経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8源氏物語 注5

2022-02-28 03:07:37 | Weblog

「君民令和 美しい国日本の歴史」Ch8 源氏物語  注5

(源信)
938年空也が口称念仏を唱道し念仏が爆発的に流行します。空也は密教系の修験者の出身です。数年後将門・純友の乱が起こり政府を恐怖のどんぞこに落とします。平安浄土教のイデオロ-グ源信は942年ころ大和国当麻郷で生まれています。俗称は卜部氏、10歳延暦寺の良源に師事し出家得度、修行に励みます。
源信の師匠良源は面白い人です。清濁併せ飲む豪傑です。彼は法華天台の教学に優れ、応和の宗論で法相宗の法蔵を論破して名声を挙げます。良源の教学上の業績として無視できないのは彼の著作「九品往生義」です。浄土教・念仏往生について解説された日本で初めての著作です。良源はもう一つの顔を持ちます。彼は天台中興の祖と言われます。教学の面でもさることながら、彼は政治的にも極めて辣腕家でした。時の政界の実力者九条流の藤原師輔と提携し、師輔一門の菩提と繁栄を祈る見返りに、師輔から膨大な荘園の寄進を得、その財力を背景に叡山の実力者にのし上がります。源信25歳の時、良源は天台座主になり、さらに僧綱の最高位である大僧正になります。菩提と繁栄とは具体的には、村上天皇の女御である師輔娘安子が無事皇子を産むことです。皇子出産のための加持祈祷を良源は引き受けます。変性男子法(へんにょうなんしのほう)とかいう技法を使います。安子は無事冷泉・円融の二帝を産みます。こうして政界の主導権は師輔の子孫の手に属し、以後兼家・道隆・道長と続く摂関家は良源を徳とします。
良源は師輔の子供を叡山に入れ弟子として育てます。良源はこの弟子尋禅に特別の待遇を与え、自分の後継者として天台座主の地位に就かせます。良源の強引なやり方に反発した反良源派は彼と対立し反抗し敗れて下山し叡山のふもとにある三井寺(園城寺)を本拠として滑動します。以後延暦寺と三井寺は犬猿の仲になります。三井寺の僧侶はその得度受戒を延暦寺ではなく東大寺(宗派が違うのですが)で行う事になります。政界と結んだ叡山は寄進される荘園を基礎として経済的実力を背景に以後聖界の雄にのし上がります。しかし良源は教育者としても非常に優れた人で多くの弟子たちを育てました。弟子には二つの系統があります。ひとつは経営実務派で叡山の執行部を形成する静安・聖救・サイ賀など、他方は隠棲修行派の源信・覚超・雑賀・性空などです。師匠の紹介が長くなりました。源信はこの時代この師匠に育てられました。
源信23歳、慶滋保胤などにより勧学会(かんがくえ)が設立さえます。
972年、源信31歳時、空也が死去します。空也の死を悼み勧学会の一人源為憲により「空也誄」が著わされます。984年源信「往生要集」を起筆し翌年完成します。986年勧学会は発展的に解消され、新たな組織である二十五三昧会が発足します。源信はこの会の発願文を起草します。会は浄土往生願望者の結社で、相互に病気の看病や臨終の看取りなどの行為を中心として、生活をともにしつつ、浄土往生を確信しあおうという組織です。源信は浄土教信者のブレインになります。47歳横川に新設された首リョウ厳院に隠棲し、念仏と勉学に明け暮れる生活を送ります。63歳少僧都、1017年76差で死去。この間に「一乗要決」などを著作。源信は多作家です。「往生要集」は浄土思想の解説書ですが、「一乗要決」は天台法華思想の注釈書です。源信の思想的位置を判断するのに無視できない本です。源信は横川隠棲後も藤原道長に度々招聘されています。有徳の僧として有名でした。源氏物語宇治十帖の最後に出てきて、悲劇のヒロイン浮舟を救う、横川の僧都は源信がモデルです。源信の母親も妹も出家し模範的な宗教者としての生活を送ります。以下彼の名を不朽ならしめた「往生要集」の解説をします。
往生要集は、極楽及び念仏のありがたさの強調、その実在の弁証、そしてどうすれば極楽の実在を確信できるかの方法の叙述の三つの主題から成ります。冒頭は厭離穢土(おんりえど)、汚らわしいこの娑婆を厭って離れよう、という意図のもとに六道の有様が詳しく描写されます。まず地獄です。八種あります。軽い方から、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱そして最後は無間地獄です。想像の限りを尽くして責苦の恐ろしさを強調します。次いで餓鬼・畜生・修羅の世界が解説されます。餓鬼とは、喰わんと欲して喰うを得ず飢渇の責苦に会う者、畜生は人間以外のアニマル、修羅は闘争を好み永遠に争い続ける連中です。人間界に関しては不浄と苦と無常が強調されます。これは仏教における人間観の基本的立場です。苦と無常はともかく不浄の方はやけに詳しく描写されます。人間の皮膚の内側を剥いでみれば如何に汚いかとか、死体の腐乱する過程を観察すれば人間の身体は糞と膿と血の袋だなどと書かれています。天界では人間が持つあらゆる欲望が満たされます。しかしそれにも限りがありやがてはこの悦楽も終わります。天人五衰、歓楽極哀情多です。それだけに悦楽の喪失は天人にとって地獄の責苦より恐ろしいのだそうです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界と六つの世俗的あり方、六道の描写がされました。ちゃんとした仏道の修行をしないとこの六道を永遠に廻り続ける、六道輪廻の業を免れないよ、というのが仏教の教えであり脅しです。源信もそれに習います。特に冒頭の地獄描写はやけに詳しい。平安時代の貴顕士庶はこれでショックを受けました。源信僧都もやり口が上手い。
衝撃を与えておいてから次に極楽のありがたさの叙述に移ります。欣求浄土の章です。極楽を念じ見ましょう、良いところですよ、という内容です。この内容の記載はここでは省きます。人間の欲求が自ままに満たされる世界だと思ってください。そのような世界が在るか無いかには私は責任を持ちません。
一番重要な章が第四章「正修行念仏」です。極楽往生のための方法です。世親の浄土論の記載に従い礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五つの作業を説明します。第四の観察門が往生要集の眼玉です。観察門には別想観、総想観、雑略観の三つの作業があります。
別想観では極楽浄土で阿弥陀如来が座っておられる華の台座の一つ一つをつぶさに観察し、やがて肝心かなめの弥陀の身体の立派な様相を個々別々に、例えば毛髪、頭、眉間、顔、項、胸、肩、腕、手足、陰部と観察想念してゆきます。総想観では別想観で得られた個々のイメ-ジを総合して憶念する作業です。この作業はなかなかにと言う以上に難しい。そこ
でもっと簡単な方法が提唱されます。雑略観(ぞうりゃくかん)です。それに従えば弥陀の眉間にあ白毫(ぴゃくおごう)に注目し、そこから出る光明とその光明に照らされて出現する多くの仏の像を、観察し憶念する事が要請されます。そこから弥陀の像を自分で描いて想像しなさいというわけです。
 以上が往生要集の簡単な記載です。源信はそのような方法を提示しましたが、それを論理的に証明しようといろいろ努力します。しかしそれが成功してるとはとても思えません。
 源信の浄土思想が後の法然・親鸞と違う点は、源信では称名と念仏が同様の比重で捉えられていることです。念仏という言葉の意味は現在使用されているのとは違って、称名(口唱念仏)には留まりません。仏あるいわ弥陀の像を想念する事を念仏と言います。源信の念仏往生の考えでは称名はより広い念仏という作業の中の一つに過ぎないのです。併行して悔い改める事、戒律を護る事、経典を読む事更に説教を聴く事などの作業も往生のためには必要とされます。法然はこれらの作業は一切不必要と切って捨てます。法然では称名のみがすべてとなります。易行の念仏です。だいたいえ源信と法然では学の系列が違います。しかし源信の盛名は高く彼が浄土思想の普及に果たした役割は絶大です。本願寺の定本の中に浄土七祖というのが出てきますが、その中に源信の名前はちゃんと書かれています。

