経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 コマツと河合良成(好評版)

2020-09-12 18:56:32 | Weblog
経済人列伝  コマツと河合良成(一部付加)

産経新聞(4-18)の記事より
 コマツ、GPSで建機「無人化」-- 精度数十ミリ単位、中韓に対抗
(本文)衛星利用測位システム(GPS)やセンサ-を搭載し、数十ミリ単位の整地作業を自動でこなす建設機械の開発にコマツが成功した。この自動化ブルド-ザ-を6月に米国で投入するほか、今年度中に油圧ショベルを欧州発売し、日本でも自動化機器を売り出す。低価格を武器に世界市場で攻勢を強める中国韓国製などに対しコマツは「自動化」「無人化」をキ-ワ-ドに、最先端の技術力で挑む。
「通信ネットワ-クの発達はすべての産業をかえようとしている」。ドイツで開かれる建設機械の見本市で16日、コマツの大橋徹二は胸をはった。発表したのがGPSで建機の位置情報を把握し、ブレ-ドやア-ムを動かして自動で整地や掘削をする「ICTブルドーザ-、油圧ショベルだ」。(以下略)
 この記事を見てコマツの事実上の創立者河合良成の人生をもう一度見てみたく思いました。
河合良成は土木建設用機械の製造会社である小松製作所を一流会社に仕上げた人物です。自伝を読んだ限りでは、意志の強い、自己主張のはっきりした戦闘的な人柄を連想させます。良成は1886年(明治19年)に富山県砺波郡福光町(現砺波市))に生まれました。家は代々豪農でしたが、祖父の代に事業をやりすぎ、資産を減らします。父親は汽船運航の会社を経営していました。良成は母親を敬慕し尊敬しています。母親は教育には厳しい人でした。世に出よ、つまり出世しなさいと息子である良成に常に発破をかけます。豊臣秀吉や楠正行の事歴をくりかえし、聞かされたそうです。良成は幼少の頃は温順だったと言います。数学が好きで、将来は科学者になりたいと思っていました。金沢四高に入ります。ここで有名な哲学者西田幾多郎の影響を受けます。西田哲学に魅かれるとは、良成もかなり瞑想的雰囲気を持った人物だったのでしょう。意志の弱さは罪悪、という西田の格律が心に浸みこんだと述懐しています。当時の優等生の公式どおり、東京帝国大学法学部に入ります。途中2年くらい休学かなにかしたようです。本人の語るところでは、神経衰弱でよく追試験をうけたとか。もっとも卒業試験はトップでした。
 明治44年25歳時、東大を卒業し、農商務省に入ります。大正7年臨時外米監理部業務課長になり、米価統制の実務上の責任者になります。本人の口ぶりではかなりな辣腕を振るったようです。本来彼は商務畑でしたが、能力を買われて農務畑で腕をふるい、嫉妬されます。この仕事をしていて一番感じたことは、統制経済のむなしさでした。統制すればするほど物は隠れ、統制を解けば物はでてくる、ことを経験します。この事は彼の将来の経営姿勢に大きく影響したことでしょう。
 米価問題、特に米騒動で寺内内閣が倒れます。良成も農商務省を辞職します。東京証券取引所の理事長郷誠之助に請われ、東証の理事になります。郷が東証をやめると、良成もやめ、大正13年日華生命(第百生命)保険会社に請われて、常務として勤めます。この間に東大の経済学部や農学部で取引所論の講義を行います。昭和14年満州国嘱託、17年東京市助役になります。五島慶太が運輸大臣になると、依頼されて船舶局長になります。終戦、幣原内閣の農林大臣になった松村謙三(同郷の先輩)の懇請で農林次官を勤め、吉田内閣では厚生大臣になります。官僚としては課長、局長、次官、大臣とすべてのクラスを経験したわけです。それもすべて異なる分野で。という事はこの人物の才能の多彩さをしめしています。厚生大臣時代に公職を追放され、大臣を辞任します。
 この間昭和初年に帝人事件なるものにまきこまれます。台湾銀行が20万株の帝人株を生保団に売りました。増資そして株価が上昇します。台湾銀行は背任、生保団は背任協力ということで告発されます。3年に及ぶ裁判が開かれ、良成個人は200日あまり収監されます。留置所で日ごろ食べない麦飯を食わされ下痢して体重は減ります。麦飯だけではなくストレスも強烈だったはずです。監獄になれた犯罪常習者ならともかく、普通の市民生活をしている人がこの種の施設に入ればたいていショックを受けます。拘禁反応も出現します。判決は「証拠不十分ではない 犯罪自体が存在しない」でした。しかし世間の目は厳しく、関係者は冤罪に泣きます。良成は数百ペ-ジにのぼる弁明書を書いて上申します。番町会という会合がありました。財界世話人と言われた郷誠之助の屋敷(番町にあります)に良成や、正力松太郎、渋沢正雄、伊藤忠兵衛、永野護などが集まりいろいろ話しあっていました。この会が裏で動いたといわれました。武藤山治が時事新報に番町会の存在を報じ、帝人株の動きと関係があるような記事を書きます。世間は騒然とします。小林中や良成の伝記では、帝人事件は存在しないとされます。武藤の伝記では、あったと書かれています。武藤が暗殺され、事件を取調べた検事が自殺します。いずれにせよ後味の悪い事件でした。帝人事件なるもの、としか書けない出来事でした。
1947年(昭和22年)、良成は小松製作所の社長に就任するように、当時の社長から懇望されます。同社は資本金3000万円という小規模な地方企業(石川県)でした。大正10年の創立で、戦前はトラクタ-などを造っていました。トラクタ-製造はGHQのある少佐に禁止されます。日本にはトラクタ-が必要ないということでした。当時一少佐や一大佐が日本全体の運命を左右するほどの決定権を持っていました。そして小松製作所では他の会社と同様、ストライキに襲われていました。20年代のストは現在の争議と根本的に違います。当時のストライキは、企業を資本主義という悪の砦とみなし、それを壊滅させることが目的でした。会社は組合によって管理されます。上部団体から派遣されてきたオルグ(組織する者)は従業員である一般組合員を扇動し、洗脳し、会社と幹部への敵意を植えつけます。経営がまともになるためには、このストを解決しなければなりません。  
良成の自伝では3時間で解決したそうです。解決したのは事実ですが、3時間というのは眉唾ものです。しかし一般組合員の説得のやりかたは決まっています。闘争はしんどいだろう、ストして銀行から融資を拒否され給料ももらえないのが良いか、それとも働いて給料をもらう方がいいか、と選択を迫ることです。つまりオルグと一般組合員を分断します。それから経理を話の解る代表に明らかにして、再建の方法を説得することです。時によっては第二組合を作ります。いずれにせよ政治闘争から経済的合理性を踏まえた論争に切り替えさせることが肝要です。たいていの人間は政治闘争など好みません。しかし算盤勘定はわかります。この際重要なことは、決断と計算とそしてなによりも誠意です。ともかく良成の社長就任により争議は解決しました。長引くと数年にもなるようで、戦後最大最悪の争議は東宝のそれでした。再建には資金が要ります。金融機関に頼みにゆくと、人員整理を要求されます。400人自主退職、600人を解雇して3000人にまで人員を圧縮します。過激な連中はこの際すべて解雇しました。今ならこのような指名解雇はなかなかできません。しかし会社が倒産の危機に陥り、再建を目指すとき、解雇、減俸、株式切捨は必然です。これが経済法則の冷酷なところです。経済学を「陰鬱な科学」と言った人もいました。(カ-ライル)
 小松製作所再建の方向は何でゆくのか?良成はブルド-ザ-で行こうと決意します。小松のシェアは国内の60%でした。そして戦後復興は必ず建設ブ-ムを招来するとみます。いい調子で行っていたら昭和24年のドッジラインです。このお蔭で日本中の企業が青息吐息というより壊滅の危機に見舞われました。東北大地震の被害よりはるかに甚大でした。アメリカは自国でできない理想を占領中の日本で実験したきらいがあります。シャウプ税制や農地改革などです。良成はドッジラインを非難し、外車のダッジ(そういう名の車がありました)を見ても腹が立つと述懐しています。
朝鮮戦争が勃発し日本経済は息を吹き返します。小松は旧相模工廠で米軍車両の修理に従事します。あまり儲からないが、技術習得の便があり、また米国流のやり方に詳しくなったのは、将来役にたったとい言われています。米軍は小松に砲弾製造をも要請しました。大阪府の旧枚方工廠を国から払い下げてもらい、そこで砲弾を生産します。砲弾販売総額404億円の40%が小松の生産でした。戦争と言うものはいつまでもは続きません。戦争が終わったとたんに、即日注文はなくなります。戦争終結の潮時を良成は模索します。だいたい彼の推察どおりでした。
ブルド-ザ-のほかにダンプ、トラック、フォ-クリフトの生産も行います。1960年(昭和35年)に、アメリカのキャタピラ-社が三菱と手を組んで日本に合弁工場を作り日本でブルド-ザ-を生産して販売しようという計画が持ち上がります。当時キャタピラ社は世界のブルド-ザ-の50%を製造していました。製品が輸入されるだけなら、日本の低賃金で対抗できる、しかし直接投資でこられると、競争は極めて不利だ、と良成は考えます。販売、価格、生産能力の面では負けない自信はあるが、品質の面では劣る、と踏みます。政府は小松製作所一社を護ってはくれません。降伏か全面対決か?良成は後者を断固選びます。まず自由化反対を声高に叫びます。そのため他業種と連帯して騒ぎたてます。しかしこれは陽動作戦、時間稼ぎです。
品質向上のために、まずQC運動を徹底させます。Quality control(品質管理)です。職場の一作業員にいたるまで、作業、能率、休憩時間、在庫管理などすべての面に渡って、問題点を指摘させます。部品のすべてを点検し、不備なもの不具合なものは改良させます。市場調査も徹底します。販売店や建設会社に技術者を派遣して、不備や不満を積極的に聞きだし、また新しい提案を求めます。出来上がったブルド-ザ-の試験運転を建設会社に依頼します。もちろん小松でも実験は繰り返します。そのために実験部という新組織を作りました。実験の度に訂正を加えます。特に長期間使用に耐えられるか否かの実験は小松が担当します。すべての機種においてこの試験運転を行います。
良成はこの時、コスト無視、JIS否定の原則を徹底しました。コストより品質です。特に実験段階ではコストは高めにでます。将来コストを減らせると見込んで、コスト無視を徹底します。JIS規格はあくまで平均値です。部品はこの平均値を超えることを要請されるかも知れません。良成は最高のものを作ろうとしました。彼は一度戦うとなれば徹底します。そして極めて好戦的な性格です。キャタピラ社に対抗できるこの品質向上の対策を良成はマルA対策と名づけました。マルA対策は昭和36年6月に開始され、昭和37年12月に一応完了し、対策車が完成します。
この間良成はアメリカのカミンズ社と提携して、同社のエンジンの国内生産を始めています。このエンジンは高速も出します。そしてすべてのブルド-ザ-にこのエンジンの搭載を命じます。現場から指令に対して轟々たる反対がおきました。良成はこの時、指令を徹底させる一方、エンジニ-ア(技術者)というものの保守性を実感させられます。そして技術だけではいけない、技術に経営を加味しないと、技術自体が退化すると悟ります。技術プラス経営、これを技術常識と彼は言いました。言葉の選択がよくないようです。技術はそれだけを放置しておくと自然と現状維持に傾きます。そこには経営者の将来への方針、つまり向上と競争への目的意識が要ります。そうした時のみ技術は向上します。このことはマクロの視点においても妥当します。市場の消費性向が製造と技術を牽引します。良成の経営哲学は、リスクのない経営は衰退する、でした。小松製作所社長時代ソ連との貿易の重要性を説き、自ら団体を率いて訪ソし、時の首相フルシチョフと会っています。1964年(昭和39年)社長を辞任、後任は良成の長男良一です。1970年(昭和45年)死去、84歳。
小松製作所は現在でも建設機械の専門メ-カ-です。世界第2位で1位のキャタピラ社を猛追中です。日経新聞の有料ランキング調査では2006年、2007年、トヨタやキャノンを抜いて1位でした。資本金678億円、売上1兆4315億円、純資産8767億円、総資産1兆9590億円、従業員数38000人余(すべて連結)です。

