経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、石橋正二郎

2010-12-31 03:24:29 | Weblog
     石橋正二郎
 ブリジストンタイヤの創業者です。正二郎は1889年(明治22年)久留米に生まれています。家系はやや複雑です。久留米藩士龍頭民治の子徳次郎は母方の伯父である緒形安平の経営する仕立物屋「しまや」に奉公にでます。徳次郎(初代)は安平の妻リウの実家、久留米藩石橋家を継ぎます。初代徳次郎に二人の男児があり、兄が重太郎(後徳次郎を襲名)、弟が正二郎です。二人はしまやの経営を任されます。正二郎は生来病弱で内気な子供でした。利発で成績はトップ。兄徳次郎は対照的に、腕白のスポ-ツマンタイプ、勉強は嫌いな方でした。兄弟仲は良く、それぞれ分担してしまやの経営にあたります。
 正二郎は高等小学校卒後、久留米商業学校に入ります。この間、一部生徒により企てられたストライキに、少数グル-プとして参加を断固拒否した逸話があります。自分の意志に忠実で言い出したらきかない性格が現れています。久留米商業時代の同窓に、政治家石井光次郎がいます。正二郎は神戸高商をめざしましたが、父親の反対で断念します。正二郎としては、たかだか田舎の仕立物屋経営に男子二人は要らない、という所存でした。
 こうして正二郎は兄徳次郎とともに、しまやの経営に従事することになります。積極的に経営を引っ張っていったのは正二郎の方です。始めから、一介の仕立物商で留まるつもりはありません。どんどん新企画を実施します。まず製造品を足袋に特化します。店名も「しまや足袋」になります。それまで借金経営を一切拒んできた父親の方針を改め、銀行からの融資を受けることにします。この件では父親と対立しますが、押し切ります。徒弟に給料を払います。当時徒弟は商売を教えてもらう立場ですので、正式の給料支払いは破天荒な企てです。正二郎には、この破天荒な企てが実に多いのです。彼の事業家としての特徴は要所要所で思い切った決断をして躍進することです。その最も端的で代表的な例が、タイヤ製造です。
しまや足袋では行商もしました。足袋製造業者で行商をするのは珍しい試みでした。行商の主な狙いは宣伝です。自動車を購入し、九州中を宣伝して行商します。まだ全国で車が1000台あるかいないかの時代のことです。もちろん久留米では最初の自動車所有者でした。社名も「アサヒ足袋」に変更します。より印象の深い社名にしてブランド化を狙います。足袋のサイズに応じた価格を廃止し、均一価格にします。こうして無駄な作業を省きます。均一価格は当然です。足袋に必要な布地の量は知れています。製作に必要な労働と技術がコストの大半です。大人の足袋も子供の足袋も制作費は変わりません。均一販売は当然の合理的措置ですが、当時の足袋商は旧来の慣習を墨守していました。父親の堅実(従って保守的)経営にくらべて、恐ろしく斬新で積極的経営です。
 1919年(大正7年)久留米に洗町工場を作り、社名を「日本足袋」に変更します。この間東京と大阪に進出します。事業規模は拡大し足袋業界では四天王の一角にランクされるほどになりました。第一次大戦では恒例にもれず大儲けします。仕舞い時を忘れず手堅く対応しますが、戦後の反動不況で四苦八苦します。1000名の従業員を雇用し、100万足の足袋の在庫を抱え込みます。ここで正二郎の一大決心が行われ、苦境からの前進突破が試みられます。地下足袋の製造です。正二郎の経営者人生において一番光るのは、この地下足袋製造への飛躍です。地下足袋はゴム製品です。こうして後年のタイヤ製造、高度な製造業への基礎が築かれます。
 1921年(大正10年)縫いつけ式地下足袋を発売します。足袋にゴムの底を縫いつけたものです。激しい労働に縫いつけが耐えず不人気でした。2年後はりつけ式地下足袋を発売、足袋に粘着財でゴム底をはりつけたものです。これは非常に人気が高く大いに売れます。ここで地下足袋なるものの紹介をしておきましょう。現在ではあまり用いられませんが、昭和30年ごろまでは、農作業や工事現場、炭鉱など激しい肉体労働をする人は地下足袋を着用していました。地下足袋が出現するまではわらじをはいていました。わらじはわら(稲の茎)で編みます。丈夫なものではありませんし、防水もできません。正二郎が地下足袋を発売するまで、似たような物がありましたが、実用的ではありませんでした。正二郎は改良に改良を重ねて、はりつけ式地下足袋を作りました。当時は第二次産業革命の進行中です。あちこちで工場やビルが建ちます。更に軍隊という大口需要があります。鉱山と電気工事に従事する者は地下足袋着用が義務化されました。前者ではワイル氏病の予防のため、後者では感電を防ぐためです。加えて関東大震災です。東京中が工事現場になったようなものですから、地下足袋は加速度的速さで売れました。大正3年工場が火事で焼けます。すぐに鉄筋コンクリ-トの新工場を建てます。ヘンリ-フォ-ドに習って流れ式作業を取り入れます。1932年(昭和7年)には地下足袋の年間生産は1000万足を超えました。この間第一次大戦で捕虜となったドイツ人技師を雇って技術改善に努めます。当時(現在でもそうですが)ドイツは技術先進国でした。地下足袋生産への飛躍は正二郎の時代を見る目の確かさを示しています。社名は「日本ゴム」になります。
 1928年(昭和3年)ゴム靴製造を開始し、福岡に新工場を作ります。1931年にはゴム靴の輸出数量は3400万足を超えます。ゴム靴製造では日本がアメリカやドイツを抜いてトップに立ちます。昭和5年兄徳次郎が相談役に退いて、正二郎が日本ゴムの社長になります。徳次郎は経営を弟に任せ、自身は市会議員、商工会議所会頭、名誉市長を歴任し、久留米という地域の発展に尽力しています。この間代理店網を整備し、専売店を作り、価格統制と区域統制を行っています。販売店が勝手に価格を変更し、よその店の縄張りを荒らしてはいけないということです。この点は松下幸之助のやり方と同じです。石橋正二郎という人には、技術屋としてのセンスと力量があります。地下足袋、タイヤ製造への執着は明らかに理系あるいは技術者の感覚です。しかし同時に製造だけでは会社が成り立たないこと、販売網の整備が企業の死活を分けることを知りぬいていました。
 昭和3-5年にかけて、正二郎はタイヤ生産を考え始めます。タイヤは自動車の地下足袋のようなものですが、かかる圧力が格段に違います。周囲はみな反対します。特にそれまで正二郎を信頼しきっていた兄の徳次郎が猛反対でした。当時日本のタイヤはグッドリッチとダンロップが販売額も品質もだんとつで、日本産製品は足元にも及びませんでした。地下足袋とゴム靴で儲けているのだから、海のものとも山のものともわからない、新規業種に飛躍することはなかろう、というのが周囲の大勢でした。正二郎はタイヤ製造に踏み切ります。アメリカのモ-タリゼ-ションを観察していると、タイヤの将来性は大きいものです。こういう商売人の目も彼にはありますが、同時に新しいメカニズムに挑戦してみたいという、技術屋的根性も無視できません。この点ではトヨタ自動車を創設した豊田喜一郎とそっくりです。正二郎はタイヤ生産にこだわり続けます。
 1933年(昭和6年)社名を「ブリジストン」とする、日本ゴムとは別の会社として、タイヤ生産は発足します。外資系二会社の製品との差は歴然たるものでした。ブリジストンが殴りこみをかけたので、タイヤ業界は乱売そして価格引下げ競争になります。トヨタと同じく、品質の差はサ-ヴィスで補います。責任保証制を取り入れます。故障したタイヤはブリジストンが引き取ります。足元を見られていんちきされることも多かったようです。支払いの時期は貴店のご随意に、という企業としては屈辱的条件も提案します。昭和8年は10万本のタイヤを生産します。が、10年までは収益ゼロでした。地下足袋やゴム靴でえた利潤を吐き出しているようなものです。兄の徳次郎は心配して側近に「うちのタイヤは売れているのかね 正二郎が困ったことに手を出したばかりに---」と例にないぐちをこぼします。昭和11年クロロプレン系合成ゴムを開発します。12年には統制経済の風潮にあわせて本社を東京に移します。1941年(昭和16年)の時点でそれでも、国内のタイヤ生産は、ダンロップが42%、ヨコハマゴムが32%、ブリジストンは28%でした。ヨコハマゴムは古河財閥がグッドリッチと組んで作った外資系の会社です。
 正直この段階国内シェア-が3割近くもよくあったものだと思います。統制経済で民需は抑えられ原料の供給は制限されますが、日本陸軍は装備の機械化をめざし、特に軍用車両の製造には熱心でした。トヨタと同じくブルジストンも民族資本として陸軍から保護され優先されました。ブリジストンが生き残れた原因の一つはこの点にもあります。ブリジストンもトヨタと同じく、戦後の技術革新で世界企業に成長しますが、戦時体制により強力な競争相手から保護されたことは事実です。社名が英語という敵性言語であるのはよくないとして、日本タイヤに改めさせられます。(昭和26年ブリジストンに復旧)ジャワ島占領と同時に、当地にあったグッドイヤ-社の工場管理に駆り出されます。この時正二郎は、戦況が不利になり撤退することになっても、生産設備は温存しておけ、と派遣される部下に言います。戦局の推移を冷徹に見通す眼の確かさに驚かされます。部下はいいつけを守ります。この事は戦後のグッドイヤ-社との技術提携に際して大いに有利に作用しました。終戦の間際に、軍から工場の本州への移転を命令され、時期遅しと抗弁し、遠ざけられます。軽井沢の別荘で不遇をしのいでいるとき、鳩山一郎と知り合います。鳩山の長男威一郎と正二郎の次女安子は後に結婚します。二人の間にできた長男が前首相の鳩山由紀夫です。
 1945年終戦、正二郎56歳の時のことです。正二郎はすぐ会社再建に乗り出します。海外の工場はすべて失いましたが、幸い横浜と久留米の工場は焼かれていませんでした。また軍の命令でスクラップにすべき3000トンの工場設備は担当者の気転で温存され隠されていました。ばれたら厳罰は必至です。勇将の下に弱卒なし、です。天然ゴムからガソリンを作るつもりで、軍命令で東亜燃料KKにあったこの原料ゴムを買い取ります。財閥指定を避けるために、日本ゴムと日本タイヤを分けます。前者は兄徳次郎の系統の者が経営します。打つ手が素早い。昭和21年には他社の例にもれず、労働争議が勃発します。ブリジストンの組合は企業内組合でしたが、共産党の細胞が入り、一部が過激化します。組合は、給与他の労働条件改善と同時に、会社の人事権の掌握を図ります。クロ-ズドショップ制(closed shop)と、役員会議への役員数と同数の労働者代表参加を要求します。前者になると、労働組合員以外の者は採用できないことになります。正二郎は待遇改善には極力努力するが、人事権の委譲は一切だめで押し通します。この件で一部妥協しかけた長男の幹一郎に、今後この件では一切口を出すなと、命令します。幹一郎も人事権を渡そうとしたのではありません。一部の組合幹部と接触しようとしたのです。正二郎は人事権云々という限り、組合との交渉は無用という態度を取り続けました。経営者としては当然の態度です。
 昭和25年渡米します。しばらく前から、正二郎は日本のタイヤ生産技術の遅れを痛感し、グッドイヤ-社との技術提携を模索していました。渡米して作業能率、規模、そして技術のどれをとっても段違いであることを更に知ります。特に日本ではタイヤの中に入れて、タイヤの強度を補強する繊維が木綿であったのに、アメリカではすでに合成繊維レ-ヨンでした。正二郎はこの技術を熱望します。グッドイヤ-社との交渉の要点は次の通りです。グッドイヤ-が受け取る技術料と、同社がブリジストンに支払う委託生産費の額の問題がまずあります。更にグッドイヤ-の製品をどちらの会社が販売するかの問題があります。ブリジストンとしては、当然自社で販売したいし、グッドイヤ-反対のことを考えます。適当な線で交渉はまとまりました。なおこの時グッドイヤ-はブリジストンに25%の出資を提案していますが、正二郎は峻拒しています。
 昭和25年朝鮮戦争が勃発します。戦時景気で儲かりますが、先物買いした原料ゴムの価格暴落で30億円の損金をだします。ゴム関係の企業も右へならえで、この危機は日銀特融で切り抜けます。昭和28年ナイロンコ-ドのタイヤを生産します。ナイロンが入ったタイヤです。昭和32年株式を公開します。38年社長から会長へ、同時に担当常務制を施行して、新社長幹一郎以下の合議制を計ります。48年相談役になります。1976年(昭和51年)肝硬変のため死去、享年87歳でした。正二郎の社会的貢献はいくつかありますが、代表的なものは、石橋コレクション(美術品)と久留米医大設立への膨大な寄付があります。
 現在ブリジストンタイヤの資本金は1263億円、売上額は2兆5970億円、純資産は1兆1207億円、総資産は2兆8084億円、従業員数は13万6684人です。(すべて連結)また世界市場ではブリシズトンとミシュランとグッドイヤ-三社がシェア-の半分を占めています。三社のジェア-はほぼ均衡しています。