 「君民令和 美しい国日本の歴史」 目次一覧(文芸社)
聖徳太子 大仏開眼、記紀神話、万葉集、神仏習合、摂関政治、勅撰和歌集、源氏物語、
愚管抄、ご恩と奉公、評定衆と貞永式目、一揆・座・悪党、親鸞と日蓮、徳川幕藩体制、武士道・男道、元禄時代、大岡忠相と田沼意次、細川重賢と上杉鷹山、調所広郷と村田清風、江戸時代の経済政策、荻生徂徠、本居宣長、文化としての天皇、歌舞伎と浮世絵、村方騒動、処士横議、明治維新、西郷隆盛、福沢諭吉と渋沢栄一

ロシア史に学ぶ 統治の難しさ

2022-02-28 03:07:37 | Weblog
統治の難しさ - ロシア史に学ぶ
 我々日本人は日本政府の統治を受けている。国民の大多数はそれに満足しているようだ。少なくとも日本の政治には現在のところ致命的欠陥はない。我々はぶつぶつ言いながら政府に統治されているが、あまり問題のない統治の恩恵を自覚してはいないようだ。現在世界中を見まわして問題の多い政府はゴマンとある。統治とは難しいものだ。上は(統治する方は)下に(統治される方に)強制して納得させねばならないし、下は上に抵抗しつつ統治を納得しなければならない。強制のない統治はありえないし、抵抗のない統治もまたない。強制と抵抗の均衡が難しい。均衡を崩せば独裁になるか無政府状態になる。ホッブスの命題は永遠の法則だ。日本人は比較的良い統治を受けているので、統治の難しさを実感はしない。ここでロシアの歴史を簡単に小括し、この国の統治の難しさを考察してみよう。
 まずロシアの地理的事情を見てみる。我々日本人の住む地域とは全く違う地理だ。広大な大平原に高い山脈はほとんどない。草原と針葉樹林が限りなくひろがる大地、そこに緩やかに流れる幾多の大河。この大河は支流で事実上つながりうる。森林の中に点在する多くの湖沼。北のバルト海と南の黒海は大河で結ばれる。スエ-デンとトルコは一衣帯水の関係にある。背後には地中海と大西洋が広がる。
 こういう大地でロシア民族は出現した。といいたいがロシアという名称はロシア国家の起点であるキエフ大公国(キエフル-シ)にはない。またキエフ大公国を作ったのはスラブ人かノルマン人かという論争もあり、確定していない。当時のキエフル-シの生業は狩猟と漁労だ。森林を開発したところどころに若干の農業がありえた。大公国は多くの分領に分かたれ分領は事実上独立していた。加えて大公国の周辺はすべて異民族。特に東方と南方の遊牧騎馬民族には始終侵略されていた。だから大公国の領域は極めて漠然としたもので広い大地に比較的近縁関係にある部族が緩やかに結合しつつばらまかれていたといえる。つまりどこまでが国家であるかは判然としない状態だった。大公国が一応国家らしい形を整えたのは9世紀末キリスト教(ギリシャ正教)に改宗したウラジミ-ル大公の時だ。この時点で日本はすでに律令制という統治体系を確立していた。
 遊牧民族の侵襲は激しい。また夥しい回数に上る。彼らの狙いはもちろん諸種の財貨にあるが、最もほしかったものは人間そのものだ。人間を連れ去りそれを地中海方面に奴隷として売りさばく。逆に捕虜となった遊牧民はキエフ大公国特に後年のモスクワ大公国で奴隷として使われる。こういう事情でロシアでは奴隷制は早くから強固な形で発展し、19世紀前半まで続く。外国人のみならす自国民をも奴隷にするようになる。
 遊牧民族の来襲の頂点は13世紀のモンゴル人による侵入である。この侵入により当時のロシアの大半はモンゴル人の支配下にはいった。彼らはキプチャック汗国という国家を作る。キエフ大公国の領地は略奪され破壊される。旧大公国の生き残った君主は汗国に随時伺候しなければならなかった。そして伺候した君主は長く拘束されたり時によっては簡単に殺された。もちろん多額の貢納金が取られる。ロシア全体がモンゴルの奴隷みたいなものだった。モンゴルによる支配あるいわモンゴルとの闘争は18世紀半ばまで続く。
 こういう中モンゴルの征服略奪から生き残ったモスクワが段々力をつけてくる。なぜ生き残れたのかというとモスクワが北方に位置し経済的価値がモンゴルから見て小さく、また森林と湖沼に囲まれた地域を征服するのは困難だったからだ。無理して遠征する必要もないと考えたのだろう。モスクワは生き残った旧大公国の後裔の公国を潰し征服し領域を広げてゆく。北西に位置するノブゴロドを併せ、東方に向かってはキプチャック汗国(これも権力の生理により幾多の汗国に分裂している)に服従し交渉しそして戦闘をしつつ領域をボルガ川まで広げる。モスクワ大公国がモンゴルに勝ち事実上モンゴルの支配から解放されるのは15世紀半ばだ。しかしモンゴルの汗国との闘争が終わったわけではない。相互に侵入し侵入され連れ去られた住民は双方の側で奴隷となる。
 ロシアが国家としてまとまり国の形を作ったのは16世紀後半のイワン四世(雷帝)の時だ。イワン四世は分立する貴族をまとめ国家につなげようと、換言すれば国家の形を作ろうと必死だった。ロシアという国は領域があいまいで良かれ悪しかれ周辺の民族との交流が激しいので、貴族たちは自立しやすい。それではロシアという国はなくなるのでイワン四世は必死で国をまとめようとした。統治の大半は軍事遠征に費やし、貴族たちを国家につなぐために、従来の軍隊とは全く別の、軍事と検閲監査と秘密警察を兼ねたオブリ-チニナという制度を作る。スタ-リンによる統治の原型はここに始まる。四世の統治があまりに厳しいので彼は長男の皇太子と対立し皇太子を殺している。彼自身も突然死している。
 イワン四世の死後は内乱と陰謀の連続だ。それに当時は強国であったリトワニアとポ-ランドの干渉が続く。一時はポ-ランド軍により首都モスクワを占領されている。イワン四世の直系は彼の子供の代で途絶えキエフ大公国以来のリュ-リク朝は絶える。内乱の中偽帝が現れる。殺されたディミトリ-皇太子と名乗る偽帝が二人顕れる。一応この偽皇帝は退けられ殺される。1620年ごろ、モスクワ大公国の有力貴族であるロマノフ家のミハイルが即位する。ミハイルは極めて消極的で気の弱い人物だったらしい。しかしこのことはロシアの将来にプラスに働いたようだ。ロシアの政治史の特徴は偽皇帝が続出することだ。17世紀と18世紀を通じて70人以上の偽皇帝が現れている。
 17世紀末ピョ-トル一世(大帝)が現れる。彼はスウェ-デンと戦い勝ちバルト海への出口を獲得しそこにペテルスブルクを建設し帝都とする。軍制を改革し貴族を官僚として勤務に就くべく強制し、貴族の横暴を抑える。さらに彼は製造業の発展を期して諸種の政策を実行する。大学を造り貴族の教養を高め官僚制を整える。要するに先進国である西欧諸国をモデルとして国家の近代化をしようとした。それも徹底的に強権を用いて。ピョ-トル一世の時ロシアという国家が初めて形成され出現したといえよう。
 ただし農奴制は放置された。農奴とは土地と土地所有者(貴族)に緊縛され自由に売買される農民で、ロシアの農民の圧倒的部分は農奴だった。実態は奴隷といってもいい。ロシアで農奴制が盛んだった理由は土地の生産性の小ささにある。ロシアは気温が低い。穀物をまいて収穫はせいぜい撒種量の3-4倍にしかならない。効率的な農業は営めない。だから耕作者を強制してその肉体労働に頼るしかない。当然耕作者は土地に縛りつけられる。こうして農奴と貴族という相対立する階級が発生し固定される。農奴は土地から逃げようとする。逃亡は国家の法律で禁止するしかない。低生産性、階級対立、専制政治というロシア政府のトリオはかくして成立する。
 ロシアの歴史で特異な現象が三つある。まず女帝が多い。ピョ-トル一世からエカチェリ-ナ二世までの100年間に女帝は4人、皇帝の過半は女帝である。女帝が多いことは帝位継承が円滑に進んでいない証拠だ。啓蒙専制君主として名高いエカチェリ-ナ二世などは血統を継いでいないだけでなく外国人(ドイツ人)でさえある。またロシアにあっては皇帝あるいわ皇太子の殺害が多い。古くはイワン四世が皇太子を殺している。ピョ-トル一世も同様だ。エカチェリ-ナ二世は夫であるピョ-トル三世を殺して帝位にのぼった。エカチェリ-ナ二世とその子パ-ベル一世の仲は極端に悪かったが、パ-ベル一世はその子アレクサンデル一世の了解のもと貴族たちによって殺されている。かくのごとく政権は極めて不安定だった。
 もう一つロシア史の特徴はコサック(カザ-ク)の存在だ。コサックは物語ではロマンティックに描かれているが実態は圧政に耐えかねた逃亡農民(農奴奴隷)の集団だ。ロシア辺境域は治安が悪く法の支配が及ばないので逃亡した農民はそこに住み着く。加えて他国から逃亡した連中も加わる。コサックは農業は階層を作るとして農業をしない。もっぱら狩猟と漁労に従事し加えて略奪も彼らの生業のうちだ。当然どこかの国と契約して軍事力を提供する。コサックはロシアの治安の悪さの結果だが、コサックの存在自体が治安をさらに悪くする。コサックは逃亡農民の群れなので反乱を起こしやすい。ステンカ・ラ-ジンの反乱がいい例だ。コサックは自らの利害に従ってあちこちの政府と組むからそのあちこちの国家の領域は極めて曖昧で確固としないものになる。現在問題となっているウクライナがいい例だ。ドニエプル河下流の沿岸にコサックが住み着いた。サポロ-ジェコサックという。彼らは主としてポ-ランドの傭兵になった。状況によってはロシアの傭兵にもなる。こうしてロシアとポ-ランドさらにウクライナの国境は判然としないものになる。コサックという国家帰属性のない武力集団の出現はロシア史の特徴だろう。治安はさらに悪化し暴力的になる。
 アレクサンデル一世以後四人の皇帝が即位する。彼らの帝位継承は順当であり、名君とはいわないまでも彼らは熱心に国制改革を行った。しかしすでに述べたようなロシアの後進性秩序の脆弱性は克服できず、20世紀初頭に革命を迎える。以後はスタ-リンの独裁だ。スタ-リンについてはここで多くのことを述べないが、彼は革命に参加した共産党員の70%を粛清している。現在のロシア大統領プ-チンにもスタ-リンの面影がある。ソ連が解体されてロシアになって以後の10年間で100名以上のジャ-ナリストが殺されている。
 私はロシアの政治史を簡単に回顧して語った。日本の歴史とは大違いで極めて破壊的暴力的な歴史だ。しかしこれもロシアの政治に従事した者の苦闘の産物なのだ。換言すればそれほど統治は難しいということだ。穏健で平和的な統治に慣れた日本人は改めて自分たちの幸福を実感すると同時に、本来統治は難しいものだということを学ばなければなるまい。
 「君民令和 美しい国日本の歴史」 目次一覧(文芸社)
聖徳太子 大仏開眼、記紀神話、万葉集、神仏習合、摂関政治、勅撰和歌集、源氏物語、
愚管抄、ご恩と奉公、評定衆と貞永式目、一揆・座・悪党、親鸞と日蓮、徳川幕藩体制、武士道・男道、元禄時代、大岡忠相と田沼意次、細川重賢と上杉鷹山、調所広郷と村田清風、江戸時代の経済政策、荻生徂徠、本居宣長、文化としての天皇、歌舞伎と浮世絵、村方騒動、処士横議、明治維新、西郷隆盛、福沢諭吉と渋沢栄一

