経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本史入門 「君民令和、美しい国日本の歴史」 序文

2021-01-30 14:38:58 | Weblog
 日本史入門 「君民令和、美しい国日本の歴史」  目次

1 聖徳太子
2 大仏開眼
3 記紀神話
4 万葉集
5 神仏習合
6 摂関政治
7 勅撰和歌集
8 源氏物語
9 愚管抄
10 御恩と奉公
11 評定衆と貞永式目
12 座、一揆、悪党
13 連歌と茶道
14 親鸞と日蓮
15 徳川幕藩体制
16 武士道、男道
17 元禄時代
18 大岡忠相と田沼意次
19 細川重賢と上杉鷹山
20 調所広郷と村田清風
21 江戸時代の経済思想
22 荻生徂徠
23 本居宣長
24 文化としての天皇
25 歌舞伎と浮世絵
26 村方騒動
27 処士横議
28 明治維新
29 西郷隆盛
30 福沢諭吉と渋沢栄一


         イギリスよ、余計な事は言わないでほしい。

2021-01-29 19:43:53 | Weblog
 イギリスよ、余計な事は言わないでほしい

 昨日のニュ-スに依れば英国は従来のG7(英米日豪カナダニュ-ジ-ランド、そして多分フランスの七か国から構成する新たな貿易軍事協定?)に韓国とインドを参加させてG9にする事を提案している。日本政府は賛成ではないようだ。イギリスよ、余計な提案はやめてほしい。メンバ-は先進国のみでいい。インドは中進国とさえいえない。問題は韓国だ。地球の反対側からは見えないだろうが、日本は韓国につくづく手を焼いている。国際常識は護らない、約束は破る、韓国とは準戦時に近い状態なのだ。慰安婦、徴用工などに関しても、根拠なく日本の悪宣伝をする。妙な像を世界中に建てまくる。お国のどこかにもあるはずだ。韓国人の大部分は日本人を悪魔だと言いふらしている。正直韓国とは付き合いたくない。ろくな結果は生じない。一衣帯水ですぐ目の先にあるだけに日本にとっては邪魔なのだ。もし日本が、G7にアイルランドを加盟させようと言い出したらイギリスはOKと言うか。米国はあの調子だ。韓国など加盟させたら同盟が壊れるだけだ。お願いする。余計な提案は無用だ。我々日本人はイギリスとは友好関係を持ちたい。韓国に対してはどうしていいか解らない状況なのだ。解りだした事は韓国では共産主義勢力が強勢だということだけだ。
                               2021-1-29
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

  「君民令和、美しい国日本の歴史」  序文

2021-01-29 13:46:01 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」 序文

 大東亜大戦後の歴史特に日本史の記述には共通した傾向がある。それは日本の歴史を劣ったもの・遅れたもの、欧米あるいは中国の歴史の外縁に位置する付属的従属的歴史とする観方である。
 私はこのような悪弊を排して日本史を語りたい。日本の歴史を優れたもの、強いもの、自在独立したものとして描きたい。日本の歴史は安定した婚姻制度、秀れた民衆仏教を持ちその延長上に欧米に劣らぬ政治経済制度を発展させてきた。詳しくは本分を見られたい。
 この本の記述は宗教、婚姻、経済の三つの要因の相補相即性に主眼が置かれている。これら三大要因が相互に影響しあって出現したものが天皇制である。天皇は現人神である。同時に君民一和、君民平等であり、民衆も現人神である。私は歴史を記述しつつ、単なる事実の記載を超えて、君民一和・現人神という思想を抽出した。そして歴史を一刀両断し歴史と哲学を溶融せしめた。ここに私の著作の意義がある。
 著述に当たって事実は必要な部分のみを取り上げ30項目に要約した。説明には拘泥せず、記載は簡潔短切を旨とし、全体の文章の量は意図して少なくした。余分な事実の列挙、長い文章は私が意図する哲学性の理解を曖昧で不鮮明なものとする。
 特に難しい事実を取り上げた記憶はない。この本を読むには高校の歴史程度の知識があれば充分だと思う。
 玩味熟読されたい。
                                                           著者

   連坊氏と辻元氏、このまま放置(?)していていいのだろうか?

2021-01-28 14:57:06 | Weblog
 連坊氏と辻元氏、このまま放置(?)していていいのだろうか?

 国会でこの両氏の質問をよく聴く。ただし内容はない。政府の一言一語にこだわりその揚げ足を取ろうとするばかりである。昨日の国会質問で連坊氏は、何かの事情で死去した29人のコロナ感染者を取り上げ、菅総理の言葉(陳謝の?)が足りないと、そのことばかり繰り返し追及していた。私でも、多分総理も、29人に対する哀悼の意は持っている。言葉にすれば、御不幸でした・冥福を、祈ります、としか言えないだろう。連坊氏はこれでは言葉が足りないと言うのか。総理に土下座しろとでも言うのか。コロナの死者は3000人に及ぶ。日本は感染者・死者ともに少ない。そしてコロナの終息の目途は見えない。ワクチン(それも効果のほどは解らないが)以外に有効な手段はない。こういう時総理の言葉尻を捉えて攻撃するのは不可解を通り越してバカバカしい限りだ。
 辻元氏にはパ-フォ-マンスが目立つ。「ソーリ、ソ-リ、ソ-リ」と繰り返し叫び不要な質問を繰り返す。正直「道化」だ。
 そして両氏に共通する事は、質問の内容に積極的意図(政策返還、政策提案)が全くないことだ。立民党は両氏を国会質問によく起用する。他に人材はいないのか?両氏への批判は立民党自身にも適用される。私は保守のコアだが、その私でさえ実質的野党不在の状況を危惧する。立民党も連坊・辻本両氏をひっこめた方がより信頼されるのではないのか。ありていに言えば両氏は立民党の恥さらしだ。
 付言する。総理が能弁・多弁である必要はない。必要事項のみ言えばいい。あとは政策の成果次第だ。もう一つ、世論はこの頃問題にしないが、連坊氏の国籍はどうなっているのか。台湾国籍だったと思うが、防諜はどうなっているのか。台湾には蒋介石に連れてこられた中国人が人口の15%はいる。台湾軍から中国への軍事情報は筒抜けだという。私は二重国籍は好まない。
2021-1-28

