経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(7) 勅撰和歌集

2014-06-27 02:01:39 | Weblog
(7) 勅撰和歌集
 日本で最初に編集された和歌集は万葉集です。総計4500首余、元明天皇の要請とも言われ、正式には753年橘諸兄が孝謙天皇に命ぜられて編纂に着手したともいわれております。実質的な編者は大伴家持です。政変がからみ万葉集が実際に出来上がったのは9世紀前半です。万葉集は準勅撰集とされています。9世紀後半には菅原道真編集の新撰万葉集が作られます。新撰万葉集は万葉仮名から現在我々が使用している仮名への進化途上の作品です。
 905年に醍醐天皇の勅命で古今和歌集が編纂されました。天皇の勅命による編纂ですので作られた歌集は勅撰集と呼ばれます。編者は紀貫之以下の4名です。以後1205年に後鳥羽上皇の命で編纂された新古今集までの歌集は和歌の最盛期を体現しており、八代集といわれます。古今集、後撰集(村上天皇)、拾遺集(花山法皇)、後拾遺集(白河天皇)、金葉集(白河法皇)、詞歌集(崇徳上皇)、千載集(後白河法皇)新古今集(後鳥羽上皇)です。括弧内の名称は編纂を命じた君主の名前です。以後新勅撰和歌集、続後撰集、続古今集、続拾遺集、新後撰集、玉葉集、続千載集、続後拾遺集、風雅集(花園法皇)、新千載集、新拾遺集、新後拾遺集、そして1439年、後花園天皇の時代の新続古今集でもって、勅撰集編纂の幕は閉じられます。また1381年宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が編纂した新葉集があります。この新葉集は、風雅集以後の歌集に採録される歌が圧倒的に北朝側の歌人の作品で占められていることへの、宗良親王の反撃そして政治的自己主張です。新葉集を勅撰集に入れても構いません。宗良親王の新葉集編纂の目的は明らかに、南朝の正統性の主張です。
 古今和歌集は醍醐天皇の勅命で作られました。その序に、歌でもって天地の神に訴え、人の心を動かすとあります。序は歌集政策の意図の表明です。勅撰そしてこの序文の意を考えますと、古今集編纂は極めて政治的な行為になります。和歌あるいわ言葉でもって帝王は人心と天地万物を支配しようということです。換言すると神としての天皇の統治を正当化し普延するための文化事業として勅撰和歌集が作られました。
 古今和歌集ができた頃、日本語の表記法が確立します。漢文あるいはより面妖な万葉仮名を借りなくても、日本人の心情を言語で表現できるようになりました。古今集ができる20年前に歌教標識という本ができています。これは漢文で書かれた和歌の作り方です。併行して物語が作られてゆきます。竹取物語や伊勢物語は仮名書き文です。古今集の編集者の一人である紀貫之は仮名書きで日記をつけました。自民族固有の言語を持つという事は、政治支配の正統性と政治への帰属意識を確立するための重要な基盤です。このような意義を持った日本語表記発展の画期に古今集の作成があります。
 醍醐天皇の父親である宇多天皇の御代から政治や貴族の生活が儀礼化してきます。儀礼化には政治の形式化という負の側面もありますが、同時に儀礼を共にする共同体形成、そこでの人心交流の円滑化という正の側面もあります。村上天皇の御代から大規模な歌合せが施行されるようになります。これは王権の示威であり、人情の交互応酬であり、男女の協和であり、美意識と言語能力の切磋琢磨でもあります。和歌はこうして、貴族のみならず一般庶民も含めて、文化と儀礼のもっとも重要な手段になりました。和歌作成は貴族の必須の教養になります。後続する武士達も自分達が野蛮人でないことを証明する為に和歌を学びました。
 古今集で歌われる内容は案外単純です。というより一般に詩というものが、表現できる内容はそんなものです。春夏秋冬の四季、恋、別れ、旅、祝いくらいになります。歌詞、歌枕など定型化された言語が作られます。こうして和歌を介して感情の円滑な交流が可能になりました。なによりも詩作能力は言語能力であり同時に論理形成能力であります。
歌語つまり勅撰集に入る和歌に用いられる言葉は厳密に洗練されて作られ、その数は約2000です。この2000という数字には意味があります。米国の中学生が覚えなければいけない単語は2000と言われます。わが国の中等教育で習得する当用漢字の字数は1800弱です。また和製漢語というものがあります。維新以後日本人は外国語特に英語を翻訳して新しい言語を作りました。現在我々が使っている漢語はそのほとんどが和製漢語です。シナの新聞などもこの和製漢語を使用することなく記事は書けません。以上いろいろな側面から検討しますと、2000の歌語が作られることにより歌作従って日本人の情念の表現に必要かつ充分な言語空間、文化空間が作り上げられたと言えましょう。 
 こういう勅撰和歌集が万葉集から新続古今集まで、753年から1439年まで連綿として作られてゆきます。王権の確立期、全盛期のみならずその衰退期においても作られ続けられます。南北朝分裂に際しても相互の側で和歌編纂和歌作成は尊重されます。勅撰集が700年の長きにわたって作られ続けられるということは、その主催者である天皇家の王統の正統性が訴えられ、またそれが承認されていることの証左です。簡潔にいえば、勅撰和歌集の作成は万世一系の天皇制の明確な証であります。南北朝合同に際して、後小松天皇と後亀山天皇の間の血統は玄孫間以上の隔たりがありますが、両統とも和歌集の作成という文化価値を共有し、ですから同族意識を持ち合いました。南北朝の合同など世界の他の歴史にはありません。
