河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2616- ペンデレツキ、シマノフスキ、諏訪内、ハース、ラヴェル、カンブルラン、読響、2018.9.28

2018-09-28 23:46:42 | コンサート

2018年9月28日(金) 7:00pm サントリー

ペンデレツキ 広島の犠牲者に捧げる哀歌  10

シマノフスキ ヴァイオリン協奏曲第1番op.35  25
 ヴァイオリン、諏訪内晶子

(encore)
イザイ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番、第1楽章  3

Int

ゲオルク・フリードリヒ・ハース 静物  10+8+9

ラヴェル ラ・ヴァルス  14

シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団


カンブルランならではのプログラム。
後半の2作品が濃すぎて気がつくと前半に何やってたのか覚えてない。という事は全くなくて、ペンデレツキの哀歌、この緊張感たるや並ではない。ガサガサと弦の塊が断層のようにランドスライディングし、崩れ落ちる。この心象風景。研ぎ澄まされた神経細胞が透けて見えるよう。膨らみでは無くて、突き刺す音楽。音楽とタイトルが最終的に近づいたのは親和性によるものだろう。カンブルランは外から眺めることはせず作品の中に入り込んでいく、真実味が増す棒さばきでお見事。

シマノフスキのこの作品は2度目の生聴きと記憶。
なぜかペンデルツキの続きのように聴こえてくる。初めて聴いた時とは印象がだいぶ異なる。落ち着きのある現音のように聴こえてくるから不思議だ。諏訪内のヴァイオリンは厳しいもので、指揮者の毒気が影響したのかもしれない。噛み締めるような演奏で、縁どりは指揮者にまかせたから、といったプレイで、これはこれでよかった。全部聴かせどころのような弾き具合でしたね。

後半の1曲目、ハース静物。尺でもシマノフスキの上をいく。かなりデカい作品で、カツ、重い音楽。ヘヴィーでした。初演者のタクトで聴けることは誠にかぐわしい。
3部構成。2部の16分音符を主体にした刻みの流れはほぼフィリップ・グラス状態とは言え、PGとの違いは主旋律がどれなのかわからないようにしているのと、1部のブラスの長い音符による執拗なうねり前提で出来上がっている余波の香りがきつい。1部を早回しすると2部の波形になるのではないか、着想としても。
興味深い作品でもう一度聴いてみたい。
ブラスセクションによる唸るようなしつこい流れに始まった曲は、短い音符の刻みとなってオーケストラ全般に波及していき、複数のハーモニーがかなりきつく響き合いながら閉じる。なにやら名状し難いが終わってみると静物だったかと思わせるところがありました。
カンブルランの二の腕は全く動かず、肘から指先までで全てをコントロールしている。これは見栄えとしても凄いものを魅せつけられた気になってくる。
現音はカンブルランのように振らなければならない。と改めて思わせてくれる納得渾身の棒。

それで、ハースでヘヴィーにもがいたところで、最後に、ラ・ヴァルスを置く。一見するともがきの連続ではないのか。何も解決するようなところはない、等と考えたくもなるがそこはカンブルラン一流の選択と配置。
ひとつひとつの音が長め、ひとつずつ響きを確かめていくようだ。アタックは柔らかくでフワッと浮く。全体が練り上げられていく。コッテリとディープに造り上げられていく。
読響に浸透したカンブルラン捌きで響きを入念に確かめながら進むラ・ヴァルス、妖しいうねりが少しずつ過熱していく。カンブルランの角度から見たラヴェルを一緒に垣間見る。一体化したオケが凄い。指揮者思いのままの演奏。
ご本人も会心の棒だったようで、コントラバスまで走っていって握手したのにはびっくり。
緊張感あるいい演奏会でした。
おわり


2615- シュトラウス、ホルン協2、バボラーク、シューベルト3番、ハイドン102番、パーヴォ・ヤルヴィ、N響、2018.9.27

2018-09-27 23:23:02 | コンサート

2018年9月27日(木) 7:00pm サントリー

シューベルト 交響曲第3番ニ長調D.200  10-4-4-5

シュトラウス ホルン協奏曲第2番変ホ長調  9+5-6
 ホルン、ラデク・バボラーク

(encore)
ブラームス トランペットのための練習曲第3集から 第3曲

Int

ベートーヴェン プロメテウスの創造物 序曲  4

ハイドン 交響曲第102番変ロ短調 Hob.I-102  8-5-6-4


あまりまとまりのあるプログラム構成ではないようにみえる。とりあえず、シュトラウスの2番コンチェルトお目当てです。
バボラークを初めて聴いたのは2002年頃だと思うので、若い時から結構な数聴いている。
今日はシュトラウス難物の2番。指揮者の左側(しもてサイド)にほぼ指揮者を見る向きで立つ。正面から見れば真横向き吹き。従って朝顔は客席に向くのでバボラークの素の音が飛んでくる。P席に心地よい音が届くという話。
比較的線は細くてやや明るめ、一様な音色で滑らか、スタッカートも同一音色で軽やかに進む。それは、目を閉じて聴けばの話。吹き具合はかなりの頑張りで、呼吸をあらん限り抑えるようなコントロール。抑止のサウンドですね。これは堪えるだろうね。中間楽章なども大変そう。
観て聴いているほうは心地よい最高の技巧とサウンドにどっぷりと浸る。プレイヤーの頑張りなど上の空にさせてくれる、さすがのプロプレイヤーです。
柔らかみが出てきて暖かい色合いのシュトラウス、終楽章、目の覚めるような演奏に舌鼓を打つ。オケ側の2本のホルンも万全で、全般のアンサンブルも伴奏越えの美ニュアンスで際立っていました。最高のコンチェルト。満喫。

外枠のシュベ3、ハイドン102。ともにかなり硬派でアタックきつめ。それでいてギスギス感がまるでないのは、高性能オケのなせる技なのだろう。
シューベルトはデクレシェンドがそうとうに意識されたもので、立体感があって彫りの深い内容、3番の生演奏を聴いたのはいつ以来だろうか。
それから、ポコンと置かれたプロメテウス。短いながら作品全体をあらためて聴きたくなるような内容で充実。シンコペーションがロールするような流れで、これも下ごしらえ万全でした。

プログラムビルディングとしては散漫と思いましたけれども、各内容には満足しました。
おわり




2614- ドビュッシー、映像1&2、シューマン幻想曲、ベートーヴェン熱情、スティーヴン・ハフ、2018.9.25

2018-09-25 23:31:51 | リサイタル

2018年9月25日(火) 7:00pm 小ホール、武蔵野市民文化会館

ドビュッシー ベルガマスク組曲 第3曲 月の光  5
ドビュッシー 映像第2巻  4-5-4
シューマン 幻想曲ハ長調op.17  13-7-10
Int
ドビュッシー 前奏曲第2巻 第7曲 月の光が降り注ぐテラス  4
ドビュッシー 映像第1巻  5-6-3
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調op.57 熱情  10-5+8

