経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   経済人列伝 田中久重

2021-06-30 23:21:00 | Weblog
経済人列伝 田中久重

 通称からくり儀右衛門、田中久重は没年から逆算すれば1798年、筑後久留米に生まれました。父親は鼈甲細工の職人で同時に経営者でした。久重は幼時より器用で、細工物製造の過程に興味を示し、父親の仕事場の隅から、職人の仕事振りをじっと観察する習慣がありました。寺子屋に通います。久留米絣の考案者井上伝に協力し、花鳥図の模様を織り込むことに成功します。父親の家業は継ぎません。茶運び人形を作り、それを久留米の五穀神社の境内で披露し、観衆を驚かせます。この人形は盆に茶碗をのせて運んできます。人の前で立ち止まります。人が茶を飲み干し、元の盆に茶碗を戻すと、人形は向きを変えて、元の位置まで歩いてゆきます。
 久重は1824年(文政7年)久留米を出ます。熊本の清正公前で茶運び人形を披露し、観衆をうならせます。からくり儀右衛門の名は広まります。大阪に出ます。道頓堀で雲切人形を興行し、人気を博します。盛名は得られましたが、久重はどこかしっくりきません。実際の生活に役に立たない技術になんの意味があるのかと思います。一時久留米に帰ります。
1934年(天保5年)36歳時、家族と大阪に移住します。無尽燈を製造します。それまでの照明器具は行灯でした。油に芯をつけて、芯の先を燃やして灯りをとります。灯りが風で消えないように、周りを紙で覆います。ですから灯りは暗く、夜の作業には差し支えます。加えて行灯では、始終油を補給しなければなりません。久重の作った無尽燈では、圧縮空気を利用して油槽から油を芯に補給します。材料は銅、高さ60cm、従来の行灯に比べて安定し、なにより油の補給をしょっちゅうしなくてすみます。銅製ですので火災の心配がなく、芯を大きくして照明を強くすることができます。サイズにより3両から1両までの7種類ありました。結構高価ですが、大阪商人には喜ばれ売れました。夜間の仕事が非常にやりやすくなります。類似品目である鼠燈や折りたたみ式燭台も考案します。儲かりましたが、せっかく建てた家も、1839年(天保7年)の大塩平八郎の乱で焼失します。
49歳、雲竜水を作りました。消火器の一種です。それまでの消火器は水鉄砲のようなもので、連続注水ができません。雲竜水はそれを可能にしました。おもしろい花火も考案します。空に一隻の軍艦が浮かび、号砲を出して消えてゆく、というものです。
組織的な学問の必要性を感じて、土御門家に入門し陰陽学を習います。大覚寺から近江大ジョウの称号をもらいます。優れた職人や芸人に与えられる称号です。
1851年(嘉永4年)京都四条烏丸で機巧堂を開設します。からくり及び機械のメ-カ-です。この間万年自鳴鐘を作っています。これは1年間自動的に進行する時計です。京都の広瀬元恭に師事しオランダ学を学びます。恐らくオランダ語は習わず、師の解説を傾聴していたのでしょう。ここで久重は西洋機械の要諦をつかみます。それ以上に幸運だったことは、広瀬門下の同僚です。佐野栄寿左衛門(常民)、陸奥宗光、中村奇助、石黒寛二らがいました。天真爛漫な久重は彼らからも愛されました。久重も私財を研究費に投じます。
佐野栄寿左衛門を通して彼の主君である佐賀藩主鍋島斉正(閑叟)から、佐賀にきて機械作成を指導してくれるように、依頼されます。この依頼に答えた第一号の成果が、蒸気船と蒸気機関車のミニチュアです。オランダ船を解体し、構造を知った後、組み立てます。組立作業は久重が指導し、オランダ語を読める者が書物からの知識を久重に伝えて援助します。1855年(安政2年)藩主の前で行われた実験は成功し、ミニチュアの機関車は線路を走り、蒸気船は池の中を進みました。多分大隈重信などもこの実験供覧を見ていたはずです。後に大隈は参議として明治初年の政界を切り回し、電信交通などのインフラ整備の基礎を作ります。久重の作った蒸気船と蒸気機関車の印象は大隈の潜在意識に焼き付られいていたのでしょう。
大船建造を解禁した幕府は、佐賀藩の科学技術の能力を評価し、オランダから贈与された汽船の管理を佐賀藩に委任します。観光丸、150トン木製外輪式蒸気船です。観光丸は練習線として使われました。1853年佐賀藩は長崎に第一次伝習生を派遣し、オランダ人から、造船、砲術などの教育を受けます。伝習生の中に久重も佐野もいます。こうして佐賀海軍ができました。
1858年(安政5年)佐賀藩は蒸気船建造予算を発表し、いよいよ本格的な船の建造に取り組みます。1865年(慶応元年)竣工、長さ18m、幅3m、10馬力、凌風丸と名づけられます。
 幕府は佐賀藩に汽罐の製造も依頼します。佐賀藩が久重の指導のもとで、作った装置や機械には、電信機、大砲鋳造、反射炉、蒸気機関砲などがあります。佐賀藩は鳥羽伏見の戦いでは中立を保ちました。薩長土の軍隊が江戸に進駐し、彰義隊を討伐する寸前に新政府軍に参加します。この時蒸気機関砲や新式大砲はものすごい威力を発揮し、以後の戊辰戦争でも活躍します。幕末中立を保った佐賀藩が薩長土肥と並び称せられる藩閥に加わり、新政府に多くの人材を送り込み、活躍できた背後には、この藩の機械技術の能力があります。
佐賀での久重の名声はすぐ隣である、彼の故郷久留米にも伝わります。真木和泉が久重招致を提唱し、藩主有馬慶頼が賛成します。結局久重は佐賀久留米両藩で仕事を半分ずつすることになります。この間久重の養子である儀右衛門が長崎で佐賀藩士に惨殺される事件が起きています。久留米では、溶鉱炉と鋳砲工場を作っています。80ポンド砲を製造します。藩主御前の実験では10km飛びました。合格です。15石3人扶持中小姓に任じられ正式の士分になります。藩士としては中位の身分でしょう。久留米藩士今井栄とともに、久留米海軍の創設に参加し、船を買いに上海まで行っています。久留米には海はありません。豊前(現大分県)の大浦近辺を艦隊の根拠地にします。製氷機も造りました。製造所諸職裁判役に任じられます。久留米藩の機械製造の総責任者になりました。久留米藩も新政府に参加することになり、船で兵を江戸に送ります。新式砲は威力を発揮しました。
1868年(明治元年)、明治天皇の臨場を仰いで、新政府海軍の観艦式が行われます。参加した船は、千歳丸(久留米藩)、電流丸(佐賀藩)、華陽丸(山口藩)、丙寅丸(山口藩)、万里丸(熊本藩)、三封丸(薩摩藩)、旗艦は電流丸でした。電流丸と千歳丸のエンジンは久重が作成したものです。
維新後も久重は久留米に留まり工場で製造を続けます。1973年(明治6年)に上京し麻布大泉寺で工場を開きます。久留米の旧工場を東京に移転させました。事情があります。久留米にやってきた県令の水原久雄は、旧久留米藩の施設は、版籍奉還廃藩置県後は新政府のものと考えます。本来なら国家へ収公されるはずですが、久重の役割の重要性を考えれば、いっそのこと久重の個人事業として、少なくとも一時期は行わせた方が都合がいいだろうと考え、久留米の工場施設を久重に一任しました。この間には新政府で活躍している佐野常民の尽力もあります。佐野は海軍の国産化を考え久重を起用しました。
久重は工場を二度移転させ、芝新橋金六町九番地(現在の銀座8丁目近く)におさまります。久重が製作した製品のトップはモ-ルス電信機です。他に電信用時計仕掛のスクリュ-や生糸試験器を作っています。明治11年工部卿伊藤博文の主宰で電信開業式が大体的に行われます。この機に久重の工場は工部省に吸収され、逓信省電信燈台用品製造所になります。
久重は1881年(明治14年)に死去します。享年83歳でした。彼は儀右衛門の死後、久留米の金属工匠金子平八郎の六男大吉を養子に迎えて二代目久重と名乗らせます。二代目久重は海軍のために多くの仕事をしましたが、明治15年に工部省を辞め、芝金杉新浜町に工場を建てます。二代目の田中工場です。海軍省発注のあらゆる製品を製造しました。電信、電話機、機械水雷缶、火薬砲、発火電池、信管電信機、電気表示機、特殊望遠鏡などが造られました。明治20年の時点で680人の人員を抱えていました。当時としては大企業です。1993年(明治26年)懇望により二代目久重は工場を三井に譲ります。三井は社名を芝浦製作所と改めます。これが現在の東京芝浦電気、東芝の発祥です。しかし東芝では初代久重が芝新橋金六町(銀座)に造った製作所を東芝の原点にしています。三井側でこの譲渡交渉に当たった人物が藤山雷太です。藤山は三井を産業資本に変えようとした中上川彦次郎の股肱です。また藤山も佐賀の出身でした。以上の経過から解るように、東芝の成り立ちには、久留米藩、田中久重個人、工部省、三井と資本が入り乱れております。これも幕末維新の変革期の特徴でしょう。
久重は東京で工場を経営する中、万端の機械考案の依頼に応ず、と広告を出しました。自らの発案を公開し、同時に技術コンサルタントのさきがけをも為しました。
久重の生涯を振り返ってみて、私は以下数点の事に気がつかされます。まず幕末佐賀藩における機械技術の水準です。時の中央政府である幕府よりも一時期は高い水準にあったようです。海軍力においても同じでしょう。久留米藩が海軍建設に邁進した事実には驚かされました。ということは私達が知らないだけで、全国の津々浦々において、同様の動きがあったのであろうと憶測されます。幕府や薩長のみならず、全国の諸藩が必死に軍制改革したがって政治改革に取り組んでいたのでしょう。
私達は製造業の近代化というと、西欧の文物の輸入しか知りませんが、一方で久重に代表されるような自前の国産技術もあり、この下地の上に輸入された種が捲かれ、育っていったのだろうと思われます。
からくりを製造業に結びつけたのが久重です。ぜんまい、ネジ、軸、歯車、棒や糸を組み合わせてからくりを作ります。工学も基本的には同じ作業なのでしょう。近代化されれば扱う資材は違いますが、エンジニ-アや職人の作業の原点はからくり製作と同じです。その意味で工学とは地味で泥臭い作業でもあります。臥雲辰致、豊田佐吉、同じく喜一郎、小平浪平、早川得次、高柳賢次郎、それぞれ分野も立場も違いますが、やっていることは同質です。現在ある素材を組み合わせ組立、時として新しい素材を求め、組み立てるのが工学というものでしょう。工学の背後には物理学や数学があり、一見華やかな理論に魅せられますが、物作りの原点はからくりと同じでしょう。田中久重と一番似ている経済人はやはり島津製作所の島津源蔵です。

