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今週もヘヴィーな一週間でした。
最近酒量がだいぶ落ちてます。
週一ぐらいがちょうどいいですね。
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すきっ腹にビールもなく、いきなりウィスキーを流し込むのが一番。
この前、マネージャーズ・ドラムで強烈なのをいきなり飲んだら、すぐにきてしまいました。
かといって食べたいという気もおこらず。
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ちょっと前平日に夜更かししたのですが、私道にあるかんではおいしいものを食べさせてもらいました。
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今週もヘヴィーな一週間でした。
最近酒量がだいぶ落ちてます。
週一ぐらいがちょうどいいですね。
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すきっ腹にビールもなく、いきなりウィスキーを流し込むのが一番。
この前、マネージャーズ・ドラムで強烈なのをいきなり飲んだら、すぐにきてしまいました。
かといって食べたいという気もおこらず。
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ちょっと前平日に夜更かししたのですが、私道にあるかんではおいしいものを食べさせてもらいました。
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2010年5月21日(金)18:30-22:00 すみだトリフォニーホール
ドビュッシー オペラ「ペレアスとメリザンド」
台本:モーリス・メーテルリンク
ペレアス ジル・ラゴン
メリザンド 藤村実穂子
ゴロー モルテン・フランク・ラルセン
アルケル クリストフ・フェル
ジュヌヴィエーヴ デルフィーヌ・エダン
イニュルド アロイス・ミュールバッヒャー
医師、羊飼いの声 北川辰彦
合唱 栗友会合唱団
指揮 クリスティアン・アルミンク
新日本フィルハーモニー交響楽団
第1幕
第2幕
第3幕
休憩
第4幕
第5幕
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たしかに7割はピアニシモ系の音楽だが、オーケストラ編成はやたらとでかい。響きは多様な音色変化にとってかわられ、このまえ聴いたシェーンベルクの同曲の響きとはかなりかけ離れたフェザータッチではある。
休憩後の第4幕は後半に向かって劇的、第5幕は月が降り非常な神秘的な世界となる。
ということで、はじめてこのオペラを観ました。コンサート・スタイルではあるが、どでかい映画スクリーンがオーケストラの後ろ上方に陣取り、映画仕立てで曲目、出演者などが字幕で流れる。コンピュータグラフィックな妖しい森の映像がきわめて美しくバックを飾る。オペラのイメージがあればいい。パルジファルと同じだ。
スクリーンが最後部、その手前の台で歌と演技をする。オーケストラはその手前に定位し、さらにその前にこれまた台を置きそこでも歌と演技をする。つまりオーケストラを挟んで前後に台があり、最後部上方に映画仕立てのスクリーンがセットアップされている。
字幕は少しずれ気味のところもあったかと思いますが、このオペラ、字幕がなければ理解はありえないような感じ。通常のオペラ公演であるような右左に字幕が出るのではなく、映画スクリーンの上部の方にでる、非常に見やすいもの。
前半の一時間半第1,2,3幕は独白というか、オーケストラは伴奏にもなりえないような薄くて淡い響き。その中を声が美しく響く。メーテルリンクのストーリーも淡いものを感じさせる。この台本の魅力がどこにあるものなのか、日常的な接点がないのでまるでわからない。今日のオペラで少しわかったというところかな。
歌と間奏曲が交互に明確にいれかわりたちかわり。間奏曲はワーグナーのパルジファルを想起せずにはいられない。第1幕の場面転換の音楽に非常によく似た進行が親近性を感じさせる。ドビュッシーはワーグナーの音楽は作らなかったけれども、その魅惑的な響きはたまにでてくる。パルジファルの響きが美しく、同じくスクリーンの転換もグレイな色あいで飽きさせない。
ドビュッシーはワーグナーの反対をいったのではなく、ブルックナー、マーラーの大げさな音響構築物の逆をいったのであって、むしろワーグナーのパルジファルを押し進めたような方向感を感じぜずにはいられないものだ。
歌い手は、この種のオペラは日本人には無理なんだろうか。藤村が一人頑張っていたし、外国勢の中にあって違和感がない。
王アルケル役が急きょ日本人から、フランス人のクリストフ・フェルという人に変更になったが、どのような理由で変更になったのか知らないが、音楽の緊張感を素晴らしく高めただけで、不意のトラブルが悪い方向に展開したとはとても思えない。
エダンだけ声質が少し硬い。
最初はメリザンドとゴローの出会い。そして異父兄弟のペレアスが徐々に割り込んでくる。そして彼らのおじいさん王アルケル。この構図。
ゴロー役のラルセンはかなり堂々とした体躯でまるで中心人物。一人だけ現実感のある役で声ともどもリアル。
主要な歌い手が出た後で出てくるペレアス役のジル・ラゴンは非常に柔らかい声。このオペラに最もふさわしいような気がするが、それでも異父兄弟の母ジェヌヴィエーヴ役のエダンのような少し硬めの声質も音楽のリフレッシュに一役買っている。