 最後の新続古今集以後和歌は衰退したのでしょうか。そうは言えますまい。連歌あるいわ俳諧俳句は和歌の後身です。宗祇も芭蕉も蕪村も一方では和歌に熟達していました。連歌は千載集にすでに載せられています。新古今和歌集の編者藤原定家は晩年連歌を楽しんだそうです。和歌、連歌、俳句の間には密接な連続性があります。
 江戸時代に入り禁中公卿諸法度が幕府により作成されます。幕府としては、公卿朝廷は学問技芸に専念されたらよろしいということだったのでしょうが、幕府により設定された公卿家職は江戸時代の庶民文化に甚大な影響をあたえております。このことについては後に取り上げるでしょう。二条、冷泉、飛鳥井、三条西の四家が和歌伝授の家として公認されています。民間にも多くの歌人がいました。代表を挙げると、良寛と橘アケミです。むしろ江戸時代になって実際に歌を作る人口は増えたのかもしれません。俳句があれほど庶民間で流行したのですから。本居宣長、さらに明治に入って、正岡子規などは和歌の復興改革を強く主張しました。現在でも歌壇があり、毎年正月には宮中でお歌会が開催されています。お歌会は王朝時代の歌合せそして勅撰集編纂の延長上にあります。
 和歌、連歌、俳句に関して言うべき重要なことは、詩作が簡単にできることです。一定の教養があれば(多分なくても)和歌や俳句は作れます。5と7の平仮名でもって字句を作り、それをくっつければいいのですから。私も和歌俳句なら、そのできばえはともかくとして作れます。数度遊びで連歌の会を持ったことがありますが、非常にに楽しいものでした。和歌の伝統確立により日本人の詩作、したがって言語能力は飛躍的に向上したといえましょう。勅撰集の意義はそこにもあります。
 なお国歌「君が代は千代に八千代にさざれいしの巌となりてこけのむすまで」は古今集の詠み人知らずから取られています。もっとも古今集では「君が代」は「わが君は」となっており、時代の変遷の中で歌詞が少し変わったようです。
勅撰集編纂の意義は天皇が文化の帝王であり、その帝王が文化を介して天の摂理に訴えかけるという意味では神である事の示威であり証しです。天皇の支配の正統性の主張です。また文化の帝王という形象は天皇像を女性化します。勅撰和歌集は男女の共同統治の暗喩でもあります。和歌の頻繁な使用は民族言語の形成、感情交流の円滑化、民度教養の向上に寄与します。

時事七題

2014-06-23 14:53:38 | Weblog
時事七題

1 アベノミクスがおかしくなってきた。外国人労働者の受け入れ、能率給の導入。これらの政策は一見理にかなっているように見えるが、日本人の賃金切り下げに通じる。それでなくても平成不況20年で労働の合理化は進み、働くものはきつい長時間の労働を強いられている。賃金切り下げは不況を促進する。安倍総理はいつのまにかネオリベラリストになってきているのではないのか。安倍総理は自分がしている経済政策の矛盾が解っていないのではないのか。心配だ。ただし総理の外交と防衛政策には賛成だ。早く公明党をおしきることだ。公明党の支持母体である創価学会内部では靖国参拝問題で喧々諤々らしい。不安定だから押し切れる。不安定だから弱みはある。代償のご褒美を考えておくことだな。一度押し切って処女膜を破れば後は言いなりになるだろう。
2 日本の産業革命つまりtake offについてふと気づいたことがある。欧州の産業革命は新大陸からの金銀、アフリカ人奴隷防衛の収入が資金だ。アメリカは土地は略奪、労働は奴隷、資金は欧州からの外資で産業革命を行なった。日本が第一次産業革命を成し遂げた1900年前後には植民地はなかった。奴隷はもちろんいない。外資も導入していない。自力で産業革命を成し遂げ高度工業国家になったのは日本だけらしい。銘記しよう。
3 北朝鮮の拉致被害者救済の問題で政府は北の政府と交渉中だ。援助だけさせられて被害者は返されず嘘をつかれるのではないのかと、不安の声もある。確かにその可能性はある。しかし私は少し違う考えをしている。仮に嘘をつかれてもいいではないか。出すものを出す方が被害者帰還の可能性は高くなる。それ以上に重要なことは、適当に北に金をやることだ。延命させることだ。北朝鮮が崩壊したらどえらいことになる。韓国に事態を収拾する能力がない事はセウオル号の事件で明白になった。北が崩壊すれば半島は大混乱に陥る。シナもアメリカもロシアもそんな事は望んでいない。下手をすれば事態の収拾を日本に押し付けられかねない。100年前に逆戻りする。散々世話してあげくのはてに憎悪され罵倒されるのはもう御免だ。北は生きのびればいいのだ。ゆっくりと衰滅しつつね。
4 性犯罪が多発しているようだ。韓国やアメリカほどではないが。性犯罪は繰り返される。これを病気とすればこの病気はほぼ不治に近い。へたに厳刑をもって臨むと事件は凶悪化する。少し肌に触れただけで収監するのは酷だ。軽い刑罰にするというのではない。痴漢程度なら罰金刑にしたらどうか。尻に触れたら100万円支払う刑罰にということだ。繰り返せば罰金の額を増やす。氏名は公表するが職は奪わない。不名誉なまま働かせればいいのだ。人権人権と言って痴漢を追い詰めるのが一番怖い。なぜ性犯罪は不治なのかを言っておく。性犯罪者には罪悪感はない。性的感情の表出は自由だと、そして相手もそれを望んでいると錯覚している。だから彼らにとって性的行為の強要は権利なのだ。私が言った事はスト-カ-事件にも妥当する。人間には性感情というものがある。無ければ病気だ。そして性感情とは見境なく暴発するものなのだ。下手な規制は効かない。金でけりをつけさせるのが一番いい。恋愛とは、支配する意志の行使であり、他者への幻想の投影なのだ。一度恋愛すると収まるまでは収まらない。痴漢やスト-カ-は歪曲された恋愛行為なのだ。ここのところを銘記しないと事態はこじれる。
