河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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0008- マルヴェン マリア・エリッツァ

2006-07-02 02:22:57 | 音楽夜話NYP

  エレクトラを体験してしまうとサロメはあまい、と思ってしまう。ドラマ性、調性などサロメは劇的であるが、エレクトラの、ドラマ性は言うに及ばず、調と無調の揺れ動きそのものの緊張感を一度感じてしまうと、そのトラップから抜け出すことが出来ない。

デュトワ&N響のたしか最後の公演でコンサート形式のエレクトラをやった。固唾を呑んで待つ聴衆。そこに巨大化したエリザベート・コンネルが現れたとき、聴衆からどよめきがもれた。ワーグナーの歌遣いが現れたと。聴く前から興奮状態の聴衆。すさまじい公演であった。リヒャルト・シュトラウスはエレクトラで頂点に達し、あとは時代をさかのぼり続けたのではないのだろうか。その最後の水源があの驚異的に異常に美しい「4つの最後の歌」、限りない時代錯誤ではあったかもしれないが、あまりの異様な美しさに時代錯誤の時代を超えて生き続けている。そしてそのあと作曲されたとする歌曲マルヴェン。この曲は多くの人は知らない。水源の先に水は無かったのか。


この曲の世界初演は写真にアップしてあるとおり。キリ・テ・カナワが歌った。彼女自身あまりに美しい。初演時の歌はあらためて聴いてみると割りとザックバランにやってる感じ。曲そのものも極度に深い味わいがあるのかどうか。「4つの最後の歌」の初演はフルトヴェングラー指揮によるフラグスタートの歌で、ゲネプロの録音は聴くことが出来るが、これは聴くのに努力がいる録音だ。それに比べマルヴェンはよい音であり、それぞれの曲。時代背景など、流れる歴史。


プログラムは河童語に訳してみたが皿技術がいまひとつだ。


“Malven”(“Mallows”) for Soprano and Piano

RICHARD STRAUSS

1948年後半の日付のあるリヒャルト・シュトラウスの最後の完成作品は未出版の歌曲”Malven”(“Mallows”)。今回の公演が世界初演。

“Malven”の存在は、シュトラウス専門家によって長い間知られていたし、また、ガルミッシュ・パルテンキルヘンのシュトラウス・アーカイヴにスケッチが存在していたけれども、その歌曲の文献はニュー・グローヴのシュトラウスの作品リストにもなければ、ノーマン・デルマー、マイケル・ケネディー、エルンスト・クラウゼらによる権威ある伝記にも存在していない。Erich H.Mueller von Asow博士のリヒャルト・シュトラウス:完全カタログ(ウィーン、1959)によると、その歌曲は未完成としてリストされている。

19849月に、”Malven”の唯一現存する手書き草稿が表面化して何かがあるように思われた。サザビーズが同年12月に、現存する”Malven”の手書き草稿をニューヨークでオークションを行なうと発表した。草稿はソプラノ歌手マリア・エリッツァの遺産の一部であった。彼女はシュトラウスのオペラの第一人者であり、1920年代、30年代前半にメトロポリタン・オペラで活躍したディーヴァであり、1982年に94才で亡くなった。シュトラウスは1948年後半、彼女のために”Malven”を作曲し、サイン付きスコアを194937日に彼女に送った。

「私が1215日に仕事の旅行ではなく診療に行く前に」、ローザンヌでの膀胱の手術のすぐあとに彼は手紙でマダム・エリッツァに言っている。「小さな歌曲を書き終え同封しました。たぶん、私はあなたに小さな喜びを与えることが出来る。どうぞ、私のためにそれを写真にとって、手書き草稿を持っておいて!」しかし、依頼されたコピーは送られなかったのは明白であった。

ズービン・メータは一度、個人的にマダム・エリッツァの”Malven”にアプローチしたことがあった。彼女は彼に、その歌曲-シュトラウスの息子のフランツの幾度かのリリースの願いでさえ拒んだ歌曲-を自分が生きている間は公での演奏をしないよう言っていた。メータはサザビーズがその草稿を持っていることを最近知り、初演の権利を得るようニューヨーク・フィルハーモニックに直訴した。フィルハーモニックは、草稿の購入者であるフレデリック・R・Koch基金、シュトラウス・ファミリー、マリア・エリッツァの遺産、の協力に感謝することとなった。

