河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

2006-12-31 19:03:14 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク 1962年 -1- 
Tuning Week フィルハーモニック -2- 
オープニング・ナイト フィルハーモニック -3- 
インターミッション 写真 フィルハーモニック -4- 
サード・コンサート フィルハーモニック -5- 
The architecture of Philharmonic Hall (1) フィルハーモニック -6- 
The Architecture of Philharmonic Hall (2) フィルハーモニック -7- 
フォース・コンサート フィルハーモニック -8- 
シックスス・コンサート フィルハーモニック -9- 
The Ancestry of Philharmonic Hall フィルハーモニック -10- 
The Ancestry of Philharmonic Hall(2) フィルハーモニック -11- 
Tuning Philharmonic Hall  -12- 
The Uses of Philharmonic Hall -13- 
セヴンス・コンサート フィルハーモニック -14- 
The Architect フィルハーモニック -15-    Acoustical Consultants フィルハーモニック -16-
イレヴンス&サーティーンス・コンサート フィルハーモニック -17- 
Sculpture フィルハーモニック -18-    Cost フィルハーモニック -19- 
トゥエルフス・コンサート フィルハーモニック-20- 
End of a Long Search フィルハーモニック -21- 

おわり


End of a Long Search フィルハーモニック -21-

2006-11-15 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

End of a Long Search フィルハーモニック -21-

1842年12月7日、ニューヨーク・フィルハーモニックはブロードウェイ南よりのアポロ・ルームで最初のコンサートを開いた。以来120年、チャイニーズ・ビルディングのアッセンブリー・ルーム、ブロードウェイ・タバナクル、ニブロズ・ガーデン、旧スタインウェイ・ホール、アーヴィング・ホール、アカデミー・オブ・ミュージック、メトロポリタン・オペラハウスなどを転々とし、最終的にはカーネギー・ホールに移り、ここで70年以上テナントであった。1955年、カーネギー・ホールが取り壊されるというアナウンスがあった(のちに、ニューヨーク・シティの多くの友により救われた)。フィルハーモニックは常日頃から、自分たちのホールと場所探しなどについて計画を考えていた。それは、リンカン・スクウェア・アーバン・リニューアル・プロジェクトによる有効なそのエリアへの移動の決断であった。リンカン・センターは1956年に組織された。その年の11月に、ニューヨーク・フィルハーモニック・シンフォニー・ソサエティ委員会は、最初の構成員となるような解決方法を採用した。
マックス・アブラモヴィッツによる現在にいたる計画は4年に及び、100のプラン、数千のデッサンで始まった。
リンカン・センターにおけるフィルハーモニック・ホールの完成で、長期間にわたるサーチ、準備がニューヨーク・フィルハーモニックにとってようやく終わりとなった。
(終わり)

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


河童注:
フィルハーモニック・オープニング・ウィーク 1962年 -1-
から
End of Long Search フィルハーモニック-21-
の内容は、当時のプログラムを適宜参考にしております。
おわり


トゥエルフス・コンサート フィルハーモニック-20-

2006-11-14 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

トゥエルフス・コンサート フィルハーモニック-20-

あっという間の一週間が過ぎ、フィルハーモニック最後のコンサートとなる。
この日は通常のヤング・ピープル・コンサートとは異なるが、若者ご招待コンサートである。

1962年9月30日(日) 3:00P.M.
‘The Sound of Hall’
A program illustrating the acoustical properties of Philharmonic Hall
レナード・バーンスタイン指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック

ホールにふさわしい派手な選曲で締めくくったということになるであろう。
祝祭の後にはえてして悲劇がまっているものだ。1962年に華々しくオープンしたフィルハーモニック・ホールであったが、その後、演奏を重ねていくうちにひどい音響のホールであることがわかってきた。最初の頃の熱狂は余熱となり、最後はクールのどん底。
そして11年後の1973年改築、エイヴリー・フィッシャー・ホールと名を変え今にいたっている。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


Sculpture フィルハーモニック -18- Cost フィルハーモニック -19-

2006-11-13 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

Sculpture フィルハーモニック -18-    Cost フィルハーモニック -19-


Sculpture フィルハーモニック -18-

リチャード・リッポルドによる彫刻オルフェウスとアポロは、両方同形の非造形的なかたちで出来ている。これはこの彫刻家が手がけた最も大きい作品である。それは長さ190フィート、高さ39フィート、幅19フィートある。リッポルド氏と二人の助手が約三か月かかり作り上げた。ステンレス・スティールのワイアでつるされた190個の研磨されたマンツ・メタルで出来ている。一つずつが別々につるされている。作品を委嘱する際、氏はそれが、「昔のシャンデリアがかつてその空間に命令したように、空中に浮き、フォワイエのインテリアに現代様式的に関係するものである。」と要求した。リッポルド氏は、シカゴ・ファイン・アーツのアメリカ建築学会やニューヨークの建築連盟から表彰状を受け長年にわたり名誉を讃えられている。氏の業績はメトロポリタン美術館やニューヨーク近代美術館、デトロイト芸術学会、ハーバード大学、エール大学などに永年のコレクションがある。