5 禁煙運動が厳しすぎないか。医師によっては無理やり禁煙治療をしようとしている。喫煙は本来自由だ。間接喫煙の害さえなければ自由だ。喫煙にはストレス発散の効果もある。寿命は縮まるが、それは本人の責任だ。皮肉を言えば平均寿命が落ちた方が年金支払いは楽になるのではないのか。禁煙禁煙と喫煙者をまるで犯罪者病人扱いするのは問題だ。この種の不寛容さは世間の気分を縮小させる。つまり不況感を増大させる。なにも万人が健康である必要はあるまい。煙草の販売量はGDPを増やし、流通貨幣量を増やす。当然有効需要も増える。税収増加もする。成人男性の半分が仮に一日一箱20本の煙草を吸ったとする。一箱300円とし、80%を税とすればそれだけで数兆円の税収になるよ。真面目だけでは経済はもたないのだ。昔の映画では紫煙くゆらすゆったりしたシ-ンがある。いい光景だ。
6 労働力に女性を登用というが、それで良いのかな。女性が外に出て働けば家は空になる。保育所で家庭の役目が代行できるとは思えない。不登校、児童虐待etc現在世間を悩ませている問題は家庭の空洞化にありはしないか。警告する。
7 福岡県筑後市で異常な殺人事件が起きた。虐待されて労働を強制されそして殺害と。これは単純な殺人事件ではない。虐待されるべく殺されるべく操作され刷り込まれた心理的な事件だ。同様の事件は兵庫県尼崎市でもあった。警察の見解を問う。これからはこのように心理的に入り組んだ事件がおきる。警察はもっと精神科医の意見を聴いたらどうなのか。

日本人のための政治思想史(6) 摂関政治

2014-06-18 02:34:08 | Weblog
 摂関政治とは摂政関白が天皇に代って政治を行なう制度です。従来外戚の横暴とか、藤原氏による権力奪取とかあまり良いようには言われてきていません。が、私は摂関政治が日本の政治史の一大転機であり、以後の日本の政治的情操を現在に至るまで規定してきた重大な事跡であると思っています。摂関政治を語る前にどうしても律令制度に簡単に触れておく必要があります。律令制度は聖徳太子のころから大化の改新や壬申の乱をへて聖武天皇のころまで150年近くをかけて作られてきました。律令制の眼目は公地公民、つまり全国の土地は国有でありそれを人民に貸与して税金を徴収する体制、とこの政策を遂行するための官僚制度の整備です。それまでは政治は天皇家も含めた豪族達が土地と人民を私有して、彼ら豪族の連合の上に大王(おおきみ 天皇)が位置するという形で政治が行なわれてきました。官僚制は左右の大臣と大中の納言と参議(合議機関)、弁官外記少納言(事務局)そして中務式部以下の八省(行政の実務担当)により行なわれ、地方には中央政府から国の守が派遣されて政治をしていました。隋唐から学んで取り入れた中央集権的な制度です。
 この律令制は8世紀中葉からほころび始めます。まず土地の占有が始まります。地方の有力者は勝手に開墾してそれを占有します。更に彼らは中央の権門(皇族及び上級貴族)と結びついて地方官が私有田に入り込んで徴税するのに抵抗します。政府はこの事態に対応して地方官(国の守)に強い徴税権を与え同時に徴税請負制にします。このような地方官の形態を受領といいます。受領は請負額以上を取ればその分は個人の収入になります。中央では官職の重要な部分はほぼ藤原氏に独占され、その藤原氏の内部でも分化は進み、嫡流(権力を握った一門)が大臣などの高級官職を独占します。こういう時代状況に対応して出現した制度が摂関政治です。
 天皇が幼少なら摂政が政治を代行します。しかし天皇が成人しても関白が律令制の合議機関と天皇の間に介在して天皇の判断に干渉し制約を加えます。なぜこういう事が可能になるのかと言いますと、摂関になる者の多くは、自分の娘を天皇の後宮に入れ、生まれた皇子を次代の天皇とし、自らは天皇の祖父外戚として、権力を振るいうるからです。ここで入内した娘は天皇の母親になるのですが、この母后の存在も決して無視できません。というより外戚もこの母后の存在なくしては権力に介入できないのです。摂政関白は宮廷に自室を持ち、また気軽に母后や天皇の私室に入れます。天皇の外戚でない関白もいますが、こういう関白には実質的権限はありません。
 なぜ摂関政治のようなものができたのかと言えば、その理由の一つに政治の内廷化という現象があります。律令制の衰退と併行して行政機構は縮小してゆきます。地方は次第に荘園制に移行し受領制度と共に税収減をもたらします。正規の国家収入は減少し、せいぜい天皇家と極上級の一部の貴族を養える程度になります。地方行政にも軍事外交にも政府は積極的には関与しません。政治に参加できる貴族はだいたい100名内外になります。こうなりますと政府は天皇の家政機関のようなものになり、政治は一部の上級貴族の談合で行なわれます。天皇の私室である清涼殿で政治は行なわれます。こういう公から私への政治機構の縮小を内邸化と言います。摂関政治つまり外戚や母后がその血縁あるいは婚姻を介して天皇の権力に関与するという現象はこのような政治の内邸化、換言すれば政治のお茶の間化を背景として進行します。
摂政関白にはすべて藤原氏が就きます。なぜ藤原氏かと言えば長い藤原氏の権力樹立の歴史があります。藤原氏は以前中臣氏といい、古代には朝廷の神事を司ってきました。中臣鎌足は大化の改新で活躍し藤原の姓を与えられ、その子不比等は娘光明子を人臣の娘としては始めて、聖武天皇の皇后にし、死後太政大臣号を贈られています。光明皇后冊立と贈太政大臣は藤原の家を特殊なものにします。つまり他の豪族貴族とは一階違う家柄である事を保証されます。不比等以後藤原氏は天皇家との婚姻政策を進めます。なかなかに帝血の壁は固かったのですが、徐々に天皇家の姻族として食い込んでゆきます。
