河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。
全ログ0013まで修復済161024

614- 音楽談義は銀座のイタリアンで。

2008-05-30 00:17:37 | 銀座にて

クラキチさん、

今日も夜中のお店を一軒アップしたようですね。

クラキチのレストランガイド

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前回、前々回のブログで深夜の鮨屋をお知らせしましたが、鮨ばっかり食べてると魚臭くなっていけません。

たまにはイタリアンで洗い流しましょう。

銀座のアンジェロなら朝まで飲み食いできます。

別に、アフターエンタメで朝まで音楽談義に無理をする必要はありませんが、時間を気にせず心ゆくまで話しこめます。

サントリーホールや新国立劇場などのように、会場近くで、こじゃれたレストランなどあるところもありますが、しょせん味より雰囲気。。だけ。。

ならば、銀座は少し遠いかもしれませんが、深夜までやっているところであれば移動も問題ありません。

アンジェロは団体客のハンドリングはあまりうまくなく、コース料理もいまひとつ。

ただ、少人数で行くならば、殊のほかボリュームもあり味も良。なかなかいいと思いますよ。

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613- おや、音楽談義は銀座で2連発目?

2008-05-29 01:06:24 | 銀座にて

おやおや、

クラキチさん、

今日も夜中の鮨屋をまた一軒アップしたようですね。

クラキチのレストランガイド

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○久(まるきゅう)とは面白い名前のお鮨屋さんですね。どのような経緯でつけたのかは次回にうかがったときでも訊いてみたいものです。

ここは朝3時までやってますので、まぁ、銀座でそれなりの鮨をおそい時間帯に食らうことができるというわけです。

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平日のマチネーでなくても、日本の場合、ワルキューレを上演しようとしたら、夕方5時スタートで終演がだいたい夜10時頃。

上野の文化会館でその時刻に終わってから、音楽談義をしたい場合、まず上野はだめだ。あまりにも世界が違いすぎる。

NHKホールのあとの渋谷ならまだ理解できる。

上野なら終演後はタクシーを無理やりつかまえて銀座までいきたい。

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だいたい、オペラが始まる前、少し腹ごしらえしておき、さらに近くのコンビニでペットボトルとかパンとかお菓子などを買い置き、袋に入れて入場するのが常だし、休憩時間にホールでわざわざベラボーな値段のものを長蛇の列で買うのも馬鹿みたいなので、いつもこんな調子で補給しているのだが、こんなことをチリポリやっていると結構おなかもはったまま。

それでも、ワルキューレ第3幕、岩を取り巻く炎が赤々と燃えあがる頃には、やっぱり腹が減ってくる。

それで、翌日が土曜日とかのお休みだったりすると今日は華金。なれば、銀座まで飛ばし夜遅い時間から鮨でも食らいながら音楽談義に花を咲かせたい。時間に縛られず。。

そんなとき、深夜にこのような結構コテコテの江戸前鮨を食えると、それなりに幸せだ。

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ゆく川の流れは絶えずして、もとの流れにあらず。。

音楽もまさにそう。

いつも後ろ向きというなかれ。

後ろがなければ前もない。

でも、結局は、レッツ・エンジョイ。。

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612- 音楽談義は夜中の銀座で。。

2008-05-28 00:04:00 | 銀座にて

おや、

クラキチさん、

今度は夜中の鮨屋を一軒アップしたようですね。

クラキチのレストランガイド

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銀座で深夜までやっている鮨屋でネタ新鮮で最後までいく。というのは難しいものがあるでしょうが、そこはプロにお任せ。

コンサート・ゴアー、オペラ・ゴアーはなんといっても、幕が下りた後の音楽談義が楽しくてしょうがないわけですから。これにおいしいお酒と食事があれば言うことありませんね。

今日の演奏はああでもない、こうでもないとどうでもいいような話ではあるけれど、自己主張はしっかりと行いながら。。

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ゆく川の流れは絶えずして、もとの流れにあらず。。

淀みさえ流れている。。

このような世の中で、流されない真理こそ無常かもしれないが。。

演奏の響きこそ無常なれ。。

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だいたいにおいて、うまいもの飲んで食べれば、意識はもうろうとなり、自己の不条理と音楽の新鮮さだけがいつもながら際立つ。

心を入れかえよ。それは無理だ。。

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611- 今シーズンも反省の日々だった。。

2008-05-25 21:01:37 | 音楽

2007-2008シーズン演奏会、オペラの感想をここにまとめました。

2007-2008シーズン(抜粋)

このシーズンも含め、ブログの左の一覧から見れます。また、過去ログも全部、ログの一覧から見ることができますのでお時間のあるときにご覧くださいませ。

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感想は、年始~年末でくくるのもいいですが、年末年始はコンサートシーズンの区切りとはほとんど関係ありませんので、欧米式に秋から春夏までのサイクルで区切ることにしました。

シーズン初めは大体910月ですので、9月の公演からはじめることにします。終わりは判然としませんが、とりあえず翌年の8月まで。

2007-2008シーズンは、20079月から20088月まで。

まだ678月とありますが、コンサートに顔を出すのは1シーズンおおよそ30回前後でしょうか。1か月に23回といったところです。

聴きたい曲も限られているのでこんなもんです。

ですので、今シーズンもそんなところ。

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ひところは眠くてしょうがない時期もありましたが、今はコンサート中に眠りこけることはほとんどなくなりました。電車でも眠くなくなりましたので、河童もいよいよそうゆう年代期にはいったのかもしれません。