(encore)
山田耕筰(スティーヴン・ハフ編曲) 赤とんぼ  2
エリック・コーツ バイ・ザ・スリーピー・ラグーン  3

ピアノ、スティーヴン・ハフ


映像を前半後半に置きそれぞれシューマン、熱情にカップリング。映像の前に洒落たピースを置く。
音楽を越えたオーソリティ、権威という雰囲気が漂う中、月の光から始まったリサイタル。ドビュッシーをこのようなタッチで因数分解するから、自然に積分されていく。時間の経過推移でそう感じるのではなくて、そういった出来事が響きの中に同時にあるように聴こえてくる。徐々にとか段々という言葉では表しにくい。
映像はいろんな音がパラパラとまじりあった時、美味な煮凝り風な束となり格別な味わい。水際立ったドビュッシーに続き、ガラリと曲趣を変えてまずはシューマン。
フォルムを感じさせたかと思う間もなくしだれ柳風に崩れていく。そういったものが交錯する毎に全体像が見えてくる。大人の演奏という趣きがあって、言いたいことはこのピアノから、といった雰囲気を醸し出す。圧巻のプレイでした。

思いの外、強靭なタッチで強烈なシューマンはその前の映像とコントラストが強い。濃淡込めた音楽に大きな幅を聴いた思い。

後半の映像第1巻はみずみずしいタッチ、鮮やかな色彩、情景が浮かぶようだ。とりわけ3曲目のムーヴメントはメカニカルな中にウェットなデリカシーを感じさせる余裕のプレイでした。スバラシイ。
次の熱情はシューマンに増して激しさに拍車がかかる。抜き差しならぬ激しい熱情。ハフの透徹した冷静な目がメラメラと燃え上がる激烈なプレイ。どでかいダイナミクス、振幅、太細、自在のタッチ。
初楽章の幾何学模様が極めて美しい。アンダンテのシンプルな連続和音は行書体から草書体へという際どさがスリリング。ハーモニーの運びと水際立ったリズム、そして、先に延ばして思考の森をかき分けるような独特な音価レングス、相手に考えさせる音楽は、聴衆というものを意識したものだろう。自然のカタルシスといったあたりのことを感じますね。言葉にならない終楽章は蛇腹のようなうねりが次から次へと、目がまわりそうだ。
表現の広がりも見事な熱情、濃い内容でした。

確立されたマイワールドは登場とともに感じるもので、集中力といった話というよりもむしろ、再創造の思索に入っていく趣きで、ステージは再創造の場、ピアノのプレイは思索、ハフの脳内の庭の広がりを見ることが出来ました。
おわり




















2613- ベートーヴェン・プラス Vol.5 横山幸雄、2018.9.23

2018-09-23 23:00:33 | リサイタル

2018年9月23日(日) 11:00am - 4:30pm コンサートホール、オペラシティ

ベートーヴェン 創作主題による6つの変奏曲ヘ長調op.34  12
ベートーヴェン エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ変ホ長調op.35  23
Int
ベートーヴェン ピアノソナタ第21番ハ長調op.53ワルトシュタイン  11-4+9
Int
ベートーヴェン ピアノソナタ第22番ヘ長調op.54  5-5
ベートーヴェン ピアノソナタ第23番ヘ短調op.57 熱情  9-7+7
Int
ブラームス パガニーニの主題による変奏曲イ短調op.35  22
ショパン ピアノソナタ第3番ロ短調op.58  9-2+13
Int
ドビュッシー(横山幸雄 編) 牧神の午後への前奏曲  10
ラヴェル 夜のガスパール  6-6-9

(encore)
横山幸雄 バッハ=グノーのアヴェ・マリアの主題による即興  5

ピアノ、横山幸雄

昨年2017年の同日に同企画を聴いたときは、他の演奏会があって途中退席。

2415- ベートーヴェン・プラス Vol.4 横山幸雄 ピアノ・リサイタル、2017.9.23

今年は全部聴きました。午前から夕方までの満腹プログラム。ベトソナは中盤戦のラインナップ。これらをメインに聴きに来たとはいえ、それ以外の作品もなかなか乙なもの。

まずはベートーヴェンお得意の変奏曲もの2作品。
思いの外、柔らかタッチで始まり、変奏切り替えは切れ味よく進む。いつまでも聴いていたい。変奏曲の面白みがにじみ出る演奏で、リラックスして満喫できた。やはり、エロイカは規模ありますね。

休憩を入れて次は、ワルトシュタイン。
最初ちょっと、音の運びが怪しい雰囲気ありましたけれどもすぐに立ち直る。第1楽章はアクセルかけまくりではなくて、なんというか、激しさに解を求めないもので、味なもの。
終楽章の頭の水切りのようなタッチが絶品、いい演奏でした。

お昼休みを入れた長い休憩の後、22番と熱情。
22番は2楽章だけの小品のように聴いてはダメ。やはり、興味が一段と湧くのは第1楽章の終わりかたですね。ここは人それぞれ感が大変にあって、極限の劇性を持たせたバレンボイムのが芝居ががっていて、20代の1回目のベトソナ全集から既に、オペラティックでドラマチック、いかにもいかにもといった究極モード。これにはまってしまうと、それが基準になってしまう恐さがありますね。
横山さんの22番は全体的には煮凝り風にこってりとまとまっていて、バレンボイムみたいに破滅的なコーダをする感性の人ではない、もちろん無いのだが、あらためてそういった割とさわやかな芸風を感じさせるものであった。

続いて、熱情。
中間楽章が味わい深い。何度も演奏してきた作品なのだろうが、じっくりと向き合う姿が音楽を深める。全般に転調が滑らかで魅惑的。深淵を覗き込むようなプレイ。

ここまででベートーヴェンが終わって休憩。ブラームスの変奏曲とショパン3番。インターバルを挟んだ中ではこの2作品のまとまり規模がデカい。
聴くほうもだいぶ疲れが出てきた。ブラームスは淡々と進む。

続けてショパン。
ソナタという枠組みでのフォルムはその通りなのだが、一旦、それぞれの楽章の中に入っていくと形が溶解していってショパン独特のちりばめられた音の流れが美しい。アレグロ、スケルツォ、ノクターン、ロンド、それらはフレームのネイミングととらえつつ、それぞれの中身に耳を傾け埋没する。
素晴らしくさばきのいいショパンで、腕が鍵盤に同化している。聴きごたえ満点。

