経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  鮎川義介(一部付加)

2020-03-31 15:52:19 | Weblog
 経済人列伝  鮎川義介(一部付加)

旧日産コンツエルンの創始者が鮎川義介です。戦後一応財閥が解体されたので判然としませんが、日産の名は日産自動車を通して現在でも残っています。私の記憶では昭和50年代までは自動車業界では日産がトップでした。技術の日産といったものです。知人である修理工場の経営者の話では、技術の日産、サ-ヴィスのトヨタでした。日産は技術に不必要なほどこだわったからトヨタに負けたのだ、とその知人は言っていました。日産と「技術」はその発生の原点において切り離せない関係にあるようです。日産コンツエルンの創始者鮎川義介は1880(明治13)年山口県に生まれました。父親は旧長州(毛利家)藩士で199石の扶持を受けていましたから、れっきとした上士階級に属します。父親は高杉晋作の義挙に加わり2石を加増されています。
義介は旧制山口高校から東大工学部に進学します。母方の遠縁に明治の元勲の一人である井上馨がいました。彼を頼って上京し、井上の家に住み込みます。卒業して普通なら新進気鋭の技術者として官吏になるか民間会社に務めるところですが、彼義介がただものでないところは、東芝の仕上工として現場に入り、現場から何かを学ぼうとしたことです。やがて渡米します。ここでも一職工として働きます。帰国して共立企業という会社を作り持株会社を創始します。戸畑鋳物、安来製鋼所、東亜電気という会社を作り、共立企業の傘下におさめます。
昭和3年親戚の久原房之助から久原鉱業を譲られます。同時に社名も日本産業と改めます。久原は政界に転出したく思っており、またこの会社の成績もよくなかったようです。やがて政府は不況脱出の方策として金本位制を放棄し金の輸出を禁止します。この結果円相場は下落し、反対に金価格は上昇します。日本産業は傘下に鉱業会社を抱えており、日本産金の3割を生産していました。日産の株価は上がります。ここで鮎川がとった戦術が株式売り出しによるプレミアム取得です。傘下の子会社の株式を売り出し、取得したプレミアムでもって他企業の買収・系列化・合併を推し進めます。株式売り出し戦術の参謀本部が持株会社です。こうして昭和12年ごろまでには鉱業・水産・電気・自動車・造船・化学・ゴム・電力・保険などの業種あわせて77社、資本金合計6億2千万円超の一大コンツウエルンに成長します。日産は高橋財政のインフレ軍拡路線に上手く乗ります。昭和12年と言いますと私の父親が野村證券に就職した歳ですが、母親から聞いた話しでは父親の初任給は80円でした。
持株会社は後に財閥の企業支配手段になりますが、初めのうちは銀行から融資を受けられない会社が資本を集める手段でした。当時三井・三菱・住友などの財閥系会社は株式を公開していません。三井系の会社はあくまで三井家のものであり(三井合名)、三菱系の会社は岩崎家のものでした(三菱合資)。旧財閥はそれぞれ自身の機関銀行を持っていました。また彼らの企業は金融、商業、運輸、軽工業などに傾き、重化学工業には自信がなかったのか消極的でした。鮎川はこの壁に挑戦します。自身の進出分野を重化学工業に置き、資本は公開された株式に求めます。直接融資、大衆資本主義の嚆矢と言えるかも知れません。また時代は彼の経営に追い風でした。高橋是清の財政はインフレと軍拡による膨張財政です。鮎川はこの風に上手く乗りました。ただ株式売り出しによる直接融資は、常に売り出された株が上がる事、会社が膨張する事を前提とします。その点ではいささかねずみ講じみた傾向がある事は否定できません。好調である事、好調と予想される事(つまり人気)が資本です。機関銀行を抱える旧財閥より不安定です。日産はやがて満州に進出します。鮎川は積極的に外国技術を導入しました。多分外国資本(特に英米)の導入にも積極的だったのでしょう。事実満州経営を米国と共同でしていれば、面白い結果になったかもしれません。しかし満州経営の実権を握る陸軍が、国民の血で購ったものを、という論理で外資導入には猛反対でした。結果は歴史が証明します。新興財閥の気勢におされ旧財閥も重化学工業に進出を開始します。
日産が代表的ですが、昭和期には、技術畑出身の経営者による、重化学工業を中心とし、株式公開を積極的に行う会社が伸びました。彼らを振興財閥と言います。日窒、理研コンツエルン、日曹、森コンツエルン(日本電工、後昭電)などがあります。中島、川崎、立川、川西などの航空機メーカ-もここにいれていいでしょう。(旧財閥では三菱飛行機のみ)
ちなみに1912年の自動車生産台数は、イギリス20000台、アメリカ15000台、フランス10000台、日本10台です。1930年に入り、日産自動車とトヨタ自動車があいついで設立されます。両者の経営は対照的です。日産は外国技術導入、トヨタは技術国産主義です。なにがなし創始者である鮎川義介と豊田佐吉の差のようにも感じられます。
鮎川義介は1967年死去します。享年86歳。戦後2年間巣鴨プリズンに入っています。私がこの人の名を記憶したのは、彼の親族が国会議員に立候補して派手な選挙違反をやらかした時です。
(参考文献 鮎川義介伝・小島直記著、日本産業史、昭和経済史----後二者は日経文庫)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

小林一三-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-31 13:30:07 | Weblog
(小林一三)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