どっちにしろ気まぐれなところは変わりありませんので、いくコンサートもバラバラですね。。

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最近の若手演奏家については、あまり知りません。興味がなくなってしまったのかもしれません。年とともに、ではなく、たとえばレコ芸を今でも毎月買うことは買うのですが、広告以外ほとんど読まなくなってしまったことと似ています。

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外からの情報は昔は、始終いれていたのですが、今はそれらをある程度知識の積み重ねとして活用して外に発信したい主張したい、自由自在にできるほどたくさんのことを知っているわけではないのですが、そのようにアクションが能動的になってきました。決して萎えてきているわけではないようです。

そうなると、自由に駆使したいと思うようになると、まず一番に来るのが反省なんですね。

なんで昔、若いときに、もっと吸収、勉強しておかなかったのかと。勉強が少なければ、たとえば文章を書いている途中でものを調べなければなりません。そうすると、調べている間に自由な構想がどこかに行ってしまうことがあります。躍動感あるものなんて書けなくなってしまうんですね。ひっかかっては進み、という感じ。一筆書きの美しさはもはやそこにはなく、作為に満ちた美文があるだけ。それはすぐに古くなり忘れ去られるもの。

べつにブログの文章だけではなく、仕事なんかでもきっと同じでしょう。最初の10年が全てであり、あとは出がらしみたいに続けている河童も、前進力よりも反省力のポテンシャリティーが高くなりました。完全に。。

話がいつものようにそれました。それではまた明日から昔話の再開です。

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610‐ 昔々 エド・デ・ワールトが振ったエルガー

2008-05-21 23:23:16 | 音楽

Scan10001

前回のブログで、尾高忠明の指揮するエルガーの1番がとんでもなく素晴らしくて、

つい、

いつもの河童ワープがしたくなった。

いつもニューヨーク・フィルハーモニックことばかりではどうかということで、今日はこんなの。

ワールトが当時手兵のサンフランシスコ交響楽団をひきつれてニューヨークまでやってきました。

1983114() 8:00pm

カーネギーホール

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リャードフ/キキモラ

サン=サーンス/ピアノ協奏曲第4

エルガー/交響曲第1

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ピアノ、オラシオ・グチエレス

エド・デ・ワールト指揮

サンフランシスコ交響楽団

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今日は始まる前から眠かったが、このサン=サーンスは通俗的で眠気をさらに誘う。

それに比べて、さすがエルガーの曲はシックリしていて、ちょっと長すぎると思ったが、結構手ごたえあり。

特に指揮者のこの曲に対する思い入れ、愛情の深さがよく表れていて、丁寧でわかりやすい演奏となっていた。

曲は最初、ピアニシモで行進曲風のメロディーがゆっくり流れ、それが第1楽章の導入部になっているだけでなく、全曲を一貫して支配していて比較的聴きやすい。退屈するような曲ではない。

ワールトはこの曲に特別の思い入れがあるのか、共感、愛着の念が観えてくる。特に第3楽章アダージョ結尾部における幻想的な雰囲気には圧倒された。オーケストラに彼の意思が乗り移ったような、静かで独特な情緒を醸し出していた。

私がイギリス人であったならば、故郷を思うその愛国心からきっと泣いていたことだろう。

エルガーの曲にはそれぞれの故郷を思い出させる何かがある。

河童ノートにはこのような、わりと、本当にどうでもいいような駄文が短く刻まれている。

早い話が、わかっていなかったのだろう。

いま振り返るとワールトのエルガーなんて、あんまりありえないような気もする。

それで、ニューヨーク・フィルハーモニックのエルガーについては、実はアップだけしたことがある。

そのときは、前半の世界初演プログラム、シュトラウスのマルヴェンのことだけ書いた。

キリ・テ・カナワの歌、メータの棒。後半のプログラムはエルガーの1番だった。

マルヴェン マリア・エリッツァ

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609‐エルガー・尾高 驚異の演奏炸裂 2008.5.17

2008-05-20 23:26:22 | 音楽

尾高が十八番をやる。

前半も聴き逃せないし、これは行くしかないだろう。

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2008517()3:00pm

NHKホール

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ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3

エルガー/交響曲第1

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ピアノ、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー

尾高忠明 指揮

NHK交響楽団

エルガーのフィナーレはこれ以上ないブラスが音による最高の快感を表現し、抑制がきかなくなるような響きの感動を与えてくれた。

尾高のエルガーは完全なる十八番とわかっていてもさらにその上を行く出来だった。こんな見事なエルガー聴いたことがない。

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今日のNHKホールはなぜかステージが前のオケピットのところまで出てきている。

