経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝   稲山嘉寛(一部付加)

2019-11-30 18:09:15 | Weblog
経済人列伝  稲山嘉寛(一部付加)

 鉄は国家なり、という言葉があります。西暦前1500年頃に栄えたヒッタイト帝国において鉄器が始めて使用されて以来、歴史を通じて鉄は武器、農機具、工具の原料として、国家経営には欠かせない必需品でした。中国では前漢の時代から塩鉄司を置いて、その生産と販売を独占しました。産業革命後は鉄の重要度は更にまします。紡績機自体、鉄がないと作れません。蒸気機関車を走らすにも鉄は要ります。高速運転と重量物運搬に耐えるだけの性能の良い鉄鋼が必要になります。こうして「鉄は産業の米」になりました。
 維新以後の鉄産業の発展は日本の資本主義興隆の歴史です。釜石に鉄鉱石が発見され、同地に鉄工所が作られます。官営は不能率で廃業になります。数年後田中長兵衛が経営を再開し、一定の成功を収めます。もう一つ重要なのは大阪砲兵工廠と横須賀海軍造兵廠です。軍需品作成が任務ですから、軍の管理下に置かれました。国策として造られた軍需工場ですから価格競争はありません。採算を度外視した新技術の輸入も可能でした。明治29年(1896年)官営八幡製鉄所が設置されます。野呂景義や大島道太郎の努力で明治末年頃にやっとなんとか銑鋼一貫生産までこぎつけます。大正初年の時点で、八幡、富士、日本鋼管、川鉄(ただしそのころは造船所の一部)、住友金属、神戸製鋼の大手六社が出揃います。
 稲山嘉寛は明治36年(1904年)に東京で次男として生まれました。父親は稲山銀行の頭取です。典型的な坊ちゃんとして育てられます。優しくて、気のいい、協調的な人柄でした。嘉寛の後年の性格は、無頓着、楽天主義、遊び好き(女好き)、人の和を大切にする寛容な現実主義者というところですが、この傾向は幼少期から著明だったようです。彼は後に経営者になった時、我慢の哲学を説きます。我を張ることなく、協調しよう、と言うのです。更に、他人が幸福にならなければ自分も幸福にはなれないと、言います。この哲学の延長上に、労働の大切さの強調があります。彼の人生哲学の圧巻は、幸不幸は欲望の関数、欲望が小さければそれだけ幸福は大きくなる、です。老荘思想に似ています。この考えは後年のカルテル重視に繋がります。嘉寛は必ずしも努力家ではありません。彼の人生の前半は落第の連続です。中学は一中を始めとして希望する4つはすべて不合格でした。錦城中学に入りますが、一中への未練を断ち切れず、再挑戦してまた落第します。高校は水戸高校を受けてすべり、仙台の第二高校の理科甲類に入ります。東京を避けたのは、自分が女の誘惑に弱い事を恐れたからとも言われます。理科を選択して東大の工学部を目指しますが、製図が読めず、つまり空間的認知力が弱く、文系に志望を切り替えます。法学部は落ち、当時無試験だった経済学部に入学します。卒業時は不況でした。10以上の会社や官庁を受け不合格になります。商工省を受験し、高等文官試験に合格する、という条件で採用されます。採用決定までの半年、彼は猛勉強をしました。こうして商工省の外局である官営八幡製鉄所に入社しました。
 昭和3年(1928年)八幡製鉄所に入り、任地の福岡県八幡に赴きます。あまり仕事はなかったようです。ここで恋愛事件を起こします。製鉄所幹部専用の集会所の女性にほれます。それ以上どうのこうのという事もなかったのでしょうが、当時としては評判になりました。それが祟ったのか、東京に転勤になります。製鉄所はあくまで八幡が本社で、東京は単なる販売のための営業所に過ぎず、明らかな左遷でした。しかし稲山嘉寛という人間は精細な事務作業は苦手ですが、販売という人間関係を重視せざるを得ない、分野は得意でした。得意先とのもめごとなどを調整します。もめ事仲介は気晴らしになったそうです。彼は自分の立場を率直に認めます。ですから他人の立場も解りやすくなります。この時期欧州を視察して帰国した販売課長の鈴木武志からカルテルの存在を知らされます。カルテル結成による販売の調整は彼の生涯の方針になります。この間柳橋の芸者ツルと同棲して子供をもうけています。父親が嘉寛の女好きを心配し、素人の女性を避けさせ、玄人の女性との遊びを勧めます。その延長上にこういう事が起こりました。父親はやむをえないということで黙認、母親と姉妹は猛反対でした。後、夫婦の仲のいい事を知った彼らは、嘉寛の結婚を正式に認めます。
 昭和9年(1934年)戦時体制移行の一環として、官営八幡製鉄所を中心に、輪西製鉄、釜石鉱山、三菱製鉄、富士製鋼、九州製鋼が合併し、日本製鉄株式会社が結成されます。八幡製鉄所は以後民間企業になります。この時川﨑、住友、神戸製鋼、日本鋼管を始めとする民間会社は合併から逃れています。嘉寛は合併と同時に販売第四課長になります。戦時中は鉄鋼統制会が作られます。まあ国家主導のカルテルが作られたようなものです。ちなみに昭和18年の鉄鋼総生産高は765万トン、それが終戦時には56万トンになっています。サイパン喪失により、米軍機の本土爆撃が可能になったからです。製鉄業はほぼ壊滅しました。
 終戦。日鉄は八幡と富士に二分され、嘉寛は八幡製鉄の営業部長になります。昭和25年、常務取締役営業部長に就任します。46歳でした。彼の専門は販売です。また彼の販売方針は、企業間の調整でした。鉄は産業の米、だから安定価格を維持する事が肝要、と言います。そのためには鉄鋼業全体で需要に見合った供給をしなければならないと、言います。ですからカルテルを当然視し、独占禁止法は鉄鋼業にとっては迷惑な法律だと公言しました。過当競争による値下げは、製造技術の水準を低下させる、と主張します。値下げは製品を作る労働への侮辱だとも言いました。一理はあります。独占あるいは寡占が必ずしも悪とはいえません。経済学でよく使う需給の無差別曲線で考えれば、独占は不能率なのですが、この理論が正しいとも限りません。現に主要な製造業はその殆んどが寡占状態です。寡占でない業種の典型が農業と飲食業です。鉄は産業の基礎だから、安定供給しなければならず、またその方が技術水準を保てるのかもしれません。しかし彼のいう事には、もう一つ納得できないものもあります。そういう識者も多く、嘉寛はミスタ-カルテルという仇名を頂戴しました。こういう方針に基づいて、嘉寛は公開販売制を実施しようとします。各社が販売額を公開するのですから、生産調整です。彼は生産中心主義者でした。作った物はすべて売れるはず、売れるようにすれば(生産を調整すれば)いい、となります。みんなで必要な物を作ってそれを消費すればいい、とも言います。そのモデルが彼が訪問した当時の(1960年前後)の中国でした。生産調整をするためには、企業の活動に社会か国家が関与せざるをえない、資本は社会化すべきだ、となります。先に彼の考えは老荘思想に近いと言いました。老荘思想は原始共産主義を前提にしています。昭和37年(1962年)に社長になった嘉寛が自らの経営方針の具現として行った事が、八幡と富士の合併です。昭和45年(1970年)両社は合併します。なお彼は以上のような考えですから、1960年代後半から出現してくるアメリカとの経済摩擦には敏感でした。対米自主規制を提唱し、トヨタやソニ-の憤激を買います。その時彼が言った言葉が「なんと強欲な人達」です。
 八幡と富士の合併の理由は沢山あります。まず資本自由化への対応が必要でした。日本も先進工業国になったのだから、欧米も今までのように甘い顔はしてくれません。いつまでも関税障壁に護ってもらうことは不可能です。大型合併して、国際競争力をつけねばなりません。そのために余剰設備(重複する)を一部廃棄し、生産工程を合理化してコストを減らします。そして軽量化した分のメリットを技術開発に向けます。特に自主技術の開発、製品の高度化、多角化、そして新規用途の開発が必要です。当時の技術の多くは欧米からの輸入であり、嘉寛はその事に不安を抱いていました。また国際金融体制の動揺、つまりドルにまつわる不安にどう対処するかという問題もあります。以上のような問題意識に導かれて、嘉寛は企業を大規模化し、無駄を省いて、技術水準を上げようとしました。一理はあります。それは当時から現在に至るアメリカの鉄鋼産業(USスティ-ル等)の運命を見れば解ります。
合併には野党も学会の大勢も、特に公取委が反対でした。公取委には政界を通じて工作します。こうして昭和45年(1970年)に両社は合併し新日本製鉄株式会社ができました。代表取締役会長には旧富士の永野重雄、代表取締役社長には嘉寛が就任します。数年後人事抗争があり、会長に嘉寛、社長には平井富三郎となりました。
確かに嘉寛はミスタ-カルテルです。原価プラス適正利潤を強調します。生産者がこの価格で売れば、すべて売れるはず、と言います。作っただけ消費すればいい、とも主張します。逆に言えば、売れるよう・消費できるように生産量を調整せよ、です。通常この種の調整は市場自身が行うとされますが、ミスタ-カルテルはそれを企業連合による意識的判断で為そうとします。また彼は、安ければ売れない、とも言います。この意味は解りかねるのですが、私なりに忖度すれば、安ければ製品の質が落ちるというのでしょうか?彼が新日鉄の経営から身を引いた、1980年前後から、日本の製鉄業はNIESなどに追い上げられます。ここ30年間で新日鉄は約約6万名の人員整理をしました。そうして製品の高度化を徹底して国際競争場裏で生き残ります。
 稲山嘉寛の財界人としての特徴は日中国交に尽力した事です。昭和33年(1958年)まだ八幡製鉄常務であった嘉寛は日本鉄鋼代表団を作り、中国に行き、周恩来首相と会談します。日本の鉄鋼と中国の鉄鋼石・石炭をやりとりする貿易のためです。日本の正統派財界人で戦後中国に赴いたのは嘉寛が最初です。この企てには日本政府(岸内閣)も在日米大使館も反対しました。中国との貿易はその後も二転三転しますが、嘉寛は常に積極的でした。昭和47年(1972年)武漢製鉄所建設の交渉が成立します。中国側の要請はホット・ストリップ・ミルとシリコン薄板製造のプラント設置です。二つのプラントの設備供給、技術資料の提供、操業のノウハウと特許使用権の供与、プラントの据付、中国人実習生の受け入れ、日本人技術者の派遣など、総じて950億円の商談が成立します。もっともこの商談は後に、中国側の外貨不足で支払ができなくなり、日本は3000万ドルの借款をして援助しています。また中国には外貨が不足していたので、石油と鉄鋼のバ-タ-取引を中国側は要請してきますが、嘉寛はそれに応じています。両国間の石油と鉄鋼の交易の仲介をしているのですから、嘉寛抜きには、日中国交は成り立たなくなった観があります。
 1968年経団連副会長、1973年新日鉄会長、1980年経団連会長、1986年財政審議会会長を務めます。1987年死去、享年83歳でした。