参考文献 歴史を作る人々 河合良成

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(26)村方騒動

2020-09-12 14:12:04 | Weblog
「美しい国日本の歴史」本文(26)村方騒動

1 江戸時代農村は集団自治制、室町戦国期の宮座の伝統。農民は年貢を藩幕府に直接納めない、村全体で一括して請負う、農民各自の年貢高は合議で。農耕は共同作業、田植稲刈は個人だけでは不可能。村法があり、年貢高、村維持の費用、用水共有地の管理、村寄合、祭礼などの年中行事、村内での身分秩序が決められる。名主(みょうしゅ)は城下に集住すれば武士、農村に土着すれば有力百姓。江戸初期、有力百姓の影響力は強く、多くの農民は彼らの指導支配下に。平和、商業作物の栽培製造、農村は豊かに、有力者の下にあった農民は自立、自作農。有力者による中間搾取が減る、藩も幕府も自作農の出現を歓迎。
2 江戸時代後半、村方騒動が全国的に頻発。庄屋名主の職は有力百姓が握り、彼らが代官との間に立ち年貢の額を決める。年貢納入は不透明。農民達は批判し団結して立ち上がる。農民の代表が庄屋名主の活動を監視、帳簿公開を要求。帳簿公開要求は代官にも及ぶ。村の指導者も変る、村民が選出。新しい商品経済に対応して村を経営してゆく能力をもつ人物を指導者、庄屋名主として選出。彼らは村の代表、藩営手工業の担い手、富農。彼らの中から藩政特に経済政策に関して積極的に提言する者も出現。村の自治における変化、村方騒動。村方騒動は一村内部に限られず。農民は村の枠を超え、一郡全体で代表者を選出、村政藩政のあり方に意見を述べる。郡中議定、郡単位での農民代表の会議。議定は郡を超え藩の範囲も超えて一国全体に拡大。
3 会議の下に若者組、独身者からなる組織。彼らは思春期青春期に独自の集団を作る、同宿も含め他の村民とは異なる生活、団結。彼らの力は強い、祭礼年中行事、農作業、村の警察業務などでは重要な役割。村の決まりに従わない家は制裁。若者組と呼応する農民の要求に従い村の休暇は増加、藩当局も阻止不能。幕末には週に換算し約3日が休日という記録も。村請、共同作業、村方騒動、議定、若者組の活動など、農村は自治合議組織。
4 江戸時代後半農村では歌舞伎が盛行。村に演舞場を作る。農民自身が演じ、また他村から演劇者を呼ぶ。歌舞伎公演をしない村など見当たらない。農民は遊び楽しんでいた。
5 幕末時の日本人の識字率、今までの想定より高かったのでは。識字とは現在でいえば新聞のチラシの内容が理解できる程度以上の読書き能力。村方騒動で農民は村の代表者や藩当局と交渉。交渉の内容はすべて文書化、個々の農民も検討。庄屋名主は交渉の過程をすべて記録、村政の現実を詳しく書き残す、子孫が村役を無事務めるため。残存する文書の量は膨大。文書の内容は個々の農民がすべて見ているはず。でないと監視機能が果たせない。自分が納める年貢の額に無関心な農民などいるはずがない。文書を見たのは男性とは限らず女性も見たはず。農業は男女の共働き、女性の労働力は重要、女性の発言権は強い。女性が家政に大きな影響を与える年貢の額に無関心で、男性に一任していたとも考えられない。加えて農村歌舞伎の盛行。歌舞伎には台本が要る、歌舞伎の台詞を理解し暗誦する。字が読めず書けずで歌舞伎を公演できるのか。幕末時、識字率は男性が80-90%、女性が50%と言われる。識字率は男女ともにほぼ100%近くではないのか。都市住民ではなおさらだ。都市住民の多くは稽古事に通い、大衆文学を楽しみ、俳句を作って教養を高めた。天保年間江戸で俳句の募集、集まった句数は関東一円で10万句。識字率を欧州と比較、極端な例。1970年代ポルトガル女性の31%は文盲。幕末時の農民の栄養摂取、平均1700カロリ-蛋白質は70グラム、国民一人当たりの貨幣所有量は中国の2倍朝鮮の10倍、資本蓄積は厚かった。
6 武士社会では家老層、奉行層、実務層の三つの衆議の輪。農民社会には庄屋以下村方三役、議定、若者組の三つの衆議の輪。武士と農民の接点が郡奉行代官と名主庄屋。日本の社会は上下に重なる複数の衆議の輪から組み立てられていた。輪が円滑に機能しない時一揆が勃発、実力行使による条件闘争。衆議の輪の組立は事実上の議会制度。下から各階層ごとに衆議の輪を積み上げてゆく方式。同業組合連合の衆議が加われば、単純な直接選挙より意見集約は効率的。日本は明治以来短期間に選挙制度を作り国会を開設し議院内閣制を作った。基礎が充分あったのだ。
7 村方騒動、郡中議定、若者組は農民の代表会議。武士と農民の衆議を組合わせると六つの衆議の輪。日本には既に議会制度に相当するものがあった。