何席分なのかわからないが、とにかくオーケストラも全体に前の方に移動するようなかたちで座っており、したがって音の鳴りが全然違う。

いつも奥の方で多目的ホール独特のどうしようもない響きしか聴いていない人が聴くとびっくりするに違いない。

音がリアルでそれぞれの楽器群の位置が明瞭に定位し、かつ音が前面に迫力をもって自然に押し出される。

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そんななか休憩後の後半のエルガーがはじまった。

序奏は異常なていねいさを通り越して、ほのかな香りさえ漂う、

この空気感!!最初から絶妙に近い。

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パルジファルを想起させる序奏が限りない音の香りを漂わせ締めくくられ、次の第1主題はやや唐突に現れる。序奏の魅力的なフレーズに比べるとやや落ちる。それが第1主題なら、心の準備をして第2主題を待つことになるのだが、その第2主題は限りなくわかりにくい、覚えにくい節だ。というよりも道端に咲くいろいろな草の合奏のようだ。

そこらあたりから方向感が薄められていく。

展開部では第2主題の展開の前に序奏部分の音楽が現れたりして、形式の方向感が微妙にわからなくなる。

2楽章のアレグロは迫力ある音楽で、明確な音楽だが後半だんだんとトーンダウンしていき、そのままあてもなく果てしもない美しい第3楽章アダージョ楽章にいつの間にか迷わされる。ここらあたりまでくると、もう、終楽章に形式の明確さを求めることはしなくなる。

もつれてはときほぐされる響きのあやの世界にどっぷりつかっていればいい。

あとは尾高が唖然とするほど見事な腕で調理してくれる。そうだ、尾高にまかせておけばいいのだ。

その第3楽章アダージョで、自席2階やや左前方から指揮者越しにコントラバスを観ることになるのだが、そのコントラバス、自分たちの番がないフレーズに、まるでオペラのストップモーションのように誰も動かない。なにか感動の空気が彼らに乗り移っているような見事な瞬間であった。

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エルガーの聴き方は、前にも書いたがいわゆるブラバン風な鳴りの音をイメージするとわかりやすい。

独特な響きが次から次と変化を連ねていく。ある部分、響きの連鎖のような音楽なのだ。

4楽章コーダで咆哮するブラスセクションによる序奏の再帰を聴くとき、あまりにも立体的に、あまりにも見事に表現されるその強奏に耳がクラクラとなり感動の震えを抑えることが出来ない。最高のエルガーであった。生きていてよかった。

尾高の譜面台には決してめくられないスコアらしきものが置いてある。完全なる掌握。

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半年前のエルガー2番はここ

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さて、前半のベートーヴェンであるが、思えばこの第3番のオーケストラによる長い長い提示部のこれまた異常にていねいな響きにまずふれたのが最初の幸せだった。

ごくごく丁寧に整理された響きは、ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団の様相を呈した。

大げさな話ではなくあのような均質でいて、透明な響きというのは、団員の心が落ち着いた状態で、かつ、響きのバランス重視というひとつの掲げられた目標、それに向かって全員のベクトルが方向性を合わせなければ決して出てこない音だ。

思えば、尾高もついにそのような芸風に達したのかと、なんだか感慨深くなる。見事なオーケストラの響きだ。

もちろん、N響という高性能のオーケストラでなければなしえなかった響きであるが、N響がいつもそうであるとは限らない。マーラーが言ったという、下手なオーケストラはない、下手な棒振りがいるだけだ、というのは、前提がやっぱり高性能のオーケストラを前にしてのことであろうし、N響にはいつでもマーラーのセリフの上をいって欲しい。

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それであまりの響きの素晴らしさに、ブルーノ・レオナルド・ゲルバーのことを忘れそうになった。

この3番のような本格的な曲はこのように伴奏されてこそピアニストの本領がでるはずだ。

昔、ゲルバーは、好きなピアニストでたまに聴いていた。というよりも聴きに行ったコンサートが素晴らしく、その後も聴くようになった。

ピアノの音は幅広で堂々としており、一聴とするとロシアっぽく感じられる。セル/クリーヴランドによるエミール・ギレリスのほうの録音を想起するが、オーケストラの具合は今日のN響と双璧だが、ギレリスのピアノはもう少し線が細いというか透明な響き。セル好みと言える。

ゲルバーは響きが豊饒であり、むしろ、リサイタルのほうが表現の幅を明確に聴くことができるのかもしれない。

今日はゲルバー&尾高&N響に拍手ということにしよう。

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記憶では昔のゲルバーは補助の器具を使っていたように思うが、この演奏会では自力であった。河童の記憶も錆ついてきた。

久しぶりに観るゲルバーは太ってしまったが、響きの峻烈さは今日のところは、変わったのか、いやそれとも昔どおりなのか、いまひとつわからなかったが。

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608- 征爾 第3楽章でしこをふむ 2008.5.16

2008-05-18 19:36:32 | 音楽

小澤征爾の棒はよく観ているような気がしていたが、よく考えるとそうでもない。

宇野さんみたいに明らかに嫌いといった評も見受けられたりするが、こちらとしてはそうでもない。

もう723才だろうし、まだまだ元気ではあるが、もしかすると第2の充実気なのかもしれないし。。

この前、渋谷の塔レコでいつものようにCDを物色していたら、スピーカーから流れてくるショスタコのとんでもない怪演第5番に驚き、思わずキャッシャーのところにいってその演奏中のCDを見てみたらなんと小澤の名前があった。斉藤記念オケという高性能オケ相手に悶絶解釈をおこなったようだ。

斉藤記念オケというのは、Orchestra after Saito となるのだろうか。そうするとオーケストラに名前がない。

実際のところはSaito kinen Orchestraのようだが、禁煙オーケストラのようで、テンポラリーのオケとはいえ、斉藤さんに関係ない人たちにとっては人名オケというのは少なからず違和感がある。