小林一三は阪急電鉄と宝塚少女歌劇の創始者として有名です。一三は1873年山梨県の豪商の家に生まれました。生母は一三の幼児期に死去します。父親は養子ですので離縁され実家に帰されます。そういうわけで一三は姉と共に大叔父に育てられる事になります。この大叔父は一三に極めて寛大で、甘やかしたきらいがあります。一三はのびのびと、そしてかなりわがままに育てられました。1892年慶応義塾大学卒業、翌年三井銀行入社。大阪支店に転勤、ここで当時の支店長岩下清周と知り合います。これは一三にとって大きな機縁になりました。しかし銀行勤務時代は、あまりやる気がなく、小説家になる事を夢みて、紙屑籠と言われた調査部でうだつの上がらない生活を送ります。この間結婚しますが、同時に恋人もいたようで、家庭と愛情関係の二重生活を平然と送ります。後者の方がどうなったかは解りません。一三は子煩悩でした。
 1907年、34歳岩下の強い引きで三井銀行を辞め、阪鶴鉄道の経営に従事する事になります。この鉄道は国有化され現在の福知山線になるので、一三の最初の仕事は阪鶴鉄道の会社解体と処理でした。この鉄道に代って、私鉄として箕面有馬電気軌道という会社が設立されます。社長は岩下清周、一三はその下で専務を務めます。箕面有馬電気軌道は現在の箕面-石橋間をちょろっと走る短い鉄道で、しいて言えば大阪から福知山線で乗り換えて、当時の観光名所である箕面や有馬にお客を運ぶくらいがせいぜいの、今から見てよく経営できたものだと思われるような企業でした。関西にはすでに、大阪神戸間を走る阪神電車や大阪奈良を結ぶ近鉄電車がありました。岩下はこれらすべてに関係していて、ゆくゆくは、関西の私鉄を合同させ一つに資本の下に統合しようと考えていました。それで箕面有馬電気軌道に小林一三をひっぱりこんだわけです。岩下は、一三はサラリ-マンとしてはだめだが、経営者創業者としての才能はあると、見込みました。
 現在では阪急電鉄は関西の私鉄の雄ですが、創業当時は最も危ない会社でした。ともかく一三は資金を工面して1910年、梅田宝塚間を開通させます。しかしこの沿線は田園が多く、運ぶもの(乗客)が無い。大阪市内部の野江に線路を拡張しようとして、大阪市議会を通じて大阪市に工作し、結果贈賄容疑で友人の松永安左衛門とともに収監されます。徹底して容疑は否認し、上部の方からの工作の結果でしょう、20日で釈放されます。
阪神電鉄と合併するという話が出ます。極秘事項のはずが簡単にもれてこの話は頓挫します。一三がリ-クしたと疑われました。証拠はありませんが、一三が合併に反対で会った事は事実です。阪急電鉄も創業当時はこのようにいろいろ苦労があったわけです。合併話に懲りた一三は北浜銀行から、会社の株を買い取ります。
 田園以外には何も無い梅田宝塚間にどうして乗客を運ぶか、一三は考えました。イギリス人ハワ-ドの「田園都市論」に彼はヒントを見つけます。そのころ都市庶民の住居と言えばうなぎの寝床のような長屋と相場は決まっていました。当時と言えば明治末期、日本も第二次産業革命に突入し、産業構造が高度化します。ブル-カラ-あるいは職工とは違う、ホワイトカラ-のサラリ-マンが出現しつつありました。一三はここに目をつけます。田園で快適な生活を送ろうと宣伝します。そのために大阪市民に「如何なる土地に住むべきか、如何なる家屋を持つべきか」というパンフレットを配ります。そして特に池田箕面方面に郊外住宅を建設します。緑の環境に恵まれた土地に住んで、そこから成長しつつあった大阪市内に通う生活様式を進めます。電鉄だけではなく、住宅建築も同時並行して進めます。
 もう一つ目玉商品を作ります。宝塚新温泉です。日帰りで行ける簡便な大衆的リゾ-トです。プ-ルも作りました。男女が一緒に泳げるようにしましたが、公序良俗に反するということで警察から、男女を別々に泳がすように指示されます。温泉だけでは物足りません。新しい西洋音楽の中からオペラに眼を付けます。大阪市内の劇場でオペラが上演された時、一三は舞台を見ず、観客席それも天上桟敷と言われる一番安い席の客の反応を見ていたそうです。このオペラをモデルにして1913年、宝塚少女歌劇団が作られ、それが宝塚で上演されます。一三もせっせと脚本を書きました。彼の作品が当たったかどうかは知りません。10年後の1924年、4000人収容できる宝塚大劇場が完成します。この劇団で最初に大当たりした演目は「モンパリ」です。歌舞伎を見るためには当時5円
は要りました。宝塚の観劇料は20銭でした。
 この間、関西の私鉄で最も儲かる路線である大阪神戸間の路線拡充に努めます。灘循環電機軌道というほぼペ-パ-カンパニ-に近い会社がありました。この鉄道あるいは鉄道の敷設権を阪神電鉄と競合しつつ、買い取ります。阪神電鉄の経営は順調でしたから、一三ほど熱心ではなかったようです。こうして大阪神戸間というドル箱路線が開通します。現在私が住んでいる尼崎の園田もこの路線にあります。
 小林一三のもう一つの事業が阪急百貨店経営です。百貨店経営は素人では無理と言われていました。白木屋や大丸のように呉服店経営から出発した店が大部分です。ただ梅田は阪急電鉄という交通機関の終点で、それに国鉄大阪駅も同じ位置にありましたから、集客力には自信を持てました。一三の商法は「引き算商法」と言われます。これこれの費用がかかるから、これこれの値段にする、と言うのではなく、これこれのの値段で売りたいから、これこれの費用にする、という商法です。大衆がほどほどに金を持ち出した時、それに併せて需要を開発するやり方です。ともかくお客のニ-ヅに答えよ、お客が欲しそうなものを揃えよ、が彼のモット-です。今のコンビに商法です。特に食料品と雑貨を店頭に置きました。商法は当たります。始め阪急マ-ケット、現在の阪急百貨店です。ターミナルデパ-トの第一号です。
逸話として有名なのは、ライスカレ-です。食堂を作り特にライスカレ-に力をいれました。水と米と熱の配合でどんな味、どれだけの量ができるか、熱心に実験し、安価に売り出します。当時ライスカレ-は洋食でハイカラそして贅沢な物とされていました。もう一つ逸話があります。やはり食べ物関係の事です。カレ-ライスにも手がでない人もいました。少なくとも毎日は。そこで阪急百貨店の食堂ではソーライスというメニュ-を作りました。客は皿に盛った飯のみを注文します。テ-ブルの上にはソ-ス瓶があります。飯にソ-スをかけて食べます。大当たりしました。ソ-ス自体がハイカラで高級品というイメ-ジがあったのです。ちなみに私も自分でこのソーライスを作って食べましたが、結構美味しい、ただし栄養の方は保障できませんし、むやみと水が欲しくなります。
 東京でも同じ発想の計画がありました。田園都市会社です。この会社が上手く行きません。大阪で成功した一三が招聘されます。この会社の傘下にあった武蔵鉄道の支線である蒲田支線を五島慶太に経営させます。そこから現在の東急の事業が発展しました。五島の話では、自分のやり方はすべて小林一三のやり方をなぞらえた、そうです。
 事業者として成功した一三は三井関係の縁で、電力業にも関係させられます。当時日本には東京電燈、宇治川電気、東邦電力など数社の有力電力会社がありました。合同問題が持ち上がります。加えて時局の変化で(満州事変など)国営論が持ち上がります。一三は一時期東京電燈(東京電力の前身)の社長を務めました。彼は国家統制を嫌う自由主義経営論者でした。銀行主導、株主への配当金の制限、設備投資の増加、生産能力の増加、経営の向上が彼の持論でした。戦後日本の高度成長期の方針とほぼ一致します。一三は人間の利己心を認め、そこから来る夢(コモディティの増大の可能性)が無ければ経済に明日はないと、語ります。
 1940年、一三は第二次近衛内閣の商工大臣になります。この時の次官が岸信介、統制経済の旗頭で商工官僚のボスでした。一三と岸は意見が違い衝突します。結局岸は辞任させられますが、官僚の巻き返しか、一三は機密漏洩事件に巻き込まれ翌年辞職します。一三と岸の論争を聞いていると、どっちがどっちともいえません。私個人は自由経済が好きですが、岸の統制経済論にも一理はあります。なお岸の統制経済論の背景には軍部との提携があったことは事実です。一三は岸の論旨をアカ(左翼)の思想だと弾劾します。事実岸等の革新官僚には当時成功しつつ見えたソ連の計画経済は魅力的に写っていました。一三はこの間、東京宝塚劇場を建設し、また東宝映画や日本軽金属を設立します。戦後は幣原内閣の国務大臣になりますが、やがて公職を追放されます。(5年後解除)1956年新宿・梅田の両コマスタディアムを造ります。1957年、84歳で死去します。
 小林一三は非常な読書家でした。そして調査好きでした。食堂や料亭の料理の原価を聞くなどは朝飯前。ぶっきらぼうで不必要な挨拶よりは仕事に没頭しました。岸信介との初対面も同様で誇り高い岸を怒らせたと言われています。


大隈重信-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-30 13:39:30 | Weblog
(大隈重信)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