不景気と思えば不景気になる

2022-02-28 00:03:20 | Weblog
  不景気と思えば不景気になる

 表題の意義を少しきざに表現すれば「自己実現」となる。この言葉は70年前ごろ哲学用語だった。近年では経済学でも使用されている。メディアやエコノミストがそう騒げばそうなる。彼ら少し騒ぎ過ぎではないのか。昨日の日経に富裕層(国民の1%)の収入の伸びが日本では他国つまり欧米に比べて小さいとかで、その記事は「日本は中間層富裕層総体として貧困化が進みつつある」と述べ、日本とドイツを比較していた。私は日経というメディアを反面教師にしているが、日経の言う通り日本はドイツに比べてその経済が劣化しているのだろうか? どうしてもそうは思われない。JFTC(日本貿易の現状)の数値から考えてみる。2020年度において、日本のGDPは約5兆ドル、ドイツのそれは4兆ドル弱。人口は1.25億と0.9億くらいだから一人当たりのGDPは同じだ。それだけ言っておく。
 ここで日独の対ドル為替レイトを比較してみる。ニクソンショックの当時つまり50年前と比較する。日本はドル360円。ドイツは確か1マルク90円と記憶している。現在日本円は1ドル110円だ。マルクの後身ユ-ロは大体120円前後だ。この数値の意味が解るか?日本は円が3倍以上(時によっては5倍近く)上昇している。ドイツで逆には25%くらい減価している。ドイツはそれだけ輸出しやすくなっているのだ。日本と違いドイツの輸出はむしろ通貨安で促進されている。加えてユ-ロになってからユ-ロ圏内(人口5億程度か)では為替レイトは変動しない。いくらでも輸出できるということだ。日本とドイツ(加えて多分台湾も?ただし台湾の社会福祉のインフラはまだまだ弱い)は貿易統計を見る限り最先端工業国だ。しかし過去50年間において置かれた環境は違い過ぎる。ドイツの周辺にはアメリカというやくざ国家はいない。日本の企業はよく頑張っていると言いたい。
 私は日経の記事「富裕層も中間層も云々」を見てむしろほっとした。私は過去30年間騒がれてきた平成不況なるものの本質はもっと違うところにある、と思う。結論から言えば日本の将来は内需開発にある。種はそこらじゅうに転がっている。防災、過疎地再開発そして防衛と。
 冒頭で私は自己実現という哲学用語を紹介したが、この言葉を用いざるを得ない事は経済学者にとって恥だよ。
 ともかく不況だ不況だと騒ぎ立てる日本叩きはやめよう。  2021-10-17
 
「君民令和 美しい国日本の歴史」 目次一覧(文芸社)
聖徳太子 大仏開眼、記紀神話、万葉集、神仏習合、摂関政治、勅撰和歌集、源氏物語、
愚管抄、ご恩と奉公、評定衆と貞永式目、一揆・座・悪党、親鸞と日蓮、徳川幕藩体制、武士道・男道、元禄時代、大岡忠相と田沼意次、細川重賢と上杉鷹山、調所広郷と村田清風、江戸時代の経済政策、荻生徂徠、本居宣長、文化としての天皇、歌舞伎と浮世絵、村方騒動、処士横議、明治維新、西郷隆盛、福沢諭吉と渋沢栄一

