Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

ローマ・カトリック教皇のお言葉は重いが・・

2019-11-26 13:20:46 | 国際・政治

先週末から今日まで、初の南米出身ローマ・カトリック教皇・フランシスコ師が来日された。原爆被災の広島、長崎の両巡礼と昨夜の東京都内にての 5万人規模の祈祷行事「ミサ」をメインに各地で大きく歓迎されたのはご存知だろう。確かに、各兵器廃絶へ向けた意識の共有は大切であるのは事実だ。

だが、それを踏まえるにしても、教皇のお言葉、ご見解との向き合いに際し、拙見方は恐れながら「Yes But」であると申さざるを得ない。「核の脅威は、人類を守り得ない」の主張は尊重勿論すべきだが、通常兵器まで全廃というのは 余りに空想的過ぎるだろう。国際社会が将来共「国単位」で進む以上、各国が他国からの「もしも」の脅威に鑑み 必要な装備や教育を行うは当然の事。又 その為の民間企業も関わる開発や、必要な装備の輸入も 少なくとも一定は許容されるものだ。ローマ・カトリック教皇のお言葉は、そうした事共に留意した上に成り立つ「複線思考」ではないかと拙的には思うものだ。

以前から主張される、核戦争の脅威とは強く対峙の必要を認めるも、例えばイスラム圏などには、大義の為の戦争なら放棄していない国々が複数ある。又 つい昨日区議選が行われ 民主化を志向する勢力が大勝した香港の行方にしても、中国大陸・北京政府は状況により、一定の武力行使を辞さない構えを見せているのではないか。1989=平成元年 6月に北京で生じた 天安門事件の再来になって欲しくないとの想いを抱くのは、拙者だけではなないと心得るが。

そもキリスト教は、人道と神の下の平等を尊重する事は世界で知られており、又ローマ・カトリック教皇は滞日中に「多様性の尊重」や「共有の大切さ」を主張されていた。それ自体は大事だし、健全な姿勢のそれなら異論はないが、歴史を見て参ると、かつては欧米列強の強引な対外侵略や進出に与してきた経緯もある。又 我国固有文化面への圧力も一定ある所は見逃せず、我国柄や独立、国家の尊厳にも関わるだけに、今も慎重な向き合いをしなければならないのではないか。

今回、ローマ・カトリック教皇の明確なお言葉になかった所が「文明の衝突」の問題だ。振り返れば、近年、そして先の大戦共 国家経済の問題が大きくあったのは事実だが、もう一つの大きな「文明の衝突」のそれには明確な言及がなかった印象がある。中世以前に欧州でもあったキリスト教 VSイスラム教の宗教的抗争や、今も絶えないイスラム過激勢力らによる大規模テロ行動などは、経済格差の問題もそれは大きかろうが、それだけでは説明しきれず、戦争と平和の問題にしても「絶対不可」とする勢力あれば「応分の大義あればやむなし」とする勢力もあるのである。それらは、それぞれに大義を持ち、歴史、民族、宗教の各方面から歩み寄りは難しいだろう。それを行うと、結局は深甚な主導権争いに発展するからだ。

結局、仏、キリスト、イスラムの三大宗教勢力をメインとする「住み分け」しか平和を追求する事はできない様に思う。日本国憲法にも規定ある「法の下の平等」は勿論徹底されるべきも、人々は個人としての「信教の自由」も保有する。又 イスラム圏などではその宗教が「絶対の正義」として信仰され、多くの国民からなる信徒各位はその教えに 命を懸ける。多様性の認知とは、こうした根底から成り立ちの異なる観念や価値基準を尊重する事であり、それらを何とか平穏に並び立たせ、それぞれの発展を図るには やはり欧米や A,A圏にての住み分けしかないものと 拙者は理解する。一方で、これも同教皇ご指摘の「多くの人々での共有が大切」であるのも事実だが。今回画像は、当地北郊の某 JR駅構内で見かけた、明治期の「鐵道院」刻印の見られる古い鉄柱。多分、かつてのガス灯か白熱電灯の支柱と思われます。

コメント (6)
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