 参考文献 創業者・石橋正二郎  新潮社

経済人列伝、立石一真

2010-12-28 03:03:55 | Weblog
       立石一真

 立石一真は1900年(明治33年)熊本市に生れています。祖父は伊万里焼の職人で絵付けが上手く、熊本に移住して、絵つきの盃製造でかなりの産をなしました。一真の幼少期は乳母日傘の毎日であったといわれます。父親は祖父の家業を継ぎますが、毎日絵ばかり描いていて、商才に欠けるところがあり、家運は傾きます。加えて一真7歳の時死去し、家の経済は極貧といってもいいくらいの水準に落ちます。一真は新聞配達などをして母親の家計を助けます。この間弟が死去します。一真の人生の、特に50歳までの人生では、特徴の一つは身内の者の死去が多いことです。一真の鋭い直感性と共に、この悲劇性にも気付かされます。熊本中学進学、熊本高等工業学校(現熊本大学工学部)に新設された電気科に進学します。正直一真がなぜここまで進学できたのかは、疑問です。当時の高等(商業・工業)学校には少数の人間だけが進学できました。
 1921年(大正10年)卒業、兵庫県庁に入ります。1年有余で退職し、京都の井上電気に就職します。この会社で継電器という装置を開発します。この装置は、電流や電圧が一定の量に達すると、自動的に電流の通過を止める装置です。似たものは他にあったと思いますが。一真が開発した装置は極めて優れたものであったようです。上司の手柄横取りとも思える対応に嫌気がさし、仕事には身が入りません。大不況で希望退職を募られた時、極めてあっさり辞職しています。そして1930年採光社という個人企業を立ち上げます。一真という人は独立心の極めて強い人物で、後年製造品が当たり、世間から評価され、大企業が合同を申し込んだ時にも、提案を拒否した人ですが、栴檀は双葉より芳しで、嫌ならさっさと辞めるようです。その分奥さんの苦労は相当なものですが。1928年最初の妻元子と結婚します。
 彩雲社では始め苦労しました。訪問販売を試みても相手にされず、やむなく京都の東寺の市でテキヤまがいのこともしました。しかしこの間の苦労は一真に、研究開発のみならず、営業の重要さ、社会的ニ-ズあるいは需要の重要さを思い知らせます。ある人に大阪の日生病院を紹介されます。当時レントゲン撮影をする時、タイマ-の精度が悪く、肺の写真に心臓の鼓動が重なり、像が不鮮明になりがちでした。1/20秒で撮影できるタイマ-が要求されます。島津製作所を始め、どこの企業もできなかった、このタイマ-の製作に成功し、日生病院のOEM(相手先ブランド)として定期的にタイマ-を納めることになります。
 1933年大阪市都島区東野里に立石電機製作所を立ち上げます。継電器を配電用に用いて販路を広げます。1943年マイクロスウィチを製作します。これは軍需にも転用できるはずでしたが、戦争の進展はこのスウィッチの使用を阻みます。それどころではないという状況でした。1945年敗戦、終戦の詔勅の下った、8月15日に、一真は京都の嵯峨野近くに工場を建設しています。大阪の工場は爆撃で焼けたので、勢い立石電機は京都を本拠地にする事になりました。会社はできましたが、戦後の苦労はどこも同じです。立石電機は電熱や電気マッチなどで食いつなぎます。給料遅配や現物支給はしょっちゅうでした。そういう中1948年に電流制電器六社の一つに指名されます。当時の電力費は定額制、つまり一定の使用量を払えば無限に電気を使えるシステムが支配的でした。こうなると不正使用、盗電が横行します。それを防ぐために制電器という装置が必要になります。電力使用が一定の段階に達したら、電流が切れるか、他の価格帯に移行するかの装置が要ります。立石電機は未だ中小企業でしたが、他の大手五社と肩を並べて、指名されます。マイクロスウィッチや継電器の実績があったからです。ここで一息と思っていると翌年ドッジラインによる超緊縮経済で、制電器への補助事業もカットされます。加えてドッジデフレで大不況、経営は悪化し、自転車操業の毎日になります。会社の成績が下降し、景気が悪くなるとストがおきます。一真はこういう事態になれていません。上部団体に指導された組合員と問答しているうちに、とうとう京都工場は解散になります。そして妻元子が死去します。会社は破産同然、最愛の妻の死去、一真の人生で最悪の年でした。時に1950年、一真は50歳です。普通の人ならここで人生を諦めかねませんが、一真の技術屋魂は健在でした。
 神風が吹きます。朝鮮動乱です。輸出ドライヴがかかり景気は俄然良くなります。立石電機も同様です。この頃から一真の関心は自動制御(オ-トメ-ション)に向かいます。1953年(昭和28年)アメリカの電機業界視察に訪米します。ここでトランジスタ-の魅力を発見します。また三洋電機のホームポンプの製作に際して立石のスウィッチが使用され、以後家電業界に進出します。防衛庁の次期戦闘機国産に際しても立石電機のスウィチは採用されます。1959年(昭和34年)資本金の6倍、2億8000万円を投じて京都府長岡町(現長岡京市)に中央研究所を造ります。研究所の室長(課長クラス)一人一人に秘書がつきました。通常取締役でも秘書がつかないこともあるくらいです。一真は、研究開発の前線指揮官の研究実労働時間が減少する事を極力避けました。
 この間会社の運営法を改めます。立石電機は中小企業の段階から、大企業の傘下に入る事を拒否し、徹底した独立精神でやってきました。中小企業の利点である即決即戦を生かした経営でやってきました。お客の注文や要求は絶対です。納期にどんな無理を言われてもそれをやりぬく、のが一真の方針です。会社が大きくなると、この利点が失われます。そこで一真はプロデュ-サ-工場システムなるものを案出します。この種の工場は最大限50名を超えない規模に設定されています。そして各工場ごとに専門の製作品を持ちます。研究開発と販売は独立した会社にします。各工場は生産に特化させ、少数多量生産制を計ります。言ってみれば大きくなった企業を、複数の中小企業に分割したようなものです。経営の危機ごとに、この分権制は強化されてゆきます。一真の偉いところは、単なる技術屋ではなく、会社システムそのものの運営方法まで独創的であったことです。彼にかかっては、会社経営も技術の対象でしかありません。この態度が後年の会社危機を救います。一真は、情報が社長である自分に上がってこない事を恐れました。すべての情報を社長にというのですから、逆に言えば一真専制でもあります。独創的で一匹狼そして成功者となれば、たいてい独裁者です。社員はしょっちゅう説教され訓育されました。以上の対応の一環として、一真は営業部門の強化を図ります。理系大卒社員をどんどん営業に送り込みます。需要というより、より大きく社会のニ-ズを速くキャッチするためです。この点でも一真は一介の技術屋を超えています。1959年、会社創立26周年を記念して、社憲が作られます。この憲法の要旨は、会社は社会のためにある、です。後にこの方針を一真は実行してゆきます。労使協調を唱え、労使夫婦論を展開します。むつみ会なる社員親睦団体を作り、社員の持家制度を実施します。給料は同業他社より10%多くが、方針でした。10前の争議でよほど懲りたのでしょう。
 1960年(昭和35年)立石電機の将来を左右する発明が生れます。無接点スウィッチの製作です。自動装置が発達してくると、スウィッチの寿命の飛躍的増大が求められます。それまでのスウィッチの寿命は10万回が限度でした。従来のスウィッチでは、金属が接触した時に、強い光と熱が生じ、そのために金属が焼かれます。オートメ化の時代は千倍つまり10億回の寿命を持つスウィッチを求ました。一真は接触があるからいけない、無接点なら金属の摩滅はない、と判断し、この方向で研究を推し進めるべく、7人からなる特命研究班を作りました。3年で成果が出ます。それがこの無接点スウィッチです。原理は簡単といえば簡単です。二つの金属を離して位置させます。一方の金属に電流が通じ、そこから波動が出ます。その波動は向かいの金属に波動を起こさせ、その金属は波動を電流に変えます。Maxwellの電磁方程式を理解していれば原理はつかめます。問題は実践です。あらゆる金属や物質を集めて実験し、あらゆるパタ-ンの機制を考え、それらを一つ一つづつこなし行かなければなりません。同様の試みは世界の他のところでも行われていました。米国の有名なウェスティングハウス社は2年後に開発しています。
 ちなみに一真あるいは立石電機は数多くの装置を開発していますが、簡潔な言い方をすれば、鍵となる作品は継電器と無接点スウィッチです。両者ともに、電流の点滅装置です。この点滅装置を電気機械の要所要所にはめ込んで、機械の自動化を計ります。一真は早くから自動制御に関心を持ちましたが、それは当然の事で、自動化などと言う以前に彼はその種の作品を作り続けてきたわけです。更にオ-トメ化が進めば、自社製品が飛躍的に売れるだろう事は理の当然として解っていたはずです。そして電流変換装置の質が変るごとにそれを応用すれば、新しい自動制御装置が生れます。トランジスタ-からIT、更にLTIと、変換装置の原理が変るたびに一真は貪欲にそれを追い続けます。
 こうして多くの自動制御装置が開発されました。自販機、食券自販機、クレジッドカードシステムなどなどです。交通標識が車の通過数に応じて点滅時間を変える、交通システムも立石電機の創作です。CD(現金自動支払機)、ATM、自動両替機もあります。これらの装置のお蔭で銀行は週休2日制を取れました。1967年(昭和42年)阪急北千里に無人駅が出現します。サリドマイド児の義手、手の動きを代用する自動装置である義手の製作は世間の話題を呼びます。評論家秋山ちえ子と整形外科医中村裕の懇請によりできた、身障者福祉工場(オムロン太陽)で働いた身障者の人達は、源泉徴収書を見て感激し泣き出しました。それまで税金のお世話にのみなり、役立たずの後ろ指を恐れていた彼らが、立派に役に立ったという証が、源泉徴収書です。話を聞いて、税務署がびっくりしたといわれます。みな立石電機の自動装置のお蔭です。
 この間一真は、経営方式を変えてゆきます。プロデュ-サ-工場へ権限を委譲します。生産のみならず、研究開発、経理、財務、資材と部品の購入、人事も工場へ委譲し分権化を計ります。
 1971年5万円以下の価格の電卓を発売します。しかし電卓では失敗しています。20数社に及ぶ過当競争と石油ショックが背後にありますが、立石電機の持つ企業としての特製も敗退の原因の一つでした。立石電機はそれまでは最終消費者と接触した経験はありません。得意先は原則としてメ-カ-かそれに準じる企業です。商売の相手は機械のプロでした。だから最終消費者の心情がわからなかったとも言えます。さらにソニ-やシャ-プやパナソニックのように販売組織がしっかりしているはずがありません。経常収益は赤字になり、株価は4000円台から1000円台に急落します。1977年一真は電卓からの撤退を決意し、同時に多角化経営を改めます。撤退後の1979年成績はV字型回復し、売上高は1000億円を超えます。これを機に一真は社長の座を長男の信雄に譲り、自分は会長に収まります。ただし代表権は保持します。この時期電卓失敗のこともあり、老齢もからんで、引退を求める声がありました。会長と社長の下に、8人からなる常務会が作られ、ここでの合議が最高決定機関となります。どうやら一真専制への批判は強かったようです。
 しかし信雄社長体制はうまく機能しません。合議制による意思決定は遅延し、在庫は増え、リ-ドタイム(問題提起から対策決定までの時間)は伸び、同業他社に得意先をどんどん獲られてゆきます。かって立石電機がそうしたように、中小企業の利点を生かし、即決即戦で他の業者が食い込んできます。1983年一真は最高指揮官として復帰します。これはク-デタと言っても構わない事態です。常務会は廃止され、会長社長副社長三者(すべて立石一族)からなる代表会が意志を決定することになります。分権化は更に徹底されます。小事業部制をとります。事業部の規模は、ライヴァル企業と同じ規模に設定されます。海外販売部員を直接この事業部に置き、生産と販売の前線を直結させます。介在する販売会社の存在意義は小さくなります。さらに各事業部の在庫は本社からの貸付とみなし、利息が徴収されます。要するに、各事業部は中小企業としての生き方を強要されるわけです。1986年、新しい経営方針であるaction 61を宣言し、新社長に三男の義雄をすえ、自身は相談役に退きます。1988年妻信子死去、90年社名を「オムロン」に変更します。ちなみに「オムロン」の名は一真の家と本社のある京都北郊の名刹「仁和寺」の別名「御室」であることから来ています。1991年死去、享年90歳でした。
 一真は多趣味の人でした。絵画を描くのは祖父父親の遺伝でしょう。小唄と謡曲も趣味でした。宴会好きです。28歳で元子と結婚し、61歳で信子と結ばれます。二度の結婚ともどこかに恋愛の香りをほのかにうかがわせます。
 一真の功績は甚大ですが、発想は一貫しています。彼の発想の原点は継電器です。これは電気というエネルギ-の点滅装置です。この装置をいろいろ改良し、それらで機械の諸部分を結んで、自動制御装置を作ります。この発想は会社運営にも生かされます。プロデュ-サ-工場制度です。生産単位としての工場の連結で会社ができます。立石電機あるいはオムロンは機械のプロを商売相手とする企業です。最終消費者とは直接の接点はありません。私は自動改札のお世話にはなっていますが、この装置の発案者が誰だかしりませんでした。この分、優れた発想と社会への甚大な功績にもかかわらず、一真の知名度は小さいといえます。立石電機もオムロンも名前はしていましたが、私の中でこの二つの名は別々のものでした。オムロンなんか、女性の生理用品の類くらいに誤解していました。無知とは滑稽で恐ろしいものです。