構図としては、オーケストラの手前右に背丈のあるゴロー、同じく左に深みのあるバスで聴衆を鎮めるアルケル王。そしてオーケストラ奥にペレアスとメリザンドがいる。そのような位置関係がイメージされる。
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メーテルリンクの原作を恥ずかしながら読んだことがないので(先に読んでおくべきだった!)、このような淡いストーリーのどこがいいのか、やっぱりその本を読んでみないと登場人物の心の動き、それをうまく表現しているメーテルリンクの技、など今一つ理解できない。
第1,2,3幕はピアニシモだらけであっても微妙に陰影に富むように感じるのは、音符の出し入れとは別の声の響き、科白の面白さがあるからなのだろう。音楽が先か声が先か。
第1幕から第3幕にかけては、最初はメリザンドとゴロー。幕が進むにつれてメリザンドとペレアスにゴローが割り込んでくるようなおもむきになる。
30分の休憩後の第4幕は、ゴローがペレアスを剣で刺す局面であり、かなり盛り上がり音楽的緊張感も高まる。
しかし、緊張感は第5幕が白眉。ペレアスはもういないことを認識できない身ごもっているメリザンド。いつのまにか子供は王アルケルの手に取られている。ここらあたりのストーリーは点を追っていくようなものなのだが、筋書きを知らなくても理解可能な点のつながり、省略の美学が一層の緊張感を生む。王アルケルの説得力ある歌が非常に良く、スクリーンでは大きな月が上から降りてくる。少しずつ遠目にし、立ったまま舞台奥で息絶えたメリザンドを、舞台前方でゴローと王アルケルが看取りながら白黒のシルエット模様の舞台が暗闇に包まれる。この第5幕の緊張感は素晴らしい。空気が変わった。
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休憩のときに思ったのですが、このドビュッシーの音楽にはまったらしばらくは方向転換できないんだろうなって。しばらくというのは日単位のことではなく、この場ということなんですけれど、ドビュッシーに浸かっている自分がわかるんだけれども、もがけない感じ。第1,2,3幕のあとの休憩では休憩後に同じ音楽が欲しくなってしまう。
それまでの時代の音楽とは明らかに異なるウェットで柔らかい音、光がストリームのようにつながってかつ滑らかにうねっている。
音が声を邪魔しない。でも、なければいけない。
崩れ去る劇的表現。
淡くて薄い響きだが連続した流れとなり緩むことなく進む。閃きの光線が音の細い束となって隙間をかすかに進む。
なにもかにもがそんな感じ。
この日の空気を変えてくれたのは、素晴らしい歌い手だけではなく指揮者とオーケストラもそうでした。譜面を観たことがないのでよくわかりませんけれど、アンサンブルというよりもっとセパレートな連続ではなかったのでしょうか。緊張感を切らすことなく息の合った演奏を繰り広げた指揮者、オーケストラにも拍手。
おわり
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今年は平城遷都1300年です。思えば長い年月でした。
地域限定のコースターをいただきました。
このコースターはすべりません。
背筋をシャキッと伸ばし、一口ウィスキーを飲んだら垂直に置く。これがコツですね。
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平城遷都1300年祭
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1978年10月17日(火)
ベートーヴェン・ザール、シュトゥットガルト
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ウェーバー 魔弾の射手、序曲
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ドビュッシー 夜想曲
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ドヴォルザーク 交響曲第9番新世界より
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セルジュ・チェリビダッケ指揮
シュトゥットガルト放送交響楽団
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1979-7-31(火) NHK-FM
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この演奏会はシュトゥットガルトのベートーヴェンザールでのもの。いつもの、聴いたコンサート観たオペラ、とは違います。NHK-FMのエアチェックです。いつまでたっても忘れられない強烈な演奏。
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この演奏会が行われたのは1978年ですので昭和53年。NHKがオンエアしたのが翌年。
それを、オープンリールデッキTEAC X10Rで録ったもの。たしか。。
テープはスコッチの7号リールです。
数年後、TEAC X2000Rで再生したサウンドは格別だった。また、その数年後、今ではシーラカンスも化石になるのかといったたぐいのDATにしっかりおさめた。
今、DATもオープンリールデッキも休憩しているのでなかなか聴けないでいた。