最後の休憩を挟んで締めはドビュッシーとラヴェル。
編曲物の牧神は同一音のロングフレーズがオケのようにシームレスに続いていかないのが弱みに出た感じで、尻つぼみな印象。ラヴェル風な響きの印象ありましたね。脳内補てんで頑張る。
夜のガスパール。メカニカルに正確であればあるほど言葉の本来の意味での印象的な響きが醸し出される。情景が浮かんでくる。ダークな色彩感のムード、キラキラよりもクリーミーで柔らかいタッチの横山さんの腕さばき、見事なものでしたね。

朝11時から夕方4時半まで、存分に楽しめました。
おわり








2612- 火の鳥、チャイコフスキーPC1、ジルベルシュタイン、チャイコフスキー5番、マリウス・ストラヴィンスキー、ロシア国立響、2018.9.18

2018-09-18 23:07:15 | コンサート

2018年9月18日(火) 7:00-9:30pm 大ホール、武蔵野市民文化会館

ストラヴィンスキー 火の鳥1919  21

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調op.23  21-7+7
 ピアノ、リリヤ・ジルベルシュタイン

Int

チャイコフスキー 交響曲第5番ホ短調op.64  15-12-6+12

(encore)
チャイコフスキー 白鳥の湖 より、マズルカ

マリウス・ストラヴィンスキー 指揮 スヴェトラーノフ記念ロシア国立交響楽団


昔のソ連の音ではなくなっていて、また、ベースをブイブイ鳴らすわけでもなくて、洗練された音なれど道半ば、指揮者次第でスタイリッシュなオーケストラに舵取りもできそうだ。いわゆるインターナショナルなあたりを目指しているのかどうかはわからないものの、現代においては、磨き度はデフォといった感じもあるので、底上げされた今の姿なのだろう。

チャイコフスキー大曲2本の前にストラヴィンスキーを置いている。
オーケストラは明るい音色。指揮のマリウスはしごく丁寧なもので、一音ずつきっちりとしたフレーズづくり。白眉は終曲の頭、ホルンソロのところ、ミュートつけてかつ超ピアニシモ、ほとんど聴こえない入り。あれにはびっくり。楽器の強弱バランスをこれまで聴いたことが無いような具合にするところがあって、そこは、スヴェトラーノフを思い出しました。
総じて、マリウスは爆奏型の流れを作るタイプというよりも、火の鳥のフルヴァージョンのような作品を隅々まで正確に、静謐に造形を練り上げていく指揮者ですね。


リリヤのチャイコンはルーチンワーク的レパートリーに少し気持ちが疲弊している様に見受けられるところもあった。名曲名演をずーーーとやり続けなければならないのは大変なエネルギーでしょう。音にツヤがあるものの少し重め。聴かせどころはさすがにツボによくはまり、いい歌い口。概ね楽しめました。


チャイ5は聴き過ぎているので、よっぽどハッとすることでもない限りハッとしない。
付き合わされている感じは無くて、マリウスの語り口はサラッとした中に、よくコントロールされた音の運び。
14型。女性は弦に19人とフルートプリンシパルの計20人で、ウィンド、ブラス合わせて女性1名というのは今では珍しいですね。
おわり


2611- チャイコフスキー・プログラム、テンペスト、ロココ、イオニーツァ、シンフォニー4番、カンブルラン、読響、2018.9.15

2018-09-15 23:53:12 | コンサート

2018年9月15日(土) 2:00pm 東京芸術劇場

オール・チャイコフスキー・プログラム

テンペストop.18  22

ロココ風の主題による変奏曲イ長調op.33  18
 チェロ、アンドレイ・イオニーツァ

(encore)
ツィンツァーゼ チョングリ  1

Int

交響曲第4番ヘ短調op.36

シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団


オール・チャイコフスキー・プログラムの後半に置かれたシンフォニー4番は、普段あまり聴かれないフォルムの演奏でした。1,2楽章のことなのですが、極度に平面化され、動じない揺れない、かなりスロウな一定のテンポの中で、まるで直方体の箱のような出来具合。形に対する明確な考えを聴き取りました。ソナタの型というよりも微細なものの積み重ねで出来る形に対して絶大な信頼をカンブルランは持っている。
3,4楽章は普段聴いている4番モードになりましたけれども、彼の中では等速クレンペラーのような表現となった1,2楽章と、3,4楽章は別々のものとしてすみ分けされているわけではないと思う。聴き手側のほうも試されているわけで、終止緊張感に包まれた演奏に直面すると型に対する比較というよりも聴き手の視野を広げようとするカンブルランの意図を思わせてくれる。何に美意識を強く持っているかということになっていくんでしょうね。
それにしても、2楽章の最後のピツィカートなんてまるで悲愴のお仕舞のあたりの雰囲気そのままでしたね。う~んと、うなってしまいました。

予兆は冒頭のテンペストにあったわけで、素数の積み重ねをじっくりと味わうスロウな進行で、フレージングが入念でフレームにおさまった絵でも見ているようだ。聴き手側にとって最後まで持つかどうかの難物で、指揮者オケの緊張の糸が途切れることの無い演奏には恐れ入った。入れ込んで聴くのみ。自分にとってはロジェストヴェンスキー&同オケ以来の同作品生演奏で、充実したもの、なかなか手応えありました。
ブラスセクションの精度が今一つなのはアンサンブルの問題です。

2曲目のロココもじっくりと楽しめました。チェロの音が殊の外伸びてくる。音色が一様でブラウンな雰囲気を醸し出している。節々まで弾き切っていて、のっぺり感皆無、ハイレヴェルのロココ演奏よかったです。
アンコールは、弓を持たず現れ、ピツィカートの曲。ピツィカートだけで1分以上持たせるのは難しいだんろうなあと妙に納得。
おわり



2610- ドン・ファン、オーボエ協、古部賢一、ティル、死と変容、上岡敏之、新日フィル、2018.9.14

2018-09-14 23:57:47 | コンサート

2018年9月14日(土) 7:00-9:10pm トリフォニー

オール・シュトラウス・プログラム

ドン・ファン  18

オーボエ協奏曲ニ長調TrV292  9+9+7
 オーボエ、古部賢一

(encore、vn1-vc2-va2付きアンコール)
カプリッチョより 六重奏  4 

Int

ティル  15

死と変容  22

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


2018-2019シーズン初日(9/13,9/14)
オール・シュトラウス・プロ、充実の内容で心ゆくまで楽しむことが出来ました。
オーケストラの気力充実が目に見えるよう。いつもの柔らかい真綿のようなサウンド模様、今日は何か特に濃厚に聴こえてくる。
上岡は緩急つけつつも未練がましくなくて、潔い正面突破のタクト。その棒に乗り、ソフトアタックのブラスセクション、ビューティフルなブラスとウィンドのバランスハーモニー、弓と弦が呼応して吸い付く様なアグレッシヴな熱プレイ、等々、増して充実エネルギー満タンのスペシャルナイト。