天皇家と藤原氏の関係は婚姻のみに留まりません。国家政策でも足並みをそろえます。律令制の整備そして仏教興隆には藤原氏は特に熱心でした。他の豪族がともすれば懐古的に保守に傾くのに対して天皇家と藤原氏は国家の革新で同盟関係を結びました。鎌足は自分の長男を唐に留学させるほど仏教摂取に積極的でした。光明皇后は夫聖武天皇を励まして、国分寺国分尼寺の建設や大仏建立に積極的に努力します。国分寺建設や大仏建立は国家の権威を示威すると同時に新興の経済勢力との提携をも意味し、国策としては非常に重大な事業でした。藤原氏の氏寺が興福寺です。興福寺は帰国後すぐ死去したこの長男の鎮魂の寺でもあり、大乗仏教理論の一方の雄である法相宗研鑽の寺でもあります。大宝そして養老律令の編纂には不比等が積極的に関わっています。要するに律令制という天皇の超越化を目指す政策遂行に一番熱心だったのが藤原氏でした。仏教興隆は律令制確立のためのソフト整備であると心得て下さい。藤原氏は国家建設という事業において天皇家の重要な共同者でした。
 なによりも藤原氏は少なくとも道長の代までは優秀な人材を輩出し続けています。無能な人は嫡流にはいません。称徳女帝死去後藤原氏は道鏡による帝位簒奪を阻止し、素早く光仁天皇を擁立し、その次代には桓武天皇を押し立てます。どちらも陰謀事件がらみですが、人材発掘の眼の付け所は優秀です。長岡平安遷都も藤原氏主導で行なわれています。内邸機構の核心である蔵人所が設定されたら内麻呂が長官に任じられています。良房は幼帝清和天皇の摂政、人臣で始めての摂政になりました。基経は光徳宇多天皇の即位の事情ゆえに始めて関白になりました。基経の孫である師輔、その子兼家、その子道長の三代が摂関政治の全盛期です。この三人はすべて自分の娘を后として天皇の後宮に入れ次代の天皇を生ませています。
 摂関政治は天皇と天皇の母方の姻族との共同統治です。これには長い前史があります。実証的には卑弥呼と男弟の、神話の世界ではアマテラスとスサノオの男女による共同統治があります。この男女の共同統治制を姫彦制と言います。律令制完備以前には、大兄(おおえ、大王の後継者ないしそれに準じる存在)が大王の代行として大王と共同統治をしました。聖徳太子や中大兄(後の天智天皇)が代表です。蘇我氏が滅ぼされる以前の大臣は臣下の豪族一同を代表して大王と共同統治しました。左右の大臣はこの大臣(おおおみ)の伝統を引いていますから、左右の大臣には共同統治者という性格があります。律令制の影に隠れていたこの共同統治性は政府の内邸化の過程で摂関政治としてその相貌を新たな露なものにしたといえます。
 摂関政治は天皇家と藤原氏、首位の家と次位に徹し決して首位を目指さない家柄による共同統治であり婚姻同盟です。同時に男性である天皇と女性である母后による男女の共同統治でもあります。姫彦制の再現ともいえます。一見臣下による権力簒奪のようにも見え、また政治の弛緩のようにも見えます。お爺さんがのこのこ娘や婿や孫の私室に入り込んで政治という公的な案件を相談するという情景なのですから。しかし摂関政治には重要な長所があります。結論から先に言えば権力の安定と部族の解体です。天皇家と藤原氏は恒久的な同盟を組みます。両者は首位と次位として決してお互いの地位を侵さないという暗黙のしかし歴史的には強固な約束あるいは契約をしています。両者は権威と権力を適当に分担し合います。首位と次位は直接つながるのではありません。そうなら両者には衝突が絶えません。両者の間には300年の歴史の中で形成された婚姻同盟、男女の共同統治という安定したバネが挿入されています。統治の裏側に女が一枚噛みますから権威と権力の関係は柔らかいものになり、両者の間には深刻な衝突は起きません。ないといえば嘘になりますが、他国の歴史と比べればこの種の摩擦衝突は著しく穏健で血なまぐさくないのです。そして首位と次位の関係が安定すればこの安定は下位の層にも自動的に波及します。権力の安定、これが摂関政治の第一の特質です。
 第二の特徴は部族の解体です。部族とは擬制的な血縁で結ばれた集団です。どこでも初期の政治体制は部族制です。部族の長の連合で政治が決められます。しかし摂関政治では首位と次位が強固な同盟関係にあるために、他の部族はその下に甘んじなければなりません。つまり部族による権力交代、これには必ず戦争が伴います、は消滅し、部族の存在意義自体が自動的になくなってしまいます。平安時代に入ってからも藤原氏は他の家柄が政治に進出する事を巧に阻止してきました。大伴氏、紀氏という古代からの名族は政治的には没落します。皇族は政治に参加できません。賜姓源氏も頭を押さえつけられます。学者が頂点に立とうとしたら追放されます。これらの事件には必ず陰謀が伴います。だから藤原氏は人気が悪いのですが、ここで特記すべきことは藤原氏の時代になってからは権力交代に伴う流血事件は全くないということです。9世紀初頭の薬子の乱から12世紀半ばの保元の乱までの350年間少なくとも堂上貴族で死刑にあったものはいません。平安時代とは死刑のない時代だったのです。こんなことは、徳川300年の平和と並んで、世界史上では稀有の例外です。
 摂関政治が頂点を極めたのは兼家から頼道までの約100年間です。摂関政治は院政に取って代わられます。院政とは引退した天皇が、上皇とか法皇とか呼ばれます、わが子である天皇を後見し実質的に権力を握る体制です。ここで現役の天皇は儀式の執行者になります。この制度も権威と権力の分離という意味では摂関政治の続きです。院政の次には鎌倉、室町、徳川という三つの幕府による武家政治が続きますが、ここでも実質的権力は将軍、最終的権威は天皇と分業が成立しています。武家政治の内部だけでは最終的に権力の争闘を避けられないのです。天皇の権威が形式化しても最後は天皇の仲裁調停は必要でした。そして強調すべきことは日本の歴史では、争闘はありますが、その規模は他国に比し著しく少ないのです。少なくとも流血量においては比べ物になりません。権力を安定させてその交代を円滑平和にする政治装置の範形は摂関政治により作られました。