参考文献  田中久重  集英社インタ-ナショナル

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
 日本の良いところをもっと良く知ろう!!1

 武士道の考察(104)

2021-06-30 20:19:58 | Weblog
  

  武士道の考察(104)


(石田梅岩)

梅岩は京都の商人出身の学者です。本来内向的・思索的な性格のゆえでしょうか、商売のかたわら学問に精を出し開眼して、自らの学問を心学と名づけ、市内で開講します。彼の経済への貢献は重要です。梅岩は、倹約を契約と解します。「約」は「義」を積む事、「義」はつまり「利」、「「義」は「宜」つまり「利」だから倹約とは、相互に便益を計ること、「宜」あるいわ「利」の交換です。そこから出てくるさらなる便宜である経済的価値は、広く社会の役に立つと梅岩は主張します。それまで倹約とはただ物金を惜しんで貯えることと解されてきました。多分今でもそうでしょう。梅岩は、倹約はただ物を惜しむことではない、天下の物を流通させる契約だと主張します。うまく流通させなければ無駄になり、物を真に惜しむことにはならないのだと。
 さらに彼は、為政者も倹約する、倹約とは物を惜しんでその利便性を効率化する契約なのだ、流通を促進することなのだ、商人は流通過程に参加することによって天下に奉仕している、武士が主君に命をもって奉仕するのと同じなのだ、と言い切ります。梅岩は流通を、将軍大名武士庶民がひとしなみに皆必要とする過程として承認することにより、それまで奸商としか見られてこなかった商人の社会的必要性と地位を承認しました。梅岩には、潜在的には商人の方が武士より上、という考えがあります。武士はただ主君に奉仕するだけだが、商人は流通過程に参加することによって天下の人みんなに奉仕しているからだ、と言い切ります。流通過程の意義の承認を、それが社会の成員相互の契約により成り立つ、という命題の上に成立させます。梅岩と同時期イギリスにヒュ-ムそしてスミスが現れます。
 倹約は朱子学が提供できる唯一の経済対策です。将軍も藩主も改革といえば押しなべて倹約倹約と唱えていました。これは主君からの上意下達としての経済対策です。為政者の十八番である倹約を、契約と再解釈することにより、梅岩は経済行為を上から下への管理統制ではなく、相互に対等な契約関係すなわち交換に変換します。これは四民平等の基礎的前提です。契約説が徂徠の、作為としての政治、という考えの延長上にあることは明らかです。
                                104
[君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

「君民令和、美しい国日本の歴史」序文

2021-06-30 11:45:24 | Weblog
   「君民令和、美しい国日本の歴史」 序文

 大東亜大戦後の歴史特に日本史の記述には共通した傾向がある。それは日本の歴史を劣ったもの・遅れたもの、欧米あるいは中国の歴史の外縁に位置する付属的従属的歴史とする観方である。
 私はこのような悪弊を排して日本史を語りたい。日本の歴史を優れたもの、強いもの、自在独立したものとして描きたい。日本の歴史は安定した婚姻制度、秀れた民衆仏教を持ちその延長上に欧米に劣らぬ政治経済制度を発展させてきた。詳しくは本分を見られたい。
 この本の記述は宗教、婚姻、経済の三つの要因の相補相即性に主眼が置かれている。これら三大要因が相互に影響しあって出現したものが天皇制である。天皇は現人神である。同時に君民一和、君民平等であり、民衆も現人神である。私は歴史を記述しつつ、単なる事実の記載を超えて、君民一和・現人神という思想を抽出した。そして歴史を一刀両断し歴史と哲学を溶融せしめた。ここに私の著作の意義がある。
 著述に当たって事実は必要な部分のみを取り上げ30項目に要約した。説明には拘泥せず、記載は簡潔短切を旨とし、全体の文章の量は意図して少なくした。余分な事実の列挙、長い文章は私が意図する哲学性の理解を曖昧で不鮮明なものとする。
 特に難しい事実を取り上げた記憶はない。この本を読むには高校の歴史程度の知識があれば充分だと思う。付言すれば日本は侵略戦争など一切していない。少なくとも江戸開幕
以来は。 玩味熟読されたい。
                                   著者

