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熨斗(のし)

のし(熨斗)について、趣味について、色々なことを綴っていきます

古里の歴史が終わる時ー3(丑太郎とサト)

2020-04-28 10:54:46 | ひとりごと

丑太郎が生まれて2年後、妹スギが生まれた。

嘉右エ門の屋敷の片隅に建てられた家は、こどもを育て長く生活するにはあまりにも狭く、

又、嘉右エ門の監視の目は厳しく、何をするにも気兼ねをしながらの生活だった。

丑太郎が成長すると、

重五郎と丑太郎は力を合わせて嘉右エ門の屋敷から少し離れた山を拓き、

材を削り、鑿を叩き、石を積み、苦労して家を建てた。

青木ヶ沢のの中で、いや、村の中で一番高い場所だった。

そして村で一番早く朝日が拝めるからと屋号を「旭屋」と名付けられた。

 

丑太郎は同じ村のサトを嫁にもらい、この山の中での生活が始まった。

丑太郎は病んで寝た事はなく、囲炉裏の端で縄を綯い、寒くても物置の三和土に仕掛けを組み、

藁を敷き、藁で編んだ座布団に座り、筵を編み俵を作る。

「下駄作りの青木ヶ沢の丑さ」と村人から呼ばれていた丑太郎は、

秋の麦蒔きが終わると、下駄材(こうら)に適した「きわだ」や「かわぐるみ」「桐」などを採りに深山まで足を延ばし、

峠を越えて山向こうまで下駄材を探しながら山中を歩いた。

秋過ぎから冬にかけて、日当たりの良い家の前は桟積みされたこうらが山高く積み上げられ、日干しされていた。

冬場の仕事として、ひき下駄やさし下駄を作り、背負って売りに山を下った。

サトは生糸はもちろんの事、山から採って来た草や木の皮を煮て、糸から染めて機を織る。

文字も読めなかったサトがどこであの技術を覚えて来たのか、

豆腐や蒟蒻を作り、里に下りて売り歩き、

蚕を飼って真綿を作り、生糸を紡ぎ、絣や縞を織り、そこらここらの人真似ではなく、

どの木の皮がどんな色になるのか知り、草木染や型染の手芸などもした。

味噌や醤油は豆を炊き、藁靴で踏みつぶし、大樽で麹もろみを仕込んで造る。

蕎麦もうどんも自分で作り、それらの道具は代を繋いだ。

 

丑太郎とサトは二人の男の子を授かり、明治、大正、昭和という動乱の三時代を生き抜いた。

 

つづく

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古里の歴史が終わる時ー2(重五郎独立する)

2020-04-19 00:39:32 | ひとりごと

この青木ヶ沢がいつから始まったのかは定かではないが、

村で出版した資料によれば江戸時代・貞享の頃(1688年)に3戸の家があった事が記されている。

江戸の末期に武田家から嘉右エ門の家に奉公に入った重五郎は、懸命に働く姿を認められ、

年号も変わり慶応の頃、隣の村から「キクヨ」という娘を嫁に迎え、嘉右エ門の姓と土地を貰って独立した。

重五郎が25歳 キクヨが20歳の時だった。

重五郎は、嘉右エ門の大きな屋敷の白壁の門を出てすぐにある梅畑の中に狭い土地を貰った。

小さな家を建て、狭い田畑を耕しながら懸命に働いて、

重五郎27歳、キクヨ22歳 

時は江戸から明治に変わろうとする慶応3年、長男 丑太郎(丑太郎じいさん)が生まれた。

 

つづく

 

 

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古里の歴史が終わる時ー1(はじまり)

2020-04-14 21:41:54 | ひとりごと

はじめに

「布る里の峪の谺に 今も奈を 籠里て 阿羅無 母の筬の音」

(子供の頃 学校から家に帰る頃 どこからともなく 機織の音が聞こえて来た。

 今でも懐かしく思い出される)

今はなき山の中のの、今はなき屋敷跡に建てられた句碑だけがここに人が住んだことを物語る。

 

昨年93歳でこの世を去った叔父の記憶と、だんだん薄らいでいく95歳の父の記憶。

この古里の風景と先祖から言い伝えられたこの家の歴史は二人の記憶の中にしかなく、

その歴史と風景を残らず記録に残しておきたかった。

 

記憶が終わる前に・・・・。

(尚、文中に出て来る固有名詞は仮名です)

 

① 始まり

時は天保の時代。

あんな山の中でも土地の支配は庄屋様が一手に握っていた。

立派な石垣と白壁の屋敷の門を入ると、三頭か四頭分の厩舎があり、豪壮な鴨居に長刀や槍、

そして土蔵には火縄銃の他、鎧もあり、乗馬で何人かの役人を従えて権力を揮い、あちらこちら見回り歩いていた。

 

ご先祖、重五郎は天保11年(1840年)この庄屋様・武田家に生まれた。

重五郎の実家、武田家の家紋は「武田菱」

恐らくは武田信玄信州制圧の際、武田軍に関わった人物がこの山の中に住み着いたのであろうと想像するのだが、

想像の域を出ない。

成長するに従い、分家するにも傾斜の土地の小さな田畑ではどうする事もできなかったのであろう。

重五郎は武田家よりももっと山の中の青木ヶ沢にある「下」と呼ばれる嘉右エ門の家に作男として入った。

安政の時代に入った頃だった。

 

嘉右エ門の家も大きな白壁の家で、入り口を一歩入ると一間程の三和土(たたき)になっており、座敷は三尺程高く、

左を見ると十畳程の薄暗い板の間は一段低く、使用人や子供などは上の間に座る事は決して許されなかった。

見上げると太い鴨居に槍が二、三本、白壁の分厚い土蔵には火縄銃などがかけてあり、打つ真似などをしながら眺めたものだった。

「下」は青木ヶ沢のの役人であり、の慶弔に使う膳や漆器など一式は納めてあり、結婚式や葬儀、兵士の出兵の時など、

民は頭を下げて借りに行くのである。

重五郎はこの使用人の使う薄暗い板の間で寝泊まりしたのだろうか。住み込みで働く事になった。

ここから歴史が始まった。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

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