 摂関政治は婚姻同盟であり、男女の共同統治です。権威と権力の間に女性が一枚噛むことにより、権威と権力は分離され、権力行使は非常に柔らかなものなりました。

日本人のための政治思想史(5) 神仏習合

2014-06-14 02:22:25 | Weblog
(5)神仏習合
 800年前後最澄と空海が唐に渡り天台真言の二宗を日本に持ち帰ります。これを転機として仏教は日本という国に相応しい独自の展開をしてゆきます。変化の相貌は大きく三つになります。仏教は実践化されます。同時に経済制度の変化と平行して寺院は私企業になります。奈良時代までの仏教では、寺院は国営であり、僧侶は寺院の中だけで修行するべく定められ、その任務は護国のみにあり個人救済は二の次でした。これが当時の仏教の公式見解であり建前でした。法華経及び真言密教は個人救済を強調します。実践化、私営、個人救済が平安仏教の奈良仏教に対する大きな特徴です。
 ここで仏教に関して概略を解説しておきましょう。釈迦の教えが竜樹により一回転されて大乗仏教というそれまでとはかなり異質な宗教が出現しました。大乗仏教の大乗仏教たる由縁は大衆救済にあります。この実践者を菩薩と言います。菩薩道を根幹とする大乗仏教は大きく二つの流れに分かれます。華厳経を基礎とする流派と法華経を尊重する流れです。前者は世界のすべての存在に仏性が宿っているとして、だから万人は既に救われていると解きます。この流れの中に禅宗、浄土教、真言密教があります。後者では、信仰共同体を維持しつつ共同で社会的行為を重ねることにより、自らの救済を確信してゆくと説きます。同じ菩薩でも、華厳経系の菩薩道は緩やかで受動的ですが、法華経系になりますと積極的で戦闘的です。最澄は法華経の解説体系である天台宗を、空海は華厳系の真言密教をもって帰国しました。
 私は法華経をもって第一の仏典とする立場に立ちますが、正直平安時代の人々の中でどれほどの人が法華経の意味を解っていたのかなという疑問を抱きます。法華経に内在する弁証法的構造と、社会性そして政治行為の意義の論証などは非常に見えにくいし解りにくいのです。平安時代に確かに法華経は尊重されました。しかし私は、法華経の意味を始めて発見し実践したのは450年後の日蓮であると思っています。とまれ法華経はあまり解らないまま護国の経典として尊重されていました。天台宗の本山が比叡山延暦寺です。
 対して真言密教は非常にわかり易く良い意味でも悪い意味でも実践しやすいのです。密教はインドで仏教が土地の呪術信仰と結びついて発展しました。華厳的思考に呪術が加わったものです。呪術とは信じればこの世の福徳を直接に授けてくれるというある種の技術です。ですから密教が日本に輸入されると密教信仰は爆発的に広まりました。子供を授かる、雨を降らす、病気を治す、などという人間の世俗的な欲望が、呪術あるいは加持祈祷でかなえられるのですから、平安時代の貴顕紳士そして一般庶民はなんらかの意味で密教信仰に走りました。密教信仰では修行する僧侶はともかく受益者である俗人にはお布施は別としてたいした努力は要求されません。ただ拝んでもらえばいいのです。密教の本山は高野山の金剛峰寺と京都の東寺です。延暦寺はこのような趨勢に非常に不安を抱き、最澄の弟子達が唐に行き別系統の密教をもって帰り、密教信仰を説きまた密教の加持祈祷に専念しました。延暦寺は法華経が看板ですが、法華経理解の進展はあまりありません。ありていに言えば密教呪法の方が儲かるのです。とまれ平安時代の前半で一番人気があったのが密教です。ついでに言いますと時代の後半には密教の変形としての浄土信仰が盛んになります。
 密教ではインド土着の神様方がご利益を授けて下さいます。もちろん呪術の力で。そうなると日本に来た密教信仰は容易に日本古来の神様と融合します。根本的方法が呪術ですから、この呪術を介して容易に仏と神とが重ね合わされます。日本の神様も人間を罰したり福徳を授けるという事を行います。仏と神とが融合し重ねあわされる現象を神仏習合といいます。神仏習合はなにも密教だけを介して行なわれたのでなく、他の宗派も同様に神仏習合に走りましたが、いちばん顕著な効果は密教を介しての道でした、ちなみに異国の神が土地の神と融合する現象は世界のどこにでも見られます。
 神仏習合により日本の仏教土着は強固なものになりました。同時に信仰は地方分権的なものになります。仏教は大乗と小乗をあわせれば極めて多彩な教義を内包しております。日本の神様は八百万(やおよろず)と言われるくらい多数です。世界中のいたるところに神様がおられるようなものです。このように神仏習合によって極めて多伎多彩になった仏教信仰は、当時興隆しつつあった新興土地所有者である田堵名主に受け入れられます。この連中が後世武士という階級に育っていきます。奈良時代の律令制では土地の私有は原則として容認されません。公地公民です。しかし民衆の土地私有への願望は強くなんらかの形で土地は集積されてゆきます。更に土地所有者は免税も要求します。この結果が荘園の発展です。これらの過程はすべて非合法なのです。ここで神仏習合により多元化された仏教信仰の効き目が出てきます。仏教はその性格から言っても、外来宗教という立場からいっても、信仰を国教の形で独占できません。独占できないとは言いきれませんが、それははなはだ難しいのです。現に日本では信仰の主流は仏教ですが、すべての寺院は私営であり、宗派はそれぞれ独立しています。あえて国教と言えば後世神道と言われるものですが、神道だけでははなはだ弱く、神道は神仏習合により支えられる形で存続できました。結論から言えば日本では信仰を国家が独占できないのです。仏教を受容することにより為政者の思惑とは別にそうなってしまいました。逆に言えば民衆はかなり自由に信仰を選択できることになります。新興の土地所有者(占有者というべきですが)はこうして自らの判断で信仰を選び、土地に寺院を作り寺院に土地を寄進しました。信仰を独占する機構がない分、信仰は自由でありその分国家権力から独立した立場をとりえます。こうして発展してきた階層が武士という集団です。
