。
 そこから出てくるものが、独裁と自信です。
 信治郎を語る場合、彼がいわゆる、こてこての大阪人、であったことも考慮に入れる必要があります。換言すれば土着性です。しかも都会的な土着性です。だから彼の考えは一見奇矯なようで常に大地に根をはやした感があります。だから英国の文化の、しかも土着性の強い文化であるウィスキ-を、やはり大阪という土地に土着させえました。
ウィスキ-を生産し成功させるためには、10年近く大量の資本を寝かせる必要があります。試みを敢行するには、野放図な大胆さと文化移入への使命感、そして自己への信頼が要ります。それを鳥井信治郎という男はやり遂げました。多分日本以外の国で、英国産と同格のウィスキ-を生産した国は無いでしょう。

  参考文献  美酒一代、鳥井信治郎伝、毎日新聞社

ガンバレ、トヨタ(改定版)

2010-03-15 03:25:03 | Weblog
    ガンバレ、トヨタ!(改訂版)

 昨今豊田自動車のリコ-ル騒ぎが新聞紙面をにぎわせております。事の詳細は解りません。製品のメカについて私は素人ですし、私は運転免許を持たない例外的少数者です。しかしトヨタは技術立国日本を代表する企業の一つです。リコ-ル騒ぎは気になります。まずなによりも事の真偽を会社が調査し、問題の箇所を早く解決する事が肝要です。ここで私はトヨタを月並みな言葉で激励するのではなく、豊田自動車が、これまでたどってきた軌跡の一部を語って、関係者の皆様に、十全の理解を求めたいと思います。
 トヨタは周知のように、豊田佐吉と喜一郎の2代でその大を為しました。二人の親子の間には微妙で不可思議なある種の因縁話のようなものがあります。あるいはそう感じさせられます。佐吉は大工の家に生まれ、親の言いつけに背いて発明狂に徹し、豊田式自動織機を完成しました。作業に没頭する中結婚します。しかし新妻は幾ばくするともなく長男喜一郎を残して家を出ます。事の仔細は解りません。多分佐吉が発明に没頭して妻を顧みる事が少なかったのだろうと憶測されます。喜一郎は母親失踪の詳細を知らされること無く、成長します。東大工学部を出て父親の会社に勤めます。佐吉は機械の改善改良に勤めますが、わが息子喜一郎には、この種の行動は一切勧めません。喜一郎は父親に無断で密かに自動車製造を志します。その姿を見ていた佐吉はある時、喜一郎の発明家・技術者としての真価を認めたと伝えられます。こうして喜一郎は自動車製造に邁進しやがて今日のトヨタの基礎を作ります。
 佐吉・喜一郎2代に渡る発明狂・技術馬鹿の出現は、喜一郎の母親たみの失踪事件が間に介在するだけに、そこにはある種の因縁か業のようなものを感じてしまいます。トヨタが今日に至るには幾多の苦難がありました。それを全くの部外者の口を通して語ってみたく思います。
 佐吉が自動織機製造に成功しかけた時、三井物産が協力を申し出ます。この共同作業は結局上手く行かず、佐吉は技師長を降ろされ、放り出された形で会社を出ます。しかしこれは三井物産の悪意や敵意からそうなったのではありません。物産には商業資本としての論理があり、佐吉には技術屋としての意地と夢あり、両者が上手く交わらなかっただけの事です。
 喜一郎に対して佐吉は技術屋としての指導はほとんどしていません。むしろ自分のようには成るな、あるいは成れないだろう、とでもいう後姿を見せていたようです。喜一郎も父親に内緒で、また会社の大多数にも無断で、自動車製造研究を開始します。軍の厳しい要望に答えつつ、先行メ-カ-日産とともに、自動車販売にこぎつけます。しかし始めてトヨタが自動車を販売した時は、新聞紙面に「トヨタ、またまた路上で座禅」と書き立てられるような有様でした。この事態に対してトヨタが取った態度は、平身低頭をもってするお詫びと、早急な修理改善などのアフタ-ケアの徹底でした。技術で劣るところは汗と誠意で補う、というのが、トヨタの対応でした。私が知っているディ-ラ-や修理工場経営者の話では、顧客の事を一番考えて設計しているのがトヨタだと、いう事です。他のメ-カ-もそれに刺激されてか、日本車の面倒見の良さは優れており、それが外車が日本に定着できない事情のようです。
 敗戦と共に、トヨタは生産設備のほとんどを失います。加えて地方財閥として会社群は解体され、また軍需産業の一部でもあったために、自動車生産には厳しい制限が占領軍により課せられます。トヨタの自動車生産販売は大赤字の連続でした。佐吉以来の自動織機でもっていたのですが、当時日本に課せられたドッジラインという超緊縮経済の深刻な影響もあり、トヨタはすでに破産寸前でした。1600名の解雇が必要です。
 大規模な争議が持ち上がります。外部団体の介入によりトヨタは会社存続か否かの危機に陥ります。銀行団は支援しますが、彼らは技術一本槍の喜一郎を嫌い、自動織機畑の石田退三を責任者にすえます。なんとか争議は解決します。この間豊田喜一郎は1952年57歳で亡くなります。トヨタが雄飛するのはその3年後、トヨペット・クラウンとトヨペット・マスタ-を発売してからです。トヨタを始めとする日本の自動車会社が欧米に追いつくにはさらに10年の時を要します。
 トヨタは佐吉・喜一郎という2代に渡る発明狂が作った会社であり、日本の技術を代表する企業であり、だから匠(巧み)という物作り日本の民族精神を象徴する経営体であります。渋沢栄一は近代日本の産業育成に甚大な貢献をしました。渋沢と佐吉のどちらが経済人として偉いかと比較すれば、答えは難しいでしょう。しかし歴史的知名度から言えば、文句なく、豊田佐吉に軍配が上がります。豊田佐吉は野口英世と共に、近代科学技術の先駆者として日本人が誇りに思う人物です。トヨタはこの精神を受け継いでいます。
以上、歴史の断片を語る事を通して、トヨタに奮起を促し、激励したく思います。