「君民令和 美しい国日本の歴史」目次

2022-02-27 22:00:14 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」  目次
1 聖徳太子
2 大仏開眼
3 記紀神話
4 万葉集
5 神仏習合
6 摂関政治
7 勅撰和歌集
8 源氏物語
9 愚管抄
10 御恩と奉公
11 評定衆と貞永式目
12 座、一揆、悪党
13 連歌と茶道
14 親鸞と日蓮
15 徳川幕藩体制
16 武士道、男道
17 元禄時代
18 大岡忠相と田沼意次
19 細川重賢と上杉鷹山
20 調所広郷と村田清風
21 江戸時代の経済思想
22 荻生徂徠
23 本居宣長
24 文化としての天皇
25 歌舞伎と浮世絵
26 村方騒動
27 処士横議
28 明治維新
29 西郷隆盛
30 福沢諭吉と渋沢栄一

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8源氏物語 注4 

2022-02-27 16:10:48 | Weblog
[ 君民令和 美しい国日本の歴史」ch8源氏物語 注4

(紫式部の生涯)
 紫式部は970年ころ生まれています。本名は解りません。この前後安和の変があり、蜻蛉日記が書かれています。どちらも式部の人生にとって重要な影響を与えています。紫式部は藤原為時の娘です。為時は北家傍流の流れです。為時から六代前に冬嗣がいます。彼の子供良房が摂関家嫡流となります。冬嗣の子供良門は早く死に家系は受領層に落ちます。良門の子供利基が為時従って式部の祖先です。良門の子供高藤が式部の夫宣孝の先祖です。式部と宣孝は良門からそれぞれ五代の子孫同士で結婚しています。この両家は代々通婚し極めて親しい家同士でした。式部の子供賢子(大弐三位、こちらは本名が解っています))は二人の子供です。式部については伝説があります。式部の兄)(弟?)の惟規に父親の為時が漢籍を教えます。惟規がもたもたしていたら傍で聞いていた式部がすらすら覚え、為時は「お前が男だったらなあ」と言ったとかいうお話です。
 式部の母親は式部が物ごころつくかつかない内に死去します。式部は父親育てられます。984年花山天皇が即位します。為時は蔵人式部丞に任命されます。蔵人は天皇の側近です。式部丞も漢学者にとっては名誉の職務でした。律令制の八省はほとんど形骸化していましたが式部省だけは例外でした。式部省は人事を扱います。式部丞は三等官で実務に携わります。従って多くの文書を扱い、いきおい文字に習熟した学者が任命されます。ですから為時にとっては自分の実力が認められたわけで、名誉な職でした。為時は式部丞に就いた事を生涯誇りとしました、紫式部の「式部」は父親の官職から来ています。為時38歳の時で、彼はいよいよ自分にも春がめぐってくると期待したことでしょう。しかし為時の期待は無残に裏切られます。
 986年花山天皇退位事件が起こります。摂関家嫡流の師輔にはコレマサと兼家という二人の兄弟ライヴァルがいました。コレマサは娘懐子を冷泉天皇の室に入れます。兼家は娘詮子を円融天皇の室に入れます。懐子の腹から生まれたのが花山天皇です。詮子から産まれた皇子は皇太子になります。後の一条天皇です。兼家としては花山天皇に早く退位して欲しい。そこで天皇が寵妃の死により悲嘆に暮れているのを利用し自分の息子道兼を使って天皇に出家をさせます。道兼は天皇の幼馴染でした。側近が気づいた時はすでに遅く花山天皇は出家していました。日本では僧侶は即位できません。兼家のもくろみ通り一条天皇が即位します。
 政権が代わるとスタッフはすべて入れ替えらえます。それ以上に警戒されます。為時も例外ではなく10年の逼塞を強いられ、位階だけあって職務のない散位に留めおかれます。紫式部が16歳くらいの時の事件です。兼家道隆が死去し道長の政権になってやっと為時は越前守に任命されます。為時が一条天皇に漢詩を送り、感動した天皇が為時を国司に任命したのだという話もあります。紫式部は父親について越前に行きます。ここで式部は地方行政や受領の生態を実見したことでしょう。これは明石巻を書く時の重要な参考になります。越前滞在中宣孝から求婚され都に帰り、宣孝の後妻に収まります。紫式部28歳の時です。当時としては遅い結婚です。
 1005年式部は一条天皇の中宮彰子に女房として奉公します。彰子は999年12歳で入内します。天皇から「雛人形のようなお嫁さんだね」と言われたそうです。藤原道長は兄道隆の全盛期を見ています。清少納言の枕草子は当時既に有名でした。好学の天皇に気に入られるように彰子を教育する必要があります。また父親為時は歌人としても有名で、そこで式部に白羽の矢が立ちました。あるいは奉公させられました。式部は清少納言と違い、女房奉公は嫌いだったそうです。奉公初めは藤原氏なので父親の官職も含めて藤式部と言われました。後源氏物語が有名になり主人公の一人紫の前をとって紫式部といわれるようになりました。1005年、式部36歳、中宮彰子18歳です。
 式部の役割は彰子の家庭教師です。一条天皇は好学ですから、漢学の素養も中宮には必要です。だから式部は日本書記のみならず当時日本で人気のあった白楽天の楽府なども抗議していました。1008年道長待望の皇子が彰子の腹から生まれます。この日を中心に状況、風景、人心一般を記録したのが「紫式部日記」です。一説には子供の賢子が女房奉公をする時の手ほどきとして書かれたとも言われます。
 紫式部は中宮彰子の相談役でもありました。摂関政治では母后の役割は重要です。彰子は長命で入内以後70年以上生き、摂関政治の全盛期を生きた人です。むしろ摂関政治を支えたのは頼道ではなく彰子であったとも言えます。だから式部は相当政治にも関与していた、と想像されます。1019年藤原実資が彰子のもとを訪問した時取次に出てきた女房が式部だったといわれます。これが紫式部が資料に登場する最後です。なお源氏物語の宇治十帖は1008年一気に書かれました。道長の政敵伊周が謀略にかかって政界復帰の望みを絶たれ死んだ年月と宇治十帖執筆の時期はほぼ重なります。
 紫式部に関して言うべき事が一つ残っています。勧修寺延喜です。良門の子供高藤がある日宇治に狩にでかけます。一泊の宿を借りた郡司の家でそこの娘と結ばれできた女子が胤子で、この女性が当時臣籍にあった源定省と結ばれ、定省が宇多天皇になった時この胤子から産まれた子供が醍醐天皇になります。こうして高藤の家系は中央政界に復帰します。式部に家系はこの高藤の家系つまり勧修寺流と昵懇な関係にありました。娘の賢子は勧修寺家に属します。この事実は当時としては奇跡のようなもので周囲から羨ましがられました。この縁起は式部が明石巻を書く時の重要な参考になっています。
 こう考えると紫式部という人は多くの政治体験をしていることになります。安和の変の時彼女は生まれました。花山事件では敗者の苦痛を味あわされました。彰子の女房として多くの政治の機微に接し、勝者の立場も経験しました。源氏物語はそういう作者の体験も踏まえて書かれているのです。

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8 源氏物語 注3 

2022-02-26 15:40:56 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8源氏物語 注3 

