経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本産業のデジタル化に思う

2020-07-31 19:08:09 | Weblog
日本産業のデジタル化に思う

 昨日の新聞に、日本は産業のデジタル化が遅れているとあった。その報道に依ればデジタルによる情報は産業の米に当たると言う。半導体製造以来その旨の事が論じられてきた。それはそれで良い。問題はそこで、日本はものづくりつまり製造業を重視しすぎて、産業における情報を軽視している、ものづくりに偏り過ぎている云々の事だ。確かに情報は大切だが、その基礎はあくまで製造業・ものづくりではないのか。素材やそこから作られる機械によって通信は行われる。電子通信だってそうだ。あえて言えば情報・通信とはいわゆるソフト、簡単に言えばパズルに過ぎない。著作権を持つ一種の方程式だ。このような物が全産業を支配していいのか。
 情報が産業に生かされるとき活性化するのは商業と金融業だ。デジタル産業で高収益を得ている会社はいわゆるGAFAを始めとする小売業と情報サ-ヴィス(金融、娯楽、個人情報提供を含む)だ。ただそれだけの事だろう。このような職種が高い収益を上げているようだ。高収益は結構だが、これらの職種は雇用全体を保証するのか?カメラにしろ自動車にしろそれらを作るためには高度に訓練された技術者と職人を必要とする。これらの存在がその国の分厚い中産階級を創出し、また内需を増大せしめている。翻って電子商業では一握りのIT操作員とあとは配達などの未熟練労働者しか必要としない。この事実はその辺のコンビニを見れば解る。電子商業の存在は結果として富の極端な寡占と集中をもたらす。ファミリ-マ-トなどはその典型だ。
 論説が称揚する電子商業の現時点での会社名を見ていると、アメリカが圧倒的で残りは中国だ。ともに貧富の差の激しい国だ。範としたくない国々だ。従って日本はあくまで製造業を中心に産業構造を形成すべきだろう。
 かと言って電子通信・デジタル産業を軽視するわけでもない。二つの案がある。現在コロナ災禍でテレワ-クが適時行われている。将来このテレワ-クを使って企業の職員を意図して地方に配置してはどうだろうか。地方活性化の一手段一政策にはなる。政府が主導して行えば膨大な内需が生まれる。最近の話だが富士通の電算機の速度が世界一になった。日本はそういう技術を持っているのだ。また近い将来車と道路をデジタル通信で連結し、移動運転になるだろう。ここでも大量の需要が生じる。どうせデジタル化をするのなら皆が皆裕福になるようにしよう。
 もう一つ。日本のデジタル産業の発展を阻んでいるものに、諜報機関の事実上の不在がある。アメリカも中国も諜報活動にはとびぬけて熱心だ。日本も諜報(当然防諜も)組織を充実させ外交と軍事に活用させなければならない。諜報機関不在なら当然電子情報通信の発達は遅れる。ミッドウェイ-で日本が負けたのは日米両艦隊の情報戦の差だった。また日本はITの発展を機械製造特に工作機械に向けた。アメリカとはやり方が違うのだ。現在日本の工作機械を無視しては世界の産業は動かないだろう。日本は儲からない事に精を出してきたとは言える。しかし私はそういう日本が好きだ。
 ただ電子商業(金融)は怖い。10年前大阪外大のロシア語の先生から聞いた話だが、一度ロシアの企業に振り込むと、いつのまにか必ずこちらの帳簿から多額の金が引き出されているとのことだった。その話を聞いて私は数ある取引銀行のうち支払いは一行に絞りそこに預ける額は一程度を超えないようにしている。取引先が国内の企業なので被害は全くないが。
いずれにせよ電子商業の発展は否定しないが、日本がものづくり大国である事は銘記しよう。
                            2020-7-31
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



経済人列伝 村田清風(一部付加)

2020-07-31 15:33:01 | Weblog
経済人列伝  村田清風(一部付加)

 村田清風は幕末の長州藩にあって、藩財政を建て直し、後に藩が西南雄藩として活躍し、維新回天を成し遂げるための財政的基礎を築いた人物です。清風は1783年(天明3年)長州藩士村田四郎左衛門光賢の子として生まれました。この年は浅間山が爆発し、関東一体に大被害を出ます。田沼意次が辞任に追い込まれ、かわって松平定信の寛政の改革が始まります。徳川幕府自身体制の危機を鋭く感じた年でした。清風の父親も祖父も代々藩経済の実務に携わる中堅官僚です。家禄は50石、この藩の給付としてはいいほうです。 
長州藩は以前から財政的に苦しかったといわれています。関が原で家康の巧妙な外交にひっかかり、8カ国120万石から周防と長門の2国30万石に減知されました。上杉藩と同様、原則として家臣を解雇しません。単純計算をすれば藩も藩士の家政も1/5に縮小されます。加えて関が原敗戦後すぐに、それまで支配していた、安芸、備後、伯耆、隠岐、因幡、出雲、石見の六カ国で既に徴収した租税の返済を幕府から迫られます。莫大な額ですが、藩は大阪商人から借金して切り抜けました。以後藩財政は赤字が続きます。第7代藩主重就の時、だいたい1750年前後ですが、借金は銀にして3万貫(金に換算すれば約60万両)に上っています。重就は鋭意改革に取り組み、それなりの成果をだしています。宝暦の改革と言います。清風の祖父はこの時の改革に参加し、活躍しています。長州藩の経済に関しては異論もあります。収入が激減したので、国内を必死になって開発し、実高は100万石に近かったことも事実です。
 清風の幼名は亀之助と言います。幼少の頃は飲み込みの悪い、つまり頭の悪い子供として通っていました。父親だけが清風の能力を評価していました。清風という人は何事にも正面から考えてじっくり取り組むタイプのようです。こういう人物は子供の時には頭が悪いようにみられやすいものです。またこの種の人物には頑固者が多い、清風もまさにその通りでした。それに一丁先まで聞こえるという大声の持ち主で、ついた仇名がへんく(つ)者です。
20歳、藩校明倫館の付食書生を志願します。学費は自分持ちです。努力が認められ24歳、学費が支給される御養書生になり、同時に明倫館書物方を命じられます。26歳藩主斉房の小姓役に抜擢され江戸へでます。斉房は改革に努力しますが、若くして死去します。以後斉ヒロ、斉元、斉広と三代の藩主に仕えます。右筆御密用方、異国船防御方、矢倉方頭人役などに任じられていますから、代々の藩主にそれなりに用いられてはいます。もっとも財政改革というものはいつの時代でも面倒でしんどい事業です。藩主達も意気粗相しだんだん退嬰的になります。重役達は悪いと知りつつも、その場しのぎの対策、増税と借金に走ります。藩債は増え続けます。清風は若い頃から、自分の意見を大声で明確に言い、上役にも非妥協的でした。上役である家老と意見が合わず辞任すること二度に及んでいます。清風が要求したことはまず藩内での倹約でした。これが結構守られません。
江戸時代の大名家の家政あるいは藩財政を考える時重要なポイントが2つあります。まず江戸時代初期の経済は、農民が米を作り、その一部を武士が取って食う、見返りが治安の維持です。この段階では貨幣が経済に介入する余地は比較的小さくてすみます。時代が進展すると農民は米以外の物を作りそれを加工して販売します。農村マニュファクチュアの進展でします。ここから上がる利益を誰が取るかで様相が変わります。藩はなるべく専売制にして利益を独占しようとします。藩が豪商豪農と組むこともあります。この程度が進むと割を食うのは農民ですから、最悪の事態一揆が起こります。豪商豪農が一般農民と組んで一揆を起こすこともあります。また同じ商人でも江戸や大阪の中央の商人と地元商人の利害は違います。またこのような経済の進展に武士が対処するためには武士自体が農民化・商人化する必要があります。この事態は武家政治封建制度の根幹に関わってきます。
もう一つ考慮すべきことは、幕府の大名窮乏化政策です。まず参勤交代があります。家格と禄高に従い、形式を整えなければなりません。逆に言えば沿線の住民には莫大な金がおちます。武士階層から町人農民への所得移転になります。幕府は将軍の子弟子女を大名に嫁がせました。特に11台将軍家斉には50人余の子供がおりました。将軍の子女を嫁がされる大名は非常な財政負担にあえぎました。何十万両の金が要ります。また大名の死去や襲封にも金がかかります。勝手に簡素なことをするわけにはいきません。家格により決められた形式は護らねばなりません。また家臣の3-4割は江戸在府です。都市生活には費用がかかります。特に大名の妻子が住む奥向きは奢侈の巣窟でした。大名は貧乏になるべく仕組まれていました。
1830年(天保3年)長州藩内で大一揆が勃発します。一揆農民の要求は、田租は4割を原則、畑租も本租だけにして、畔にうえた茶や桑には租税をかけない、臨時の租税は廃止か減少、郡費超越した時の農民負担は軽く、米・雑穀・菜種・櫨などの自由販売を認める、ことなどです。税金は安くし、行政費用は節約し、経営の自由を認めよ、というところ、要求の内容は何時の時代でも同じです。
1837年(天保8年)第13代藩主に敬親が就任します。大塩平八郎の乱の年です。前年に三人の旧藩主が死去し、敬親の襲封で経費は飛躍的に増加しました。この時点で長州藩の借金は9万貫(180万両)です。清風は地江戸仕組掛に任命されそれまで抱いていた抱負に従い、改革を推し進めます。やがて一代家老になります。改革の第一は倹約、奢侈禁止、絹布着用の禁止です。奥向きの猛反発を食らいます。敬親は断固清風を擁護します。
行政の機構改革をして、人員の削減を計ります。余剰人員は公儀開作、つまり藩が行う新田開発に駆り出しました。
情報公開を徹底します。藩経済の実情を藩士従って庶民にも知ってもらいます。この策は併せて人材登用の手段でもあります。計数に明るい中下級武士層を財政の実務官僚に取り立てます。家格より実務が重要になります。清風の時取り立てられた下級武士に佐藤寛作という人がいます。後年島根県知事になりました。彼の曾孫が岸信介と佐藤栄作という兄弟首相です。
殖産興業を計ります。長州の特産物である紙、蠟、米、塩を増産します。同時に特権御用商人の暗躍を抑え、藩の役人との癒着を警戒します。そのためにもう一つの方法を考えます。(越荷方-後述)まわりが海ですので海産物は豊富です。鮎、鮒、イカ、ふぐ、なまこ、鰯、鯨、アサリにハマグリなどを塩漬け、乾物、練り物にして大阪方面に売り出します。
殖産興業ではかって痛い経験があります。天保の大一揆です。マニュファクチュアから上がる利益を誰が取るか、という問題です。ここで清風は一藩単位での重商主義政策を行います。幸い馬関(下関)は北前船(日本海から関門海峡を通って大阪に行く船)の中継地点でした。申し分のないほど良好な中継地点です。長州藩はここに倉庫を置き、品物を買います。大阪の市況を調べて、売りさばき利益を上げます。中継貿易です。これを越荷方と言います。オランダやイギリスが新大陸からの産物を自国の港を通して他の欧州諸国に売りさばいたのと同じです。清風は海保青陵の意見に詳しかったようです。
民間の頼母子講から発した相互扶助組織である修補制度を充実させます。困窮者救助、特産振興、土木工事、入植者援助のための頼母子講に藩からの補助を与えて奨励します。もっともこの制度は有力者の高利貸しにも利用されます。農民から安い利子で借りて、困窮している農民に高い利子で貸し付けることもできますから。清風はこの悪習は廃止しました、
藩士の借金対策も施行します。1843年(天保14年)の37年賦皆済仕法と称するものです。藩士が藩から借りた借金は取り消し、ただし以後藩が貸す事はない。民間から藩士が借りている場合、藩が肩代わりして利子のみ毎年支払う。元本は37年後に払う。などなどの政策です。商人層に極めて人気の悪い施策です。また商人層を苛めすぎると、今後藩士が借金できません。藩士達からも苦情がでます。この施策不評で清風は一端第一線を退きます。代って坪井九右衛門がもっと商人層に有利な政策を実行しますが、今度は藩の借金が増えて坪井は失脚します。
同年つまり天保14年清風は大量の藩札を焼却します。インフレを防止するためです。極めて思い切った措置です。かなり藩内部の蓄積に自信を持ちつつあったのでしょう。その前年には大操練を行っています。それまでの刀槍ではなく、銃と砲を中心とする洋式軍隊を用いてです。清風は、海に面した長州に生まれ育ったので、海からの侵入には極めて敏感でした。当時すでにロシアやイギリスの船が日本近海に出没していました。以後も清風は海防の重視を呼号し続けます。洋式軍隊保持には莫大な資金が必要です。
1848年(嘉永元年)清風は脳卒中で倒れます。幸い軽症でした。明倫館を再建し、江戸では藩士の教育のために有備館を造ります。1854年(安政元年)までに9万貫の借金は皆済されました。1967年(明治元年)、維新政府が樹立された時、長州藩は政府に70万両、毛利家に30万両の寄贈をしています。 
1855年(安政2年)清風死去、享年73歳。清風の政策は後に、正義党という党派の周布誠之助、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)井上馨、伊藤博文らに受けつがれ維新回天の大事業が為されてゆきます。
清風にはおもしろい歌があります。
  来てみれば言うより低し富士の山
       釈迦や孔子もかくやありなん
多分始めて江戸にでて来た時の歌でしょうが、彼が強情なほどの自信家だった事を推測させます。同時に長州人独得の潜在的反幕意識も感じさせられます。
参考文献  義なくば立たず  講談社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


