経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

      立民党、そして夫婦別姓

2021-02-28 14:40:50 | Weblog
立民党、そして夫婦別姓

 立民党が夫婦別姓を公約に掲げた。夫婦別姓に関しては既に述べたので意見は略す。ただなんでわざわざとは思う。別段今まで特にそれで障碍があったと言うわけでもあるまい、国家形成のための最強の基礎単位である家族を破壊しようとはねえ。
 以下は立民党への忠告・助言である。立民党成り立ちの経緯はややこしいが、30年前に遡れば当時の社会党に由来する。社会党の最後の切り札である土井隆子氏でも党勢が衰退し、村山富市氏の時「自社さ連合」を組み並行して党名も社会民主党(社民党)に変えた。党名変更は当時のドイツ社民党に習ったものだ。ドイツ社民党はそのころの社会主義政党では優等生だった。ドイツの同僚に習って日本の社民党がマルクス主義の看板を下ろしたか否かに関しては知らない。
 問題は日本の社民党の以後の経過だ。社民党の大部分は脱党した。彼らは非常に複雑な軌跡を経て、民主党を経験し、小池百合子氏の詐術にかかって現在の立憲民主党に至っている。30年前の社会党は労働者の利害の代表だった。それはそれで良い。存在意義は充分にある。しかし現在「社会の社の字」を持った政党は社民党のみである。この政党は端的に言って福島瑞穂氏に代表されるフェミニストの政党である。しかも議員総数数名で国家から援助を受ける資格すら危ぶまれている微小政党である。これが我が国におけるフェミニスト政党の現実であり末路である。立民党はそこのところを勘考しているのか?労働者の代表だから1/3近くの勢力を維持できた。フェミニスト化したとたんに党勢は壊滅した。この点に関しては社民党のある議員(又一氏?)が福島氏に対して「貴女が過去の先輩の財産を食いつぶしたのだ」と述べた事は記憶に新しい。立民党の枝野氏も党勢が延びないので焦って「夫婦別姓」などに飛びついたのだろう。過去の経緯からすればこの行為は自殺行為だ。それよりもっと現実的に考えられないものか?参考までに言っておこう。旧社会党の運命の岐路は昭和40年前後に当時の社会党書記長江田三郎氏が提案した構造改革にある。国内で(あるいは外国勢力と結んで)革命を企てるのではなく、資本制生産を認めその中で社会福祉路線を追求しようというのが、江田氏の提案だった。この提案は簡単に葬り去られた。(念のために言えば結局自民党がこの役割を担った)そして44年末の選挙で社会党は勢力を二ケタに減らした。以後社交民などの連合を形成し、結局自民党と組み、党綱領に反する政策を強いられ、さらにフェミニズム勢力に屈し、衰退の一路をたどった。
 立民党は夫婦別姓とか言えば党勢が回復するかとも思っているのかもしれないが現実をなめるなよ。「夫婦別姓」とか「同性婚」とか騒いでいるのはごく一部の跳ね上がり分子だけだ。例えば辻元清美氏とか連坊氏とかだけだ。立民党党首枝野氏の声は聞こえてこない。聞こえるのはこの二匹(人)の噛みつき犬だけなのだ。2020-2-28

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      皇室の歴史(17)

2021-02-28 14:40:50 | Weblog
  皇室の歴史(17)

  ではなぜ平氏と御白河法皇は対立したのでしょうか。院政が弱くなり、武士の力が強まったからです。保元の乱にしても平治の乱にしても、本来武士主導で行われたのではありません。すべて皇族貴族の内部の勢力争いです。勝敗の決定は武力に委ねられました。平治の乱後も院政と天皇親政の対立は続きます。この仲介役が武力を握った平清盛でした。だから清盛は昇り昇って太政大臣になります。太政大臣は非常置で一種の独裁官です。乱後7年で清盛は地方官から太政大臣にまで上り詰めました。こうなると天皇、院政の主(法皇・上皇)と清盛はほぼ同格の関係になります。そして天皇親政は脱落し、残った法皇と清盛は潜在的には対立関係になります。院政の本質として武力行使は欠かせません。しかしその武力は強くなりすぎました。番犬変じて狼となります。清盛が太政大臣になりまた天皇の外戚となった事で法皇は常に自己の存在を脅かされることになります。
 平氏は強くなりました。では全国の武士は誰に従えばいいのでしょうか。法皇か平氏かのどちらかです。本来武士は農場開拓者であり独立性が強いと同時に戦闘技術者として強い同胞帰属性を持ちます。帰属欲求・忠誠の対象を求めます。院政という機構は王朝貴族政治の延長上にあり、あまり信頼できないところがあります。当然忠誠の対象は平氏の長である清盛に向けられます。しかし平氏の出は院の近臣です。平氏はこの近臣根性が抜け切れず、法皇との関係も不即不離矛盾撞着したものにします。清盛の嫡男重盛も宗盛も異母弟の頼朝盛もすべて院の近臣でした。頼盛は都落ちには同行しません。法皇との関係を選びました。宗盛は都落ちの際、法皇に遠慮したのか警備に手抜かりがあり、法皇を連行するという重大な作業に失敗してします。また一の谷の戦闘では、休戦という法皇の言葉を信じて敗戦の憂き目にあいます。これで平氏の反攻の可能性は絶たれたといえます。どちらも院の近臣として仕えた経験と性根が災いしました。近臣根性を捨てきれない平氏は武士の忠誠の対象としては不十分でした。
 また武士層の変化も政治と戦闘に大きく関係してきます。保元平治では参加した軍勢はせいぜい1000名前後でした。源平の争乱(これを治承寿永の内乱と言います)では動員される軍勢は数千から数万になります。そして戦闘は基本的には歩兵戦でした。戦闘が行われた場所から考えて古典的な騎射戦闘の比重は大きく低下しているとしか思えません。工兵部隊もすでに登場していました。という事は、歩兵装備くらいなら可能な農民層(武士層とも言えますが)が台頭してきたことを意味します。こういう大量の(後世悪党とも呼ばれる雑多な)武士層をどう把握するかが問題になります。結論を言ってしまえば、把握は部分的にしかできなかったのです。治承寿永の内乱の勝者源頼朝はこの経験から武士層の掌握に務めました。しかし鎌倉幕府が掌握できた武力はほんの一部です。以後(以前からもですが)農民は常に緩慢なる下剋上を繰り返し、武士層に上昇してゆきます。この動きはずっと続き、豊臣秀吉と徳川家康の出現つまり徳川幕藩体制の成立により、なんとか終止符が打たれます。
 こういう状況下では内紛や陰謀はよく起こります。鹿ケ谷事件以後、法皇は陰謀を駆使し続けます。平宗盛を二度欺き、木曽義仲は法皇の謀略で翻弄され入京半年後に壊滅します。法皇は義仲に代わるに頼朝をもってし、頼朝に代わるに義経をもってします。戦功大なる義経を頼朝の対抗馬に仕立て、頼朝追討の院宣を出します。頼朝優位となると逆に義経追討に切り替えます。また義経追討中も隠然として義経をかばい続けたようです。これは頼朝に対する一種のゲリラ戦でもあります。東鑑には義経追討中の期間の記事は(それと頼朝死去に関する記事も)ポッコリ抜けています。
 平氏滅亡以後法皇死去までの7年間つまり第四期は頼朝の欲する幕府創造、すなわち守護地頭制の設置と頼朝の征夷大将軍就任ですが、とそれに抵抗する法皇の闘争です。この過程の経験で頼朝は法皇を「日本一の大天狗」と言いました。法皇は1192年に死去します。それ以前平家が都落ちした時法皇は、平氏の安徳天皇に変えて、高倉天皇の皇子後鳥羽天皇を擁立します。三種の神器は不完全なままでした。一時期日本には二人の天皇と二つの年号がありました。
 ここでこの期間の戦闘について若干述べます。強い源氏は弱い平家を討ち滅ぼしたという事になっています。これは事実ではありません。平氏が本当に負けたのは倶利伽羅峠の戦だけです。富士川の戦では飢饉による兵糧不足で自動的退却になりました。内覧の初頭近江美濃のゲリラ戦では平氏が敵を駆逐し、墨俣の戦では完勝しています。倶利伽羅峠の負けは濃尾方面での戦に疲れた主力を動員できず、二軍と信頼できない在地豪族の兵力を使わざるを得なかったからです。水島の戦では義仲の派遣した追討軍を平氏の水軍を駆使した戦法で鮮やかに破っています。一の谷の戦は完全な詐欺です。法皇が休戦という中、義経が奇襲しているからです。まあ戦争では詐欺にかかる方が悪いといえば悪いのですが。屋島の戦でも義経は嘘をついています。壇ノ浦の戦で義経は、水軍の作法では船頭や水夫を射殺してもいい、と嘘を教えます。壇ノ浦で平軍が負けた原因の際たるものはこの事です。水軍に慣れ親しんだ平氏の軍は、源氏が船頭などを射殺したからといっても、すぐ同じことを敵に報復する事はできないでしょう。源平の争覇は、特に平氏の敗北は御白河法皇と源義経の協同による謀略にところが大きいのです。