 参考文献  稲山嘉寛  国際商業出版

(付)
新日本製鉄株式会社の
資本金   4195億円
売上    3兆4877億円(連結)
営業利益  3200億円
純利益   -115億円
純資産   2兆3356億円
総資産   5兆23億円
従業員   51554人 

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

文化としての天皇(2)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-11-30 14:02:12 | Weblog
文化としての天皇(2)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(公卿の家格)
 律令制の官位制度は律令制の弛緩崩壊とともに形骸化し固定されます。平安中期摂関時代には出世昇進への登竜門は頭中将と頭の弁でした。前者は武官で蔵人頭と近衛中将を兼任します。後者は蔵人頭と左右大弁を兼任します。文官です。ともに位階は四位、このどちらかの職をこなせば参議、中納言からさらに上が望めます。藤原道長の時代になると摂関家の子弟はこの両職を飛び越えて一気に大臣さらに摂関に進めます。ですから頭中将と頭の弁は公卿貴族たるものの最低の基準になります。
 江戸時代の公卿はその出身により五つの家格に固定されました。頂点は五摂家です。近衛、鷹司、一条、二条、九条家の五つから成ります。彼らは大納言を経て、すぐ大臣、太政大臣そして摂政関白になります。次の家格が清華家で極官は可能性としては太政大臣になれます。次が大臣家で最終的には大臣になれます。その下が羽林家で近衛中将などの武官職を経て、大納言まで昇進できます。もう一つが名家で弁官職などの文官事務職を経て大納言まで進みます。大体の家格はそういうところですが、摂家、清華、大臣家の差はいつ大臣に成れるかの違いです。摂家の子弟は10歳代で大臣になれます。清華、大臣と家格が下がるにつけ大臣になる年齢が遅くなります。また途中で参議を経るか否かも家格に関係します。家格が低ければ参議を経なければなりません。つまり建前として実務をこなさなければなりません。もちろん摂政関白は摂家のみの独占です。羽林、名家は大納言どまりです。羽林・名家ともに実務官僚です。もちろん実務と言っても実際の政治に関与しないのですから形式的なものですが。このような家格意識は明治以後も生きていて、西園寺公望が近衛文麿に政治上で遠慮したのも、前者は清華家、後者は摂家出身であったからです。
 江戸時代の朝廷への給付は天皇家には3万石、朝廷全体では10万石くらいでした。五摂家の筆頭近衛家は3000石くらい、羽林・名家クラスとなると100石くらいの給付でした。岩倉具視などはこのクラスで、家計が苦しく、治外法権を利用して賭博場を家の中で行わせテラ銭を稼いでいました。
 公卿の収入は以上の通りですが、公卿には軍事奉仕の義務がないので、家臣の選択は比較的自由でした。京都の町人などを形式的に抱え使いました。町人の方でも公卿の家臣・使用人になることは名誉なので、ただで働いても割はあったと言われます。室町戦国時代に入って朝廷公卿が政治の実権を失うにつれて、公卿は京都の町人(町衆)との交流を深めます。公卿は教養があってそれを売り物にし、町人は金があって教養に憧れました。先に述べた後水尾天皇の寛永文化は朝廷公卿と町衆町人の共同により作られたといえます。伊藤仁斎は町人です。こうして朝廷公卿の文化は民間に浸透してゆきます。
 幕府がどうしても朝廷に頭が上がらなかった事は婚姻と礼儀作法です。将軍は臣下である大名家から正妻を娶る事はできません。家格が違う事と、政治に容喙されることを警戒したからです。従って将軍の正妻を出す家柄は京都の公卿になります。将軍の正妻は原則として摂関家の子女でした。内親王を将軍の正妻とすることは例外中の例外でした。唯一の例は第14代将軍家茂に孝明天皇の妹和宮内親王が降嫁した事のみです。江戸時代までの日本の歴史において皇女の降嫁はこれが唯一です。
 儀礼は政治にとって非常に重要です。荻生徂徠の章で述べたように刑政と礼容は相補的関係にあります。儀礼を欠いては政治の秩序が護れません。徳川将軍家は最初三河以来の独自の礼儀作法を採用してきました。それを主宰したのが譜代筆頭の酒井家でした。酒井忠清の失脚と併行して、幕府は旧大名の名門(吉良、今川、一色氏など)の子弟を京都に送り、朝廷の儀礼を学ばせました。彼らを高家と言います。実権がなくしかも地位が高い朝廷の存在は幕府の婚姻政策にとっても好都合でした。このように朝廷は実権を喪失してもいろいろなところで幕府と結びついていました。要するに幕府は朝廷の存在を必要としていたということです。
前記した酒井忠清は酒井家の当主でした。(ちなみに酒井家は三つに分流します)そもそも酒井家は三河時代譜代筆頭とはいうものも、松平氏(徳川氏)とほぼ同格でした。そしてこの酒井家が幕府の礼容を主宰します。もともと徳川家は在地土豪の連合体でした。ですから酒井家の礼容主宰は幕府にとっては潜在的に危険な事態ではあります。酒井忠清の親王将軍担ぎ出し事件云々は、この危険が顕在化した事態であったのかも知れません。5代綱吉が将軍になって朱子学を奨励し、殿中の礼儀作法に朝廷の様式を取り入れたのも、かかる事態の反映かも知れません。
 公卿は上記五つの家格に固定されましたが、摂家以外の公卿は分担して古典文化の伝統維持に務めます。のみならず公卿は各文化の家元的存在になり、町人に家芸を教え教授料を取りました。町人の側でも公卿の保有する文化への需要は大きかったのです。

経済人列伝  一万田尚登(一部付加)

2019-11-29 18:36:59 | Weblog
 経済人列伝  一万田尚登(一部付加)

一万田尚登は1946年(昭和21年)から1954年(昭和54年)まで、8年と7ヶ月日本銀行総裁を務め、(注)占領軍司令官マッカサ-元帥からも吉田茂首相からも信頼され、占領下という非常時の日本の経済特に金融面での政策を担当し、経済界の法王と呼ばれた人物です。一万田の人生の意義のほとんどはこの時期にあります。この列伝では、主として占領下日本の経済政策を概観しつつ、一万田の施策を検討してみましょう。
(注)日銀総裁としての就任期間は最長です。
一万田尚登は1893年(明治26年)大分県野津村今畑(現野津町)に生まれました。生家は庄屋クラスの豪農ですが、生活はそう豊かではなかったようです。中学校を卒業して、本人は師範学校に行って郷里で学校の先生をしたかったのですが、周囲に勧めで熊本第五高等学校に入り、そこから東京帝国大学法学部に入ります。学生時代は「わき目もふらず勉強」がモット-だったと言われています。中学校時代に後社会大衆党を作った麻生久と出会い、無産主義運動の影響を受けたようです。事実一万田の施策には社会主義的な傾向があります。
1918年日銀入社、5年間ベルリンに留学し、帰国して京都支店長になります。この時総裁の京都宿舎の用意が気に入られず、左遷されて検査役になります。閑職ですが腐らず、検査の対象から落ち度を見つけるのではなく、長所を発見すべく努力して、再び認められます。考査局長などを経て1942年理事になり、名古屋そして大阪支店長を勤務、やがて終戦になります。終戦、つまり敗戦に伴い、GHQ(占領軍最高司令部)の命令で新木栄吉総裁以下多くの理事が公職追放になります。そして大阪支店長から一気に一万田は日銀総裁に抜擢されます。53歳の時でした。
一万田に強い影響を与えたエコノミストとして二人の人物を挙げるべきでしょう。一人はベルリン留学中に知遇を得たヒルマ-ル・シャハトです。シャハトはこの時ドイツ中央銀行の総裁として、敗戦後のドイツの狂乱的インフレをレンテンマルクの発行で抑えました。一万田はシャハトから貨幣量調整による、経済運営の手法を学んだようです。このやり方は日銀総裁時代に生かされます。(注)もう一人が一万田が秘書として仕えた、日銀総裁井上準之助です。一万田は井上から、軍拡への防波堤としての緊縮財政の意義を学びます。なお一万田が日銀総裁に抜擢された理由の一つが、彼は大不況、軍拡、統制経済と日本経済の非常時に対処する役割を果たしてきたからだと言われています。

(注)当時のドイツのインフレは破局的なものでした。食堂に入る時と出る時では値段が違います。ある人が金の一杯詰まった鞄を忘れました。鞄は盗まれましたが、金は置いてありました。タバコ一箱を買うのにボストンバック一杯の紙幣が必要でした。シャハトは旧一兆マルクを新しい1レンテンマルクと等価に設定します。インフレは嘘のように収束しました。貨幣数量説だけでは説明つきません。レンテンとは国有地を担保にするという意味です。しかしその国有地の所在も怪しかった。要は気分の問題です。
 シャハトはヒットラ-が政権掌握後も中央銀行総裁として第三帝国の経済を担当します。彼はメホ手形(メホとは変容の意)を発行して、企業の資金融通を容易にします。さらにアウトバ-ン(高速道路)の建設など公共工事を進め、数年でそれまで15%を超えていた失業率をほぼゼロにしました。この政策は軍拡に利用されます。手形増発によるインフレ等の悪影響を顧慮して反対したシャハトは解任され、ナチスの経済政策はゲ-リングに任されます。以後シャハトはどちらかというと当局に監視される立場になりました。しかし戦後ニュ-ルンベルクの裁判では戦犯に擬せられます。英米の経済学者やその影響下にある日本人学者からは、シャハトは良く言われません。ナチス経済の担当者という印象の故でしょう。しかし彼の政策は成功です。もしヒットラ-が1939年以前に、なんらかの理由で死去していたら、彼は救済者として史上に美名を残しただろう、と言われています。事実不況・失業とはそれほど恐ろしいものです。