この章では福沢・渋沢両名の造った企業と企業人の生涯を10名に渡り叙述しもって明治大正年間の経済活動の推移を考えてみます。福沢が中心になります。渋沢の活動は茫漠として掴み切れません。彼が関係していない企業はないと言われます。また彼のような、民間と官界、民間と民間を取り持ち資金情報人脈に渡って企業を援助仲介斡旋する人物を財界周旋人と言いますが、この仕事は郷誠之助や井上準一郎に引き継がれます。このような仕事は裏仕事で実態は確実には判明しません。従って渋沢関係では山辺武夫と高峰譲吉の二人のみを取り上げます。またここで断らなければならない事は、本来第29章「西郷隆盛」が先なのですが、パソコンの都合でこの章は修理中なので最終章である「福沢諭吉と渋沢栄一」を先行して記載します。最後に日本経済史の紅一点(ほんとは二点ですが)津田梅子の伝記で締めくくりたいと思います。
大隈重信は1838年(天保9年)に肥前佐賀に、鍋島藩砲術指南大隈信保の長男として産まれています。父親の禄は400石ですから、堂々とした上士の階層に属します。幼名は八太郎、小さい時は母親が心配するほど、おとなしい泣虫の子でしたが、長じるに従い腕白坊主になります。13歳時、父死去。藩校の弘道館に入ります。学制改革を企て、義祭同盟を結成します。蘭学を志し、長崎遊学。ここでオランダ人フルベッキからオランダ語とともに、英語も教授されます。佐賀に帰り、進言した藩営国際貿易の意見が入れられ、貿易方を担当し、長崎や大阪に商会を作ります。軍制改革も企てました。また副島種臣とともに、脱藩して徳川慶喜に大政返上を具申します。もっとも意見を聞いてくれたのは幕臣の一人でしたが。藩からは謹慎閉門を仰せ付けられます。この時副島も江藤新平も大木喬任も処罰されています。奇しき偶然でしょうか、この四人はすべて明治政府の閣僚になっています。
 明治維新になります。徴士になり、外国事務判事に任命されます。徴士とは、各藩がまだ人材の整わない政府が、各藩から人材を引き抜いて勤務させる制度です。新政府官僚のはしりです。
当時キリスト教徒の処分問題で、政府は外国特にイギリスともめていました。維新になっても日本は未だキリスト教は禁止だったのです。大隈は、日の出の勢いにあったイギリスの公使、傲慢で辣腕のパ-クスとやりあいます。単に宗教問題だけでなく、政府は外債返済の問題も抱えていました。1870年大蔵大輔に任命されます。財政担当者として最大の問題は幣制統一でした。幕末維新の動乱期、幕府も諸藩も新政府も金が要ります。諸藩の債務、諸藩が作った贋金、品質の悪い金銀貨、そして政府発行の太政官札などなど、が入り乱れます。明治政府は銀貨を正貨としましたが、このような乱雑な貨幣制度ではまともな経済政策は営めません。外国からは債務返還を催促されますし、贋金や劣悪な硬貨の正貨への引き換えも要求されます。放っておいたらどこかの土地を取られかねません。
(維新政府は政権をとりましたが、お金がありません。そこで由利公正の提案で太政官札を発行します。政府が出した紙幣です。信用がないので銀貨の半分以下の価値でしか通用しません。)
 明治維新の初期3年間の混乱を収拾するためには、より強い政権が必要です。維新回天に功績のあった、薩長二藩が主軸となり、それに土佐と肥前佐賀を加えて、各藩有力者を出し合い、政府を作ります、これを有司専制といいますが、実際は薩長連合政権であり西郷木戸連立政権といえるものでした。この体制下で、廃藩置県、地租改正、そして秩禄処分が断行されます。こういう情勢下で大隈は若干33歳で明治政府の財政責任者になりました。
 大隈はまず政府債務の整理から始めます。債務総額は、内債が3485万円、外債が280万円です。当時明治5年の政府総収入は2214万円でした。この内債の内、
 1843年(天保14年)以前の藩債は返済せず
 1844年から1867年(明治元年)までの債権は無利子50年年賦で返済
 1868年から1873年(明治5年)の債権は4分利3ヵ年据置25年年賦で返済する事になります。この内まともな返済は第3の条項だけです。無利子50年年賦などは、実際上返済しない、といっているようなものです。鴻池などはこれでひどい目にあっています。まあありてい言えば、事実上の借金踏み倒しです。反対に外債は、あくどい条件のものを除外して、85%は返済されています。
 次が財政健全化、幣制の整理です。その前に。政府の収入と支出の構造を変えなければなりません。まず秩禄処分です。旧幕時代、幕臣藩士は主君から米で給料をもらっていました。その分も明治政府は廃藩置県で背負い込みます。武士への給付のみで1700万円、政府の年間収入の35%を占めます。政府は支払いを債権化します。各石高に応じて金録公債を発行し、その利子だけ士族に支払うようにします。もちろん一定の期間だけですが。こうして士族は一種の年金生活者になりました。しかし実際の給付は本来の録米の価値に比べたら、小さく、給付は1/5以下になりました。秩禄処分とは武士のリストラです。士族は困窮しましたが、従来言われているような程度ではなかったようです。各自なんとか生計の道を見つけます。膨大な軍隊のリストラがかくもスム-スに行ったのは世界史上の奇跡ではあります。
 (随所に円が出てきます。円と両の関係は次の通りです。維新時、一両を一円に改名しました。ただそれだけです)
 出る方を削減したら、入る方を増加させねばなりません。地租改正を行います。旧幕時代は各田畑の収穫に応じて、米(厳密には石代納で金納に近い)で年貢を徴収していました。明治政府は、土地に値段をつけ、地券を発行します。その値段の3%を地租として徴収します。総収入は4400万円にのぼり、旧幕時代の徴収額の倍近くになりました。増税です。農民は怒り一揆になり、地租は2.5%に減らされます(この数字は新しい研究では異なり実際は減税になているようです)。
 金録公債、地券ともに単なる財政政策を超えた意義を持ちます。武士の給付も農地も債権化されました。つまりいつでも貨幣としてあるいはその代理として交換可能、蓄積可能なものになります。地租改正と共に田畑売買は自由になりました。田畑が自由売買になると、農業経営に熱心な農民が土地を買って集積し、大規模な経営を行うようになります。日本で始めて厳密な意味での地主が誕生します。事実彼らは当時のインフレの波に乗り、高価格の農産物を売って富裕になります。金録公債も地券もそのまま銀行資本になります。これらを担保にすればいいわけですから。特に旧大名家の公債を資本(1782万円)にしてできた第十五銀行は有名です。前田、島津、徳川、毛利、黒田、山内、池田など名が前がづらりと並んでいます。こうして資本主義的生産は加速されます。また財貨の債権化と銀行の発展は、政府による徴税を容易にまた公正なものにします。いざとなると銀行口座を調べればいいのですから。
 廃藩置県、秩禄処分、地租改正は明治政府の三大事業です。財政の基礎はこうして整います。これらの事業を大隈重信が一人でやったというのではありません。しかしこれらの事業が行われた明治4年から10年にかけての間、財政の主務者としてさらには参議筆頭として、大隈重信が政治を了導した事は事実です。
 明治6年征韓論による政変が起こります。大隈は財政の立場から征韓論に反対します。明治7年台湾征討、これは実行されます。この時の経費が直接の軍事費だけで350万円、関連経費を合わせると700万円になりました。
明治9年西南戦争。2700万円の太政官札を発行し、さらに1500万円の借金を政府は負います。当然インフレになります。インフレになると、輸入が増え、輸出が減ります。大隈財政に非難の声が上げられます。ここで大隈と租税頭(税務の主務者)である松方正義が対立します。大隈の意見は正貨が足りないのだから、輸入を抑えて輸出を増やせばいい、と言う考えです。これはこれで正しいのでしょうが、成果が上がるためには時間がかかります。輸入したいものはたんとありますが、輸出の増加はおいそれとは行きません。松方は流通貨幣量が多すぎると主張します。最も正当な対策は、流通から貨幣(正貨以外の)を引き上げる事です。大隈は正貨不足を補うために1500万円分の外資導入を提案します。この財政問題に、国会開設に関する意見の相違、北海道官物払い下げ不正事件などが絡み、明治14年大隈は参議を辞任させられます。44歳の時でした。伊藤、井上、松方など薩長藩閥政府から追い出されます。以後松方財政の時代になります。
大隈は福沢と極めて親しい関係にありました。議院早期開催(つまり民権主義)で意見が一致し、福沢門下慶應義塾卒の人材が官庁にたくさん採用されていました。この章で後に述べる中上川彦次郎などが代表です。彼らは手足として政権内部で活動し、大隈辞任とともに下野し、政党活動に従事しています。大隈は岩崎弥太郎の三菱とも近い関係にあり、慶応義塾卒の者は三菱に多く採用されたいます。岩崎の三菱汽船に対抗したのが渋沢率いる共同運輸ですが、大隈の辞任は三菱汽船に不利に働きました。1885年に三菱共同は合併し日本郵船ができます。
 野に下った大隈は翌年の1882年、45歳時、改進党を作ります。憲法制定と国会開設が日程に上った事を踏まえて、政府外から政治に影響を行使しようと思います。改進党はすでにできていた板垣退助の自由党に対抗し、イギリスの立憲政治をモデルにし、都市の中産階級を地盤にしようとしました。参集した主な者は、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、小野梓、林有造、大江卓、竹内綱、高田早苗、沼間守一、河野敏鎌、前島密、というところです。
同年、東京専門学校、現在の早稲田大学を開設します。学問の独立は一国の独立、が大隈の看板でした。
1887年伯爵。1888年山県内閣の外務大臣になります。前職の井上馨の鹿鳴館外交の評判が悪く、条約改正の一項に、外人判事の採用というのがあり、不評散々で、井上が大隈を後任に推した、という事です。大隈もやはり、外人判事の一項が仇になり、暴漢に爆弾襲撃されて重傷を負い、辞任します。
1889年憲法制定、そして第一回衆議院選挙。1896年松方内閣外相。1896年、第5回衆議院選挙で自由党は100名、進歩党(改進党の改名)は95名で民党の圧勝になり、第一次大隈内閣が成立します。議院内閣制の濫觴です。大隈は総理兼外務大臣、板垣は内務大臣副総理格、大隈の進歩党と板垣の自由党の連立政権、世に言う隈板(わいばん)内閣です。内閣成立前に、二党は解散し合同して憲政党を作っていました。連立政権はうまくゆかず、やがて内閣は倒れます。憲政党も分裂します。
1914年、第二次大隈内閣成立。山本権兵衛内閣がジ-メンス事件で倒れた後、元老井上馨の推挙でした。その時大隈は77歳でした。対中国21か条要求が行われたのはこの内閣の時でした。
大隈の二回にわたる組閣を見ていますと、主流派が危機に陥った時、救援に借り出され、利用されたような印象を受けます。
1916年侯爵、1922年(大正11年)死去、享年は85歳でした。
大隈重信と言う人は、楽天的で気宇壮大、いささか放言壁、ほら吹きの傾向のある人です。逆に将来を見通す力には鋭いものがあります。エネルギ-に満ちた人ですが、今こうして振り返れば、彼の最も活躍できたのは明治維新から14年の政変まで。31歳で外国事務局判事に任命されてから、44歳で筆頭参議の座を追われるまでの14年間でしょう。財政の専門家というのはなかなかいないものです。明治の財政は、少なくとも30年までは、由利公正、大隈重信、松方正義の3人がリレ-で切り回していたようなものです。そして優秀な財政家で政治家として成功した人もいません。松方正義も高橋是清も政治家としてはもう一つでした。
明治初期の10年間、財政が危機に瀕した時、どうするかといえば、答えは決まっているようです。手法は現在でも変わらないでしょう。債務は切り捨てます、増収(増税)を計ります、そして後はリストラです。明治政府が内債を処理し、地租を改正し、士族の録を事実上取り上げたのを見て、私はそう思います。大胆にして、あまり複雑に考えない方がいいのでしょう。

