経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

「君民令和、美しい国日本の歴史」(3)記紀神話 本文

2022-01-31 15:55:56 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」(3)記紀神話  本文

1 縄文弥生古墳、卑弥呼巻向崇神天皇、これはこれで歴史。がこの試みでは日本民族の心情は解らない。太古の倫理や思想は神話の中にのみ存在。文明は固有の神話を持ち、自身の心情倫理を表現。古事記と日本書紀、記紀が語る意味を考える。標的を日本開闢から神武天皇即位までの神代記にしぼる。まず大筋。
2 日本の国はイザナギノミコトとイザナミノミコトの交接から生まれた、大和大八嶋。イザナギノミコトから生まれた姉のアマテラスオオミカミと弟のスサノオノミコトが共同で国を統治。統治は破綻、スサノオは冥界へ追放。アマテラス(以下略称)は岩屋に隠れ、世界は真っ暗。神々の協議、火を焚き明るく、アメノウズメノミコトの裸踊り、哄笑、アマテラスを騙しておびき出す。アマテラスの孫ニニギノミコトを総帥とし神々が地上に降臨。降り立った地は日向の国。ニニギは山の神の娘コノハナヤサクヤヒメと結ばれる。一夜で妊娠、ニニギに貞操を疑われたサクヤヒメは火の中に飛び込み分娩、貞潔を証明。生まれた子供が山幸海幸の兄弟。兄弟の争い、海神の娘トヨタマヒメを娶った山幸が勝つ。分娩の光景を見るな、の約束に背き山幸は産場を覗く、のたうつ大鰐鮫。トヨタマヒメは怒り子を残して海に。生まれた子の子供がハツクニシラススメラミコト、神武天皇。
3 神話で重要な点は三つ。アマテラスとスサノオの姉弟相姦による統治の破綻が第一点。近親相姦では統治は不能。第二点はニニギとサクヤヒメの結婚。サクヤヒメは火の試練で貞操を証明。陸はニニギの領有に。第三点は山幸とトヨタマヒメの結婚。姫の貞操が疑われる。子を置き海に帰り、姫は山幸に抗議、貞操の証し。水の試練、山幸は海を支配下に。
 三つの挿話の意味。近親相姦を前提とする統治は失敗、火と水による試練で近親相姦を克服、貞潔な婚姻と正統な統治は併行。古事記神代編国家開闢天孫降臨神話の意図は、統治能力と婚姻秩序の確立は併行する事。婚姻が正常なら統治も正常。
 民族の最も重要な事跡国家形成に対し、婚姻秩序と政治秩序の相関関係の意義を明白に描いた神話は他にない。婚姻秩序と政治秩序の重視が日本神話の最大の特質。日本人は婚姻秩序を重視する貞潔な民族。婚姻秩序を政治行為の前面に出す、日本人は性に寛容。性に対して貞潔かつ寛容、暴力を嫌う、凝集性の強い民族が日本人。
4 貞潔で寛容な日本人は女性に対して優しい、女性を大事にする。日本は女房天下の国。日本の女性が世界中で一番幸せ。最高神はアマテラスオオミカミという女性の太陽神。最高神が女性というのは日本だけ。日本開闢で活躍する裸踊りのアメノウズメ。アマテラスとアメノウズメで日本の国は開かれた。サクヤヒメもトヨタマヒメも派手に活躍。日本が女でもっている国である事を端的に例証。日本史で始めて登場する固有名詞は卑弥呼なる女性名。女性優位は後世も続く。日本の古代は女帝が多い。万葉集に登場する多くの女流歌人。日本の後宮は政治行為の実力者。平安時代には女房階層が政治力を発揮、同時に彼らは日本の文学文化の創始者。現在使っている仮名は女文字と呼ばれた。
5 アメノウズメの裸踊りで世が開ける。アメノウズメが乳房と性器を露出させ、アマテラスを岩屋から引っ張り出すのは出産の情景、男神達が裸踊りを見て哄笑するのは性交の暗喩。性交において男女は平等。これほどはっきりと世界開闢を性的映像で描いた神話は他にない。サクヤヒメやトヨタマヒメの主要場面が分娩であることも同じ意味。日本人は性に寛容、女性に優しい女性優位の民族。
6 日本の政治思想の原点では婚姻と政治の密接な関係が語られる。日本人は性に対して寛容、過酷な統治はできない。結果として女房天下、女性が尊重される国。

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch2 大仏開眼 注3

2022-01-30 02:24:49 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch3 大仏開眼 注3

(大仏開眼について)
 大仏開眼は752年ですが、聖武天皇と光明皇后の大仏建立への意図は10年前に遡ります。当時の政治状況はすでに述べました。そして重要な事は、大仏建立に代表される仏教政策は行基の行動に見られるように、国家と農民豪族の協力下に行われた事です。換言すれば当時すでにかかる建築物(なにも東大寺や大仏に限りません)を創るほどの蓄財が民間で為されていたという事です。
 また大仏や寺院を創る技術も蓄積され発達していたと思われます。世界中を見回してもあれだけ大量の銅を使った仏像神像はありません。銅を溶かし型に入れ一定のデザインの下に超大型の像を作り上げる事は大変な技術です。寺院の建築も優れていました。東大寺は世界で一番大きな木造建築です。伊勢神宮の式年遷宮は当時の技術が優れていたから代々伝えられました。当時の技術は今まで考えられて来た以上に優れていたとしか考えられません。こう考えてくると、貨幣経済はかなり進んでいたのではないかと思われます。比較的富裕な農民階層と高度な技術を勘案すると貨幣経済の発展を前提にせざるを得なくなります。
 蓄銭叙位令という制度がありました。和同開珎をして貨幣を発行したものの貨幣を受け取る人がいないので、一定の銭を貯めてそれを政府に献納すれば額に応じて官職官位(地方官、それも外官、せいぜい六位まで)を与えるという制度です。かつては成熟していない経済状況において無理して唐のまねをした愚かな政治だと、歴史家の間では嘲笑の的でした。しかし銭と交換に官位を与えると言う事は、官位に相当する地方支配権具体的には土地開発権を与える事を意味します。開発は富を生みます。結局貨幣が経済を賦活する事に繋がります。当然租税は増えます。つまり銭はかなり有効に使われる可能性もあったはずです。要は生産そして消費を刺激するわけですから、今で言うと国債を発行するようなものです。蓄銭叙位令を嘲笑する人は、経済というものがさっぱり解っていないのです。
 大仏開眼などの公的行事は賦役だけで行われたのでしょうか。私にはそう思えません。行基は民衆を率いて事業に協力し参加しました。この事は既に一定程度の自由な労働力があった事を想像させます。それなら賃金は銭で払われたはずです。その方がずっと効率的ですから。特に労働力は先進地帯の畿内から集められます。この範囲内なら銭は有効に活用できると思います。
 本分で「大仏は新幹線」と言いました。両者は当時の技術の集約であり、また出発点です。技術の発展は技術だけではできません。経済とぎ技術は相たずさえて発展します。大仏開眼にはかかる意味があります。結論から言いますと大仏開眼当時かなりな程度貨幣経済が発展していたのではないかと言う事です。この時代から200年後の平安中期の時点ですでに為替に相当する行為が起こりました。その数十年後宋王朝が発行した宋銭は日本で爆発的に使われました。また日本は何百年も続く企業が多いのです。欧米ではこのような事は起こりません。日本で、従って世界で一番古い企業は大阪の金綱組という建築会社で、天平のころできました


