経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、金子直吉

2010-08-08 03:29:53 | Weblog
金子直吉

 大正から昭和にかけての時代に活躍した一世の梟雄と言ってもいい人物です。直吉は1866年高知県吾川郡名野川村に生まれます。父親が商売に失敗します。母親は「借金で人様に迷惑をかけた人の子を小学校へ送るのは、許されません」と言います。ですから直吉には学歴は全くありません。直吉は10歳を過ぎた頃から、古新聞と古着の行商を始めます。得意先に砂糖商に自店で働くよう勧められ、そこの丁稚になります。なかなか腰は定まりません。乾物商に入り、また元の砂糖商にもどり、質屋にも奉公します。この間勉強は欠かしません。特に質屋の時代に、質物の書物を読むことを主人から許され、濫読します。この時代が一番よかったと懐かしく語ったといわれています。1886年、20歳、神戸に出て鈴木商店に勤めます。この店は主として砂糖と樟脳を扱いました。仕事がきつかったのか、一度店を辞めています。店主夫人のヨネの懇請な手紙で意を翻し、再び鈴木商店に勤めます。
 1894年(明治27年)主人が死去し、未亡人であるヨネから店の番頭として、店を切り回すことを依頼されます。この時同じく経営責任を依頼された兄弟番頭が、直吉の終生の友人・同志となる、柳田富士松です。以後直吉は営業を、柳田は店の内政を分担し、柳田は徹底して直吉の補佐役に徹し続けます。当初直吉は樟脳を柳田は砂糖を分担し、この時点では柳田の成績の方が良かったと言われます。樟脳の空売りで大失敗します。思いあまり、交渉相手のところに、短刀と3500ドルを持参し、これで決着をつけてくれ、出なければ、ここで切腹して死ぬ、と嘆願し(むしろ脅し)危機を切り抜けます。
 直吉の営業の転機は1899年(明治32年)台湾に渡り、民生局長官後藤新平に樟脳の専売を進言し、競争する同業者を丹念に説得して、専売制を実現させた事です。この時台湾産樟脳の65%の販売権を獲得します。直吉の人生に台湾は最初から最後まで影響し続けたようです。1903年(明治37年)大里製糖所を設立し製糖業に乗り出します。2年後小林製鋼所を買収します。現在の神戸製鋼の前身です。1912年(大正1年)帝国麦酒(ビ-ル)設立と事業を広げてゆきます。
 1914年(大正3年)第一次大戦が勃発します。一時戦争の帰結が不安で日本中がむしろ不況に傾く中、直吉は大好況を予想して、あらゆる商品、特に鉄と船を買いまくります。この時飛ばした檄が「ゆけ-、まっしぐらに前進じゃ」です。船を買うのみならず、播磨造船と鳥羽造船を買収し、自社で船舶を造って売ります。大戦前1トンあたりの船の値段は50-60円でした。大戦勃発と同時に600-800円に上がります。船を1-2隻持っているだけで、充分成金に成れたと言います。大正7年の時点で、鈴木商店の年商は15億4000万円、2位の三井物産のそれが、10億9500万円でした。この時直吉は「天下を三井、三菱と三分する」と豪語し社員に発破をかけます。
 直吉の成功の鍵は3つあるでしょう。まず直吉の強気で積極的果敢な商法です。これは天性のもの。この天性が千載一遇と言われるチャンスにぴったり合いました。次が情報網、世界中に設けた支店からの情報を分析します。そして部下への徹底した権限委譲です。各地の支店長は自己の権限で商売できました。当事者の即決即断です。当然そこには支店長や社員個人の思惑買も入ります。事実この時期のロンドン支店長などは王侯のような生活ぶりでした。大戦勃発の年に東京高商(一橋大学)を卒業して鈴木に入社した大屋晋三は新入社員でありながら、樟脳部に配属され「たった数日で100万円儲かる、面白くて面白くて仕方なかった」と述解しています。大屋とともに東京高商から29人同年に入社していると言いますから、直吉の積極姿勢が解ろうというものです。戦争で鉄の輸入が禁止されます。直吉はこの時アメリカ駐日大使モリソンと直談判し、鉄と船の取引をしています。鉄3トンと船1トンのバ-タ-です。大胆さと気転の速さが印象的です。