最初のドン・ファンの入りはまるで何事も無いようにすごく軽く振り始める。息を抜くというか、肩に力を入れることが無くて響きどうしのぶつかり合いをじっくりと聴くことが出来る、実にコクのある開始。振り通りにオケから音が出ているようで、彼らの結びつきの強さ、信頼関係を感じさせてくれる。
このような気張らない演奏というのは音の響き合いのエキスをじっくりと味わうことが出来ていいもんですね。まあ、見ていると、こういった事を色々と積み上げていって、結果、ドン・ファン妙味を美味しく頂くことが出来て、本当においしかったですね。
かぶりつき席だとそういったところが手に取るようにわかる。

次はプリンシパルの古部さんのソロによるオーボエ協奏曲。
シュトラウスのコンチェルトはハードだと思いますけれども、何事もなかったようにやるのがプロの技なのか。メカニカルな機械からまろやか風味な音が情緒豊かに、この音楽表現、惚れ惚れしますね。ヘヴィーなプレイ、進むにつれて余裕の愛しむような歌が現れてくる。愛のプレイでしょうね。
上岡NJPのオケ伴が実に素晴らしい。指揮者のソリストコンタクトが申し分なくて息がパーフェクトシンクロ、NJPの伴奏は驚くべき美ニュアンス。
絶品のシュトラウス。

古部さんのアンコールは、オケメンを巻き込んでのカプリチョ六重奏。神経細胞が透けて見えるような美演。何も言うことは無い。


後半はまず、ティル。
Njpはホルン首席がいまいち定まらない状況がずっと続いているのか、today’s principalは日高さん。まあ、余裕のニヤリ吹きですな。
ティルの進行は色あいやリズムなどが次々と変化していって聴いているほうも息が抜けない。山や谷、ウィット、明暗、いろんなことがぎっしり詰まっている。表現の音楽の味わい。

最後は渾身の、死と変容。なりふり構わぬ若さの音楽に深淵を見た。
まずはコンマスもじゃもじゃさんのなりふり構わぬやる気度が凄い、もの凄い熱プレイでした。かぶりつき席できいてますので音はよく飛んでくるし、その音、かなり強靭で艶やか。もちろんオケメンにも飛んでいっていると思うので、聴き合いながらの弦楽合奏は、より磨きのかかった圧倒的な演奏。ビッタしあったフレージングやハーモニーの見事なバランスを聴いていると、なぜか快感が走る。オーケストラを聴く醍醐味といったところだと思う。
尾根の縁から覗き込むような内容が色濃く押し出された演奏。深刻さと浄められた聴後感。たっぷりと味わい尽くしました。巨大な演奏でしたね。
お見事!


上岡音楽監督が振るときはいつもあるアンコール。この日は残念ながらありませんでした。はじめてじゃないかな。
おわり


























2609- ガヴリリュク、チャイコフスキーPC1、プロコフィエフPC3、ラフマニノフPC2、ウリューピン、東響、2018.9.12

2018-09-12 01:45:59 | コンサート

2018年9月12日(水) 7:00-9:30pm 東京芸術劇場

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ長調op.23  21-8-7

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番ハ長調op.26  9-9-10

Int

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調op.18  11-11+12

ピアノ、アレクサンダー・ガヴリリュク
ヴァレンティン・ウリューピン 指揮 東京交響楽団

(encore)
メンデルスゾーン(ホロヴィッツ編曲) 結婚行進曲  5
シューマン 子どもの情景 より、第1曲 見知らぬ国と人々について  2



ガヴリリュク、コンチェルト3連発、アンコール2ピース。破壊力抜群の一夜。このような趣向はグダグダ無く、とにかく楽しむに尽きる。

無限のパワー、みなぎるエナジー、溢れ出るデリカシー、一人で全部持っているような腕っぷしで、あまりの大きな振幅プレイに悶絶。

切れ味鋭いタッチ、それに見事なテヌート、振り撒かれた金粉が天井からひらひらと舞い散るような息をのむような演奏が連続する。まして今回感じたのは弱音タッチの落ちつき、心の鎮まりがある。シックで安定したもので、高揚した音楽の対が鮮やかでした。


伴奏指揮をした長身痩躯のウリューピン、指揮者コンクール、クラリネット奏者として随分と多くのタイトルホルダーのよう。冴えた棒でした。オーケストラコントロールが素晴らしく良くて、音が身体に巻きついてくる。一心不乱の自意識非過剰型の没頭棒でした。次回は本格的なコンサートでの腕を見てみたい。
おわり





2608- プーランク、シンフォニエッタ、三善晃PC、萩原麻未、デュカス、魔法使いの弟子、デュティユー、ル・ドゥーブル、山田和樹、日フィル、2018.9.8

2018-09-08 19:47:05 | コンサート

2018年9月8日(土) 2:00pm サントリー

プーランク シンフォニエッタ  8-7-6-7

三善晃 ピアノ協奏曲  13
  ピアノ、萩原麻未

(encore)
三善晃 波のアラベスク

Int

デュカス 魔法使いの弟子  10

デュティユー 交響曲第2番ル・ドゥーブル  8-9-12

山田和樹 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団


2018-19シーズン・オープニング・コンサート。
曲種のバリエーションも含め、フランスモードをふんだんに盛り込んだプログラム。腰が浮きそうな響きを楽しめそうだ。と思っていた通りの内容で色々と満喫。

プーランクのシンフォニエッタはむしろ規模が大きく感じられる。コンパクトな2管編成で骨組みのしっかりした作品でプーランクサウンドを楽しめる。
ヤマカズ、日フィルは最初の曲から余裕の演奏ですね。

三善はフランス影響繋がりということで取り上げられたのかもしれないが、内容はとてつもなく激烈。
16型編成の空恐ろしい音響空間のなかを、密度高く押し込んだ濃厚フレーヴァーなメシアンモードのパッセージを、まるでパーカスの如く叩きまくるピアノは、見た目要素も必須、みたいな感じで暴れまわる。オーケストラとピアノの音の戦いのようだ。沸点の違う二つのエレメントをシャッフルして混ぜたらどうなるか、融合でも対立でもなくて、なにか独特な立体的音響空間が出現した。白熱の激演。三善の思いはどこらあたりの高みまで飛んでいたのだろうか。
萩原、ヤマカズ、両者の登場退場の歩くステップの速さがうらやましい。

デュカスの作品は次のデュティユーも含め、今日の中では結果的に音楽的な充実度が一番希薄と感じた。
ストコフスキー版は耳新しいところもあるけれども、やっぱり、描写音楽の限界とは言わねど、今日の作品群の中にあっては、型、と違ったものがポツンと一個、といった感が否めない。