ということで、小澤征爾の棒さばきをみにいきました。相手は新日フィルです。特別演奏会と銘打っていて、値段も日本のオーケストラのいつもの倍です。どうせ倍なら、ということで2階センター最前列で拝見しました。2階の場合、招待客は2列目あたりに陣取っているようなので河童はただの金払う客ということになります。

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2008516()7:15pm

サントリーホール

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モーツァルト/ディヴェルティメントK.136

モーツァルト/オーボエ協奏曲

チャイコフスキー/交響曲第6番 悲愴

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オーボエ、古部 賢一

指揮、小澤 征爾

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チャイコフスキーの6番の第3楽章はいつきいてもやりすぎの曲。こんな曲が4楽章形式の第3楽章にあるなんて。。爆曲すぎる。

しかし、欧米の聴衆と異なり、日本人はこの第3楽章が終わってもフライングブラボーはおろか、身動きひとつしないで第4楽章を待つことができる特殊な人種だ。ワーグナーを観ているときの化石のような姿と似ている。

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小澤の振る第3楽章の音楽は、むやみに音楽を駆り立てることはしないが、自然なのりが素晴らしく、すべるような弦、なだれ込むコントラバス、咆哮するブラス、立体的な音響構築物を魅せてくれる。

後半の自然加熱の中で小澤の足にも思わず力がはいる。

小澤の棒は、といっても指揮棒はもたなくなってしまったが、いつも基本に忠実である。半歩先を進む棒。それでいて先を急ぐようなあわただしさにもならない。ここらへんやっぱり凄いと思う。

爆発する第3楽章は、とんでもない急降下をみせて終わるが、小澤はこのあとアタッカですぐに第4楽章にはいる。

曲想ががらっとかわる第4楽章だけに、ここは一服置いてほしい。聴衆のフライング拍手をせき止める意味合いも少なからずあるかと思うのだが、この国でやっている間は心配無用なんだ。アメリカあたりだと今でも曲が終わったと思い帰り支度を始めたりする例もあるが、ここらへん、日本人の化石状態を少しは見習ったほうが良い。

ということで第3楽章第4楽章のアタッカは軽い違和感を覚える。バレンボイムがベートーヴェンの第7番を全楽章続けて演奏するのとは少し意味が違うと思う。

小澤が冷静でも音楽は勝手に盛り上がりをみせる第3楽章の雰囲気のまま、第4楽章にはいってしまうと、第4楽章にはそれなりの例えばブラスの咆哮があるわけだが、どうも第3楽章のモードがそのまま乗り移ってしまうようなところがある。全く違う音楽が妙に駆り立てられた音楽となってしまうが、それが小澤の意図するところなのだろうか。

たしかに、ふちどりが明確になり、もやもやがなくなり、クリアな悲愴第4楽章には違いないが。

いずれにしてもエキサイティングな第3楽章が終わってしまうと、第4楽章そのものがコーダみたいな感じ。バーンスタインの驚異的な粘着演奏とは天と地ほど異なる。

この曲を何度演奏しているか知らないが、第1楽章の例の第2主題の入りは息をのむような美しさだ。こうゆうところはオーケストラが変わるたび、また同じオーケストラでも久しぶりの演奏のときは入念に練習をおこなっているのだろう。何しろ曲の肝だけにはずしてはいけない。ここをいかに美しく演奏するかがこの曲のポイントなのだ。

湯気がたつような艶やかでまろやかな響き、そしてただ音楽がそこらあたりに漂っているようななんともいえないとろみトロトロの情緒。言葉では表せない。小澤はやはりつぼにはまればすごい。柔らかさから剛直なものまで全てを彼は表現できる。

前半の一曲目。モーツァルトのディヴェルティメントの第2楽章中間部のピアニシモは作為を通り越して、自然な驚きが聴衆の耳を誘う。ハッとする解釈でありその意外性が成功している。音楽はより立体的になり小曲どころではなくなる。

二曲目のオーボエ協奏曲。これまた明確でクリアな音楽を楽しめた。

おわり

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607- ふっ、週末は何を作曲しようか

2008-05-15 01:07:20 | 音楽

3

今週末は何を作曲しようかな。

土曜日は渋谷に尾高さんの十八番の曲を聴きに行かなければならないので、日曜日作曲家だね。やっぱり。。

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シューベルトの未完成の上を行く極度に美しい曲を作りたいといつも思っているのだが、全然イメージ湧かない。

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さぁ、週末まで、もう一息。

がんばりましょう。

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606- レーグナーの腰をいれたベートーヴェン・プロ 1991-32

2008-05-13 01:00:33 | 音楽

Scan10002

前回のブログ、メータ指揮イスラエル・フィルの翌日はハインツ・レーグナーの棒でオール・ベートーヴェン・プロだ。堪えられませんなぁ。

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19911124()2:00pm

オーチャード・ホール

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ベートーヴェン・プログラム

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レオノーレ序曲第3

ヴァイオリン協奏曲

交響曲第6番 田園

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ヴァイオリン、カール・ズスケ

ハインツ・レーグナー指揮

ベルリン放送交響楽団

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このプログラムは結構長い。

演奏だけで2時間に及ぶ本格的な公演だ。

昨今の短いコンサートとは趣を異にする。

ところでこの日のプログラムであるが、今見てみると非常に奇妙だ。普通だと、来日公演が全部載っており、公演のどの地でも見れるような共通的なプログラムが普通なのだが、この日のプログラムは、今日の演奏のことしか書いていない。ほかの日のことは全く書いていない。完全な冠コンサートなのか、それとも関係者だけのコンサートだったのか。河童は関係者ではないし、見れば見るほど奇妙なプログラムだ。