皇室の歴史 点々素描(21)

2020-07-31 13:07:07 | Weblog
皇室の歴史 点々素描(21)

 後醍醐天皇は亀山天皇の孫、後宇多天皇の子供になります。大覚寺統の流れです。1288年出生、31歳で即位(この年齢での即位は当時例外でした)。在位21年、1339年死去します。後醍醐天皇の在位期間は政争と戦乱に明け暮れます。天皇は強い意志をもって極めて主体的に、換言すれば強引に政治を領導します。参謀は吉田定房、北畠親房、万里小路宣房です。彼らは「後の三房」と言われました。側近は日野資朝そして日野俊基です。天皇はまず院政を廃止します。天皇親政です。延喜天歴の治、つまり10世紀の醍醐・村上天皇の治世を理想として王権の回復を計ります。当然院政は廃止されなければなりません。また鎌倉幕府が天皇の即位に干渉する事も否定します。討幕の論理は必然です。天皇の称号は原則として死後、臣下がつけるものですが、後醍醐天皇はそれを以って良しとせず、生前自ら「後醍醐」つまり「醍醐天皇を継ぐ者」という名前を付けました。この態度はどこか秦の始皇帝のそれに似ています。こう書くと天皇の政治は極めて反動的に聞こえますが、天皇の政治には新旧混合、新しい進歩的なものと、守旧的懐古的なものが混ざり合っています。
 当然内紛は起こります。まず1324年正中の変が起こります。一部の武士を使って北野神社恒例の祭りにかこつけ六波羅探題を襲う計画です。計画は失敗し日野資朝が責任をとって鎌倉に下り、佐渡(?)に流されます。天皇は真言密教の加持祈祷に大変興味を持っていましたが、これは幕府調伏に利用されました。そして1331年元弘の変が起こります。吉田定房の密告により(この密告の意図は現在でも解明されていません)幕府転覆の企てが漏れて、天皇は笠置山を目指して落ちます。捕えられて隠岐に配流されます。しかし全国の動乱は起こり始めたところです。吉野では護良親王が、千早赤坂では楠正成が挙兵し、播磨の赤松円心も呼応します。1333年天皇は隠岐を脱出し伯耆の名和長年に迎えられ兵を募りつつ京都に進撃します。幕府は征討軍を鎌倉から派遣しますが、総指揮官の一人である足利尊氏の反逆により、幕府の京都出先機関である六波羅探題は壊滅します。ほぼ同時に関東では新田義貞らにより幕府は攻め滅ぼされます。1335年天皇は京都に還帰し新制を発布します。建武新制です。しかしこの新制は上手く行かず、鎌倉に遠征した尊氏の反乱により、宮方と武家方の、天皇と尊氏の戦争が勃発します。尊氏は一度京都を占領したものの敗れ、西国に落ち、そこで挽回して再び京都を目指し、半年間の激戦の末京都を奪回します。天皇は吉野へ落ち延び、ここから南北朝時代が始まります。この間尊氏は持明院統の後伏見上皇から院宣をもらい、官軍である事を誇示します。持明院統の皇統を北朝、大覚寺統を南朝と言います。
 以上が後醍醐天皇の治世で起きた政治事件の概略ですが、そこには多くの問題要因があります。まずなんで天皇の討幕の企てが成功したのでしょうか。鎌倉幕府は大兵を擁し強力でした。天皇には直轄する武力はありません。隠岐からの帰還にしても同様です。なぜ天皇は隠岐から簡単に帰還できたのか。100年前隠岐に流された後鳥羽上皇は一生その島で暮らさざるを得ませんでした。しかし元弘の変後ほぼ一斉に反幕府の勢いが強まります。楠赤松名和のみならず、反幕府の火の手は全国的でした。鎌倉へ逃れて合同しようとした六波羅探題の軍勢は近江番場で土寇つまり土民の群れに行く手を阻まれ、絶望した将士数百人が自害しました。土寇とは武装した農民あるいは下級武士です。当時農村は豊かになり、農民は緩慢なる下剋上を繰り返しつつ武士階層に上昇してゆきました。この時代から50数年後には一揆が起こります。一揆は武装しています。その武力が幕府や大名に雇用されれば足軽です。応仁の乱では足軽が大活躍します。このように武装する農民そして下級武士更に彼らを雇う土豪を悪党といいます。「悪党」とは「強いやつ、悪いやつ」という意味を持ちます。彼らは新興階級であり、鎌倉幕府の正規軍とは異なりがちな武力でした。悪党は階層縦断的で、武士・農民・僧侶・運輸業者、商工業者そして御家人、得宗被官、荘園公領の荘官などなど誰でも悪党になりました。楠氏は淀川水域の流通を支配し、赤松氏は領内で鉱山を運営し、名和氏は海運に従事していたようです。幕府は何か悪い事をしたのではなく、彼らを統御できないまま滅亡したのです。その点で幕府最後の執権(正確には得宗)である北条義時に同情します。緩慢なる下剋上はまだまだ続きます。彼らを統御する政権も彼らの変化とともに変わります。政権も室町幕府、守護大名、応仁の乱、戦国大名と変遷し徳川幕府に至ってこの運動は一応治まります。御醍醐天皇はこれら悪党勢力(幕府に組織されない)に手を伸ばし軍勢として組織しました。次の幕府を造った足利尊氏も同様です。彼らは一応大名領主のような体裁はしていますが彼らの配下の武力はこの種の悪党連中でした。だからともかくこの時代の軍勢は方向転換、裏切り降参、離合集散が激しいのです。尊氏などは勝って負けて、また勝って更に負けて、そしてまた勝つなど、京都を中心に鎌倉九州間を一往復しています。多くの軍勢を連れてです。後醍醐天皇は1339年、足利尊氏は1358年死去しますが、乱はまだまだ続きます。一応戦乱が終わるのは1392年南北朝合同によってです。御醍醐天皇は戦乱の火薬庫に火を付けただけに過ぎません。なおこの悪党勢力は日本国内のみならず海外に雄飛し倭寇となります。元寇の後100年も経たないうちに倭寇は暴れ出し大陸の王朝である元・明を苦しめます。
 次の問題は後醍醐天皇が建武新制で何をしようとしたかという事です。大きな政策は三つあります。まず国司と守護の並立です。それまで律令の国司制度は形骸化していました。天皇のイデオロギ-は親政ですから、武家本位の守護制度はなじみません。だから天皇の地方政治は復古反動になります。為に支配は二分化し混乱しました。次が行政府の改革です。天皇は中務以下八省の長官にすべて三位以上の公卿を任命しました。彼らは議定官ですから行政官にはなりません。天皇はこの事を強行しました。行政府の地位を上げたとも言えますが、公卿の地位を下げたとも言えます。天皇中心の中央集権化を目指したとも言えます。この点は隣国の宋王朝をモデルとしたきらいがあります。もう一つは雑訴決断所の設置です。この機関は領地所有の決済をします。だから非常に重要な役所です。公卿と有力武士がその職に任命されました。これは鎌倉幕府の評定衆に相当します。室町幕府も同様の機関を作ります。
 建武新制はなぜ失敗したのでしょうか。まず政治の基本的イデオロギ-に問題があります。天皇親政とはこの場合天皇独裁です。明らかに後醍醐天皇は宋王朝をモデルにしました。しかし宋王朝と日本の歴史は根本的に違います。唐から五代の戦乱を経て宋になる過程で、唐王朝で幅を効かせていた、皇帝権力への歯止め(門下省)は実権を失い、宋王朝では権力が皇帝に集中しました。日本は逆です。一応中央集権化を目指した律令制は崩れ(もっとも律令制そのものには日本の方が熱心に取り組んでいるのですが)土地私有者である豪農武士が台頭し権力は地方に分散します。これを封建制といいます。御醍醐天皇はこの傾向を利用しそして全く反対方向の体制を目指しました。
 次に天皇の性格がきます。彼後醍醐天皇は本来皇統としては分家中の分家で明らかに中継ぎの天皇でした。自分の家系を維持し皇統を独占するために、持明院統を圧迫し、同じ大覚寺統内部でも自分の兄である後二条天皇の子孫の皇位継承者としての地位を潰してしまいます。天皇院政とは聞こえがよろしいが、自己中心性を覆い隠す飾りにもなっているのです。ですから人の言う事は聞きません。あくまで自己の意志を押し付けます。その弊害は恩賞の配分で端的に現れてきます。
 恩賞の配分は恣意的で全く良くありません。全くです。本来血を流して戦ったのは武士たちです。公卿はただ天皇の側近として活動しただけです。恩賞はこの公卿層そして僧侶、特に天皇を取り巻く女官層に篤く与えられました。加えてこの連中は内奏します。正規の機関の決定はすぐ取り消されます。雑訴決断所の判定など無視されます。全く功績の無い女官女房に土地荘園が給付され、その分武士層の取り分は減ります。典型が赤松円心への報奨です。彼は一族の血を夥しく流させ六波羅攻略の主力の一つになりました。与えられた恩賞は本領安堵だけです。つまり彼の功績は全く評価されず、元の木阿弥とされました。円心は激怒しさっさと尊氏に従い家を興します。功績に対し恩賞なしとは、人格的侮辱でもあります。   
このような偏頗な恩賞の配分には女房女官層の発言つまり後宮の発言力があります。その中心が阿野廉子という女性です。彼女は源頼朝の縁族に連なる人物ですが、天皇の寵愛を良い事にして恩賞を思いのままにしました。賄賂の多寡で恩賞(領地と地位の配分)を決めます。あまつさえ新制の功労者護良親王を、自分が生んだ皇子(後村上天皇)を天皇にするため尊氏と組んで失脚を計ります。親王はわざわざ尊氏の本拠である鎌倉に護送され、戦乱のどさくさに殺害されます。天皇独裁ですから側近後宮の意志は決定的になります。また天皇は極めて自信家であり、人の言う事は聞きません。天皇の意志を掣肘するものは武力だけになります。武士たちの尊氏への共感と期待は当然でした。
 更に土地配分上の手続きの問題があります。天皇は綸旨(天皇の勅命)優先で正式の綸旨が証明されない土地の所有権は認めない、と言い出します。先祖から保有している土地の証明などあやふやなものです。本来なら10年か20年以上前の土地所有は現行どおりとすべきです。これが綸旨万能主義になりますから、全国の土地所有者はてんやわんやで一斉に都に押しかけ土地所有の正統性を認めてもらおうとしました。雑訴決断所はパンク状態です。もちろんここにも内奏と賄賂が絡んでいます。
 そういうわけですから建武新制は破綻すべくして破綻しました。内乱はまだまだ続きます。肝心な事を繰り返します。日本では農民層と武士層が連続していて、緩慢な下剋上を繰り返し続たけた事です。
 二人の人物を取り上げます。まず足利尊氏、彼は清和源氏の流れです。頼朝の家系が絶えたのちには源氏の嫡流を自認しました。足利家は歴代北条氏と姻戚関係を結び、有力豪族として関東で栄えました。一方幕府の内紛には常に足利氏の影があります。彼の三大前の家長は「三代後に天下を取る」と遺言して自殺したとも言われます。この三代目が尊氏です。彼は北条氏の有力氏族赤橋家(執権を出しています)の娘と結婚します。ちなみに彼の母親も上杉氏で幕府の有力者でした。尊氏の官位は治部大輔で北条氏並もしくは上です。元弘の変で最終的に幕府を裏切り大勢を決しました。そしてまた建武新制に反逆します。彼が反御醍醐の旗頭に担がれたのには、源氏の嫡流である事、北条政権での有力者(北条氏と並ぶくらいの)である事などが挙げられます。反逆が多いので彼は歴史上悪者扱いです。しかし当時の武士たちには人気はすこぶる良かったのです。時代の行く末を展望する能力、人に寛容で懐が深い事(一度裏切った人物でも許す事、この時代ではこの能力は絶対必要なことです)、更に生まれつきの頭の高さ(人に君たる能力)そして謀略更に軍事的指揮能力に優れていることなど多くの長所を以っていました。だから彼は建武新制の後担がれて室町幕府を創始します。私は建武新制後に彼が活躍したように言いましたが、どうやら彼は彼で既に反幕府の活動をしていたようです。六波羅が落ちたとき尊氏に従う人数が圧倒的に多く、彼はその場で将軍御教書を発しています。建武新制なるものは御醍醐と尊氏の共作であったようです。一方尊氏は天皇に背いた事をへの悔いの念が強く、終生この念を抱き続け天皇の鎮魂のために天龍寺を創設しています。何分天皇は「身は南山の苔にむすとも、魂魄は北嶺を望む」と遺言した人ですから。「尊氏」の「尊」は天皇の名前「尊治」を与えられたもので、それ以前は「高氏」と言いました。
 もう一人が楠正成です。彼の出自ははっきりしません。得宗被官(北条氏嫡流の直臣)で駿河国から先祖が移住したとも、また近畿の被差別民出身とかとも言われます。能楽の祖観阿弥との姻戚関係も云々されます。歴史上なぞといっていい人物ですが、単純な武士ではなく淀川水系の輸送交通網を支配していたことは確実なようです。彼は後醍醐天皇から綸旨をもらい千早赤坂で兵を挙げます。徹底した籠城戦とゲリラ戦に徹しました。千早赤坂の地形は小山や丘陵が交錯し谷や崖も多く、守るには最適の地形です。ここに騎馬兵中心の関東勢が押し寄せます。正成は徒歩弓射の軽兵を配し抵抗します。地形が地形ですから重い騎馬兵は翻弄されます。東は金剛生駒の山に連なり、南は高野山です、天然の要害です。東は複雑な淀川水系で川湖が入り乱れ菰葦が茂ります。これも要害になります。幕府軍は東と南からは攻められません。楠軍にとっては出入り自由になります。また淀川水系は地理を知る者には補給の経路となり、知らない者にはゲリラの伏せる敵地となります。正成はこのような事実を認識し旗を挙げました。持ちこたえれば天下は蜂起するとにらんだのです。事実その通りになりました。この時代眼は卓抜です。逆に尊氏東上では、正成の提案した尊氏包囲網は入れられず湊川で自殺的な戦死を選びます。尊氏は正成の能力を高く評価しまた正成の摂津河内和泉つまり京都への喉元への影響力をも重視しました。正成はこれを断ります。赤松円心のように尊氏につけば室町幕府の有力守護になっていたでしょうに。
 南北朝時代は50年以上続きます。ではなんで南朝がその間持ったのでしょうか。吉野の山奥に逃げ込んだ南朝が。理由は二つ考えられます。一つは南朝の全国的戦略の広大さです。吉野に本拠を置いていても、西の河内和泉は楠氏の勢力圏でありますし、東の伊勢国には北畠氏が進出していました。西は堺・岸和田から四国九州へ、東は伊勢白子から関東東北へ海路で進出できます。北畠親房は北関東から奥州南部にかけて積極的に工作しましたし、九州には懐永親王を総督として派遣し九州を管轄させました。倭寇取り締まりを日本政府に要求すべくやってきた明の使節は懐永親王を正式の政府と誤認(?)しました。
 もう一つの理由は当時の相続制度の変化です。惣領制(嫡男が親の遺産を取り仕切って分配し、同時に一族への統制権を持つ制度)が崩壊します。兄弟分家は各自ばらばらになり所領をめぐって争います。南朝はこの事態に就けこみます。室町幕府はこの事態をなかなかまとめられなかったのです。
 最後に天皇の歴代数ですが、なぜか光厳、光明、崇光、後光厳、御円融天皇には北朝という冠がわざわざついて歴代数から外されています。これは北朝の天皇を非正規なものとするということなのでしょうか。後嵯峨天皇の直系は後深草天皇になります。現在の皇室も北朝の御子孫です。当然北朝を正当とすべきではないでしょうか。