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          皇室の歴史(16)

2021-02-27 15:22:45 | Weblog
皇室の歴史(16)

 後白河天皇は同母兄崇徳上皇との争いの中(保元の乱)1155年即位しました。第77代の天皇です。在位3年、院政34年、死去は1192年です。御白河法皇の死をもって、平安時代と鎌倉時代を画してもいいくらいです。この天皇(あるいわ上皇・法皇)の治世はほぼ平家物語の展開と重なります。この時代、天皇と平清盛は極めて微妙で巧妙でまたきわどい関係を構築しました。後白河法皇は台頭してくる武士勢力と交渉しまた陰謀を巡らし、挙挙実々の駆け引きを展開して衰亡する貴族政治を護ろうとします。彼の人格については色々な事が言われております。まず父帝である鳥羽上皇からは、天皇の器にあらず、とされました。側近であり乳母の夫である信西からは、歴代最悪の迂愚な人物、しかし一つだけいいところがある、それはこうと思った事は絶対にやり抜く、点だと褒めてもいるような酷評を受けます。源頼朝は、この法皇を日本一の大天狗、と言いました。それなりの事情はあるのですが、権謀術数を駆使した事は事実です。しかも組んだ相手が日本史上の超大物です。平清盛、木曽義仲、源義経そして源頼朝などなど、いずれも政治や戦闘の天才です。兄の崇徳上皇が古典的な詩歌である、和歌に堪能であったのに比し、後白河天皇は当時の俗謡(庶民芸能)である今様に凝り、と言われた女性を殿中に挙げて師事し、声を潰すほど練習しました。のみならず今様を記録し「梁塵秘抄」という、今様大系を後世に残しました。日本芸能史上でも欠かせない人物です。父帝から非難された由縁にはこのような行為もあります。
 後白河法皇の治世は大きく四期に分けられます。まず院政開始から高倉天皇即位(1168年)までの10年、次が1179年の清盛のク-デタ-までの10年間、次が平氏滅亡(1185年)までの6年間、最後は法皇死去までの7年間です。
 まず最初の10年は御白河法皇とその皇子であり次代の天皇である二条天皇との闘争の時期です。法王も二条天皇も平治の乱を経験し、幽閉から平氏により解放された経験は同じですが、この父子は仲が悪かったのです。もともと二条天皇までの中継ぎとして後白河天皇が即位しました。だから二条天皇には自分が本命だという自負があったでしょう。二条天皇は政治に熱心でかなり生真面目でやや攻撃的な性格を持っていたようです。本来なら院政にあって、天皇は儀礼的象徴的存在なのですが、保元平治の乱でこの約束はふっとんでしまったようです。理由は後白河天皇の即位そして院政があやふやなものであったからです。即位の事情そして戦乱のゆえにです。法皇(治天君)の立場あるいは人格が曖昧なものになると、どうしても本来政治の常道である天皇親政派が頭を持ち上げてきます。天皇は上皇の、高見からの市中見物、を阻止し、上皇は清盛に泣きついてこの行為の実行者を処罰させます。清盛はどちらつかずで通しましたがどちらかと言えば上皇(法皇)に近い存在であったと思われます。この間清盛は位を昇って太政大臣になります。また清盛は妻時子の妹滋子を法皇の女御に上げ、二人の間には後の高倉天皇が生まれます。二条天皇は没し、次代はその皇子六条天皇が2歳で継ぎますが、この天皇は幼帝であり、また母親の名前も判然としないほどの後見なので、後白河法皇により退位させられます。そして法皇と滋子(建春門院)の間にできた皇子が高倉天皇として即位します。こうして後白河・清盛のいわば共同統治体制が整います。ここまでの10年間は天皇親政と院政の対立の時期と言えます。
 次の10年間は法皇と清盛の蜜月時代です。御白河法皇と女御滋子の間は非常にしっくりいっていました。建春門院滋子が両者の取り持ち役でした。この間法皇は盛んに清盛が造った大輪田の泊まり、福原(現在の神戸市)に行幸しています。清盛が大量の宋銭を輸入して日本の貨幣経済しいては商工業の発展に寄与した事は事実ですが、法皇も多分それに協力していたのであろうとも推察されます。法皇の性向から言えば唐趣味は想定できます。また宋との交易は儲かるのですから。「平氏にあらずんば人にあらず」いう流言かはやった云々はこのころのことです。この間清盛の娘徳子が御白河法皇の養女の資格で高倉天皇の女御に上がっています。姉さん女房でした。後に建礼門院とされ、檀の浦の悲劇に遭遇する運命の姫君です。平氏一門の官位はどんどん昇進します。大臣三名、納言参議5名、以下の官職は言うに及ばずでした。1176年建春門院滋子は死去します。これが清盛と御白河法皇の対立の始まりになります。皮肉なことに翌年に高倉天皇と徳子の間に後の安徳天皇が生まれます。同時に鹿ケ谷事件が起こります。法皇側近の藤原成親を中心とする平家打倒の陰謀です。事件は未然に発覚し成親は殺されます。事件の背後に法皇がいました。更に法皇は清盛の長男重盛また摂政基通の妻盛子(清盛に娘)の遺領の処分で清盛と対立します。