(女傑 光明皇后)
 彼女に関しては既にかなり述べているのでここでは少し重複します。光明皇后は701年に生まれます。名は安宿媛と言います。別名が光明子ともありますが、この名称が初めからなのか否かは解りません。私は後年つけられたものと思います。父親は藤原不比等、母親は県犬養美千代です。安宿媛が生まれたころ、藤原氏は有力者ではありますが、後年のような絶対的トップというわけではありません。藤原氏が台頭する強い動因がこの媛の立后です。奈良時代の政治勢力の展開の過程の主導者が後年の光明皇后です。藤原氏の家祖鎌足は天智天皇の側近で参謀でした。壬申の乱の時は運よく鎌足は死んでおり、子供の不比等はまだ幼少であったようで、勝敗の帰結を判断しなければいけない立場にはいません。加えて鎌足は天智天武の双方と姻戚関係を結びどちらが勝ってもいいように按配しておきました。不比等が台頭するのは持統天皇の時代からです。700年刑部親王を長とする大宝律令制定のメンバ-が選ばれます。この中心が不比等です。次の養老律令の制定も不比等中心に為されました。律令制定は当時の政治の基本中核を為す行為です。平城京遷都と律令制定に不比等は深くかかわり同時に天武-草壁の直系を維持するための協同作業を元正・元明天皇とともに為しました。714年首皇子(後の聖武天皇)が皇太子として立てられます。翌年安宿媛が皇太子妃として入内します。年齢はともに15歳前後です。この時不比等は右大臣で台閣の首班でした。不比等の娘宮子は文武天皇の妃で首皇子の母親です。県犬養美千代は
宮子の側近であり養育者という立場にあり、不比等と結ばれて安宿媛を産んだのでした。いわば宮廷の黒幕です。
 724年皇太子即位、聖武天皇です。この時天皇の母親宮子の称号のことで天皇と時の台閣首班長屋王が衝突し天皇が折れます。727年安宿媛に男児が生まれ即皇太子とされます。一歳の皇太子とは史上初めてです。728年この皇太子は死去します。翌年729年長屋王の変があり、長屋王は殺されます。その数か月後安宿媛は立后されます。ここから光明皇后と呼ばれるべきでしょう。長屋王自身皇位継承資格を持っており、台閣の首班であり、皇族を代表する存在でした。聖武即位、宮子称号問題、皇太子夭折、長屋王事件、光明皇后誕生は一連の関わりを持っていると思われます。古来皇后とは天皇の正妃であり形式的には天皇との共同執政者であり、時として実質的な執政者になりえます。だからそれまで皇族以外の臣下で皇后になった者はいません。光明皇后の誕生はそれほど驚愕すべき破天荒な企てだったのです。同時に藤原氏は台頭し、台閣には藤原四兄弟全員が参加し、他氏との差は鮮明になります。
 しかし735年に流行性の悪疫で四兄弟すべて死去し、藤原氏の勢力は後退します。代わって台閣首班となったのが、橘諸兄です。ただ諸兄は光明皇后の母橘美千代(県犬養改め橘)の子供で異父姉弟の関係にあります。疫病は長く続いたようです。これに740年、藤原広嗣の叛乱が加わります。この報が入るや否や聖武天皇は東方に行幸し、恭仁京に遷都し、紫香楽京を造都し、難波京に遷都し、745年平城京に還都するまで五年間、諸国を転々とします。その後も755年死去するまで天皇の健康は優れませんでした。この間の政治は光明皇后が指揮をとります。政策の大綱三つ、悲田院・施薬院設置に見られるように貧民病人救済つまり社会福祉政策、次に造寺造仏などの仏教興隆政策(とどのつまりが東大寺大仏開眼供養です))、そして墾田私有の認可です。これらのことに関しては行基のところで述べました。
 光明皇后執政の尖兵となった人物が藤原仲麻呂です。彼は藤原南家武智麻呂の子供で権力欲が強く、才気煥発、強引な手法を駆使する人物でした。彼は746年従三位、748年大納言となります。749年孝謙天皇即位、すぐ紫微中台が設置されます。紫微中台は律令制の官職とは全く別系統の機関であり、光明皇后の皇后職が大きく拡大された政治機構です。仲麻呂は紫微令(長官)となります。肝要な事は、すべての太政官の政令はこの機関を通してのみ有効である事と、この機関が朝廷の軍事機構をすべて掌握することです。孝謙天皇の即位により光明皇后は天皇の母親として強力な力を持ち、それを背景として仲麻呂は独裁機関を作ります。この機関の設置直後橘奈良麻呂の変が起こります。過程の詳細な叙述は控えますが、どうやら仲麻呂は皇位を覆して自分か自分の子息が皇位を継ぐことを考えていたようです。しかし光明皇太后あっての仲麻呂であり、760年皇太后が死去すると孝謙上皇と仲麻呂の関係は悪化し、仲麻呂は戦闘に敗れて琵琶湖北岸で敗死します。
 孝謙上皇は重祚して称徳天皇になります。道鏡という僧侶を寵愛し、法王にします。宇佐八幡宮の神が、道鏡に譲位せよ云々の事件があり、譲位は実現しないまま天皇は死去します。台閣は百川を中心とする藤原氏の合議により、天智天皇の孫を選び、光仁天皇として即位してもらいます。このように書きますと奈良時代の政治は弛緩し崩壊したごとくに聞こえ間が、権力者相互の闘争は別として、土地政策などの基本的政治は案外かっちりやっていました。すでに官僚制度は整備されていたと思います。その代表が吉備真備です。彼は20年間唐に留学し漢民族の外典(律令と儒学など、つまり仏教以外の書物)に通暁していました。帰国後橘諸兄政権の参謀になります。藤原仲麻呂によって遠ざけられますが、称徳道鏡体制下で呼び返され、仲麻呂を極めて的確な戦術で撃破します。称徳天皇の下では右大臣を務めます。これは挿話ですが、称徳天皇の枕元に侍っていたのは真備の姉でした。だから称徳天皇の遺言は彼女を介して真備に真先に伝えられます。だから真備は遺言を自己に有利に偽れる立場にいました。真備はそうはしなかったようです。官僚と政治家の違いでしょう。

(なぜ宗教は政治にとって必要なのか)
 継体天皇以来日本は律令国家の体制を作ってきました。奈良時代は律令制が完成した時代です。同時にすべての政権は仏教を保護育成してきました。その経過の大略は述べました。律令制と仏教の発展は車の両輪です。そしてこの天皇家の基本戦略に一番協力したのが、藤原氏です。光明子立后などの婚姻政策もありますが、藤原氏の台頭はこの基本路線に徹底的に協力したことです。すでに述べましたが、天皇家の(失礼ながら)氏素性は7世紀前半にまでしか遡れません。いわば天皇家も新興氏族の一つなのです。こういう時同じ新興氏族は同盟者協力者として便利です。新来の思想授受を媒介として新興氏族はまとまり、共同します。天皇家の協同者がまず蘇我氏であり、ついで藤原氏でした。藤原氏は衰退した蘇我氏に代わって仏教の外護者になり、蘇我氏が日本で一番早く建てた寺院である法興寺を保護し、自らの氏寺山階寺を奈良に移して興福寺とします。奈良時代になると藤原氏の仏教外護は徹底して行きます。光明皇后と聖武天皇は多くの寺院を創り喜捨し、仏像を建立します。政治的要請もありました。圧巻は国分寺・国分尼寺の創建と大仏開眼です。
 ではなぜ仏教はあるいわより一般的に宗教は政治にとって必要なのでしょうか。まず現代世界において宗教を否定する国は極寡少です。宗教を否定する国ではその国の指導者自身が絶対者つまりいわば神になります。人間は社会的存在です。社会的紐帯なしに、個々バラバラでは人間は生きては行けません。この紐帯の基本はエロス、広義の意味での性愛です。個人はエロスで他の個人と結ばれます。念のために言えば、このエロスには異性愛のみならず同性愛も含まれます。個々人間のエロスは不安定なので、このエロスを集約する存在が出現します。これがカリスマです。こうして宗教カリスマが出現します。
宗教カリスマだけでは自存性が無いので宗教カリスマは自らの複写物を世俗社会に造ります。これが君主です。君主と宗教カリスマは相補します。原始的社会の宗教(?)は呪術です。君主は呪術王であり、医師は呪術医であり、僧侶は呪術師です。社会の規模が小さい部族社会ではこれで十分です。個々人は相互に連なりあい、重なりあい、通じあって生きているのです。この状況をある社会学者は「神秘的融即」と言いました。強調しますがこの「融即」は現在の社会でも存在しているのです。しかし社会の規模が大きくなりますと呪術では不十分です。個々の部族民族に通用する呪術はありません。呪術や民族宗教は個々に影響しあい淘汰しあって別種の宗教が出現します。これが世界宗教というものです。
 世界宗教最大の特徴は、まず個々人と既存の社会の紐帯を断ち切り、個々人を「無」の存在に還元することです。仏教における「無我」、キリスト教における「被造物の原罪」が代表的です。個々人は世界宗教の創造者に個々別々にそして個人的に結び付けられます。こうして帝国規模の社会が形成されます。日本はその典型ですが、他に例証を三つあげます。ローマ帝国は版図が拡大し民族の構成が多様になった時、キリスト教を国教とすることにより自らの延命を計りました。古代インドでアショカ王がインドを統一した時仏教の力を借りて帝国を維持しました。中国の五胡十六国から隋唐の時代にかけて、版図拡大による漢胡両族の混在は仏教の採用によってその統一が可能になりました。ここで重要な事は君主と宗教カリスマは相補相即の関係にあることです。キリスト教を公認したロ-マ皇帝コンスタンティヌスは教会の一員でありキリスト教の教えの下にありながら同時に教会の首長でもありました。日本も同様です。聖武天皇は三宝の奴と自らを卑小化しつつ同時に仏教と仏僧の統治権はしっかり握ります。
 宗教とはこのようなものです。宗教無くして国家・政治の存在はあり得ません。ここでちょっと考えてみましょう。日本は仏教伝来以来営々として仏教を保護育成し、その延長上に鎌倉仏教という独自の仏教を創始しました。という事は、日本は一国で帝国(誤解されやすい言葉ですが)でありまた文化なのです。




「君民令和 美しい国日本の歴史」ch2 大仏開眼 注2

2022-01-30 02:24:49 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch 2 大仏開眼 注2

(仏教伝来)
まず仏教伝来以後奈良時代までの主な仏教関係の事項を表にします。
552年 百済から仏教公伝
587年 蘇我馬子、物部守屋を亡ぼす、廃仏派壊滅
588年 蘇我馬子、法興寺建立
  用明天皇、仏教に帰依 
593年 推古天皇即位 聖徳太子摂政
607年 聖徳太子、法隆寺建立
639年 舒明天皇、百済大寺を建立、後大官大寺に
  天智天皇、川原寺・崇福寺建立
683年 僧綱制成立、政府が官費で建てた最初の寺
698年 薬師寺完成
701年 僧尼令成立、大宝律令完成
717年 行基の布教活動を禁止
741年 国分寺・国分尼寺建設の詔を発布
752年 東大寺大仏開眼供養、東大寺建立には行基弟子を率いて参加、この間行基大僧正に任官
754年 鑑真唐より戒律を伝える、唐招提寺建立
766年 道鏡法王に
 このように仏教はすべての天皇により受け入れられ発展して行きます。用明天皇は個人として仏教を受け入れた初めての天皇でした。その皇子が聖徳太子です。舒明天皇の建立した川原寺は後に官寺(政府が公的に認めた寺)になります。薬師寺は天武天皇が后であり後の持統天皇の病気回復を願って建てられました。また天武天皇の葬式は仏式で行われた最初の葬送です。僧綱制とは僧侶を管理する制度です。僧正・僧都・律師などの僧侶の位階制を創ります。僧尼令は僧尼の統制のための法律です。肝心な事は、僧尼は決められた官営の寺の内部でのみ修行を許される、ということです。寺院の外での宗教活動は禁止されました。この制度に反発して平安仏教(最澄、空海などの)が発展します。行基の活動はその先駆でもあります。経典を読んでいればいい、内容は解らなくてもいい、極端に言えばそそうなります。私は思うのですが、経典の暗記は文字習得の一環であったかもしれません。経典は一種の詩歌であり、リズムがあり読みやすく覚えやすいのです。道鏡を取り上げたのは僧侶の政治への容喙の害が甚だしくなってきたからです。当時僧侶は宮廷内部で活動するのは認められていました。政府首脳及び後宮に直接接するので政治への影響力が増します。その極点が道鏡ですが、それに先んじて玄昉がいます。彼は日本へ法相宗という理論仏教他、大乗仏典のほとんどを持ち込み、日本仏教への貢献は大きいのです。一種の精神療法家で、法力を以って文武天皇の妃(聖武天皇の母親)宮子の20年来のうつ病を治しました。そういうせいもあり玄昉の政治への影響力は絶大でした。藤原広嗣の叛乱の理由の一つは君側の姦、玄昉を討つにありました。唐朝でも僧侶の宮廷への影響力とその弊害は強く、日本もその影響は受けています。武后は愛人を僧侶にして後宮に入れたと言われております。