(それだけ後宮が力を持っているのに流血事件は全く起きていない)
この文句は角田文衛氏の「日本の後宮」という本からの抜粋です。日本では後宮で女が女を殺すことなど一例もありません。ただし苛めはしますが。桐壺更衣が他の女性から苛められた(おとしめそねみたまふ)が端的な例証です。日本にないとすれば外国にお話を求めざるをえません。欧州やイスラム圏あるいわ古代地中海世界の事はよく解りません。お隣の中国というより漢民族の世界に求めてみましょう。もっともこの国は漢民族と言っても民族構成は複雑です。端的な事例を三つ挙げます。
第一は前漢の呂后と如意の話です。前漢の創始者高祖劉邦には糟糠の妻呂后がいました。呂后は剛腕で劉邦の天下制覇に大いに貢献しました。呂氏一族の資産が劉邦挙兵の軍資金になったのです。呂后には孝恵という子供がいました。当然跡継です。しかし孝恵は虚弱で温和で、制覇したばかりの天下を治めるだけの能力に欠けていました。少なくとも高祖劉邦はそう判断しました。高祖には寵愛する戚夫人という側室がいました。高祖は戚夫人が産んだ如意を後嗣に建てようと思います。これは後継の秩序に反することなので、張良はじめ多くの重臣は反対し、事は収まります。問題は高祖死後のことです。呂后は復讐を開始します。まず如意を首都長安に呼び寄せ毒殺します。ついで戚夫人への復讐です。まず薬を飲ませて唖しにし物を言えなくします。ついで両手両足を切断します。両眼はえぐりとります。失神したら水をかけて覚醒させます。最後はこの人とも物ともつかないものを便所に投げ込み人豚と名付け臣下に尿をかけるべく命令します。これが呂后残酷物語の概略です。この光景を見た呂后の子供孝恵は失神して間もなく死亡します。
第二は隋王朝の創始者である文帝の皇后献夫人の物語です。献夫人は美人で教養も深く、同時に非常に嫉妬深い人でした。文帝は献夫人一人を愛します。こんなことは帝王としては珍しいことです。ある日文帝は一人の侍女を見かけます。文帝はこの侍女に心を魅かれ密かに寵愛します。宮廷内部にスパイを放っていた献夫人は事の次第を知ります。その女性を前に引き出して懲罰と称して鉄の棒で散々打ち据えます。女性の息が絶えるまで打ち据えます。この処置に文帝が抗議するとか阻止するとかいう事は一切ありません。文帝という人は名君と言ってもいい人ですが、恐妻家で晩年寵愛した婦人を後継者である息子の煬帝に奪われています。
第三は則天武后のお話です。武后と書きましたがそれは通称で、彼女は唐王朝を一時簒奪して周という王朝を作っています。武后は始め太祖李世民の後宮にありました。太祖に寵愛されたという形跡はありません。太祖の死後彼女は寺に入れられます。皇帝の死後は後宮の女性たちは尼になる事を義務付けられていたのです。彼女に密かに目を付けていた後継者である高宗は武后を還俗させます。武后は当時の皇后と手を結びライヴァルを退けます。そして皇后にも魔手を伸ばします。武后が産んだ赤ん坊を皇后が見に来たとき、武后は先に我が子を殺し、皇后が絞殺したように見せかけます。そして自分が皇后となり、先の皇后はじめライヴァルの夫人を奴隷に落とし暗室に閉じ込め、最後には四肢を切断して酒がめに放り込みます。なおここでは「武后」という名を使いましたが武后は彼女が皇后になった時からの名称です。
 以上漢民族の後宮内部で起こった残酷事件の代表を三つ例示しました。このような事は日本の後宮では一切起こっていません。

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8源氏物語 注2  

2022-02-25 02:30:34 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8 源氏物語 注2  