つい先達て、ヤフーのオークションでこの録音を手に入れた。(新世界のみ)
演奏解釈のことはチェリの絶叫とともによく覚えているし、これが演奏の耳印になっているので、このオークションCDを聴いてみて間違いのないものと確信。
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チェリの棒による新世界には音がいっぱい詰まっている。とにかくオーケストラの充実度がものすごい。弦も管も力を振り絞って、あらんかぎりの力で演奏を行っている。なんという充実度。テンポ設定はかなり極端に変化するがフレージングの滑らかさは類を見ない。
いまだにこれを越える新世界は聴いたことがない。チェリにルーチンワークという言葉は脳裏の裏にも表にもない。大胆な表現、テンポ設定、音の出し入れ、普通ではないアンサンブルバランス、大変に新鮮。それに、極度に強いボーイング、ブラスの大胆さ、何をとっても素晴らしいの一語に尽きる。プレイヤーが圧倒的に指揮者に共感、共鳴している。
結果、ちまたのチープな演奏とはまるでかけ離れたこれぞシンフォニーの醍醐味、そんな感じの気持ちに気がついたらなっている。
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圧巻は、第4楽章フィナーレのコーダで第1主題が再帰する大団円。チェリの絶叫が2度聴ける。ここはすごい。
そしてアチェルランドできざみ、最後のブラスのピアニシモはあっという間に終わる。あっけにとられているうちに終わる。風船がしぼんだように終わる。言わば、マゼールの新世界のエンディングの全く逆をいくもので、たぶん長さをはかったら10分の一ぐらいではないか。超ユニークな表現だが、なにをとってもあとあとまで印象が残る気持ちいいぐらい奇天烈な演奏解釈だ。
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前半のフライシュッツとノクターンも濃い演奏だったと記憶する。
そのうちX2000RもDATも稼働させようと思ってはいるが、心配なのはハード面ですね。そう思って、ここにとりあえず書いておきました。
おわり
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2009-2010聴いたコンサート観たオペラはこちら
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2010年5月15日(土)3:00pm
NHKホール
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武満徹 ノスタルジア
~アンドレイ・タルコフスキーの追憶に
ヴァイオリン、堀正文
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ブルックナー 交響曲第7番(ハース版)
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尾高忠明 指揮 NHK交響楽団
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曲が終わるや否や間髪をいれるように拍手があったのではなく、最終音が鳴っている最中に拍手が起ってしまった。アメリカ流の品のない大雑把なもの。
この演奏、空気感が変化するところまではいかず、よくとれば、そのような日常のままの演奏感にふさわしい拍手だったともいえる。
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尾高の棒はそれこそ昔からそうなのだが、「ためのない」棒。上半身より腕が下がることのないそれでいてしゃくり上げ型の棒。ブルックナーの深呼吸、ワンテンポおいたアインザッツの深み、そのようなものがはっきり言ってしまえば、無い。
ズシンとこなくて、バーンとなる感じ。エルガーのようなイギリスブラバン的な音楽では、ストレートな鳴りが曲の前進性を高めぐいぐいいく。ブルックナーにおいては、垂直性というか、縦の深さが求められる。響きの厚さとでも言おうか。
尾高の十八番であるエルガーは、そのような前進性に加え、しっとりとした深み、なんともいえない味わい深い表現が備わってきたのだが、ブルックナーにおいては、その深み以前に棒そのものに少し問題があるようだ。意欲的な選択で、若いころならブルックナーより振りたい曲がたくさんあったはず。その意味では、ようやくブルックナーの世界に足を踏み入れたようなところなのだろうが、ホールの空気感が変わるようなところまではまだまだだ。4,5年前に聴いたミスターSの同曲演奏は見事に空気感を変えてくれた見事な演奏だったが、あすこまでになるには時間がかかるだろう。若い時からもう少しブルックナーを振っておいてもよかったのかもしれない。今だったら7番ではなく6番や1番のような曲のほうがいいかもしれない。
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第1楽章では三つの主題のうち第2主題でのアップテンポが印象的。第3主題もそのまま押し切る。
第2楽章アダージョも第2主題が早めの設定。
変化を大胆につけるのは悪くはないのですが、音楽がなんかとても軽くなってしまう。
第1楽章も第2楽章もブラスセクションのストレートなフォルテシモは締まっていて気持ちのいいもの。その先が欲しいし、別の表現も欲しい。
