「君民令和 美しい国日本の歴史」Ch8 源氏物語 注5
(源信)
938年空也が口称念仏を唱道し念仏が爆発的に流行します。空也は密教系の修験者の出身です。数年後将門・純友の乱が起こり政府を恐怖のどんぞこに落とします。平安浄土教のイデオロ-グ源信は942年ころ大和国当麻郷で生まれています。俗称は卜部氏、10歳延暦寺の良源に師事し出家得度、修行に励みます。
源信の師匠良源は面白い人です。清濁併せ飲む豪傑です。彼は法華天台の教学に優れ、応和の宗論で法相宗の法蔵を論破して名声を挙げます。良源の教学上の業績として無視できないのは彼の著作「九品往生義」です。浄土教・念仏往生について解説された日本で初めての著作です。良源はもう一つの顔を持ちます。彼は天台中興の祖と言われます。教学の面でもさることながら、彼は政治的にも極めて辣腕家でした。時の政界の実力者九条流の藤原師輔と提携し、師輔一門の菩提と繁栄を祈る見返りに、師輔から膨大な荘園の寄進を得、その財力を背景に叡山の実力者にのし上がります。源信25歳の時、良源は天台座主になり、さらに僧綱の最高位である大僧正になります。菩提と繁栄とは具体的には、村上天皇の女御である師輔娘安子が無事皇子を産むことです。皇子出産のための加持祈祷を良源は引き受けます。変性男子法(へんにょうなんしのほう)とかいう技法を使います。安子は無事冷泉・円融の二帝を産みます。こうして政界の主導権は師輔の子孫の手に属し、以後兼家・道隆・道長と続く摂関家は良源を徳とします。
良源は師輔の子供を叡山に入れ弟子として育てます。良源はこの弟子尋禅に特別の待遇を与え、自分の後継者として天台座主の地位に就かせます。良源の強引なやり方に反発した反良源派は彼と対立し反抗し敗れて下山し叡山のふもとにある三井寺(園城寺)を本拠として滑動します。以後延暦寺と三井寺は犬猿の仲になります。三井寺の僧侶はその得度受戒を延暦寺ではなく東大寺(宗派が違うのですが)で行う事になります。政界と結んだ叡山は寄進される荘園を基礎として経済的実力を背景に以後聖界の雄にのし上がります。しかし良源は教育者としても非常に優れた人で多くの弟子たちを育てました。弟子には二つの系統があります。ひとつは経営実務派で叡山の執行部を形成する静安・聖救・サイ賀など、他方は隠棲修行派の源信・覚超・雑賀・性空などです。師匠の紹介が長くなりました。源信はこの時代この師匠に育てられました。
源信23歳、慶滋保胤などにより勧学会(かんがくえ)が設立さえます。
972年、源信31歳時、空也が死去します。空也の死を悼み勧学会の一人源為憲により「空也誄」が著わされます。984年源信「往生要集」を起筆し翌年完成します。986年勧学会は発展的に解消され、新たな組織である二十五三昧会が発足します。源信はこの会の発願文を起草します。会は浄土往生願望者の結社で、相互に病気の看病や臨終の看取りなどの行為を中心として、生活をともにしつつ、浄土往生を確信しあおうという組織です。源信は浄土教信者のブレインになります。47歳横川に新設された首リョウ厳院に隠棲し、念仏と勉学に明け暮れる生活を送ります。63歳少僧都、1017年76差で死去。この間に「一乗要決」などを著作。源信は多作家です。「往生要集」は浄土思想の解説書ですが、「一乗要決」は天台法華思想の注釈書です。源信の思想的位置を判断するのに無視できない本です。源信は横川隠棲後も藤原道長に度々招聘されています。有徳の僧として有名でした。源氏物語宇治十帖の最後に出てきて、悲劇のヒロイン浮舟を救う、横川の僧都は源信がモデルです。源信の母親も妹も出家し模範的な宗教者としての生活を送ります。以下彼の名を不朽ならしめた「往生要集」の解説をします。
