経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

「天皇制の擁護」

2009-04-29 00:43:42 | Weblog

こんな本を書きました。 御披見下されば幸甚です。  

 「天皇制の擁護 」  
 
中本征利著  幻冬舎出版  平成20年9月発行  定価2100円 

目次
  記紀、源氏物語、愚管抄
  親鸞と日蓮
  徳川合理主義
  天皇は文化の守護者
  王家の系譜
  古代ギリシャ
  ユダヤの神
  パウロとアウグスティヌス
  アングロ・サクソン その一  政治
  アングロ・サクソン そのニ  思想
  統治
  君主 
 
朝日・毎日・読売・日経・中日・東京・北海道・西日本・京都新聞に広告掲載

中本精神分析クリニーク
兵庫県尼崎市東園田町8-110-16
電話 06-6491-1416
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Blog「精神分析学講座」
    http://ameblo.jp/seishinbunsekigakukoza/
 Blog「経済(学)あれこれ」
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 Blog「精神療法を受ける人のために」
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 HP「中本精神分析クリニ-ク」
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「宇多天皇」補遺、道真と時平

2009-04-27 01:51:07 | Weblog
     「宇多天皇」補遺---道真と時平

 宇多天皇の御世、政治を領導したのはこの二人、菅原道真と藤原時平です。菅原家は儒林(儒者の家系)です。父親は是善といい参議でした。道真は11歳で漢詩を作ったと言われるほどの秀才(神童?)でした。兵部・民部・式部等の少輔(次官)を務め、文章博士になります。この役職は儒者としては最も名誉な官職でした。そして讃岐守に転出し、そこで地方政治の実態を経験します。先に述べた阿衡事件では上奏して橘広相を弁護します。これが宇多天皇の目にとまり、基経なき後は天皇の寵臣になります。官位は参議、大納言と登り、宇多天皇退位に際しては、幼帝醍醐天皇を藤原時平とともに内覧するよう、命ぜられ、やがて右大臣に任命されます。

 日本史上、学者で左右の大臣に任命されたのは道真と吉備真備だけです。道真が右大臣に任命されると、儒者の反感は高まりました。そもそも橘広相の事件自体が、学者間の嫉妬の産物でした。三善清行などはわざわざ道真に大臣を辞職するように文書で勧告しています。これも善意から出たのかどうか怪しいものです。また道真の家は代々家塾を経営しており、学者の世界の大ボスでもありました。当然藤原氏に属する貴族たちはよく思いません。こうして道真は孤立します。道真に対する反感が強まるのを見て、藤原時平は宮廷内クーデタを敢行します。道真は大宰府に左遷されやがて死去します。

 日本史上で憎まれ役と言いますとだいたい決まっています。蘇我入鹿、梶原景時、高師直、石田光成、柳沢吉保などが代表ですが、藤原時平もその内に加えなければなりません。そしてこれらの憎まれ役の能力はまた絶品、時平も同様です。彼は藤原基経の長男、藤原北家の正嫡として生まれました。時平が28歳で左大臣になった時、右大臣道真は57歳でした。左右に大臣として並び立ち、内覧という事実上の大権を分有するのみでなく、彼ら二人はその政治的立場においても対立する存在でした。道真が宇多天皇に登用されたのは、阿衡事件で煮え湯を飲まされた、天皇が基経なき後の藤原北家の台頭を阻止するためでした。宇多天皇はそのために、道真のみならず有能な実務官吏を登用し、また賜姓源氏も重用されました。逆に時平の立場は父基経の後をついで、北家の政治的ポジションを確立し、後に摂関家といわれる、家を建てることにありました。二人が対立するのは当然でした。さらに道真も時平も宇多天皇の後宮に娘を入れており、この事が醍醐天皇の即位に微妙な影を落としていた事も事実です。

 道真と時平、と対立するように書きましたが、二人の政治的姿勢はそう変わりません。宇多天皇の御代を寛平の治、醍醐天皇の治世を延喜の治といいます。二つの時代は連続しています。有名なのは後者の方です。そして延喜の治を領導したのが藤原時平でした。延喜の治を代表するものが延喜格式の編纂と口分田の復活です。口分田は公権力である朝廷が人民に、生活維持の財として与える農地です。長くこの律令制の骨幹を為す、作業は行われず、地方の農村は有力者の占有に任されていました。延喜の治ではこの弛緩した綱紀を引き締め、律令制の原点に戻ろうとします。その為の法律の整備が格式編纂です。格は律令の補足と解釈、式は律令では不備な点の法整備です。延喜の治以後口分田の班給は施行されなくなります。その点でも宇多・醍醐天皇の御代は時代の変わり目でした。
醍醐天皇と時平の政治姿勢を示す逸話があります。廷臣の衣装が華美になりました。それを案じた時平が天皇と相談して一計設けます。時平がある日わざと特別に豪華な衣服で参内します。それを伺っていた天皇が、時平との面会を拒絶されます。時平はほうほうの体で家に帰ります。以後暫くは廷臣達の服装は質素になりました。

 時平に関しては多くの逸話があります。道真は法案を施行しようにも時平の許認が要ります。格は左大臣の方が上ですから、どうしてもご機嫌を伺う形になります。道真はある下僚の入れ智恵で、時平の前でわざとおならをします。時平には笑い出したらとまらない、という性向がありました。この計略でその時の法案の審議と施行はすべて道真に任されました。

 後の話になりますが、道真の怨霊といわれた、雷が時平の屋敷に鳴り響きます。時に時平は病に臥していました。多くの家人が怨霊に恐怖する中、時平は太刀を抜いて、「生前でも私は君の上座だった、死後でも私には遠慮したまえ」と言ったということです。

 偶然なのでしょうが、時平の家系は短命でした。時平自身が道真の死後6年して、39歳で亡くなります。彼の妹が産んだ皇太子保明親王も夭折します。親王の子も亡くなります。時平の長男も短命でした。道真失脚に手を貸した二人の公卿も前後して死去します。時平の家系は三代にして中央貴族の中には見出せなくなりました。こういう事実は当時の人の心境では、道真の祟り、死霊、怨霊のせいと解釈されます。道真の怨霊に、所を得ぬ文人、出世競争に失脚した多くの貴族、そして日本で始めての都市生活につき物の伝染病への恐怖などが重なります。さらに当時の新興宗教の宣伝興隆とも重なります。為政者としてはこの事が一番恐ろしいことでもあります。

 醍醐天皇も道真の怨霊には脅えておられたようです。930年、都の西北愛宕山の上の方に雷雲がかかり、やがて清涼殿に落雷します。廷臣3名が死傷します。醍醐天皇にはショックでした。ある文書によりますと真夜中に庭で道真に詫びられる天皇の姿が見られたそうです。3ヵ月後天皇は崩御されます。2年後道賢という法師が、金峯山で修行中地獄へ行き、そこで責め苦にあう醍醐天皇の姿を見た、と報告します。この間朝廷は道真左遷を取り消し、元の右大臣に戻します。暫くして、ある女性に道真の霊が乗り移り、我が怨霊を取り静めよ、と叫びます。天に口なし、人をして語らしむ、です。こうして都の西北北野の地に道真を祭る施設ができました。真っ先に北野天満宮を信仰したのは貴族たちでした。北野天満宮建立の由来です。菅原道真は神になりました。今では怨霊を卒業して、全国の受験生の守護神になっています。ちなみに天満宮は京都だけではありません。配流の地である大宰府にも天満宮があります。ここの梅が枝餅は美味です。また大阪梅田の近辺だけで3箇所の天満宮があります。東京で有名な神田の大明神は道真に由来します。全国にはもっともっとあるのでしょう。ともかく道真の恐れられ方は尋常ではありませんでした。

 私は時平の家系は短命は偶然なのだろうと、言いました。必ずしも偶然ではないかもしれません。以前西欧中世の逸話として聖堂騎士団壊滅事件を取り上げました。迫害者であるフィリップ4世の家系もすべて短命で、王朝の交代に至りました。怨霊が実体とし存在するか否かはともかく、怨霊は実際に機能します。恨まれているという実感だけでたいていの人は参ってしまいます。犠牲者のみならず同情し同調する世論も増幅装置になります。フィリップと時平では残酷さの次元が違いますが、後ろめたさという点では変わりません。

 道真の家系は以後も儒者の家として存続します。存続どころか、管江二氏と言い、大江氏と並んで、長くわが国の読書人を教育する本家として栄えました。道真の数代後に、平安女流文学の一翼を担う才媛が現れます。「蜻蛉日記」の作者です。本名は解りません。通常は菅原孝標(父親)の女(むすめ)と表記されます。源氏物語の世界に憧れて、東路の果てから都に出て来た彼女は多くの物語を作ったと言われております。

 菅原道真は文学史でもかかせない人物です。日本の漢学者でトップは空海と彼でしょう。しかし漢詩は所詮は外国の物まねです。道真は「新撰万葉集」を編纂したと言われています。万葉仮名と漢文の並立表記ですが、新鮮万葉集は古今集の先駆的形態です。

天皇ご紹介 光孝天皇と宇多天皇

2009-04-25 01:00:55 | Weblog

    光孝天皇と宇多天皇

 光孝天皇の即位は特別、いや異常な事態の結果でした。先代の陽成天皇と光孝天皇との関係は遠縁の親戚筋というくらいの関係です。次の系図を見て下さい。(-)で親子関係を示し、兄弟は並列してあります。

 嵯峨天皇-仁明天皇-文徳天皇-清和天皇-(57代)陽成天皇-
      (58代)光孝天皇-宇多天皇-醍醐天皇-朱雀天皇
                          村上天皇-(現在の皇室へ)

陽成天皇と光孝天皇の間は、数え方にもよりますが、5代離れています。欧米なら別の王朝に数えられたかもしれません。

 文徳・清和・陽成天皇3代の間に、藤原良房とその子(甥、養子)基経は天皇家の外戚としての地位を固めました。初期摂関政治と言います。しかし陽成天皇は問題の方でした。宮中で殺人事件が持ち上がります。天皇が側近を殺害されます。それも一度ではないようです。正史ある三代実録の記載は微妙です。陽成天皇記の最後のところで、事件の存在をほのめかしながら、天皇はひそかに宮中を出て他所に移られ、そこを基経がこれもひそかに訪問します。結果は天皇の退位となっています。実際は基経が天皇に引導を渡したのでしょう。陽成天皇は8歳即位、16歳退位、以後81歳で崩御されます。わが国の宮中は死を嫌い、穢れとします。天皇は神ですから、不死であるべき神が、死あるいわそれを暗示する血と近い事は、禁忌なのです。薬子の変以後、現在に至るまで、宮中で流血事件があった事はありません。例外的な外部からの侵入者の場合は別ですが。