それに楽団、団員の紹介などもあるのが普通だが、それも全く書かれていない。

指揮者、オケのこと、それに曲の紹介。最後に宇野さんがレーグナーのことを少し書いている。だけ。。

従って、ほかの日はどこで何を演奏したのか全く分からない。

今の時代にあって、このような曲を3曲並べることのできる指揮者がいるだろうか。普通だと、たぶん、レオノーレは削るだろう。

素晴らしかったのは田園、そしてヴァイオリン協奏曲の伴奏部。

なんというか、いわゆるドイツ的に、正三角形に落ち着いた音型を形作るオーケストラではない。横広に、輝く音である。アメリカ的な感じはしないが、普通のドイツの森的なオーケストラの音でもない。いくらブラスが鳴らしても弦と平衡感覚があるあたり品位と節度がある。レーグナーのなせる技なのだろうが、田園の第5楽章における光り輝くホルン、そして慎ましやかにして大胆なブラス、安心して響きに身を任せられる。非常に心地よい祈りの音楽であった。

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レーグナーの棒は、非常にち密で速度がわりと速い。かと思うと大胆に鳴らしたり、誰も何もしないようなところでクレッシェンド、デクレッシェンドの波を作り音楽にうねりをもたらしたりする。一言で言うとかみごたえのある音楽を作る人だ。

田園の後半の音楽にレーグナーの棒は合っている。その存在、まるでレーグナー自身の嵐のような音楽がジャストフィット。見た目は日本のサラリーマン風情なのだが、作りだす意志の音楽はかたくなだ。

ヴァイオリン協奏曲の丁寧なオーケストラ伴奏は聴きものだった。伴奏をしているというよりも、みんなできれいな室内楽アンサンブルをやっている雰囲気であり、ズスケのわりと線の細い音楽作りとは別のところで楽しんでいたようだ。

レーグナーの棒というのはこのようにきっちりとしたものであり、またときには大胆になり、いずれにしても聴くほうにも技量が必要。その意味では、ドイツシャルプラッテンから多量に出たレーグナー指揮の演奏は忘れ難いばかりではなく、何度でも聴き返したくなるような要素をもっている。

鳴らすところは鳴らすが、全般には清らかに響いたベートーヴェン・プログラムであった。

さて、レーグナーといえば、愛聴盤がある。

これ。。

591- 愛聴盤は不思議な演奏。

おわり

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605‐メータのマーラー悲劇的 1991.11.23 1991-32

2008-05-11 14:04:57 | 音楽

Scan10001

ニューヨーク・フィルハーモニックの任期をこの年終えたメータが、その年欧米ならシーズン・オープニングから2か月ほどして、遠の昔から気持は手兵のイスラエル・フィルをひきつれて来日をはたした。イスラエル・フィルの来日は5度目。

本当にパッとしないプログラムを持ってきた。

12回公演だがこのプログラムだけ聴けば十分だろう。

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19911123()700pm

東京芸術劇場

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マーラー/交響曲第6番 悲劇的

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ズービン・メータ指揮

イスラエル・フィル

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アップした写真のキャッチコピーに、神が宿る瞬間、とある。

いろいろと意味のわからない造語乱語が入り乱れている昨今ではあるが、当時から錯乱はあったようだ。全く意味不明。誰がこのような刷り込みをするのであろうか。

当時、弦のオーケストラ、と言われ弦の素晴らしさをそれなりに認識していた聴衆ではあったと思う。それでは弦以外はだめかというそんなことはない。調子がいい時と悪いときがある、むらがあるということだろう。普通のオーケストラである。

艶やかな弦の素晴らしさ、泣き節の素晴らしさは、前にも書いた。あれ以上のものを知らない。指揮者のおかげが大だが。これ。

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1979820

ザルツブルク、フェストシュピールハウス

メンデルスゾーン/交響曲第3番 スコットランド

レナード・バーンスタイン指揮

イスラエル・フィル

NHK-FM 1979.12.14

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この素晴らしい泣き節は指揮者のおかげだが、概ねこのような感覚が定説的に流布していたわけだ。

.