(付)石田退三社長にはエピソ-ドがあります。彼は紡織機製造会社から畑違いの自動車会社に乗り込むはめになりました。この時会社を一巡した石田社長の訓示は有名です。大意は「私は自動車工業には素人だが、機械工場というのは実にノンビリしたところだ。工作機械一台ごとに一人の従業員がついていて、じっと機会の作動を待っている。紡績工場を見ろ。一人の女工が何十台の機械を受け持っているではないか。機械の取り付けと取り外しは、確かに従業員の労働時間だが、その中間の時間、作業員は見ているだけで、従業員の作業時間ではないじゃないか。機械の作業時間だ」と。(昭和経済史、日経文庫)この一言でトヨタの作業工程は一変したといわれています。

(付)佐吉は始め喜一郎に高等教育を受けさせるつもりはなかったようです。喜一郎を進学させたのは義母の浅子です。彼女の意向で喜一郎は中学に進み、そこから高校、東大と進学します。東大時代の師匠や友人からなる人脈は喜一郎の仕事に大いに役に立ちました。賢明な義母浅子の存在が無ければ、トヨタは無かったことになります。浅子の写真をみましたが、確かに賢婦人そのものという容貌態度です。のみならず美人です。浅子は佐吉死後、佐吉の等身大の木像を彫らせました。浅子にとって佐吉は神様だったのかも知れません。
 浅子と佐吉との間に愛子という女児がいました。喜一郎にとっては唯一の兄弟であり、仲が良かったと伝えられています。愛子は児玉利三郎と結婚し、利三郎は豊田家の養子になります。児玉家については若干の説明が要るでしょう。佐吉の苦闘時代、資金と智恵の両面で、佐吉を応援した人物の一人が、三井物産名古屋支店長の児玉一造でした。利三郎は一造の長男です。利三郎は神戸高商を卒業して、伊藤忠商事のマニラ支配人になっていました。まだ地方企業でしかなかった豊田紡績などに転職する気はなかったのですが、愛子の美貌に一目ぼれして養子縁組を承諾したといわれています。佐吉なき後の豊田は、喜一郎と10歳以上年上の義弟である利三郎が、協同で経営する事になります。喜一郎が技術担当、利三郎が経営担当です。もしこの利三郎という人物がいなければ、今日のトヨタはなかったでしょう。ともすれば技術向上一筋に走りがちな喜一郎を適当に押さえ、周囲の反対をなだめて、喜一郎の道楽と言われても仕方のない、自動車製造を後援したのはこの利三郎です。彼は喜一郎に遅れること数ヵ月後に死去します。まるで形影会い沿うように、とでも言うべきでしょうか。石田退三は児玉一造に養われて育ち、利三郎の義弟格に相当する人物です。人の縁とは面白くて不思議なものです。