 天皇は基経にとって妹高子の子ですが、政権を預かる彼としては、天皇廃位のやむなきにいたります。では誰が新しい天皇になるのか?基経は思案の末に陽成天皇から3代遡る仁明天皇の皇子、時康親王に白羽の矢を立てます。光孝天皇、即位884年、崩御887年です。
  
   君がため春の野にいでて若菜つむ、わがころも手に雪はふりつつ

は小倉百人一首にも収録されている、天皇御製の和歌です。お人柄が偲ばれます。

 事の成り行きから、政治はすべて関白藤原基経に任せられました。後継者に関しての希望を天皇ははっきりおっしゃらなかったのですが、基経の推測により、当時すでに臣籍にあった源定省(さだみ)を急遽皇太子とし、すぐ即位してもらいます。この方が59代の宇多天皇です。

 宇多天皇の御世になっても実力者は基経ですから、天皇も遠慮されます。「阿衡事件」が持ち上がります。天皇は自分を即位させてくれた基経に、感謝の意をこめ「阿衡」という称号を贈られます。この称号は古代中国の文献を典拠としたものですが、一部の学者から疑問が出ます。阿衡は単なる名誉職であって実権はないと。基経は怒って出仕を拒みます。サボタ-ジュです。宇多天皇は基経に、関(あずかり)白(もうす)という職務、関白の称号を与えて、彼の執政に任されます。関白職の始まりです。この事は天皇にとって相当答えられたようで、日記にも記されています。

 光孝・宇多両朝は時代の変わり目です。日本書紀を筆頭とする六国史の最終編、三代実録は光孝天皇の代で記述をやめます。国家が編纂する正史はここで終わります。代って日記が現れます。宇多天皇も藤原時平もせっせと日記をつけました。この時代から年中行事が盛んになります。基経は宮中に年中行事の屏風を持ち込みました。そこには約80の年中行事が書かれています。もれなくこれらの行事を務めるようにというわけです。例えば正月の四方拝、朝賀、白馬節会、3月は上巳祓、5月は端午の節句、7月七夕と盂蘭盆会、9月重陽、11月豊明節会、12月仏名会などです。年中行事が宮中の主要な作業になったということは、それだけ政治が儀礼化しパタ-ン化したということです。だから貴族はこれらの行事で恥をかかないようにと、日記をつけました。代々ちゃんと日記をつけそれを所有している家が、名誉と権勢を保証されます。この種の日記は宇多天皇ご自身に始まります。

 宇多天皇の時、後院領が整備されます。後院領は天皇家自身の(私有?)財産です。荘園制度の発展と平行します。換言すれば天皇個人の(国家の枠組から離れた)家という制度が出来始めた事になります。家という制度はこうして権力の頂点から始まり、公卿、武士、一般農民の階層にも広がります。武家が家制度を確立するのは鎌倉時代、農民のそれは江戸時代に入ってからです。

 院政の開始を宇多天皇の御世に置いてもかまわないかも知れません。摂関政治の全盛期をはさんで約200年後、後三条天皇の時から院政は本格的になります。その嚆矢は宇多天皇の御世にあります。院政とは皇室の家長である上皇(法皇)が家領の資産を使って、同時に既存の律令制をも利用しつつ、行う政治体制です。

 目の上のこぶであった藤原基経はやがて死去します。天皇親政が始まります。この時学者出身の菅原道真が登用されます。彼は基経の長男時平と並んで政治を行います。宇多天皇ご自身は結構享楽的な方のようでした。天皇の職務を務めるのに疲れられたのか、即位後10年して退位されます。後継者が醍醐天皇です。しばらくして宮廷内ク-デタ-が起こります。右大臣菅原道真が追放され大宰府へ左遷されます。この事件にはいろいろ背景があるようですが、触れないでおきましょう。

 宇多天皇は退位後30年間生きられますが、人生を楽しまれました。漢詩に代り和歌が盛んになります。歌合せが行われます。歌合せとは、東西に歌人が分かれて和歌の出来具合を競うコンク-ルです。女性歌人も活躍しました。歌合せの最初が宇多天皇の時の、100番歌合せです。歌合せは年々盛んになり天皇の孫に当たられる村上天皇以後は全盛期になります。古今和歌集の編纂も同様の動きの中にあります。和歌は、神事であり、文学であり、自己表現であり、社交儀礼でもあります。歌合せというイヴェントの盛行が、日本の文学に与えた影響は甚大です。

 宇多天皇は退位後、仁和寺に入られ出家されました。以後このお寺は代々法親王(僧侶の親王)が寺主になる慣習が出来上がります。門跡寺院の第一号です。代表的な門跡寺院は他に醍醐寺三宝院、青蓮院、勧修寺、泉湧寺などがあります。寺院は荘園領主です。門跡寺院は後院領と同じ意味を持ちます。

 宇多天皇にまつわる逸話を二つ上げましょう。紫式部の直系の先祖に良門という人がいます。彼は若くして低い官位のままなくなりました。彼の子供高藤がある日宇治に遊びに出かけます。日が暮れたので、郡司の家に宿を乞います。郡司の娘と一夜の契りをします。数年後高藤がこの家を訪問すると、幼い少女が庭で遊んでいます。彼が聞くと、かって契った娘の子である、とのこと、名は胤子です。若年の宇多天皇は臣下の身でした。天皇はこの胤子と結ばれます。そして青天の霹靂のような即位。天皇と胤子の間の子供が次代の醍醐天皇です。こうして高藤は外戚になりました。普通良門のような地位の低い家系は没落するのですが、こういう例外もあります。高藤の家系は紫式部の夫宣孝の、従って式部の娘大弐三位の家系になります。また式部の家と宣孝の家は代々通婚していました。こうして良門・高藤の家系は明治維新まで残ることになりました。勧修寺家と言います。勧修寺は醍醐天皇が母胤子のために創られたお寺です。

 宇多天皇は元臣下でした。即位されて都の中を行幸された時、それを陽成上皇が見ておられ、当今(とうぎん、現在の天皇)は家人ならずや、と言われたそうです。上皇の胸の内は複雑であったでしょう。

天皇ご紹介---花山天皇

2009-04-22 00:47:51 | Weblog
   花山天皇

 花山(かざん)天皇と申し上げます。65代天皇、冷泉天皇の皇子、イミナは師貞、母は太政大臣藤原伊マサの娘懐子です。在位期間が984年から986年と短いのは、次に述べる事情によります。この時代は摂関政治が確立してゆく時期に当たります。いずれの家系が摂関家になるかで覇を競います。花山事件、また円融朝の安和の変は覇権競争において出現する典型的な事件、宮廷内権力闘争です。
 ここで天皇家と藤原氏の系図を簡単に説明しなければなりません。大化の改新で活躍した鎌足以後藤原氏の主流は次のような系図になります。

鎌足-不比人-房前-真楯-内麻呂-冬嗣-良房-基経-忠平-師輔-兼家-道長-頼道

 忠平の長男実頼の家系を小野宮流、次男師輔のそれを九条流と言います。摂関政治の典型は、自分の娘を天皇の后妃として入れ、生まれた皇子を次代の天皇として即位してもらい、自分は摂政か関白として実権を握る、という図式です。しかし必ずしも理想どおりには行きません。花山天皇の時の関白頼忠は小野宮流に属し、天皇と特に密な関係にはありません。天皇の母后懐子の父親であり師輔の長男である伊マサは夭折し、懐子の兄の義懐(よしかね)が天皇の叔父として外戚の地位を占めていました。義懐はまだ若く官位は中納言でした。ですからこの王朝は摂関政治としては不十分な制度になります。以下のような系図になります。「-」で親子関係を結び、兄弟関係は並列で示しています。

光孝-宇多-醍醐-村上-冷泉-花山ー三条
                 
            円融-一条-後一条 
                  後朱雀-後冷泉
                      後三条-白河(院政へ)

忠平 - 実頼 - 頼忠
師輔 - 伊マサ -義懐
     懐子
兼家 - 道隆 - 伊周
     道兼   隆家
     道長 - 頼道-(以下摂関家)-

 花山天皇の即位を歓迎できなかったのが兼家です。彼は先代の円融天皇に娘の詮子を配し、詮子はすでに懐仁親王(後の一条天皇)を産んでいました。兼家はすでに50歳台の半ばに達し、是が非でも自分の息のあるうちに懐仁親王を天皇にと企てます。花山天皇はヨシ子という女御を寵愛しておられました。女御が死去します。天皇にも女御の死には責任があります。妊娠して体調不良の女御を無理に宮廷にこさせて寵愛を重ねられたのですから。寵愛していた女御の死去で天皇は取り乱されます。天皇のこの心情を兼家は狙います。上手く口説いて天皇を出家させようと。兼家の次男道兼は天皇のおさななじみでした。道兼はこう言います。「そんなにお嘆きなら、いっそ出家されたらいかがでしょうか 私もお供します」と。

 花山天皇は、この方はかなり軽率な人物でした、この企てに乗られます。ある夜、側近の義懐達がいないのを見計らって、道兼は天皇を東山の花山寺に連れ出し、髪を剃ってしまいます。天皇が寺へ連れ出される道中、摂関家の武力になりつつあった清和源氏嫡流の源満仲の家来が見えないように護衛していました。天皇が出家される直前道兼は、父親に一目出家する前の姿を見せてやりたいので、と言って姿をくらませます。義懐達が天皇の所在を探し当てた時は、すでに天皇は僧形になっておられました。道兼は帰ってきません。だまされたと知った天皇は憤慨されますが、万事休すです。義懐達もいさぎよく出家します。兼家は警護の武士に、もし道兼が無理に出家させられそうになったら、武力を使ってもいいから道兼を連れ出せと、言い含められていました。
 