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

日本史入門(30)補遺  津田梅子

2021-01-28 11:54:40 | Weblog
日本史入門(30)補遺 津田梅子

明治4年に7歳で渡米し、10年余滞在し、帰国して女子の教育に一生を捧げた女性です。彼女の名を知らない人は稀でしょう。現在の津田塾大学の創始者です。彼女の生涯は彼女の父親津田仙の生涯を語ることから始めなくてはなりません。というのは梅子の人生を決定的に決定した渡米は梅子の意志ではなく、父親仙の意志により為されたのですから。7歳で親からひき離され、日本人にとってほとんど未知の国であるアメリカへ行く、という事は尋常の決断ではありません。考え方によっては非情冷酷な措置でもおあります。津田仙は1837年(天保8年)下総国(現千葉県)の藩主堀田正睦の家臣の子として生まれています。のち津田家に養子に行きます。仙は学問より、武芸に熱心な若者でした。ペリ-来航に刺激され、蘭学そして英語を学ぶようになります。幕府の外国奉行の通訳になります。渡米し半年アメリカを見る機会に恵まれます。帰国しH・ハッフォンの医学書を和訳して出版します。この本はかなり読まれたようです。この事は後に梅子が学校を設立し経営するに当たって重要な機縁になります。維新以後仙は官職から一切身を引きます。商才もあったようで、外国人用の野菜栽培を始めます。やがて農園を経営し、その延長上に学問的な農業経営を広め、学農社という学校も作ります。学農社は一時慶応義塾と並ぶほどの学校でした。仙が学校を作ったという事も、梅子の事業への刺激にはなっているでしょう。また梅子が学校を設立し経営するに際して、父親仙の影響力は無視できません。仙は明治初期の教育や事業においてかなりの知名度をもっていたようです。
 梅子は1964年(元治元年)江戸に生まれます。姉の琴子につぐ二番目の子供でした。男児を望んだ父親は失望し名もろくにつけませんでした。生後7日目に家族が、ちょうど芽が膨らんでいた梅にちなんで、梅と名づけます。仙は仕事の関係で、北海道開拓使次官の黒田清隆と昵懇でした。黒田は女子教育に熱心で、日本女性をアメリカに連れて行って、あちらで教育しようという考えを持っていました。この女子留学生のプランに仙は乗り、自身の子である梅子をその一員に加えてもらうことを望みます。こうして1871年(明治4年)に5名の日本人子女が米国に出発します。梅子は最年少でした。以上の事実から解ることは、梅子の留学には父親仙の強い意向が働いていたこと、仙自身の希望を梅子が代行する形になったこと、梅子は仙により男児として扱われたこと、などです。梅子は1871年に渡米し、1882年18歳で帰国します。なお五人の女子留学生のうち2名は1年で帰国します。梅子とともに長期滞在した、山川捨松(後大山陸軍元帥夫人)と永井繁子とは終生の親友になります。偶然でしょうが、この3名はすべて旧幕の出身です。
 アメリカではワシントン郊外の、Ch・ランメン(当時日本弁務館書記官)の家に滞在します。はじめ1年という約束でしたが、結局梅子はこの家で10年余養われ教育されることになります。ランメン夫妻は二度目の父母ともいえましょう。むしろ梅子としては実父母より親しい存在ではなかったかと想像されます。ランメン夫妻は旅行好きで梅子をあちらこちらに連れていってくれました。彼らには子供はなかったようです。アメリカでの滞在が長くなるにつれ、梅子は日本語を忘れ、英語に習熟してゆきます。父母への手紙はすべて英文でした。梅子はコレギエイト・インスティテュトに入り、さらにト-マスサ-クルに進学して勉強します。成績は優秀でした。9歳洗礼を受けます。1882年18歳で帰国します。帰国時日本語の会話ができませんでした。日本語は勉強しますが、梅子にとって思いを自由に伝えることができる言葉は英語でした。
しばらく家でぶらぶらの毎日が続く中、新帰朝者の一人として招かれたパ-ティ-で
伊藤博文から、下田歌子が主宰する華族女学校の英語教師にならないかと、誘われます。梅子は華族女学校の教師になります。華族相手の教育は彼女にとってそう張りのある仕事ではなかったようです。米人の英語教師の紹介を頼まれた時、梅子は親友山川捨松の米国における引受先であったR・ベーコンの娘、A・ベーコンを紹介します。A・ベーコンは来日し華族女学校の外人教師になります。このベ-コンとハッフォンは梅子の人生にとって極めて重要な役割を果たします。
梅子は日本で、何をしていいのか解らない、華族相手の教師では物足りない旨を、ベ-コンに打ち明け相談します。ベ-コンは再度の留学を勧めます。華族女学校を休職にしてもらい、梅子は渡米しプリンマ-カレッジに入学します。生物学を専攻し、蛙の卵の発生の研究で論文を書きます。優秀なので残って学究の道に進まないかと言われ、心は迷います。この間A・ベ-コンは帰国して「日本の女性」という本を出版します。この本とベ-コンの影響で、梅子は自分の生涯の仕事が、女子の高等教育にあると次第に悟ってゆきます。ベーコンは梅子の思いを知り、相談に乗り、将来梅子が女子教育施設を作ったとき来日して協力すると約束します。またプリンマ-カレッジでもう一人の終生の友であるA・ハッフォンと出会います。プリンマ-を卒業して、オズヴィ-ゴ-師範学校でも学び、帰国します。第二回目の留学は1889年から1892年のあしかけ3年に及びました。
1897年来日していたA・ハッフォンに、女性の英語と教養を高める、高等教育機関の創立の計画を打ち明けます。ハッフォンは大賛成でした。1898年から1899年にかけて、梅子はデンヴァ-で開かれる万国婦人連合大会に日本代表として参加します。この前後彼女は女子高等師範学校の教授に任命されます。1899年高等女学校令、私立学校令が発布されます。女子の教育に政府も遅まきながら腰を上げ始めました。
1900年梅子は華族女学校英語教師と女子高等師範学校教授の二官を辞職し、女子英学塾創設に踏み切ります。梅子36歳の時でした。教師は梅子以下数名、大山(山川)捨松が顧問です。A・ベーコンはすでに来日して待機していましたが、すぐかけつけます。立学の精神あるいは目的は、英語教育、女子の教養の涵養、そしてキリスト教主義です。梅子はそれまでの女子教育が家庭科中心である傾向に批判的でした。収支会計の予測は2025円、麹町一番町に買った家屋は総建坪83坪(1坪は約3・3平米)、少し大きい民家のような校舎でした。来賓なし、宣伝なし、質朴で実のある教育が方針です。下手に大きくして潰れないように、堅実を旨としました。潰れた学校は父親の学農社はじめ先例はたくさんあります。梅子は慎重でした。最初のうちは梅子とベ-コンは無報酬でした。
 生徒はだんだん増えます。手狭なので、1901年校舎を元園町の醍醐公爵旧邸に移します。相当なぼろ屋でした。建坪は150坪です。土地買収費用は、米国で梅子の企てを応援するフィラデルフィア委員会の募金で補います。1902年A・ベ-コン帰国、代ってA・ハッフォンが来日し、教師陣に加わります。ハッフォンは後に梅子が病気に倒れて第一線から身を引いた後も経営を指導し、第二次大戦のすぐ前まで、日本に在住しました。1903年英学新報という、研究・評論などを主として載せる雑誌を発刊します。これは梅子と英学塾の宣伝になりました。1903年麹町五番町に1000坪の土地を買い、そちらに移設します。このころ生徒数は50名、教師の月給は最高で10円、梅子やハッフォンは無報酬でした。
1903年専門学校令が出されます。女子英学塾は認可されます。梅子は25円の月給を受け取るようになります。1904年社団法人女子英学塾になり、教員無試験検定の認可を受けます。卒業したらそのまま無試験で教員免許が取得されるわけです。学校のこの資格は私立学校では、19年間梅子の学校だけの独占でした。それほど教育内容に信頼があったのでしょう。梅子の教育は、発音にも語意文法にも曖昧さを許さず、厳しいものでした。梅子は教育とか授業が好きでした。厳しい中にも心の通うものがある、というのが学生一般の評判でした。学校の評判はよく、生徒数は増え続けますが、資金繰りには常に苦しみました。経理に苦しみ、授業で楽しむ、が梅子の毎日でした。
1907年病気療養をかねて米欧に約1年間の外遊をします。それまでの経営の苦労で外遊前は欠席がちでした。あちらにゆくと身体の状態はころりと良くなります。1909年家庭科を新設します。結果として家庭科の経営はうまくゆきませんでした。1910年、ヘンリ-ウッズ夫妻の寄付に基づき、新校舎が落成します。延建坪257坪、400人入る講堂もできます。生徒数は150人を超えます。1913年世界キリスト教学生会議に日本代表として出席します。ここで20000円の寄付を集めます。国内での寄付を加えて50000円、これで隣地である五番町の土地500坪を買い増します。
1917年糖尿病が発病し、長期間の入院生活を送ります。1919年辞任の意向をしめし、辻マツが塾長代理になります。以後梅子は学校経営にはタッチしません。1922年学校は小平(現在の津田塾所在地)を購入します。1923年関東大震災。この時A・ハッフォンは単身渡米し50万ドルの募金を集めます。これが全壊した校舎の復興資金になりました。大体1ドル2円と勘定してください。1928年勲五等、瑞宝章。1929年脳卒中の発作で死去、享年65歳でした。1933年女子英学塾は、財団法人津田英学塾と改名され、梅子の功績を称え記念することになります。1948年津田塾大学になります。
津田梅子の人生を見ていますと経営者という印象はあまり受けません。じみちにこつこつ努力し、その蓄積の上に、さらなる積み上げを計ります。意志が強く慎重なのが目立ちます。確かに新しいこと、独創的なことは小規模の方が成功します。しかし梅子は莫大な資産を暗黙裡に受けついでいました。それは名声と人間関係です。父親は農政界や教育界では知名人でした。だから梅子は留学できました。そして10年の対米経験と英語力はそれだけで利器でありブランドです。だから伊藤博文は梅子に華族学校の英語教師の職を依頼しました。10年以上にわたる華族学校での在職は多くの名流家族との人間関係を培います。また梅子のような存在はそれだけで、日米友好の橋頭堡になります。多くの親日家、特に女性の親日家は梅子の周りに集まります。その代表例がフィラデルフィア委員会です。この組織はアメリカの親日家が梅子の試みを応援するものです。アメリカでも当時決して女性が男性と対等であったのではありません。梅子の活動に共感し刺激されたアメリカの女性は多かったと思われます。その上、日本で母国語である英語を広めてくれ、キリスト教(文化)を宣伝してくれるのです。英学塾の経営における寄付の役割は非常に大きいようです。やや皮肉なことを言えば、寄付で経営できれば、これほど楽なことはない、となります。しかし寄付を集めるのも能力です。梅子の成功は、彼女自身の意志強い慎重さと、父子二代に渡り培った人間関係とブランド、そして英語とキリスト教の普及です。また時代背景もあります。女性の自立云々はこの頃から始まっていました。青踏社の運動はすでに開始されており、第一次大戦後は女性が職場に進出する契機になります。日本でも中産階級が増加しつつあった時代です。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