戦後経済政策の第一波は1946年2月の、渋沢蔵相による新円発行です。以下のような内容です。

  それまで国民が使っていた円貨は旧円として使えなくなる
  賃金は500円のみ新円で支給、他は預金封鎖になる
  賃金を受けない者は毎月300円+αのみひきだせる
 
新円発行の意味は、国民に国家が負う借金の帳消しであり、同時に流通貨幣量の縮減によるインフレの防止にあります。封鎖されている間にインフレで物価は上がっていますから、貨幣価値は下がります。もし物価が10倍になれば、事実上預金借金の意味はなくなります。(注)事実上そうなりました。

(注)私が高校2年生の時、父親が掛けてくれていた出征保険(兵隊に取られたときの生命保険)の満額を受け取りました。確か800円弱だったと記憶しています。

第二波が、アンポン(安本)、ケイシャ(傾斜)、フッキン(復金)の三大政策です。説明すると、

安本は経済安定本部、首相に直属する経済政策の司令部、安本総裁は首相が兼任(1946年8月)
傾斜は、傾斜生産制度、資金を経済復興に必要な事業特に鉄と石炭増産に重点的に割り当てる政策(1946年12月) 
復金は、復興金融公庫、ここから発行される債権は経済界にばらまかれ、経済再建の資金となった、この債権は事実上の貨幣、つまり貨幣量増加政策(1947年1月)

となります。ちなみに1946年6月に一万田が日銀総裁に就任しています。安本、傾斜、特に復興金融公庫なる政策は、(注)新円発行の逆で、貨幣量増大でありインフレ政策でもあります。政府は新円発行で国民への借金をゼロにしておいて、今度は新たに企業融資としての貨幣を増量しました。国民から企業への露骨な所得移転ですが、この方策が無ければ日本経済は潰れていたでしょう。物がないんだからがたがた騒いでいても仕方がない、資金をばらまいて、とにかく物を作れ、餓死するより物価が上がる方がまだましだ、という発想です。このような政策は第一次吉田内閣の蔵相石橋湛山により積極的に進められ、ために石橋はGHQの不興を買い、公職追放の憂き目に会います。

(注)復興金融公庫は戦時補償の代わりです。戦争に協力した(当たり前ですが)企業に対する戦争被害は、政府債務も含めて政府が補償する事を、GHQは禁止しました。これでは企業は全滅です。復金は形を変えた戦時補償です。上に政策あれば、下に対策ありです。ちなみに戦争で一番儲けたのはアメリカの企業です。戦争は政治の継続であり利害関係の清算行為ですから、戦争には理も非もありません。

 更に価格差補給金制度が加わります。公定価格で売れば闇値との差で損をする生産者にその差額を政府が補償します。
 次にスタンプ手形と貿易手形の発行があります。前者は、必要生産部門の運転資金調達のために振り出された手形、後者は食糧等緊急物資輸入のための見返り輸出に要する資金融通のための手形、です。もちろん両手形は日銀により引き受けられます。この辺からが一万田の出番です。
 融資機制とういう方策も行われます。市中金融機関に対し極力預貯金を集める事を奨励(強制?)し、日銀貸し出しを抑える事、更に金融機関の貸し出しにあたっては産業の種類に応じて優先順位を変えること、などが政策の内容です。
 もう一つ高率適用制度があります。金融機関の貸し出しにおいて、一定限度までは比較的低率の利子で貸し出しし、限度を超えると高率の利子にします。必要な貸し出しは保障し、不必要な貸し出しを防止するのが目的です。
 この時期の一万田の金融政策は明らかに拡張政策です。日本が生き延びるために必要な政策でしょう。
 そして大波が来ます。1948年(昭和24年)米国は日本経済の自立のための9原則を打ち出します。主な内容は、均衡予算、徴税強化、信用制限、賃金安定、物価統制の5つです。翌年米国特使ドッジが9原則遂行のために来日しドッジラインなるものを日本政府に施行させます。彼は復興金融公庫を撤廃し、貨幣供給量を縮減し、インフレを抑えて、均衡予算の実施を迫ります。たちまち安定恐慌に陥りました。一万田の出番です。彼は

 資金使途を特定した債権の買い入れ
 融資斡旋の活用、つまり金融機関の融資に日銀が口を出して干渉する事
 高率適用制度の弾力的適用
 貿易手形制度の拡充
 中小企業別枠融資制度の活用

などの方策をきめ細かく採りました。これらの施策はだいたいドッジライン以前にできていました。だから一万田のやり方は、ドッジラインを部分的に換骨奪胎する事でもあります。こういう事ができたのは、一万田がGHQの信頼を得ており、またGHQ自身ドッジのやり方には不満でした。占領も5年の長きに及ぶと、その政策も現実的になります。一万田が取ったこのような、インフレを避けながら、より恐ろしいデフレを極力防止する経済政策をディスインフレ(dys-inflation)と言います。ドッジの来日は1945年2月、そして日本経済にとって神風になる朝鮮戦争勃発は6月、この間の厳しい冬の時代一万田のディス・インフレ政策が日本を支えます。
しかしドッジラインとディスインフレは双子の兄弟のような関係にもなります。ドッジラインで民衆は強制貯蓄させられます。物価が下がる分だけ実質賃金は増加し、更に将来への不安のために貯蓄傾向は増加しますから。そしてディスインフレ政策により、貯蓄は企業特に大企業に廻されます。こうして高度成長経済の基盤が整えられました。この頃から日本経済は技術革新に進み始め、1950年代後半に入ると明らかに高度成長の足音が聞こえだします。
 1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は共産圏を除く大多数の国家と外交関係を復活し、独立します。(占領軍制から解放されます)一万田は講和全権委員に任命されます。併行して金融機関のオ-ヴァ-ロ-ンが問題になります。つまり、銀行貸し出し>預金、の関係が露になってきました。金融機関の足腰が弱いのです。ここで一万田は輸入金融優遇廃止などを施行して引締に転じます。反対の政策を主張した人もいました。石橋湛山です。彼は日銀引き受けの国債を増発して、景気をより促進すべきだ、という意見です。池田隼人も多分同じ路線でしょう。1954年一万田は日銀総裁を辞任し、第一次鳩山内閣の蔵相に就任します。鳩山内閣後の石橋内閣では蔵相は池田隼人、さらに岸内閣では一万田が蔵相と、一万田と池田は交互に蔵相を交代する観を見せます。 
 一万田の引締政策は、内需を抑制して、物価を低めに安定させ、物価安定により資本蓄積を促進する、という狙いです。逆に池田の積極経済では、彼のブレイン下村治の言に拠れば、企業の競争力はすでに充分であり、民間設備投資はそのまま輸入増につながり、内需は増え、賃金は増加する、となります。どちらも正しいでしょう。要は日本経済の見方・評価の仕方の違いによります。1950年を境として日本経済は違った動きをし始めます。一万田が必ずしも引締論者であったとは思いませんが、池田との対比ではそうなります。池田の高度成長経済が大当たりしたために、その分一万田の影は薄くなっています。一万田に関してはこういう引締経済を象徴するような発言が目立ちます。一つは川鉄千葉工場の件です。川鉄が千葉に新鋭工場を作ろうとしたとき、一万田はぺんぺん草が生えるとか・生やしてやるとか云々のお話です。またトヨタや日産が、戦後の生産制限解除後、自動車生産に積極的に乗り出そうとした時、自動車なんかは輸入すればいい・日本に自動車工場は要らない、といったとかの話も有名です。必ずしも無実ではないでしょう。
 1955年一万田は衆議院議員に当選します、鳩山内閣と岸内閣の蔵相を計三度務め、1964年政界を引退します。足が弱り車椅子を必要としたからです。さらに現役当時から難聴気味で閣議でも支障をきたします。1984年死去、90歳でした。

  参考文献
   「非常時の男」一万田尚登の決断力  財務研究所
   昭和経済史(中)          日本経済新聞社
   20世紀日本の経済人(2)      同上
   日本経済成長論           中央公論社    

「君民令和、美しい国日本の歴史」7月1日発売、文芸社刊行

文化としての天皇(1))「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-11-29 14:00:08 | Weblog