経済人列伝 木川田一隆(好評版)

2020-09-11 17:08:39 | Weblog
経済人列伝 木川田一隆(好評版)

 木川田一隆の日本経済への貢献は、現在の九電力体制の確立にあります。この事については既に松永安左衛門の項で少し解説しました。一隆は松永を助け、松永の秘書役のような形で九電力体制確立につくしました。そう言ってしまえばそれまでですが、一隆の努力にはそれなりの背景があります。なお彼は松永とアヴェックを組んだのですが、松永と一隆では、その生い立ちも性格も恐ろしく異なります。
 一隆は1899年(明治34年)に福島県伊達郡山舟入村(現福島県伊達市)に医師木川田一治の三男として生まれました。父一治は仙台藩伊達家の家臣で、維新後東京に出て医学を学び、明治18年に草深い山舟入村にやってきて医療を行っています。一治の医師としての態度は、秋霜のごとく厳しく、病人が出れば自分の体が悪くとも、雪を掻き分けても往診するような気風でした。父親の、仕事へのこのような態度は、一隆の将来に大きな影響を与えます。山舟入は「やまふにゅう」と読みます。阿武隈川の流域にあって、そこから出る木材で舟が作られ、川に入るのでこの名がつけられた由です。
 一隆の小学校での評価は、性質温順、気象快活、言語明瞭、と書かれており、腕白坊主などからは程遠い、平均的定型の人柄でした。中学校に入学しますが、運動を好み、成績はまずまずというところ、それほど目立った秀才ではありません。中学を卒業して、二度陸軍士官学校を受けます。二度とも落第します。陸士を受けたのは、多分家の負担を軽減するためでしょう。父親は医師ですのでそこそこの収入はありましたが、兄二人を東北大医学部、東京商科大学(現一橋大学)に進学させ、教育費の負担は相当なものでした。山形高校を卒業して、東京帝国大学経済学部に入学します。 
東大入学の前後、河合栄二郎を知り、大きな影響を受けます。河合は理想主義的そしてやや急進的なリベラリストで、イギリス労働党のような漸進的社会改革を支持し、労働者の待遇改善をはじめとして、多くの社会問題に関心を持っていました。後に東大経済学部教授になり、その自由主義思想ゆえに講壇を追われます。河合は一方で国家専制を排し、同時にマルクス主義の非人格的な思想にも極めて批判的でした。彼は気骨の激しい人で、多くの弟子がいます。戦後活躍した代表的な人物としては、蠟山政道、猪木正道、土屋清関嘉彦、塩尻公明などが挙げられます。
 河合の影響で一隆は労働問題に関心を持ちます。当時最も過酷な労働を強いられていたのは、鉱山労働者でした。労働問題、つまり労働者の待遇改善を志して、三菱鉱業を受けます。試験委員と論争し落とされます。そこで東京電燈に就職します。1926年(大正15年)、一隆27歳の時のことです。東京電燈では調査、企画、秘書課など徹底して内部の職場を歩きます。こうして電力事業を客観的にまた計数的に把握する態度を身につけます。
 東京電燈は経営危機を迎えていました。当時すなはち昭和初年の電力業界はまさに戦国時代でした。全国に700以上の電力事業者が乱立し、資本の規模によりサ-ヴィス内容が異なります。うち、東京、東邦、大同、宇治川、日本の五代電力会社が有力で過当競争を繰り広げていました。過当競争、料金の不均衡、電力需給のアンバランス、地域間の設備格差などの問題を抱え、消費構造は変化(電燈を灯すのみではなく、産業のエネルギ-としての電力へ)しています。こういう状況の中で、東京電燈は若生ショウ八のワンマン経営がたたり、名古屋の福沢桃介や九州の松永安左衛門達に圧倒されていました。結局若尾社長は退陣し、郷誠之助や小林一三が介入して、経営はなんとか安定します。時は軍国時代に入りつつあり、電気事業も国家の統制に入ります。国家は電力業界の乱立に介入し、先に述べた五大会社を中心にして、国営の日本発送電株式会社を作ります。その下に九つの配電会社をつなぎます。すべて国営です。一隆は、電力業界の乱立・過当競争と国家統制そして発電と送電の分離の弊害を身にしみて体験します。
 昭和20年、1945年の終戦を一隆は東京電燈の秘書課長の地位で迎えます。役員の多くは公職追放のため、彼は1年後には常務取締役に就きます。川﨑造船の西山弥太郎、野村證券の奥村綱雄、あるいは日清紡績の桜田武、と同じコースです。常務になりますが、役員として大変な課題が待ち受けていました。労組との対決です。戦後マッカッサ-の後押しで、続々労組が結成されます。昭和22年には労組員の数は600万人を超えました。電力業界も例外ではなく、日本電気産業労働組合、通称、電産が結成されます。多くの組合には、戦後活動の場を与えられた共産党員がもぐりこんでいます。彼らは労働組合を、経済闘争の場としてではなく、もっぱら政治闘争の手段とみなしていました。つまり、労働者の待遇改善もさることながら、革命、その為には資本主義の牙城である企業の壊滅を計りました。一般の組合員は扇動され、企業の能力を超える要求を突きつけ、上司をつるし上げ、土下座させ、職場の秩序は失われます。
 一隆の立場は鮮明です。労組結成には賛同するが、政治闘争は容認できない、のが彼の基本的立場です。突き詰めて言えば、共産党が金科玉条とするマルクス主義の排撃です。この点では彼は徹底していました。河合栄二郎の薫陶があり、労働問題には積極的な関心があったからです。過激な思想に対決する時には、基礎的な知識と大幅な教養、そしてなによりもその問題に大きな関心を持ち、積極的に対処する態度が必要です。一隆は、河合の教えを介して、労組のあり方、社会主義の多様性、イギリス労働党内閣(マクドナルド)の苦心、マルクス主義の矛盾、などを知り尽くしていた、と言っていいでしょう。彼の行動は二面性を取ります。まず労組との根気のいい話し合いです。一方では過激派を一般労組員から切り離します。具体的にはより穏健な労組の結成です。こうして昭和24年に関東配電労働組合、という企業別組合が作られます。一隆の後輩である平岩外四は、一隆を評して、幅の広い理想主義者、coolな頭とwarmな心の持ち主、言っていますが、労働組合への対応も平岩の資料の中にはあったでしょう。会社を潰して君達はどうして食っていくのか、という、合理的判断の要求と一種の脅し、そして過激派の排除は、この時期荒れ狂った戦闘的労組との対決では、基本的な対応でした。革命ごっこの興奮が冷めれば、誰でも考えいたる道理です。
 もう一つの重大問題が、戦前に作られた国策会社である日本発送電KKをどうするかです。多くの試案があり紛議ありでもめにもめました。一隆は松永安左衛門の片腕、秘書役として活躍します。両者の基本的方針は、発電と送電の統一(同一の会社が発電と送電を扱う)と民営、そして地域独占です。戦前には発電を日本発電KKが国営として独占し、九つの配電会社に電気が送られていました。繰り返しますが紛議紛議でもめにもめました。松永はマッカサ-に直訴し談判し、直接交渉を繰り返します。そして昭和25年(1950年)、マッカッサ-の吉田首相への書簡、いわゆるポツダム政令で、九電力会社への再編成が決まりました。北海道電力、東北電力、東京電力、北陸電力、中部電力、関西電力、中国電力、四国電力、九州電力の九電力会社です。この体制では例えば関西電力は近畿地方の発電と送電を統一して行い、こと送電に関してはその地域の関西電力に任されます。東京電力も中部電力も同様です。関西電力が新たな電力を必要とすれば、北陸電力から買うか、自力でどこかに発電所を造ればいいことになります。始め松永は、東西の二電力会社に分割するつもりでした。九電力会社案を説いたのは一隆です。慎重で緻密な一隆と蛮勇を奮う松永のコンビの勝利です。電力再編成には労組問題も絡んでいます。日本電気産業労組はあくまで国営一社を主張しました。民営でかつ分割されると、労組の団結力がそがれ弱まると主張します。一隆はその辺の事を読みぬいており、あくまで九電力地域独占を主張しました。北海道と東京大阪では電力事情は全く異なります。地域のサ-ヴィスを重視すれば、一隆の案通りになります。もちろん九電力体制は労組の力を削ぐためでもあります。対照が国鉄で、国営一社になりました。強力な労組、生産性の低下、地域への配慮の薄さ、そして決定的な事は大赤字です。国鉄は1970年代に、民営化されやはり地域ごとに分割されました。
 昭和26年一隆は東京電力の取締役、27年常務になります。昭和36年(1961年)松永安左衛門の推しで東京電力社長に就任し、10年後の46年同会長になります。この間経済同友会幹事、更に代表幹事を務めています。一隆は幅の広いリベラリストとして、企業の社会的責任を強調しました。その点では彼には電力会社は向いていたと言えます。自動車産業や証券会社の場合、社会的責任といってもそれはかなりな程度形式的です。しかし電力事業になると社会的責任は実質性を帯びて来ます。電気は産業と市民生活に直結する基礎的エネルギ-です。石油やガスとは比べ物になりません。仮に停電が1日あるいは3日続いたとしましょう。病院の救急医療体制、通信報道機関、治安当局、消防、金融機関のオンラインシステムは大打撃を受け、社会は大混乱に陥ります。電気冷蔵庫の中の食料は1日で腐りますから、食糧不足も招来します。反対に市役所の業務が1日止まっても市民生活には大きな支障はきたしません。交通機関の24時間ストでも通勤者は苦痛ですが、なんとかしのげます。警察消防の機能停止が1日続くと大変は大変ですが、市民が心がけて1日くらいなら自衛手段を講じえます。電気が一日ストップするのと大違いです。民営、地域分割、そして一社独占はそのための方策でした。送配電を統一する方が、効率はよくなります。地域へのサ-ヴィス向上のためには、中央でも一元的統括は不適です。また一地域を一社に独占させて、小資本による劣化をサ-ヴィスを防ぎます。
 一隆は、電気料金は、電力会社と地域住民の利害の一致を基本とする、という考えの持ち主でした。昭和34年(1959年)に電気料金が改訂されます。経済成長に伴い、電力需要は急伸します。発電所を造らねばなりません。膨大な資本が必要です。そのための借金の利払いで電力会社の経営は悪化しました。この年電気料金が13・7%値上げされました。以後昭和49年の石油ショックまで、電力供給は4・5倍になっても、値上げはされていません。この間コ-ヒ-一杯の値段は7倍にはなっていたはずです。電力会社は電力供給を要求されると、配電する義務があります。目下品切れ、と言うわけにはゆきません。その代わり配電にかかる費用は受益者負担が原則です。こういう事情ですから電気料金の価格は供給者と需要者の協議が原則になります。
 一隆は火力発電所による公害にも深い関心を寄せています。東京湾に林立する火力発電所の燃料を、経営と言う立場から反対意見の多い中、あえて高価なLNG(液化天然ガス)に切り替えさせたのは彼でした。
 一隆は社員の研修と能力検定のシステム作りを推進し、専門職の輩出に意を注ぎました。東京学園という学校を作りました。彼は、彼の子供時代、彼よりも優秀な同級生が貧困のために、進学できなかった事をよく覚えていました。配下の社員で同様な体験の持ち主には、向上の機会を与えます。なお能力開発と専門職の育成は、単に一個人一企業の問題に留まりません。それは社会の生産性を促進し、また社会を安定させます。教育の向上はすなわち、中産階級の増加です。一隆がその最も良き例です。
 一隆は政治献金を廃止し(電力業界の)、官僚の天下りを拒否しました。勲章は辞退、アンチゴルフの釣り好きで、三木武夫を例外として、政治家との親密な関係は避けました。
 1977年(昭和52年)脊椎腫瘍のため死去、享年77歳でした。彼の生涯を見ますと、着実な進歩が伺えます。小中学生の頃は神童秀才には程遠く、どこにでもいる普通の生徒でした。陸士に二度落第し、山形高校へ。この頃から英才の芽が出てきます。東京帝大の経済学部へ進学します。生真面目に試験委員とディベイトして三菱鉱業に落ちます。だいたい労働問題に関心を寄せること自体が非秀才的行為です。東京電燈では内勤専門で、電力のことをこつこつ勉強します。内勤のみというのは、幹部候補生として将来を期待されたからなのでしょうか。そうとも取れますが、終戦時の肩書きは秘書課長でした。戦後の公職追放でできた間隙を埋める形ですぐ常務取締役になります。ここから一隆の活躍が始まります。民営と地域独占でもって、電力業界を再編成し、それを公共団体や国家に監視させます。これはある意味で、私と公の妥協でもあります。民営私有を強調しすぎることなく、公共の福祉を考慮して、企業に社会的責任を求めます。いかにも河合栄二郎の弟子らしい、対策です。木川田一隆を社会民主主義者とは呼べません。彼はあくまでリベラリストですが、そこにはいささかの社会民主主義への傾倒もあります。電力という公共性の高い業種は、彼に最も相応しい仕事であったかも知れません。そして彼は自分に与えられた地位と職務に沿う形で、自己の能力を発揮し、高め、成長してゆきました。まことに地位と能力が相応した人物です。

