保守主義とは何か?
1 保守主義あるいわ保守思想とはなにかを考えてみましょう。現実に政治は保守的政治家と言われる人達により動かされています。日本でも戦前戦後を通じて政治の現実を作り上げてきたのは保守陣営です。保守に対して革新という言葉があります。かっこよく聞こえますが、革新陣営の人達が何かしたということはありません。彼らはただ批判し反対するだけです。彼らがそうなるのはそれなりの理由があるのですがその説明は省きます。ただ一言だけ。革新つまり左翼は理想と願望をもって正義とします。理想と願望は政治の目標ではあるのでしょうが、政治の方法を提供はしません。しかし保守にも保守なりの弱みはあります。保守は存在するが保守の思想とは何かと問うことは極めて少ないのです。保守は現実にその場的に対処する手法のみであって、思想つまりまとまった考えになりえないとさえ言われます。保守は伝統を維持するのだから思想はいらないというのでしょうか。このような考えは極めて危険です。現在世界は昏迷状態に向かいつつあります。ここで、保守思想とは何かをより深い立場から考えてみましょう。
2 保守は伝統を尊重し維持します。保守とは「保ち守ること」ですからこれは同じ事柄を言い換えたに過ぎません。守るべき伝統とはなんでしょうか。この伝統の核心は何でしょうか。答えは、君主、です。君主制のみが伝統を維持し、維持しつつそれを変化させうるのです。保守とは、君主制を通じて伝統を維持するもの、としましょう。ですから保守思想を語る時には君主制について考えればいいのです。
君主制は、信仰、技能、美、契約、そして婚姻という五つの要因により成り立ちます。少し大上段に振りかぶった言い方ですが、少しづつ説明してゆきましょう。
3 君主制にとって信仰あるいわ宗教という機構は絶対に必要です。一個の人格のみでは君主は存在しえません。それは無力な虚構か過酷な暴力でしかありません。君主は政治を行ないます。しかし政治は道徳なくしては行なえません。道徳がなければ治められる側のの合意が得られません。この合意を与え納得させるものが宗教です。例をとってみましょう。仏教は古代インドが統一される時、アショカ王という王様が広大なインドを治めるためのソフトでした。仏教がなければ隋唐帝国は成立しないかあるいわもっと別の形になっていたでしょう。わが国も同様です。聖徳太子の十七条の憲法そして東大寺建立は、当時成立しつつある日本という国家にとって必要不可欠な作業でした。西欧の諸国家はキリスト教に丸抱えされて成立したといえます。
話を日本に戻しましょう。鎮護国家という言葉があります。仏教は国を鎮め護ることを任務とするとされます。国家は仏教に護持される。これが仏教伝来当初の基本的な考えでした。同時に国家は仏教を統制します。国家なくして迷信はありえますが、宗教はありえません。なぜなら国家の庇護下になければ布教できないのです。烏合の衆、無秩序な群集には信仰は解けません。政治の力で民衆がある程度のまとまりと生活水準を得られた時のみ布教は可能です。また宗教なくして政治は行なえません。なぜならば道徳のないところに政治、少なくとも治められる側の民衆に納得できる政治はできません。
政治と宗教は欲望に関して対局に位置します。政治は欲望の実現を目的とします。物を作りそれを分配することが政治です。宗教は欲望を抑え制限しようとします。欲望を放任すれば社会は混乱します。欲望を抑えすぎれば人間は人間でなくなります。欲望の実現もその制限も社会というものを維持するためには必要な措置です。こうして政治と宗教は分かれられない、切っても切れないペア-となります。宗教は個人に直接訴えかけます。教える側の最高責任者、これをカリスマと言いますが、が教えられるものつまり信者に直接訴えかけ教えます。このように一対一で直面できることが信仰の大きな強みです。政治行為においてはこのようなことはおこりえません。政治は、一対一で直面できることを宗教から借りるか任されて、民衆の福利と社会の維持に務めます。政治が与えるこの実利を宗教は福徳とみなし、頂戴します。繰り返しますが政治と宗教は切るに切れない不可分の関係にあるのです。