(付)面白い事に気づかされます。私は日本の経済発展に寄与した重要人物は大隈重信、高橋是清と石橋湛山の三人だと思いますが、正統派特に日銀・財務省出身のエコノミストはこの三人の功績を無視貶価する傾向があります。三人の業績に共通するのは積極拡大財政で、正統派(古典派)経済学では異端とみなされるからでしょう。

台湾は中国の侵攻に備えよ

2020-03-29 18:43:16 | Weblog
 台湾は中国の侵攻に備えよ

 武漢肺炎が蔓延している。幸い台湾は蔡総統の英断に依り災禍は世界中で一番少ない。いいことだ。ただ一言忠告しておく。中国の侵攻には今が一番良い時であることだ。米軍の内部にもコロナ感染者が出た。西側各国はコロナ対策で精一杯だ。中国の侵攻には最適の時期だ。共産主義政府を甘く見てはならない。私も台湾には知り合いがいるので、台湾の運命に無関心ではいられない。杞憂かもしれないが、昭和25年(?)の朝鮮戦争勃発の記憶のある私としてはあえて注意しておく。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

消費税撤廃・中止について

2020-03-29 18:23:10 | Weblog
 消費税撤廃・中止について

 昨日の共同通信の調査に依れば、今回の武漢肺炎の災禍への対策として一番望まれる事項が「消費税撤廃・中止」であり、45%の人がそれを望んでいるとあった。こういう調査では2-3割の人は回答保留であるから、調査結果はほぼ70%以上の人が「消費税撤廃・中止」を望んでいることになる。「消費税撤廃・中止」は既に圧倒的な世論になっている。
 対して安倍・麻生氏は「消費税撤廃・中止」には極めて消極的である。彼らは世論を無視するのか。コロナ対策自身としても「消費税撤廃・中止」は有効である。民衆の熱望が実現するのだから。外出は控えよという上からの要望(当然世間は暗くなる)に対して、桎梏でしかない「消費税」の中止は明るいニュ-スになろう。
 安倍・麻生氏は社会福祉の財源として消費税は必要だと言う。この議論には納得できないが、仮にそうだとしても、武漢肺炎の蔓延により不況が甚大になれば、社会は崩壊し、社会福祉政策すら実行できない三流国に日本はなってしまうだろう。そうなった時安倍・麻生氏は国民にどう申訳するのか。フランスのマクロン大統領は武漢肺炎対策を戦争だと言った。そういう気概が安倍・麻生氏からは感ぜられない。
 それにつけても政府の対策の鈍さにはイライラさせられる。51兆円の投下とは言え、その大部分は金融の利子を下げるとかの間接的方法で効果は鈍い。いわゆる真水と言われる直接の対策はたかだか15兆円である。アメリカが200兆円の直接の投資をしたのと見比べると規模の大小に驚かされる。
 こういう災禍(1世紀に一つあるかないかという災禍)に対しては思い切った大胆な政策の迅速な実行が要望される。それで国民を安心させねばならない。自民党内の意見らしいが、空振りは許されうるが、見送り三振は許されない、という。まさにその通りだ。政策実行は拙速でいいのだ。いちいち専門家の意見など詳しく聴いている暇はない。安倍総理はことコロナ対策に関しては独裁的に振る舞えばいいのだ。コロナ対策に失敗すれば恐慌は必至だ。昭和初年の井上財政の二の舞になる。そうなれば安倍・麻生氏は日本を破滅させた人物として永遠に記憶されるぞ。

 「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


  経済人列伝  鈴木文治(一部付加)