夫婦別姓に対しての意見

2010-03-12 03:28:32 | Weblog
      選択的夫婦別姓に対しての意見

 民主党政権は選択的夫婦別姓を法制度として導入しようと画策しています。経済無策、外交支離滅裂、政治倫理壊滅、とでも言うべき状況で、せめて夫婦別姓や外国人参政権付与で、開明的であるというポ-ズを示したいのだろう、と私は想像しています。外国人参政権の問題は今回さておき、夫婦別姓に関して私の意見を以下に開陳いたします。
そもそも何で夫婦別姓なのかが、理解できません。特に差し迫った障害が、現制度にあるとは思えません。一部の人達による、為にする行為、ある種の意図を持った工作、体制破壊遂行の一環ではないかと憶測してしまいます。ですから夫婦別姓という事そのものもともかく、その意図が危険です。夫婦別姓はあらゆる意味で将来の禍根になる可能性を、それも多大に持っています。
 生物学的に言えば、子供は父母のDNAを半分づつ与えられて、この世に生を受けます。子供は父母一方のどちらのものでもありません。生誕時から子供は父母共同の産物です。常に遺伝子を多用な形態に保つ事が、種族保存のための必須条件です。これが第一点。
 以上の生物学的前提を受けて、父母による養育が始まります。養育過程を極めて簡潔に言えば、それは愛着、掟、分離の三つの段階を踏まえて完成されます。愛着とは、親による保護、接触(スキンシップ)、生存に必要な条件の付与つまり満足、安全感などから成り立ちます。掟とは規範です。社会に出るのにしてはいけない事・するべき事の認識です。分離とは、親からの心身双方における分離、達成感の獲得を通しての自立を意味します。そして愛着・掟・分離という過程の遂行は、父母協同で行わなければ、充分な成果は挙げられません。父母はこの作業において、協業しかつ分業します。協業と分業は相補的関係にあります。愛着と掟は成長する子供にとっては対立する要因になります。ですからこの作業は父母により分業されます。一般的には愛着は母親が、掟は父親の仕事になります。子供は母親の愛情にくるまれ保護され、やがて父親の背中を見て社会とは何かを認知します。愛着と掟という相反する過程を、父母のどちらかが単独で遂行する事はできません。それは極めて危険な企てです。
 養育の目的は人格の完成にあります。安定した人格とは、同一性と連続性の意識が保てる事です。もう少し詳しく言いますと、個人は、自らが持つ属性や行為が全体として同一な「われ」にあり、またこの「われ」が時間の中で連続したものであるという自覚を持った時、自己を安定し完結した存在として認知できます。平たく言えば、自分のした事やその傾向の一部が自己のものでないとか、あるいは以前の自己が現在のそれとは別のものだと、いう認識に陥れば、人格は崩壊し始めるという事です。同一性と連続性の意識が崩壊した極が、統合失調症という病気です。そして同一性と連続性の意識を前提としてのみ、自己の人格の独立性が獲得できます。
 養育の目的は、人格の完成の基盤である、この同一性と連続性の意識を子供に与える事にあります。この作業は父母が緊密な連携下にある事によってのみ可能です。父母の緊密な協同作業を見聞し、体験してのみ、子供は自分がこの協同作業の中にいる、と思うことが可能です。まず父母が緊密な共同作業を提示している、作業の目的が自分であり、自分もその作業に参画している、という子供の自覚が養育の基本的条件です。この過程を経てのみ、人間は、自己の独立性の意識を獲得できます。もちろんこれは理想的な範疇であります。しかし基本はそういうことです。精神疾患を心因的に見る限り、その前提は以上の要因の欠如ないし障害です。
父母が子供に影響を最大限に発揮する期間、子供の精神あるいは脳神経の発達は極めて盛んです。神経結合(シナップス結合)の数から言えば乳幼児期におけるその数は成人の比ではありません。
 仮に子供が、父母をばらばらな存在、協同して自分に対しえない存在と感じたとき、どんな事が起こるでしょうか?簡単に言えば、パパとママは別々、だからボクも別々、となります。別々とはばらばらという事です。これを平等と言えばそうとも言えますが、極めて危険な悪平等です。かくなりますと親子の位置が揺らいできます。時として子は親に過大な要求をするかと思えば、逆に親の責任を自ら負い、親の親役を引き受ける事になります。そして一番の問題は、親子の位置が不安定になる事によって、親子間のけじめ、もう少し端的に言いますと、親子間に設定されている近親相姦禁忌(incest-tabu)が揺らいでくる事です。近親相姦は簡単には発見できませんが、現在性的虐待と言われている行為は無視できないほどあります。また近親相姦行為の代理現象として問題なのが、低年齢恋愛と恋愛依存症です。近親相姦禁忌の弛緩解体は社会統合の根幹を揺るがす問題です。夫婦はばらばらであってはいけません。夫婦別姓はこのばらばらな関係を促進し意図するものです。
 そもそも婚姻とは如何なる現象でしょうか?婚姻あるいは配偶者選択は少なくとも三つの要因から成り立ちます。まず社会維持と種族保存の義務、次に利害計算、そして愛情(なるもの)です。利害計算は義務感から来る結果です。愛情は義務感を補足します。もし第一項である義務感を欠いたら、婚姻はどういう事になるでしょうか?配偶者の適否を冷静客観的に考察する必要はなくなります。残るのは愛情だけです。