 参考文献  木川田一隆の魅力  同文館

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

[美しい国日本の歴史」本文(24)歌舞伎と浮世絵

2020-09-10 20:42:57 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(25)歌舞伎と浮世絵

1 歌舞伎と浮世絵、三つの特徴。民衆に愛好され民衆に育てられた大衆芸術、おおらかに性を歌い描く、だから幕府ににらまれる。
2 幕府は二つの場所を悪所として警戒監視。芝居小屋と娼婦街。二つは関連しあう。歌舞伎芝居、1600年出雲のお国により京都で上演。女が踊る念仏踊、模倣され広まる、女歌舞伎。美女が着飾り踊る、人気盛んなのは当然、風紀が乱れるのも当然。客席で観劇、好きな役者を指名し一夜を共に、売春の横行。幕府は女歌舞伎を禁止。次が若衆歌舞伎。思春期前後の若い男性が踊り演じる。これもすぐ頽廃。若衆に恋する男性が続出、同性売春。当時武士の間で同性愛関係は盛んで争闘が頻発、幕府は苦慮。若衆歌舞伎も禁止。芝居演劇は人間にとって必要不可欠。野郎歌舞伎、成人男性の演じる芝居が登場。歌舞伎は出現の当初から性愛がらみ。
3 幕府が歌舞伎を警戒した背景には歌舞伎者の存在がある。戦国の気風を濃く残す武士達は戦乱を慕い派手に大道を闊歩、暴力を示威。叛乱予備軍反体制、治安は乱れる。幕府は歌舞伎者を厳しく取り締まる。歌舞伎は「傾く、かぶく、常識を覆す」の意。歌舞伎は正統派の演劇能楽を崩し傾け変形して出現。歌舞伎は出現の背景と心情にあって歌舞伎者と同じ。傾け変形し反逆する、為政者にとっては何が出てくるか解らない不気味さ、観客にとっては面白さ期待。歌舞伎は幕府により監視され時には処罰禁止。幕府にとって歌舞伎は反抗反乱の予兆。
4 江戸初期、大阪に坂田藤十郎、江戸に市川団十郎が出て歌舞伎は演劇としての地位を固める。歌舞伎の地位を確立したのが近松門左衛門。歌舞伎は台本無きも同然、役者の判断技量で演じられた。一貫した筋はなくその場その場で見えを切る即興劇。近松は本に従って演劇することを主張、台本作家の地位を高める。大阪歌舞伎は江戸歌舞伎の荒事と違い和事を重視。和事は普通の庶民の生活と感情を描く、平凡な市井の生活を描く和事には工夫組立筋書きが必要。近松は和事の筋を繊細にし面白いものに育て上げる。和事、庶民の生活感情の核心は、義理と人情の対立。義理人情の葛藤の行き着く先は恋愛性愛。近松はそこに着目、心中物を書く。曽根崎心中、心中天の網島。心中物は人気を博した。近松の活躍前後のある年、近畿圏で心中が700件近く発生。幕府は心中の横行にも苦慮。江戸時代を通じて重要な歌舞伎作者は近松以外では紀海音と鶴屋南北、海音には「八百屋お七」、南北には「桜姫東文章」と「東海道四谷怪談」、現在に残る名作で性愛を主題とする作品。
5 恋愛性愛がらみでなさそうな歌舞伎の演目もある。仮名手本忠臣蔵や勧進帳など。友情忠誠心と組織体制との対立が義理物の主題。友情忠誠心は激しくなれば同性への愛情になる。歌舞伎はこの機微を派手に描く。勧進帳、弁慶が義経を打つ、弁慶と義経の主従の契りだが同性愛の表現そのもの。忠臣蔵の主題は主君への愛情。芸能は性愛を無視しては演じられない。演劇の原点は舞踊、舞踊とは身体の美しさの誇示、性愛の表現そのもの。俳優の起点が遊女。近松門左衛門の心中物で地位を獲得、以後も筋書きに性愛を含み続けたこと、歌舞伎の特徴宿命。
6 浮世絵の画材の中心は歌舞伎役者と遊女、幕府が危険視した二大悪所の主役。役者絵は役者の美しさを描く。遊女は美人の代表。浮世絵は庶民の憧れを画像として極めて大衆的に提供。大衆的、浮世絵は木版画、大量供給可能。浮世絵、一般民衆に芸術と娯楽を提供した文化。浮世絵は美人図から始まる、美人図は終始浮世絵の主流。菱川師宣は17世紀末、返り見美人図、で一世を風靡。女がふと後を振り返る時発散する色気。これで浮世絵は世間に認知され人気を獲得。鈴木春信が革新的画法、多色刷を開発。一枚の紙に版木を何回も染め直し染を加重、多彩な錦絵の誕生。
7 浮世絵の全盛期は美人図で有名な喜多川歌麿。画法大首絵を考案。顔と首と胸元に焦点をあてて女を描く。胸元は大きくくり広げられる。強烈な色気、艶麗。乳房が描かれることは少ないが、暗示させ、効果抜群。歌麿は浮世絵と春画の代名詞。歌麿は田沼時代に活躍、松平定信の治世では風紀紊乱のかどで入獄。歌麿の同時期に大胆な構図で役者を描き短いが一時期を画したのが東洲斎写楽。
8 浮世絵の画材は役者と美人に限られない。風景、道中記、名所、花鳥、更に小説の場面など。浮世絵は当時、黄表紙洒落本滑稽本合本読本など一連の、戯作といわれる文学分野と密な関係を持つ。浮世絵は大衆文学に挿絵を提供。山東京伝は浮世絵師から戯作者に。駆け出しの絵師は挿絵から出発、挿絵が一番安定した収入源。戯作が取り扱う主題はやはり恋愛沙汰。江戸生浮名蒲焼、春色梅児誉美、偽源氏田舎紫。かなりの絵師が俳号を持つ。浮世絵、戯作、俳諧は相互に交流、庶民の文芸。武士層も参加、武士と庶民は大衆芸能を通じて交流創造享楽。江戸時代とはそんな時代。
9 歌麿以後の著明な浮世絵師は葛飾北斎と安藤広重。北斎も広重も風景画が得意。北斎の富岳図、広重の東海道五十三次内。師宣から始まり春信歌麿そして北斎広重に到る150年、画法技術は進歩。北斎や広重の絵には緻密な写実性と壮大な構成と大胆な様式が共在。
10 浮世絵を語るに春画を忘れてはだめ。春画は男女の交接を具体的に描く。陰部が触れあい陰茎が挿入されている。師宣も春信も歌麿も北斎も春画を描いた。美人画から春画への距離は小さい、多数の春画が出版される。世界のどこにも春画はある。しかし浮世絵という極めて公開性の高い文化の中で春画が大量に作成販売されたのは日本だけ。歌麿の名にはもう一つの隠喩、陰茎つまりペニス。
11 歌舞伎と浮世絵の共通点はあからさまな性愛の誇示。性愛の描出から始まり構成を複雑にして緻密な様式に到る。勧進帳と北斎広重の絵にある厳格な様式美。様式とは性的な美の変容。歌舞伎と浮世絵が江戸の士庶に与えた影響は甚大。二つの文化を通じて彼らは自己の性愛を昇華した形でまた直接楽しんだ。性愛に寛大な風潮は日本社会の特徴。淵源は神話の世界にまで遡る。日本はアメノウズメの裸踊りで夜の明けた国。
12 歌舞伎と浮世絵は典型的な大衆文化。両者はおおらかに性愛を描写した反権力の悪所の文化。戯作俳諧浮世絵歌舞伎は相互に交流し大衆文化を盛り上げる。性愛の描出がおおらかであることは、社会が寛容である事の証左。   