(天平の僧、行基)
 行基は668年河内国(後和泉国が分離、大阪府)大鳥郷で生まれました。天智天皇の即位の年です。大鳥郷は現在大阪府堺市にあり近くには和泉国一宮大鳥神社があります。家は高志氏で河内書氏の支流です。高志は現在高石市になっております。書氏ですから、大陸からの帰化人の系譜に連なる者であったでしょう。従って行基は新来の知識や技術に通暁しうる環境にありました。また外来の仏教にも親しむ事ができたと思われます。諸種の文献によりますと、行基の本家書氏は従五位の国司をも出した家柄です。従って分家である高志氏も中堅豪族くらいの層に属していたであろうと推測されます。こういう家柄も行基の布教を助けたのでしょう。
15歳出家、法相宗で重んじる「ヨガ論」や「唯識論」を好んで読みました。法相宗は中大兄の時代入唐した道昭が持ち帰りました。道昭は後、川原寺に住み講習を行う傍ら、貧民救済や土木灌漑事業に励んだと言われます。日本における菩薩僧の第一号です。行基はこの道昭の宗風を強く受け継ぎます。菩薩僧とは単に仏行を修行するのみでなく、民間に入り社会事業に専念するタイプの僧侶を言います。行基も後の真言宗の空海も律宗の叡尊・忍性もこの菩薩僧の範疇に入ります。日本ではこの菩薩僧が多いのです。なお道昭や行基が学んだ法相宗(唯識論)は菩薩道には一番縁遠い宗派ではあります。7世紀前半唐の玄奘がインドに渡り、20年間かけてインドの経典を持ち帰りました。玄奘はヨガ唯識論を好み彼の弟子が中国式唯識論である法相宗を創ります。道昭は多分玄奘に直接師事しいていたものと思われます。法相宗(唯識論)の利点は論理に強い事です。当時の日本の留学僧はこの論理に魅かれたのでしょう。後平安仏教あるいは鎌倉仏教になりますと、ほとんどが反法相宗で自己の論理を形成します。道昭に自分の息子を託し唐へ留学させたのが中臣鎌足です。彼の息子は帰国後夭折しましたが、その縁もあり道昭は藤原氏に保護されることになります。藤原氏の氏寺である興福寺は法相宗の本拠です。平安時代の仏教理論はこの法相宗と天台宗で代表されます。だから興福寺と延暦寺は仲が悪い(?)とも言えます。とまれ行基は道昭の影響を強く受けて仏僧になります。
 37歳行基は生家を改めて寺院にし、家原寺を建てます。以後生涯にわたり60近くの寺を建てます。712年45歳ころから布施屋設置の活動を始めます。当時租税を運搬する役夫が途中飢えで死ぬことがよくあり、政府も頭を悩ませそれなりの対策は施します。布施屋とはこのような役夫を救済する活動です。行基の社会活動が始まります。717年50歳の時政府は行基の活動を僧尼令違反とし禁止します。だからと言って行基の活動が止んだわけでもありあせん。54歳菅原寺を建てます。731年64歳時、狭山池を開設します。大規模な灌漑池です。現在でも堺市にあります。併行して諸種の灌漑土木工事を行い、寺院をどんどん建ててゆきます。社会活動と布教行為を並行して行います。
 転機は741年行基74歳の時です。聖武天皇が泉橋院に行幸し行基に摂津稲野の地を与え、寡婦などの貧民を救済する事を許した(願った、命じた)ことです。行基の社会活動は容認されるどころか推奨されます。この転換には背景があります。まず藤原広嗣の乱、これは政府特に藤原氏にとっては大問題、自己の政治的地盤を揺るがしかねない事態です。更に疫病、藤原四兄弟は全滅です。こういう中、国分寺国分尼寺設立の詔が出されます。藤原氏は不比等が朝廷から給された封戸3000を国分寺国分尼寺の建設用として寄付しています。更に墾田永世私有の法も発布されます。これは諸国の有力者を中心とする田畑開発、私有への願望がを押さえきれなくなった事を意味します。政府の土地政策と仏教政策と行基の活動は併行し提携します。
 当時つまり740年前後、がちがちの律令体制ではやって行けなくなっていました。班田は足らない、財政は窮する、賦役は増え貧民は増加するの、悪循環でした。ならいっそ諸国の豪農を中心に土地の私有を認め、土地を開発せしめて、生産力を増加させる方が賢明だと政府は判断します。行基の社会活動は土木灌漑による土地の開発と貧民救済です。その背後には万民平等を説く仏教があります。政府と行基が提携する事で、農民は有力者の指導下にあって生産活動に従事する事ができます。行基集団の中核を為す有力農民の指導により、生産は活発化し増大し、土地田畑は増え、租税も増えます。上級中産階級の指導力を認め、経済活動を活発にし、併せて貧民の数を減らす(生活水準を上げる)事ができます。この際行基集団が持つ技術力(本来彼は帰化系氏族出身ですから新進の知識技術には強いのです)は非常に高い価値を持ちます。彼や彼に従う人々の中核は僧侶です。この時代僧侶は民間ではほぼ唯一の知識識字集団でした。事実彼ら、知識を使って民間で活動する僧侶を知識と呼びました。この時代「知識」とは特別の意味を落ちます。その知識は土木灌漑だけに限りません。金属加工、建築、運輸技術、品種と土壌の改良、医薬治病など極めて広範にわたります。併せて行基集団は僧侶の集団です。原則として万民平等を説きます。釈迦が前6世紀に仏教を創始した時、彼の活動は当時の土地占有者バラモンへの反逆でもありました。行基集団では当然のことながら有力農民が中核になりますが、下層貧困者も無視はされません。
 こうして政府と行基は手を結びます。743年行基76歳時、毘盧遮那仏(通称大仏)建立の詔発布、大仏の寺地を開き、行基は弟子を連れて参加します。745年78歳行基は大僧正に任じられます。749年82歳行基死去。752年大仏開眼、聖武太政天皇、光明皇太后、孝謙天皇東大寺へ行幸。なお行基は出家しましたが彼が公認された正式の僧侶か私度僧(かってに出家した僧)かは解りません。僧侶は免税なので政府は私度僧が増えるのを禁止しました。逆に言えば民間人は僧侶を装って脱税する事もできたのです。行基はその活動が許されてからは一応薬師寺の僧籍におさまりました。
 私有された墾田を蓄積して富裕農民が出現します。政府は班田制を改変し、個々の農民ではなく、私有された墾田に所有者の名前を付け、それに課税します。人頭税ではなく土地財産税になったわけです。この名前を付けられ課税の対象となる土地を「負名田」と言います。そしてその所有者を「名前の主」として「名主(みょうしゅ)」と言うようになります。名主は土地開発経営者です。これが武士の起源です。だから743年の墾田永世私有法は日本の歴史において一つの大きな画期であります。後の政府はこの名主から如何に税金を取るかで思案し試行錯誤を重ねて行ったと考えてもいでしょう。