政治との関係を維持するためには宗教はどうあるべきでしょうか。宗教が政治と緊密なな関係を作り政治行為の背景となるためには、宗教は一度個々人の存在価値を否定する必要があります。これを達成した宗教は二つしかありません。仏教とキリスト教(その前身であるユダヤ教も含めて)です。前者は無我空を説きました。仏教は、人間の日常とは無であり常に流れ変わるものだと説きます。後者の信仰は唯一神と原罪からなります。人間は唯一の神に対しては罪人でしかないとキリスト教は言います。仏教もキリスト教も、曖昧な日常に群れ浮かんでいる人間を完全な絶対無としての個に還元し、この個としての人間に信仰の原点を与えます。同時に個々人は相互に平等なものになります。政治は絶対無に換言された平等な個々人だから彼らを統治できるのです。
両宗教が説く絶対無は無秩序と紙一重です。放恣混乱に極めて近い状態です。ここで宗教は政治という世俗権力を借りてそれを統制します。絶対無を説かない宗教は中途半端でその影響力は小集団の域を超えません。このような宗教によって維持される社会は部族社会でしかありません。現在の世界でもこの種の部族国家は多いのです。
肝要なことは、国家が宗教を採用する時、最初に帰依するのは君主であることです。信仰は全体を代表する一個の人格に明瞭に体現されなければなりません。この一個の人格が君主です。君主は宗教からカリスマ性を与えられます。こうして暴力は権力に変化します。反対に君主は宗教を公認し保護し統制します。この操作がないと宗教は宗教たりえません。君主と宗教は相互にカリスマ性を交換し補強し合います。換言すると両者は結婚したような形になります。いや結婚というべきでしょう。
4 保守を支える第二の柱は欲望の肯定です。欲望の実現に率直になることです。当然保守は現実を肯定し漸進主義を採ります。のみならず更に重要なことですが、欲望の肯定は技能の尊重に結びつきます。技能を通してのみ欲望は実現されるのですから。技能は快楽追求の手段であり同時に美ないし美意識でもあります。技能そのものを、その達成物を越えて肯定するある種のナルシシズムがなければ技能は成立ません。技能の習得と実践にはいわゆる職人意識という意地こだわりつまり美意識が必要です。技能は技能者の美意識に支えられてのみ価値あるものを作り出し、また作りだした当人を価値あるものとします。絵画、書道、演劇、音楽のみならず機械、道具、遊具などすべて技能の所産です。もう少し思いつくまま例を挙げてみましょう。歌舞伎、能楽、浮世絵、源氏物語や枕草子、和歌連歌俳句、アニメ、刀剣仏像茶道具そしてトヨタやホンダが造る自動車やバイク、さらに新幹線、高速道路、本四架橋、家電にTV画像、軍艦、航空機などなどすべてある種の道具でありまた美的存在です。リニア-新幹線の走行を見てそこに美を感じない人はいないでしょう。技能とは美なのです。精魂こめて作り上げる機能という美なのです。
5 美の根源は何でしょうか。それは人間です。人間は人間という自己そのものに美を見出します。自然も美ではないのかとも問えます。しかし自然自身は美ではありません。我々が自然美と呼ぶものは人間が造り出したものに過ぎないのです。人間は栽培という技能をもって自然の美を造りだしました。森と林、穀物と野菜そして果実などを栽培して始めて自然は美となります。5万年前の人類が荒野か原始林で野獣を追っていた頃、彼らは周囲の自然を美と感じたでしょうか。耕作し栽培し飼育して、つまり自然を人間にとって有用なものにして始めて自然は美として捕らえられうるようになります。自己そして自己にとって有用なものが美となります。繰り返しますが美の根源は人間そのものです。人間は自分自身に美を体現し、自分自身に美を発見して、その延長上に美を創り出してゆくのです。入浴、洗顔、化粧、服飾、装飾品そして遊戯、対話はすべて美でありその演出です。さらにかっこよく素敵な自動車を乗り回し、よく整備された道路を快適に走る。これも美です、美の演出です。