(源氏物語あれこれ)
(1)源氏物語の大綱は述べました。他に気づいた点を二三書いておきます。源氏物語の第一部、桐壺巻から藤裏葉までは二本の並列する物語の列からなります。以下に列挙します。
 桐壺-(帚木-空蝉-夕顔)-若紫-(末摘花)-紅葉賀-花宴-葵-賢木-花散里-須磨-明石-澪標-(蓬生-関屋)-絵合-松風-薄雲-少女-(玉葛-初音-胡蝶-蛍-常夏-篝火-野分-行幸-藤袴-眞木柱)-梅枝-藤裏葉
 以上の系列の中で括弧()にくくった部分は並の巻と言います。括弧にくくられていないのは物語の本筋で、並の巻はそれに並列して入れられた挿話です。源氏物語はそういう二重構造からできています。だから一直線に読むと筋書きの理解が少し混乱する時があります。この事は源氏物語が、短い挿話お話の集積でありそれを式部が一貫した作品として大成したのだろうとも、推測さされます。物語とは「おじいさんは山に行って、おばあさんは川に行って---」のような童話が典型です。天武天皇とある老女の対話が万葉集の歌にあります。天皇は老女がよく話すとからかいます、老女は天皇が話せと催促されるのではありませんか、とやり返します。この老女は語り部だったろうと推測されますが、昔から夜炉辺に集まりおとぎ話や物語を語り聞く習慣はあり、それが民衆の楽しみでした。私も幼児期祖母からおとぎ話を聞くのが楽しみであり、また子供にも同様の事をしてやりました。竹取物語などはおとぎ話同然です。源氏物語の原点がそうですから、源氏物語は成立当初からそう尊重されていたとは考えられません。宮廷で女房たちが御主人様を中心に語り合っていただろうと思われます。ただし人気は抜群でした。「更科日記」の作者は遠い国で、噂に聞く源氏物語に憧れ、とうとう自分自身が多くの物語を書きました。源氏物語が評価されだしたのは千載和歌集の編者藤原俊成からです。その子定家は当時混乱していた「源氏物語」を整理し整合統一しました。こうしてできた本を青表紙本と言います。定家が一部改作したという説もあります。併行して河内本ができこの両者が源氏物語の定本として権威を持っています。他に異本はたくさんあります。注釈になると限りがありません。俊成・定家の時代に源氏物語が評価され始めたことは、衰亡する朝廷公卿の文化占有者としての自己主張でもあります。定家は古今集と源氏物語を日本の二大古典文学とし、代々その解釈を子孫に継承させました。師弟間の口伝で直接その奥義を伝えられるべしとするので古今伝授と言われました。古今伝授は俊成の時から始まります。江戸時代になると契沖・賀茂真淵・本居宣長などの国学者により研究が深められました。明治に入り古典文学の実証的研究が進み、昭和に入って池田亀鑑氏をはじめとする多くの人たちにより、まあこれが一番オリジナルに近いだろうというものがまとめられました。現在我々が源氏物語として読んでいるものはそういうものです。
(2)物語の主要人物を紹介しておきます。桐壺帝は源氏の父親であり、識者のいうところに従えば、歴史上では村上天皇に擬せられています。朱雀帝は桐壺帝の子供です。母親が弘徽殿女御で憎まれ役です、桐壺更衣を苛め源氏の政敵になります。女御と更衣では身分が違うのです。弘徽殿女御の父親が右大臣、朱雀帝が即位すると外戚になります。源氏はこの右大臣と対立する関係にある左大臣の娘、葵を正妻にします。桐壺帝は桐壺更衣が忘れられず更衣に似た内親王を妻として迎えます。それが藤壺中宮です。だから藤壺は源氏にとって義理の母であり、また母親の代理・形代でもあります。若紫(紫前)は藤壺の姪に当たります。彼女は藤壺の形代になります。若菜巻で登場する女三宮も藤壺の縁戚になります。源氏は母親代理である藤壺に縁のある女性を求め続けます。他に源氏の後継者夕霧と親友であって政敵となる頭中将が物語の構成において欠かせません。
 本編で重要な人物がもう一人います。六条御息所(みやんすどころ)です。御息所とは皇族それも即位の可能性を秘めた皇族の妃です。彼女は謎の人物とも言えます。源氏が最初に知った女性と思ってもいいでしょう。問題は彼女との事を表に出せない事です。彼女は未亡人であり、しかし皇族との婚姻者なので、夫の死後も貞節を護らなければなりません。しかし源氏は彼女から離れられないのです。表に出せない情交は男にとっては都合がいいのですが、女それも身分のある女にとっては不名誉で屈辱です。源氏にとっても皇族の未亡人などと正式の結婚をする気はありません。しかし双方とも好きで愛し合い魅力を感じあっているのです。この鬱屈した御息所の感情が怨念怨霊となって現れます。源氏の愛人夕顔、事実上の正妻紫の前は彼女によって取り殺されます。怨霊と言えば笑止に聞こえますが、ストレス過剰になると抑うつ気分か被害妄想になりますから怨霊の事実上の効果はあります。御息所に一番派手に取り殺されたのが源氏の正妻である葵です。表に出せない性愛の対象それが母親です。六条の御息所は闇の藤壺です。他に重要人物としては宇治十帖で出てくる浮舟ですが、彼女は源氏の政敵であった八宮の娘です。源氏の子供薫大将(実際は柏木の子)は八の宮の三人の娘と関係を持ちますが、最後の女が浮舟です。明石前と明石の入道に関しては後にのべます。
(3)源氏物語における重要な事件としては車争いがあります。葵祭の時主宰者である源氏の顔を一目見ようと都の貴顕紳士が群れ集まります。その時葵と御息所の間で場所の取り合いになり、従者の間で喧嘩が起こります。葵の従者は御息所と源氏のことを知っていますから、大声で御息所の悪口を言い、御息所の車を押し倒してしまいます。御息所の誇りは傷つけられます。葵は妊娠していました。当時の妊娠は大厄です。御息所の怨霊が現れ葵を取り殺します。以後源氏への左大臣家の庇護は薄まり源氏の運命は凋落してゆきます。
 車正式には、牛車(ぎっしゃ)は権威の象徴です。だから車争いはよく起こりました。源氏物語が執筆される5-6年前一条天皇の母親詮子と天皇の中宮定子の間でも車争いがありました。理由は道隆亡きあと摂関を誰がとるかで詮子と定子の間で嫁姑戦争が起こったからです。平家物語でも車争いがあります。摂政藤原基房と清盛の孫資盛の喧嘩です。
(4)源氏物語55帖の中で一つ明石巻のみ説明します。源氏は須磨に配流されます。そこで謹慎しますが、三月の上巳の日に慣例に従い禊をします。源氏は「私にはなんの罪もないのに云々」と無実を訴えます。とたんに沛然として豪雨が降り、嵐が起こり雷が落ちます。源氏はじめ家臣たちは恐怖に脅えます。その夜源氏の父親である桐壺帝が夢に現れ源氏を励まします。同時に帝は朱雀帝の夢にも現れ朱雀帝を叱ります。「なぜ私の遺言に背き源氏を迫害するのか」と叱ります。桐壺帝の遺言は朱雀帝退位の後には、藤壺の産んだ皇子を即位させそれを源氏が後見するという事でした。夢で父親に叱られた朱雀帝は眼病にかかります。源氏の政敵右大臣はまもなく死去します。剛毅な弘徽殿の女御までも体調を崩します。
 嵐が明けた翌朝海のかなたから一艘の船がやってきます。須磨の西隣り明石に住む豪族明石入道の使いです。入道の夢に住吉明神の使いが現れ、源氏が難渋しているので早く助けよ、との託宣の由です。こうして。源氏は入道のもとに引き取られ、入道の娘明石前との間に一女をもうけます。この子女が後入内し皇子を産みます。源氏は外戚になるわけです。この機を境に源氏の運命は好転し、赦免され権大納言に任命され政界に復帰します。ちなみに権大納言とは、近い将来大臣になるであろう有望者が任命される官職です。
須磨・明石の巻は源氏の運命の変転を著わします。事実としてはそこまでですが、この巻のお話には重大な象徴的意味が暗示されています。雨、嵐、荒れる海、雷に源氏が脅える事は、海の底に引っ張り込まれる事を意味します。つまり意識の深層に引き込まれます。夢は意識の深層そのものなので情景は重なります。そこで源氏は父帝に許されます。そして新たな父親明石入道が穏やかになった海から現れ源氏を救済します。源氏は自らが犯した罪過と懲罰を許され復権します。「荒れる海」とは源氏の動揺する精神そのものです。
 このお話には原型があります。古事記の山幸海幸の物語です。山幸は兄の釣針を無くし責められ、亀に助けられて竜宮に行きそこで海王の娘豊玉姫と結ばれ、その霊力で兄を負かし王者になります。源氏物語りは明らかにその神話を意識して書かれています。また明石は王権復活の地でもありました。第22代清寧天皇に嗣子がなく王権が絶えようとした時明石に住んでいた二人の王族が発見され顕宗・仁賢天皇になり王権の連続性は維持されました。紫式部は当然そのことを知っており、それをモデルにして物語を書いたと思われます。明石巻は源氏の復権を端的に表し、物語の頂点・重大な転機になっております。源氏物語で一番重要な巻です。
(5) 源氏物語の文章はかなり特異的です。特徴は三つあります。長い連帯修飾語の使用、複合語の作成、和歌の機能の活用です。一つ例を挙げますと次のような文章があります。
 「(女御更衣あまたさぶらひたまいける)中に、いとやんごとなき際にはあらぬが「」
括弧でくくった部分は後ろに続く文章を修飾します。漢字は表意文字ですので一語のなかにかなり複雑(というより晦渋)な意味を盛り込めます。仮名は表音文字なのでそうは行きません。ですからこのような長い連帯修飾語を使わざるを得ませんでした、というより式部が発明しました。西欧語における関係代名詞のようなものです。
 次の処方が複合語の作成です。例示します。
 「ものうし」、「ものはかなし」、「おぼつかなくおもす」「おとしめそねむ」
等です。こうして意味を加重し意味の及ぶ範囲を広げます。ですから源氏物語りの文章はくねくねとして掴みにくくなります。源氏物語前後の作品と比べると源氏物語の文章は難しいが、定評です。
 更に歌物語の特徴を生かして、和歌を文中にふんだんに盛り込みます。一定の長さの文章が続くと、意味の集約点として適時和歌が挿入されます。さらに文中の言語や文章にはそれ以前に作られた和歌の意味が暗示ないし重ね会わされます。これを引歌と言いますが、引歌を介して文章は限りなく意味の羽翼を広げて浮きます。この手法を後世本歌取りと言いますが、紫式部はこの手法を存分に駆使します。
 式部はそれまでに使われた語彙や文体に満足することなく、自分で文体語彙を意志的に作り出したと言えます。既に述べたように、彼女は平安文学史の流れを意図的につかみ、法華経を背後において、更に語彙文体を創造し、自己の作品を極めて意志的自覚的に構築したと言えましょう。
 その延長上に彼女の歴史知識の豊富さがあります。二つ例を挙げます。まず弘徽殿女御と光の関係を、史記の中の呂后と如意の関係で描いていることです。呂后の残酷さは後に語られるでしょう。もう一つは光源氏が異母兄で前帝の朱雀帝の娘女三宮を娶る事の重大さです。内親王と臣下の婚姻は娶った臣下の政治的比重を著しく高めます。換言すればその臣下は帝王にとって代わりえます。源氏物語が書かれる300年前、長屋王の事件がありました。王孫長屋王が吉備内親王を妻にした事が藤原氏を著しく刺激しました。式部が子供だった時、安和の変があり源高明が大宰府に配流されました。こういう歴史上の知識を紫式部は豊富に持っています。源氏物語を一条天皇が読まれた時、天皇は「この作者は日本史に詳しい」と言われ、式部は同僚から「日本紀の局」とあだ名をつけられくさった事は有名ですが、このことも式部の歴史知識の豊富さを表しているでしょう。歴史を背景にする手法も源氏物語の内容をより豊かなものにしています。
(6)ここで既に述べてきたと思いますが平安女流文学についてざっと触れておきます。歌人の半数あるいわそれ以上は女性です。代表的な歌人としては、小野小町、伊勢、相模、右大将道綱の母、和泉式部、赤染衛門、さらに時代が下ると建礼門院右京太夫や藤原俊成娘などがいます。日記では右大将道綱母(蜻蛉日記)、和泉式部(和泉式部日記)、紫式部(紫式部日記)、管原孝標娘(更級日記)などがいます。孝標娘は多くの物語を書いています。随筆では清少納言(枕草子)歴史叙述では赤染衛門(栄花物語、ただし推定)がおり、頂点に源氏物語と紫式部が来ます。清少納言と紫式部も和歌を詠み、勅撰集にも採録されていますが名歌と言われるほどの歌は無いようです。彼女たちはほとんど全部が受領層出身の下級貴族で女房奉公をしており後年は天皇の乳母として後宮に隠然たる力を持ちます。紫式部の娘大弐三位はその典型です。