日本史入門(30)補遺  大隈重信

2021-01-27 15:51:10 | Weblog
日本史入門(30)補遺  大隈重信

この章では福沢・渋沢両名の造った企業と企業人の生涯を10名に渡り叙述しもって明治大正年間の経済活動の推移を考えてみます。福沢が中心になります。渋沢の活動は茫漠として掴み切れません。彼が関係していない企業はないと言われます。また彼のような、民間と官界、民間と民間を取り持ち資金情報人脈に渡って企業を援助仲介斡旋する人物を財界周旋人と言いますが、この仕事は郷誠之助や井上準一郎に引き継がれます。このような仕事は裏仕事で実態は確実には判明しません。従って渋沢関係では山辺武夫と高峰譲吉の二人のみを取り上げます。またここで断らなければならない事は、本来第29章「西郷隆盛」が先なのですが、パソコンの都合でこの章は修理中なので最終章である「福沢諭吉と渋沢栄一」を先行して記載します。最後に日本経済史の紅一点(ほんとは二点ですが)津田梅子の伝記で締めくくりたいと思います。
大隈重信は1838年(天保9年)に肥前佐賀に、鍋島藩砲術指南大隈信保の長男として産まれています。父親の禄は400石ですから、堂々とした上士の階層に属します。幼名は八太郎、小さい時は母親が心配するほど、おとなしい泣虫の子でしたが、長じるに従い腕白坊主になります。13歳時、父死去。藩校の弘道館に入ります。学制改革を企て、義祭同盟を結成します。蘭学を志し、長崎遊学。ここでオランダ人フルベッキからオランダ語とともに、英語も教授されます。佐賀に帰り、進言した藩営国際貿易の意見が入れられ、貿易方を担当し、長崎や大阪に商会を作ります。軍制改革も企てました。また副島種臣とともに、脱藩して徳川慶喜に大政返上を具申します。もっとも意見を聞いてくれたのは幕臣の一人でしたが。藩からは謹慎閉門を仰せ付けられます。この時副島も江藤新平も大木喬任も処罰されています。奇しき偶然でしょうか、この四人はすべて明治政府の閣僚になっています。
 明治維新になります。徴士になり、外国事務判事に任命されます。徴士とは、各藩がまだ人材の整わない政府が、各藩から人材を引き抜いて勤務させる制度です。新政府官僚のはしりです。
当時キリスト教徒の処分問題で、政府は外国特にイギリスともめていました。維新になっても日本は未だキリスト教は禁止だったのです。大隈は、日の出の勢いにあったイギリスの公使、傲慢で辣腕のパ-クスとやりあいます。単に宗教問題だけでなく、政府は外債返済の問題も抱えていました。1870年大蔵大輔に任命されます。財政担当者として最大の問題は幣制統一でした。幕末維新の動乱期、幕府も諸藩も新政府も金が要ります。諸藩の債務、諸藩が作った贋金、品質の悪い金銀貨、そして政府発行の太政官札などなど、が入り乱れます。明治政府は銀貨を正貨としましたが、このような乱雑な貨幣制度ではまともな経済政策は営めません。外国からは債務返還を催促されますし、贋金や劣悪な硬貨の正貨への引き換えも要求されます。放っておいたらどこかの土地を取られかねません。
(維新政府は政権をとりましたが、お金がありません。そこで由利公正の提案で太政官札を発行します。政府が出した紙幣です。信用がないので銀貨の半分以下の価値でしか通用しません。)
 明治維新の初期3年間の混乱を収拾するためには、より強い政権が必要です。維新回天に功績のあった、薩長二藩が主軸となり、それに土佐と肥前佐賀を加えて、各藩有力者を出し合い、政府を作ります、これを有司専制といいますが、実際は薩長連合政権であり西郷木戸連立政権といえるものでした。この体制下で、廃藩置県、地租改正、そして秩禄処分が断行されます。こういう情勢下で大隈は若干33歳で明治政府の財政責任者になりました。
 大隈はまず政府債務の整理から始めます。債務総額は、内債が3485万円、外債が280万円です。当時明治5年の政府総収入は2214万円でした。この内債の内、
 1843年(天保14年)以前の藩債は返済せず
 1844年から1867年(明治元年)までの債権は無利子50年年賦で返済
 1868年から1873年(明治5年)の債権は4分利3ヵ年据置25年年賦で返済する事になります。この内まともな返済は第3の条項だけです。無利子50年年賦などは、実際上返済しない、といっているようなものです。鴻池などはこれでひどい目にあっています。まあありてい言えば、事実上の借金踏み倒しです。反対に外債は、あくどい条件のものを除外して、85%は返済されています。
 次が財政健全化、幣制の整理です。その前に。政府の収入と支出の構造を変えなければなりません。まず秩禄処分です。旧幕時代、幕臣藩士は主君から米で給料をもらっていました。その分も明治政府は廃藩置県で背負い込みます。武士への給付のみで1700万円、政府の年間収入の35%を占めます。政府は支払いを債権化します。各石高に応じて金録公債を発行し、その利子だけ士族に支払うようにします。もちろん一定の期間だけですが。こうして士族は一種の年金生活者になりました。しかし実際の給付は本来の録米の価値に比べたら、小さく、給付は1/5以下になりました。秩禄処分とは武士のリストラです。士族は困窮しましたが、従来言われているような程度ではなかったようです。各自なんとか生計の道を見つけます。膨大な軍隊のリストラがかくもスム-スに行ったのは世界史上の奇跡ではあります。
 (随所に円が出てきます。円と両の関係は次の通りです。維新時、一両を一円に改名しました。ただそれだけです)
 出る方を削減したら、入る方を増加させねばなりません。地租改正を行います。旧幕時代は各田畑の収穫に応じて、米(厳密には石代納で金納に近い)で年貢を徴収していました。明治政府は、土地に値段をつけ、地券を発行します。その値段の3%を地租として徴収します。総収入は4400万円にのぼり、旧幕時代の徴収額の倍近くになりました。増税です。農民は怒り一揆になり、地租は2.5%に減らされます(この数字は新しい研究では異なり実際は減税になているようです)。
 金録公債、地券ともに単なる財政政策を超えた意義を持ちます。武士の給付も農地も債権化されました。つまりいつでも貨幣としてあるいはその代理として交換可能、蓄積可能なものになります。地租改正と共に田畑売買は自由になりました。田畑が自由売買になると、農業経営に熱心な農民が土地を買って集積し、大規模な経営を行うようになります。日本で始めて厳密な意味での地主が誕生します。事実彼らは当時のインフレの波に乗り、高価格の農産物を売って富裕になります。金録公債も地券もそのまま銀行資本になります。これらを担保にすればいいわけですから。特に旧大名家の公債を資本(1782万円)にしてできた第十五銀行は有名です。前田、島津、徳川、毛利、黒田、山内、池田など名が前がづらりと並んでいます。こうして資本主義的生産は加速されます。また財貨の債権化と銀行の発展は、政府による徴税を容易にまた公正なものにします。いざとなると銀行口座を調べればいいのですから。
 廃藩置県、秩禄処分、地租改正は明治政府の三大事業です。財政の基礎はこうして整います。これらの事業を大隈重信が一人でやったというのではありません。しかしこれらの事業が行われた明治4年から10年にかけての間、財政の主務者としてさらには参議筆頭として、大隈重信が政治を了導した事は事実です。
 明治6年征韓論による政変が起こります。大隈は財政の立場から征韓論に反対します。明治7年台湾征討、これは実行されます。この時の経費が直接の軍事費だけで350万円、関連経費を合わせると700万円になりました。
明治9年西南戦争。2700万円の太政官札を発行し、さらに1500万円の借金を政府は負います。当然インフレになります。インフレになると、輸入が増え、輸出が減ります。大隈財政に非難の声が上げられます。ここで大隈と租税頭(税務の主務者)である松方正義が対立します。大隈の意見は正貨が足りないのだから、輸入を抑えて輸出を増やせばいい、と言う考えです。これはこれで正しいのでしょうが、成果が上がるためには時間がかかります。輸入したいものはたんとありますが、輸出の増加はおいそれとは行きません。松方は流通貨幣量が多すぎると主張します。最も正当な対策は、流通から貨幣(正貨以外の)を引き上げる事です。大隈は正貨不足を補うために1500万円分の外資導入を提案します。この財政問題に、国会開設に関する意見の相違、北海道官物払い下げ不正事件などが絡み、明治14年大隈は参議を辞任させられます。44歳の時でした。伊藤、井上、松方など薩長藩閥政府から追い出されます。以後松方財政の時代になります。
大隈は福沢と極めて親しい関係にありました。議院早期開催(つまり民権主義)で意見が一致し、福沢門下慶應義塾卒の人材が官庁にたくさん採用されていました。この章で後に述べる中上川彦次郎などが代表です。彼らは手足として政権内部で活動し、大隈辞任とともに下野し、政党活動に従事しています。大隈は岩崎弥太郎の三菱とも近い関係にあり、慶応義塾卒の者は三菱に多く採用されたいます。岩崎の三菱汽船に対抗したのが渋沢率いる共同運輸ですが、大隈の辞任は三菱汽船に不利に働きました。1885年に三菱共同は合併し日本郵船ができます。
 野に下った大隈は翌年の1882年、45歳時、改進党を作ります。憲法制定と国会開設が日程に上った事を踏まえて、政府外から政治に影響を行使しようと思います。改進党はすでにできていた板垣退助の自由党に対抗し、イギリスの立憲政治をモデルにし、都市の中産階級を地盤にしようとしました。参集した主な者は、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、小野梓、林有造、大江卓、竹内綱、高田早苗、沼間守一、河野敏鎌、前島密、というところです。
同年、東京専門学校、現在の早稲田大学を開設します。学問の独立は一国の独立、が大隈の看板でした。
1887年伯爵。1888年山県内閣の外務大臣になります。前職の井上馨の鹿鳴館外交の評判が悪く、条約改正の一項に、外人判事の採用というのがあり、不評散々で、井上が大隈を後任に推した、という事です。大隈もやはり、外人判事の一項が仇になり、暴漢に爆弾襲撃されて重傷を負い、辞任します。
1889年憲法制定、そして第一回衆議院選挙。1896年松方内閣外相。1896年、第5回衆議院選挙で自由党は100名、進歩党(改進党の改名)は95名で民党の圧勝になり、第一次大隈内閣が成立します。議院内閣制の濫觴です。大隈は総理兼外務大臣、板垣は内務大臣副総理格、大隈の進歩党と板垣の自由党の連立政権、世に言う隈板(わいばん)内閣です。内閣成立前に、二党は解散し合同して憲政党を作っていました。連立政権はうまくゆかず、やがて内閣は倒れます。憲政党も分裂します。
1914年、第二次大隈内閣成立。山本権兵衛内閣がジ-メンス事件で倒れた後、元老井上馨の推挙でした。その時大隈は77歳でした。対中国21か条要求が行われたのはこの内閣の時でした。
大隈の二回にわたる組閣を見ていますと、主流派が危機に陥った時、救援に借り出され、利用されたような印象を受けます。
1916年侯爵、1922年(大正11年)死去、享年は85歳でした。
大隈重信と言う人は、楽天的で気宇壮大、いささか放言壁、ほら吹きの傾向のある人です。逆に将来を見通す力には鋭いものがあります。エネルギ-に満ちた人ですが、今こうして振り返れば、彼の最も活躍できたのは明治維新から14年の政変まで。31歳で外国事務局判事に任命されてから、44歳で筆頭参議の座を追われるまでの14年間でしょう。財政の専門家というのはなかなかいないものです。明治の財政は、少なくとも30年までは、由利公正、大隈重信、松方正義の3人がリレ-で切り回していたようなものです。そして優秀な財政家で政治家として成功した人もいません。松方正義も高橋是清も政治家としてはもう一つでした。
明治初期の10年間、財政が危機に瀕した時、どうするかといえば、答えは決まっているようです。手法は現在でも変わらないでしょう。債務は切り捨てます、増収(増税)を計ります、そして後はリストラです。明治政府が内債を処理し、地租を改正し、士族の録を事実上取り上げたのを見て、私はそう思います。大胆にして、あまり複雑に考えない方がいいのでしょう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