美の根源が人間だとすると、美は最終的には一個の人格に体現されねばなりません。この体現する人格を君主と言います。君主は美を体現しそして美を主宰します。その最も代表的な例がわが国の勅撰和歌集です。この作業は新年のお歌会に再現されています。君主によって体現されそして主宰される美を宮廷儀礼といいます。ここで強調しておくべきことは宮廷儀礼はその淵源を宗教行事に負っているということです。
6 技能は更に意味を持ちます。技能は主体的に獲得され練磨され実践されます。だから技能は主体性の根拠になります。主体性なくして技能は存在しえません。主体性を持つ者は基本的には平等です。技能ゆえに個々人は主体性を保持できます。技能は生産及び消費において分担されます。ここから契約という現象が出現します。技能ゆえに契約は可能になります。技能を除外すれば契約はありえず、あるのは略奪と奴隷化だけです。
技能にはおのずから巧拙の差があります。この差と契約ゆえに階層性が出現します。教える者と教えられる者の関係です。この階層は極めて自然なものです。技能を介するかぎり階層性は自然でなだらかなものになり、同時に緩慢な下克上を展開してゆきます。この階層の頂点に君主は立ちます。君主は契約により支えられています。
技能の交換が契約です。技能は富を算出します。つまり私有財産が出現します。
7 君主は 美の体現者であり契約の当事者です。背景には宗教があります。技能とその総体である政治は欲望の開発を目的とします。宗教は欲望の制限者です。宗教は制限者であることをもって契約に伴う摩擦を緩和し、それを円滑なものにし、契約の保証人になります。
技能ゆえに契約は可能になります。契約の原点は宗教にあります。あらゆる教団の形成は自由意志に基づきます。自由意志で教団を作り、それを経営し、発展させます。だから宗教教団にあって成員は原則的に平等です。教会や寺院にあっては悟りの程度に差があり、そこから自然な階層性が発生します。しかし繰り返しますが教団の成員は平等です。差はあるのですが、救う方も救われるのです。救い/救われ、教え/教わる、の相互関係、だから平等が信仰の原則です。
技能はそのシステムを教団から学びます。同時に技能の存在意義をただその実利性にのみならず、教団の世俗を超えたなんらかの境地(これを超俗性としておきましょう)と自己を同一視しそれを取り入れ、技能をより高次の次元へと変容させます。こうして技能は単なるナルシシズムの産物からより神聖な何物かに変化します。政治も技能です。行政の施行も駆け引きと討議と合意形成は技能です。
8 君主は宗教との同盟者であり、美の体現者であり、契約の頂点に立ちます。そして美の体現者であり主宰者であることは、君主が全面的に権力を保持する必要のないこと、すなわち権威と権力の分化分業を結果します。美の体現は君主の存在を権力の行使から遠ざけます。宗教との同盟は君主を神聖にして超俗的なものにすます。これらすべての過程に宗教は介在します。諸宗教の中で仏教が一番この過程を巧妙に媒介しました。仏教は世界宗教つまり絶対無を主張する宗教です。更に特記すべきことには仏教は日本の宗教界をほぼ制覇しつつも国教ではないことです。仏教は国教が持つ強制性を全くもちません。仏教は国家と同盟はしますが国家そのものではありません。もちろん国家の一下部機構でもありません。この広範な包括力と非強制性により、仏教は上記の諸過程を巧妙かつ円滑に媒介できました。その結果が平安時代中期に成立した摂関政治です。ここで権威と権力の分離が完成しました。以後の院政、武家政治、維新以後の政治も同様にこの分業体制を継受しています。君主すなわち天皇を権威として権力行使から遠ざける慣習の継続により、権威と権力はいわば強靭なばねで結ばれた柔軟な構造になりました。この構造は同時に下方に向けて展開され、社会構造そのものが柔軟な結合体になってゆきます。その頂点で君主は美として輝きます。