Cost フィルハーモニック -19-
フィルハーモニック・ホールの予算は1,540万ドルにおよぶ。リンカンセンターのオープニングではおよそ1,170万ドルに達したと思われる。およそ550席は1,000ドル以上の寄付をした人たちによるものであり、名前が入ったブロンズのブローチがそこに与えられている。寄付による席のキャンペーンは全ての土間席と特別席が寄付によるものになるまで続けられる。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


イレヴンス&サーティーンス・コンサート フィルハーモニック -17-

2006-11-12 14:27:33 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

イレヴンス&サーティーンス・コンサート フィルハーモニック -17-

コンサートもだいぶ進んできた。
エイス・コンサート、ナインス・コンサート、テンス・コンサートは疲れがたまりスキップした。曲だけならべておこう。

1962年9月28日(金) 5:30P.M.
第8回コンサート
シューベルト/四重奏断章
カーター/四重奏曲第2番
ベートーヴェン/四重奏曲第8番
ジュリアード弦楽四重奏団
このときのメンバーは、
ロバート・マン、
イシドア・コーエン、
ラファエル・ヒルヤー、
クラス・アダム


同日 8:30P.M.
第9回コンサート
Bergsma In Celebration: Toccata for Orchestra(世界初演)
ストラヴィンスキー 「妖精の口づけ」からデイヴェルティメント
ウィリアム・シューマン オルフェウスの歌(ニューヨーク初演)
 チェロ、レナード・ローズ
シュトラウス 「町人貴族」
ジン・モレル指揮
ジュリアード・オーケストラ


1962年9月29日(土) 3:00P.M.
第10回コンサート
ドビュッシー 6つの古代の墓碑銘
 ナレーター、フェリシア・モンテアレグレ
バルトーク 2台のピアノとパーカッションのためのソナタ
 ソール・グードマン、モリス・ラング
ブラームス愛の歌
Haieff 2台のピアノのためのソナタ

ピアノ・デュオ
アルトゥール・ゴールド、ロバート・フィッツデイル


そして、第11回、第13回はアンセルメの指揮によるものであった。
1962年9月29日(土) 8:30P.M.
第11回コンサート

1962年9月30日(日) 8:30P.M.
第13回コンサート

ファリャ 恋は魔術師
 ジン・マデイラ

ファリャ アトランティーダ(アメリカ初演)
 アイリーン・ファーレル、
 ジン・マデイラ
 ジョージ・ロンドン

エルネスト・アンセルメ指揮
メトロポリタン・オペラ管弦楽団,合唱団


祝祭に相応しい意欲的な選曲である。
アトランティーダは舞台用カンタータということであるが、神話や架空の大陸などオペラの舞台では出来ないのでカンタータにしたのではないのだろうか。今の時代あればオペラの舞台でも大概のことはセット可能である。そのような舞台のほうがイメージが湧くし、あたり、が出るかもしれない。
メト座の河童の頃に見たヘンデルのオラトリオ「サムソン」の舞台は素晴らしいものであった。視界が音楽の理解を助けるのであればそれは大いに利用すべきだ。
それはそれとして、フィルハーモニック・ホールで鳴り響いたメトの合唱の響きはどのような具合であったのだろう。彼らもまた4年後にはここに引っ越してきてフィルハーモニック・ホールと直角に相対することになる。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

 

 


The Architect フィルハーモニック -15- Acoustical Consultants フィルハーモニック -16-

2006-11-10 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

The Architect フィルハーモニック -15-

フィルハーモニック・ホールは、ニューヨークのハリソン&アブラモヴィッツ建築会社のマックス・アブラモヴィッツ氏が設計した。ここの建築士はニューヨークではロックフェラー・センター、ユナイテッド・ネイション・パーマネント・ヘッドクォーター、CITファイナンシャル・コーポレーション・ビルディング、タイム&ライフ・ビルディングを設計している。ピッツバーグのアルコア・ビルディングなど、アメリカおよび外国の著名なビルディングの設計も行っている。アブラモヴィッツ氏の作品としては、コロンビア大学法律学校と図書館、ニューヨーク大学ローブ・ステューデント・センター、イリノイ大学アセンブリ・ホール、ブランダイス大学マスタープラン、スリー・チャペルのインターフィス(interfaith)・センター(アブラモヴィッツ氏はこの建築でアメリカ建築賞を受賞した)、さらに図書館や美術館など数多い。