 これが花山事件の顛末です。天皇に同情する気にはほとんどなりません。また兼家を非難する気にもなりません。悲劇やら喜劇やら、権力闘争にはちがいありませんが、誰かが処刑されたり配流されるわけでもなく、いかにものんびりした日本的といいますか、王朝的といいますか、そういう状況を象徴する事件です。
 
 花山天皇が、今はすでに法皇なのですが、ヨシ子女御の菩提を弔って清浄な生活を送られたかと言えば、むしろ反対です。以後の法皇の生活はかなり享楽的であったようで次代の一条天皇の御代に、花山法皇への出費が削られています。
 
 花山天皇は愛情問題で、もう一度、政治に深刻な影響を与えられています。出家されて約10年後、政権は一条天皇の代に兼家から道隆に、そして道長へと推移します。道隆の長男伊周(これちか)と道長の争いの時、伊周の弟隆家と法皇の間で妙な恋争いが勃発します。藤原為光という人に二人の姉妹がいました。姉の方に花山法皇が、妹の方に隆家が通います。双方恋敵と誤認します。隆家はかなり乱暴なところがありますから、法皇の車と知って矢を射かけます。矢は法皇の警護の者を倒します。本来なら大逆罪です。一条天皇は激怒され、兄の伊周と隆家は配流されます。権力闘争に際しかかる軽率な行為をするのにはびっくりしますが、こうして摂関政治の実権は道長の方に傾きます。花山法皇はすでに政治的な存在ではありませんでしたが、結果として大きな影響を与えたことになります。いずれも天皇(法皇)の愛人問題に端を発し、結果は権力の推移の方向を決定しました。

 花山天皇の父冷泉天皇は精神病であられたようです。その血統のせいか、花山天皇にも軽滑なところはありました。紫式部の父、藤原為時は花山朝で式部丞・蔵人の地位につきます。式部丞は式部省の三等官でそう高い地位ではありませんが、人事担当の部局で、律令制が形骸化した当時にあっても稀な実質的ポジションでした。また人事担当ですから文書発給の機会が多く、漢学の素養を必要とします。ですから学者がこの地位につくことが多かったのです。菅原道真が有名です。為時はこの地位につけた事を終生誇りとします。さらに蔵人(くろうど)は天皇側近として秘事に預かります。人事担当の側近といえば実質的には相当な力を持ちます。為時の将来への期待は大きいものでした。しかし花山事件ですべては霧消します。逆に先代中枢にいた臣僚は疑われ遠ざけられます。為時は逼塞した生活を強いられます。この当時紫式部は16歳(推定)、今なら成人です。彼女はこの事件の顛末をリアルタイムで経験したはずです。源氏物語の執筆に影響を与えないはずがありません。

 花山天皇、968年生誕、1008年崩御、在位2年、享年40歳、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠)葬られておられます。
 
(同時代の世界の君主)

 花山天皇の同時代の世界の君主は誰でしょうか?天皇の在位(984-986)当時、イギリスには現在の意味での統一王国は存在しません。ウィリアム1世のノルマン征服によるイングランド統一は80年後です。10世紀後半はアングロ・サクソンとデーン人の間で抗争していました。アングロサクソンの諸王国は7-8世紀に7王国に整理されます。やがてデ-ン人(現在のデンマルク当たりに住むノルマン人)が侵攻してきます。9世紀後半には7王国のひとつであるウェセックス王国(イングランド南西部)にアルフレッド大王が現れデ-ン人をなんとか撃退します。こうしてイギリスは少しづつ統一へ向かいます。花山天皇の同時代にはアルフレッド王の4世代の子孫に当たるエゼルレッド2世がウェセックス王として統治していました。もっともデ-ン人の侵攻は続き、イギリスは征服と反撃の繰り返しの中にあり、戦禍は夥しいものでした。エゼルレッド2世の時デーン人との和議が一応成立したらしく、アングロ・サクソンのウェセックス王家とデ-ン人の王家の間で婚約が成立しています。

 フランスではカロリング王家の血統が絶え、加えてノルマン人の侵攻で国内はばらばらでした。この時セ-ヌ川のシテ島(ile-de-cite)に立てこもり住民を指揮してノルマン人を撃退したのがユ-グ・カペ-です。功績により彼は豪族や農民たちから王に推戴されます。ユ-グ・カペ-の即位は987年、以後この子孫は度々王朝名を変えつつ、1894年ルイ16世が処刑されるまで、存続します。

 ドイツでもカロリング王家の血統は断絶します。やはりノルマン人やマジャ-ル人を撃退して声望を得た、ザクセンの大豪族ハインリッヒ1世が10世紀前半にドイツ王の地位につき、彼の子供オット-1世が神聖ロ-マ皇帝として法王により加冠されます。花山天皇と同時代の皇帝(同時にドイツ王)は1世の子供であるオット-2世です。

 ロシアの最初の王国は土着のスラヴ人の中に侵入したノルマン人であるリュ-リクによりキエフ大公国として出現します。彼の3世代後の子孫ウラディミ-ル1世の時、この君主がキリスト教を国教として採用し、国の基礎を作ったと いわれています。彼ウラディミ-ル1世が天皇と同時代の君主です。

 イギリスとロシアには統一王国はなく、ドイツとフランスにはやっとそれができた、花山天皇の時代の欧州はそんな状況でした。

 中国は960年、五代の戦乱に終止符を打ち、宋王朝が成立します。創始者は趙匡胤、太祖です。この君主は中国の皇帝には珍しく、人を殺さない皇帝でした。自身は武人ですが、武断主義の弊害をよく認識していて、臣下が政治的発言で処刑されないようにという遺言を残します。この遺言はよく護られました。また同僚であった武将達には多くの財貨を与えて政権の中枢から遠ざけます。文治主義は弟の太宗趙匡義により受け継がれます。科挙制度が確立し、この試験に合格した文人が官僚として政治の実権を握ります。司馬光と王安石がその代表でしょう。こうして宋学・宋文を初めとして理知的な文化が栄えます。反面戦には弱く、いつも北方の騎馬民族の襲来に悩まされます。もっとも国が安定しているので、盛んな経済が生み出す財貨を騎馬民族に提供して、バランスを取っていました。今風に言えば国際間の所得移転です。私が中国史の中で一番落ち着いて見れるのがこの時代です。

 イスラム世界では繁栄を誇ったアッバ-ス朝のハルン・アル・ラシッド王の治世はすでに遠の昔になり、10世紀初頭、エジプトにファーティマ朝が成立します。946年ブアイフ朝がイランからバクダードに入り、カリフは形式的存在になります。そしてセルジュック朝が取って代わり、イスラム世界は混迷を深めてゆきます。

法然と式子内親王---「後鳥羽天皇」補遺

2009-04-20 03:08:37 | Weblog
  法然と式子内親王

 後鳥羽上皇に縁のある人物としてこの両名をあげました。式子内親王と上皇との関係は順縁です。内親王は後白河法皇の皇女で上皇の叔母にあたります。のみならず二人は定家・家隆・慈円・西行などと並ぶ新古今和歌集の代表的歌人です。対して法然と上皇の仲は逆縁です。逆縁もいいところで、法然は上皇により宗教上の弾圧を蒙りました。そして上皇と順逆の縁に連なるこの御両名が深い関係にあるかも知れないのです。深い関係とは恋情です。かといって二人の間に何か実際的な関係があったわけではありません。言える事は式子内親王が法然の説教の座に連なったであろうということだけです。後に述べますが彼女の和歌は艶麗そのものです。

 法然は1133年、現在の岡山県久米町に生まれました。父親は武士・地方豪族です。9歳、父親は豪族同士の争いで殺されます。最期に望んで父親は法然に報復を戒めたと伝えられています。母親も前後して死去。法然は近くの寺に預けられますが、法然の利発さに驚いた僧が、彼を比叡山延暦寺に送り、勉強させます。(法然13歳)15歳で得度し、西塔黒谷の別所の指導者叡空のもとで念仏者としての修行をします。やがて奈良に遊学しそこで彼の理論的指南となる唐の善導の書に接します。ただし善導と法然の間には500年の時間差があります。やがて1175年東山大谷に入り、専修念仏を宣言します。1198年「選択本願念仏集」を著します。この本の出版は既成寺院の反発を呼び起こし、また弟子たちの不祥事も加わり、1207年法然は土佐へ流罪となります。周囲の嘆願もあったのでしょう、彼の年齢も考慮されて、実際は讃岐国まで行き、やがて赦免されます。1212年没、享年80。

 法然の思想の歴史的意義に簡単に触れておきましょう。かれは「専修念仏」を唱導しました。この思想は極めて過激な思想です。「専修念仏」とは、南無阿弥陀仏と唱えてさえいればいい、それで極楽に往生できる、信じるも信じないもない、ただ唱えるだけでいいのだ、という考えです。叡山・南都の法師たちが憤激するのも解ります。
法然はその論拠を唐の善導に全面的によります。しかし善導と法然を隔てるものは決定的に大きいのです。法然は信仰における主体性(回向心)を一刀両断に否定しました。これは数学で言えば「0・ゼロ」の発見です。世界史上このような論理を開拓したのは法然が初めてでしょう。同時にこれは鎌倉新仏教あるいは日本仏教の原点になります。凡俗な一般大衆も救済に預かれる可能性が初めて開発されたのですから。

 その意味で法然の宗教家としての意義は甚大です。彼の門下から親鸞が出て、より過激な「悪人正機論」を唱えます。また後年、日蓮は法然を非難し否定して「法華一乗」を唱えます。日蓮の法然批判は猛烈なのですが、この日蓮でさえも法然の影響を深刻に受けているのです。もし法然がいなかったら、親鸞はもちろん日蓮も出現していなかったでしょう。

