経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、臥雲辰致

2009-06-29 00:31:21 | Weblog
       臥雲辰到
 
 臥雲辰致(がうんたっち)と言う名を聞いた人は少ないと思います。豊田佐吉に比べれば知名度ではマイナ-です。しかし日本経済史の教科書には必ずと言っていいほど登場する名前です。彼は臥雲式紡績機、通称ガラ紡を発明しました。

 幕末の開国で綿織物の業界の雰囲気は一変します。それまでの国内産の綿糸・綿布に代り、西欧の綿製品が輸入されます。価格はともかく、品質では圧倒的に外国製品の方が優れていました。細い綿糸を作れるのが、西欧綿業の強みです。国内綿業は一時壊滅寸前になります。明治元年から10年間に輸入された物のうち36%が綿製品でした。国内で生産される綿製品は全体の2.8%です。これでは日本の経済はやってゆけません。政府は必死に国内綿業を育てようとしますが、おいそれとは参りません。簡単に輸入できるほど機械工業は甘いものではありません。維新期からなんとか日本綿業が外国製品と太刀打ちできるほどの力をつけるまでの20年間、日本の綿業を支えたのが、和式紡績機、つまりそれまで農村の副業として維持されてきた、紡績技術の延長上に改良された紡績機です。この代表が、臥雲式紡績機、ガラ紡です。

 話は変わりますが幕末の開国で、日本の経済状況は東西で対照的な関係になります。綿糸綿布を生産していた西国(西日本)は開国で打撃を受けます。逆に東国(東日本)は生糸を輸出でき、その分利潤は増えます。薩長としては是が非でも倒幕戦争を遂行し、西国に有利な経済状態を作らなければなりませんでした。戊辰戦争もこのような視点からも考察できます。

 臥雲辰致は天保13年(1842年)信濃国(長野県)安曇郡田多井村に生まれました。祖父は豪農です。父親横山儀十郎は長男ですが、賭博にこり、分家に出されます。辰致は儀十郎の長男に生まれました。幼名は栄弥。そのころ信州の村々では副業として、篠巻づくりという方式で綿糸が紡がれていました。主として足袋底用に使います。栄弥は、祖母や母親が苦労して紡いでいる糸をなんとかもっと楽に早くできないかと考えます。ある日火吹竹に綿花をつめて遊んでいました。火吹竹が手から落ちます。からからと竹がまわり、竹の外に出た綿糸が竹に絡みつきます。これがヒントになります。

 それから栄弥は発明と改良のとりこになります。昼夜寝食を忘れて器械作りに没頭します。家業などはほったらかしです。心配した両親は栄弥を近くの寺に入れ、むりやり僧にしてしまいます。栄弥20歳の時です、法名智恵。やがて臥雲山孤峰院の住職になります。廃仏毀釈にあい、寺は廃寺になり、彼は還俗させられます。これを機に臥雲辰到と名乗ります。辰致30歳です。まあ彼は発明狂と言ってもいい人物ですが、その点では賭博狂だった父親と似ています。

 31歳、結婚。その間紡績機の作成に没頭します。32歳最初のガラ紡が作られます。太い糸しか紡げません。特許を申請しますが、当時の日本には特許を管理する機構がありません。(明治20年専売特許局設立、初代局長は高橋是清)明治10年、彼35歳の時、第一回内国博覧会が開かれます。ここに新しく改良したガラ紡を出品し、鳳紋賞を与えられます。やっと辰致の功績が認められました。この前後、近隣の名望家数名と共同で松本連綿社を作り、機械の製造と販売を始めます。

 ガラ紡の機構は次の通りです。直径3センチくらいの筒に綿を詰めます。筒を廻しながら、筒の先から綿糸を引き出します。引き出された綿糸は筒の回転により、撚られながら上に引き上げられ、上にある輪に巻き取られます。重要な事は、筒の回転速度と糸を引き上げる速度を同じにする事です。そうすれば均一な、従って細い綿糸が紡げます。始めのガラ紡はこの速度の調整がつかず、太い糸しか紡げません。

 辰致は最初の妻を離縁しています。出て行ったのか、追い出したのかは解りません。発明にばかり明け暮れて、家計に関心がなければ、たいていの妻は亭主に見切りをつけます。豊田佐吉の最初の妻も出てゆきました。辰致は後援者の一人である川澄藤左の娘、多け(たけ)と結婚します。この親子は心身の両面で辰致の活動を支えました。やがてガラ紡は信州の隣国、三河(愛知県東部)に進出します。ここは三河木綿の本場です。ここを主たる基地にしてガラ紡は発展します。ガラ紡が発展したからと言って、辰致の懐が潤ったようではないようです。

 連綿社を作りましたが、経営には苦労します。最大の原因は模造品の氾濫です。やがてこの会社は解散されます。辰致の機械改良は続きます。なんとかして東京に出たい、東京で機械販売をしたいと思い、経済的事情も省みず、東京に向かいます。途中路銀を使いははたし、衣食に困窮します。寒中乞食のように路上に寝ます。持っていた綿を自ら手で紡いで布を織り、防寒布にします。辰致の苦境を時の政府高官佐野常民が聞きつけ、辰致を大森惟中に預け、辰致は改良にせいを出します。佐野は第一回博覧会の受賞の縁で、辰致を知っていました。

 明治20年、大阪に平野・浪華・天満の紡績工場ができます。東京にも鐘淵紡績工場ができます。これらは15000錘の装置を持つ、日本では珍しい、大型紡績工場です。日本にやっと西洋式の工場ができました。辰致のガラ紡は国内の新式工場と競争する事になります。形勢は圧倒的にガラ紡に不利です、そう見えました。

 しかしガラ紡は一定のシェア-を保って、日本の綿業界で生き続けます。まず機械の値段が安い。これは豊田佐吉の織機と同じです。高橋亀吉氏の意見によれば、日本の産業革命特に第二次産業革命が成功したのは、当時急速に発展してきていた、電気による機械のためでもあるという事です。蒸気により機械は大規模な装置を必要とするが、電気なら電線一本ですむからです。

 次にガラ紡は洋式の大規模工場でできる綿屑に目を着けます。綿屑から綿糸を作ります。できた糸は大工場の生産品に比べて太いのですが、用途は結構ありました。まず足袋底です。今の人達は足袋を履く機会が無いので解らないかも知れませんが、足袋の底は分厚い布です。そして足袋の需要は決して小さいものではありませんでした。私も小学校低学年まで、冬は足袋で通しました。少なくとも家では。(昭和20年代の話)次の用途が綿毛布です。毛布ならそう繊細な織りでなくても構いません。綿のフランネルにも仕えます。。また大工場の綿布生産に使う横糸はかなりの時期まで、太糸でもよかったようです。加えて手織り(に近い)の魅力もあります。

 ガラ紡は不況にあまり影響されません。なぜだか、あえて憶測すれば、一つは農村のhk副業である限り不況時には生産をやめても、構いません。大企業ほど不況に危ないとも言えます。アメリカのGMがいい例です。また用途が用途なので、つまり低価格かつ日常必要品なので、価格弾力性が小さく、不況のような時には生き残りやすいのです。当時の日本人の生活には安物(低価格商品)が必要だったのです。

 晩年の辰致は川澄家で妻多けの世話を受けながら過ごしたようです。明治33年(1900年)59歳で病没。この間藍綬褒章を贈られ、小学校の国語読本で彼の生涯が紹介されました。他の修身の教科書にも載ります。

 臥雲辰致の功績は少なくとも二つあります。まず日本の機械製作の端緒を担った事です。これは後にも引き継がれます。現代にもこの伝統と気風は生きていて、日本の製造業は中小企業でで持っています。中小企業の中での無名の発明改良が製造業を支えています。嘘か本当かは知りませんが、東大阪市内の中小企業が全部潰れたら、世界の製造業のほとんどが課滅すると言われます。そこで高度なそして特殊な部分品が作られているからです。以下は松下電器の管理職の方から直接聴いた話です。30年前ヴィデオ製造で日本と西ドイツは覇権をかけて競争しました。どうしてもドイツは日本に勝てず、ヴィデオ製造から手を引きます。原因はドイツには日本のように、大企業を支える下請け企業が発展してなかったからです。

 もう一つの辰致の功績は、日本の紡績業が欧米のそれに追いつき追い越すまで、つまりタッチアップの間に、彼我の技術のギャップを埋める役割を果たした事です。もし民間でのこの種の改良が無ければ、日本の紡績業は欧米企業に蹂躙され、第一次産業革命はたっせいできなかったでしょう。従ってその後の日本の運命も変わっていた事でしょう。
 
 日本の製造業がいつごろ欧米に追いついたかという目安を以下に示します。

紡績----1897年、綿製品の輸出額が輸入額を超える
造船----1910年、装甲巡洋艦「榛名」「霧島」27000トン川崎・三菱造船所に発注
鉄鋼----1920年、鋼鉄国内自給率を達成、銑鉄は1940年
工作機械----1975年前後、工作機械は出超に
技術貿易----2000年ごろ特許権料は黒字に、出超