 そして1179年清盛は福原から数千騎の武者を率いて上京し、法皇を鳥羽殿に幽閉し院政を禁止します。ク-デタ-です。ここから第三期が始まります。清盛は2歳の安徳天皇を即位させ、高倉天皇が上皇として院政を開始します。また強引に福原遷都を強行します。清盛は王朝政治の臭い強烈な京都を避け、また京都をぐるりと取り巻く寺院の勢力の波及を防止し、平氏の勢力圏西国に近く位置する為です。この政策(政治の中心を京都から移す)は後に源頼朝の鎌倉建設に受け継がれてゆきます。ここまでは良かったのです。御白河法皇は子息以仁王をして挙兵させます。反平氏の動きは公然たるものになります。福原遷都は人気が悪く1年後京都に還都します。この中肝心の高倉天皇が死去し、やむなく清盛は御白河法皇に再び院政を請います。以仁王の事件との絡みで平氏は寺院勢力、特に南都興福寺や園城寺(三井寺)と対立します。南都奈良は平氏と興福寺の対立の中で不慮の過失から焼亡します。伊豆の源頼朝や信濃の木曽義仲は挙兵します。頼朝討伐に向かった平氏の軍は当時の大飢饉で食料がなく自動的に退却します。そして平氏の総帥清盛が死去します。反平氏の動きは全国的なものになります。特に近江と美濃は反平氏のゲリラ活動が激しく都に近いために平氏は争闘に全力を挙げます。墨俣で勝った平氏は北陸の倶利伽羅峠で木曽義仲に敗れ、叡山が木曽方についたのを知って都を捨て西国で反攻の機会を伺います。連行されるはずの法皇は巧みに逃れて叡山に逃避します。以後は戦闘戦闘の連続です。飢饉による自動的休戦期をはさみ水島、一の谷、屋島、壇ノ浦と戦闘を繰り返し平氏は滅亡します。また木曽義仲は入京後皇位継承問題で法皇と対立し市中で合戦に及びます。法王は頼朝と手を結んでいました。西国の平氏と東国の頼朝に挟撃され法皇に弄ばれた義仲は頼朝の軍勢に攻め滅ぼされます。入京して半年後のことでした。

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柔道界のパワハラに関しての私見

2021-02-27 15:17:39 | Weblog
柔道界のパワハラに関しての私見

 数日前から柔道界でパワハラがあったと報道されている。会長の山下氏の責任が追及されている。具体的な事は知らない。モリカケ事件の報道以来私はメディアを信用していないので見出しで見るのみである。山下氏と言えば30年前日本柔道の麒麟児・王者だった。そういう貴重な人物に責任を押し付け葬り去っていいものか?どだい柔道は格闘技だろう。全力で練習しないと上達しない。柔道のみならずスポ-ツ・体技は血反吐を吐くまでやってのみ上達する。現在某新聞にかっての阪急ブレ-ブスの盗塁王福本豊氏の話が連載されているが、その猛練習ぶりには驚かされる。一部の天賦の才能に恵まれた者以外は上達するためには猛練習は必要だ。猛練習としごきとパワハラの間に線を引けない。少し練習がきついからパワハラだと騒いでいると、日本人は弱く、したがって日本も弱化衰退してしまう。国家の為には敵艦に体当たりするくらいの気概は要るのだ。福祉が整うのにつれて要求は増大し柔弱な婦女子には住心地のいい環境になりつつあるが、これでは国家は衰弱してしまう。森元首相の発言を追及し辞任に追い込んだのは一種の大衆(に名を借りた)独裁そして魔女裁判だ。 
(付)戦前旧制高校があった。現在の大学教養過程に相当する。ナンバ-スク-ルと呼ばれる一高から八高までの八校は現在でも独自のル-ルで試合をしている。それによれば失神するまで負けは認められなかったと言う話だ。                     2020-2-27

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  再び言う  「緑」と「女」と「平和」には気をつけよう

2021-02-26 17:47:59 | Weblog
再び言う 「緑」と「女」と「平和」には気をつけよう
 
 すでに述べた事だが、「緑」と「女」と「平和」には気をつけよう、用心しよう。緑とはエコロジスト、女とはフェミニストそして平和とはパシフィストの事だ。彼らは自分たちが主張する事柄、それも一種のみの事項を絶対正義とする。「緑」は自然保護を絶対視し、生産という事を無視する。「平和」は対外危機を無視する。こちらが非武装なら外国は絶対侵攻してこないと根拠なく主張する。女は男女の性差を否定し、価値の基準を男女無差別におき、それを民主主義の基礎理論にする。一種のみの価値を絶対視するので反対意見は許さない。そのために絶対弱者を創設し、弱者は正義と言う。
最近炭素社会からの脱出が叫ばれている。そこには国際謀略の臭いがする。仮に自動車をすべて電化するとすれば膨大な資金が要る。多くの自動車会社は潰れる。それを一番狙っているのは中国だろう。中国は近いうちに全部自動車を電化するという。これにうかつに乗るとトヨタでさえ危ない。こうして既存の大会社を取り除くのが中国の狙いだ。ではその時になったら中国は自動車を電化するのか。絶対しないだろう。中国共産党は嘘が上手いから。うかつに電化・緑などに乗らないようにしよう。ともかく最近脱炭素・緑化と言う言葉が氾濫している。どこかの国の政治的謀略ではあるまいか。エコロジストは最近の気候の変動を炭酸ガスのせいにするが、これらはどうも意図されたフェイクニュ-スらしい。
 フェミニスト、エコロジスト、パシフィストには共通の特徴がある。批判の刃は日本やアメリカには向けるが、絶対中国や韓国北朝鮮には向けない事だ。