 参考文献 立石一真「できません」と言うな  ダイヤモンド社

経済人列伝、御手洗毅

2010-12-24 03:20:54 | Weblog
       御手洗毅

 御手洗毅はキャノンの創設者です。40歳半ばまでは、まじめな臨床医でした。ひょんなことからキャノンという会社の創設に加わり、周囲の事情でやむなく医業をなげうち、経営に専念するはめなりました。医師である経営者は他に二人います。(この列伝内で) 浅野総一郎と矢野恒太です。もっとも浅野の医師活動は維新以前で、正式な医師免許を彼が持っていたわけではありません。矢野の医師としての活動は数年、それも保険会社の医師です。対して毅は、人の人生がほぼ決まる40歳代の半ばまで、熱心に臨床に従事しています。医師から光学器械製作の会社経営へ、180度の転進です。繰り返しますがそれも不惑を超えてです。転進は大胆にそして極めて軽やかに行われました。この事が毅をして、世界のキャノンを起業させしめた理由があるようです。なお「御手洗」は「みたらい」と読みます。
 毅は1901年(明治34年)大分県蒲江で生れました。非常な田舎です。日豊線佐伯駅で降り、そこからバスかなにかで行かねばなりません。毅が生れた頃は、蒲江から佐伯まで徒歩で7里とかいいました。ざっと36kmです。蒲江は、地図を見ると典型的なリアス式海岸をなしており、そこで獲れる魚はさぞ美味かったでしょう。家は代々の豪農でしたが、祖父の代に家運が傾きます。毅の父退蔵は親戚からの養子です。家を建て直すために、父親は節倹と勤労を重視します。厳しいが優しい父親でした。退蔵は明治40年、蒲江町長になります、同年死去。毅は父方の実家に預けられて、そこから佐伯中学に通います。肺結核に羅患し休学します。数年遅れて1926年(大正15年)26歳時、北大予科に合格します。理乙、つまり第一外国語としてドイツ語を専攻する理科系のコ-ス、具体的には医学部コ-スを進みます。予科とは北大独得の名称で旧制高校に相当します。予科時代の毅は寮委員長をしています。予科から本科へ、卒業し予定通り医師になり産婦人科を専攻し、大学の無給副手になります。大学で研究を続けようかと思いましたが、教授の昼食を見て、考えを変え、上京したといわれています。昭和4年から10年まで東京赤十字病院に勤務、国際聖母病院産婦人科部長に転じ、医学博士号取得、そして東京で開業します。毅は戦後キャノンの経営を引き受けるまで医師活動を続けています。
 昭和9年、毅の患者さんの夫(山一證券勤務)内田三郎と相談して、カメラを作ろうという話になります。こうして昭和9年に精機光学研究所ができました。内田も毅も機械工学には全くの素人です。ただ二人ともカメラが好きだっただけです。いわば趣味から会社ができました。思い立ったら即戦即決、いかなる反対も押しきり決断、が毅の特徴です。この時代は手製でカメラを製作していたようです。既成のカメラを分解して構造を検討し、集めた部分品を適当に加工しながら、カメラを組み立てます。昭和9年Kwannon(観音)カメラ、11年ハンザキャノンが売り出されます。後者は275円の価格でしたが、比較的好評でした。しかし当時の275円は高価です。カメラの王であったドイツのライカなどは1000円、家が一軒建ちました。ハンザはドイツ商業の古典的名称です。ドイツさらにライカを意識していたのかもしれません。昭和17年、内田が去り、毅が請われて監査役から社長になります。医師と経営者の二足のわらじの時代が数年続きます。月給制にします。また工員という呼称をやめて、職員に統一し、ブル-カラ-とホワイトカラ-の垣根を取り払おうとします。この試みはキャノンの経営の特徴である新家族主義の方向を示唆しています。昭和19年、空襲で山梨県谷村(やむら)に疎開します。山芋とのびるを探す毎日でした。
 昭和20年終戦。10月毅は目黒工場に従業員156名を集めて、精機光学の再建を告げます。進駐してきた米軍将校にはこの会社のカメラの人気は上々でした。戦後の風潮で組合はできますが、上部団体に属さない従業員組合で、毅が提唱する新家族主義の浸透もあって、労使協調路線で進みます。昭和22年会議で、毅は「打倒ライカ」を宣言します。精密機械工業のメッカと言ってもいいドイツが誇るライカより優秀なカメラを作ると宣言しました。周囲の人達は、何を馬鹿な、と一笑に付します。毅は打倒ライカの布石を着々打ってゆきます。まず社名を「精械光学」から「キャノン」に変えます。カタカナの企業名としては嚆矢です。当時カタカナで社名登録することには、抵抗がありました。上場するときにも、証券取引所から文句めいたことを言われます。しかし「精械光学」では覚えられなくても、「キャノン」なら覚えやすい事は事実です。覚えやすくして企業イメ-ジを鮮明にし、ブランド化します。多分「キャノン」は会社製作品第一号の「Kwannonカメラ」から来たのでしょう。以後カタカナ社名は続きます。シャ-プ、ソニ-、ミノルタ、オリンパスなどなどです。
 人材の確保に全力を挙げます。敗戦は毅にとって絶好のチャンスでした。戦争終了で大量の技術者が巷に溢れます。彼らをできる限り大量に採用します。特に海軍の技術将校を採ります。彼らの指導者格である鈴川ヒロシは、工作工程の標準化に取り掛かります。標準化というこの作業は、キャノンが大きくなった、そしてライカを追い越した、最大の理由でしょう。学歴に捉われず、実力主義で技術者を集め、自治の精神を強調します。中小企業と言ってもいい当時のキャノンでよく賃金が払えたと思いますが(事実当初は予期するほどの給料を払えませんでした)、カメラはほどほどに売れており、利潤の主要部分を人件費に回します。既に労組との交渉で奨励加給制度を打ち出しています。能率給のことですが、昭和20年代初期としては珍しいものでした。更に25年には三分説制度なるものを提唱します。利潤は資本(株式配当)と経営(内部留保)と労働(賃金給料)にそれぞれ1/3づつ配分するというシステムです。見込み利潤額(賃金まで含めた経費を差し引いた額)の1/3はボ-ナスとして従業員に還元されます。と言うことです。
 こうして人材を確保し、それを高給でもって優遇して人材の迫力を増加させます。この上に新家族主義という毅の方針がかぶさります。なぜ「新」をつけたかと言いますと、終戦直後は「家族」は「家父長制」を想起せしめ、人気が悪かったからです。会社は家族だ、社長は父親だ、ということです。言葉のみを躍らせているのではありません。社員が各自家を持つべく援助します。昭和40年代に盛んになったマイホ-ムの先駆です。10年以上先を行っていました。家持ち運動は社員にそれなりの資本を持たせることを含意します。家族慰安会、社員の誕生日会を組織的に実施します。定年退社後のOB会も先駆けます。盆踊りを奨励し、キャノン音頭を作り半強制的に踊りを覚えさせます。踊りを覚えない奴は課長にしないと、宣言します。親睦のためでもありますが、なにやら洗脳の臭いも感じさせられます。昭和41年の段階で週五日制を実施しています。これも10年先を行っています。GHQ運動も始めます。Go home quicklyの略称で、仕事は5時で切り上げ早く家庭に帰って、家庭を大事にしよう、という運動です。社員持株制を始め、財形貯蓄も奨励します。