 難しい理論はこのくらいにしましょう。別の面から法然を捉えれば、彼は当時(平安末から鎌倉初期、1200年前後の数十年間)の社会のピープルスヒ-ロ-でした。当時は動乱の時代でした。律令制が完全に崩壊して、新しい武家政権が生まれようとする時期、人の運命は不安定でした。このような時、法然の「専修念仏」は多くの人の心を捉えます。彼の説教の座に臨んだ有名人は多いのです。関白九条兼実、宜秋門院(後鳥羽上皇の女御、兼実の子女)、熊谷直実と平重衡、後白河法皇、そして式子内親王です。内親王には法然が丁重な書簡を送っています。(典拠、「法然」---吉川弘文館・人物叢書)室の津の遊女と法然との会話も有名です。直実は一の谷で平敦盛を討ち取り、人生の無常に目覚めます。重衡は東大寺大仏殿を焼き、後捉えられて南都の僧に斬られます。彼の後生を約束するのが法然です。そしてここに挙げた人達はなんらかの意味で日本史上での有名人です。彼らはそれぞれ自身の宣伝機関を持っています。平家物語とか玉葉とか新古今集とかの。浄土思想が敷衍したのは、その信仰の鋭利さ簡便さもありますが、発生の原点において法然がこのようなピ-プルスヒ-ロ-であったことも見逃せません。

 法然の生き方には武士出身らしいある種の逆説があります。彼は僧侶俗人を問わず、一切の戒律は信仰に不要と言い切りました。しかし彼自身は生涯不犯です。当時の僧侶にあっても不犯の戒律は護り難く、妻帯者も多かったのです。

 式子内親王は後白河法皇の第三皇女、母は藤原成子(高倉三位)、同母兄弟には高倉宮以仁王他がいます。1153年(推定)出生、6歳で加茂齋院となり16歳で退下、1201年没(推定)とされます。それ以外のことは解りません。平氏全盛の時代にあっては影の薄い皇女であったでしょう。この内親王の事を語るには彼女が作った和歌の鑑賞が一番です。歌人あるいは詩人はその作品で評価されます。いたずらによく解らない生活や内面に立ち入る必要はありますまい。
彼女の和歌を鑑賞する前に当時の内親王が置かれていた地位について一言。内親王は原則として独身を要求されました。と言いますのは内親王と結婚した臣下は血統において天皇家と同格になるからです。藤原北家が摂関家として台頭し、他の氏族に対して超越した地位を獲得できた一つの契機は、藤原良房が桓武天皇の子女潔姫(きよひめ)を配偶者として頂戴した事にもあります。ここから摂関家への道が始まりました。当時皇族の子女は原則として臣下との縁組を禁止されていました。平安中期以後ほとんどの内親王は独身でした。式子内親王も同様です。法然と式子内親王の間に恋があったとすれば、僧侶と内親王、ともに禁断の園に住む両者のかなわぬ恋になります。なお法然と内親王との関係に関しては、石丸晶子著「式子内親王伝-おもかげ人は法然」、を参考にして下さい。

 私なりに二人の関係の現実性に関して考えて見ます。傍証です。浄土教はその演出を情緒的に行います。その種の技法はこの宗派にあってはよく発達していました。法然の教団が弾圧されたきっかけは、彼の弟子である安楽達が後宮の中で六時礼賛をしていたからです。また当時の動乱期にあって貴族の多くも浄土教に救いを求めました。特に女性には人気がありました。なぜなら浄土教では特別に、救済は男女平等でありえたからです。ともかく易行ですから。それまでの教派ではどうしても女性の救済は不利でした。六時礼賛とはざっと以下のようなものと思ってください。阿弥陀如来の像を中心に、灯明を施し、各自花をもってゆっくりと弥陀像の周りを回ります。この間、南無阿弥陀仏とか、弥陀を称え往生を願う文句を一定のリズムと旋律をもって口唱します。実際そういう儀式に参加すればわかりますが、光と色彩と朗誦とゆるやかな運動などが作用し、集団催眠が効いて非常にエロティックな雰囲気がかもし出されます。美男・美声の若い僧侶が演出をし、聴衆が女性だったらどういうことになるかは想像がつきます。法然はそういう集団のボスでもあったのです。この教団の周辺には常にある種のエロティシズムがつきまとっていた、と考えても不合理ではないでしょう。
 
 手元にある新古今和歌集(岩波文庫)から内親王の歌を抜粋しました。だいたい記載できていると思いますが、漏れがあるかも知れません。彼女の和歌はすべて恋歌に聞こえます。事実「忍ぶ恋」を主題とする歌が多いのです。注釈は私なりのものです。

1 山ふかみ春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水 (春上 3)
 (春をまだ知らない深い山 紫の内に住む内親王の心の内でしょうか 松は「待つ」 息も絶えんばかりに崩れるような心情 もうだめとも聞こえます 玉は皇族の証 尊貴な冷たい雪もまさに解けようとしていると 紅と緑と白という配色も霊妙です 絶唱です)

2 ながめつる今日は昔になりぬとも 軒端の梅はわれを忘るな (春上 52)
3 はかなくて過ぎにしかたを数ふれば 花に物思う春ぞ経にける (春下 101)
 (過ぎる・経る、時間の経過は深層心理学的には恋情です)

4 八重にほふ軒端の桜うつろひぬ 風よりさきに問うふ人もがな (春下 137)
5 花は散りその色となくながむれば むなしき空にはるさめぞ降る (春下 149)
6 忘れめやあふひを草にひき結び かりねの野辺の露のあけぼの 〈夏182〉
7 声はして雲路にむせぶほととぎす 涙やそそぐ宵のむらさめ (夏 215)
 (ほととぎすは冥界を意味することが多いのです かなわぬ恋と見るべきでしょうか)

8 ゆふだちの雲もとまらぬ夏に日の かたぶく山にひぐらしの声(夏268)
9 白露のなさけ置きけることの葉や ほのぼの見えし夕顔の花 (夏276)
 (この歌は源氏物語の夕顔巻を思わせます 内親王は夕顔?)

10 うたたねの朝けの袖にかはるなり ならすあふぎの秋の初風 (秋上 309)
  (秋の扇は捨てられた、従って用のない女の意味)

11 ながむればころもですずし ひさかたの天の河原の秋の夕ぐれ(秋上 311)
12 花薄まだ露ふかし穂に出でば ながめじとおもふ秋のさかりを (秋上 349)
13 それながら昔にもあらぬ秋風に いとどながめをしずのおだまき (秋上 368)
14 ながめわびぬ秋より外の宿もがな 野にも山にも月やすむらむ (秋上 380)
15 秋の色はまがきにうとくなりゆけど 手枕馴るるねやの月かげ(秋上 431)
16 跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ 露のそこなる松虫のこえ (秋上 474)
  (松虫は「待つ人」の意)

17 千たびうつ砧のおとに夢さめて 物おもふ袖の露ぞくだくる〈秋下 484〉
18 ふけにけり山の端ちかく月さえて とをちの里に衣打つこえ (秋下 485)
19 桐の葉もふみ分けがたくなりにけり 必ず人を待つとならねど (秋下 534)
20 見るままに冬は来にけり鴨のいる 入江のみぎは薄氷りつつ (冬 638)
21 日数ふる雪げにまさる炭かまの けぶりもさびしおほはらの里 (冬 690)
22 行末は今いく夜とかいわしろの 岡のかや根にまくら結ばむ (き旅 947)
  (万葉集所収の有馬皇子の歌を踏まえているのなら死を暗示する歌です)

23 松が根のをじまが磯のさ夜枕 いたくな濡れそあまの袖かは (き旅 948)
  (この歌、少し淫らな感じもします) 

24 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする (恋 1034)
  (百人一種に乗っている歌 玉の緒は自らの存在 「絶える」は「耐える」と読んでも宜しい 最終5字の「ぞ」は強調、耐える恋の強調です 1の歌とほぼ同意です)

25 忘れてはうち歎かるるゆふべかな われのみ知りて過ぐる月日を (恋 1035)
   (「過ぎる)は時間の経過、恋情の変容形 3の歌と同意」

26 わが恋は知る人もなしせく床の なみだもらすな黄楊の小まくら (恋 1036)
27 しるべせよ跡なきなみに漕ぐ舟の 行方も知らぬ八重のしほ風 (恋 1074) 
   (万葉集所収の沙弥満誓の歌を思わせます)

28 逢ふことを今日まつが枝の手向草 いく世しをるる袖とかは知る (恋 1153)
29 君待つと閨へも入らぬまきの戸に いたくな更けそ山の端の月 (恋 1204)
30 今はただ心の外に聞くものを 知らずがほなる萩のうはかぜ (恋 1309)
31 はかなくぞ知らぬ命を歎きこし わがかね言のかかりける世に (恋 1391)
32 ほととぎすそのかみ山の旅枕 ほのかたらひし空ぞわすれぬ (恋 1484)
 (ほととぎすは冥界の存在あるいは同性愛の対象の比喩として用いられることが多いよ
うです 禁じられた恋と読みましょう 「ほのかたらいし」が独特の陰影を与えます)

33 斧の柄の朽ちし昔は遠けれど ありしにもあらぬ世をもふるかな (恋1670)
34 暁のゆふつげ鳥ぞあはれなる 長きねぶりを思ふまくらに (恋 1810)

天皇ご紹介 - 後鳥羽天皇

2009-04-18 01:25:42 | Weblog
   後鳥羽天皇  

 82代天皇、父を高倉天皇、母を坊門信隆の娘殖子として1180年生誕されます、在位は1183-1198、退位され上皇として、土御門・順徳・仲恭の三天皇の御代に政治の実権を握られ、1221年承久の乱で隠岐に配流、1239年当地で死去されます。この方の歴史的意義は天皇としてより、上皇としての方にあります。

 即位の事情は複雑です。皇統は75代崇徳天皇以後乱れます。院政という独裁的な体制下で摂関家の勢力は後退し、院の近臣という側近層が勢力を持ちます。中宮は必ずしも摂関家の子女とは限られず、閑院系藤原氏や村上源氏などから入内するケ-スが増えてきます。独裁者である院政の主、上皇・法皇(治天の君)に取り入る近臣の意向でだれが次代の天皇になるか決められます。崇徳天皇と父親の鳥羽上皇の仲はうまく行きません。(前者に関する悲劇はまた後に述べるでしょう)鳥羽上皇の命で崇徳天皇は位を異母弟近衛天皇に譲位されます。近衛天皇夭折の後の皇位を巡って保元の乱が起こります。後白河天皇は中継ぎの天皇でした。上皇になられた時、子供の二条天皇と対立します。二条天皇も若くして死去し、彼の子六条天皇が2歳で即位されます。在位2年4歳の時、祖父後白河法皇の意向により退位され、代わって高倉天皇が7歳で擁立されます。高倉天皇の生母は建春門院滋子、彼女は台頭してきた平氏の棟梁平清盛の妻時子の妹に当たります。高倉天皇の即位には当然清盛の意向が強く反映されています。
 