 参考文献
  「臥雲辰致」吉川弘文館
  「日本産業史」日経文庫 

経済人列伝、高橋是清

2009-06-27 00:41:55 | Weblog
    高橋是清

 近代日本、特に戦前において特筆されるべき財政家といえば、松方正義と高橋是清です。二人の処方は対照的です。前者はデフレ・引き締め財政、後者はインフレ・積極財政が特徴です。

 高橋是清は1859年(安政元年)に幕府御用絵師川村庄右衛門の非嫡出子として生まれました。名は和喜次、実父には認知されています。仙台藩足軽高橋家に里子として預けられ、養祖母喜代子にかわいがられ、高橋家の養子になります。私生児、里子、養子と形式的には異常な幼少期でしたが、祖母の愛情にくるまれて幸せな時代を送ります。しかし内心はどうだったのでしょうか、彼の人生の軌跡を見ていますと、39歳日銀に拾われるまでは仕事を転々としています。才能に任せて食い散らしている感もあります。この傾向は彼の財政のあり方に影響していると思ってもいいでしょう。

 横浜で外人に英語を習い、14歳仙台藩留学生として渡米します。目的は英語習得です。オ-クランドのヴァンリ-ドという人物の家に寄留します。この人物に騙され、是清は3年間拘束される奴隷(年季奉公人?)に売られます。先輩の援助で解放されます。米国で幕府瓦解を知ります。仙台藩は賊軍ですので、公然とは帰国できません。密かに東京に帰り、米国で知り合った森有礼の紹介で大学南校(後の東大)の教官3等手伝になります。今で言えば、講師か助手でしょうか?

 高橋という人の特徴は、頼まれれば嫌とはいえない事、従って騙されやすい事です。南校時代、300円ほど融通してくれと頼まれ、躊躇なく引き受けます。騙されました。こうして彼はかなりひどい放蕩生活にはまり込みます。この間米人フルベッキ博士から聖書の講義を受けています。放蕩と敬虔、高橋と言う人は複雑な性格の人です。

 34歳、森有礼のひきで東京英語学校(後の第一高等学校)の教師になります。先輩の非行を糾弾して辞職します。浪人時代は英語の翻訳で食べていたようです。その間銀相場に手を出し失敗します。友人達の世話で文部省、農商務省と渡り歩き、やがて初代の特許局長に任命されます。仕事は良くできました。しばらくして先輩にペル-の銀鉱採掘を勧められわざわざアンデス山中に入ります。鉱山は廃坑でした。一杯食わされたわけです。山師(ペテン師)の風評が立ちます。

 39歳日銀総裁川田小一郎の世話で日銀の建築主任になります。年俸1200円。やがて西部(福岡)支店長になり、46歳日銀副総裁になります。松方正義の推薦です。日銀人事でごたごたがあり、7人の幹部職員が辞めた後釜でもあります。是清の人生の方向が定まりました。

 ここまでの高橋是清の人生を見て、ある事に気づかされます。確かに彼は仕事はできたのでしょう。しかしかなりの大失敗をしながら(財政家としては致命的でさえある銀鉱山や銀相場)、そう苦労する事なく立ち直っています。必要な職は与えられています。すべて友人や先輩の斡旋です。最初が森有礼です。森は薩摩出身で賊軍の仙台藩士と面識はありません。高橋と森は米国で知り合いました。当時の留学生は超エリ-トです。そして雲煙万里の彼方の外国暮らし。明治初年度の日本には外国に通じた専門家は多くはいません。同志同朋意識はすぐ育ちます。この人間関係はどんどん増殖されます。加えて恬淡、無欲、無邪気な高橋は(津島寿一評)誰からもかわいがられたのでしょう。

 1904年日露戦争が始まります。是清51歳の男盛りです。外債公募のためにロンドンに行きます。なかなか国債がさばけません。国債500万ポンドを年6分利で、関税収入が担保と言うきつい条件で売りさばきます。この時美談があります。ニュ-ヨ-クにヤコブ・シフというユダヤ人がいました。彼が外債を500万ポンドほど買ってくれました。当時猛烈に残酷だった、ロシア政府によるユダヤ人迫害故です。ヤコブ・シフは同朋の敵ロシアと戦う、日本を応援してくれたのです。日露戦争の戦費は総計で17億円超、うち外債は8億円超です。ロンドンで公債がさばけなければ日本海海戦はありえなかったでしょう。この功績で高橋は貴族院議員になりやがて子爵に叙せられます。

 58歳日銀総裁、60歳山本権兵衛内閣蔵相、65歳原内閣蔵相、になります。そして原敬暗殺の後を受けて、首相兼蔵相になります。もっともこの頃の高橋の事跡はそうぱっとするようなものでもありません。首相としては失敗の方でしょう。
この間日本の経済は大きく変動します。日露戦争後は不況が続きます。神風が吹きます。第一次世界大戦です。日本の製品は質を問われることなく、いくらでも売れました。大戦前には11億円の債務国が大戦後には27億の債権国になっていました。やがて反動恐慌がきます。大戦中雨の竹の子のようにできた企業はどんどんつぶれます。そして1925年東京大震災。首都圏の資本のあらかたは廃墟になります。大戦後の日本経済は、第二次産業革命(重化学工業)達成のための資本をどう捻出するかという問題と、それに伴う国債発行による赤字財政をどう立て直すのかという二つの問題が中心でした。日本の経済は大戦期を除いて日露戦争から満州事変のころまでズ-と赤字でした。大戦で稼いだ外貨を食いつぶしているようなものでした。産業が勃興する時には避けられない苦難の時期です。この間の経済の動揺を象徴するような事件が二つあります。震災手形法案と金解禁です。
 
 関東大震災により多くの企業が発行した手形の決済は不可能になりました。このままでは企業は倒産します。この事態を防ぐために震災で異常な被害を蒙った企業の手形は、最終的に日銀が割り引く事になりました。つまり日銀により当分の間この種の手形は信用を供与されたわけです。震災手形の総額は約4億3000万円です。この手形に関してはいろいろ悪い噂も流れました。当然の事ですが、そう大した被害でもないのに、震災手形を申請する輩も出てきます。高橋亀吉氏などは財政赤字と不況の第一の原因はこの手形にあると言っています。

 こういう事情を背景として1927年若槻内閣の時、震災二法案が提出されます。法案の趣旨は、震災手形を所有する者への救済措置です。ここで議会がもめます。救済の目的は特定の企業、具体的には台湾銀行と鈴木商店の救済にあるのではないかと、反対論が噴出します。台銀は、大戦後の経営に苦しむ鈴木商店に融資し、不良債務を抱え込んでいました。震災手形二法案の実質的救済対象は台湾銀行(と鈴木商店)でした。こういう事態が明らかになるにつれて銀行への信用が揺らぎ、取り付け騒ぎが頻発します。若槻内閣は倒れます。

 代って田中義一内閣ができます。高橋は蔵相就任を懇願されます。高橋是清がこの時打った策は、モラトリアム(銀行の支払猶予)、銀行の休業(数日間)、そして日銀特別融通損失補償法案です。この法案は、困った銀行には日銀が、総計5億円までの資金内で、融資する事を意味します。同時に緊急の事態に備えて、200円札が印刷され準備されました。印刷が間に合わなかったので裏は真っ白、通称裏白と言われる紙幣です。こうしてパニックは収まりました。  
このやり方は高橋財政の特徴を如実に示しています。まずすばやい行動です。彼は危機介入(crisis intervention)に強いのです。次に積極財政、つまり通貨流通量の大胆な拡大です。ともかくパニックは収まり、高橋はその顛末を見届けて辞職します。42日間の蔵相就任でした。人気はグンと上がります。時に彼74歳です。

 ところで日本は第一次大戦中、ロシアと中国に戦費を貸し付けていました。その総額はほぼ4億円になります。震災手形とほぼ同額です。今更言いませんが、貸し金を返してもらっていたら、事情は違ったかも知れません。ちなみに英仏の両国は日本からの借金をきれいに返済しています。
 
 金解禁そのものに関しては既に井上順一郎の項で述べました。結果だけ言いますと、物価は下がり、デフレになり、企業は倒産して、散々でした。浜口内閣は倒れ、犬養内閣ができます。またまた高橋は蔵相就任を懇請され、引き受けます。高橋が取った措置は、まず金輸出再禁止(金本位制廃止)です。これで円はドルに対して50%以上減価します。インフレにはなりますが、輸出は伸びます。ついで低金利です。企業への融資を容易にするためです。そして目玉政策が、国債の日銀引き受けです。国が国債を発行する。それを日銀が引き受ける。資金は紙幣増刷です。日銀の保証発行限度額は1・2億円から一挙に10億円に拡大されます。この金が政府の施策や事業を通じて民間に流れます。極めて短期間なら貨幣量増大にもかかわらずインフレは起きないという読みでした。インフレになる前に国債を消化して民間の通貨を減らそうというわけです。もちろん目論見どおりには行きません。物価は上がります。国債の価値は下がります。どうしてもさらに通貨を増やすためには云々の悪循環に陥ります。インフレは亢進します。そして時局救済事業という諸種の政府の事業があります。それは福祉政策であり公共事業でもありました。しかし最大の事業はやはり戦争でした。
 