Acoustical Consultants フィルハーモニック -16-

音響的な研究は、アドヴァイス・コンサルタントとしてイギリスはロンドンのホープ・ベイゲナルとともに、マサチューセッツはケンブリッジのボルト・ベラネク&ニューマンInc.の建築士により行われた。レオ・L・ベラネク博士がチーフ音響技師であった。メイン・ホールはラッセル・ジョンソンが助手として作業にあたった。ここの建築士がコンサルタントをしたほかのホールとしては、マサチューセッツ・レノックスのタングルウッド・ミュージック・シェド、ヴェネズエラ・カラカスのアウラ・マグナ、イスラエル・テルアヴィヴのフレデリック・R・マン・オーディトリウム、ドイツ・ベルリンのベンジャミン・フランクリン・ホール、ニューヨークのメトロポリタン・ミュージアム・オブ・アートのオーディトリウム、ニューヨークのユナイテド・ネイションズ・パーマネント・ヘッドクォーターなどがある。
ベラネク博士は、国際貢献と建築音響において1961年にアメリカ音響ソサエティからワランス・クレメント・ザビーネ賞を受賞した。氏は、フィルハーモニック・ホールを含む多数のコンサート・ホールの設計にかかわる本、音楽、音響、建築の著者でもある。
(続く)

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


セヴンス・コンサート フィルハーモニック -14-

2006-11-06 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

セヴンス・コンサート フィルハーモニック -14-

日曜から始まったフィルハーモニック・オープニング・コンサートもようやく木曜日まできた。

1962年9月27日(木) 8:30P.M.

エトラー 一楽章のための協奏曲 (ニューヨーク・プレミエ)

シューベルト/交響曲第9番グレイト

ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
 ヴァイオリン、アイザック・スターン

ジョージ・セル指揮
クリーヴランド管弦楽団


「ジョージ・セル クリーヴランド」
独特のいい響きだ。この組み合わせでなければならない。
1970年最初で最後の来日を果たしたジョージ・セルは、もう命の火がないことを知りながら長旅に耐えて、セルの楽器と化したクリーヴランド管弦楽団の驚異的なサウンドを日本のクラシックファンに植えつけにきたのだった。
吉田秀和さんの名文によるエロイカの演奏批評は評論を越えて美意識の表現そのものになっていたように思う。しかし彼でさえ遅すぎた。アメリカのオーケストラのことを全く聴く耳をもたない日本の評論家たちは、その演奏に茫然としたというよりも、吉田さんの名文の内容にショックを受けたのであり、そこらへんが開眼であった若き評論家もいたのではないか。
時をおかずセルのいのちは使命を終え、そこからが日本のセル&クリーヴランド評価の始まりであった。何と言う皮肉なこと。知らなかった、紹介してこなかった、ことが本当に評論家の方々の恥になったのであり反省すべきことではあったが、しかし来日して本当の音楽を聴かせてくれたセル&クリーヴランドは、日本で彼らの歴史がつながった。
以来、今でさえ、クリーヴランドはセルのものである。マゼールが振ろうがドホナーニが振ろうがメストが振ろうが、後に残るのは、「セルのCDを取り出して聴いてみるか。」といった意識に後戻りしてしまう。間際の演奏がEMIから連発したが、その中ではやはりシュベ9、ドヴォ8のなんて素晴らしい演奏。薄い雲がかかった琥珀のようなミルキー・サウンド。そして素晴らしいアインザッツ、高低のバランスの良さ、驚異的なピッチ、なにからなにまで言うことなしだ。
セルだけ聴きたいなら、ベルリン・フィルをバックにしたフルニエのチェロによるドヴォコンの唖然とする響きはしっかりとヘリオドールのLPに刻まれていた。溝は掘れて白くなってしまったけれども。
LP初期の頃の録音はたしかエピック・レーベルから出ていたように思うが、高音シャリシャリで聴いていられないものもあった。音の悪さが足を引っ張った感もあるが、いずれにしても日本人向けにいい環境にはなかったのであろう。CDになって見違えるばかりのサウンドになったが、オリジナルはいい音で残っていたのだろう。
それにしても昔のCBS、ソニーなどのLPもキンキンしたサウンドで聴いていられないものが多く、ワルターのLPなんて最初に買ったときに、なんでこんなキンキン録音が廉価盤価格ではなくレギュラー価格なのかわからなかった。モノラルLPは安かったが、ステレオ録音はレギュラーであり、また有名演奏家を決してチープに売らない昨今のソニー路線も、超凝った紙ジャケのこだわりなどをみればそれなりに納得するところもないではない。
というわけで、この1962年記念公演も素晴らしい。シュベ9とブラコンは普通と逆の順番のような気がする。当時からスターンはビックネームであることの証左か。でもやはり最後はあのEMIのシュベ9のサウンドで終わってほしいな。あの見開きLPが出た時、ジャケットを見ながら思いを馳せた第一プルトのダイアン・マザーさんとは後年、渋谷で焼き鳥のツーショットをしたような記憶があるようなないような、いまはクリーヴランドをリタイアしたが元気に音楽活動に励んでいるようだ。美しかったね。
(続く)