往生要集は、極楽及び念仏のありがたさの強調、その実在の弁証、そしてどうすれば極楽の実在を確信できるかの方法の叙述の三つの主題から成ります。冒頭は厭離穢土(おんりえど)、汚らわしいこの娑婆を厭って離れよう、という意図のもとに六道の有様が詳しく描写されます。まず地獄です。八種あります。軽い方から、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱そして最後は無間地獄です。想像の限りを尽くして責苦の恐ろしさを強調します。次いで餓鬼・畜生・修羅の世界が解説されます。餓鬼とは、喰わんと欲して喰うを得ず飢渇の責苦に会う者、畜生は人間以外のアニマル、修羅は闘争を好み永遠に争い続ける連中です。人間界に関しては不浄と苦と無常が強調されます。これは仏教における人間観の基本的立場です。苦と無常はともかく不浄の方はやけに詳しく描写されます。人間の皮膚の内側を剥いでみれば如何に汚いかとか、死体の腐乱する過程を観察すれば人間の身体は糞と膿と血の袋だなどと書かれています。天界では人間が持つあらゆる欲望が満たされます。しかしそれにも限りがありやがてはこの悦楽も終わります。天人五衰、歓楽極哀情多です。それだけに悦楽の喪失は天人にとって地獄の責苦より恐ろしいのだそうです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界と六つの世俗的あり方、六道の描写がされました。ちゃんとした仏道の修行をしないとこの六道を永遠に廻り続ける、六道輪廻の業を免れないよ、というのが仏教の教えであり脅しです。源信もそれに習います。特に冒頭の地獄描写はやけに詳しい。平安時代の貴顕士庶はこれでショックを受けました。源信僧都もやり口が上手い。
衝撃を与えておいてから次に極楽のありがたさの叙述に移ります。欣求浄土の章です。極楽を念じ見ましょう、良いところですよ、という内容です。この内容の記載はここでは省きます。人間の欲求が自ままに満たされる世界だと思ってください。そのような世界が在るか無いかには私は責任を持ちません。
一番重要な章が第四章「正修行念仏」です。極楽往生のための方法です。世親の浄土論の記載に従い礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五つの作業を説明します。第四の観察門が往生要集の眼玉です。観察門には別想観、総想観、雑略観の三つの作業があります。
別想観では極楽浄土で阿弥陀如来が座っておられる華の台座の一つ一つをつぶさに観察し、やがて肝心かなめの弥陀の身体の立派な様相を個々別々に、例えば毛髪、頭、眉間、顔、項、胸、肩、腕、手足、陰部と観察想念してゆきます。総想観では別想観で得られた個々のイメ-ジを総合して憶念する作業です。この作業はなかなかにと言う以上に難しい。そこ
でもっと簡単な方法が提唱されます。雑略観(ぞうりゃくかん)です。それに従えば弥陀の眉間にあ白毫(ぴゃくおごう)に注目し、そこから出る光明とその光明に照らされて出現する多くの仏の像を、観察し憶念する事が要請されます。そこから弥陀の像を自分で描いて想像しなさいというわけです。
以上が往生要集の簡単な記載です。源信はそのような方法を提示しましたが、それを論理的に証明しようといろいろ努力します。しかしそれが成功してるとはとても思えません。
源信の浄土思想が後の法然・親鸞と違う点は、源信では称名と念仏が同様の比重で捉えられていることです。念仏という言葉の意味は現在使用されているのとは違って、称名(口唱念仏)には留まりません。仏あるいわ弥陀の像を想念する事を念仏と言います。源信の念仏往生の考えでは称名はより広い念仏という作業の中の一つに過ぎないのです。併行して悔い改める事、戒律を護る事、経典を読む事更に説教を聴く事などの作業も往生のためには必要とされます。法然はこれらの作業は一切不必要と切って捨てます。法然では称名のみがすべてとなります。易行の念仏です。だいたいえ源信と法然では学の系列が違います。しかし源信の盛名は高く彼が浄土思想の普及に果たした役割は絶大です。本願寺の定本の中に浄土七祖というのが出てきますが、その中に源信の名前はちゃんと書かれています。
「君民令和 美しい国日本の歴史」 目次一覧(文芸社)
聖徳太子 大仏開眼、記紀神話、万葉集、神仏習合、摂関政治、勅撰和歌集、源氏物語、
愚管抄、ご恩と奉公、評定衆と貞永式目、一揆・座・悪党、親鸞と日蓮、徳川幕藩体制、武士道・男道、元禄時代、大岡忠相と田沼意次、細川重賢と上杉鷹山、調所広郷と村田清風、江戸時代の経済政策、荻生徂徠、本居宣長、文化としての天皇、歌舞伎と浮世絵、村方騒動、処士横議、明治維新、西郷隆盛、福沢諭吉と渋沢栄一