   日本史入門(30) 福沢諭吉と渋沢栄一

2021-01-26 14:50:32 | Weblog
日本史入門(30)福沢諭吉と渋沢栄一

1 福沢諭吉は1835年中津藩士の次男として大阪の蔵屋敷に生れる。父親百助は下級武士、学識ゆえに経済官僚として重用。45歳百助急死、脳卒中、諭吉1歳、一家は九州中津に転居。諭吉の初学は遅れる。14―15歳で漢学を習う。21歳長崎遊学、学費は長崎の地場役人の家事手助けで稼ぐ。非常に有能、養子にと言われる。家老の息子に諭吉の能力が嫉妬され、中津に帰される。諭吉が身分格差を憎み自由平等を主張したのにはこの種の体験も影響。諭吉は江戸大阪で蘭学学習を希望。親戚は猛反対、母親のみが理解者。
2 22歳大阪の緒形洪庵の適塾に入門。あんまをして学費生活費を稼ぐ。威勢のいい若者が集団で住む塾、百鬼夜行、自由。適塾からは幕末維新の人材が輩出。大村益次郎(兵部大輔、日本軍制の創始者)、大鳥圭介(函館で新政府に抗戦、後新政府に出仕、京城公使)、橋本左内(越前藩主松平慶永の参謀、安政の大獄で刑死)、高松凌雲、長与専斎、菊池秋坪、花房元淑。長与と菊池の家系は後々まで学者の家として栄える。
24歳適塾の塾頭に。諭吉の学問の出発は遅かったが、上達は早い。ほとんど独学。適塾の学風は自由で諭吉向き、緒形洪庵にも信頼される。25歳藩命で江戸出府、中津藩士に蘭学教授。深刻な体験。開港地横浜見物、蘭学の腕試しと、オランダ語はどこにもない、さっぱり解らない。世界は英語の時代に、と諭吉は悟る。方向転換も早い。英語を猛勉強。手に入る辞書で独習、簡単な英蘭会話辞典、英語を知るオランダ語通訳に尋ねる。
3 転機、咸臨丸の米渡航。司令官木村喜毅の従僕、咸臨丸に乗り、サンフランシスコへ。ウエブスタ-辞書他2冊の英書を買う。諭吉の英学は進む。この間藩の上士の娘と結婚、多くの子女をもうける、子煩悩、子煩悩ぶりは弟子達にも向けられる。
29歳、遣欧使節に随行欧州に、西洋社会の観察。幕府から与えられた400両の支度金の大部分は英書購入に。本の一部を翻訳して出版。「西洋事情」、「唐人往来」などの本を書き西洋社会を紹介。幕臣に、外国奉行支配翻訳方、扶持米150俵。長州撃滅論を幕府に上申。攘夷はまっぴら、攘夷を唱える長州を討つためには外国に頼ってもいいと。
34歳幕府の軍艦受取委員随員として渡米。5000両の金を集め洋書購入。独断専行、正しいと思えば大胆気まま。謹慎。洋書の翻訳。諭吉の購入量が膨大で、洋書の値崩れが起こる。西洋文明の紹介には大いに寄与。
4 慶応4年(明治元年1868年)私塾を拡張、新銭座に学校開設。慶応義塾大学の濫觴。4年後三田に移動。断髪し刀も処分、読書渡世の一小市民をもって任じ、若者を教育しつつ平民の生活に徹しようと。諭吉は新政府を信用せず、攘夷攘夷といっていた連中に何ができるかと、新政府への出仕は固辞。新政府の方針は文明開化へがらりと変る。諭吉と新政府は協力しあう関係に。
諭吉の方針、文明開化、西洋列強に追いつき追いこせ。西洋の文化や社会組織を日本に紹介輸入し啓蒙教育。明治政府の富国強兵と一致。英語教育、英書学習、翻訳、講演、著述、教育と英学の一手専売。「学問のすすめ」「文明論の概略」は100万部以上売れベストセラ-。稿料は事業経営、義塾運営などの資金に、商売上手。
文明開化は異なる文明の衝突。日本は異文明をどう受け取り、消化しようか必死だった。下手をすれば植民地。外国に行った人間は一握り、なにをしようにも解らない。三度渡米渡欧、英語達者、翻訳能力に優れ、多くの啓蒙書を出し、加えて優秀な門下生の一団を抱える諭吉は貴重な存在。唯一の開明的知的集団。政府も彼に聴く事は多い。一例、東京府の警察制度の基礎は諭吉の考案による。諭吉が特に警察制度に詳しいとはいえないが、洋書のどこかを読めば大体の事は解る。あとは諭吉の頭脳で翻案してゆくだけ。
5 横浜正金銀行と明治生命の設立に寄与。外為銀行と生保会社。貿易にとって外国為替と円の比価を監視介入する金融機関は不可欠。横浜正金銀行は日銀と並び金融機関の基軸。後に東京銀行になり三菱と合併。
保険事業は理解されにくい。なにもなければ騙されたような気分。諭吉は生命保険の必要性を説いてまわる。保険には統計の知識が必要。独立と数理を尊重する諭吉の得意分野。明治生命が設立される。保険金も政府民間の資金に化ける。外為と保険は経済学上の知識を特別に必要とする。諭吉は大隈重信と親しかった、大隈を通じて三菱の岩崎弥太郎とも親交、慶応義塾は三菱の人材補給所に。
6 福沢諭吉の信条は人格の独立と自由、民権論者。彼が書いた「国会論」は国会開設運動の支柱の一つ。民権論と経営の自由は車の両輪。日清戦争を支持、文明と野蛮の戦いとみなす。脱亜入欧。国権拡張も主張。諭吉は他者に縛られるのが大嫌い、彼の心情がそのまま独立自由の信条に。彼は実証性と功利性を好む、実業家向き、企業経営が好きだった。
7 諭吉の歴史的役割は何か。自由平等人格の独立民権論を主張。啓蒙教育。西欧の技術と文化の紹介翻訳。政治経済への提言、企業経営に助言。彼自身も慶応義塾と時事通信を作り経営。慶応義塾で人材を育成、時事通信で世論を指導。啓蒙、教育、助言、世論指導、経営と極めて多彩な活動を民間人として大規模に行い、国家が進む方向に大きく寄与。それをあまり心労とせず明快淡々とやり遂げる。大酒のみ、1901年66歳死去。死因は脳卒中。
8 福沢山脈。彼が育てた財界人は非常に多く明治大正の実業界で活躍、日本経済の背骨を作る。大物は朝吹英二(鐘紡)、中上川彦次郎(三井物産)、荘田平五郎(三菱長崎造船所)、藤山雷太(大日本製糖)、武藤山治(鐘紡)、池田成彬(三井物産)、藤原銀次郎(王子製紙)、阿部房次郎(東洋紡)、小林一三(阪急電鉄)、福沢桃介、松永安左衛門等。