 武士とは本来土地の非合法的占有者であり土地開拓者経営者です。律令体制から言えば一種の反逆者です。最澄や空海の作った寺院もその意味では同じで非常に非合法くさい代物です。そしてこの寺院から聖(ひじり)とか先述した菩薩僧が出現し寺院から独立していろんな社会活動を繰り広げます。重要な活動の一つが土地開発です。ここで武士と僧侶聖菩薩僧は重なります。武士は結構僧侶に近いのです。
 ここで僧兵という存在について考えてみましょう。僧兵とは面白い存在です。従来は僧侶のくせに武器を携えて武力を行使する、信仰の堕落の典型的な象徴だと悪く言われてきました。私はそうは思いません。日本の寺院はすべて私営でありそれなりの財産を持っています。寺院を護る武力がなければ寺院は亡びます。平安時代は大きな戦争のない時代でしたが、なんのかんのと言っても実力がものをいう時代でした。自らは自らで守らなければなりません。僧兵という存在があったればこそ、仏教は全体として国家に対して独立しまた自己の経営を安定させえました。僧兵は特別の存在のように言われますが、基本的には武士です。僧兵と武士との境界はかなり流動的です。もう一つ僧兵に関して言えば、当時の寺院では皆武装でした。学術ある僧侶も雑役に携わる下級僧侶も、俗人であって寺院で働くものもすべていざという時には武器を取ります。また寺院の最終決定は大衆セン議という集会で決められていました。極めて民主主義的な運営が為されていました。武士とは自分が集積した土地を護るために武装した集団であり、僧兵は寄進された土地を護るために武装した集団です。同じようなものです。ここで肝要なことは寺院が武装できるから寺院の信仰を護持できるのであり、だから国家が精神的価値を独占することなく、だから権力は遠心的に働き、武士層が興隆するということです。
 神仏習合により仏教と神道は結ばれます。この事は仏教が国家と同盟するに際して重要な契機を与えます。なぜなら外来の仏が日本固有の神々と融合するのですから。神道と融合することにより、仏教は日本の文化と体制に定着でき、日本という国家の守護神となりえました。端的な例を挙げましょう。後七日修法と大元帥法という密教の加持祈祷があります。前者は天皇の玉体を後者は国家そのものを護る呪法です。朝廷の奥深くで行なわれました。しかし神道と仏教の間には溝はあります。仏教では死を扱います。死にどう対処するかを説くことが仏教の役目です。逆に神道では死を穢れとして忌み嫌います。この点に関してだけは両者の溝は埋まりません。源氏物語で桐壷更衣が帝の寵愛にも関わらず宮廷を去らなければならない情景がありますが、これは更衣が病気になり死期が迫り、宮廷に置いてはおけないと判断されたからです。

日本人のための政治思想(4) 万葉集

2014-06-08 14:26:57 | Weblog
(4)万葉集
 和歌は万葉集に始まります。万はヨロズノ、葉は言ノ葉を意味します。そこには5-7-5-7-7の短歌を主として長歌、更に施道歌、仏足足跡歌など約4500首の歌が採録されています。8世紀の中頃孝謙天皇の命で作られました。万葉集はただ勅撰というわけではありません。長い時間をかけて創られています。編者は大伴家持と言われ、大体の骨格は8世紀後半にできました。同時に大伴家の私家集という性格も強いのです。ですから万葉集は民間で創られ採録されたという傾向をも持ちます。従って準勅撰集と言われています。冒頭第一番の歌は、籠もよみ籠持ち、で始まる雄略天皇の歌です。この歌は天皇がある日、野で菜をつむ乙女を見て求愛するという内容ですが、ここでの求愛は同時にこの乙女の一族が支配する地を天皇が統治するという意味を持ちます。ですから万葉集は王権の正当性を歌う寿ぐという性格をもちます。事実万葉集の前1/3では天皇や皇族そして高級貴族の歌が多いのです。
 しかし万葉集の最大の特徴はまず、作品が極めて多数なことです。以後続く古今集以下の勅撰集ではせいぜい1000首くらいです。作品が多いのみならず、作者は階層縦断的で、つまりかみ天皇からしも下級官人や庶民まで、極めて多彩です。しかも庶民の名前も解っています。農民や防人の作者が多数います。この点については地方に下った官人による代作という意見もありますが、一農民でも詩作できるという地盤があったからこそ代作も可能になったのでしょう。あるいは官人達が農民の心情を汲みうる立場にあったとも言えます。全く共感がなければ代作などできません。私は代作もあったであろうが、農民防人自身にも詩作能力はあったとみています。彼らが創った歌はあまりにも実感がありすぎます。ですから万葉集は官民共同の作成という性格を持ちます。
 万葉集は有名歌人という層で数えれば女性の比率は非常に高いと言えます。ただ日本での女流歌人の高い地位は万葉集以後も続きますからこのことが万葉集の特徴とは一概には言えません。しかし万葉集がそのような傾向を創始したとは言えるでしょう。そもそも万葉集は万葉仮名といわれる特殊な仮名文字を使っています。万葉仮名は仮名文字の先祖です。仮名は、女文字ともいわれます。ですから万葉集は仮名文字を使うことによって国民文学あるいわ大衆文学になり、そうして同時に女性を文学の世界に引き入れたとはいえましょう。この事は源氏物語と枕草子を筆頭とする平安女流文学の興隆と密接に関係してきます。ここでも女性の地位は暗黙のうちに高いのです。