「君民令和、美しい国日本の歴史」 文芸社 



児童虐待について

2020-07-30 15:24:43 | Weblog
児童虐待について

児童虐待に関して目下、産経新聞が特集を組んでいる。ジャ-ナリスト・メディアの特性を発揮して事実そのものの描写はかなり詳細だが、では如何するかと言う回答は全くない。昨日の紙面では家児相(家庭児童相談所)が児童の家庭に被虐待児を送り帰すか否かについて意見を留保していた。私は家庭に送り帰す事には反対だ。また同じことが繰り返されるだけだろう。広義の意味での里子に出すか、公的機関が育児を引き受けるしかない。家庭における人間関係は慣習と慣性に支配されるものであり、家児相が形式的に介入しても無益である。
念のために言えば私は家庭の育児機能を否定する者ではない。私が言いたいのは、一部あるいは多数の論者に依り、家父長制とかで徐々に家庭の育児機能が否定され、それに比例して児童虐待が増えているように思えるからである。家庭とは「信頼と規律」の原点である。この重要な家庭の機能が何らかの形で批判され否定され時代錯誤的なものだとは、ここ半世紀の動向だ。もちろんこの動向は日本に限られてはいないが。
私は育児環境として家庭の最大の機能は「母性愛」であると思っている。母性愛の延長に父性愛がある。ところで現在の風潮ではこの母性愛、つまり育児における母親の機能を重視強調することは、性別分業を肯定し性差別に繋がるらしい。反動的だとか言われる。かって日本を悪夢に陥れた民主党(現立民党)は、子供は社会で育てるものであるとして、育児における家庭の意義を真っ向から否定した。またこの政党に所属していたある女性議員は、保育所の大幅増設を主張し、その要求に即座には答えられない政府に向かって、日本死ね、と叫んだ。あまつさえ自分は四人の子供を放置し愛人とアヴァンチュ-ルを楽しんでいた。どこかの女子大で母性は先天的なものではなく、後年社会から刷り込まれたものだという、真偽不明な研究成果が発表された。またある人々は各自の性別は生物学的に決めるものではなく、一定の年齢になり各自の判断可能な年齢になれば各自の判断で自己の性別を決めれば良いとかのたまう。この意見はある意味で反論不能なのだ。もちろん賛成論も成り立ちえない。
人間は生誕時にほぼ99・99%は雄雌の生殖器を持っている。この生殖器はだてにはない。この天賦の資質に沿って育児するのが一番安全なのだ。我々は生殖器という天賦の資質に基づいて育児する。一個の人間が自分の性別自己判断する・できるまでどのくらいの時間がかかるのだろうか。人間は1歳で離乳し2歳までに直立歩行し、3歳から言語機能が発展し、15歳を過ぎてから自己自我という意識に目覚める。それまでは児童は自己の親を(厳密な意味では)認識できない。感知はできる。一部の論者が言うように、自己の性別を判断し確定するまでには、少なくとも20年の歳月が要る。それまで性別の判断を保留せよと言うのか。念のために言えば性別判断の為には個々人は非常に多くの時間と知識と体験を必要とする。個々人の性差の認識には時間を要する。それまで社会あるいは家庭親族はこの判断に関与すべきではないとなると、永遠に性差の判別はつかない事になる。と言うのは知識と体験の獲得には性差の判断が必要だからである。通常の認識機能が先か性差の自己決定が先かと言う堂々巡り、決疑不能なサイクルにはまってしまう。男児が夢精し女児が月経を体験しても男女の性差判別はしてはいけないのか。
世の中にはLGBTとかいう性別が通常のものではない人々がいる。彼らの行動は一般の社会規範に触れない限り自由だ。私は男性だが女装する自由はある。時には女装(和装だが)してみたいと思う事もある。だからと言って極一部の人の行為を持ち上げて、それを普遍的真理だとする必要はない。
元の問題に帰ろう。家庭の育児機能を否定し、それを社会が代行する・できるという考えは明らかにおかしい。家庭とはパパママボクの三者でできている。それにもう一世代加わってもいい。児童虐待に対する家児相の機能は一時避難だけだ。失われた環境はそう簡単には復活しえない。たとえそこに警察や弁護士が絡んでも無理だ。もちろん私は彼らの役割は否定しないが。虐待された児童には何らかの形で新しい家庭を与えよう。
                              2020-7-30
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



経済人列伝 荻生徂徠(一部付加)

2020-07-30 15:24:43 | Weblog
経済人列伝  荻生徂徠(一部付加)

 荻生徂徠は徳川幕府が開かれて約半世紀後の1666年、館林藩主徳川綱吉の侍医荻生方庵の子として江戸に生まれました。この間に幕府の統治は安定し、経済もめざましく発展します。商品作物の栽培と商工業の発展により、農民町人は裕福になります。江戸初期年貢率は5-6割とされましたが、元禄期には実質的には3割を切るようになります。
 大名統制のための参勤交代他の政策は、武士から庶民への所得移転になりました。武士の生活は困窮します。将軍大名から幕臣藩士に至るまで、貧乏になります。政治は根本的に立て直されなければならないと、為政者は考えます。幕政藩政の改革がさかんに行われました。
 政治改革に理論的支柱を与えたのが荻生徂徠です。当時の例にもれず、彼は儒者でした。幕府公認の儒学の家元林家に入門します。しかし彼は林家の儒学、つまり朱子学とか宋学とかいうものとは全く異なる、彼自身の体系を作り上げます。彼が創始した学問は儒学の範疇を大きく超えます。徂徠の主著「弁名」「弁道」「政談」「太平策」を中心に彼の思想を検討してみましょう。前二者は哲学・形而上学、後二者は実務のための政策提言です。
 徂徠は儒学を勉強しました。そのためには中国語で本が読めなければならないと考え、中国語の発音練習から始めます。当時の中国語は、四書五経が書かれた時代の発音と同じなのかどうかと考えます。彼は古代中国語の研究をします。彼が始めた古典言語の研究は、古文辞学と言われます。彼は四書より五経の方を重んじました。五経の内容の方が古いからです。徂徠は儒学の源流を突き止めようとしました。五経、特にその中心である礼記は、殷周時代の漢民族の風習と儀礼の書です。
 徂徠は、制度という概念にゆきつきます。彼の言葉では「礼楽刑政」です。礼は儀礼と風習、楽は音楽、人と人の間を取り持ち和ませ柔らげるための音楽、刑は刑法、政は政治です。徂徠は宋学で重視される倫理中心主義と唯心論を排し、礼楽刑政、つまり政治制度が重要なのだと強調します。
 制度を建立した人物を先王あるいは聖人と名づけます。作られた制度が先王の道です。一度作られたものなら、また新しく作り上げることができるはずです。倫理といわれれば、作り変えがたく見えるが、制度としてみると、作り変え可能になります。
 朱子学・宋学には、変革を試みる公理がありません。何事も精神主義です。自己を内省して自己変革を期するのみです。聖人君子の道、といいますが、ありていにいえば大勢順応です。倫理から制度に視点を移し変えることにより、徂徠は体制変革の公理を作ります。
 1279年、南宋最後の継承者は崖山に亡びます。近侍していた陸秀夫は,衣冠を正して「中庸」の一節を講義していたとか。徂徠はこの話を引いて朱子学の無内容さを憫笑します。
 徂徠は以上の思考を総括して、「礼は物なり、衆議の包塞するところなり」といいます。物は具体的状況、包塞は塞ぎ包み満ちていることです。具体的状況の中で、それをみんなで討議することによって形成された何かに、一定の名をつけて形にしたものが礼なのだ、と徂徠はいうのです。
 徂徠は「元享利貞」という宇宙の循環を再解釈します。元は物の始まり、享は勢い盛んな様子転じて変化、理はその結果、貞は変らぬこと、を意味しました。
 易のこの原理に、徂徠は彼自身の解釈を加えます。元は事を起こすこと、享は起こされた過程の推移、利は結果としての収穫効果、貞はその過程に潜在する不変のものあるいは自然、と解釈します。