2020-03-29 15:27:18 | Weblog
経済人列伝 鈴木文治(一部付加)

経済行為は生産と分配(消費)から成り立ちます。前者の主役が企業なら、後者の主役が被雇用者です。この被雇用者は事務職員層と現業層に分かれますが、後者のかなりの部分を組織しているのが労働組合です。最も被雇用者の半分以上はこの労組の枠外に留まっています。しかし賃金を決める際に労組の存在は無視できません。ちなみに企業の粗利益の約80%が賃金です。従って労働組合が経済活動に果たす役割は決して小さくはありません。ですから資本主義勃興の当初は、どの資本家も労働組合活動を嫌いました。どの国でも労組が簡単にできた、あるいはその存在が許されたという事はありません。(注)

(注)資本制生産の初期にはおいては、資本も小さく、技術も単純です。だから資本家はまず資本の蓄積に努めます。単純労働に近いのですから代わりはいくらでもあり、経営者は労働者を育てようという考えはもちません。いわばぎちぎちでやっているのですから、有効需要というような考えは出てきません。この発想はケインズ以前にあることはあったのですが。 

鈴木文治は日本で始めて労働組合を組織した人です。(注)文治は明治18年に宮城県金成村上町で生誕しています。この町は平安時代後半に栄えた奥州藤原氏の本拠地平泉に近く、また義経伝説で有名な金売吉次の生まれた所とも言われています。文治の父は酒造業者ですから、地方の名士でした。文治はよほど頭が良かったらしく、小学校は飛び級で中学に進学します。中学時代吉野作造の民本思想に感化され、自由民権運動の河野広中の影響も受けています。この間10歳の時、父子そろってキリスト教に入信します。
山口高校に進学します。宮城県仙台藩は賊軍、山口県長州は官軍ですから、文治はわざわざ敵地に乗り込んだようなものです。何か期するところがあったのでしょうか?ここで栄養失調になります。1日2食で過ごしたと言います。見かねた教授の家に住み込み、ともかく経済問題は解決します。兄弟が10人近くいたと言いますから、実家も彼に十分な仕送りをする事はできなかったのでしょう。当時としては中学に進学する事だけでも大変な贅沢でした。(注)1村から1人くらいの中学校進学率でした。山口高校時代本間俊平に出会い、救貧事業に強い関心を持ちます。
(注)労働組合という限定ではなく社会主義と広く取れば、友愛会以前にも色々の団体があります。特に著明なのは平民新聞・平民社です。この団体は、堺利彦、幸徳秋水、川上清、石川三四郎らにより設立されました。(明治36年)他に安部磯雄、木下尚江、斉藤緑雨、中里介山、片山潜などが外部か支援しています。内村鑑三も最初はこの団体に関係していました。日露戦争に反対して弾圧されます。幸徳秋水は大逆事件で処刑されます。堺利彦や片山潜はマルクス主義に走ります。こうして平民社は壊滅します。

(注)当時は、小学校6年、中学校5年、高校3年、大学3年、の制度でした。

東京大学法学部政治学科に進みます。ここで桑田熊蔵教授の授業に惹かれます。主として工場法、労働組合、労働保険などに関心を持ち、学びます。すでに将来の方向が見えてきているようです。桑田熊蔵は文治の終生の師になり、後年の彼の活動に際してブレインの一人になります。卒業して大日本印刷に勤務しますが数ヶ月で辞職し、東京朝日新聞の社会部記者になり(25歳)、主として貧民街を探訪して記事を書いていました。当時の大卒者には出世昇進が約束されていました。どちらの会社に留まっても文治の将来は前途洋洋たるものでした。
27歳、文治は新聞社を辞め、統一基督教弘道会に幹事として就職します。この教会はユニテリアン派の協会で合理的な信仰を勧めていました。ここで文治は労働者講和会を主催します。同年大正1年(1912年)に文治は友愛会を結成します。最初の会員は14人でした。活動ははじめのうちは、法律相談、労働者の貯金支援、医療給付、友愛新報発行など、どちらかというと慈善事業的なものでしたが、時代の影響を受けて組織は急速に成長します。
鈴木文治の行動や施策は、二つの立場から成り立ちます。一つが労働者人格論です。当時労働者は人格を無視されていたそうです。私は必ずしもそうだと言えないとは思いますが、かなりの身分差別があり、加えてその地位は不安定でした。だから文治は、集会結社の自由、労働者保護立法、最低賃金法の成立などを目標にしました。もう一つの立場が、産業上の立憲政治、です。ここからは普通選挙の要求がでてきます。労働組合活動を民主主義の線で遂行しようとする路線です。この考え方を社会民主主義と言いますが、世界の労働運動の大勢はこういうところです。つまり民主主義の枠内で行動し、賃上げなどで生活を改良して行こうという路線です。後にロシア革命(1917年)の影響を受け、日本の労働運動にもマルクス主義の影響が強まり、運動家の一部は過激になり、文治達主流派の穏健路線と対立し、労働組合もその上に立った政党活動も分裂に分裂を重ねます。
大正年間には労働争議が激増します。いろいろ理由が考えられます。大正デモクラシ-の名に現される民主主義思想、特に普通選挙権獲得運動の進展、ロシア革命の影響などがあります。私はむしろ日本の資本主義の発展がその背景にあるのではないかと考えています。日露戦争後日本は第二次産業革命に突入し重化学工業が発展します。つまり日本の資本主義が重厚で巨大になったという事です。当然労働者の数も激増します。資本主義が発展するためには、労働者を大事にしなければなりません。労使の当事者にそういう自覚があったかどうかは知りませんが、資本主義の発展事態が、労働者の権利意識を高め、争議を頻発させた、事には疑いありません。こういう事情を背景として友愛会は発展します。会員の数は増加の一途をたどります。工場の争議においても経営者はその仲介を友愛会に不承不承ながら頼まねばならない事態が出現します。
政府も資本もそれなりに労働組合運動に接近します。かくして大正4年、文治は渋沢栄一達と労働使節として渡米することになります。彼はここでアメリカの労働運動の実際に触れます。
大正6年、日本製鋼室蘭製作所で争議が持ち上がります。文治は友愛会を代表して、争議に介入します。争議に勝つことは勝ちましたが、友愛会のメンバ-は指名解雇されます。
大正7年(1918年)ウェルサイユ講和会議に非公式政府代表として国際労働法制委員会に出席します。この委員会でILO(国際労働組合機関)が取り扱った内容は以下の通りです。
最低賃金制 8時間労働と日曜休日 児童労働の禁止 男女平等賃金 
婦人労働監督官の設置 労働組合活動の自由
大正7年床次内閣の時、(労使)協調会ができます。文治はここで渋沢栄一と折衝を重ねますが、暫くの間は意見が相違したままになります。
大正10年、川崎・三菱両造船所でストライキが持ち上がります。友愛会は積極的に介入し支援しますが、運動は敗北に終わります。同年友愛会は日本労働総同盟と改称されます。この年はストライキの当たり年とでもいう年で、特に関西方面において争議は頻発しました。主な企業を列記すれば以下のようになります。東洋伸銅、大阪電灯、住友鉄鋼、川崎鉄鋼、田中機械製作所、藤田造船所、住友伸銅、住友電線、神戸製鋼、台湾製糖、ダンロップ、それに上記した、川崎三菱両造船所です。関東方面が穏やかであったとはいえません。この一覧を見ると、日本の重工業がストに総なめされている観があり、政府も資本も焦っただろうと思われます。だから警察のみならず軍隊も鎮圧に動員されました。しかし労働側の要求は、団体交渉権の確認、横断組合加入の自由、工場委員制の実施、程度です。要は労働組合活動を承認せよという事ですから、そう過激であったとは思えません。
大正14年、総同盟は左右に分裂します。
大正15年、総同盟を基盤に社会民衆党が設立されます。これは日本で最初の社会主義政党です。当時は無産政党と言われました。ほぼ同時に左派は労働農民党を結成します。後の路線をも参考にして言えば、社会大衆党は選挙などの合法活動を通じて、生活状態を改善してゆこうという考えです。鈴木文治はあくまでこの路線を歩みます。他方の労働農民党は、単純に言ってしまえば、そんな合法活動は生ぬるい、体制自体をひっくり返さなければ、何をしても無駄、という主張です。この考えの背後にはロシア革命とマルクス主義の影響があります。何事にも中道はあるもので、両党のあいだに日本労農党ができました。なお共産党は上記の労働農民党の中の一部が秘密裏に(地下で)形成した非合法組織です。
昭和3年、最初の普通選挙が施行されます。無産政党からは、社会民衆党4名、労働農民党1名、日本労農等党1名、他1名の合計7名が当選しました。
昭和7年、社会民衆党は社会大衆党と改称されます。
昭和11年、文治は東京6区から選挙に出馬し当選します。
昭和15年、総同盟は解散され、産業報国会に吸収されます。諸政党は大政翼賛会に統合されます。戦時体制への強権による合併です。
昭和20年、日本社会党設立。
昭和21年鈴木文治は死去します。