9 渋沢栄一は日本経済、日本の資本主義の生みの親指南役、明治期の経済活動のほとんどに関与。渋沢は1840年埼玉県に生まれる。生家は農耕の他、養蚕や藍玉製造販売も営む豪農。父親は武士になろうと志した人。栄一の環境にあって武士と農民商人の区別は曖昧。武芸を学び漢学を習得、異常ともいえる記憶力と旺盛な知識欲、優れた商才。
 尊皇攘夷運動に魅かれ、横浜の外人居留地焼討ちを計画。周囲に説得され断念、京都へ。一橋慶喜の家臣に。栄一は慶喜の側近になり、経済面で活動、一橋家領の殖産興業や藩札発行に関わる。慶喜は将軍になり、栄一も幕臣に。
10 遣欧使節随員に選ばれる。大使徳川昭武の側近として欧州へ、パリ万博を見、民主主義と資本主義経済の実態に触れる。この経験を土台にして栄一は明治期の経済活動で活躍。滞欧中大政奉還と鳥羽伏見の戦、幕府瓦解、慶喜は静岡の一大名に、栄一も浪人生活。
 30歳、新政府の財務次官大隈重信に懇請され出仕、国税庁長官に。大隈に代わる井上馨の下で当時の経済政策の事実上の立案者遂行者の役を務める。廃藩置県の際の処分案の大綱は彼の作成。渋沢栄一の本来の希望は民間の企業家になること、政府内の対立を機に辞職、以後が彼の活動の本番。
11 第一国立銀行の設立、国立銀行は現在の銀行とは異なる。米国の銀行を模範として作られた発券銀行。政府の保護制限下に、各国立銀行独自の判断で独自の銀行券を発券。銀行券を貸し出しその利子で稼ぐ。預金や為替取扱もするが、現在の普通銀行と決定的に違うのは銀行券発行資格。秩禄処分が行われ、武士大名は金録公債を与えられる。これが銀行資金に。国立銀行は増え、100以上の銀行ができる。国立銀行の発券なども寄与し、通貨が膨張しインフレになり好景気に。反動不況下、国立銀行は潰れるか普通銀行に。渋沢が設立した第一国立銀行は生き残り、第一銀行として発展、現在、安田勧銀とともに瑞穂銀行に。明治30年日本は金本位制に移行、渋沢ははじめあまり賛成ではなかった。
12 手形交換所の設立、手形取引の利点は債務が貨幣に転換する事。手形授受の頻度が大きい分、貨幣流通量が増える。資本主義発展のためには手形取引は絶対必要。西欧では手形取引が発展するにつれ銀行そして金融業務が成長。日本にも手形は以前からあった、大阪堂島の米売買。下地のある日本の経済活動の上により新しい機構を渋沢は導入。手形取引の前提は信用。信用のないところに手形はない、経済行為もない。
13 鉄道敷設、渋沢は明治の鉄道敷設のほとんどに発起人か相談役として関与。鉄道は産業の動脈。
14 紡績業勃興への貢献、渋沢の紡績業への寄与は3つ。インド綿の採用、外国商人による販路独占への対抗戦線結成、そして大阪合同紡績会社の設立。合同紡は1882年設立、日本で始めての大規模工場紡績会社。中小紡績会社は技術の導入に苦労。外国人は技術の肝心なところは教えない。渋沢はロンドンで経済学を学んでいた山辺丈夫に機械工学を学ばせ、帰国後彼を合同紡の技術総責任者に任じ、会社を運営。山辺は一工員としてイギリスの工場にもぐりこみ独力で機械の操作を習得。英国人技師は、日本人だけでは工場は絶対運営できないと主張。山辺ははねつける。大阪合同紡績は合併に合併を重ね、現在では東洋紡績に。紡績業は産業革命の起点発火点。
15 海運業への寄与、海運業の発展は三菱の岩崎弥太郎に始まる。西南戦争で政府の軍需輸送を独占した三菱汽船は一時日本の海運業を独占。対抗して共同運輸設立。渋沢は両者の調停に動く。両社は合併して日本郵船に。海運業と紡績業は密接な関係。輸入するインド綿、輸出する綿糸綿布は船で運ぶ。運送業者は日本人が望ましい。国策紡績業発展に同調、融通はきく、運賃も安くなる。紡績業と郵船の提携を計り促進した人物が渋沢栄一。両産業加えて鉄道は近代日本発展の牽引車。これらの産業は多くの後方関連産業を必要とする。紡績業は機械製造を賦活、運輸は造船を、機械製造造船鉄道は製鉄製鋼業の発展を牽引。
16 商工会議所の設立、設立の趣旨、法案作成および法制度の制定改廃への意見具申。官庁への経済統計の報告、官庁からの諮問に答えること、そして商工業関係者間の紛争の調停等が商工会議所の役割。商工会議所は民間経済を代表し、政府官庁との関係を仲介。商工業者の社会的立場を改善し、官民提携を促進。
17 理化学研究所の設立、1915年タカジャスタ-ゼとアドレナリンの発見者でありアメリカで活躍していた高峰譲吉と渋沢が協力して理化学研究所を創設。当時の日本に研究所はほぼ皆無。創立者の名簿には皇族華族、学界産業界の錚錚たる名が並ぶ。研究所創立の主旨は重化学工業の発展に資すべく民間で研究所を運営すること。研究成果を売って経営。第三代所長大河内正敏の時、研究所は大発展。日本最初のノ-ベル学者湯川英樹と朝永振一郎はこの研究所で育つ。自由な研究ができるという定評。幾多の曲折を経て現在も研究の最前線で活動。
18 渋沢栄一の最も重要な事跡を簡潔に述べた。他にいろいろな文化事業にも関係。渋沢の活動を岩崎弥太郎のそれと比較すると、後者の方がはるかに自己の営利性が目立つ。対して渋沢は個人の事業の発展もさることながら、日本経済全体の起案者、調停者、指導者、世話役になる。渋沢栄一は日本資本主義の産みの親、育ての親。1931年満州事変勃発の年92歳の長い人生を終える。
19 日本は明治維新を遂行、世界史で稀有の事業。より大きな事績がもう一つ。日本は産業革命を自力でやり遂げた唯一の国。産業革命の始まりはイギリス。資本は植民地からの収奪、新大陸からの膨大な銀の輸入、貨幣資本の飛躍的増大、煙草砂糖茶コ-ヒ-など奢侈品の輸入、消費の刺激、貨幣量の増大。イギリスの農業と製造業の革命は新大陸からの収奪物資で遂行された。販路としての植民地加えて奴隷売買、収益は膨大。フランスドイツもイギリスの顰に習う。アメリカは原住民から土地を、黒人奴隷から労働力を奪い、資本はイギリスからの外資で賄う。土地、労働、資本、をただ同然で手に入れアメリカの産業革命は行なわれる。技術や知識の伝播は西欧諸国間では極めて容易。イギリスから独仏蘭へは極めて近距離。アメリカへの渡航も日本より有利。同種の言語同志、意志疎通も容易。
 日本の産業革命は欧米と比べ特異な様相を持つ。奴隷制も植民地も日本にはない。知識と技術の輸入は遠距離と言語障壁のために著しく不利。第一次産業革命が達成され第二次産業革命に突入する1900年前後まで外資を導入せず、自国の資本で産業の近代化を成し遂げる。世界史上稀有な事例。なぜ日本は自力で産業革命へ離陸できたのか。最大の理由は識字率の高さ、人的資本の豊富さ。肝要なものは人材。日本は君民一体の平等な社会。日本一国で独立した文化圏。日本は独自の発展を遂げた、将来も独自の発展をしてゆくだろう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