9 婚姻は契約です。相互の生活と幸福を保証しあうと宣言してのみ婚姻は成立します。婚姻は 技能の交換でもあります。所得を得るにせよ家庭を運営するにせよ、一定の技能がなければ結婚生活は成り立ちません。更に婚姻は極めて超俗的な行為です。新しい生命そしてその生命が担うであろう運命を創り出すという行為が神聖超俗でなくてなんでしょうか。父母とは子供に運命を与える神でもあります。婚姻にはもう一つの側面があります。結婚は美の交換ないし演出です。相手の中に性的快楽の延長としての美を認めずして婚姻は成立しません。私は、君主は契約の頂点に立ち、美を体現し、超俗神聖であり、技能者でもある、と言いました。ですから婚姻は君主制の縮小版になります。両者の構造は同じです。婚姻の集積が政治です。従って君主制とは婚姻秩序そのものであり、君主はこの秩序の頂点に位置し、秩序を範例として体現し、同時に統制することになります。範例が崩れることは、婚姻秩序そのものの崩壊につながります。君主制は婚姻秩序そのものなのですから。君主は暗黙裡に婚姻秩序を統制しそれに責任を負っております。
10 以下に保守主義が持つべき必要不可欠の要員を列挙します。
① 伝統の尊重。現実はまず肯定そして漸進的改変。理想願望をもって正義としない。
② 君主制の護持。美と価値の最終的体現は特定の人格においてのみ為されること。
③ 世俗性を一度は破壊する絶対無を内包する宗教の存在。部族制の廃棄。
④ 君臣の相補性。権威と権力の分化。衆議性。立憲君主制。
⑤ 欲望の肯定と技能の尊重。それらを最終的には美と見ること。
⑥ 緩やかな階層性の受容。
⑦ 婚姻秩序の維持安定。
⑧ 私有財産所有の肯定
1 保守主義あるいわ保守思想とはなにかを考えてみましょう。現実に政治は保守的政治家と言われる人達により動かされています。日本でも戦前戦後を通じて政治の現実を作り上げてきたのは保守陣営です。保守に対して革新という言葉があります。かっこよく聞こえますが、革新陣営の人達が何かしたということはありません。彼らはただ批判し反対するだけです。彼らがそうなるのはそれなりの理由があるのですがその説明は省きます。ただ一言だけ。革新つまり左翼は理想と願望をもって正義とします。理想と願望は政治の目標ではあるのでしょうが、政治の方法を提供はしません。しかし保守にも保守なりの弱みはあります。保守は存在するが保守の思想とは何かと問うことは極めて少ないのです。保守は現実にその場的に対処する手法のみであって、思想つまりまとまった考えになりえないとさえ言われます。保守は伝統を維持するのだから思想はいらないというのでしょうか。このような考えは極めて危険です。現在世界は昏迷状態に向かいつつあります。ここで、保守思想とは何かをより深い立場から考えてみましょう。
2 保守は伝統を尊重し維持します。保守とは「保ち守ること」ですからこれは同じ事柄を言い換えたに過ぎません。守るべき伝統とはなんでしょうか。この伝統の核心は何でしょうか。答えは、君主、です。君主制のみが伝統を維持し、維持しつつそれを変化させうるのです。保守とは、君主制を通じて伝統を維持するもの、としましょう。ですから保守思想を語る時には君主制について考えればいいのです。
君主制は、信仰、技能、美、契約、そして婚姻という五つの要因により成り立ちます。少し大上段に振りかぶった言い方ですが、少しづつ説明してゆきましょう。