ということでいつもの通り話がそれました。

イスラエル・フィルの音は思いのほか太い。ブラス、ウィンドは濁り気味かもしれない。ピッチが揺れる。機能的なオーケストラが栄えるこの時代、とりたてて神が宿る瞬間はなかったようだ。

当時の流行は猫も杓子もマーラーである。いつか私の時代が来る、といったらしいマーラーについにその瞬間が現れた時代のはじめであった。聴衆は実演でもある程度は聴き慣れしており、大昔、日本のオーケストラがまともに演奏はできないだろうなどと言われた6番だって普通に聴けるようになっていた。だから耳ぐすねしてその大曲を待っていたわけではない。ただ、ほかのプログラムがあまりにもパッとしなかったので、やっぱりマーラーかなぁ、という感じで聴きに行った記憶がある。

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つぶれ気味というか、ブラスの踏ん張りが、ピッチのあった透明なサウンドの積み重ねなのか、ただフォルテシモを重ねただけの音なのかを、いたって普通の聴衆も知っており、どちらかというと後者よりの音のでかさにびっくりした。

メータ自身この当時まで、日本の聴衆のことはよく知らなかったのだと思う。ぞんざいとまではいかないが、早い話、覚悟のない演奏だったようだ。

はたから見てもともと聴衆に迎合するような雰囲気を持っていない指揮者であり、日本人の、我々がこれだけ喜んであげているんだから少しは反応してよ、みたいな感覚にことさら媚びる感性は持ち合わせていない。そんな感じが強いものだから聴衆のほうもアラさがしに走ったのかもしれない。もちろん、マーラーが既に食傷気味だった人もいたのかもしれない。

最後の打たれないハンマーにたどりつくまでのフレーズ、ブラスがクレシェンドをしながら下降していくものすごい爆音のなか、ひたすら弦が登りつめるその様の凄まじさは、まさしく筆舌に尽くし難い音楽であるが、その局面における弦の張りつめるも滴り落ちるような美しいサウンドの魅力はなにものにも代え難い。たしかにそこには輝けるストリングがあった。

その前の第3楽章のアンダンテの夢見るような溶けてしまいそうなこの世のものとも思えない響き、そこにも確かにあった。ホルンなどかなりきわどいが、楽譜に刷り込まれた音符が浮き上がってくるような弦の響きに幻惑されずにはいられない。

なんとも絶妙にして自然な響き。熱を帯びた響きではないがまとまって艶やかに動き回るサウンドはそれ自体一つの個体が独立したさまを魅せながら漂う。

いいところも悪いところも一つ一つ浮かび上がるオーケストラであったようだ。

おわり

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604- ホヴァーンシチナ レニングラード国立歌劇場4 1991-31

2008-05-07 00:05:01 | 音楽

4

1991年のレニングラード国立歌劇場の初来日のことを書いてます。

前回

前々回

前々々回

.

3本の出し物のうち、これが3本目です。

2回のみの上演です。

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1991124()1830

東京文化会館

.

ムソルグスキー/ホヴァーンシチナ

(リムスキー・コルサコフ版)

.

演出:スタニスラフ・ガウンダシンスキー

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イヴァーン・ホヴァーンスキー公/

ウラジーミル・プルートニコフ

アンドレイ・ホヴァーンスキー公/

ヴィクトル・アファナシェンコ

ゴリーツィン公/アレクサンドル・ペトロフ

シャクロヴィートゥイ/ニコライ・コピロフ

ドシフェイ/ウラジーミル・ヴァネーエフ

マルファ/イリーナ・ボガチョーヴァ

代書屋/ヴィクトル・ルキヤーノフ

エンマ/ヴァレンチーナ・ユズベンコ

.

指揮ミハイル・ククーシキン

レニングラード国立歌劇場

リムスキー・コルサコフ版による全2幕版。

1幕=3

2幕=3

という構成。(本来は56場もの)

.

台本がムソルグスキーのオリジナル、未完成の遺作でアルコールのせいもあり、わりとボロボロ、オーケストレーションはショスタコーヴィッチやリムスキー・コルサコフが行う。幕構成を変えてかつ削除、改変あり。こんななのに。。

ものすごい。うったえる力が。。

はまればはまるほどはまってしまう。深い心理劇の中に。。

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心理描写を音楽とともに表現したホヴァーンシチナはオペラというよりも、もう、劇そのものだなぁ。音楽は縁取りを与えていく。

2幕終場で炎の中にはいっていく教徒の姿は凄惨極まりないストーリーで観ていられないくなったりする。死が彼らを救うのかもしれないが、あまりの壮絶なラストシーンに、そのような観念の世界を超えた不思議な軽い空気のような、歪んだブラックホールのような、なんとも言えない心理世界に没我となりエンディング。。

いつもこうだ。。

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ホヴァーンシチナこそは、CDだけではまるでわからない世界だ。観なければはじまらない。だって、劇を、音だけ聴いてどれだけわかるというのか。

出来れば生で観たい。DVDなどヴィデオでもいいが、スクリーンが部分的だったりしてどうももどかしい。

だから、日本でロシアのオペラが上演されるときは、ロシアものはロシア人にしか出来なくて、日本人がやったなどという話は聞いたことがないし、絶対に観に行かなければならない。

2幕は3場まであるのに、ホヴァーンスキーは1場で殺されてしまう。

ペルシャの女奴隷たちに踊りを踊らせ、そのあたりから空気は微妙なものになり、シャクロヴィートゥイの命を受けた刺客が突然ホヴァーンスキーを襲い、一突きで彼はやられる。

シャクロヴィートゥイによるペルシャの女奴隷の歌が薄気味悪くソロで繰り返されるとき観客は鳥肌が立ち、完全にムソルグスキーの世界にはまる。

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権力の移り変わりだけでなく、宗教の世界をからめその比重が大きいのがホヴァーンシチナであり、そこがボリスの世界とやや異なる。