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皇室の歴史(15)

2021-02-26 14:37:05 | Weblog
皇室の歴史(15)

 白河法皇(天皇、上皇と年代により異なりますが、法皇で統一します)の事績は大きく三つになります。武力と僧兵と醜聞です。院政期には武士団が台頭し政治的実力を発揮し始めます。荘園制が発展するとともにその地の実力者である武士の力は強くなります。大量の武力を用いた戦闘が起こります。その代表が前九年の役(後冷泉天皇の時代)と後三年の役(白河執政期)です。奥羽の戦闘を主導した源氏、源義家は武士の棟梁となり、位階を昇進させます。しかし清和源氏一族は内部闘争で力を失います。代わって台頭してきたのが義家の長男で西国で暴乱を繰り返していた義親を征伐し、更に西国の海賊を掃討して彼らを家人に入れた桓武平氏です。白河法皇は彼らを適宜利用しました。武士の力に頼らなければならなかったのは、先に述べたように荘園と公領の矛盾が激化し、地方の治安さえ武士なしには維持できなかったからです。白河法皇は宮中に武者所とか北面とかいう武装機構を作りました。これには白河法皇の皇統政策も影響しています。彼が強引な事をするので皇族貴族の間には不満は溜まっていました。クーデタ-を恐れていたのです。
 僧兵に関しても荘園と武士に関して述べたのと同様の事が言えます。当時の寺院は大荘園領主でした。自らの権益は自らの力で守ります。寺院の僧侶以下の各員はすべて皆武装でした。僧兵は自己の利害を主張して都に乱入します。この行為を強訴といいます。その数は時として数千を数えます。武士の都における役割の大半は僧兵の乱入阻止でした。特に比叡山延暦寺と南都(奈良)興福寺は僧兵で有名で、たびたび武士と衝突を繰り返しました。ともかく都の周囲をぐるりと寺院が取り巻き僧兵を擁しているのですから、物騒です。後年平氏が都落ちしたのも、究極的には寺院との争闘に敗れたからです。
 醜聞に関しての話はゴマンとあります。肝心な部分のみ書きます。白河法皇は中宮藤原賢子をすごく寵愛していました。この賢子が死去します、それから法皇の性生活は乱れます。法皇の子供はすべて潜在的皇位継承者ですから、記録しなければなりません。法王は仔細を尋ねる側近に「詳しくは解らない」と述べました。そういう次第です。法王は鳥羽天皇(法皇の孫)の中宮であった藤原たま子を偏愛します。たま子がまだ少女であり中宮候補であったころから自分の寝床に入れて可愛がりました。たま子が長ずるに及びこの偏愛は性愛に移行します。鳥羽天皇は未だ幼少で事態が解らないのをいい事に二人は不倫を続けます。女を知り尽くした男によって可愛がられ愛されるのですから、当然たま子も淫乱になったでしょう。鳥羽天皇も長じるに従いうすうす事情は解ります。問題は鳥羽天皇とたま子の間にできた顕仁親王の血縁です。この親王は嫡子であり、また白河法皇の影響もあり即位しました。崇徳天皇です。前後の関係から崇徳天皇は鳥羽天皇の子供でもあり、また白河法皇の孫でもありえます。鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」といって避けたと、言われます。問題の真偽は解りません。しかし叔父子説の方が有力なようです。この問題は保元の乱の導火線になります。また白河法皇には祇園女御という愛人がいました。この女御(あるいわ彼女の妹)が孕んだまま平忠盛に下げ渡されます。できた男子が平清盛です。この話は事実のようです。そうなると保元の乱は別の意味で、兄弟同士の争いにもなります。崇徳上皇は乱の張本人であり、清盛は反対側武力の中軸だったのですから。
 このようにして「ままならぬものは、加茂の水と、双六のめと山法師」と言った白河法皇は子孫に業縁を残しつつ幸せな一生を終えます。1129年死去、享年76歳、在位14年、実質的執政期は57年の長きに渡ります。長すぎた一生とも言えましょう。
 白河天皇の次代が彼の長子である堀川天皇です。7歳即位、幼帝です。白河法皇はこの皇子を得て、異父弟による皇統を阻止しえたのですが、堀川天皇はその点を除けば影の薄い君主でした。父親の白河法皇の存在があまりにも大きく、天皇は実際の政治に参画できません。堀川天皇は賢明の聞こえが高かったと言われております。晩年は管弦など風流の道に精進しました。28歳で夭折します。天皇の闘病記は藤原長子の「讃岐典司日記」に克明に記されていますが、病気との戦いや死への恐れは強烈鮮明に描かれています。
 次代の天皇が鳥羽天皇です。堀川天皇の皇子で4歳に即位します。在位13年、この間は白河法皇の院政期で天皇には政治への実権はありません。退位して三年後幸いなことに白河法皇が死去します。以後死去するまでの30年間上皇そして法皇として院政をしき政治を領導します。白河法皇の時院政が確立され、上皇・法皇は治天の君と呼ばれるように、実際政治の名実ともの執政者でした。先に申しますと白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四人が実際の院政の主でした。なおこの治天の君の皇族への絶対的影響力は強く、江戸時代に入っても永続されます。
 鳥羽天皇の後宮は複雑でした。先記の通り中宮たま子(待賢門院)には素行上の問題があります。しかし鳥羽上皇は彼女を愛していたようです。ところが鳥羽上皇は院の近臣の娘得子を宮中に入れて女御として寵愛します。彼女を美福門院と言います。上皇の愛情は美福門院に傾きます。鳥羽天皇の次代は白河法皇の意向により崇徳天皇です。崇徳天皇は父親(?)後鳥羽天皇の意向により退位させられ次代は鳥羽天皇と美福門院の間にできた近衛天皇になります。ここで問題が起こります。近衛天皇は崇徳上皇の「皇太子」とされると約束されたのですが、出来上がった正式文書では「皇太弟」となっております。院政をしくには天皇が直系の我が子でないといけません。そのように慣習ができていたのです。これでは崇徳上皇は院政をしけません。詐欺です。この事件は鳥羽上皇の意図からでたのかそれとも美福門院の陰謀なのかは解りません。この事件は当然崇徳上皇の不満を呼び、保元の乱の導火線になってゆきます。崇徳天皇は以後15年雌伏を強いられ近衛天皇がなくなりほぼ同時に鳥羽上皇が亡くなると保元の乱を起こすことになります。崇徳上皇は歌人でもあります。秀歌は多く、「詞歌集」という勅撰和歌集を作っています。「千早ぶる、神代もきかず、竜田川、唐くれないに、水くくるとは」は確か崇徳上皇の歌のはずです。藤原定家の作った小倉百院一首にも選ばれています。もっともこの定家の対応は後に怨霊となった上皇への鎮魂の儀礼であったかもしれません。
 鳥羽上皇の時の政治は白河法皇のそれとあまり変わりはありません。ここで藤原氏(摂関家)に内訌が起こります。藤原忠実は白河法皇の忌憚に触れ宇治に隠棲させられました。鳥羽院政になると忠実は復権します。そこでそれまで関白として政治に参画していた長男の忠通と対立し始めます。忠実は次男頼長を偏愛していました。対立は忠通と頼長の争いになります。両者は摂関の地位と藤原氏の氏の長者(藤原氏の家長ないし族長)の地位をめぐって争います。近衛天皇は病弱で16歳で死去します。鳥羽上皇も後を追うようにして亡くなります。崇徳上皇は自分の皇子重仁親王の即位を期待します。自分の院政が開始できるからです。しかし鳥羽上皇の意図があったのか、皇位は雅仁親王の皇子であり、美福門院の養子でもあった守仁親王(後の二条天皇)にまわってきます。しかし直に天皇にするのではなく中継ぎとして父親の雅仁親王が後白河天皇として建てられます。後白河天皇は中継ぎのはずでしたが即位三年後退位し院政をしき、以後34年間治天の君として政治を執行し保元平治の乱も生き抜き、平氏一門と渡り合い、源頼朝とも丁々発止の駆け引きをして、頼朝から「日本一の大天狗」と言われ1192年鎌倉幕府の成立を見せさせられて死去します。院政の主治天の君として君臨する人はどういうわけか本命でない人が多いのです。本命で院政を開始できたのは鳥羽上皇だけでしょう。
 後白河天皇の即位に不満を抱いた崇徳上皇はやはり台閣から疎外されていた藤原頼長と組み、在京の武力をかき集めて天皇方と戦闘に及びます。天皇方の武力の中心は平清盛そして源義朝でした。武力に勝る天皇方が勝ち、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、上皇方の武士はほぼ全員処刑されました。上皇の起こした戦は国家への反逆とみなされたので厳しい処分になったのです。院政に潜在(顕在と言ってもいいくらいです)していた矛盾は結局武力でしか解決できないことが解りました。武士は自分たちの実力に目覚めさせられます。「愚管抄」で慈円は「これより武家の時代が始まった」と書いています。
 乱後、後白河上皇の側近(乳母の夫)である、少納言入道信西(藤原通憲)が絶大な力を持ちます。彼は事実上全権力を掌握します。保元の乱で上皇方を追い詰め挑発し武士を指揮したのはこの信西入道でした。彼は抜群の秀才(むしろ天才とも言うべきか)でありマキャベリストでした。彼の子供たちもすべて優秀で政治家また宗教家として歴史に名を留めています。この信西に対立した公卿の一団があります。この勢力は藤原信頼を中心とします。これに二条天皇親政派と後白河上皇の院政派の対立がからみ、さらに源平二氏の摩擦もあり、1159年平治の乱が起こります。信西は殺され、源義朝は敗死し、以後院政と天皇親政派の対立は続きます。この状況で「あなたこなたして」つまり両派をうまく使い分けて台頭したのが平清盛と平氏一門でした。
 保元の乱であのような強引な皇統の筋書きをしたのは美福門院でした。彼女は崇徳上皇の復讐を恐れました。また清盛の義母池の禅尼は本来重仁親王の乳母で崇徳方につくのが筋ですが、あえて清盛に天皇方への参戦を勧めました。この禅尼には清盛も終生頭が上がりません。また信西入道の政治力は後白河天皇の乳母である妻に負います。