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

 

 


The Uses of Philharmonic Hall -13-

2006-11-05 00:01:21 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

The Uses of Philharmonic Hall -13-

フィルハーモニック・ホールはコンサート・ホールであり、全目的型のホールではない。エアコン装備で一年を通して使用することができる。ステージは奥行きが40フィート、幅が61フィートである。オーケストラ席(河童注:一階席)を取り除き、油圧式の台を上げると48フィートないしは56フィートに広げることができる。この空間はより低くすることも出来るので、劇場の上演が行われるときはオーケストラ・ピットとしても使用できる。オーケストラの全ての席(一階席)は取り払うことができ、テーブルと椅子を置ける。
フィルハーモニック・ホールの全ての演奏をテレビでライヴ放送することが可能である。
カメラはオルガン・スクリーンの後ろの張り出し台に隠すことができる。アコースティックな’雲’の上にさえ隠すことができる。補助カメラは特別な催し物のときは壁に沿った効果的な位置や観客席の後方位置に置くことができる。現代の高感度テレビカメラを使うことにより、また、より感度の高いあまり人目をひかない機器を使うことにより、全プログラムを聴衆や演奏者が気にかけることなく世界にテレビ放送することができる。
ニューヨーク・フィルハーモニックと招聘オーケストラや合唱は個別の控室がある。オーケストラにはチューニング部屋がある。そこは、指揮者用の隣部屋があるオーケストラ用台の両サイドにある、簡単にアクセス可能な’グリーン・ルーム’である。ソリスト用に控室があるし、フィルハーモニック用にはラウンジがある。
ニューヨーク・フィルハーモニック・シンフォニック・ソサエティの運営事務所と会議室はこの建物の最上階にある。
広場の階にあるフィルハーモニック・カフェはコンサートの前や後だけではなく、一日を通してやっている。
フィルハーモニック・ホールは地下鉄IRTやリンカンセンター732台収容の駐車場に直接接続している。路線バスにはいつでもアクセス可能だ。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


Tuning Philharmonic Hall -12-

2006-11-04 16:31:01 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

Tuning Philharmonic Hall  -12-

フィルハーモニック・ホールの調整は1962年5月28日に始まった。この一週間の間、電子楽器の前で、そして専門的な聴き手、作曲家や指揮者や評論家の耳の前で、オーケストラは演奏をプライベートで行った。
聴衆がいるようなアコースティックな効果を出すために、全ての席にファイバー・グラスのブランケットが置かれ、この調整期間中、席は占有された。そのうち、それは’インスタント・ピープル’と言われるようになった。
観客席の調整を行うために、アコースティック・パネルが調節された。変更は奏者が座っているところまでおよんだ。ステージの上を覆っているアコースティックな天蓋が調節された。ステージの周りにある木のスクリーンの後ろのパネルは適切な場所に置かれた。のちに他のたくさんのテストを、オルガニスト、独奏者、歌い手、合唱団、アンサンブル、とともにおこなった。調整のプロセスを完全なものにするために一年にもおよぶ期間が必要とされるかもしれない。全ての調整のために、聴衆ばかりでなく演奏者の必要性が考えられなければならなかった。音楽家はお互いに正確に聴きあうことをしなければならない。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