 極め付きが新工場の建設です。昭和25年、大田区下丸子の富士航空計器を買収し、そこに目黒と板橋の両工場と本社部門を移します。人材の集中を図ります。人材確保、能率主義、高給化、人材と資本の集中そして新家族主義でもって、人間集団を技術開発に結集させ噴出させます。キャノンでは試行錯誤が奨励されました。失敗してもそう叱られませんが、何もしないと怒鳴られました。新工場建設費はイギリスの老舗商会であるジェ-ムス・マセソン社からの融資50万ドル(1億8000万円)で賄われました。見返りがキャノンの主力製品の70%販売依託です。この融資と下丸子工場の建設が公になった時、世論は、これでキャノンもおしまいだな、と言っていました。付記します。昭和24年サンフランシスコ全米カメラ展示場でキャノンのカメラが1位を占めています。
 昭和29年キャノン(のみならず日本のカメラ製造業全体)にショックが走ります。ドイツのライカ社が作った、ライカM3の登場です。関係者はそれを見てみな、ウ-ンとうなります。とてもライカには勝てないという嘆きと感嘆のうなり声です。キャノンの逆襲が始まります。S-31V型カメラでもって会社独自の技術開発を計ります。特に金属切削用具を徹底的に標準化します。金属を切ったり削ったりする工具を標準化つまり均質化する事により、できる部品を均質化します。こうして現場の作業員の勘と経験によりできばえの違う製品ではなく、どれ一個を採っても全く同じ製品が出来上がることを目指します。ここがキャノンとライカの違いです。後者は伝統芸に依拠しすぎました。開発立ち上げティ-ムを作り、設計と組立てを徹底的にすり合わせます。
昭和36年にキャノネットという新製品が出現します。従来の価格帯である7-8万円を大幅に下回り、2万円台の価格でした。他の業者は、うちを潰す気か、と憤慨し驚嘆しますが、彼らもキャノンの方向に習います。キャノネットという製品を考察すれば、キャノンの方針、ライカに対抗する方針が見えてきます。安価でだれでも手軽に操作でき、楽しめるカメラの作成です。安価で操作が簡単であるためには、部品と製造工程の標準化は必至です。職人芸での作品は当然高価でまた製品にくせがつき、その分操作は難しくなりますから。キャノンは一気に性能でライカを凌駕するよりは、一般用のカメラ作成を目指し、それの機能がライカに劣らないことを眼目としました。この方針の延長上にライカを超えるカメラの出現があります。1963年(昭和38年)に発表された、キャノンAFカメラです。AFはaotofocus、つまり焦点が自動的に設定されるということです。このカメラは同年の第八回フォトキ-ナでトップの地位を得ました。打倒ライカは実現されました。この間のドイツ側の日本カメラへの嫉妬と憎悪はものすごいものでした。気持ちは充分解ります。
 昭和37年には、カメラ以外の物の製造に踏み出します。経営の多角化です。卓上計算機、複写機などが代表的です。電卓の製造に踏み切るか否かでは、経営陣も賛否両論に分かれました。光学専門の会社が電気産業に踏み出すのは危険だという意見です。毅は積極的に推進させます。複写機製造では従来の熱乾式から液乾式に転じて、独創性を見せます。
 1974年(昭和49年)石油ショックが全世界を襲います。日本の企業の経営も危機に瀕します。キャノンも例外ではなく無配になります。この年73歳、毅は社長を辞めて、会長になります。実権は手放しません。3年後新社長に賀来龍三郎が就任します。賀来はコストダウンと品質向上という二律背反に取り組みます。鍵は従来から施行してきた標準化の徹底です。それを機能の電子化と製品の自動化で実現します。カメラのすべてを電子化できないので、シャッタ-スピ-ドを優先し、小型軽量化を目指し、ストロボ使用にシャッタ-スピ-ドと絞り値が自動的にセットされること、ワインダ-を装着するとフィルム巻上げが自動化できるように、そして価格は8万円以内、と目標を重点5大ユニット絞り、作業します。これで部品を1000から650に減らしました。部品の一部にはプラスティックを使用します。以上の作業を貫徹するためには、開発技術と生産技術が緊密に共同しなければなりません。言葉を変えれば、設計と現場の協力です。設計図を描いて、それをぽんと生産工程に投げ出すのではなく、設計部門が生産工程の現場に出向いて、工程を観察し、時には製品や半製品を分解して部品の精度を吟味し、あるいは部品を再設計する、などの営為が必要です。こうすれば組織間の横の繋がりも深くなります。昭和51年、無配に転落した翌年、AE-1が売り出されます。AEとはall electronicを表しています。要所要所で電子装置が作動し、自動化は大幅に促進されています。
 毅の性格は、怒りっぽく、しかしあっさりしていて、判断は速く、過ちを恐れない点にあります。陽気で人間関係を尊重します。どこでもこと社員に対しては、元気かね、と声をかけます。一度決断したら、反対を押し切っても遂行する強引さを持ち、同時にさっと引く変り身も持ち合わせています。毅は現場を大事にしました。現場の職人層を大事にし、技術の変わり目で彼らが仕事を失わないように配慮しました。失敗してもそう非難されませんが、無為はこっぴどく叱られます。キャノンでは失敗の方が成功よりも多い、と言われました。ともかく一路前進です。会社にタイムカ-ドはありません。相互信頼をモット-とします。愚痴は二度言わない事が会社における暗黙の規律でした。簡潔に言えば,毅はカリスマでした。だいたい終戦直後の段階で安定した医師の仕事をなげうち、海のものとも山のものともわからない、中小企業の経営を引き受けること自体が、常識を超えています。常識を超えた事を敢然と行い、成功すればその人はカリスマと言われます。彼が外科系の医師出身である事は、彼の経営に影響を与えているでしょう。医師は一人で決断します。他に決断を仰ぐ瞬間から、医師でなくなります。この職業風潮は、毅の年来の性格に加えて彼のカリスマ性を促進します。また医師は職人です。職人気質はよく理解でき、好感をもてたと思います。工学といっても、所詮は分解と組立てです。産婦人科医にとって、対象こそ違え、作業は同じです。中元等の贈答儀礼も宴会も大嫌い。だらだらした会議には雷を落とし、残業は極力させない方針でした。残業するよりGHQです。御手洗毅、1984年(昭和59年)死去、享年83歳でした。
 会社には栄枯盛衰があります。昭和25年時、東大の卒業生が一番希望した就職先は、国鉄と炭鉱でした。昭和20年代に一世を風靡した映画会社大映はすでに存在しません。40年代から50年代にかけて台頭し、小売業界の覇者となった、スーパダイエイは平成に入り衰微しました。こういう競争社会でキャノンは今日でも世界のキャノンの地位を維持しています。以下に2009年度現在における数値を挙げておきます。資本金1747億円、売上高3兆2092億円、営業利益2170億円、純利益1316億円、純資産3兆8475億円、従業員数168579人、すべて連結の数値です。