“Malven”の草稿スコア(2ページ、インク、作曲者直筆)には19481123日、モントルーと記されている。それはシュトラウスの最後の完成作品である“最後の4つの歌”の“9月”が完成した2ヵ月後であった。献呈文の最後の方にはこう書いてある。“いとしのマリアに、この最後のばらを”。この曲のタイトルの花(Malva属であり、Roses of Sharon,Swamp Rosesを包含する)は、シュトラウスの「ばらの騎士」でばらを運ぶオクタヴィンとしてのマリア・エリッツァの役、おそらくその両方を意味している。マダム・エリッツァはその生涯を通して、シュトラウスの音楽の最も重要な支持者であった。「ナクソス島のアリアドネ」では両方の版で初演のタイトルロールを歌った。「エジプトのヘレナ」や「サロメ」(エリッツァはシュトラウスが一番好きなサロメと言われていた)のタイトルロール、さらに「影のない女」の最初の皇女役であった。彼女は50年にわたり作曲者の親しい友でもあったし、また彼は彼女の美しさを大変に賞賛していた。彼が”Malven”を書いた同じ年の早い時期に、シュトラウスがプリマ・ドンナに送った歌曲“9月”の初期版草稿にには、“世界で最も美しい婦人へ”と書かれていた。

1948年、84才になったシュトラウスは見る影も無かった。第二次世界大戦においてドイツが負けたあと、彼はほぼ一文無しであった。彼はヨーロッパ音楽の伝統的保守的な権威から落ちてしまった。ロマンティックな音楽は人気がなくなっていた。いたるところにあった時代錯誤を思い浮かべてみるにつけても。彼は、第3帝国に協力した嫌疑を晴らす非ナチ化手続きをスイスで待たされていた。その年、彼は突然健康を害してしまった。シュトラウスと夫人はお金を作ってモントルー・パレス・ホテルをキープする為、いくつかの作曲の草稿コピーを作った。それらの数点をマダム・エリッツァが購入した。

1948年に、彼は広く世に認められることになる“4つの最後の歌”を完成させた。それはヘルマン・ヘッセ、ヨゼフ・フォン・アイヘンドルフのテキストによる。シュトラウスの死(194998日、尿道感染症で。) のあと出版社によってそのタイトルがつけられた。

何人かの専門家は、シュトラウスは5つのオーケストラ付き歌曲を計画していたと考えている。理由は1949年のヘッセンのもう一つの詩”Besinnung”の歌曲のスケッチの存在、またもしかすると”Malven”のうわさから。

シュトラウスはときどき意気消沈し、いつも死のことばかり考えていた。彼は自分の時代は終わったと感じていた。194810月ロンドンにおいて、彼は外国での最後のコンサートを指揮した。シュトラウスは記者たちに宣言した。「私は重要な人間ではないし名声も無い。地位も失った。ドラマの終幕に言う、取るに足らない言葉に過ぎない。」

今後の計画についての質問に対して彼は笑って答えた。「おー、ちょうど死ぬときだ。」

12月膀胱の手術をしたあと、彼は悲しげに書いた。「何故、長生きして普段の生活に呼び戻され続けるのか、と自問している。」

驚くことはない。11月に作曲された歌曲”Malven”は当時の世界の黄昏のムードを刻印したような諦めの雰囲気を持っている。スイスの詩人でノーベル賞作家のベッティー・クノーベルのテキストによる”Malven”はシュトラウスの”Abschied(告別)”の構成と同じである。この、秋のようなもの悲しい素朴な感じの全体的に見事な歌曲は、抑制されていて個人的でロマンティックなスタイルの4つの最後の歌、音においておそらく9月に最も近い。しかしながら、”Malven”4つの最後の歌に比べて簡潔で、冒険の無い曲である。さらに、シュトラウスはその曲をオーケストラ付きの曲にするつもりであった証拠は何一つ無い。72小節。テンポはアレグレット。4分の2拍子。変ホ長調。”Malven”の最も忘れられない音楽的様相というのは、優美でときどき急上昇するようなメロディーラインと平行4度で満ちている手のこんだハーモニーのつくり、遠い調への予期せぬコード転換(しばしば完全増4度の音を強調させる、例えば、終結部の最終カデンツァの、変ホ長調、イ短調、変ホ長調、それらは最も関係の遠い最後から2番目の音節のコードはドミナント・コード機能を与えられている。)