The Ancestry of Philharmonic Hall(2) フィルハーモニック -11-

2006-11-03 22:43:15 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

The Ancestry of Philharmonic Hall(2) フィルハーモニック -11-

コンサート・ホールの研究は、東はモスクワから、北はフィンランドのヘルシンキ、トゥルクまで、南はブエノス・アイレスまで及んだ。
二つの調査の方法が採用された。一つはコンサート・ホールの特徴のはかり方に、満員と空、上の席と下の席、全ての位置、現代のアコースティック楽器を使う、などを物差しとするものであった。もう一つは、世界中の多くの都市で活躍していてホールのことをよく知っている世界の27人の第一線の指揮者と25人のプロの音楽評論家にインタヴューすることであった。
コンサート・ホールは調査の結果5つに分類された。それは、素晴らしい(E)、大変良い(VG)、良い(G)、普通(F)、貧弱(P)、の5段階。これらの裁定は指揮者と評論家の協力でレビューされた。どれが、素晴らしい(E)コンサート・ホールで、どれが貧弱(P)なホールであるか、ということに関しては彼らの間に意見の相違はなかった。しかし、それは中間的なホールに関連する位置づけという点においてだけである。なぜなら、多くの音楽家、評論家が、異なるアコースティックの特性に基づいた異なる価値を持っているからである。
劣っているコンサート・ホールの特性は残響が1.3秒以下である。それは、彼らが演奏を始めるや否や残響がなくなるということである。残響が短いホールは講義のような話しにふさわしいが、コンサート・ホールには貧弱そのものである。ホールの理想的な残響は1.8~2.0秒である。残響が短くてライヴ感がないと、音はドライで薄くなる。残響が長すぎてエコーがありすぎると、音楽は混乱しめちゃめちゃになってしまう。もっと重要なことは、アコースティックな緊密感がなくなることである。フィルハーモニック・ホールでは、音が動き回る通路を短くしようとしたために、アコースティックな‘くもり’が音を少し早めに下げている。この2600以上の席を持つホールに、1500席のホールのような緊密な感覚を持たせてくれる。
コンサート・ホールというものは楽器のようなものだ。しかし、その機能は全く異なる。たとえば、ヴァイオリンは体から音を発散しなければならない。コンサート・ホールは、音、を含まなければならない。このため、最高のホールの壁、天井は全てが木であるということはほとんどない。木で出来ているように見えるけれども。
フィルハーモニック・ホールの壁はプラスターで出来ている。ホールの壁は音を反射しなければならない。他方、ステージの床はヴァイオリンの共振の特性を生かすものでなければならない。従って床は木で出来ている。コントラバスとチェロはステージの床にある糸巻きを通して音のポーションを伝えなければならない。
コンサート・ホールのアコースティックな品質というのは多数の要因から影響を受けている。たとえば、バルコニーの前方のふちはステージにエコーが戻らないよう、尖っていなければならない。
フィルハーモニック・ホールは、音、が鳴らなければならないだけでなく、不要な雑音を排除しなければならない。その基礎は地下鉄の音を防ぐため、鉛とアスベストの緩衝材で出来ている。屋根はジェット機の騒音や航空機の爆発音でさえ入り込まないよう設計されている。天井は振動が隔離できるよう吊り下げられている。ドアと壁は通路ロビーの騒音から遮蔽されている。よい演奏ができるようにするために奏者が音合わせをする部屋は、メイン・コンサート・ホールの音を排除するために、壁、床、天井が遮音されている。エア・コンのダクトはマフラー付で、音を吸収する素材で覆われている。End
(続く)

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

 

 