 参考文献 夢が駆け抜ける、御手洗毅とキャノン

経済人列伝、本田宗一郎

2010-12-20 03:14:28 | Weblog
    本田宗一郎

 本田宗一郎は、1906年(明治39年)静岡県磐田郡光明村(現天竜市)生れます。宗一郎の生誕にはちょっとした伝説があります。彼が生まれたのは雷の凄まじい日でした。生れた宗一郎が開いた手には針が一本握られていたと言われています。彼はこうして雷様の申し子だと、少なくとも家内では言われていました。父親は儀平、腕のいい鍛冶屋であり、厳父でもあります。儀平は長男である宗一郎に、時間を守れ、約束を守れ、嘘をつくな、の三つの道徳のみを教え込みました。もっともこれ以上教えるべき倫理も道徳も他にありません。儀平という人は、単に腕のいい職人というに留まらず、彼が鍛える包丁や鋏には、必ず改良が加えられていました。当時としては珍しかった自転車を、上京して何十台も買い求め、分解修理して新品とし、郷里で売ります。のみならず自転車の車体を改良して、見栄えをよくし、女性でも乗れるように改良します。儀平はこのように積極的経営をしたので、家計は比較的裕福であったようです。儀平の自転車改良の話を聴くと、後年の宗一郎が想起され、蛙の子は蛙、この親にしてこの子あり、と思わされます。
大変な腕白坊主でした。金魚の色が単調で退屈だと言っては、金魚にペンキを塗ったり、よその畑のスイカを食って、わからないように裏返しにしておいたり、地蔵の顔が気にいらないと言って、地蔵の鼻をけずったり、しています。ある日、村に電燈がつけられました。電気会社の職員が電柱に昇り、スイッチをひねると村中の電燈が点灯します。スイッチを切ると電燈は一斉に消えます。偶然この職員の頭は禿げていました。禿の人が電柱に登れば電燈が点くのか、などと周囲に質問します。結局宗一郎自身が電柱に登り、スイッチをひねって、村中の電燈をつけ、納得します。これが宗一郎の電気初体験です。同時に後年の、何事も経験、という彼の技術者としての格律の一端でもあります。栴檀は双葉より芳し、です。
小学校時代特に勉強家ではありませんが、理科と図工の成績は優秀でした。ある日、浜松の近くで外国人の航空実演がありました。宗一郎は無断で遠出し、見物して帰ります。父親が烈火のごとく怒るかと、覚悟して帰宅しましたが、案に相違して儀平は、事実を聴いただけでした。大正11年15歳時、高等小学校を卒業、上京してア-ト商会に丁稚として就職します。月給は5円、当時の盛そばが10銭、現在なら600円、ここから換算すると現在の貨幣価値で、月給3万円というところでしょうか。そのころ商人でも職人でも職業を覚えようと思えば、丁稚小僧としてしかるべき店に奉公するのが常でした。なお儀平は宗一郎の希望次第では中学校に進学させてやろうと考えていました。しかし宗一郎は自動車が好きで好きでたまりません。宗一郎の希望を容れて、儀平は自動車修理店勤務の方を選ばせました。
宗一郎の修理の腕はめきめき上昇します。2年足らずで店の親方榊原ユウ三から習うものは習いました。ある時盛岡の消防車の修理を依頼されます。宗一郎が派遣されます。消防署員はまだ童顔の残る宗一郎を見て、彼を軽視し、粗末な宿に通します。宗一郎は消防車をとことん分解し、見ている者をひやひやさせます。故障箇所を修理した後、宗一郎は車を完全に組み立てます。周囲の評価は一変し、先生と呼ばれます。親方榊原はレ-スが好きで、レ-スに出場するための、オートバイの作成を始めます。アメリカの中古飛行機エンジンを、やはりアメリカの中古車の車体に取り付けます。この作業に一番熱心に取り組んだ宗一郎は自らオ-トバイに乗り、第五回日本自動車競技大会に出場し優勝します。17歳の時のことです。以後レ-スは彼の生甲斐の一つになります。この時点で宗一郎は榊原から、自動車修理工としての腕を完全に信頼されていました。1928年(昭和3年)21歳時、榊原の勧めで独立します。浜松にア-ト商会浜松支店を開きます。自動車修理店です。時代は日本の自動車産業の勃興期、フォ-ドやGMが日本に上陸する一方、日産やトヨタが始動します。こういう時代であり、また宗一郎の腕が極めて良かったので店は繁盛します。宗一郎は芸者遊びを覚えます。こちらの方でも相当に没頭したようです。この間幸子夫人と結婚しています。
店は繁盛しましたが、宗一郎には修理だけの毎日は物足りません。自動車のピストンリングの製造に取り掛かります。従業員は猛反対します。修理で儲かっているのに、リスクのあるピストンリング製造なんかとんでもないと。悩んだ宗一郎は、従来の修理工場とピストンリング研究製造を分離する形で、妥協します。ピストンリングとは自動車エンジンの燃焼と車軸への圧力伝導の間にあって、燃焼ガスと油が混在しないように、両者を遮断するためのリングです。色々研究しましたが、失敗します。浜松高等工業専門学校の先生に相談したら、シリコンが足りないとの事でした。材質への知識不足を知った宗一郎は高等工業の聴講生として二年通学します。学ぶものは学びますが、試験は受けず、興味のない科目には出席せずで、退学になります。この頃から学問の大切さを体験し、書物に興味を示し始めます。
苦労に苦労を重ねて、なんとかピストンリングの製造販売に成功します。そして1939年(昭和14年)、東海精機重工業株式会社を設立し、ピストンリング製造に専念するようになります。修理工場は他の人に経営を委譲します。戦時中は軍の命令で、トヨタの傘下に入ります。終戦時約2000名の従業員を擁していました。命令による軍需生産をしていたのでしょう。
1945年(昭和20年)敗戦。宗一郎は1年間尺八を抱えて、ぼんやり過ごします。時代の急変で、何から手を付けるべきか解らなかったのだと想像されます。翌21年に本田技術研究所を設立します。ある日電気店で無線用のエンジンを見つけ、それを自転車に装着する事を思いつきます。ガソリンを入れた湯たんぽと無線用エンジンを載せた、自転車を妻に試運転させます。このアイデアは成功し、無線機用エンジン搭載の自転車は完売されます。
宗一郎は自社製のエンジンを自ら作ろうと思います。ここで彼らしい奮闘が始まります。一般に使われていた砂の金型ではなく、金属製の金型を採用します。もっとも最初はなかなか思うようなものが作れません。エンジン用の金属には細かい穴が空いており、油漏れを防ぐために、漆を塗ってごまかしたりしました。こうしてA型エンジンがなんとか完成し、このエンジンを載せた自転車もよく売れました。
この間藤沢武夫が入社します。藤沢は宗一郎より4歳年少で、かなり苦労した後鉄鋼材販売会社のトップセ-ルスになり、後独立しています。中島飛行機の竹島弘に仲介されて藤沢は本田に入社します。入社と言うより、企業の合同という感じです。藤沢が営業と内勤、宗一郎が技術開発担当と役割分担が決まります。この分業は二人が同時に辞職する日まで、きちっと守られました。両者の関係は、森永太一朗と松崎半三のそれに似ています。
A型成功後開発されたB型は失敗、C型は日米対抗オ-トレ-スで優勝するほどの成績を挙げます。画期的なのはD型です。昭和24年、宗一郎はエンジンと車体をすべて自社で作ろうと決心します。特に車体の設計には凝ります。従来の鋼管を組み合わせた車体から、鋼板で作る車体に切り替えます。こうして重量感のあるオ-トバイができます。車体の造形には神経を凝らします。京都や奈良の寺院を訪れては、そこからヒントを得ます。仏像の鼻の稜線から大きな示唆を得たと言われます。