 愛情とは何でしょうか?愛情とは人が簡単に考えているほど単純なものではありません。
複雑で不安定限りないものです。簡潔に言えば愛情は、願望の投影、外傷の治癒、身体による精神の代償置換、という三つの、かなりな程度病理的要因から成り立ちます。願望の投影とは、相手が自己の願望を受け入れ、満たしてくれる、という期待です。外傷の治癒とは、自分が過去に受けた何らかの外傷を相手が癒してくれる、という期待です。この場合相手の外傷を自分が治してやる事により自分を癒すという、逆方向の力も働きます。ここで恋愛当事者は相互に自己を被害者・幼弱者に擬しています。恋愛において期待は容易に確信に変ります。身体による置換とは、自己が始めて経験した母親の体(あくまで体です)を無上のものとする事です。結果は幻想への埋没と理性の喪失です。
 このように愛情なるものには、極めて多大な不安定要因、病理的要素が含まれています。そしてなによりも肝心な事は、恋愛関係においては当事者双方に、離れるつまり裏切る権利があるという事です。もし一度恋愛したら、決して離れてはいけないとなると、恋愛とは地獄であり、無期懲役に等しくなります。愛情とはこのように不安定なものです。もし結婚に義務感が欠如すれば、夫婦関係は無政府状態、修羅場裏になるでしょう。私は職業柄人様の恋愛行為を観察させてもらう機会が多々あります。私の臨床経験から推す限り、恋愛感情はせいぜいもって2・3年です。その後は結婚するか、別れるかです。後者の方が圧倒的に多いのです。
 教育は誰がするのか、という問題もあります。社会か父母家族か?どちらであるともいえましょう。しかし教育は養育の延長であり、前者は後者を前提としてのみ可能です。既に父母と子供の三位一体を論じた時、ここで自己の同一性と連続性の意識が作られ、それは同時に自己の自立の前提でもあると、申しました。またそれは父母と子供が安定した共同体を形成しているという意味で、帰属感あるいは全体性の意識を育てる事でもあります。この帰属感と全体性の意識を前提としてのみ、公教育は可能です。学級崩壊など現在教師を悩ませている問題の根源はここにあります。だから社会は父母を代理できません。安易に教育を社会に委譲する事は教育の放棄に繋がります。教育の延長線上に労働があります。最初の前提を欠けば労働生産性も低下するでしょう。
 よく子供は保育所で育てればいい、というような粗暴な論旨を展開する人がいます。保母や教師は、両親を代理できるでしょうか?できません。特に養育上決定的な意義を持つ、3歳児までは父母の存在が不可欠です。母親は生理的にも心理的にも子供と繋がっています。乳児期は胎児期の延長です。乳児期を過ぎれば父親の役割は徐々に増大します。血縁によって結ばれた自分の子供という意識があるからこそ、わが子にその全力を注げます。自分の子と他人の子に差別無く接しられる人がいるでしょうか?そして発達の最初の段階である乳幼児期は、特に関心と配慮を多量に注がなければならない時なのです。この事を成しうるのは父母のみです。
 再び問います。教育は誰がするのか、と。それは父母であり、教師であり、保母であり、隣人でありそして社会です。しかし教育の原点たる養育は父母の権利でありまた避けられない義務でもあります。これを欠いてはあらゆる教育は不可能です。仮に養育と教育をすべて社会に任せれば、他者が自己に決定的な影響を及ぼしうる時期、子供は極めて希薄な人間関係に置かれます。それは重大な発達の障害を結果するでしょう。このような状況はある意味で自由で平等かも知れません。ここで共産主義社会を思い起こして下さい。彼らは私有財産を否定すれば、すべては良くなるといいました。結果は経済の停滞のみならず、倫理の破壊でした。財貨という人間の実存の外部にあるものに関してもこの有様です。まして養育まで完全社会(主義)化すればその影響は、私有財産否定の比ではないでしょう。
 夫婦別姓はその事自体もともかく、そこに潜むある種の意図も危険です。この意図を完遂すれば、結果は倫理の破壊になります。
私が経験した数例の夫婦別姓の例を回顧して見ましょう。多くは自立を目指すと言う女性側の積極的な意志と、それに対応する物分りのいい、開明的で進歩的であろうとする男性側の気取りから、別姓になりました。結果はすべて対立と喧嘩、悪罵の投げ合いから離婚に至っています。恋愛依存症に関して言えば、しがみついて(cling 愛着の病理的形態)から、依存しつつ支配し、恋愛対象を頻繁に取替え、暴力と身体毀損を繰り返す状態が一般的です。またここ30年来境界線人格障害と名づけられる疾病が激増しています。自覚的症状よりも、他者に対する暴力も含む迷惑行為を主とする疾患です。厳密な原因究明は難しいのですが、自分に甘え他者の寛大さにつけこむ態度は彼らに著明です。
 最後に。男性は婚姻に際して、共同体維持という義務感があるから、家庭にだから配偶者に忠実になりえます。これは婚姻外の恋愛過程においても同様です。夫婦がばらばらでいいのなら、話は違ってきます。忠実な番犬をわざわざ野に放って餓狼にする必要がどこにあるのでしょうか?夫婦別姓はその序曲です。そして人類滅亡の葬送曲になります。