「君民令和 美しい国日本の歴史」ch2大仏開眼 注2

2022-01-29 00:21:56 | Weblog


[君民令和 美しい国日本の歴史」 ch2大仏開眼 注1
(年表)
大宝律令制定・701年
平城遷都・710年
太安万侶「古事記」を撰上・712年
行基の活動を禁止・717年
養老律令完成・722年
三世一身の法・723年
聖武天皇即位・724年
長屋王の変・729年
多治比広成遣唐大使・732年
藤原広嗣の乱・740年
国分寺国分尼寺建立・741年
墾田永世私有の法・743年
行基大僧正・745年
大仏開眼供養・752年
藤原仲麻呂の乱・764年
道鏡法王に・766年
称徳天皇死去、光仁天皇即位・770年
(時代区分)
 年表に示した通りです。平城遷都・710年から光仁天皇即位・770年を奈良時代と言っております。都が平城京・奈良にあった時代です。
(官制)
 聖徳太子、天智天皇、天武持統天皇は政権の中央集権化に邁進してきました。その標識が701年天武天皇の時、制定された大宝律令です。それ以前に近江令(天智天皇)や飛鳥浄海原令(天武天皇あるいは持統天皇)が制定されたとありますが、現存するのは極一部しか確認されていません。722年養老律令が制定されます。ところが大宝と養老の二つの関係がややこしいのです。大宝律令は制定されたがそのほとんどは残っていません。養老律令は制定されたが実施されてはいないと言われます。そして大宝律令の名でほぼ養老律令と同じ内容が施行されたそうです。とまえ大宝・養老の二つの律令制定で100年間の中央集権化は一応完成しました。律令の内容を説明するより奈良時代の官制を説明した方がいいでしょう。法律を具体的に示すものが官制であるからです。また大宝と養老の二つの律令制定の主導者は藤原鎌足の子供である不比等です。この事はいくら強調しても、したりません。
 中央官制は二官八省が基幹です。二官のうち一つは神祇官ですから直接政治には関係しません。もう一つが太政官です。太政官は議定官、行政官、事務局からなります。議定官は左右の大臣に二名程度の大納言からなります。後に中納言や参議が追加され、権官の制も加わって最大30名弱にまでなりました。ここで政策を議定しほぼ決定して天皇に奏上します。決定された政策を執行するのが行政官です。中務、治部、兵部、式部、宮内、大蔵、刑部、民部の八つの省からなります。現在の日本の財務財とか防衛省に相当します。決定された政策を実施します。事務局は左右の弁官(大中小の弁)と少納言局そして内外の外記からなります。事務局は情報を整理し文書化して法と為し、それを議定官に取り次ぐ役目でした。従って左右大弁の役目は重要で出世の踏み台になります。天武持統朝でまず急いで制定されたのが弁官でした。現在で言えば政府官房と総務省に当たるでしょうか。
 地方は国司・郡司制です。任務は徴税と治安維持です。国司は長官の守、時間の介以下四段階ありました。郡司制も同様です。八省も四等官制です。日本の律令制はほとんどの部位で四段階の地位つまり四等官制をとります。任務分担もありますが、互いに競わせて牽制しあい権力が一部に集中しないように配慮されていました。
 税制は租庸調と出挙および雑徭です。租とは田稲つまり田畑の収穫物への課税です。この租はほとんど地方政治の費用として使われました。庸は労役で、調は諸国の名産品例えば絹麻塩鉄などなどです。これらは中央に運ばれ政府の財源になります。出挙は稲の貸付です。国司が農民に春、稲モミを貸し付け秋、収穫物から利子を加えて返させます。現在の感覚で言えば高利になりますが、一粒のモミは数百の米になりますので見た目ほどの高利でもなかったようです。この出挙は金融制度の始まりになります。私人が出挙すれば私出挙と言い、金融になるのですから。問題は雑徭です。これは国司(特に長官の守)の判断で必要と認められれば最大50日以内で農民を労役に使用できるという制度です。50日と言えば仮に一年330日働いたとして15%の利子になります。農民の苦痛の種、そして国司の私的蓄財の温床になりました。
 兵制は徴兵制です。兵士は武器自弁です。これが北九州の沿岸防備に廻されると防人になります。いやいや従軍するのですから強兵であるはずがありません。新羅との緊張が緩和するに従い徴兵制は崩れ、郡司の子弟を中心とする騎兵集団の健児制になります。日本には古代から「伴」と「舎人」という二つの兵制がありました。伴は大王に仕える軍事氏族の軍隊です。大伴・物部氏がこの任務を担いました。この伴が後宮門警備の衛士更に変化して衛門府の兵士になります。舎人は地方の豪族から人質として献上された子弟です。舎人が大王天皇の親衛隊になります。後の兵衛府です。また中央集権化が進むに従い政争も激化します。そこで天皇の身辺を警衛するための特殊兵団、授刀の舎人(太刀はきの舎人)が造られました。これは事実上藤原氏の私兵で政争には常に動員されました。授刀の舎人は後近衛府になります。
(政争)
律令制の発展の結果である官制を概観しました。ではこのような制度は円滑無血に葛藤なく行われたでしょうか。ま反対です。政争と流血に彩られています。673年即位した天武天皇は皇親政治を推し進めます。政府首脳は天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)を中心に皇族を用いた政治を行います。壬申の乱に協力した有力豪族は政治の表舞台から締め出されます。天智天武天皇は同母兄弟であるのみならず、相互に婚姻関係を結び多くの皇子皇女を設けていました。鵜野皇后自体が天智天皇の皇女です。新羅との関係が良くないので、外寇に備えなければならず、勢い武断的政治になります。天武天皇には皇位継承資格者として二人の皇子がいました。鵜野皇后腹の草壁皇子ともう一人大津皇子です。人物としては大津の方が優れていたようです。二人は対立する関係になります。686年天武天皇が死去するとほぼ同時に「大津皇子は謀反罪で捕えられ処刑」されます。鵜野皇后の仕組んだ陰謀です。草壁皇子は病弱で三年後死去します。鵜野皇后は三年間称制を行い、690年即位し持統天皇となり、697年退位し、5年間太政天皇として政治の実権を握ります。持統天皇の時代は天武天皇の時より豪族への締め付けは緩やかであったようです。
持統天皇の執政期に藤原京が造られ遷都します。それまでの都は各天皇の代ごとに造られていました。藤原京は持統、文武、元正と三代が統治する都となります。以後平城(奈良)、平安(京都)、東京と続きます。持統天皇の次代は草壁皇子の孫である軽皇子が継ぎ、文武天皇になります。文武天皇も若くして死去し、その子供である首(おびと)皇子が724年23歳で聖武天皇として即位するまで、文武天皇の母親が元正天皇としてその後は姉である元明天皇が中継ぎとして天皇となります。この間政界の実力者藤原不比等が720年死去します。死後贈太政大臣を追号されます。
 台閣は左大臣長屋王と台頭してきた不比等の子息である四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が中心になります。聖武天皇の母親宮子の称号問題で長屋王は正論を貫き(臣下上がりの妃を正妃とは言えないと主張)729年「長屋王は藤原氏の私兵に包囲され自殺」を強いられます。王の正妻である吉備内親王(草壁皇子の皇女)とその腹の子女も殺されます。後、冤罪と解ります。長屋王は天武天皇の子供高市皇子の子供であり、また父親の高市皇子は壬申の乱に大功があり太政大臣となり、次の天皇と目されていました。父親と妻の系譜から言えば長屋王には皇位継承資格があると判断され、藤原氏の陰謀の犠牲者になります。
 737年疫病が大流行し藤原四兄弟は全員死にます。台閣は右大臣橘諸兄が中心になります。阿倍内親王立太子。ここで橘美千代という女傑について寸言しておきます。彼女は前夫と別れた後藤原不比等と結ばれ子女を一人産みます。この娘が聖武天皇の正妃(?)である光明皇后です。同時に美千代は聖武天皇の母親宮子の側近であり保護者でもありました。宮子は長らくうつ病で誰にも会えない生活を送っていたのです。宮子の父親が不比等です。美千代は藤原氏の宮廷工作の影の人物です。また美千代と前夫の間に生まれた子供が橘諸兄です。
 「740年藤原広嗣の乱」が起こります。741年、国分寺・国分尼寺建立の詔。743年、墾田永世私有法。744年「安積親王死去」。ちなみに安積親王は聖武天皇の皇子でした。光明皇后に皇子が生まれましたがすぐ死去しています。(皇后以外に腹の)男子の後継者がいるのに女性が皇太子となりました。だから安積親王の死は謀略による毒殺説も有力です。この親王の側近保護者が大伴家持です。この事は銘記しておいてください。
745年、行基大僧正。749年聖武天皇譲位、皇太子阿倍内親王即位、孝謙天皇、752年大仏開眼。756年聖武天皇死去、遺詔により道祖王立太子。757年、「皇太子道祖王を廃して」大炊王立太子、藤原仲麻呂紫微内相に、仲麻呂の専権。同年「橘奈良麻呂の変」、仲麻呂殺害の謀略。奈良麻呂や大伴古麻呂処刑。758年孝謙天皇、大炊王に譲位、淳仁天皇。762年「天皇と孝謙上皇が不和」。764年「藤原仲麻呂」叛乱、氷上塩焼を天皇に建てんとする、敗死。「淳仁天皇淡路へ配流」、孝謙上皇重祚して称徳天皇に。765年「和気王ら皇族が謀反の疑い」で誅殺される。766年道鏡法王に。770年称徳天皇死去、「道鏡下野へ流罪」。光仁天皇即位。
 ざっとこのような経過です。「」に入れた部分が陰謀内紛時に内乱です。686年の大津皇子事件から770年の道鏡流罪までの80余年間に総計10個の政変が起こっています。これらの事件を貫いて流れる筋は三本あります。それらは相互に絡み合います。まず第一は、天武天皇-草壁皇子の嫡流の系譜を死守しようとする動き、更にそれに絡んだ藤原氏の地位上昇(あるいわ奪権)の動きです。この線では藤原不比等、光明皇后、藤原仲麻呂が重要な働きをしています。第二は墾田(私有地)を求める動きです。第三は仏教政策です。墾田私有を求める行基の運動は始め禁止されます。25年後の743年墾田の私有は合法化され、行基は大僧正に任命されます。行基は東大寺建立に弟子たちを率いて参加します。行基の活動容認と平行して国分寺国分尼寺の建設が進みます。その延長線上に大仏建立があります。これらの政策を推し進めた主導者は光明皇后です。聖武天皇は藤原広嗣の乱以後行幸と遷都を繰り返し半病人のようなものでした。光明皇后の政治は墾田容認と仏教振興の二つですがこれは時代の要求に沿うと同時に、同族からの反乱者出現への謝罪(広嗣は宇合の息子で皇后の甥になります)と自信を無くした夫聖武への強力な援護射撃でした。ここで行基が、皇后とともに、墾田容認と仏教振興のかなめになります。奈良時代の主役は光明皇后と行基であると言ってもいいのです。749年聖武天皇譲位・孝謙天皇即位から760年光明皇后死去までの事実上の執政者は皇后(あるいわ皇太后)でした。仲麻呂は皇后が死去し後ろ盾を失います。孝謙上皇はそれまでの母親の束縛から解放されます。ここで道鏡が現れ、政権を維持できなくなった仲麻呂が追い詰められて反乱を起こします。以上が奈良時代政変史の総説です。残りは以下の各論で補います。

