経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

イギリス史点描 ヘンリ-2世

2009-02-25 00:10:21 | Weblog
 「天皇制の擁護 第九章 アングロ・サクソンの政治」解説(2)

   イギリス史点描 ヘンリ-2世

 イギリスは1066年のノルマン征服以後現在に至る934年の間に9つの王朝が交代し、41人の王が即位します。ヘンリ-2世は初代のウィリアム1世の外曾孫であり5人目の英国王です。イギリス史を代表する王としてはこの二人の他、チュ-ダ-朝のヘンリ-8世とエリザベス1世、そしてオレンジ朝のウィリアム3世が有名です。そして多分ここで取り上げるヘンリ-2世が一番知名度が低いでしょう。少なくとも日本では。

 ノルマン朝は2世代目で行きづまります。ウィリアム1世の死後3人の王が交代し、内戦を重ねます。ウィリアム1世の孫娘であるマチルダはすでに神聖ロ-マ皇帝ハインリッヒ5世との結婚暦がありました。彼女は前夫の皇帝と別れた後、フランスの大貴族アンジュ-伯プランタジネット家のジョフロアと結婚します。二人の間にできたのが、ヘンリ-2世です。英国の内戦は次第にマチルダとその子ヘンリ-の方に有利に展開し、ヘンリ-は1154年即位します。この王統はそれ以前のものとは男系において断絶しているので、異なる名称の王朝になります。アンジュ-朝あるいはプランタジネット朝と言われます。こうして国王であり同時にフランス王の家臣であるという二重の性格を持つイギリス王家が誕生しました。

さらにヘンリ-2世は、フランス王ルイ7世と別れた、アキテ-ヌ公領の相続者エレアノ-ルと結婚します。アキテ-ヌはガロンヌ川流域一帯を指す西南フランスです。現在はボルド-が中心です。これにアンジュ-伯領が加わりますと、当時のフランス王国の版図の半分を超える領域が英国王ヘンリ-2世の相続するところとなりました。これがブリテン島とフランスに広大な領土を持つ英国王領地です。さらにヘンリ-とエレアノ-ルの間にできたリチャ-ド1世やジョン王は母系を介してフランス王家に繋がります。200年後フランスのカペ-朝が断絶した時、英国王はフランス王位の相続を主張します。こうして英仏の100年戦争が始まりました。この戦争が1453年に終結したとき、初めて民族国家としてのイギリスとフランスが誕生したといわれます。

エレアノ-ルとヘンリ-は恋愛で結ばれたようです。夫であるフランス王(年下)に飽き足らないエレアノ-ルが精悍でたくましく男の臭いのぷんぷんするヘンリ-にぞっこんだったともいわれています。こうしてエレアノ-ルは英仏両国の王達を産みました。
 
ヘンリ-2世は単に相続において幸運であったというわけではありません。ノルマン征服後暫くして内戦になります。ウィリアム1世が出来なかった、王国の法整備は彼の元でなされます。国王直属の傭兵部隊の編成、行政長官職や財務府の設立、自由農民の保護と領主裁判権の制限、陪審制と巡回裁判、などなどイギリス統治の土台は彼の時に整いました。

権力者の一生が栄光に満ちたまま終わるという事はまずありません。歓楽極まって哀情多し、が実態です。ヘンリ-の場合も同様です。彼の熱愛する王妃エレアノ-ルは、ヘンリ-がロザムンドという若い女性を愛した事を知り、彼の元を去ります。彼の息子達(リチャ-ドやジョン)も彼に反逆します。エレアノ-ルは当時の吟遊詩人が最高のモデルと仰ぎ、理想視した女性でした。同時に熱情的、換言すれば淫蕩な傾向も充分ありました。400年後シェイクスピアは彼女を「流血の闘争に向かわしめた災厄の女神」と表現しています。
 
ヘンリ-2世に関する逸話を二つ。まず笑い話から。王が狩猟か巡察の帰路、修道士達が泣きながら司教の横暴を訴えます。従来13皿だった昼食から3皿減らせと、司教は言ったので、この横暴な司教を罰して欲しい、という訴えでした。聞いたヘンリ-は、彼はもともと切れやすい人でしたが、大声で修道士をののしり、3皿の昼食を命じました。王の善政というより、当時の僧院の堕落の一端が見えてきます。

 もう一つ、これは有名なお話です。ヘンリ-2世にはトマス・ベケットという腹心がいました。ベケットとヘンリ-のコンビで政治が動いていたようなものでした。宗教上の改革をするために、ヘンリ-はこの腹心をカンタベリ-大司教に送り込みます。この職は英国キリスト教会の指導的役職です。ベケットは断ります。彼は言います、「反対側の立場になると私はどうしてもその立場で行動してしまいます それが私の性格です 王のおためになりません」と。事態はそのとおりになり、有能なベケットの行為はヘンリ-2世の政策をことごとく阻んでしまいます。1170年王の刺客である4人の騎士はカンタベリ-司教座聖堂のまっただ中でベケットを暗殺します。ベッケトは烈聖されます。ヘンリ-2世にとっては公私ともどもにわたる打撃になります。

 前回の「イギリスという国の成り立ち」への追加になりますが、英国と日本はユ-ラシア大陸をはさんで東西の似た位置にありながら、こと他民族との関係になると、全く異なった体験をしています。日本は他民族からの侵略をほとんど経験せずに国家を形成しました。英国の歴史は征服・被征服の連続です。女に例えればこちらはうぶな処女、あちらは男を知り尽くした大年増です。

 それでいて両者の歴史は結構似ます。ウィリアム1世がイングランドを征服した当時、日本は第71代後三条天皇の治世です。前者はドウ-ムズデイ・ブックという検地台帳を作ってイングランド統治の基礎を作りました。後者は摂関政治を支えていた荘園を整理し、後の院政の基礎を作った方です。ウィリアム1世・ヘンリ-2世でもってイギリス王制の土台が築かれ王権が強化されます。後三条上皇・白河法皇の治世に院政という、より強力で独裁的な政権ができます。そしてほぼ同じ時期に在地領主の反抗が始まります。1220年前後あちらではマグナ・カルタがこちらでは貞永式目が成立します。後は本文を読んで下さい。


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