経済人列伝、鳥居信治郎-やってみなはれ、サントリ-

2010-03-08 03:21:26 | Weblog
    鳥井信治郎、やってみなはれ、サントリ- 

 最近新聞をにぎわせたニュ-スにキリンビ-ルとサントリ-の合併破談があります。両社は株式保有のあり方が対照的で、この点が最大の障害になりました。サントリ-の株式の90%が創業家である鳥井家の所有とありました。今時大企業でこんな古風な話があるのかと思い、創業者鳥井信治郎の伝記を読みました。そしてなるほど、この人の性格と業績から言えば、そうなっても不思議ではないと、思い至りました。記者会見でサントリ-の佐治社長(多分信治郎のお孫さん?)が、創業家支配にはそれなりの良いところがあるのだが、と残念そうに言っていたのもうなづけました。
 信治郎は明治12年(1879年)大阪市東区釣鐘町に生まれています。家業は銭両替商(小口金融)、野村徳七と同じ環境です。父親は後に米穀商に転業しています。比較的裕福な家でしたが、当時の大阪商人の習慣に従い、高等小学校卒業後、丁稚奉公に出ます。(注1)奉公先は道修町(どしょうまち)の卸商小西儀助商店、この店は洋薬や洋酒をも商っていました。薬も酒も輸入されたままの状態では商品として出しません。国内で売れるべく数種の品を混合して調合(blend)します。信治郎はここでblendの勘を磨きます。blend如何により、商品の価値と売行が決まります。彼のこの方面での才能は極めて優れていました。後年彼が有名になった時、利き酒の大会に出ました。出された30種類の日本酒のうち、彼がはずしたのは2-3種だけだったそうです。この才能にあわせてか信治郎は極めて大きな鼻の持ち主でした。

(注1)江戸時代以来商人になる道は丁稚から手代番頭と勤め上げて、別家として暖簾分けしてもらうのが常道です。丁稚といえば極貧階層出身のように誤解されていますが、実際は農村の中農以上で、ちゃんとした保証人がいる信頼できる人物のみが、都市の商家に奉公できました。

 明治32年信治郎21歳の時、独立します。得意の鼻を生かして、甘みのあるぶどう酒を調合し向じし印のぶどう酒を売り出します。これは結構当たりました。東京の蜂印ぶどう酒がライヴァルでした。
また彼は友人の親戚になるスペイン人セレ-スのところに遊びに行き、そこでスペイン産のぶどう酒を味あう機会に出会います。本格的なこのぶどう酒を売り出したところ、さっぱり売れません。欧州の本場のぶどう酒をどのようにして日本人の味覚に会うように調合し売り出すかが、信治郎の念願になります。信治郎の野望は、いかにして西洋の酒と同じ物を日本で作るかに、あったと言えましょう。彼はハイカラ趣味の人でした。この情熱は後年国産ウィスキ-の開発に向けられます。
明治39年、屋号を寿屋と改めます。
 こうして明治44年売り出されたのが、赤玉ポ-トワインです。濃紅色でとろりとした甘みのあるワインです。(注2)信治郎はこのぶどう酒に自信を持っていました。大阪の祭原商店、東京の国分商店を中心に東西で売り込みます。赤玉ポ-トワインの宣伝に関しては逸話があります。信治郎は宣伝の一手段として赤玉楽劇団を作って全国を公演させました。そういう関係から芸能人も彼と親しくなります。ある時来阪していた松島栄美子に寿屋の宣伝部長である片岡敏郎が密かに相談を持ちかけます。料亭のある部屋で松島に上半身裸になってくれ、という頼みです。松島の半裸体をふすまの蔭から数人の男がしきりに観察し写真を撮ります。こうして赤玉ポ-トワインのポスタ-ができました。松島栄美子の上半身露な像、全体は黒味がかったセピア色、松島の白い肉体、彼女が持つグラスに注がれた真っ赤なぶどう酒、という配色です。このポスタ-は全国で有名になりぶどう酒の売り上げに大きく貢献しました。(注3)赤玉の「赤い」は太陽(sun)の意味です。日本は太陽の国だという、信治郎の信念からこのような発想が出てきました。
 この間信治郎は色々な商品を発売しています。スモカという煙草飲み用の歯磨き、五色酒、トリスソ-ス、トリスウィスタン(ウィスキ-の炭酸割り)、オラガビ-ルなどなどです。

(注2)もっとも現在ではこのような物はワインの内に入らないかも知れません。昭和30年代になっても、一部の人を除いてはぶどう酒といえば蜂印か赤玉でした。日本経済が高度成長に入った40年代、欧州各国から一斉に各種のワインが輸入され、店頭に並びました。私は赤玉ポ-トワインは甘くて美味しいので、母親の目を盗んではちょくちょく飲んでいました。どちらかというと子供向けのようなお酒でした。
(注3)この写真で松島栄美子の上半身は裸身ですが、乳首以下は隠されています。当時の法令違反すれすれの写真です。これ以上露出すれば猥褻な印象を与え、またこれ以上隠すと写真の魅力がなくなるというところです。