 徂徠の解釈の鍵は「元」にあります。これを彼は、過程の起動者、つまり制度の建立者と解します。彼の解釈に従うと、自然に働きかけて、過程を起こさせ、収穫を取り入れた後、元の自然に戻すとなり、こうして一循が終わり、再び新たに起動させるものが----となります。
 易は自然の過程を読み取る図式ですが、易の枠組を設定するのは人です。徂徠はこのからくりを見破り、自己の思想に組み込みます。自然の過程は作為の対象になります。
 徂徠は義も再解釈します。義は仁義と併称されるように、儒学の基本概念です。義を重視したのは孟子、しかし徂徠は孟子に飽き足りません。
 仁が、人と人の間の柔らかくて自然に流れる関係を示唆し、対立や葛藤を含まない関係様式なのに比べ、義は仁の流動的状況に一部を切り取り組み合わせてできる、かなりごつごつしてぶつかりあうあり方です。したがって義には仁の外在化されたものという意味も含まれます。
 徂徠は、義に仁の流動性を含ませつつ、それを適用と理解します。適用は、運用であり、流通であり、需給関係であり、利の追求です。
 元享利貞と義の再解釈は、運動、適用、運用そして循環を意味します。徂徠は政治行為の拠って立つ基盤を探りつつ、同時に経済現象をも視点に組み込みます。
 徂徠は、宋学が重視する仁のもつ曖昧さを排除し、その背後にある制度を、眼に見えるように顕在化させ、それを人間の主体的行為の対象としてとらえます。
 徂徠は、具体的政策を提案します。武士社会の危機を、旅宿の境涯、と表現します。本来武士は農村から出てきた。そのころは有能で強かった。都市生活を営むようになって柔弱で貧乏になった。だから武士は農村に帰るべきだと、帰農論を説きます。ここまでならいいところを突いても所詮はアナクロニズムです。
 徂徠は続けます。旅宿の境涯に武士をおきながら、何の制度も設定しないのはおかしいと。彼はいいます、旅ではとかく金がいると。ここから彼の提案は未来に方向を転じます。
 人材の登用は、だれでもいうことです。徂徠は極めて大胆な提案をします。能力のある者なら百姓町人でも武士に取りたてよと。士農工商の身分撤廃を主張します。
 徂徠はさらにいいます。高位にある者は苦労が足りないから馬鹿が多く、下賎な者の方が有能だとも。さらに、人は使って見なければその能力は解らない、適材適所で使って専門家を作れ、やる気になるようにおだてて使え、と。朱子学的精神主義の欺瞞への批判です。徂徠にとってはまず実用、倫理より制度と政策です。
 8代将軍吉宗は、就任早々、老中に江戸市内の米の値段を尋ねます。1人がかろうじて答えられたのみで、他の老中は知りません。徂徠の「政談」は吉宗の要請により書かれました。
 徂徠は寛刑を主張します。金銭にまつわる紛争は激増していました。しかし幕府は極力当事者間の和解を勧めます。徂徠はこの態度を批判し、ともかく民事法を作れといいます。この要求は寛刑を必要とします。金銭沙汰をそれまでの荒っぽい刑法で裁かれては、首がいくつあっても足りません。武は武断です。うかつに民事法を作れば、幕府存立の精神的基盤は崩れます。しかし幕府は不充分ながら作りました。公事御定書(くじがたおさだめがき)は徂徠の死後1742年、吉宗の時代に成立します。
 民事法の必要性を説く徂徠は、また訴人と私闘に関して明白な意見を述べます。訴人をなぜ非難するのか、と。由比正雪の事件の時、彼の片腕である丸橋忠弥を、密かに訴えでた仲間がいました。訴人の功績で、彼らは旗本にとり立てられましたが、旗本は彼ら訴人を仲間あつかいしません。武士にあるまじき卑怯な行為というわけです。徂徠はこの態度を非難します。まず公権力、それを護った訴人は公儀への功人ではないのかと、いいます。
 裁判判決や政策判断の記録を残せ、と彼はいいます。それまで記録がないから、かなりいいかげんな判断で執行されていました。だから記録の保存とその担当者である留役の必要性を主張します。帳面を留めるから留役あるいは調役といいます。係長級のこの役職は次第に重要になります。
 幕末の能吏、川路聖アキラは勘定奉行留役でしたが、老中阿部正弘から常に相談を受けました。西郷隆盛は薩摩藩郡奉行調役から彼の政治人生を始めます。記録の保存は行政と裁判の手続きの明文化を意味します。同時に実務官僚を育成します。
 徂徠は経済政策について2つの重大な提案をします。
 田畑の自由売買。幕府および諸藩は農民が自由に耕作地を売買することを禁じました。農村には真の地主はいなかった。入質という形で所有権が委譲されることもありますが、基本的にはそれは質であり、農民はいつでも取り返せました。原則的にはそうなるし、事実そうなる事例も多かったのです。地主が育たなかったことがいいかどうか解りません。しかし耕作地の自由売買が資本制生産の基盤であることは確かです。徂徠の大胆な発言は、武家政治の否定に連なります。
 徂徠は貨幣流通量増加を提案します。
 元禄期荻原重秀が金銀貨を改鋳し金銀の含有量を減らして財政を救いました。対して新井白石は逆をします。経済政策としては荻原の方が先進的です。徂徠は荻原の政策を支持します。
 貨幣量の減少は不景気につながります。徂徠の提案に乗ったのか、吉宗は貨幣の金銀含有量を減らし、新貨と旧貨を含有率に応じて交換する政策を施行します。貨幣流通量増加を目的とした誠実なやり方です。
 併行して定量銀貨を発行し、金銀比価を固定し金本位制への先鞭をつけます。これは幕府が経済行為に積極的に乗りだそうという決意でもあります。吉宗以後、幕府は中央集権化を進めます。吉宗はお庭番という将軍直属の諜報機関も作りました。
 徂徠学の要点をまとめました。
 民事法の制定、田畑の自由売買、貨幣流通量の増加、百姓町人からの人材登用、は武家政治の否定です。
 これらの提案はフランス革命の人権宣言とほぼ同じ内容です。人権だ平等だと使いようによっては危険でもある空手形・空念仏を振りまわさないだけのちがいです。維新政府が施行した政策とも同じです。徂徠は政談提言のすぐ後の1728年死去します。人権宣言は1789年、明治維新は1868年です。
 徂徠の貢献は、政治を伝統と自然の過程に任せるのではなく、政府が積極的に政治に関与し、必要な制度を状況に合わせて製作してゆくための原則を明示した点にあります。具体的に彼が提案した内容は、武家政治を超え、それを否定するものでした。徂徠の思想の特記すべき点は、彼の論旨が流れるように首尾一貫していることです。彼は言語学者でもあります。彼の創始した古文辞学は日本語の研究に受けつがれています。本居宣長は徂徠の孫弟子です。
 徂徠に関する挿話を2-3紹介しましょう。彼は幼少児期を上総国(千葉県)で過ごしました。青年になって江戸に移住します。この時彼は、少しでも儒学の本家である中国に近くなったと喜んだそうです。
 彼が大家となった時、弟子や知人を集めて、毎月一回例会を催します。酒と一汁三菜、他の食物は各自自由に持ち込んでよし、出入り自由、でした。彼は弟子の独創性を愛し、学問に関する限り、意見は自由でした。
 徂徠は礼記の内容に見習って、古代中国の音楽を皆で練習しました。彼がある楽器を吹くと、彼の家猫がくしゃみしたそうです。
 最後にもう一度徂徠の経済政策への貢献をまとめてみましょう。彼は政治を作為(さい、人が意図して為し、作ること)の対象として捉えます。政治は可視的な存在として浮かび上がります。この存在を具体的に吟味考察すれば、政策の選択肢の一環として、経済現象が捉えられます。政治を作為として捉えることは、政治を公権力の独占から解放するための前提でもあります。民意を前提としてのみ経済現象の理解は可能になります。
 政治から経済への推移の重要なステップが、土地の資本化、つまり耕作地の自由売買です。こうして財貨は流動化され貨幣で計算されうるものになります。徂徠が提唱した、耕作地の売買自由を前提としてのみ貨幣流通量の増加という政策とその提案は可能になります。 
 