文化としての天皇(1)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(江戸時代の朝廷)
徳川家康は将軍職に就きました。なぜ成れたのか(逆に言えばなぜ秀吉はなぜ将軍になれなかったのか)理由は解りません。ただ家康が昇位してゆく過程を見ると極めて慎重です。家康が皇室に為した最大の統御は1615年豊臣氏滅亡とほぼ同時に発布された「禁中並びに公卿諸法度」です。この法律によると、天皇及び公卿は政治的な事柄には一切容喙せず、ただひたすらに学問や古典的芸術に専念せよということでした。後水尾天皇は家康に豊臣秀頼との和解を勧めましたが家康は拒否します。それ以前に朝廷では女官の不貞事件が起こっています。死刑一名流罪数名でした。
 二代将軍秀忠になると天皇苛めは亢進します。秀忠は自分の娘和子を強引に天皇の室に入れます、のみならず天皇が他の女性との間にできた子供は、京都所司代によりすべて流させたとも言われています。更に紫衣事件が発生します。紫衣とは天皇が特定の宗派の僧侶に対して下す名誉の報奨で、それは紫衣を着る特権でした。いわば天皇の聖職叙任権の一端です。幕府はこの紫衣授与の手続きに、疑問ありということで介入します。
 後水尾天皇は天皇と武家の間で起こった最後の葛藤でした。天皇は頭にきて幕府に無断で退位し、和子所生の内親王に譲位します。明正天皇です。以下皇統は後水尾天皇の子供たちに順次継承されてゆきます。後光明天皇、後西天皇、零元天皇です。
 後水尾天皇は在位時代には苦労が多かったのですが、上皇になってからの人生は豊かなものでした。84歳まで長命し、この間上皇を中心に寛永文化が栄えました。町衆と朝廷を楕円の焦点とする独自の文化です。茶道の小堀遠州、華道の池坊専好、俳諧の松永貞徳、儒者の林羅山、禅の沢庵宗彭、特に造形美術の本阿弥光悦や俵家宗達の作品は有名です。余談ですが、天皇に嫁いだ和子は晩年一種の買物依存症のような状態に陥り、着物道楽で(必ずしも実用ではないのですが)年間二万貫から三万貫の銀を使ったと言われています。銀一貫目は金二十両、当時は一両で米三石は買えます。三万貫として米に換算すると180万石、五公五民として石高で360万石になります。当時そんな規模の大名はいません。ともかく膨大な消費です。光悦の作品はこのようなパトロンを背景として作られました。後水尾上皇は修学院離宮に住み、この文化の中心的存在になりました。修学院離宮は天皇の叔父である八条宮智仁親王が造った桂離宮とともにこの時代を代表しています。少し時代はずれるかもしれませんが、伊藤仁斎の学問もこの京都文化に属するでしょう。仁斎は古文辞学を創始し、経典の文献学的考証に勤め儒学に新たな領域を開いた人です。
 零元天皇の皇子が即位して東山天皇となります。その子供が中御門天皇です。この二人の在位期間は五代将軍綱吉の執政期に当たります。綱吉の代になると幕府の朝廷への態度は変わってきます。三代家光の時まで家康を祭る日光東照宮への将軍参拝は続けられてきました。綱吉の代には参拝は廃止されます。代わりに伊勢神宮へ奉幣使が送られます。東山天皇の時、それまで絶えていた大嘗祭も復活します。綱吉のころ幕府は財政難に陥っていました。朝廷への態度も軟化します。綱吉は学問を大事にした人でした。だから朝廷に親近感を持てたのでしょう。学問(それは当時と言えば儒学なかんずく朱子学でした)は大義名分を重要視します。水戸光圀が「大日本史」を書いたのもこのころでした。水戸家はその本を朝廷に献上します。かえって迷惑がられたと聞きます。なぜなら光圀は「ああ忠臣楠氏の墓」の碑で知られるように南朝を正統化しました。当時の天皇は北朝の子孫でした。光圀たちによって創始された水戸学は隠然として幕府批判の根拠になり、幕末における討幕運動の起爆剤になります。綱吉は通常「犬公方」などと言われ良い評価はされていませんが、実際の彼の政治は画期的なだから見事なものでした。
 徳川第7代将軍家継は幼童でした。側近の新井白石は家綱に零元天皇の皇女八十宮内親王の降嫁を朝廷に請います。家継が夭折したのでこの案は立ち消えになりました。もっとすごいお話があります。綱吉が将軍に就任する前、第4代家綱の死後大老の酒井忠清により将軍職を親王に継いでもらおうという話が策せられました。この話が虚か実かは判明されませんが、徳川四天王の筆頭酒井家(忠清直系の酒井家)が以後政権の中枢から遠ざけられた事は事実です。白石は東山天皇の皇子直仁親王をして、別家閑院宮家を創設しました。閑院宮家は現在の皇室の先祖です。白石という人は皇室に対して正反両価的な対応をしています。徳川将軍を国王として日本を代表する、とした理屈を描いたのは白石です。事実白石が仕えた第6代家宣は朝鮮に対し「日本国王」の称号を用いています。日本を代表する者は天皇か将軍かは、幕末西欧人が来航した時彼らにも判然とせず困ったようです。結果として将軍は「大君」と呼ばれました。
 第8代将軍吉宗も財政難の中、桜町天皇即位時の大嘗祭の挙行には協力的でした。また伊勢神宮以下、賀茂、松尾、平野、岩清水、春日、宇佐八幡などへ奉幣使が派遣されます。民間でも朝廷を正式政権とする意見も出てきます。本居宣長の「秘本たまくしげ」、藤田幽谷の「正命論」、中井竹山の「草茅危言」などです。江戸時代後半からは伊勢神宮へのおかげ参りが盛んに行われました。松平定信は大政委任論を唱え始めます。この言説は、政治は幕府が行う、とも取れますが同時に、政治は本来天皇に帰属するものだ、とも取れます。幕末1846年朝廷は幕府に対し、国防を厳にして国威を傷つけないように、と釘を刺します。これは幕府の外交権独占への挑戦です。18世紀末あたりから異国船(特に英米露)が日本の周辺に度々現れていました。
 一方幕府は朝廷が政治に関して発言する事には極力弾圧で臨みました。桃園天皇の時、竹内式部が公卿のグル-プに、政治の主体は天皇にある、と説きます。多数の公卿達が同調します。幕府は弾圧に乗り出し1759年式部を流罪に処します。ほぼ同じころ山形大弐が現れ王政復古を呼号します。大弐は処刑されました。幕府は天皇の外出をほぼ禁止しました。天皇は御所から外には出られません。つまり一般人士にとって天皇はタブ-でした。それほど幕府は天皇の存在を恐れました。
 皇統は零元天皇以後嫡系で東山天皇、中土御門天皇、桜町天皇、桃園天皇、と受け継がれ後嗣幼少のため中継ぎで女性の後桜町天皇が即位し、後桃園天皇が12歳に達した時弟の後桃園天皇に譲位します。しかし後桃園天皇には後嗣なく、五代遡って東山天皇の孫典仁親王の子供兼仁親王を建て光格天皇とします。ここで尊号事件が持ち上がります。光格天皇は父親の典仁親王に太政天皇の尊号を贈ろうとします。公卿諸法度によれば親王は摂関大臣より下位に位置づけられており、光格天皇はそれを不幸不憫と思いました。反対したのが幕府の実権者である松平定信です。定信の断固としたそして柔軟な対応でこの事はなくなります。このような事は後花園天皇の時にも起こっています。傍系の皇子が即位するとよくこんな事が起こります。光格天皇の後継は皇子である仁孝天皇が継ぎます。この天皇は旧来の朝廷儀式を再興し、それまで途絶えていた諡号を復興し父親には光格天皇を追号しました。また学問に熱心で、公卿の子弟を教育すべく、御所内に学問所を作りました。これが現在の学習院の起りです。1846年仁孝天皇の第四皇子が即位し孝明天皇となります。在位は1866年まで続きます。周知のようにこの時代は幕末動乱の時代です
 天皇の私生活は比較的よく解っています。1500年頃から宮中の女官により日記が書き続けられました。「お湯殿日記」といいます。ここで内容を紹介する必要はないでしょう。ただ食事にだけは触れておきます。公式の行事は豪華なものでしたが、日常は質素でした。ある日関白が参内して昼食を馳走された時のメニュ-は魚一品(鰯かその類の魚)、豆腐そして刻み昆布でした。原則として天皇の食事も同様なもので一汁二菜か三菜でした。このメニュ-は当時の庶民の暮らしとほぼ同様です。幕末日本人の平均摂取カロリ-は1700カロリ-、たんぱく質は70グラムですから、米麦と鰯と豆で補えます。日本の君主は、天皇も将軍も日常生活では贅沢はしません。
 また江戸時代に入ってからかそれ以前からか、天皇には皇后つまり正妃はなくなりました。性生活はすべてお局相手です。一夫多妾でした。天皇は結構性生活を楽しんでいたようです。皇后が復活したのは明治天皇からです。


     経済人列伝 井深大(一部追加)

2019-11-28 18:55:54 | Weblog
   経済人列伝、井深大(一部追加)