 高橋の政策はあたります。列強中最も早く不況を抜け出したのは、日本でした。高橋は日本に対する列強の嫉妬を感じ、それを後進に言い残しています。国債の日銀引き受けはインフレを亢進させます。高橋はそれに対して引き締め政策を考えていましたが、軍事費を要求する軍部の圧力が強く、押し問答しているうちに、1936年2月26日、青年将校の率いる反乱軍に殺害されます。享年83歳、高橋是清は波乱に富んだ人生を終えます。
 
 高橋財政はインフレを必然とします。いくら巧妙な図を描いてもインフレは避けられません。そして当時の日本にはこの種のインフレは必要でした。もっとも恩恵を蒙ったのが重化学工業です。以後鮎川義介を筆頭にして新興財閥が興隆します。旧財閥もこの流れに乗ります。重化学工業の最大のお得意先は軍隊です。戦車に火砲に軍艦などは鉄の塊です。軍備も需要です。それは民間に還元されないと言われますが、そうでもありません。利潤の回収が遅いのとリスクが高いだけです。第二次大戦で完敗し廃墟になった日本が立ち直り、世界の奇跡と言われる高度成長を為しえた背後には、戦前における重化学工業の成長育成があります。
 
 高橋財政のような積極的経済政策は決して一国内では完結できません。仮に豊富な資源が国内にあってもです。積極的財政とは、新しい産業、それもleading industoryを育てる政策です。国内だけでそれをやろうとすれば、産業界から一部の資本を回収しなければなりません。貨幣不足になり、デフレになります。苦労して新しい産業を作っても、できた製品の価格は低くなり、資本を回収できません。どうしても海外の市場が必要です。こうして日本は満州に進出します。この時ネックになったのが、資本と技術でした。結果から言えばハリマンの要望を入れて、満州をアメリカと共同で開発すればよかったのです。そうすれば外資を導入できるし、技術援助もあります。なによりも米国と対立しなくていい。これが日米中三国にとって一番いい方策であったのでしょう。
 
 よく高橋是清とケインズの考え方の相同性が言われます。大きく言えば同質の政策です。高橋財政とドイツのシャハト財政をケインズは注意深く見ていたはずです。高橋とケインズの差を少し違う点から、比較して見ましょう。まず二人ともばくちが好きなようです。この点ではケインズの方が上です。ケインズは優れたギャンブラ-ですが、高橋には下手なばくち打ちの印象があります。しかし高橋は蔵相を4度、首相を1度務め、実際の国政に関与できました。ケインズは英国政府からある意味で重用されましたが、肝心の彼の経済政策を実施する機会は与えられませんでした。ケインズの人生の方が悲劇的であったとも言えます。

 (「高橋是清---中央公論」及び「日本証券史」「昭和経済史」参照 後二者は日経文庫)

経済人列伝、井上順之助

2009-06-25 01:30:04 | Weblog
    井上準之助

 彼、井上準之助の名は日本の歴史においてかなり不吉な響きを持ちます。エピソ-ドがあります。1971年頃、ニクソンショック後、通貨制度が変動相場制に移行しつつあった時、水田三喜男蔵相が渡米して、米国のコナリ-財務長官と円ドル為替レイトを商議しました。コナリ-長官は17%以上の切り上げを主張しますが、水田蔵相は頭を縦にはふりません。その時水田蔵相が持ち出した因縁話があります。水田氏曰く、「17%という数字はわが国にとって非常に不吉な数字だ 1929年、井上準之助蔵相が金を解禁した時の、円切り上げ幅がこの数字だ (以後日本は不況に沈み、そこから脱出するためにもがき、結局どうなったかは貴方も知るところだろう)」と。この言葉で辣腕の政治家コナリ-長官も引き下がったそうです。(ヴォルカ-・行天「富の興亡」より)それほど井上準之助の名は金解禁政策と、その結果生じた大不況、さらに暗殺、軍部の台頭、そして日米開戦という昭和史の悲劇と結びつきます。

 井上準之助は1969年(明治元年)現在の大分県日田市で生まれます。7歳の時、叔父の家に養子(井上姓)に出されます。村では腕白坊主で通っていました。元来強気の人です。11歳養父死去。生計は厳しかったようです。しかし中学校に入り、上京して一高を受験し、不合格になりやむなく仙台二高に入学します。だから生計が厳しいといっても地方の名望家としての扶養は充分受けていた事になります。25歳東大法学部に入学、29歳卒業し、日銀に入社します。秀才が典型的な秀才コ-スを歩むのですから、そう面白い話があろうはずはありません。37歳日銀大阪支店長、翌年本店営業局長と出世コースを駆け足で登ります。これにはわけがあります。山本達雄という当時の日銀総裁の独裁に反対して10名近い幹部が辞職します。人事不足に陥った後を埋める形で、井上が抜擢されます。45歳横浜正金銀行(外為専門の銀行、戦後東京銀行と改称、現在は東京三菱UFJ)の頭取になります。すでに日本の金融界の巨頭の一人です。51歳日銀総裁、55歳山本権兵衛内閣蔵相、そして貴族院議員に任命されます。59歳再び日銀総裁、61歳民政党に入党し浜口雄幸内閣の蔵相として金解禁を断行します。浜口内閣総辞職後は若槻礼次郎内閣の蔵相として留任します。後下野、国会議員として自分に代った高橋是清蔵相と金解禁製作の是非を巡って討論します。64歳、血盟団員小沼正にピストルで撃たれ死去します。なお上記した浜口・高橋両氏も暗殺されています。

 井上準之助が始めから強固な金解禁論者であったかどうかには疑問があります。51歳で日銀総裁になった時、日本は第一次大戦後の反動恐慌で不景気に突入していました。井上はこの時、大胆かつ放恣に政府資金を企業救済のためにばらまきました。後年彼が実行する緊縮財政はこの企業救済過多の結果の整理ですから、皮肉といえば皮肉です。しかし政策は時の状況にあわせて行われるべきものですから、井上が首尾一貫していないと責めるのはおかしい事になります。彼は強気で面倒見のいい人でした。当時の財界のまとめ役・世話役であり、財界の巨頭でした。無役の時でも、一日に数十人の訪問客があったそうです。また高橋是清とは後に論敵にありますが、個人的には親しく、高橋に引き立てられたところもあります。企業救済資金のばらまきには当時でも反対者がかなりいました。鐘紡社長の武藤山治は井上の政策を、無能で怠惰な企業をのさばらせる政策だとして、非難しています。この武藤もやがてだれかに暗殺されます。

 日露戦争後日本は不況になります。勝った(厳密には、負けなかった)のはいいが、期待していた賠償金は入らず、戦費総額は国家予算の10倍近くになり、外債の返済に追われます。暫くして第一次大戦が始まります。ここで日本は大儲けします。1918年戦争終結。欧州各国は必死に経済を立て直します。逆に日本は過剰設備による供給過剰で物は売れません。需給のバランスが崩れ不況になります。この経過は当然です。教科書的に言えば、ここでは財政を引き締めて、総需要を抑えなければなりません。そうして不良企業を間引き、痛みに耐えた企業を育成してそれを将来の産業の基幹にするのがいいのです。しかし一度好況になれた企業はいつまでも甘かった昔をしたい続けます。政府も人気取りのために、企業救済を行います。収益性が低く、国際競争に耐えない不良企業も保護されます。それ以上に重要な事は、日露戦争後日本は第二次産業革命に入った事です。まだ幼稚な重化学工業を育成しなければなりません。機械装置、原材料、技術など投資として必要であり、輸入しなければなりません。貿易収支は当然赤字化します。

 そして1923年関東大震災が起こります。死者は20万名近くになりました。東京周辺の産業設備は壊滅します。復興のために政府は震災手形を発行します。これは当然の処置です。が、手形の回収がうまく行きません。政府は民間の要望に押されて、不良債権の整理を遅延させます。震災は不幸ですから、その不幸に甘えるやからも続出します。あるいは震災を蒙っていないのに、手形を受け取る連中も出てきます。こうして昭和に入った頃、企業収益は低迷し、外貨準備は1億円を切り、財政は逼迫します。

 第一次大戦勃発に伴い日本も含めた各国は金本位制を停止します。大戦終了とともに金本位制に復帰します。いわゆる列強といわれる国の中で、日本の金本位制復帰は一番遅れていました。代々の内閣はそれを検討しましたが、問題は先送りされます。金本位制には長所も短所もあります。なかなか踏み切れなかったのです。1929年浜口内閣の蔵相になった井上準之助は、金輸出解禁(金本位制復帰)宣言し、翌年1月から実施します。