[美しい国日本の歴史」本文(24)文化としての天皇

2020-09-10 20:42:57 | Weblog
「美しい国日本の歴史」本文(24)文化としての天皇

1 700年間武家政権が続く中、天皇はいかなる存在だったのか?儀礼の執行者、文化の守護者、文化そのもの。摂関政治の成立は天皇を実際の政治から政治儀礼の執行者に。併行して年中行事の慣例が確立。儀礼の項目約400。代表的な年中行事、正月四方拝、朝賀、白馬節会、3月曲水宴(雛祭り)、彼岸、5月端午の節句、7月七夕、盂蘭盆会、9月重陽宴、11月新嘗祭、豊明節会、12月追ナ。年中行事は宮中から速やかに民間に広がる。年中行事、自然の循環とそれに伴う生活への賛歌祝祭。主催者は天皇。年中行事執行の意図は勅撰和歌集の編纂と同じ、儀式を通して天皇が自然と社会に働きかけ統御する試み。天皇は文化・美の体現者、神。
2 鎌倉時代初期藤原定家が王朝の美意識を総括、和歌と源氏物語に集約。和歌と源氏物語が伝統的美意識の基準。古今伝授、美意識を師匠から弟子へ秘伝として伝える習慣、貧乏公卿から富裕町衆に波及、文化美意識の維持拡散。
3 江戸時代、天皇公卿はほぼ完全に政治行為から締め出される。天皇公卿は伝統的な学問文化の保持に専心すべく、幕府は指導。諸家により専修する学問文化を分担。公卿は百数十家、摂関清華大臣羽林名家の5段階。摂関家以外の諸家が神祇、和歌、書道、神楽、蹴鞠、楽、明経、装束、陰陽などの学問文化を担当。明経は五経の講義、陰陽は占い、神祇は神祭の司会、楽は琴笛琵琶など管弦の演奏。和歌は二条冷泉飛鳥井三条西の四家が、書道は清水谷持明院の二家が担当。
 19世紀初期刊行の「諸道家元鑑」、家元制度を持つ諸芸能は31。宗教関係を除くと28。内15が公卿の家職。儒道9家、陰陽道2家、亀卜1家、衣紋2家、和歌3家、笙4家、篳篥3家、笛3家、琵琶4家、和琴1家、神楽3家、左舞1家、右舞2家、書道4家、蹴鞠1家。舞は雅楽。公卿は15の分野の文化芸能の家元。残りは能楽、武家作法、連歌、俳諧、茶道、画工など。連歌俳諧の出発点は和歌。武家作法は朝廷儀礼に習う。画工も本来は朝廷専属。能楽の起源の一つが雅楽。能の主人公は天地の神々の変体、能楽は天岩戸から天照大御神を誘い出したアメノウズメの踊りが起源とは世阿弥の言。江戸時代の文化芸能遊戯の大部分は朝廷公卿にその根幹を握られ、朝廷は民衆文化の大部分に関与。
4 朝廷と民衆は幕府の考えとは違う次元で結びつく。大嘗祭、様式化された政治行為、文化技芸の掌握、年中行事を通じて、天皇は別の形の君主、決して形式的とはいえない君主だった。江戸時代の民衆は遊び好、識字率は高く、学問遊芸を学び、人生を楽しんだ。
5 文化は別種の次元の政治。民衆の享楽から芸術学問神事に到る体系を通して文化は権威の存在を予示。納得できる権威の背景が文化。文化共有により共同体成員である事を納得。納得が権威の背景、権威がなければ権力は単なる暴力。文化は統一された体系、体系の頂点が天皇。江戸時代、天皇は文化の君主だった。
6 江戸時代幕府は朝廷を尊重し監視。五代綱吉は日光参詣を中止し伊勢神宮参拝を始める。七代家継の正室に内親王降嫁を企図。新井白石は閑院宮家創立を実現。現在の皇室は閑院宮家のご子孫。八代吉宗は財政難の中、桜町天皇即位の大嘗祭施行に協力。大嘗祭は費用がかかり中止されていた。伊勢神宮以下、賀茂松尾石清水春日など朝廷ゆかりの神社への奉幣使復活。本居宣長、藤田幽谷、中井竹山は、朝廷を正式政府と公然と主張、松平定信は大政委任論を唱える。江戸時代民衆は盛んに伊勢参り。
7 幕府は朝廷を尊崇、が、天皇が皇居外に出る事は事実上禁止。天皇は幕府にも誰にも触れてはならない禁忌。幕府は天皇の文化的政治的価値を充分認識していた。
8 天皇は江戸時代を通じて儀礼の執行者、文化の守護者。天皇朝廷は深く民衆文化に関与。文化共有においてのみ円滑な統治が可能。天皇は文化そのもの、統治の背景深層。幕府はこの事をよく理解しておりだから天皇の存在を禁忌として民衆の眼から遠ざけた。安定した文化の保持は統治を柔らかく平等なものにする。




総裁選三候補の共通点はフェミニズムか?

