経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

 日本は戦後の経済危機をどのようにして乗り越えたか?

2009-02-17 00:25:20 | Weblog
  
日本は戦後経済の危機どのようにして乗り越えたか?

 ここに書く事は常識の範囲です。種本も明らかにしておきましょう。昭和経済史(全3巻 日経文庫)です。あまり詳しく書いても意味はありません。政治には大胆な展望と臨機応変の直感が必要です。だから理屈は単純明快な方がよろしい。
 昭和20年(1945年)8月(15日降伏)の時点で、戦前(昭和9-11年の平均)との比は
 
 鉱工業生産で  10%
  農業      60%
  実質賃金    30%
  実質消費水準  60%

でした。900万人が家屋を焼失し、保有する船舶は戦前の1/10以下、山野は荒廃し、町には浮浪児があふれていました。一人当たり一日の米配給量は300g弱。(一度それで生活してみてください、如何に空腹になるか解ります)1000万人餓死説もでたほどでした。生産は落ち、戦時に発行した紙幣は膨大ですからインフレはどんどん進行します。当時の政府はどのようにこの危機を乗り越えていったのでしょうか?教科書には財閥解体だ農地改革だとかなんとかは書いてありますが、理想は理想として、現実の政策はどうだったのでしょうか?主たる政策は三つです。箇条書きにしてみましょう。

新円切り替え 預金封鎖 
それまで使っていた円札は使用禁止となり、新しい円札が発行されます。同時に預金が封鎖されて勝手に引き出すことが出来なくなります。家庭の当主は300円、家族一人当たり100円づつ追加、これが引き出し限度です。勤労者の給与も500円以上は支払われません。この政策の意図は多々あったようですが、確実な事は通貨の流通量を減らすことです。もう一つは債務軽減です。物価は上がります。その間預金には手を付けられません。封鎖が解除されたときには貨幣価値は下がります。それまで国は国債を発行し続けてきました。終戦時の国債残高は約1500億円です。貨幣価値が下がった分、政府の債務は減少します。多分1/5-1/10に減ったと思います。銀行も同様です。要は借金棒引きです。一番借金を抱えていたのが政府でした。貸主は国民です。
(付)当時の米の値段は東京で1升(1.5kg)あたり67円です。一家四人とすればどんな生活ができるでしょうか?

戦時補償の打ち切り
被害を蒙ったのは個人だけではありません。企業も同様です。戦争遂行のために企業は政府に協力を強いられました。それには保証がついていました。戦争そのものによる被害は政府が補償すると。典型が船舶です。徴用された船がアメリカの潜水艦によって沈められれば、政府が損害を補償するはずでした。紆余曲折はありましたが、GHQの意向もあり戦時補償は廃止になります。ここでも政府は負債をチャラにしてもらいます。ために大部分の企業は資本の多くを切り捨てます。

傾斜生産方式
闇市の時代です。その市場では消費物資の方が鉄鋼等の生産財より、戦前に比し値上がりしていました。当然です。まず消費しなければ生活できないから、需要はそこに集中します。政府は生産の基礎を固めるために石炭と鉄鋼の増産に有利なように公定物価体系で高く設定します。さらにもし生産費用がそれを超えるなら、政府が補助金を出します。輸入資源の配分は石炭と鉄鋼に優先的にまわす。そういうやり方です。エネルギ-源である石炭が要る。そのためには機械が要る。だから鉄鋼が要る。石炭が増産されれば鉄鋼も増産できる。(当時鉄鉱石はかなりのストックがありました)私はこのやり方に賛成ですが、公平に見れば消費財から生産財への、従って個人から企業への所得移転でありある種の原始的蓄積でもあります。

復興金融公庫
 略して復金です。政権の交代により政策が変らないように、経済安定本部が作られました。平行して復興金融公庫ができます。建前は政府資金の補助のための機関ですが、実際は政府の出す国債を引き受ける機関です。この機関の引き受けで傾斜生産方式などへの資金提供ができました。一方これは貨幣の流通量を増加させるのでインフレを促進します。

戦後の飢餓時代政府がとった政策の大綱はそんなところです。やがてドッジが来て、日本の金融と経済を引き締めます。超緊縮財政です。デフレそして当時の言葉で言う安定恐慌です。こういう場合大企業は有利です。安定恐慌でアップアップしていところに朝鮮特需がきます。これで一息。そして外国技術の導入で各企業は力をつけます。1960年前後から日本の貿易収支は黒字を作り続けてゆきます。

政策は政策です。それより重要なことは、政策遂行に国民が一丸となれるか否かです。傍証をあげてみます。空き腹を抱え続け、食料の大半は政府の配給下にあって、高級官僚の汚職がほとんどありませんでした。私が知る限りではそういうことになります。

(以下私個人の経済私史、昭和20年から35年までのそれを語ります。口調は変ります。)