 参考文献
  評伝、鈴木文治、日本経済新聞社
  日本社会運動史、岩波書店

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


西郷隆盛と勝海舟-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-29 13:10:57 | Weblog
(西郷隆盛と勝海舟)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 勝海舟は1823年(文政6年)江戸本所亀沢町で幕臣の子供として生まれています。幼名は麟太郎、元服して義邦、佐久間象山の揮毫から号を海舟としました。父親の小吉は男谷家からの養子で小普請組つまり無役で、剣術が上手く顔役斡旋役として市井の人間でした。本家の男谷家も三代前は盲人で御家人の株を買って幕臣となったと伝えられます。海舟の幼少期には二つの逸話があります。一つは犬に噛まれて睾丸の一つを失ったこと、もう一つは12代将軍家斉の孫初之丞の遊び役に選ばれた事です。前者に関しては皮肉も言いたくなります。海舟は持てましたが妾は少なくとも3人はいます。加えて妻妾同居です。後者の件が長く続いていたら海舟は将来将軍側近になれたでしょう。もっとも彼の逸話は彼が70歳を超えたころ書かれた聞き書き「氷川清話」に基づくものが多く、記憶錯誤と誤解と当然のことですが自己中心的な話が多くなり、信用は完全ではありません。
 彼が若いころ励んだものは剣術と禅です。剣の師匠は島田虎之助で極めて実践的な剣術でした。勝の本家男谷家は剣術師範として幕府内では羽振りが良かったのですが、どういうわけか海舟は島田に師事しています。島田虎之助は昭和の大長編小説「大菩薩峠」に出てくるくらいですから、当時としても有名だったのでしょう。21歳免許を受けます。同時にこの頃23歳、永井青崖について蘭学を学び始めます。島田の勧めとも言われています。逸話があります。当時江戸で有名だった蘭学者箕作阮甫の所に行き師事しようとしたところ、箕作から「江戸者は短気で根気がないから蘭学学習はだめだ」と言われて断られ憤慨しています。蘭学修業中は貧乏でした。このころ結婚しています。有名な蘭和辞典「ズ-フハルマ」を買う金50両がなく、所持している某与力の所へ毎夜行き二冊ほど筆写しています。28歳赤坂で蘭学塾を開きます。塾経営は順調で、また時勢の加減で鉄砲設計の注文も多く、家計は豊かになって行きます。
 1853年(嘉永6年)ペリ-が浦賀に来航します。幕府は翌年永井尚志、岩瀬忠震、大久保忠寛(一翁)を目付・海防掛り任命します。その翌年海舟は下田取締掛手付(海防作業の実践者役)に任命され小十人組さらには大番組に編入されます。大久保や岩瀬の推挙です。同年長崎海軍伝習所行きを命じられ、長崎で軍艦操練航海の実践を学ぶべく命令されます。37歳、長崎での伝習を終えて帰府、軍艦操練所教授方頭取になります。1860年(万延元年)1月38歳、咸臨丸艦長として渡米、司令官は木村喜毅です。6月帰国、その間に井伊直弼が暗殺されています。激動の10年の始まりです。39歳講武所砲術師範、40歳軍艦操練所頭取、軍艦奉行、禄高1000石、任官して従6位安房守、1863年(文久3年)将軍家茂に直訴して神戸海軍操練所開設の許可をえます。翌年禁門の変で、この操練所は閉鎖され海舟は閑職に廻されます。この頃まで海舟は幕府軍事官僚として順調に人生を過ごしていたと思われます。
 転機は元治元年(1864年)3月の参与会議解体です。前年の暮れ参与会議が制定され、慶喜、春嶽、容堂、久光、伊達宗城の五人が朝廷から参与に任命され、元治元年1月初めての参与会議が開かれます。前記5名の有力諸侯が幕府に代わり政治を主宰すると言う趣向です。徳川も含めた雄藩連合・公武合体路線の実現です、厳密に言うと、実現するかに見えました。しかしこの措置を不満とした慶喜は3月この参与会議をぶち壊してしまいます。8月禁門の変、幕府有利かと見えました。海舟の神戸操練所の生徒たちの中にこの変に参加する過激浪士がかなりいて、この操練所は閉鎖されてしまいます。この事よりも参与会議解体は海舟の政治的意図と真反対になります。海舟は怒りました、幕府に絶望します。この年9月、ですから禁門の変のほぼ直後海舟は長州征討軍参謀西郷隆盛と面談します。まあそのころまで海舟は幕府の海軍を代表する存在でしたから、西郷も海舟の意見を聴きたかったのでしょう。ここで西郷は海舟から爆弾発言を承ります。簡潔に言うと、もう幕府はダメだ、と言うことです。幕府特にその中枢である老中連中は無能だ、腐敗仕切っていると言い切ります。現在の時点から振り返ってみて私はそうは思いませんが、海舟はそう言い、持論の雄藩連合(この場合は徳川氏抜きになるのでしょうか)を西郷に勧めます。西郷は幕府高官からそう聴いたのですから一驚します。しかし西郷はこの勝の言葉を別の角度から受け取ります。西郷も禁門の変での幕府勝利には危惧感をもっていました。幕府の再生強化を恐れていました。ここで西郷は幕府代表の一橋慶喜を警戒するように、また対立するようになります。そうなると薩摩としては当然、長州を延命させなければいけません。西郷は討征軍総督尾張藩主徳川慶勝に説き、結果として長州征討は無血穏便に、西郷の言葉で言えば、長人の事は長人で始末させる、ことになります。西郷は反長州から密かに反幕にまわります。
西郷が以後の長州の政治転回、つまり高杉晋作を中心とする過激派の政権奪取を読みきっていたかどうかは解りません。もし長州の政権がいわゆる俗論党に握られていたら西郷の戦略も祖語し変化したでしょう。私は、西郷は以後の進展を読んでいたと思います。そもそも西郷が禁門の変の総指揮官に任命されたのは、過激志士たちを他の人物では統御できないからでした。だから久光も大嫌いな西郷を配流先の島から呼び戻し、薩摩軍の総指揮官に任命したのです。西郷は非常時に、非常時のみに役立つ男かも知れません。乱世の雄です。勝海舟の言葉は西郷の胸中にあって複雑な変化発酵をして行きます。その果てが討幕です。海舟の一言は海舟の意を超えて展開してゆきます。海舟が西郷に会ったのはこの元治元年9月が初めてであり、次の会談は4年後の明治元年4月の江戸開城の時ですが、初回の会談で海舟は西郷に大きな影響を与えました。この会談にはもう一つ非常に大きなお土産がついています。海舟は神戸軍艦操練所で多くの子弟、それも浪士を多く含む、子弟を抱え教育していました。生徒総代は坂本竜馬です。海舟は西郷との会談で、坂本以下の浪士の面倒を西郷に頼みます。浪士連中は薩摩藩お抱えになります。この連中が海援隊を結成し、交易と軍事を相半ばさせて営み、犬猿の仲だった薩摩と長州の仲を取り持ち、薩長同眼の仲介をすることになります。まことに大きなお土産です。
 では勝海舟の政治的意図はどの辺にあるのでしょうか。彼は政治家ではありません。横井小楠や吉田松陰のような政論家でもありません。彼は極めて優秀な幕府軍事官僚です。彼は軍事官僚としての立場から発言しています。まず彼は徹底した開国派であり、また幕府の専権を嫌いました。特記するべきことは、彼が一国の独立の為には外国との一戦も覚悟していた事です。彼は幕府専制を否定する分雄藩連合公武合体派に属します。そこに海舟の限界があると言えましょう。彼が後歴史に登場するのはすべて敗戦処理です。第二次長州征討に失敗した慶喜の命を受けて行った長州との宮島会談、そして鳥羽伏見以後の江戸開城での西郷との会談が代表例です。海舟(だけではありませんが)のおかげで慶喜の首は繋がり、徳川家の家名は存続しました。明治6年の政変後海舟は海軍卿として大久保利通の政権に一時加わります。2年後辞職し以後は徳川家・旧幕臣と明治政府の間の連絡役に徹します。後慶喜の男児を勝家の養子に迎えています。40俵の貧乏御家人が将軍の子供を養子にするのですから、時代の変化とは恐ろしいものです。1899年(明治32年)77歳で死去します。自分が作った海軍が日清戦争で活躍するのを見て死んだことになります。