 井深大(まさる)、ソニ-を創った人です。井深は1908年栃木県日光町(現在の日光市)に生まれました。父親は東京工業高等専門学校(現、東京工業大学)卒の技術者で、古河鉱業に勤めていました。母親は当時としては極めて稀な女性大学卒業者でした。井深の幼少期の逸話として、買ってもらったメカノというパズル器に熱中して、とうとうそれを分解しまた組み立てなおした、という逸話があります。栴檀は双葉より芳し、です。しかし幸運な生活も、井深が3歳の時、父の死によって脅かされます。死因は不明です。古河鉱業といえば歴史的に有名な公害企業でしたから、死因をその辺に探る向きもあります。父の死後、母方の祖父の家などを転々とし、7歳時母親の再婚に伴い、神戸に移ります。義父は山下汽船の船長でした。
 中学は神戸一中(現、神戸高校)、当時日本で一番の難関校と言われていました。中学で特に勉強熱心だったようではありません。無線機とハムにはまります。また自説を容易に曲げない独自的な性格で、漢文の先生と、漢文の読み方、下し読みか音読みか、で激論し、白紙答案を出したという逸話もあります。卒業の前一年、猛烈に勉強し、早稲田高等学院に入学し、やがて早稲田大学理工学部に入学します。弱電を専攻します。当時私学で理工系の学部を持っていたのは早稲田だけだった、と聞きました。大学在学中特許を取得しています。この間キリスト教に魅かれ、やがて入信します。
 卒論はKer Cell(カーセル)、光の変調装置に関する研究です。光に電圧などをかけて、光の波長や振幅を変える装置の研究です。井深の将来の方向を予示します。この論文は周囲から注目されました。卒業後PCLという会社に勤めます。もっぱら映画の録音技術を担当します。給料には恵まれ、ライカ(当時の最高技術を誇るドイツ製カメラ)やオ-トバイそして自動車を買い、人生を楽しみます。
 井深は映画に魅かれていたわけではないので、やがて日本光音工学株式会社に移ります。
そして1940年、井深大32歳の時、小林恵吾とともに、日本測定器という会社を設立します。周波数選択継電器や音叉発振器などを製造しまた研究します。ほとんどが兵器として使われました。太平洋戦争では日本の艦船が米潜水艦により多数撃沈されました。井深の研究を使ってできた、対潜用磁気探知機は米軍潜水艦撃沈に成果をあげます。井深はミサイルのようなものも作りました。軍との共同研究が機縁となって、海軍技術士官であった、盛田昭夫と出会います。
 1945年終戦。井深は東京通信研究所を作り、従来からの製造と研究を推し進めます。電器炊飯器や真空管電圧計などを作っていました。1946年、元文相の前田多門を社長に向かえ、駆けつけた盛田昭夫と共に、東京通信工業株式会社を創設します。ソニ-の前身です。井深の経営信条は、技術と経営の結合でした。どこにもない物をを造って売ろう、という事です。テ-プレコ-ダ-を製造しました。最初のG型は重くて高価で売れません。次のH型になって採算がとれるようになります。
 アメリカのウェスタンエレクトリック社がトランジスタ-の特許を売りに出している、という話を井深が聞きます。すく交渉に入り、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、交渉をまとめます。当時井深の会社は、年売り上げ1億2千万円、利益が900万円、配当は3割でしたから、そう無茶な買物でもなかったかもしれません。さてこのトランジスタ-技術をどう使うかが運の分かれ目です。売ったエレクトリック社は補聴器の製造を勧めます。井深は小型ラジオの開発を決意します。周波数の幅を広げねばなりません。こうしてTR-52型、55型、63型と製品が改良されつつ製造されます。製品はすべてソニ-(Sony)と命名されました。アメリカの某社から10万台の注文が入ります。しかしこの会社はソニ-の名前で販売する事を拒否します。井深はあくまでソニ-という商標を主張し、結果として10万台の注文を断ります。井深の戦略眼の確かさを物語るお話です。相手の会社はびっくりしたそうです。63型は一台13800円でした。当時、昭和30年(1955年)の大卒初任給は9200円です。
 この間の井深やソニ-にまつわる挿話を二つ。彼は当時妻と別居状態でした。やがて別れ、再婚します。また後にエザキダイオ-ドでノ-ベル物理学賞を取る江崎玲於奈はソニ-に勤めていました。
井深という人はいつも新しい製品に挑戦します。有名なのはトリニトロンTVです。これでTVの画像は飛躍的に鮮明になりました。また70歳近くになってウオ-クマンの製造を指示しています。この機器は若者文化の象徴になりました。私も現在これを愛用し語学の学習に役立てています。
トランジスタ-ラジオでブラントを確立し、経営を世界のソニ-へと飛躍させた井深の関心は社会文化事業に向かいます。挙げればきりがありませんが主のところで、科学教育振興、障害者自立のためのコロニ-建設、胎児幼児教育、東洋医学、左脳右脳理論などがあります。経営者としては珍しく文化勲章授与を授与されました。もっと頑張ってもう一つ欲しい、と言った逸話があります。1999年死去、享年91歳。
以下の話が、真実か否か、は知りません。ソニ-が新進企業として有名になったころ、ある乗っ取り屋に株を買い占められます。ソニ-の経営陣は技術屋ばかりですから、どう対処していいのか解りません。噂では乗っ取られるのを覚悟し、その時は特許のみ抱えて飛び出そうと決めたそうです。特許のないソニ-ならあんこの無い饅頭同様です。乗っ取り屋はあきらめます。この真偽定かならざる噂話も、技術者集団ソニ-を雄弁に物語るものです。

参考文献
 ソニ-を作った男、井深大
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

本居宣長(5)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-11-28 14:08:45 | Weblog
本居宣長(5)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(慈円、日蓮、宣長)
 よくよく考えてみると我国固有の思想は西欧や古代ギリシャ以上に民主主義的(私はこの言葉が誤解を生じやすいので嫌いなのですが)です。万民平等と言ってもいいでしょう。
このような思想の創始者は大胆に言って、慈円、日蓮、本居宣長の三人に集約されます。慈円は先の章で述べた通り、最終的に政治権力の単位を経済(人)に求めました。ここで国家と民衆は相互相即的関係、換言すれば平等になります。日蓮は折伏逆化の過程で、主と客は同一であり、ともに仏になれると説きました。一時的にでもできれば永遠にでも、主と客(人と人)が一致する(同一であると認める)事が仏性の従って神聖さの由縁でしょう。宣長は本章でのべたように言葉の変容力(呪力)を介して人間個々人は神に至ると述べました。慈円の所説は本来王権を仏教と婚姻と経済から弁証しようとしているのですから、結果として民衆は仏性に至ると説くことになります。日蓮は法華一乗を唱え法華経を絶対視しました。法華経は元来、国家経営の基本原則を述べたものです。ですから日蓮が国家を重視し国家主義に傾くのは当然です。宣長は高天原の神々(その頂点は天照大神ですが)の実在を確信し万民皆そうなれると言いました。つまり王権の絶対化・承認です。このように慈円、日蓮、宣長の三人はすべて基本的には王権(天皇制と言ってもよろしい)を承認し、王権と万民の相互性平等性を説きました、あるいは暗示しました。
 ところでここにもう一つの要因があります。それは「性・エロス」です。慈円は国家形成の要因の一つとして婚姻を挙げました。ですから直接エロスの意義を肯定したことになります。日蓮の折伏逆化では説得する者とされる者との間に怒りと罪業感が出現し、それをもって両者は和解し一致すると説きます。怒りと罪業感は攻撃感情そのものです。同時にこの攻撃感情はエロスの変容したものです。宣長は言葉の変容力を重視し、彼の所説の根本に置きました。言葉とはエロスです。通常の日常会話では対人間に距離と利害が置かれますから、エロスは表面からは見られません。しかしこの距離が取り払われるとエロスは顕在化します。詩歌や演劇はその典型的な例です。
 この問題は重要であり、より緻密な思考を必要とします。私の考えもまだまとまっていません。ここでこの章の叙述における筆を置きます。

経済人列伝 井植歳男(一部追加)