 金本位制復帰の目的は第一に通貨の安定です。通貨が安定しないと安心して貿易はできません。他国の信用を得られません。また金本位制は通貨と景気の自動安定装置ともみなされます。景気がよくなり、輸出が増えると金が流入し、国内物価は上がり、輸出は抑えられ、景気は下降します。景気が悪化すると逆のコ-スをたどります。物価と景気が一定範囲内に収まり、しっかりした企業のみ残ります。また政府が裁量的に通貨を増やしたり云々の手段を用いて不良企業を温存する事はできなくなります。理屈としてはこういうところです。生産量が安定している希少な貴金属である金の総量を維持する事で、景気の過熱と反動としての不況の激化を押さえようとします。緊縮財政も可能になります。金本位制下では政府が勝手に貨幣供給を左右することはできないんですから。消費は抑えられ、賃金は切り下げられます。官吏の俸給切り下げ案が提出され、検事や裁判官も反対の陳情を始めます。企業も合理化を迫られ、カルテルなどの寡占体制が出現します。軍備は縮小され、海軍の恨みを買う事になります。新たに発展を開始しようとしていた、重化学工業はそれを阻止されます。ここでも軍部の不満を掻き立てます。

 日本の金解禁宣言は1929年11月21日でした。3日後の24日に米国の株価が暴落します(black Thursday)。最初日本も米国も、他の諸国もたいした事はないだろうと多寡をくくっていました。こうして1930年1月11日金解禁が実施されます。世界不況はとめどなく進行します。当時の日本にとって最大のお得意は米国、輸出商品は生糸でした。肝心の米国が買えません。生糸は暴落し農村は不況になります。また綿製品の輸出先である中国やインドは大不況の余波が農業恐慌として波及し、ここも購買力は激減します。当時の日本の主力産業は綿糸と生糸からなる紡織業でした。主力産業が壊滅します。1929年から1931年にかけて以下のように経済統計は悪化します。
  
  GNP     18%減
  輸出     47%
  個人消費   17%
  設備投資   31%
  民間労働者数 18%
  実質賃金   18%
  製造業収益率 80%
  株価     51%
  農水産業   42%

いずれも減少です。 

 金解禁は必要であったのか否か、という問題が残ります。やむをえなかったとも言えます。不換制のままでは、どうしても財政は放漫になります。議院内閣制下にあって緊縮財政は不人気です。緊縮財政でもって不良企業を淘汰して、より筋肉質の体質に経済をもってゆく必要はあります。その為には痛みを覚悟しなければなりません。裁量では判断が揺らぐので金本位制にしてしまうのも一方法です。

 しかし金本位制は基本的には勝者優先の制度です。19世紀中葉に世界の金量の半分以上を押さえたイギリスにとって非常に有利な制度です。所持する金量が国力経済力を決めるわけですから。天井が決まっており、経済はそれ以上伸びないことになります。日本が金本位制になれば、新規の投資は抑えれますから、新しい工業、特に重化学工業の発展は阻止されます。そしてそれまでの得意分野である軽工業に閉じこもらざるをえなくなる可能性が出てきます。比較優位の原則に従って、低成長経済に甘んじなければなりません。

 イギリスでも金解禁に関して賛否両論がありました。ケインズは時の蔵相であるW・チャ-チルの金解禁に極力反対しました。この頃から後年彼の名を不朽にする「一般理論」の構想の無意識的な土台はできていたようです。日本では戦後首相になる石橋湛山や高橋亀吉などの諸氏が、金に対して切り下げた価で金解禁するべく論陣を張っていました。

 井上に代って財政を担当したのが高橋是清です。彼は金輸出を禁止し、金本位制を放棄します。不換紙幣を増刷し、有効需要を掘り起こしで経済を活性化します。この新しい体制下に新しい財閥、いわゆる新興財閥が躍進します。技術者出身の経営者に指導され、持株会社を介して株式でもって資本を集める、日産、日窒、日曹、森、理研などの会社集団です。彼らが第二次産業革命の尖兵になりました。株式と不換紙幣は似たようなものです。

 井上準之助のやり方は優等生的な手法です。均衡論の教科書に忠実です。イギリスもそうでした。イギリスを本家とする経済学の手法に井上は極めて忠実です。アメリカでも同じ事がいえます。1929年の大不況の時の大統領はフ-バ-でした。彼はすでに実業界で成功しており、米国商務長官としての実績もありました。ですから大不況をそれまでの景気循環として捉えてしまいした。結果は惨敗です。フ-バ-に代ったル-ズベルトは経済の素人でした。だからニュ-ディ-ルなどという新規な方法を取れたのでしょう。既成概念に縛られない分、試行錯誤は可能です。このニュ-ディ-ルも、日本の高橋財政も、ヒトラ-政権のシャハト財政も不況を完全には解決できません。解決は戦争に持ち越されます。その最終勝者がアメリカです。そして戦後のブレトンウッヅへと連なってゆきます。

 私は先に大不況下の日本経済の収縮ぶりを数値で示しました。直感的にですが、そうたいした数字ではないなとも思います。戦後日本は二度危機を経験しています。石油ショックと平成不況です。ここで数値を示す事はできませんが、この二度の危機によるショックの方が数量的には大きかったのではないかと思います。日本はそれを乗り切ります。1929年とどこが違うのか?雑な言い方ですが、経済規模の違い、体力の相違でしょう。

「日経」を読む

2009-06-22 23:53:38 | Weblog
「日本経済新聞」を読む

 6月21日(日)の日本経済新聞朝刊の1・2面に日本経済の回復に関する論評が載っていました。趣旨は以下の通りです。景気は底入れしたが、反発力は弱く、偽りの夜明けかもしれないと。

 昨年9月のサブプライムローン破綻以後、政府は不況対策を必死に講じてきました。基本線は、財政出動による有効需要の喚起と金融政策です。後者は主として金利を下げる事にあります。前者には不人気な定額給付も入ります。
 
 日経の論評は、このような政策の効果は息切れするのではないのか、という疑問を呈しています。賃金削減と生活防衛による消費の低迷、さらに景気回復への期待と財政悪化への懸念から抑えられていた長期金利が上昇し、不況が長引くのではないかとも言っています。
 
 そして日米の金融政策の比較をして、米国の方が流動性供給、つまり貨幣流通量の確保あるいは増加を大胆にした、とあります。昨年11月FRBは最大8000億弗の住宅担保証券の買い取りを決め、さらに本年2月には追加対策として最大90兆円の不良債権を官民共同で行う、と発表しました。
 
 この対策が日本の財政金融当局に無かったのではありません。昨年12月12日には麻生首相が日本政策銀行を介してCP買取の方針を示しています。12月19日には日銀はCPなどの買い取りを、1月22日には社債を条件付で買う事を、2月3日には1兆円分の株買い取りの方針を決めています。
 
 日米の差はなんでしょうか?CP・株・社債などが不良債権化した時、その分信用が無くなり、その分貨幣流通量が減ります。企業は資金繰りに窮し、不況は深刻化します。この時不良債権を、すべてではありませんが、国内の最終の貸し手である政府や中央銀行が買い取って信用を維持させれば流通貨幣量には変化がありません。別に現金で買い取る必要はありません。アメリカは金利ゼロの短期国債を発行しています。金利ゼロとは貨幣の特徴です。ただ流通する事だけが役目です。日米の差はその量です。私が知る限りでは、アメリカは100兆円前後、日本は多分3兆円くらいです。
 
 今回の不況はアメリカの金融が破綻し、債権の信用が失われ、信用が収縮したからです。こういう場合一番安全な方策は、不良化しつつある債権に信用を与える事です。この点アメリカの方が深刻であり、だから対策も真剣であり大胆だったのでしょう。
 
 内需拡大も結構ですが、本来の病根である信用収縮に手を打たなければ、偽りの夜明けに、なります。肺炎の患者に栄養補給と解熱剤投与をすれば、一時期は治ったような外観を示す事があります。ごく短時間ですが。経済でも同じかもしれません。
 
 以上の問題意識に基づいて、私は昨年ある大胆な「政策提言」をしました。現在でもその意義は失われているとは思いませんので、再掲します。なお日経新聞の論調にも不満があります。日本の経済の回復は米中しだいとありました。それは彼らの側でも同じ事です。米中の回復は日本しだいなのです。

         「政策提言」

 現在世界を覆っている金融不安に対して私は大胆な意見をもっています。通貨を安定させ通貨への信頼を回復させなければなりません。そのためには日本の政府は以下のような政策をとる必要があります。
 
  米国の不良債権100兆円分を日本が購入、1000兆円でもOK
  買い込んだ米国債権を担保として同額のドルを借りる
  日本所有の100兆円分のドルは日本が管理し、発展可能性の高い国へ資金と  して融通  
  管理は必ずしも日本一国に限らない
  米国の通貨量不足は米国自身が同額の紙幣増刷で補う