「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8源氏物語 注1 

2022-02-25 02:30:34 | Weblog
「君民令和 美しい国日本の歴史」ch8 源氏物語 注1 

(なぜこのような大作が生まれたのか)
 という問題意識ですが、この大門題を語る前に源氏物語の概略を述べておきましょう。あらかたは本文に書いてありますがもう一度要約しておきます。源氏物語は次のように文節されます。

① 帝の桐壺更衣に対する非常な寵愛。光源氏の誕生。心身頭脳すべてにおいて超優秀な光の君。桐壺更衣の死。光の臣籍降下。
② 藤壺中宮の入内。光にとっては義理の母親。桐壺更衣の形代としての藤壺。光は藤壺に可愛がられて育つ。光の藤壺への愛情。母性への憧憬から異性間の愛情へ。
③ 藤壺との密通、同時並行で藤壺の姪若紫の強奪。闇(影)の藤壺である六条御息所との情交。朧月の内侍との密通の発覚。
④ 須磨配流。嵐の試練。明石入道と明石前の登場。
⑤ 赦免、復活、昇進。
⑥ 不義の子冷泉天皇を建てて藤壺と光の共同執政。準太政天皇に。六条院での栄華
 (以上藤裏葉の巻まで)
⑦ 兄朱雀帝の娘女三宮との結婚。女三宮と義理の甥柏木の密通。不義の子薫大将の誕生。因果応報。光の死。
  (以上若菜上下から雲隠巻まで)
⑧ 薫の宇治訪問。八宮の娘大君との出会い、大君の死、大君の異母妹浮舟との出会い。
⑨ 薫と匂の間で迷い苦悩する浮舟。浮舟の失踪入水。
⑩ 横川の僧都による浮舟の救済。浮舟の出家。
    (以上橋姫巻から夢の浮橋まで、通称宇治十帖)

 以上の物語の極めて簡単な概略を更に要約すると、喪失-侵犯-懲罰-赦免-復権-栄華-転落-主題の繰り返しと許し、の系列に収約されます。
 光は母性と地位を剥奪され喪失し、その回復を求めて義母藤壺と密通します。結果が須磨配流という懲罰です。そこから一転して復権が始まります。藤壺との共同執政、準太政天皇、内親王との婚姻(内親王との婚姻は即位可能を意味します)。そして運命は暗転し源氏は、したことはされる、という因果応報の原理のもとにやがて消えてゆきます。宇治十帖はそれまでの正編の主題の繰り返しであり、源氏の葬送であり、源氏の延長代理である浮舟の入水・出家すなわち救済をもって物語は終わります。
 物語全編において重要な巻は若紫巻と須磨・明石巻です。前者で近親相姦という侵犯が行われ、後者では源氏は赦免され権力意志に目覚めます。王朝のスキャンダリスト業平から覇者道長に転身します。明石の巻で出現する明石入道は許す父権の象徴です。こうして栄華を極めますが、源氏が皇位そのものを狙った時凋落が始まります。この放蕩者から権力者への転換は、そしてそこに介在する明石入道の存在は、法華経の展開そのものです。宇治十帖の浮舟の出家で初めて「人」が出現します。あるいは「自我」が設定されます。これが源氏物語の要約です。詳しく書くときりがありません。それ以上は「源氏物語の精神分析学」を参照されるか、源氏物語そのものをお読みください。源氏物語なら谷崎訳を勧めます。
 宇治十帖について追加します。浮舟は横川の僧都によって救済されましたが、この僧都にはまごうかたなき歴史上のモデルがあります。往生要集の著者、比叡山の横川に隠棲し、本来の僧侶の生き方とは違う人生を送り(このような僧侶を日本で聖人といいます、せいじんではありません、しょうにんと詠みます)平安浄土教の主導者となった源信です。ここで作中の横川の僧都と源信は重なります。紫式部の信仰は多分浄土信仰(当時の風潮からして)だったと思いますから、源信は式部に重なります。ということは物語の最後で式部が浮舟を抱きとり、浮舟と自己を同一視して物語は完了します。式部自身、身の程をわきまえねばならない下級貴族受領層の娘であり、摂関家の家司(家来のようなものです)であったのですから。式部の歌を一首挙げてみましょう。
 「水鳥を水の上とやよそに見む、我も浮きたる世をすごしつつ」
自己疎外の感情が読み取れます。式部は浮舟を抱きとる事によって、自己も浮舟も救います。こうして式部も浮舟も「人」となります。
 作中で光は明石入道により救い取られて変身します。作品の末尾で浮舟は式部に抱き取られて「人」となります。二つの過程は法華経の構造そのものです。法華経に関しては後に解説しますが、法華経の基本構図は弟子たちが仏陀と闘争角逐し仏陀に抱き取られる形で菩薩になり菩薩道(人間として是なる社会的活動をする事)を実践することにあります。こう考えると式部は法華経が内包する論理をほぼ理解していたと考えられます。先にのべた源信にしても浄土教の喧伝者でありつつ熱心な法華経の研究者でもあったのです。源氏物語は明らかに法華経と構図を一にします。法華経は雄大な思想でありまた文学です。法華経の構図を背景としてのみ源氏物語という雄大な作品は生まれました。次に文学史の観点から源氏物語成立の機序を考えてみましょう。
 源氏物語は「物語」です。物語には二つの系譜があります。「歌物語」と「作り物語」です。歌物語は、和歌と和歌の間に簡単な文をさし込みます。それは和歌が作られた時の状況でもいいし、また作者個人の感懐でもかまいません。日記という形を取ることもあります。作り物語は意図的に自己以外の主人公を作り、彼あるいわ彼女の活躍を叙述する形を取ります。主人公は簡単には造れませんので最初は異界つまり人間世界以外のところから採ってきます。日本の作り物語の最初は「竹取物語」です。主人公は天界から一時追放されたかぐや姫です。第二の作り物語は「宇津保物語」です。ここでは主人公俊蔭はかなり人間化されていますが、まだ天界つまり神様の世界のしっぽを付けています。「落窪物語」に至って主人公は継子として迫害される落窪ですから、人間社会の存在になります。
 源氏物語は歌物語と作り物語双方の合流点に位置します。前章で述べましたが、源氏物語には詠まれた歌と引歌双方あわせて1000首以上の歌が動員されています。だから源氏物語は歌物語でもあります。同時に神と見まがうばかりの貴人「光源氏」が主人公ですから作り物語でもあります。しかし光源氏はその才質が超越的であるだけにまだまだ異界の衣を脱ぎ捨てることはできません。ここでもう一回転機が訪れます。それは「我れ」という概念の導入です。作者紫式部は極めて我意識の強い人でした。しかし「我れ」という主題は彼女の発見ではありません。「我れ」意識を初めて文学の形で述べたのは「蜻蛉日記」の作者右大将の母であり、「和泉式部日記」の作者和泉式部です。前者は、夫独占願望が強く嫉妬深い女性であり、夫藤原兼家(摂関政治の確立者)への嫉妬でもって「我れ」を主張しました。後者は敦道親王との4年に渡る恋を主題とする恋日記の中で恋する女を(それは不貞不倫でもありますが)肯定し主張しました。これも「我れ」です。紫式場はこの二人の先輩が発見した「我れ」を歌物語と作り物語の接点に置きます。もちろん「我れ」は神様の世界の中では存在しえません。
「我れ」は単純な点ではありません。人間は生まれ、保護され、教育(懲罰)され、反抗し、分離し、新しい性対象を見つけ、社会的役割を獲得し、やがて死にます。この過程は保護、喪失、反抗、懲罰、分離。自立と要約されます。この過程をたどるに当たって一番の難関は古い対象である親から新しい対象である性対象への移行です。ここで新旧の対象は必ず相違し必ず相即します。この矛盾した過程を「近親相姦的願望あるいは複合体」と言います。紫式部がそこまで考えたかどうかは解りませんが、彼女が「我れ」という概念をもって主人公「光」の人生を、喪失、侵犯、反抗、懲罰、復権、栄華、そして転落という風に分節したことは事実です。主人公の内面が分節されると、それを取り巻く外部世界も自動的に分節されます。人間は社会的動物ですから必ず成長します。八歳の児童は三歳の幼児ではありません。二十歳の青年と五十歳の成人の考え方は違います。人間は異質なものへ異質なものへと変貌してゆきます。つまり一本の人生は滑らかなものではなく、諸処に節目を持ちます。換言すれば人生は分節化されているのです。紫式部はこの本来人間が持ちうる変貌への洞察をそのまま主人公「光」に適用しました。
 和歌(より一般的に言えば文学)は自己の心情を述べるか、外の風景を描くかどちらかの方法を採ります。この二つの手法は本来併存します。だから和歌は同時に散文をも含み得ます。だから歌集と歌日記と歌物語の境界は曖昧です。和歌は心情告白の重要な手段です。それをかなりな程度自覚化したものが、歌日記であり、歌物語です。和歌は「我れ」を内包します。蜻蛉日記や和泉式部日記の作者はそれを明確なものにしました。作り物語の主人公である英雄は人間化します。こうして源氏物語は構想され出現しました。
 源氏物語ほど雄大な構想をもった文学作品は世界中見回しても他にありません。シェイクスピアは比較的短い作品の寄せ集めでしかありません。フランス文学にはボードレ-ル等の現代詩以外の知識は私にはありません。源氏物語とよく似た構想を持っているのはゲ-テの「ファウスト」です。これも一部二部の二部構造になっています。熟読しましたが二部の部分の終結、つまりファウストの救済には失敗しています。ただ文章は源氏物語の原文よりは優れています。少なくともファウストの独文は源氏の原文よりは解りやすく楽しみやすいものです。かく考えると、源氏物語もゲ-テもシェイクススピアも日本語・ドイツ語・英語などの民族言語発生時点で作られていることに気づかされます。
(源氏物語の主題)
 主題は摂関政治の弁証です。源氏が太政天皇から正式の天皇になってしまえば、近親相姦による皇位簒奪は成功することになります。事実はそうなりません。簒奪は阻止されます。源氏の死後栄える者は賜姓源氏に徹する源氏の子供夕霧と源氏の政敵(かって親友でもありました)である頭中将の子孫です。後者は藤原氏を表しています。断定的に言えばただそれだけです。本文の結論をもう一度述べます。以下の通りです。
「源氏物語は、支配への衝動は近親相姦願望に基づくとし、性愛と政治の密接な関係を暴きました。同時に近親相姦による政治を否定し、その緩和された形態である摂関政治を弁証しました。天皇は摂関を超えた超越的存在、神としての権威を獲得し、かくして権威と権力の分化という日本的政治形態が確立しました」