経済人列伝  田沼意次

2021-06-29 22:57:47 | Weblog
経済人列伝 田沼意次

 大岡忠相が江戸時代の善玉の代表なら、悪玉の代表はまちがいなく田沼意次でしょう。彼は汚職政治家の典型のように言われています。彼の評判に関しては今更くつがえしようもありませんが、真実の部分は そう多くないようです。経済政策の点で申しますと、大岡の路線をより大胆に推し進めたと言えます。
 意次は1719年(享保4年)に江戸で生まれます。父親は従五位下主殿頭で600石の旗本ですから上級の武士になります。吉宗に仕えて紀州から江戸に入府した家臣団です。意次は17歳で家督を継ぎます。頭がよくて気転が利くところから、世子である家重(吉宗の長男)の小姓になり、家重が将軍になるとそのまま本丸に移ります。家重が死去すると後を継いだ家治に重用されます。小姓組番頭から、御側申次(1751年)、側用人(1767年)、老中(1772年)と出世コ-スを駆け登り、老中と側用人を兼ねて政治の実権を握ります。歴史家は1760年(宝歴10年)から1786年(天明6年)までを田沼時代と言っています。
意次が大名になったのは郡上一揆(1754年)の直後でした。一揆の詳細は省きますが、この一揆の意義はそれまで幕府がともすると取りがちな、直接税(年貢)増税路線の行き詰まりを意味します。一揆で直接税派は一掃され間接税派が台頭します。その筆頭が田沼意次です。
 意次も最初は年貢増税を試みました。たちまち全国に一揆が起こります。意次はすぐ路線を変更します。彼が試みた経済政策の第一が株仲間結成です。商人に業種ごとに団体(仲間)を形成させ、この仲間から運上金(冥加金)を出させます。つまりそれまでもっぱら農民だけにかけられていた税金(年貢)の増加をやめて、当時勢力を得つつあった商人から税金を取ろうとしました。この冥加金は流通税に相当します。全く新しい試みです。欠点は大商人による独占が進む事と物価が上昇する事です。流通税自体が価格に転嫁されます。また独占が進めばどうしても価格はつり上げられます。この種の政策で面白いのは私娼(公認されない娼婦)からも税金を取った事です。私娼窟ごとに自身番を置き、この自身番を通して私娼(というより娼婦宿の経営者)から徴税しました。こういう事をしたので当時の社会はかなり退廃的なものになりました。また商人が栄える分、武士はその分け前に参加できず、繁栄から取り残されます。
 商人資本も積極的に利用します。その代表が印旛沼の開発です。利根川との水路を断ち、水を東京湾に流して、干拓し米他の増産を狙いました。経費は大阪と江戸の商人が持ちます。もう少しのところで工事は沙汰やみになりました。もっとも印旛沼干拓工事は吉宗時代からの悲願でした。
 全国の鉱山を調査して開拓します。鉱山だけではありません。開墾できるところはすべて開墾しました。ともかく財源を求めまくります。結果は成功したりしなかったりです。ただこういう種類の行事には知恵者・専門家が要ります。そのために意次は周囲に技術者や学者を集めました。ブレインです。杉田玄白、工藤平助、平賀源内、本田利明、田村元雄などです。意次の時代に始めて蘭学が盛んになります。吉宗時代に蘭学は一応認められましたが、開国思想に結びつくだけに軽快され、何かの草子にアルファベット文字を使っただけで処罰された例もあります。
 意次政権の事業として特記すべきは北海道開発への着手でしょう。仙台の工藤平助が「赤蝦夷風説考」を表します。樺太から千島列島にかけて、赤蝦夷(ロシア人)が出没し、国防上重大な問題になりつつある、よって蝦夷(北海道)を調査し、開発して国防に備えるべきだ、というのがこの本の意図するところです。意次はすぐこの考えに乗ります。調査隊を出しました。千島列島に関しては、エトロフ・クナシリ島は日本人が住んでおり、シムシル島にはロシア人が住み、その間のウルップ島は交易の場だったそうです。意次は蝦夷を開発し、北方での交易を考、のみならず蝦夷への数万人規模の殖民も考えていました。従って彼は開国思想者になります。この考えは当時としては危険思想です。政治の実権者がこの通りですから、田沼時代には学問と文化は栄えました。寛容であり同時にやや退廃的な文化です。文人にとっては住みやすい環境です。与謝野蕪村、池大雅、大田蜀山人などが有名です。
 田沼時代のもう一つの目玉政策は、銀の定額貨幣化です。それまで銀貨は秤量貨幣で、何モンメ何モンメと重量換算で交換されていました。田沼時代には明和五モンメ銀、そして南リョウ二朱銭が発行されます。前者は12枚で金1両、後者は8枚で1両と規定されます。それまでのように金銀比価が日により相違するという不安定さを回避して、金銀の比価を固定します。これは金本位制のはしりであり、金経済圏である江戸への経済力集中政策、従って幕府の中央集権化政策でもあります。また流通貨幣増量を狙って四文銭を作りました。これは銅銭と銘打ってありますが、鉄銭だったり真鍮銭だったりして、人気が悪く、加えて造りすぎて物価が騰貴し弊害の方が多かったようです。
 こういう一連の斬新な政策遂行のためには、有能な部下が必要です。意次は、中下級の旗本御家人から優位な人材をどんどん登用しました。これは彼を中心とする閥ですが、官僚群でもあります。すでに5代綱吉の時代に勘定吟味役が新設され、そして8代吉宗の足高制などを経て、幕府官僚群は形成されつつありましたが、意次の時代にこの傾向は加速されます。
 意次の経済政策を総括すると次のようになります。
 まず商人資本への着目です。商品の流通から一定の租税を徴収しました。また商人資本自体を、当時考えられる限りの民間および公共投資に動員します。この政策はなんのかんのと言われながら後代に受け継がれて行きます。天保14年(1838年)時の老中水野忠邦によって大阪商人全体に要請された冥加金は140万両です。また維新と東京遷都に際して政府が大阪商人から借り上げた総額は500万両といわれております。返済されたとは聞いていません。
 併行して幣制の中央集権化がおこなわれます。定額銀貨の発行による金本位制への傾斜です。商人資本の活用により経済は活性化されます。それが無軌道にならないために、また資本の動きを掴むためには、この幣制の統一は不可避です。
 前二者と同じ動きの中で捉えるべきですが、開墾開拓が盛んに行われます。資本の投下と公共事業は併行して行われます。
以上の政策遂行のための人材を発掘します。政策・技術官僚の養成です。
意次の思想は極めて開明的です。開国し外国と交易しようとしていたようです。この事は当時の長崎駐在オランダ商館長チチングの日記に書いてあります。彼ほど意次の政策を評価した人はいません。実権者自身が開国思想に傾斜しているのですから、思想統制は緩やかでした。杉田玄白の「解体新書」が出版されたのも意次の時代だったからでもありましょう。商人資本の活用、開墾開拓そして開国への傾斜をすべて包括する事業が北海道の開拓でした。
1784年意次の長男で若年寄の意知が殿中で佐野政言に刺殺されます。また物価騰貴により江戸で打ち壊しが暴れまわります。暫くして意次を信頼していた将軍家治が死去します。将軍死去と同時に意次の新進官僚登用に反感を抱いていた、御三家を中心とする保守派が松平定信をかついでク-デ-タ-を起こし、意次は政権の中枢から追われます。1万石に減知されます。1793年(寛政5年)死去、70歳でした。
意次の政策は開明的なものでしたが、ことごとく未完成に終わります。特に惜しいのが北海道開拓と印旛沼干拓です。寸前のところで意次失脚となり頓挫しました。
意次の政策に欠けていたものは、武士階層というものの軽視と弱者への配慮の欠如かもしれません。ただし江戸時代全期を通じて武士は経済官僚であり、経済官僚化しました。古くは池田光政に仕えた熊沢蕃山がいい例です。享保の頃活躍した荻生徂徠は農本主義への執着を捨てるべきだ、と言っています。意次のやり方は時代の趨勢です。意次は積極的経済成長論者ですのでどうしても産業育成に貢献しうる層、つまり富裕層優遇になりがちなのはやむをえません。しかし田沼時代と1760年からの26年間は、天災の連続です。洪水に干害が相継いでいます。26年の執政とは短いものではなく、記録的な長さです。長く続いた事は、天災の連続にも関わらず、彼の政治が基本的なところで効果を発揮していたのではないでしょうか?ただ意次はあまりに積極的すぎて、あれもこれもやり散らかし、政策の統合と欠陥への対策を欠き、物価騰貴と汚職の蔓延を結果した事は事実です。
田沼意次が退いた後、松平定信の寛政の改革が始まります。定信は意次の事業をすべてと言っていいほど否定しました。意次の命を受けて蝦夷地に赴き、帰って報告した青嶋俊蔵は即解雇されました。定信の政策をここで論じるつもりはありません。私は定信は、日本で始めて社会福祉政策に取り組んだ人ではないかと思っています。これは私の彼に対する評価です。同時に私は彼が行った寛政異学の禁には疑問を感じます。蘭学も含めて幕府公認の朱子学以外の教授の禁止は禁止されました。ために廃業した学者もいました。後年林子平は海防の必要性を唱えただけで投獄されました。「赤蝦夷風説考」を表し、幕府に建言した工藤平助の提案が意次によりすぐ採用され、蝦夷への探検調査船が派遣されたのとは大違いです。なお定信は意次に個人的な事で遺恨を抱いていました。
  参考文献
   田沼意次の時代 岩波書店
   悪名の論理   中央公論社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