 ドルの管理を日本が請け負う事に意味があります。現在の経済状況の原因は米国の経済政策にあり、10年以上前から予想された事態です。主犯である米国がいくら画策しても世界はついてきません。信用不安は解消されません。米国に対策はありません。世界通貨ドルの管理権限を米国から全部または一部、移譲させる必要があります。

 2007年度の通商白書から考察しますと、日本の世界に占める経済的ポジションは極めて良好です。経常収支と資本収支のバランスもよく、世界全体の資本輸出の25%は日本です。アセアンを加えると1/3を軽く超えます。他の1/3が産油国、とその他です。比べて米国は最大の資本輸入国であり、欧州はその二番手・中継ぎです。工業製品を輸出して得た利益を資本として海外に投下できる日本の経済は健全です。

 製造業の中心は日本をリーダ-とする東アジアにシフトし、米欧はその輸入国に転落しています。米欧は資本を輸入し、それをリスクの高い金融工学ゲームに投下して稼いできました。アイスランドなどはその戯画です。換言すれば米欧は金融上の狡知を利用してアジアの製造業から利益を吸い取ってきました。

 資金を供与するなら、ギャンブル依存症めいた老大国ではなく、新興の国の生産に投資すべきです。中国は一見発展しているようですが、技術水準は低く、内部は不安定で、まだまだ資本を必要とします。インドも同様です。金融操作から製造生産への資本の振り替が急務です。

     (追記)
 
 要は不良債権の管理です。
 債権債務は通貨です。通貨流通量の縮小は避けねばなりません。
 不良債権を信用できる国家(団)の単独か共同の管理に委ね、世界通貨(目下の ところドル)を安定させる必要があります。
 有効需要増大や雇用対策そして困窮者救済は以上の前提においてのみ有効です。
 通貨の安定を避けて各国政府が勝手に貨幣流通量の増大を計れば激しいインフレ になる可能性もあります。

鳩山民主党代表への質問

2009-06-20 01:17:53 | Weblog

  民主党鳩山代表への質問

 読売新聞18日朝刊に掲載された、6月17日の党首討論における鳩山氏の発言について、質問します。

 鳩山氏は「アニメの殿堂」を作るくらいなら、他に予算の使用法があるだろう、との趣旨の発言をされました。鳩山氏は「アニメ」の存在意義を認識されていないのはないでしょうか?ここでは漫画・劇画・アニメそれに加えてゲ-ムを含めてアニメ文化と総称します。現在アニメの国内の年商は2000億円、世界中で2-3兆円と推定されています。このうち60%が日本製です。マ-ジンをどう評価するかによりますが、この額は貿易収支上決して無視できる額ではありません。立派な知財の輸出です。

 次にアニメの存在は外交戦略として、日本文化を知ってもらう手段として極めて有効です。かって私たちの世代はハリウッド映画を見て育ちました。この映画が私たちに与えた影響は巨大でした。そして私たちはアメリカという国の存在をいやというほど知らされました。その中には多くの意図された誤解もあります。「戦場にかける橋」や「駅馬車」は名作ではあるが、多くの誤解をアメリカという国に有利なように、与えています。現在日本はアニメを通して日本の文化を、世界に輸出し日本を宣伝しています。その影響力はクラッシク音楽の影響力の比ではありません。影響力の標的は少年少女です。アニメを通して外国の子供たちに日本をインプリント(刷りこみ)しているのです。

 漫画・劇画・アニメの作品は優秀です。極めて創造性に富んでいます。劇画で言えば、私の好みですが、里中満知子、山岸涼子、大和和紀、青池保子の諸氏の作品がいい例でしょう。アニメでは「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」などは定評があります。現在日本では(世界でも、でしょう)小説などの手法題材が行き詰まり、劇画からそれらを取ってきているといわれるほどです。最近ある有名劇団が青池保子氏の「エル・アルコン」を歌劇にしました。私が知る多くの知人の意見は「下手な小説より、劇画やアニメの方がずっと良い」です。劇画・アニメは既に立派な文化になっています。

 このような文化であるアニメの殿堂をたかだか100億円超の予算で造ることが無駄でしょうか?日本は古来、田楽・狂言・狂歌・川柳・落語などの諧謔(ユ-モア)文化に富む国です。このような文化は他にありません。劇画やアニメはその延長上にあります。

 ゲームもこの種の文化に入れていいと思います。私個人はゲ-ムをしませんが、ゲ-ム愛好者(ゲ-マ-)の話しを聞くと、恐ろしく高度に作成されています。5年ブランクがあけばもう新しいゲ-ムにはついてゆけないそうです。ただ与えられた枠の中でゲ-ムをするのではなく、複数の参加者が相互に影響を与えあい、ゲ-ム自身を作り上げつつ、ゲームをするというから驚きです。極めて高度な知的作業です。ところでこのゲ-ムの戦略創造はロボット・工作機械他のメカニズム作成に応用できます。また航空機、特に戦闘機の操縦には応用可能です。私は航空自衛隊のパイロットの人達はゲ-ムを習う必要があるのではないかとも、考えています。

 鳩山氏の趣旨は、アニメに使う費用があれば、自殺防止に云々でした。自殺の方は私の専門に近いので、発言します。自殺には個人の精神病理が深く関係します。このような複雑な心的機制の管理を、一括して政府の責任に負わせる事ができるのでしょうか?それより精神疾患を含めて、疾病の精細な統計数値を得る事の方が先です。最近うつ病が増えています。10年間で倍になり、精神疾患者数のトップに位していますが、なぜうつ病が増えたのか、に関する統計数値は、こと心の問題としての数値は皆無です。

 鳩山氏は、医師不足に対して、医学部の定員を50%増やせ、と言われました。簡単に言わないでください。どれだけの予算がいるのか、そして関係者にどれだけの負担をかけるのか、ご存知なのでしょうか?医師不足は必ずしも絶対数の不足とは限りません。むしろ医療界の構造にもよります。卑近な例で言います。産科医や小児科医は急減しました。救急医療も壊滅寸前です。脳外科医がどんどん減っています。リスクが高く、クレ-ムが多く、下手をすれば破産するからです。私が個人的に仄聞した限りでは、神戸市内の精神科診療所で警察のお世話にならなかったところは少ないそうです。身の危険を感じる事が多いからです。このような環境下にあって医師はもっと楽な職場を求めます。楽な職場はいくらでもあります。以上のような状況を無視して、医学部定員を50%増やせとは、暴論です。

 麻生・鳩山両氏の討論の主題である、郵政公社の問題については、状況が複雑なので論及しません。ただ私は郵政民営化に賛成なので、民間会社になりつつある組織に、政府がいたずらに干渉するのは得策ではないと、思います。
最後に、鳩山氏の発言にはどうも納得いかないところがあります。一週間前くらいでしょうか、「二羽の鳩が、現政府を困らせている」というような発言を聞きました。これは、民主党の党主が兄弟の縁を利用して、自民党内に分派活動を行う、という意味でしょうか?そうともとれます。不用意な発言です。
質問に答えて頂ければ幸いです。
                                                                     不一

「嵯峨天皇」補遺--最澄と空海

2009-06-18 00:34:52 | Weblog

  「嵯峨天皇」補遺   最澄と空海

 日本天台宗の始祖であり、比叡山延暦寺の創立者である伝教大師最澄は767年近江国(滋賀県)に生まれます。本名は三津首(みつのおびと)広野と言い、生家は普通の農民であったと言われています。20歳で受戒し正式の僧侶になります。しかし当時の仏教の教えに飽き足らず、先輩達に習って山林修行に入ります。785年から10数年にわたり、比叡山に篭り修行に励みました。797年朝廷から内供奉十禅師に任命されます。最澄の修行が認められたか、評判が高かったのでしょう。最澄はそれで良しとはしません。仏教の真理を追究し続けまず。こうして804年に遣唐使に従い入唐します。同行の仲間には空海と橘逸勢がいます。彼は短期留学生でした。8ヶ月で密教相承を受け、そして天台宗を中心に書籍を集め、帰国します。

 帰国した最澄は朝廷公卿に歓迎されました。それは彼が持ち帰った密教呪法にあります。この呪法は俗世の願いをかなえてくれると一般には理解されていました。正直最澄としては痛しかゆしでした。彼が本来勉強し日本に広めようとしたのは天台宗です。また彼は短期間の留学のために、密教の修行は不十分であり、その事は彼自身が一番よく知っていました。そこで彼に遅れて帰国した空海について勉強しようと思います。空海から灌頂を受けます。密教僧としてまあ一人前と認められたわけです。山林修行の経験があるから出来は早かったのでしょう。最澄が空海に理趣釈経の拝借を頼んだ時、空海は断ります。理由は密教修行を書籍だけで、換言すれば理論智だけでしようとするのはいけないという事です。最澄の弟子が空海についたこともあり二人は不仲になります。最澄の立場は解りますが、これは空海の方が正しい。最澄は相当な自信家ですから独学でやれると思ったのかも知れません。また最澄が密教に興味を示したのにはかなり世俗的な事情もあります。密教の祈祷は俗受けします。その分寺院の経営は楽になります。当時律令制は崩れ、寺院は独立採算制に移行しつつありました。