日本史入門(29)補遺  徳川慶喜

2021-01-25 14:46:26 | Weblog
日本史入門(29)補遺 徳川慶喜

 徳川15代将軍慶喜の32歳までの人生はそのまま幕末動乱混迷の時期と重なります。そしてこの混迷を象徴するように彼慶喜は幕府と朝廷の間を(良く言えば)調停(悪く言えば)右往左往しています。徳川家一門という意識が強いと同時に、水戸藩出身という状況ゆえに尊王の気持ちも強く、この事が彼の進退を複雑で不可解なものにしています。
 慶喜は天保8年(1837年)江戸の水戸藩邸で生まれています。父は御三家の一つ水戸家の当主斉昭、母は有栖川家出身の正室登美宮吉子でした。斉昭は熱心な尊王主義者(水戸家は光圀の時代から尊王です)であり、早くから水戸学に基づいて藩政改革を行っています。母親は内親王に相当します。慶喜はそういう両親を背景として誕生しました。彼が生まれた天保8年大坂で大塩平八郎の乱が起り、幕府の屋台骨にひびが入ります。それを立て直すために行われた天保の改革は2年後失敗し、幕政は停滞し混迷を深めて行きます。慶喜はそういう時期に生れました。幼名は七郎麿、2歳時水戸へ送られて厳しく育てられます。慶喜は正妻の子としては二番目なので水戸家の後嗣予備として大切に育てられ、父斉昭も彼の優秀さを認めており、将来将軍後継にする腹案をもっていました。弘化4年(1847年)10歳、慶喜は一橋家を相続します。慶喜が一橋家を継いだ当時、将軍位は極めて不安定でした。家慶の後嗣は家定ですが、この人は魯鈍とも言われ少なくとも言語障害があり、将軍としてはふさわしくないと父家慶も思っていたようです。
嘉永6年(1853年)ペリ-が浦賀に来航して通商を求めます。将軍家慶は重病で間もなく死去します。13代将軍は家定になります。家定の後嗣をめぐって政界の意見は二分されます。一つは松平慶永(春嶽)を中心とする有志大名、山内豊信(容堂)、島津斉彬、伊達宗城らが推す一橋慶喜、もう一つは井伊直弼を中心とする譜代大名の一群です。本来幕政は譜代大名旗本(つまり徳川家の家臣)が行っていました。御三家・家門大名(親藩)まして外様大名は幕政に口を出せません。しかしペリ-来航のショックで時の老中首座阿部正弘は、事態への対処の意見を全国の大名そして武士一般に求めます。こうして本来幕政の中核であった譜代大名の政治的発言権は低下します。そういう状況で一橋慶喜は将軍後継に推されました。この派の中心は福井藩主家門大名の松平慶永です。彼は時局緊急に鑑み英名の聞こえ高い慶喜を将軍後継に推します。安政5年(1858年)、慶喜22歳の時です。譜代大名は彦根藩主井伊直弼を中心に団結し、将軍後継は血統に依るものだと主張し、紀伊藩主徳川慶福(後将軍になって家茂)を推します。結局10歳の幼童慶福が第14代将軍家茂として就任します。幕閣では通商開国の可否を決められません。決定は京都の朝廷に持ち込まれ、条約勅許という問題が浮上してきます。幕府は幕府自身の手で自らのイニシアテイヴを放棄しました。
家茂が将軍、幕政の中心者は大老井伊直弼です。井伊は幕政を従来の譜代大名中心に直そうと努めます。松平慶永(春嶽)を中心とする有志大名はほとんど隠居させられ、反井伊の象徴でもあった一橋慶喜も安政6年(1859年)23歳の若さで隠居謹慎に処せられます。以後3年間慶喜は政治活動を禁じられます。この間安政5年(1858年)日米修好通商条約が結ばれます。違勅すなわち天皇の勅許を経ない条約締結です。万延元年(1860年)井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。ついで翌翌年文久2年(1862年)筆頭老中安藤信正が坂下門外で襲撃され負傷します。文久2年(1862年)慶喜は謹慎を解かれ政治活動を許されます。この年薩摩の島津久光が上京し攘夷を呼号し江戸にもやってきて、幕府の政治に容喙します。老中の上に政治総裁として松平慶永を、将軍後見役として一橋慶喜を推し、任命させます。  
慶喜の地位は不安定なものになります。将軍であるようで、将軍でないような、ややこしい立場に立たされます。この不安定さは将軍になるまで、そしてなってからもずっと続きます。従来幕閣の中心であった老中以下譜代大名・旗本とも、不安定を通り越して険悪な関係になります。慶喜の側近二人が旗本によって暗殺されています。こうしてできた幕政は有志大大名の連合を中核とする公武合体政治でした。この体制の頂点に慶喜は位置づけられます。しかし慶喜がこの立場を完全に容認していたわけではありません。付言すれば徳川将軍15人中、江戸城に住まなかった唯一の将軍として慶喜は記憶されます。
当時文久2年(1862年)京都では攘夷論が真っ盛りでした。長州は攘夷奉承を掲げ、過激派の浪士が暴れまくります。公卿は国事用掛を創設し政治的意見を述べるようになります。その公卿には尊王の浪士たちがいろいろ意見を吹き込みます。土佐勤王党の武市半平太(瑞山)を中心とする天誅のテロが横行しています。本来行政官である京都所司代・京都奉行では手が付けられません。まず京都の治安を回復しなければなりません。こうして慶喜は文久2年(1862年)12月京都に上ります。以後明治元年(1868年)初めまでの約6年間慶喜はその政治活動のほとんどを京大阪で行う事になります。慶喜の任務は二つあります。まず京都の治安の回復です。そのため嫌がる会津藩を無理やり引っ張り出し、藩主松平容保を京都守護職に就けます。新選組はその配下です。次に攘夷奉承です。慶喜の立場は不安定でした。彼の活動の場は京都です。一方江戸にはれっきとした将軍や老中がいます。政治の主導権はこの両者の間で揺れ動きます。次に慶喜は攘夷を遂行するために上洛したのですが、彼の本心は開国にあります。この点では江戸の政府も同様です。この二点の不安定さのゆえに慶喜の行動は矛盾した動きを見せます。彼が非常に賢く先を見る(見すぎなのですが)力があったことも、周囲から彼の活動を不可解なものにしています。
文久3年(1863年)8月18日文久の政変で長州は京都から追い出されます。主役は薩摩藩と会津藩です。こうして京都の治安は回復されます。同年12月慶喜は朝廷から参預に任じられます。松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城などと一緒です。これは雄藩有志大名の連合政権を意味し、徳川家はその一員にすぎません。慶喜はこれを嫌って翌年元治元年(1864年)参預会議をぶっ壊します。代わって慶喜は朝廷から禁裏守護総督に任命されます。慶喜は大名連合(公武合体)か徳川親政か、開国か攘夷か、京大阪か江戸かの三つの線で両端を維持します。この間7月禁門の変が起り長州は敗北します。幕府の力は一時復活したかに見えます。事実復活したのかも知れません。そして長州征討が企てられますが、薩摩の西郷隆盛の斡旋で長州は謹慎し征討は取りやめになります。慶喜は長州征討には熱心でした。