 高倉天皇と清盛の娘建礼門院徳子の子が安徳天皇です。後鳥羽天皇には平氏の血は入っていませんから、平氏全盛の時代には皇位継承は論外でした。平氏の都落ちに際し、後白河法皇の意向で高倉天皇の第四皇子尊成(たかひら)親王が後鳥羽天皇として立てられます。平氏は三種の神器を持ち去ったので後鳥羽天皇の即位は異常な事態となりました。神器なし、皇家の長である法皇の意向のみで即位となったわけです。以後数年、安徳天皇が壇ノ浦に入水されるまで、日本には二人の天皇がおられたことになります。
 
 後鳥羽天皇も3歳の幼帝として即位されました。政治の実権は重臣が握ります。九条兼実、源通親などです。特に後者はやり手でした。18歳、天皇は退位され上皇になられます。生来積極的で多才な方です。偶然宮廷の実力者源通親が急死します。後鳥羽上皇の親政(?)になります。
 
 白河天皇から後鳥羽天皇まで11人の天皇が即位されますが、実際政治を取られたのは院政の主である白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の四上皇(法皇)でした。院政はあまり後世の史家からよく言われません。摂関政治のような柔らかさがなく、また後の武家政権のような厳しい規律もありません。上皇(法皇)は大荘園領主として個人的には極めて富裕であり、同時に国政の主催者として強権を発動できます。だからそれまでの法や伝統に捉われることなく、放恣に政治を行い、また個人生活も豪奢でした。後鳥羽上皇も同様です。特に上皇は承久の乱の張本人であり、この乱以後朝廷の実権は自らの家政に限られ、往年の勢力はなくなります。ですから後鳥羽天皇の評判は悪いのです。北畠親房も、新井白石も荻生徂徠もこの上皇を非難します。それは確かに当たっているのですが、その非難の由縁も後鳥羽上皇のあまりある才能ゆえでした。それは彼の政敵である北条義時と比べた時はっきりします。和歌一つをとっても上皇の才能は抜きん出ています。こういう観点から後鳥羽上皇の人柄を見てみましょう。
 
 承久の変(1221)は歴史の転回点です。それまで日本の主権者は朝廷であり天皇・上皇でした。源頼朝が源平の内乱の勝者となり、全国に守護地頭を置いてから朝廷の主権は次第に武家に蚕食されます。それは既に平氏全盛の時から始まっていました。衰微する王権の回復は何度も企てられます。鹿ケ谷事件、後白河法皇鳥羽離宮軟禁、そして平家滅亡後の頼朝・義経の対立などすべて、朝廷が企てた朝威復活のための企てです。これら一連の企ての最大最後のものが承久の変です。
 
 源実朝が死去し、源氏将軍は三代で絶えます。機と見た後鳥羽上皇は鎌倉幕府に遺恨を持ちそうな、主として西国の武士達に命令して幕府討伐の院宣を発します。源氏将軍が絶えた時、幕府の実権者である北条義時は将軍として親王の一人をと、乞いました。上皇はこの要求を斥けます。さらに幕府御家人の荘園二箇所(私の家の近くですが)を奪い、それを寵愛する亀菊(白拍子上がりの)に与えます。これでは幕府の存在意義は根本から否定されます。幕府は自分の存立をかけて立ち上がります。この時の朝廷と幕府の態度は極めて対照的です。幕府は必死でした。それは尼将軍政子の御家人への演説によく現れています。逆に上皇方は初めから勝つものとのんびり構えていました。結果は上皇方の完敗です。後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は阿波へ、順徳上皇は佐渡へと、流されます。孫の仲恭天皇は廃位されます。(「仲恭」は明治政府による贈名)以後天皇の即位について朝廷は幕府の意向を無視できなくなります。上皇方についた武士や公卿の所領は幕府に没収され、御家人への新たな給付となります。鎌倉幕府はこれで支配権を確立しました。
 
 なぜ上皇は敗れたのでしょうか?理由はいろいろありますが、天皇は自身で武力を握れないような政治構造が既に出来上がっていました。平安時代全期を通じてそういう構造が出来たのです。本来朝廷の政治は合議制です。合議システムが上から下へと階層的に成立するのが、日本の政治体制の特徴です。だから武力の所有者である武士層は天皇や上皇に直結するより、中間に介在する力と結びつきます。紆余曲折がありましたが結局この介在者は源平二氏の武家の棟梁ということになりました。平氏に代わる源氏、そして源氏に代わる北条氏です。この現実の武権の上に神として君臨するのが天皇です。あるいは上皇です。ですから幕府は敵対者である上皇を殺害はしません。できません。せいぜい配流です。これは100年後の後醍醐天皇の場合も同様です。
 
 敗勢が露に成った時、上皇方の武士達は上皇の宮廷に立てこもって最後の一戦をと思いました。彼らは上皇に拒絶されます、武士達は上皇をののしりますが、この非難は当たりません。天皇・上皇は現実の権力の上に君臨する現人神なのです。神自ら武器を取り、血を流す事はできません。ただ後鳥羽上皇の行動にはこの禁忌を踏み越られたきらいは多々あります。
 
 後鳥羽上皇が後世悪く言われる理由の一つが宗教弾圧です。当時法然が唱導する口称念仏は全国的な広がりを見せていました。法然の説くところは、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば極楽往生疑いなし、ということです。教義の詳細には立ち入りません。1207年上皇の宮中で事件が持ち上がります。法然の弟子の一人が宮中で講釈し六時礼賛を演出して、ある女房が出家しました。これは上皇の権威への侵害です。それでなくても法然の教えはそれまでの仏教の教えと相当以上に違っており、後者の反発は強かったのです。怒った上皇の命令で二名の僧が死罪(日本では珍しい)、法然は土佐に流罪とされました。弟子の親鸞は越後配流です。  

 現在の仏教界で一番信者の多いのは浄土系の宗派でしょう。以後彼らは後鳥羽上皇を弾圧者として非難し続けます。しかしこの非難もおかしい。宮中で六時礼賛を演じた遵西という僧は美男で聞こえていました。六時礼賛とは念仏の美的情緒的演出です。遵西と後宮女房との間に密通の疑いがかけられます。真偽は解りませんが、念仏あるいは浄土系の信仰には、どうしてもエロティックな要素が(さらに既成道徳の破壊という傾向も)ついて回ります。後年にもこの種の嫌疑でこの宗派は弾圧されました。風紀を保ち、自己の権威を維持するためには上皇もそれなりの懲罰を与えねばなりません。

 宗教団体というのは考えが偏狭です。みながみな自分が一番正しいと思っています。だからなにかというと弾圧だ弾圧だと言いますが、日本の権力者の弾圧なんて弾圧の内に入りません。西欧の近世初頭16世紀後半、サンバルテルミ-の虐殺という事件がありました。フランス国王の母后カトリ-ヌdeメディシスによるプロテスタント貴族の虐殺です。死者は3000名前後と言われます。それはともかく後鳥羽上皇は日本で一番影響力を持つに至った宗派を最初に弾圧しました。それも不人気に由縁です。親鸞は「教行信証」の中で後鳥羽上皇への恨みを書き付けています。
 
 後鳥羽上皇は多能多才な人です。20年間朝廷の政治を指導してきたのですから政治的才能も凡庸なはずがありません。武芸も武士以上でした。盗賊逮捕の指揮を自らとり、舟で追いかけ、舟の櫂で盗賊の首領の武器を叩き落し、自ら盗賊を絡め取ったと言われています。もっともこの行為は一天万乗の君のすることではありませんが。また刀を愛され、自ら鍛冶の技術を習得して、刀を作られたとも言われています。菊造りの太刀と言います。
 しかし文句なしは和歌の才能です。 新古今和歌集巻一 春歌 2
    
   ほのぼのと春こそ空に来にけらし
          天の香具山かすみたなびく

帝王らしい雄渾な歌です。もう一つ、同じく春歌 36

    見渡せば山もとかすむ水無瀬川
           夕べは秋となにおもいけん
 
 これは枕草子の「---秋は夕暮れ」という判断への反論です。作品の内容には立ち入りますまい。私が後鳥羽上皇の行為で一番感嘆するのは、隠岐に流されても終生、和歌作りに励まれ、新古今集に載った多くの和歌の批判注釈を続けられたという事実です。私はこの情熱に敬意を表します。逆に言えば、こういう俗っぽい才能とエネルギ-がありすぎた事が、上皇の政治的不運の原因であったのかも知れません。
 
 承久の乱以後の皇位継承について。幕府は、後鳥羽上皇の孫であり順徳天皇の子供である仲恭天皇を廃立します。幕府としては極力後鳥羽上皇の血統を避けたかった。そこで上皇の異母兄の子を後堀河天皇として擁立します。後堀河天皇の後継である四条天皇が夭折された時、皇位継承の候補者は土御門天皇の子か、順徳天皇の子かにしぼられます。宮中の評判では圧倒的に後者が有利でしたが、幕府は前者を取り、後嵯峨天皇の即位となります。同じ後鳥羽上皇の血をひく兄弟でも、土御門上皇は乱の企てに反対でした。幕府としては当然の配慮でしょう。ですから現在の皇室は後鳥羽天皇の末裔ということになります。

源氏物語と枕草子

2009-04-16 12:33:50 | Weblog
 「源氏物語」と「枕草子」---「一条天皇」補遺

 一条天皇の御代のお話といえばやはり日本史を代表する二人の才媛です。才媛という呼称は適当ではありません。二人は天才ですから。この二人、紫式部と清少納言が作った作品が「源氏物語」と「枕草子」です。これは常識。知らない人は日本人とは言えません。