2019-11-27 17:44:23 | Weblog
経済人列伝  井植歳男(一部追加)
三洋電機の創立者です。歳男は松下幸之助の妻の弟、つまり義弟になります。松下を助けて30年、独立して22年の人生を送ります。歳男は1902年(明治35年)、日露戦争の直前、兵庫県淡路島の浦村に生まれました。家は農家ですが、父親の清太郎は農事を好まず、汽船を買って、九州や大陸方面を相手とする運送業と仲買業を営んでいました。歳男の上に姉が4人、下に弟二人(祐朗、薫)と妹一人がいます。歳の瀬に授かった待望の男子なので歳男と命名されました。父親は歳男を可愛がりました。しつけは厳しく、海に放り込まれて泳ぎを覚えさせられ、また畑で取れた野菜を町に売りに行かされました。物を売る事の難しさを覚えさせるためです。父親の仕事は順調で羽振りも良かったのですが、歳男13歳の時に死去します。短い縁でしたが、歳男は父親の印象を強烈に保持しており、誇りに思っていました。勉強は嫌いで、大変な腕拍小僧でした。1917年(大正6年)尋常高等小学校を卒業して、遠縁の船に乗り、運送業に励みます。母親こまつは歳男が船に乗ることには反対のようでした。仕事に就いて3ヵ月後、船が大阪安治川を遡っている時、河畔にあった東京倉庫が突然爆発します。死者43名の大事故です。そのあおりで歳男の乗っている船(20トンの帆船)は焼亡します。歳男と船長は危機一髪水の中に飛び込んで免れます。歳男はすごすごと淡路の家に帰ります。
 同年1917年、歳男14歳時、次女うめのが嫁いでいる松下幸之助が大阪西成の猪飼野で新しく、電気製品の製作販売を始める、というので、松下の会社に入ります。会社・工場と言っても、5-6坪の超零細企業でした。松下は自分の直感に自信をもって周囲の反対を押しきり、それまでの安定した地位(関西電力の検査員)を捨てて、しかもほとんど資金を準備せずに独立しました。松下が自信をもって制作したソケットは全く売れません。二人の社員はやむなく辞職します。松下の親族である歳男はそうもゆきません。内心、とんでもないところに就職した、とほぞをかみます。幸い、というより奇蹟ともいうべきでしょう、ソケットの一部に使用していた煉物が、扇風機の硝盤の材料として最適であることが解り、この煉物だけが大量注文されます。こうして松下は危機を乗り切りました。神風としか言いようがありません。歳男の仕事は材料を鍋に入れて攪拌する事と、丁稚車(大八車?)に荷を載せて運ぶ作業です。私が知る限りでは松下の経営危機は敗戦後の一時期を除けば、これだけで後はすべて上り調子です。
 こうして歳男は松下の片腕になってゆきます。二人の性格とおい育ちは全く対照的です。歳男は親兄弟に恵まれました。父親と早く死別されたとはいえ、父親の薫陶と愛情は身にしみています。母親は長命で、歳男の危機には常に側にいて励ましてくれました。歳男も母親思いで母親を大事にします。兄弟もすべて長命で二人の弟は歳男が三洋電機を立ち上げる時には協力してくれました。松下は30歳までにほとんどすべての親兄弟を失い、天蓋孤独でした。父親は賭博狂であり、母親との連絡も乏しく、松下は自分の家族のことをほとんど語ることはありません。松下は食うに困って9歳で奉公しましたが、歳男にはこの種の生活の危機はありません。当時としては普通水準の教育を受けて、長男の自覚の下に仕事に就きます。松下は体が弱く、時として半年間ほとんど寝たきりの生活もあったようですが、反対に歳男は頑健で、松下の実務面はすべて彼の采配に任されました。松下は秋霜烈日、観念が先走りがちな理想主義者ですが、歳男は春風駘蕩で現実を無視する事のない性格でした。松下の立場からすれば、歳男は実の弟のようなものです。二人の性格は全く違いますが、これが良かったのかも知れません。松下はこの義弟を信頼し可愛がり、自分にない長所を認めて、歳男の行動を認めます。歳男は松下と、唇歯輔車、異体同心の関係を為し、形影相接するような形で、松下と行動を共にします。最初歳男は、としやん、としやん、と呼ばれていましたが、松下が店員から大将と呼ばれるのに対して、若大将と呼ばれるようになります。歳男は松下電器の当初からずっと、松下に次ぐNO2の地位にありました。この間歳男は学問の必要性を痛感し、西野田工業専門学校の夜学に通い卒業しています。歳男と松下の関係が極めて良好であった理由の一つには、次姉うめのの良妻ぶりもあるでしょう。兄と弟・義弟の良好な関係は歴史上多々あります。平清盛と妻時子の弟時忠、足利尊氏と実弟直義、豊臣秀吉と異父弟秀長あるいは妻北政所の弟浅野長政などです。しかし兄弟はいずれどこかでなんらかの形で別れます。
 17歳時、歳男は販路拡張のために東京に駐在します。この間、松下の了解を得て、松下電器の販売に従事する一方、自分の裁量で取引して(松下関係以外の製品を)自分の収入にする事を試みます。例えば東京で売れ筋の商品を自分が販売代理店となって、大阪の商人に取り次ぐとかの行為です。独立したかったようです。商売はかなりな成功をおさめたようですが、関東大震災に見舞われ、大阪に帰ります。しばらくして、兵役に就きます。頑健な身体なので、甲種合格の上に、旅順の重砲隊に配属されます。重い大砲や砲弾を扱う部門ですから、特に体格の良い兵隊が選抜されて、この隊に配属されました。軍隊生活は楽しかったようです。頑健な身体、気さくで楽天的な性格ですので軍隊仲間とすぐ仲良しになりました。二つの逸話があります。旅順小町と呼ばれた女性と相思の仲になり、娘の親から養子縁組を申し込まれたこと。初年兵の時、チフスの予防注射を受けます。しばらく発熱があるので安静臥床を命じられます。初年兵が食事を運ぶ当番でした。やむなく歳男が運びましたが、微熱のためふらふらします。それを二年兵にとがめられ殴られます。倒れるわけにはゆかないので、振り払うと、反抗したとして集団暴行を受けそうになります。歳男は上半身裸になって大の字に寝転び、好きなようにせいと開き直ります。二年兵達は非が自分達の方にあり、もし歳男がチフスを発病すれば大問題になるので、そのまま引き下がります。歳男の勤務成績は非常に優秀で、半年で上等兵の勤務するところに配属されます。加えて除隊に際し上司から、職業軍人になる事を熱心に勧められます。勧めに従っていたら、少佐くらいには成れたでしょう。もっとも正規の士官学校を出ずに少佐になるのは大変なことなのですが。
 除隊後、歳男は松下のために東奔西走します。松下の健康が優れず、実務面は歳男の裁量下にありました。支店の新規開設などはすべて彼が陣頭指揮をします。そのため妻と子供は方々を転々とする生活を送るはめになります。歳男は25歳で結婚しましたが最初の妻は結婚直後急死します。26歳、再び結婚します。名はひで子、松下の妻うめのと同じく糟糠の妻として夫を支えます。松下と歳男の親族は他に多くの婚姻関係を作っています。
 松下時代の歳男の仕事で特記する事が二つあります。まず中尾哲二郎とコンビで作成した、ラヂオです。この分野では松下は後発メ-カ-でした。当時のラヂオは故障するのが普通でした。歳男の作ったラヂオは、価格は少し高いが、滅多に故障しないのが売り物でした。事実よく売れました。この商品で松下の電気機械製造業者としての地位が確立します。つまり高度の技術性を持つ製品を作り出す能力が承認されたわけです。もう一つが船の流れ作業による製造です。戦時に急造の船が大量に要ります。堺と秋田県能代の浜に、レ-ルを引き、下から船を組み立てます。一部できたら前に移動して、その上の構造をさらに組み立てます。それまでの造船の作業は、出来上がるまですべて固定し、出来上がったらそこで綱を離して、一気に進水させるというドック方式でした。歳男は電気製品と同じように船を造ったわけです。松下造船という会社を立ち上げ、社長におさまります。流れ作業による造船という情報はいつの間にか敵の米国でも噂になりました。公職追放まちがいなしの情報です。突然作業が止まります。全院うろうろする中、歳男は上着を脱いで寒中水の中に入り、故障箇所を点検します。周囲の者も社長自らそうするのでやむなく同じようにして水の中に入ります。裸になることが好きな人のようです。
松下電器産業の発展の鍵の一つは代理店の統制に成功したことです。松下の製品を扱う代理店は一店一小売店を原則とさせられます。つまり一つの小売店に複数の代理店が品物を卸すことはできません。歳男はこの代理店統制にも辣腕を振るいます。
 敗戦、時代の状況はがらりと変わります。歳男は松下に継ぐNO2の専務ですから、公職追放に会います。松下電器産業全体として受けた制裁は次のようなものです。財閥家族指定、この措置に会うと自らの所持する資産はGHQの許可なく、使えません。賠償工場指定、アメリカ特にマッカッサ-は日本の製造業の優秀な部分をすべて東南アジアに運び、そこの産業を振興しようとしました。賠償としてこれらの優秀部分は保管され、企業としてはそれらを使えなくなります。軍需補償の打ち切り、政府は戦時中企業の軍需品生産を奨励というより強制し、そのための費用と利潤は補償するつもりでした。GHQはこれらすべてを打ち切りにします。戦争では儲からない事を日本人に教えるためとかの由です。両度の大戦で一番稼いだのはアメリカなんですが。最後が公職追放です。公職といえば公務員のように見えますが、この場合は民間企業の上級職も入ります。戦時中ほとんどの企業は軍需品製造に狩り出されました。また製造業の基礎的部分はなんらかの形で共通点がありますから、軍需品製造だといえばそういう因縁はつけられるわけです。さらにいざ戦争になると、普通な人なら、お国のため、と思い協力します。軍需補償打ち切りで、1/10以上の減資を余儀なくされます。つまり日本の企業規模は1/10以下になったわけです。さすがに松下では戦犯の指定はありません。ちなみに戦犯として処刑された人はA級7名、死刑判決を受けたBC級は1000名に上ります。
 私は、戦争は政治の延長であり、利害計算の最終的調整過程と理解しているので、戦犯という概念自体を否定します。あえて戦犯という言葉を使うなら、それは勝者にとって都合の悪い存在の別名です。歴史において正義の戦争なんかありません。アメリカが日本に科した、上記五種の制裁は、明らかに日本の製造業を壊滅させ、日本(とドイツ)を農業国家にするプランでした。もしその通りになっておれば日本人の生存可能人数は3000万人くらいですから、5000万人は飢え死にしたことでしょう。特に公職追放は日本人エリ-トを根こそぎ壊滅させる作戦でした。アメリカの最大の誤算は、両国の社会体制の違いです。アメリカでは一部のエリ-トが、圧倒的多数の大衆に上に立って威を振るい、トップダウンで指導します。日本は平安鎌倉の時代から、衆議制です。上から下までなだらかに連なる諸階層の衆議と連携で事が運ばれます。ですから一部のエリ-トを排除しても、すぐ下から人材は這い登ってきます。野村證券の奥村綱雄、川崎製鉄の西山弥太郎、日清紡績の桜田武などが好例です。
ちなみにGHQの公職追放の理由はかなり曖昧でありご都合主義です。占領直下の日本では、GHQの出先機関や部隊は、日本の中央及び地方財政から7-8%程度の金額を、直に使用する権限が与えられていました。簡単に言えば、出先の部隊が現地で料亭を借り切り、日本人客を追い出し、芸者を挙げてどんちゃん騒ぎをして、その支払いを例えば大阪府に請求する事ができました。尉官級の軍人でもこの権限を有していました。悲鳴をあげた地方の声に応じて、時の蔵相石橋湛山はGHQに強硬に申し入れ、この制度を一方的に廃止します。湛山和尚の理由は、そんな事をされたら日本人は飢え死にするほかない、です。GHQが石橋を公職追放にしたのはそのせいもあります。
GHQ内部のすべてが、日本産業壊滅を方針としたのではありません。戦時中の大統領は民主党のF・ルーズベルトです。彼は1929年の大不況に応じて、いわゆるニュ-ディ-ル政策を展開します。日本の高橋財政とそれに継ぐ国家統制経済、ナチスドイツのシャハト財政も同工異曲です。これらの政策全体に共通するのは、何らかの形での、経済への国家介入です。いきおいそこには社会主義的傾向があります。アメリカでは社会主義思想は表に出る事が少なく、ニュウディ-ル派がその感情を代表する傾向にありました。民主党政権下、こういう連中が日本にやってきます。彼等は故国でできなかった理想的政策を日本に強要し実験しようとします。彼らの態度は性急で極端で理想主義的で、そして容共的でもあります。戦前日米独の三国は似たような政策を取った、と私は言いました。このうちで一番成果が上がらなかったのが、ニュウディ-ルです。日本にやってきた連中には欲求不満を日本で晴らすという心情があったかもしれません。いずれにせよ民主党政権は日本にとって鬼門です。開戦、原爆投下、敗戦、占領、そして反日的洗脳などすべて米国民主党政権のもとで行われました。現在のオバマ政権も民主党です。
 井植歳男は公職追放で松下を去ります。この時借金が350万円ありました。資産の大部分を占めていた松下電器産業の株が暴落して、ゼロ同然になったからです。主たる貸主は住友銀行です。住友から呼び出しを受けます。覚悟して銀行にゆくと、後に頭取になる鈴木剛から、50万円融資するから何か事業をしないかと提案されます。歳男はこの提案を受け入れ、自分の土地財産を処分して得た70万円を足して、計120万円で新会社を設立します。住友としても350万円不払いで両者ともに損をするより、信用のある歳男に事業をやらせて稼いでもらい、利子ともども返してもらう方が得です。
 歳男は昭和22年、大阪府守口市に6畳ほどの事務所を開きます。三洋電機産業の立ち上げです。「三洋」の名は、太平洋、大西洋、インド洋、の三つの大陸間海洋の名を意味し、歳男が、将来輸出に全力を置く意志の表明でした。守口と兵庫県北条に工場を造ります。北条工場では主力製品として、発電ランプ、を製造します。自転車につけて、自転車をこぐ時出る運動エネルギ-を電気そして光に変えるのです。簡単にできたのではありません。ランプを覆う外側は真鍮で作るのですが、なかなか思うようには整形できません。苦心して作った発電ランプは性能がよく、売れて海外に輸出されました。ほっとしていると朝鮮動乱、軍需品として重要なニッケル地金の輸出をカナダが禁止します。ニッケル鉱石の輸入は可能なので、歳男は国内でのニッケル地金生産を開始します。発電ランプの販売まで時間がかかります。その間無収入ではやって行けません。歳男は当座の資金繰りのためにきわ物も作ります。停電燈は懐中電灯の電力を大きくしたものです。当時停電はしょっちゅうだったので、重宝がられました。もう一つが進駐軍相手の電気スタンドです。落下傘の生地などを利用して笠を作りました。ニッケル輸出禁止で危機に立たされた歳男は単品生産に賭ける事の危険性を身にしみて感じ、家電総合メ-カ-の方向を目指します。
 まず彼が手がけたのはラジオ製作です。安い製品を作ります。木の枠組みをプラスティックのそれに変え、値段を1万円以下に抑えて製造販売します。この時積水化学の技術陣の全面的な協力がありました。次に洗濯機製造を試みます。先発メ-カ-はすべて攪拌式でした。ここで歳男は住友銀行の頭取鈴木剛から、噴流式というものがあるという、重大な示唆を受けます。攪拌式洗濯機では、大きな羽が洗濯物をかき混ぜて洗います。もみ洗いです。噴流式では、水を激しく洗濯物にぶちあてて洗います。さらし洗いです。洗濯物に傷がつきにくいこと、丸型の攪拌式に比し角型の噴流式は場所を取りません。さらに攪拌式では水が飛び散り、床の上には置けません。歳男はここで噴流式洗濯機製造に舵を切り替えます。必死の努力で、昭和28年、28000円の洗濯機販売に漕ぎつけます。当時洗濯機の価格は5-6万円、庶民には高値の花でした。3万円以下ならなんとか買えます。販売量が上がればコストを切り下げられるので、いよいよ価格は下がります。噴流式洗濯機が発売された昭和28年を、歳男は「家電元年」と名づけます。噴流式洗濯機の発売には、さすがの松下幸之助もショックだったようで、ライヴァルとして断ち現れた三洋にかなりな程度感情的になります。以後すべての家電メ-カ-は噴流式に切り替えます。家電総合メーカ-として、三洋電機は、電気冷蔵庫、電気掃除機、電気炊飯器、ル-ムク-ラ-、電子レンジ、皿洗い機、更にト-スタ-、ジュ-サ-、ミキサ-、ロ-スタ-、電気ポットなどを作り続けます。変ったところでは、左開きの電気冷蔵庫、ろくろ首のような扇風機(上下方向の調節可能)があります。もちろんTVも製造します。1955年(昭和30年)10万円を切るTVを製造してTVの大衆化に貢献します。昭和34年に関東に進出し、利根川河畔の大泉町の旧中島飛行機工場をそのまま買収し、製造拠点のひとつにします。そのとき歳男は中島知久平の家を訪れ、中島の霊前に線香を捧げています。以下に三洋電機の業績発展を数字で示します。
  