慶応2年(1866年)7月14代将軍家茂が死去し、8月慶喜が徳川宗家を相続します。禁裏守護総督は辞任します。同年12月征夷大将軍に任じられます。宗家相続と将軍就任の間に4か月の時日がある事が微妙です。慶喜はこの間雄藩連合と徳川専制の間をうごめき、状況を有利にしようと思っていたのでしょう。時の孝明天皇は一にも二にも幕府を信頼していました。その天皇は将軍就任とほぼ同時に死去されます。慶喜にとっては痛手です。孝明天皇死去は暗殺によるものではないかとの疑いがあり、この疑いは捨てきれません。私は岩倉具視による暗殺説を取ります。あまりにも討幕派にとってタイミングが良すぎます。多分西郷や大久保も関与ないし黙認していたのでしょう。以心伝心、暗中跳鬼、目的は手段を正当化する、まさしく闇の中の謀略です。
この間同年1月薩長両藩は攻守同盟を結んでいます。6月第二次長州征討開始、しかし戦況は思わしくなく、幕府は長州を降せません。薩摩は非協力であり密かに長州を援助します。12月孝明天皇が没します。これで開国は容易になりますが、薩長と幕府の緩衝地帯は失われます。慶応3年(1867年)に入り松平・山内・島津・伊達の四侯は兵庫開港問題で慶喜に圧力をかけ、有志大名連合政権を設置しようとしますが、慶喜に体よくあしらわれます。そして5月15日兵庫開港の勅許が下ります。慶喜の粘り勝ちです。この辺から薩摩は(そして当然長州も)蔭に隠れていた黒幕実力者である中下級藩士、具体的には西郷隆盛、大久保利通たちが表に出てきます。彼らは諸侯連合による話し合いではらちがあかず、武力行使しかないと覚悟します。10月13日討幕の密勅、御年15歳の明治天皇に勅命など下せませんが。長州征討に失敗したとみた慶喜は、土佐の後藤象二郎などの進言を入れて慶応3年(1867年)10月14日、朝廷に大政を奉還します。将軍位は保留します。雄藩連合公武合体路線に乗り換えます、あるいはそのように見せます。慶喜の腹は奉還された政治を朝廷や雄藩だけでどうできる、どうせ徳川に泣きついてくる、というところです。12月9日薩摩は、いやがる越前尾張土佐安芸藩の尻を叩いて、御所に兵を入れ占拠して王政復古を宣言します。このク-デタ-の圧倒的主力は薩摩兵でした。他の四藩は寡少な兵力を申し訳程度に出し、加えて薩摩藩兵により監視されていました。王政復古では、将軍も関白も廃し、総裁・議定・参与の制度に切り替えます。更に薩摩は慶喜に辞官納地(将軍位を含むあらゆる官位の剥奪と徳川家の所領700万石の返還)を命じて慶喜を追い詰めます。当時の常識ではこの措置は遣りすぎで慣例違反です。ここで松平慶永(春嶽)以下の雄藩(多分島津久光も含めて)は西郷大久保岩倉と一線を画しだします。慶喜討伐か否かで小御所会議が開かれ、対慶喜協力派の土佐藩主山内容堂と岩倉大久保の間で長時間激論が交わされます。事態を決したのは西郷の「短刀一本あればいい」という暗殺の示唆でした。容堂は黙ります。この辺は大名とは甘いものです。12月16日慶喜は大阪城で各国の公使を引見し、自分が主権者であることを明示します。薩摩そして罪を免除され入京を許された長州は戦争必至と思い定めます。この時点では慶喜も薩摩も開戦はできません。開戦の理由がないのです。この前後西郷は江戸市中で、浪士たちをして強盗放火など市中攪乱を始めさせます。挑発に乗った庄内藩兵と幕臣は薩摩邸を焼き討ちし破壊します。西郷はこの事態を宣戦布告と取ります。激昂した幕臣幕兵は続々上洛し事態は緊張します。慶喜は幕臣の激昂を抑えきれません。下手に抑えたら殺されかねません。翌慶応4年(明治元年)正月早々から鳥羽伏見の戦が開始されます。江戸を攪乱した浪士の首領は相良総三と言います。彼は後新政府軍の先鋒として東山道を東征し、途中で年貢半額を触れ回り、偽官軍として処刑されています。実情は解りません。まさしく闇から闇です。
西郷が討幕を決心した重要な動機として、幕府の軍事力充実があります。阿部正弘以来幕府は、軍制改革・政治改革を推し進めてきました。鳥羽伏見戦の時点で海軍力は幕府が圧倒し、陸軍歩兵部隊(後戊辰戦争で大活躍します)も充実されつつありました。慶喜の将軍就任以後この改革は加速されます。慶喜特に側近の勘定奉行小栗忠順はフランスからの借款で軍備を整え、横須賀に造船所を設け、兵庫商社の創立などを計画していました。幕政も老中制度を廃止し内閣制に切り替え、全国は郡県制にしようとしていました。あと一年戦が遅ければ薩長は歯が立たなかったでしょう。西郷大久保それに長州の木戸もこの事態を恐れました。
慶喜が敗れた原因の一つに江戸・京大阪間の連絡の悪さがあります。幕軍の主力は江戸にあります。政治は京大阪で進行しています。慶喜がその気になれば江戸から人数を遅らせ実力でク-デタ-を起こすことも可能だったのです。現に文久3年(1863年)6月老中小笠原長行が兵1000名を連れて上洛しています。この時慶喜と小笠原の連絡は不充分でク-デタ-は未遂に終わりました。結果から見て我々後世の者は幕府必敗論に傾きがちですが、幕府にも勝つチャンスはあったのです。小栗の構想はそのまま明治新政府に受け継がれて行きます。
元治元年年から明治元年までの5年間、幕薩間の激闘の主役は西郷と慶喜です。両者は自己と自己が封じる政権の運命をかけて戦いました。相互に狡知と謀略を駆使しあっております。相互に影響を与え合ったと言えましょう。嘉永安政の頃、西郷は慶喜を将軍にするために奔走しました。元治慶応年間では二人は仇敵になります。更に大きく思えば安政5年の大獄から江戸開城までの10数年間政局は混迷し暗闘が繰り返されてきました。安政の大獄で井伊直弼が登場しまず第一球を投げます、以後選手が相互に代わり投げ合い打ち合いの戦闘になります。最後の5年間は相互の陣のエ-スである慶喜と西郷の死力を尽くしての投げ合いになり、最後に西郷が勝利をおさめたと言えます。その間勤王佐幕、攘夷開国、公武合体討幕とスロ-ガンは入り乱れ、暗闘、謀略、戦闘、同盟、処刑、謀略などなどが相次ぎ明治に至ります。明治以後慶喜は政治社会から完全に引退し沈黙を守り、西郷は時局に受け身に終始します。日本史における最大の一つが終わったと言っていいでしょう。
明治元年(1868年)17日月幕府軍と薩長軍は鳥羽伏見で激突し、少数の兵力だった薩長が勝利をおさめます。慶喜は部下を見捨てて軍艦で江戸に逃げ帰り、謹慎して和平を請います。彰義隊の戦、戊辰戦争を経て新政府軍は明治元年秋までには北海道五稜郭の榎本軍を除く全幕府軍を降します。徳川家は静岡70万石の大名になり、慶喜も静岡で謹慎生活を送ります。明治2年謹慎を免除され静岡に住み続けます。以後の生活は狩猟と写真などの趣味生活がほとんどです。公的な発言は一切していません。朝廷との連絡は勝海舟、そして慶喜の男児は勝家の養子になっています。徳川宗家は田安亀之助が継ぎ、徳川家達と名乗ります。明治31年参内し明治天皇と面会します。慶喜62歳の時です。大正2年(1913年)77歳で死去しています。この間徳川宗家とは別個に公爵家設立を許されています。
かって将軍擁立で提携した西郷と慶喜が10年後に討幕か否かで対立し生死をかけて戦う事なります。歴史の「妙」と言えましょう。

