熨斗(のし)

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古里の歴史が終わる時ー4(俺たちの子供の頃)

2020-05-04 01:34:25 | ひとりごと

丑太郎の長男 政治は大正の初め、22歳で嫁をもらった。

村の娘千寿の家は、明治の終わり頃は裕福な大地主で、山奥の政治の家まで大きな長持ちを幾竿

も持たせてもらって、長い行列を作って嫁に来た。

政治24歳、千寿20歳の時、長男が産まれ、続いて6人の子供が生まれた。

長持ちの中には布団や着物、子供の産着まで十分に詰まっていたのだが、山の中での暮らしは厳し

く、又、昭和に入って戦争が続き、米は作っても作っても年貢米として「下」の本家に取り立てら

れ、どれほどの米を納めたか。

いつしか嫁入り道具として持ってきた長持ちの中身もなくなっていった。

 

丑太郎の妹スギは谷を越えた隣の村へ嫁に行った。

隧道を抜けて、間野川を越え、真っすぐな松林と畑を上ったところに茅葺の家があり、夫はブリキ

職人で柄杓ややかんを作っており、いつも鏝とはんだを溶かす臭いがしていた。

スギばあさんはややかすれ声で、世間話をしながらお歯黒の真っ黒な歯を見せて笑っていた。

麦刈や茶摘みの手伝いに来ては茶の葉を蒸し、蒸し上がった葉を丑太郎じいさんが炭火の熱くなっ

た鉄板と、土で造った自家製の茶揉み炉に広げて、ひたすら揉み、自家製の茶を作る。

こうして作った自家製のお茶は、毎年氏神様のお祭りで振舞われ、お参りに来た人を接待するのが

常だった。

スギばあさんの家には兄と「松、竹、梅」の三姉妹がいた。

サトばあさんに連れられてスギばあさんの家に行くと、シャボンを作ってシャボン玉を飛ばした

り、鬼ごっこをしたり、ばあさん達の長話が終わるのを三姉妹と一緒に待ったものだ。

サトばあさんには「戸中屋」の鋳掛職人として名の知れた弟と、妹が2人いて、盆正月にはサトば

あさんに頼まれた風呂式包みを背負わされ、一里を越す山道を下り使いに行かされたものだ。

一人の妹は軍人の奥様で、気品のある優しい人だった。

分校近くに住んでいて、少尉様は学校や村の天長式や四方拝などの式典には立派な髭と軍刀を下げ

て馬に乗ってやってきた。

この少尉様の所へ行くのは楽しみだった。

山で採ったワラビや野の花や野菜の入った風呂敷を背負わされ、訪ね行くと優しい笑顔で迎えて

くれて、家ではめったに買って貰えないノートや鉛筆などをお駄賃にもらって喜んで帰って来た。

 

つづく