“Malven”はピアノによる静かな11小節で始まる。歌はそのあとCで始まる。DからGへ完全4度上げ、最初の物思いにしずんだ11音のフレーズの終わりでCに戻る。シュトラウスは11小節のピアノ間奏により、詩を2つのパートに分けた。”Malven”の英語訳を行なったサザビーズのロンドンに拠点を置く草稿の専門家であるStephen Roeが言うには、作曲家はもとの詩に少し変更をくわえた。例えば、花の名前を付け加えた。

シュトラウスは人生の後半、ガルミッシュの自分の庭を歩きながら、花の寛大さに喜び足をとめた。訪問者に彼は言った。「私がもはやここにいなくても、それらは咲き続けるでしょう。」 “Malven”シュトラウスの音楽最後のばらを楽しむことが出来るまで約40年が過ぎた。


Malven

Aus Rosen,Pflox,

Zinienflor

Ragen im Garten

Malven empor

Duftlos und ohne

Des Purpus Glut

Wie ein verweintes

Blasses Gesicht

Unter dem goldnen

Himmlischen Licht

Und dann Verwehen

Leise im Wind

Zartliche Bluten

Sommers Gesind.

-Betty Knobel


   Mallows

Among the roses,phlox and zinnias

Tower the mallows in the garden;

Scentless and drained of purple glow,

Resembling a tear-stained and pallid face

Washed by the golden,heavenly light;

And then,gently,they sway in the wind;

Dedicate blossoms,servants of summer.

  -Translated by Stephen Roe


(new york philharmonic stagebill 河童訳)

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0004- アントン・ザイドルは鎮まったのか。

2006-06-24 23:23:46 | 音楽夜話NYP

今まで数々の演奏を見聴きしてきた河童だが、この演奏会は見逃してしまった。
かれこれ100年以上もたってしまった。
この日の演奏会のプログラムは、

1898年4月2日(土)8:15p.m. カーネギーホール

FRANK VAN DER STUCKEN 指揮 ニューヨーク・フィル
バッハ プレリュード、コラールとフーガ
HENRY HOLDEN HUSS  クレオパトラ
ウェーバー  オイリアンテ序曲
ベートーヴェン  交響曲第9番第1、2、3楽章
ワーグナー  ジークフリートの死

第9が第3楽章で終わり、続けてジークフリートの死が響くときの心理的感興はどんなものなのだろうか。CDを組み合わせればすぐに聴くことが出来るのであろうが、このような形での哀悼というよりも限りない敬意の表現。このような演奏会に遭遇したことがある人がいればどんな気持ちであったのか是非訊いてみたいものだ。
ザイドルが亡くなって5日目のメモリアルコンサート。きわめて大きい存在であったというのは想像に難くない。ワーグナーの手足となり、業績の大きさはそのまま音楽的歴史となっていたはずだし、その音楽の全てをニューヨークに移植しにきた、その道半ばでの早すぎる死であった。

せんだって、大植英次とハノーファー北ドイツ放送フィルを聴きに行った。
そのときのプログラムが、

ワーグナー  リエンツィ序曲
ワーグナー  ジークフリート牧歌
ワーグナー  ワルキューレ第1幕
(アンコール)
ワーグナー  騎行
ワーグナー  ジークフリートの死

という内容だったので、つい100年前を思い出してしまったのだ。オールワーグナーで、この曲で締めくくるというのは日常の演奏会でもなかなか見かけない。
この日の演奏会は、ロバート・ディーン・スミスの異常に超ロングな「ヴェルゼ、ヴェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーールゼ」がサプライズであったが、大植がスローで細かな部分に気を配って全体を構築していくあたりはトレンドどおりだ。リエンツィの丁寧さ。オケはつやはあまりないが技術レベルとアンサンブルのよさが耳をひく。ジークフリート牧歌の美しすぎる演奏はこころのこもり具合が日本のオケとちょっと違う。

カミタソは悪だくみ3重唱あたりからいたたまれなくなってくるが、やがてジークフリートは殺され、カタストロフィーが世界を覆い、考える間もなく、澱は全部クリーンアップされ、もう一度世界は始まるらしい。ザイドルはワーグナーに始まり、ジークフリートに比類する存在の大きさが、巨大な功績となって残りその死はあの曲でオーヴァーラップされたのだ。カミタソの速度を増す最後の展開が彼をその音楽に乗せ、輪廻へ向かわせたと信じよう。彼が鎮まれば我々はまたラインゴールドを聴き始められる。
おわり

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