          資本金      売上高      従業員数
昭和25年    2000万円      6億円      400名
昭和44年     300億円   2600億円    22000名

 1969年(昭和44年)肺癌で死去、享年66歳。早すぎた死ではあります。虚弱な幸之助が90歳を超えて長命し、頑健で社内の誰にも相撲で負けたことのない歳男が、比較的早く死去するのも運命でしょう。
 歳男が松下から独立した動機はいろいろ憶測されています。私は、歳男が独立したかったからだと思っています。なるほどかれは義兄幸之助に忠実でした。しかし彼の性格は不羈奔放そして機略縦横です。20歳前後ですでに独立を志した事もあります。それ以後は大不況、戦時体制、そしてなによりも松下の業績が下降する事無く一本調子の上り坂なので独立するチャンスがなかったのかもしれません。
 歳男の基本戦略は、庶民が容易に買え利用できる製品の製造にあります。家電はその点では歳男の好みに最もあう品物です。そして三洋が軌道に乗る昭和20年代末から30年代そして40年代前半は、日本経済の高度成長期であり、家電は内需輸出ともにリーディングインダストリ-でありました。歳男が死去した、昭和44年はこの高度成長時代の末期になります。以後40年経ちます。数ヶ月前経営不振に悩んでいた、三洋電機は解体され家電部門は松下に吸収合併されます。以前私は、三洋電機担当の電通営業マンから、三洋の製品は優秀なのに、どうしても安売り家電三洋のレッテルがとれない、ときいたことがあります。また三洋は液晶や太陽電池でも良い技術を持っています。しかしどこかワンポイントタイミングがずれているような気もします。秋霜烈日と春風駘蕩の差でしょうか。

 参考文献
   井植歳男の事業と人生   日本実業出版社

(付)家電は成長産業の座を降りて久しいといわれます。技術的にはもう発展途上国のそれとたいして違わないともいわれます。しかし日本人が買う家電製品はほとんどが日本製品です。どうなっているのでしょうか?中国や韓国あるいはアセアンなどの製品がそれほどのものなら、彼らのブランドで日本で販売できるはずですが。自動車にしても日本では日本車ばかり、現代の車は三桁を越えていません。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


本居宣長(4)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-11-27 14:06:32 | Weblog
本居宣長(4)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(本居宣長の後世への影響)
 宣長とその師賀茂真淵を祖とする門流を国学と言います。国学は豪農層中心に広がりました。平田篤胤という優れた啓蒙家・組織者の功績も重要ですが、宣長の貢献は群を抜いています。宣長の古事記伝により一君万民が説かれましたが、これはすでに述べたように、君主神権説であり万民平等論です。そしてなによりも「民は神」になります。階層差は原則として無くなります。皆平等に政治に参加できます。少なくともそういう可能性を潜めています。何分とも人(あるいは人が為す社会)に我が身を当てはめるのですから、行動への飛躍は容易です。後に述べますが幕末「処士横議」という現象が起こります。ペリ-の黒船来航に際し、全国から澎湃として武士郷士豪農層が積極的に政治的意見を開陳し政治に参加しだします。この動きは結局幕府倒壊にまで突き進みますが、この動きの背後には宣長の影響があります。なにしろ身を「はめて、化して」行動し対処せよというのですから。
 この動きの典型が水戸学の創始です。元来水戸藩は御三家の一つでしたが幕府に対していろいろな不満を持っていました。加えて藩と領土は貧乏で財政難を克服するために藩政改革をします。しかも領土が太平洋に面しているので国防にも熱心でした。農兵を採用し軍政を改革します。こうして農民町人も武士に取り立てられます。藤田東湖の父親幽谷が代表です。水戸藩は光圀の代から大日本史を編纂していましたが、ここで国史編纂の事業に国学が入り込み儒教と混ざり合って水戸学が形成されます。水戸学の特徴は「行動第一主義」です。その典型が桜田門外での井伊大老の襲撃殺害です。これで幕府は政治の主導権を失い滅亡への道を歩み始めます。幕末14年間のうち前半は水戸藩の主導で動きました。「身を当てはめる」という事がなければこの種の行為はできません。宣長の古事記解読と井伊大老襲撃は同じ根を持っています。
 我が国特に江戸時代には庶民出身の優秀な学者が多いのです。先に述べた石田梅岩や二宮尊徳、それに本居宣長、富永仲基、山片バン桃、中井竹山などなどです。


  経済人列伝 井上準之助(一部追加)

