河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

335- メシアン 主イエス・キリストの変容 2007.6.28 若杉弘 読響

2007-07-01 20:26:00 | コンサート

メシアン作曲
主イエス・キリストの変容
の日本初演のことはここに書いたことがありますので、興味ある方は参考にしてくださいませ。
メシアン 主イエス・キリストの変容 日本初演

ということで、
先週は約30年ぶりにこの曲を生で聴いたということになります。

2007年6月28日(木) 7:00pm 東京芸術劇場、池袋

メシアン 作曲 主イエス・キリストの変容

ピアノ、木村かをり
チェロ、毛利伯郎
フルート、一戸敦
クラリネット、藤井洋子
マリンバ、加藤恭子
シロリンバ、藤本隆文
ヴィブラフォン、村瀬秀美
合唱、新国立劇場合唱団

若杉弘 指揮 読売日本交響楽団


総勢200人以上だろうか。ステージは大きく前に台が増設されている。
オーケストラの前に4人のソリスト、そして右側前方に3人のマリンバ、シロリンバ、ヴァイブラフォンがならぶ。
左側はパーカッション、ドラなどのような叩き物が全部占有。
4管をこえたブラス・セクション。
膨大な弦楽器群。
後方には右半分が男声合唱が5列約50人、左側が同じく女声合唱約50人。
一番手前に一人で譜めくりをしながらひたすら棒を振る細身の若杉がぽつんと立っている。
読響の少しばかり固めの音質がいつもと微妙な違いを感じさせる。そもそも重心のある曲ではない。
合唱は声が硬い。どうもなれていないようだ。
ソリストは木村のピアノをはじめ、みんな余裕の面持ではある。

第1部
1.福音叙述
2.ご自身の栄光の体のかたどりに
3.イエス・キリスト、あなたは神の栄光の反映
4.福音叙述
5.あなたのいますところはどれほど愛されていることでしょう
6.知恵は永遠の光の反映
7.聖なる山の聖歌

休憩

第2部
8.福音叙述
9.完全なる出生の完全なる承認
10.子らの完全なる世継ぎ
11.福音叙述
12.この所はなんと恐ろしい
13.完全なる三位一体の現出
14.栄光の光の聖歌

ロリン・マゼールの指揮で聴いた30年前の日本初演のときとは、聴いた感覚がずいぶんと違っている。あのときは滑るように音たちが鳴っていたように思う。
今日の演奏はどちらかというと、教会の結婚式で初見の譜面と歌詞を見ながら歌わされる歌のような感覚だ。演奏会では歌う必要はなく聴くだけでよいのだが、少し辛い部分もある。たとえば、福音叙述、の部分は音楽ではない。
お経の朗読、
のようなものだ。

曲としては、いろいろな聴き方ができる。鳥の声、超絶編成による当時の音楽手法、オーケストラという楽器の呼吸、最終的にはメシアンの思うところかどうかわからないが、キリストを超えた(別次元の)総体としての多彩な音楽表現にやられる。
第1部45分ぐらい。休憩15分をとり、第2部65分ぐらい。曲としては110分。

曲は神秘的というよりも曖昧模糊とした音楽の原型のようなものから始まる。ずっとこんな感じで、音楽が楽器によってメロディーを歌う部分はほとんどない。楽器群までまとめて朗読を真似し始めたか、といった様相を呈してくる。
したがって、本日の無料プログラムにあるような対訳が絶対に必要であり、始終みていなければならない。その意味ではこのような曲の場合、ステージの左右にオペラのように字幕付きの演奏会としても良いかもしれない。
テクストは聖書からの引用に留まっていないので、事態は複雑だ。普段の天罰が毎日下っているいたって普通のサラリーマンのほうが頭をカラにして、すっーと抵抗なくテクストにはいっていけるかもしれない。メシアンの響きの世界をピュアにとらえることが大切だ。
第1部全体がオブリガート風ではなく合奏によるオスティナート、それに異国の鳥の声がますます気持のカオスをつのらせる。やはり、感覚、で聴いているのが正解かもしれない。聴衆も初ものだけに、第1部は糸が張ったまま聴くことが出来た。

