「東北画は可能か?其の一」トークイベント アートスペース羅針盤

アートスペース羅針盤中央区京橋3-5-3 京栄ビル2階)
トークイベント「東北画はとは可能か?其の一」
日時:2010/4/10
出演:三瀬夏之介、鴻崎正武、赤坂憲雄



アートスペース羅針盤で開催されていた「東北画は可能か?其の一」のトークイベント、「東北画とは何か?」を聞いてきました。

出演:三瀬夏之介(東北芸術工科大学美術科准教授)、鴻崎正武(同大専任講師)、赤坂憲雄(同大東北文化研究センター所長)

開始時間に遅れてしまったので不完全ではありますが、以下、トークの様子を、私のメモを頼りに再現してみます。

三瀬 日本画や美術の既存のフォーマットやルールを打ち破りたい。都市から離れた周縁の東北という地のローカル性を特権化するのではなく、そこに住んだという、ようは地に足の着いたような経験から何か立ち上げてみたいと思い企画した。コマーシャルギャラリー的なものの反対にある、言わばもう一つの輪になるようなイベントにしてみたい。これは単なるプロジェクトではなく、一種の「旅」でもある。基地を作り、そこにビバークしているようなイメージだ。だからこそ部屋の壁を外したりして、通常の展示に風穴をあけるような工夫をしている。なお学生に対しては「東北を探しなさい。」という課題を与えた。そこで見たものや感じたものを各自12号サイズの作品に表現している。

鴻崎 東北出身者も多い学生が「東北って何だろう。」と考え、結果的に一つの答えを出さずに、途中で放棄したケースもあった。一方で、東北のドロドロとした怨念のようなものを前面に押し出した作品もある。ちなみに私は福島出身だが、実は東北をあまり好きではなかった。

三瀬 「東北とはこうである。」というようなバイアスをかけられても、学生は「自分はこういう作品を描くぞ。」というような主張をして欲しい。私の京都での画学生時代もそのようなことがあった。日本画家の上村淳之に師事したが、いつも大げんかばかり。「膠の濃度は味で知れ。」云々など指導や、時折の酷評に私は突き放された感覚を受け、逆にそこから自分の表現を追求していくようにもなった。東北画を半ば強要されることは、例えば戦争画を描くことを強制された画家のようなものかもしれない。また東北芸工大には、幸いなことにも通常の美大ではありがちな日本画と洋画の垣根が低い。そういう環境、そして東北の山形という場所の中で、美術やアートと呼ばれるものは何かということに取り組んで欲しい。ちなみにこの展示は次に東北へ持って行くことになっている。

鴻崎 絵画を例えば屏風のように見せる小屋のような空間には賛否両論もあるかもしれない。また展示の自作についてだが、これは福島の双葉町のだるま祭りに取材している。奇怪なイメージを取り込んで街の人に気に入ってもらえるのかという意識はあったが、幸いなことに現地で飾ってもらっている作品だ。ただこれがいわゆる東北画なのかということは分からない。面白いものとつまらないものの境は常に微妙で、その合間にあるのがアートなのではないかと思うことがある。東北画というお題自体にもそういう部分がないだろうか。

三瀬 今回の企画は見切り発車。思いついたのが去年の夏で、そこから半年ちょっとで開催を迎えただけに準備不足は否めない。ただあえてそれでも早めにやっておかないと、どこかで先にやられてしまうような気がする。もちろん3年くらいかけてしっかり準備すれば良かったという反省はある。

鴻崎 芸工大の面白さというのは、普通は殆どが都会にある「アート」をあえて山形でやっているというところがある。わざわざ美術をするために山形に来る学生も少なくない。

三瀬 東京も一地域であるのは事実。山形も制作をして発表、批評、また売買が成り立つような地域になって思う部分もある。

鴻崎 そもそも作家というのは都会や田舎の区分で割り切れるものではない。この「東北画とは何か?」という展示で、色々なところに種を植え付けたいと思っている。

三瀬 東北画を今回のように東京で見せることにも意義がある。あえて本来の地を離れて浮き上がってくるものは多い。もちろん今回の展示がテーマありきでないかという批判もあるだろう。しかしここにある作品は、作家が確かに東北を描いたものばかりなのだ。もし見ている人が「ここに東北はない。」と感じるようであれば、それは逆にその人が東北に対して何らかの先入観を抱いているからではないだろうか。

赤坂 私は18年前に芸工大に赴任した時から、「果たして東北学は可能か。」ということをずっと研究していた。当時の東北の綴られ方は大きく分けて二つある。一つは東北がいわゆるみちのく、辺境の地にある所以にロマンティックな目線で眺められる「辺境へのロマン主義」と呼ばれるもの、そしてもう一つは辺境として逆に差別されてきた負のイメージの堆積でもある「辺境からのルサンチマン」だ。しかし実際に丹念に追っていくと、今の東北の人達には差別もみちのくの意識もそうあるわけではない。むしろみちのくや東北を解放した方が良いではないかと思うようになった。いわゆるみちのく的なもの、つまりそれこそ道の奥に不思議な世界が広がるような感覚は、むしろ東北だけに限らず、京都や奈良、それに沖縄にだってあるのではないだろうか。

三瀬 世界へ繋がる旅のようなものの一つとして、今回のような展示、また場所を考えている。もがいても何か山形からやっていこうという意識。フォーマットを与えると人にはノイズが出る。そうした中でどのように表現、また先にも触れたが、売買に至るまでの生活をしていくのか。作家は色々な方面から様々な影響を受ける。その中でも半ば孤独に作品をつくり、一つのストーリーを紡いでいくことが重要だ。この小屋からそうした物語、また旅をはじめてみたい。

以上です。この後は質疑応答でも活発なやりとりがなされました。

会場はトークのため、足の踏み場もないほどの混雑でしたが、佐藤美術館での三瀬の個展を彷彿させるような一種のカオスな展示がとても印象に残りました。その合間を歩いていると、うっそうとした森の中を彷徨っているような錯覚にも襲われます。作品は行く手を阻み、そして感性を揺さぶってきました。

なお会期は既に終了しましたが、展示の写真は同画廊HPに掲載があります。

「roots/東北画は可能か?」@アートスペース羅針盤

「東北画は可能か?」、「その弐」の展開に期待します。
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