2019-11-26 17:25:44 | Weblog
 経済人列伝 井上準之助 (一部追加)
 彼、井上準之助の名は日本の歴史においてかなり不吉な響きを持ちます。エピソ-ドがあります。1971年頃、ニクソンショック後、通貨制度が変動相場制に移行しつつあった時、水田三喜男蔵相が渡米して、米国のコナリ-財務長官と円ドル為替レイトを商議しました。コナリ-長官は17%以上の切り上げを主張しますが、水田蔵相は頭を縦にはふりません。その時水田蔵相が持ち出した因縁話があります。水田氏曰く、「17%という数字はわが国にとって非常に不吉な数字だ 1929年、井上準之助蔵相が金を解禁した時の、円切り上げ幅がこの数字だ (以後日本は不況に沈み、そこから脱出するためにもがき、結局どうなったかは貴方も知るところだろう)」と。この言葉で辣腕の政治家コナリ-長官も引き下がったそうです。(ヴォルカ-・行天「富の興亡」より)それほど井上準之助の名は金解禁政策と、その結果生じた大不況、さらに暗殺、軍部の台頭、そして日米開戦という昭和史の悲劇と結びつきます。
井上準之助は1969年(明治元年)現在の大分県日田市で生まれます。7歳の時、叔父の家に養子(井上姓)に出されます。村では腕白坊主で通っていました。元来強気の人です。11歳養父死去。生計は厳しかったようです。しかし中学校に入り、上京して一高を受験し、不合格になりやむなく仙台二高に入学します。だから生計が厳しいといっても地方の名望家としての扶養は充分受けていた事になります。25歳東大法学部に入学、29歳卒業し、日銀に入社します。秀才が典型的な秀才コ-スを歩むのですから、そう面白い話があろうはずはありません。37歳日銀大阪支店長、翌年本店営業局長と出世コースを駆け足で登ります。これにはわけがあります。山本達雄という当時の日銀総裁の独裁に反対して10名近い幹部が辞職します。人事不足に陥った後を埋める形で、井上が抜擢されます。45歳横浜正金銀行(外為専門の銀行、戦後東京銀行と改称、現在は東京三菱UFJ)の頭取になります。すでに日本の金融界の巨頭の一人です。51歳日銀総裁、55歳山本権兵衛内閣蔵相、そして貴族院議員に任命されます。59歳再び日銀総裁、61歳民政党に入党し浜口雄幸内閣の蔵相として金解禁を断行します。浜口内閣総辞職後は若槻礼次郎内閣の蔵相として留任します。後下野、国会議員として自分に代った高橋是清蔵相と金解禁製作の是非を巡って討論します。64歳、血盟団員小沼正にピストルで撃たれ死去します。なお上記した浜口・高橋両氏も暗殺されています。
井上準之助が始めから強固な金解禁論者であったかどうかには疑問があります。51歳で日銀総裁になった時、日本は第一次大戦後の反動恐慌で不景気に突入していました。井上はこの時、大胆かつ放恣に政府資金を企業救済のためにばらまきました。後年彼が実行する緊縮財政はこの企業救済過多の結果の整理ですから、皮肉といえば皮肉です。しかし政策は時の状況にあわせて行われるべきものですから、井上が首尾一貫していないと責めるのはおかしい事になります。彼は強気で面倒見のいい人でした。当時の財界のまとめ役・世話役であり、財界の巨頭でした。無役の時でも、一日に数十人の訪問客があったそうです。また高橋是清とは後に論敵になりますが、個人的には親しく、高橋に引き立てられたところもあります。企業救済資金のばらまきには当時でも反対者がかなりいました。鐘紡社長の武藤山治は井上の政策を、無能で怠惰な企業をのさばらせる政策だとして、非難しています。この武藤もやがてだれかに暗殺されます。
日露戦争後日本は不況になります。勝った(厳密には、負けなかった)のはいいが、期待していた賠償金は入らず、戦費総額は国家予算の10倍近くになり、外債の返済に追われます。暫くして第一次大戦が始まります。ここで日本は大儲けします。1918年戦争終結。欧州各国は必死に経済を立て直します。逆に日本は過剰設備による供給過剰で物は売れません。需給のバランスが崩れ不況になります。この経過は当然です。教科書的に言えば、ここでは財政を引き締めて、総需要を抑えなければなりません。そうして不良企業を間引き、痛みに耐えた企業を育成してそれを将来の産業の基幹にするのがいいのです。しかし一度好況になれた企業はいつまでも甘かった昔をしたい続けます。政府も人気取りのために、企業救済を行います。収益性が低く、国際競争に耐えない不良企業も保護されます。それ以上に重要な事は、日露戦争後日本は第二次産業革命に入った事です。まだ幼稚な重化学工業を育成しなければなりません。機械装置、原材料、技術など投資として必要であり、輸入しなければなりません。貿易収支は当然赤字化します。
そして1923年関東大震災が起こります。死者は20万名近くになりました。東京周辺の産業設備は壊滅します。復興のために政府は震災手形を発行します。これは当然の処置です。が、手形の回収がうまく行きません。政府は民間の要望に押されて、不良債権の整理を遅延させます。震災は不幸ですから、その不幸に甘えるやからも続出します。あるいは震災を蒙っていないのに、手形を受け取る連中も出てきます。こうして昭和に入った頃、企業収益は低迷し、外貨準備は1億円を切り、財政は逼迫します。
第一次大戦勃発に伴い日本も含めた各国は金本位制を停止します。大戦終了とともに金本位制に復帰します。いわゆる列強といわれる国の中で、日本の金本位制復帰は一番遅れていました。代々の内閣はそれを検討しましたが、問題は先送りされます。金本位制には長所も短所もあります。なかなか踏み切れなかったのです。1929年浜口内閣の蔵相になった井上準之助は、金輸出解禁(金本位制復帰)を宣言し、翌年1月から実施します。
金本位制復帰の目的は第一に通貨の安定です。通貨が安定しないと安心して貿易はできません。他国の信用を得られません。また金本位制は通貨と景気の自動安定装置ともみなされます。景気がよくなり、輸出が増えると金が流入し、国内物価は上がり、輸出は抑えられ、景気は下降します。景気が悪化すると逆のコ-スをたどります。物価と景気が一定範囲内に収まり、しっかりした企業のみ残ります。また政府が裁量的に通貨を増やしたり云々の手段を用いて不良企業を温存する事はできなくなります。理屈としてはこういうところです。生産量が安定している希少な貴金属である金の総量を維持する事で、景気の過熱と反動としての不況の激化を押さえようとします。緊縮財政も可能になります。金本位制下では政府が勝手に貨幣供給を左右することはできないんですから。消費は抑えられ、賃金は切り下げられます。官吏の俸給切り下げ案が提出され、検事や裁判官も反対の陳情を始めます。企業も合理化を迫られ、カルテルなどの寡占体制が出現します。軍備は縮小され、海軍の恨みを買う事になります。新たに発展を開始しようとしていた、重化学工業はそれを阻止されます。ここでも軍部の不満を掻き立てます。
日本の金解禁宣言は1929年11月21日でした。3日後の24日に米国の株価が暴落します(black Thursday)。最初日本も米国も、他の諸国もたいした事はないだろうと多寡をくくっていました。こうして1930年1月11日金解禁が実施されます。世界不況はとめどなく進行します。当時の日本にとって最大のお得意は米国、輸出商品は生糸でした。肝心の米国が買えません。生糸は暴落し農村は不況になります。また綿製品の輸出先
である中国やインドは大不況の余波が農業恐慌として波及し、ここも購買力は激減します。当時の日本の主力産業は綿糸と生糸からなる紡織業でした。主力産業が壊滅します。1929年から1931年にかけて以下のように経済統計は悪化します。
  GNP     18%減
  輸出     47%
  個人消費   17%
  設備投資   31%
  民間労働者数 18%
  実質賃金   18%
  製造業収益率 80%
  株価     51%
  農水産業   42%
いずれも減少です。 
 金解禁は必要であったのか否か、という問題が残ります。やむをえなかったとも言えます。不換制のままでは、どうしても財政は放漫になります。議院内閣制下にあって緊縮財政は不人気です。緊縮財政でもって不良企業を淘汰して、より筋肉質の体質に経済をもってゆく必要はあります。その為には痛みを覚悟しなければなりません。裁量では判断が揺らぐので金本位制にしてしまうのも一方法です。
 しかし金本位制は基本的には勝者優先の制度です。19世紀中葉に世界の金量の半分以上を押さえたイギリスにとって非常に有利な制度です。所持する金量が国力経済力を決めるわけですから。天井が決まっており、経済はそれ以上伸びないことになります。日本が金本位制になれば、新規の投資は抑えれますから、新しい工業、特に重化学工業の発展は阻止されます。そしてそれまでの得意分野である軽工業に閉じこもらざるをえなくなる可能性が出てきます。比較優位の原則に従って、低成長経済に甘んじなければなりません。
 イギリスでも金解禁に関して賛否両論がありました。ケインズは時の蔵相であるW・チャ-チルの金解禁に極力反対しました。この頃から後年彼の名を不朽にする「一般理論」の構想の無意識的な土台はできていたようです。日本では戦後首相になる石橋湛山や高橋亀吉などの諸氏が、金に対して切り下げた価で金解禁するべく論陣を張っていました。
 井上に代って財政を担当したのが高橋是清です。彼は金輸出を禁止し、金本位制を放棄します。不換紙幣を増刷し、有効需要を掘り起こしで経済を活性化します。この新しい体制下に新しい財閥、いわゆる新興財閥が躍進します。技術者出身の経営者に指導され、持株会社を介して株式でもって資本を集める、日産、日窒、日曹、森、理研などの会社集団です。彼らが第二次産業革命の尖兵になりました。株式と不換紙幣は似たようなものです。
 井上準之助のやり方は優等生的な手法です。均衡論の教科書に忠実です。イギリスもそうでした。イギリスを本家とする経済学の手法に井上は極めて忠実です。アメリカでも同じ事がいえます。1929年の大不況の時の大統領はフ-バ-でした。彼はすでに実業界で成功しており、米国商務長官としての実績もありました。ですから大不況をそれまでの景気循環として捉えてしまいした。結果は惨敗です。フ-バ-に代ったル-ズベルトは経済の素人でした。だからニュ-ディ-ルなどという新規な方法を取れたのでしょう。既成概念に縛られない分、試行錯誤は可能です。このニュ-ディ-ルも、日本の高橋財政も、ヒトラ-政権のシャハト財政も不況を完全には解決できません。解決は戦争に持ち越されます。その最終勝者がアメリカです。そして戦後のブレトンウッヅへと連なってゆきます。
 私は先に大不況下の日本経済の収縮ぶりを数値で示しました。直感的にですが、そうたいした数字ではないなとも思います。戦後日本は二度危機を経験しています。石油ショックと平成不況です。ここで数値を示す事はできませんが、この二度の危機によるショックの方が数量的には大きかったのではないかと思います。日本はそれを乗り切ります。1929年とどこが違うのか?雑な言い方ですが、経済規模の違い、体力の相違でしょう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

本居宣長(3)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説

2019-11-26 13:47:21 | Weblog
本居宣長(3)「君民令和、美しい国日本の歴史」-注釈、補遺、解説
「君民令和、美しい国日本の歴史」という本が発売されました。記載が簡明で直裁、結論を断定しています。個々の項目を塾考すれば意図は解ると思いますが、内容を豊富にするために以後のブログで個別的に補遺、注釈をつけ、解説してみます。本文の記載は省略します。発売された本を手元に置いてこのブログを見てください。

(詩歌、文学、演劇)
 ここで詩歌、演劇、広義には文学というものの意味が浮上してきます。これらを一括してドラマと言っておきましょう。我々はドラマを通してのみ社会や歴史を描き理解できます。源氏物語、忠臣蔵、大岡政談等は作られたものであり虚偽だといっても、これらの作り物を通してでなければ、我々はその背後の実在を把握できません。単なる数字や事実の累積では全体像・形態がつかめません。我々はドラマの世界に生きているのです。例として和歌・俳句を挙げてみましょう。和歌や俳句は短詩形で誰でも作れるので便利です。和歌俳句を作ります。そうしてある情景(風景、人情)が把握されます。この和歌俳句は人に与えられます。これらの詩歌をモデルとして、また別の詩歌が作られ伝播してゆきます。和歌・俳句においては作る人が我が身を「はめて、化して」作るという事は当然でしょう。本居宣長は和歌作成を重要視しました。もっとも佳作が少ないのが難点ですが。和歌俳句をもう少し日常化(客観化)すれば単語が出てきます。これは推論ですが、わが国では他の国に比べて争い事が少ないのは、和歌俳句のような日常的次元で創作できる短詩形の詩が発達しているからでしょう。新古今集の代表的歌人慈円は生涯で数万首の和歌を創ったといわれます。俳句では井原西鶴は一昼夜で数万句を作りました。このような事は他国にはありえないでしょう。私は言葉の威力のいい例を挙げましたが、悪い例もあります。いわゆる流言飛語とかフェイクニュ-スの類です。この種の言葉は広がりだしたら、火が燃え尽きるまで燃えるように、燃え続けます。特に昨今はその手の専門家であるメディア・マスコミの存在があるので大変です。