「君民令和、美しい国日本の歴史」

            皇室の歴史(14)

2021-02-25 14:47:17 | Weblog
皇室の歴史(14)

後三条天皇の即位は一つの画期でした。天皇の母親は三条天皇の皇女で、ここで摂関家とかなり離れた血縁の天皇が誕生します。そのため皇太子の期間が長く、藤原頼道の冷遇を受け、廃位の危険に脅えざるをえない状況でした。幸いに後冷泉天皇はしかるべき後継の子孫を残さずに死去します。後三条天皇の政治は荘園整理と宣旨桝の制定にあります。記録荘園券契約所が作られます。それまでにも荘園の整理は行われてきましたが、その作業は国司レベルに留まっていました。後三条天皇はそれを中央の官庁で行おうとします。
宣旨桝の設定とは京市中の桝の大きさを確定する事です。この作業は天皇あるいわ上皇が積極的に京都市中の商業行為に参画する事を意味します。日本の農業・商工業は10世紀後半に入ってから成長が著しくなりました。それは大陸が宋王朝により統一されこの王朝は対外的には専守、対内的には内需増大の政策をとり、歴代の漢族王朝では文化そして経済では稀に見る繁栄を謳歌していました。この王朝は銅銭を作ります。貨幣経済が発展します。そしてこの銅銭は大量に日本に持ち込まれます。という事は日本にはこの銅銭輸入に対応する対価の商品ができつつあったことを意味します。事実このころ地方官であり収税吏でもあった受領は取り立てた租税(それは一程度官に収めれば残りは私有できます)を都中心に取引していました。その為にはすでに為替のようなものも使っていました。大仏建造のところで申し上げたと思いますが、そのころから日本は裕福でした。
 荘園整理ですが、これが何分ともややこしい。荘園とは私有地です。そこに蟠踞して地方を牛耳るのが土地開発経営者である武士です。中央の権門はこの私有地である荘園と本来国家直属の田畑である公領という相対立する二つの機構に乗っかっています。だから荘園整理を敢行すればするほど矛盾は深まります。矛盾の調停には強い(強引な)権力とそれを支える人材特に武力が要ります。こうして院政という機構ができました。院政を支える者は摂関政治では下ずみであった中下級貴族である、受領層に属する人たちでした。彼らを院の近臣といいます。源氏も平氏もこの院の近臣上がりです。
 後三条天皇が院政を実施したか否かは解りません。希望された事は事実です。院政の開始は次代の白河上皇からとしておきましょう。ともかく院政とは摂関政治などとは違いかなり強力な強権政治です。お面白い比較をしましょう。後三条天皇の治世はほぼイギリスのウィリアム一世によるノルマン征服の時期と重なります。この王様の時イギリス(厳密にはイングランド)は初めて中央集権的な土地台帳の記録整理を行いました。
 摂関政治は中央の貴族による合意、院政は中下級貴族および地方の武士を中核とする専制政治です。以前の歴史書では中世の開始を鎌倉幕府の設立に求めていましたが、現在では摂関政治までを古代、院政以後を中世とするようです。前記したように、矛盾の解決法として院政が始まりました。そして院政はこの矛盾をさらに増大させます。結果は武力による解決、保元平治の乱です。そして強権は独裁者を必要とします。また独裁者は自己の血統を専守しようとします。だから院政時代の皇統継承はおどろおどろしくスキャンダラスなのです。強調すべきことがもう一つあります。それは家族制度、婚姻制度の変化です。摂関政治以前はあまり家という厳格な機構は発展していません。正妻は複数いてもかまいませんし、婿入り婚でした。摂関政治により家、特に天皇家という家機構が元型として形成されます。パパママボクという関係です。この「家」の形成は次第に下層下部に及んでゆきます。社会状況の変化、特に武力の重視により、次第に父権が強くなります。院政という政治機構の出現の背景にはそういう事情もあります。
 父権でもって院政という政治機構を統括する独裁者が白河法皇です。白河天皇は藤原能信の養女茂子(閑院流藤原氏の娘)を母として生まれました。異父弟(村上源氏基子の腹)に実仁・輔仁の二人の皇子がいます。後三条天皇は白河天皇の次は実仁親王と遺言していました。白河天皇はこの遺言を無視し自分の皇子善仁親王を皇位に就けます。ただし善仁親王は皇太子ではありません。白河天皇が実仁親王に遠慮せざるを得なかったのです。天皇にとって幸いな事に実仁親王は夭折します。弟の輔仁親王は謀略(呪詛事件、この時代よく使われる手です)に引っかかり臣籍に降下して源姓を名乗らざるを得なくなります。こうして白河天皇は自己の直系を、子供堀川天皇(7歳即位)、孫鳥羽天皇(4歳即位)と受け継がせて行き、自分は上皇さらに出家して法皇として専制政治を展開します。なおここで閑院流藤原氏と村上源氏が出てきましたがともに皇統と縁の深い関係の家柄です。
 この間摂関家はどうしていたのでしょうか。まず肝心の頼道に嫡子が生まれません。彼は恐妻家で父親道長のように多くの女性との交わりは少なかったようです。やっと日陰の子師実に家系を継がせます。師実の子師通は有能で誇りの高い、「降り位の天皇(上皇のこと)なぞなにするものぞ」と豪語するほどの人物でしたが40歳にならずして急死します。後継は忠実でしたが未だ若く摂関家を統括する実力がありません。白河法皇の思いのままです。その上婚姻の事で白河法皇から閉門を命じられ逼塞します。また頼道以下の子孫は女児にも恵まれません。他の家柄の娘を養女として入内させます。院政の時代、村上源氏と閑院流藤原氏が女児を入内させる事が多かったのですが、必ず摂関家の養女という形を取りました。またこの二氏は事実上の外戚ですが、摂関にはなれません。内覧を希望した村上源氏の要求は厳しく退けられます。道長以来100年すでに摂関家の権威は確立していたのです。なお平安時代は政治が儀礼化し(だから院政という機構が現れたのですが)摂関のすることも儀礼化する傾向にありました。しかし先記したように儀礼も重要な政治の一部です。和歌、管弦、文学などは文化でありそれは政治に深く関係しております。政治の女性化といってもいいのです。だから天皇も摂関の存在も重要でした。院政の出現にはこのような背景がりあります。そして院政の最初の主である白河法皇は強引でおどろおどろしい政治を開始します。

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     皇室の歴史(13)

2021-02-24 15:22:50 | Weblog
皇室の歴史(13)