 鳥井信治郎の性格や行動には著明な特徴があります。彼は最初奉公した小西商店でも自分の信念を曲げず、主人に対しても決して引き下がりません。赤玉ポ-トワインの最大の卸商特約店である祭原商店で、寿屋の看板が他用に使われていると知ったとき、店の番頭と大喧嘩した話もあります。
 経営のやり方は一言で言えば、温情的家父長制、社員に対して待遇はすこぶる良いが、極めて独裁的でした。社員に自らを決して社長とは呼ばせません。大将と呼ばせました。理由は社長と言われるのは、せいぜい三井三菱住友くらい、お客の前で自分を社長と呼ばせて悦に入っているようではあきまへん、というところです。彼の口癖は「やってみなはれ」です。一応社員の自主性を認めているようであり、確かにそうですが、この言葉はもっと激烈な意味を持ちます。おやりなさい、自分の意志と信念で、やる以上とことんまでやりなさい、となります。信治郎が「東京へ手紙を出してくれ」と社員に指示します。何を書くのかと反問すれば、社員失格です。社長である信治郎の意向が解っている必要があります。万事この調子です。そういう背景において、やってみなはれ、の文句を吟味する必要があります。会議は大嫌い、役員会議など開きません。重役も自分の手足同様に使用します。織田信長を彷彿させます。事実信長のように短気で、すぐ怒鳴りつけました。戦時中社員は信治郎をB69と仇名しました。当時恐れられた米軍爆撃機B29をもじったのです。また彼は八卦占いを信じました。人事採用も八卦で決めたので大学から学生紹介を断られた事もあります。仏教といわず神道といわず八百万の神様仏様はすべて信じました。その一環が放生会です。その辺で買ってきた、魚や亀や蛇などみな放ちました。馬鹿にならない費用なので社員が忠告すると怒鳴れました。この行動の一環でしょう、彼の社会事業への貢献は大きいものがあります。終戦直後大阪駅周辺の浮浪者すべてに握り飯を振舞いました。次から次と浮浪者が現れてもひるまず、慈善を続けました。信治郎の信念は、事業家はその収益のうち、1/3を社会に、1/3を顧客に、残り1/3を資本に廻す事でした。このような信念ゆえか、彼は株式の上場を極端に嫌いました。理由は株式公開にすれば、株主の機嫌を伺い、結果として良い商品は生産できない、ということです。全面的には賛成できませんが、昨今の米国の状況を見れば、なるほどと思わされます。以上信治郎の商法の一端を紹介しました。このような頑迷なまでの信念と独裁性と楽観があればこそ国産ウィスキ-生産という難事業ができたのでしょう。
 信治郎は宣伝好きでした。赤玉ポ-トワインが発売されると、健康に良いとかで、当時希少価値のあった医学博士の推慮を総動員します。またサイドカ-に軍服に似た服装の社員を乗せて宣伝隊を町に繰り出します。毎日新聞の宣伝部長片岡敏郎を月給倍の条件で引き抜きます。松島栄美子の半裸体ポスタ-は彼の考案になります。赤玉額劇団を編成して日本中を公演させて廻ります。洋酒を世間に広めるために、トリス喫茶店を開きます。カクテル相談室も開催します。「洋酒天国」という雑誌を作り、宣伝しないような形で宣伝します。この雑誌は私も見たことがありますが、自社のことなどあまり触れていません。本当に洋酒のための雑誌という感じで、私が見た頃は発売部数も多いポピュラ-な一般雑誌でした。サントリ-の宣伝部からはかなりの人物が出ています。作家の開高健、随筆家の山口瞳、漫画家の柳原良平などです。
 大正12年関東大震災、この事件とはどう見ても関係なさそうですが、信治郎は、本場のスコッチに負けない本物の国産ウィスキ-を作ろうと、思い立ちます。と言ってしまえばそれまでですが、この企ては一大壮挙、というより暴挙、かなりの人にとっては愚挙でしょう。事実会社の内部も外部も猛反対でした。理由は簡単です、資本がかかり、しかも資本が回収できるまで、最低10年の歳月が必要になります。もちろんうまく行ったとしての話ですが。加えて、酒は文化という事情もあります。英国の文化にマッチした微妙な味わいを作り出し、それを日本の文化に適合するべく云々、というだけで難題だなと思わされます。
ここでウィスキ-の作り方に伴う難事を簡単に説明します。まず醸造所の選定に条件があります。スコットランドの高地地方ロ-ゼス峡谷のような、霧が適当にかかる湿気の多い土地でないといけません。原料の大麦も選定されます。信治郎は、ゴールデンメロンという品種の麦を使いました。麦芽も酵母も品質が限定されます。発酵してできた新酒は蒸留されます。それも何回も何回も。この蒸留には、スコットランドの湿地(沼地?)でできるヒースという草が、湿地に堆積し炭化してできた、泥炭ピ-トを使わなければいけません。ピ-トは輸入します。ピ-トを焚いて蒸留する過程で付く独特のにおいが、ウィスキ-の味を決めます。こうして原酒(モルト)が出来上がります。これを樽にいれて暗い冷たい地下室で保存します。樽は樽で特別性です。アメリカから輸入したホワイトオ-ク(白樫)で作ります。それを一度シェリ-酒を入れてあくぬきをしてから使います。新しい樽を使うのと、古い(つまり一度以上ウィスキ-を保存した)樽を使うのとでは、できる酒の味が違います。もちろん寝かせる期間によっても違ってきます。どのような樽を使い、何年寝かせたかで諸種の原酒が出来上がります。これらの原酒をblend(調合)し、さらにグレ-ンウィスキ-という比較的単純な酒を加味して、ウィスキ-が出来上がります。blendの能力は天賦とされています。また麦や麦芽にしてもできた年の気候により微妙に違います。さらに発酵・蒸留させる時の気候も作品のできばえに影響するでしょう。
大量の資本と高度な技術を長期間必要とし、しかもそれだけでは必ずしも成功は保障されない事業がウィスキ-造りです。まるでケルト・アングロサクソンの文化全体を日本に輸入するようなものです。この壮挙(愚挙?)に信治郎は敢然かつ欣然と取り組みます。これは信治郎の遊び心の表れでしょう。そういえば英国の人士がスコッチに寄せる気持ちも遊びに似ています。
幸い工場の土地としては山崎というか格好の土地が見つかりました。大阪府と京都府の境にあり木津・宇治・桂の三川が合流する山崎地峡は、結果としてウィスキ-造りには最適の土地でした。(注4)問題は技師長の人選です。信治郎は最初、イギリスの醸造学の大家ム-ア博士を日本に招聘して指導してもらおうと思っていました。博士も快諾しましたが、そのうちムーア博士は、日本人でスコッチの工場に留学し、製法を学んで帰った若者がいる事を知り、彼に技師長を委ねたらと、言います。信治郎としてはやや気がそがれた感もありましたが。この人物竹鶴政孝を採用し、(注5)ウィスキ-造りの全権を委ねます。この時信治郎はムーア博士に出すべく予定していた年俸4000円を竹鶴の年俸としました。大正12年10月山崎工場起工式。