デュティユーのダブル、この作品を聴くのは2度目。オーケストラの二重配置がユニークで、小さなオケの輪、それらを取り巻く通常規模のオケ。トリッキーな響きを求めることはまるで無くて、相互干渉のようなものが耳と目を通して伝わってくる。
メインとなる上昇音型は疑問の具体的な形なのだろうか。


シーズン開幕、コンディションをトップに持ってきた指揮者とオーケストラ、さすがの充実公演でした。冴えた棒とオケサウンド。両方満喫しました。
ありがとうございました。
おわり

 




2607- プッチーニ、三部作、外套、修道女アンジェリカ、ジャンニ・スキッキ、ベルトラン・ド・ビリー、東フィル、二期会、2018.9.7

2018-09-07 22:16:03 | オペラ

2018年9月7日(金) 2:00-5:00pm オペラパレス、新国立劇場、初台

東京二期会 プレゼンツ
プッチーニ 作曲
ダミアーノ・ミキエレット プロダクション

三部作(外套、修道女アンジェリカ、ジャンニ・スキッキ)  47+49、50

CAST、外套
ミケーレ、今井俊輔(Br)
ジョルジェッタ、文屋小百合(S)
ルイージ、芹沢佳通(T)

イル・ティンカ、新津耕平(T)

イル・タルパ、北川辰彦(BsBr)
ラ・フルーゴラ、小林紗季子(Ms)

流しの歌うたい、西岡慎介(T)


CAST、修道女アンジェリカ
アンジェリカ、文屋小百合(S)
公爵夫人、与田朝子(Ms)
ジェノヴィエッファ、船橋千尋(S)


CAST、ジャンニ・スキッキ
ジャンニ・スキッキ、今井俊輔(Br)
ラウレッタ、船橋千尋(S)
リヌッチョ、前川健生(T)


合唱、二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部
児童合唱、NHK東京児童合唱団

ベルトラン・ド・ビリー 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団


外套がそのままアンジェリカにつながるのは、インターミッションどうのこうのではなくて、意図された演出であるというのは衣替え等含めよく理解できるものであった。最初の外套は見た目にもヴェリズモ雰囲気が濃厚に作り込まれたもので、音楽もその外套の次の緩徐楽章のようなアンジェリカでぴったりはまる。作品の腰の弱さをおぎなうという印象は皆無で、性格や濃淡の対比感覚に優れた見事な演出と歌唱でした。ここまでで非常に充実した公演と、目が一段と覚める。
休憩を挟んでジャンニ・スキッキはがらりとモードが変わる。ドタバタ劇、プッチーニ節、擬音効果、色々と冴えまくる。品のある喜劇という感じ。前二つにもまして、キャスト連のしぐさがツボにはまりまくる。エンジョイ。
最後はコンテナが折りたたまれ、三つがここで一つに繋がった、なるほどなの演出。満足感も大きいもの。
ボエームが4楽章シンフォニーの様相を呈しているとすれば、この三部作はいわばコンチェルトみたいなものだな。プッチーニの泣き節、そして音楽の全体構成感も忘れてはなりませんね。

出演の皆さんの動き、容姿、着こなし、妙な話かもしれないが、日本人離れしていて、良く決まっていた。自然で生き生きしていて本当に楽しかったですね。特に文屋さん船橋さんには惚れました。

ド・ビリーは前回4年前のアラベラも素敵でしたがあの時は指揮者一人が随分と上をいっている感じもありました。今回はいい混ざり具合。東フィルは指揮者次第というところがあって、こわい部分もありますね。お見事な内容でした。抜群の説得力で鮮やかな棒。
外套での切れ味と粒立ちの良さ、アンジェリカでのしっとり感、オケが倍規模に膨らんだスキッキでのマイルドな光沢、そこはかとなく漂う潤いのある演奏。プッチーニの美しさを存分に表現していて惚れ惚れしました。美味で素敵。プッチーニ満喫しました。ありがとうございました。
おわり









2606- ポローニア、ショパンPC2、アムラン、ルトスワフスキ3番、ヴィト、都響、2018.9.6

2018-09-06 23:50:35 | コンサート

2018年9月6日(木) 7:00pm サントリー

ワーグナー 序曲ポローニア  12

ショパン ピアノ協奏曲第2番ヘ短調op.21  15-10-8
 シャルル・リシャール=アムラン

(encore)
ショパン 夜想曲第20番 嬰ハ短調  4

Int

ルトスワフスキ 交響曲第3番(1983)  30

アントニ・ヴィト 東京都交響楽団


ヴィトはヴィット名で昨年2017年、新日フィルを振りました。あの時は、プレイヤーに立て立てと促しても絶対立たずのプレイヤーが散見され、演奏後の見苦しさが印象的でした。

今日の都響との共演は見違えるような内容で息の合った演奏を展開してくれました。選曲共々いい内容でした。

初めのワーグナーは聴くことが無い作品でしたがなかなか楽しめました。ラッパセクションの頭打ちのザッツの合い具合、カツ、肩の力が抜けた軽妙な感じ、絶妙でした。このマーチ風な腰の浮き具合は、どこぞのオケに煎じて飲ませてあげたい。N響とか。

アムランの弾く渋め若めのショパンの2番。見た目より自由弾きで音価レングスも自由なところがある。ヴィト都響のコクのある伴奏も手伝ってじっくりと聴くことができました。味わい深い作品、演奏でしたね。自由で少し重め、この作品とは別世界のことに何かシンパシーを感じているようにも見受けられました。色々と聴いてみたくなるピアノでした。


後半のルトスワフスキ3番。やっぱり、音楽の型が良く決まっている作品、がっしりした輪郭、構造、聴きごたえがあるというよりも、安心して響き、進行の中にはまっていける。これが心地よい。
ヴィトはスペシャリストというよりもアルチザン的に十八番を振っている雰囲気が濃厚。音楽に息吹きを与える余裕の指揮ぶりで、極意棒。身体と棒に音が巻きついてくる。
都響の磨きはこのような作品には最適で、ベストな解像度が作品をさらに活き活きとさせてくれる。素晴らしい技の連続。
両者、三者、ウィンウィンのいい事尽くめの内容で、全て満喫できました。
ありがとうございました。
おわり


