楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

善九郎の遺書(旧中山道を歩いて気づいた事 17)

2013年03月05日 09時27分30秒 | つれづれなるままに考えること

(遺書の書き出し)


(農民の遺書:高山陣屋資料室より)
直訴に及び処刑され、
江戸から飛騨高山に送られた生首の農民たちについて、
ボクは文盲と思い込んでいたが、
実は文字書き計算も達者であったとガイドさんから聞いて驚いた。

天下を統一した関白秀吉は、水呑百姓の小倅で、
読み書きはほとんど出来なかったことをボクは知っている。
もっとも、当時武家は文盲が多く、武将と言えども字が読めず、
したがって、作戦指示は伝令で行われていたと聞いている。
現に秀吉が書いたものが出光美術館(日比谷の)にあり、見たことがあるが、
今の子供たちなら、幼稚園に入る前に誰に教わることなく覚えた文字に良く似ていた。
関白になってから文字を覚えたものであろうか?

また母方の祖母(農業の)から、ボクの母宛届いた手紙を読んだことがあるが、
実にたどたどしく上記の秀吉が妻の「ねね」に当てた手紙と変わらなかった記憶である。

こんな記憶から推測すると、農民は文盲と勝手に決め付けていたが、
処刑される前に妻に送った手紙を見ると、数えで18歳の亭主が、
同じ数えで16歳の妻に送った遺言状で、
切々と訴える内容に胸打たれる。
しかも綺麗な文字にびっくりした。

ガイドさんによれば、
「農民は年貢を払い、収穫高を計算するから、
一家の主(あるじ)は現代で言うならば、
社長にも当たるから文字書き、計算が出来なくては、
生活が成り立たない」と言うのだ。

また、数えで16歳の妻ということも、
現代では考えにくい若さであるが、人生わずか50年の時代では、
すこしも可笑しくない年齢であったに違いないが、
妻宛に手紙を書いたと言うことは、妻も文字が読め理解できたと言える。

この遺書についても、写真を撮りたいと願い出ると、
沢山の観光客から同じように要請されると見えて、
高山市教育委員会の方で、遺書のコピーが用意してあった。

直訴して処刑前の夫からの遺書をここに記載して置きたい。
安永三年(1774)獄中から妻 かよに送った
本郷村 善九郎の遺書(岐阜県高山市上宝町本郷)

「尚なお申上げ候 私のともだちの衆中(しゅうちゅう)様へも右の趣(おもむき)
伝え下さるべく候
一つ書きおき申し候こと承り候へば
風便(ふうびん)あしく之れ有候へば 私にも
相(あい)はて申し候様に相聞(あいきき) 候間(そうろうあいだ)
拙者義(せっしゃぎ)もかくご致し申候 
其(そ)の方にも あきらめ成(な)さる可(べく)
此の世にては あひ申さず候 然れども
一度あひ申候へば 残心(ざんしん)も
御座なく候 此の上御両親様 

(ご両親様の「親」から始まる部分)

随分 ずいぶん ずいぶん
大切に頼み上げ奉り候 さて
その方にも をふりどのと
仲よく相くらし なさるべく候
扨(さ)て又随分 ずいぶん
松乃丞様大事に成され下(くだ)さるべく候
此の間も鉈見(なたみ)村 
与十郎殿より柿一わ
石神長重郎殿よりは一わ下され候
御礼申さる可く候此上にも
随分 ずいぶんの

(二行目の「仕合能(よ)くて」から始まる部分)

仕合能(しあわせよ)くて ゑんとを(遠島)
つい方(追放)にも相成り候へば
罷帰(まかりかえり)御目に懸かり申す可候
然しながら 罷り帰る事は志ようふ志ようにて御座候へば
いとまごい一筆入れ
其の上いとまごいのため申し入れ度 
如此(かくのごとく)に御座候  以上
十二月一日
おかよどの         善九郎  」

なお、本郷村 善九郎 辞世の歌と句は下記の通り。

(寒紅(かんこう)は 無常の風に 誘われて 
                  答(つぼ)みし花の 今ぞ散り行く)

(常盤木(ときわぎ)と 思うて居たに 落ち葉かな)

十八歳の夫が辞世を詠み、句を残す教養に
わが身を振り返り、恐縮する。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!