   武士道の考察 総目次

2021-06-29 20:00:54 | Weblog
武士道の考察 総目次

第一章 海行かば(戦士の美意識) 
氏と大王、中央集権国家へ、伴と舎人、軍団と健児、万葉の戦士、軍事氏族大伴氏、衰退する名門、家持は陰謀家、大伴一族には同性への恋情を歌った歌が非常に多い、戦士と同性愛
第二章 草燃ゆる(武士の登場) 
武士とは? 技能、所有、衆議、契約、忠誠と反逆、戦士は平等、エロスとしての忠誠心、律令制、土地はすべてお上のもの?、田堵名主、墾田そして荘園、半合法的土地占有者 武装する土地開拓者そして武士、蝦夷人との戦闘、騎射戦術、騎馬と封建制、武装の返歌、都の武者、群盗蜂起、兵(つわもの)平将門、将門の乱は内戦、貴族の傭兵、内廷政治、矛盾の激化、清和源氏と摂関家、伊勢平氏と院政、武家の棟梁、僧兵対策、院政の矛盾 源平の内乱、ボディガ-ド、武士の暴力 義家と貞盛、武技、源宛と平良文、余五将軍平維茂、屠膾の輩・殺人の上手、六条顕季と源義光、武士は魔除け、契約 団体の形成、命令に背けば、現地では裕福でも、武士の官位、アウトロ-、契約・団結・家職・名誉、妹尾兼泰
第三章 いざ鎌倉(身分の成立)
平氏政権、鎌倉幕府、守護地頭、承久の乱、貞永式目、御恩と奉公、評定衆、衆議の制度化、征夷大将軍、将軍職は借物、衆議に依る支持、テクノクラ-ト・中間管理職としての
武士階層、地頭の非法、貨幣経済と悪党、戦術の変化、得宗専制、武士層の拡大、衆議と叛乱、一所懸命1蘇我兄弟、一所懸命2竹崎季長、尼将軍の演説、いざ鎌倉、青砥藤綱 鎌倉武士の合理性
第四章 明日は明日の風が吹く(叛覆常なし、流動する階層)
室町幕府 守護連合政権、守護大名と戦国大名、郷村・坐・一揆、名主と作人、国人・豪族、農村は武力の培養地、商人職人は座に結集、酒屋土倉、寺院は銀行、再び悪党論、足軽、楠正成、高師直、流動する階層 下克上、将軍守護家の没落、国人領主から戦国大名へ、兵農分離、一円支配、家臣団の統制、足軽部隊、戦国家法、戦闘の変化、ル-ル無視の源平合戦、南北朝の内戦 歩兵の活躍、応仁の乱 足軽の登場、鉄砲伝来 戦闘は歩兵中心に、黄金の島ジパング、兵庫北関と草戸千軒、生活文化の享受、一揆一揆一揆、婆沙羅大名佐々木道誉、教養があるのは良いのか悪いのか、乱世の奸雄、七回主君を変えないと、死ぬべき時には死ぬ、がめつい武士達、武士と郷村、毛利家では、徳川家では、多胡辰敬寄進状 戦国の家訓、命捧げます・命頂きます、集団による死の保証
第五章 仏と侍(戦闘そして救済)
仏教伝来、縁起無我、般若空と菩薩道、大乗仏教、国家と仏教、仏教の非国教性、ひじりとさむらい、聖俗の共存、寺院領主、僧兵、菩薩僧行基 私有地開拓者、サンガと大衆僉議、サンガと武士団、武士プラス僧侶イコ-ル菩薩、奈良平安仏教から鎌倉仏教へ、親鸞、日蓮、親鸞と日蓮 生きる現実の肯定、法華一揆と一向一揆、武士道菩薩道論
第六章 武士は食わねど(戦士そして治者)
鉢植の大名、武士はサラリ-マン、幕政初期の公共投資、大名財政の破綻 商人の台頭、武士は経済官僚に、五代綱吉の経済改革 勝手方老中と勘定吟味役の設置、元禄時代 蓋かな消費生活、貨幣改鋳是か非か、享保の改革 米相場の統制と金本位政策、公事方御定書 民事法制定へ、田沼意次 商人資本との連携、寛政の改革 社会福祉政策への着手、幕府を潰した十一代将軍家斉、天保の改革 上地令、経済政策打つ手なし、庄屋仕立て幕政、評定会議、近習出頭人、側用人・側衆、足高制、封建制と地方自治、藩政改革と下級武士の台頭、緩慢な下剋上、なぜ衆議制? 死を共有する点において武士は平等、歌舞伎者・男道、念者・同性愛、青少年教育機関としての同性団体、殉死 主君は恋人、切腹 忠誠と反逆、心中、死・男道・連帯、戦士か治者か
第七章 武士も食わねば(治者そして戦士)
儒教 漢民族の風習儀礼、孔孟の教え そして長い停滞、宋学・朱子・五倫五常、無内容な宋学、死を見つめない儒教、固定装置としての儒教、士道 素行と常朝と友山、山本常朝 葉隠れ武士道、大道寺友山、儒学の枠を破った人たち、荻生徂徠、本居宣長、水戸学、石田梅岩、二宮尊徳、村の自治、衆議制 武家、衆議制 農民、似ている武家と農村、幕政の限界、やせがまん、武士道の成立
第八省 討ちてしやまん(革命)
黒船来航と世界情勢、市民革命、工業軍事技術の変革期、幕藩体制の行き詰まり、無策ではなかった幕府、開国か否か 処士横議、安政の大獄、公武合体路線、なぜ長州は攘夷討幕か、外国との戦闘 開国へ 薩長同盟、大政奉還 討幕、江戸進駐 東京遷都、有司専制、廃藩置県、秩禄処分、地租改正、流通経済の承認、攘夷は誰がするのか 俺たちだ 草莽の処士、戦う すべてはそれから 変身せよ 政府・民権派・叛乱士族、西郷隆盛と西南戦争、人望家西郷、凄腕の悪リアリスト西郷、城山、武士の自己否定
第九章 山行かば(武士と天皇)
なぜ変革は成功したのか、天皇不執政、幕府 委任された実務、天皇と武家の軋轢、徳川幕府と天皇、天皇と武家、生活者としての天皇、文化の保持者としての天皇 伝統と美意識、君主は恋人、呪としての天皇
第十章 友は恋人(社会的衝動としての同性愛)
万葉集と同性愛、指導者 忠誠と恋慕の対象、武家と僧侶、武士道男道、同性愛 生殖にもとづく関係の止揚、死は生の凝縮、同性愛 死の容認 社会的衝動、若者組・若衆組、社会的衝動としての同性愛
第十一章 われときみ(思想としての武士道)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