The Ancestry of Philharmonic Hall フィルハーモニック -10-

2006-11-02 00:04:25 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

The Ancestry of Philharmonic Hall(1) フィルハーモニック -10-

ここに偉大なコンサート・ホールの家系がある。
こんにち最もよく知られているコンサート・ホールはライプツィッヒにある音響的に非常に成功した1886年建築の1560席保有の新ゲヴァントハウスの後裔である。(河童注:1962年時点における新ゲヴァントハウス。現在とは異なる。)
この建物は第二次世界大戦で破壊されたが建て直された。それに由来するホールは特性や形が様々である一方、それらは自分たちへの支援、また家柄を認識している。直系の子孫として、アムステルダムのコンセルトヘボウ、ウィーンの楽友協会、グラスゴーのセント・アンドリュリュース、ブリストルのコルストン・ホール、バーゼルのシュタット・カジノ、チューリッヒのトーンハレ、ボストンのシンフォニー・ホール、そして、リンカン・センターのフィルハーモニック・ホール、などがある。
よく知られているフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックやニューヨークのカーネギー・ホールはオペラハウスの馬蹄形と同じような設計であった。
音楽が大衆のものになる前、特権階級のコンサート音楽は宮廷の音楽ルームでプライベートで演奏されていた。最も古いコンサート・ホールというものは小さいものであった。当時最高のホールの一つ、イギリス・オックスフォードのホリーウェル・ホールは18世紀中ごろに建てられた。そのホールは400席であった。そしていまもそのままである。ウィーンのルダウテンザールはベートーヴェンが生きているときたったホールで、今は既にないが、このホールも初期の有名なホールであった。ライプツィッヒの旧ゲヴァントハウスは400席であったが、1780年に、1894年にこわされた。
1920年より前、アコースティックな測定をおこなえる楽器はほとんどなかった。フィルハーモニック・ホールが計画されるまで、コンサート・ホールの存在意義に関する大規模な国際的研究はなかった。フィルハーモニック・ホールの設計は20世紀の60のコンサート・ホールの詳細な調査に基づいている。観客席の形に影響を与えたもともとの決定は30のホールの調査に基づいていた。加えて30のホールが、フィルハーモニック・ホールの残り部分の詳細に関連した知識をひろげるために調査された。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


シックスス・コンサート フィルハーモニック -9-

2006-11-01 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

シックスス・コンサート フィルハーモニック -9-

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク・コンサートはまだまだ続く。フィフス・コンサートは室内楽気味なのでスキップした。ここまで細かくなれない。
1962年9月26日(水) 5:30P.M.
NEW YORK PRO MUSICA
Noah Greenberg, director
小曲が10曲ほど。これに構うことなく、同日3時間後にはバーンスタインのハルサイがあるんだ。

1962年9月26日(水) 8:30P.M.
・シュトラウス オルガンと管弦楽の為の祝祭前奏曲
  オルガン、パワー・ビッグス
・ハイドン 協奏交響曲
  ジョン・コリリアーノ、
      ハロルド・ゴンバーグ、
  ラスロ・ヴァルガ、
     マニュエル・ツェグラー

休憩

・ヴィヴァルディ 4つのヴァイオリンと弦楽合奏の為の協奏曲
・バッハ 4つのピアノと弦楽合奏の為の協奏曲(ヴィヴァルディの編曲版)
  レオン・フライシャー、
     ゲイリー・グラフマン
  ユージン・イーストミン、
      ウィリアム・マセロー

休憩

・ストラヴィンスキー 春の祭典

レナード・バーンスタイン指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック


この夜のコンサートに遭遇した人たちはなんて幸せなんだろう。
すぐに目につくのが2回ある休憩。オペラでもない通常のコンサートでこのようなことはまずあり得ない。音楽に浸りきるには最高の夜となった。何と豊かな日よ。イマジン!
この素晴らしい選曲とめくるめくソリスト。そして祭典にふさわしく最後はハルサイでしめる。バーンスタインの腕もなる。全てのことを忘れさせてくれるスペシャル・ナイト。
一曲目のシュトラウスでオルガンの証明。オケを派手に鳴らし、ともども威力を示す。
一回目の休憩がありそのあとの選曲がユニークだ。ヴィヴァルディとバッハ、同じ曲だ。バッハの曲はヴィヴァルディのトランスクリプション。4つのヴァイオリンが4つのピアノに置き換わった。そしてピアニストのすごいこと。人はこれ以上ないところに集まる。
そしてもう一度休憩があり、メインイヴェントのハルサイだ。
バーンスタインはハルサイでも譜面を置くはずだが、その指揮姿は、まるで操り人形のようだ。右手が伸ばされ右斜め上に向き、左手が伸ばされ左斜め上に向き、右足が右斜め下からジャンプし、左足が左斜め下からジャンプする。それを同時にする。手足が全部伸びきった姿で蝶のように舞う。まことに派手であんなまねできない人たちにとってはその目はほとんど羨望の眼差しとなる。
演奏の中身?ニューヨーク・フィルのハルサイだぜ。最初から最後まで決まりっぱなしだ。ウルトラ・オーケストラであるシカゴ交響楽団のハルサイは、なんというか、もう少し乾いた埃のようであり、全体に重い。それに比べニューヨーク・フィルは黄色い白昼夢のような色合いで自由自在に動き回る。ベクトルを合わせて全員が一度に同時方向に向かう感じ。そしてそれが最初から最後まで続く。ジャンピング・スロー連発で振り切るバーンスタイン。同時同方向に振り向きまわる超高速キングコング・オーケストラ。あり得ない。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP


フォース・コンサート フィルハーモニック -8-

2006-10-29 16:08:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

フォース・コンサート フィルハーモニック -8-

さて、フィルハーモニック・ホール・オープニング・ウィークも早いもので3日目に突入した。
河童はそろそろ皿が渇き始めた。ジンジャーマンでのアルコール消毒でも足りなくなりつつあるようだ。そんななかクライバーンの出番となった。3日目はこんな感じ。

1962年9月25日(火) 8:30P.M.