 大正7年(1918年)8月、鈴木商店は民衆の焼討ちに会います。死者は出ていませんが、神戸の本社は壊滅します。米の買占めという汚名を着せられました。私は直吉に関する伝記を読むまで、鈴木が本当に買占めをしていると思っていました。現在でもかなりの本ではそう書いてあるでしょう。しかしこれは無実の汚名のようです。焼討ちの数年前には米価が下落し、政府は買い上げて輸出を試みました。また米価が高騰すると、逆に外米や朝鮮米の輸出を行います。これらの事業に鈴木は協力させられました。鈴木の社員は、なんのバチでこんな事せなあかんのか、と愚痴をこぼしたといわれます。事実大戦中儲かって儲かって仕方がないのに、安い手数料で政府の協力をしなければなりません。米の買占めを試みる閑など無いはずです。輸入した政府所有の外米が神戸港の倉庫にあったのを、買占めと悪宣伝されます。また丁度その頃、鈴木は英政府の依頼で小麦を買い付けていました。小麦が米と誤解された可能性もあります。それにメディアが加わります。特に大阪朝日の論調は激しく、鈴木の責任を追及します。鈴木が事実無根と抗議しても、報道を変えません。直吉もたかをくくっていたようです。こうして焼討ち事件が持ち上がります。最後は軍隊出動で収まりました。ただこの時期米価が高騰した事は事実です。しかし鈴木商店が買い占めた事実はありません。なぜ米価が上がったのか?諸種の事情が加わった、パニックでしょう。米価が上がった時、買占めだと、事実無根の事を宣伝すれば、米価は上がるでしょう。世間とはそういうものです。当時から朝日新聞内部には左翼系の人が多かったようです。
 焼討ちの3ヵ月後世界大戦は終わります。それ以前に直吉は、商売の手仕舞いを指示し、投機から手数料取得中心の営業への転換と、支店独自の判断による営業禁止を通達しています。しかし焼討ち事件後の多忙のために、充分な措置が取れなかった恨みはあります。
ここで普通の平凡な感覚の者なら、80社近くなった傘下の企業のうち、不採算部門を切り捨て、採算があう部門を残して、経営体のスリム化を計るでしょう。事実鈴木商店内部の大勢、特に学卒派といわれる勢力はこの方針を支持します。直吉は断固逆の積極経営を展開します。多くの企業を買収します。それらはすべて不採算企業でした。そしてまた、すべて製造業、それも当時の日本が第二次産業革命を遂行するのに必要な重化学工業部門でした。
直吉が積極経営を志向した事は事実です。これが彼の体質にあいます。しかし彼が「国益にかなう事業」を起こそうとしたことも否定できません。神戸製鋼を起こし、その経営が軌道に乗るまで、10年以上かかりました。窒素肥料製造のために、クロ-ド式窒素工業を、日本の製油方法発展のために豊年石油を、国産フィラメント製造のために日本冶金を、グリセリンやオレイン油製造のために帝国石油を、化学繊維生産のために帝国人絹を作りました。こうして鈴木商店は直吉の方針で、どんどん傘下企業を広げてゆきます。資金はやむなく銀行から、それも台湾銀行から借ります。台湾銀行からの借入金は増加の一途をたどります。直吉の予想に反して景気は好転しません。直吉は軍備拡充に期待します。戦艦と巡洋艦各八隻という新鋭艦隊造設計画が審議されていました。しかしこれは軍縮条約調印で廃案になります。
 頼るものは政治家です。直吉は浜口雄幸や井上準之助などの政治家を歴訪します。狙いは日銀特融、つまり日銀からの特別融資(日銀券の増刷も含む)で切り抜けようとします。計画は成功しそうになりました。ここで突発事件が持ち上がります。1926年(昭和1年)に震災手形(大震災に際して特別に日銀の割引を受ける手形)をめぐるモラルハザ-ドを武藤山治が追及します。この時片岡蔵相が情報を誤解して、渡辺銀行が閉店したと、口をすべらせます。これでさらに閉店する銀行が続出します。議会は、銀行の経理内容の公開を政府に迫ります。鈴木商店に融資していた台湾銀行は金融市場の短期融資で切り抜けていました。台銀危なしと見たのか、三井銀行は突如短期資金を市場から引き上げます。台湾銀行は鈴木への融資を打ち切ります。鈴木商店は倒産しました。