2020-09-10 20:29:21 | Weblog
総裁三候補の共通点はフェミニズムか?
安倍自民党総裁辞任後の菅・石破・岸田三候補が共通し、最大の政策に主力を集中する焦点はフェミニズムなのか?本日故あって短期入院した病院で暇を持て余し聴いたニュ-スは三候補の「女性に対する政策的対応」であった。三候補の政策・視点の差を重大なものとしては捕えていない。ただ極めて短期に女性問題が本格的政策の焦点として取り上げられた事に、若干の会議とどこかからの政策上の圧力を私は感じさせられて仕方がないない。
 まず雇用だ、就業だ、子育て援助だなどいってこの問題を取り上げる事を、将来の政策を社会福祉に置く事を意味する。ならそれでいい。ただしその前に社会福祉の経済に占める割合、その内容はどんなものなのか、等等の議論が重要であろう。消費税の問題も結局はその辺に意味が帰結して行く。内容をしっかり取り上げる必要はあろうが、日本の経済の過去ほぼ30年間
、日本経済は貯めた金のほぼすべてを社会福祉に注ぎ込んできたのだ。それが是か非かいう議論は成立しうる。つまり経済政策を取る側の価値観の問題だ。
そういう大事な問題をフェミニズムという鮮明な戦略の旗印の下に初めてもいいのかという問題はある。社会福祉の問題は「福祉」という論点故に、厳しい政略戦略の危機(crisis)といえ論点に必ずやってくる。問題は母性、両性、したがって家族の問題と必ず接触し侵透する。
 社会福祉の問題はこのフェミニズムの問題と必ず接触する。我々はこうなる事を捉えておいてから論議を始めないといけないと思うべきだ。フェミニズムはそんなやわな思想ではない。国家社会倫理を吹き飛ばすエネルギ-を持っている。繰り返すが自民党総裁になられる方は社会福祉という事項をそこまで深く読み込んで政策的に対応してほしい。
                        2020-9-9

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

韓国大統領の愚挙、親日派の墓を移動

2020-09-04 18:49:48 | Weblog
韓国大統領の愚挙、親日派の墓を移動

 新聞報道によると韓国の文大統領は親日派の墓を移動するとのことだ。彼らがどこのどういう意味の地所に埋葬されているのかは知らないが、その場所にふさわしくないからだと言う。この行為は愚挙を通り越して、人間性への侮辱冒涜だ。少なくとも日本では(多分他国でもそうだと思うが)人間は死ねば皆神仏で、生前の非はあっても尊崇し供養する。一切衆生悉皆成仏なのだ。今回の韓国の愚挙は人間を人間と思わない行為で、恨みは死後まで持って行くことを意味する。親日家か否かを問わず、恨みは永遠に尽きないと言う事だ。
 ここで一考を要する事は親日派の墓が暴かれると言う事は、韓国人は日本人を人間と見ていないと言う事を意味する。李氏朝鮮時代には仏教は迫害され、奴隷は存在した。そういう過去から見れば今回の行為は当然かもしれない。100年前日本の助けを得て朝鮮の政治改革をしようとした金玉均の妻子は死刑に処せられたうえリョウチの刑を受けた。死体が一寸刻み五分刻みで切り裂かれ見世物にされる刑罰だ。金自身は李王朝の放った刺客に上海で暗殺されている。金は福沢諭吉の弟子で、福沢はこの話を聞いて激怒し脱亜入欧を唱えだした。
 ともかくこの話を聞いて私は驚愕しかつ嘔吐感を催した。なお韓国では医学部を卒業した医師は10年間地方で勤務をぎむづけられ、また医師免許交付の判断には一部の市民団体を加えるそうだ。まあ一種の社会主義化だ。医師たちは猛反対している。医師は自由な学習と職歴を選べる技術者なのだ。韓国政府のやり方は医師の存在意義を否定している。旧ソ連時代の公的医療がどのくらいひどいものだったかは知る人ぞ知る事なのだ。
(付)韓国の事は阿保らしいのでブログに書くのも止めていたが、今回の事件でびっくりしたので書いた。韓国の難癖はもううんざりなのだ。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

経済人列伝 西山弥太郎(好評版)

2020-09-04 16:00:47 | Weblog
経済人列伝  西山弥太郎(好評版)