2605- オーケストラ・プロジェクト2018、大井剛史、東響、2018.9.5

2018-09-05 23:46:32 | コンサート

2018年9月5日(金) 7:00-9:10pm コンサート・ホール、オペラシティ

阿部亮太郎 漆黒の網目(初演)  10

小山和彦 ピアノ協奏曲第3番(初演)  16
  ピアノ、西村翔太郎

Int

山内雅弘 SPANDA ヴィブラフォンとオーケストラのための(初演)  24
  ヴィブラフォン、會田瑞樹

森垣桂一 交響曲(2018) (初演)  5+6+9


大井剛史 指揮 東京交響楽団


オーケストラ・プロジェクト2018、4人の初演もの4作品。

4作曲家が自身の言葉でプログラムノートを書いている。最初の作品は阿部さんの漆黒の網目、まず思うのは、なぜここまでわかりづらい文章を書くのか。読み手を拒否する姿しか見えてこない。平易な言葉でわかりやすく、聴衆という聴き手読み手が容易に理解できる文をなぜ書かないのか。一体全体、これが拒否でなければなんなのか、是非とも一度説明して欲しいものだ。客にわからせる姿勢と努力を望む。
現代音楽の演奏会におけるプログラム解説には同種のものが多く有る。まるで、私の文章を理解出来なければ、私の作品も理解できないのだよ、と言っているかのようだ。
曲の印象としては、音がもがき漂っているようだ。音で音楽以外の事を表現しているように聴こえてくる。なぜここまで硬直したものを書かなければならないのか。見映え聴こえ具合が露骨なのは恥なのかと思えるような、ある種の創意拒否を感じる。で、生きてる音楽は霧散か?

次の小山さんのピアノ協奏曲第3番。かなり、楽に読める文でホッとする。
上昇音型が印象的、明るい曲風、なにか不安定な音の運びが落ち着きどころを探しているように聴こえてくる。陰影があまり無くて浅瀬の光。そういったものが作品全体を照らす。もう一度聴いてみたい。

後半の2作品はオーケストラサウンドの醍醐味を満喫できる。オーケストラの響きワールド。
山内さんのSPANDA、脈動、鼓動。実験的なところも盛り込みつつ全体に派手な鳴りで、ショーピースとしても楽しめる。大技、小技、引き出しの数も多いですね。
オーケストラルな響き→ヴィブラフォン・ソロ、カデンツァ中心に→オーケストラル復活→弱音に収束。
といった流れ。ヴィブラフォンはオーケストラに負けないもので終始よく聴こえてくる。多彩な技、ダイナミックな叩き、華麗な技巧連発で聴きごたえあり。時にデカサウンドのオーケストラ越えの音、目が回るような動きに、ビックリ。見た目の動きと音楽がピッタリと重なっている。
カデンツァが聴衆をひきつけるのは、その前の部分、オーケストラとの競演が対等であまりに見事であるためですね。ソリストの腕もポイントになる。凄いもんでした。初演もののカデンツァで空気をピリピリと鎮まらせるあたり、うーん、すごい、とうなるばかり。
ヴィブラフォンの微分音作成過程と、そのヴィブラフォンと正常ピッチのヴィブラフォンを並べての演奏、それに、見ていると、鍵盤を手で叩いたり、オケのほうはラッパの歌口をはずして叩いたり、等々、出てくる音と見えてくるもの、観るほう聴くほう、一時の休みもない面白さでした。
即時再演希望。

最後の作品は森垣さんのシンフォニー。
プロローグ、ミステリオーソ、コンチェルト・グロッソとエピローグ、これらによる3部構成。
重い快活さとでも言おうか、シンフォニーの形式が理知的な質感をもって表現される手応え十分の作品で聴き足りないぐらいです。
オーケストラの騒ぎがよく出ていて、カツ、音楽の流れが理にかなっていると感じられる。唐突さも落としどころとしては、こうあるべき、納得の曲ですね。合理性と正規化が音楽を必要以上に縮めることが多々ある現音作品にあって、広がりを感じさせてくれるものでした。素晴らしい、これも、即時再演希望。

大井、東響の演奏は渾身のもので実に素晴らしくて初演作品の意義を高めていた、もちろん、ソリストたちも。

おわり


2604- ‘Wilhelm Furtwängler’ Review: Apostle of Inwardness

2018-09-03 10:15:27 | フルトヴェングラー

‘Wilhelm Furtwängler’ Review: Apostle of Inwardness  WSJ 2018.8.3

BOOK

‘Wilhelm Furtwängler’ Review: Apostle of Inwardness
Furtwängler was no Nazi but was a tool of Hitler and Goebbels. His insistence on being ‘nonpolitical’ was naive—and yet also, it seems, sincere.

 

One of the most thrilling documents of symphonic music in performance—readily accessible on YouTube—is a clip of Wilhelm Furtwängler leading the Berlin Philharmonic in the closing five minutes of Brahms’s Symphony No. 4. Furtwängler is not commanding a performing army. Rather he is channeling a trembling state of heightened emotional awareness so irresistible as to obliterate, in the moment, all previous encounters with the music at hand. This experience is both empowering and—upon reflection—a little scary. And it occurred some three years after the implosion of Hitler’s Third Reich—a regime for which Furtwängler, though not exactly an advocate, was a potent cultural symbol.
In 20th-century classical music, the iconic embodiment of the fight for democratic freedoms was the Italian conductor Arturo Toscanini, who fled Europe and galvanized opposition to Hitler and Mussolini. Furtwängler (1886-1954), who remained behind, was Toscanini’s iconic antipode, eschewing the objective clarity of Toscanini’s literalism in favor of Teutonic ideals of lofty subjective spirituality.


Wilhelm Furtwängler: Art and the Politics of the Unpolitical
By Roger Allen
Boydell, 286 pages, $39.95
https://www.amazon.co.jp/gp/product/178327283X/ref=ox_sc_act_title_1_1_1?smid=AN1VRQENFRJN5&psc=1

Furtwängler was inaccurately denounced in America as a Nazi. His de-Nazification proceedings were misreported in the New York Times. Afterward, he was prevented by a blacklist from conducting the Chicago Symphony or the Metropolitan Opera, both of which wanted him.
Furtwängler was no Nazi. Behind the scenes, he helped Jewish musicians. Before the war ended, he fled Germany for Switzerland. Even so, his insistence on being “nonpolitical” was naive and self-deluded. As a tool of Hitler and Goebbels, he potently abetted the German war effort. In effect, he lent his prestige to the Third Reich whenever he performed, whether in Berlin or abroad. He was also famously photographed shaking hands with Goebbels from the stage.
In “Wilhelm Furtwängler: Art and the Politics of the Unpolitical,” Roger Allen, a fellow at St. Peter’s College, Oxford, doesn’t dwell on any of this. Rather he undertakes a deeper inquiry and asks: Did Furtwängler espouse a characteristically German cultural-philosophical mind-set that in effect embedded Hitler? He answers yes. But the answer is glib.
Mr. Allen’s method is to cull a mountain of Furtwängler writings. That Furtwängler at all times embodied what Thomas Mann in 1945 called “the German-Romantic counter-revolution in intellectual history” is documented beyond question. He was an apostle of Germanic inwardness. He endorsed the philosophical precepts of Hegel and the musical analyses of Heinrich Schenker, for whom German composers mattered most. All this, Mr. Allen shows, propagated notions of “organic” authenticity recapitulated by Nazi ideologues.