近親相姦の蔓延

2022-01-28 20:27:46 | Weblog
     近親相姦の蔓延
 1月14日の産経新聞の記事に依れば現在フランスで性的虐待(近親相姦強要)が蔓延している由である。現在正式に調査機関が設けられ約8000件の事例が報告されている。S という女性は11歳の時父親による性器の愛撫を受けた。母親に話したが母親は沈黙を強要し、父親による被害は重ねられ続けた。母親は父親と別れのち自殺、弟も12歳で自殺と記事にはあった。フランスにおける性的虐待例数は推定で10万件、実態はもっと多いと推定されている。隠されることが多い。マクロン大統領も対策に本腰を入れているとか。フランスでは自由婚とかで、婚姻を他の人間関係と区別する指標は無い。フランス人はそのことを進歩だと誇りに思っているらしい。少なくともそう考える人間が多数のようだ。前大統領ホランド氏は彼の内閣に愛人を入れ、離婚した前妻は下院に議席を持っていると、10年前の新聞で読んだ事がある。その時私は危ないなあと思ったが案の定だ。
 ただし他人事ではない。日本にも同様の事態は想定できる。15年前大阪児童相談所を知人の紹介で訪問し所長以下の職員に丁寧に説明を受けたが、彼らの意見は性的虐待に関する限り数値は氷山の一角に過ぎないとの事だった。私が近辺で近親相姦を知っているのは二霊だ。一例は80年以上前疎開していた田舎での風評、もう一例は治療中患者からの報告だ。田舎では風評は筒抜けだし、私の治療は「隠し事なし」でなりたっている。一般の人間関係では隠される事が多い。
 家族関係は、血統、愛情、財産の分配で成り立っている。子供への愛情と配偶者への愛情は当然違うものだ。家族関係は婚姻秩序というある種の強制により維持され護られ育成される。もしこの強制装置がなければ近親相姦は容易に起こりうる。逆に言えば放置しておけば近親相姦は容易に起こるのだ。そして近親相姦の禁止は道徳と情念の基盤になる。近親相姦の被害者は成人しても人間関係の維持に障碍を感じる。
 昨今異常な殺人が頻発している。これらも異常心理の別の発現形態であろう。精神症状は時代とともに推移し変化する。80年前不登校や集団でのいじめはなかった。摂食障害は思春期の女性のわずかがかかる病だった。校内暴力も学級崩壊も無かった。異常な殺人行為は統合失調症の一亜型である可能性がある。
 近親相姦行為を審理する裁判官もとまどうだろう。従来の刑法の枠外の現象だからだ。近時同性婚などという現象が取り上げられ、それを容認する事が人間の進歩だなどとあさはかな事を言う連中がいる。社会、道徳、人間関係を破壊するとしか思えない。フランスのニュ-スは人事ではない。
                       2022-1-28
追加 性の多様性云々の主張はごく一部の人の意見である可能性が大きい。例えば兵庫県宝塚市長とか東京都武蔵野市長とかだ。一部の人が言い出し、それが多数だと喧伝され、実際多数になるというわけだ。風評が現実になる。30年前「チビクロサンボ」という人気キャラクタ-我あった。人種差別とされた。実際言い出したのは一人のみだった、と他の証言がある。「トルコ風呂」に関しても同じだ。

菅(かん)元首相のヒットラ-発言に思う

2022-01-28 15:33:37 | Weblog
      菅(かん)元首相のヒットラ-発言に思う 
 数日前菅(かん)元首相が橋下氏(大阪市長、維新代表などを歴任)の雄弁さをアドルフ・ヒットラ- のそれに例えた。ヒットラ-の評価はすでに定着している。この比喩は意図して為されたものとしか思われない。つまり維新はファシストだと言いたいわけだ。侮辱・中傷・誹謗であることは間違いない。菅(かん)氏は元総理であり、立民党の最高顧問だ。公人として発言し公党のイメ-ジを侮辱した事は事実である。維新は文書での説明を立民党に求めている。菅(かん)氏は前言を取り消さない由だ。立民党はどう対応するのか?ヒットラ-への比喩は、日常生活の次元では強盗呼ばわりするに等しい。
                           20221-1-28
(付)
 菅(かん)氏は維新の支持者は低所得階層と言ったが、事実は間違っている。大阪市府民を馬鹿にした印象を受ける。念のために言えば90年前ヒットラ-を支持した階層は中産階級だった。
 菅(かん)氏は大坂市の公務員天国と言ったが10年前この天国を支えた一角は立民党支持団体である官公労だった。菅(かん)氏が総理であった時中国の漁船が日本の巡視船に体当たりした。船長以下を日本の裁判下に置かず、秘密裏に中国に帰し事態を封印したのは菅(かん)氏だった。悲憤に駈られた海上保安庁の一職員によって映像は流された。こんな政権の下でよく国が亡びなかったと思うよ。更に東北大地震では専門家を排除し自身飛行機で現地に飛び、ために初動の4時間が空費された。菅(かん)氏は東工大の出身者の由だが、卒業以後の生活は市民運動の一本槍、当事者能力があるはずもない。謙虚さが全く見られない人だ。雄弁と言えばチャ-チルも居るし大隈重信もいる。わざわざヒットラ-を引き出すこともある網に。

「君民令和 美しい国日本の歴史」第二章 大仏開眼 本文

2022-01-27 01:54:41 | Weblog
  「君民令和 美しい国日本の歴史」 第二章 大仏開眼 本文

1 752年東大寺大仏開眼供養。大仏開眼の意義は四つ。日本に世界宗教が根づく。欽明天皇の御代仏教が日本に伝わって二百年、日本は急速に仏教を摂取。蘇我馬子の法興寺、聖徳太子の法隆寺、寺院建立が始まる。経典の輸入。天平年間、法相三論華厳律成実俱舎が出そろい、教学の基礎文献が整う。僧綱制による僧侶養成、僧尼令の僧侶統制。国分寺国分尼寺、地方にも仏教伝播。総仕上げが大仏開眼、仏教弘布の基礎確立、仏国日本の創造開始が第一の意味。
2 大仏開眼の第二の意味、政治と宗教の同盟。聖武天皇は自らを仏法僧三宝の奴といい大仏を参拝、自身が仏弟子に。天皇は仏教と仏教教団の下位に自らを位置づける。同時に天皇は開眼供養の主宰者、仏教教団の保護統制者。政治と宗教は相互補完的協力関係を形成。政治は政治行為貫徹のために宗教、多数が納得する論理と実践技能を備えた高等宗教を必要とする。政治は自らの力でカリスマを作れない。宗教が宗教たる由縁はカリスマが、信者一人一人に直接働きかけうること。カリスマは宗教信仰の次元においてのみ存在可能。君主はカリスマ性を、宗教を保護する事で宗教から借りて我がものとする。宗教にとっても政治の力は必要。高い民度を持つ共同体にのみ高等宗教は根付く。宗教が一定の段階に達すると宗教は保護する政治を求める。聖武天皇の大仏参拝は君主と宗教カリスマの同盟。統治者はカリスマになり国家と国家が行なう権力行使は承認される。大仏開眼供養、天皇自ら民衆一般を代表して仏教に帰依。統治する者とされる者の共同、共有された価値観、合意された統治。行基が民衆を率いて大仏建立に参加した事は、君主と宗教カリスマの同盟の端的な例。日本は仏教摂取により、統治するカリスマの正統性を獲得。
3 開眼供養、大衆動員、大衆の自主的な参加寄進。行基は世俗の福徳と社会的貢献の意義を説き、社会活動を展開。貧民救済、田畑開墾、灌漑設備の造作。僧侶民衆を組織、財務建設技術を駆使、インフラ開発に邁進。僧侶は新来の知識人、技術の所有者。律令制では土地所有はダメ、が民衆の私有願望は強い。行基の活動は大衆の支持を獲得、法律違反、政府は行基の行動を禁止。が大勢には勝てず、745年彼を大僧正に任命、行基を仏教弘布の最高指導者と認知。行基は大仏開眼に大衆を率いて参加。彼らが開拓した多くの土地から上がる財富と労働力を寄進。国家の事業大仏開眼は、民衆の自発的参加を前提にして、国家と民衆が財富を出しあって行なわれた。行基の弟子達は後、土地を集積して富農そして武士になる。
6 大仏開眼供養、技術の総動員。世界最大の銅製仏像、冶金と建築技術の優秀さ。大衆動員、民間への技術の浸透拡散。有効需要喚起、貨幣経済への刺激。インドペルシャ中近東ギリシャ西域中国の先進文化とともに、仏教は日本に到来。体系的な論理展開と思考法、寺院に典型的に見られる人間の組織と管理の技術、医薬建設冶金工芸職布食品加工など工業技術、新種の農産物など、知識階層僧侶は日本に持ち込む。大仏開眼事業は、技術と知識の集約と更なる発展との結節点。大仏は新幹線。国家と民衆の協力、経済成長、大仏開眼の第三の意味。日本の民衆は豊か、統治は寛容、統治する者とされる者の距離は小さい
7 聖徳太子と大仏開眼。仏教の受容により日本国家が成立。政治に宗教の存在は不可欠。政治と宗教の関係とは。宗教の起源は呪術、原始的部族集団には必ず呪術師。原始的集団は小規模である事により自然な連帯感を保持。連帯感を保証するのが呪術師。呪術師は集団催眠の中で、個々人を超えた存在の意志を部族全体に取り次ぐ。もう少し発展すれば民族宗教。役割は自民族の特権の保証。この段階を超えた多部族多民族集団には民族宗教は無効。世界宗教の出現。世界宗教は、原始宗教が持つ集団内の連帯性を維持しつつ、集団内の個々人の世俗的あり方を一度無条件に否定。否定するのは宗教の創唱者。彼は個の無条件否定絶対無を説いてカリスマになる。釈迦とキリスト、無我と福音。世界宗教は絶対無で一度否定され解体された個々人を創唱者カリスマに直接結び付ける。カリスマと信者は一対一の関係に。政治支配者はカリスマ性を宗教から借りる。
8 日本、仏教受容、国造り。仏教は日本に渡来する以前、三段階を経て形成。釈迦が説く縁起無我。釈迦はすべての存在は連なりあい、確実な個我はないとして苦の存在を否定。豊潤な思考、難解で若干虚無的。第二の転機が竜樹。竜樹は存在と非在は相互転変、確実な存在は流動する全体を決断して捉える主体だけと。転変和合、相補相即、差異同一。第三の転機が法華経。法華経は竜樹が説く決断の主体を、共同体を形成し未来に向けて行動する集団に転化、万人救済を保証、生きる人間を肯定。この仏教を日本は受け入れる。
 仏教は著しい特徴を持つ。竜樹を中に挟んで釈迦の無我と法華経の共同体形成が対応しつつ統一される。釈迦の教えは広く豊か、円転滑脱融通無碍。仏教は人間に優しい宗教。他方法華経の説くところは集団形成、政治行為の重視。仏教は極めて社会的であり建設的。自由自在と社会建設の両翼に仏教の論旨は拡がる。
仏教は国教にならない。仏教教義は柔軟で広範。仏教には異端がない、あるのは各宗派。教義を独占せず、国家権力と独占的に結びつくこともない。日本は仏教国だが、仏教は国教ではない。日本古来の神道と柔らかく習合。仏教が国教にならず、国家自体も精神的価値権力を独占できず、独裁者の出現を排除。日本は仏教を受容する事により政治体制を柔軟なものに、適応力が高いのも日本の政治体制の特徴。西欧では長くキリスト教が国教、異なる分派は異端として迫害。だから信仰の自由云々と騒ぐ。イスラム諸国では政教一致が原則。中国は100年前まで儒教が国教。小さくもない一つの国に広範に浸透し定着してなお国教でない宗教は日本の仏教だけ。宗教戦争は絶無。
9 法華経に集約される仏教の重要な救済法修行法が菩薩道。菩薩とは究極の成道の一歩手前で反転し俗世に降りて大衆救済に励む者。救う者は救われる、逆もまた可、最高の成道。一切の社会的行為は成道につながり、一切の大衆は救済される。菩薩道は国家と民衆を媒介、行基と空海が好例。彼ら以後も社会事業を行い経済福祉活動を促進する菩薩僧は続々出現。武士も菩薩。仏教の菩薩道を社会で具体的に実践し、民衆を国家に取り結ぶ菩薩僧は日本の政治風土の特質。菩薩道、楽観的で明るい。仏教が日本の政治のあり方に導入した思想は、明るく一緒に人のため、救われるのだから安心おし。人々は明るくまとまりやすく何事も話し合いで解決するようになる。集団帰属性と衆議性は日本人の特性。日本は仏教を受容して政治制度を作る。日本の政治体制の特徴は、明るく一緒に人のため、まとまって話し合おう、だ。
10 仏教は、仲良く一緒に人の為、と説く。論理が広濶で円転滑脱であるため仏教は国教になりえず、国家は精神的従って世俗的価値を独占できない。国家と民衆の距離は狭まり統治は寛容になり民衆は協調しやすくなる。