参考文献
   弁名、弁道、政談、太平策  日本思想体系・荻生徂徠に所収  岩波書店
   荻生徂徠  中央公論社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

皇室の歴史 点々素描(20)

2020-07-30 13:21:18 | Weblog
皇室の歴史 点々素描 (20)

 第95代花園天皇は地味な存在ではありますが、特記すべき天皇です。一言で言えば花園天皇は、象徴的天皇像の模範を示した天皇ともいえます。もっとも私は現在の天皇象徴論に全面的賛同しているわけでもありません。天皇は1297年伏見天皇の第三皇子として生まれました。皇子時代の名前は富仁、後伏見天皇は兄に当たります。大覚寺統の後二条天皇の下で立太子し、1308年11歳で即位します。皇太子は大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)、皇太子が天皇より9歳上です。花園天皇は皇太子にいささかの好意を持っていたようです。1318年後醍醐天皇に譲位し、上皇になります。この間特に大きな政治事件はありません。1331年元弘の変、いわゆる後醍醐天皇の御謀反です。この時期から次代は乱世になってゆきます。御醍醐天皇は隠岐に流されますが、反攻し京都に還帰します。花園院を含めた持明院統の皇族は幕府軍とともに近江番場まで逃れます。ここで幕府軍は全滅し、持明院統の方々は京都に連れ帰されます。建武の新政は2年で破綻し、足利尊氏が京都に幕府を開きます。この間花園院は安泰でした。享年1348年、観応の擾乱を見なかったことは幸せでした。
 花園天皇は徹底的に非政治的な天皇でした。天皇は生涯、天皇とはどうあるべきか、という事に関しての研鑽に務めました。得られた結論が「権謀術数も必要であろうが、それは天皇のする事ではない。力をもっての平定も必要であろうが、それも天皇の仕事ではない」ということです。これは後伏見天皇の皇子で将来持明院統の天皇になる予定の量子(かずひと)親王、後の光厳天皇に与えた「太子をいさめる書」の内容の一部です。花園院は後伏見院から量子親王の帝王教育を任されていました。同時にこの書では、将来起こるであろう政変(正中の変)も予言されています。明敏な方でした。兄後伏見院との関係は極めて良好でした。二人で領地を譲り合っています。まるで史記に出てくる、邦国の公位を譲り合い、後首陽山でわらびを喰って餓死した、伯夷と叔斉の逸話そのものです。
 花園天皇は生来蒲柳の質で健康に自信がもてずその努力は、天皇としての教養習得に費やされました。刻苦勉励です。天皇(あるいは院)が読まれた書物は膨大です。まず皇朝の制度典礼に関する書物があります。日本書記以下の六国史、大鏡、古語拾遺等の史書、西宮記、北山抄などの儀礼関係の本があります。そして古人の日記を特に読まれます。煩を厭わずに上げると次のようなものがあります。一条天皇の御記、後冷泉天皇の御記、順徳天皇の「人左記」、宇多天皇の「寛平御記」、村上天皇の「天暦御記」などがあります。臣下の日記では藤原師尹の「小一条左大臣日記」、藤原(小野宮)実資の「小右記」、藤原頼長の「宇治左府記(または台記)」、藤原長兼の「長兼卿記」などなどがあります。特に頼長への人物批評は面白くなかなかのものです。もっとありますが省略します。また中原章任をして律令に関して講義させています。今更律令というのも変な感じがしますが、天皇の認識・政治観の指標として学んだのでしょう。漢籍には主なもので、五経、左氏伝、公羊伝、穀梁伝、論語、孟子、荀子、老子、荘子、史記、漢書、三国志、資治通鑑、淮南子、貞観政要、文選などがあります。多すぎて記載するのが面倒なので途中でやめました。当時はやりだした宋学にも関心を持っていました。
 詩文や和歌にも通芸し、光厳上皇の勅撰である「風雅和歌集」の序文を花園院は書いています。遊芸に溺することなく、そこから物の道理を悟ることが大事だという態度です。信仰においてはまず天台・真言宗に興味を持ち、ついで浄土宗の教えを受け、最後には禅宗に帰依しました。絵画にも関心があり、単に鑑賞するだけでなく、自ら絵筆を振るって創作しました。
 宇多天皇以来皇族貴族は常に日記をつけていますが、花園天皇においても例外でなく、天皇が書いた「花園院宸記」は現存しており、この天皇の在り方や考え方を理解するのを助けています。1334年落飾、1348年51歳で死去、当時としてはまずまずの享年です。皇子直仁親王は光厳天皇の皇太子となりますが、観応の擾乱で南朝により廃位され吉野に拉致されます。花園天皇の存在は謀略政争そして戦闘に明け暮れる時代にあって一服の清涼剤ではあります。

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経済人列伝 川路聖謨(一部付加)

2020-07-29 17:21:07 | Weblog
経済人列伝 川路聖謨(一部付加)