君民令和、美しい国日本の歴史  目次

2021-06-29 16:59:37 | Weblog
君民令和、美しい国日本の歴史  目次

1 聖徳太子
2 大仏開眼
3 記紀神話
4 万葉集
5 神仏習合
6 摂関政治
7 勅撰和歌集
8 源氏物語
9 愚管抄
10 御恩と奉公
11 評定衆と貞永式目
12 座、一揆、悪党
13 連歌と茶道
14 親鸞と日蓮
15 徳川幕藩体制
16 武士道、男道
17 元禄時代
18 大岡忠相と田沼意次
19 細川重賢と上杉鷹山
20 調所広郷と村田清風
21 江戸時代の経済思想
22 荻生徂徠
23 本居宣長
24 文化としての天皇
25 歌舞伎と浮世絵
26 村方騒動
27 処士横議
28 明治維新
29 西郷隆盛
30 福沢諭吉と渋沢栄一

武士道の考察(103)

2021-06-29 16:42:54 | Weblog
武士道の考察(103)

(水戸学)
 徂徠の影響を幕末の水戸学も濃厚に受けています。水戸学とは水戸藩で形成され変形された儒学です。水戸徳川家2代目藩主光圀は「大日本史」の編纂を始めます。光圀は徹底した儒教徒であり、彼の藩の寺院はひどい弾圧を受けました。廃仏毀釈の先鞭をつけた人です。
彼の大義名分論は日本の歴史にも正統を求めます。司馬光の資治通鑑と同じです。勧善懲悪破邪顕正です。この動向の行き着く先が尊王思想です。どう見ても徳川幕府より皇室の方が古いのですから。かくして大日本史編纂事業は幕末までの200年間営々として続けられます。水戸藩にはこの伝統があります。観念重視そして学者尊重の伝統です。
 水戸藩は御三家の一つとされながら、幕府に対して釈然としない事情がありました。尾張紀伊の二家に比べて石高も地位も低く、水戸藩領は常陸国という北関東の貧寒な土地でした。土地生産性は低いのです。江戸時代人口は増えましたが、奥州と北関東は例外でした。そのうえ定府制(藩主と家臣の多くは江戸常駐)で経費はかかります。水戸藩は、領地を増やしてくれと、幕府に訴え続けました。
 貧乏だから常に藩政改革への圧力があります。この圧力を背景として下級武士が学者層をチャネルにして台頭します。藤田幽谷東湖父子や会沢正志斎のような人たちです。これに日本史編纂の歴史が加わります。歴史編纂事業はつまるところ機能としての制度への関心従って批判検討に行きつきます。藩政改革そして開国か否かという状況はこの批判的態度を加速します。歴史編纂事業における制度への関心の推移には徂徠の影響が多大です。徂徠は、礼は物・言葉の束と言い切って、観念や儀礼を機能としての制度に還元したのですから。水戸学は国学特に宣長の影響も強く受けています。宣長は極端に言えば、パズル・呪符・言葉が入り交じった塊から一定の意味を抽出し「古事記伝」という意味ある書物を書きました。いわば鉱石から金属を取り出すような作業です。もう少し難しく言えば、ある人がある文献を解釈して更なる文献を発見し取り出す作業です。この過程で解釈する者とされる物は相互に変化して行きます。この過程で言葉は行動に転じます。水戸学はこうして形成されました。
 水戸の儒学、水戸学はこうして体制変革の尖兵になります。藩主斉昭を中心に結束した改革派は一藩を軍政下におきます。背景には農兵の採用による兵農一体の考えがあります。変革の目的は新しい国体の創出です(まるで共産主義みたいですな)。黒船以降は外夷排撃を強く主張します。「攘夷」という言葉は水戸学が創始しました。攘夷論と国体論は相互に影響を与えつつ自らの論旨を増幅して行きます。水戸学は国学の影響も受けているので日本主義です。思想の重点は儒教から神道に移って行きます。藤田父子や会沢の著作を読むと変化変革の熱気を感じさせられます。変えるのだ、変えなければならない、変えられる、すぐ変えようという情熱が伝わってきます。水戸学が幕末の尊王攘夷に与えた影響は甚大です。吉田松陰も西郷隆盛も東湖に洗脳されています。ただ観念上の議論ではなく、井伊大老殺害、という幕末史上最大の転機となる事件を引き起こしています。しかし水戸藩は親藩御三家です。尊王とは言えても討幕とは言えません。ここにこの藩の矛盾と苦悩があります。矛盾を抱えて水戸藩は以後藩内で、血で血を洗う凄惨な抗争を繰り広げます。  103
                                 