君民令和美しい国日本の歴史 ch①聖徳太子 注4

2022-01-25 23:53:07 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」第一章 聖徳太子 注4

(日本の歴史における海の意味)
 日本の歴史において海、日本海、東シナ海、対馬海峡の持つ意味は重要です。簡単には航海出来ません。結構荒れます。遣唐使船もよく遭難しました。だから通商は可能ですが、大軍を派兵する事はすこぶる危険です。自然で巨大な防壁です。日本の機構は温暖多雨ですから物成はよろしい。侵略するに値する土地ではあります。逆に言えば日本の土地生産性は高く比較的多くの兵を動員できます。奈良平安時代の土地生産力を、摂津平野と華北平原で比較すれば、多分日本は三倍でしょう。侵略は極めて危険です。だから外敵の侵攻は大東亜戦争に敗亡するまでありません。比較してみましょう。ユ-ラシア大陸の反対側に位置する、同様の規模の英国(イングランド)は過去ロ-マ、アングロサクソン、ノルウェイやデンマ-ク等のノルマン人、そしてフランスの豪族フレンチノルマンの侵害をうけています。そのため4-5世紀の歴史は暗黒であり、13-14世紀には英語文書はありませんでした。航海が容易過ぎるのです。ナポレオンやヒットラ-の侵攻に脅えざるをえなかったのも同様です。

(奴隷制と宦官)
 日本に全く奴隷がいないと言えば嘘になります。奈良時代にも奴婢という階層はありました。だが極めて少数です。やがて文献から消えてゆきます。また中世における名子・被官百姓も主人への隷属性が強いのであえて言えば奴隷ともいえます。さらに娼婦もその自由が拘束されやすく、奴隷と言えば奴隷かもしれません。しかしこのような主張は奴隷制度を拡張しすぎています。日本の農村は後で述べるように、緩慢なる下剋上を繰り返しつつ、郷村という自治組織を作り、富裕になって行くので、厳密な意味での奴隷制はありません。少なくともロ-マやギリシャそして中近東のように、公然たる奴隷売買の制度はありません。中世ゲルマン民族は東進する中、比較的発展の遅れていた東方のスラブ人を狩とっては奴隷として使いました。「スラブ」という言葉は英語では「slave」ドイル語では「Sklave」に相当する言葉です。いずれも奴隷を意味します。大体日本で奴隷制を云々する人はマルクス主義の発展段階論に影響を受け過ぎているのです。マルクスは歴史の発展段階として奴隷制、封建制、資本主義と唱えました。この図式を日本に自動的に当てはめれば奴隷制は存在しなければならなくなります。
 宦官は日本には一切いません。中国、インド、アラビア圏などいずれも宦官制度を持っています。古代ロ-マやユダヤでも同様です。君主の後宮管理のために去勢された男性を使います。君主の側近になるので権力を持ちやすく、そのために自ら進んで宦官になる人もいました。三国志の主役の一人魏の曹操の父親は宦官の養子でした。祖父が宦官として貯めた金が曹操の軍資金になります。秦・後漢・唐の王朝は宦官で滅ぼされた向きもあります。宦官は多くが奴隷出身です。奴隷の最大の供給源は非征服民です。奴隷と宦官と他民族征服は相補います。世界中で宦官のないのは日本と西欧だけです。奇しくもこの二つの社会だけで封建制度(土地を媒介とした契約関係)が成立しています。

(傭兵、虐殺、酷刑)
 日本には傭兵はありません。平安時代後半武士の棟梁は一時傭兵隊長に成りかけましたが、速やかに自分たちの政治機構つまり幕府を創ります。また中世の足軽も傭兵的性格を持っていましたがすぐ正規雇用されるようになりました。他の国はすべて傭兵に頼ります。ギリシャ・カルタゴしかり、ロ-マしかり、西欧しかりです。傭兵の供給源は貧民の増加と雇用不足です。ギリシャ、イタリア、スイス、アイルランドなどが供給源としては有名です。スイスなどは時計生産を除くと傭兵と金融で食ってきたようなものです。傭兵の害は戦費の直接収取つまり略奪です。中国も同様で秦漢隋唐宋の各王朝は結局傭兵に頼り、略奪は日常茶判事でした。蒋介石軍も同様です。17世紀の三十年戦争では戦禍そのものより、傭兵の害でドイツの人口は1/3(または2/3)に激減し、ドイツの産業復興には100年以上かかりました。
 虐殺に関しては旧約聖書の記述が参考になります。敵の都市を占拠したら、男と男を知った女はすべて殺せ、とあります。ギリシャ・ロ-マは傭兵制と奴隷制を前提とするので、戦争に伴う虐殺は必然です。西欧では宗教戦争が絡んできます。1220年頃行われた南フランスのアルビ派という異端撲滅戦争では、土地の領主も農民もすべて殺されました。これでフランスの南北の政治経済力は逆転します。16世紀後半のサンベルトロミ-の虐殺では数千人とか数万人の貴族が殺されます。中国では項羽の咸陽攻略は有名ですし、南北朝の梁治下の南京が攻略され落城した時、城民の半分は殺されます。19世紀中頃の太平天国の乱でも南京ではやはり市民の半数が殺されました。
 酷刑に関しては二つだけ例を挙げます。まず車裂。四肢を馬に括り付けておき、一気に馬を四方に走らせて体を引き裂く刑罰です。次に胴斬。体を足から上に一寸ずつ切って行くことです。日本での刑罰は、鞭で打つ、棒で打つ、強制労働、流罪、死刑の五つです。あえて犠牲者に苦痛を与えるような刑罰は、少なくとも稀な例外を除いて日本ではありません。

(異端審問)
 これはキリスト教の専売です。もともと一神教は唯我独尊です。中世末期から異端審問は盛んになります。当然宗教戦争を伴います。異端審問ではレコンキスタ(再征服)でイベリア半島を領土としたスペインで最盛期を迎えます。もともとこの半島にはイスラム教徒とユダヤ教徒が多く住んでいました。半島を征服したキリスト教徒は彼らに自らの信仰を強要しますが、隠れイスラム教徒も多く、摘発しては審問にかけました。疑われて裁判所に呼び出されたら二度と娑婆には帰れません。先に述べたサンベルトロミ-の虐殺も異宗派への弾圧のひとコマです。中世末期になると異端審問の変形として魔女裁判が盛んになります。農作が悪いとか、病気が流行るとか、変なデマが噂されるとかすると、女性それも老年の寡婦のせいとされ、彼女たちは魔女と認定され、焼き殺されました。例えば両手両足を縛って水に投げ込み、浮かんだら魔女と判定されました。15世紀末から16・17世紀を最盛期として、200年間で欧州中で約1000万人の女性が火柱に掛けられたと言います。18世紀後半に入ってもアメリカで魔女裁判はまだまだあったそうです。
 いろいろ気持ちの悪い事を述べてきました。要は日本にはそんなものはない、日本は良い国だと言いたいのです。