川路聖謨は1801年に生まれ、1867年幕府瓦解に準じて自決した幕臣です。彼を経済人と言っていいのかどうかはともかく、彼は徳川幕府の典型的な経済官僚です。川路の生涯を顧みて、当時の経済官僚は実際何をしていたのか、を見てみましょう。「聖謨」は「トシアキラ」と読みます。この名前は彼が師事した儒者が四書五経の中の文句からとってくれたもので、彼自身も自分の名前の読み方が解らず「トシアキラ」としたそうです。ちなみに彼は猛烈な勉強家で漢詩にも和歌にも習熟していました。
 川路聖謨は豊後国日田代官所で生まれました。現在の大分県日田市です。父親は代官の手代、つまり地方採用の武士です。手代は代官の手伝いという意味ですが、代官と地元の間にあっていろいろと斡旋する仕事ですので、なにかと謝礼が多く、結構裕福な生活でした。4歳時、父親(内藤氏)は決意して江戸に出ます。父親は西丸徒士に採用されます。この職は武士とはいえ、正式の旗本御家人ではなかったようです。父親は聖謨の将来の出世を願って、彼を川路家の養子にします。川路家もたいした家柄ではありません。旗本御家人のなかで役職のない連中が一括されたグル-プ、小普請組に川路家は代々入っていました。言ってみれば小普請組とは無能で出世街道からはずれた連中の溜まり場です。聖謨は猛烈に勉強し、猛烈な就職運動を展開します。聖堂の学問吟味の試験には落ちましたが、勘定所の筆算吟味の試験には合格します。18歳支配勘定出役になります。勘定所への臨時派遣職員です。しかしこれで役職とそして出世への足がかりができました。非常に運のいい話しです。
 21歳支配勘定になります。勘定所の正式職員です。同時に評定所に出向し留役助、2年後留役になります。評定所とは、老中若年寄、三奉行、大目付さらに目付・勘定吟味役で構成され総計役30人前後で、重要議題を審議する機関です。老中若年寄が一存で決定できない場合、この評定を行います。幕府の合議機関あるいはある種の立法機関と言ってもいいでしょう。もちろん最終の裁可は将軍が下します。留役とは記録係のことですが、予審も行います。留役は評定所の実務者、そして実力者でもありました。将軍に拝謁する資格も持ちます。聖謨(トシアキラ)は寺社奉行吟味調役にもなります。勘定所の職員でありながら、評定所や寺社奉行所に出向するにはわけがあります。評定所も寺社奉行所も自前の官僚機構を持ちません。幕府機構が肥大した後期あるいは末期において、自前の官僚機構を持っているのは、目付職をやや例外として、勘定所だけでした。ここでは支配勘定、勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行(その上は勝手掛老中-財政担当大臣))ときちんとした序列、つまり官僚機構があります。町奉行所の実務は与力同心が行います。奉行と与力以下は截然と分けられ、与力から奉行への昇進はありえません。寺社奉行は大名の職で、実務を大名の家臣がとったとしても、正式な発言権はないし、そこから上の幕府の役職につくことは不可能です。
 勘定奉行は町奉行、寺社奉行とならんで幕府行政の実務をとります。勘定奉行の職務は天領からの徴税とそれに伴う訴訟でした。綱吉の代になり、財政が逼迫します。徴税を能率的にするために、勘定吟味役というポジションを作りました。通常四名からなり、徴税実務の監視が主な仕事ですが、奉行を超えて老中じきじきに提案上訴することができました。この勘定吟味役を設置することで、勘定所は官僚的階層性が他のポジションより整備されることになります。時代が進むと、勘定所は幕府行政官の輩出地になります。理由は時代が進むほど、財政の行政における比重が増してくるからです。幕府後期から末期にかけては、幕政の実務に責任を持つ中堅層は、勘定吟味役か目付のどちらかの出身者でした。目付は多くの場合名門旗本、対して勘定吟味役は卑賤あるいは軽微な地位の出身者で占められました。聖謨は後者の典型です。
 支配勘定そして評定所留役になった聖謨(トシアキラ)がした大仕事は、彦根藩領と宮津藩領の間で起こった山境紛議取調です。両藩領の村民が山をめぐってともにその所有権を争います。聖謨は下僚を率いて紛争地に赴き、検地して所有の帰趨を決めます。この時彼は下僚達に、金品を受け取らない、食事は一汁一菜にすることを誓わせ、実行します。
 勘定所所属といえば、その主たる任務は経済関係のことのはずですが、既に述べましたとおり、勘定所は実務官僚の培地ですから、いろいろなところに出向き、そこでの用件を片付けます。仕事の多くは訴訟への対応ですが、時代がら金公事つまり経済問題が多かったようです。聖謨は吟味取調が迅速で精確、未決事件が非常に少ないので評判になりました。有能な官僚としての名を上げてゆきます。
 31歳、勘定組頭格になります。この地位にあった時有名な仙石騒動の調査を行っています。仙石騒動とは但馬国出石藩仙石家のお家騒動です。藩主と同族の国家老仙石左京が自分の子供に藩主の地位を継がせようと策動します。聖謨は間宮林蔵を使って調査し左京を告発しようとします。幕閣内部で動揺がありましたが、将軍家斉の意向で取調べとなり、左京は死罪になり出石藩は減知されます。
 35歳、勘定吟味役になります。異例の昇進です。37歳、五両金の新鋳と一分判金の改鋳を命じられます。38歳、西丸普請の用材伐採の監督として木曽出張を命じられます。木曽の木材は尾張藩のうちでしたが、新任藩主と家臣の間で、用材提供の意志が徹底せず、こういうこみいった事情ゆえに江戸からじきじきに吟味役が出張しました。この時も金品贈与と接待の攻勢に悩みます。39歳、一分銀と通用銀の吹立御用を拝命します。この頃蛮社の獄に巻き込まれかけます。渡辺崋山と親密な交際をしていたからです。
 40歳、佐渡奉行に任命されます。初めての奉行職です。一定の範囲の職務をある程度独立して行える職務です。佐渡金山の管理とあとは佐渡の一般行政を行いました。
 41歳、小普請奉行になります。小普請とは江戸城をはじめとする江戸市内の幕府関係建築物の営繕修理が職務です。今度は金を使う仕事に回ります。勘定所は現在でいう経済産業省の仕事も兼ねていました。仕事の関係上業者との癒着が多く、問題の起こりやすいポジションです。この年1841年天保の改革が始まります。聖謨は水野忠邦の改革に積極的に協力しました。彼は任官して従五位下左衛門尉になります。
 43歳、普請奉行になります。仕事は幕府が行う建築の指導と監督です。前職同様、業者と腐れ縁のできやすい職場です。小普請と普請の奉行に彼が任命されたのは、水野がこのような職場での風紀粛清をねらったからでしょう。
 46歳奈良奉行に転出します。やや左遷じみています。聖謨は奈良に6年間いました。結構楽しかったようです。賭博を取り締まり、年少犯罪の防止対策を講じ、拷問を廃止し、貧民を救済し、囚人に憐れみをかけ、植樹植林に務め、学問を奨励します。裁判は迅速で滞獄は減少しました。聖謨は忠義な幕臣ですが、同時に勤皇の志も篤く、奈良奉行在任中御陵を調べ、「神武御陵考」という本を出版しています。奈良の吏民から慕われました。後年彼が所用で京大阪を通る時奈良(と大阪)の役人や庶民がおしかけ、応接に一苦労します。
 51歳、大阪東町奉行。1852年パリ-来航を予期した老中阿部正弘に呼び返され、勘定奉行に任命されます。翌年ロシア公使プチャ-チンが長崎に来航、聖謨は海防掛に任命され長崎に赴きます。以後安政の大獄まで聖謨は外交そして軍事の面で老中直属の高級官僚として活躍します。
 プチャ-チンとの交渉内容の主たるものは開港と国境画定の二件です。樺太の国境をどこにするかに関しては、結局定まらず、雑居ということになります。ロシアは江戸か大阪近海の二箇所開港を要求します。幕府は、原則として開港には応じるが、準備不足時期尚早と対応します。つまりぶらかして時間をかせごうという腹です。聖謨はこの幕府の方針に従い、硬軟両様の手段を用いて対応します。プチャ-チンと聖謨は個人的には意気投合します。
 55歳、下田取締掛になります。下田にやってきたアメリカ総領事ハリスとの対応の責任者になります。併行して軍事掛に任じられ軍制改革を担当します。品川台場築造を行います。蕃書翻訳御用掛に任じられます。彼は洋学所建造を進言します。これは実現しました。蕃書調所です。禁裏ご造営掛になり、御所の建築の監督をします。この間住吉、堺、西宮の沿岸を巡視します。海防、台場建造のためです。56歳、外国貿易取締掛、57歳勘定奉行勝手方首座、同年米国総領事T・ハリス上府御用掛、金銀貨吹直吹立の総責任者などの要職(というより緊急緊要な職務)に就きます。金銀の吹直は外国との貿易に対処するための貨幣政策です。詳しくは言いませんが、当初日米の貨幣に含まれる銀量が異なるために、日本は相当な銀の損失を蒙りました。この害を防ぐためには銀貨そして金貨の金銀含有量を変えねばなりません。
 1958年58歳、老中堀田正睦に随行して、開国の勅許をいただきに上京します。天皇や公卿の頑迷な保守性のため勅許を得られません。また将軍継嗣問題で聖謨は、一橋慶喜を押す進言をします。ちょうど井伊直弼が大老に就任した直後のことでした。にらまれた聖謨は西丸留守居に左遷されます。典型的な閑職です。5年後の1863年62歳時、再び外国奉行に登用されます。66歳中風の発作を起こし半身不随になります。発作はさらに二回繰り返されます。1868年(明治元年)西郷隆盛と勝海舟が江戸城で会談します。江戸城明け渡しの報を聞いて、同年3月17日拳銃で自決します。享年68歳。
 聖謨(トシアキラ)の性格はどう形容していいか解りません。謹厳なのは事実ですが、この言葉の範囲には収まりません。仕事はてきぱきしますが、頭の切れる才子風のところはありません。官吏としては極めて清潔です。が、この面でつっぱったような風もありません。自己宣伝はしませんが、仕事の面では遠慮はしません。努力家ですが、がちがちしたところはありません。開明的です。拷問に反対します。外国と折衝しなければならなくなった時、60歳前後でオランダ語を学びはじめます。勉強家で読書家、剣術と槍術には熱心で、和歌漢詩をよくします。絵に描いたような能吏ですが、冷たいところがなく、骨太です。剛直ですが、水野忠邦、阿部正弘、堀田正睦などの閣僚には信頼され可愛がられました。官僚を超えた、政治家としての資質もあります。もっともこの可能性は井伊により摘み取られてしまいます。幕臣として忠義を貫きますが、勤皇家でもあります。交友関係は広かった。藤田東湖、渡辺崋山、徳川斉昭、佐久間象山、江川太郎左衛門、佐藤一斎、板倉勝静などなどが有名なところです。なお聖謨は人生で4度結婚しています。最後の妻とは死ぬまで沿いとげます。
 彼が任官したとき、律令制の官名を名乗らなければなりません。聖謨の通称は三右衛門だったので、音が似ている左衛門尉を名乗りました。そういうことに拘泥しない人です。
 挿話をいくつか話してみましょう。聖謨が下田掛を担当しているときに大事件が持ち上がります。吉田寅次郎(松陰)他2名が米国軍艦に行って、米国行きを依頼します。彼らは断られます。身元がわかります。寅次郎は彼の師匠である佐久間象山の指示で出国を企てたことも解ります。本来なら両名とも国禁を犯したのですから、死罪です。二人は国許での謹慎ですみました。この影に佐久間の友人である聖謨の尽力があったと伝えられています。
 川路聖謨は井伊直弼により政治生命を奪われました。彼だけではありません。多くの有能な幕府官僚は一橋慶喜の支持者でした。彼らも政治生命を失います。井伊が倒れて後急速に幕府は衰弱しますが、その原因の一つは有能な実務官僚が払底していたからでもあります。