 最澄が自身の使命としたのはあくまで天台宗の興隆にあります。簡単に言えば天台宗とは、6世紀後半の中国に現れた天台智ギにより集大成された、法華経を主軸とする教学です。最澄はそこに大衆救済の理論を見出し、この教えを流布させる事に専念していました。最澄は天台宗を第一に置き、それまでに輸入されていた、南都六宗、華厳宗や三論宗、法相宗は真の救済論ではないという立場から、旧来の仏教に対し批判的、時として敵対的態度を取りました。旧来の宗派も反撃します。奥州の徳一との論争はその典型です。

 天台宗のみという立場から最澄は戒壇の設立を朝廷に要請します。戒壇とは正式僧侶の認定をする機関です。それまでは東大寺に事実上唯一の戒壇があり、それは当然国立でした。最澄は彼が新たに招来した大乗梵網戒を旧来の(唐僧鑑真が持ち来たった)戒律に対置します。大乗戒の方が簡単で実行しやすいのです。こう考えると最澄とはとんでもなく自信家で気宇壮大な男です。旧来の仏教の理論も僧侶認定機関も一切無視し、自分が持ち帰った教えのみが仏教の名に相応しいと言うのです。

 叡山に戒壇設立を許すか否かで仏教界と朝廷内はもめにもめ、822年のの最澄の死の後、暫くして勅許が下りました。叡山の戒壇設立許可という事は、単に叡山一寺に限られた意味しか持たないのではありません。叡山は国立の寺院ではありません。そういうプライヴェ-トな組織に僧侶の認定を許す事は、日本仏教の性格自体を変えてしまいます。簡単にいえば、日本の仏教は国家仏教から民間仏教に、さらに民衆仏教に変ってゆきます。叡山は戒壇を勅許された事により、その後の日本仏教発展の中核になりました。

 最澄という男はなかなかに大胆であつかましい男です。私が見るところでは天台宗(天台智ギの体系)はまだ救済論の形に至っていません。法華経を根底においた救済論は450年後の日蓮の出現を待たなければなりません。しかし天台の教学の中に大衆救済の可能性を鋭く見て取ったのはさすがです。

 空海にしても、最澄の行動はおもしろいはずがないでしょう。それだけ天台天台と言うのなら、なんで俺の縄張りまで侵入してくるのか、あつかましいと、空海の本音はそうなるでしょう。


 空海は774年讃岐国(香川県)に生まれます。本名は佐伯直(さえきのあたい)真魚(まお)と言い、相当しっかりした地方豪族の家の出身でした。叔父のつてで中央の大学に進みますが、世俗の学問である漢学の限界を知ったのか、中退し以後、彼なりの仏教修行を始めます。空海24歳の時、「三教指帰(さんごうしいき)」を著し、自己の価値観を確認します。三教とは儒教・道教・仏教のことで、この三つの教えの優劣を比較して、仏教が一番優れている、ことを自認します。著作は儒仏道を代表する3人の人物が登場して討論するという戯曲の形で書かれています。ここに理論における、また表現形式における空海の天才性を感じずにはいられません。
 
 彼は彼なりのやりかたで仏教に接近します。当時真摯な修行者は山林に篭りました。和泉国槙尾寺の勤操を通じて虚空菩薩求聞持法を知り、18歳から10数年間四国の山中に篭り、修行に励みます。この時まで空海は正式の僧侶ではない私度僧でした。31歳東大寺で受戒します。

 804年最澄らと入唐します。待遇に差があったようです。最澄は国費留学生、空海は私費留学生でした。当時の航海は極めて危険でした。最澄にせよ空海にせよ、選ばれて入唐するのですが、かなりな程度命がけです。遣唐使船の半数近くは難破の憂目にあっています。嵯峨天皇に遣唐副使を命じられ難破し、再度の乗船を拒否した小野たかむらは配流されています。

 最初空海は唐に20年いるつもりでした。密教修行のためにはこのくらいの期間は必要だと思ったのでしょう。長安青竜寺の恵果に師事します。恵果は空海の優秀さに驚嘆し、「お前こそ私の法を習得するべき人物だ」と言います。そして早く日本に帰って密教を宣布しなさいと勧められ、2年で帰国します。中国語はおろかサンスクリット語(梵語)まで取得して帰ったそうです。恵果の勧めは多分本当だったと思います。あるいは空海自身が密教の理論と実習をほぼ一瞬にして理解し、もうこれ以上中国で学ぶものはないと悟り、その旨恵果に言ったのかも知れません。才能のある人の場合、一瞬にして膨大な学問の体系全般を悟得する事はありえます。潜在的な可能性まで含めてです。こうして空海は灌頂を受け、恵果の知るすべてを習得して帰国しました。恵果はそれまで唐に入ってきたインド密教の二つの流れ、善無畏と金剛智の教えを総合して保持していました。その後中国では仏教は衰退します。インドでも同様です。ですから空海はインド密教の直伝者になります。換言すれば仏教における密教理論は空海において総合される事になります。

 806年帰国。数年は九州にいます。すぐに都に入れなかった事情があります。平城天皇は弟の伊予親王母子を反逆の罪で殺されました。伊予親王の師が空海の叔父である阿刀大足(あとりのおおたり)でした。空海は罪人の親戚になり、遠慮しなければなりません。やがて平城天皇は退位され、嵯峨天皇の御代になります。そして薬子の変で平城天皇の影響力は完全になくなります。809年空海は上京します。彼の携えてきた密教とその呪法は朝野で歓迎され、空海は嵯峨朝の文化ヒ-ロ-になります。なによりも空海は広い教養の持ち主でした。仏教内典は言うに及ばず、仏教以外の外典、つまり歴史や詩文にも造形が深く、加えて日本史を代表する能筆です。嵯峨天皇とはぴったりうまが合いました。また空海は最澄と違い、南都の仏教に対して融和的に対処しました。ごたごたは起こしません。理論仏教である天台宗に比べて、実践優位の真言密教の融通無碍なところでしょう。

 816年高野山に金剛峰寺を作ります。823年東寺が朝廷から教王護国寺と命名されます。以後真言宗ではこの二つの寺が本拠地になります。東寺は一宗一寺の先駆になります。それまでの寺院では各宗派が同じ屋根の下で同居していました。空海は晩年高野に篭ります。835年62歳で死去、遺骸は安置され、弘法大師空海は高野の地で入定、つまりまだ生きていることになっています。
空海の著書で特記すべきは先に挙げた「三教指帰」と「十住心論」です。後者は釈迦以後の仏教の発展を教判(教えの優劣を決める判断)の立場から描いたものです。教判としては極めて優れています。空海の判断ではトップはもちろん真言宗、ついで華厳、天台と続きます。私は以前には天台宗が第三番目にある事に不満を抱いていました。しかし

 先記したように、天台宗は救済論としては未完成です。なお天台智ギの教説に関しては私の「日蓮と親鸞」を参考にして下されば充分です。
 
 もう一つ空海の著書で注目すべきは「文教秘府論」です。寡聞にして未だ読んでいませんが、この本は言語学の本です。同時に文法書です。世界に4大古典言語があります。古典ギリシャ語、ラテン語、古典アラビア語そして漢語です。うち漢語のみが文法書を欠きます。文法書とはそれほど書き難く、それはそれを書く人が属する言語に左右されます。空海が漢人に先駆けて文法書を物にしたという事は何を意味するのでしょうか?
 