『君民令和美しい国日本の歴史」Ch3 聖徳太子 注3

2022-01-24 16:12:01 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」Ch1 聖徳太子 注3

(白村江の戦)
 662年白村江で唐・新羅連合軍に日本・百済連合軍が敗れます。これで日本は半島への進出を断念することになります。それまで朝鮮半島は北半分と南満州を高句麗が支配し、南半分を新羅と百済が東西に分けて領有していました。そして南端の一部は任那という首長連合地帯でした。日本はこの任那に影響力を行使し百濟や新羅と外交を繰り広げてきました。任那には日本府という機関があったそうです。現在の歴史家はその存在を否定しています。古来日本列島と朝鮮半島の間には当然のことながら往来があり、人種と文化は混在していたと思ってもいいのです。漢民族というのは横柄なもので、自分たちを中華だと自認していますから、辺境に位置する朝鮮や日本は蛮族でした。朝鮮民族は「ワイ、汚らしいという意味」日本人は「倭、ちびっこという意味」と呼んでいました。
日本列島で政権が成長するのと並行して朝鮮半島にも国が生まれます。それが先に述べた三国です。このうち一番強いのは北方の高句麗で、この民族は600年間中国の王朝に挑戦してきました。隋の煬帝は高句麗遠征に失敗し国を滅ぼします。名君と言われた唐の太宗李世民も高句麗遠征には失敗しています。589年隋が中国を統一、618年唐王朝が成立します。それまで分裂していた中国は統一されます。隋唐王朝の力は半島へそして日本へ及びます。こういう中三国ではいずれも何らかの政変が起き、中央集権と武力充実が目指されます。日本の大化改新もその一環です。外交に一番成功したのは新羅でした。隋唐にとって高句麗はいわば天敵ですから、新羅は唐と結びます。そうなると百濟は日本に接近します。結果として百済は負けて滅びましたが、むしろ百済の方が新羅攻略に積極的でした。日本の外交の失敗は高句麗を同盟に引き込めなかったことです。こうして百済と高句麗は各個撃破されて行きます。その一環が白村江の戦です。唐と新羅が百済を滅ぼしたという情報に日本は驚愕します。百済遺民の蜂起を受けて数万の大軍を半島に派兵します。結果は大敗です。10数年後高句麗も唐に滅ぼされます。半島は唐の占領軍と新羅により統治されます。
百済滅亡に際し日本軍は百済遺民を大量に日本に移住させます。これは半島からの文化移入に役立ちます。当時唐は西方のチベット族の国吐蕃に手を焼いていました。吐蕃は強かったのです。吐蕃をチベット高原に押し戻し一段落して東方に矛先を向けます。高句麗などはこの動きを読んでいたようですが、海のかなたの日本はそういう情報は知りません。だから高句麗と手を結ばずぼんやりしていたのでしょう。なおこの戦いは日本の運命を決めるという意志のもとに斉明天皇(孝徳天皇死去後重祚、中大兄の母親)も出陣しますが途中九州で死去します。
 白村江の大敗で唐新羅軍が日本に侵攻する可能性が高まります。中大兄はまず都を防御しやすい内陸の近江大津に移します。更に大宰府を要塞化して堀を張り巡らせます。中国地方の要衝には朝鮮式山城を作ります。この間7年間、称制という極めて変わった政治体制を取り、668年即位し771年死去します。後継者の人選は曖昧でした。「称制」の意味は判然とはしません。中大兄が実権を握り正式の天皇が不在であった事だけは確かです。なぜ称制という変法を執ったのかには疑問があります。間人皇女との関係も否定できません。
(壬申の乱)
 天智天皇の死後後継者争いがおこります。後継者として一番人望があったのが弟の皇太弟である大海人皇子でした。大海人は天智天皇と同母兄弟であり、舒明天皇の嫡出子です。能力にも問題はありません。中大兄の治世の後半は皇太弟として参政していました。中大兄には適当な後継者の子供はいません。一人います。伊賀の国から献上された采女の産んだ大友皇子です。この皇子のできも良かったのです。しかし母親の血筋が卑賤なだけに臣下豪族は大友皇子の即位には冷淡でした。天智天皇は強引に大友皇子を後継する事を進めます。大友皇子を左右の大臣を超える太政大臣にします。太政大臣を、すべての臣下を超える、限りなく天皇に近い存在としました。こういうややこしい地位を創ったのは大海人皇子の存在を無視できなかったからです。当然大海人皇子は面白くありません。しかし兄のそばににあって天智天皇のやり口を知悉している大海人皇子は慎重に行動します。兄が譲位を約束した時大海人皇子は断りその場で出家します。そして吉野に行きます。大海人皇子に言わせると、虎口を脱したのですし、天智大友側に言わせると、虎に翼を付けて野に放ったようなものでもありました。大海人皇子は吉野で戦備を整えます。近江朝側でもすぐ打ち取れと言う意見も出てきます。大海人皇子にはせいぜい数十人の従者しかいないのですから軽騎を100騎急派すれば済むことです。大友皇子は決断できません。情報を得た大海人皇子は急遽吉野を出て伊賀伊勢を通り、美濃の自分の荘園で挙兵します。真先に尾張の国司が賛同し、数万の兵を集めます。近江朝廷側と大海人の決戦は三度行われ近江側は敗れ、大友皇子は自殺して戦は終わります。死刑は二人で刑罰は寛大なものでした。この戦を壬申の乱と言います。大友皇子は正式の即位儀式を行っていず、歴代の天皇には入れられてきませんでしたが、明治政府により弘文天皇と追号されています。大海人皇子は大和に帰り飛鳥浄美原で即位します。天武天皇です。
 なぜ大海人皇子が勝ったのかは解りません。中大兄(天智天皇)の中央集権化で抑圧された地方豪族が大海人皇子側に立ったとも言われますが、この点もはっきりしません。確かに地方の動きは鈍かったようです。近江側には天智天皇が造った制度への過信があったのかも知れません。ただ一つはっきりしているのは大海人皇子の決意決断です。兄の言う事は一切信じず、一か八かで挙兵しました。ぐずぐずすれば殺されるに決まっているからです。吉野を脱出して美濃に向かう進路は大変です。もし在地の豪族が攻めてくれば側近と家族だけの大海人皇子の命はなかったでしょう。確かに地方豪族は大海人皇子に協力的でした。しかし政権を採った天武そして持統天皇はその反対の事を推し進めます。

(大臣、大連、大兄) 基本的に日本の政治は衆議制、つまり政策の可否を下から積み上げてゆく、ボトムアップ型です。聖徳太子は推古天皇の摂政皇太子でしたが、彼の地位を一般的に言えば「大兄(おおえ)」となります。大兄とは皇太子もしくはそれに相当する皇族です。勾大兄(安閑天皇)、押坂彦人大兄(舒明天皇の父)、山城大兄(聖徳太子の子)、中大兄(天智天皇)などがあります。聖徳太子や大海人皇子(天武天皇)も大兄です。大兄であることの絶対的条件は、母親が皇族か有力豪族の子女であることです。大兄は天皇と共同執政しました。古くは応神天皇と菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の例があります。むしろ大兄は天皇より権力を持っていたかもしれません。日本の天皇は例外を除いてむしろ権威を示す存在であったようです。
 大臣(おおおみ)は在地の最有力豪族です。古くは葛城氏や平郡氏などの大和古来の有力豪族が大臣になりましたが、継体朝以後蘇我氏が台頭し蘇我本宗家滅亡(大化の改新)まで蘇我氏が大臣を独占しました。大臣は臣下を束ねその意見を集約して天皇に奏上するのが役目ですが、実際は天皇(もしくは大兄)と大臣の共同統治でした。聖徳太子と蘇我馬子が代表例です。大臣を「おおおみ」と言うか「だいじん」と言うかは大切な分別です。「おおおみ」は天皇より一格下の共同統治者、「だいじん」は律令官位制度の中の最高官であくまで臣下です。
 大連(おおむらじ)は大臣とは対照的な性格を持ちます。天皇直属の部(べ、隷属した諸種の産業労働者)を総括する役目です。その中には軍事や警察業務も含まれます。雄略天皇の時代に天皇の権力が強まった時、中央集権官僚として大伴物部両氏が台頭してきました。継体天皇を招聘したのは大伴金村でした。大伴氏は朝鮮経営で失敗し残った大連は物部氏だけになりました。蘇我氏と物部氏は崇仏か廃仏かで対立し、戦闘が起こり物部氏は没落します。大臣と大連の違いは大王家(皇室)と婚姻関係を持てるか否かです。大連には権力はあってもあくまで天皇の家来ですから天皇の正妃は出せません。蘇我氏も物部氏も結局脱落しますが家は残ります。それぞれ石川・石上と名前を変えています。