15分の休憩は短い。
ここのドリンクはサントリーホールなみに高い。コーヒー400円、水300円、サンドウィッチの破片500円、などなど。
かといって外は近くにいいコンビニがない。道路の信号の回り道もうっとおしい。
この建物の一階に喫茶系の店が何店かあるが、安い所は人がならんでいる。高い所はだれも見向きもしない。当然だ。
そもそも一階に出るには例の富士山なみのエスカレーターを梯子しなければならないのだ。バタバタと駆け込んできた人間にはいらいらさせるにちょうどいいホールだ。
建物がみえた!と思っても、そのふもとから山頂のホールまでが長すぎる。これに比べれば上野の簡便さは何ものにも代え難い。

第2部にはいり、音楽に光がかすかに見えはじめた。
弦の強烈でバラバラなグリッサンド、塊の強烈なトーンクラスター、なにやら音楽技法がキリストにからみつき始めたようだ。
こちらはテクストを見るのに余念がないが。
音楽がある程度明確に出てきたのが第12曲である。
第12曲「この所はなんと恐ろしい!」
(詩篇104、第2節)
(聖トマス・アクイナス、「神学大全」、問45、第2項、答3)
(ルカによる福音書、第2章、第14節およびミサ通常文、グローリア)
(知恵の書、第7章、第26節)
(創世記、第28章、第17節)
この第12曲が一番引用の種類が多い。テクストはつぎはぎだが、同じ意味合いの箇所を引用しているので違和感はない。
五つ目の創世記の引用の訳は、
「ここはなんとなんと畏れ(おそれ)多い場所だろう。」
となっているので、普通に考えれば、第12曲のタイトルの方が、例によってパソコンの変換ミスということになるのであろう。
動きが出てきた第12曲をあとにして、第13曲は終曲一歩前だがアレルヤが歌われるので事実上のクライマックスだ。時間もかなりながい。トゥーランガリラのようなキザミ節も少し出てきた。でもあの曲を決してイメージしてはいけない。天才のインスピレーションの塊としか思えないトゥーランガリラとこの曲では方向性がまるで異なるのだ。ここは禁欲的な我慢のもと耐えて聴かなければならない。ドラに導かれたお経は再び音楽の原型の曖昧模糊の世界にはいりこんでいく。
そして第14曲終曲。ついに終わった、というかようやく終わった。

若杉の棒を見ていると、二分の三拍子が多いような気がしたのだが、かなり拍子が変則的に変わる。若杉の得意とするところなのだろうが、メシアンのこの曲の場合、曲のイメージが先にあって、その音価の長さに合わせるためにしょうがなく変拍子で長さのつじつまを合わせるようなスコアメイク的なところが随所に見られる。そのため、若杉も音楽的な自然の振りはなかなかみられない。窮屈なところもある。一度譜めくりを間違えたら問題がおこりそうだ。
合唱は、新国立劇場合唱団ということで初台から初めて外に出るらしい。初台の専属なのかどうかよくわからないが、硬い。硬くなっている、というのと、声質が硬い、という両方の意味で、硬い。
不揃い感では男声がダメ。歌わないところも譜面をめくらなければならず気苦労が伝わってくるが、起立の不揃い一つ見ても、やる気はあるのだろうが、練習不足は一目瞭然。その点、女声はいつも気丈夫だ。

若杉は、だいぶ歳をとった。指揮姿はいつもどおりだが、ポーディアムの往復に足が少しもつれる。大丈夫だろうか。
曲へのチャレンジ精神は昔も今も変わらない。でも人は年をとる。若い時と今では考えも思いも異なってくる。20年30年に一回しか聴くことが出来ないような大曲へのチャレンジも昔通り大事なことだ。でも、今日のように表現に意思が入り込む余地があまりないような条件下での曲の場合、気苦労や負担の方が大きいのではないか。それであれば、本人が好きな曲を自由自在に振る姿もみてみたい。若杉の十八番はなんでしたっけ。少し考えないとこちらもわからなくなってしまった。
おわり