Furtwängler’s writings as sampled here (others are better) are repetitious—and so, alas, is Mr. Allen’s commentary. The tensions and paradoxes complicating Furtwängler’s devil’s pact, his surrender to communal ecstasies ennobling or perilous, are reduced to simplistic presumption. Furtwängler’s murky Germanic thinking remains murky and uncontextualized. One would never know, from Mr. Allen’s exegesis, that Hegel formulated a sophisticated “holistic” alternative to the Enlightenment philosophies undergirding Anglo-American understandings of free will. One would never suspect that Schenkerian analysis, extrapolating the fundamental harmonic subcurrents upon which Furtwängler’s art feasted, is today alive and well.
Here’s an example. Furtwängler writes: “Bruckner is one of the few geniuses . . . whose appointed task was to express the transcendental in human terms, to weave the power of God into the fabric of human life. Be it in struggles against demonic forces, or in music of blissful transfiguration, his whole mind and spirit were infused with thoughts of the divine.” Mr. Allen comments: “It is this idea, with its anti-intellectual subtext, which associates Furtwängler so strongly with aspects of Nazi ideology. . . . That Bruckner’s music represents the power of God at work in the fabric of human existence, can be seen as an extension of the Nazi . . . belief in God as a mystical creative power.” But many who revere Brucknerian “divine bliss” are neither anti-intellectual nor religiously inclined.
A much more compelling section of Mr. Allen’s narrative comes at the end, when he observes that Furtwängler blithely maintained his musical ideology after World War II, with no evident pause for reflection. One can agree that this says something unpleasant about the Furtwängler persona, suggesting a nearly atavistic truculence. But it is reductionist to analogize Furtwängler’s unrelenting postwar hostility to nontonal music to “the non-rational censure of ‘degenerate’ art by the Nazis.” Far more interesting is Furtwängler’s own argument that the nontonal music of Arnold Schoenberg and his followers lacks an “overview.” A calibrated long-range trajectory of musical thought was an essential ingredient of Furtwängler’s interpretive art. Absent the tension-and-release dynamic of tonal harmony, he had little to work with.
The political dangers inherent in German Romantic music are a familiar concern, beginning with Nietzsche’s skewerings of Wagner. The best writer on this topic remains Thomas Mann, who lived it. Here he is in “Reflections of a Non-Political Man” (1918): “Art will never be moral or virtuous in any political sense: and progress will never be able to put its trust in art. It has a fundamental tendency to unreliability and treachery; its . . . predilection for the ‘barbarism’ that begets beauty [is] indestructible; and although some may call this predilection . . . immoral to the point of endangering the world, yet it is an imperishable fact of life, and if one wanted to eradicate this aspect of art . . . then one might well have freed the world from a serious danger; but in the process one would almost certainly have freed it from art itself.”

With the coming of Hitler, Mann changed his tune and moved to California. The most impressive pages of Mr. Allen’s book come in an appendix: Mann’s lecture “Germany and the Germans,” delivered at the Library of Congress in 1945. Mann here becomes a proud American: “Everything else would have meant too narrow and specific an alienation of my existence. As an American I am a citizen of the world.”
It is pertinent to remember that seven years later, having witnessed the Cold War and the Red Scare, Mann deserted the U.S. for Switzerland; as early as 1951 he wrote to a friend: “I have no desire to rest my bones in this soulless soil to which I owe nothing, and which knows nothing of me.”
Wilhelm Furtwängler’s refusal to emigrate, however else construed, is not irrelevant here. He processed much differently the stresses that drove Thomas Mann into permanent exile.

—Mr. Horowitz is the author of “Understanding Toscanini,” among many other books.
Appeared in the August 4, 2018, print edition as 'Apostle of Inwardness.'


 


2603- ‘George Szell: The Complete Columbia Album Collection’ Review:

2018-09-03 09:14:57 | 新聞

‘George Szell: The Complete Columbia Album Collection’ Review: A Maestro’s Time in Cleveland Still Shines
wsj 2018.8.22


Music Review
‘George Szell: The Complete Columbia Album Collection’ Review: A Maestro’s Time in Cleveland Still Shines
This 106-CD set assembles almost all of the conductor’s recordings with the Cleveland Orchestra, along with a few Szell made with the New York Philharmonic, the Columbia Symphony Orchestra, and as a remarkably vibrant chamber-music pianist.




When George Szell died, in 1970, he was revered for having built the Cleveland Orchestra into one of the world’s great ensembles in a 24-year tenure that began in 1946, and as an interpreter whose streamlined but high-power readings were rooted in his belief that a composer’s intentions were sacrosanct. But though he played down the Romantic notion that interpretation should also reflect the performer’s personality, Szell’s readings were always identifiable by their structural logic, textural clarity, unerring balances and sheer energy. Under Szell’s baton, an orchestra was a highly polished, precision machine, and in music by Beethoven, Schubert, Brahms, Dvo?ak and Wagner, he was untouchable.
Yet, at the time of his death, the music world as Szell knew it was hurtling toward obsolescence. One of the last great podium martinets, Szell wielded absolute authority and executed it with severity?an approach that vanished once unions began asserting themselves in matters of how musicians should be treated. Vanished, too, is the kind of devotion Szell showed to the Cleveland Orchestra. These days, a tenure lasting nearly a quarter century is rare; beyond a decade, critics wonder (often abetted by off-the-record carping from the players) whether the relationship is growing stale.