 倒産した鈴木商店傘下78社の解体作業が始まります。企業を適当に分割して採算部門を他の企業が買収します。最も得をしたのは、三井系でした。三井は製造業に弱いのです。三井は鈴木系統の企業の多くを傘下に収めます。三井、三菱、住友という旧財閥は新しい重化学区工業部門への進出には消極的でした。むしろ金融商事部門に留まろうとします。日本の第二次産業革命に貢献したのは、鈴木商店や、もう少し後に台頭してくる新興財閥(日産、日窒、理研など)です。そして新興財閥系統の企業が行き詰まると、旧財閥が安く叩いて買う、という傾向があります。解体された鈴木系の企業で、現在でも残る有名企業は、帝国人絹、神戸製鉄、豊年製油、日商岩井があります。日清製粉と大日本精糖にも鈴木系企業が含まれています。
 解体された後にも鈴木商店は残ります。直吉は債権者に4/1000の率での返金を申し出ます。事実上の借金帳消しです。
 多くの人は直吉の取った戦略を無謀と言います。勝敗は兵家の常、というべきでしょう。経営の拡大か縮小かは、状況次第です。そして人は状況を読み取りつつ、また自分の性格にあった経営をします。鈴木倒産の5年後に満州事変が始まります。新興財閥はこの機に乗じます。もしそれまで直吉の鈴木が頑張っていたらという予想も可能です。直吉は昭和19年(1944年)に死去します。終戦の1年前です。もし直吉が終戦後も健在なら、どういう商売をしたか、とも予想できます。食うや 食わずの中、多くの製造業が原点に立ち返り横一線に並んで再出発した時代です。そしてこの時代の経済基調はインフレ昂進を前提とする積極経営でした。
 政府がもし鈴木に特別融資をしていれば、台湾銀行にある鈴木の負債2億円強の負担で済んだでしょう。鈴木を潰し、台湾銀行の経営危機を晒した結果、金融界全体がパニックになり、取り付け騒ぎが拡大します。そのために政府は7億円の日銀券発行をしなくてはならなくなりました。若槻内閣は倒れ、代った田中義一内閣に急遽高橋是清が蔵相として入閣し、モラトリアムを発し、日銀券増発をして危機を救います。結果としては高いものにつきました。
 金子直吉の風貌はそう見栄えのするものではありません。浅黒い小男で、強度の近眼です。詰襟の服を着て、よれよれの山折帽を着て闊歩しました。頑固で自分を信じること篤く、他人のいう事は聞かない性格でした。人を解雇するのが苦手で、ために傘下不良企業を切れなかったとも言われています。若い社員が英語の勉強をしたがっているのを知り、会社の金で東京へ留学させたという逸話もあります。銀行は嫌い、株式会社組織には断固反対で通します。時代遅れかも知れません。ただ彼にすれば、株式会社では 決断が遅くなる、という気持ちでした。金融資本を嫌い、産業資本育成に励んだその姿勢には好感をもてます。直吉は倒産後も再建を目指して終生努力します。1944年(昭和19年)死去。享年77歳。直吉の苦境に際し、主人である鈴木ヨネの直吉に対する信頼は絶対でした。直吉の死後調べてみたら、財産と言うほどの物はなく、ほぼ無一物でした。

 参考文献
   行け、まっしぐらじゃ  郁朋社
   20世紀日本の経済人  日経出版
   金子直吉伝 (大阪市立図書館所蔵)

1 コメント

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マルテンサイト (たたら製鉄)
2022-01-21 12:22:13
金子直吉さんはよく聞きますね。それに比べ島根県安来市(当時能義郡)で世界初の高級特殊鋼(工具鋼)の本格的な創業者、伊部喜作氏はあまり話がない。理系だと工学博士みたいな肩書がないとなかなか歴史にのこりにくいのでしょうか。

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