 万葉集は以後の歌集に比べて歌の主題材料が豊富です。古今集以後の歌集の主題はだいたい、四季、恋、旅、別れ、くらいにしぼられ歌語も定型化されますが、万葉集では歌材は生活一般に広がります。しゃれや冗談も多く以後の歌集ほど見栄っ張りでくそまじめではありません。また万葉集では思想や社会的関心も読まれています。なによりも万葉集では性に関する歌が多いのです。和歌の主題の一つは恋愛ですから、あたり前といえばあたり前なのですが、万葉集では恋愛感情の表出は直截です。猥雑といってもいい歌もたくさんあります。万葉における性愛の研究、という論文もありました。恋愛を通り越して性愛を直接読む歌もたくさんあります。歌材が生活一般そして直截な性愛さらにしゃれ冗談にまで広がるということは歌を非常に詠みやすくします。同時に感情を率直に表現することを可能にします。万葉集では和歌を例に取れば5-7-5-7-7の形式以外の約束作法はありません。万葉集の歌では他の歌集の歌に比べて感情が直接に表出されていることは周知の事実です。古今集以下の歌のように行儀よい歌ばかりではありません。笠郎女の燃えるような恋愛歌や大伴旅人の酒を誉める歌などはその代表です。
 万葉集の意外なそして重要な特徴は男性の同性愛を歌った歌が非常に多いことです。代表が大伴家持です。同性愛をあからさまに歌った歌は以後の歌集にはありません。万葉で歌われる同性愛は、友人同志か主君と臣下の間で詠まれています。同性愛は戦士軍人の間で多いのです。ですから万葉が同性愛をよく詠むということは万葉が古来の戦士の感情をよく保持していることを意味します。戦士とは厳密な意味で同胞です。大伴氏は古代の軍事氏族です。家持の有名な、海行かば、の長歌も見方によっては家持の聖武天皇への恋歌とも取ることができます。戦う同胞とは完全に平等な友人です。万葉に同性愛の歌が多いということは、戦う友人としての戦士、ですから兵士一般さらに庶民にまで歌人の感情が及ぶことを意味します。そして兵士庶民も歌を詠むことになります。
 万葉集のもう一つの特徴は、この歌集が大伴氏の私歌集であるとともに、衰退する古代の名族大伴氏の挽歌という性格を持つことです。軍事氏族大友氏は律令制の整備と併行して衰退してゆきます。万葉集で最後の歌は759年家持が因幡守の時新年を寿ぐ歌が最後です。以後20有余年この有名な歌人は一首も詠んでいません。759年とは大伴古麻呂達が反逆罪で処刑された年の直後です。大伴氏の多くが処罰され家持にも嫌疑がかけられました。家持は780年代初頭に死にますが、死後陰謀加担の容疑で地位を剥奪されています。大伴家持という人物は秀逸な歌人であると同時にしたたかな陰謀家(反藤原氏)でもあったようです。ですから家持編集の万葉集にはどうしても敗者への同情ひいては下層階級への共感が伴います。成功した貴族として上からの目線だけで見るという態度は希薄になります。
 膨大な歌の数、女流歌人の活躍、階層縦断的な歌人の存在、官民共同の制作、歌材の豊富さ、性愛の直截な表出、同性愛を主題とした歌が多いこと、大伴氏の挽歌という性格、などなどの特徴は、万葉集が極めて(他国には例が無いという意味で)大衆的庶民的な文学である事を意味しています。また万葉集がその表記法に仮名(万葉仮名という特殊なものですが)を採用しているという事は、女性、庶民も歌作詩作に容易に参加できるという事を意味します。換言すれば当時としても日本人の識字率は非常に高かったのではないかと想像されます。識字率の高さは民度のつまり生活程度の高さ、更に国民間の平等性を推定させます。ともかく天皇の命令で創られた国民文学に一般大衆が自ら名を連ねて、編集に参加する投稿するような事例は他の国にはないのです。公式の漢字伝来から万葉仮名まで約300年かかっています。この間に日本人は自らの文学を自らの文字で書く事を可能にしました。万葉集の編纂終了後約一世紀たって、現在我々が使っている仮名で書かれた物語や歌集が出現します。
 私は万葉集をべた褒めしましたが、多くの研究者は、日本には長詩英雄詩がない、それだけ小ぶりだと卑下したものの見方をしています。日本にも長詩英雄詩はあります。平家物語や太平記は英雄詩長詩ではないでしょうか。見方によっては源氏物語だって英雄詩とみなせます。他国の英雄詩は民族征服の記録です。日本にはそういう歴史がないので、残酷な英雄が活躍する長詩が無かっただけです。また和歌という短詩は短い分簡単に詠めるという特性をもちます。加えてその表記はイロハという50前後の文字で可能です。口語で表現することもできるのです。という事は万人が詩人になりうることを意味します。この事は日本人の感情表現を容易にし感情交流を円滑なものにし識字率を高め、それによって日本人の思索能力をも高めそして国民間の平等性を従って集団帰属性を強化することを結果します。後年和歌から連歌がそして俳諧俳句が出現しますが、この事も同様の意味を持ちます。江戸時代の天保年間江戸で俳句が懸賞つきで募集されました。10万句集まりました。当時の欧米諸国ではこんなことは不可能でした。


日本人のための政治思想(3) 歴史としての神話

2014-06-04 14:31:29 | Weblog
(3)歴史としての神話
 日本の歴史は非常に実証主義的に考えますと、縄文、弥生、古墳の時代、卑弥呼そして巻向遺跡を経て崇神天皇あたりから文字で書かれた歴史になります。それはそれでいいのですがこのような試みでは日本民族の心情、倫理、より広く思想は解りません。古来の倫理や思想は神話の中にのみ存在します。この点ではどの文明も変わりません。どの文明も固有の神話を持ち、そこに自分達の心情倫理を反映し表現しています。こういう観点から日本の神話を読んで見ましょう。古事記と日本書紀を参考として、日本の神話が内包する意味を考えて見ましょう。標的を最も重要な神話、日本国開闢から神武天皇即位までにしぼります。まずこの部分の大筋を述べます。