3 君主制にとって信仰あるいわ宗教という機構は絶対に必要です。一個の人格のみでは君主は存在しえません。それは無力な虚構か過酷な暴力でしかありません。君主は政治を行ないます。しかし政治は道徳なくしては行なえません。道徳がなければ治められる側のの合意が得られません。この合意を与え納得させるものが宗教です。例をとってみましょう。仏教は古代インドが統一される時、アショカ王という王様が広大なインドを治めるためのソフトでした。仏教がなければ隋唐帝国は成立しないかあるいわもっと別の形になっていたでしょう。わが国も同様です。聖徳太子の十七条の憲法そして東大寺建立は、当時成立しつつある日本という国家にとって必要不可欠な作業でした。西欧の諸国家はキリスト教に丸抱えされて成立したといえます。
話を日本に戻しましょう。鎮護国家という言葉があります。仏教は国を鎮め護ることを任務とするとされます。国家は仏教に護持される。これが仏教伝来当初の基本的な考えでした。同時に国家は仏教を統制します。国家なくして迷信はありえますが、宗教はありえません。なぜなら国家の庇護下になければ布教できないのです。烏合の衆、無秩序な群集には信仰は解けません。政治の力で民衆がある程度のまとまりと生活水準を得られた時のみ布教は可能です。また宗教なくして政治は行なえません。なぜならば道徳のないところに政治、少なくとも治められる側の民衆に納得できる政治はできません。
政治と宗教は欲望に関して対局に位置します。政治は欲望の実現を目的とします。物を作りそれを分配することが政治です。宗教は欲望を抑え制限しようとします。欲望を放任すれば社会は混乱します。欲望を抑えすぎれば人間は人間でなくなります。欲望の実現もその制限も社会というものを維持するためには必要な措置です。こうして政治と宗教は分かれられない、切っても切れないペア-となります。宗教は個人に直接訴えかけます。教える側の最高責任者、これをカリスマと言いますが、が教えられるものつまり信者に直接訴えかけ教えます。このように一対一で直面できることが信仰の大きな強みです。政治行為においてはこのようなことはおこりえません。政治は、一対一で直面できることを宗教から借りるか任されて、民衆の福利と社会の維持に務めます。政治が与えるこの実利を宗教は福徳とみなし、頂戴します。繰り返しますが政治と宗教は切るに切れない不可分の関係にあるのです。
政治との関係を維持するためには宗教はどうあるべきでしょうか。宗教が政治と緊密なな関係を作り政治行為の背景となるためには、宗教は一度個々人の存在価値を否定する必要があります。これを達成した宗教は二つしかありません。仏教とキリスト教(その前身であるユダヤ教も含めて)です。前者は無我空を説きました。仏教は、人間の日常とは無であり常に流れ変わるものだと説きます。後者の信仰は唯一神と原罪からなります。人間は唯一の神に対しては罪人でしかないとキリスト教は言います。仏教もキリスト教も、曖昧な日常に群れ浮かんでいる人間を完全な絶対無としての個に還元し、この個としての人間に信仰の原点を与えます。同時に個々人は相互に平等なものになります。政治は絶対無に換言された平等な個々人だから彼らを統治できるのです。
両宗教が説く絶対無は無秩序と紙一重です。放恣混乱に極めて近い状態です。ここで宗教は政治という世俗権力を借りてそれを統制します。絶対無を説かない宗教は中途半端でその影響力は小集団の域を超えません。このような宗教によって維持される社会は部族社会でしかありません。現在の世界でもこの種の部族国家は多いのです。
肝要なことは、国家が宗教を採用する時、最初に帰依するのは君主であることです。信仰は全体を代表する一個の人格に明瞭に体現されなければなりません。この一個の人格が君主です。君主は宗教からカリスマ性を与えられます。こうして暴力は権力に変化します。反対に君主は宗教を公認し保護し統制します。この操作がないと宗教は宗教たりえません。君主と宗教は相互にカリスマ性を交換し補強し合います。換言すると両者は結婚したような形になります。いや結婚というべきでしょう。