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皇室の歴史 点々素描補遺 鎌倉幕府陰謀史

2020-07-29 10:54:32 | Weblog
皇室の歴史 点々素描補遺 鎌倉幕府陰謀史

ここで鎌倉時代、厳密には頼朝将軍就任(1192年)から建武新制(1334年)に至る約150年間に鎌倉幕府において起こった陰謀あるいは不思議な事件を羅列してみます。頼朝将軍就任以前に既に源義経、上総介広常などが殺されています。事件の名称を主として上げ必要な事件には年代と説明を付加します。150年の間に主な陰謀事件で30件以上、5年に一回は事件が起きている勘定になります。北条得宗家の当主は義時と泰時を除きすべて若死にしています。いかに当主へのストレスがきつかった(むしろ酷かった)と言うべきでしょう。当主が若死にするので継承者は幼君になります。余計内紛は起こりやすくなります。時頼の兄の経時は20歳前後、元寇の当事者時宗などは30歳前半で亡くなっています。当主の若死には毒殺の疑いさえ考えられるのです。
 1192年 源頼朝将軍就任
 1199年 頼朝死去  死去自体が不審です
 1203年 比企能員死去
 1204年 頼家死去   
1205年 畠山重忠、平賀朝雅死去 
 1213年 和田義盛死去、和田合戦 
1219年 源実朝死去、暗殺 
 1221年 承久の変
 1224年 北条義時死去、泰時執権に 義時後妻伊賀氏が政村を執権にと画策
       伊賀氏配流
 1225年 北条政子死去
 1246年 九条頼経の近習名越光時が執権時頼を除こうと計る(宮騒動)
 1230年 宝治合戦、三浦一族500名が自刃
 1251年 了行等謀反人として逮捕せらる、黒幕は足利氏と九条道家(第四代将軍頼経の父親)
 1252年 宗尊親王を将軍に、第五代将軍頼嗣と交代
 1261年 三浦一族の残党の謀反
 1266年 北条時宗、将軍宗尊親王の近習名越教時の叛乱を未然に防ぐ、将軍交代
 1271年 時宗、名越時章・教時兄弟と北条時輔を謀反の疑いで殺害
 1274年 文永の役(蒙古来襲 一回目)
 1278年 連署塩田義政が突然出家
 1281年 弘安の役(蒙古来襲 二回目)
 1284年 佐介時光陰謀の疑いで佐渡へ配流、足利家時切腹
 1285年 安達泰盛と平頼綱の対立、安達泰盛以下500名が敗死 霜月騒動
 1293年 執権北条貞時平頼綱を討つ、平禅門の乱、以後六波羅南北両探題の訴訟裁断権を一時剥奪
 1296年 吉見義世(頼朝弟範頼の子孫)が謀反で死去。同じころ頼朝弟阿野全成の子孫阿野義泰謀反で死去
このころから徳政令頻発
 1301年 新田庶流の山名俊行が謀反で死去
 1305年 北条宗方が連署北条時村を殺し、後大仏宗宣が宗方を殺す
   このころから畿内周辺で悪党の跳梁が頻発
 1311年 北条貞時死去41歳、嫡子高時9歳
 1314年 甲斐源氏武田基綱が謀反で死去、吉見頼有が謀反で捕まる
 1316年 北条高時執権に就任 14歳
 1324年 後醍醐天皇の討幕計画漏れる、正中の変
 1331年 高時、得宗執事長崎高資の殺害を計画、未然に漏れ中止、同年後醍醐天皇の二回目の討幕計画(元弘の変)、楠正成赤坂城で挙兵
 1333年 正成千早赤坂城で挙兵、赤松円心播磨で挙兵、足利高氏離反、新田義貞鎌倉を攻略、幕府滅亡
 1334年 建武新制
  (付)以上の記載の中で、塩田、名越、佐介、大仏などの姓が出てきますがそれらはすべて北条氏庶流の姓です。

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皇室の歴史 点々素描(19)

2020-07-29 10:54:32 | Weblog
 皇室の歴史 点々素描 (19)

 第88代後嵯峨天皇は鎌倉幕府によって擁立されました。幕府丸抱えです。この天皇(あるいわ法皇)の時代に、鎌倉では政変が起こります。九条家出身の藤原頼経が将軍として執権の上に担がれていましたが、北条氏の傍流である名越光時らが頼経を担いで執権時頼を排除しようとしましたが失敗します。頼経は京に送り返され代わって天皇の皇子宗尊親王を将軍に迎えるべく嵯峨天皇に要請します。親王将軍です。このような企ては承久の変以前に北条政子が希望していた事態でした。元来鎌倉幕府は豪族連合の上に貴種源頼朝を担いで成立しました。閨閥の関係と有能な人材の輩出により北条氏が実権を握りましたが、北条市は伊豆国の在庁の官人であり地方での名望は薄く、千葉・三浦・小山・足利氏などに比べて格落ちしていました。加えて北条氏内部でも分家がどんどん出てきます。名越氏などその代表です。時頼の時ならず彼の祖父泰時の時にも同様な内紛がありました。ですから北条氏としてはなるべく権威のある名門(究極的には皇室)から冠として将軍を迎えたかったわけです。こうして親王将軍が誕生したのですが、幕府部内は必ずしも安定はしません。北条氏傍流と有力豪族が組んで将軍を担ぎ政変を企てる事はしょっちゅう起こります。ですから幕府は将軍が成年に達すると京都へ送り返し、新たな皇族を迎え入れるという事を繰り返しました。多分阿仏尼の「十六夜日記」だと思いますが、阿仏尼が東下の途中、送り返される将軍の一行と遭遇する下りがあります。本来政治執行の主体と忠誠の対象、つまり権力と権威は異なるものです。北条氏は忠誠の対象としては不十分でした。しかし北条氏は権力の中枢を北条氏嫡流(義時-泰時-時頼ライン)で固め得宗家独裁を志向します。「得宗」とは義時の法名です。
 幕府は朝廷あるいは院政内部にも干渉します。院評定衆が設置されます。これはそれまで独裁的傾向の強い院政内部に衆議制を導入し上皇法皇の専断を防ごうとする制度です。
 後嵯峨天皇には同母兄弟として後深草天皇と亀山天皇がいました。後嵯峨天皇はどういうわけかおとなしい後深草天皇より活発な弟亀山天皇を愛し、まず後深草天皇に譲位し10数年後には、後亀山天皇に譲位させます。上皇は二人になりますが実権は家長であるご嵯峨法皇が握ります(治天の君)。以後亀山天皇の子供後宇多天皇が即位し亀山上皇が院政をしきます。これでは皇統は亀山天皇の血統に行ってしまうので、不満を抱いた後深草天皇は幕府に訴えて善処を期待します。幕府の提案は後深草と亀山の両統が交代で即位しまた院政を行うということでした。幕府としてはこんな事に口を出したくなかったのですが、やむをえません。事実幕府はこの両統迭立のために潰れたとも言えましょう。後深草天皇の血統を持明院党といい、亀山天皇の流れを大学寺党と言います。この内容が複雑でややこしい。後宇多天皇の次は後深草天皇の皇子伏見天皇、院政は後宇多法皇、伏見天皇の次は伏見天皇の皇子後伏見天皇、院政は伏見天皇、後伏見天皇の次は後宇多天皇の皇子後二条天皇、院政は後伏見天皇、後二条天皇の次は後伏見天皇の皇子花園天皇、花園天皇の次は後醍醐天皇となります。このように天皇と院政の主は交互に入り乱れて交代します。持明院・大覚寺の両統はやがて南北朝へと分裂してゆきます。
 御嵯峨天皇、後深草天皇、亀山天皇の時代、後宮は乱れました。政治の実権を失ったの
ですから、やる事、エネルギ-のはけ口はエロスの領域になります。ここでこのような事態を象徴する事例を一つ挙げてみます。「とはずがたり」という文学作品があります。主人公は後深草院の二条という女性です。この女性は大納言の子女です。母親は後深草院に寵愛されます。やがて母親は大納言と結婚し主人公を産みます。主人公二条は4歳で後深草院のもとで養われます。そして10歳少し過ぎた時、後深草院により手籠めにされ女にならされます。母親に生き写しの二条に後深草院が愛情を抱いたのです。これは源氏物語の世界そのものです。弟の亀山院も二条に興味を持ち、契りを結びます。この事を後深草院は知っているのみならず、亀山院が二条と性交するのを陰で聴いていました。なんとも扇情的で淫猥な情景です。のみならず二条は院の近臣の西園寺某、仁和寺の法親王、摂関家の当主などとも関係を重ね続けます。つまり当時の公卿社会の最上層の中で不倫(こういうのを不倫といっていいかどうかは解りませんが)をしまくります。やがて二条は女西行と自称して旅に出ます。旅の途上である豪族の家に泊めてもらいますが、ここでも貞操(そんなものがあるとはす既に言えなくなっておりますが)を失いかけています。当時旅で不時に他人の家に宿るという事は、その家の当主の意に従わざるを得ないことなのでした。「とはずがたり」は文学作品としては美文でよくできていますが、同時に当時の宮廷社会における性の乱れを端的に表しています。性だけではありません。全体に倫理は緩み乱れていました。後宇多天皇などは収賄をしていたようです。もっともどういう内容の収賄かは解りませんが。性倫理と言えば武家の方がはるかに規律が保たれていました。後宮の倫理は乱れに乱れ、室町時代以後は正妃である皇后は置かれず、側妾である多数の局(つぼね)のみになりました。
 御嵯峨、後深草、亀山天皇(あるいわ院)の時代の最大の事件は文永・弘安の役、モンゴルの来襲でした。この事件に対する外交および軍事はすべて幕府の実権者である得宗嫡流北条時宗により担われました。朝廷のする事は加持祈祷だけ、モンゴルからの手紙はすべて朝廷を通って幕府にもたらされ幕府により決断されました。こうして朝廷は承久の変で皇位継承権を失い、モンゴル来襲で外交権・軍事指揮権を失います。
 ここでモンゴル来襲つまり元寇について一言。歴史家の中には日本に極めて冷たい人がいて、モンゴル来襲に対する幕府の対応を厳しく批判する人がいます。まずなぜ日本は朝鮮半島の南端でモンゴルに抵抗する勢力と提携しなかったのかという非難があります。しかしそれまでの日本には外交の経験はありません。下手に外国勢力と結び彼らを国内に入れたら治安が乱れる可能性もあり、モンゴルに日本征討への口実を与えてしまいます。またある人は、特に弘安の役では来襲した人員は必ずしも戦闘を望まず、日本で耕作を欲しただけだ、なぜ平和的に来日した人々と戦争するのかともいいます。しかし断りも承諾もなく勝手に他国に上陸して農耕をする云々は既に侵略です。またある人は、日本は最終的に20万人の兵を集めて北九州に配置した、これで勝たなければおかしいなどともいいます。戦争の勝敗を決するものは、個人の戦闘技術や士気もありますが、最終的には兵数です。兵数の集結には兵站(輸送特に食料の)が欠かせません。総力戦です。20万人以上の兵数を集め得た事自体が、当時の日本具体的には北条執権政治の優秀さを物語っているのです。モンゴル襲来に対して取った公武の違いには驚かされます。