ピストン/リンカンセンター・祝祭序曲(世界初演)

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番
  ピアノ、ヴァン・クライバーン

コープランド/リンカン・ポートレイト
  ナレーター、スティーヴンソン

ラヴェル/ダフニスとクロエ、第1,2組曲
合唱、テンプル大学コーラス

ユージン・オーマンディ指揮
フィラデルフィア管弦楽団

電気河童はオーマンディを夢の中で拝見した。太古の時代から日本の評論家、音楽家あがりの評論家含め彼らにとっては、クラシックはヨーロッパだけのものであり、それを踏襲し真似した日本人は偉いのであり、アメリカの音楽やオーケストラなどはケバイものであり、その典型がチャラチャラ音のフィラデルフィア管弦楽団だったのである。結果的には、聴くべきを聴かない耳をもち、考えるべきを考えない評論家たちが、いかに知識・経験・体験もなく狭量な態度で、誤ったことを発信していたかということがわかった。そのような姿勢が音楽を聴く者たちに、間違った情報を埋め込んでしまったのみにとどまらず、聴く範囲を狭めてしまった。その罪は大きい。自分としても後の祭り的なところがあり反省しているが、しかしその責任は彼らにもある。今の時代、情報は充ち溢れ、評論家の言っていることを鵜呑みにする人たちはいなくなったと思えるので、それはそれで大変にいいことだ。
雑誌でいうとレコ芸など大変な情報源であったか、いまはそのようなこともなくなりみんないろいろなところから得ていると思う。河童はレコ芸の月評欄はほとんど見なくなってしまった。昔はお世話になったけど。
広告欄や海外新譜の紹介はメインテーマとしてよく見る。特集記事は興味があればたまに目を通すだけ。新譜といっても国内盤はオペラをはじめとても少なくなってしまい、ライブ録音だらけ。昔でいうところのエア・チェックと発想はたいしてかわらない。それでそのエア・チェックも、今の音楽ソースのまずしさに便乗して、乱発している。キャッチコピーによると全部奇跡的な名演だそうだ。日常の聴きこみを怠ってきた連中の自虐的なセリフのようにしか思えない。
それやこれやで、気がついたときオーマンディはもう逝く寸前であった。その演奏会があったので出かけたことがあるが案の定、指揮者はウィリアム・スミスに突然変更となってしまった。準指揮者なので普段からオーマンディのそれをなぞるのは得意だったかもしれない。本人がオーケストラに移植してきたことを最大限引き出させたのがせめてものなぐさめであったのかもしれない。

1962年のこのコンサートに出演したオーマンディとフィラデルフィアは、前半後半の最初の曲にアメリカの曲を置いている。当然と言えば当然かもしれない。しかしこのときのシチュエーション、自負、責任、など音楽に対し全く誠実・真摯以外の言葉が見つからない。
リンカンセンター祝典序曲は河童が勝手に訳しただけ。原題はLincoln Center Festival Overture.
リンカンセンター開きを祝うこの曲を聴く機会はその後ほとんどない。フィルハーモニックを讃える曲は割とあるようだ。たまには、
モートン・グールド 作曲 フィルハーモニック・ワルツ
なんてどうかしら。自作自演の音源もあるみたいだし。

この日のメインはもちろんクライバーンのラフマニノフである。得意中の大得意曲。この日はこれしかない。やるほうも聴くほうも。ラフマニノフは2番より3番。交響曲も2番より3番。華麗さとともに曲の充実度が全然違う。
このコンサートは目に浮かぶようであり、やる前から演奏後の熱気が約束されていたようなものだ。
オーマンディの伴奏も、全く、自己全う型。16年後、ホロヴィッツが弾いた同一曲の伴奏をニューヨーク・フィルとともにつけている。
とにもかくにも1962年のこの日、フィラデルフィア・サウンドがあとで改築の憂き目をみることになるフィルハーモニック・ホールに響きわたったのである。
(続く)

フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

 

 