 紫式部は970年ごろと言いますから、冷泉天皇か円融天皇の御代に生まれました。本名は解りません。式部は父親の官職名。後、女房奉公に出て藤原氏であるので藤式部と、さらに「源氏物語」が有名になり、ヒロイン「紫の前」にちなんで紫式部と言う名で後世まで通っています。父親は藤原為時、北家傍流の中下級貴族、著明な学者でもありました。あまりうだつが上がらなかったのですが、花山天皇の時、出世のチャンスに恵まれます。蔵人式部丞に任命され天皇の側近として仕えることになります。しかしこの夢は花山事件で破られ、以後10年間の逼塞を強いられます。この頃式部は思春期を迎えます。花山事件は典型的な宮廷内陰謀で、式部が後年、物語を書く時参考になったと想像されます。父親が不遇であったためか、式部は晩婚です。
 
 道長の代になり為時は日の当たる場所に出ます。越前守に任命され、式部も父親について任地に下ります。この間藤原宣孝から求婚されます。後妻です。式部はためらいますが、宣孝の懇請に負けて結婚します。29歳。当時としては相当な晩婚です。一女賢子を産みますが、式部32歳時宣孝死去。この頃から「源氏物語」が書き始められたようです。36歳中宮彰子のもとに女房として奉公します。
当時の宮廷で、清少納言の令名は高いものでした。少納言は道隆の中関白家出身の定子中宮に仕えます。「枕草子」はこの家の栄華を飾り誇り顕示するために書かれたのではないのかと思われるほどの作品です。道隆に代わり政権を取った弟の道長は兄の栄華を忘れられなかったのでしょう、清少納言にも劣らない才媛をと探した末に、当時そろそろ有名になりかけていた紫式部に白羽の矢を立てました。式部は女房奉公が嫌いでしたが、道長の要請を断ることはできません。式部は道長の子女彰子中宮に奉公することになります。時に中宮17歳、式部36歳でした。式部は中宮の家庭教師でもありました。

 女房奉公する中、源氏物語は書き進められ、1100年ごろ完成します。はじめは式部が手慰み程度に書いていたものが、宮廷で有名になり、次第に加筆されて現在のようなものになったと推定されます。しかし今でこそ源氏物語といえば日本文学の代表で、それを読む事は知性を誇るに足る行為ですが、当時の物語の地位は低かったのです。所詮女子供の慰み物、今でいえばTVドラマ程度にしか考えられていませんでした。だから読者が適宜加筆訂正し続けた可能性はあります。後年新古今の歌人藤原定家が編纂しなおし大体現在の形が整いました。

 物語のあらすじは以下のとおりです。卑母の胎から生まれた「光」は才能容貌体躯心情のどれをとっても万能の天才でした。彼「光源氏」は父帝の正妃である藤壺中宮と密通し子供を設けます。父帝死後そして兄の帝の退位後、藤壺と光は計って二人の間の子を帝位につけ政権を握ります。源氏は登り登って太政天皇とまでいわれます。しかし因果はめぐり、わが子同然にかわいがっていた柏木に正妻女三宮を寝取られます。二人の間に出来た薫を自分の子として育てなければならなくなります。輪廻転生、そして宇治十帖という魔界が続きます。ではこの物語の主題はなんでしょうか?それは、権力とエロスの相互関係、あるいは権力の基礎前提としての近親相姦(禁忌)です。その意味で源氏物語は一見詩情にあふれた観を呈しますが(これを本居宣長は、もののあわれ、と言いました)その内実はリアルな政治思想そのものです。

 式部は権力欲の強い人だったかも知れません。というより権力という代物に強い関心を抱いていたと思われます。17歳の中宮に20歳以上も年齢の違う式部が女房として奉公するとき、その仕事がお茶汲みや縫い物などであるはずがありません。まして学者の家に生まれ、すでにベストセラ-をものしている才女となると、その才能が見込まれていたはずです。勢いとして式部は中宮の顧問か相談相手のような役割も果たしていたのでしょう。そういう傍証もあります。摂関政治では母后の力が物を言います。女性の力は決して小さくはなかったのです。彼女の娘は後、後冷泉天皇の乳母として宮廷に隠然たる影響力を持ち、大弐三位と呼ばれました。「紫式部日記」は娘の奉公指南のための本とも言われています。また式部の性格もかなりしつこくねっちりしていて結構謀才に富んでいたのかもしれません。大弐三位の家、勧修寺家(この家と式部の家柄は極めて親密な関係にありました)は明治維新まで羽林か名家の格式で残ります。

 清少納言は紫式部より少し前に生まれています。例によって本名も生年月日も解りません。父親は清原元輔といいかなり有名な歌人でした。祖父深養父も同様です。清原氏の祖は天武天皇の皇子舎人親王、日本書紀の最高編纂者として名を残した人です。清少納言はそういう祖先、特に祖父や父親の歌才を誇りにし、同時に劣等感も持っていました。百人一首に出てくる彼女の歌は上手いとはいえません。彼女は父親50歳代の時に生まれました。橘則光と結婚しやがて離婚します。やがて定子中宮に奉公します。清少納言は紫式部と違い、宮廷生活が楽しくて楽しくて仕方がなかったようです。主人である中宮、一族の中関白家の人々の立派さを賛嘆し、「私の御主人たちはこんなにりっぱなのですよ」という空気が「枕草子」の記述から浮かび上がってきます。

 当時炭と油は貴重品でした。清少納言の家も貴族でしたが、彼女の家程度では炭や油を十分には使えません。奉公して中宮の傍にいるとこの貴重品がふんだんに使われます。目くるめくようなこの明るさが、「枕草子」の特徴の一つです。1000年、中宮定子は一男一女を残して他界します。以後清少納言が誰かに仕えたという話はありません。彼女は中宮に殉じた余生を送ったのでしょう。

 「枕の草子」の内容は、類聚章段、ものづくし、宮廷交際録、および季節の描写からなります。前二者は当時の生活風景の描写です。それを作者は、直感的に分類し整除して語ります。この辺を読めば当時の人々が、別に貴族とは限りません、どういう花を愛し、どんな虫を喜んで飼い、どんな時にうんざりした・喜んだとか、名山名勝、有名な寺院などなどが解ります。宮廷交際録は宮廷社会をそこに住む人々の私生活の面から描きます。同時に主人である中宮と自分自身の自慢話もふんだんに盛り込まれています。定子中宮も清少納言も衒学的で(事実学識は高かったのです)しかもそれを使った機知ある会話が大好きでした。「香炉峰の雪」はその代表です。

 「枕草子」を読むと、日本語もそろそろ成熟してきたなと思います。当時から約50年前、村上天皇の御代から歌合せが盛んになりました。左右に歌人達が分かれて歌の優劣を競います。パ-ティですからどうしても女性の存在は必要です。才能ある女性の登場が始まります。和歌の贈呈が盛んになると、和歌の作り方の指南書も現れます。こうして和歌を作る作法、特に使うべき言語が歌言葉として確立します。和歌の製作は固定化され形式化されますが、同時に感情や美を語る言語は豊富になります。「枕草子」の出現はそういう時代背景、才ある女房達の登場と歌語の確立という事情を、背景として登場しました。

 「枕草子」はともかく明るいのです。暗い憂鬱なものはこの作品には無関係です。そんなものも明るくまた諧謔的に描かれます。だから時として描写は辛らつにもなります。まず作者自身の感性をバ-ンと冒頭に投げ込み、それに属する事項を次々に並べます。直感的で、直線的で時に飛躍する分、なかなかに深遠な部分も含みます。

 清少納言と紫式部は性格が正反対のようです。前者は直感的で自分の感性それ自身を大切にします。言いたいことを言い、嫌われてもあまり動じません。式部はしんねりむっつり型です。自分の本音を抑え、非難されないように用心し、だからその分執念深いようです。二者の文体は全く違います。清少納言はそれまでに確立した言葉を自己の感性で強烈に彩り、それを空高く放射します。式部は既存の言語を磨きあげ、それを自分の作品の中でどう使うか検討し、研究し、新しい言語の用法を創造します。「枕」も「源氏」もともに難しい作品です。前者では作者の回転し飛躍する感性について行くのに苦労し、後者では、うねうねとして曲がりくねった文体を理解するのが大変です。

一条天皇の御代を中心とする前後100年を王朝時代と言います。村上天皇から後冷泉天皇の御代までを指します。政治的には摂関政治の時代ですが、同時に女流文学全盛の時代でした。というより日本語あるいは日本文学はこの時代の女性達によって確立されたと申せましょう。初めて「我」というものを見つめた右大将道綱の母、「女」を焦点としてその感性と情緒を描いた和泉式部(私は彼女を史上最高の歌人だと思っています)、日本史上で始めて個人が著した歴史書(栄華物語)を書いた赤染衛門、清少納言と紫式部、物書きの心情告白第一号となった「更級日記」の著者菅原孝標の娘などなど、ほとんど名も解らない才媛たちにより日本文学は確立したといえます。こういう歴史は他の国のどこにもありません。

「枕草子」初段に「春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は朝」というくだりがあります。各季節の見どころ、を簡潔に描いた部分ですが、200年後鳥羽上皇がこれに反対する和歌をたくみに作られます。少納言は少納言、上皇は上皇の感性です。


   「天皇制の擁護」
  中本征利著  幻冬舎出版  四六版 301ペ-ジ 定価2100円
   目次-記紀・源氏物語・愚管抄、親鸞そして日蓮、徳川合理主義、天皇は文化の守護者、王家の系譜、古代ギリシャ、ユダヤの神、パウロとアウグスティヌス、アングロ・サクソンの政治、アングロ・サクソンの思想
    統治、君主