 奈良時代から平安時代中期までの官制について概括します。奈良時代は天皇の下に左右大臣と大納言からなる議定官がありました。5-6人くらいで合議します。結論は天皇に奏上されますが、多くの場合天皇は裁可しました。後に中納言や参議の官職が設けられ彼らも参加します。また大納言以下には権官が設けられます。例えば権大納言といえば大納言の席が空いていないので、権に(仮に)に大納言にしておくという方式です。こうして議定官は増え平安時代には最高30人弱に達したこともありました。
 議定官の下に行政官として中務・民部・兵部などの各部門が八つありました。八省といいます。また少納言と弁官及び内外の外記が事務局を構成していました。地方は国司郡司でもって治められました。国司は守介掾目の四つの階級がありましたが、前記したように長官である守に権限が集中し受領になって行きます。下級の国司は土地に在住し土地有力者として国衙に結集します。
 大体そんなところですが律令制に無い職務が追加されてゆきます。令外官(りょうげのかん)といいます。代表が蔵人所と検非違使です。前者は天皇の側近秘書のようなものですが、仕事が仕事であるだけに実力をもってきます。特に長官である蔵人頭(くろうどのとう)が近衛の中将を兼ねると頭中将と言われ出世への踏み台でした。この職務を務めると参議に昇進できます。検非違使は都の警察機関です。実際の任務は地方出身の武士たちが担いました。
 どんな官職でも必ずその実際的職務は変遷し形骸化します。行政機関である八省などは真っ先に形骸化しました。ただ式部省のみが実体として残ります。理由は役人人事の考課は絶対に必要であるからです。菅原道真は式部大輔に任じられてから実力を発揮します。紫式部の父親藤原為時は式部丞(三等官)に任じられた事を終生誇りとします。軍制も形骸化します。本来はなんらかの形で徴兵しないといけないのですが、当時の日本は外国と戦争する可能性が低かったので中央政府は軍事を地方の武士たちの一種の請負にしました。武士たちは都で一応、衛門尉などの官職に任官しますが、実態は部下を率いて給料無しで執行しました。ですから都の治安は結構悪かったのです。一条天皇の時にも二度宮殿が焼けています。放火の可能性は充分にあります。
 令外官の代表が摂政関白です。摂政は天皇が幼少の時に政務を代行します。関白は天皇が成人した時、下の意見を天皇に取り次ぎます。どちらも事実上天皇の政治行為に対して、代行・掣肘・助言などの役割を持ちます。人臣初めの摂政は藤原良房で、最初の関白は基経です。その時その時の力加減と天皇との距離に応じて勝った方が摂関になります。道長の代で帝血と道長の系統の血が混ぜ合わされて摂関家ができます。以後道長の系統の嫡流が摂関家を継ぐことになります。摂関政治で重要な事は、この家柄のみが天皇の後宮に正妃を送れることです。反対の方向の血の移行はありません。こうして政治は天皇家と摂関家という首位と次位の家が交流し通婚する事になりました。権力というものはどうしても血の凝縮つまり血縁でもって固まろうとします。近親結婚極端にいえば近親相姦です。摂関政治はこの近親相姦を認めつつ、同時に血の移行を一方向に制限して、緩和します。こうして両家でもって政治の実権を握ります。摂関政治の成立は以後の日本の政治に大きな刻印を押します。権威と権力の分化です。この事は先記し土地制度と密接に絡みます。荘園、名主、武士団が発達します。実際の地方統治はこの武士団に握られていました。この地方勢力のまとめ役が中央の貴族でした。外敵の心配がないので大量の兵力を中央に結集する必要はありません。せいぜい数百人の武士で充分です。こういう中律令制とそのソフトである仏教の興隆に一番熱心である藤原氏が勃興し天皇家との通婚を介して特別の家になりました。この藤原氏の台頭を絶対に阻止する必要はあり得ません。藤原氏は天皇家には良き同労者であります。こうして藤原氏(といっても主流傍流併せて無数の家系がありますが)は中央の官職をほぼ独占しました。かといってそれで困ることもありません。官職は地方にも(むしろこちらが重要なのですが)配分されるのですから。摂関政治成立の背景はそんなところです。摂関政治が整うにつれて流血を伴う政争は激減しました。奈良時代以前なら政争は必ず流血を伴います。810年の薬子の変から1156年の保元の乱まで上下の貴族や官吏で処刑された人は居ません。政変は起こりますが、せいぜい地方への配流ですみます。伊周の配流など甘いものです。
 一条天皇の時代を頂点として村上天皇から後三条天皇に至る100年余の時代平安女流文学の絶盛期でした。蜻蛉日記(右大将道綱の母)、和泉式部(和泉式部日記)、枕草子(清少納言)、源氏物語・紫式部日記(紫式部)、栄花物語(赤染衛門)、更科日記(菅原孝標娘)等々枚挙にいとまがないほどです。歌人に至ってはゴマンといます。最も秀逸な歌人は和泉式部でしょう。女性歌人の伝統は万葉以来ですが、まだまだ続きます。このようにこの時代女性が文学で活躍したのは世界史の奇観です。