「君民令和 美しい国日本の歴史」第一章 聖徳太子 注釈 2

2022-01-23 15:44:38 | Weblog
『君民令和 美しい国日本の歴史』第一章 聖徳太子 注釈2


(大化の改新)
645年、宮中でク-デタ-が起こります。中大兄(後の天智天皇)の一派が実力者である蘇我入鹿を、皇極天皇の面前で殺害します。同時に中大兄が率いる軍勢は入鹿の父親蝦夷の館を急襲し、蘇我本宗家は滅亡します。クーデタ-は周到に用意されていたようで、一味には中臣鎌足や蘇我氏の傍流である蘇我倉山田石川麻呂などが含まれています。入鹿も用心していましたが、新羅からの朝貢使が来朝し天皇に拝謁するので入鹿は参内せざるをえませんでした。玄関で入鹿は剣を差し出します、同時に宮廷の門はすべて閉じられます。警衛の責任者大伴氏も中大兄に抱き込まれていました。使者が文章を読み上げる中、肝心の刺客はびびって踊り込めません。機を逃してはいけないと、中大兄自身が切り込みます。こうして権勢を誇った蘇我氏は没落します。
変の直接原因は皇位継承争いでした。舒明天皇には二人の継承資格者の皇子がいました。一人は中大兄であり他は古人大兄でした。継承者を決められないので妥協・中継ぎとして舒明天皇の皇后が即位します。皇極天皇です。古人大兄は蘇我氏と舒明天皇の間の子供です。蘇我氏は古人大兄の即位を期待します。中大兄は舒明皇極間にできた子供です。舒明天皇は既述のように敏達-押坂彦人-舒明と続く系統で蘇我氏の血統は非常に薄い。加えて中大兄の母親(皇極天皇)は息長氏という氏族出身で蘇我氏とはなんの関係もありません。息長(おきなが)氏は多分継体天皇即位時に近江からきた氏族でしょう。中大兄か古人大兄かは天皇家か蘇我氏かどちらが政治の主導権を取るかの争いです。念の為に言いますと、天皇家も蘇我氏も政策の方向ではあまり変わりはなかったようです。中大兄も入鹿もまた中臣鎌足も、帰化した知識人である南淵請安や僧旻のところで最新知識を学んでいました。入鹿は優秀なそして自信過剰な人でした。古人大兄は吉野にこもり剃髪して敵意のないことを示しますがやがて殺されます。その古人大兄の娘(当時まだ子供)を中大兄は正妃(倭姫)として迎え入れているのですからややこしい限りです。皇極天皇は退位し彼女の弟が即位して孝徳天皇となります。実権は皇太子中大兄が握ります。
大化の改新でまず宣言されたのは、仏教興隆でした。次に官制が厳格化されます。大臣(おおおみ)は左右の大臣(だいじん)に分けられ権力は分散され天皇皇太子に集中するようになります。また地方には評(後に郡)が置かれ、それまで在地の有力氏族の長が国造(くにのみやっこ、これも一応官職なのですが)として握っていた地方の統治権を中央に結びつけます。大化の改新の政策で一番重要なのはこの「評」の設置でしょう。中大兄は聖徳太子以来目指され、また天武持統朝に連なる中央集権化を強力に推し進めます。都は大和から摂津難波に移されます。政変に対する在地勢力の反発を嫌ったのかも知れません。しかし中大兄はやがて都を大和にしようと言い出します。ここで孝徳天皇と中大兄は対立します。対立の節目はこれも推測ですが、対半島政策であろうと思います。中大兄は百済友好路線を取り、孝徳天皇は新羅友好路線を取ったようです。白村江の戦の結膜から考えて中大兄の方針は誤っていたとも言えます。ただしこの辺の外交政策は千変万化であり、何が正しいかは簡単には言えません。孝徳天皇と中大兄の対立は激化し、中大兄は勝手に大和に帰ります。群臣の多くも中大兄に従います。のみならず天皇の正妃である皇后間人皇女も中大兄と同行します。二人は同母兄妹でしたが不倫の関係にありました。
中大兄は多くの人を殺しています。先に挙げた古人大兄もその一人です。孝徳天皇は淋しく難波宮で死にますが、有間皇子という子供がいました。れっきとした皇位継承資格者であり、先のいきさつもあり中大兄にとっては危険な存在です。謀略をもってこの皇子も殺されます。クーデタ-に協力した蘇我倉山田石川麻呂も改新の数年後殺されます。反政府の陰謀をたくらんだという理由です。後で無実と解りましが、この人物は中大兄にとってはいない方が良かったのです。蘇我氏の本流は潰されましたが石川麻呂の声望は大きかったのです。彼は大臣に任命されても朝廷の決めた冠を被らないで馬子以来の古冠を着用しました。危険な存在であることは確かです。

(王権と蘇我氏)
 蘇我氏は王権に背いてあるいわそれを乗っ取ろうとして、倒されました。このような考え方はあたかも蘇我氏が反逆したような印象を与えます。しかしよく考えてみましょう。確定している天皇は継体天皇以後です。継体欽明朝になって日本は中央集権化つまり独立しうる国家を作り始めました。また継体天皇は朝鮮半島とも関係が深いのです。継体天皇とそれ以前の皇統の間には大きな断裂があり、全く別の王朝である可能性も大きいのです。蘇我氏もほぼ同様の時期に台頭しています。蘇我氏で明確に名前知られるのは「韓子」からです。この名前は韓(から)を意味します。そう一概には言えませんが蘇我氏が半島由来ゆえに、このような名前を持った、とも解釈できます。また蘇我氏は新しい技術を用いて天皇家と同様にどんどん田地を開発した新興氏族です。技術は半島由来です。蘇我氏は帰化人の領袖とも言われています。蘇我氏自身は葛城氏の傍流だと自称していますが。加えて天皇家と蘇我氏のしようとした事はほぼ同じです。特に仏教政策に関しては全く同じ歩調を取りました。後に述べますが、仏教興隆という事は政府の集権化と大きく関係します。また多くの文書、それは天皇家と諸氏族の系譜伝記らしいのですが、これも蘇我氏の家に保管され改新の兵火で焼失したとか言われます。この事も気になります。公文書特に国の歴史書の保管は国家の義務であり権利ですから。こう考えてくると、天皇家も蘇我氏も素性は同じ、ほぼ同格とも言えます。結果として蘇我本宗家は滅亡しましたが、事情いかんによっては蘇我氏が天下をとり朝廷を作ってもおかしくはなかったのです。婉曲に表現して、かもしれない、と言っておきます。
先に聖徳太子の家系について述べましたが、敏達・用明・崇峻・推古そして聖徳太子、さらに穴穂部皇子という人物も入りますと、実にややこしく複雑です。図にしてよく解らない、文にするとなおさら解らない、ようにできています。蘇我氏は自分の娘たちを皇子に配りまくり、近親結婚をどんどん進めました。このような事は奈良時代にも、桓武嵯峨朝でも起こります。これは当時の日本の婚姻制度が母系制というより双系制であったからです。資産分配、家庭指導などに父親の家のみならず母親の家も干渉する・発言権を持ちます。聖徳太子は「和をもって尊しとする」と言いましたが、双系制の方が氏族豪族はまとまりやすくなります。完全な父系制であると氏族は個々別々に分離凝固し、氏族同士はまとまりにくくなります。もともとまとまりやすい所へ太子は「和をもって云々」と冠を被せたのです。日本では内紛が起こっても一族全部が族滅されることはありません。せいぜいトップが処刑されるか配流されるくらいです。官制に関しては次章で説明しますが、日本では議定官がどんどん力をつけ、その代表として摂関という制度ができました。中国では逆に議定官が後退し、行政官が皇帝直属になってゆきます。繰り返しますが日本でははじめから「和」は大事にされていたのです。また双系制は仏教とものすごくしっくりいったようです。仏教は世界で一番理論的でかつ寛容な宗教です。仏教は集権化を阻止する触媒ですが、この事は暗黙のうちに女性の立場を強めます。女性にとっては分権的な社会の方が生きやすいのです。これらの事柄についてはおいおい考えてゆきましょう。

(三経義疏と竜樹)
 仏教、一般に宗教のことについては話すのは難しい。本来「悟り」とか「救い」とかいうものは個人の体験それ自体であって、理屈に還元できるものではありません。キリスト教などは理論化が曖昧ですから逆説的に解りやすいとはいえます。仏教では理論化がすこぶる発達しています。だから逆に解説しにくいのです。「三経」とは本文で述べたように維摩経、勝マン経、法華経の三つです。これらは大乗経典に属します。小乗仏教が専門家のみ悟れるとするのに対して、大乗では大衆救済が説かれます。小乗から大乗への転換点に位置するのが竜樹(ナ-ガルジュナ)です。彼の主著は「中論」です。そこで書かれている事は簡明ですが非常に抽象的で解りにくい。形式論理、形而上学の極みです。後世諸々の注釈書がでました。これがまた事態をややこしくします。
 竜樹の言う事を素直に取れば、存在と非在の交互転換、ということです。もう少し漢字を多く使えば、転変和合、相補相剋、差異同一、となります。こう言ってもピンとくる人は少ないでしょう。ではこれを人間と人間関係に置き換えてみましょう。私はここで「人間」と「人間関係」と別々の言葉を使いましたが、二つは同じです。「人間」とは「人間関係」なのです。人間は他の人間を愛し、憎みます。また間違いを犯しそしてそれを改めます。これが「転変」です。善悪正誤は転変します。また人間は意見が異なることもあり、また一致もします。これが「和合」です。人間は他者と争いまた他者を補い助けます。これが「相補相剋」です。人間は個々に異なりますが同時に同じです。個別的には異なり、全体としては同じです。個と類は相補します。これが「差異同一」です。こう考えれば竜樹の言も解りやすいでしょう。実はこういう考えは精神分析理論の中に伏在しているのです。専門的になりますが、フロイトと、クラインの所説、転移抵抗と対象関係論はそういう事を述べています。竜樹の所見は解りましたか。
(相撲、和の精神の体現)
 聖徳太子が強調した日本人における「和の精神」を身近に体現するものがあります。相撲というスポ-ツです。相撲の開始はある他者が指示命令して為されるものではありません。二人に力士の気が合った時、気が和合した時、試合は始まります。行司は命令者ではありません。行司の判定を五人の審判員がチェックします。「物言い」です。この「物言い」は座って待っている他の力士からもつけられます。行司は行政官、審判員は議定官に相当します。判定が決定されると、勝負した力士は合議の結果の判定に無条件に服します。負けた力士も一礼して土俵を去ります。これは和の体現です。相撲は言い伝えによりますと垂仁天皇かの時代に野見宿祢と当麻蹴早の間で行われたのが起源とあります。年中行事の中に相撲節会があります。極めて日本的で日本人の精神を表現するスポ-ツです。