ワーグナーチューバ、ホルン、トランペット、トロンボーンは足並みがそろっており秀逸でした。ホルンは第4番ロマンティックのような活躍は少ないかわり、弦とのユニゾンで頑張らなければならない。松崎さんは、まるで弦だけ、のような見事なピッチで他を圧倒。
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第3楽章スケルツォは尾高にもう少しメリハリがあってもいい。第1,2楽章とあわせどうもちぐはぐな感が否めない。
第4楽章は第1,2,3楽章に比べて短く、もう少し構造を深彫りしてほしい楽章だと思うのだが、これは作曲家のもの。ブルックナーのバランス感覚。尾高の棒はこのようなストレートな曲想で進む音楽の方があっている。
今日のような感じで5番を振られたらたまらない。ブラスをはずして練習したらいかがなものか。
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前半の曲は、なにが、どこがいいのかまるでわかりませんでした。そもそもこの作曲者には興味が湧かず積極的に聴いたためしがない。
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2009-2010シーズン聴いた演奏会観たオペラはこちら
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先週は2回ほど演奏会いきました。最初の方から。
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2010年5月11日(火)7:00pm
サントリーホール
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ショスタコーヴィッチ
交響曲第7番レニングラード
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ユーリ・テミルカーノフ 指揮 読売日響
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シュワちゃんのチチンプイプイ、っていっても知っている人は限られていると思いますが、この交響曲の発想とは相いれないけれど、不謹慎とはいえ、どうしても思い出してしまいますね。チチンプイプイ。
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第1楽章 30分
第2楽章 10分
第3楽章 16分 (アタッカで第4楽章へ)
第4楽章 19分
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計測時間はこんなかんじだ。
ショスタコの交響曲は家の中で鳴らせない爆な音量のものがおおい。レニングラードもダメだ。この日の演奏も、かつらでもないのに髪が飛ぶ勢いの音圧。
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テミルカーノフの芸風は変化を遂げてきているとみても良さそうだ。第1楽章の各主題の柔軟性もさることながら、経過句の味わいが深い。この爆曲を昔から得意なテミルカーノフだが、音の扱いに一つ一つかみしめるようなおもむきがでてきている。30分におよぶ第1楽章で、その第1主題、第2主題の見事で滑らかな扱いに思わず吸い込まれ、あっというまに展開部のチチンプイプイとなる。この展開部はラヴェルのボレロとの発想の親近性をいわれるが、やっぱり、耐え忍ぶロシアの強じんな戦争の主題ですね。音量が徐々に増幅されてもブラスの合奏が安っぽくならずテミルカーノフ余裕と経験の棒の素晴らしさがうかがえる。
第2楽章では、主題の濃淡のつけ具合が見事。
また、曲全体に言えるが、単旋律とハーモニーのぶつかりの連続であり、シンプルさと複雑さが同居している。この第2楽章も見事だ。ダイナミックな側面がよく表現されている。
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何年か前、東京フォーラムでゲルギエフの棒、キーロフとN響の合同演奏をきいたことがある。
第3楽章は、なにか編曲があるのかしら。中間部でフルートのソロで奏でられる単旋律、ゲルギエフの時はたしかに、後半アタッカの前に再度弦楽アンサンブルで奏されたような記憶がある。
テヌート連発のテミルカーノフ。第4楽章のクライマックスに至る部分では、コーダへの明確な区切りのようなものはなくひたすら滑らかに極限状態に向かう。滑らかさの中での音圧増量、ブラスの滑らかなダイナミック。気がついたらいつの間にか音の大伽藍となる。
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粗野なところが全くない曲を知り尽くした棒、無理のない音の出具合で余計な力のかからない気張らない演奏となっていた。もちろん肉厚な読響のサウンドの見事さも忘れてはならない。
おわり
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2010年4月26日(月)7:00pm
サントリーホール
第492回定期演奏会
≪常任指揮者就任披露演奏会≫
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ベートーヴェン 序曲コリオラン
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マーラー 交響曲第10番よりアダージョ