流れとしては、ボリスのあとにホヴァーンシチナで締めくくれば、宗教的なものが権力の推移を終わらせてくれるのではなく、いつまでも繰り返されるから、ストーリーとしてはここで一区切りを持ちたかったのだろうというムソルグスキーの台本作戦だったのではないか。そのようなことがなんとなくわかるような気がする。

それで、レニングラード国立歌劇場であるが、なんというか、スタイリッシュとでも言おうか、微妙な不気味さがあまり前面に出てこない。どろどろしたものがない。

なんだか、普通の劇のように進行する。終場はインパクトがあまり感じられず、あっけにとられているうちに尻つぼみ的に終わる。リムスキー・コルサコフ版のせいなのか。

舞台もきれいすぎる。暗いことは暗いのだが、事物人物が整理整頓されていて、あえて言うならば、機能的とでも言おうか。そのこと自体がうったえる力を少なくさせるとは言うまいが。

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歌もオーケストラも全体的に線があまり太くなく、細ければ細いほど正確性が求められてしまい、そこの兼ね合いがうまくとれていなかったのかもしれない。

ただ、その場で感じたのは、その日はそうだった、ということであり、あぁ、別の日はきっちりとものすごい日があるのだろう、と思える力をそこかしこで出していたこと。

終わり

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603- オネーギン レニングラード国立歌劇場3 1991-30

2008-05-04 01:58:28 | 音楽

3

前回

前々回

レニングラード国立歌劇場初来日のことを書いてます。

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今日はエフゲニー・オネーギンの公演初日の模様です。

模様といっても昔の話で忘れかかってます。

14公演のうち、オネーギンは7回公演であり、舞台装置のこともあるに違いないけれども、それなりにだいぶ力をいれた演目に違いない。

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19911117()13:00

東京文化会館

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チャイコフスキー/エフゲニー・オネーギン

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演出 スタニスラフ・ガウダシンスキー

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ラーリナ/ラリーサ・チェットーエヴァ

タチヤーナ/リディア・チョールヌイフ

オーリガ/ニーナ・ロマーノヴァ

乳母/イリーナ・ボガチョーヴァ

レンスキー/ニコライ・オストロフスキー

オネーギン/アレクサンドル・ネナイドフスキー

ロートニー/スタニスラフ・ブレーエフ

フランス人トリケ/ウラジーミル・ナパーリン

士官ザレツキー/セルゲイ・サフェーニン

グレーミン公爵/ウラジーミル・ヴァネーエフ

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指揮 ウラジーミル・ジーヴァ

レニングラード国立歌劇場

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175

247

337

(プログラム表示タイミング)

3幕第1場におけるグレーミン公爵は、いい役どころだよね。

この段になってちょこっとあらわれて口説きの手法、結果をとくとくと歌い大喝采を浴びる。

みじめなのはオネーギン。やっぱり、俺ってオネーギンだよね。。

そもそも、オネーギンはこのオペラでは影が薄いというか存在感的にはタイトルロールになるほどではない。タチアーナがメイン。第12場の寝室での静かなもの言いなんてとっても素敵です。

だいたいにおいて、このオペラは室内楽である。オーケストラのような大きな音が空間を縁取っていく素晴らしい室内楽。そのような音響とタチアーナの寝室での歌は説得力あるよね。

22場の決闘のシーンでさえ、室内楽的美しさである。雪の場面こそ美しさの極み。

チャイコフスキーの1番の傑作は、ナッツクラッカーであると信じて疑わない。溢れ出るメロディー、美しさがしたたる音、横の流れに縦の厚さが、なにか、透明な氷柱のようなものが立ちつくしたまま横に流れていくような、このぶ厚さが、そう、なにもかもが音楽に震えている、それがくるみ割り人形。。

しかし、そのようなある意味ドライな響きが強調された音楽とは少しく対極にありそうなオネーギンのウェットな響き。弦のしめった様が異様に美しい。

12場のタチアーナの音楽をはじめ、チャイコフスキーは、ここでは、どのような些細なもの小さなもの、とるに足らない心の動き、そのようなどうでもいいような道端の草に命を与えるかのごとく音楽の炎の核を燃え上がらせてしまう。エフゲニー・オネーギンの音の美しさは何ものにも代え難い。

昔、メト座の河童はオネーギンを観るとき、第2幕第2場で、そのはじける音が出る前に耳をふさぐおばあさん、メト超常連歴史おばあさんに何度か遭遇したことがあるけれども、そしてその気持ちはある意味よくわかるけれども、そこは最大の場面ではない。レンスキーとの決闘の場面でさえ、スケルツォでしかない。オネーギンはそこではかろうじて勝つけれども、やっぱりストーリー的にはオネーギンはいま一つぱっとしない役回りだし、この局面も音楽の盛り上げ方は意識、作為、抑制のあるものだ。

レニングラード国立歌劇場の音はこのオペラに限りなくあっている。透徹した響き、透明感のある音色。ややメタリックで分解度の性能が高い弦。

この音楽を表現するにはちょうど良い音質だ。

ということで心象風景はなんとなくあるものの具体的なところまではなかなか思い出すのは困難。

ちょっと話がそれるが、1990年前後に、オペラでは字幕が舞台にでるようになった。オペラに字幕がついた最初のオペラ公演はどれだったのかしら。

最初は、舞台中央上部に横に横断幕のようにでていた。特上席に座っていた人たちは首を真上に上げなければならず字幕どころではなかった。

今日のこの公演ですが、字幕が付いていたのかどうか思い出せない。

続く

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602- ボリス レニングラード国立歌劇場2 1991-29