天皇ご紹介 一条天皇

2009-04-14 02:37:24 | Weblog
   天皇御紹介  一条天皇

 一条天皇は980年円融天皇の長子として生誕されます。母は藤原兼家娘詮子、御名は懐仁(やすひと)、5歳で立太子、7歳花山天皇退位の後66代の天皇として即位されます。即位に至る事情には非常におもしろいお話がありますが、それは花山天皇のところまでとっておきましょう。一条天皇といってもすぐそのイメ-ジを描ける人は少ないと思います。天智・天武や後白河・後鳥羽、さらに下って後醍醐などの諸帝のように、強烈でくっきりした印象を一条天皇は持たれていません。しかし私はこの天皇が好きなのです。説明は長くややこしくなるので省きます。
一条天皇は日本的帝王の原像のような方と申し上げてもいいのではないでしょうか?2つ例を挙げます。枕草子241段「一条院をぞ今内裏とぞいう」の中で、人気の悪い廷臣を揶揄した文句に、節をつけて笛を吹くべく、女房達にせがまれた天皇が、当の廷臣に聞かれることをはばかる、状景があります。もう一つは紫式部日記の中で描かれる事件です。内裏(後宮)に盗賊が侵入します。女房達を裸にしてその衣服を奪って逃げます。警護の者を呼びましたが、皆眠っているのかだれも来ません。こんな無用心な政府は世界の歴史において他には存在しないでしょう。女房達に囲まれて戯れ、臣下にはそれなりに遠慮し、そしてとことん無警戒な御所の主、それがこの当時の天皇のあり方だったようです。平安時代、薬子の乱から保元の乱までの300年間、少なくとも5位以上の堂上貴族には死刑は判決も執行もされていません。世界の歴史で皆無の特異な現象です。これも日本的王権の特徴でしょう。

 100年下ると状況は変ります。院政という強権的な政府ができます。治天の君といわれる上皇(法皇)は、北面とか武者所などの機関を設置して自分を警護させます。しかし日本の天皇の日常生活は基本的には一条天皇当時のそれをずっと踏襲します。応仁の乱だと思います。武士達が戦をします。双方数万の軍勢でぶっつかります。朝廷公卿は難を避けて川原に逃げますが、武士達は彼らを放置したままでした。江戸時代、ある関白が御所を訪問します。出された昼食が鰯の煮付けにひじきの薫物そして味噌汁でした。関白殿はそれを美味しそうに平らげて帰られたとか。多分天皇ご自身の生活も同様であったのでしょう。御所は土塀一重で囲まれていただけです。それでいて天皇が害されたこともありません。 

  一条天皇の御代は、天皇の周辺を彩る状景が華麗です。清少納言の枕草子と紫式部の源氏物語が代表です。ともに世界に誇る作品であり、日本文学の淵源の一つです。二人はそれぞれ、定子(ていし)彰子(しょうし)という中宮に仕えました。定子は兼家の長男道隆の娘です。天皇が11歳の時入内しやがて中宮(皇后)になります。定子は15歳、姉さん女房です。定子、彼女の父親の道隆(関白)、兄の伊周(これちか)は皆才能豊で衒学的、そしてなによりも猿楽言(さるごうごと、ユ-モアと冗談)の好きな陽気な一族でした。彼らに取り巻かれて天皇は大きくなられます。この雰囲気を天皇はいたく好まれました。天皇ご自身も明るい親しみやすい性格であられたようです。これらの情景は枕草子に詳しく書かれています。

 995年の流行病でこの一族のボス関白道隆が死去します。後継首班(つまり摂関政治主催者の地位)を巡って、伊周と道長が争います。天皇は定子中宮を寵愛しておられました。定子は当然兄の伊周を押します。天皇の生母である詮子は弟の道長の政治的素質を見抜いており、道長に肩入れしました。天皇は生母と正妃に挟まれて迷われますが、結局道長に内覧の権能を与えて首班とします。中関白家(道隆の一族)は没落し、以後道長の、望月の欠けたることのない時代が続きます。負けた伊周は天皇と極めて親しく、天皇にとって漢学の師でもありました。しかし天皇は伊周の若さを見抜いておられ、彼に政権を託する事は危険と判断されました。16歳で天皇は明確な政治的主張をもっておられたわけです。政権争いの後かなりのごたごたが続きます。伊周は大宰府に配流されます。これも臣下としてのけじめを忘れた伊周への当時としては峻烈な懲罰です。一方中宮定子はたまりかねて出家しますが、天皇は定子が忘れられず、出家した定子を宮廷に召して、寵愛を続けられます。当時の女性の出家は髪を肩の高さに短くする程度で丸坊主になるわけではありません。しかしこの行為は当時の風習から言えば規律違反です。

  一条天皇が20歳の時、首班である道長は長女の彰子を入内させます。彰子12歳。天皇は彰子を「雛遊びの后」といわれました。そしてほぼ同時に定子は懐妊し、やがて男児を生みます。天皇にとっては長子である敦康親王です。道長が政権をとってから以後は道長全盛時代のように思われ、帝系は彰子の産んだ子の方に自動的にいったと思われがちですが、実態はそう簡単ではなかったようです。天皇は後見の弱い敦康親王に後を継がせるか否かで迷われます。道長としても彰子の懐妊を待つのみです。もし彰子に男児が生まれなければ道長の政権は脆弱なものになります。1008年天皇28歳の時、彰子は男児を産みます。敦成親王、後の後一条天皇です。3年後32歳で天皇は崩御されます。道長としては危機一髪という思いでしょう。

 一条天皇の外戚として摂関の職についたのは、兼家、長子の道隆、四男道長です。この三人によって摂関政治が完成します。摂関政治とは天皇と皇后及び外舅である皇后の父親の合議により営まれる政治形態です。摂関の地位は藤原氏特に北家の主流が独占します。私はこの政治の意味と藤原氏の役割が解りませんでした。今では近親相姦を避けるための一種の族外婚、権力の分有と合議制の原点を形成した見事な制度だと考えます。政治行為の内容には立ち入りませんが、この摂関政治は一条天皇の時に頂点に達します。摂関政治の特徴はその柔らかさにあります。逆に言えば曖昧なのですが。その点一条天皇と藤原道長のコンビはこの政治形態にぴったりであったようです。天皇の性格については既に述べました。道長は権力意志の強い人でしたが、敵を追い詰めず、相手の気持ちを汲むことに長けた協調的な性格の持ち主でした。この時代は教科書では道長独裁のように言われていますが、一条天皇の意志を道長も無視する事はできません。後継をだれにするかを巡っての両者の駆け引きを見ても解ります。

 一条天皇は好学の帝王でした。天皇が定子を愛した理由の一つが、彼女が持つ漢学の素養です。政治家としてはいまいちでしたが、彼女の兄伊周は当時でも頭抜けた漢学者でした。彰子は入内して、密かに漢学の講義を紫式部から受けます。好学の天皇に気にいられるためには、どうしても漢学の素養が必要でした。当時女性は漢学(男の学問)をたしなむ事は不吉とされていました。そこで式部について密かに史記や文選の勉強をしたわけです。紫式部は漢学者の家の出身です。道長が彼女を彰子の家庭教師のような形で女房奉公をさせたのも、兄の中関白家とくにライヴァルの定子を念頭においての行為でしょう。

 一条天皇が源氏物語の草稿を読まれて、作者式部は日本書紀はじめ内外の歴史について詳しいといわれたことがあります。「源氏」を一読してこう言われるのは天皇の史書への傾倒もなかなかのものであった事を語ります。おかげで式部は同僚の女房達から「日本紀の局」とあだ名をつけられ、うんざりします。天皇は宮中で作文会(さくもんえ)を催されました。詩文作成は貴族男性の必須の教養です。天皇は文化の外護者でもありました。また天皇は笛を愛好され、以後管弦において天皇が持つ楽器は笛、とされたと言います。天皇の御代は人材の輩出した時代でもありました。政治家としては道長、そして文学ではもちろん清少納言と紫式部。他に二人だけ名を挙げておきましょう。藤原行成(こうぜい)、能書家であり世尊寺流の書道の始祖ですが、平安時代きっての能吏でもあります。もう一人は、万能の秀才藤原公任(きんとう)でしょう。

 一条天皇に関する説話・逸話を二つ。紫式部の父藤原為時は花山事件に巻き込まれ長い逼塞の時期を送ります。天皇に窮状を訴える詩(当時詩といえば漢詩です)を作って訴え、越前守の地位を得たという話です。天皇は寒い夜には直垂(ひたたれ)を脱がれていたとか。中宮彰子が理由を尋ねると、日本国の人民が寒いのに、自分だけ暖かくはしておられないとの、返事でした。あくまで伝聞・逸話です。この種の話はよくありますが、天皇がこの説話の主人公とされる事は、一条天皇の性格を物語ります。
 
 一条天皇 第66代 980-1011、在位986-1011


典拠 「一条天皇」吉川弘文館、「枕草子」、「歴代天皇総覧」中央公論社、他

経済記事日日 09 3月

2009-04-12 23:05:12 | Weblog

  読売新聞朝夕刊一面に載った記事の見出しを収録
   (1・2・3日の記事は操作ミスで亡失)


3-4(水)給付金最速あす支給 関連法案きょう成立 
3-5(木)給付金支給決定 補正関連法案衆院再可決 自民造反は2人
3-6〈金〉GM内破産法容認論 米紙報道 再建、短期で可能
      NY株6600弗割れ
3-7(土)給付金プレニアム商品券続々 地域振興に一役 
      自治体の4割発行 
3-8(日)特記すべき記事なし
3-9(月)経常収支13年ぶりに赤字 1月1728円 輸出急減響く
3-10(火) 株終値バブル後最安 7086円 26年ぶり低水準
3-11(水)無利子国債を提言 自民議運 贈与税減免 
3-12(木)損保ジャパン日本興亜統合へ
       損保ジャパン・日本興亜統合あすにも発表
3-13(金)(特記すべき記事なし)
3-14(土)カ-ナビ事業で提携 三菱電機とパイオニ-ア 月内にも合意
3-15(日)G20「政策を総動員」共同声明採択 金融システムの強化
3-16(月)OPEC減産見送り
       電機連合「ベアゼロ」容認 春闘方針 スト回避・定昇維持で
3-17(火)地デジ推進 景気策に 旧型TV買い取り案 政府与党検討
       年度末解雇を救済 「非正規」対策 与党・民主 雇用保険法改正案 
合意
三洋、東芝 定昇凍結へ 最低半年、事実上の賃下げ 
3-18(水)トヨタ一時金満額割れ シャ-プも定昇凍結へ
       日銀、銀行に1兆円支援 劣後ロ-ン引き受け
       「ベアゼロ」軒並み 春闘一斉回答 車・電機4年ぶり 
3-19(木)FRB国債29兆円購入 実質ゼロ金利据え置き
3-20(金)雇用創出3000億円増額 失業者 生活支援へ基金 与党追加策
3-21(土)(特記すべき事なし)
3-22(日)外国人労働者「ノ-」 同時不況現場を歩く 雇用の保護主義台頭
3-23(月)nb
3-24(火)nb
3-25(水)米景気「進展の兆候」大統領
3-26(木)モルガン日本法人と合併 三菱UFJ証券 来春、法人向け強化
3-27(金)nb
3-28(土)雇用創出最大200万人 政府成長戦略 環境など投資 
       3年間で需要60兆円(低炭素社会 健康長寿 底力発揮)
       09年度予算案成立 
3-29(日)シャ-プ工場に研究所 大阪府大 明日にも協定締結
       堺 LED植物栽培
       贈与税減免を検討 首相 車・住宅購入で時限税
       内需拡大策 資産・購買力を若い世代へ
3-30(月)雇用創出2000万人 金融サミット共同声明
       GM会長辞任発表 
3-31(月)クライスラー 単独存続は困難 米政府 30日猶予 提携迫る
       GMには60日以内 抜本再建策
       景気対策へ3分野投資 温暖化対策・介護など
       「非正規」失職19万2000人 6月まで 愛知突出3万2000人
       首相 赤字国債を容認 追加景気対策 来月中旬まで 策定指示