  中国に賠償を請求しよう

2020-03-28 16:31:29 | Weblog
中国に賠償を請求しよう
 武漢ヴィ-ルスの為に世界中の国々が甚大な被害を蒙っている。単純に言う。事実を隠蔽しパンデミック蔓延に至らしめた中国に賠償を要求しよう。米国ではすでにその動きが出ている。独裁国家では感染症の封印は比較的容易である。国民を抑えつけてしまえばいいのだから。民主主義国ではそうはいかない。中国発の武漢肺炎は目下西欧や米国という民主主義国で猛烈に広がっている。元凶の中国は、自らがコロナ対策の手本を示したとかで、世界中に感謝を要求している。盗人たけだけしいもいいところだ。災禍が一段落した時点で世界共同で中国に賠償を請求しよう。正直この私だって死ぬかもしれない。怖いが怖さを抑えているだけなのだ。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

  韓国、日本にスワップ希望 受け入れてやれ

2020-03-28 16:15:31 | Weblog
韓国、日本にスワップ希望  受け入れてやれ
 昨日の報道に依れば韓国の首相が、日本にスワップ(通貨共有)を申し入れてきた。5-6年前日韓関係の悪化(慰安婦問題など)で韓国が一方的にスワップを破棄した。韓国首相は、だから(韓国が一方的に破棄したから)日本の事情・要望に従うが、とあの国にしては珍しく謙虚な態度で希望している。日本としてはこの要望は受け入れるべきではないだろうか。韓国経済の地盤は浅い。外貨準備は少ない。その事実は「パラサイト」という韓国製の映画(?)の中で明らかにされている。現在コロナ事件でどこの国も金が要る。仮に韓国がデフォルトに陥ると日本のみならず世界経済が破綻連鎖におちいる可能性がある。私はそう思う。韓国のスワップ要請には日本は前向きになるべきだろう。慰安婦・徴用工の問題など不快な事実は山積みだが、現在は我慢しよう。ただスワップ交渉において、今までの事実はしっかり押さえさせておくべきだろう。不愉快な国だが、時が時だ。一国のデフォルトはまさしくパンデミックに波及しかねないのだから。こう書いてきてつくづく思う。日本人は甘いなと。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

  経済人列伝  鈴木馬左也(一部付加)

2020-03-28 15:38:28 | Weblog
経済人列伝  鈴木馬左也(一部付加)