4 保守を支える第二の柱は欲望の肯定です。欲望の実現に率直になることです。当然保守は現実を肯定し漸進主義を採ります。のみならず更に重要なことですが、欲望の肯定は技能の尊重に結びつきます。技能を通してのみ欲望は実現されるのですから。技能は快楽追求の手段であり同時に美ないし美意識でもあります。技能そのものを、その達成物を越えて肯定するある種のナルシシズムがなければ技能は成立ません。技能の習得と実践にはいわゆる職人意識という意地こだわりつまり美意識が必要です。技能は技能者の美意識に支えられてのみ価値あるものを作り出し、また作りだした当人を価値あるものとします。絵画、書道、演劇、音楽のみならず機械、道具、遊具などすべて技能の所産です。もう少し思いつくまま例を挙げてみましょう。歌舞伎、能楽、浮世絵、源氏物語や枕草子、和歌連歌俳句、アニメ、刀剣仏像茶道具そしてトヨタやホンダが造る自動車やバイク、さらに新幹線、高速道路、本四架橋、家電にTV画像、軍艦、航空機などなどすべてある種の道具でありまた美的存在です。リニア-新幹線の走行を見てそこに美を感じない人はいないでしょう。技能とは美なのです。精魂こめて作り上げる機能という美なのです。
5 美の根源は何でしょうか。それは人間です。人間は人間という自己そのものに美を見出します。自然も美ではないのかとも問えます。しかし自然自身は美ではありません。我々が自然美と呼ぶものは人間が造り出したものに過ぎないのです。人間は栽培という技能をもって自然の美を造りだしました。森と林、穀物と野菜そして果実などを栽培して始めて自然は美となります。5万年前の人類が荒野か原始林で野獣を追っていた頃、彼らは周囲の自然を美と感じたでしょうか。耕作し栽培し飼育して、つまり自然を人間にとって有用なものにして始めて自然は美として捕らえられうるようになります。自己そして自己にとって有用なものが美となります。繰り返しますが美の根源は人間そのものです。人間は自分自身に美を体現し、自分自身に美を発見して、その延長上に美を創り出してゆくのです。入浴、洗顔、化粧、服飾、装飾品そして遊戯、対話はすべて美でありその演出です。さらにかっこよく素敵な自動車を乗り回し、よく整備された道路を快適に走る。これも美です、美の演出です。
美の根源が人間だとすると、美は最終的には一個の人格に体現されねばなりません。この体現する人格を君主と言います。君主は美を体現しそして美を主宰します。その最も代表的な例がわが国の勅撰和歌集です。この作業は新年のお歌会に再現されています。君主によって体現されそして主宰される美を宮廷儀礼といいます。ここで強調しておくべきことは宮廷儀礼はその淵源を宗教行事に負っているということです。
6 技能は更に意味を持ちます。技能は主体的に獲得され練磨され実践されます。だから技能は主体性の根拠になります。主体性なくして技能は存在しえません。主体性を持つ者は基本的には平等です。技能ゆえに個々人は主体性を保持できます。技能は生産及び消費において分担されます。ここから契約という現象が出現します。技能ゆえに契約は可能になります。技能を除外すれば契約はありえず、あるのは略奪と奴隷化だけです。
技能にはおのずから巧拙の差があります。この差と契約ゆえに階層性が出現します。教える者と教えられる者の関係です。この階層は極めて自然なものです。技能を介するかぎり階層性は自然でなだらかなものになり、同時に緩慢な下克上を展開してゆきます。この階層の頂点に君主は立ちます。君主は契約により支えられています。
技能の交換が契約です。技能は富を算出します。つまり私有財産が出現します。
7 君主は 美の体現者であり契約の当事者です。背景には宗教があります。技能とその総体である政治は欲望の開発を目的とします。宗教は欲望の制限者です。宗教は制限者であることをもって契約に伴う摩擦を緩和し、それを円滑なものにし、契約の保証人になります。