 経済均衡論の考え方、(付)経済成長論

2009-04-11 13:13:42 | Weblog
 経済は成長するのか?するのだろう。事実成長してきた。何をもって成長の証とするかはGDP等に頼るより、人口とエンゲル係数と鉄鋼生産量を見れば直感的に解る。一目瞭然だ。既に述べたように、限界効用論(均衡論)からは経済成長という考えは出てこない。ケインズが実物経済と貨幣経済の間に亀裂を作る事によってのみ成長を保証する考えが可能になる。成長理論の第一号はケインズの弟子ハロッドとフランス人経済学者ド-マ-の理論だ。称してハロッド・ド-マ-モデル。このモデルに従えば、
  貯蓄率 = 産出量/資本量 x 人口増加数/人口数
記号で表現すれば
  s = v x n  
になる。右辺の前項を資本産出比率と言い、後の項は人口増加率だ。つまり資本の生産効率と人口成長率の積が貯蓄率に等しい時にのみ経済は安定成長できる。と彼らは言う。ところでこの三つの数値、資本産出比率(v)も人口増加率(n)も貯蓄率(s)も定数とされる。三つの数による上記の等式が成り立つ事は全くの偶然となる。人口増加率が大きくなり過ぎると賃金増加によるインフレ、資本産出比率が過大になると資本過剰によるデフレと失業者の増加、に傾くだろう。等式が成り立つのは刃の上を歩くようなきわどさがある。だからハロッド・ド-マ-モデルはKnife-Edged-Theoryと言われた。
 
 ソロ-はこのモデルに一考察を加える。
  
  まず資本と労働力を互換的なものとする こうすれば資本産出比率も人口増加  率も変数になる
  
  一応貯蓄率は一定と置き、各貯蓄率におけるvとnの関係を考える
  全体は収穫逓減に従うものとされる 収穫逓減は資本と労働の互換性を導入し  た段階で既に決められているようなものだが

そして縦軸に産出量/資本量、横軸に労働力/資本量を取り、貯蓄率一定の過程で函数
を描く。以下の図になる。

  グラフ(成長理論 割愛)

上記のグラフでs/vを一定として、nと言う人口増加数に呼応するQ/Kを超えるか、L/Kがnを超えれば(同じ事だが)、資本と労働力が相互に制約する事により、常にK/Lがnになるべく減少する。逆にnを下回る場合はnに向かって増加する。とソロ-は言う。

 グラフだけからでは以上の推論は成り立たない。肝心な事は資本と労働力の互換性(移行性)だ。一方的に資本あるいは人口が増加するという事態(こんな事はあり得ないが)を回避して両者を変数としてハロッド-・ド-マ-のモデルを理解する事によりソロ-の説明は可能になる。かくしてソロ-は安定した成長の図式を手に入れた。

 資本の産出率は技術のことだ。同じ装備が量だけ増えても、資本生産性は増加しない(大規模生産の有利はさておく)。しかしここで労働と資本の互換性を考えれば技術の意義は飛躍的に増大する。労働集約的技術もあり、労働使用的技術もある。ソロ-が資本と労働の互換性を導入した時から技術の産出に対しての意義は定まった。ソロ-が1957年に書いた論文では「1909年から1957年までに労働生産性は二倍になっているが、そのうち7/8が技術の寄与に拠る」としている。資本家も労働者も面目丸つぶれだ。前記のグラフとこの論文の意味するところは相互に独立だが、ソロ-が経済成長にとっての技術の高い寄与度を念頭においてこのグラフを書いた事は間違いない。
 
 ソロ-の考え方の中には成長と技術という二つのモメントが溶け合っている。経済は安定して成長する、そのためには技術の進歩が不可欠だとなる。今では当然の考えだが、この事を理論として取り上げた功績は大きい。しかしそれ以後、つまりソロ-のグラフ以後成長理論がどう成長したのかとなると、こころもとないこと甚だしい。事実上理論の成長はこのグラフで止まる。彼以後ル-カス、ロ-マ-、グロスマンとヘルプマン、マギオンとホ-ウィット等が色々新規な成長理論を提出しているがソロ-は一つ一つ批判と言うよりケチをつけている。詳しくは2000年に出版された彼「成長理論 第二版」を参照されたい。私は偶然「成長理論」の初版と第二版を読む機会があった。内容は相当変化している。初版本ではル-カスの成長理論を高く評価していた。他の理論に対しても同様だった。第二版ではル-カス以下の新説には手厳しい。その分初版では無視されていたに等しいハロッド・ド-マ-モデルが再認識され詳しく解説されている。むしろソロ-は成長理論の原点であるこのモデルに戻った観がある。2003年に出版された東洋経済新報社の「失われた10年の真因は何か」という本の中で経済成長に対する技術の寄与の問題が論じられていた。驚いたのは論者が使用している理論モデルはソロ-のモデルそのものだった。成長理論はこの半世紀近く殆ど成長していない事になる。少なくとも現実の経済現象を分析する手段としては。
 
 しかしそれは当然と言えば当然なのだ。技術とは機械やシステムの構造機能そのものか、人間の身体頭脳あるいは感性に体化されたものなのかということになる。ソ連がアフガニスタンに侵攻した時アメリカは対空ミサイルをアフガンゲリラに供与した。しかしゲリラの持つ知識や技術では操作できず、武器は足手まといを通り越して危険でさえあったと言われた。今は知らない。フランス陸軍は数年前に徴兵制度を廃止して日本の自衛隊のように志願兵制度に変えたい由を新聞で読んだ。僅々二年間いやいや勤務する兵士には近代軍事技術を習得できないと判断されたからだ。有名なリ-ン方式と言う生産システムがある。カンバン方式とも言う。これで大成功したのが豊田自動車だ。このシステムは極力生産部署における中間資材の在庫を減らす事により生産効率の向上を目指す。そのためには機械の操作系列に対応するべく労働者の判断、操作能力、規律、体力等すべてを鍛えなくてはならない。パソコンがいい例で単なる機械であるハ-ドのみでは勝負にならない。対応する人間様の創造力いわゆるソフトの能力が必須だ。自動車運転、交通システム等どれをとっても同じ。医師の能力は確実に医師の心身に体化されたものに拠る。弁護士に至ってはその程度は更に増す。技術開発に研究資金は必要だ。しかし資金額が増えればそれで良いとはならない。もっと別の要素がいる。無批判に研究資金を与えれば何に使われるか解らない。学習時間は技術研鑽に一定度の意味は持つが、一定度までだ。研究能力になるとこの限界はより低くなる。創造に余暇は必要だ。しかしどのくらい必要なのかはなかなか解らない。数式を建てても極めて漠然としたものだ。
 
 こうして成長理論で技術技術と言っているうちに「人間資本」とか言い出すはめになった。人間資本、この言葉を嫌う人がいるが私は好きだ。人は人の役に立つから人なのだ。結局資本そして技術は人間様なのだ。それはそれでいいが、さてこの人間資本をどう数式化するのか。あえて数式化すれば人間に関して一定の仮定を置かねばならない。しかし人間が不可解でややこしい存在である以上、この仮定は極端なものか、あたりさわりの無いものかのどちらかになる。前者の仮定下では経済が安定するはずがない。あたりさわりの無い仮定で一番安全なのが、人間の理性を信じる事だ。どこまで信じればいいのかは解らないので、いっそのこと全部信じてしまえとなる。Rationalismが出現する背景はここにある。人間の理性を全面的に信じられれば経済行為なんか要らない。だからこういう前提で進められる数式ではどこかで「人間様はすべてお見通し」と言う仮定が入る。元来経済指標例えば、消費性向(流行も大切)、資本蓄積と投資意欲、貯蓄率、人口成長と教育制度、科学技術の発展、社会的インフラの整備、はては金利や貨幣供給の量にいたるまで、詳しくは解らない・経験則に拠る外はない、のだ。一部のみ経験的に解る。そして未知の部分はそれ以上に増える。

 人間の理性を全面的に信用する立場で極論すれば、人間はいずれ死ぬ、それまで必要な資源はこれこれこんだけだ、それ以上あの世に持って行っても無駄、カロリ-はこれだけでいい、魚菜畜肉や大豆卵乳では不正確だからアミノ酸の量で計ろう、衣服は年何着何ヤ-ル、必要なだけ生産すればいいとなる。これは人間の世界ではない。共産主義者も同じ事を考えていた。個々の人間すべてに関して未来永劫に需給の量が計算されてしまう。経済が発展するはずがない。何をしても最後は決まっている、元の木阿弥だ。あほくさくて何もしない方がいいとなる。

 経済は成長する。しかしどのように成長するかは解らない・解らない事の方が多い。人口、資本と労働、技術、人的資本、と成長を荷うべきファクタ-は変ってきた。ただそれだけだ。理論が進歩したとは言えない。数学的曲芸を除けば。人的資本を論じるに日本には既に故智がある。戦国武将の代表、武田晴信(信玄)に
    人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
の句がある。至言だ。成長理論はこの句を越えたのか?