 鈴木馬左也は1861年(文久1年)日向高鍋藩の家老の四男として生まれています。生家の姓は秋月、藩主の同族、分家でした。秋月家は代々家老職を世襲しています秋月家はもともとは筑前秋月の戦国大名でしたが、秀吉の対島津戦で島津と同盟し、秀吉に歯向かい、3万石で高鍋に移封され、維新におよんでいます。馬左也は9歳の時、同藩鈴木来助の養子にやられます。馬左也の兄弟はすべて優秀でした。長男弦太郎以下、長平、左都夫、馬左也4人の威徳を称えて、四哲の碑が高鍋に建てられています。実父種節は西南戦争で西郷軍に捕らえられ、獄死します。養父の来助は朝廷軍の一員として、奥州で幕軍と戦い戦死します。実父に養父それに実母も馬左也の子どもの頃にすべて死去しています。
 馬左也は藩校明倫堂を振り出しに、鹿児島医学校、宮崎県立宮崎学校、金沢啓明学校、東大予備門と進みます。これらの学歴の目的は英語習得でしょう。予備門から明治16年22歳、東大法科政治学科に入学し、27歳卒業、内務省に入ります。27歳高等文官試験合格、愛媛県書記官として赴任、県の主務会計官を勤め、転じて大阪府書記官さらに参事官になります。こういう来歴は住友との親睦を深めます。1896年(明治29年)住友本店副支配人として入社します。馬左也の住友入りを聞いた伯母は、町人なんかになりたくない、と言って泣いたそうです。官尊民卑の風潮でした。この間馬左也は参禅に打ち込みます。さらに剣道を山岡鉄太郎(無刀流)と榊原鍵吉(直新影流)に、柔道柔術を嘉納治五郎(講道館)と渋川伴五郎(渋川流)に習っています。想像するに彼の武術はやわなものではないようです。体格はいかにも柔剣道で鍛え上げた体という印象を与えます。
 1900年(明治33年)伊庭貞剛(列伝参照)が住友の総理事になり、馬左也も理事の一人になります。前年に馬左也は別子鉱業所(銅山)支配人になっています。住友財閥は別子銅山から発展したので、別子銅山の支配人は極めて重要な職務であり登竜門でした。明治37年44歳時、馬左也は住友の総理事になります。この間住友の家長は、徳大寺隆麿が養子に入り、住友吉左衛門友純と改名して、12代を継ぎます。また家法が改正され、家長の下に総理事と理事数名があり、その下に支配人副支配人が重役として連なるという機構になりました。経営の実権は総理事が握ります。ちなみに三井と住友では家長は経営の実権をすべて理事に任せます。三菱は戦後まで岩崎家の独裁でした。
 馬左也が別子銅山に赴任した同年明治32年、銅山は猛烈な風水害を蒙ります。この被疑も甚大でしたが、別子銅山にはもっと大きな、住友の命取りになりかねない問題がありました。煙害です。採掘した銅鉱石を精錬して銅にする過程で、大量の煙がでます。単純な煙ではありません。硫黄や窒素を含む煙です。遠方の田畑にまで及び、農産物の成長が阻害されます。明治21年住友は銅の産出額を大幅に上げるために、新しく山根製錬所を作りました。ここから出る煙が問題でした。総理事伊庭は山根精錬所を閉鎖し、海の沖にある無人島を利用して、そこに新しい精錬所を作ります。四つの小島は総じて四阪島と名づけられました。これなら地上か離れているので大丈夫だろうという読みははずれ、風のかげんでより遠くに煙は飛びます。明治42年被害者の農民と住友は尾道で会談しましたが、相互の言分が食い違い、決裂します。翌43年話し合いがもたれます。最初住友は被害総額を2万円程度と見積もり、農民側は70万円以上と言います。結局住友は43年度に239000円、以後毎年77000円を被害者に支払うことになります。銅産出額は5500万貫に抑えられます。被害の程度により賠償額は増減されます。住友にはこの額は大きな負担になりました。1939年(昭和14年)に希薄ガスを回収してアンモニアで中和する方法が確立して、やっとこの争いと負担はやみます。住友は煙害の賠償に総額850万円使いました。
 煙害対策と併行し、いやだからこそ銅山は近代化しなければなりません。まず三つの大きな通洞を掘り、地下の坑道の連絡をよくし、運搬、排水、通風、採掘をスピ-ド化します。飯場制度改革を行います。飯場の世話料をボスが各坑夫から取っていたのを改め、会社が負担することにします。実質減額、そして飯場の支配権を失ったボス達の指導下に、明治40年一大暴動が起きます。住友は危機を感じ、善通寺師団長に軍隊派遣を要請します。一私的団体の要請で軍隊は動かせません。師団長の配慮で一個中退(約300名)を演習の名目で派遣し、示威します。これで暴動はおさまりました。
 ローラベアリング、蓄電池電車、エンドレスロ-プも使用します。四阪島に電車を走らせ、各工場間の連絡を整備します。島で火力発電をすれば機械に影響があるので、別子の近くに水力発電所を設け、海底送電施設(ケ-ブル)を敷設します。採掘が進むに従い、鉱石の銅含有がへるので、不良鉱石から銅を能率よく取るために浮遊選鉱を行います。
 住友精神という家訓があります。第一は、浮利を追わず、です。浮ついた利益を追求しない、具体的には株売買等の投機行為をしないことです。有名なジ-メンス事件で住友関係者から一人も容疑者を出しませんでした。これも住友あるいは馬左也の自慢の種です。以下に述べるように住友の事業はすべて銅山関係から派生しています。ですからその事業はどうしても製造業が多くなります。また商事会社設立に関して馬左也は一部の声を抑えて、商事会社設立に反対しています。住友商事は戦後にできた会社です。三井、三菱、住友、安田の四大財閥中で、安田は金融中心、三井は三井物産主導のために工業化が遅れました。三菱も海運から出発したために、商業工業半々です。その点では住友は異色でしょう。別子銅山から、銅の加工、肥料製造、発電所建設、機械製造などと進みます。その点では住友の経営は遠大といえましょう。
 第二が、自利利他公私一如、です。浮利を追わず、ですから、この傾向は否定できないでしょう。もっとも馬左也は、しかし自社の利益も忘れてはいけないと、釘をさしています。他にもありあますが、ありふれているので省きます。
 馬左也は、事業は人なり、と言いました。これは成功する企業ではあたりまえのことです。が、馬左也は新入社員を寧静寮という寮にいれ、住居を提供するだけでなく、精神の訓育も計りました。ささらに、茶ロウ山道場を開き、高名な禅僧を招いて、社員に参禅させ精神の高揚と浄化を試みます。
 1921年(大正10年)、住友は合資会社になります。社長の住友友純以下、馬左也他理事3名が無限責任社員になります。持株会社です。1937年(昭和12年)株式会社住友本社と改名します。
 別子銅山から多くの企業が派生的に出現しました。まず林業が独立します。林業課から林業所になります。銅山では燃料としてまた坑木として多くの樹木を必要とします。別子付近から始まって、宮崎県や北海道そして朝鮮半島にまで植林を行いました。総面積は142000町歩、内92000町歩は朝鮮半島における開発です。現在の住友林業です。
 銅の選鉱や精錬の過程で大量の硫酸がでます。これを処理するために、課リン酸石灰を作り肥料にします。肥料製造所がつくられました。発展して現在の住友化学にいたっています。三井、三菱、三共製薬と組んで、ドイツのハ-バ-法を導入し、硫安製造を行おうと試みますが、パテント料が莫大で、退却しています。
 他の鉱山としては忠隈炭鉱と鴻之舞金山があります。後者は当時日本一の産金量を誇っています。
 銅塊からそれを棒状塊にしてそこから色々な銅製品を作る作業を伸銅といいます。住友伸銅所が作られます。銅・真鍮の引板管を製造します。日本製鋼所を買収して住友製鋼所を作ります。継目なしの鋼管を作成します。海軍の発注でしたが、ジ-メンス事件で予定が狂います。鉄道の方に需要を見出しました。住友伸銅と住友製鋼は合併し、現在の住友金属になりました。
 銅塊から最初は細工物用の細線が作られていました。電気の普及とともに、電線製造に進出します。さらに高圧電気送電用のケ-ブルも作成しました。これが四阪島への海底ケーブルに使われます。関東大震災時、電線の値段は上がりましたが、住友は価格据え置きにしています。この事業は現在の住友電工に統合されます。
 銀行は明治45年に住友家の個人資産ではなくなり、株式会社になります。倉庫業も日本全体の海運が発展するのに併行して発展します。住友の倉庫増大には大阪築港が大きな前提になります。大正5年大阪港の南部に第一号繋船岸が住友の資金でできました。後に大阪市が経費を返還しています。事業は発展して住友倉庫になります。住友が立て替えたことになります。電力は別子銅山経営合理化の基礎として同地に作られた発電所が起源です。あちこちに発電所ができましたが、最終的には住友の電力事業は、土佐吉野川水力発電所に、さらに住友共同電力KKに統合されます。工作機械製作は住友の諸事業に必要な機械類製造から発展します。明治45年に10000Vの端出場水力発電所を建設しています。住友機械工業KK、そして住友重機械工業KKという会社ができました。他に日本板硝子などがあります。財閥として珍しいことに商事会社はありません。
 馬左也が総理事だったときに住友が行った社会事業としては、大阪府立図書館設立、懐徳堂復興、職工養成所立上、大阪住友病院設立、報徳会設立及び普及、がありまた良書を数点刊行しています。「国民高等学校と農民文明(ホルマン)」、弘道館述義小解、臨済録正本などがあります。懐徳堂は町人の町大阪で唯一の儒学講習所、弘道館述義は幕末の思想家藤田東湖の名著です。わざわざ職工養成所なる名前にしたのは、馬左也の強い意向です。彼は、当時の学校が知識のための知識の提供しかせず、現実の要請に対応できていない、と批判していました。ですから学校とせず養成所としました。すぐに役に立つ人材を作ろうというわけです。
 1922年(大正11年)3月脳溢血で病臥、総理事を引退、12月死去、享年62歳でした。明治29年36歳から大正11年62歳まで26年間馬左也は住友に務めました。維新以後の住友は広瀬宰平、伊庭貞剛、そして鈴木馬左也の三人のリレ-で近代化をなしとげます。三人が主軸とした産業は別子銅山でした。これを起点にして多くの産業を輩出させ、住友は工業財閥の性格を強く持しつつ成長します。

  参考文献  鈴木馬左也  鈴木馬左也翁伝記編集会

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行