昭和27年東京に本社を移します。この時宗一郎は経営上の大改革を断行しています。同族の役員の一斉辞職です。別に彼ら同族が何か失敗したのではありません。ただ、将来会社が大きく発展するためには、同族経営は障害になると判断されたのですが、何よりも藤沢を専務に昇格させ、彼に営業の実権を集中させたかったからです。これも森永の場合と似ています。藤沢はまず販売網の確立に努めます。5万軒の自転車店に手紙を送り、前払制に応じるか否かの返答を求めます。藤沢は宗一郎の技術者としての天才性を見抜き、それに将来をかけ、商品優位の販売をしようと思います。賭けは成功し、即5000軒の応募がありました。次に宗一郎の希望をいれて、総額4億5千万円の工作機械を、アメリカ、ドイツ、スイスから購入します。優秀な部品を作るためには、やはり優秀な工作機械が必要です。藤沢はここでも宗一郎の天才にかけました。資本金はたったの600万円でした。一種の技術導入ですが、この時期ソニ-も松下電器も東洋レ-ヨンも同じように外国技術の導入をしています。彼らだけではなく、日本の企業全体がそうしました。この時期を経て日本の製造業のbreak throughが行われ、高度成長が始まります。なおソニ-も松下も東レも資本金の数倍の技術導入を行っています。工作機械に関していえば、現在日独がほぼ併走しつつ、トップを争っています。
この直後に本田は大きな危機を迎えます。朝鮮半島の動乱が止み、反動不況が訪れます。(昭和29年)製品は同じような物が他社でも生産されるために、落ち込みます。新たに開発された220ccD型エンジンは不調でクレ-ムが多く、また新製品であるスク-タ-「ジュノオ」は人気が悪く、販売成績がおちます。工作機械購入に使った4・5億円の手形返済の時期が迫ります。藤沢はこの危機を乗り切るために、イギリスのマン島TTレ-ス出場を宣言します。このレ-スはバイクのレ-スとしては世界的に有名でした。世界の知能を集めた輪の中に入ってゆかないと日本の工業には明日が無いと、ホンダは未だ大企業ではないにも関わらず、日本の製造業を啓蒙します。同時に部品取引メーカ-に対して、必ず手形は落とし、新たな手形は発行しないから、手形を所持しておいてくれ、と請願します。宗一郎の嫌いな生産調整も敢行します。宗一郎は220ccD型のエンジンの不良をなくします。こうして売上を促進する一方、現金回収に務めます。危機を乗り切ります。以上の過程でやはり目立つのはTTレースへの出場宣言です。ホンダは健在なり、というアドバル-ンを上げておいたからこそ、他の処置も生きてきます。逆境には強気で対した次第です。藤沢のモット-は、人生そのものが賭け、サイコロや花札なんか小さい小さい、でした。
危機を乗り越えた後、藤沢は超小型50ccのバイク製造を発案します。スカ-トを着た女性でも乗れ、そば屋の兄ちゃんが片手で運転できるようなバイクの開発を、宗一郎に要請します。バイクの需要層を増やす為です。自動遠心クラッチ、4ストロ-ク、大径タイヤを採用し、フロントカヴァ-は樹脂製にし、燃料タンクを前方において、女性がゆっくり座れる余地を確保します。ス-パ-カブS33の誕生です。画期的なバイクです。販売方法も変えます。自転車店のみならず、材木商や乾物店にも販売を依頼します。
1960年(昭和35年)本田技術研究所が本社から分離されて設置されます。昭和34年アメリカ、36年西ドイツ、37年ベルギ-、39年タイ、と海外の販売網を広げてゆきます。2007年現在で海外の販売店は、34カ国、100店以上になります。宗一郎の戦略は、その国での販売実績が上がれば、生産設備もその国に移す、にあります。需要のあるべき所に生産を、利益を需要者に還元、が彼の方針です。TTレ-スの方では昭和34年初出場し、35年には初優勝します。前後して通産省は自動車産業保護の観点から、実績のある数社のみに国内での生産を許可する方針を打ち出します。ホンダは、実績がないので、自動車生産から締め出されかねません。佐橋次官との激論のすえ、宗一郎は急遽、四輪車の緊急開発を指示し、ホンダスポ-ツS360、同じくS500、更に軽トラックT260などの製造に取り組みます。また鈴鹿サ-キットを作りました。自動車の性能を試すには、試走する場所が必要です。鈴鹿サ-キットやレースは、彼にとって実験場であり宣伝媒体であり、そして彼の趣味・生甲斐でした。昭和39年F1出場宣言をします。昭和42年、イタリアのグランプリでジョン・サ-ティスの運転する、ホンダRA300が優勝します。しかし翌43年フランスで行われたF1では車が壁に激突して、ドライヴァ-が死亡する事故があらい、この年をもってホンダはF1から撤退します。
宗一郎が作ったレ-スカ-はすべて空冷式でした。しかし技術陣は将来を見据えれば水冷式だと、主張し、対立します。副社長であった藤沢が仲に立ち、若いエンジニ-アの意見が通り、将来の自動車生産は水冷式を主軸とする事に決まります。そろそろ宗一郎の引退が近づいてきました。
昭和44年アメリカで欠陥車が云々され、ホンダも27万台をリコ-ルします。1970年(昭和45年)、自動車による公害防止のため、アメリカでマスキ-法が施行されます。二酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を従来の1/10に下げるという、当時としては非常に厳しい内容でした。宗一郎はこの試練に積極的に取り組みます。むしろこの試練を喜び、飛躍の機会にしました。と言いますのは、後発メ-カ-としてのホンダは、この試練で先発他社と横一線に並び、条件は平等になった、と宗一郎は理解します。宗一郎は副燃焼室という構想でもってこの問題に取り組みます。つまり一度燃焼して、その後に余る炭化水素などを、もう一度燃焼させる試みです。この方針の下に、CVCC(複合過流調速燃焼装置)を完成し、マスキ-法合格の第一号になります。車はシヴィックと名づけられて販売されました。またこのCVCCの技術はホンダが独占すべきものではないとして、すべてのメ-カ-に公開され、技術供与がなされています。
1973年(昭和48年)宗一郎は社長を引退し顧問になります。66歳でした。同時に副社長である藤沢武夫も辞職します。
1983年(昭和58年)、ホンダはF1に再登場します。昭和62年、アイルトン・セナをドライヴァ-とするホンダの車は、ワ-ルドチャンピオンとコントラクタ-ズチャンピオンの両方で優勝します。
1991年(平成3年)宗一郎死去、享年84歳、死因は糖尿病悪化による肝不全でした。藤沢はそれ以前に死去しています。
宗一郎の逸話には事欠きません。社長を退いて後、宗一郎は全国の販売店を一見づつ訪問し、それまでの尽力に感謝の意を述べて回ります。九州鹿児島からこの行脚を始めます。若干演技、そして茶目も混じる行為ですが、彼がそれをすると様になります。
彼は油の臭いが大好き、というほどの仕事人間でした。昭和7年、まだ彼の工場が修理専門だった頃、浜松の海軍飛行場で遠洋飛行の訓練が行われました。爆撃機5機が編隊を組んで、台湾を目指します。1機だけエンジン不調で飛べません。整備課将校の顔は真っ青になります。宗一郎が呼ばれます。短時間で故障箇所を発見し、飛べるようにしました。
仕事大好き人間ですが、遊ぶ方も盛んでした。浜松に工場を持ち、繁盛すると、芸者遊びを覚えます。どんちゃん騒ぎが大好きです。こうして、小唄、長唄、都都逸、俗曲、舞踊りなどをたちまち覚えます。大変な芸達者です。女遊びも盛んでした。ある師匠に踊りを習います。師匠から、踊りに色気が無い、と批判されます。宗一郎は師匠に、恋愛の経験はあるか、と尋ねます。師匠の答えはNoです。恋愛の経験もなくて、どうして人に色気を教えるのか、と腹を立て、宗一郎は師匠に手切れ金を渡して、師弟の契約を解除します。綺麗に儲けて綺麗に使うが、宗一郎の方針でした。人の間に溶け込むのが上手く、人生を楽しむ事を大切にしました。
仕事は厳しく、皆に自分で考える事を要求します。彼の思うように部下が動かないと、怒鳴り、時としては殴る事もありました。この行為は彼の性格、彼が若い頃鍛えられた町工場での体験、そして彼と部下との間の能力の差によります。怒鳴り、殴ったあとは、反省をするのですが。
最後に宗一郎は時間の使い方に関しては厳格だったことを申しておきましょう。ある日40度近い高熱に襲われます。しかし約束のゴルフに出かけます。約束違反は他人の時間を奪う事だという、彼の信念に基づく行動です。これは父儀平の厳しい薫陶によるものです。
  参考文献
   評伝、本田宗一郎 (青月社)
   人間・本田宗一郎の素顔 (ごま書房)