 西山弥太郎といえば、川崎製鉄千葉製鉄所の設立で有名です。千葉製鉄所がなぜ、それほど画期的な試みで、弥太郎の名をいやがうえにも高くさせたのかと、言いますと、次のような理由が考えられます。それまで鉄鋼御三家といわれた、八幡、富士、日本鋼管が独占していた銑鋼一貫製造メ-カ-の中に食い込んだ事、のみならず将来の鉄鋼需要の増大を予想して、三社独占では日本の鉄鋼生産が不十分であり、工業立国たるに相応しくないという見地から、果敢な挑戦を成し遂げた事にあります。
(注)八幡と富士は後に合併して現在の新日鉄になっています。なお文中「弥太郎」と表記しますが、「弥」は略字であり、本来は難しい旧字を使うべきですが、ワ-ドにないので失礼とは思いますが、略字の方を使用します。
 弥太郎は1893年(明治26年)神奈川県ゆるき郡吾妻村に生まれています。先祖は北条氏に仕えていましたが、秀吉により北条氏が亡ぼされると、帰農し代々酒造業を営む一方、本陣を経営する村の有力者でした。屋号は井筒屋、当主は豊八を名乗ります。父親豊八は養蚕業を営み、網元も兼ね、村の収入役を堅実にこなす、実直な人柄でした。弥太郎は豊八の十男に生まれます。本当は十一男でしたが、長男が夭折したので十男になりました。履歴書を書くときなど、なにかの間違いではないかと、よく反問され恥ずかしかったと述懐されています。少年期は運動万能、特に水泳大好きで、遊びまわっていました。成績はまずまずの上というところです。小学校(4年)高等小学校(4年)を卒業すれば、特に本人も両親も、それ以上の高等教育を望まず、親戚の金物屋の手伝いにやられます。ここで弥太郎は鉄や他の金属でできた製品がいかに高く売れるか、に仰天し、鉄の研究を志したとあります。すこし怪しそうな話です。しかし弥太郎という人物は、徹底した技術屋であると同時に、後年川崎製鉄社長に就任した時のやり方からわかる様に、営業における商才も充分持ち合わせています。だからこの話は伝説に限りなく近い事実でしょう。
 弥太郎の生き方は一変します。私立錦城中学に進み、そこから一高、東大工学部というお決まりのエリ-トコ-スを進みます。工学部では競争の激しい冶金工学科に入り、俵国一教授の指導を受けます。一高・東大時代の弥太郎は黙々と勉強する特徴のない優等生であり、同期のものが逸話を語るに困る、と言われました。学生時代八幡製鉄で実習し、また川﨑造船を見学しています。1921年東大を卒業し、川﨑造船に就職。26歳ですから少し遅れた卒業になります。なぜ川﨑かといえば、どうも見学した時川崎が一番新鮮に写ったからのようです。入社早々労働争議に出会います。ともかく戦前戦後を通してこの川﨑造船(製鉄)というのは争議に縁の深い会社です。当時友愛会という日本で始めての労働者の団体ができ(鈴木文治の項を参照)、室蘭製鉄、川﨑・三菱の両造船所で大争議が持ち上がりました。結果は友愛会側の敗北ですが、会社が無傷というわけには行きません。ただ入社早々のホワイトカラ-である弥太郎には直接の関係はありません。しかし歴史に残る大争議ですから、事情によっては弥太郎の人生に影響を与えたかもしれません。多分彼はかなりの興味をもって、この争議を見ていたと思います。第二次大戦後弥太郎を経営者として有名にさせた理由は、戦後の争議を解決したからです。経営者としての実力を認められたから、千葉製鉄所建設という破天荒な事業をかなり強引に推し進める事が可能になったのでしょう。
入社した弥太郎は葺合(ふきあい)工場の製鋼掛に任命されます。神戸市には以前葺合区という区がありました。葺合区は生田区と合併して現在、中央区になっています。つまり弥太郎は関東から関西の神戸にやってきました。以後人生の大部分を関西で過ごし、彼の名を不朽にする事業では、再び関東の千葉に進出して大仕事をします。弥太郎は製鉄製鋼一本に生きますが、彼が就職した会社の主力は造船業です。徐々に製鉄部門の比重が大きくなり、製鉄所を兵庫、葺合、久慈(岩手県)、西宮、保土(長野県)、知多(愛知県)、千葉、水島(岡山県)と増設拡張してゆきます。入社当時の社長は松方幸次郎、正義の子供で、幸次郎も明治大正の経済界に波乱を呼んだ男の一人です。後に列伝で取り上げようと思っています。
工場の上司は小田切延寿という人でした。鉄鋼製造の事実上の責任者で、海軍の技術将校(大佐)から、川﨑へ転職し、厳しい指導で知られた人です。弥太郎は火で眉を焦がすと言われたほど、現場重視に徹します。小田切の指導です。就職して以後、金融恐慌さらに大恐慌などがあり、3500名の解雇、争議と、会社は青息吐息の経営です。昭和6年満州事変勃発でやっと一息つきます。この間現場ではドイツ人技師ドリ-ゼンの指導下に、作業能率の改善を試みます。作業成果を数値で示すようにして計量化を計ります。その数値に基づき、能率給にします。弥太郎はこの改革の先頭に立ちます。どんな改革も現場の保守勢力には歓迎されません。反発、抵抗そしてとうとう暴力事件が起こります。この事件は基本的には旧来の職人と新勢力である技師との対立です。暴力事件を知った小田切は関係者を全員解雇します。のみならず改革派には警察をつけます。こういう事もありました。そしてこの事件の解決は、後年の大争議に際して弥太郎がとった対処法とよく似ています。
 1933年(昭和8年)「塩基性平炉改造の経過とその成績」を雑誌「鉄と鋼」に載せ、服部賞を取ります。この賞は工業技術者の世界では最高の栄誉でした。これで弥太郎は「平炉の西山」の異名をもらうことになります。同年製鋼課長に昇進。1935年当時の社長のめがねにかない洋行し、帰国して技師長に昇進します。この間工場の一部が日本鋼管の一部と合併し、昭和鋼管という会社が生まれます。また会社自体が株主の肩代わり問題で揺れます。川﨑は何度も危機に立ったので自己資本は少なかったようです。株主が変ると経営方針に影響が出ます。この問題は軍部が介入してかたがつきました。国家の大事の時に、株主騒動とは何たる事かと、すでに軍人の時代に入っていました。会社は昭和14年社名を「川﨑重工業株式会社」に変更します。弥太郎は昭和17年に取締役に就任します。会社は軍需工場に指定されます。昭和18年のサイパン陥落により米軍機の本土爆撃が可能になり、日本の大都市、特に東京、名古屋、大阪は徹底的に爆撃されます。川﨑重工業も同様、生産工程の大部分が破壊されました。しかし弥太郎はこのような状況下で、将来の鉄鋼生産の基本的青写真を考えています。それは銑鋼一貫製造工場、つまり溶鉱炉を持つ工場の建設です。川﨑重工業の中の、6つの製鉄工場は統合され弥太郎が製鉄所長になります。
 終戦。鋳谷社長以下の役員多数は退陣します。公職追放です。弥太郎は追放か否かのぎりぎりの、立場に置かれひやひやします。幸い追放は免れました。会社は当分社長なし、役員の合議制を取ります。この難しい時期弥太郎は将来の日本の鉄鋼業に関して以下のような構想を語ったと伝えられます。
  既存の施設が破壊されたのだから、最新の設備を備える好機
  原料を近くに持つ必要は少なくなる
  日本の工業は鉄鋼業を基幹産業として復興する
  銑鋼一貫過程は鉄鋼業の宿命 そこまで行かなければ意味はない
  外地から引き上げてきた技術者の活用
  株式売買で成績を上げるのは嫌だ、あくまで製造技術で勝負
この構想は千葉製鉄所建設で実現されます。しかしその前に弥太郎が解決しておかければならない事があります。戦後ほとんどの大企業を襲った争議の嵐です。
 昭和23年に大争議が持ち上がります。組合は物価上昇に伴い、賃上げを要求します。製鉄所側は能率給と増産、そして人員整理を提案します。戦後の危機にあって組合は生活防衛を、会社は会社存続をかけて対決します。しかし当時の争議は単なる経済問題ではありません。共産党は会社の乗っ取りや壊滅を要求していました。資本主義の牙城である大企業を、ソ連型の国営ないし共有制にしようとします。ストをうち、生産管理を要求します。戦術は過激になり、暴力的になります。役員がタバコの火を顔に押し付けられるというような事もありました。(東芝での話)弥太郎は断固対決に踏み切ります。部下に「葺合工場をつぶしても良い 責任は俺が持つ」と発破をかけます。共産党の政治優先を嫌う、組合幹部の意向を見抜き、会社側に抱きこみ、管理職にして、対組合交渉の前面に立てます。第二組合を作ります。大学教授を法律顧問に雇います。組合の一部過激派が給食場に乱入したのを、好機として、警察を導入し、関係者を逮捕させ、告訴します。彼らは懲戒免職になります。そして残りの幹部に会社の置かれた実情を話し、結局3000名の解雇に同意させます。こうして川崎重工業製鉄所の争議は会社側の勝利に終わります。弥太郎という男は単なる技術屋ではありません。争議を解決した事で弥太郎の経営者としての名声は上がります。東芝の争議を解決した石阪泰三と同様です。また会社における評価も格段にあがります。西山天皇の異称が与えられました。この間川崎重工業の造船部門と製鉄部門が分離します。製鉄部門の独立は弥太郎の念願でした。1950年(昭和25年)57歳、弥太郎は川崎製鉄株式会社の初代社長に就任します。資本金は5億円でした。前後して日本鉄鋼連盟常任理事になります。5億円の資本で総計270億円の事業が試みられます。それが千葉製鉄所の建設です。
 社長就任の昭和25年、銑鋼一貫工場建設計画書を沿え、見返り資金供与の嘆願書を通産省に提出します。川鉄千葉建設の資金計画は、総計273億円、第一期工事費用は114億円、うち増資15億、借入金19億、社債9億、自己資金71億円でした。場所は防府(山口県)にするか千葉にするか、最後の最後まで迷います。結局千葉の日本航空機跡の60万坪(1坪は3・3平米)を買い、加えて前面の海30万坪を埋め立てます。さらに海を掘りぬき突堤を作って港を作ります。水は印旛沼から直接引き、足らないところは井戸を掘ります。技術者には旧満州から引き上げてきた人材を大量に雇用し活用します。
 川鉄千葉の建設は早くから弥太郎が胸に抱いていた計画です。なによりも溶鉱炉を持った製鉄所、つまり銑鋼一貫工場の建設を弥太郎は念願していました。彼は戦後日本の工業が飛躍的に発展すると確信していました。「鉄は国家なり」(これは彼の言葉ではありません)の確信のもとに、戦後の鉄需要の増大を見込み、計画を立てました。当時銑鋼一貫工場を持っていたのは、八幡、富士、日本鋼管の三社だけ、他の大手である川鉄、神戸製鋼、住友金属は銑鉄を他から買い、鋼鉄を作る平炉メーカ-でした。これらの三社はすべて関西に本拠を置きます。川鉄千葉の建設は、平炉メーカ-による三社独占への挑戦という意味もあります。しかしなによりも三社独占を崩して、国全体での鉄鋼の大増産を計るのが弥太郎の意図です。技術的には酸素利用とストリップミルの採用が焦点になります。二つの工法はすでに欧米では試みられていましたが、弥太郎はこれの最新式を大規模に採用します。つまり世界で一番進んだ技術を取り入れます。銑鋼一貫製造は製造費用を低下させます。遠くから重い銑鉄を運ぶのにかかる、運搬費がほとんどいらなくなります。そして新工場は簡素化を旨に、移動行程を最小化する方向で進められました。
 資金計画を提出された通産省は検討に入ります。通産省としては前向きに臨んだようです。問題は日銀です。お金はここから借りる、あるいは承諾を得るのですから。時の日銀総裁は一万田尚人で法皇といわれていました。一万田はいい顔をしません。「千葉工場にぺんぺん草が生える云々」という事実か伝説か解らない話は、天皇と法皇両者の交渉の過程ででました。結局一万田は折れます。1951年(昭和26年)千葉製鉄所開設。同年世界銀行から2000万ドルの融資を受けます。当時の1弗は360円ですから、日本円に直せば72億円になります。1953年千葉工場所第一高炉火入れが行われます。こうして川﨑製鉄千葉製鉄所は運転を開始します。なお弥太郎はくず鉄の値上がりを予想して、買い込み、約100億円の資金を作ったといわれています。単なる技術屋のできる事ではありません。
 弥太郎はもう一つの銑鋼一貫工場を岡山県の水島に作っています。1961年同工場は開設されました。1966年(昭和41年)癌のため死去。享年73歳でした。なお川崎製鉄は日本鋼管と合併し現在JEFになっています。

 参考文献 西山弥太郎伝 鉄鋼新聞社編 非売品 大阪市立図書館蔵
 日本産業史(2) 日経出版


「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(23)本居宣長

2020-09-04 13:52:36 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(23)本居宣長