The Architecture of Philharmonic Hall (2) フィルハーモニック -7-

2006-10-28 22:40:36 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

The architecture of Philharmonic Hall (2) フィルハーモニック -7-

フィルハーモニック・ホールの観客席へのアクセスは、建物へ広場の入口の上の階にあるので、通りから入った聴衆はフィルハーモニック・カフェに面したロビーにはいるのがはやい。ホールに直接入らないこと。二つのホール階段をいってもよい。ホワイエにはエスカレータやエレベーターでもよい。その天井は建物のてっぺんまで50フィートある。
ここで三つの休憩用廊下やリチャード・リッポルドの彫像作品を見上げる。それは天井からぶら下がった輝くメタルの物体で、ホワイエの全190フィートに達している。
コンサート・ホールそのもののインテリアは長く伸びた薄いテラスにより特徴づけられている。色は壁や天井はダーク・ブルー、席は金色、通路にはカーペット、テラスに面している。音と光を反射する天井からぶら下がった音響板。ダーク・ブルーのそれはホールの親密度を増す。観客席は全て舞台のほうを向いているので、聴衆は誰一人として演奏者のほうに向きなおる必要がない。
コンサート・ホールのデザインにおいて、世界的な偉大なホールであることを示す音響的価値を得るには大きさをある範囲に保つ必要がある。フィルハーモニック・ホールは2,646席で、ボストンの有名なシンフォニー・ホールとほぼ同じ数である。しかし、観客席の大きさは、聴衆一人一人に余裕のある席を確保できるよう、他の素晴らしいホールよりも大きくなっている。
フィルハーモニック・ホールは伝統的な古いコンサート・ホールとは、他先行事例の使用料の観点でかけ離れている。ボックス席は、第2次世界大戦のダメージのあと立て直された古い時代のコンサート・ホールのように、なくされた。ボックス席をなくすことにより、音響的は特質にかかわる費用の観点において、ホールを大きくすることなくより多くの席を提供することになった。
世界の多くの有名なコンサート・ホールは長方形であり、側面が平行である。フィルハーモニック・ホールの観客席はステージからホール後方に向かってホルンの曲線のように広がっている。これはステップバックを浅くするためになされたことであり、反対側の壁はほぼ平行である。
フィルハーモニック・ホールの初期計画では、ソロ・リサイタルやオーケストラや合唱での使用のために、98列のパイプ・オルガンを内設する決定がなされた。オルガンを観客席から見えなくするために、オーケストラの台の後方に音響的に透過な幕で隠された。しかし、劇場でやるようなバックライトの使用により一部あるいは全体がすぐに見えてしまった。
フィルハーモニック・ホールのオルガンは5,498パイプ、98列である。最も長いパイプは32フィート、最も短いのが1インチのかけらである。パイプオルガンの音、デザインは17,18世紀のバロック時代に発展、確立した。それはたくさんのオルガン音楽レパートリーが作曲された時代であった。しかし、19,20世紀音楽に要求される調性の曲ももちろん提供されなければならなかった。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP 


The architecture of Philharmonic Hall (1) フィルハーモニック -6-

2006-10-27 00:01:00 | フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP

The architecture of Philharmonic Hall (1) フィルハーモニック -6-

フィルハーモニック・ホールは1891年来ニューヨークに建った初めてのオーケストラ・サイズのコンサート・ホールである。今まで120年の間(注)、自身のホールを持たなかったニューヨーク・フィルハーモニックの永久的なホームとしてデザインされた。
(注:1842年の最初の公演から数えて120年後が1962年ということになる。)

The Architecture of Philharmonic Hall
フィルハーモニック・ホールはリンカンセンター広場からみて9階建ての高さとなっている。広場から見て前面側面の3面が屋根までガラスである。それはベージュ色のローマ石灰華に面した42個の先が細くなった十字形の柱でふちどられている。フィルハーモニックを見ながら歩く通行人は夜になると特に、ホールを四方から囲んでいるカラフルで明るいアニメーションのような休憩用廊下をタワーのような窓を通してみることができる。コンサート・ホールそれ自身は立方体の建物の四分の一を占めている。
一階はリンカンセンター広場と池の通りの高さであり、演奏前後や休憩時間に、聴衆は1ブロックにおよぶフィルハーモニック・ホールのテラスを見ることができる。
最後の建物が完成すると、ニューヨーク州劇場がフィルハーモニックの南側に建つことになる。メトロポリタン・オペラ・ハウスは南西側である。ヴィヴィアン・ボウモンド劇場は新たなリンカンセンター・レパートリー・カンパニーの拠点となる。そして西にはパフォーミング・アーツのライブラリー美術館。北西へはジュリアード・スクールへ65丁目を横切るテラスの橋。
(続く)


フィルハーモニック・オープニング・ウィーク1962年NYP