 日本という国土はイザナギノミコトとイザナミノミコトの兄妹相姦から生まれました。大和大八嶋と言います。二人のミコトの間に生まれた姉のアマテラスオオミカミと弟のスサノオノミコトが共同で国を統治する事になります。この共同統治はうまく行かず、スサノオは冥界へ追放されます。この事件の間アマテラス(以下略称にします)は岩屋の中に隠れます。アマテラスは太陽神です。太陽が隠れたので世の中は真っ暗になります。困った諸神達は協議して火を焚いて岩屋の前を明るくし、アメノウズメノミコトの裸踊りで哄笑してアマテラスを騙しておびき出します。アマテラスとスサノオの間にできた子供のそのまた子供であるニニギノミコトを総帥として多くの神々が地上に降臨します。降り立った地は日向の国、今の宮崎県です。ニニギはその土地で山の神の娘コノハナヤサクヤヒメと結ばれます。この時一夜で妊娠したことでニニギに貞操を疑われたサクヤヒメは火に中に飛び込んで分娩します。生まれた子供が海幸彦と山幸彦の兄弟です。兄弟間に争いがあり、海の神を味方として神の娘であるトヨタマヒメを娶った山幸彦が勝利します。ここでも分娩に際して騒動が持ち上がります。分娩の光景を見てくれるなというトヨタマヒメとの約束に疑問を抱いた山幸彦は産場を覗きます。そこで見たものは大鰐鮫がのたうって子供を産んでいる情景でした。約束を破られたトヨタマヒメは子供を残して海に帰ります。この子供の子が初代天皇である神武天皇です。
 この神話で重要な点は三つです。アマテラスとスサノオの姉弟相姦による統治の破綻が第一点です。近親相姦では統治は破綻する事が意味されています。第二点はニニギとサクヤヒミの結婚です。ここでサクヤヒメの貞操が疑われ、火の試練で貞操が証明されます。同時に陸地はニニギの版図になります。第三点は山幸彦とトヨタマヒメの結婚です。ここでも姫の貞操が疑われています。子供をおいて水の中に帰ることにより、姫は山幸彦に抗議し、それでもっておのれの貞操の証しとします。水の試練です。併行して山幸彦は海を版図に入れることができました。
 この三つの挿話を一括して考察すると次のようなことが判明になります。近親相姦を前提とする統治は失敗することと、火と水による二つの試練でもって貞潔な婚姻が確証されて始めて統治が進展することです。古事記神代編の国家開闢と天孫降臨の神話が意味し意図するところは、統治能力と婚姻秩序は併行して確立されるということです。
 国家形成という民族の最も重要な事件に対して、このように明白に政治秩序と婚姻秩序の相関関係の意義を明記した従って重視した神話を私は他に知りません。ギリシャ神話、北欧神話、シナの神話などはどれも面白いものですが、国作りはすべて暴力で為され、婚姻秩序に触れた物はありません。政治秩序と婚姻秩序の明記重視が日本神話の最大の特質です。換言すれば日本人は婚姻秩序を重視した貞潔な民族であります。また政治秩序の重要な一環あるいわ基盤として婚姻秩序を政治行為の前面に出すということは、日本人は性に対して寛容である事を意味します。性に対して貞潔であり寛容であることは、日本人は基本的に暴力を嫌い、凝集性の強い集団を形成する民族である事を意味します。
 貞潔であり性に対して寛容であることは、日本人が相対的に女性に対して優しい、女性を大事にする民族であることに連なります。日本はその心情の深層においてはかかあ天下の国です。主要先進国の中で日本の女性が一番幸せであると思います。論旨が混乱するので論証はしません。日本が女でもっている国である事を一番端的に示すのは、最高神がアマテラスオオミカミという女性の太陽神であることです。他の国では最高神あるいは太陽神はすべて男性です。最高神が女性というのは日本だけでしょう。特異な例です。日本開闢にはもう一人の女神が活躍します。裸踊りのアメノウズメです。アマテラスとアメノウズメという二人の女神の活躍で日本の世は開かれました。サクヤヒメにしろトヨタマヒメにしろ男性であるニニギや山幸彦に比べて派手に活躍しています。女性尊重、女性の活躍は実証的には卑弥呼の存在にまで遡れます。日本史で始めて登場する固有名詞は卑弥呼なのです。女性優位(他国に比し)は後世まで続きます。日本の古代には女帝が多いのです。万葉集には多くの女流歌人が名歌を詠んでいます。また日本の後宮は常に隠然とした実力を持っていました。であって日本の後宮では血なまぐさい事件は皆無です。平安時代には女房といわれる階層が政治力を発揮します。同時に彼らは日本文学の創始者でした。我々が現在使っている仮名は始め女文字と呼ばれました。
 アメノウズメの裸踊りで世が開けるとお話の含意するところは非常に大きいのです。アマテラスは岩屋の中から出てきます。アメノウズメが乳房と性器を露出させる演出によってアマテラスが岩屋から出てくるとは、端的に出産分娩の場面そのものです。象徴とすらいえないくらいに露骨です。また他の男神達がアメノウズメの裸踊りを見て哄笑する事は性交の暗示です。国づくりは国産みと言われますが、これほどはっきりと世界開闢を性的映像で描いた神話は他にありません。こう考えてくるとサクヤヒメやトヨタマヒメの主要場面が分娩であることも同じ意味をもつことになります。日本人は性に寛容であり女性に優しい民族である証しです。
 古事記と日本書紀に記載されている神話は作者あるいは編纂者の創作かも知れません。しかしこういう作品を作るとき完全な創作などできません。どこかに事実という基盤があるから創作可能なのです。仮に100%創作だとしても、極めて優秀な創作です。また編纂者が創作したとしても、彼らの意識や周囲の社会に同じ心情があったからそういう創作が可能になるのです。