Szell’s, with Cleveland, never did; the chemistry between them consistently yielded both heat and light. Their recordings for the Epic and CBS Masterworks labels, starting in 1947, were exemplary in their day, and they remain so now, a point Sony Classical makes vividly in its 106-CD “George Szell: The Complete Columbia Album Collection,” out now. Except for some live recordings issued by the orchestra itself, all of Szell’s Cleveland recordings are here, along with a few Szell made with the New York Philharmonic, the Columbia Symphony Orchestra, and as a remarkably vibrant chamber-music pianist. The discs are beautifully remastered, and packaged in sleeves that replicate their original artwork and liner notes, with period-correct labels and a hardcover book that provides all the recording details.
Mammoth boxes like this, which have become plentiful lately, are the last gasps of the physical record industry, intent on presenting its wares as they were in their heyday, one last time before streaming blows away the tactile side of music collecting entirely. They are comprehensive, relatively inexpensive (the Szell set can be had for less than $2 a disc) and provide the eerie sense that you are holding the full shape and substance of a great musician’s career in your hands.
The Szell box is a fascinating glimpse at how the supposedly ossified classical canon has evolved (albeit slowly) over the decades. There is, for example, very little Mahler or Bruckner, indispensable staples of a conducting career now. But what there is?most notably, a rich-hued 1966 Mahler Fourth Symphony, and a broad-boned 1970 Bruckner Eighth?stands up well to modern competition. It is also hard to imagine a conductor today recording 106 discs with only a handful devoted to contemporary music and, of that, only a single Stravinsky work, the “Firebird” Suite.
Yet when Szell considered a new work worth recording?for example, a spiky, high-contrast account of Samuel Barber’s Piano Concerto, with John Browning; or taut, colorful performances of Walton’s Partita for Orchestra and Symphony No. 2; or a curious reading of Bartok’s Concerto for Orchestra that begins sedately but eventually explodes from the speaker?he is an eloquent advocate, as focused on detail, balance and the subtleties of color as he is in the great Romantic works.
There are occasional disappointments that have more to do with changing interpretive fashion than with any deficiencies of Szell’s. His Mozart, Haydn and Bach, for example, sound a bit ponderous by today’s standards. And despite his reputation as a literalist, he often jettisoned exposition repeats, arguing in interviews (several are included in the set) that repeats were necessary only when works were new and audiences were unfamiliar with them.
Szell’s specialty was the Romantic repertory. His Beethoven and Brahms Symphonies remain among the most tightly reasoned and precisely executed on the market, and his collaborations on those composers’ piano concertos, with Leon Fleisher, are still the gold standard. It’s not easy to find a recording that captures the same level of urgency and anxiety Szell brought to Strauss’s “Death and Transfiguration,” and his Wagner Overtures are truly regal. Even pieces that, today, are typically curtain-raisers or encores?Rossini Overtures, the Dvo?ak “Slavonic Dances”?have an uncommon intensity that makes them sound like major statements.
Lately, the sweep of reductive history has elevated Arturo Toscanini, Leonard Bernstein and Herbert von Karajan to almost mythic status, leaving the other great conductors of the 20th century as footnotes that only specialist collectors care about. That’s not how it seemed at the time, of course. And the new Sony box is a reminder, disc for disc, that Szell deserves a place in that pantheon.

?Mr. Kozinn writes about music for the Journal.

 


2602- プリ・スロン・プリ、ヴァラド、東響、2018.9.1

2018-09-01 23:10:01 | コンサート

2018年9月1日(土) 6:00-8:15pm サントリー

ラヴェル(ブーレーズ編曲) 口絵(1918/1987/2007) 日本初演  2

フィリップ・ユレル トゥール・ア・トゥールⅢ  レ・レナマンス(名残り)
          オーケストラのための (2012) 日本初演  22

Int

ブーレーズ プリ・スロン・プリ (1957-62/82/89) 15-6-12-22-17
  ソプラノ、浜田理恵

ピエール・アンドレ=ヴァラド 指揮 東京交響楽団


今年2018年のサマフェス千秋楽はブーレーズの大作。1993年に日本初演されて、今日は2度目の公演となる。まあ、有名な割には、上演はレア。

生演奏とCDで聴く音との違いは一言で言うと、奥行き感。
指揮者を中央に、左右に配置された2群のオーケストラ。指揮者の前には3台2台と計5台のハープ、3人で持ち替えながら。ハープが中央陣取って、それ以外のスペースにはたくさんのパーカッション類が立錐の余地なくばらまかれている。
指揮者、ソプラノは、この種のスペシャリスト、ヴァラドさんと浜田理恵さん。オーケストラは機能的で音色が魅力的なオーケストラ、と、申し分ない布陣。

1.贈り物  15
2.即興Ⅰ   6
3.即興Ⅱ  12
4.即興Ⅲ  22
5.墓    17

70分越えの演奏、最後の2曲が大幅に濃厚な噛み砕き。即興に相応しいのかもしれないし、終曲は複雑な迫力が迫ってくる。

プログラム冊子が満を持したような詳細な内容で、これ一つだけで資料的価値と内容理解に申し分ないものだ。事前勉強必須ですね。


ホールはP席クローズで、見渡すと、がらがら。聴く意気込みのある人たちだけが来ている感じ。あとは始まる前から居眠りしている常態系が若干。

ブーレーズ独特のポロポロとぶちぎりされた音の連続体とソネットに乗せる引き伸ばされた音、それらが絡み合い、細かいニュアンスがちりばめられ、背骨の神経をそのまま垣間見るようなデリカシーな音。

強烈な一撃で始まった、ひと襞ひと襞は、パーカッションのサウンド綾模様とオーケストラルセクションの絡み合い。覚えれるような作品ではないけれども、指揮者の正確で割とシンプルそうに見える振りは、聴きやすさを思わせてくれる。

器楽サウンドとしては1と5は響きを理解しやすい。挟まれた三つの即興は、詩の歌メインで、オーケストラの短い音の集合体の真逆をいくもので、ソネットがなにやら一筆書きのように撫でられていく。
こうやって生演奏で聴くと、ヴァラドの棒だからというのもあるのかもしれないが、即興Ⅲが非常に引き伸ばされていて、1と5にサンドウィッチされた即興Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの各束というよりも、時間が倍ずつかかっていき、即興Ⅲは終曲の墓にブリッジのように大きく流れが動いていく。その最後の、墓では、短く切られた音群とそれまで歌で語られていた即興の詩が、双方とも器楽で語られてミックスしていくように見受けられる。混沌ではなくて、いわば、まとめの音楽になっていると強く感じた。
最後は死の一節が歌われ、1の一番はじめの打撃音が再度打ち鳴らされ終わる。強烈。


即興Ⅲでは、ソロトロンボーンが位置を中央よりに変えて、立ち尽くしたままの22分。吹くところはあまり多くない。全部ミュート付き、2種類のようでした。全身または腕でリズムを取りながら吹奏に入っていくもので、容易な曲ではないだろうなあと素人目には見えるし、あのようなリズム取りを、メンバー全員が身体の芯で感じながら全曲をプレイしているんだろうなと、妙にエキサイティングな気持ちとなる。


●●
プログラム前半の2曲。
ラヴェルのピアノ曲をブーレーズが編曲した口絵は音が伸びていって絡まり、カップルミニッツであっという間に終わる。似た音形に色彩感を持たせたような色模様。

次のユレルのレ・レマナンス(名残)は三部作トゥール・ア・トゥールの三つ目。すーっと伸びていく響きと、短く切る音型が持続していく。切れ気味の音型が主要なものとなり、最後は静かに終わる。鏡の角度が順を追って変化していくようだ。音は浅いと感じる。

3曲ともに同じようなキーワードに落ち着いた。
おわり

サントリーサマーフェスティバル2018