 さらに空海には経済人としての側面も充分にあります。彼が開発した農業施設は沢山あります。代表的なのは彼の故郷讃岐の満濃池ですが、こういう行為(彼に仮託されたものあります)をする、つまり現実の社会に便益を返してゆく宗教者を菩薩僧と言います。古くは奈良時代の行基に始まり、鎌倉時代の叡尊や忍性に連なります。経済人としての空海に関しては別のところで解説しましょう。

天皇ご紹介、嵯峨天皇と淳和天皇

2009-06-14 23:52:26 | Weblog

 嵯峨天皇は786年に生誕されています。在位は809年から822年までの13年間、平和裏に弟の淳和天皇に譲位され、842年に崩御されますが、上皇として大きな影響力を持っておられました。天皇は桓武天皇の第二子でイミナは神野、平城天皇とは同母兄弟にあたられます。嵯峨天皇は桓武天皇の第2子であり、日本後記の記載によりますと、父帝の評価が一番高い皇子であったそうです。平城天皇の皇太弟として立てられ、病弱な兄帝に代り帝位につかれます。

 平城天皇とは個人的に確執はなかったようですが、即位後しばらくして薬子の変に会われます。退位した平城上皇は旧都の奈良を懐かしがられ、遷都を企てられます。藤原式家の仲成と薬子(くすこ 上皇の愛人)が画策します。企ては上皇の出奔と仲成の処刑により簡単に崩壊します。が、即位まもない嵯峨天皇にとって危機でありトラウマであった事は違いありません。天皇の皇太子であった高岳親王は廃され、代って天皇の異母弟である大伴親王が皇太弟になられます。
 
 この変の時、蔵人所という役所が新設されます。律令制はかなり形骸化していましたので、天皇の意志を臣下に伝えるためのより効率的な組織を必要としました。それが蔵人所です。天皇の側近・秘書団と考えて下さい。蔵人は通常、5位の殿上人です。その長官である蔵人頭は4位から時として3位であり、秘書団長として大きな権限を握っていました。嵯峨天皇は藤原冬嗣と巨勢野足を任命します。蔵人所は時代とともに権限を拡張し、蔵人頭は官僚貴族の登竜門になります。藤原北家が平安朝期に勢力を伸ばしたのも、冬嗣がこの地位についたからでもあります。

 嵯峨天皇はこういう変を経験されておられる為か、異母弟である大伴親王には非常に優しくされました。在位13年でこの親王に譲位されます。新天皇を淳和天皇と申し上げます。在位は823年から833年、840年崩御。皇太子は嵯峨天皇の子供である正良親王(仁明天皇)です。淳和天皇はこの親王に譲位され、仁明天皇は皇太子として淳和天皇の皇子である恒貞親王を立てられます。嵯峨・淳和両天皇の子孫がかわるがわる皇位を継承してゆこうというわけです。この意図の主導者が嵯峨天皇です。従って天皇は皇室の家長として大きな権威を終生保持されていました。ともかく兄弟思いが深く、一族の和を第一に保とうとされていたのです。現役の天皇よりも家長である上皇の方に権威があるという事を示す儀式が、朝勤行幸です。天皇が上皇の御所に行幸(挨拶ですね)に行かれて、長上に礼をつくされる儀式です。朝勤行幸が行われるようになったという事は、少なくとも皇室に関しては私的な機関である「家」が形成され始めたという事になります。嵯峨天皇はこういう皇族集団の家長でした。

 なお嵯峨天皇のように、退位しても潜在的影響力を持ち続けられる天皇は多くはおられません。平安時代全期を通じて、このような方は嵯峨天皇と宇多天皇、他は院政期の白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇くらいです。権力者といっても実際に権力を長く保持する事は大変です。

 嵯峨天皇の時代あたりから、日本人の(最初は貴族層ですが)名前(first name)が変ります。それまでは、例えば馬子・蝦夷・入鹿がいい例で、何か自然の霊力を名に体現したような、良く言えばヴァイタルな、悪く言えばバーバルな名前が多かったのですが、この時代以後、良房とか基経とか道真とかなどの、現代にも通用する、何らかの意味で抽象的な価値観を表す名前になりました。これはこの時代に漢学が奨励され、儒教的教養が日本人に染み付いてきたからでもありましょう。嵯峨・淳和帝のイミナはそれぞれ神野・大伴です。両帝の皇子のイミナは正良(まさよし)・恒貞(つねさだ)です。名称の変化は社会の変化の結果でもあります。馬子や蝦夷は蘇我氏の族長です。族長として氏族全体の生命力を賦活するために、自然に宿るとされた霊力を自分の名に籠めたのでしょう。一種のト-テムでもあります。しかし氏族の団結が緩み、律令制という公的体制の中で、個の意識が強くなりますと、名も個人的な倫理を繁栄する方向に進みます。と、私は考えています。

 嵯峨天皇の時代は漢詩文学が全盛期を迎えました。唐風文化の時代です。そもそも桓武天皇が平安遷都を企てられた理由の一つが、奈良の寺院の影響力排除にあり、仏教への反動として儒教が称揚されたからです。嵯峨・淳和朝に三つの漢詩集が編纂されます。凌雲集、文華秀麗集、経国集です。代表的詩人は弘法大師空海と嵯峨天皇です。二人は非常に昵懇な仲でした。嵯峨天皇は第一級の詩人であるとはドナルド・キ-ンさんの言葉です。神泉苑に群臣を集められて盛んに詩を作りあわれたのでしょう。天皇の子女である有智子内親王も優れた漢詩人でした。同時に天皇は能書家でもありました。天皇と空海と橘逸勢とともに三筆と称せられています。

 詩人であり能筆であるという事は、同時に遊び好きである事をも意味します。遊びの究極はやはり漁色になります。嵯峨天皇が設けられた、子息子女の数は総計で50名以上になります。女子はともかく、男子の皇族の面倒見は大変です。天皇は身分の低い母親から生まれた男子に「源」の姓を与え、臣籍に降下させました。既に桓武天皇の孫の一部は「平」の姓を与えられています。以後各天皇の名のついた賜姓源氏が続出します。代表的なところで、嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏などです。賜姓源氏の続出も、皇室に家、「単婚家族を軸とする家」の形成が進みつつある証左です。

 天皇が色好み・遊び好きという事は必ずしも非難すべき事ではありません。むしろ天皇あるいわ一般に帝王君主は積極的に遊ばなければなりません。儀式を通しての共通の価値観の保持、共同体維持、君臣融和、所得移転など多種の意義がそこにはあります。

 天皇家の平和は淳和上皇が840年に、そして嵯峨上皇が842年に崩ぜられて、一挙に崩れます。嵯峨天皇の皇子が仁明天皇であり、その皇太子が淳和天皇の皇子である恒貞親王でした。恒貞皇太子を即位させる云々の陰謀が持ち上がります。あるいはでっち上げられます。主として大伴氏や橘氏など非藤原系の官人達が容疑者として上がり、逮捕されます。主犯とされた橘逸勢は配流の途中絶食して死去します。皇太子恒貞親王は廃され、仁明天皇の皇子道康親王(文徳天皇)が立てられます。淳和天皇の系列は皇位からはずされ、嵯峨天皇の血統が皇位を独占します。この事件で非藤原系の氏族は完全に中央政界から駆逐され、藤原氏特に北家の政権独占は完了します。以後冬嗣の子良房が政治を了導して前期摂関政治が出来上がります。この事件を承和の変と言います。

 嵯峨天皇に関しては挙げるべきものに、大覚寺があります。京都洛西嵯峨野にあります。真言宗のお寺で空海が嵯峨天皇の意を体して作りました。広大な庭園と建物があり、すぐ傍には大沢の池があります。初代の寺主は、承和の変の犠牲者である恒貞親王です。後の鎌倉時代に後宇多天皇がここに住まわれ、後嵯峨天皇の後二つに分裂した皇統の一方である大覚寺統の根拠地になりました。もっとも500年後の話ですが。

 大沢の池は神泉苑、深泥池等とともに京都盆地がなお湖であったころの名残です。特に神泉苑は、今でこそ小さくなっていますが、嵯峨・淳和朝当時には都の西部に大きな一角を占め、どんな日照りにも水の欠ける事がないと、言われました。干害に際しては祈雨の密教呪法がこの神泉苑で行われました。

 嵯峨天皇は華道の始祖とも言われておられます。天皇を初代とする嵯峨御流は日本では一番古い流派だそうです。この流派の本拠地は大覚寺です。

 薬子・承和の変の犠牲者である高岳(たかおか)親王と恒貞(つねさだ)親王のその後に触れておきましょう。二人とも仏門に入りました。高岳親王は唐に渡り、そこからさらにインドに渡ろうとしましたが、南海に船出したまま帰ってこられませんでした。恒貞親王は先記のように大覚寺の寺主になります。後年陽成天皇廃位の時、まだ生存されていたこの親王に即位の打診が行われましたが、親王は丁寧に謝絶しました。権力の渦中にいるのは、もうこりごりというのが本音であったのでしょう。

 嵯峨天皇を家長とする皇族の融和は薬子と承和の二つの事件に挟まれています。なぜ薬子の変が起こったかにはいろいろな原因が考えられますが、一つは平城天皇のmentalityがあります。別にこの天皇が異常な方だったからではありません。平城天皇が終生苦にされた問題があります。それは平安遷都の人柱とも言うべき早良親王の怨霊に関する悩みです。この事に関しては平城天皇のところで説明します。承和の変もまた怨霊を作り出してゆきます。政治と怨霊を切り離す事はできません。


マルクス経済学入門(4)

2009-06-12 00:31:31 | Weblog


 しかしマルクスの影響は歴史において重大だった。理由は多々ある。まずマルクスの非科学的な予言の効果。「資本主義を打倒して共産主義社会になれば、欲するに従って働き、欲するに従って消費できる」と言う予言。つまり、ただ飯が食える日が到来する、という千年王国説的予言の効果。資本主義社会への罵倒。彼ほど悪口の上手い人も少ない。この予言と罵倒は貧困にあえぐ庶民には受け入れ易い言葉だ。マルクスは優れた詩人だ。小冊子共産党宣言の原文は素晴らしい迫力を持つ。そして金を持つ者、金の事を研究する者にどうしても付いてまわりやすい加害者意識。加えて大衆運動の迫力と一部の国で実現された革命への憧れと恐怖。収容所への恐怖もマルキシズムの影響力を押し上げる。