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        日本史入門(29) 西郷隆盛

2021-01-24 14:02:42 | Weblog
日本史入門(29) 西郷隆盛

1 西郷隆盛、1826年薩摩の下級藩士の長男として鹿児島に出生。郡奉行書役、藩主島津斉彬の殊遇をえる。斉彬は一橋慶喜の14代将軍就任をもくろむ運動の旗頭。西郷は斉彬に伴い京都江戸に随行、斉彬の命を受け藩間外交に奔走、多くの処士藩士と交際面識を持つ、西郷の大きな政治資産。斉彬は突然死去。後継者はお由羅騒動で斉彬と藩主の地位を争った久光の子忠義、実権は実父久光に。安政の大獄。西郷にも嫌疑、幕吏に追われ僧月照と鹿児島湾に投身、西郷は助かり流罪。許されて帰参。久光との折り合いは悪く再び流罪。西郷と久光の外交方針が一致せず、西郷の独断を久光は憎む、西郷も久光を無視。
2 政局は流動的。藩内外の人望と外交能力を無視できず、大久保利通の勧めで久光は再び西郷を起用。久光は藩内では実権者、が田舎者、幕府諸藩の有識者実力者に面識がない。以後の政局は西郷主導。幕府からの離反、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争はすべて西郷の筋書き。1871年有司専制政権成立。西郷は長州の木戸と共に薩長連合政権の首班に。大久保木戸が条約改正のため渡米している間、政府は事実上西郷政権。多くの制度改革はこの時期企てられる。征韓論に敗れて下野、鹿児島に。萩、秋月、佐賀、神風連の乱にも超然。1876年西南戦争。翌年鹿児島城外城山で自刃。享年53歳。
3 西郷は人の意見をよく聴き取り入れる。西郷の最初の師は島津斉彬、開明的君主斉彬は薩摩藩を西欧の文化技術のモデルにした。藤田東湖は西郷に勤皇思想を吹き込む。幕府の命脈の限界を教唆したのは勝海舟。薩長同盟は坂本竜馬による斡旋。廃藩置県は長州藩士が提案し西郷の強力な首肯で実行。西郷政権下諸改革の実務者は江藤新平大隈重信。西郷には佐久間象山、勝海舟、横井小楠のような鋭い天才性は表面からは見られない。
4 西郷は情で動く。斉彬を敬慕するあまり久光を無視、月照との心中、維新政府に絶望し薩摩に隠棲、征韓論の政変で殺されてもいい朝鮮へ行くと思いつめる、岩倉具視の背信には淡々。最後の極めつけが西南戦争、私学校の生徒に担がれ、望みのない戦に参加、非合理的な行動も多い。だから西郷には人望が集まる、西郷のためなら命を捨てるという輩はごろごろ、藩内外の多くの知己友人は彼の最大の政治資産。
5 反面彼は徹底した現実政治家。西郷が本領を発揮するのは、幕府を追い詰め崩壊させるくだり。薩長同盟を秘密裏に結び、倒幕の密勅なるものを下し、慶喜に大政奉還させて朝廷に帰順を誓わせ、越前尾張両藩を強引に引きこんで宮中を軍事的に制圧、ク-デタ-を起こして朝廷から親幕勢力を駆逐、慶喜に辞官納地を要求、要人暗殺をほのめかし山内容堂を沈黙させ、最後は江戸市内を撹乱挑発、幕臣を激高させ戦争に引きずり込む、慶喜を朝敵に仕立て上げ、鳥羽伏見で勝つと慶喜の切腹を主張、などの一連の行動。開戦は乾坤一擲の試み、傍目には幕府の方が圧倒的に有利に見えた。あえて押し切り戦争までもっていったのは一重に西郷の意志と指導力。彼は戦争の中から新しい政府を創ると考えた。信念も凄まじいが、遂行するに手段を選ばないところはそれ以上に凄まじい。桜田門外の変以後、政局の大勢は公武合体。倒幕を主張する勢力は少数。西郷と久光の反目もここにある。西郷は敵長州と組み、主君島津久光を無視し騙して、公武合体派という多数を押し切る。鳥羽伏見や戊辰戦争がなければ新政権はあいまいなものに、旧大名中心の緩やかな諸藩連合政権が関の山。大改革はできない。流動する政局を煮詰め維新回天を為すために,幕府に与えた強攻強打の主導者が西郷。維新以前の3年間一貫して倒幕を考えていたのは西郷ただ一人。討幕、軍兵士の役割、政治の主体は民衆へ。
6 西郷は人の言をよく聴く。思い切ってやる時は人の意表に出る。そうなると人の言うことは聴きかない。優しく寛容な反面、強靭な現実主義者。彼の腹の中は誰にも解らない、西郷自身にも解らない。西郷と連合政権を組んだ木戸は西郷を信用できなかった。西郷とは気質思想ともにあわない大村益次郎は、西郷の叛乱を予測し大阪に軍事施設を集中。西郷を憎み嫌った島津久光も同様の西郷観。
7 西南戦争。征韓論政変後西郷は鹿児島に。薩摩系士官の大半は彼に従い辞職帰郷。薩摩は叛乱の火薬庫。県令の任命権は政府になく、鹿児島は治外法権。公費を使って軍事教育機関私学校を作る。西郷は弟子や子分のやるに任せた。
 政府も安閑とはしておれない。薩摩の叛乱は政府崩壊の危機に直結。首班大久保は密偵を使って挑発。私学校の生徒は暴発し、政府に押収された武器弾薬を奪い取る、叛乱は自然発生的に。西郷は8000人の薩摩兵とともに北上。最初の関門は熊本城、薩軍は攻めあぐねる。政府の援軍が到着して熊本城外の田原坂で激戦。政府は熊本南方に第二戦線を形成、同時に士族からなる警視庁抜刀隊を投入。薩軍は崩れ、球磨地方を迂回して豊後に退却。敗北必至となった時、それまで作戦には一切口を出さず傍観していた西郷の指導力が突然発揮される。薩軍全員政府軍包囲網を突破、九州山脈を縦走し薩摩に帰国、城山にたてこもる。西郷の指導力はこの時のみ発揮される。西郷は自分の死に所をえるためにのみ戦う。西郷は政府軍に向かって進み、銃弾を浴び別府晋介の介錯で自刃。付き従う軍士も桐野利秋以下闘死自決。
8 西郷は西南戦争で何をしたのか。勝つために何もしていない。自らは望むところではないが、自分につき従う弟子達の熱意にほだされやむにやまれず、自分の体はあんたがたにくれてやりましょう、というのが一般の解説。そうかな。彼らに死に場所を与えたのか、彼らを自分の死に場所に連れていったのか。西郷が載せられたのか、西郷が載せたのか。西南戦争は武士の集団自決。黒船来航から西南戦争までの四半世紀、西郷はあらゆる立場で奔走。幕府を倒し、新政府を樹立し、幾多の改革を手がけ、征韓論に敗れて下野。明治6年(1873年)の政変以後、彼には為すべき事はない。ただ一つ仕事が残る、戦士としての武士階層の消滅。秩禄処分、武士階層の生活基盤剥奪は彼の政権の時着手された。政策の総決算が西南戦争。武士の中の武士、薩摩武士団の壊滅は、武士階層全体の消滅。西郷はそこまで読んで自分の死の道づれに薩摩士族を連れて行ったのか。武士が武士身分成立時から持つ暴勇をいかんなく発揮せしめ、戦士としての死を全うさせたのか。戦争は個人戦闘に終始し、作戦らしい作戦は立てられていない。西南戦争は武士の犠牲葬送鎮魂の儀式、西郷は儀式の神祭司生贄。西郷の腕につかまれ8000の薩摩健児は嬉々として地獄の釜の中に飛び込んでゆく。西南戦争でもって武士の叛乱は終結。維新といわれる時代は終り新しい時代が始まる。

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   自国の首相の評判をおとしめるのはやめよう

2021-01-23 17:32:03 | Weblog
自国の首相の評判をおとしめるのはやめよう

 今日のネットニュ-スで「魅力のない菅首相」というのがあった。多分コロナ対策が円滑に進んでいないように見えるからだろう。コロナ対策で成功した国(台湾は例外か?最も今後はどうか解らないが)は無い。現在ワクチンの処方実践に奔命中だが、それとてどうだか。ワクチン以外には決定的な方策はないのだ。こういう時矛先は政府に向く。首相を無能視して憂さを晴らし、民衆を煽る。これがメディアの常套手段だ。しかしこんな事はやめよう。菅氏が魅力ないというのなら、他の国で魅力ある指導者ってあるのか?例を米国に取ろう。バイデン新大統領に魅力はあるだろうか。おいぼれ、痴呆の噂、中國との深い利害関係の噂、そしてひび割れて分裂寸前の民主党の絆創膏。こういうバイデン氏に魅力はあるのか。戦後歴代の米国大統領をとってみる。トル-マン、アイゼンハワ-、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード、カ-タ-、レ-ガン、ブッシュ(父親)、クリントン、ブッシュ(子供)、オバマ等々特に卓絶した魅力的人物は見当たらない(なおトランプ前大統領は目下未知数なので評価を保留する)。政策家としてはニクソンが一番優れていた。アイゼンハウワ-の人柄は良い。しかし何も言わず、仕事は部下(ダレス氏など)に任せた。また時代も良かった。米国の絶頂期だった。その程度だ。
 20世紀の100年間において魅力のある(好きというわけではない)政治家は三人だけだ。スタ-リン、毛沢東そしてA・ヒットラ-だ。人望掌握(扇動とも言える)、大胆な政策実行(成功の有無にかかわらず)、そして容赦のない大量の人間殺害、この三つの能力を彼らは備えている。そして10年以上に渡って政権を掌握した。当時の独ソ中の民衆には絶対的カリスマだった。人望があるのを通り越していた。しかし私はこれらの「魅力ある政治家」を頭上に頂きたくはない。話は脱線するが東京都知事の小池百合子氏、彼女は上記した魅力ある政治家の茶番だ。
 コロナ終息の見通しはまだ見えない。こういう時人々はイライラし憂鬱になる。そういう気分、灰色のム-ドを他人、特に指導者に投げつける、投影する。指導者を非難する。まあ指導者をいたづらに、非難し無能視するのはやめよう。念のために言えば、私が菅政権で評価した(ホ-、とうとうやったか、さすが総務・官房畑だなと思った)事は菅氏が就任早々学術会議にメスを入れた事だ。有無を言わせずほぼ無言でばっさりやった。30年前からこの会議は容共反日で鳴っていた。影の共産党だった。昔東大教授で丸山真男と言う人がいた。彼はほぼ終生、朝鮮戦争は米軍や韓国軍がしかけたものだと思っていた。彼も学術会議の指導者だったと思う。昭和40年代に入って、北朝鮮の侵略に依るものだという意見が定着している。

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