(日本はにこの種の奇蹟が多いのです。東大寺建立における行基などの民間勢力の協力、平安時代30年・江戸時代250年の平和、緩慢な下剋上による階層の流動性、宮座・村方騒動に見る大衆社会の平等性・民主性、連歌・茶の湯・歌舞伎・浮世絵などの大衆文化、識字率の驚異的高さ、鎌倉新仏教における事実上の世界宗教の創設、徂徠・尊徳・梅岩に見られる経済学の創造などなどです。日本人自身が気づかないだけなのです。天岩戸の前で女神が裸で踊り国が創設された事、そして万世一系の天皇制などもこれらのうちに入るでしょう。)
 女性が文学の分野で活躍したのには理由があります。この時代は女房の時代でもありました。律令制が崩壊し荘園制に移行するにつれて、貴族階級は大きく上下二つに分かれます。
上位は摂関家を中心とする上級層で基本的に議定官の職を独占します。下層は地方の国司つまり受領階層で原則として五位です。この受領階層の子弟は上級階層の貴族に家礼として仕えました。もちろん彼らの子女も同様です。このように皇族や上級貴族に使えた女性たちを女房といいます。平安女流文学はこれらの女房層によって担われました。彼女たちは上級貴族に仕えいろいろな仕事をしました。その中には主人の家庭教師や秘書参謀そしてスパイのような仕事も含まれています。紫式部はその点で最も優れた(あらゆる意味で)女房でありました。ですから平安女流文学を単なる文学史の次元で捉えるのは危険です。女房はそういうわけで政治的実力を持っていました。時代が下ると乳母という階層が実力を発揮してきます。紫式部の娘である藤原賢子(大弐三位)は後冷泉帝の後宮で乳母として隠然たる力をもちました。時代は下りますが保元の乱において清盛の動向に強い影響力を発揮したのはやはり乳母女房層にあった池禅尼です。
 平安時代の精神性の一つの特徴は怨霊への恐れです。それも中途半端なものではありません。平安時代最大の怨霊の主人公は三人います、早良親王と菅原道真と後の崇徳天皇です。ここでは紫式部時代を中心として三つの挿話を挙げてみます。藤原コレタダと朝成の蔵人頭の地位をめぐる争いがあります。朝成は伊タダに、貴方は若く家筋もいいのだからこの地位を私に譲ってくれ、と頼みます。地位が地位ですから伊タダは断り蔵人頭に就きます。朝成はすごく恨みます。そのせいか否か伊タダは若死にします。そのために摂関家を作る機会を失います。伊タダの孫である行成にも朝成の話は伝えられており、ある夜行成は夢で朝成が朝廷で待ち伏せしている情景を見ます。行成はその日の出仕を見合わせました。
 藤原頼道は摂関家の嫡流でした。父親道長の跡をついで摂関になります。ところで頼道の正妻隆子は極めて嫉妬深い人でした。頼道に他の女を近づけさせません。道長は頼道の正妻
(必ずしも一人とは限りません)として頼道に三条天皇の皇女禎子内親王を娶らせようとしました。皇女ですから破格の待遇です。血統の王化を求めていた道長には非常に重要な政策でした。頼道は隆子と道長の間に入って動揺混迷します。挙句の果てに頼道は幼児の言葉しか話せない状況になってしまいました。精神が退行し一種のヒステリ-状態になったのです。加持祈祷が施されます。結果は側近の女房に霊が乗り移り、隆子の父親である具平親王の霊が道長に、貴方は娘を不幸にしないと約束したではないか、娘の現況を見ると居ても立ってもいられない、と怨みを述べます。道長も降参してこの縁談はなしになりました。とたんに頼道は元気になります。そして頼道隆子の夫婦生活は幸せに行きました。しかしこの事は頼道と摂関家に大きなマイナスをもたらしました。頼道に正嫡の男児がなく後継に苦労し女児もなく後宮に入れる子女に事欠いたからです。
 書いていてふと気づいたのですが「怨霊が関係のない他人に乗り移り発言する云々の現象は決して迷信だけでは説明できません。天に口無し、人をして言わしめる(天声人語)という格言がありますが、憑依怨霊などの現象はまさしく声なき声、民衆の声なのです。古代の人たちはこういう形で自らの意志を表出しました。
 三条天皇の子供である皇太子敦明親王と道長との取引については先に述べました。道長の条件の一つが、道長の娘寛子を親王(後の小一条院)の室に入れる事でした。親王にはすでに延子という正妻がいました。親王は若い寛子に夢中になります。延子としてはさんざんです。天皇の正妃になれると思いきや、その夢もかなわずそして若い寛子に夫を奪われてしまいました。延子もその父親の為光も怨みを抱きながら死んでゆきます。後、寛子が危篤に陥った時寛子は父親道長をよびます。そこで道長が見た情景は、女房達に憑依した延子父子の霊であり、この霊は快哉を叫んでいました。寛子が息を引きとった時これらの霊から出た言葉が「今ぞ胸あく」つまりやっとすっきりしたという言葉でした。平安貴族の怨霊談を三つあげました。彼らはこのようなメンタリチイ-で暮らしていたのです。
 一条天皇から後三条天皇までには天皇自身の逸話は少なく、むしろそれを取り巻く貴族女房の事績のほうが目立ちます。換言すれば天皇はこのような貴族に取り巻かれて結構和気曖曖に過ごしていたのです。
 一条天皇から後三条天皇まで政治を領導したのは頼道と上東門院彰子でした。むしろ彰子の方が影の実力者であったようです。この間の重大事件としては僧兵の強訴と前九年の役があります。両事件とも重大なのですが、これらの話は以後の院政時代の時述べましょう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」 