 19世紀末から第一次大戦にかけて共産主義の影響力は最高頂に達する。特に大戦で欧州の覇権国家群の経済が疲弊し、更に1929年の大恐慌で資本主義の将来への希望が揺らぎだすと、その分共産主義社会の実現は当然視されるようになる。当時の経済学者、ウィクセル、マ-シャル、シュンペ-タ-の本を読むと、共産主義社会の到来を敏感に意識している様が伺われる。
 
 マルクスは浪費家だった。彼の学説にはどこかに貨幣憎悪がある。浪費癖と貨幣憎悪は関連しているのだろう。マルクスも彼と対極にあるワルラスと等しく貨幣の役割を無視する。対比するとおもしろいところが見える。貨幣の無視は快楽の否定を暗黙の前提にする。二人ともまじめ過ぎるのだ。落第書生という点でも彼らは共通する。ワルラスはエコ-ルポリテクニックに入れなかったし、マルクスの革命運動は常に失敗だった。

 マルクスの経済思想の最大の魅力は、労働の商品化、にある。そして彼の失敗は、労働価値説の意味を誤認したことだ。投下された労働価値、すなわち計算可能な労働量、すなわち単純労働、すなわち自然エネルギ-となる。ここでマルクスは弁証法を捨てた。自然のエネルギ-の回転としての労働あるいは企業経営は単純再生産・ゼロサムゲ-ムでしかなくなる。マルクスが自信をもって取り入れた自然科学モデルが彼の思想の息の根を止めていた。ワルラス以下の限界効用学派が安易に数学という自然科学モデルに依拠してしまったのと同じだ。ここでも両者は似る。マルクスもどうせ弁証法を使うのなら、なぜ欲望と生産力の関係に焦点を当てなかったのか?

マルクス経済学入門(3)

2009-06-10 02:33:15 | Weblog



 マルクスもリカ-ドに習い投下労働価値説を取る。労働を科学的に計算可能な単純労働に限定する。これは一種の自然エネルギ-。だから生産は単純再生産でゼロサムゲ-ム。ましてマルクスの言うように労働が搾取されて正常な回転から削り取られるのなら縮小再生産は必至。労働者は窮乏化し、過剰な資本の効率は低下する。不況、恐惶、革命は必然となる。事実産業革命初期の工場労働者の生活は惨めだった。また当時の企業の規模は小さく収穫逓減型であり、資本の効率はすぐ低下した。

 肝心な事はマルクスの哲学的推論が、経済という具体的な営為の中で、実証されるか否かだ。マルクスは必死にそれを試みる。成果が資本論と言う膨大な著作。しかし証明は全然成功していない。生産、流通、金融、と資本の運動の枠を拡げながら証明を試みるが、始めに搾取ありき、の前提のみ。前提が断言として繰り返される。論点先取の過誤。有名なW(商品)-G(貨幣)-W(商品)、の図式が延々と繰り返される。マルクスの著作は経済学批判までがまともな論理であり、資本論は壮大な愚書だ。資本論が描こうとする帰結を諷すれば、暴にもって暴に報いその非を知らず、となる。

 マルクスはおのれの搾取論を一方的に過信して、だから資本は肥大し労働者は窮乏化し、恐慌が起こると言った。少しは当たっている。しかし現実の歴史は労働者が組合を作り、賃上げ等の待遇改善を要求し、資本家も国家も譲歩して労働者の待遇改善に協力してきた。両者間に対立は多々あったが、協力協調も多かったのだ。論理は簡単、近代労働者を奴隷扱いしていてはまともな製品ができないからだ。年金、各種の社会保険、累進課税、社会福祉政策等を一つ一つ積み重ねた結果、現在では労働者はマルクスが言ったように、失う物は鉄 鎖以外にない、ような存在ではない。

 問題は資本がどう体化されるかだ。工業技術が進歩すると初期の紡績工のような単純作業ではなく、各種のより複雑な仕事が要求される。高度な機械の操作、複式簿記を駆使する経理事務、販売戦略の体系的検討等に従事する中間階層の数が増大する。更に技術の研究開発、企画立案等になると要求される専門的知識は益々増える。大学出のホワイトカラ-が職場に進出する。経営者自身も企業の所有者ではなく、専門の経営技術者が経営を担当する。企業が大きくなればただ創始者と血縁関係にあるだけで、経営のトップに立つ事は不可能になる。株式会社制度はこの傾向を促進する。現在の経済学では生産性を上げる要因は物金より技術、それも人間の心身に体化された技術が主たるものだと、認識されている。日本や欧米等の先進国ではGDPの80パ-セント以上が所得つまり人件費。資本は人、人的資本となる。マルクスの予言では労働者は貧窮に喘ぎ生命維持ぎりぎりの線まで搾取されるはずだが、結果は逆。すべての国家でそうとは限らないとしても。技術は単純に商品か?労働が技術に体化するか否かの判断でマルクスの予言の可否が分かれる。

マルクス主義入門(2)

2009-06-08 00:40:15 | Weblog

         
    
 経済学歴史派の大御所第一号がマルクスだ。彼はリカ-ドと同じく改宗ユダヤ人で哲学から経済学へ入った。彼の理論の出発点は疎外論と歴史認識。マルクスの関心の第一は国富の増進でも資本の蓄積でもなく、労働者の貧困への対処、その原因究明にある。この関心事を彼はヴィコ・ヘルダ-・ヘ-ゲルと続くドイツ歴史主義の影響下に考察する。彼は労働者を貧困にしている現制度への批判から始める。なぜこんな制度なのか、と疑問は続く。未来の理想的制度を考案する為には現在と過去を比較するのがご定法。彼は制度を歴史的に分析して制度間の差異を見つけ、人類は(厳密には西欧は)奴隷経済、封建経済、資本主義経済、の三段階を経て来たと概括する。歴史の発展段階の差は経済構造で決定される。経済つまり富財物が歴史従って人間社会を根本的に規程する、とマルクスは説く。唯物史観あるいは唯物論だ。

 歴史的に経済現象を把握する事はもう一つの結果をもたらす。経済現象の過酷さの認識だ。マルクスはそれを原始的蓄積と名づける。資本主義が発展の基礎を作る為には暴力による収奪が前提であったのだと言う。当たっている。囲い込み運動と私拿捕船(国家公認の海賊行為)そして奴隷制度を考えるだけで想像はつく。
発展論の構築に当りヘ-ゲルの弁証法はマルクスに大きな影響を与えている。マルクスの発展論は単純な直線的進歩史観ではない。彼の発展段階論はヘ-ゲルの即自・対自・即且対自の図式に従う。即自とは現象そのものへ素朴に埋没した状態での対象認識、対自は認識する自己を自覚しての対象認識、即且対自は前二者の統合、つまり自他の分裂を克服して自他が一体になり統一された状態とされる。最後の段階で意識レベルは一段階向上し、そこから再び即・対・即対の運動が続けられる。ヘ-ゲルの哲学は自己が他者との関係で常に矛盾を形成し、自他の関係から疎外される事により相互に発展する、と説き、自他間の認識像の変化発展を述べる。対してマルクスはこの図式を経済現象に適用し、生産力と生産関係の相互作用と運動に適用する。生産力は常に増大する、増大する生産力が既存の生産関係とうまく折り合わない時、両者は対立し変革が起こる、とマルクスは説く。機械的あるいは道徳的な歴史観を排し、ヘ-ゲルの弁証法を導入する事でマルクスは歴史により単に規定されるだけでなく、歴史に積極的に作用し抗議する主体としての労働者を発見した。マルクスもヘ-ゲルにおけると同じく矛盾が変化の原動力だ。

 労働者が歴史の主役として躍り出る。では近代経済体制の特質は何か?市場の万能性、資本蓄積衝動。矛盾は?労働の商品化、労働しか売る物のない階層であるプロレタリアの出現、商品としての労働、労働者の労働からの疎外。労働者は商品でしかない。労働以外の物を売る事ができないから労働者は徹頭徹尾効率的に使用される。ここでマルクスはスミスやリカ-ドから労働価値説を取り入れ、同時にフォイエルバッハの、神へと疎外された人間の論、を援用する。疎外論は経済学に接続する。労働者は労働そのものから疎外されて単なる商品になる、商品としての労働がただ商品になるだけだ。だから生産物商品は労働そのものだ。となると資本家による労働者の搾取は論理的必然となる。見事な哲学的憶測だ。しかし労働は全くの商品なのか?この思考は労働をある単純なエネルギ-とみなす事によってのみ可能になる。あるいはヘ-ゲル弁証法をフォイエルバッハの人間学ですり替えたのが手品の種だ。