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シェーンベルク 交響詩ペレアスとメリザンド
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シルヴァン・カンブルラン指揮
読売日本交響楽団
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マーラーのアダージョは線が細かったが、シェーンベルクはなんとも言えないデリカシーがただよっていた。
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シェーンベルクのペレメリを生で聴いたのは初めてかもしれない。一度聴いたような記憶もあるが調べないとわからない。
シェーンベルク初期の巨大な編成による巨大な曲だ。グレリーダーの歌を取り去り、さらに上着一枚ほど脱いだだけのような大規模編成の曲。浄夜の弦楽版に巨大ブラス、ウィンドを貼り付けたようなパレット。耳だけでは分析不可能な細やかな音の動きと巨大な嵐の響きのあやが素晴らしいの一語に尽きる。
交響詩とはいえ40分オーバーの単一形式というよりも、ソナタ形式の4部作。第2部スケルツォ、第3部の緩徐楽章、それらを挟んだ第1、4部のソナタ形式。
ドビュッシーのペレメリには遠くパルジファルの響きを勝手に感じたりしているのだが、このシェーンベルクはどうだろう。浄夜の淵があるようだ。どっちかに転んでしまいたくなるような。
ドビュッシーのペレメリは5月21、23日に新日フィルが演奏会形式でやるのでそれを楽しみにしよう。
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シェーンベルクは12音階イメージが染み込んでしまっている音楽ファンが多く、たしかに音楽歴史のドラスティックな展開(転換)局面を形作ったのはこの作曲家なのかもしれないし、その部分ではターニングポイント的重要性はあるが、そこだけみていては面白さ素晴らしさを全部理解したとは言えない。あまりに魅力的な音楽がたくさんある。
いまさら再発見でもないが、再発見というのは聴き手本人自身のなかの出来事であって、それはいつでも待ってくれているものであって都合の良いものかもしれないが、でもちょっとこの作曲家の魅力に深く突っ込んでみてもいいと思う。
カンブルランの棒は、曲を凌駕するような素晴らしさであって、体に巻きつく棒、腕の動き、指示、すべての面で曲を知り尽くしている。自家薬籠中の物がいつもそこにあり、この種の音楽を十八番にしているその棒の形が歴然と見事に決まっているとしか言いようがない。
細かいアンサンブル、極小ハーモニー、見事な音色バランス、きっちりそろえた縦の線、これらを明確に意識し指示する棒、そしてこのようなことの繰り返し、積み重ねが練り上げられ巨大化したサウンドの見事さを導くだけでなく、深く理解できる共鳴できる音楽ストーリーを構築していく。一聴するとわかりにくい音楽を分解してから組み立てていくというのはこのようなことをいうのだろう。指揮の形が曲を凌駕する勢いであった。見事な棒。カンブルランの得意分野ではある。
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前半2曲目のマーラー10番のアダージョ。これだけだと問題作でもなんでもなくなってしまうが、とにかく、異常に細かいデリケートな響きの表現に終始。オーケストラ編成のわりに縦の線の切り口で言うと薄い響きが多い。思わずこのオーケストラの響きが薄くなってしまったような、軽くなってしまったような居心地になってしまった。
終結部のブラスによるオルガン的響きを導入にしたコーダの展開は見事だが、全体的には拡散的印象が強い。どうせなら日をあらためて全曲版を聴きたい。前後対称な楽章形式の構造音楽を他人の作とはいえ、どうしてもカンブルランの棒で聴いてみたいものだ。
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前半一曲目のコリオランは、なんでやったのかわからない。
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この日はいろいろと企画、イベント日のコンサートでした。
まず、ミスターSにかわって、シルヴァン・カンブルランが読売日響に就任するということで常任指揮者就任披露演奏会になっている。この点、お見事。
マーラー10番のアダージョは、マーラーイヤーですのでそれにひっかけたもので、どのオーケストラでもそうでしょうがこれからさんざん聴かされることになるわけです。この日の10番はアダージョ楽章だけであり、カンブルランの棒ももう一つであったような気がします。
後半のシェーンベルクは、カンブルランの企画もの「3つのペレメリ」の一環。この日のシェーンベルクに続いて、フォーレ、ドビュッシーが当然、演奏されることになる。
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過去ログに以前聴いたカンブルランの演奏のことを書いてますのでよろしければ。
2006年12月15日サントリーホール
メシアン作曲トゥーランガリラ交響曲
シルヴァン・カンブルラン指揮読売日響
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