孔子平和賞なるもの

2010-12-17 03:06:52 | Weblog
    孔子平和賞なるもの

 中国政府は2010年度ノ-ベル平和賞受賞者である劉暁波氏の授与式出席を許さず、各国政府に式典不参加を強要しております。この厚顔で恥知らずな態度の最たるものが、中国政府が、急遽ノ-ベル賞に対抗して設けた、孔子平和賞なるものです。いい機会ですので、孔子と孔子を開祖とする儒教について考察してみましょう。一言で言えば、儒教とは極めて中国的あるいは漢民族的なものです。なお本論に入る前に、40年前中国政府は批林批孔(林彪と孔子をともに批判する)という一大キャンペ-ンを催して、孔子の教えを排除しています。孔子平和賞を設けるのなら、かっての態度の自己批判が先なのですが、中国政府はこの点には口をつむいでいます。この自己中心的ご都合主義が中国政府(一般に共産主義政権)の特徴です。
 儒教は、紀元前6世紀(春秋時代末)、孔子(孔丘)により作られた倫理道徳の体系(というより集合)です。孔子が特に参照した経典は、書経、詩経、礼記です。それに彼自身の著作である春秋を加えた、四つの本が孔子の教えの背景をなします。書経は政権が発する命令宣言訓告の類を集めたもの、詩経は官民で作られ伝承された詩集、礼記は官庁及び民間の慣習と儀礼の集大成、春秋は孔子の母国魯からみた、中原(黄河中流域)の(都市)国家の興亡と政情の編年体での記述、つまり歴史です。なお論語は孔子の死後、弟子達が師匠の言動を想起して書き残した、いわば孔子言行録です。
 この中で一番意味があり重要なのは礼記です。繰り返しますが、礼記は民族の儀礼と慣習の集成です。儀礼の中では葬送儀礼とテ-ブルマナ-が特別に重視されています。礼記に従えば、日常の行動の基本はがっちり、儀礼によって拘束されます。朝起きて夫婦が夫の両親の部屋に挨拶に行く時、如何なる服を着て行くかとか、入室して何歩前進し、頭をどこまで垂れるべきかなどなどの事柄がびっしり書き連ねられています。孔子は人間間の潤滑剤であるこの儀礼、礼を非常に重んじました。孔子の教えは仁と礼と言われますが、仁は礼を基礎として成り立つ心情であり、その意義は礼に遅れます。論語は、孔子が実践する儀礼について孔子が述べた解釈注釈であり、実践者としての心情のあり方を記述したものです。儒教における儀礼重視は非常に強く、ために前漢の時代まで、儒者といえば、葬式屋と思われていました。
 儒教は礼に始まり礼に終わり、儀礼の実践を第一とします。後世、朱子や王陽明によりそれなりの改変が加えられましたが、儒教が儀礼の集成である事には変りありません。儒教の儀礼主義には限界があります。儀礼、民族儀礼は簡単には変りません。それを積極的に変えてゆくためには、人間存在を一度根底から問い直す必要があります。そのためにはこの人間存在、素朴な生活次元での人間存在を一度否定する必要があります。(方法論的自己否定)仏教では、この人間存在の問い直しと否定を「縁起無我」という思考で行います。キリスト教ではそれを「原罪」という問題提起で成し遂げます。反して儒教では、この人間の自己否定というプロセスが全くありません。儀礼は生活の表面にべったり張り付いており、儀礼と人間存在はあたかも団子のごとくくっついた形になっています。儀礼は生活を覆い、人間は儀礼の網の中に捉えられます。本来儀礼や慣習は保守的なものです。自然に変化する事はあっても、自らが変革に動き出すことは稀です。変革を拒む儀礼中心主義は当然、物質(物欲)主義になります。中国人の人生の理想は、福(子孫が多いこと)、録(金持ちになること)、そして寿(長生きすること)です。
 中国では長く、儒教は国教でした。前漢の董仲舒から始まり、20世紀初頭に科挙が廃止されるまで、中国では儒教が指導層の倫理の根幹でした。そして儒教の儀礼主義はあらゆる変化に抵抗を行います。従って儀礼主義は制度の硬化を伴います。日本や西欧が時代と共に、制度を変化させてゆくのに対して、中国では常に皇帝独裁であり官僚支配です。科挙制度はそのシンボルです。
 儀礼主義は制度の硬化を伴います。同時に人間の思考の独創性を奪います。中国が産んだといわれる技術には、現象をパタ-ンで認識して、そのパタ-ンに一定の経験的解決を当てはめるという態度が強く、因果律はありません。漢方医療がその最たるものです。漢方には臨床はあっても、基礎医学はありません。併行して社会医学(公衆衛生思想)もありません。ただ現象の集積とパタ-ン化そして現象そのものへの対処がすべてです。中国人には体系的思考は難しいと、言う人もいます。
 そして以上に述べた儒教は共産主義思想とよく似ているのです。共産主義にも自己否定はありません。マルクスの宣言や資本論に見られるように、人間の物質的幸福の追求がすべてです。人間中心主義といえば聞こえは宜しいが、人間を超えた存在を否定するのですから、所詮は人間が人間を支配する独裁政治になります。独裁へのブレ-キはありません。レ-ニンやスタ-リン、毛沢東のような怪物を、カリスマとしなければならなくなります。儒教における皇帝独裁と同じです。官僚支配については言うだけ無駄でしょう。制度は硬化し絶対化され、変更ができません。西欧列強の進出後170年経っても議会がない。議会が成立するためには、変革を目指し、変革への意欲が肯定される、個人の自主性が必要です。議会がない事は、個人の尊厳も自主性も無視され、不変の制度の下で、ただ物欲の肯定のみが許容されるという、事態を意味します。人間存在の方法論的自己否定がない分逆説的に、人間の尊厳は無視されます。個人の自主性は後退し、個々人は乾いた砂の如くばらばらになります。他者への思いやりはありません。中国(の歴史)における刑罰の過酷さと騒乱の多さ、そして桁外れに大きい人間殺傷の数がその証左です。
 儒教と共産主義、この二つは外見こそ違え、根底では酷似しています。故意か偶然か、孔子平和賞なるものは、この間の事情を雄弁に語ってくれます。

幼弱な中国経済

2010-12-12 03:31:59 | Weblog
   幼弱な中国経済

 中国が世界の市場と言われている。世界中の製品が中国市場で売られているとか。元来巨大な人口を背景とする、派手なパ-フォ-マンスの好きな国だから、白髪三千丈の類の表現には気をつけなくてはならない。情報統制でよくわからないことも多い。が、あえて憶測してみよう。正直、中国経済は現在世界中の商品を買って消費できるほどの状態なのか、それで本当に大丈夫なのかと、問いたい。1960年代の日本の高度成長期、日本人は主要製造業製品を外国から買わなかった。もっぱら国内の製造業の製品を買っていた。トヨタ、ソニ-、キャノン、マツシタ、三菱、東芝など言えばきりがない。内需を満たすほどの、外国製品に負けないだけの製造技術があった。中国の消費は違うようだ。外国製品を買っている。
 世界の市場といえばかっての(現在でも)アメリカがそうだった。しかし世界の市場となったアメリカには当時、世界的なブランドがひしめき、工業生産は世界の半分を大幅に上回り、国内には金(きん)がありあまっていた。第二次大戦で世界中の富をかき集めすぎたので、代わりに市場となって、世界にドルをばらまいたのだ。1949年(昭和24年)の時点で1ドルが360円(1970年代初頭まで)、現在から見れば4・5倍に近いドル高だった。
 翻って中国を見てみよう。製造業におけるブランドは皆無だ。無価格競争を遂行しうるほどの強靭な生産能力は無い。ただ安物を生産して輸出しているだけなのだ。こういう時期に世界の市場になるなど、時期尚早なのではないのか?むしろ内部の生産構造を整え、技術革新と内需増大(自国産業で賄える内需の増大)に励むべきではないのか。にもかかわらず外国商品の市場であろうとする。極めて危険だ。中国が誇る外貨準備など、輸出入が逆転すればすぐ枯渇する。他人事ながら心配だ。中国市場はむしろ世界の資本の鴨になっていはしまいか?
 真に内需を増大させるためには、国内の市場構造が整わなければならない。内需は福祉部門の充実により安定する。福祉の充実とは全体が幸福になることだ。そのためには自由、不満を不満として訴えうる自由が必要だ。行政サ-ヴィスの充実、信頼できる商業慣行、契約の遵守尊重も、安定した市場にはぜひ必要なものだ。中国にこのような市場構造や福祉があるのか?なければ内需は極めて貧弱ということになる。1年で6万件の暴力的騒乱があり、20万人近い政治犯が収容されているといわれ、貧富の格差が著しく大きく、都市と農村の二種類の戸籍(国籍と言ってもいい)が存在する中国に安定した市場が、従って福祉に伴う豊富な内需があるのか?私にはあるとは思えない。一部の富裕者が、札びらをひけらかす風潮は、日本の戦後成金に近い。終戦直後の日本では企業は鍋釜などの低廉な物を作って食いつなぐ一方、一部の闇商人は巨大な富を集めていた。
 ブランドなく充実した福祉もない状態で世界の市場たらんとする中国の経済は、生物学でいう、幼生成熟だ。サイズが小さいまま器官が成熟してしまう生物現象だ。無脊椎動物の中に腔腸動物というのがある。脊椎と中枢神経を持たないから、同じ環状構造が次から次へとでき、図体だけは大きくなる生物だ。中国経済は幼生成熟、腔腸動物を連想させる。
 中国政府もその事には気がついている。通常、輸入が増えれば元高になる。あるいは元高を前提とする。これでは中国は輸出で不利になる。そこで無理にでも元安を維持し、その上関税をかける。そして外国企業に中国投資を勧め、さらに中国企業との合弁を強要する。中国に直接投資し、そこで外国企業が生産すれば、本来その企業が自国に落とすべき賃金は中国に落ちる。元安と関税障壁は所得あるいは利益を自国に囲い込もうとする強引な他国窮乏化政策だ。更に合弁企業は、技術の譲渡を意味する。中国では知的財産権は保証されない。知財は盗奪の対象でしかない。外国資本と技術を取り込み、そこから得られる利益をすべて自国のものとする政策だ。中国はあくまで自国のみの繁栄を図り、そのためにはなりふり構わず、外国との障壁を高くして一国資本主義に走ろうとしている。この図々しい企てが成功する条件は三つある。まず膨大な人口とそれが幻想させる未来図、次が諸外国の協力、つまり中国の一国資本主義を諸外国が甘んじて、受け入れること、最後が暴力と脅しだ。
 結論にもどろう。中国経済の底は浅い。それを知悉している共産党政権は世界の潮流に逆行して、貿易の壁を高くし、一国資本主義に走ろうとしている。