バイデン新アメリカ大統領の動向を監視しよう

2021-02-23 19:38:14 | Weblog
バイデン新アメリカ大統領の動向を監視しよう

 ある報道によるとアメリカ大統領バイデン氏はトランプ前大統領の制作を否定するとかで、二つの政策を実施した。
  中国ヴィールスあるいは武漢ヴィ-ルスという言葉の使用禁止
  孔子学院の復活
の二つだ。孔子学院は中国のスパイの本拠地と言われる。バイデン氏は言葉とは裏腹に親中国路線を取りつつあるようだ。警戒しよう。
                              2021-2-23

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

資本を中国から引き揚げよう

2021-02-23 19:24:04 | Weblog
資本を中国から引き揚げよう
 
 まず中国経済への過大評価に触れておく。中国の元はドルペッグであり独立した貨幣とはいえない。換言すれば中国元は円ドルそしてユ-ロなどを介してのみ機能しえる。次に最近李首相自身の口から言われたことだが、中国人のうち6億人、つまり労働人口の半分は
一所帯あたり月1万5千円(日本円換算)で暮らしていると言われている。物価を考慮しても日本の生活保護所帯の収入レベルの30%くらいだ。本当かどうか信じかねるが首相自らがそう言うのだからそうなのだろう。どうやって食っているのだ。飢餓レベルの数字だ。これでは内需増大は起こりえず、技術革新は不可能なはずだ。また過去に聴いた、影の銀行の不良資産問題、鬼城(過剰な建築により売れ残ったもの)、全国で5万件とか10万件に及ぶ農民暴乱、黄河河口から500キロ(あるいは1000キロ)に及ぶ河水の欠如、さらに公害(特にPM2・5)などの問題は解決されているのか。メディアが中国経済の発展をほめそやすので私は農民工の問題は既に解決されていると思っていたが、未だ3億人いる(つまり10年、20年前と同じ)という。農民工は一生涯農民戸籍で賃金や福祉(それ自体の存在も怪しいのだが)で都市戸籍の人とは大きな差別をされているという。農民工は私に言わせると一種の奴隷だ。
 私が言いたいのは中国の批判ではない。もう中国への投資は止めようということだ。ミャンマ-でク-デタ-が起こった。タイの情勢も不安定だ。この二国のみならず後進国の政情は押し並べてややこしい。20年前の時点ではアセアンは中国より発展していた。それが現在では逆転している。なぜかと言えば、日本やアメリカなどの資本がアセアンから中国に転進したからだ。これには理由は色々あるだろうが、中國の人口が巨大で需要が大きいとにらんだからだ。加えて中国の経済が安定すれば、いわゆる「民主化」が進むだろうと期待したからだ。少なくとも後者は期待できそうにない。若干豊かになれば軍事膨張を試みるだけだ。アセアンにアフリカや南米を加えると中国以上の市場になる。どうせ金を使うのならミャンマ-などの後進国に投資する方が賢い。少なくともわざわざマムシに餌をやり飼い育てる愚行は避けられる。中国にはさんざん餌をやった。この辺で方向を転じる必要がありそうだ。
 昔を思い出す。1960年時点で世界は、特に日本人は、5-6年後には社会主義の時代になると思っていた。その時点でフルシチョフは自国つまりソ連の工業力の低さを嘆いていた。(秘密会議報告による)結果としてソ連が西側に対し優れていたものは戦車と一部の戦闘機そしてスプ-トニクだけだった。この人工衛星もすぐ西側に追い越された。独裁国家では資力をごく一部に集中し優位を誇示演出できるのだ。また現在の中国における習主席と李首相の食い違いを見ていると、やはり1960年時点での毛沢東と劉少奇の抗争を御思い出す。結果として出現したものが文化大革命とやらだ。これで中国は資本のほぼすべてを失った。そして人間の良心も。    2021-2-23
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行