(注4)山崎は昔羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の戦をした古戦場です。信治郎の本拠地大阪からも現在なら電車で30分かかりません。いいところに最適の地があったものです。またこの地は灘伏見の酒水に連なります。この地は竹が多く生え、その分余計な植物の繁殖が少ないので、細菌環境もウィスキ-造りに最適と後になって判明しました。加えて太閤さんびいきの信治郎には、秀吉出世の古戦場は縁起も良かったのでしょう。
(注5)大阪高等工業学校醸造科卒業。摂津酒造に入社。摂津酒造もウィスキ-造りを企て、竹鶴はグラスゴ-大学に留学。帰国後不況のために、摂津酒造は企てを放棄。浪々の身になっていた竹鶴に信治郎は白羽の矢を立てる。竹鶴は後独立し、ニッカウィスキ-を設立。大阪高等工業学校は後の大阪大学工学部です。当時醸造学は日本中ここしかありませんでした。多分灘伏見という酒どころに近かったからでしょう。なお信治郎の次男の佐治敬三もここの出身です。なお信治郎は何ゆえか、次男敬三に山陰の旧家である佐治家の姓を名乗らせています。ですからサントリ-の創業家は鳥井家ですが、佐治家も同様となります。

 ぼつぼつウィスキ-が出荷されます。予想通り始めのうちは、焦げ臭い、という悪評でした。ピ-トの焚きすぎが原因でした。酵母の選定にも問題がありました。そこは信治郎得意の粘りで切り抜けます。まあ、飲んでくだはれ、と次々にできたウィスキ-を得意先に持って行きます。課税でも苦労します。当時の酒税は仕込んだ酒の量に従って一年単位で課税されました。仮にウィスキ-を10年寝かせるとします。この間金にはなりません。だから一年単位で課税されると、ものすごい税金になります。信治郎は国税庁に掛け合いにいきます。多くの場合喧嘩になりました。こうして池田隼人(後の首相)と昵懇になります。昭和6年サントリ-特角を出します。この頃からサントリ-も商品化できるようになったのでしょう。この間当然ですが、ウィスキ-部門は大赤字の金喰虫でした。信治郎は赤玉ポ-トワイン以外の商品の生産をすべて中止し、赤玉とウィスキ-のみに専心します。赤玉ポ-トワインで稼ぎ、それをウィスキ-製造につぎ込むのです。なにやらトヨタの自動織機と自動車の関係によく似ています。ちなみに「サントリ-」という名称は「サンsun、太陽」と「トリイ、鳥井」からきています。もちろんサン(太陽)は赤い玉で象徴されます。
 事業も段々好調になって行きます。昭和8年アメリカでは禁酒法が廃止になりました。これでアメリカにウィスキ-を輸出できます。ということはアメリカでは当時たいしたウィスキ-が製造されていないことになります。スコットランドに似た土地なら広いアメリカのこと、どっかにあるとは思いますが。昭和12年サントリ-角瓶、同15年サントリ-オ-ルドを発売します。このあたりから洋酒の寿屋とサントリ-の名称はブランドになって行きます。しかし信治郎には不幸が訪れます。頼みの右腕と期待していた長男吉太郎が急死します。信治郎には男児が3人います。長男吉太郎、次男敬三、三男道夫です。次男は佐治を、他の系譜の親族は鳥井を名乗ります。
 戦火が勃発します。しかし戦争は酒造業にとって有利に働いたようです。酒の成分はアルコ-ルであり、この物質は軍需物資ですから、生産は保護奨励されます。加えて戦争に従事する軍人は明日の命も解らない状況に置かれるので、酒量は進みます。ウィスキ-は舶来品であり、英国の酒でしたから、英国仕込の海軍に重用されました。やがて陸軍も眼をつけ、陸海の争奪戦になりましたが、ことウィスキ-に関しては海軍有利に配分されました。
 戦争が終わります。しかしサントリ-の経営は、他の業種に比べれば順調だったようです。最大の生産施設である山崎工場は戦火を免れました。私はよくこの近くを電車で通りますが、どう見ても爆弾なぞ落とす気にはならない、地形に工場はあります。更に進駐してきた米軍の需要もありました。米国のウィスキ-より上質らしく、米軍将校の愛飲するところとなります。信治郎はひばりヶ丘の自宅を解放して、米軍将校の接待会合の場にしました。当時米軍(つまりGHQ)と親しいという事は、多くの便宜に繋がったはずです。将校だけ美味い酒を飲むのはけしからんと、米兵も同様の要求をします。拳銃を突きつけられて脅迫強奪される事もありました。そこで兵卒用のブル-リボンというウィスキ-を作りました。どこへ行っても階級格差はあるようです。
 当時主税局長だった池田隼人から信治郎は助言されます。サントリ-もいいが、もう少し大衆的なウィスキ-を出したらどうかと。期待に答えてトリスウィスキ-を発売します。池田自身が大酒のみであり、彼の実家は酒造業でしたから、酒飲の気持ちはよく解ったのでしょう。トリスウィスキ-を発売すると同時に、トリスバ-も全国に開きます。このバ-開設の条件は、酌婦がつかない事と値段が公正である事でした。健全な居酒屋とでも言いましょうか。私が昭和35年大学に入り、始めて友人とウィスキ-を飲んだ当時、トリス、サントリ-角瓶、オールドの順にランクが上がりました。角瓶は比較的金のある連中が飲む物、オ-ルドになると国産の一級品という格でした。この上に確かサントリ-ロイヤルというのがありましたが、それはジョニ-黒と変らないという評判でした。
 昭和30年紫綬褒章を受賞します。昭和34年現在、寿屋の資本金は1億9200万円、大阪本社以外、支社6、工場8の陣容でした。36年社長の座を降り、次男の敬三に譲ります。37年死去、83歳でした。喪主は信一郎(信治郎の孫)、友人代表は池田隼人(首相)や山本為三郎(アサヒビ-ル社長)、高崎達之助他数名でした。山本と高崎については後の列伝で取り上げる予定です。
 ここで鳥井信治郎の魅力とでも言うべき項目を列挙して見ましょう。この作業は同時になぜ彼がウィスキ-生産という難事業を成功させたか、という問題に繋がります。まず商人根性と職人気質の同居、信二郎にはこの相反する傾向が多量に同居している事が挙げられます。商売熱心でがめつく売りまくり、宣伝を大規模に行います。この辺は商人的ですが、ウィスキ-やポ-トワインの品質に関しては頑迷なほど、品位にこだわります。算盤を度外視して品位にこだわったから、英国産に劣らないウィスキ-ができました。
 生活は派手同時に地味です。社会事業に多額の寄付をして、おしゃれな反面、当時の金持ちが愛好する自動車と別荘の所有には断固反対しました。地味だが派手と言うべきでしょうか?彼の活動にはある種の快楽主義を感じさせられます。ハイカラ趣味といえば少し浅薄になるかも知れませんが、彼はそう言われていました。
 快楽主義は楽観主義に通じます。彼の口癖は、やってみなはれ、でした。とことんやってみなはれ、です。単に頑張るというだけではありません。自分の思うようになるだろう、という信念か確信のようなものがあります。この確信を彼は他人にも押し付けます。確信と楽観の基底には快楽という一種の麻薬が存在するようです。彼が大酒家だったとは聞いていません。しかし赤玉ポ-トワインが発売された当時、これを飲んだ日本人は多分、美味とある種の悦楽感に襲われたでしょう。信治郎はこのイメ-ジを真っ赤な太陽(sun)でもって表しました。松島栄美子のセミヌ-ド姿はそれを象徴しています。自分が感じた快楽を自分だけのものとはせず、みんなに解放します。本人がそうと変に自覚していない分、この印象は強烈です。
 これらの要因があわさって、信念と使命感が出現します。そういう単純に言葉で表されるだけのものではなく、図々しさ、頑迷なあつかましさ、そして自己肥大感と言った方がいいでしょう。しかしそこには否定できない信念と使命感があります。
 そこから出てくるものが、独裁と自信です。
 信治郎を語る場合、彼がいわゆる、こてこての大阪人、であったことも考慮に入れる必要があります。換言すれば土着性です。しかも都会的な土着性です。だから彼の考えは一見奇矯なようで常に大地に根をはやした感があります。だから英国の文化の、しかも土着性の強い文化であるウィスキ-を、やはり大阪という土地に土着させえました。
ウィスキ-を生産し成功させるためには、10年近く大量の資本を寝かせる必要があります。試みを敢行するには、野放図な大胆さと文化移入への使命感、そして自己への信頼が要ります。それを鳥井信治郎という男はやり遂げました。多分日本以外の国で、英国産と同格のウィスキ-を生産した国は無いでしょう。