技能ゆえに契約は可能になります。契約の原点は宗教にあります。あらゆる教団の形成は自由意志に基づきます。自由意志で教団を作り、それを経営し、発展させます。だから宗教教団にあって成員は原則的に平等です。教会や寺院にあっては悟りの程度に差があり、そこから自然な階層性が発生します。しかし繰り返しますが教団の成員は平等です。差はあるのですが、救う方も救われるのです。救い/救われ、教え/教わる、の相互関係、だから平等が信仰の原則です。
技能はそのシステムを教団から学びます。同時に技能の存在意義をただその実利性にのみならず、教団の世俗を超えたなんらかの境地(これを超俗性としておきましょう)と自己を同一視しそれを取り入れ、技能をより高次の次元へと変容させます。こうして技能は単なるナルシシズムの産物からより神聖な何物かに変化します。政治も技能です。行政の施行も駆け引きと討議と合意形成は技能です。
8 君主は宗教との同盟者であり、美の体現者であり、契約の頂点に立ちます。そして美の体現者であり主宰者であることは、君主が全面的に権力を保持する必要のないこと、すなわち権威と権力の分化分業を結果します。美の体現は君主の存在を権力の行使から遠ざけます。宗教との同盟は君主を神聖にして超俗的なものにすます。これらすべての過程に宗教は介在します。諸宗教の中で仏教が一番この過程を巧妙に媒介しました。仏教は世界宗教つまり絶対無を主張する宗教です。更に特記すべきことには仏教は日本の宗教界をほぼ制覇しつつも国教ではないことです。仏教は国教が持つ強制性を全くもちません。仏教は国家と同盟はしますが国家そのものではありません。もちろん国家の一下部機構でもありません。この広範な包括力と非強制性により、仏教は上記の諸過程を巧妙かつ円滑に媒介できました。その結果が平安時代中期に成立した摂関政治です。ここで権威と権力の分離が完成しました。以後の院政、武家政治、維新以後の政治も同様にこの分業体制を継受しています。君主すなわち天皇を権威として権力行使から遠ざける慣習の継続により、権威と権力はいわば強靭なばねで結ばれた柔軟な構造になりました。この構造は同時に下方に向けて展開され、社会構造そのものが柔軟な結合体になってゆきます。その頂点で君主は美として輝きます。
9 婚姻は契約です。相互の生活と幸福を保証しあうと宣言してのみ婚姻は成立します。婚姻は 技能の交換でもあります。所得を得るにせよ家庭を運営するにせよ、一定の技能がなければ結婚生活は成り立ちません。更に婚姻は極めて超俗的な行為です。新しい生命そしてその生命が担うであろう運命を創り出すという行為が神聖超俗でなくてなんでしょうか。父母とは子供に運命を与える神でもあります。婚姻にはもう一つの側面があります。結婚は美の交換ないし演出です。相手の中に性的快楽の延長としての美を認めずして婚姻は成立しません。私は、君主は契約の頂点に立ち、美を体現し、超俗神聖であり、技能者でもある、と言いました。ですから婚姻は君主制の縮小版になります。両者の構造は同じです。婚姻の集積が政治です。従って君主制とは婚姻秩序そのものであり、君主はこの秩序の頂点に位置し、秩序を範例として体現し、同時に統制することになります。範例が崩れることは、婚姻秩序そのものの崩壊につながります。君主制は婚姻秩序そのものなのですから。君主は暗黙裡に婚姻秩序を統制しそれに責任を負っております。
10 以下に保守主義が持つべき必要不可欠の要員を列挙します。
① 伝統の尊重。現実はまず肯定そして漸進的改変。理想願望をもって正義としない。
② 君主制の護持。美と価値の最終的体現は特定の人格においてのみ為されること。
③ 世俗性を一度は破壊する絶対無を内包する宗教の存在。部族制の廃棄。
④ 君臣の相補性。権威と権力の分化。衆議性。立憲君主制。
⑤ 欲望の肯定と技能の尊重。それらを最終的には美と見ること。
⑥ 緩やかな階層性の受容。
⑦ 婚姻秩序の維持安定。
⑧ 私有財産所有の肯定