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

塩野義のワクチン製造に思う

2021-06-29 13:47:18 | Weblog
塩野義のワクチン製造に思う

 武田と並ぶ製薬メ-カ-塩野義製薬が日本製のワクチンを製造し、来年初頭から接種する予定だ。良い事だ。新聞ではその遅れを責めているがそんなにとがらなくともいいのではないのか。日本には日本の事情がある。ある報道では、日本の製薬業界は、横並びの護送船団方式で無競争のようなことが載っていた。ここで忘れてもらっては困る事は、日本では医療の社会保険が充実している事だ。当然政府は薬価に介入する。薬価を抑えようとする。競争は緩和される。仕方がない。周知のようにアメリカでは医療保険は主として個人負担だ。オバマケアになってから事態はむしろ悪化している。製薬会社は価格を自由に決められる。天井知らずだ。競争も利益も激しいわけだ。
 結果として現在のところ日本ではコロナによる死亡者・感染者は非常に少ない。少なくとも欧米に比し。多分日本の公衆衛生が充実し、生活が清潔だからだろう。日本製ワクチンの製造が遅れた事を云々しても始まらない。気楽に過ごそう。ストレスが一番悪い。酒など飲めばいい。歓楽街でね。疫病は風評を巻き起こす。素人も専門家も同様だ。パニックは御免だ。マスクは必要なのか。
 ワクチン製造が遅れたのにはもう一つ理由がある。日本では非常時体制の制度がない。非常時とは戦時であり、現行憲法は戦争を認めていないからだそうだ。その点では菅総理が自衛隊を接種に動員したのは評価できる。まさかとは思うが総理のこの行為が違憲とかで訴えられるのではあるまいな。私は接種施行者は素人で充分だと思う。非協力的な医師会に期待したのは間違いだった。機を見て報復してやればいい。現在新規開業する医師の多くは医師会への入りたくないようだ。高い会費のみとって役に立たないからだ。
                             2021-6-29