天皇陛下、お誕生日おめでとうございます

2022-02-23 22:49:33 | Weblog
天皇陛下、お誕生日おめでとうございます
  3月23日天皇誕生日。おめでたいだけでなく私にとっても想い出の深い日ではあります。昭和35年(1960年)3月23日は私の誕生日の2日前、記憶に残るのは当然ですが、当時私は大学入試にがんばっていました。3月3日に入試、3日間。1日に母親と大学病院の前の旅館に投宿(親同伴の入試は週刊誌でよく風刺されたネタ)。最初の日、国語と数学の試験を終了した時点で合格確信、鼻歌気分で受けた理社英語。3月18日合格発表。親友も法学部合格。私は医学部。18歳。ですから陛下の年齢に18を加算すれば私の年齢が出ます。逆算すれば陛下は62歳になられたはず。大学では親友に恵まれ楽しい気楽な6年間。そういう良き思いでに令和天皇の御誕生日は結びついています。34年春の皇太子(現平成上皇)ご成婚のパレ-ドはTVで拝見。
 難しい理屈は抜きますが、日本は世界一豊かで幸福な国です。その背後には万世一系の皇室の存在があります。あらためて令和天皇にお祝い申しあげます。
                               2022-2-23 

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch7勅撰和歌集 注6 

2022-02-23 21:38:25 | Weblog
 「君民令和、美しい国日本の歴史」ch7勅撰和歌集 注6

(大嘗会)
 勅撰和歌集は天皇制を護持し弁証する事業でした。その意味でもう一つ大事な行事があります。大嘗会(だいじょうえ)です。毎年秋の収穫が無事すむと、実りを感謝して新嘗祭(にいなめさい)という行事が行われていました。収穫に感謝して祭礼を行うのはどこの国でも同じです。新嘗祭の民間版が秋祭りです。新嘗祭は毎年行われていましたが、天皇の代替わりごとに同様な趣旨で、より大規模な行事が行われました。それが大嘗会(だいじょうえ)です。大嘗会は秘儀です。だからこれが大嘗会だという記述はできないらしいのですが、平安時代の諸々の記録の断片から、大嘗会の形が見えてきます。大嘗会は以下の順序で施行されます。
 まず宮廷の一画に草ぶきか萱ぶきの黒木の建物がしつらえられます。即位する天皇はその建物の中の廻立殿(かいりゅうでん)に入り、そこで斎戒沐浴し天の羽衣という白衣を着ます。そこから悠紀殿(ゆきでん)に入ります。その一室に設けられた寝所に天皇は儀礼的に伏し臥たわります。そして悠紀の国(都から西方の国)の斎田からとられた五穀(麦、粟、稗、黍、豆)を食します。ついで天皇は再び廻立殿に赴き再び斎戒沐浴をして、こんどは主基殿(すきでん)に入り東国からとれた五穀を食します。これらの行事はまっくらの中、浄闇の中で行われます。以上が大嘗会の概要です。この儀式についてはいろいろな解釈が行われてきましたが、最大公約数的に言って次のように理解するのが妥当でしょう。
 斎戒沐浴して誰もいない真っ暗な建物に入ることは「天の岩戸ごもり」を意味します。二つの殿舎で天皇が伏し臥たわることは、天皇が神を迎え入れること、聖なる婚姻を意味します。五穀を食することは、天皇が神とともにまた神として大地に豊饒を祈り保証し民衆に感謝する事、すなわち天皇がその国の支配者・責任者であることを明らかにします。天の羽衣をまとって殿舎に入り、五穀の実りを言祝(ことほぐ)事は高千穂の峰への天孫降臨です。かくして天皇は神として再生再臨します、天皇は自らが神であることを演じ同時に神になります。天地有情、人心和合、万物一体です。
 大嘗会の内容は時代とともに変わったようです。室町幕府後半になって経費捻出の都合から大嘗会は中止されます。幕府として天皇になるたけ長く在位してほしかったのです。後土御門・後奈良・後柏原・正親(おおぎまち)天皇の在位期間が長いのはそのためです。もっとも応仁の乱以後、大嘗会は中止されます。江戸時代に入り第115代桜町天皇の時、8代将軍吉宗の協力により大嘗会は復活します。今年秋、令和天皇の即位の大典大嘗会が催されます。秋篠宮様は質素にと言われましたが、私は盛大に施行すべきであると思っています。全予算が20億円とやら、日本の国力をもってすれば安い物です。