安売り、賃金、内需

2010-12-09 03:15:21 | Weblog
       安売り、賃金、内需

 価格が下がっている。ユニクロなどは低価格商品の開発に精を出し、価格破壊を狙っている。ユニクロの頑張りを否定しはしない。しかし低価格一辺倒でいいのだろうか?低価格販売製造には一定の傾向がある。製造品は勢いモジュ-ル製品になりやすい。大量販売可能な、一般向けの、型が決まっていて、互換性に富む商品が溢れ、完成品は外注されたこれら中間製品の組立てで行われる。販売はマニュアル化される。パートかせいぜい派遣社員クラスの従業員が、規格化された商品を、マニュアル化された方法で販売している。ハンバ-ガ-ショップがいい例だ。
 産業のみながみなこうなると困ったことが興る。少なくとも日本では非常に困った事態になる。低価格、モジュ-ル化、マニュアル化とくれば、できる製品は簡素簡便そして安物になる。極めてそうなりやすい。安物とは価格が低いだけでなく、粗悪なものなのだ。この傾向が普遍化して皆が、価格破壊に挑み、安物を競って市場に出せば、製造業における創造性は奪われてしまう。安価な安物を作っていて、どこに製造者としての誇りが持てようか?販売製造ともに規格化されてしまえば、人材は要らない。人数も要らない。少数の単純労働者と後は経営者一人で企業は成り立つ。当然なことだが雇用は減少する。もちろん私は極端な事態を想定して言っている。価格破壊を徹底すれば、製造業の技術も低下する。むしろ崩壊するというべきだろう。こんな状態で原子力発電所やリニア-モ-タ-カ-を建設できるだろうか?
 事態を逆方向に向ける方策はないものか?サ-ヴィス業を高度化することが必要だ。人を大切にするべくサ-ヴィス業を高度なものにすることで、方向は逆転する。本来サ-ヴィス業の能率には限界がある。理容師が一日で散髪できる人数はせいぜい40人が限度だ。実際この人数をこなしている理容師はいない。一日に300人の患者を診察し治療する内科医は詐欺師に近い。満足な医療を提供できるはずがないからだ。対人サ-ヴィスには省力の限界がある。この限界を超えて価格下落の圧力がかかれば、サ-ヴィスの質はたちまち低下、というより崩壊する。旧ソ連時代、医師の報酬とタクシ-運転手のそれはほぼ同じだった。医師は勉強せず、勤労にもいそしまず、医療の質は極端に低下した。ソ連在住の外国人はツア-を組んで隣国スウェ-デンの診療を求めた。
 サーヴィスとは本来対人サ-ヴィスだ。省力に限界があり、その質の程度は広範囲にわたる。高度な対人サ-ヴィスは職人芸だ。従事する者の自意識と誇りがかかっている。こういう高度なサ-ヴィスには価格低下の限界がある。逆に言えば、サーヴィスを高度化し、そこに重点的に投資する事により、賃金の下落を防止できる。サ-ヴィス部門の賃金は製造部門に及ぶだろう。勢い製造部門はサ-ヴィス部門に応じた高度な製品を生産しなければならなくなる。サ-ヴィス部門が製造部門を牽引して、後者の技術を高度化すればいいのだ。なら後者の製品は高くても売れる。もっとも私はユニクロのような価格下落に励む企業のあり方に全面的に反対するものではない。廉価で簡素な製品はそれはそれで在ってもいい。
 サ-ヴィス業の充実は内需を増大させる。内需が大きければ、経済は輸出入、資源獲得などに伴う摩擦にあまり動じなくなる。サーヴィス業にもいろいろある。売春や麻薬販売もそのうちに入る。少なくともこのような仕事は、一次的とはいえ、快楽を提供する。もちろん私はこの種の営みは排撃する。高度なサ-ヴィス業とは、万人が必要と認め、かつ高度な知識と技術を伴うもの、具体的には、医療、教育、介護の三分野だ。

尖閣諸島問題、日本の外交

2010-12-05 03:11:50 | Weblog
   尖閣諸島問題、日本の外交

 尖閣諸島の問題での菅内閣の対応の無様さには驚かされる。いったい海上保安庁のヴィデオを国民に開示するのかしないのか?国民としては自国領土の問題であり、見る権利はある。一度非合法にヴィデオが流され、国民は非公式にそれを見た。なら遅ればせながら政府は早急にヴィデオを開示すべきだ。国民の権利のみならず、このままでは中国との外交で非常に不利な立場に置かれるのではないのか?政府が正式にヴィデオを開示しなければ、非公式に流されたヴィデオの内容を中国にいいように扱われ、断章取宜されて、ヴィデオ本来の目的とは異なる内容に変容されかねない。加えて政府はヴィデオを開示する事により得られる国民の支持を失う。国民の支持を失った政府の外交ほど頼りないものはない。というより政府は、少なくともこの件に関しては国民を信頼していないのだろう。国民を信頼していない点では中国政府と同じだ。菅政権が中国を恐れるのは、本来同質の政府だからでもあろう。同質だから変に信頼し、同質だから本能的に恐れるのだ。
 尖閣諸島には早急に自衛隊の一部、極端に言えば数人でもいい、駐留させるべきだ。尖閣諸島は現在日本の実効支配下にある。だからそれを失うわけにはいかない。それに比べればエトロフ・クナシリなどの北方領土は現在ロシアの実効支配下にある。だからメドベ-ジェフが何を言おうと、そう実際的影響はない。政府としては断固、日本の領土だと主張を繰り返すしかないし、そうすればいいのだ。こちらの立場を聞いてもらうとかお願いするのではない。断固主張すべきだ。せめて首相か外相が現国境線ぎりぎりの地点まででかけて日本領土である事をデモすべきだろう。ロシアは中国と同じでいたるところで領土問題を抱えている。ポーランド、フィンランド、ドイツ、ル-マニアなどなどとだ。いっったいチェチェンはロシアなのか否なのか、とも問える。このような国と冷静に領土問題など話せるわけがない。ごろつきに理屈は通じない。私は、北方領土は買収するか、でなければ戦争に訴えって取り返すしかないと思っている。
 中国が追い詰められている。元安で日米欧と対立している。元安を押し通すと日米欧の景気は悪化する。そうなればこれらの国の輸入能力は衰える。中国の製品は輸出できない。元高にすれば中国製品の輸出競争力は低下する。このディレンマに現在の中国は直面している。ディレンマは当然なのだ。中国経済は外資・外国技術の導入と安い人件費で成り立っている。先進国の景気が低迷すれば、先進国は中国に投下する資本の量を抑えざるを得なくなる。先進国が更に中国に資本と技術を投下すれば、中国製品の品質は向上し、輸出競争力は上がり元高に耐えられるようになる。しかし自国の資本を無限に他国に投下して、自国を衰退させるほど先進国は無能でも寛容でもない。このディレンマは中国自身が、自国の技術を磨き向上させて、かって日本がそうしたように価格の壁を技術で突破(break through)するしかない。しかしそのためには絶対的な前提がある。思想の自由だ。思想の自由を制限して科学技術は進展しない。この壁の前で中国は立ち往生している。かってソ連はスプ-トニクを打ち上げ、欧米に科学技術で先んじた観を呈した。しかしその内実はお寒いものだった。先進国も中国に資本を投下せず、他の後進国に資本を移動すべきだろう。この措置は先進国のためのみではなく、中国自身のためでもある。先進技術を投下すれば、中国の技術水準は上がる。この事態は中国での人権擁護を促進して、中国に混乱をもたらすだけだ。ほどほどのところで生かさず殺さずが中国自身のためになるのだ。
 ノーベル平和賞の受賞式典参加に中国がしきりに圧力をかけている。受賞者本人のみならず親族の参加もさせない。更に各国政府に圧力をかけ、駐ノルウェ-大使に式典参加をしないように働きかけている。なりふり構わずとはこの事だ。早速にロシアがそれに応じて式典参加を取りやめたが、それは自ら、思想の自由を制限する国であると、宣言しているに等しい。尖閣諸島のみならず、南シナ海のスプラトリ-諸島でも中国はいさかいを起こし、海外膨張を計っている。これは中国が追い詰められている証左だ。内部が不安定だからこそ外部に矛盾のはけ口を求めているのだ。中国のこの態度に対応して米国は日米同盟の緊密化を計ろうとしている。同様に中国の動きに対応して北朝鮮が韓国に戦争をしかけた。なにやらきなくさくなってきた。
 民主党はこの事態をどう考えているのか?そもそも60年に渡って緊密な同盟関係にある米国と、60年以上に渡り準戦争または摩擦状態にあり続けた中国とを、同等に取り扱う事ほど理解できない政策はない。