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

  経済人列伝 堤康二郎

2021-06-28 20:46:10 | Weblog
経済人列伝  堤康次郎

 堤康次郎から受ける印象は、がむしゃら人生、という一言に集約されます。彼は常在戦場をモット-とし、負けず嫌いで頑張屋、そして常に楽観的でした。逆に言えばかなりな程度一方的に振舞いました。この傾向は彼の家族構成に如実に示されています。
 康次郎は明治22年(1889年)滋賀県愛知郡八木荘村に生まれました。家業は麻仲買商件農業です。父親は夭折し、母親はすぐ実家に帰り再婚させられます。康次郎は祖父清左衛門に養育されました。清左衛門は老骨に鞭打って頑張ります。小学校の成績は良かったようですが、経済的事情で中学進学を断念し、農業に従事します。この間過燐酸石灰を肥料にして増産に成功したり、農事の効率を上げるために耕地整理を提案しています。ただ漫然と旧来の農法に従っていたわけではありません。栴檀は双葉より芳し、です。海軍予備学校に1年通い、卒業後郡庁に雇用されています。海軍予備学校在学時の写真はまことに可愛らしく、紅顔の美少年の趣があります。
 19歳祖父死去。康次郎は思い切って、家財を整理し、妻や妹に分配した後、東京に出て、早稲田の予科に入学します。それまでに学歴の需要さを実感していたからです。この辺の決断は素早く大胆です。それまでの郷里の人生に見切りをつけ、新しい天地に運命をかけます。早稲田入学は明治42年、20歳の時のことです。
 しかし康次郎は段々授業に出なくなります。教科書に書いてある事を長い時間をかけて聞くのが、馬鹿らしくなったからです。私も同じ経験をしたので、康次郎の気持ちはよく解ります。有名な経済学者のシュンペ-タ-にも同様の逸話があります。一方在学時代から投機に手を出しています。後藤毛織という会社がありました。康次郎はこの会社の株主総会で会社擁護の演説をします。会社に注目されて、株式買い集めを依頼され、成功報酬として数千円を手にします。これを資金として日本橋の郵便局の株を買い、局長に収まります。当時郵便局長といえば、田舎では名士、都会でもそこそこに暮らして行ける地位でした。並の人ならこの辺で実直にと、考えますが、康次郎にとってはここが出発点になります。誠に栴檀は双葉より芳し、です。
 大学本科で永井柳太郎に師事します。永井はオックスフォ-ド帰りで、イギリスの経験論やフェビアン社会主義などを学んだ、理想家肌の新進学者でした。康次郎も永井もやがて政界に進出します。康次郎の考え方にはかなり革新的な傾向がありますが、これは永井柳太郎の影響でしょう。永井とともにロシア語の勉強をします。すぐ後に「日露財政比較論」という本を康次郎は出版しています。この事は彼が単なるがむしゃら男ではなかった事を示しています。一冊の本を書くことにより、体系的思考が可能になります。堤康次郎という男の意外な一面です。少なくとも私にとっては。この間康次郎は桂太郎の新党結成運動(立憲同志会)に参加し、桂から後藤新平を紹介され、その知遇を得ています。これは康次郎の政治的資産になります。彼の初志は政治家になることでした。
 大正3年(1914年)第二次大隈内閣成立。これを機に大隈・永井を中心として公民同盟という運動が起こされます。一般民衆の国際感覚と政治意識を涵養しようとする運動です。康次郎はこの運動の責任者を志願し、機関紙「新日本」の社長になります。だから当時の彼はジャ-ナリストでした。一方、ゴム、海運、倉庫、人工真珠製造、鉱山開発、そして土地投資などいろんな分野の事業に手を出しています。あまり統一性のない・がむしゃらな事業展開です。「新日本」経営を始めとして、これらの事業が必ずしも成功したとは言えません。
 大正3年、軽井沢開発に乗り出します。特にまだ手を付けられていなかった、千が滝の開発を進めます。更に南軽井沢、後年には奥軽井沢開発に進出します。「千が滝文化別荘」と名乗って、100坪の敷地に14建坪の洋式別荘を作り、2000円で売り出しました。大きくまっすぐな道路を通し、道路水道電灯電話を完備し、日用品廉売マ-ケット、クラブ、温泉浴場、音楽場、野球グラウンド、テニスコ-ト、トラック、フィ-ルド、スイミングプ-ル、ビリヤ-ドそして児童遊戯場などを整備します。この頃から康次郎の事業経営の方向が定まってきます。
 大正8年康次郎は箱根土地開発会社(昭和19年国土開発興業と改称)を設立します。まだ開発されていな強羅地区に主力を注ぎ、駿豆鉄道を作り、箱根遊船を経営し、後には十国峠を越えた自動車専用道路を造ります。軽井沢はあくまで別荘中心ですが、箱根開発は観光資源の開発が目的です。この間大震災後の東京の土地価格の低下を利用して東京市内の土地開発にも乗り出します。併行して高田農商銀行を買収し、機関銀行とします。
 康次郎の事業を決定付けた試みは「田園都市構想」です。目白や小平、大泉などに既に進出していましたが、特に大正12年(1923年)に東京都北多摩郡谷保村に土地を購入して、そこに東京商科大学(現一橋大学)を招致して、大規模な学園都市の設立を試みます。最初「国立大学町」と命名されました。これが国立(くにたち)の名の起こりのようです。もちろん単に大学を作るだけでなく、郊外住宅地にします。康次郎は実際自ら小学校を同地に作っています。最初通学するのは、彼の会社の社員の子弟だけでしたが。堤康次郎の事業は、箱根・軽井沢・そしてこの田園都市開発と後に見る西武鉄道がその根幹になります。
 田園都市構想は時代の流れの中にあります。大正時代になると、日本の産業も発展し、企業の労働者でもない(少なくともそういう受動的意識を持たない)、そして資本家でもない、しかるべき学校を出て、企業に雇われ、その能力を提供して、企業の経営になんらかの形で参加する新中間層が出現してきます。彼らを、経営担当者まで含めて、サラリ-マン(専門用語ではドイツ語のAngestellteが適当)と言います。彼らは比較的裕福でした。彼らの生活意識にあった生活の場所として郊外の田野が開発されました。併行して鉄道網も発達します。田園都市構想はこのような資本主義の発展を背景としています。この構想は別に康次郎だけの発想ではありません。小林一三も五島慶太も同様な事をして成功しています。
 康次郎の経営する多くの会社が順調だったわけではありません。昭和に入り不況が深刻になると、開発した土地が売れず、箱根土地開発会社の資金繰りが行き詰まります。機関銀行である高田農商銀行も同様です。この時は日本銀行や日本興業銀行の融資で切り抜けます。金融機関が康次郎の企業家としての能力を高く評価してとのことですが、どうもそれだけでは、という気もいたします。
 昭和12年(1937年)康次郎は武蔵野鉄道の経営に乗り出します。同鉄道は池袋-飯能間を走行していましたが、経営不振状態でした。康次郎は株式の多数を押さえた上で、根津嘉一郎の東武系の発言を抑えて、新しい案を提出します。債権の75%を切り捨て、残り25%を基礎として新株増資をします。ほっておけば会社は潰れるのですから、この方が債権者としては有利でしょう。この資本削減を実行してから武蔵野鉄道の経営は好転します。この間多摩湖鉄道を買収しています。また昭和15年前後から、東武系の旧西武鉄道と武蔵野電鉄両社の競合摩擦が多くなり、交通事業調整委員会(会長永井柳太郎)が中に入って、結局この旧西武鉄道は、東武系を離れて康次郎の武蔵野電鉄の傘下に入ります。やがて武蔵野電鉄は西武鉄道と改称して今日にいたります。
 昭和15年(1940年)京浜デパ-トの一部であった菊屋を買収し、武蔵野デパ-トと改称し、タ-ミナルデパ-トの経営に乗り出します。このデパ-トは戦時中西武食糧会社となり、さらに西武デパ-トと改称されて今日に至っています。郷里の滋賀県のために近江鉄道の設立に尽力します。
 戦争中は極力国家の方針に協力します。食糧増産会社を作り、肥料としての糞尿を東京市内から郊外へ運ぶ任務もこなします。流木の陸上げも行いました。
 康次郎の政治活動の方はどうでしょうか。大正13年(1924年)滋賀県から立候補し衆議院議員に当選します。この時は激戦でした。相手候補が彦根藩の家老の子孫だったので、「家老の子か、土民の子か」という標語を掲げて戦いました。当選後永井柳太郎の引きで憲政会に入党します。昭和7年(1932年)44歳時、斉藤実内閣の拓務次官になります。上司の拓務大臣は永井柳太郎でした。拓務省とは、満州・樺太・朝鮮・台湾などの植民地の開発経営を主務とする役所です。康次郎には適任でしょう。
 堤康次郎の政策傾向は、軍縮と緊縮(均衡)財政でした。浜口内閣の金解禁政策に賛成し、軍部を批判し、言論の自由を主張しています。金輸出再禁止を予想したドル買いを非難して、非常時利得税法案を提出しています。高端是清の拡張経済政策を批判します。戦時体制における電力の国家管理に反対し、翼賛体制を非難します。昭和17年(1942年)翼賛選挙に出て当選。始めは出ないつもりでしたが、滋賀県知事の要請で変説します。この変節は高いものにつきました。戦後康次郎は公職追放にあい、政治活動から5年間遠ざけられます。康次郎としてはこの処置には不満だったでしょう。
 昭和26年追放解除、改進党から立候補し衆議院議員に当選。時は第三次吉田内閣、自由党も吉田派と鳩山派に分かれ、それに改進党(もう一つの保守政党)と左右の社会党がからみ、政界は混沌としつつありました。康次郎は衆議院議長になります。吉田首相の馬鹿野郎発言や造船疑獄をめぐっての吉田首相喚問問題で、国会は大揺れに揺れ、乱闘国会になります。康次郎も暴行を受け衛視に救出せれます。彼は柔道6段でしたが、議長として腕力はふるえません。私が記憶している彼の姿は新聞写真に載ったこの乱闘国会の時の姿です。ですから私は康次郎に関しては、なんとなく腕力派、かなりな程度のバ-バリアンという印象を持っていました。彼がロシア語を勉強し学術書に近い本を出していると、知った時は驚きでした。この後彼は保守合同に尽力し、岸信介に協力し、強固な反共派として振舞います。昭和39年、76歳、急死、死因は心筋梗塞でした。
 堤康次郎の生涯で特異に目立つのは、彼の婚姻関係です。21歳、西沢こととの間に長女淑子を生み、同年彼女との婚姻届を出しています。28歳、川崎ふみとの婚姻届、彼女との間に長男清が誕生しています。39歳、青山操との間に次男清二が誕生、操は康次郎の主婦の役割を引き受けると同時に、秘書でもありました。康次郎は更に石塚恒子との間に、次男義明、三男康弘を設けています。そして恒子母子を操母子と一緒に住まわせています。妻妾同居です。昭和28年康次郎が衆議院議長になる時、夫人操の戸籍上の地位が作家平林たい子氏等により指摘され問題化します。康次郎は狼狽して妻のふみと離婚し、操と正式に結婚します。この辺の事もがむしゃら堤のやり方でしょうか。こういう事情ですから、親子間の関係もややこしくなります。長男清は父親康次郎とことごとに対立するようになり、やがて家を出て堤姓を捨てます。次男清二が西武デパ-トを継ぎ、三男義明が国土開発と西武鉄道の後継者にあります。この相続もどこか偏頗なものを感じさせます。康次郎は晩年には非常に厳格な父親であった由です。
 堤康次郎の経営を見て驚かされるのは、その大胆さとがむしゃらさ、そして決断力です。やりたくなったら、やらねば収まりません。まだ少年期といってもいい頃、過燐酸石灰が肥料としていいとなると、すぐ実行しました。祖父の死を契機として財産を処分し、郷里を飛び出し、上京します。大学に入るとすぐ投資に投機、そして郵便局を経営します。政治と経営の両股をにらんで邁進します。結果として彼の本業は土地開発になりましたが、この間諸種の製造業にも手を出します。製造業はことごとく失敗しました。土地開発も、軽井沢、箱根、小平、大泉、国立、そして東京市内とあちらこちらに、ほぼ同時に着手します。五島慶太や小林一三はもっと一つの事に細心に集中しています。康次郎のやり方は四方八方、全方向同時展開です。だからいつも資金繰りがしんどい。しかし彼がやっている事業はすべて有意義であり大規模なので潰せない、となります。新規の事業で赤字を埋めてゆくのでしょうか?経営の詳しい内情は解りませんが、自転車操業という印象も受けます。政治にしても五島や正力松太郎のように、本業で功成り名遂げてから、というのではありません。若くしてジャ-ナリストまがいの事業もし、政治の世界に憧れます。総じて彼の行動は、雑然として、まとまりがないが、ヴァイタリティ-に溢れ、しかしその行動の基礎には一貫したものを感じさせます。康次郎の経営はなにがなし、彼の婚姻関係を思い出させます。康次郎は多くの事業を試みましたが、大きく成長したのは、国土開発興業、西武電鉄、西武デパ-トです。これらはすべて土地開発から出発しています。
 ヴァイタリティ-と言えば彼の柔道が典型です。康次郎は早稲田大学在学中に柔道部に入りました。もう一つ弁論部にも所属しています。38歳柔道初段、42歳2段、45歳3段、48歳4段、53歳5段、57歳6段を獲得しています。柔道では実際の実力は5段までと言いますから、康次郎は柔道の技の最高峰まで達したことになります。しかも30年かけてです。もっともこの私の観測は、彼の授段が名誉的ないとしての話ですが。ともかくその努力には驚かされます。勘は鋭く、知力にたけ、決断に富み、積極的楽観的で大胆である事は違いありません。しかしそういう言葉では表せない、ハチャメチャなスケ-ルの大きさを感じさせます。
 なおここで私は野球ファンとして西武球団の幹部に申し上げます。苦言です。もう四半世紀も前のことになります。当時の西武グル-プの総帥、義明氏は、西武球団の監督である広岡氏や森氏を呼ぶのに呼び捨てにしていました。非常に不快でした。広岡氏や森氏は確かに西武グル-プの一社員かもしれませんが、彼らは同時に野球界全体のスタ-であります。西武という一企業を出たら堤義明などという名を知っている人はほとんどありません。全国的知名度では両氏の方がはるかに上です。せめて、広岡監督とか広岡さんとか、敬称をつけるのが、礼儀ではないでしょうか。両氏に対してのみならず野球ファンに対しての礼儀でもあります。こういう非礼をあえてするのは、父親の婚姻関係の複雑さに起因するのでしょうか。まさか今でも球団監督を西武グル-プの幹部は呼び捨てにしているのではないでしょうね?