2008-05-01 01:04:49 | 音楽

2

昨日の続きです。

初来日したレニングラード歌劇場公演の二日目に潜入してみました。

演目は初日と同じボリス。

ロシアの古典です。

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1991年1114()18:00

東京文化会館

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ムソルグスキー/ボリス・ゴドゥノフ

(全2幕 95分 60分)

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演出 スタニスラフ・ガウダシンスキー

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ボリス・ゴドゥノフ/ウラジーミル・ヴァネーエフ

フョードル/ユーリア・ゲルツェヴァ

クセーニャ/タチヤーナ・ドムニーコヴァ

乳母/マイヤ・クズネツォーヴァ

シューイスキイ公/ヴィクトル・ルキヤーノフ

ピーメン/ウラジーミル・プルートニコフ

シチェルカーノフ/アレクサンドル・ネナドフスキー

グリゴーリイ/ウラジーミル・シチェルバコーフ

マリーナ/ニーナ・ロマーノヴァ

ランゴーニ/ニコライ・ログビーノフ

ヴァルラアーム/ヴァレーリー・コチキン

ミサイル/ヴァレンチン・シエヴェレフ

宿屋の女主人/ニーナ・ポターシェヴァ

聖愚者/ニコライ・オストロフスキー

役人ニキーチチ/セルゲイ・サフェーニン

ミチュハ/イゴーリ/サムーロフ

側近の大貴族/ヴァレーリー・コルジェンスキー

貴族フルシチョーフ/ゲルマン・リュチコ

居酒屋の警察官/カレン・アーコポフ

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指揮:ウラジミール・ジーヴァ

レニングラード国立歌劇場

以上、キャストで知っている人は一人もいなかった。

ダブルキャスト、トリプルキャストを組んで万全の体制であるが、どっちにしろ誰も知らない。

国際的な歌い手はいないのであろうか。

それとも聴き手の単なる無知?

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この公演でよく覚えているのは、前列ど真ん中に陣取った河童であったが、第1幕第2場の戴冠式の場面で、幕があがるなり風の向き、空気の流れが客席のほうに向かってくるのだが、その空気の流れに乗って思いっきりカビ臭い匂いがいたたまれないほど強烈に吹きこんでくるのであった。

ツアー用の道具だと思うのだが、ツアーを何年もやっていないわけではなく、また、ぶっつけ本番で広げた舞台装置であるわけでもないと思うのだが、とにかく強烈なカビ臭が全身にぶち当たる。

換気の悪い焼肉屋に行ってスーツの覚悟を決めるような趣きであった。。

歌のドラマが始まると吸引力の強いボリスの世界に引き寄せられ匂いのことはじきに忘れてしまったが、鼻にはあとあとまでカビがついていたようだ。

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オーケストラの音はボリショイとはかなり違う。

ボリショイの重心の低いヘヴィー級のサウンドではなく、むしろ線が細いとさえ思わせるようなスタイリッシュなブラスであり、アンサンブルの密度が濃く、音が敷き詰められており空虚な穴がない。

弦も同様で動きが素早く機能的な感じだ。

土着のモスクワ、洗練のレニングラード、といったところか。

幕は全9幕を5+4の2幕構成にしたもの。ムソルグスキーのオリジナル・オーケストレーション。但し省略、カットが多く、トータル時間は短い。

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ボリスの世界は一回はまったらもうのがれることは出来ない。

ブラックホールの中心に向かうようなストーリーの厚み、ロシア長編小説そのまんま。

映画だと、惑星ソラリス、の世界だなぁ。

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権力者の心理描写に意味があるかといえばおおいにある。

彼も苦しみ、その心の動きを全く独自の音楽で覆い尽くす。超ユニークなムソルグスキーの世界がここに展開される。

ボリスこそ観て聴かなければならない。

苦しむボリス。

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そんななか、第14場の旅籠でのやりとりはものすごい迫力の音楽の動きとともに軽い笑いが印象的だ。このような音楽こそムソルグスキーしかなしえなかった技であろう。

2幕第1場のマリーナとグリゴーリイの愛の二重唱は、どうも男のほうのひ弱さが前面に出てくる感じがあり、やわな男としっかり女の二重唱といった印象があるのだが、それでも唯一光がのぞく場面であり久しぶりの日光浴といった感じ。

あと、個人的にはピーメンにあまり重心は置かずに聴く。

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ボリスは権力に苦しみ、死ぬ直前、息子のフィヨードルにその権力を移譲する。

しかし、それをシュイスキイがさえぎる。幕。

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このあとどうなるのであろうか?

権力の苦しみは普遍的なものとなり、果てしもなく続いていく。

このオペラはそのようなオペラ、ムソルグスキー独自の音楽表現オペラ、作品の穴をものともせず心の慟哭のストーリーが進んでいく。

ということで、ドラマチックなオペラの断片が記憶の彼方からエコーするだけとなってしまったが、ロシアの深いオペラは味わえば味わうほどもう一度観たくなる。

続く

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