  参考文献  美酒一代、鳥井信治郎伝、毎日新聞社

経済人列伝、伊庭貞剛、住友財閥中興の祖

2010-03-04 03:38:44 | Weblog
      伊庭貞剛

 住友系企業群を創設し、住友財閥の基礎を築いた人物として知られている、伊庭貞剛は弘化元年(1845年)近江国西宿(滋賀県近江八幡市西宿)に誕生しました。家は代々泉州信太藩に仕え、近江の飛領3000石の代官を務めると共に、佐々木神宮の神官をしていました。先祖は宇多天皇を祖とする佐々木源氏と言われています。家系についての話は信用できないのが多いのですが、伊庭家に関しては信用できます。
 剣を児島一郎に習い、免許皆伝を受けていますが、貞剛は後年剣に関して誰にも話さなかったそうです。剣道修行中に、近江八幡の干鰯問屋の西川吉輔と出会います。西川は勤皇の志士の一人でした。足利将軍木像の首を切って三条大橋に晒す、という事件の首謀者の一人でもあります。西川の影響で、貞剛は勤皇精神に感化され、国学の造詣も深くなりました。貞剛の教養はこれらに加えて、陽明学そしてそこから発展して禅宗への帰依があります。
 西川の縁で維新後、貞剛は京都の警衛隊員に推挙されます。以後10年間彼は新政府の司法畑を歩きます。京都府の刑法官を勤め、そして弾正台勤務になります。この時、時の兵部大輔大村益次郎事件に関係します。大村暗殺事件には新政権内での薩長両派の確執があります。一方的に犯人処刑を急ぐ刑部省に対し、それを監察する立場の弾正台の立場から、貞剛は処刑実行に介入します。結果は東京本部への転勤です。東京勤務時代、参議広沢兵助暗殺事件が起こります。犯人を追って九州に行き、犯人をかくまっている久留米・柳川両藩と折衝します。こういう政界の中枢に触れる大事件を担当させられているところから見ると、貞剛の能力と忠誠心は政府から信頼されていたと見ていいでしょう。東京在任中長崎出張を命じられます。長崎滞在中、貞剛は商館などに出入りし外国の事情を研究します。帰京後はフランス人ボアソナ-ド(政府お雇い法律顧問)から法学を学びます。やがて函館裁判所勤務、そして判事に任じられ、大阪上級裁判所勤務になります。現在で言えば、大阪高等裁判所判事というところです。時に明治10年、貞剛31歳です。
 明治11年32歳時、官界に嫌気がさし、裁判官を辞任します。貞剛が官界に入った頃から10年、官吏の世界も組織化され、貞剛には窮屈だったのでしょう。住友の大番頭だった叔父広瀬宰平の勧めで、住友に入ります。100円の月給が40円になります。入社後3ヶ月して貞剛は、大阪本店支配人に抜擢されます。貞剛の官歴が評価されました。
 明治13年、東京の渋沢栄一や大阪の藤田伝三郎が、イギリスで学んできた紡織技師山辺丈夫を技師長に迎えて、日本で始めての近代的大型紡織工場、大阪合同紡織を設立しようとしていました。(列伝・山辺丈夫の項を乞参照)伊庭貞剛はこの事業に賛同し、協同設立人の一人になります。工場は明治15年、大阪三軒屋に作られました。この会社は後発展し、東洋紡績になります。
 明治13年大阪商業講習所設立に参加、この学校は後発展して、現在の大阪市立大学になります。
 明治15年、当時盛んに起業され乱立気味だった海運会社を、住友の運輸部門を中心に合同再編して大きな会社にしようという話がでていました。貞剛は住友を代表して、この企画に参加します。貞剛としては、まだ早いという、判断でした。案の定新会社はうまくゆきません。明治19年に貞剛は取締役になり、会社再編の指揮をとります。10万円の新株を発行します。併行して年5万円の政府補助を獲得します。政府の援助には貞剛の官歴による政界とのコネが効いたかも知れません。それより15年と19年という時代の環境の差が重要です。15年の時は松方デフレの真最中、19年頃からデフレは収まり、産業が発達し始める頃です。こういう時代環境を読む為には、新知識を吸収し、官界の情報にも詳しい、貞剛のような人物が必要でした。合併以前の船会社の経営者は、そのほとんどが一旗組で、目前の利益しか眼中になく、契約違反などへっちゃらな手合いが多かったと言われています。貞剛が指導した合併再編はうまく行き、大阪商船になります。郵船と商船といえば日本の海運の代表であり、ブランドになりました。
 明治23年第一回帝国議会の選挙に滋賀県から立候補し当選、衆議院議員になります。同期の当選者には杉浦重剛がいます。貞剛はこの間大阪市参事会員、大阪商業会議所議員を務めています。
 明治26年創業家住友家の家系継承に危機が訪れます。先代友親が死去し、後継の友忠が夭折します。友忠の妹満寿子に養子を取らなければなりません。貞剛は当時経済界に隠然たる影響力を持っていた、井上馨の提案を婉曲に断り、華族である徳大寺実則侯爵の弟隆麿を養子に迎えます。隆麿は吉左衛門友純と改名して、住友本家に入ります。貞剛は満寿子の養子として、政界・官界・実業界を意図して排除しました。住友は極力政治不介入の立場を標榜していたから、そういう方針になったのかも知れません。貞剛は主家の危機を救います。
 明治27年住友内部で抗争が持ち上がります。20年以上に渡り、住友の経営を牛耳ってきた広瀬宰平に対し、反広瀬派が団結して、反対します。貞剛は叔父と同僚の間に挟まれて苦境に立ちます。抗争事件と併行して、住友の本山である別子銅山でも紛争が持ち上がります。銅製錬の過程で出てくる煙の害に対して周囲の住民が抗議し、それに坑夫の待遇改善要求も加わり、別子銅山は存亡の危機に置かれます。銅山の危機は住友の危機です。住友内部の抗争は銅山の問題を解決すれば収まると踏んだ貞剛は単身銅山に赴任します。
 まず銅山の技術的問題に取り組みます。三角坑道の排水がうまく行きません。鉱山の経営の最大の問題はいつも排水にありました。坑夫の不満の原因もそこにあります。貞剛は一度住友を辞めて古河鉱業に入った技師、塩野門之助を技師長として引き抜きます。この塩野が排水の問題を解決しました。次に銅製錬所を瀬戸内海の四阪島に移転させます。島は住友が買い取りました。旧式の製錬法を中止し、硫酸製造や製鉄など余計な事業は廃止します。同時に別子銅山経営で禿山になった銅山周辺一帯に大規模な植林を行います。この植林は成功し現在では肥沃な森林となり、吉野川の水源になっています。
 貞剛はただ銅山の経営を改善しただけではありません。住友の人事を変革します。明治28年、農商務省書記官であった鈴木馬左也を住友に迎えます。すぐ大阪副支配人・理事に任命し、暫くして欧米留学を命じています。鈴木は貞剛の後継者になりますが、この時点ですでに指導者養成を始めています。明治32年日銀内部で抗争が起こりました。山本達夫総裁の独裁に抗議して10人近い幹部が辞任しました。貞剛は河上謹一以下数名の辞任派を住友に迎え入れます。河上は理事になりますが、貞剛は自ら平理事に降りて、河上に敬意を表しました。鈴木や河上に代表される人事は単に官界のエリ-トを引き抜くと言う意味だけではありません。明治30年前後といえば、日本が第一次産業革命を達成し、さらなる発展を期しつつある時代です。経済界自身の大変革期です。この時期官界のエリ-トを迎え入れ、それまで住友内部で停滞し拘泥していた経営や人事そのものを貞剛は変えようとしました。
 併行して住友という業種集合体の経営が大きく変ります。まず金融部門を独立させて、住友銀行を設立します。それまでの並合業を排して、各部門を会社として独立させます。倉庫部門を切り離し住友倉庫設を、日本製鋼株式会社安治川工場を買収して、住友伸銅所を設立します。後大阪製鋼株式会社の工場を譲り受けて、伸銅所の分工場にしました。伸銅所は別子銅山経営の延長上にあります。こうして各部門を独立させて、全体として住友傘下という形を作りました。それまで多業種がごちゃごちゃと同じ屋根の下に並んで混み合っていたのを、すっきりとその専門性に従って経営を分離させたわけです。産業革命期という時代にあった経営方式です。こうして住友財閥が誕生します。ちなみに同じ作業は三菱では20年台前半に完了しています。
 肝心の人事抗争はどうなったでしょうか?広瀬宰平は辞任、反対派の主導者一名が住友分家資格を剥奪され、理事二名に譴責処分、ただそれだけでした。無血革命です。
 貞剛は単身別子銅山に乗り込み、多くを言わず語らず、謡曲を口ずさみ、飄々として事態に対処しているように見せましたが、鉱山技術、経営方式、人事改革、そして社会奉仕のあらゆる面に渡って押さえるところは押さえ、改めるべきところは改め、27年から32年に渡る銅山滞在中、住友という経営体の構造を根本的に変革しました。彼の外面はある種の韜晦でもあります。結構たぬきかも知れません。しかしその手腕は抜群です。なお貞剛により銅山改革は、古河鉱業の鉱毒事件を糾弾した田中正三から絶賛せれています。
 明治33年54歳時、住友の総理事に就任。明治37年58歳、予定通り後継を鈴木馬左也に譲り辞任します。滋賀県石山に別荘を作り、そこに引退し、自然を愛して参禅し、悠々自適の生活を送ります。以後特に表だった活動はありません。大正15年(1925年)80歳で死去します。その半年前に、貞剛が縁組を取り持った住友友純が63歳で死去しています。何かの縁でしょうか?貞剛が現役時によく口にしたのは、めくら判を押せないような部下は持つな、という言葉でした。この言葉は現在私が聴いても、なるほどと心根に染み通ります。参禅からくる逆説調もいい響きです。

 参考文献  伊庭貞剛 日月社版(大阪市立図書館所蔵)