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経済人列伝 石田梅岩(一部付加)

2020-07-28 15:34:25 | Weblog
経済人列伝 石田梅岩(一部付加)

石田梅岩は1685年丹波国桑田郡東懸村に生まれました。現在の京都府亀岡市、市街の中心から離れ、大阪府の高槻市や茨木市に近い、山村です。生家は中堅クラスの農家、というよりやや上流の本百姓です。(注)8歳の時、京都市内の商家に奉公します。この商家があまり裕福ではなく、父親の勧めで帰郷し、23歳再び京都の商家黒柳家に奉公します。生来まじめで理屈好き、いささかとっつきにくい、内面的な性格でした。仕事のあいまを利用して読書します。読書は関心のある分野すべてに及びます。濫読に近い多読です。特に儒教と神道に関心が深かったようです。濫読ですから、必ずしも教科書の考え方に拘束されません。自由に考え、本の内容などもかなり手前勝手なと言ってもいいほど、自己流に再解釈します。43歳、孤高の哲人、小栗了雲に出会い、その指導を受けます。両者のやり取りは、禅問答に似ます。45歳、「自性」に目覚め、京都市内で開講します。始めのうち聴講者は皆無に近かったと伝えられます。師の了雲から多くの図書を遺贈する旨、申し出られましたが、断ります。自分は自分で思索して行く、ということです。1744年、60歳で死去。体が生来弱く、思索と勉学に精進する自分の体力では、妻子を持てないと思い、終生独身で通しました。梅岩の教えを心学と称します。弟子としては手島堵庵(注1)と中沢道二が有名です。彼らは師匠の思想をかなり浅いものにしましたが、その見返りに心学を多くの民衆に広めました。ここでは梅岩の思想の中から特に経済に関する部分に焦点をあてて考察します。
梅岩は倹約を勧めます。しかし彼の言う倹約は従来の意味での倹約ではありません。梅岩は「倹約」を「契約」と解釈します。「約」は「義」を積むこと、「義」は「宜」つまり「利」、だから「倹約」とは「相互に便宜をはかること」、「利あるいは宜の交換」です。そこから出てくる便宜(commodity)である経済的価値は、広く社会の役に立つ、と梅岩は主張します。
それまで倹約は、ただ物金を惜しんで貯えることだとのみ理解されていました。梅岩は、「倹約は単に物を惜しむことではない、天下の物を流通させる契約なのだ」と主張します。「うまく流通させなければ無駄になり、物を真に惜しむことにはならない」と。
流通経済の意義を主張するために彼は、共感を強調します。「倹約するのはその物が惜しいからだ、自分に惜しい物は人にとっても惜しい、だから交換が成り立つし、交換によってえる利益は正当なのだ」と言います。 
倹約とは、物を惜しんでその利便性を効率化する契約なのだ、流通を促進することなのだ、商人は流通過程に参加することにより天下に奉仕するのだ、と梅岩は言います。武士が主君に命をもって奉仕するのとおなじなのだ」と彼は言い切ります。梅岩は、流通を将軍大名武士庶民すべてが等しく必要とする過程として承認し、ともすれば詐欺師まがいにしか見られていなかった商人の社会的必要性と地位を承認しました。
梅岩には、潜在的には商人の方が武士より上という、考えがあります。武士はただ主君に奉仕するだけだが、商人は流通過程に参加することにより、天下の人みなに奉仕しているからだ、と言います。彼は流通過程の意義を、社会の成員相互の契約という命題の上に成立させます。
倹約は朱子学が提供しうる唯一の経済政策です。将軍も藩主も、改革と言えばおしなべて倹約倹約と唱えました。これは君主からの上意下達としての経済対策です。為政者にとって唯一の方策である「倹約」を、「契約」と再解釈して、梅岩は経済行為を上から下への管理統制ではなく、相互に対等な契約関係すなわち「交換」に変換します。これは四民平等の基礎的前提です。
梅岩の思想の基礎には朱子学があります。しかし彼は孔孟程朱の言説に自らの解釈を大胆に加えます。文字の意味を訓コ注釈するのではなく(彼はこのような学者を文字芸者と蔑称しました)、その意義を取るといいます。朱子学あるいは宋学で強調するのは性と理、だから朱子学は性理の学とも言われます。性は人間に本来備わっている素質、理は天地万物を貫く法則、性と理が一致する境涯が個人としても社会としても最高とされます。では何をするのか?朱子学が提供できる方法は、居敬正座して浩然の気を養い、世界の自然な推移に参加して云々という、至って観念的で消極的な対処のみです。
梅岩は、性理を自性と置き、自性は天地万物を貫いて、不断に運動し推移してやまない、と解釈します。自性とは自分の本性、自性が変転するとは、自分自身が変転運動することです。梅岩は、宋学における運動の主客をひっくり返します。まず自分が動くのです。
単に動いているものに巻き込まれる形で参加するのではなく、自らが起動者の一人として参加するという論理を貫徹させるために梅岩は行為を強調します。(注2)知即行、と。行とは宜を積むことです。宜あるいは義を積まない聖人は存在しない、聖人とは天の力の及ばないところに、自らの力を加えて作業を完成させる者だと、言います。(注3)
梅岩は町人道徳あるいは町人の学問を作ったといわれます。身分の上下、お上への服従を説きます。しかし梅岩の主張はこの次元を超えます。
彼の学説は、町人商人の発想に貫かれてリアルです。理は食わせること、分別は飢えないようにすることだ、と言い切ります。まず食べることが肝心なのだと。食べて排出し、それが肥料となり物が育ち、それを食い- - - と、人間とそれを取り巻く世界は循環します。この過程の基礎は、食い食わせること、にあるのだと、言います。
この考えは18世紀フランスのフィジオクラ-ト(重農学者という不適切な訳語があります)に似ます。フィジオクラ-トより含蓄に富み、論旨も明快です。「食う」とは「食い食わせる」あるいは「養い養われる」相互過程であると梅岩は看破します。だから倹約が重視されます。倹約は契約であり、契約に基づく資本蓄積です。人間はだれしも食わねばならない。「食う」という原点に視野をしぼれば相互性、つまり契約・交換・流通の意義はすぐ把握されます。経済行為の根幹である「食うこと」をここまであからさまにした思想家はなかなかいません。
梅岩は倹約を契約と解釈して、経済過程を万人共通の道具として解放しました。経済過程の根幹である交換は「契約と共感」から成ります。彼の思想は18世紀イギリスのヒュ-ムやスミスに先行します。
最後に私の所感を言いますと、梅岩のオリジナルを読んだ時、それまでの梅岩の評価と全く異なる斬新な思想に触れ、びっくりしました。

注1 しかし民衆教化に果たした彼らの貢献は大きいものです。江戸時代後半には私の知る限り、三つの大衆教育用の機関がありました。石門心学、大阪の懐徳堂、そして二宮尊徳の報徳教です。なお手島堵庵は近江屋源右衛門という富裕な呉服商です。彼の父親も呉服商でしたが、二冊の本を出版しています。事情の詳しい事は解りませんが、一介の町人が出版するとは、当時の日本人の教養水準の高さが想像されます。梅岩が活躍した18世紀は徳川合理主義と言ってもいい時代です。この事に関してはまた後に同時代の英国の状況と比較して取り上げます。
注2 ですから梅岩の説く「自性を知る」は極めて日常的で卑近な事例に即して行われました。例えば嫁姑問題、遺産相続問題、養子縁組に関するトラブル、惣領と庶子の家督争い、主人と手代の元手分与の問題などです。このような日常生活に即した問題を解決して、それを自己の修練にあてる学問方法を事上練磨と言います。
注3 このような考え方には梅岩に先行する荻生徂徠の思想が大きく影響しています。「聖人」は徂徠が最も重視した考え方です。徂徠に関しては後に取り上げます。

参考文献
 都鄙問答、中央公論社「世界の名著シリ-ズ」
 斉家論、岩波書店「日本思想体系、石門心学」
 石田先生語録、同上
 石田梅岩、吉川弘文館「人物叢書」
 武士道の考察、人文書院
 天皇制の擁護、幻冬舎

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行