私個人の生活から見た日本経済の変転を語ってみよう。私は1942年2月25日に神戸に出生。41年12月8日太平洋戦争開始の3ヶ月後だ。父母からの伝聞では新婚旅行に米券を持参しないと食事が出なかったとか。2歳岡山県新見市の親戚に疎開。3歳終戦。記憶は無い。砂糖が配給だったのを覚えている。一人当たり一日何グラムと決められていた。私の家は家族が少なく、砂糖には不自由した。おやつ代わりに砂糖を紙に包んでもらう子がいて、いささか羨ましかった。長いコッペパンが公団と言われた米屋で配給され、人が列を成して並ぶのを記憶している。もらった時は嬉しかったが、食うとまずかった。
進駐軍と言われた米軍が片田舎までやって来る。暗緑色のジ-プで颯爽と。かっこいい。占領政策の成果点検の為だろう。怖いものは警察そしてその上にMP(米軍憲兵)と言われた時代、日本で一番偉いのはまず総理大臣、その上が天皇陛下、更にその上がマッカサ-元帥と大人に教えられる。隣家が宿屋で米軍の宿舎になり、米兵がいかがわしい女性を連れ込んでいた。二階から子供達にキャンデ-やチョコレ-トそしてガムを放り投げてくれた。みな群がった。始めて覚えた英語が、サンキュ-ベルマッチ。おやつがたいていふかし芋だったからサンキュ-は真情。
米穀は供出制度、農家は自家消費分を除いて国家に規程価格で売らねばならない。お百姓が米を隠して連行された話、米屋が麦を横流しして留置された話等、主人公はすべて顔見知りの小父さん。握り飯二つで殺人事件があったとか、闇米を拒否して餓死した裁判官がいたとか。この頃4-5歳。当時の最高額紙幣は百円。聖徳太子の像が描かれており、今の一万円札より大きかったような気がする。暫くしてお年玉を叔父から三千円(記憶錯誤?)もらったようだから、すぐ千円札が出たのか?
6歳で小学校入学。学校給食の洗礼を受ける。始めはパンとミルクのみ、時に乾燥させたりんごか梨、これが楽しみだった。ミルクの半分は粉状でどろどろ、飲むのは苦行。私があまり生活に不自由しなかったのは叔父の家が酒屋だったから。裏話もある。後年母親から聞いた話では、酒を少しだけ水で割る。塵も積もればなんとかで、集めれば相当な量になる。こんな事は皆していた。余った酒を他の物と交換。酒はいつの時代にあっても必需品。だから統制は厳しい。これでは酒屋なんかしていても儲からない。顧客も顧客への販売量も価格も固定され報告を義務づけられていた。酒が酸敗するとその量を報告して廃棄する。勝手に酢にして売ったら手が後ろに廻る。父親が勤務地の大阪からよく来ていた。事情の一つが食料集め。駅でリュック満載の父親が警官に尋問される。叔母が気を利かして警官にごにょごにょ。なぜか素通りだった
京都に一年、そして名古屋に転居。8歳。この頃よく聞く米人の名前がドッジ。父親がドッジの為に不況になる不況になると心配していた。父親は野村證券に勤務、法人部金融法人課長と教わる。だからドッジラインには敏感だったのだろう。子供心にはこの名前は悪人のように響いた。夕食後父母と弟の四人でりんごを一つ食べる。だから四部割り一個しか食べられない。時々弟の分を横取り。どういうわけか毎日りんごを食べた。梨だと大歓迎。そういうわけで今でもりんごは安物に見える。パンに関しても同様。米の不足をパンや麺類で補う。称して代用食。すいとんも同じ。だからいくら高価なパンでも私には豚の餌に見える。米がなによりの時代。称して銀シャリ。滋賀県から来たという闇米売りの訪問を受けたのを覚えている。名古屋でよく見たものは傷痍軍人が軍歌などを演奏して喜捨を求める姿。京都も名古屋も乞食浮浪児が多かった。靴磨きの少年も多かった。宮城真理子の歌が実感をもって響く。名古屋で始めて外食を経験する。明瞭な記憶にある料理屋の体験はここが始めて。とんかつと名古屋コ-チンの水抱きの味は絶妙。デザ-トがメロン、初体験。専門家が作った料理という美味なる物の存在を始めて知る。日本経済の成長も始動開始か。1953年3月24日名古屋を去る。金の鯱矛よさようなら。
 11歳大阪府下の豊中に転居。この頃から日本は豊かになり始めた。父親が新しい物好きで電気洗濯機を買ってきた。現在の洗濯機の機能とは雲泥の差。丸い深いたらいの中でただ洗濯物をがちゃがちゃと揺さぶるだけという感じ。電気洗濯機や電気掃除機等のいわゆる第一次三種の神器を持っていたのはクラスで三人だけ。わざわざ教師が皆に尋ねたので覚えている。ちょっとしたステイタス。小学校では体育用の服は無い。男児は下着のまま運動した。14歳テレビ購入。早川電気の製品。父親の話では技術はシャ-プとか。それまで町内でテレビを持っているのは一軒だけ。大相撲の中継を皆その家に集まって観戦。栃若時代の始まりだった。この頃の食生活には不足感はない。食べ盛りで大いに食う。ついた仇名がブ-チャン。扇風機を使い出したのもこの頃。一度買うとあれよあれよいう間にモデルチェンジして便利になって行く。首の回転、風速の調節、カラフルに、より軽量になる。やがて一人一台。高校2年、日清の即席ラ-メンが出る。ものすごい人気、美味かった。即席ラ-メンと高度経済成長とは明らかに因果関係があるとは、私の直感そして憶測。