1 本居宣長、1730年伊勢松阪に出生、生家は木綿問屋。近隣の商家の養子になるが、本業には身が入らず、読書歌作の毎日、離縁になり実家に。母親の意向で医師を志し京都遊学。医学を修め、堀景山に儒学を学ぶ。堀は荻生徂徠の影響を強く受け、徂徠の影響は宣長にも及ぶ。影響は二つ。語彙の実証主義的研究と道の制作という思考法。宣長は歌作に専念、契沖の万葉集の研究の影響を受ける。26歳松阪に帰り小児科を開業、傍ら学習と研究に没頭。31歳結婚、京都時代の友人の妹草深たみの夫が死去した事を知りすぐ離婚、2年後たみと結婚、二児。1801年没、享年71歳。
2 彼は徂徠の実証主義に従い日本古典の解読を始める。研究対象は源氏物語と古事記。源氏物語の研究が先行。宣長は歌人で浪漫主義者。彼は源氏物語を歌物語として読む、源氏物語を読みつつ歌作者の立場で歌を作るように、源氏物語の制作者として紫式部に自己を重ねる。「制作」は古事記研究に大きく影響。宣長は、光源氏の制度に拘束されない自由で自然な生き方に共感し、源氏物語の真髄をもののあわれに求める。自然な人情の重視も古事記研究に大きく影響。
3 34歳賀茂真淵との出会い。宿舎に真淵を訪問歓談、意見交換、入門。二人の出会いはこの一夜だけ。以後は往復書簡。意見の相違故の破門状に近い手紙もある。真淵は万葉仮名解読をほぼ完成、古事記研究を志すが、老齢なので次代の研究は宣長に。
 宣長は古事記研究に没頭。当時太安万侶が書いた古事記の原文があるのみ。古事記の文は独特、漢字の音と意を借りて日本語を表記。例えば神産巣日神という言葉、うむ=作る=むすぶ、の語連想から、カミムスビノカミと読む。加えて漢文表記も混用。古事記の表現はすべてこの調子で難解。文章は区切りなく続く。漢字の流れの中、一字一字漢字の音と意を特定し、漢字の一群一群を切り離し、音を組合わせ、日本語を発見。日本書紀、万葉、祝詞、宣命など当時解読されつつあった文献における用法、宣長当時の音と意からの類推などを駆使、古事記本文と併行し注釈をつけ解読。宣長38歳古事記伝の第一巻第二巻が、49歳17巻が完成し古事記上巻神代記の解読完成。61歳、五部出版。
4 宣長が古事記で重視したのは上巻神代記。神代記には神々の世界と生き方が描かれる。世界は高天原中つ国根の国の三つに。高天原は神々の住む所、中つ国は人間世界、根の国は死者の国。古事記の神々の特徴は、神々に一切の徳性が与えられていない事。徳性付与を宣長は、異国の漢意(あだしくにのからごころ)と言い拒否。異国は中国、中国には悪人が多い、道徳法律理屈でごまかす、日本では悪人が少ない、そんなものは要らない、と。日本にも悪人はいる、漢意のせい、中国渡来の文明に日本人は犯され毒され蝕まれて中国風になったのだと。宣長は古事記の中に日本人の素直で明るい真情を見出す。高天原の神々は自然でのびのびと生きていた。その通りに日本人は生きてきた、それでいいのだと言い切る。日本人が高天原を模範にして生きれば、素直で明るい浄らかな生活ができると。
5 宣長は古事記神代記の世界のように生きようと言う。神々の生き方あり方が神道(かんながらのみち)。彼は彼が描く古事記の解釈、かんながらのみち、日本人絶対善説を神々の定められたところとして、一切の異見を認めない。宣長は徹底した実証主義者。その手法を駆使して解明し作成した古事記の解釈を絶対視。自己が制作した作品の内容と自己そして日本人一般を同一視。神は人、人は神、現人神(あらひとがみ)。人は神ゆえに社会は制作創造可能。民衆は政治の主体。
6 高天原の主神天照大神の血統をひく天皇は日本の国の最高君主。宣長は日本人の生き方として、天皇以下の為政者への絶対服従を説く。彼は天皇以下のお上に絶対服従すべき民、が彼自身も神。宣長だけが神ではない、民衆一般もすべて神。神々に徳性付与を拒否した事で、人と神は平等同等に。宣長の逆説。国学者は宣長に習う。この逆説が国学の原動力。
 宣長の逆説。人は作品を読む、作品は再解釈される。あらゆる知見の交流は解釈再解釈。解釈された知見は解釈した人に反作用。人間間の交流とはこの繰り返し。解釈とは制作。人は無限に制作し続け世界を超える。人は神仏、神仏は人。慈円は宗教婚姻経済の交互作用を説き人と神仏を等置した。日蓮は折伏逆化の中で自ら神仏になった。宣長はこの延長上に思想制度の解釈者制作者としての人を神仏とみなした。天皇は現人神、民衆も現人神、一君万民ことごとく平等。慈円日蓮宣長は日本思想史の根幹。
 西欧の一事例、デカルト、我思うゆえに我あり、これは人間と神の等置。ハイデッガ-の実存哲学解釈学、これも同様。
7 宣長没後の弟子平田篤胤は宣長の崇拝者、夢中で宣長に会い教えを受ける。彼は宣長の教えを彼流に解し民衆に解り易く熱烈に講演。宣長で頂点に達した国学は民間に広まる。天皇崇拝の国学は幕末維新の政治に大きく影響。維新回天の起爆剤水戸学には国学の影響が大。多くの国学者が熱狂的に説教。国学は思想、純粋の日本語で書かれた思想。日本語の地位は高まり、日本語は豊に、日本人の識字率に貢献。江戸時代庶民出身の学者が説いた教えは、主なもので三つ。石田梅岩の心学、二宮尊徳の報徳教そして国学。庶民は易しく講義され教えられる。
 徂徠と宣長の後世への影響、空疎な観念を排して実利現実を尊重。政治経済科学技術と直結する実学の興隆そして国体論。
8 本居宣長は源氏物語の主題をもののあわれと捉え、それを基盤として古事記を解読。古事記の神々に徳性付与を拒否し、ただ浄い明るい素直な人為によって汚されていない姿を与え、日本人もそうだ、と説く。神と人は一致。宣長は自己を神と為しつつ古事記を作成し、古事記に書かれている生き方を、かんながらの道、と言う。彼は天皇崇拝と権力への絶対服従と国粋主義、を説く。人間は支配され同時に支配する者という国学が内包する逆説。国学において人は神、人間は絶対的に平等。国学は民衆への講演を通して民衆の教養を高めまた維新の起爆剤となる。宣長は日本人の日本人たる由縁を強調。神は人、人は神、神と人は同じ、慈円そして日蓮の結論に酷似。


   武器輸出について

2020-09-03 18:15:14 | Weblog
武器輸出について
 今日のネットニュ-スを見たら「タイ政府は潜水艦の輸入を一時延期する。それは同時に日本の潜水艦輸出にとってチャンスだ」と書いてあった。同時にこのニュ-スは、数年前に豪州が潜水艦買い入れようとした時、日本はフランス・ドイツに後れをとった、それは防衛省が武器輸出のノウハウを全く知らないからだ、と述べている。ちなみに私が知るところでは、日本の通常型潜水艦の建造能力は世界一だ。
 問題は防衛省が武器輸出のノウハウを知ることに徹底的に反対してきた勢力がある事だ。いうまでもなく立民党・共産党などの野党やアサヒを始めとする反日メディアだ。彼らは、日本の武器輸出は前大戦の反省の意の欠如の現れであり、絶対反対と叫んでいた。前大戦に日本のみが責任を負うべきとは考えないが、仮に責任を問うとすればドイツはどうなるのだ???ほかの事はさておきドイツが前大戦で1000万人に昇るというユダヤ人を殺害した事は事実だ。そのドイツがシャ-シャ-と武器である潜水艦を売り込み(あるいは売り込もうとし、結果はフランスに落札されたと聴いている)、日本は反省自粛しなければならないのか?絶対におかしい。
 武器輸出すなわち軍需工業の振興は製造業に大きな影響を与える。加えて軍需品は無価格競争(競争は価格より質によるところが大きい事)の傾向を帯びる。日本にとっては大きなチャンスなのだ。
 防衛省はすぐ武器輸出のノウハウ摂取に動くべきだ。そして武器をどんどん売り込もう。遠慮する事はない。河野防衛相はしっかり事実を把握し励んでもらいたい。
                             2020-9-3
 (付)そのノウハウとやらがよくわからないが、政府要人にコネを付ける事か?そこにはワイロが絡むのか?
(付)前大戦でフランスが潜水艦を持っていたのか。少なくとも潜水艦作戦はできなかったはずだ。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行