 参考文献  堤康次郎  リブロポ-ト

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


   武士道の考察(102)

2021-06-28 18:12:08 | Weblog
武士道の考察(102)

(本居宣長)
 徂徠の弟子たちは硬派と軟派に分かれます。治世のあり方を論じるのが硬派です。太宰春台がその代表です。しかし多数は詩文とそこに描かれる人情の世界を楽しみ耽溺しました。これ歌舞伎や浄瑠璃の世界に近いですね。軟派です(堅物の秀才松平定信に嫌われるはずです)。徂徠は、礼は物、衆議の束、と明言しました。つまり彼は硬くて冷たい観念を制度文物という人情の世界に解放します。本居宣長も徂徠学の軟派です。軟派中の軟派です。
 宣長は伊勢松阪の木綿問屋の子として生まれました。養子に出されますが毎日本を読んでばかりで、養家から離縁されます。木綿業は先端産業で儲かる商売でした。商人には向かないと見た彼の母親は家に残った500両の金で宣長を京都に遊学させ医師にします。医師になるには漢籍が読めなくてはなりません。宣長は徂徠の弟子(?理解者?)堀景山に習います。ここで彼は万葉や源氏などの古典の世界を知ったようです。歌学を始めとする日本の古典は京都の公卿朝廷が握っていました。徂徠学派の得意とする文献研究は宣長の場合、日本古典の研究に向けられました。徂徠が宋学や孔孟の彼方に五経の世界を見たように、宣長は定家以来の中世歌学による固定観念を乗り越えた先に古事記の世界、日本人のもっとも古い言語風習と人情を見ました。「古事記伝」は彼の畢生の大著です。ここで宣長は漢意つまり儒教などの観念に束縛されない日本人の柔らかい人情を発見し、それを「やまとごころ」として対置します。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜かな」と。反対に漢意は「あだしくにのからごころ」と非難します。宣長は、先輩契沖や賀茂真淵などとともに中華思想から解放された日本人の精神や美を再発見し称揚します。宣長は終生一小児科医として医療に専念するかたわら古文献の研究に生涯を捧げます。
宣長は京都在住中当時見初めた深草たみの夫(宣長の友人)の死去を聴くや否やそれまで連れ添っていた女房を離縁し数年後たみと結婚しています。二人はめでたく鴛鴦の契りを添い遂げます。以後宣長の艶聞は聞きません。その前後宣長は源氏物語を研究していました。源氏物語には不可知な牽引力があるようです。谷崎潤一郎がいい例です。まさしく光源氏を地で行っているようなものです。私が宣長を徂徠学派の軟派中の軟派というのはその故です。
 宣長の影響を受けた平田篤胤は文献研究を政治思想に転じます。幕末の動乱期に活躍した志士あるいわ処士の多く、特に豪農層の教養人は篤胤の国学が内包する天皇崇拝と日本主義により鼓吹されます。事実とは恐ろしい。地味でかび臭い文献研究という事実の探求は一定の水準に達した時、体制変革のエネルギ-に転じます。近代初期西欧で盛んにバイブルの研究が行われました。一部の学者はラテン語で書かれた解釈書よりギリシャ語やヘブライ語の原典を読む方が、バイブルの真意が解るとして、原典研究に没頭します。この作業は宗教改革の起爆剤になります。真淵や宣長の創始した学問を国学と言います。国学の一分枝が水戸学です。周知のように水戸学は尊王攘夷の起爆剤になりました。井伊直弼を殺し幕府を再起不能にしたのは水戸浪士による襲撃です。次のその水戸学に触れてみましょう。
 源氏物語は当時も読まれていました。しかし古事記は読まれていません。いつの時代誰が読んだのかとでもいう作品です。源氏物語は日本文ができた後の作品です。古事記は日本語が形成される途上の作品です。漢字表記、万葉仮名表記、漢文表記がいりまじります。使われている言葉も時代とともに変化します。宣長は古事記の研究書である「古事記伝」を書くのに、つまり古事記の文を理解して当時の文章にするのに30年かかりました。それも古事記神代記だけです。60歳初頭5冊売り出しました。
 日本人は明治維新後西洋語を日本語にどんどん翻訳造語しました。一説によればその数20万語(つまり広辞苑マルマル一冊分)とも言われます。こういう例は世界史上まずありますまい。反対の例はあります。11世紀のノルマン征服後の200年の間英語は一切文献から消えました。書き言葉としての英語は一時消滅したのです。明治以後作られた和製漢語で現在でも中国で使われている言葉は2000語とも言われています。明らかに明治以後の言語創造には国学とそして蘭学の影響があります。しかも国学と蘭学の創始学習はほぼ同時期18世紀中葉以降なのです。明治時代日本にやってきた梁啓超は豊富な日本語に驚きどんどん翻訳しました。しまいには日本文の中の仮名を抜いて漢字のみに圧縮して出版しました。嘘のような本当のお話です。
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